ララ・ラブゾンビ・ラブシック
#√ドラゴンファンタジー
#√EDEN
#ゾンビ
#ラフェンドラ・オピオイド
#途中参加歓迎
#特定章のみ参加歓迎
#サポート後のメイン参加歓迎
#資料にした怪人48号の設定・関連ノベル恋眞の日記にて紹介中
灰色の髪から滴った血が、石畳に黒い点を残していく。
ハイネは剣を杖代わりに、崩れかけた回廊を進んでいた。肩口の肉は抉れ、脇腹には獣の爪痕が深く刻まれている。息を吸うたび胸の奥が焼け、視界の端には赤黒い靄がまとわりついた。
「マリナ……」
声は掠れ、喉の奥で獣の唸りに変わりかけていた。
ハイネは歯を食いしばる。
彼女の名だけは、まだ人間の声で呼びたいから。
ハイネとマリナは冒険者だった。
同じダンジョンに潜り、同じ食卓を囲み、同じ未来を語り合った恋人同士だ。
ハイネはいつも大きな夢を口にした。いつか巨大な未踏破のダンジョンを攻略し、歴史に名を刻む冒険者になるのだと。
ファミレスの片隅でそう語る彼を、マリナは呆れたように笑いながらも決して否定しなかった。
彼女は補助魔法を得意としており、傷を塞ぎ、後方から戦いを支えてくれる。
前に立つのはハイネで、彼の背中を押すのがマリナだった。
「あなたが有名になったら、私は陰の功労者ね」
「何言ってる。二人で名前を残すんだ」
そう言うと、マリナは少し照れたように金色の長い髪を指先で梳いた。
その仕草を、ハイネは何度も思い出していた。
今も。死と腐敗に沈んだこの迷宮の中で。
●
悲劇の始まりは、足を踏み入れたダンジョンがすでに死者の瘴気に沈んでいたこと。
腐敗したモンスターは痛みを知らず、倒しても倒しても這い寄ってくる。
二人は安全地帯を探して走った。だが、曲がり角の先で待っていたのは救いではなかった。
「ダンジョンで恋人連れか。目障りなんだよ、そういうの」
二つ目の悲劇は、冒険者狩りの簒奪者との遭遇。
その男は悪意に満ちた目を向けながら、ハイネたちの退路を塞いだ。
ハイネはマリナの手を離した。
本当は離したくなどない。けれど、彼女の指先を握ったままでは、二人とも終わると直感的に理解してしまった。
「マリナ、逃げろ」
「そんな、ハイネは?」
「約束の場所で落ち合う。だから行け」
「嫌よ。一緒に――」
「早く!」
ハイネの怒鳴り声に、マリナの肩が震える。
彼女は泣きそうな顔で頷き、奥の通路へ走っていった。
その背中を見届けて、ハイネは剣を構える。勝てるとは思っていない。
それでも、時間を稼ぐことならできる。
彼は全力で斬りかかった。
結果は、残酷なほど一方的だった。
簒奪者の刃が鎧を裂き、拳が骨を砕き、靴底が床へ顔を押しつける。何度立ち上がっても叩き伏せられ、やがてハイネの身体は動かなくなった。
簒奪者は飽きたように去っていく。
あとには、血溜まりに沈むハイネだけが残された。
マリナは逃げられただろう。
けれど、一人で外へ出るのはきっと難しい。
彼女の力は仲間への支援に特化している。汚染されたダンジョンを単独で突破するには、あまりにも不向きだ。
ハイネは震える指を床に立てた。
立てない。
息が続かない。
このままでは死ぬ。
「マリナ……せめて、君だけでも……」
その時、通路の闇からゾンビ化した魔物が這い寄ってきた。
腐臭を漂わせながら牙を剥く。
ハイネは逃げようと思わなかった。むしろ、自分から腕を差し出した。
(噛め)
牙が肉に沈み、鋭い痛みが走る。
血管の中を黒い何かが駆け巡り、心臓を無理やり叩き起こす。
まだ死ねない。やるべきことが残っているから。
ハイネは立ち上がった。
視界は霞み、音は遠い。だが、頭の奥にはまだマリナの姿があった。
風に揺れる金色の髪。
困ったように笑う唇。
自分を信じてくれた瞳。
「待ってろ……今、行く……」
彼は立ち上がった。
傷は塞がらない。痛みも消えない。
ただ、死に損なうための力だけが、腐った血管を伝って全身に広がっていく。
その身は生者でも死者でもない。完全に変わりきる前の、わずかな猶予。
それが、彼に残された最後の時間だった。
だが、ダンジョンの魔物たちは彼を同類とは認めなかった。
骸骨じみた狼が喉元を狙い、腐った翼を持つ蛇が天井から襲いかかる。ハイネは噛みつかれ、裂かれ、叩きつけられながらも進んだ。
傷付いていく身体は死に向かっているはずなのに、苦痛は少ない。
痛みが薄れるほど、人間としての感覚も削れていく。
代わりに、喉の渇きが増していった。血の匂いが甘く感じる。生きた肉の温度を想像してしまう。
「違う……違う、俺は……」
彼女を助ける。外へと連れていく。
それだけを杭のように胸へ打ち込み、ハイネはひたすらに前へ進んだ。
やがて、崩れた礼拝堂の奥に柔らかな光が見えた。
マリナが張った防御結界だ。薄い膜の内側で、彼女は膝を抱えていた。金の髪は汚れ、頬には涙の跡がある。
「……ハイネ?」
彼女が顔を上げる。
涙で濡れた瞳に、光が戻った。
「ハイネなのね……!」
彼女は結界を解いた。
立ち上がり、よろめきながら彼へ駆け寄る。
「え……?」
次の瞬間、ハイネの牙は、愛する者の白い肩へ深く沈んでいた。
●
水瀬・恋眞は、降りてきた未来を何度も反芻してから、集まった√能力者たちへ顔を向けた。
その表情には、予知を語る者特有の静けさと、隠しきれない痛みがあった。
「お願いしたいのは、ゾンビ化に汚染されたダンジョンから、マリナさんという冒険者を救い出すことだよ」
そこは√ドラゴンファンタジーのダンジョンだった。すでに内部はゾンビ化に汚染され尽くし、通常の冒険者が一人で脱出するのは難しい。
「彼女の居場所は、恋人のハイネさんが知ってる。ハイネさんの位置は、ボクにも視えてる。けど……」
恋眞は唇を引き結び、短く息を吸った。
「ハイネさんは、もうゾンビ化が始まってる」
今から向かっても、彼の汚染を完全に止めることはできないだろう。√能力であっても、死に傾いた肉体と魂を元へ戻すには遅すぎる。
「それでも、まだ自分を保ってる。マリナさんを助けるために、必死なんだ。でも、完全なゾンビじゃないから、周りのモンスターには敵として襲われ続けてる」
助けるべきはマリナだけではない。
ハイネをマリナの元へ辿り着かせることが、彼女を救う最短の道になる。
「まずはハイネさんを見つけて。襲ってくるモンスターを退けながら、彼に事情を伝えて、協力してもらってほしい」
ただし、彼はもはやまともな状態ではない。
簒奪者に痛めつけられ、ゾンビ化によって知性も揺らいでいる。
近づく者を新たな敵と誤認し、逃げるか、剣を向けてくる可能性が高い。
「戦うだけじゃ駄目かもしれない。声をかけて、安心させてあげて」
そのための技能や√能力は、有効な手段となりえるだろう。
恋眞はそこで、少しだけ目を伏せた。
「それと……これは予知じゃないんだけど。できれば最後の時間まで、二人を一緒にいさせてあげてほしい」
マリナと会えれば、ハイネ自身が悟るはずだ。
自分の限界を。
自分が何をしてはいけないのかを。
そして最後に、何をすべきなのかを。
「悲しい結末を、全部変えられるわけじゃないかもしれない。でも、マリナさんは救える。ハイネさんだって……」
恋眞は√能力者たちを見渡し、深く頭を下げた。
「どうか、二人のところへ行ってあげて。ハイネさんが、本当に守りたかったものを守れるように」
第1章 冒険 『ダンジョン救助隊』
進まなければ。
急がなければ。
ハイネは、暗いダンジョンの通路を進んでいた。
足は重く、身体は傷だらけだった。
裂けた服の隙間から覗く肌には、赤黒い傷跡と、ゾンビ化の兆しである濁った変色が浮かんでいる。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
残された時間がどれくらいあるのかはわからない。
あと少しなのか。
まだ間に合うのか。
それを確かめる術はなかった。
ただ、長くはない。
それだけは、はっきりとわかっていた。
呼吸をするたびに、胸の奥が冷たく軋む。
痛みはある。けれど、その痛みすら少しずつ遠ざかっているように感じられた。
痛みが薄れることが、救いではない。
自分が自分でなくなっていく証なのだと、ハイネは理解していた。
まだ自分が自分であるうちに。
マリナの笑顔が鮮明に思い出せる間に。
彼女の顔を思い浮かべる。
美しい金色の髪。
柔らかく細められる瞳。
呆れたようで、それでも優しい笑み。
その記憶がある限り、ハイネはまだ歩けた。
それを失った時こそ、本当に終わりなのだろう。
「……マリナ」
掠れた声が、闇の中へ落ちていく。
返事はなかった。
代わりに、前方から湿った足音が聞こえた。
ハイネは顔を上げる。
暗い通路の先で、幾つもの影が揺れていた。
魔物の群れだった。
いずれも腐臭を漂わせる、歩く屍。
肉は崩れ、目は濁り、開いた口からは意味のない呻きだけが漏れている。
ハイネは息を呑む。
あれが、自分の行き着く先なのかもしれない。
いずれ、考えることもできなくなる。
彼女の名も、声も、笑顔も、何もかも失って、ただ歩くだけの屍になる。
そうなる前に。
そうなってしまう前に。
彼は進まなければならなかった。
だが、思いとは裏腹に、魔物たちは通路を塞いでいた。
狭い道の先は、腐った影に埋め尽くされている。
その向こうに何があるのかは見えない。
ただ闇だけが続いているようだった。
ハイネは剣を握る。
指先にうまく力が入らない。
それでも、進むためにはこの群れを越えなければならない。
魔物たちが、ゆっくりとこちらへ向きを変えた。
濁った視線がハイネを捉える。
腐臭が濃くなる。
呻き声が重なり、通路の闇を満たしていく。
ハイネは一歩を踏み出した。
身体が軋む。
足元がふらつく。
先の見えない闇のような道のりだった。
どこまで続くのかもわからない。
辿り着ける保証もない。
けれど、立ち止まればすべてが終わる。
だからハイネは、魔物の群れを前にしても足を止めなかった。
まだ彼女の笑顔が胸の内で輝いているから。
その√は、沈黙だけで形を保っていた。
鳥の声はない。
誰かが朝を迎え、誰かが夜を惜しむ気配すら、とうに消えている。
そこは滅びを終えた世界だった。
季節は巡らず、文明は先へ進まず、歴史という川は干上がった河床だけを晒している。
大地に並ぶのは、無記の墓石ばかりだった。
刻まれるべき名も、花を手向ける手も、祈りの言葉もない。ただ、死が死として置かれている。
その世界で唯一、足音を響かせる男がいた。
リオル・グラーヴェルター(|葬竜《ドラゴンゾンビ》・h01271)。
色黒の肌に赤い瞳を持つ、黒髪の男である。
彼は漆黒の外套を纏っていた。それは既に滅んだ竜の皮革で仕立てられたもので、光を吸うように重い黒を宿している。
鼻梁には伊達眼鏡。
視力を補うためではない。おそらく、世界との間に一枚だけ薄い境界を置くためのものだった。
彼の後ろには、白骨の竜が揺れていた。
肉体を失った竜が、最後に捨てきれなかった執着。
それはインビジブルとして、リオルの傍らに居続けている。
守護霊と呼ぶには静かすぎる。
呪いと呼ぶには、あまりに従順だった。
リオルに信仰はない。
神を呼ぶ声は、彼の内側から欠け落ちている。
それでも彼は、墓を作る。
誰にも名を呼ばれぬものへ、終わったという形を与えるために。
「終幕を迎えたものが、舞台を降りないとはね」
今のリオルが立っているのは、彼自身の世界ではない。
そこはゾンビ化に侵されたダンジョンだった。
壁には粘ついた瘴気が染み込み、床の隙間からは腐臭が這い上がる。
死は十分に満ちているのに、死んだはずのものがなお動き、喉の奥で濁った声を鳴らしていた。
リオルは横目で、白骨竜のインビジブルを見た。
竜は何も語らない。
ただ、空虚な眼窩を闇へ向けている。
「葬儀屋の立場から言えば、少々行儀が悪いかな」
前方にいるゾンビ化モンスターたちへ向けられた言葉は、明確な拒絶でもあった。
彼がここへ来た理由は、屍を砕くためだけではない。
優先すべきものは、まだ温かい命。
仮にその命が、今まさに冷たい終着へ向かっているとしても、救えるものから救わねばならない。
通路の奥に、ひとりの男がいた。
灰色の髪を血と埃で汚し、崩れ落ちそうな身体で歩き続けている。
(あれがハイネさんだね。なんとも脆く、危うい……)
足取りは不安定で、傷口の周囲には死の気配が滲んでいた。
それでも彼は、何かひとつを支えにゾンビ化したモンスターたちと戦闘を繰り広げている。
その中の一匹である腐った肌を持つゴブリンが、途中でリオルの存在に気づく。濁った眼がぎょろりと動き、獲物を変えた。
裂けた口が開く。
牙には、血と泥がこびりついていた。
子鬼が跳んだ。
リオルは避けない。
するりと右拳を前へ出す。
その手は、もはや人の拳だけではなかった。
竜の爪が亡霊に蝕まれ、異形の武装として手甲のように宿っている。骨の硬さと呪怨を併せ持つそれが、飛び込んできたゴブリンの口へ深く突き刺さった。
牙が砕け、頬が裂けて拳がめり込む。
リオルは踏み込み、腕を下へ振り落とした。
小鬼の頭が石床へ叩きつけられる。
鈍い音が鳴り、腐った頭蓋が割れた。
動かぬ肉塊へ戻ったそれを、リオルは一瞥もしない。
破砕音に反応して、群れが向きを変えた。
ハイネへ伸びていた死の腕が、一斉にリオルを探る。
腐った狼。
骨が露出した人型。
膨れ上がった肉塊のようなもの。
それらが暗い通路を詰まらせるように迫ってくる。
リオルは片手で、魂葬の方尖柱を握った。
墓標めいた長大な武器。
それは死者の上に立てるものに似ているが、今は死を鎮める杭として振るわれる。
獣型の屍が駆け抜けてくる。
リオルは方尖柱の切先を斜めに入れ、その胸を貫く。勢いのまま壁へ押しつけると、腐った肋骨が内側で砕けた。
その影から、腕の長い人型が潜り込んでくる。
リオルの左拳が短く動いた。
胸郭が陥没し、背中から濁った瘴気が噴き出す。
派手さはない。
叫びもない。
ただ淡々と、確実に敵性の肉体を破壊していく。
「最近の葬儀屋さんは、かなり直接的にお仕事をするのですね」
少し離れた場所で、リズ・ダブルエックス(ReFake・h00646)が感心したように言った。
リオルの黒とは対照的に、彼女は白と青の輝きを纏っていた。
色白の肌は陶器めいて滑らかで、ダンジョンに満ちる腐敗の色にまるで染まらない。
青い瞳は澄んだ宝石のように冷たく、けれど好奇心を宿した光だけは年相応に揺れている。
少女の細い身体を包む装甲は、機械的でありながら洗練されていた。白銀の胸甲や腰部装甲には水色の発光ラインが走り、腹部にはしなやかな肌の線を思わせる空白がある。
脚部を覆う鋭角的なアーマーは、足先へ向かうほど流線形に整えられ、まるで氷で作られた舞踏靴のようだった。
無機質な武装であるはずなのに、その姿はどこか幻想的ですらある。
戦闘機械の冷徹さと、雪の精霊めいた清廉さが同居していた。
彼女は葬儀屋という職業を知らないわけではない。
知識としてならある。
死者を弔う者。
遺体を扱う者。
別れに形を与える者。
だが、知識はあくまで知識だ。
リズはベルセルクマシンに別人格を与えられ、その残滓から今の自分を組み上げた存在である。
だからこそ、彼女は世界を体験で確かめようとする。
誰かが言った正解より、自分の中に積もる実感を信じたい。
葬儀屋が動く死体を前にした時、どう振る舞うのか。
その観察は、彼女にとって興味深い学習だった。
「つまり、一緒に彼らを倒す行為は、葬儀屋体験になりませんか?」
「いや、これは埋葬業務ではないからね?」
「違いましたか……」
リズはわずかに肩を下げた。
その動きに合わせて、背後の青い結晶翼がかすかに傾く。
彼女の人格形成は、今も絶賛進行中なのだ。
たとえば、ひとりで居酒屋へ入り、外見上の年齢を忘れて妙な高揚感のままビールを頼みかけたことがある。
カップル向けの店で偽装カップルを演じながら、ハート型ストローつきの飲み物を相手の分まで飲み干したこともある。
またある時は、満員電車で年頃の男性と密着しつつ、頭の中では直前に食べた食事のことを反芻していた。
リズちゃんの心は、日々元気いっぱいに、主に美味しいものへ寄り道しながら育っているのだ。
今日も弁当は持ってきている。
もっとも、今は食事の時間ではない。
彼女の青い瞳が、ハイネの方へ向く。
青年は、今にも崩れそうだった。それでも前へ行こうとしている。
ならば、自分たちが開くべき道は決まっている。
「では、これはゾンビモンスター討伐体験とします」
「うん。その理解なら問題ないね」
リズは前へ出た。
彼女は少女人形であり、ベルセルクマシンである。
戦うために作られた機能は、確かに彼女の中へ刻まれている。
「レイン精霊による光雷の結晶化。存在し得ぬ筈の物質が今此処に在ります!」
鳥を象った青白い光の精霊が飛び回る。
同時に光と雷が粒子となって空間に留まる。
本来なら形を持たないはずの輝きが、結晶の輪郭を得て槍となった。
それは理の外側から差し込まれた答えのように、美しく澄んでいる。
リズが腕を振る。
白い手甲の先で光が弾け、結晶槍が放たれた。
一体目のゾンビ化モンスターが胸を貫かれ、後ろの壁へ縫い止められる。
続けて二本。
さらに三本。
青白い軌跡が暗い通路を切り裂き、ハイネへ伸びかけていた腐った腕を次々に撃ち砕いた。
リオルはその隙間を歩く。
方尖柱が肉塊を貫き、異形の拳が近づく屍を粉砕する。
リズの槍は遠くを封じ、リオルの墓標と拳は近くを終わらせる。
動く死は、二人の前で静寂の死へと戻されていった。
「ひとまず、動く死体は眠ったようだね。次は彼だけれど……」
リオルは方尖柱の切先を下げ、通路の奥へ視線を向けた。
腐臭の群れが崩れた先に、ハイネが立っている。
灰色の髪は血と埃で固まり、肩で息をするたびに傷口が痛々しく震えていた。
だが、それ以上にリオルの目を引いたのは、彼の瞳だった。
こちらを見ている。だが、その焦点はわずかにずれて、どこか虚ろだ。
「お……お前たち、も……俺を……!」
ハイネの声は掠れていた。
人の言葉として辛うじて形を保っているが、どこか濁った音が混じっている。
リズは一歩だけ前に出た。
銀髪が肩口でふわりと揺れる。彼女の瞳には、敵意も畏怖もなかった。
ただ真っ直ぐに、傷ついた青年を見つめている。
「ハイネさん。私たちは、貴方を助けに来ました」
その声は丁寧で、ひどく真面目だった。
しかし、ハイネの表情は緩まない。むしろ、濁った瞳の奥に怯えと怒りが強く滲んだ。
「そんな……そんな都合のいい話が、あるかよ!」
「実際に、今ここで起きているのだがね」
リオルは穏やかに言ったが、ハイネには届いていないようだった。
無理もない。彼はすでに冒険者狩りに襲われている。
その悪意が現状を招いたのだから、差し伸べられた手すら刃に見えるだろう。
加えて、ゾンビ化が彼の思考を削っている。
疑念は膨らみ、恐怖は怒りへ変わり、言葉を受け取る余裕が失われている。
リオルは目を細めた。
下手な説得は、傷口に塩を刷り込むだけかもしれない。
信じてほしい。敵ではない。
そのような言葉ほど、今の彼には薄っぺらい戯言になってしまう。
「わかりました……」
リズが静かに頷いた。
何か考えがあるのだろうかと、リオルは彼女へ横目を向ける。
リズは胸元に手を当て、極めて真剣な顔で言った。
「では、一緒にお弁当を食べましょう!」
「んんぅ……?」
ハイネが困惑した。
リオルもまた、思わずガッツリと彼女の方を見た。
なぜ今それが出てくるのか。
そう問いかける視線を向けたつもりだったが、リズの表情は揺らがない。
小柄な少女の姿には、戦闘機械としての鋭さと、どこかずれた優しさが同居していた。
|少女人形《レプリノイド》である彼女にとって、人を救うことは自然な行為だ。
