またねが終わらない朝、子猫は沈む
愉しかった一日の余韻が部屋のあちこちに残っている。笑い声の名残、交わした何気ない言葉の温度、触れたものすべてに宿る微かな温もり。それらは消えかけた灯りのようにゆらゆらと揺れながら漂っていた。
楽しかったにゃ。またね、って言えたにゃ。
おやすみ、と言ったら、おやすみ、が返ってきたにゃ。
瀬堀・秋沙(都の果ての子猫魔女・h00416)は心の中で今日をなぞる。それは儀式のようであり、祈りのようでもあった。
ふいに鼓膜を震わせたのは、ざあ、という音。
遠くから、果てしないほどの遠くから。波が寄せては返す、あの音。
夜の静けさには似つかわしくない、湿った響き。穏やかな眠りを誘いながらも、どこか底知れぬ闇を孕んだ気配。
「……にゃ……?」
目を閉じたまま、微かに眉が寄る。
秋沙の小さな耳がぴくりと動く。
知っている。
忘れていない。
忘れられない。
けれど本当は、忘れていたいのかもしれない。
波音は次第に近付いてくる。まるで記憶の扉をこじ開け這い上がってくるように。
やがて鼓動と重なり合う。
ざあ、ざあ、と。
ばく、ばく、と。
どちらが内で、どちらが外なのか、わからなくなる。
「……だいじょうぶ、にゃ……」
秋沙は、ぎゅっとシーツを握りしめた。
大丈夫。
ここは、|あの《・・》海じゃない。
ちゃんと、帰ってきた場所。
ぬくもりがあって、息ができて、声が届く場所。
――それなのに。
胸の奥に、黒い水が満ちていくような感覚が、怖い。
とぷり、と。
秋沙は、沈んでいた。
落ちている、という感覚すらやがて失われ、ただ|下《・》という概念だけが彼女を導いている。抗うことも、逆らうことも許されない、柔らかな|必然《かんかく》。深海は拒まない。ただすべて受け入れ、奪うように秋沙を手招いていた。
深海は穏やかで優しい。
拒まない。押し返さない。ただ全てを、沈んでくるものを受け止める。
だからこそ、恐ろしい場所。
此処まで来てしまったら、きっと、何もかもが溶けてしまうのだ。
名前も。
記憶も。
ぬくもりも。
やがて薄れ、やがて消える。
穏やかさは、救いのようでありながら、どこまでも残酷だった。
歩きながら、|沈《お》ちてゆく。
前へ進んでいるのに、|落《しず》んでいる。
ふと、秋沙の中に幼い日の記憶が、ゆっくりと浮かび上がる。
陽射し。潮風。父の背中。笑い声。そのすべてが不意に裏返ったあの日。
「パパ、きょうもいっしょにいくにゃ!」
弾む声とともに、小さな身体は甲板へ飛び乗る。
「おう、しっかりつかまってろよ」
陽気な声が返る。海はきらきらと光り、世界は優しかった。
「あ、――」
船が揺れた。足が滑った。
「っ、や……っ、パパ……っ、!」
小さな身体はいとも容易く投げ出され、上下を見失い、次の瞬間には青に呑まれていた。冷たさ、苦しさ。息が出来ない。落ちた際に破れたライフジャケットは何の役にも立たない。助けて、と。そう叫びたかった。けれども水に砕かれ、泡となって消えた、あの日。
深く。
暗く。
どこまでも。
光が遠ざかる。ぬくもりが消えていく。
「もっと、……いっしょに、いたかった……にゃ……」
届かない言葉を抱えたまま、秋沙はボニンブルーの底へ沈んだ。
青が黒に変わり、黒が完全な無となる場所に、|再び《・・》秋沙は辿り着いていた。
海溝の底。誰も辿り着けぬ世界の果て。
鮮やかに空に浮かぶ太陽は遠い昔話のように輪郭を失い、ただ“暖かかったもの”としてしか思い出せない。風も、匂いも、声も此処には届かない。在るのは静寂という名の重苦しい|世界《げんじつ》だけ。
ただ、白いものが降り続いている。
雪ではない。空がないのだから。
命の終わりが砕け、粉と成り、忘却へと沈む粒子。誰かの記憶の欠片、誰かの時間の残骸――マリンスノー。この世に生まれたすべてのものが最後に辿り着き降り積もる、終わりのかたち。
秋沙はその中を歩いていた。
否、漂っているのかも曖昧だった。
