継暁蔵書『書架ニ遺ル灯』
午後の光は、古びた窓硝子を透いて柔らかく床へ落ちている。
かつて無数の√世界を巡り、簒奪者と刃を交えていた頃には、こうした静けさは希少だった。
灰の瞳を細め、男――今は前館長と呼ばれる老いた男性は、書架の背を指先でなぞる。
革表紙、紙の匂い、木肌の乾いた温度。どれも確かに此処にある。そう確かめるような所作は、いつからか癖になっていた。
若き日、彼は多くを救い、同時に多くを失った。
守る為の戦いである筈が、終わってみれば掌には夥しい犠牲の残滓ばかりが沈殿していた。
「守るために、これほどの犠牲を払うとは……」
その独白は、誰に向けたものでもない。或いは、自分自身にすら届いてはいなかったのかもしれない。
何しろあの頃の彼には、勝利も敗北も、生き延びたという実感さえも、薄膜一枚隔てた向こうの出来事のように思えていたのだから。
得難い友を得た、その途端に力を失って以後、男が選んだのは隠棲ではなく保存だった。安い土地を買い、小さな図書館を建てる。
表向きは誰にでも開かれた町の図書館。
だが奥まった区画には、彼自身の見聞と記録、依頼書、報告書、帰還できなかった者たちの断片を収めた書物が眠っている。
√能力者にしか判読し得ぬ暗喩や記法も少なくない。
「どれだけ役に立つかは分からんが……無いよりは良いだろう」
それは知識を遺す為でもあり、風化への抵抗でもあった。
形を保っているはずの世界が、時に微かに綻び、何かを砂のように零落し喪失することを、彼は理屈でなく知っていた。
そんな図書館に、ある頃から一人の少年が通うようになる。誰かと喋るでもなく、ただ棚の間に身を沈め、本を抱え、頁を繰る。その姿は物静かで、いっそ儚げですらあった。
然し彼は見逃さない。少年の眼には、単なる読書好きのそれではない、飢えに似た光がある。物語を楽しんでいるのではない。知ろうとしているのだ。何か、己の内と外とを繋ぐ答えを。
受付越しに一瞥を交わしたことはある。少年は会釈をし、彼もまた頷きを返した。それだけだ。言葉はなかったが、不思議と印象には残った。
そのうち、少年はふいに来なくなった。制服姿で訪れていたことを思えば、学校が忙しくなったのだろうと片づけることも出来た。
だが彼の胸には、名状しがたい小さな棘が残ったまま。頁を捲る音のない午後は、少しだけ静かすぎた。
●
少年が再び図書館に現れたのは、季節がいくつか巡った後のことだった。
扉の開く音で顔を上げた彼は、まず足音の違いに気づく。
以前よりわずかに硬質で、重心の置き方に僅差の偏りがある。歩幅も、躊躇いが減った代わりに、奇妙な慎重さを帯びていた。
視線を上げれば、顔立ちそのものは変わらない。然し、そこに宿るものは違う。
大人しげで気弱そうだった輪郭の奥に、刃物めいた静けさが坐している。何かがあったのだ、と即座に悟った。
少年は挨拶もそこそこに、閲覧席ではなく館の奥へ向かう。一般客がまず足を踏み入れぬ、異能と怪異の記録が並ぶ区画へ。
「君、その本棚は……」
制止の声に、少年は足を止める。そして振り返ったその顔に、穏やかな微笑を浮かべた。
「えぇ、分かっていますよ。|今《・》の私に必要な知識は、こちらですから」
柔らかな声音だった。だが、その“今”という一言が、何より雄弁だった。
ああ、|目覚めて《・・・・》しまったのか。
この年端もいかぬ少年が、もう戦場の論理と無縁ではいられぬ側へ押し出されたのだと、彼は理解する。
胸中に去来したのは歓迎ではなく、痛惜だった。こんなにも若い者が、また理不尽と怪異の境へ立たねばならぬとは。
だが同時に、彼は知っている。目覚めてしまった者に必要なのは、憐憫ではない。知識だ。経験だ。帰って来られる場所だ。
「……そうか」
彼は短く息をつき、奥の棚へと歩み寄る。
「ならば好きに読むといい。分からぬ箇所があれば、聞いておくれ」
少年は一瞬だけ目を瞠り、それから静かに頭を下げた。
あの日から幾星霜。図書館は彼に託され、廻は記録を継ぎ、怪異を観測し、自らの使命を抱えて歩んでいる。危ういほどに聡く、静かな熱を秘めたまま。
「……あの彼も、今では随分頑張っておるようじゃな」
独りごちる。灰の瞳に滲むのは、微かな誇りと、拭いきれぬ案じだ。
老いた身では出来ることに限りはある。されど助言は出来る。書を遺せる。必要とあらば、錆びついた骨を軋ませてでも前へ出よう。
書架の奥に眠る、未解決の報告書の背を一瞥する。そこには彼自身、断片しか掴めぬまま置き去りにした“世界の綻び”の名残もある。
生の手触りを奪われた喪失は、今なお完全には癒えていない。
それでも。だからこそ。
「どうか彼らに、少しでも明るい未来が訪れればいいがの……」
それは英雄の祈りではない。次代へ席を譲った、ひとりの老司書――不知火・豊の、切実に過ぎる願いであった。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功