リズという人格は、そのために存在し、今も形を整えている。
√ウォーゾーンという戦闘機械群に踏み荒らされ、人類が追い詰められた世界。
その出身である彼女にとって、誰かを守るために身を投げ出すことは、己の存在意義に近い。
だが、ハイネは違う。彼は普通の人間だ。
それでも、自分を犠牲にして大切な人を逃がした。
さらに今は、ゾンビ化という破滅を受け入れてまで、その人のもとへ進もうとしている。
リズは、本当の自分を掴もうと生きている。
ハイネは、本当の自分を失いながら進んでいる。
誰かを守ろうとする点は同じでも、その在り方はまるで反対だった。
どうして、そこまでできるのか。
リズはその自己犠牲を知りたかった。
知識の記録ではなく、本人の声として聞いてみたかった。
けれど今、ハイネ自身が削れて消えかけている。
ならば必要なのは活力だと、リズは考えた。
人が生きるために得るもの。
日々を繋ぐもの。
心を少しだけ明るくするもの。
つまり、食事である。
「私のお弁当を分けます。まずは美味しいものを食べて、心を強くするのです!」
リズは力強く言い切った。
両手を胸部装甲に添える姿は、まるで決戦兵器を起動するかのように真剣だった。
ハイネは明らかに戸惑っている。
怒りの形に固まっていた表情に人間味が生じて、わずかに崩れた。
敵意はない。
悪意も感じない。
だが、意図がまったく読めない。
この白と青の少女は、本当に自分を助けようとしているのか。
それとも、ゾンビ化で頭が鈍った自分が理解できていないだけなのか。
「う……うぅ……」
ハイネは頭を押さえた。
黒ずんだ指先が髪を掴み、呼吸が乱れる。
リオルは慎重に声をかけた。
「ハイネさん。焦る気持ちはわかるよ。だが一度だけ、私たちの話を聞いてはくれないかな?」
柔らかな声だった。
押しつけず、追い詰めず、逃げ道を残すような言い方だった。
しかし、ハイネの限界は近すぎた。
「うう……ううううぅ……!」
喉の奥から唸りが漏れ、彼は顔を歪めて叫んだ。
「うわあああああああ!」
ハイネは身を翻し、暗い通路へ駆け出した。
足取りはよろめいていたが、ゾンビ化しつつある身体は人体の限界を越えて、驚くほど速い。
リズは一歩遅れて手を伸ばし、そのまま空を掴んだ。
「私……失敗してしまいましたか……」
青い瞳が少し沈む。
背後の結晶翼も、しゅんとしたように角度を下げた。
「いや。案外、いい線をいっていたと思うがね」
リオルはハイネが消えた闇を見つめながら答えた。
少なくとも、彼は一度迷った。
疑心暗鬼で固まった心に、不可解な善意が小さな隙間を作ったのだ。
それでも逃げたのは、彼の弱さだけではない。
傷つけられ、死へ引きずられる中で、彼の心がそこまで追い詰められているという証だった。
「追いかけましょう。ハイネさんは、ひとりでは危険です」
「もちろんだとも」
二人が動き出そうとした時、通路の奥から呻き声が重なった。
ハイネの叫びに引き寄せられたのだろう。
別のゾンビ化モンスターたちが、横穴や崩れた扉の奥から這い出してくる。
腐った腕が床を掻き、濁った眼が光を探す。
狭い通路は、再び死者の群れで埋まり始めていた。
「これを片づけないと追えないか」
リオルは小さく息を吐いた。
ハイネの姿はすでに見えない。
だが、闇に紛れた彼を見失うわけにはいかない。
「ならば……お前たち。お友達を探して来ておくれ」
リオルの外套の影から、小さな骨の竜たちが現れた。
指先ほどの頭蓋。
細い肋骨。
針金のような尾。
それらは玩具のように小さく、しかしインビジブルの気配を帯びて不思議な滑らかさで動いた。
微小な骨竜たちは、リオルの足元から走り出す。
ゾンビ化モンスターの足の間をするりと抜け、崩れた石材の隙間を潜り、ハイネが逃げた方角へ消えていった。
腐った屍たちは、その小さな追跡者に反応できない。
「追跡は任せて、私たちは邪魔者の相手といこうじゃないか」
「わかりました!」
リズの表情が引き締まる。
落ち込んでいた光は消え、その瞳に再び戦闘機械としての集中が宿った。
リオルもまた、魂葬の方尖柱を構え直した。
白骨竜のインビジブルが、彼の背後で静かに身をもたげる。
リオルは思う。
ハイネにまだ人の心が残っているなら、葬儀には早い。
いつか最期が訪れるとしても、それは彼が自分の人生を使い切った後であるべきだ。
誰かを守ろうとする願いを抱いたままなら、彼はまだ埋葬されるべき死者ではない。
「さて。道を塞ぐなら、少し静かにしてもらうよ」
ゾンビ化モンスターたちが襲いかかる。
リオルの方尖柱が先頭の屍を貫き、リズの周囲で光雷の結晶が再び形を取った。
逃げた青年を追うために。
彼が本当に守りたいものへ届く時間を、少しでも繋ぐために。
二人は、押し寄せる死者の群れへ向かって踏み出した。
逃げ込んだ先のフロアでも、ハイネには息を整える程の安息すら許されなかった。
そこは崩れた円形の広間だった。天井は高く、かつては荘厳な装飾が施されていたのだろう壁面には、今や黒ずんだ血が染み込み、ひび割れの奥から腐った息のような風が漏れている。
床に敷かれた石板は何枚も砕け、濁った体液と乾きかけた血が混じり合い、足を踏み出すたびに不快な粘りを返した。
その中心で、ハイネは囲まれていた。
腐肉をぶら下げた獣。
片腕を失った小鬼。
腐臭を放つ不定形な泥のごとき塊。
いずれも既に命の形を捨てたはずのものたちが、呻きながら彼へにじり寄ってくる。
「どけ……どけって……!」
ハイネは剣を振るった。
だが、その動きには冒険者としての冴えがなかった。
刃は敵を斬るためではなく、ただ近づくものを遠ざけるために乱暴に振り回されているだけ。
踏み込みは雑で、振り終えた身体は支えを失ったように揺れる。
鍛えたはずの足運びも、今は傷の痛みと焦燥に引きずられ、泥の中をもがくように重かった。
全身が壊れかけている。
肩には深い噛み痕が残り、腕には爪で裂かれた赤い線が幾重にも走っていた。
脇腹の傷からは布越しに血が滲み、灰色の髪は汗と埃に絡まって頬へ張りついている。
それに、彼は自分がどれほど大きな足音で駆け、大きな叫びで死者を呼び寄せたのか、もう考えることができなかった。
急がなければならない。
立ち止まってはいけない。
まだ自分の輪郭が、自分の内側に残っているうちに。
その思いだけが、警鐘のように胸の奥で鳴り続けていた。
不意に、広間の空気が沈んだ。
低い音が響く。
それは耳へ届く音でありながら、骨や腹の底を直接震わせるような重さを持っていた。
広間に満ちていた呻き声が鈍り、ゾンビ化モンスターたちの濁った視線が、音の出所を探して彷徨う。
ハイネもまた顔を上げた。
霞む視界の向こうに、異形なる者、和紋・蜚廉(現世の遺骸・h07277)が立っている。
焦茶色の肌を持つその肉体は、黒く艶めく外殻に覆われていた。
甲虫を思わせる硬質な装甲は分厚く、肩から腕へかけて盛り上がる輪郭には、獣とも人とも異なる力強さがある。
巨大な脚は割れた石床を踏み締め、鉤爪を備えた腕は武人が槍を構える前のように静かで、それでいて今にも空気を裂く緊張を宿していた。
開かれた胸部の奥で、翅音板が震えていた。
黒の内側に覗くぬらりとした緑がかった器官は、ただ鳴るのではなく、周囲の意識そのものを引き寄せるように重低の響きを放っている。
生者であるハイネだけではない。理性をなくした屍の群れすら、その音に縛られるように蜚廉へ向きを変えていった。
「迫る屍の群れは我が惹きつけよう」
蜚廉の声は、音板の震えと混じり合って、共に駆けつけた仲間たちへと伝わった。
深く、誇りを含んだ声音だ。
外見は異形でありながら、その立ち姿には揺るがない品格があった。
「戻る形は絶えぬまま、沈まぬ意はここに在り」
その言葉と共に、蜚廉の肉体が変じていく。
|還命躯《ヨミノカラダ》。死に沈まず、傷に倒れず、なお生き足掻く意思を肉体へ刻みつける力だった。
外殻の継ぎ目から淡い光が脈打つ。
最初のゾンビ化モンスターが、音に導かれるように蜚廉へ飛びかかった。腐った爪が黒い肩を裂き、濁った体液が散る。だが、傷は次の息を待たずに盛り上がり、何事もなかったかのように塞がった。
蜚廉の拳が奔る。
硬い殻と筋肉に包まれたその一撃は、腐った獣の頭部を一撃の元に骨ごと砕いた。
続けて迫るゴブリンの胴へ横殴りの拳打が入り、軽い身体が折れた柱へ吹き飛ばされる。
「また……か」
ハイネは、掠れた声で呟いた。
知らない者が現れた。
追い詰められたのに、見知らぬ何者かが魔物を戦っている。
もし敵なら、今度こそ終わる。
この傷だらけの身体では抗えない。立っていることすら不自然な今の自分は、もはや人間よりも屍に近いものとして見えているはずだ。
そんな自分を守るために来たのだと、どうして信じられるだろう。
逃げなければ。
行かなければ。
(何で?)
辿り着くべき場所がある。
(どこに?)
まだ自分が自分であるうちに。
(ああ、お腹が空いたな)
違う。
違うはずだ。
■■たい人がいるから。
(それは誰だ?)
■■した■■■だ。
(あれ、■■はどうして■■に■■■だろう)
思考の中で、言葉が崩れていく。
金色の髪が浮かぶ。
優しい笑顔が見える。
だが、その名を掴もうとすると、黒い穴が開いて指先から抜け落ちた。
「く……ぞっ……!」
ハイネは頭を押さえた。
爪が髪を掻き、喉から漏れた声は、半分ほど人のものではなくなっている。
「あなたをマリナさんの元へ連れて行くために来たの!」
蜚廉の脇を抜けるように、小明見・結(もう一度その手を掴むまで・h00177)の声が、淀んだ広間をまっすぐに貫いた。
「マリナ……!」
その名だけは、ハイネの中に届いた。
虚ろに濁っていた瞳へ、わずかな光が戻る。霞んでいた焦点が揺れ、言葉の意味を追うように結の方へ向いた。
結はすぐに走り出した。
長い黒髪が背中で大きく流れ、青く澄んだ瞳は恐怖を押し込めるように強く見開かれている。
色白の頬には緊張で赤みが差し、紫の衣服と黒いワンピースの裾が、割れた石床を蹴るたびに揺れた。
細い手を胸元からハイネへ向けて前へ出す姿には、少女らしい可憐さと、決して引かない芯の強さが同居している。
近づく相手は、明らかに普通の負傷者ではない。
肌には濁った変色があり、呼吸には獣じみた音が混ざり、瞳の奥には飢えの影が沈んでいる。
けれど結は立ち止まらなかった。このタイミングを逃せば、ハイネの中に残った光はさらに遠ざかると直感的に理解したからだ。
結は伸ばした手に意識を集中して、忘れようとする力を発動させた。
それは、傷や異常を忘却へ沈める√能力だった。
生命であろうと無機物であろうと、その身に刻まれた損傷の記録へ働きかけ、なかったものとして薄れさせていく。
癒やしというには奇妙で、浄化というには静かな力が、結の指先からハイネの身体へ伝わっていった。
ゾンビ化まで消せるなら、それが一番いい。
消せなくても、進みを遅くできればいい。
それさえ叶わないなら、せめて今この身体を苛んでいる傷だけでも閉じたい。
(お願い。少しでも、届いて)
結は祈りに似た思いで力を流し続けた。
ハイネの腕に走っていた裂傷が、ゆっくりと寄り合っていく。肩の噛み痕から滲んでいた血が止まり、脇腹に残っていた深い傷も、時間を巻き戻すように薄れていった。
簒奪者に打ち据えられた痕も、モンスターに刻まれた爪痕も、見える範囲から次々と消えていく。
治療は成功している。
それは間違いなかった。
しかし、黒ずんだ変色は消えなかった。
濁った瞳も完全には澄まず、ハイネの体内に根を張ったゾンビ化の気配は、結の力に触れてもなおそこに残ったままだ。
傷という記録は忘れさせられても、彼の存在そのものが生ける屍へ傾いている事実までは、忘れさせることができなかった。
(やっぱり、ゾンビ化までは……)
結の胸が痛んだ。
傷が癒えれば体力は戻る。身体が少しでも本来の状態へ近づけば、破滅までの猶予もわずかに伸びるかもしれない。
だが、星詠みが伝えた通り、ハイネを元通りに戻すところまでは届かなかった。
(今のハイネさんをマリナさんに会わせるのは、もしかしたら残酷なことかもしれない)
その思いは、結自身の奥にある深い傷へ触れた。
数年前、結は幼馴染を神隠しで失っている。
その喪失が、彼女を√能力者へと目覚めさせた。
今も結はその人を探し続けている。同時に自分と同じように、大切な誰かを理不尽に奪われた人を救うため、いくつもの√世界を歩いている。
だからこそ考えてしまう。
もし探し続けた幼馴染と再会できたとして、その姿がもう手遅れなものへ変わっていたら、自分はどうなってしまうのだろう。
きっと酷く哀しむだろう。
受け止められないかもしれない。
やっと会えた喜びよりも、取り戻せない現実の重さに潰されてしまうことを否定できない。
それでも、結は知っている。
大切な人がどこにいるのか分からないまま、ただ待つしかない苦しみを。
生きていると信じたい心と、もう遅いのではないかという恐怖が、夜ごと胸の中でぶつかる痛みを。
答えのない不安は、時に残酷な真実よりも長く人を苛む。
マリナは今も約束の場所で待っている。
ハイネが来てくれるという、細く危うい奇跡に縋っている。
ならば結にできることは、二人が少しでも長く一緒にいられるよう、今この場で可能な限り彼を支えることだった。
治せないなら、せめて保たせる。
救い切れないなら、せめて届かせる。
それが自分の役割なのだと、結は決意を持って定めた。
「うううぅううう……」
ハイネの喉から漏れた声は、もはや痛みに耐える人間のものなのか、飢えに喘ぐ屍のものなのか判然としなかった。
結はその声を間近で聞きながら、彼の傷へ忘れようとする力を注ぎ続けている。
裂傷は塞がり、血は止まり、死の淵に立っていた肉体は戦える形を取り戻しかけていた。
それはハイネを救う光であると同時に、彼が暴れられるだけの力を戻してしまう危うさも孕んでいるのだ。
蜚廉は重低の翅音でゾンビ化モンスターたちを引きつけ、迫る死者の群れを拳で砕いていた。
焦茶色の肌を覆う黒い外殻には、幾筋もの爪痕が走っている。それでも還命躯《ヨミノカラダ》によって傷は塞がり、ゾンビ化の毒素と思わしきものを排出する。
彼の巨体は石床の上から一歩も退かなかった。
しかし、広間の闇はまだ死者を吐き出してくる。
音に惹かれた屍の多くは蜚廉へ殺到していたが、全てを一人で受け止めきれるわけではない。腐った獣が一体、倒れた柱の影を抜ける。
続いて片目の潰れたゴブリンが床を這い、治療に集中している結とハイネへ向かって距離を詰めた。
結は気づいていない。
ハイネの内側へ力を届かせることに、意識のほとんどを注いでいた。
彼女の瞳は真剣で、強い緊張が浮かんでいる。
「させないよ」
静かな声と同時に、黒い影が結の横を抜けた。
走り込んできたのはクラウス・イーザリーだった。
長い黒髪が動きに合わせて揺れ、中性的な顔立ちの奥で、青い瞳だけが鋭く状況を捉えている。
黒を基調とした衣服の裾を翻しながら、彼は短く息を吸った。
その刹那、高速の詠唱がほとんど旋律のように紡がれる。
炎が生まれた。
それは小さな火種から一気に広がり、迫るゾンビ化モンスターたちの足元を舐める。乾いた熱が広間の冷たい瘴気を押し返し、腐った肉と骨を赤々と照らした。
獣型の屍が炎に包まれて仰け反る。
ゴブリンは跳びかかる前に焼き払われ、歪んだ影を床へ落としながら崩れた。
炎は必要な範囲だけを的確に走り、結やハイネへ届くことなく周囲の敵を灰へ変えていく。
「あん、た……もか……」
ハイネがクラウスを睨んだ。
その瞳には、わずかに戻った理性と、それを塗り潰す疑念が同時に揺れていた。
「ああ、俺は敵じゃない。加勢するよ」
クラウスは穏やかに答える。
だが、それ以上の言葉は重ねない。
今のハイネには、説明よりも先に示すべきものがある。襲いかかる死者を焼き払い、結の治療を守り、蜚廉の引き受ける負担を減らす。
その行動こそが、今この場で最も確かな返答だった。
蜚廉の拳が、炎を逃れた屍を叩き潰す。
クラウスの魔法が、広間の隅に潜む魔物を焼き払う。
共に戦場を駆け抜けたことのある二人の技は噛み合っていた。
正面で受け止める蜚廉と、隙間を射抜くクラウス。ゾンビ化したダンジョンの魔物程度では、その連携を押し破ることはできない。
やがて、広間に満ちていた呻き声が途切れていく。
炎に焼かれた肉片が黒く崩れ、拳で粉砕された屍が床に転がる。
翅音板の重低音だけがしばらく残り、それも蜚廉が胸部を鎮めることで停止した。
周囲のモンスターは倒れた。
少なくとも、この広間でハイネを囲んでいた死者はもう動かない。
クラウスたちは、改めてハイネへ向き合った。
「俺たちは君の恋人を助けに来たんだ」
「………………」
ハイネは答えなかった。
治療によって傷が塞がった身体は、先ほどよりもしっかりと地に足を付けて立っている。だが、その姿はひと目見ただけで安心からは程遠いものだった。
灰色の髪の下で瞳が濁り、頬の筋肉が痙攣する。彼の中で何かが繋がり、何かが壊れていく気配があった。
ハイネの視線がクラウスへ向かう。そのまま彼は剣を振り抜いた。
クラウスへ向けられた斬撃は、技ではなかった。
けれど、速い。
人間としての加減を忘れた肉体が、ただ全力で刃を叩きつける。
クラウスが身を引いた直後、剣は背後の壁へ激突した。刀身が石壁に深くめり込み、罅が放射状に走る。
ゾンビ化の影響で、人の身体を守るはずの制限が外れているのだろう。それも身体の傷が癒えたことで、かえって肉体の力を十全に発揮できている。
筋肉も骨も壊れることを顧みず、ただ力だけを振るえば、常人ではあり得ない破壊が生じるのだ。
その代償を、ハイネ自身が理解している様子はなかった。
「…………うううぐぅっ!」
「っ!」
ハイネが呻く。
クラウスはその声に、反射的に構えを改めた。
攻撃を続けるのかと思ったのだ。
だが、ハイネは壁に食い込んだ剣を握ったまま、唇を震わせていた。
「なぜ、名前を知っている……俺たちが今日ここへ来ることは、誰も知らなかった……はず、だ……」
言葉は途切れがちだった。
それでも、疑念だけははっきりとしている。
ハイネの思考は、ひどく単純な結論へ向かっていた。
マリナの名を知るはずのない者たちが、彼女の存在を口にした。
ならば、その名を聞いた者がいる。
自分たちを襲った簒奪者が、マリナを逃がす際にその名前を聞いていたのではないか。
そこから情報が伝わったのではないか。
つまり目の前の者たちは、あの男と繋がっているのではないか。
そこまで思考したところで、ハイネの中で恐怖が怒りへ変わった。
「お前らもあいつの仲間ってことだろ!」
「違う……それは今回の事件を予知した人が、俺たちに報せてくれたから」
クラウスはすぐに答えた。
柔らかな声を保とうとしていたが、ハイネの側が会話できる状態ではない。
彼の呼吸は荒くなり、剣を引き抜こうとする腕に異様な力が籠もる。
「オマエモ、オマエモ、オマエモォォォ!」
壁から剣が抜けた。
次いで、ハイネが暴れるように刃を振るう。
それは剣技ではない。冒険者として培った型も間合いも、ほとんど失われていた。
ただ力任せに、目の前のものを敵と決めつけて叩き斬ろうとする暴力だ。
刃が床を削る。
壁を叩き、破片を散らす。
「話を聞いて!」
「俺たちは君を害するつもりはないんだ」
結とクラウスが声をかけ続けるが、もうその言葉は耳に届いていなかった。
クラウスは距離を取りながら避けるが、ハイネの力は読みにくい。理性ある剣士の動きではないからこそ、次にどこへ刃が飛ぶのかが掴みにくかった。
●
守らないと。
守らないと。
守らないと。
俺が守らないと。
マ■■を■■■ないと。
■■■ってなんだ?
