願いを呑む夜
――今宵は星に近い夜だった。
街灯の柔らかな光とイルミネーションの彩りが混ざり合い、まるで星が地上まで降りてきたように街を照らし出す。冷えた冬の空気には焼き菓子やスパイスの香りが漂い、人々の笑い声と軽やかな音楽が夜の静けさを優しく埋めていった。
「凄いね、空も街も、星が煌めいてる」
氷月は思わず歩みを止め、夜空を仰いだ。
白雪舞う冬空を眸に映し、肩口から白い吐息が零れ落ちる。
「……確かに。いつもより、やけに近く感じるな」
芥も視線を上げ、何気なく空へ手を伸ばす。
その手に舞い降りた白雪は、指先の熱に触れて静かに溶けていく。
その儚さを、金の双眸は黙って見つめていた。
「……ん~、それに美味しそうな香りがする!」
綺麗な景色と空気も堪能したいけれど、この芳しい香りには抗えない!と言った様子で、氷月の眸がきらりと光った。
「否定はしねぇな」
芥も瞼を伏せながら薄く笑みを浮かべ、静かに頷く。
「だよね! まずは色んな星を味わってこうか?」
氷月はくすりと笑い、芥の袖をちょんと軽く引いた。
「んじゃ、腹ごなしに行きますかっと」
芥も引かれる指先に抵抗することなく、並んで歩き出す。
二人は自然と人並みに紛れながら街の通りへと足を踏み入れた。屋台の灯りが影を作り、石畳を照らす。人々の笑い声や呼び込みの声が夜空に溶け、星響の街を静かに満たしていた。
真っ先に二人が向かったのは、グリューワインの屋台。
果実と香辛料を煮込んだホットカクテルは寒い冬の夜でもぽかぽかと体を温めてくれる、まさに今宵にはうってつけの飲み物だ。年齢問わず楽しめるよう、アルコールを飛ばしたものも販売されているようだが。
「選ぶのは勿論、アルコールだよね」
「空きっ腹だけどな。あ、……お前強かったか」
氷月は迷わずアルコールを選び、にっこりと笑って乾杯を促す。
「んっふふ、愚問だね! ほら、カンパーイ!」
「……乾杯」
掲げたカップを軽く合わせ、二人は熱いワインを胃に流し込んだ。
ひと口飲めばワインの香りとフルーツの甘み、そしてスパイシーな味わいがふわりと広がって、後からアルコールの熱が喉の奥から帯びるように湧き上がる。
「うーん、染みるー!」
「あー……冷えた身体が温まる……」
身も心もほっと癒やされれば、ついでにお腹も空いてきた。
次に向かうのは香ばしい匂いで誘う屋台の通り。
「これ、気になってたんだよね。ぐるぐるのソーセージ!」
氷月が指差したその先には、鉄板の上で渦を描くように焼かれたソーセージが踊っていた。じゅうじゅうと脂を弾かせながら香ばしい匂いを立ちのぼらせ、こんがりと色づいた表面のそれはひと目で熱々だと分かる程に食欲を唆る彩をしている。
「ヴルスト良いな、つまみになりそう」
「んふふ……でしょー?」
芥もそれに唆られつつ、品定めするように視線を周囲の店に移して。
「じゃあ、俺は匂いにつられてこっちだ」
選んだのはあつあつサクサクのビーフシチューパイ。香ばしく焼き上げられたパイに包まれた濃厚でコクのあるビーフシチューにはホロホロになった肉が潜んでいる。パイを割ってスプーンで掬い上げれば、ふわりと白い湯気が零れ落ちた。
その光景にヴルストへ齧り付いていた氷月の動きがピタリと止まり、視線は芥が手にするシチューパイに釘付けになっている。
「……お前も食う?」
「いいの!? 食べていいなら食べる、チョーダイ!」
「仕方ねーな、ホラ」
「わぁぃ」
差し出されたそれをぱくりと咥え、満足そうに目を細める氷月。
「んっふふ、おいしー」
(……まるで小動物に餌付けしてるみてぇ)
芥は秘かに目を細め、もうひと掬い大きな肉を選んでやると氷月の口許へと運ぶ。喜ぶ様は小動物だが、図体と食意地だけはやたらとデカい。
「――あ、コッチも食べる?」
シチューパイに満足した氷月は思い出したように串に刺さったぐるぐるソーセージを差し出した。
「お。んじゃあ、俺も遠慮なく」
差し出されたそれを氷月の手首ごと引き寄せてそのまま齧り付く。その瞬間。ぱち、とソーセージの皮が弾けて熱い肉汁が唇に触れた。
「あっつ……」
斯くして食べ歩きを満喫した二人は、腹熟しの散歩もかねて街の高台へと向かった。
――星の丘。この街で最も高く、星が近いとされる其の場所は歩みを進めるほどに広がる夜空の天蓋と静かな星の調べが出迎えてくれる。
