過去─慕情─
それは、不意打ちだった。普段のみはてならば直ぐに気付いただろう。けれど、その時のみはてはわかりやすく浮かれていた。
薔薇の花束を買って、彼女のことばかりを考えていた。何故ならば、この後彼女に告白しに行くつもりだったからだ。
突き飛ばされた衝撃。
赤い薔薇が舞い散る先。
逢いに行こうとしていた女性から真紅の花弁が溢れた。
「ユイ…!」
みはてを襲ってきた男など頭の片隅にもなかった。
倒れ行く彼女──ユイへと駆け寄る。地面に膝を付く形でなんとか抱き留められた。
「…どうして君がこんなところに…いや、違う。そうじゃない…」
くったりとみはての腕に沈むユイ──紫・ユイ(ゆかり)──は、血に濡れていた。
みはての頭の中が真っ白に染まる。出てくるのは己を責める言葉だけだ。
俺のせいだ、俺が、
そっと、しなやかな白い指先がみはての頬を拭った。そこでようやく、みはては己の涙に気が付く。
「みはて……だいじょうぶ…?」
こんな時にも人の心配ばかり。
ユイは、そういう人間だった。
天人たる魔性を生まれ持ったみはては、それ故に孤独だった。美貌と香りに充てられた者しかみはてに近付こうとしなかったからだ。
みはてはそれを苦に思ったことなどない。最初から孤独だったみはては、孤独の苦痛など知らなかった。
ユイだけだった。
表面上でしか人と触れ合えない、天人たる性質にしか興味がない者たちに囲まれるみはてを心配してくれたのは。
『……なんですか、紫。今日も俺に逢いにくるなんて……何か用があるなら言ったらどうです…?』
『もう、みはてはわかってないわね!わたしはあなたが心配なの!』
『心配……?』
薄ら寒い笑みを浮かべたみはてにもユイは臆さず、なんとみはての頬を抓ってこう言った。
『みはて、さみしんぼでしょ。ずっと、さみしいって貌してるもの』
───ねぇ、ユイ…違うよ…。
俺は本当に寂しくなかったんだ。
……|光《君》に出逢うまでは。
こんな時まで美しい|光《ユイ》を前に、みはてはくしゃりと顔を歪める。
その瞳に、せめて憎悪があってくれたなら。
己を害した者への憎悪。そして、こんな目に遭う原因を作ったみはてへの憎悪があってくれたなら。
──何もなかった。
ユイの瞳は、いつも通り慈愛に満ちて柔らかな輝きを放っていた。
「……君は、本当に…」
みはては未熟だ。身に宿る力を上手く使えもしない。そしてその中に癒す力がないことは明白だった。
消え行く命を前になす術も無い。
ただ、震える腕で小さな体を抱き締めることしか出来なかった。
「ごめん…ユイ…」
謝っても意味がないことはわかっている。それでも口からは謝罪しか出てこなかった。
本当は今日、違う言葉を告げようとしていたのに。
「…俺のこと…恨んでいいから…」
「みはて」
みはての唇を、他ならぬユイの唇が塞いだ。
「──生きて、みはて」
優しい、清廉な声だった。
そこにみはてへの想いが見えたのは、ただの願望かもしれない。
それがユイの最期の言葉だった。
みはてがあんなにも望んでいた口付けは血の味がして、あんなにも綺麗な瞳は閉じられている。
ユイもみはてへ恋情を抱いてくれていたのか。
それとも最期の優しさだったのか。
それすらも、もうわからない。
「ユイ……ユイ…」
脈打つことのない体を抱き締める。
「…目を開けて…ユイ…」
こんなにも悲しくて苦しいのに、泣きじゃくることも出来ない。
みはては元来、感情表現が苦手だった。そんなみはての心をいつも掬い上げて、それに名前を付けて教えてくれていたのがユイだったのだ。
「死なないで……」
この気持ちをなんと表現すればいいのか、みはてには最早わからない。
教えてくれる人も、涙を拭ってくれる人も。
もう、居ないのだから。
抱えていたユイの躯を、みはては優しく地に下ろした。
そのままゆらりと立ち上がると深く赤い双眸を、周囲に取り押さえられている男へと向ける。
こんなこと、ユイは望まないと理解していても。
「…お前は…俺の愛しい人を殺したね……」
長い足で一歩、また一歩と男へと近付いていく。
「罪は償うべきだ」
甘く低い声には、憎悪を通り越した殺意しか宿っていなかった。
「……そうだろう?」
……。
その命を屠って、漸くみはては気付く。
己の心が空っぽなことに。
…ユイ…
君に出会うまで俺は独りでも平気だったのに。
今こんなにも──寂しいよ……
それでもみはては生きなくてはならない。
ユイが繋いでくれた命だから。
どんなに辛くても、苦しくても、痛くても。
自ら終わらせることは許されないのだ。
ユイはきっと怒るだろう。
自身のためにその手を赤く染めたみはてに、『こんなこと頼んでないわ!』と、みはてのために怒ってくれるだろう。
そんな|女性《ひと》だから、みはては好きになったのだ。
生まれて初めて好きになった。恋をした。
愛を識り、執着を得た。
「…ユイ…俺は…君に殺されたかったよ…」
止めることを赦されない鼓動と空っぽのままの心。
それがみはてに遺されたものだ。
みはては己の唇をなぞり、最期のキスを、愛しい|存在《ひと》を想った。