どういうことだ?
だって■■ナを■■したら、もう■えないじゃないカ?
違う■■■を迎えに行かないと。
お腹が空いた。喉が渇いた。とても、とても。
おにくが食べたい。思い切りかぶりつきたい。
■■■に会いたい。
じゅわりと口に広がる。■■■のあじ。
はやく■■■を――
●
言葉をかければかけるほど、ハイネは遠ざかっていく。
猜疑心が恐慌を呼び、ゾンビ化が思考の道筋を屍の反応に塗り替える。その二つが絡み合い、彼の中で正しい意味を持つはずの言葉まで歪めてしまう。
結が傷を癒やし、身体の崩壊を一時的に遅らせることはできた。
けれど、それは説得とは別の問題だった。
痛みが引いても、疑いは消えない。
傷が塞がっても、心が落ち着くとは限らない。
むしろ動けるようになったことで、焦燥と恐怖が剣を振るわせている。
クラウスたちは諦めずに何度も彼へ呼びかけ続けた。
しかし、正常な思考を奪われつつあるハイネには、道理を順番に説明しても理解まで届かない。
彼が掴んでいるのは、本能と混ざり合う衝動だけだった。
その衝動が欲する名前さえ、今は黒く塗り潰されかけている。
「ハイネよ。汝にも、向かうべき場所があるのだろう」
「蜚廉さん……!」
蜚廉が静かに前へ出た。
その巨体は、クラウスを庇うように間へ入る。
焦茶色の肌を覆う黒い外殻には、先ほどの戦闘で刻まれた傷跡がまだ薄く残っていた。
それでも彼は、狂乱する刃を前にしてもなお、少しの揺らぎも見えない。
ハイネが剣を振り下ろした。
蜚廉は避けなかった。
刃が黒い外殻へ食い込み、血しぶきが上がる。
鈍い音が広間に響いた。
「ぐうううぅ!」
うめき声を上げたのは蜚廉ではなくハイネだった。
力任せの一撃は、彼の強靭な肉体を断ち切るには至らなかった。
剣は深く食い込みながらも途中で止まり、黒い外殻と肉の奥で押し留められている。
蜚廉はそのまま動かず、荒れ狂うハイネの正面に立ち続けていた。
「うぐおおおお!」
ハイネは肉にめり込んだ剣を強引に引き抜き、再び蜚廉へ叩きつけた。
刃は黒い外殻を削り、焦茶色の身体へ疵痕を刻む。
さらに何度も。肩へ、腕へ、胸へ。
剣技と呼ぶにはあまりに荒く、ただ恐怖と混乱に振り回された暴力だったが、ゾンビ化で限界を外された腕力は石床まで震わせるほど重かった。
それでも蜚廉は退かなかった。
防がない。
避けない。
巨躯を真正面に置いたまま、ハイネの刃を受け続ける。
傷は増えていく。
外殻が割れ、鮮血が飛散する。
だが、そのたびに還命躯が蜚廉の肉体を強制的に戻していった。
裂けた肉は盛り上がり、割れた外殻は継ぎ目を埋めるように修復されていく。
その再生は痛みを消すものではないはずだ。それでも蜚廉の姿勢は揺らがなかった。
「その灯火は、翳嗅盤によく匂う。……大切に、想っているのだな」
蜚廉の言葉は、刃の音の中でも消えなかった。
ハイネは答えない。
答えられない。
ただ歯を剥き、喉を鳴らし、また剣を振る。
「ならばこそ思い返し、進み続けるのだ」
「ぐうぅ……」
ハイネの腕が微かに躊躇いで鈍った。
どれだけ斬っても倒れない。
どれだけ叩きつけても折れない。
自分を殺しに来た敵ならば、なぜ彼らは反撃しないのか。
自分を止めるためだけならば、なぜこんな傷を受けてまで立っているのか。
その理解不能が、濁った思考に小さな隙を作る。
「我が迸る生命力でその思考を支え、汝の正気を繋ぎ止める」
蜚廉の胸奥から、熱を帯びた生命力が溢れた。
それは光というより、肉体そのものが放つ生の圧だった。腐臭と瘴気に満ちた広間で、その力だけが濁りに染まらず、まっすぐハイネへ届いていく。
傷を癒やす結の力とは違う。
忘れさせるのではなく、命を燃やして支える力。
今にも死へ沈みそうな肉体へ、生きろと命じるような活力の熱波だった。
「うぐ……ううううぅ!」
ハイネはなおも抗った。
震える腕で剣を振り上げる。
その顔には怒りだけでなく、怯えが滲んでいた。
自分の中に入り込んでくる熱が、死にかけた身体へ強制的に生命力を与えていく。それは戸惑いすら生じる未知の感覚だった。
蜚廉はその切先を真正面から見据えた。
焦茶色の肌に血が流れ、黒い外殻の割れ目から再生の光が滲む。
ハイネは止まらない。
同様に蜚廉の覚悟もまた、それで止まることを良しとしなかった。
「なに、諦めの悪さには定評がある。無論、意志の強さにおいてもな」
クラウスが静かに息を整えた。
黒い長髪が片側の肩に落ち、覚悟を持った青い瞳が細く光る。
彼は手をかざし、輝く鳥をその場に顕現させた。
炎ではない。
戦うための魔法でもない。
それは誰も傷付けない願いを叶える奇跡を、加護として内包する不死鳥だった。
羽ばたきは静かだった。
けれど黄金にも白にも見える光が広がり、蜚廉の生命力に重なっていく。
(ああ、きっとあいつも、これくらいじゃハイネさんを救うことを諦めない)
クラウスは喪失した親友の姿を思い浮かべる。
その人に恥じない自分でありたいと思うことは、今もまだ彼に頼っている証でもあるのだ。
それは未熟を、弱さを自覚すると同義だ。
だが、今はそれでいいとクラウスは思った。
頼る心を抱いたままでも、誰かを支える手が伸ばせるならば。
不死鳥の光が強まる。
結の忘れようとする力が、ハイネの裂けた傷を癒した。
蜚廉の生命力は肉体を内側から支え、クラウスの奇跡はその活力をさらに高みへと至らせる。
三つの力が重なり、死へ傾いていたハイネの輪郭を、ほんの一時だけ人の形へ引き戻していく。
「うあ……あぅ……」
ハイネの腕が下がり始めた。
剣先が震え、石床へ向いていく。
先ほどまで暴力だけを吐き出していた身体から、少しずつ力が抜けていった。
濁っていた瞳の奥に、細い光が戻る。
蜚廉はそこで初めて、声音を和らげた。
「……汝はツレを、愛しているのだろう。我も汝と同じだ。生き足掻く意思の全ては、我がAnkerの下へ還る為に……」
「あなた、も……?」
ハイネの声はまだ掠れていた。
だが、そこには先ほどまでの獣じみた濁りだけではない。理解しようとする意思が、わずかに混ざっていた。
「ふ、似合わぬと感じたか。我もまだ、言葉を馴染ませている最中でな。……大目に見て貰えると、助かる」
蜚廉はどこか自嘲気味に笑った。
異形の外殻に覆われた顔でありながら、その笑みには不思議な人間味がある。
かつての自分が今の己を見たならば、さぞ驚くだろう。
誰かとの触れ合いを語り、帰る場所を語り、得た温もりを良いものだと感じているなどと。
「さて、繋ぐ手の温もりは思い出せたか? ……良いものだな。触れ合いは」
ハイネは剣を握ったまま、視線を落とした。
その目から虚ろさはかなり薄れている。
だからこそ、彼はよりはっきりと分かってしまった。
自分がついさっきまで、ただ本能に突き動かされる歩く屍へ変わりかけていたことを。
愛する人の名さえ失いかけ、守りたいという願いまで飢えに呑まれかけていたことを。
そして、この澄んだ意識がいつまで保つのか、自分にもわからない。
「けど、俺は……もう……」
その不安は、手にしている剣より重い。
今の自分に、マリナの手を取る資格があるのか。
温もりを思い出したからこそ、余計に怖くなる。
抱きしめたいと思う心が、次の瞬間には噛みつきたい衝動へ変わるかもしれない。
ハイネはその恐怖を、ようやく自分のものとして理解していた。
「例え離れていても、想いは何処までも馳せられる。汝に悔やむ意志があるのなら、それを手放さぬ事だ」
「悔やむ意志を……?」
「果たしたい望みこそが、汝を生き足掻かせる。より望み、より求めるがいい。その姿勢を、醜いとは思わぬよ」
蜚廉の言葉は静かだった。
無念は人を歪めることもある。
けれど、無念を背負ってなお果たしたいと願うなら、その願いは命の灯火になる。
醜く足掻くことを、蜚廉は否定しない。
むしろその執着こそが、ハイネを生者として踏み留まらせる因果と成るのだと知っていた。
「…………………………」
ハイネは沈黙する。
剣を持つ手にも力は入っておらず、そこにもう敵意は見出だせなかった。
「場所を知っているなら教えてほしい……君も、一緒に行こう」
クラウスが改めて告げた。
柔らかな声だった。命令ではなく、同行を願う言葉だ。
ハイネはゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、静かな哀しみがあった。
別れが避けられないことを、彼はもう理解している。
それでも、最後にすべきこともまた理解していた。
「……お願いします。マリナを助けてください」
その言葉は、祈りに近かった。
自分のためではない。
自分が守りたい人のための願いだ。
別離が逃れられない運命なのだとしても、せめて最後の時間くらいは幸せであってほしい。
クラウスは胸の奥で、静かにそう願う。
(……俺は、別れすら言えなかったからね)
不死鳥の光が、ふっと薄れていく。
一つの願いを果たした鳥は、羽根の形をほどきながら消えた。
第2章 ボス戦 『冒険者狩り、工藤・三矢』
腐臭の染みついた通路を、一人の男が進んでいた。
足取りは重い。
右へ傾き、左へよろめき、時折壁に肩をぶつけながら、それでも男は奥へ奥へと歩いていく。
頭には傷だらけの鉄兜。布と革を重ねた冒険者風の装備は返り血と汚泥に塗れ、腕当てや脚甲には、黒ずんだ汚れがまだらにこびりついている。
腰には小物入れと薬瓶らしきものが揺れていたが、今の彼にそれらは役に立たない。
腕は、噛み傷を押さえるように強くもう一方の腕を掴んでいる。
「ちくしょう、なんでこんなことに……」
冒険者狩り、工藤・三矢。
彼は少し前まで、このダンジョンで優位に立つ側だった。
たまたま入り込んだ汚染ダンジョンで、三矢はハイネとマリナに遭遇した。
恋人同士らしい二人組。
互いを気遣い、手を取り合いながら逃げようとする姿は、三矢にとってひどく癪に障るものだった。
だから、叩き潰してやったのだ。
女を逃がし、自分だけが残って時間を稼ごうとした男を、徹底的に痛めつけた。
ハイネの剣は何度か三矢へ届きかけたが、実力差は明らか。
三矢はあえて鞘に入れたままの剣を使った。骨を軋ませ、鎧ごと身体を打ち据え、床へ這いつくばるまで一方的にぶちのめす。
その時の気分は爽快だった。
女連れで、勇敢な恋人を気取って、格好つけた顔で剣を構える男。
そんな身の程知らずに、現実を教えてやったのだ。
殺さなかったのは、慈悲ではない。
このダンジョンには、ゾンビ化した魔物がうようよいる。
動けないまま牙を立てられ、死ぬのか、それとも同じ生ける屍へ成り下がるのか、恐怖に震えながら待つ。
その方が、三矢にとってはよほど愉快だった。
いっそゾンビになればいい。
いつまでもこの腐った迷宮を彷徨い、名も夢も恋人も忘れて、ただ飢えだけで動くものになってしまえ。
もしそうなった姿を見つけたなら、恋人の女を目の前に放り込んで喰わせてやろう。
そんな想像を弄びながら、三矢は逃げた女を探していた。
だが、油断した。
通路の横穴から飛び出したゾンビ化モンスターが、彼の腕へ食らいついたのだ。
本来なら、そこは防具で守られているはずの部位だが、ハイネの反撃が唯一まともに当たった場所でもあった。
そのせいで鎧の留め具が壊れ、部分的に外れてしまっていた。
よりにもよってそこへ、腐った体液の絡んだ牙が沈んだ。
「ふざけんな……!」
すぐに殴り潰した。
頭を砕き、壁へ叩きつけ、動かなくなるまで剣を振り下ろした。
それでも、噛まれた事実は消えない。
傷口から熱が消え、代わりに汚れた冷たさが血管を這い上がってくる。
焦った三矢は、さらに足音を荒くした。
苛立ちまぎれに壁を叩き、呻く魔物を蹴り飛ばし、視界に入った屍を手当たり次第に潰した。
その音に、さらにモンスターが集まった。
牙が脚に迫り、爪が防具の隙間を裂き、彼は何度も噛みつかれた。
有り得ない。
こんなことがあっていいはずがない。
奪う側だった自分が、どうしてこんな腐った餌場で追われているのか。
弱い連中を見下ろすために力を得たはずが、なぜゾンビどもに肉を齧られなければならないのか。
認めたくない現実とは裏腹に、身体は変わっていく。
指先の色が悪くなり、腕の皮膚が乾いた泥のように濁る。
喉は掠れ、吐く息には腐臭が混じり、意識が時折明滅する。
それでも、三矢の奥にある怒りだけは薄れなかった。
不愉快だ。
許せない。
この俺が、こんな目に遭うなど認められるか。
その激情だけが、壊れていく思考をひとつに束ねていた。
そして、三矢は見つけた。
通路の先に、灰色の髪の男がいる。
ハイネだ。
あの時、床に沈めて置き去りにしたはずの男。
自分が噛まれる原因になった、鎧の隙間を作った男。
「あいつぅぅぅぅ!」
ハイネもまた、まともな状態ではなかった。
肌にはゾンビ化の兆しが浮かび、立ち姿には危うさがある。
だが、三矢の目にそれは慰めにならなかった。
なぜなら、ハイネは一人ではなかったからだ。
周囲には彼を支える者たちがいる。
ハイネの異常を理解し、それでも守ろうとする者たちが。
あの男はゾンビになりかけている。もう人間の側から零れ落ちようとしているのだ。
それなのに、まだ誰かが寄り添っている。
その光景が、三矢の濁りきった心を焼いた。
自分は一人だ。
噛まれても、苦しんでも、変わっていっても、誰も助けに来ない。
誰も自分を見てくれない。
誰も自分の痛みに手を伸ばさない。
なのに、なぜあいつにはいる。
なぜあいつだけ、また誰かに守られている。
俺は、いつも独りなのに。
許せない。
許せない許せない許せない許せない許せない。
奪ってやる。
壊してやる。
腕を折り、脚を折り、何度でも叩きつけて、あの目にもう一度恐怖を刻んでやる。
守られていると思った安心から引きずり出し、希望ごとぐちゃぐちゃに踏み砕いてやる。
噛みついてやる。
血を啜ってやる。
肉を裂いて、喰らって、喰らって、喰らって、喰らって、喰らって、喰らって喰らって喰らって喰らって喰らってやる。
「|喰《ぐ》らってやるううううううぅぅぅぅぅ!」
叫びは、もはや人の言葉から半ば外れていた。
三矢の顎が震え、濁った唾液が口元から垂れる。
瞳に理性はほとんど残っていない。
そこにあるのは、燃え盛る憤怒だけだった。
だが、その怒りが彼をかろうじて繋ぎ止めていた。
ゾンビ化によって人間らしい意識が剥がれ落ちても、工藤・三矢という簒奪者を形作ってきた悪意は消えない。
弱者を痛めつける快感。
他人の幸福を踏みにじる嫉妬。
自分だけが傷つくことへの耐えがたい屈辱。
尽きることのない憤怒。
それこそが、彼を冒険者狩りへ堕とした根幹であり、簒奪者としての力と技術を腐った肉体へ結びつける糸だった。
三矢は剣を引きずりながら、ハイネたちの方へ進む。
腐臭を纏い、怒りを燃やし、もはや人へ戻れぬ生ける屍へと成り果てながら。
腐敗した空気の奥から工藤・三矢が現れたとき、ハイネの身体は痛みより先に記憶で強張った。
「お前は……!」
傷は結の力で塞がり、蜚廉たちの支えによって意識も多少は澄んでいる。
だからこそ、あの男の姿を見た途端に、叩き伏せられた時の記憶が鮮明にフラッシュバックした。
剣を握った腕を打ち砕かれた悔しさや、マリナだけでも逃がそうとした必死の抵抗を嘲笑われた屈辱が、身を焦がす。
「この男が汝を襲った冒険者狩りか?」
蜚廉が問いかける。
焦茶色の肌と黒い外殻を持つ異形の巨躯は、ハイネの前へ静かに立っていた。
問いの声には、怒りより先に相手を見極める冷静さが宿っている。
ハイネは答えられなかった。
ただ、重く頷く。それだけで十分だった。
「この人もゾンビに……」
結の声が振るえている。
三矢はすでに、まともな人間の姿から外れかけていた。
傷だらけの鉄兜は斜めに歪み、布と革を重ねた防具は腐汁と泥に汚れ、片腕に刻まれた噛み痕からは黒ずんだ筋が首筋へ向かって這い上がっている。
土気色に濁った肌、掠れた呼吸、口端から垂れる濁った唾液。そのどれもがゾンビ化の進行を示していたが、それでもハイネにとっては見間違えようのない相手だった。
青い瞳は三矢の変質した身体を見つめ、その表情には、痛ましさと警戒が同時に浮かんでいた。
彼女にとって三矢は救うべき者か、止めるべき敵か、まだ断じきれない存在だったのだろう。
しかし三矢の濁った目の奥に燃えているものは、助けを求める恐怖ではなかった。
そこにあるのは憤怒だ。
モンスターに噛まれ、腐り始めた己の不運を受け入れられず、そのすべてをハイネへ押しつけようとする。醜くも強烈な憎悪の怒りだった。
