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桃源にして|戦域《フロントライン》
甘やかな香りが、風にほどけていく。
水蜜桃の森――そこは、争いとは無縁の楽園だった。
淡く色づいた果実が枝先にたわわに実り、陽光を受けてやわらかく輝く。ひとつ手に取れば、指先に吸いつくような滑らかさと、ほのかに温もりを帯びた重み。かじれば瑞々しい甘さが口いっぱいに広がり、心の奥に溜まった疲れさえ、すっと溶けていくようだ。
足元には花弁が降り積もり、風が吹くたび、ひらり、ひらりと舞い上がる。
遠くでは小鳥がさえずり、木漏れ日が揺れる。
ただそこにいるだけで満たされる、そんな穏やかな時間が流れていた。
――だからこそ。
「ここが、狙われてしまうのよね」
場違いな言葉が、その空気に小さなひびを入れる。
如月・縁は、森の縁に立ち、静かに空を見上げていた。
昼の光に星は見えない。けれど彼女の視線は、そのさらに向こうを捉えているかのようだった。
ゆっくりと振り返り、集まった冒険者たちへと向き直る。
「モンスターの軍団が、もうすぐこの森に来ます。目的は――補給」
その言葉に、わずかな緊張が走る。
「竜漿兵器、”エレメンタルオーブ”。あれは自然の魔力を吸い上げて力に変える装置です。つまり、この森みたいな“魔力の濃い場所”は、格好の餌場になる」
縁は軽く肩をすくめた。
「しかも、水蜜桃は古来より神聖な魔力を秘めるとされる果実。ここを押さえられたら、あの軍団は戦いながら補給できるようになる。……そうなったら、止めるのはかなり大変」
ひと呼吸おいて、声の調子を少しだけ引き締める。
「だから、その前に叩いてしまいましょう」
森の奥へと続く道を指し示す。
「まだ大規模な侵攻は始まってない。来るのは先遣隊。オーブを運び込んで、拠点を作るための部隊だと思うの」
指先が、いくつかの地点をなぞる。
「まずはこの森で待ち伏せ。地形はこっちが有利だし、相手も完全には展開できていないはず。第1段階はここで迎撃しましょう」
視線が一度、森の奥へと流れる。
「そのあと、敵の動きを止めたら、拠点に踏み込む。オーブを無力化するのが第2段階。放っておくと、森そのものが削られていくから」
そして、ほんのわずかに目を細めた。
「最後に――指揮官。ブラン・アリア・カーミラ」
その名を口にした瞬間、空気がわずかに張り詰める。
「竜漿兵器の適合者ね。たぶん、全部終わらせるなら避けては通れない」
そこで、ふっと力を抜くように笑った。
「……とはいえ、順番に全部する必要もありません」
軽く手を広げる。
「待ち伏せに集中してもいいし、オーブだけ壊して撤退してもいい。カーミラに一直線でも、それはそれであり」
ややいたずらっぽく、続ける。
「森でのんびりしてから戦いましょう。せっかくの水蜜桃、少しいただいて魔力を補給しても良いかも?」
その言葉に、先ほどまでの緊張がわずかに和らぐ。
「どう動くかは、あなたたち次第。でも――」
風が吹き、花弁が舞い上がる。
甘い香りが、ほんの一瞬だけ強くなる。
「ここは、守る価値のある場所だと思う。この森を愛する国民のためにも、守ってほしい」
静かにそう言って、縁は一歩下がった。
――遠くで、何かが揺れた気がした。
枝葉のざわめきに混じって、わずかに異質な気配。
空気の流れが、ほんの少しだけ歪む。
楽園の時間は、終わりを告げようとしている。
これまでのお話
第1章 冒険 『四季の園、四季の森』
●
風が、やわらかく頬を撫でた。
水蜜桃の甘い香りが、胸の奥まで満ちていく。
森の一角には、簡素な木組みの屋台が並んでいる。
もぎたての水蜜桃使ったスパークリングや桃花ティーが光を受けてきらめいている。ひと口含めば、とろりとした甘みが舌の上でほどけ、思わず息が緩む。
桃花ゼリーはつるりと喉を冷やしてくれるし、一口サイズの水蜜桃タルトが焼ければ芳醇な香りが森に漂う。
枝先には実をつけた水蜜桃。
