第八汎神資料室

無理な事と、無理な事

斎川・維月 10月11日01時

 個包装の濡れ煎餅を一つ開けて、取り出した中身を齧る。
 ねっとりとした歯応えと甘じょっぱい味が口の中に広がって、中々楽しいし美味しい。スーパーで買った大袋にしては良いクオリティだと思う。
「……あむ」
 とは言え、たった今二口目を齧った己の口内に広がる“これ”が、本当に人間が感じている『味』と同じものかは分からない。寧ろ、自分に本当は|顔《・》|が《・》|無《・》|い《・》事を考えれば、どちらかと言えば違っている可能性の方は高いんじゃあないのかとも思うのだけど。
『いなです。あなたのかんかくとせいしんはわたしたちとつながっていますから』
 ヒョコリと顔を出した(薄く拡散していた状態から現出したので、本当にヒョコリだ)古霊の一体が口を挟んで来た。長くて句読点と理論を感じさせる物言い。振れ幅の中では特に賢い方の状態の様だ。一体のみで出て来るのも、そう言う時に多い傾向がある。
 そして言っている事はまあ、正しい。と言うか、口に出して言っていない思考にコメントされた事がその証明を兼ねてすらいる。古霊達は災厄としての維月の存在を鎹として現世に留まり、その結果として維月と様々なものをある程度までの範囲共有している。勿論、別に常時同期している訳では勿論無いが。
「全く違って居れば流石に何処かで気付く。って事ですか?」
 濡れ煎餅一枚のうちの残り一欠けらを己の口に押し込み、2枚入り個包装の半分を消費し終える。
 そうですと、首が無いので半ば身体ごとの仕草で頷く古霊を眺めながら、己の指先を唇の前に置いてチロリと舐める。少しだけ甘辛い醤油ダレの味がする。古霊達は今でこそ霊的存在だが、基本的に過去には人であった者達だ。その彼等が保証するのであれば、つまりこの味は、感覚は、『人』と同じなのか。
『ぎょうぎがわるいですよ』
「むー小うるさいでーすー。ママか」
 口を尖らせてもう一枚に手を伸ばす。そうしてまた手先に醤油ダレが付く訳なので、実際今の行儀の悪い行為に意義は全く無いのだけれども。
『ままではありません』
 古霊は、寄越せとは言ってこない。彼等が興奮して騒ぐのは甘い洋菓子にだけ……いや、和菓子であっても甘さメインの物ならそれなりに騒ぐか。ともあれお煎餅の様な和風で更に甘さもしょっぱさと半々位の品であれば、全然騒がないし寧ろその場にあると何故か情緒が落ち着く傾向すらある。
『いつきのほうに、おばあさんのいめーじにんしきがあるからではないですか?』
 言われて、新たに個包装を開けようとしていた手を止める。
 確かに古霊達は、その形を見れば一目瞭然に維月の認識や精神の影響を受けている。甘い菓子を好む事自体そうなのだろうと推測した上で、渋い菓子で妙に鎮静するのも同じくそう言う影響故だと考えれば多少しっくりは来る。……そう言えば、確かに、祖母は確かに穏やかな人だった。……良く、煎餅やおかきと言った甘すぎない和菓子をくれもした。
「…………」
 何となくそう言う気分では無くなって、濡れ煎餅の袋をテーブルに戻し置く。
 けれど、不思議と口寂しさの方は妙に強くなってしまって、片肘を付いた右手を口元に寄せ、人差し指の真ん中辺りをあむと咥えた。そうしながら、少し祖母の事を思い出す。何時ものんびりと静かで、何時も黙って祖父の横に居る印象で。それで居てお調子者の祖父が馬鹿な事を言えば、容赦なくバッサリ切って捨てて制する。そんな人で……
『さっきからそのむだにえろいしぐさはわざとやってるのですか?』
 うん。いきなり何を言いやがるか|てめー《古霊さん》。
 何だこの、いや、え、何? それアンニュイに浸ってる所に突然差し込む話題かなあ!?
『むいしきにやってるならよっきゅうふまんなのでは?』
 未だ引っ張るかこの……この……
 古霊は基本的にほぼ表情が無い。いや、顔の造形がシンプル過ぎるだけで仕草等では喜怒哀楽は示すのだが、兎も角表情は殆ど動かない。ついでに今目の前にいる古霊は身動きを取って無いので何とも感情が読めない。揶揄ってるのか本気なのか寝言なのか判断が付かない。
『いつきもとしごろです。そういうひだってあっていいですよ?』
 淡々と続けるその物言いに、本気の可能性が色濃くなって来た感があるが。全然嬉しくない。
 と言うか今発見したが、自分を参考にした雑な造形をしたミニサイズの変な霊にそう言うセンシティブな話されるの普通に嫌だな!?