「性根だけでなく、肉体まで腐り果てたか。因果も此処に極まれり、だな」
蜚廉はそう評した。
侮りではない。そこにいる男の辿った末路を、ただ言葉にしただけだった。
三矢が剣を引きずって歩き出す。
刃が石床を削り、湿った広間に耳障りな金属音を残した。
最初の足取りは鈍く、身体の片側へ重心を崩しながら進む姿は、今にも倒れそうに見えた。けれど一歩ごとに、その動きは奇妙な力を帯びていく。
怒りが足を踏ませる。
憎しみが崩れかけた膝を伸ばす。
生きた人間ならば痛みと損傷で止まるはずの身体を、ゾンビ化した肉体と尽きない怨嗟が無理やり前へ運んでいく。
やがて、三矢は剣を振り上げた。
緩慢だった歩みは、疾走へと変わる。その暗い双眸はハイネだけを見ていた。
「精霊さん、戦いを止めるための力を貸して」
結が呼びかけると、割れた石床の隙間に淡い緑の気配が宿った。
そこから伸び上がった樹木の根は、ダンジョンの瘴気に似つかわしくない清らかな生命を纏いながら、三矢の足首へ絡みついた。
細く見えた根はすぐに枝分かれし、膝を締め、腰へ巻きつき、剣を振り上げた腕へと這い上がっていく。
落ち葉隠しによって生まれた精霊の拘束は、傷つけるためではなく進ませないための力だった。
「うおおぉおお!?」
三矢の走りが乱れる。
前へ倒れ込みかけた身体を、彼は力任せに踏み止めた。
根に縛られた関節が軋み、腐り始めた筋肉が不自然に膨れ、骨や腱が悲鳴を上げる。それでも、三矢は痛みに怯むことなく憎悪だけで身体を動かし続ける。
結は攻撃を望んでいなかった。
ハイネを傷つけた相手であっても、ゾンビ化に苦しむ人間である可能性が少しでも残っているなら、なんとか説得して戦いを収めたいと思う。
けれど、何もしなければハイネは再び奪われ、マリナの元へ辿り着かせるという目的もここで潰えてしまう。
だから止める。
殺すのではなく、動きを奪う。
戦うためではなく、守るために。
「クソが! 邪魔すんじゃねえぇぇ!」
三矢の怒声が掠れた獣の叫びのように響く。
喉は掠れ、発音には濁りが混じっているのに、怒りだけは異様なほど鮮明だった。
絡みついた根が彼の力で軋み、一本が内側から裂けるように弾ける。
濁った血が肩口から飛び、それでも三矢は自分の肉体が壊れることなど意にも介さず、ただ前へ出ようとしていた。
(動きを止めている間に、なんとか話を……!)
結はワンピースの裾を揺らして一歩前へ出る。
彼女は三矢の怒りに怯えていないわけではない。
指先は強く握りすぎて白くなり、青い瞳と面持ちには緊張が宿っている。
それでも、ハイネにマリナの名が届いたように、この男にもまだ人間の言葉が届く余地があるかもしれないと考えたかった。
「落ち着いて。私は貴方と戦いたいわけじゃないの」
結は穏やかな声で告げた。
押しつけず、怯えさせず、少しでもこちらの意図が伝わるように言葉を選ぶ。
だが、三矢は結の声を受け取らなかった。
濁った瞳が見ているのは、語りかける少女ではない。
自分の前に立ち塞がる邪魔者であり、ハイネを守ろうとする敵であり、自分だけが苦しんでいるという憤りをさらに煽る存在だった。
「クソ女テメエが! 放せっつってんだろうがあああぁぁぁ!」
返ってきたのは、対話ではなく憎悪だった。
言葉の形は残っている。けれど、そこに相手の思いを聞く余地はない。
怒りが喉を動かし、妬みが舌を動かし、ハイネたちを害したいという意思だけが、人間らしい発声を辛うじて保たせている。
結はそこで、ハイネとの決定的な違いを悟る。
ハイネの錯乱の奥には、誰かを守りたいという灯火があった。
しかし三矢は違う。彼の中にあるのは、誰かが守られていることへの耐えがたい妬みであり、自分が苦しむなら他人も引きずり落としてやるという悪意だった。
根がまた裂ける。
三矢の剣が、拘束ごと持ち上がろうとする。
結は唇を引き結び、落ち葉隠しの力をさらに強めた。
ハイネをマリナの元へ連れて行くまで、この怒りに道を譲るわけにはいかなかった。
「私はできるなら、貴方も救いたいと思ってる……!」
恐怖がないわけではない。目の前の三矢は怒りに濁った目でこちらを睨み、全身に絡みついた根を力任せに軋ませている。
ゾンビ化した肉体から漂う腐臭は濃く、いつ拘束を引き千切って襲いかかってきてもおかしくない。
それでも結は、その言葉を引っ込めなかった。
「はあ……!?」
三矢の顔に、怒りとは違う歪みが浮かんだ。
驚きだった。予想外の言葉を受けたせいで、燃え盛っていた憎悪がほんのわずかに緩む。
三矢は、天涯孤独だった。
幼い頃から、手を差し伸べてくれる者はいなかった。
たまに甘い声をかけてくる大人がいても、それは救いではなく、弱った子供を都合よく使い潰すための罠だった。
信じれば奪われる。
縋れば踏みつけられる。
だから三矢は、自分の力だけで生きるしかなかった。
冒険者になったのも、そのためだ。
力を持てば奪われない。
強くなれば、弱いまま泣いていた自分を置き去りにできる。
そう信じて、剣を握った。
「私は、誰にも傷付いてほしくないんです」
結は続けた。
その言葉は甘い理想かもしれない。
それでも、彼女の青い瞳は逸れず、三矢へ向けた救いの手は下がらない。
三矢の脳裏に、かつての情景がよぎる。
まだ冒険者だった頃には、ひとりではないと思えた時期もあった。
仲間と背中を預け、モンスターを倒し、安い酒場の食事を囲んで笑った夜。
あの頃だけは、誰かを信じてもいいのかもしれないと、本気で思いかけた。
だが、その記憶はすぐに苦いものへ変わる。
信じた先にあったのは裏切りだった。
仲間という言葉は油断させるための餌か、自分が危機に瀕すれば、容易く吹き飛ぶ薄っぺらな紙切れのようなもの。
「だったらこれを解いて、今すぐ俺を治療しろお!」
三矢が叫んだ。
絡みつく根が大きく撓み、何本かが裂けかける。
その声には、救われたい者の願いよりも、相手を従わせようとする荒んだ欲求が強い。
「それは……進行を遅らせることはできても、私にも完全に治療する方法はわからないの」
結は正直に告げるしかなかった。
嘘をつけば、一時だけは落ち着かせられるかもしれない。
けれど、それはきっと三矢の中にある疑念をさらに深くするだけだ。
彼女には、ゾンビ化を完全に治す手段がない。
その事実だけは、どれほど願っても変わらなかった。
「やっぱり騙したんじゃねえかっ!」
「違う! せめて、これ以上は争うことなく、少しでも心安らかに……」
「クソ女ァ! ブチ殺スゥゥゥ!」
結の言葉は、途中で怒号に呑まれた。
三矢にとって、救いたいという言葉はもう信用の対象ではない。助けると言いながら、結局はできないことをできないと言う。
ならばそれは、最初から騙すための甘言と同じだった。
最後に人を信じようとした記憶は、裏切りの痛みと結びついている。
仲間など、都合のいい時だけ掲げられる旗にすぎない。
少しでも甘い顔を見せれば、その笑顔の奥から刃が出てくる。
三矢の中では、それが世界の正しさになっていた。
「だったらそのゾンビ野郎をこっちに寄越せ!」
「え?」
結の表情が強張る。
三矢の濁った目は、ハイネへ向いていた。
「そいつを八つ裂きにしてから喰らってやるんだよ! そうしたらてめえらの治療を受けてやる」
それが三矢の理屈だった。
味方になるというなら、自分の望みを飲め。
自分を苦しめた原因を差し出せ。
このゾンビ男のせいで自分は噛まれたのだから、ハイネを裏切って差し出すことこそが、結たちの誠意を示す証になる。
だが、結の顔は曇った。
それが三矢には、また裏切りの表情に見えた。
「そんなのできないわ……」
「やっぱりテメエも俺を騙すんじゃねえかペテン師女! お前も喰らってやる! オマエモッ! オマエモッ! オマエモダァッ!」
三矢の声は、さらに人間の形から外れていく。
怒りが喉を裂き、憎悪が言葉を押し潰し、残った発音だけが罵声として噴き出していた。
結には、三矢の怒りを理解できなかった。
理解しようとはしている。救いたいと本気で思っている。
けれど、誰かを救うために別の誰かを差し出すという考えだけは、どうしても受け入れられない。
三矢もまた、結の優しさを理解できなかった。
誰も傷つけたくないという願いは、彼にとって責任から逃げる曖昧な言葉にしか聞こえず、治せないなら救うなどと言うなという怒りだけが膨れ上がっていく。
あまりにも違いすぎた。
育った環境も、信じてきたものも、人の手をどう受け止めるかも。
結が差し出した手は、三矢にはまた自分を騙すための嘘に見えた。
これ以上、何を言えばいいのかわからない。
完全な治療はできない。
ハイネを渡すこともできない。
戦わないでほしいと願っても、三矢の怒りはその願いさえ踏み砕こうとする。
「結さん、ハイネさんを連れて、安全なところへ隠れていてくれるかな?」
クラウスは落ち着いた声で告げた。
結は唇を噛みそうになり、かろうじて堪える。
「…………はい。ハイネさん、こっちです」
「ああ……」
ハイネは低く答えた。
その声にも、苦さが滲んでいた。
自分を差し出せという三矢の要求を聞いて、何も感じないはずがない。それでも今の彼には、マリナの元へ行くという目的がある。
結は三矢を救えず、戦うこともできない。
説得も届かなかった。
クラウスがハイネの護衛を頼んだのは、彼女にこれ以上の対峙を強いないためであり、同時にハイネを守る役割を託すためだと理解できた。
結にできたのは、根で動きを止めることだけだ。
とどめを刺さずに時間を稼ぐこと。
人間を傷つけたくないという優しさは、時に不誠実な残酷さにもなる。そして誰かを危険へ晒してしまう。
それを理解してしまったからこそ、胸の奥が痛かった。
(けれど、それでも、そんなことができる強さは私にはない)
割り切ることはできない。
倒すべき相手だと断じることもできない。
救えないと分かっていても、三矢をただ敵として切り捨てる強さを、結はまだ持っていなかった。
「……ごめんなさい」
小さな謝罪は、誰へ向けたものだったのか。
三矢へか。
ハイネへか。
それとも、この場を預けることになったクラウスと蜚廉へか。
結はハイネを促し、絡みつく根に縛られた三矢から距離を取っていく。
背後では、なおも怒声が響いていた。
それでも彼女は振り返らず、ハイネを守るためにその場を離脱していった。
「逃げるなァァァ! ペテン師女ァ!」
結とハイネが離れていく背へ、三矢の罵声が追いすがった。
絡みつく根を軋ませながら、彼は濁った目で結を睨みつけている。
彼女の逃避は、また自分だけが騙され、裏切られ、笑われたという結果でしかなかった。
「黙れ」
短い言葉が落ちた。
発したのはクラウスだった。
その声は、普段の柔和な彼からは想像できないほど冷え切っていた。熱も揺らぎもなく、相手へ向ける配慮も残されていない。
黒い長髪の影にある青い瞳は静かに細まり、中性的で穏やかな顔立ちからは、感情の表面だけが削ぎ落とされている。
人を斬ることへの躊躇も、ゾンビ化した者への哀れみも、刃を鈍らせる心の余分。
クラウスは意識の底を殺意で満たす。
掌の中で魔力が形を取る。
顕現したのは、殺傷力を結晶化したような双剣だった。
細身でありながら刃は鋭く、光を反射する輪郭は肉を裂き骨の隙間を滑ることだけを目的に研ぎ澄まされている。
「ぐうぅ……!」
三矢の顔に焦りが浮かぶ。
それまで怒りだけで塗り潰されていた表情に、初めて警戒の色が混じった。
全身を縛る根を力任せに引き剥がし、腕だけでも自由にしようと腐りはじめた肉を軋ませる。
クラウスは待たなかった。
黒い衣服の裾を翻し、低く身を沈めるように疾駆する。
双剣の片方が、三矢の首筋へ滑り込んだ。
「獲物がァァァァ、手こずらせるなァァァァァァ!!」
枝が千切れ、細かな破片が宙へ散る。
狂ったような激怒の咆哮と共に、三矢は自由になった腕で剣を叩きつけた。
鋼と魔力生成した刃が衝突し、火花めいた光が空気を裂く。
冷たい殺気と、憤怒の熱が噛み合った。
クラウスの動きには無駄がない。
足運びは静かで、刃の軌道は短く、狙いは常に喉や心臓や腱といった急所へ向けられている。
三矢の怒声にも、大振りの剣にも反応を乱されない。殺すために必要な距離だけを詰め、必要な角度だけを選び続けた。
一方の三矢は、理性が剥がれ落ちるほどに動きが荒くなっていた。
構えは崩れ、剣筋は乱れ、次の攻撃を読ませるほど大きな隙も多い。
それでも動きは意外なほどに素早い。
狂化によって高められた身体能力と、ゾンビ化によって外れた肉体のリミッターが、最悪の相性で噛み合っていた。
痛みを顧みない突進。
関節が壊れることを無視した踏み込み。
筋肉が裂けようが骨が軋もうが、三矢は怒りだけで剣を振り続ける。
その隙間を、クラウスの刃が縫った。
大振りの後に空いた脇腹を裂く。
踏み込みすぎた脚の腱を狙う。
剣を戻すより早く、もう片方の刃が肩口へ食い込む。
三矢の攻撃がかすめても、クラウスは構わなかった。避けきることより、相手を削ることを優先する。
殺意が、自己の身の安全すら余分として捨て去ることを選んでいた。
ハイネがああなったのは、三矢だけのせいではないのだろう。
汚染されたダンジョンも、ゾンビ化モンスターも、幾つもの不運が重なっている。
それでもだ。この男の悪意がなければ、ハイネとマリナはまだ無事だったかもしれない。
恋人を守るために自分から死へ足を踏み入れる必要など、なかっただろう。
その怒りが、冷酷な殺意となってクラウスを前へ押し出していた。
「てめえはここで仕留めてやるうううぅ!」
三矢が空いた手で魔法銃を抜く。
その銃口がクラウスへ向くより早く、彼は踏み込んだ足を跳ね上げた。
蹴りが銃身を弾き、銃口が天井へ逸れる。
直後、発砲音が広間に轟き、弾丸は石の天井を穿った。
「ちぃっ!」
三矢が舌打ち混じりに剣を振る。
大振りだった。
怒りのままに放たれた一撃は威力だけなら凄まじいが、軌道があまりにも大きい。
クラウスは低く潜り込み、刃の下を抜けるように懐へ入った。
双剣が走る。
三矢の胴に裂傷が刻まれ、濁った血が飛ぶ。
だが三矢は怯まない。
狂化によって痛みへの耐性と反射速度を得たその身体は、斬られながらなお反撃へ移っていた。
「これは避けれねぇよなぁ!」
三矢の銃口がクラウスへ向く。
距離が近すぎる。刃で腕を落とすにも、僅かに角度が悪い。
トリガーへ指がかかる。
その直前、クラウスの身体が横から押し飛ばされた。
「っ!」
視界がずれ、石床が近づく。
クラウスは倒される形で射線から外れる。
代わりに割り込んだのは蜚廉だった。
銃声が響く。
弾丸が蜚廉の身体を撃ち抜いた。
黒い外殻に穴が穿たれ、焦茶色の肌から血が散る。
その一撃で動きの止まった蜚廉へ、三矢は間髪入れずに斬り込んだ。
剣が走る。
急所を裂かれた蜚廉の巨体が重く揺ぎ、その場へ沈んだ。
「蜚廉さん……!」
「まずは一人……いや、一匹目だなぁ!」
三矢は喜悦に歪んだ顔で、倒れ伏した蜚廉を見下ろした。
銃弾を受け、急所を裂かれた巨躯は石床に沈んでいる。黒い外殻には割れ目が走り、焦茶色の肌から流れた血が床へ広がっていた。
先ほどまで誇り高く立っていた異形が動かない。
その事実が、三矢の壊れかけた精神をひどく昂らせた。
ゾンビ化に侵されてなお、彼の内側には他者を踏みにじった愉悦が噴出する。
助け合う者を壊す。守ろうとする者を倒す。自分を見下ろしているように見える者を地へ這わせる。
それらが、三矢にとっては自分の存在を肯定する行為だった。
「ならば次の一体で汝を潰すまで」
別方向から声がした。
三矢の笑みが止まる。
濁った目が横へ動き、首がぎこちなく振り向いた。
そこに、蜚廉がいた。
倒れているはずの蜚廉と同じ姿。
焦茶色の肌。黒い外殻。異形の威容を保った巨躯が、まるで何事もなかったかのように立っている。
三矢は反射的に足元を見た。
そこには確かに、死んだ蜚廉が転がっている。血は床へ広がり続けており、呼吸も動きもない。
だが、顔を上げれば別の蜚廉がいる。
さらにその影から、三体目の蜚廉が迫りだしていた。
「だったらそれも刻んでやるよ!」
三矢は吠えた。
理解できないものを前にしても、彼が選ぶ答えは変わらない。
壊す。刻む。潰す。
それだけだった。
魔法銃が火を噴き、迫る蜚廉の身体へ弾丸が撃ち込まれる。衝撃で動きが鈍ったところへ三矢は踏み込み、手にした刃を力任せに振り下ろした。
黒い外殻ごと腕が断たれる。
