誰かになるまでの誰か
人の願い。
それは千差万別であり、尊いものもあれば危険性を孕むものもある。
その人物が何を願うか。
それは生まれ持った性質なのか、それとも生きるうえで蓄積されていった趣味や趣向、環境や状況が作り出していくものなのか。
――どちらでもいい。
それが橙の思いであり、深く考えても致し方のないことだ。
何故なら“誰でもいい都合のいい誰か”である橙には、何であっても意味はない。
向けられた祈りを叶えるのがいつものこと。それが善に向いていようが、悪と呼ばれるようなものであっても願いには違いないからだ。
今回のそれは、ひどく分かりやすかった。
誰でもいいから傷つけたい。
誰でもいいから壊したい。
誰でもいいから、殺したい。
(……ああ、またか)
薄暗い部屋の中央で、橙は困ったように微笑んだ。
以前にも思ったことのある感情だ。それゆえに彼はいつも通りの表情のまま。其処には落胆も憤りもない。ただ少しだけ肩が重い。
祈りの主――目の前で荒い息を吐く|人物《男》は、橙を睨んでいた。視線の奥にあるのは怒りか恐怖か、それとも単なる衝動か。やはりどちらでもいい。
「貴方の願い、確かに承りました。……運が良かったですね」
口が勝手に動く。
本心ではない言葉が、整えられた敬語となって流れ出た。
「こんなに無防備で抵抗もしない相手で拍子抜けなさっていませんか? それとも……少しは安心しました?」
これは願いに最適化された振る舞い。殺しやすいように、煽るための声音。
男の呼吸が更に荒くなる。
相手の怒りが熱を持って膨らんでいくのがありありとわかった。その手にあるナイフが今から自分を殺すものだとわかっているので、橙は肩を竦める。
ああ、嫌だな。
痛いのは、やっぱり。
そんなことを思いながら、橙は祈りの主が“そう”しやすいように語っていく。
「躊躇う必要はありません。私は……この廃墟で少女を殺したことがありますから」
「――!」
目の前の人物が息を呑む。
橙は此処に呼ばれた時から知っていた。
この場所は以前にも訪れたことのある廃墟だ。それゆえに嘘ではない。
何者かに殺された少女の遺体が見つかったという報道が新聞記事の一部に小さく掲載された。それから此処は曰く付きの廃墟として面白半分か、或いは死の匂いを求めて物好きが訪れる場所になっている。
きっと目の前の男も、血や死の残滓を感じ取ろうとして此処に来たのだろう。これはおそらく或る種の因果だ。
そう思った刹那、刃が振り上げられる。
その際に相手の声が聞こえた。お前が犯人なのか、自分は正義のためにお前を罰するのだ、といった意味合いの言葉だった。
橙は先程の言葉で相手を煽り、大義名分を与えてやったのだ。
最初の一撃は浅く、次は深い切り込みが続く。衣服が裂け、肉が裂け、熱と鈍痛が遅れて追いついてくる。抉るような一撃が再び身体に走った。
(――ほら、やっぱりこういうのか)
血と一緒に何かが引き摺り出された感覚をおぼえる。それはもうぐちゃぐちゃに、執拗に肉を切り裂かれているからだ。
橙はその場に崩れ落ちながら、ぼんやりと思う。
願いを叶えることには慣れているとはいえ、痛みは好きにはなれない。できればもう少し手早く済ませてほしいところだ。
「上手じゃないですね。そんな調子じゃ……何も――」
嘲るような言葉が零れる。
言葉は痛みで途切れがちだというのに、己でも不思議なほど感情が伴わない。ただ機械仕掛けのように、願いの歯車が噛み合って回っているかのようだ。
逆上した相手の攻撃が激しくなる。
殴打。刺突。衝撃。
視界が滲み、音が遠ざかっていく。
(……痛い。本当に痛い。早く終わんねぇかな)
殺し慣れていない者のやり方などこんなものか。思わず愚痴めいた考えも零れた。
それでも橙の意識は妙に冴えていた。
――こんな願いが、他の誰かに向けられなくてよかった。
それだけは、心から思う。
もし別の人間が対象になっていたなら。
名前を持ち、未来を持ち、替えのきかない誰かだったなら。この衝動は、きっと取り返しのつかない傷や結末を残していただろう。
「……ですから。私で、正解なんですよ」
最後の一撃が、確かな終わりを告げる。
想像していたよりも早く終わってよかった。
それだけを思っていた。
意識が溶ける直前、橙はいつものように思う。世界とは、そんなに悪いことばかりではないのだと。だからまあ、こういう役回りも悪くはない。
今回の願いの主も、過去に出会った少女も。
そして、これまでの人々も。
おそらく、たった一度くらいは「よかった」と思えたのだろうから。
誰かが本当の“誰か”に辿り着くまで。
橙はその途中で、今日も代わりを務めるだけだ。
始まらないまま終わっていく、無意識の願いの世界で。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功