足元には舞い散る花弁。
小鳥のさえずりと笑い声が混ざり合い、この場所が“楽園”であることを疑う者はいないだろう。
――そのはずだった。
遠くで、枝が軋む。
何かが、来る。
まだ誰も、その姿を見てはいない。
けれど確かに、この楽園へと――異質な気配が近づいていた。
「わあ……」
思わず漏れた歓声が、水蜜桃の森に溶けていく。
淡い桃色に色づいた果実が枝先に揺れ、風が吹くたび甘やかな香りがふわりと漂った。足元には花弁が舞い、小鳥たちのさえずりが木々の隙間を渡っていく。
戦いばかりの世界で生きてきたクラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)にとって、その光景はどこか夢のようだった。
「平和って、こういう感じなのかな……」
「綺麗な景色だね」
隣を歩くシスティア・エレノイア(幻月・h10223)が、穏やかに目を細める。
彼自身もまた、長い時を孤独と戦いの中で過ごしてきた。簒奪者を追い、数多の世界を渡り歩き、血の匂いに慣れきったはずなのに――この森の空気は、不思議と肩の力を抜かせた。
そして何より、クラウスが嬉しそうに景色を見渡していることが、システィアには少しだけ誇らしかった。
「ティアが生まれ育った√だから、より一層好きになっているのかもしれない」
そう言って笑う横顔に、システィアもつられるように微笑む。
「ふふ。気に入ってくれたなら嬉しい」
森の奥へ歩みを進める。
魔力に満ちた空気は柔らかく、呼吸をするたび身体の奥まで澄んでいくようだった。
「魔力のことはまだよくわからないけど……ここ、すごく居心地いい気がする」
「この森は特別だからね。水蜜桃が大地の魔力を集めてるんだ」
そう言いながら、足元の根へ気づいて手を差し出す。
「気をつけて」
「あ、ありがとう」
重なった手は、そのまま自然に繋がれたままだった。
屋台の並ぶ一角では、水蜜桃を使った菓子や飲み物が賑わいを見せている。
クラウスは並べられた果実のひとつを受け取り、そっと齧る。薄皮に歯を当てただけで口いっぱいに果汁が溢れてくる。慌てて顔にかかる髪を払えば風が吹き抜け、クラウスの耳元で荒地花笠を閉じ込めた蜻蛉玉が、淡く揺れた。
「すごく甘い……!」
ぱっと目を輝かせる様子に、システィアがくすりと笑った。
「そんなに?」
「うん、ほんとに!」
「俺も貰っていい?」
「もちろん」
システィアは長身を屈ませると、彼が齧ったところへそっと口を寄せる。果汁が舌の上でほどけ、瑞々しい甘さが広がった。
「本当だ。瑞々しい甘さで美味しいね」
顔を見合わせ、自然と笑みが零れる。
(はんぶんこするの、なんだかすごく幸せ)
こんな風に、同じ景色を見て、同じ甘さを分け合えること。
その穏やかさが、胸の奥へ静かに沁みていく。
――ずっと続けばいいのに。
そんな願いを遮るように、遠くで枝が軋む音がした。
ぴくり、とシスティアの狼耳が動く。
「……ティア?」
「少し、嫌な気配がする」
甘い香りの奥に混じる、微かな異物感。
風がざわりと木々を揺らし、小鳥たちの声が遠のいていく。
クラウスは静かに森の奥を見つめた。
「こんなに素敵な場所をモンスター達に壊されるわけにはいかない」
「うん」
繋いだ手に、そっと力が込められる。
楽園のような時間は、まだ終わってはいない。
だからこそ二人は、この場所を守るために戦おうと思えたのだった。
水蜜桃の森には、花の香りと甘い空気が満ちていた。
「わぁ……!」
間宵・理央(まっさらから書き綴るわたし・h12873)は、咲き誇る花々を見渡して目を輝かせる。
淡桃色の桃花が枝先で揺れ、その足元では瑠璃色のネモフィラが小川のように広がっている。菜の花や白い鈴蘭、藤の花が風に揺れ、四季の境界が曖昧になったような花景色は、まるで御伽噺の楽園だった。
その隣で、愛神・永愛(愛を求め彷徨う乙女・h00221)はゆっくり身を屈め、理央と目線を合わせる。