その足元には、沈みきらぬ影があった。錨のかたちをしたそれは、海底へと食い込むように在りながら、同時に秋沙自身を繋ぎ止めている。
沈むためのしるし。
逃げないための重さ。
|底《・》に、庵があった。
あまりにも不釣り合いな人の住まいを模した其れ。深海と同じ静寂を纏い、長い間在り続けている。
戸口は開いていた。まるで秋沙を招くように。
足は動かないように重たいのに、秋沙は庵へ近付いていく。水は彼女を拒まず、むしろ導く様に柔らかく小さな身体を押し流す。
ふと、遠くを何かが横切った。巨大な影。ゆるやかに、悠然と、深海を渡るもの。
鯨だった。
沈み、巡り、そしてまた命を繋ぐもの。まるで、すべてを見届ける者のように秋沙を見届けるように泳いでいた。声は届かないはずなのに、その存在だけで、なぜか秋沙の胸がわずかに温かくなる。
庵の中は暗い。けれど恐怖は感じない。ただ、暗いとしか秋沙は思わなかった。
ただ、ひとつだけ。
光があった。
卓の上に置かれている、一冊の本。
表紙には鯨が描かれている。終わりと始まりを、その巨躯に宿す象徴。
秋沙は本に触れた。
温度などないはずなのに、何故か微かな温もりが指先から伝わる。
刹那。
声が、|降り《聞こえ》て来た。
『いつか、ここまで、その本といっしょにいらっしゃい』
囁きのようであり潮のように優しく訪れた声。遠く、然し確かに逃れようのない距離で響いた言葉は、深海の圧よりなお重く、秋沙の胸を掻き乱した。
ふいに秋沙の身体が揺らいだ。
水が纏わりつくように変質し、彼女の輪郭を塗り替えてゆく。
深海の色を溶かし込んだような衣。夜よりも深く海よりも静かな蒼。裾は波のように揺らぎ、触れれば溶けてしまいそうな透明さを帯びた、――ドレスだった。
胸元には、小さな錨がひとつ。沈むためのしるしのように、かすかに重く、確かにそこに在る。
似合っている、と――思ってしまった。
|理解し《気付い》てしまう。
――これは、|未来《いつか》の自分が選んでしまう姿だ、と。
確定ではない。されど抗う事の出来ない濁流のように秋沙の胸に刻まれていたもの。
この庵を守り、深層海流を調え、封じられた祠を管理しなければならない、その孤独、その永遠――終わりなき役目である『海溝の魔女』となることを。
もし自分が来なければ別の誰かが|庵《そこ》に沈む。別の誰かが、この孤独を背負う。その誰かもまた、誰かにとっての“大切”なのだと知っているから。
ならば。それならば、――私が。
灯台のように、誰にも見えぬ場所で、ただ在り続けるのなら。それはきっと、希望だ。
たとえ光が届かなくても。たとえ誰にも知られなくても。世界が壊れないように、ここで留めることができるのなら、その小さな灯りは、確かに意味を持つ。
同時に、紛れもない絶望でもある。
終わらない役目。終わらない孤独。終わらない夜。
けれど、それでも、秋沙は逃げない。逃げられないからではない。
|選んで《決めて》しまったからだ。
『あなたが××であると、良いのだけれど』
祈りにも、諦念にも似た声を聞きながら秋沙は本を抱きしめた。小さな腕に、その重みはあまりにも大きく感じた。
怖い、と素直な心が叫んでいる。
だって、ここには何もない。太陽も、空も、風も、ぬくもりも、笑い声も、すべて届かないのに。深海と、静寂と、自分だけ。
思い出だけを庵に飾って新たな|後継者《だれか》を待たなければいけない。
「楽しかったにゃ、きれいだったにゃ」
「今年は咲いたかにゃ……おいしかったにゃ」
「色んな初めてがたくさんあったにゃ」
「風を切って空を飛ぶのは、気持ちよかったにゃ」
それでも、ふと思う。
もし、|自分《わたし》が。
パパの陽気な声を忘れてしまったら。
ママの豪快な笑い方を忘れてしまったら。
彼女と並んでみた花火の色を、思い出せなくなってしまったら。
彼等との思い出の場所を、描けなくなってしまったら。
あの感覚を、深海の静寂が奪うように。