『ひとをもし、ひととなっているのですから。そういうきのうはあってしかるべきです。あるはずです』
 しつこいなあ……!
『だから、それもまたすとれすのはっさんほうほうなのですよ?』
 ……む。
 繰り返すが、古霊にはろくろく表情と言うものが無いので、真剣に話していてもそれが表情からは伝わらず、言っている内容から判断するしかない。なので入りが素っ頓狂であればそれに気づくのはどうしたって遅れる。
『れんあいがきけんなのはわかります。わかっています』
 日本の社会通念上どうしても恋愛は『一対一』となりがちな為、相手が唯一無二となってしまう。それ故に関係が破綻した際や、避け得ぬ別離が訪れた場合の、維月の精神に対するネガティブな影響が大きくなり過ぎるので……有体に言って危険だ。
 故に恋愛禁止。
 昔のアイドルの様だと笑い飛ばして見せても、例えばK博士は苦虫を噛み潰した様な顔をしていたし、兄も何とも言えない顔で悩んでいる様子だったが……まあ兎も角、禁止だ。それは維月自身至極道理だと納得している。
『でも、わりきったかんけいであればだいじょうぶなはずと、これはまえからきかんからもいわれていることですよね』
 その通り。全く皮肉な事に、維月は機関から通常の社会倫理と真逆の条件付けを提示されている。
 清い交際はOUT。爛れた関係はOK。
 一人と向かい合うのは駄目。一夜限りの後腐れなしは良し。
 寧ろネガティブな感情の消化効率が良いのであれば推奨ですらあるそうだ。
 酷い話である。
 酷い話なので、K博士が酢を飲んだ様な顔をしているのを良い事に適当に流して無視していたのだけれど。
『それです。なんでむししているのです?』
 ……むぐ。
 古霊は時々……いや、割とちょくちょく突然厳しい所を突いて来る。多分、必要な事だからだろう。
 彼等はつまり維月にとって複数の意味で必要な存在で、だから生み出された『かたち』なのだろうから。なのでこの急所突きからも逃げてはいけない、道理となる……。
『いやならいやといえばいいのです。ただしちゃんとりゆうをそえて。むししてごまかすのはふごうりです』
 それもその通りなのだ。
 維月の災厄はその精神状態に左右されるものであるが故に、その手の話にありがちな『組織からの当人の気持ちを蔑ろにした扱いや指示』と言うものが基本的にあり得ない。何せそんな事をしたら暴走の元にしかならないと関係者各位が全て把握しているのだから。仮にあったとしたらそれは連絡不十分の結果か判断ミスだろう。
 だから、嫌なら嫌と言えば良いと言うのは本当にその通りなのだ。ただ、今後の判断に深く関わるからと言う、至極正当な理由でその理由と心情を根掘り葉掘り確認されるだけで。
『ほかごとではなんでも。きゅうきょくはじぶんのしすらかんじょうにいれてるくせに、なんでそこはごまかしますか?』
 仕方がないと、維月は覚悟を決めて溜息を吐く。
 こんな事は本当に言いたくないのだけど。寧ろ、なあなあにして居たのが駄目なのだと言う事は分かっている。凡そ発展性が無いから話す意義が薄かったと言う言い訳は一応あるのだけど。でも、確かに、その事自体だけでも伝えるべきではあったのだ。
「……いや、だって。割り切るの、無理なので」
『む』
 古霊が動きを止めた。いや、考えているのか。
 とは言えもうこうなったら別にそのまま考えさせる必要もない。正直に説明を重ねるだけだ。
「だから、合意の上でそんな関係になったらどんな割り切ろうとしたってもう無理なんですよボク。一回コッキリにしたってきっと忘れれません」
 古霊がクリッとこっちを見た。と言うか真っ直ぐ目線を合わせる位置に身体の向きを調整した。
 そのままたっぷり10秒くらい沈黙してから。
『ちょっろ……』
「うがー!! なんだてめーでも分かってましたよ絶対そう言われるから言いたくなかったんですよこんちくしょー!?」
 首を絞めてやれ(雑な造形の古霊に首はないけれど)とばかりに掴みかかるが、ヒラリと躱された。
 おのれ予想してやがったのだなと歯噛みしてから、維月は滅多に見せない程ムッツリと拗ねた表情で頬杖を突く。