「どのお花が気になりますか?」
穏やかな声と共に差し出された大きな手へ、理央は迷わず自分の手を重ねた。
「これです! あとこっちも! あ、このお花、永愛さんに似合いそうです!」
理央が摘み取ったのは、白い花弁の先に淡い桃色が滲む花だった。朝露を纏ったそれを差し出され、永愛は少し驚いたように瞬きをする。
「私にですか?」
「はい! 絶対似合います!」
嬉しそうな声に、永愛はふわりと微笑んだ。
摘み取った花々を並べれば、小さな花畑のようになる。理央は座り込んで花を編み込み始める。永愛は花冠を編む理央を優しく見守っていた。
やがて出来上がったのは小さな花冠。
「永愛さん、少しじっとしててください!」
「? わかりました」
永愛が大人しく身を低くすると、理央は真剣な顔で花冠をそっと載せる。薄桃の花と白い鈴蘭が揺れ、柔らかな雰囲気によく似合っていた。
「できました。お姫様みたい……!」
「まあ。お姫様。ちょっと恥ずかしいです」
困ったように笑いながらも、永愛の声はどこか嬉しそうだ。
「その花冠に、わたしからおまじないもかけちゃいます」
「ふふ、何でしょう」
「ちょっと待ってくださいね。これを……」
視線を合わせるように屈む永愛へ近づき、理央は背伸びした。そっと、|四葉のクローバー《幸運》を花冠へ差し込む。
「完成! 永愛さんに幸運のおまじないです」
「ありがとうございます」
冠を載せた彼女が微笑めば、まさに花の姫のようだった。
「では私からも、これを」
いつの間に摘んでいたのか、永愛は鈴蘭を基調とした小さな花束を作り、理央の胸元を飾るのだった。
屋台へ向かえば、水蜜桃の甘い香りがさらに濃くなる。果肉たっぷりのタルトや桃花ゼリーが並び、理央は目を輝かせながら次々と甘味を抱えていく。
頬いっぱいにスイーツを頬張る姿に、永愛はくすりと笑った。
「そんなに急がなくても、逃げませんよ?」
「でも、腹が減っては戦はできぬ! です!」
びしっと言い切る理央に、永愛は肩を揺らして微笑む。
「ふふ。では、しっかり食べておきましょうね」
――楽園のような時間だった。
けれど永愛は、穏やかに笑いながらも周囲への警戒を緩めてはいない。遠くで枝が揺れるたび、自然と理央を庇える位置へ身体を寄せる。
その気配に気づきながら、理央は水蜜桃のジュースを握りしめた。
この楽しい時間、悲しい思い出にはしたくない。
だから――この後の戦いも、頑張ろう。
そう思いながら、理央はもう一口、甘い果汁を飲み込んだ。
第2章 冒険 『竜漿石盗掘事件』
●
能力者たちが気づいていたように、水蜜桃の森に満ちていた甘い香りが、ゆっくりと変わり始めていた。
風が吹くたび、枝先の桃花が力なく揺れる。先ほどまで瑞々しく輝いていた果実は微かに色褪せ、森の奥では地の底を掻くような鈍い振動が響いていた。
モンスター軍団が動き出している。
星詠みが言うには、
軍団の動きに呼応して、“エレメンタルオーブ”も動き出すようだった。
自然の魔力を吸い上げ、力へ変える竜漿兵器。
本格稼働すれば、この森そのものが枯れ果ててもおかしくない。
モンスター軍団より先に、オーブへ辿り着かねばならない。
坑道へ入り、採掘現場を押さえる者。
付近の村で聞き込みを行い、敵の動向を探る者。
山や森を巡り、魔力の痕跡を辿る者。
方法はひとつではない。
オーブの場所さえ掴めれば、奴らの進軍を止められる。
だが、その言葉とは裏腹に、森の異変はじわじわと広がっていた。
桃の樹皮が黒ずみ、花弁が灰のように崩れ落ちる。
甘やかな香りの奥に、鉄錆にも似た異臭が混ざり始めていた。
遠くで、獣の咆哮が響く。
敵軍は、もう近い。
(魔力に溢れている…吸収効率も良い…)
水蜜桃の甘い果汁が、じゅわりと口の中で弾けた。
「何より美味ェ!」
ウィズ・ザー(闇蜥蜴・h01379)は満足げに尾を揺らしながら、森の上空をゆるりと泳ぐ。
魔力に満ちた森だった。
熟れた水蜜桃から滲む生命力。大地を巡る濃密な霊脈。
