√夜のアルジア『幻覚花園』
●√
人の夢と書いて、儚い――なんて言うのは、あまりにも愚直がすぎるような気がしてならない。
確かに人は儚い存在だ。
どうしようもないほどに生き急いでいる。
永き時を生きる自分たちからすればなおさらのことだ。
生まれたと思えば、すでに少年に。
少年のある日を見かけたかと思えば、瞬く間に成人に。
成人の境を過ぎ去れば後はもう駆け抜けていくように年老いていく。
それは刹那のことだ。
あまりにも速すぎて、目の端に映った花すらも、それが同じものに思えてしまう。
いつから咲いていたのかもわからない。
いつ枯れたのかもわからない。
いつ芽吹いたのかもわからない。
そんなことにも気がつけず生きてきたのだ。
なら、大切なものを見落とすのもまた道理であろう。
どこまでも愚かであったのは、自分のことなのだと――ジル・ノクタルジア(真昼の星あかり・h11537)は自覚しただろう。
「詮無きことだと理解していても、それでも多くを覚え忘れずにいることを望んでしまう」
この花が、と自らの足元に手を伸ばす。
しゃがみこんだ先にあった花。
その花の名前は知っている。
沈丁花。
薄紅色の蕾が手毬のように固まっている。
強い芳香が鼻腔をくすぐる。
「神話の話をしようか」
一体自分が誰に語っているのかを忘れている。
思い出そうとしても、思い出せるのは記憶ばかりだ。
まるでノイズが走ったように自らの記憶の中の誰かは霞んで正体がわからない。なのに、手に触れた花と芳香とがジルの記憶を掘り返す。
わからないからわかろうとするのは、自然なことだろう。
だから、ジルは幻視するノイズまみれの記憶をなぞるように言葉をはする。
「愛の神の黄金の矢に射抜かれた太陽神は、森の妖精に恋い焦がれるんだ。それは運命というものであったけれど、しかし黄金の矢の魔力であったとも言えるね」
『そんなのってないわ』
幻聴じみた声が聞こえる。
ノイズ塗れだけれど、そうジルには聞こえてならなかった。
「勝手だよね。けれど、神様っていうのはいつだって勝手なものだよ。それで、魔力にあてられた太陽神は森の妖精を追いかけ回す。ほとほとに困った森の妖精は、沈丁花に姿を変えてやり過ごそうとするのだけれど、それでも太陽神は沈丁花に変じた森の妖精に対する愛は失われることはなかったんだ」
『わかったわ! だから花言葉が、不滅、なのね?』
「そう。例えば、栄光、とも言い換えることができるよ」
『なぜ?』
「太陽に愛される花は、燦然と輝くだろう。太陽の寵愛を受けた花弁は美しさを誇るはずだ。こうして人間は自然の中の一部にさえ神を見るんだ」
ジルは、幻視する誰かに言って微笑んだ。
それもまたただの愚かさ故であったことだろう。
己の願いが、未来を途絶えさせたというのに、襲い来る絶え間ない後悔に苛まれている。
散ってしまったものは、どうしようもないと理解していながらも、それでも残響に縋るように幻視と幻聴とに苛まれることを望んでいる自分がいる。
「神話、といえばもう一つ。アヤメもまた神話に由来する名前だよ。虹という意味がある」
『それってどんなお花?』
「青紫色の美しい花だよ。ちょっと難しい言葉かもしれないけれど、『いずれアヤメかカキツバタ』という言葉にあるように見分けが付き難いくらいにそっくりな花もあるんだ」
『そんなにそっくりさんなの?』
「ああ、確実に違う花だけれどね。アヤメは花びらに網目の模様があるんだけれど、カキツバタにはないし、白い斑紋……まだら模様がある」
『違いはそれだけなら、きっと見分けがつくわ。ジルは賢いもの』
「どうかな。些細な違いは見過ごしてしまうかもしれないし、僕の目は基本的におおらかで大雑把だからね。見分けがつかないかもしれない」
そおう、言ってしまえば、自分にとってのエルフ以外の短命種は『アヤメかカキツバタか』なのだ。
上下はない。
優劣もない。
あるのは、ただその見目の麗しさだけだ。
生き急ぐ彼らの生命の儚さというものは、どんなものにもかけがえのないものだと理解できる。
そうやって、未だ理解に遠い人間という存在を知ろうとしている。
花の記憶が次々と『■■■』との日々を想起させる。
けれど、そのいずれもが虚に吸い込まれていくように消えていく。いや、認識できないというのが正しいだろう。