『ちなみに、はためのいんしょうがさいあくなのはしょうちのうえであぶらぎったちゅうねんおやじとかでは?』
「……駄目です。ボクからしたら『人間』に違いが無いんで、理屈では分かってても感覚として『それの何が駄目なのか』がピンと来ません」
 人と言う種を愛する人でない存在は溜息交じりに、けれどキッパリそう断言する。
 怪異からすれば、生理的嫌悪感も年の差も社会倫理もどうしたって何処か他人事なのだ。
『……にんげんだいすきすぎるのもかんがえものですね』
「そこに関してはグウの音も出ません……」
 古霊がその動きを再開する。
 と言うかふわふわ漂い始めたと言うのが正しい。恐らくは、今まで意図的に己の位置を固定していたのを止めた……要するには力を抜いたのだ。
『かるいのがうりのいんすたんとなあいも、いつきがちょろすぎるゆえにおもくなってしまうということですか』
「ぐぬぬ……その言い方すっごい嫌ですけど反論できない」
 呻く維月の前で古霊はクルクルと回り出す。
 別に煽っている訳じゃ無く、ただ力を抜いた結果屋内であっても微かにある空気の流れを受けてベクトルが回転になっているのだろう。そう、こいつら霊の癖に物理力の影響をやんわり受けるのだ。
『やれやれ、ばあいによってはわたしたちがあいてになることもしやにいれていたのですが。それじゃだめですね』
「えっ何それ怖い。絵面が面白過ぎるんで普通に嫌なんですけど」
 古霊の動きにクリッと明らかに意図的な制動が入って、その顔が維月を見る。
 見ようによっては意味深にも取れる仕草だが、如何せん雑な造形の無表情なので何ともシュールな有様でしかない。
『わたしたちはずいじまめつしていれかわりつづけますから、ちょうどいいとおもったんですよ』
「……あー」
 古霊達は無数の霊達を統合した存在だ。個にして全、全にして個であり、その『古さ』故に内包する霊は常に少しずつ完全な消滅を迎えている。言って見れば毎日同じ人の様で違う人の群。なるほど無二の存在として固執する相手にはなり難く、別離が常に前提となる存在だ。
『でもいつきがそうぞうをぜっしてちょろかったのでぎゃくこうかですね』
「…………グウ」
 グウの音が出た。
『というか、それ、げんじょうのかんけいでもけっこうすれすれじゃないですか。おしゃべりしてるだけならおおむねのりがおなじだからなんとかだいじょうぶなだけですか』
「まー、そのー………………はい」
 普段の言動から存在そのものまでが冗談の様な存在である古霊達に対してすら、内包される元々の霊達がその都度消滅して居る事に、一抹以上の寂しさと悲しさを感じている。それは『人間』としては良い事なのだが、昏い感情から生まれる呪いを散らし続けなければならない維月のみの上からすると、大変宜しくない。
『わたしたちがへいきんかしてむこせいになってることじたい、それをふせぐためってそくめんがあるでしょうに』
「弁明の余地もありません……」
 腕組み(は腕が短すぎて出来ていないが、辛うじて腕組みしたいのだろう意志は伝わって来るポーズ)をしながら説教する様に言葉を重ねる古霊に対し、維月はシュンと肩を落として項垂れる。
 感情はどうしようもないものだ。それはお互い分かっているが、それはそれとして是々非々と言うものでもある。
『……全く、仕様のない子ですね』
 だから、酷く優しいそんな声が聞こえたのは少し不意打ちで。
 まあ、慌てて顔を上げて確認しても其処に居るのは何時もの古霊さんなのだけど。

『であればやはり、いつきにゆうようなのはそれいがいのあいなのですね』
「……愛と来ましたか」
 訳知り顔(いや表情は余りないが)で頷くそのシンプルな面に、思わずツッコミを入れる様に呟くが。
『ちがうのですか?』
「まあ……一文字に纏めてしまえばそうなのかも知れませんけど」
 真っ向聞かれれば、認めざる得ない。
 維月が不幸を感じる程に、ネガティブな感情を溜め込むほどに、災厄の状態は深刻化する。
 だからそれを解消する『幸福』を。と、好きな事をして楽しい日々を過ごして自由に生きる様にして、何もかもをポジティブに好意的に受け取る。けれどそれだけでは矢張り限度がある。己の能動的な行動と、受動的な感じ方以外に、何かしらの外部要素としての幸せを得ねば到底足りない。