さらに三矢は顔を歪めて食らいつき、肩口の硬い殻を牙で噛み砕いた。
腐った唾液と血が混じり、彼の口元から垂れる。
しかし、倒したはずの個体の背後で、また蜚廉が生まれる。
一体。
また一体。
ぞろぞろと増え、黒い外殻の群れが円を作りながら三矢へと向かっていく。
「気持ち悪いんだよぉ!」
三矢は怒鳴り、魔法銃を構える。
増えるなら、増えた分だけ撃ち抜く。
潰して潰して、動かなくなるまで砕けばいい。
その単純な怒りに従い、銃口を向けようとした彼の腕を、横合いから伸びた手が捕らえた。
その蜚廉は、他の分身とは違っていた。
動きが数段素早い上に、身体を覆う布が周囲の景色と溶け合い、石壁の陰や瘴気の揺らぎと見分けがつきにくくなっている。
群れの中に紛れ、気配を殺して近づいていたのだ。
蜚廉が発動させていた√能力は、蠢影。
己の分身を生み出す力だった。
分体一体ごとの戦闘力は本物に遠く及ばない。しかし、その殻が破壊されるほどに数を増し、砕かれた分だけ影は膨れ上がる。
三矢が刻めば刻むほど、蜚廉の群れは広がっていく。
「ぐおおおぉっ!」
腕を取られた三矢が呻く。
関節を極められ、腐りかけた骨と腱が嫌な音を立てた。
彼は背を丸め、痛みに顔を歪めながらも、なお剣を振ろうとする。
だが蜚廉は力の流れを読んで技を解き、次の拍でその背へ肘を叩き落とした。
「うがっ」
三矢の身体が前へ沈む。
それでも彼は倒れない。
怒りに任せて剣を突き出し、目の前の蜚廉の胴へ深く突き刺した。
手応えはあった。
刃が殻を割り、肉へ届いた感触もある。
しかし、貫かれたのは蜚廉が盾にした分体の一つだった。
砕けた分体の縁が歪み、裂けた影の中から新たな個体が増える。
確かに壊した。
だが、その行為そのものが、三矢を取り囲む数をさらに増やしていく。
「刻むと言っていたな。……ああ、好きにするといい。汝が刻んだ分だけ、我が分体は膨れ上がる」
蜚廉の声が、複数の方向から重なって響いた。
どれが本体なのか。
どこから来るのか。
三矢の濁った目では、もはや判別できない。
蜚廉は、既に起きたことについて、もしもを語るつもりはなかった。
そうした仮定は、今この場で救いにならない。だが、
「相応の報いは受けて貰おうか」
無念を踏みにじり、誰かの大切なものを壊そうとした者には、その行いに相応しいものを受けさせる。
それは復讐というより、蜚廉にとっては筋を通すことだった。
「このゴキブリ野郎がああぁあああぁ!」
三矢が吠えた時には、周囲は既に蜚廉とその分体で埋まっていた。
黒い外殻の群れが、三矢の視界を埋め尽くして逃げ道を塞ぐ。
さらに、各々の腕の甲殻から鉤爪が伸びる――殻喰鉤。
硬質で鋭い爪が、腐りかけた三矢の肉体へ向けられた。
そして、拳と爪が三矢を襲う。
「ぎゃあっ!」
最初の爪が肩を削いだ。
次の拳が脇腹へ叩き込まれ、腐った肉を内側から潰す。
背後から伸びた殻喰鉤が太腿を裂き、別の分体が顔面を殴りつける。
三矢は剣を振り回すが、斬った相手は砕けて増えるばかりで、減るどころか包囲は厚くなっていった。
いくつもの鉤爪が肉を剥ぎ、拳が骨へ響く。
彼の肉体はゾンビと狂化によって痛みへの耐性を得ていたはずなのに、その数と執拗さは鈍った神経すら引きずり出すようだった。
殺すだけなら、もっと単純な方法がある。
だが蜚廉の分体たちは、潰し、裂き、削り、逃げ場を奪いながら三矢へ苦痛を刻んでいく。
それはもはや戦闘というより、拷問に近い。
怒りで他者を食らおうとした男は、自らが増え続ける殻の群れに囲まれ、身を削がれる痛みの坩堝のようだった。
(執念だけは認めるつもりだった。だが――どうにも、汝は許しがたい)
蜚廉は、分体の群れに囲まれた三矢を見据えていた。
誰の支えもなく、誰の手も借りず、ただ燃え盛る情動だけで崩れかけた意識を繋ぎ止める。
それ自体は、決して凡庸なものではない。
死の淵に片足を沈め、肉体が腐敗へ傾き、思考の輪郭が削れ落ちていく。それでもなお、怒りという一本の杭だけで己を工藤・三矢として保とうとする執着は、一種の才能と呼べるのかもしれなかった。
だが、その力が向けられた先があまりにも悪い。
ハイネを痛めつけ、マリナを追い詰め、他者の絆を踏みにじることで己の鬱屈を晴らす。そうした三矢の悪意は、蜚廉の内側にあるものへ真っ直ぐ触れていた。
もし、その卑劣が愛しい人、ちるはへ向いたとしたら。
大切な者の尊厳を踏みにじり、泣き声を嘲ろうとするのなら。
(分かり易く言えば、腹が立つ)
黒い甲殻から伸びた鉤爪は、腐った肉体を裂くためだけでなく、肉片の一つすら残さず喰らい尽くすように三矢を襲い続ける。
「ぢぐじょうがああああぁ!」
血とも腐汁ともつかないものを撒き散らしながら、三矢は剣を振るった。
一体を叩き潰す。
別の分体の頭部を砕く。
さらに迫った個体へ噛みつき、硬い外殻ごと肉を食い千切ろうとする。
だが、それ以上に削られるのは三矢の方だった。
爪が走るたびに肉が剥がれ、拳が打ち込まれるたびに体の内側が潰れ、足元には彼自身の血肉が醜く散っていく。
それでも狂化によって高められた再生力が、壊れた体を無理やり繋ぎ直していた。
抉られる。
治る。
また抉られる。
また塞がる。
その繰り返しは、終わりの見えない責め苦に等しかった。
普通の人間ならば痛みで意識を手放すだろう。ゾンビ化した肉体でさえ、苦痛が全て消えるわけではない。
鈍った神経の奥へ、殻喰鉤の刃がしつこく食い込み、三矢の体内を食い荒らしていく。
しかし三矢は、苦痛を怒りで塗り潰した。
襲い続ける恐怖を、めちゃくちゃに壊してやるという憎悪で踏み潰した。
自分が削られている事実すら、世界の方が理不尽だと捻じ曲げ、目に映る全てを壊してやると吠え続ける。
まさに蜚廉が認めた執念そのものの発露だった。
先ほどまでは、その破壊が新たな分体を呼んでいた。
しかし戦闘が長期化するにつれ、蜚廉の群れは密度を失い始める。
召喚できる限界に達したのだ。
壊されれば増えると言っても、無尽蔵ではない。
三矢の暴力が、ようやく蠢影の群れへ届き始めていた。
けれど、それは三矢が優勢へ転じたことを意味しない。
彼の肉体は、すでに惨たらしい有様だった。
完全には回復しきれない傷が重なり、裂けた皮膚の奥から腐敗した肉と白い骨が覗いている。片頬は削げ、肩は歪み、剣を握る腕もまともな形を保っていない。
それでも命の火だけは消えていなかった。
ゾンビ化による異常な耐久力が、彼を生者でも死者でもないまま戦場へ縫い止めている。
「ぐおおぉ……おおぉう……」
三矢は呻いた。
それは怒号の残骸だった。
激怒している。
憎悪している。
だが、もはや何に怒り、誰を恨んでいるのか、彼自身にも判然としていない。
ハイネか。
結か。
クラウスか。
蜚廉か。
それとも、自分だけが救われなかった世界そのものか。
全部が全部同じに見える。違いがわからない。境界が曖昧になっていく。
死の淵へ叩き込まれたことで、ゾンビ化の進行が速まっていた。
濁った目は焦点を結ばず、口は言葉にならない音を吐き、工藤・三矢という意識の輪郭は炎で炙られた紙のように端から崩れていく。
加えて、殻喰鉤に仕込まれた毒が体内へ回っていた。
動きは鈍い。剣を持ち上げる速度も落ち、踏み込む足は床を滑り、怒りのままに暴れる腕にも遅れが生まれている。
それでも三矢は怒った。
怒るために怒った。
恨むために恨んだ。
目の前にあるもの全てが敵だ。
動くものは敵。立つものは敵。言葉を発するものは敵。
理由はもう必要ない。敵。敵。敵。
敵がいる。
敵をこわす。
敵をくう。
敵。敵。敵。敵。敵。敵。
「――――――――――っ!!」
もはやそれは言葉として認識できる類のものではなかった。
狂った異音を吐き出しながら、最後の分体を叩き潰す。
そこに腐敗の満ちる広間を裂くよう、黒衣をはためかせるクラウス・イーザリーが|疾走《はし》った。
中性的な顔立ちに浮かぶものは冷えた静謐で、瞳の奥だけに、刃よりも鋭い殺意が灯っている。
彼は双剣の片方を腰へ差すと、残した一振りを両手で握って斬り込む。
細く澄んだ魔力の刃は、敵を断つために研ぎ澄まされている肉切り包丁だった。
対する三矢は、剣を掲げて突っ込んでくる。
もはや人間というより、怒りを詰め込んだ死肉の塊だった。削がれた肩からどす黒い血が垂れ、裂けた皮膚の隙間から腐った肉が覗いている。
それでも倒れない。それどころか、憎悪だけを燃料にして速度を増していく。
鋼と魔力がかち合った。
甲高い音が広間に跳ね、二人の足元で石床が軋む。
刃は押し合い、互いの呼吸が届くほどの距離で止まった。そこにあるのは静止ではなく、暴力を極限まで圧縮した均衡だった。
「るるるるうぅぅぅ――――」
三矢が唸る。獲物を噛み砕こうとする獣の喉鳴りだった。
クラウスは両腕に力を込めた。
しかし、押し返せない。
狂化により膨れ上がった筋力と、ゾンビ化によって外れた肉体の制限。その二つが噛み合った三矢の力は、すでに生きた人間の範疇を外れていた。
痛みも損傷も無視し、壊れるという意識すら消えて前へ出る。
そんな相手と、力だけで競り合うには分が悪い。
クラウスの上体が少しずつ反っていく。
靴底が石床を削り、肘が軋む。
三矢がさらに力を込めると、傷だらけの身体から濁った血が噴いた。裂けた肩、抉れた腹、削られた脚。治りかけの肉も内側から破れ、腐った血が飛び散る。
それでも三矢は笑っていた。獣が牙を剥くように
ただ目の前の相手を潰し、喰らう。それしか頭にない。
クラウスの剣に、細い罅が入った。圧縮された魔力がそこから漏れていく。
三矢の剣は無骨だ。持ち主に似て、繊細さなど欠片もない。
その分だけ頑丈だった。多少無茶な扱いをしても折れず、骨ごと叩き潰すための重さと粘りがある。
対してクラウスの剣は、急所を断つためのものだった。殺すために鋭くありすぎたせいで、圧力に耐え続けるようにはできていない。
亀裂が深まっていき、三矢の剣が眼前へと近づく。
クラウスの頬に、冷たい刃が触れた。
罅が、より深く走る。
クラウスの心は、不思議なほど静かだった。
人は本当の意味で、一人だけで生きていけるものではない。
望むと望まざるとに関わらず、誰かの言葉に傷つき、誰かの手に救われ、誰かの悪意に形を歪められる。
憎悪だけに成り果てたこの男にも、そうなるまでの道のりがあったのだろう。
生まれつき悪意だけでできていたわけではない。
幼い日に、誰かへ笑いかけたことがあったかもしれない。
冷たい雨に打たれる小さな命を拾い上げ、掌の温もりで震えを止めようとしたことがあったかもしれない。
誰かを信じたいと願った夜もあったのかもしれない。
それでも、
「失せろ。不快だよ」
冷え切った声が、三矢の唸りを断った。
刃が折れる寸前、クラウスは手を離す。
支えを失った三矢の力が前へ流れ、重い剣が空を噛んだ。
そのずれは、ごく小さい。
クラウスにはそれで十分だった。
彼の右手が腰のもう一振りを抜く。
身体が低く沈み、黒衣が三矢の横をすり抜ける。
交差する軌道の中で、魔力の刃が首筋へ入った。
怒りに任せて押し潰そうとした三矢は、失われた均衡の穴へ自ら踏み込んでいた。
それで三矢の首が落ちる。
重い音を立てて、兜ごと頭部が石床へ転がった。
胴体はなお数歩進もうとしたが、やがて膝から崩れ、腐った血を撒き散らして倒れ伏した。
どんな理由があったとしても。
どんな過去が彼を歪めたとしても。
他者を傷つけることにためらいを失い、その苦痛に悦びを見出す者を、これ以上進ませるわけにはいかない。
三矢の憤怒も、憎悪も、最後には漆黒の黒へと塗り潰された。
第3章 ボス戦 『怪人48号』
決着の場に残されたのは、腐臭漂う肉塊と重い静けさだった。
クラウスは魔力の刃を消し、倒れた三矢の亡骸をしばし見下ろす
胸の奥には、まだ怒りの熱が燻っている。
けれど、それを握り続けたところで今は何も救えない。
失われたものは戻らず、急いで守らなければならない者が、この先にまだ待っている。
蜚廉もまた、傷を塞ぎながら静かに立っている。
斃れた者は因果の果てにそうなった。それ以外の感慨はもうない。
役目をひとつ果たした彼は、深い呼吸と共に周囲を見渡していた。
そうして二人は、ハイネたちが退避した場所へ戻る。
結はハイネのそばにいた。
長い黒髪は少し乱れ、青い瞳にはまだ不安の色が残っている。
ハイネは壁に背を預けているものの、傷を癒やされてもなお血の気の失せた顔には疲弊が濃い。
「もう大丈夫。冒険者狩りは倒したから」
クラウスは努めて穏やかに告げる。
その声には、先ほど三矢へ向けた冷たさはない。
結たちを安心させるための柔らかさを、意識して取り戻していた。
「ありがとうございます……」
ハイネが掠れた声で礼を返す。
そこには安堵だけでなく、複雑な響きも混じっていた。
命を狙った相手は倒された。けれど、その事実を喜ぶには、自分自身もあまりに死へ近づきすぎている。
一行は元来た道を辿った。
腐臭の残る通路には、戦闘の痕跡が生々しい。
壁に刻まれた剣痕、床に飛び散った黒い血、砕けた外殻の欠片。
その中に横たわる三矢の亡骸は、かつてハイネを圧倒した男と同じ存在には見えなかった。
結はその姿を見て、悲しそうに目を伏せる。
救いたいと口にした相手だった。
けれど、届かなかった相手でもある。
怒りに呑まれ、最後まで誰かを傷つけようとした悪意の塊だとしても、彼女にはただ切り捨てることができない。
一方で、ハイネは三矢の亡骸をじっと見つめていた。
顔には憎しみが浮かんでいない。
恐怖も、怒りも、先ほどまでほど強くはなかった。
そこにあるのは、変わり果てたものを前にした沈黙だった。
「もうあまり気にしない方がいい」
クラウスが静かに言う。
慰めというより、これ以上その姿を見つめ続ければ傷が深くなるだけだと告げるようだった。
「この男の最期は……?」
ハイネは目を逸らさずに尋ねる。
「最後の方は、ゾンビ化が進んで、もう君の知る男ではなかったかもしれない」
クラウスは正直に答えた。
三矢の悪意が消えていたとは言わない。
だが、最後の彼は怒りの理由さえ失い、ただ目に映るものすべてを憎む存在へ変わりかけていた。
それ以上を詳しく語ることは避ける。
ハイネはしばらく黙り込んだ。
自分を打ちのめして、マリナとの未来を壊した男。
そのはずなのに、亡骸を前にしても敵愾心は湧いてこない。
(あれほど強かった男でも、抗えなかった……)
ゾンビ化は人の意識を削り、怒りも願いも歪ませ、最後には自己の有りようさえ奪っていく。
自分も、いずれ同じ場所へ落ちるのだろう。
その時はもう近い。
今こうして考えられること自体が、残された僅かな猶予なのだとハイネには分かっていた。
床の近くに、三矢が使っていた魔法銃が転がっている。
ハイネはゆっくり膝を折り、それを拾い上げた。手にした銃は重く冷たい。
「護身用に……」
ハイネはそう呟き、止めようとする者は誰もいなかった。
●
|怪人48号《よつは》にとって、その出会いは物語の扉を開く鍵などではなく、路傍で拾った小石を少しだけ眺めてみる程度の、気まぐれに近いものだった。
肩口でふわりと跳ねる淡い白髪に、橙の花と白い小花の髪飾り。
透き通るような白いワンピースと薄布の外套は、薄暗い|鳥籠《ダンジョン》の湿気の中でも可憐に揺れていた。
金色がかった瞳は柔らかく細められ、首元の飾りや胸に下がる輪のペンダントまで含めれば、彼女はまるで祝福された花嫁か、清らかな祭壇から抜け出した少女のようにも見える。
もっとも、それは外側だけの話だ。
どうせ、この場所にも|白詰草《やくそく》の|季節《みらい》などない。
それは最初から分かっていた。
幸福を象る四枚の葉は、どこへ行っても見つからない。
探せば探すほど三つ葉ばかりが視界を覆い、自分が何を期待していたのかさえ分からなくなる。
だから|主犯《ラフェンドラ・オピオイド》との遭遇にも、彼女は大した意味を見出していなかった。
ただ、少しだけ退屈しのぎになりそうだと思っただけだ。
悪い子の誘いに乗ってみる遊びなら、悪の怪人である自分には似合いかもしれないと、そんな風に軽く考えた。
そこは薄暗く、じめじめと湿った空気に満ちた|鳥籠《ダンジョン》だった。
壁には腐った水の染みが広がり、石床の隙間からは死臭が這い上がってくる。
奥へ進むほど空気は重くなり、そこに棲むモンスターたちは、まるで誰かに決められた役目だけを抱えて動く舞台の端役のように蠢いていた。
少しだけ、自分に似ている。
|冒険者《ヒーロー》たちに攻略されるための舞台。