どこまでも……そう、どこまでも自分の愚かさを見せつけられているように思えてならない。
直視しても、そこに何があるのか霞んでみえないのならば、どのようにしてこの愚かさを是正していけばいいというのだろうか。
もしも、再び巡り合うことがあったのならば、この感情にも名前が付けられるのだろうか。
いや、それはきっと埋め得ぬものだと知っている。
埋められる事があったのならば、己の生命は炎に包まれて空を錆色にするような黒煙と共に舞い上がるだろう。
√能力者である限り、それはない。
死なない。
死ねない。
けれど、欠落は埋め得ない。
そんなことにどれだけの意味があると言うのだろうか。問いかけても答えなんて眼の前には現れてはくれない。
幻視と幻聴。
眼の前に在るのは花ばかり。
立ち上がって、手を伸ばした花が葉を揺らす。
その光景さえ、今の自分には1枚の写真を見るような思いしかない。
すぐに色褪せていく。
「すぐに枯れていくっていうのに……まるで意味がないものに思えてならないのに、それでも僕は、これが『うつくしいもの』だと思ってしまっている」
どうしようもないのに。
『でもでも、他の誰かがなんて言うのだとしてもジルは、きっとそのきれいなものを見て感じたことを違うんだっていわないもの』
聞こえる言葉は、きっと自分が言わせているだけのことなのだろう。
そこに意味なんてない。
すがる意味なんてない。
見上げて変わらぬ星空がある。
どの√にも星空だけが変わらずに存在している。
過ぎていく季節に思いをはせても、そこにある星空だけが依然変わらず瞬いている。
「心が疲れているんだ。どうしようもなく。どうして失わねばならないものだったのか――それさえも僕は忘れてしまっているから」
あふれる名前の知らぬ感情が膿んだように自らの視界に溢れて滲む。
眦から熱い液体がこぼれ落ちる。
それを膿んだ、と表現した自分が許しがたいものに思えてならない。これは膿んだものではない。
熱を帯びる眦と鼻頭と頬。
こすりつけた眼に擦れた世界だけがそこにある。
後悔しても、してもしたりない何かにすさんだ日々が過ぎ去っていくだけだ。
「けれど、それでも生きていかねばならない。取りこぼしそうなほどに儚いものこそ、僕が大切にしなければならないもだったんだから」
『むつかしいことを言うのね、ジルは』
「大人だからね」
『大人なのに』
「大人だって涙することくらいあるさ。大人が泣かないのは我慢強くなったからじゃあないんだよ」
『どうして泣かないの?』
「他の誰かが代わりに泣いているんだって気がついたからさ」
例えば、君が泣いていたように、と。
泣いている君の前に立つ以上、涙は見せてはならないと思っていたのだ。
「もしも、生きてさえいれば、大切な何かも見いだせる日が来るかもしれない。思い出せるかもしれない。そうであったのならば、と思えてしまう。いや、きっとそうだ」
――と、思いたいだけなのだ。
後ろ向きを嫌うくせに、後ろ向きで歩いてばかりの自分に、何ができるというのだろうか。
こぼれたものは、枯れ木を蘇らせる力すらないというのに。
あまりにも愚鈍がすぎる。
不毛、と誰が言うだろう。
自分のやっていることは、そういうことだ。
記録しても、留めても、何一つ意味がないことばかりなのに、それでもジルは自分が美しいと思ったものを留めずにはいられない。
もう二度と、掌から美しい何かが零れ落ちないようにと必死に指の間を閉じている。
それでもこぼれていく。
紙片に記した何かも、掠れて消えていく――。
●√
起き上がる。
相変わらず、体の節々が痛い。
ここの所、ずっとこうだ。
床で眠ってしまっているからだ、なんていうことはよくわかっている。
ギシリと軋む体を起こして、周囲を見回す。
「今、何か」
懐かしい夢を見ていたように思えた。
夢。
脳幹から発せられた信号を大脳皮質が受けておめて、扁桃体が活性化することで海馬で情報がランダムに結合され夢としての映像と体験とを与えてくれる。
夢とは日中の記憶や感情を整理するために脳が処理を行っている過程で生じる残穢であると言える。
つまりだ。
ジルは身を起こして少し考える。
どんな夢であっただろうか?