「桃の時期か。暑さに丁度良いンだよなァ」
ご機嫌に呟きながら、次の桃へ齧りつく。
(思えば随分育ったモンだ)
闇色の巨躯は影へ溶け込むように空を滑り、その巨大な身体は|以前よりさらに成長していた《10mに近付く》。
だが、その“味”に混じる異物を、闇蜥蜴は見逃さなかった。
甘い魔力の流れを汚すように、森の奥から不自然な吸引が発生している。空気の揺らぎ。地脈の歪み。まるで森そのものが何かへ喰われているようだった。
「……あぁ、成程」
ウィズは宙でゆるく身を翻す。
「まー、こんな良い所みすみす手放すわけには行かないな」
また一つ、水蜜桃をパクりと喰らった瞬間、闇の知覚が一気に広がった。
『在るべき姿に』
|星脈精霊術【刻遡行】《ポゼス・アトラス》。
魔力の奔流が森を駆け抜け、傷つき始めていた花々や樹木が淡い光を帯びる。黒ずみかけていた樹皮が元の色を取り戻し、萎れた桃花がゆっくりと咲き直っていく。
同時に、“異常点”だけが浮かび上がる。
森の奥。坑道のさらに奥。
そこだけが、修復の流れを拒絶するように濁っている。
「お、奴さんの軍団は……あの辺りか」
ウィズは黒い尖晶石"破魔の瞳"を取り出した。
周囲のインビジブルを吸収すれば、脈打つ魔力の輪郭がさらに鮮明になる。
無理矢理に地脈を吸い上げる異物――エレメンタルオーブ。
「そこか」
(自分自身も実はオーブと似た事が出来るンだが…)
くつくつと喉を鳴らしながら、ウィズは巨大な尾を揺らす。
「……敵の生命力と魔力吸収する範囲攻撃、効くのかねェ?」
闇蜥蜴の影は、静かに森の奥へと滑り込んでいった。
坑道へ足を踏み入れた瞬間、ひやりと湿った空気が肌を撫でた。
頭上からは絶え間なく水滴が落ち、薄暗い通路の奥では岩盤を削る鈍い音が低く響いている。水蜜桃の森に満ちていた甘やかな香りは既に遠く、代わりに鼻を刺すのは土埃と鉱石、そして淀んだ魔力の匂いだった。
間宵・理央(まっさらから書き綴るわたし・h12873)は、小さく喉を鳴らす。
遠くから聞こえる獣の咆哮が怖い。胸の奥がきゅっと縮こまるようだった。
けれど。
すぐ後ろを歩く愛神・永愛(愛を求め彷徨う乙女・h00221)の存在が、不思議と理央を落ち着かせてくれていた。
永愛は長身を屈め、理央に歩幅を合わせながら静かに進んでいる。先ほど飾られた花冠は胸元に収めており、その足音は背の高さを思わせないほどに小さかった。
段差の前で理央が足を止めれば、永愛はすぐ気づいてそっと手を差し出す。
「大丈夫ですか?」
囁くような声だった。
「はい……!」
理央はその手を借り、崩れかけた岩場を飛び越える。
温かな掌の感触に励まされるように、理央は胸の中で強く念じた。
この優しい時間を悲しい思い出にしないためにも。
オーブの場所は絶対に突き止めないと。
(虎穴に入らずんば虎子を得ず、ってやつだよね)
(|集中集中、頑張るぞ〜!《メッチャヤルキダス》)
「よし、やる気出てきた!」
瞬間、全身へ火が灯るように力が巡った。
感覚が研ぎ澄まされる。風の流れ。敵の足音。薄暗い坑道に残る魔力の痕跡。その全てが鮮明に見えるようだった。
永愛はそんな理央の変化に気づいたのか、柔らかく微笑んだ。
「ふふ。頼もしいですね」
今回の作戦では、理央の判断を主軸に自分はサポートへ回るつもりだ。彼女に余計な緊張を与えぬよう、穏やかな空気はそのままに周囲への警戒は怠らない。
やがて坑道の先に、大きな空洞が見えてくる。
採掘現場だった。
巨大な掘削機材。抉られた地脈。黒ずんだ竜漿石。武装したモンスター達が行き交い、荷や資材を奥へ運び込んでいる。二人は素早く物陰へ身を潜めた。
そして。
二人の視線の先に鎮座していたのは――桃色と黒色が混ざり合う宝珠、エレメンタルオーブ。
どくん、どくん、と生き物のように脈打ちながら、周囲の魔力を貪欲に吸い上げていた。
そのたび、坑道の壁に亀裂が走り、森の生命力が削り取られていくのがわかる。
理央は息を呑んだ。
(あれを壊さないと!)
