√献身のアルジア『おヒゲのないさんたさん』
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効率を考えて生きていた。
永き時を生きるエルフにとっては、時間のことを考えることは意味のないことだ。
大抵のことは、『まあいいか』で済ますことができる。
感情は記憶と共に磨耗していく。
摩耗した感情は、なかったことになる。これまでも何度も経験してきたことだ。
良い出来事も、悪い出来事も平等に時という砥石によって削れて消えていく。まるで砂時計の中の砂粒のように、だ。
そして、それがどんなものであったのかを忘れていくのだ。
記憶なんて曖昧なものだ。
そして、まつわる感情なんてものを覚えていたところで、それは意味のないことだった。
形のないもの。
そんなものに効率を求める事自体がナンセンスだ。
だから、 ジル・ノクタルジア(真昼の星あかり・h11537)は、衝撃を受けたのだ。
感情などつまらないものだ。
「『クリスマス』には『さんたさん』がプレゼントをくれるのよね。こ゚本で読んだわ」
『被検体132』は、こちらを見上げて、そういった。
それで? とジルは答えた。
問いかけではなかった。
数値をチェックしていた。
彼女はこの研究所に囚われている。いや言い方が悪い。被検体として収容されている、というのが正しい表現だ。
そんな彼女に気まぐれに本を与えたことは、自分の計算ミスだったのかもしれない。
それを認める。
過ちを否定したところで、意味のないことだったからだ。
人はミスを隠したがる。
自分のミスをなかったことにしたがる。
わからないことだ。
それをしたところでミスがなくなるわけではない。隠す前にミスをリカバリーすることを考えたほうがいいのではないか。
効率という意味では、そのミスの隠蔽は時間の無駄だった。
ミスは即時訂正しなければならない。
そうでなければ、傷口がじわじわと膿んでいくように広がっていく。手が付けられなくなってしまう。
そうなる前に正さなければならない。
だから、ジルは己のミスを訂正しようとして『被検体132』の手元にあった本に手を伸ばす。
これを与えたのは己のミスだ。
気まぐれだったが、ミスだったのだ。
ミスは訂正しなければならない。それも早く。なるべく早く、だ。
けれど、『被検体132』は屈託のない顔で此方を見上げていた。
「……でも、ここには『えんとつ』もないし、わたしもいいこじゃないから、きっと『さんたさん』はきてくれないのよね」
屈託のない顔は、そう自らで告げて沈んでいった。
彼女は視線を手元の本に落としていた。
子供向けの本だ。
情報量としては原稿用紙一枚にも満たない。
文字よりも絵で情報を伝えようとした弊害であろう。効率が悪い。
絵で情報を伝えることは確かに直感的に物事を伝えることができるだろう。だが、同時に正確性を欠く。
なぜなら、絵は如何様にも読み手によって情報が変容するからだ。
それを正すのも時間が惜しい。
これは、と説明するのもまた面倒なことだ。効率が悪い。
だから人は文字を発明したのだ。
過不足なく情報を伝えるために。絵や形から文字が生まれたのだというのならば、それは当然の帰結だった。
けれど、ジルは取り上げようと延ばした手が止まっていることを自覚した。
『被検体132』に己が与えた本は良くない影響を与えたというミスを正さねばならない。なのに、手が止まったのは何故か。
その理由を自身の中で探そうとしてしまった。
何故、そう思ったのだろうか。
彼女の、『被検体132』の幼い姿に似合わない、どこか自罰的な態度に違和感を覚えたからだろうか。
確かに実験の数値はよくなかった。
それを彼女は『よいこではない』と言った。
本当にそうか?
違和感を覚えた。本当にそうなのだろうか?