夢を見た、と自覚的なのならば、それはきっと強烈な感情に起因するもののはずだ。
例えば、恐怖、不安、恥、喜び、興奮。
そうした強烈な感情のものは印象として残る。
けれど、それらは虚のようにポッカリと思い出そうとすればするほどにジルの中から失われていくように思えてならない。
「おかしいな」
そうなのだ。
夢とは感情的に重要なものほど優先的に記憶に残そうとする。
だから、悪夢や衝撃的な夢ほど鮮明に記憶に残りやすい。ジルが夢を見たけれど、忘れてしまった、と思ったのならば、その夢の内容と矛盾する。
今まさにジルを襲っているのは喪失感だ。
これもまた強烈な感情だ。
なのに、忘れてしまっている。
「どうしてだろう。何か、夢を見ていたような気がするのだけれど、それがなんだかわからない」
それはとても居心地の悪いものであった。
「沈丁花、無花果、菖蒲、犬槐、禊萩、楊梅、サビア、タイム、スグリ、アベリア、セダム、フェリシア、オクナ、リクニス……」
花の名前ばかりが思い浮かぶ。
口にすれば、付随する記憶が紐解かれるようであったが、しかしながら鍵穴自体が壊れているように思えてならないほどに、記憶は混濁していく。
あるのは知識だけだ。
それが何を意味して、何に関連しているのかを知っているだけだ。
知識と記憶は違う。
記憶は、喪われてはならないものだ。
「……君たちか」
呟いた花の名前。
それはジルが普段使役している花の精たちの名前でもあった。
呟いた己の言葉に呼応して周囲に現れたのだろう。
何か御用? と言いたげに首を傾げる花の精たち。
しかし、ジルは何か目的や用事があって名前を呼んだのではない。
ただ、何気なく夢の中の何かがそう呟かせたのだ。
「すまない。何か用事があったわけではないんだ」
バツの悪い顔をしてジルは花精たちの前に頭を下げた。
彼女らは、ふーん、そうなの? と首を傾げていた。気にした様子もないようだった。
ジルにとっては、それはありがたいことだった。
立ち上がると花精たちはジルの周囲に漂いながらついてくる。
コップに水を注いで、紙片ばかりが山積したテーブルの上に置く。
すると花精たちが集まって水の入ったコップを回していくように次なる花精に手渡す。その度にコップの中の水が目減りしていく。
「それくらいで大丈夫かな?」
花精にジルは尋ねた。
花の精だから水を好む、というのは、なんとも安上がりなことである。
一日コップ一杯。
それだけで花精たちはジルに使役されてくれている。
「呼び出したついでだ。この資料をまとめるのを手伝ってはくれないかな?」
山積した資料の紙片。
それはジルが取りこぼさないようにと集めた多くの記録であった。
または物語であるとも言える。
世界には物語が泡沫のように生まれては消えていく。
ジルは、そうした物語や記録を集めたいと思っていた。言ってしまえば、ライフワークだ。
記録をあまり残さないエルフたちからすれば、彼は変わり者だ。
けれど、ジルは強くそう思っている。
あるエルフは言った。
「それは幻覚を見ているようなものだ。意味のないことだし、仮に君が覚えていたとして、そこに何の意味がある? 奉仕精神がある、というのならば、それは博愛とを履き違えた感情ではないか?」
その言葉にジルは頭を振った。
これは、博愛ではない。
はじまりは博愛であったのかもしれないが、これは誰彼構わずに向けたものではないと理解していた。
ただ、その己がこの感情を向けていた先が虚であったというだけのこと。
だから、ジルは違和感を覚えながらも、その違和感を拭うことができなままに生きている。
物語を、記憶を。
泡沫のままにしないために生きている。
「君の言う通りかもしれない。けれど」
「けれど?」
「例え、そうだとしても、星々のように人々の間に生まれる物語は、尊く輝かしいものに違いはない。消えていくのだとしても、僕が記録し続ければ、それは泡沫のように消えてはいかない」
「そうかな? 真昼の星あかりのように、まるで意味のないことだ。確かにそこに存在しているが見えないし、役に立たない。見落とされて然るべきものに執着するなんて」
「それでも」
ジルは思うのだ。
どんなに否定されても、と。
「僕にはそれがうつくしいものに思えてならないんだ。君たちが見過ごし、捨て、くだらないと言ったものの中にこそ、もっと美しい――永遠にも勝る刹那があると思えてならないんだ」
だから、とジルは言い放った。
「僕達にとっては、永き時の中に煌めく儚さでしかない人の生命だって、そうだ。僕達が思う以上に世界はうつくしいもので溢れている。それがどんなに素晴らしいことかって、僕は伝えたい」
だから、拾い集め続けているのだ。
愚鈍で愚直で愚劣であったとしても。
それでもジルは集め、留め続ける。
「きっと無駄になる」
にべにもない言葉に傷つく必要もない。
ふ、とジルは息を漏らすようにして在りし日のことを思い出していた。
そう言い放った当人は、きっと忘れているだろう。
気にも留めていないだろう。
けれど、そんな記憶すらジルは愛おしく思う。
なぜなら、自分が積み上げた紙片は、いつしか花のような細工へと変わるだろう。
何一つ取りこぼさず。
美しいと思ったものを集める。
「それはきっと誰かに送る花束……いいや、花園そのものになるだろうから」
だから、やめないのだ。
拾い集め、記録し、いつの日にか、となかった事になってしまった何かを贖うためにも――。
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