宵牙楼

【謁見庁】

黑・宵刃 4月29日23時

 祖に、謁見してよいと許可が降りた。
家に入り込んだうえ、敷地の森を焼くなどと言った、無礼を働く炎の蛇を討ったことを兄が恐ろしいほど気に入ってのことだった。
蛇の頭蓋を、死体加工を生業とする姉に頼めば思う存分その手腕を発揮したらしい。応接室にかざられた立派なそれを見上げるたびに、腹に開けられた毒がまだじくじくと体を蝕んでいる気がするのだ。
 犬は、はじめて兄と同じ服を与えられた。こういったことは犬が、家族に入る前からあり得ない。
 目を白黒とさせながら、言われるまま自分のサイズまで縮められていた兄の着物を身に着けた。
 姉にいちいち反応をうかがっていると、「ええ、似合っている」と見えもしない眼で言うのだ。「もうすこし、鼻が高いといいのだけどね」と犬の顔をなでながら。

 兄のあとをついて、屋敷を渡る。
城と言って差支えのない広さは、犬もすべてを知っているわけではない。うろうろとしていたら、機嫌の悪い兄に見つかって怒られてしまうだけだった。だというのに、今は兄の後ろをついて歩いている。
 不思議な心地だった。
 兄は、兄と同じ着物を着た犬を一瞥して「もう少し鼻が高ければな」と言ったきりだ。
人間の姿勢とは違う、前のめりな彼の一歩は犬の二歩である。いつもより重い衣服は、はっきりと意味と価値を感じた。それが、犬の緊張を煽り続けている。
 案内されるまま、何度扉をくぐって廊下を曲がったのかわからないが、突然その『間』にたどり着いた。
 鉄錆びた匂いがする。それが酸化した鉄ではなく、血の匂いだと知ったのは、その匂いの中に懐かしさを感じたからだ。
 女の、胎から溢れた血の匂い。
 そうだ、ここで生まれたのだと――思い出せない記憶が、確かに見えた。

 『祖』は、部屋に宙づりにされた盃で鎮座していた。

 謁見の間に入れば、この犬の両親がいた。祖父母がいた。曾祖父もいた。曾祖母は、少し前に亡くなった。
誰もが『足らず』、『多い』。いびつな犬の影たちが並んでいる。
誰もが膝を折り、祈るように胸の前で掌を組み、袖の中に隠している。
口輪を犬と同様に装着され、言葉を発することも許されていない。ちょうど“神”が通る道を開けたように、部屋の中央、赤い絨毯の上を兄のあしあとを頼りに歩いていく。
『祖』を見上げる形になった。犬の身長よりも、兄の背丈よりも高くにある黒い何かが、ゆったりと蠢く。
 しばらく見上げていると、黒から羽が生えた。ああ、羽を畳んでいたのだなと犬が判るより先に、大きな口も現れる。それが、何度か呼吸した。鼻を貫くようなにおいが降りてきて、全身が泡立つような生ぬるい温度が吹きかかる。

 そして、――それは、狂乱めいた笑いのための息継ぎだったのだと知った。

 空気が震える。建物が揺れているのだ。天井からつり下がった盃が、まるで湯船の上で乱暴に弄ばれる家鴨の玩具がごとく、めちゃくちゃな波に揉まれるように動いた。
 血の匂いがどんどんきつくなる。笑い声に耳がおかしくなって、ひどい耳鳴りで気を失ってしまいそうだった。鼻はすっかり使い物にならない。犬が膝をついてしまいそうになる中、兄はそれでも毅然としていた。
 その背に倣うほかない。犬は、どうにか口の中を噛むことで、痛みにすがる。

「|无貌《Wúmào》よ!」

 それが、自分のことなのだと。
 犬が気づくまでに、しばらく時間がかかった。
『祖』が己を呼んだらしいことに、緊張を肌で感じ取って貌を上げる。
全身から噴き出した汗が、眼に入った。赤い瞳が潤み、まるで涙を流しているようだった。
それが愉快だったのか、また『祖』は笑い出す。盃を吊る黄金の鎖が揺れる。真っ暗な部屋に、僅か灯っていた炎たちが白々しく揺れた。誰もの影が歪み、天の狂った踊りが止まらない。

 はい、无貌はここにおります。

 それが、三時間ほど続いた。祖は犬の名を无貌と呼び、犬はただ、狂乱を見つめていた。
また返事をするべきか悩んだが、誰もが沈黙していた。ただ、黒い混沌はそれが在ることを喜んでいるようなのだから、止めようもない。ようやく金属の軋みが止んだころ、部屋の灯が消える。

 部屋に戻れ、と。それから、いつも通りにしろ、と兄は言った。
帰る道も、兄のあとをついていく。それっきり何も声をかけてこない彼に、犬はどうしたらいいかわからずに、同じ柄の着物の袖を手の中に握り込みながら、一言だけ問うた。

 |大哥《兄さま》。これで、――私は、一人前ですか?

 兄は、振り向かずに「ああそうだ」と言った。
 念願の言葉なのに、犬は満たされない。
 それは、どこか無責任に手綱を離されたような明るさを孕んでいた。