『よいこ』の定義を教えなければならないと思った。
この場合、従順であることが求められるだろう。そういう意味では彼女は従順だった。
特別抵抗することもなければ、この人間の年齢期において見られる駄々をこねると言った不合理な要求を突きつけてくることもない。
ただ、彼女の中にある『よいこ』という基準が『数値のよさ』と結びついている歪さを、『そうだ』と認識してしまったのは、己のミスだろうか。
だから、つい口をついて言葉がでてしまっていた。
「そうだろうか」
「え?」
「果たしてそうだろうか、と言ったんだ。俺にはそう思えない」
何を、とついて出た言葉にジル自身は戸惑ってしまっていた。が、そんな戸惑いを彼女の前に出すことはなかった。おくびにも出すことはない。
「だって、あの、わたし」
「数値がよくなかったのは、確かに君の都合かもしれない。けれど、『よいこ』であることと『数値のよさ』は必ずしも結びつかない」
「そう、なの?」
「君はどう思う」
「わからないわ。だって、わたし、言われるままに、しているだけのこと、だから」
彼女は己の言葉に思いがけず揺さぶられてしまったようだった。
何かを答えが頭の中に浮かんでいるのかもしれないが、それをうまく言葉にできないのだろう。
効率が悪い。
彼女の頭の中を言い当ててやろうか。
「君の中には、『それ』しか判断基準がなかったからだ。その本を読むまで君は『よいこ』という判断基準も知らなかったのだろう。そして君が君自身を判断できる基準が数値でしかなかったから、良い悪いをそこで決めてしまっているだけだ」
一息に告げた。
この言葉を彼女は理解していないだろう。できるわけがない。
十分な教養もない幼い子どもを前に自分は何を言っているのだ、とジルは頭を抱えそうになったが、戸惑っているのは自分も同様だった。
腹を立てているのかもしれない。
何に、という論理的な思考すら今の彼にはなかった。いや、考えないようにしていただけかもしれないし、見てみぬフリをしただけかもしれなかった。
「あの、ジル」
『被検体132』は不思議そうな顔をしていた。
少なくとも不可解な顔をしていたわけではなかった。
「わたし、『よいこ』ではないかもしれないけれど」
おずおず、といったように彼女は手にした本を広げてこちらに見せてきた。
そこには白髭のサンタクロースと呼ばれる聖人がソリを引くトナカイと共に星空を駆けていた。
「『さんたさん』には会えるかしら」
「会えない」
きっぱりと言い放った。
だが、彼女の顔が曇る前に言い放った。
「そもそも、サンタクロースは子供と直接対面はしない。クリスマスの夜に子供の枕元にプレゼントをおいていくだけだ。だから、会えない。君がサンタクロースを見ることは、ない。それがサンタクロースであるのなら、なおさらのことだ」
「……それはわたしが『よいこ』でないこととは、違う、こと?」
「相関性がない。だから、君はサンタクロースには会えない。だが、もしかしたら」
待て、とジルは己を止めようとした。
だが、思考するよりも早く言葉が飛び出していた。これもミスだ。だが、ミスと認めたくはない。
これがミスだというのなら、この世にある全ての愛はミスの産物ということになる。
それは、認めてはならないことのように思えてならなかったのだ。
「明日の朝、君の枕元にはサンタクロースがやってきた証拠があるかもしれない」
「それって、プレゼント、ということ?」
「そうだ。けれど、確実性はない。もしかしたら……」
「そうなの? そうなのかしら? だったら、ああ、だったら、はやくねなくっちゃあならないわ。あしたがはやく来ますようにっておやすみしなくちゃあならないわね! ありがとう、ジル!」
咲くような笑顔を浮かべて彼女は寝台に飛び乗って頭からシーツを被ってしまった。
「おやすみなさい、ジル!」
ひょこりと飛び出した顔は、やはり満面の笑顔だった――。
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どうして自分が、という思いがあった。
けれど、どうしようもなかった。
感情とはいっときのこと。わかっている。この感情だっていつしか失われていくものだってことは理解している。
なのに。
どうしてだろうか。
手元の包装された箱を見下ろす。
馬鹿なことを、と後から思うのかもしれない。けれど、そんな感情すら自分は忘れてしまうだろう。
だったら。
「やるもやらないも同じなら、やってみてもいいか」
そう思ったのだ。
効率から程遠い。けれど、これで『被検体132』が――。
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それはしあわせの形をしていた。
ふわふわとしたもので、何か白いもののように輝いていたように思える。
クリスマスの翌朝。
枕元にあったのは、箱だった。
不器用に包装された箱。
飛び上がった。声が自然と飛び出していた。
叫んだ、というよりも感嘆に震えた肺が勝手に喉を震わせただけのことだった。
けれど、文字通り飛び上がるくらいに心が震えたのだ。
これがうれしいってこと、とわたしは理解したのだ。
「ねえ、みて! さんたさんがきてくれたの!」
ジルにそうわたしは言った。
うれしくって、うれしくってたまらなくって、このうれしさを大切な人と共有したくって、そう言ったのだ。
その時にジルの顔は忘れられない。
引きつったような、困ったような、笑っているような、泣いているような、なんだかとても不思議な表情をしていた。
手にした本は、ふわふわと心に灯された温かさ。
沫雪・ありす(白紙の絵本・h00132)は、それを思い出すことはない。
だって、それは。
言葉にならな何かがある。
此処に確かにある、と思えるのに、わからない。
集めた物語を見てみても、何もわからない。
そう、何もだ。
けれど、抱きしめれば、いつかのだれかの温かさが胸に灯る。知らない誰かではないけれど、知らない誰か。
幸せと切なさの連鎖が紡いだ何処にも繋がらない感情だけが、砂粒のように時を告げる――。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功