少しずつ街の喧騒が遠のき、それに合わせて弾む会話のトーンも密やかに落ちてゆく。
「此処、綺麗だねえ」
氷月は徐ろにベンチの縁に腰を下ろし、空を仰いだ。
「……不思議と落ち着くな」
芥も静かに視線を上げる。燦めく星明かりは、確かに届きそうな程に近く感じられた。
耳を澄ませれば、微かに星の音が聴こえるという逸話もなんだか信じてしまいそうになる。
「星のさざめきが聴こえるなんて、ロマンチック~」
試しにと、氷月は耳に手を当ててみたが、聴こえてくるのはそよりと囁く夜風の撫でる音だけだ。
「ふは、お前からロマンチックって単語が出るの、新鮮」
くつくつと芥が笑みを零せば、氷月もへらりと頬を緩ませて。
「偶には夢見る感じも、イイデショ?」
「……俺と来るには、ちょっと勿体無い場所だったかな?」
氷月が冗談めかして軽口を続ければ、
「――ま、勿体ないとは思わねぇよ、お前とでも」
「“も”ってなにさー!」
氷月はぷくりと軽く頬を膨らませ、立ち上がって拗ねるように星空を仰ぎ見る。
視界に映した星空はまるで落ちてくるようで、けれどその燦めきが降り注ぐ気配はなかった。
「……芥って、流れ星に願い事したことある?」
ふいに零れ出た言葉だった。
「ないな。三回唱える暇ねぇし」
「ふは、だよねー! あの速さじゃ、ネガイゴト間に合わなくない?」
「まあアレだ。星に願いを託すなんて、現実的に無理だからじゃねぇの」
身も蓋もない表現ではあるけれど。そんな夢を見ない程に歳月を重ねてしまった。
「あは、そうかもねえ……じゃあ、さ」
くるりと振り向き、氷月は両手を広げて。
「今日の俺は一つだけ、俺に叶えられることはなんでも叶えちゃう流れ星です!」
なあんて言ったら、何を願う? と氷月はきらきらと満面の笑みを芥に向ける。
そんな友人を見て芥は瞬きひとつ。暫しの沈黙のあと、
「……見返りとか、あるんじゃねぇの?」
「ヒドーイ」
不満げに唇を尖らせる氷月に、冗談だと芥の軽い言葉が返されて。
「お前に叶えられること、だろ」
――それはきっと。
簡単で、けれど不確かなものでもあって。
(“ 俺より先に、消えてしまうな。 ”)
たったひとつの単純なその願いを、湿っぽいなんて理由で芥は静かに呑み込んだ。
「じゃあ、また最後にグリューワイン。オカワリに付き合えよ?」
芥は小さく笑って、ぽすりと氷月の頭へ手のひらを乗せた。さして背丈も変わらない男の頭を撫でるのも可笑しなアレだが、目の間の友人が屈んだのか、彼が少し小さく見えたからだ。
わしゃわしゃと銀糸の髪を乱されつつ、小さく唸る氷月はふいに瞠目する。
(……あれ? この感覚、前にもどこかで、)
ダレだっけ……?
頭を撫でて別れて、次の日の約束を守ってくれなかったのは。
覚えているのに、思い出せない。
見上げた目の前の友人と、顔も思い出せない誰かがダブって見える。
頑張って笑顔を取り繕ったけれど、揺れる眸の弧月に彼は気付いただろうか。
「――よし、じゃあお前の番だ。俺も特別に願いを叶えるから何でも言ってみろ」
「えー、何でも、かあ……」
「別にゆっくりで構わねぇよ。直ぐに流れない流れ星なんで」
そんな風に言われると逆に色々と考えてしまう。
流れ星みたいに消えていかないで、とか。
そんな事を言われても、きっと困らせるだけだろう。
「うぅん~、じゃあ、この後のグリューワインは芥の奢りで!」
「願いが、奢りィ? 先に誘ってんのこっちなんだから当然だろ」
「ついでに潰れるアンタが見れたら最高!」
氷月は無邪気に笑いつつ、芥の袖を軽く引いた。
「悪酔いしても許してくれるってことだな?」
芥も小さく笑って、また歩き出す。
「――行くぞ、氷月。まだまだ帰るには惜しいだろ?」
「――うん」
彼の袖を引きながら、いつものように掛けられた言葉にほんの少し安堵した。
曖昧な未来に期待するのは、まだ恐いから。
今は今を楽しむ。この夜がもう少しだけ長く続くように。
このくらいささやかな願い事なら。星も叶えてくれるかな……?
足並みを揃えて歩き出せば、星の丘はすぐ背後になった。
袖を引いた指先は離れないまま、二人の影は夜へ溶けていく。
振り返らなくても夜はまだ、静かに続いていく。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功