 外部要素。まあ普通に考えれば他者だ。
 他者から得る幸せ。順当に考えれば愛の類だろう。
 その内の恋愛と性愛がその対象から除かれても、幸い愛と言う奴は品揃えが豊富だ。友愛、敬愛、親愛、家族愛、隣人愛、人類愛……その他諸々と。
『とどのつまり。ともだちを、したしいひとをつくれ。すでにしたしいひととはもっとなかよくなれ。ということにつきます』
 これまで通りに、これまで以上に、絆を。なるべく堅固で太い絆を、出来るだけ多数作れと。そう言う事になる。愛と言うものの大抵は、そう言う繋がりの間で育まれるのだから。
『せいあいやれんあいはいってみればおおわざです。ぎゃくてんひっさつです。やくまんです。あたればおおきいけどそうおうのきけんをともなう。だから“それ”がむりなんであれば、あとにのこされるのはじみちでちゃくじつなみちなのです』
 不断の努力が物を言うのだと。
 顔の間近までフヨフヨと近付いて、古霊はビシリとそう決める。突き付けられた指先(いや、指何で無いのだが、多分そう言う意図だろうなーってポーズなので、便宜上指先)が、目の前にある。
 維月は思わず少しポカンとしてしまう。言われている事は分かる。分かるが、それは今更と言えば今更の話で。より一層励めと言われれば確かにハイと言わざる得ないのだが。それでも、それで終わりとはあまり思えなくて。
『だから、そこにへんなおいめやざいあくかんはいりません』
「あ……」
 なので、続くその言葉にパカンと頭を軽く叩かれた様な感覚を覚えた。
 それは予想し得た一撃。なので衝撃は大した事ではなく、それでも矢張り衝撃ではある。
『こうふくになるためにともだちをつくる。……そんなのはしたごころとはいいません。ふつうです。むしろほかにどんなどうきでともだちをつくるっていうのですか』
 維月の心の何処かに、微かに、けれど確かに、親しくなる事に『呪いを消化する為に』と言う不純な動機があると言う負い目があった。
 けれどそれは結局『幸せになる為に』とニアリイコールであり地続きだ。それを不純と言ったら、一体誰が純だと言うのかと。そう言われている。そんな事にしこりを感じているのは無駄と非効率の極みで、そこを削いで落とせと。
『おおわざひっさつわざをつかわないならやくまんをねらわないなら、こうりつかなさいせいどをあげろれんどもあげろ』
 維月は眉尻を下げた。ああ、なるほどドア・イン・ザ・フェイスかと気付いたので。
 とどのつまり、理由迄は兎も角として維月の答えがNOだと言う事だけは分かっていた手段。それを先ず提案した上で、それが無理ならだったらじゃあこうしろと比較的現実的な案を突き付ける。
 そういう小細工を敷いた上で、主張する指示はつまり。
『こまけーことはきにするな』
 なるほど。
 なるほどーと実際口にしながら、再び手に取った濡れ煎餅の包装をバリッと破く。
「四の五の言わずにアタック&アタック。って感じが良いですかね」
『たいへんいいです。それでいきましょうもがっ』
 偉そうにそう言う口に濡れ煎餅をねじ込んでやった。
 まあ普通に入り切らないのでフリスビーを口に咥えさせた様な有様になったけど、まあ良いや。 
「じゃー、リンゼイさんにゴリ押しで仲良くなりに行くのは引き続きガンガン行こうぜで」
『あももももがごもも』
 食ってから喋れ。と口に出すのは流石に自分のせいなので止めて置いた。
 サイズ比で言えば結構な大物の煎餅と格闘している古霊を眺め、ペットボトルのお茶を飲みながら食べ終わるのを待つ。
「キログラム博士にも変わらず甘えましょー。あの人本当ちょっと大丈夫かなって位甘いですし」
『もがもぐもも……』
 咀嚼音に若干非難がましい呆れたようなニュアンスが混ざった気がするけど、気のせいだという事にして置く。
「くるりんの事ももっと調べましょう。良く考えてみればタイムリミットがあるのにあれこれ気兼ねしてる場合じゃないですし」
『もご、もぐ……ごくん』
 今ろくに噛まずに飲み込まなかった?