だが、その瞬間。
一体のモンスターがこちらを振り向いた。黄色く濁った瞳が、理央を捉える。
見つかる――!
理央が身を強張らせるより早く、永愛が静かに身を翻した。
次の間には、長身の身体が信じられない速度で踏み込む。
鋭い連撃が閃き、敵の武器を握る腕を正確に断ち落とした。悲鳴が上がるより先に、永愛は敵の口を塞ぎ、そのまま静かに地面へ崩れ落とす。
「逃がしませんよ 愛とは時に綺麗に断ち分けるものです」
――Liebe schneidet Glied
「すご……!」
見事な早業だった。
永愛は理央を振り返り、小さく頷く。
「今なら、行けます」
その言葉に、理央は強く頷き返した。
――この楽園を、悲しい思い出にはしたくない。
その想いを胸に、理央はエレメンタルオーブを真っ直ぐ見据えるのだった。
水蜜桃の森は、静かに蝕まれ始めていた。
淡桃色だった花弁は色褪せ、枝先の果実もどこか艶を失っている。森を吹き抜ける風には、もう先ほどまでのような甘やかな香りだけではなく、鉄錆にも似た異臭が混ざり始めていた。
「森が……」
クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は、胸の奥が締め付けられるような思いで周囲を見渡した。
エレメンタルオーブ。
自然の魔力を吸い上げる竜漿兵器。
それが本格的に稼働すれば、この美しい森は本当に枯れ果ててしまうのかもしれない。
――こんなに綺麗な場所なのに。
早く止めないといけない。クラウスが唇を引き結んだ、その時だった。
『|姿を変える魔法《フェアヴァンデル》』
ふわり、と黒い霧が広がる。
隣にいたシスティア・エレノイア(幻月・h10223)の姿が、ゆっくりと変化していった。
漆黒の毛並み。月光を思わせる銀の瞳。しなやかな四肢を持つ巨大な|月狼《マーナガルム》。
(始まったみたいだね……乗って)
頭の奥へ直接響くような念話に、クラウスは小さく頷いた。
「うん 急ごう、ティア!」
月狼の背へ飛び乗る。
次の瞬間、システィアは風を裂くように森を駆け出した。
速い。
しなやかな毛並みが桃園の風を切る。まるで木々が月狼へ敬意を払って身を引いているのではないかと思うほどだ。
けれど不思議と恐怖はなかった。揺れを最小限に抑える走り方も、周囲へ気を配る気配も、全てがクラウスを安心させてくれる。
システィアは周囲の魔力を探っていた。
細躯のクラウス一人なら乗せて走るくらい造作もない。食べた水蜜桃と同じ、生命力に満ちた魔力。その流れを逆流するように辿れば、異物の位置が見えてくる。
同時に、獣の気配や金属音も拾い上げていく。
先遣隊とはいえ、敵の数は少なくない。
だからこそ、今は隠密を優先する。
(クラウス)
「なに?」
(魔力の気配はわかる?)
「似た魔力はぼんやりとわかる気はするけど……」
正直なところ、まだはっきりとは感じられない。
「俺もいつかはティアみたいに立派な魔法使いになれるのかな……」
ぽつりと零れた言葉に、月狼は小さく喉を鳴らす。
魔法使いになりたい。自分のように。
彼の言葉を、システィアは胸の中でそっと反芻した。
(なれるよ)
その返答が嬉しくて、クラウスは少しだけ笑った。
やがてシスティアが足を止める。
森の奥。崩れかけた岩壁。その先に、地下へ続く坑道が口を開けていた。
(ここから先だな)
クラウスは頷き、静かに月狼の背から降りた。
身軽なシスティアは気配を殺しながら周囲を巡る。クラウスなら、多少の危険には対応できる。
だからと言って、彼を危険へ飛び込ませたくはなかった。
黒い霧と共に姿を薄め、坑道内部を滑るように進んでいく。
そして。
脈打つような異様な魔力反応――エレメンタルオーブ。
周囲の地形と敵配置を把握した後、システィアは再びクラウスの元へ戻った。
(位置はわかった。切り込める)