彼らの勇気や絆を際立たせるために置かれた障害物。
そこに生きるモンスターは、物語の駒でしかない|悪役《ヴィラン》。
それから数日は、拍子抜けするほど何も起きなかった。
せっかく手に入れた|ウィルス《これ》をどう扱おうか。
この場所にいる腐ったお友達を、どんな風に並べれば愉快だろうか。
そんなことを考えながら、彼女はダンジョンの中を見て回るだけの日々だった。
だから今日の彼女は、ほんの少しだけ胸を弾ませていたのかもしれない。
「ねえ、もしかしたら、あなたの王子様がもうすぐ来てくれるかも。うれしい?」
「………………」
白いクロスが敷かれた円形のテーブルに、整えられたティーセット。
湿ったダンジョンの一角にはあまりに不釣り合いな光景だった。
よつははカップを手に、にこにこと微笑んでいる。
その向かい側には、マリナが座らされていた。
顔色は悪く、膝の上で握られた手には力が入りすぎている。
逃げ出したい気持ちも、目の前のよつはを刺激してはいけない恐怖も、どちらも身体の強張りに表れていた。
「……どうして?」
ようやくマリナが声を絞り出す。
「何がかな?」
よつはは小首を傾げた。
長い飾り紐が、白い薄布の横でゆるやかに揺れる。
「どうして、こんなことを、するの……ひっ!」
マリナが小さく悲鳴を上げた。
隣に座っていた人型のゾンビが、ぎこちなく動いたのだ。
そのゾンビはティーカップを持っていた。
中身を口に運ぼうとしているらしいが、腐った指は細かな動作に向かず、カップの縁は唇からずれて、茶色の液体が口元からだらしなく垂れていく。
「もー、君は不器用だね」
よつははおかしそうに笑う。
明るく、無邪気で、だからこそ異様な笑みだった。
「怖がらなくても平気。その子の影はわたしがもらったから。せっかくここにはたくさんのお友達がいるんだから、二人だけじゃ寂しいでしょ」
テーブルの周囲には、他にもゾンビたちが座っていた。
低く唸りながら空のカップを覗き込む者。
スコーンを鷲掴みにし、口へ押し込んでは崩れた欠片を床へ零す者。
何もせず、ただ呆けたように首を傾けている者。
それはお茶会という名の|遊戯《おままごと》だった。
よつはがそうしろと命じているから、彼らは客人のふりをし、椅子に座り、飲食の真似事を繰り返している。
本物の幸福がどこにもないなら、偽物を並べて愉しもう。
友達のふりをするゾンビも、白いクロスも、ティーカップも、綺麗なお姫様も。
全部が作りものでも、舞台として見ればなかなか悪くなかった。
「マリナ……!」
不意に、女性の名を呼ぶ声がフロアへ響いた。
続いて、いくつもの足音が近づいてくる。
「ハイネ……!」
マリナの顔が跳ね上がる。
その名は、彼女が待ち続けていた人のものだ。
きっと来てくれるはずだと信じていた。
けれど、姿を見た途端にマリナの表情は曇る。
「ハイネ、あなた……!」
灰色の髪の青年は、確かにそこにいた。
だが、その肌には死の濁りが浮かび、呼吸には人間のものではない荒さが混じっている。
支えられながら立つ姿は痛々しく、マリナの記憶にある彼からとは程遠いものになっていた。
よつははカップを置き、金色の瞳を楽しそうに細める。
「あなたの王子様、もうゾンビになっていたね」
その一言で、マリナの顔が泣き出しそうに歪んだ。
それでも彼女は、すぐに叫ぶ。
「逃げて! 早く!」
よつはは少しだけ不思議そうに瞬きをした。
ずっと待っていた人が来たのに。
怖くて、寂しくて、信じるしかなかった奇跡が目の前に現れたのに。
それでも逃げろと言うのかと、胸の奥で小さな興味が跳ねた。
やっぱり|冒険者《ヒーロー》とお姫様の物語は、外から眺める分には面白い。
よつはは白い指先でカップの縁をなぞりながら、変わらぬ微笑みを浮かべていた。
「此れは如何なる状況か」
蜚廉の声が、湿ったフロアに低く響いた。
ダンジョンの奥に置かれた、茶会の準備が整えられた白い円形テーブル。
そこで客人を気取る人型のゾンビたちと、救助しようと探していたマリナ。その対面で微笑んでいる、見知らぬ少女。
彼らにとっては何かの悪ふざけかと思う光景だろう。
「隠れていたら……急にこの女の子が現れて……」
マリナが震える声で言った。
彼女の肩は強張り、視線は隣に座るゾンビとよつはの間を行き来している。
「わたしはダンジョンの奥にいたんだけど、今日はなんだか騒がしいから、退屈しのぎにここまで来てみたんだ。そうしたらマリナさんを見つけてね。ここでお茶会しながら王子様を待っていたの」
よつはは、まるで散歩の途中で花を摘んできたとでも言うように語った。そこに何の悪びれもない。
だって、そういうものではないか。
舞台には飾りが、物語には役割が必要だ。
お姫様が待っていて、王子様が迎えに来るなら、その間にお茶会があった方が可愛い。
よつはの中では、それぐらいの理屈でまとまっていた。
「王子様というのはハイネさんのことかな?」
クラウスが問いかける。
声音は柔らかいが、青い瞳には警戒がある。よつははその視線を受けても気にした様子を見せず、嬉しそうに頷いた。
「うん、そうだよ。だってマリナさんを守って自分が残るなんて、まるで童話の王子様みたいでしょ!」
よつはにとって、それは本心だ。
ハイネがしたことを、純粋に美しいと思う気持ちがあった。
自分の身を捨てて誰かを守るなんて、いかにも|冒険者《ヒーロー》らしい。正義の物語に出てくる、きらきらした登場人物の行動そのものだ。
「だから、王子様が来るまでゾンビにするのは待っていてあげたんだ」
その言葉に、空気が硬くなった。
結が黙っていられなかったのは、当然だった。
そこには、恐れよりも強い困惑と痛みが浮かんでいる。
「どうして、そんなことをするの?」
よつはは結を見た。
その顔は、やはり笑っている。
悪意を隠すための笑みではない。悪意というものを、そもそも悪いものとして扱っていない笑みだった。
「だって、不公平でしょ。このダンジョンにいるモンスターたちは皆、|貴方たち《ヒーロー》に倒されるだけの役割」
よつはの声は明るい。
けれど、その奥には古い諦めが沈んでいる。
彼女は知っている。
役割のために生まれたものが、どれほど軽く扱われるかを。
正義を引き立てるために悪が用意され、歓声のために敗北が求められ、物語が終われば使い捨てられた駒の名前など誰も覚えていない。
その仕組みに抗った先にも、彼女は幸福を見つけられなかった。
ならば、いっそ。
「ゾンビになれば、皆が|公平《平ら》になれるよね!」
よつはは楽しげに言った。
テーブルの周囲で、ゾンビたちが小さく唸っている。そこに個性や意思はなく、公平に死が蔓延していた。
結の表情が曇る。
彼女はその言葉に、明確な拒絶を感じていた。その公平という言葉はあまりに残酷で無慈悲なものだったから。
「他の方法じゃダメなの? 皆が幸せになれる方法を探そう?」
結の声は真っ直ぐだった。
甘い理想に聞こえるかもしれない。けれど彼女は、本気でそう願っている。
傷つく人を減らしたい。理不尽に奪われるものを少しでも救いたい。自分にできることが小さくても、その小さな手を伸ばさずにはいられない。
よつはは、そんな結を眩しそうに眺めた。
「あなたは優しいんだね。でも無理だよ。だって世界は|理不尽で不公平《そういう風》にできているから」
その答えは、ひどく軽い口調で放たれた。
けれどよつはの中で、それは真理に等しい認識だった。
世界は最初から平等ではない。
|冒険者《ヒーロー》に生まれるものがいる。
|悪役《ヴィラン》として消費されるものがいる。
名前を持てるものがいて、番号だけで死地へ送られるものがいる。
誰かに守られるお姫様がいて、誰にも助けられない怪人がいる。
彼女はそこから逃げ出した。
鳥籠を壊し、舞台をひっくり返し、用意された終わりを拒んだ。
それでも、外に広がっていたのは自由でも幸福でもなく、ただ別の形をした空虚だった。
だから求める。
せめて面白いと思えるものを。
誰かだけが踏みつけられ、誰かだけが讃えられる不公平な舞台を、みんなまとめて同じ高さへ沈める方法を。
ゾンビになれば、王子様もお姫様もモンスターも怪人も関係ない。
そこにはもう、救う側も救われる側もない。
誰もが腐り、誰もが飢え、誰もが名前を失って|公平《平ら》になる。
よつははそれを、とても可愛い冗談みたいに考えていた。
テーブルの上で、ゾンビの一体がスコーンを握り潰す。
白いクロスに汚れた欠片が散った。
よつははそれを見て、少しだけ困ったように笑う。
「ほらね。お茶会だって、みんな上手にできるわけじゃないんだよ。だから、できる子だけが褒められる世界って不公平だよねぇ」
金色の瞳が、結を見つめる。
その目は柔らかく笑っているのに、奥底はどこまでも遠かった。
「わたしはね、優しいあなたみたいには信じられないんだ。みんなで幸せになる方法なんて、きっとどこにも落ちてないよ」
落ちていなならば作るしかない。
幸福ではなく、同じ不幸を。
救済ではなく、同じ結末を。
それがよつはにとっての、世界へのささやかな仕返しだった。
「ここの管理をしているのはラフェンドラではなく、君なのか」
クラウスの問いかけに、よつはは白いテーブルの向こうで小さく笑った。
ラフェンドラ・オピオイド。
その名前は、よつはにとって首輪でも旗印でもない。たまたま面白そうな玩具の場所を教えてくれた誰かであり、あえて言うなら案内人に近い。
ここで何をするか、どんな風に遊ぶか、それを決めたのはよつは自身だった。
「そうだよ。あなたたちは√能力者だよね? だったらね、ゾンビウィルスが入ったフラスコを持って帰りたいんだけど、大きくって。何か良い√能力とか持ってないかな?」
それは本当に、少し困っているだけの口調だった。
重い荷物を運ぶ手段を尋ねるように。
可愛い花瓶を持ち帰りたいけれど、自分の腕では抱えにくいのだと相談するように。
その中身が別の世界を死で満たすものだという意識は、もちろんある。けれどよつはにとって、そこに罪悪感はなかった。
「汝は他の世界までゾンビで満たすつもりか」
蜚廉の声が低く響く。
黒い外殻に覆われた巨躯は、よつはの白さとはあまりにも対照的だった。
よつはは、その問いの重みを受け止めるより先に、花飾りを揺らして嬉しそうに頷く。
「うん! もちろん! 持って帰っていっぱい作って、世界中を全部|公平《ゾンビ》にしちゃお!」
明るい肯定だった。
そこに秘めた計画の陰湿さはない。むしろ、誰もが欲しがる素敵な贈り物を思いついた子供のようでさえあった。
彼女にとって、それは救済ではない。
まして正義でもない。
ただ、彼女なりに思いついた|公平《平ら》へ至る方法だった。
生まれた役割も、与えられた名前も、何もない未来も、全部ぐずぐずに腐ってしまえば同じになる。
「それはさせないし、ゾンビフラスコはここで破壊する」
クラウスはきっぱりと言った。
柔らかな声音の中に、揺るぎない拒絶がある。
よつはは、少しだけ目を細めた。
期待していなかった答えではない。むしろ最初から分かっていた。
「やっぱりそうなるかー。ヒーローだもんね」
もし協力してくれたら、それはそれで愉快だったかもしれない。
けれど拒まれるのなら、それもまた舞台としては分かりやすい。むしろ、その方が物語らしいとさえ思える。
よつはは椅子から立ち上がる。
白い薄布が、湿ったダンジョンの空気を撫でるように揺れた。
テーブルの周りでは、影に支配されたゾンビたちもまた立ち上がる。
同時に、周囲からもフロアへとゾンビが集いだしていた。
「じゃあ愉しいことしようよ。君たちが好きなヒーローごっこでいいよ」
お茶会の客人たちが、戦闘員へ変わっていく。
正義の味方へ襲いかかり、倒され、舞台を盛り上げるための駒。
よつははその光景を、どこか懐かしいものを見るように眺めていた。
違う世界。
違う舞台。
それでも構造はよく似ている。
誰かが輝くために、誰かが倒される。
「汝にとっては戯れか」
蜚廉の問いは、責めるというより確かめる響きだった。
よつははふわりと笑う。
「そうだよ。ヒーローが|被害者《女の子》と世界を救う|ごっこ遊び《ロールプレイング》」
その言葉は軽い。
けれど、軽いからこそ底が見えない。
「そこは安全だからヒーローが救ってくれるのを待っていてね。動くと、あなたの影ももらっちゃうかも」
そう告げられたマリナはテーブルに座したまま竦んでしまう。
それでいい。たとえごっこ遊びでも、決着が付くまでに救助されてしまっては興ざめだ。
「マリナを返せ!」
「王子様も抵抗するなら食べちゃうよ」
世界は、どうしようもなく不公正だ。
よつははそれを知っている。
誰かは正義として生まれ、誰かは悪として作られる。
誰かは名を呼ばれ、誰かは番号で数えられる。
誰かは守られるお姫様で、誰かは死ぬためだけに出番を待つ|悪役《ヴィラン》になる。
48番目の怪人。
48番目に倒されるためだけに生み出された少女。
その順番が来ることを、彼女は許せなかった。
だから自分の手で壊した。
故郷にあった不公平な仕組みを、正義と悪の舞台を、誰かが誰かを消費する物語そのものをひっくり返した。
人生で一度くらいは、ヒーローになってみたかったのだ。
誰かを救い、間違った仕組みを壊し、世界をよい方へ変える存在に。
けれど、それは間違いだった。
仕組みを失った世界は、幸せにならなかった。
正義を失った大衆は自由にならず、悪を失った舞台は平和にもならない。
彼女が開けた鳥籠の外には、眩しい空など広がっていなかった。
ただ壊れた。
誰にも直せず、誰にも導けず、もう滅ぶしかない形へ崩れていった。
だから|怪人48号《よつは》は理解した。
しょせん自分は|悪役《ヴィラン》としてしか生きられない。
正義の真似をしても、手に残るのは|三つ葉《空虚》ばかり。
ならば今度は、最初から悪役らしくやればいい。
新しい平等なシステムを作ろう。
みんなが同じように腐り、同じように飢え、同じように名前を失う世界。
誰かだけが倒されることも、誰かだけが喝采を浴びることもない、ぺたんこで優しい不幸の国。
とても悪役らしい|白詰草《復讐者》が作った|物語《シナリオ》。
これは|間違い方を失敗した《鳥籠を壊した》、その末路。
小明見・結は|怪人48号《よつは》を前にして、また答えのない場所へ立たされていた。
よつはの生きてきた世界を、結は知らない。
どんな空の下で暮らしてきたのか。どんな理不尽を日常として受け入れ、痛みを積み重ねた末に、今の言葉を口にしているのか。それさえ結には想像もできない。
結自身は二年前に幼馴染みを神隠しで失い、√能力へ目覚めるその時まで、|√EDEN《楽園の中》で暮らしてきた。
そこにも悲しみや苦しみはあった。けれど外の√で見てきたものは、その比ではない。
世界には巨大な問題が立ち塞がり、人が当たり前に生きるための土台さえ脆く崩れていたことすらある。
だから、結はよつはの言葉を簡単には否定できなかった。
知らない世界で生きてきた相手の傷を、楽園側の正しさだけで裁いてしまうのは理不尽極まりない。
どうすればいいのか。どこまで信じていいのか。そもそも信じたいと思うことが、今この場で許されるのか。
答えのない迷路に沈むように思考を巡らせているうちに、現実の方は結を待たずに進んでいた。
戦いは、すでに始まっている。
本当は、よつはと折り合いをつける方法を探したかった。
話し合い、彼女が何を望み、どこまで譲れるのかを知る。そのうえで誰もこれ以上傷つかずに済む道を探したかった。
けれど、ハイネには時間がない。
彼のゾンビ化は確実に進んでいる。今はまだ意識を保ち、マリナの名を胸に立っているとしても、それがいつまで続くのかは誰にもわからない。
ならば、結が今一番叶えたいことはひとつだった。
マリナとハイネに、最後の時間を作ること。
そのためにもせめて、マリナを危険の届かない場所へ逃がす。
「お願い、マリナさんを守って」
結の呼びかけに応じて、風の精霊たちが姿を現した。
淡い光を帯びて、マリナの周囲をくるくると舞い始める。
軽やかで、頼りなくも見えるその気流は、彼女の周りへ輪を作った。
精霊たちに戦闘はできず、敵を打ち倒し、道を切り開く力はない。
けれど一体につき一度だけ、マリナへ降りかかる危害を防いでくれる。
それだけでも、今この場では十分に大きな守りだった。
この守りで急場をしのぐ。
その間にマリナを安全な場所へ連れていく。結はそう考え、一歩を踏み出した。
