Violets are blue
朝露が細く伸びた葉の表面を滑ってゆく。先端まで届けば僅かに勢いをつけ、飛び降りた。
ぴちょん。
落ちた先、眠りこけていたアマガエルの小さな頭で弾ける水滴が、透明な冠となって戴かれる。
驚いたカエルは一鳴きしたら、すぐ近くの水場へ飛び込んだ。
穏やかな日差し、春の気配。庭園に運ばれる空気は澄み切って、|降葩《ふるひら》・|璃緒《りお》の足取りはとびきり軽くなっていた。
そう、今日はとっておきの日。
ふんわりと広がるスカートは真昼の空色。縁取るレースはカスミソウの白。首元には若草色のリボンを結んで、頬はほんのり桜色。
おめかしも完璧な璃緒が目指すのは庭園の片隅にある小さなガゼボ。赤い薔薇のアーチをくぐり抜けたなら目的地はすぐそこだ。
遠く、骨のように真っ白なガゼボの中に人影が一つ。陽の光を浴びて真っ白に揺れる髪を見て、璃緒は大きく手を振った。
「リオ、こちらよ」
優雅に微笑む|彼女《マダム》は|この庭園の女主人にして璃緒の雇い主《誰だろう、知らないはずなのに懐かしい人》だ。
今日は彼女と二人きりのお茶会。とびきりのお菓子を持ち寄って、春の訪れを穏やかに楽しむ日。
今日という日だけは雇い主と庭師という関係もなし。年の離れた女友達になってただひと時を楽しむと決めていた。
「リオ、お座りなさいな。あなたの為にあたくし、とっておきを用意したのよ」
呼ばれるままに彼女の対面へと座り、璃緒もまた微笑んだ。手にしていたバスケットを見せると彼女もまた嬉しそうに頬を緩める。
璃緒が持ち込んだのは口当たりの軽いメレンゲクッキーにカラフルなギモーヴ。お裾分けしてもらった瓶牛乳も添えられた。
彼女が持ち込んだのは苺尽くしのケーキに砂糖漬けにした花が数種類。そこへ小瓶に詰めた蜂蜜のキャンディが添えられた。
並べれば壮観。テーブルの上にまで春が訪れたかのよう。
「さあ、始めましょう」
|どこからか《いつの間に?》取り出したポットから温かな紅茶が注がれる。
カップの模様はお揃いで色違い、菫の花が描かれているものを必ず使っていた。
ふわりと香るベルガモット、このままだと少し苦みが強いからとスプーンへ乗せた角砂糖をゆっくりと紅茶へと沈めた。
「ふふふ、まだあなたにはお砂糖が必要なのね」
からかうような声音の彼女へ、璃緒は子どもっぽく頬を膨らませた。
彼女はと言うと、しゃんと背筋を伸ばしたまま美しい所作でカップへ口をつけていた。
「いいのよ、リオ。あなたはそのままで。あたくし達は皆あなたのそういう所が可愛くて仕方がないの」
彼女の言葉に拗ねたくなる気持ちを抑え、璃緒は菫の砂糖漬けへと手を伸ばす。
璃緒にとっての特別でとっておき。彼女もそれを知っていて用意してくれるのだろう。
舌先へ乗せれば甘味と苦味が広がって、そこへさらにギモーヴを合わせて食べると口の中が幸福に満ちていった。
そんな璃緒を、紅茶以外の何にも口をつけずに彼女は見守っていた。
視線は日向の草原によく似て心地よく、先程まで抱いていた感情も忘れて璃緒は笑みで答えた。
さあどうぞ、と彼女へ差し出す砂糖漬け。彼女は驚いたように目を見開くと、次いで蕩けるように笑い掛けた。
「愛おしい子。あなたが手入れをしてくれるから、あたくし達は安心して寝起きできるのよ」
細い指先が璃緒の持つ菫の砂糖漬けへと伸ばされ──
瞬間、日差しが急激に強くなった。光が世界を埋めていくように、白く、白く染まっていく。
「あら、もう時間が来たのかしら。早いものね」
残念。と溜息をついて彼女は璃緒の頭を優しく撫でた。
掌の感触がない事でうっすらと璃緒は自覚した。ああ、これって夢なのかもしれない。
夢ならば、この目の前の誰かは記憶の中にいる誰かなのかもしれないと。
不思議なほどにあたたかく自分を見つめてくる彼女の事を、記憶の何処かから探そうとした。
消えかけの世界の中に溶けていくその顔立ちは、見知った人達の特徴を継ぎ接ぎしたような不自然さがある。
あなたは誰?──と口にしようとして、璃緒はやっと自分の声がこの世界に存在しない事に気がついた。
はくりと動いた唇を見て、彼女は終わりを告げた。
「さあ、もう『おはよう』の時間よ。またあたくしを起こしに来て頂戴ね」
彼女の美しい菫青色の瞳が柔らかに細められて、璃緒は朝の光へと包まれていった。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴 成功