それは、きっと、どんな死よりも、きっと恐ろしい物で。
「……やだ……にゃ」
零れた呟きは泡にもならず消える。
深海は、それさえ奪っていく。
その|事実《たられば》は、胸を締めつけるには十分すぎた。
けれど。
秋沙は、笑った。
いつものように。
灯台のように。
ぺかぺかと、明るく。
「……だいじょうぶ、にゃ」
誰に言ったのか、自分でもわからない。
ただ、それは、壊れてしまいそうな自分を、どうにか繋ぎ止めるための言葉だった。
泣かないと決めている。だって、泣いたら、誰かが悲しむ。泣いた顔を見せてしまったら、その人の中に“|悲しみ《別れ》”が生まれてしまう。
だから。
笑う。
今日が終わっても、また明日が来るみたいに。
本当は、少しずつ、沈んでいるのだとしても。
夏祭りの夜。打ちあがる花火。隣で笑う誰か。風の匂い。温泉の湯気。空を漂う感覚。日常の、些細な断片をかき集めて、あまりにも鮮やかであまりにも温かいそれらを抱えて、秋沙は庵へ沈むことを選ぶのだ。
全部、持っていく。
この深海へ。
光は届かなくとも記憶だけは手放さない。
思い出ごと沈んでいこう。
そうすれば、深い水底からでも、あのクルーザーのエンジン音が聞こえるかもしれない。
だからきっと。
「……がんばるにゃ」
大丈夫なのだと――そう、信じたかった。
ぷかり、と。
浮上する意識。暗闇がほどけて、光が滲む。
息が、浅く跳ねる。
秋沙は、まるで水面へ引き上げられたかのように目を覚ました。
胸が苦しい。
心臓が、ばくばくと音を立てている。
見慣れた天井。
柔らかな布団。
ぬくもり。
それに少しだけ安堵する。
傍らには本があった。鯨の描かれた魔導書。夢の中、秋沙が抱えたものと同じものへ手を伸ばし、同じように抱き寄せた。
××は既に、秋沙を手招き見据えている。
泣かないと決めたから。
笑うと決めたのだから。
それでも。
「……ごめんなさい、にゃ」
微かに震えた声。あの日言えなかった、言葉。
『――次は、×××の×よ』
波のように遠く。然し耳元で囁かれたように近く。
秋沙の身体はびくりと震え、小さな耳も尻尾も元気をなくしてへにょりと傾ぐ。
「……起きなきゃ……」
顔を上げる。
まだ「またね」が言えるうちに。
ごめんなさい、も。
ありがとう、も。
今はまだ伝えられるから。
喉の奥まで込み上げて来るあの日届けられなかった言葉を、一度飲み込む。
この何気ない今日を、始めなければ。
やがて深海へ沈むその日の先を、温めるために。
そっとベッドから降りて立つ。足は、ほんの少しだけ震えていた。
冷たい床の感触が、確かに「ここ」にいることを教えてくる。
「風の向くまま気の向くまま、にゃ!」
決意を抱えて、秋沙は明るく振舞う。
泣かないと決めている。だから、泣かない。笑顔でその腕の中に飛び込むのだ。だって両親だってずっと願ってくれている。秋沙の幸せを、愛娘が運命に抗える方法を。
けれど。
まだ、「またね」が終わっていない|時間《いま》だから。
いつか手放すと知っているすべてを、今、この瞬間だけでも、確かに抱きしめるために。
水平線を見守り続ける灯台のように。
誰にも見えない場所で、いつか光り続ける日のために。
朝の匂い。
湯気の立つ気配。
誰かの動く音。
それらすべてが、あまりにも当たり前で、あまりにも愛おしい。
足音が、廊下に響く。
小さく、けれど必死に。
昨日が、今日に変わったばかりの朝。
「――にゃ!」
その声が、ほんの一瞬だけ、泣き声に似てしまったことに秋沙自身だけが気付いていた。
飛び込んだ先は、暖かかった。
やわらかくて、少しだけ力強くて、ちゃんと“生きている”温度。包み込まれて頭を撫でてもらえる。
そのすべてを、秋沙は、ひとつひとつ胸の奥に仕舞い込んでゆく。
ふと、窓の外に目を向ける。
朝の光が、やわらかく差し込んでいた。
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴🔴 成功