「ダメだよ。お姫さまを勝手に連れていっちゃ」
よつはが結とマリナの間へ立った。
その動きは軽い。
まるで遊び場で友達の進路を塞ぐ子供のように、声も仕草もどこか無邪気だった。
「先に助けだしちゃったら、遊びが台無しでしょ?」
命のやり取りが生じている場でのその笑みが、結にはかえって恐かった。
「ハイネさんにはもう時間がないの。せめて、二人に静かな時間を過ごさせてあげて」
「それならなおのこと、マリナさんはそこから動かさない方がいいよ」
「どういうこと?」
結の問いに、よつはは少しだけ首を傾けた。
困ったようでも、からかうようでもある表情だった。
「わたしが今さらやっぱりやーめたって言ったら、あなたたちは信じる? わたしのこと、見逃してここから帰ってくれる?」
「…………」
結は、信じたい。信じて、よつはと話がしたいと本気で思う。
けれど、それは結ひとりの願いでしかないのだ。
この場にいる全員が戦いを止めてくれるとは限らない。よつはの言葉を罠だと考える者がいても、それは当然の警戒だろう。
そして何より、ゾンビウィルスを放置することはできない。
ダンジョンの奥には、原因となるフラスコがある。
それをそのままにすれば、この場所へ入った者たちの被害は広がる。
それに、もしよつはが外へ持ち出す方法を見つけてしまえば、別の世界にまでゾンビ化の災厄が広がるかもしれない。
よつはを見逃すという選択は、彼女ひとりを許すという話では終わらなかった。
「ごめんなさい。それはできない」
結がその答えを口にした途端、自分の胸に小さな刃が刺さるような痛みが走った。
(彼女の望みにも、私は応えられそうにない……)
「でしょ。だから戦うしかないの」
よつはは怒らなかった。失望している気配すらない。
ただ、最初からそうなると知っていたみたいに笑っている。
「それと、わたしを倒しても、お姫さまが王子さまと合流する前にゾンビ化しちゃうかもしれないよ?」
結はハイネへ視線を向けた。
彼はまだ動いている。意識を保ち、戦闘にも加わっている。
けれど、その身体は明らかに限界へ近づいていた。肌に浮かぶ濁った変色、苦しげな呼吸、時折揺らぐ視線。どれも、よつはの言葉が単なる脅しではないことを示している。
ハイネがマリナへ辿り着く前に壊れてしまう。そんな可能性は、決して低くなかった。
「どうして、そんなことを教えてくれるの?」
「ヒーローが勝ったのにバッドエンドじゃ、わたしが嘘つきみたいだし」
その回答は妙に軽薄で、どこか寂しくも聞こえた。
まるでよつはは、自分が悪役として倒されることで、この場を物語として成立させようとしているみたいだった。結にはその在り方が理解できず、だからこそ心がざわつく。
「それにね」
よつはが微笑む。
その表情を見た途端、結の身体は動かなくなった。
足が床へ縫いつけられたように止まり、腕も指先も意思に従わない。息を呑むことはできるのに、半歩を踏み出すことができない。
拘束されている。そう理解した時には、もう遅かった。
「こういう話をしたら油断してくれるかなと思って」
「そんな……!」
悔しさが喉を灼いた。
ここは戦場だ。それを忘れたつもりはない。
しかし、よつはの言葉の裏にある痛みを考えようとした。彼女の過去や世界を知らないまま断じたくないと思った。
けれど、それを理由に戦いを躊躇うこと自体が甘い。
よつはが不条理な世界で生きてきたのだとしても。
どのような体験を経て、こうなったのだとしても。
今ここにいる彼女は怪人48号であり、ダンジョン内の生命すべてを生ける屍に変えることへ迷いを持たない、世界への復讐者なのだ。
「戦わないなら、自分の守りをおろそかにしちゃダメだよ?」
よつはの声は優しい。
だからこそ、結の背筋が冷えた。
マリナを守るために、守り風はそちらへ集中させている。
結自身の周囲には、防御のための精霊が残っていない。
マリナを確実に逃がすためには必要だと判断したが、けれど今、その選択が結自身を無防備にしていた。
拘束された結へ、周囲のゾンビたちがにじり寄ってくる。
腐った足が石床を擦る。
濁った目が結を捉える。
伸びてくる手はぎこちないはずなのに、動けない彼女には恐ろしく速く見えた。
精霊術を学んではいても、結の肉体は一般人と大きく変わらない。
噛まれれば感染から逃れる術はない。
引き裂かれれば耐えられない。
その当たり前の事実が、今さらのように現実味を持って迫ってくる。
ゾンビの指先が結の肩へ届きかけて、彼女は思わず目を瞑った。
けれど、結が身構えた痛みはいつまで経っても訪れなかった。
代わりに、乾いた破裂音のようなものが連続して響き、次に重い音が続く。
結が恐る恐る目を開くと、そこに立っていたのは見知らぬ女の子だった。
白銀の髪を左右へ流し、片側を高い位置で結び、その顔立ちにはあどけなさが残る。
深い青緑の軍警帽を斜めに被り、同じ色の上着には肩章と紫の飾り紐が揺れている。
短いスカートの下からは片脚だけを覆う黒いニーソックスと、革紐の多いショートブーツが覗いていた。
その周囲には、結へ襲いかかろうとしていたゾンビたちが倒れている。
彼女はそれらの中心で軽く拳を下ろし、何事もなかったように結へ振り返った。
よつはは、自分が差し向けたゾンビたちが倒されたのを見て、すぐに結への拘束を解いていた。
結はよろめきそうになりながら、その場で息を吸う。
「だいじょうぶ? 怪我、してない?」
「うん……ありがとう」
「よかった。それじゃあ、後は任せて」
飴澤・茲(したごころのないいつくしみ・h12626)は、気負いのない笑顔でそう言った。
その表情は柔らかいのに、向き直った背中には一切の隙がない。
「負け試合も公平性も分からなくはないけど、あなたと私の意見が合うかは別の話でゴメンネ」
茲は後続要員として、少し遅れてこのフロアへ追いついていた。
ただ、到着してすぐに飛び込んだわけではない。
会話内容と状況から空気を読めば、戦闘は避けられないと分かる。
そのため、隠れて様子を見ていた。そして結が狙われたところで、迷わず割って入ったのだ。
「私は均すよりぶっ飛ばして黙らせるほうが好きかな!」
茲が生きてきた√仙術サイバーは、強さこそが正しさを押し通す力になる世界だった。
理不尽や不公平があるならば、自分を鍛えて邪魔をする相手ごと突破する。
それは粗暴なようでいて、彼女にとってはかなり真っ直ぐな信条だった。
「脳筋さんだー」
よつはの言葉はどこか楽しげでいて、同時に挑発的だった。
「否定はしないよ」
だから行く。
新たに迫ってきたゾンビが、両腕を広げて茲を捕まえようとした。
腐った顎が開く。噛みつきに来る。
普通なら距離を取りたくなる間合いへ、茲はむしろ自分から踏み込んだ。
低く潜る。
相手の懐に入り、噛みつこうと頭が下がったところへ、下から一直線に蹴りを突き上げる。
足先が顎を跳ね上げ、ゾンビの頭が大きく仰け反った。
そのまま崩れる前に、茲の縦拳が胸部へ入る。骨と腐肉を大きく陥没させる重い打撃を受けたゾンビは、その勢いで壁まで吹き飛ばされ、床へと倒れ込んでいった。
「っ!」
しかし、その一体を倒した直後、茲は音もなく忍び寄った影に気づいた。
体が反応して、彼女は咄嗟に横へ飛び退いた。
直前まで足元にあった影が、獲物を捕える縄のように蠢いている。
薄暗いフロアだが、茲は最初から、逆光にならない位置を選ぶよう注意していた。
それでも相手は影使いである。
物理法則に従って素直に動く保証など、どこにもない。
相手の影の濃淡を読みつつ、自分の影をコントロールするため、光の角度を測りながら戦うのも大切だろう。
けれど、じりじり距離を測って機会を待つような戦いは、どうにも茲の性に合わなかった。
「よし、いっちゃえ」
短く言って、茲は踏み込んだ。
距離が一気に詰まる。
しかし当然のように、よつはの影が茲の影を捕まえた。
足元が重くなる。影が絡みつき、体の自由を奪おうとする。
だが、その時にはもう遅い。
茲は踏み込みを終えていた。
完全に拘束される前に腰を切り、腕を鞭のようにしならせる。肩から肘、肘から掌へと加速を流し、気を込めた掌底のアッパーをよつはの腹部へ叩き込んだ。
「かふっ!」
確かな手応えがあった。
衝撃がよつはの体を浮かせる。
軽い体がくの字に曲がり、表情から余裕が少し剥がれた。
「あなたもずっと棒立ちじゃつまんないでしょ?」
「ごっこ遊びなら、先に戦闘員からがお約束、だよね……!?」
よつはが距離を取り直そうと下がる。
茲はそれを見逃さなかった。
自分の足をよつはの足へ絡め、退く動きそのものを崩す。
よつはの体が仰向けに倒れ込んでいく。
そこへ、茲は最短距離で体重の乗った直突きを叩き込んだ。
「痛うぅっ!」
よつはは咄嗟に腕を交差させて受けた。
それでも衝撃は殺しきれず、その場に尻もちをつく。ガードの上からでも効いているのは、苦しげに歪んだ口元を見れば分かった。
影を自由に使わせない距離で、考えるより先に体へ触れる近接戦。
そこまで持ち込めば、茲に分がある。
さらに、ここでよつはを留まらせておけば、他の仲間との連携も狙える。それはハイネが限界を迎える前に、マリナと会話を交わす時間を稼ぐことにもなるだろう。
茲は追撃の回し蹴りを放った。
だが、よつはの体が不自然に傾く。
蹴りは、顔のすぐ上を空振った。
そのまま、よつはの身体が影の中へ沈むように消えていく。
残った影だけが、ぬるりと床を滑って移動する。
逃げ込む先には、まだ倒されずに残っているゾンビの群れがあった。
木を隠すなら森の中というわけだ。
「先に、こっちからぶっ飛ばそっか」
先に戦闘員から相手にしろというよつはの言葉は、こういう意味でもあったらしい。
茲は迷わなかった。
ゾンビの群れへ向けて姿勢を低くし、石床を蹴る。
拳を握り、腐った群れを蹴散らすように真正面から突撃していった。
|怪人48号《よつは》が、このダンジョンに置かれたゾンビフラスコの護り手である以上、戦いを避けて通る道はない。
クラウスはそう判断していた。
それに、大人しくマリナを解放しようという気もない。
ならば、必要なのは迷いではなく、状況を崩す力だった。
「大丈夫。必ず助けるから、動かないで」
クラウスはマリナへ穏やかに声をかけた。
恐怖で強張る彼女を刺激しないよう、柔らかな声色を選ぶ。瞳には不安が揺れていたが、マリナはかろうじて頷いた。
動かなければ安全。
よつはの言葉は、恐らく本当だろうとクラウスは見ていた。
理由はまだ掴めない。けれど、ゾンビたちをただの感染源ではなく戦闘員として扱っていること。マリナをお姫さまと呼び、ハイネを王子さまの位置へ置こうとしていることから、よつはは自分で定めた遊戯の構図を重んじているように見えた。
だとすれば、彼女があえて自分の作った規則を破り、動かないマリナへ直接危害を加える可能性は低い。
少なくとも、一分一秒を争う今を賭けるだけの根拠にはなる。
(ハイネは……一緒に戦ってもらった方がいいか)
クラウスは視線の端でハイネを捉えた。
彼は三矢から奪った魔法銃を構え、迫るゾンビたちへ応戦している。
足取りはまだ危うく、肌に滲む濁りも隠せないが、銃口を向ける姿にはしっかりと自意識があった。
ハイネには時間がない。
待つほどにゾンビ化は進み、マリナへ辿り着く前に意識が崩れる危険が増していく。
ならば彼をただ守るだけではなく、戦力として扱い、この状況を早く終わらせる方がいい。
無茶をしないよう気にかける。
それでも、彼が自分の意思で戦うことまでは止めない。
クラウスは胸元へ手をやった。
そこには紅いネックレスがある。大切な人から託された、心臓の欠片。その赤を両手で包み、静かに目を閉じる。
胸の奥へ、熱が沈んだ。形ある欠片が解けるように、クラウスの内側へ溶け込んでいく。
黒かった髪が、根元から灰色へ変わった。さらに同じ灰色の狼の耳が幻影として現れる。
普段の柔和さは残したまま。
けれど今の彼は、誰かの祈りを背負って戦う獣でもあった。
魔力が満ちる。
血の代わりに友の力が巡るような感覚を、クラウスは短く息で整えた。
そして、その魔力を燃え盛る炎へ変換する。
火が走った。
ただ爆ぜるのではなく、狙いを持って広がる炎だった。
石床を這い、空気を焼き、周囲のゾンビたちへ襲いかかる。
「ただのゾンビとは違うのか」
クラウスは低く呟いた。
先ほどまでの生ける屍なら、炎を避けようとはしなかった。痛みも恐怖も曖昧なまま、燃えながらでも近づいてきたはずだ。
だが今、ゾンビたちは違う反応を見せた。
焼かれる危険を察知したように、一斉に身を引いたのだ。逃げるというより、戦術的に距離を取る動きだった。
「そうだよ。戦闘員だからね」
「っ!」
声はすぐ近くから聞こえた。
クラウスが振り向くと、そこによつはがいた。
さっきまで別の位置にいたはずの彼女が、さも当然のように立っている。軽く笑った顔には、悪びれた様子がない。
同時に、足元の影が伸びた。
黒い腕のように、クラウスを捕らえようと這い寄ってくる。
クラウスは即座に光魔法を発動させた。
床へ差し込む光の角度を変える。
影の伸びる方向が歪み、よつはの攻撃はクラウスの足元を逸れた。
そのずれを逃さず、彼は反撃へ移る。
魔力が冷気へ転じる。
熱とは真逆のベクトルを持つ、鋭い氷塊を複数生み出した。
つらら状のそれらは、空気を裂いてよつはへ連射される。
だが、届かない。よつはの前へ、ゾンビが自ら飛び出したからだ。
命じられた盾として、迷いなく氷の軌道へ身を投げ出す。
氷塊に貫かれたゾンビは、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
さらに別の一体が、次の氷を受ける。
痛みも恐怖も関係なく、ただよつはを守るために体を差し出していた。
クラウスは眉を寄せる。
周囲のゾンビたちは、完全によつはの支配下にある。
彼女の命令を受ければ、回避も防御も犠牲も選べる。
怪人のために、どんな命令でも忠実にこなす存在。まさに戦闘員だった。
頭部を貫かれたゾンビが、石床へ崩れる。
その後ろに、よつはの姿はもうなかった。
「どこに……」
クラウスは視線だけで周囲を探った。
よつはの気配は消えている。倒れた戦闘員の影が床へ薄く伸び、燃え残りの炎が石畳を赤く照らしていたが、そのどこにも彼女の姿は見えなかった。
考える猶予はない。三方向から|戦闘員《ゾンビ》が迫ってくる。
正面から、片腕のない人型が。
右から、背骨を歪ませた獣じみた個体が。
左から、顎の外れた小鬼が。
クラウスは灰色に変じた髪を揺らし、狼の耳の幻影を微かに震わせながら、片手を振るった。
炎が走る。
燃え上がった魔力は三つの軌道へ分かれ、迫る戦闘員たちを焼き払った。
ただの死者であれば構わず突っ込んでくるところだが、よつはの支配下にある彼らは違う。焼かれる痛みを理解しているわけではないのに、命令に従う戦闘員として、炎の範囲を避けるように身を捻っていた。
その不自然な回避を読み、クラウスは次の炎を重ねる。
逃げ道へ炎を置き、下がった先を焼く。
戦闘員の身体が崩れ、燃えた腕が床へ落ちた。
その直後、クラウスの身体が重くなった。
「……っ」
足が動かない。腕もわずかに遅れる。
身体そのものの動きが、床へ縫い込まれているようだった。
クラウスは足元を見る。
炎に包まれ、焼け崩れていく戦闘員。その影だけが異様に長く伸びていた。
燃える肉体とは不釣り合いなほど濃く、黒く、意思を持つかのように床を這っている。
その先端が、クラウス自身の影へ絡みついていた。
「わたし、影踏み得意なんだ」
声がした。
戦闘員の影が、泥の水面のように揺れる。そこから、よつはが浮かび上がってきた。
何でもない遊びを成功させた子供のように微笑んでいる。
「影の中に隠れることもできるのか……」
クラウスは声を低くする。
驚きはあった。けれど、狼狽は押し殺す。
敵の能力が増えたなら、その分だけ状況を組み直せばいい。そう自分に言い聞かせ、魔力を腕へ通そうとした。
「そうだよ。これは√能力じゃなくて、怪人としての能力。おっと、その腕は恐いからこっちに向けないでね」
よつはの影が、クラウスの腕を押さえた。
肘が上がらない。
手首がよつはへ向かない。
魔力を放つための動作が、影に封じられている。
クラウスは眉を寄せた。
√能力者ではない魔法少女にも、魔法が扱える者がいる。
ならば異能のすべてが、√能力という一つの枠に収まるとは限らない。