 餅ほどじゃないにせよ粘性の高い菓子だ。喉に詰まらせてやいないかと帽子を引っ掴んで確認しようようとして、そう言えばこいつら喉とかねえやと気付いて投げ捨てる。
『ひどくないです?』
「やかましーです」
 非難の声をにべもなく流して、自分の分の煎餅を開けようと大袋に手を伸ばして。
 その手に古霊がそっと触れた。制するように、諌めるように。
『おとうとくんがぬけてます』
「……あの子の事は、反対なんだと思ってました」
 アクマ、悪魔、心の闇、路地裏の影、心の光が遮られる事で象られるかたち。推論もイメージも含めて、それでも尚定まらない何か。友人に憑りついているどうにもプリミティブさを感じる呪い。
 それを弟にすると宣言した時は、それはもう罵倒の大合唱だったものなのだけど。
『はんたいですよ。でも、すると『きめた』いじょう、なあなあはもっとだめです』
「なるほど……」
 それは確かに。そう納得して、維月は御菓子に伸ばした手を引っ込める。
 代わりにもう一口ペットボトルのお茶を飲んで、気分を整える。
 緑茶に入ったカフェインはそこ迄の覿面の効果を齎したりはしないけど、まあプラセボと言う奴だ。何となくでも十分そう言うのは効果がある。
 だって効き目は心に出るのだから。
 心に。
『あれにこころなどあるときたいしてはいけません』
「それは分かっています」
 本質的には|世界に開いた穴《現象が固定化される不具合》でしかない怪異は、見るからに『光が届いていない箇所』であるあの仮称アクマに人格がある等と妄信はしていない。寧ろ『どうせ無いのだろうなあ』位に思っていて、『でもひょっとしたらもしかしたら』程度にしか期待していない。
『でも、あきらめはしないと』
「絶対何てこの世にありませんよ。仮に現時点皆無だったとしても、明日もそうとは限りません」
 例えば自分自身がその実例なのだから。とは、言わない。言えない。
 そう言う所が維月の屈折している部分だと、きっと当人にも自覚はあるのだろうから古霊は指摘しない。ただシンプルな造形の顔立ちをこれ見よがしにほんの少し歪めて首を……と言うか身体の上半分を少し揺らして溜息を吐く仕草をして見せる。
『ならとっととうごくべきです。りみっとがあるいじょう、はやければはやいほどじかんはふえる』
「…………そう、ですね」
 納得出来る要素しかないのだから、当然頷くしかない。
『きかんとはかせにははなしをとおしておくこと』
「う゛…………まあ、そうですよね。はい」
 これも全く正論なので、滅茶苦茶怒られるだろうなと思うと可也躊躇するけど矢張り頷く他ない。
『そのうえで、うまくはなそうともかとうともおもわないこと』
「うん?」
 これは、是非以前に意味が掴み切れず頷く前に首を傾げる。
『りくつがつうじるかどうかもあやしいあいてにただしさなんてごみです』
「いや、まあ……確かに? それはそう、かな……」
 ギリギリ納得出来なくも無くて少し悩みはする。
『しょうはいとかもっといみないです』
「あー……確かに、弟君の気分一つで引っ繰り返るでしょうしね。しかもその上で気分とか本当に存在してるかも不明だし」
 つまり突然理由も脈絡もなく盤を引っ繰り返されても不思議じゃない将棋見たいなものだ。後ついでにこの将棋、盤上も駒も見えない。
 改めて、我ながら無謀かつ不条理な事をしようとしているなあと再確認しなくもない。
『そもそもがどうりでかんがえたらぜったいむりなことなので』
 言いよる。
『むりをとおしてひっこませるいがいにみちはないのです』
 言いよる。
 いや、本当に。
「突っ張れるだけ突っ張れ。と」
 溜息を吐きつつ、わざとゆっくり頷いて見せたけど、古霊はそんな皮肉を気にする様子も無く鷹揚に頷きを返して来た。
 くそう面の皮の厚さじゃ流石に分が悪い。
『ほかによいてがあるならそっちでいいですよ?』
「…………無いのでそれで行きます」
 はい、|負けでーす《Surrender》。
 渋々肯定しながら、でもせめて不満ですとアピールするべくちょっと口を尖らせて置いた。
 どうせならもっと激励と言うか、勇気付ける事を言ってくれれば良いのに。と、ちょっと恨みがまし気に睨んで見ても何の解決にもなりやしない。
『でも、ぜったいにぶじですませなさい』
「……」
 ちょっとだけ、言葉に詰まった。
 危険を伴う事はどう考えても否定できない以上、それを条件に出されたら実質禁止の様な物で。
『やめなくてよろしい。やりなさい』
「……う」
 思考を見透かされたのか、キッパリとそう言われて思わず声を漏らした。
『でもぶじでかえりなさい』
「それは……」
 無理な注文では、と言い掛けて気付く。
 ああ……なるほど。そうか……はい。そうですか。|こ《・》|う《・》しろと。
『おてほんです。わかりましたか?』
「………………」
 偉そうに言いやがってと、大変癪ではある。癪ではあるが……
 自分がやろうとしているのは確かに、これだ。拒否出来る訳が無い。それでも素直に頷くのは悔しいので。
「……………………グウ」
 結局またグウの音を出すしかないのだ。