「ありがとう」
クラウスは静かに息を吐く。腰の刀へ手を添えた。
雑念を沈める。
守りたい景色だけを胸へ残し、極限まで意識を研ぎ澄ませた。
|月下氷雪《ゲッカヒョウセツ》――。
淡い魔力が刃の形を成し、冷たい光が静かに揺らめく。
「行こう、ティア」
(ああ)
次の瞬間。
月狼が駆ける。
その後ろを、クラウスの一閃が鋭く追い抜いていった。
●
理央は息を呑む。
胸の奥が熱い。
怖い。けれど、それ以上に。
――この楽園を壊されたくない。
その想いが、小さな身体を突き動かしていた。
「行きますっ!」
理央の声と共に、輪廻の炎が弾けた。
紅蓮の熱が坑道を駆け抜け、暗闇を灼きながら一直線にオーブへ奔る。
隣では、クラウスが静かに刀へ手を添える。
雑念を削ぎ落とした横顔は、凪いだ水面のように静かだった。
炎と氷雪。
対照的な二人の力が、今はただ一つの標的へ向けられている。
「――斬る!」
同時に、クラウスの姿が掻き消えた。
極限まで研ぎ澄まされた集中力。白銀の軌跡だけを残し、一閃が空間そのものを裂くように走る。
灼熱。
氷光。
相反する二つの力が、寸分違わずエレメンタルオーブへ叩き込まれた。
びき――。
細い亀裂が走る。
次の瞬間、轟音と共に宝珠が砕け散った。
桃色の光が爆ぜる。
閃光が坑道を白く染め上げた。
黒く濁った竜漿が奔流となって噴き出し、坑道全体を呑み込まんばかりに荒れ狂った。
モンスター達が歓喜の咆哮を上げる。
溢れた魔力を取り込もうと、一斉に手を伸ばすのだ。
――だが。
「おっと、そいつァ渡せねェな」
低く愉しげな声が、闇の奥から響いた。
巨大な影が、坑道を滑るように現れる。
闇色の巨躯。
底知れぬ魔力を纏った|闇蜥蜴《ウィズ・ザー》。
その眼窩なき貌が、溢れ出した魔力奔流を見据える。
ごう、と空気が唸った。
桃色の奔流が、黒い渦へ呑み込まれていく。
本来ならモンスター軍団へ流れ込むはずだった膨大な魔力が、強引に喰らい尽くされていった。
同時に。
坑道の奥深くから、微かな震動が返ってくる。
脈打つように。
呼吸を取り戻すように。
吸い上げられていた地脈が、再び森へ魔力を巡らせ始めたのだ。
黒ずんでいた樹皮へ、ゆっくりと色が戻っていく。
萎れていた桃花がふわりと咲き直し、甘やかな香りがゆっくりと坑道へ流れ込んできた。
ウィズは満足げに喉を鳴らす。
「……やっぱ美味ェなァ」
第3章 ボス戦 『竜漿狩り『ブラン・アリア・カーミラ』』
●
砕け散ったエレメンタルオーブの残骸が、なお赤黒く燻っていた。
失われるはずだった森の魔力は桃園へ還り、萎れていた花々も再び息を吹き返し始めている。
――だが。
その光景を、紅い瞳が不機嫌そうに見下ろしていた。
「……ふぅん?」
希望の風を裂くように、漆黒の翼が広がる。
現れたのは、一人の少女だった。
白磁のように白い肌。絹の如く輝く金髪。年端もいかぬ容貌に似合わぬほど巨大な大鎌を肩へ担ぎ、少女は空中で退屈そうに脚を組む。
竜漿狩り『ブラン・アリア・カーミラ』。
倒した者達の血から竜漿を奪い、力へ変え続ける簒奪者。
「せっかく集めた竜漿だったのに。台無しじゃない」
拗ねた子供のような口調だった。
けれど、その声を聞いた瞬間だった。
胸の鼓動が、不自然に早まる。
視線を逸らせない。
甘く澄んだ声音が、耳から直接脳へ染み込んでくるようだった。
「貴方達、結構強いのね?」
カーミラはくすりと笑う。
その笑みは無邪気で、残酷だった。ふわり、と少女の身体が地面へ降り立つ。
黒い翼が揺れ、大鎌の刃がギラリと鈍く反射した。
「いいわ。気に入った」
ぞわり、と濃密な竜漿の気配が溢れ出す。
空気が重い。
甘い香りの奥に、鉄錆にも似た血の匂いが混ざっている。
カーミラは能力者達を見渡し、獲物を選ぶ肉食獣のように唇を吊り上げた。
「さあ――誰から遊んでくれるの?」