よつはは怪人である。しかも、それは戦闘能力の高さだけで測れるものではないのだと、この状況が告げていた。
次の戦闘員たちが集まってくる。
足音が重なり、濁った呻きが近づく。
クラウスは身を捩って拘束を破ろうとしたが、動かそうとした部位へ影が絡む。足を引けば足を、肩を回せば肩を、腕を上げようとすれば腕を。
よつはの影は、まるで先回りするように彼の動きを阻害していった。
無防備になった身体へ、|戦闘員《ゾンビ》たちが襲いかかる。
爪が肩を裂いた。
歯が腕へ食い込む。
別の個体が脇腹へ掴みかかり、腐った爪を肉へ沈めた。
「ぐっ……!」
鮮血が散る。
灰色の髪が乱れ、クラウスの顔が苦痛に歪んだ。
それでも炎を起こそうとするが、腕は上がらない。
足も踏み込めない。
噛みついた戦闘員を振り払うための最小限の動きすら、影が遅らせる。
「あーあ、ヒーローが戦闘員に負けちゃった」
よつはは軽い声でそう言った。その後の結末はもはや見る価値すらない。
なので、くるりと向きを変える。
「次はあなたの番だよ」
その視線の先にいたのは、蜚廉だった。
焦茶色の肌を黒い外殻に包んだ異形の巨躯は、クラウスが傷つけられる光景を見ても取り乱さなかった。
ただ、深く構える。
怒りも、焦りも、表へは出さない。
その代わり、内側で何かが静かに燃え始める。
「言葉が届くとは思っておらぬ。戯れと言うのなら、戯れのまま好きにするがいい」
蜚廉は低く告げた。その声色に諦観はない。言葉だけで止める段階が過ぎたと認めている響きだった。
そして、|原闘機構《オリジン》を発動させる。
淡い陽光のような闘気が、蜚廉の巨体へ満ちていった。
黒い外殻の継ぎ目から、暖かな光が滲む。
それは炎の荒々しさとも、魔法の煌びやかさとも違う。もっと原始的で、肉体が本来持つ力を呼び覚ますような輝きだった。
筋が膨れ、爪が床を掴み、蜚廉の存在感が広間の中心へ太く根を張る。
「ふふ、硬派なヒーローって感じの台詞だね」
よつはが笑う。
その足元から、影が幾本も伸びた。
影は細く引き絞られ、矢の形へ変わっていく。黒い矢じりが無数に並び、一斉に蜚廉へ向けられた。
放たれる。
影の矢が、闇より濃い線となって飛来した。
壁を這うもの。
床を滑るもの。
空中を真っ直ぐ穿つもの。
その軌道は単純な弾幕ではなく、蜚廉の足場と逃げ道を同時に潰すように組まれている。
蜚廉は退かなかった。
肘の甲殻が変形する。
鋭利な刃と化した殻突刃が、鈍い光を帯びて現れた。
最初の矢を弾く。
次を逸らす。
三本目を叩き折り、床から這い上がった影を肘で斬り払う。
蜚廉の描く軌道は精密だった。
ただの勢いだけで振り回しているのではない。飛来する矢の角度を読み、受ける場所を選び、最小限の動きで弾き返していく。
よつはの微笑は消えない。
蜚廉の構えも崩れない。
「汝がどの様に足を引っ張ろうが、我が歩みを止める障害にはならぬよ」
蜚廉は影矢を弾き払いながら、揺るぎのない声で告げた。
よつはの影は鋭い。
矢となり、針となり、床を這う蛇のようにも変わる。
だが蜚廉は迫る影を弾き、逸らし、叩き落としながら、一歩ずつ前へ出ていた。
「わたしね、怪人としては元々特別強いわけじゃないんだ」
よつはは笑っていた。
軽い声だった。
けれど、その言葉は嘘ではない。
彼女は膂力に優れた怪人ではなかった。
正面から敵を粉砕する力も、圧倒的な耐久力も、暴力そのものを支配する才能も持ち合わせていない。
それでも彼女は、自分のいた世界を滅ぼした。
その理由は、彼女の影にあった。
よつはが得意とするのは、ただ影を操って相手を縛ることだけではない。
言葉で相手を説き伏せるのでもない。
影を通して、心そのものを書き換える力だった。
影矢は蜚廉の外殻を貫けない。傷としては浅いだろう。
しかし、触れた時点で意味はある。
「ぬぅ……」
蜚廉の意識が揺らいだ。
視界が遠くなる。
音が膜の向こうへ沈む。
己の輪郭が薄れ、何をもって自分を自分と呼んでいたのか、その境界が曖昧になっていく。
それは眠気でも混乱でもなかった。
自我という柱そのものを、根元から削られていく感覚だった。
そこで、|原闘機構《オリジン》が反応する。
外敵に適応するための反射が、肉体ではなく意思へ向いた。
薄れかけた自我を支えるために、蜚廉の内側で意志の強さが増幅されていく。
過ぎるのは、やはり想い人のことばかりだった。
折れぬ。
砕けぬ。
そう見えるのは、外からの錯覚に過ぎない。
蜚廉は知っている。
己が脆く、穢れた生き物であることを。
誇り高く立っているようで、その内側には欠落があり、迷いがあり、獣じみた本能もある。
だからこそ、かつては欠けているという自覚が支えになった。
弱さを知っているから、弱さに呑まれずに済んだ。
だが、今は違う。
今の誇りは、Ankerの傍に居ることだ。
居ていい場所へ還ることだ。
理屈ではない。
義務でもない。
本能が望むままに、その温もりのある場所へ戻ることこそが、今の蜚廉を蜚廉たらしめている。
「んー、効果はいまいち? 同じ√能力者相手だと効きが悪いのかな?」
よつはが首を傾げる。
影は確かに触れている。
心を書き換える力も、届いてはいる。
それなのに、蜚廉は崩れない。
自分とは何か。
自分がなろうとしている自分とは何か。
かつての己と、今の己はどこが違うのか。
その問いが蜚廉の中で駆け巡り、影に薄められかけた自我を、逆に強く結び直していく。
蜚廉は息を吐いた。
黒い外殻の隙間から、闘気が陽炎のように立ち上る。
「いい加減、防いでばかりでは芸もないな」
低い声に、熱が混じった。
呼び覚まされた意志は、彼をより深い闘争へ導いている。
ただし、それは怒りに任せた暴走ではない。
相手を倒すために必要な一手を見定める、静かな獣性だった。
よつはが追加の影矢を放つ。
黒い矢が床から浮かび、壁から剥がれ、空中に幾何学的な軌道を描いた。
数は多い。
速度もある。
避ければ追い、受ければ心を侵す矢だ。
蜚廉はそれを待っていた。
掌を前へ出す。
重心が沈む。
甲殻の奥で闘気が収束し、掌底から不可視の崩撃が放たれた。
|逆墜《ヒヨドリ》。
「――っ!」
よつはの身体が、前へ引き寄せられた。
まるで足元の床そのものが傾いたように、彼女の小さな体が蜚廉の方へ引きずられる。
同時に、放たれた影矢の軌道も狂った。
黒い矢たちは標的を失うどころか、反転するように、よつは自身へ向かい始める。
「引き合う軌道の下、自身の業に貫かれるがいい」
蜚廉が告げる。
その声は、判決のように静かだった。
影矢が迫る。
よつはの身体は前へ引かれ、逃げるには遅い。
黒い矢じりが彼女へ突き立つ寸前、その口の端が吊り上がった。
影が溶けた。
矢だったものが形を失い、黒い液体のように崩れる。
それらはよつは自身の影へ落ち、最初からそこにあったかのように静かに戻っていった。
逆転を狙ったはずの攻撃は、彼女を貫く前に消えている。
「|影《これ》は業じゃなくて、わたし自身だよ」
よつはは、崩れた影を足元へ戻しながら笑った。
|逆墜《ヒヨドリ》は、対象の下方という感覚そのものを変えてしまう強力な技だった。
相手の位置感覚と軌道を狂わせ、放った攻撃を持ち主へ落とすような結果すら生む。
けれど、よつはにとって影は手放した武器ではない。
外へ投げた刃ではなく、自分の肉体に近いものだった。
影矢の形を取っていても、根底にある支配は途切れていない。ならば崩すことも、戻すことも、彼女の意思ひとつで可能になる。
影矢という対象が消えたことで、よつはの感覚も元へ戻っていく。
前方へ引かれていた身体の均衡を取り戻し、彼女は靴裏で石床を軽く鳴らした。
「ならば直接叩くだけのことだ」
蜚廉が踏み込んだ。
引き寄せられていた分だけ、よつはとの間合いは既に近い。黒い外殻を持つ巨体が、陽光めいた闘気を纏ったまま一気に距離を殺す。
肘から伸びる殻突刃が、低い軌道から跳ね上がった。
狙いは首。
もし届けば、軽い身体などそのまま刈り取れるほどの一撃だった。
だが、刃はよつはを捉えない。
彼女の身体が、足元の影へ沈み込む。
まるで床そのものに吸われるように、笑みを残した顔が黒へ溶けていった。
殻突刃は空を裂き、手応えのないまま闇を払う。
その直後、背後から戦闘員たちが蜚廉へ群がった。
腐った腕が外殻へ絡む。
別の個体が腰へしがみつき、さらに肩口へ噛みつくように体重をかける。
個々の力は蜚廉に及ばない。しかし、数で絡みつき、動きの起点を塞ぎ、次の踏み込みを遅らせるには十分だった。
よつはは、自分がそこまで高い身体能力を持たないことをよく知っていた。
だからこそ、身体能力の高い相手がどう動くかも知っている。
速く踏み込む者は、踏み込むための足場を奪えばいい。
硬い相手は、壊すより先に拘束すればいい。
正面から競わず、相手の強さが発揮される前提そのものを変えてしまう。
「丈夫な心なら、丈夫じゃなくなるまで薄くして、お人形さんにしてあげる」
距離を取り直したよつはの足元から、再び影が湧き上がった。
黒い線が幾本にも分かれ、矢の形へ研ぎ澄まされていく。
蜚廉は戦闘員を振りほどこうとするが、絡みつく死者の数が邪魔をする。
よつはが指を上げる。
影矢が放たれようとした。
その時、雷鳴が光った。
「うっ!」
よつはの身体を雷が灼いた。
青白い閃光が彼女の影を裂き、床へ伸びかけていた黒い矢ごとかき消していく。
影の操作が乱れ、蜚廉へ絡みついていた戦闘員たちの動きもわずかに鈍った。
よつはが視線を向ける。
そこにはクラウスが立っていた。
先ほど戦闘員に囲まれ、爪と牙に肉体を食い破られたはずの男。
それなのに、黒衣を纏う彼の姿に負傷は見えない。灰色に変じた髪と狼の耳の幻影を揺らし、青い瞳が静かに戦場を見据えている。
血の痕跡も、噛み傷も、きれいに治っていた。
まるで一度死んだことだけを置き去りにして、再び立ち上がったようだった。
「どうして!? さっき戦闘員にやられて……」
「死んだよ。すぐに生き返っただけさ」
クラウスは淡々と言った。
死からの即時復活。それもまた、彼が発動させている融合能力relierに宿る力の一部だった。
痛みがなかったわけではない。
死が軽くなったわけでもない。
ただ、今この場では止まらずに戻ってこられる。それだけの力を、彼は胸の欠片から引き出していた。
「なら、今度は殺さずお人形さんにしなきゃだね」
よつははすぐに笑みを戻した。
驚きは一息で消え、次の手を選ぶ思考へ切り替わっている。
「同じ技が何度も通じると思うかい?」
クラウスの声は穏やかだった。
しかし、その穏やかさは優しさではなく、冷静な警戒の形だった。
「わたしもね、√能力者になって強くなったんだよ」
よつはが影矢を頭上へ放った。
黒い矢は天井近くまで上がり、そこで無数に枝分かれする。
次いで、雨のように降り注いだ。
クラウスは身構える。
けど、それは肉体を貫くための雨ではなかった。
影矢は床へ突き刺さる。
刺さった端から影へ変じ、黒い線となって石床を走り出した。
前から。
横から。
崩れた柱の裏を回り、焼けた戦闘員の影へ紛れ、死角から伸びる。
それらはすべて、クラウスの影を目指していた。
クラウスは光魔法を放つ。
正面から迫る影は、光に照らされて薄れる。
しかし、消せるのは目に入る範囲だけだ。
背後の瓦礫が作る影。
倒れた戦闘員の下へ潜った黒。
足元の隙間を縫ってくる細い線。
それら全てを同時に消し去るには、戦場には暗がりが多すぎた。
ひとつがクラウスの影に触れる。
続いて、別の影が絡む。
足が重くなる。
腕の動きが遅れ、魔法を放つための角度がずれていく。
影が、再びクラウスを捕らえ始めている。
よつはは、勝ち筋が見えたと思っていた。
クラウスの足元へ絡み、床を這う黒い線が彼の影へ食い込んでいる。
正面の光でいくつかを消されても、死角から忍び込んだ影までは消し切れない。
足を止めて行動を鈍らせ、魔法を放つ余裕を奪うことができれば、あとは焦る必要などなかった。
殺さない。
殺せば、また復活してしまう。
ならば殺さずに意識だけを削ればいい。
影を通じて心へ触れ、抵抗する意思を一枚ずつ剥がし、ゆっくりと人形へ変えていく。
戦うための判断も、守ろうとする意志も、最後にはよつはの影の中でほどけてしまう。
そうすれば、ヒーローはもうヒーローではなくなる。
よつはの命令に従う、よくできたお人形さんになる。
そう思っていた。
だが、クラウスの腕が動いた。
「――――」
よつはの笑みがわずかに強張る。
影は確かに絡んでいる。
腕も、肩も、動きを阻害しているはずだった。
それなのに、クラウスの手には銃が握られていた。
銃口がこちらを向く。引き金が引かれた。
「うぐっ!」
弾丸がよつはの腕を掠めた。
白い肌に赤い線が走り、鋭い痛みが神経を刺す。
直撃ではない。つまり、クラウスも完全に自由なわけではない。
影の拘束は効いている。狙いが逸れたのは、その証拠だった。
しかし、動けないはずの相手が動いた事実は消えない。
クラウスは銃を下ろすように腕を下げ、今度は魔力を刀の形へ錬成した。
彼の動きは滑らかとは言い難い。関節の曲がり方に少し不自然さがあり、足運びもどこかぎこちない。
けれど彼は、影に逆らって前へ出ていた。
拘束されているはずの腕が上がる。
止められているはずの脚が踏み込む。
まるで、自分の身体を外側から無理やり引っ張っているかのようだった。
「そっか。お人形さんみたいに自分の体を動かしてるんだ」
よつはは察した。
クラウスは影の拘束を解いているわけではない。
自分の身体へ魔力の糸を通し、|糸操り人形《マリオネット》のように操っているのだ。
「言っただろ。同じ技が何度も通じない」
クラウスの声は静かだった。
けれど、その静けさの奥には確かな痛みがある。
影の拘束に逆らって身体を動かすということは、関節や筋肉へ無理を強いることでもあった。
肩が軋み、腱が悲鳴を上げ、骨の噛み合わせを外から捻じ曲げるような激痛が走っているはずだ。
普通ならば取れない戦術だった。痛みに耐えるだけでも困難で、下手をすれば自分の肉体を壊してしまう。
けれどクラウスは、死してもすぐに復活できる力を発動している。
壊れることを恐れず、壊れた後に戻れるからこそ、自分自身を人形として扱うような無茶ができた。
「けれど、それなら……」
よつははすぐに切り替える。
動ける理由が分かれば対処できる。魔力の糸で操っている以上、動きにはぎこちなさが残る。人の反射で動くのではなく、糸で引くように動くなら、予備動作も軌道も読みやすい。
避ければいい。
刃の届かない位置へずれればいい。
そう判断した途端、よつはの身体が前へ引かれた。
「え――?」
足元が勝手に傾いたような感覚。
床がクラウスの方向へ落ちていくような感覚。
それは先ほど、自分の影矢が引き戻された時と同じものだった。
蜚廉だ。
よつはの視界の端で、焦茶色の肌と黒い外殻を持つ巨躯が構えている。
蜚廉は再び|逆墜《ヒヨドリ》を発動させていた。
ただし今度の対象は、影矢ではなくクラウスだった。
よつはの下方が、クラウスへ向けて歪む。
自分から距離を取ろうとしたはずの身体が、逆にクラウスの間合いへ吸い寄せられていく。
逃げようとする足は空を掻き、影へ沈むよりも早く、魔力の刀が届いた。
刃が白いワンピースを裂く。
布の下で赤が弾け、よつはの身体が苦痛に跳ねた。
「がふ……!」
吐息と共に血が零れる。
だが、それで終わりではなかった。
反対側から、蜚廉が突進していた。
陽光めいた闘気をまとった巨体が床を踏み砕き、肘の甲殻から伸びた殻突刃を振るう。
よつはは体を捻ろうとする。
だが引き寄せの効果は切れていない。身体はまだクラウスへ向かおうとし、逃げるための軌道を奪われている。
殻突刃が背を袈裟に裂いた。
白いワンピースがさらに赤く染まる。
よつはの細い身体が前後から挟まれるように揺れ、影を操るための集中が途切れていく。
それでも|逆墜《ヒヨドリ》の引力は止まらない。
今度はよつは自身が操り人形のようだった。
クラウスへ向かって、自分の意思とは無関係に引き寄せられていく。
逃げられない。
隠れられない。
影へ沈むための間さえ、二人の連携は与えなかった。
待ち構えるクラウスが刀を構える。
反対側で蜚廉が殻突刃を振り上げる。
二つの斬撃が、同時に重なった。
魔力の刃と、硬質な甲殻の刃。
それらが交差し、よつはの身体を斬り裂いた。
よつはの瞳が揺れる。
足元の影がほどける。
張り巡らされていた黒い支配が、力を失って床へ溶けていく。
そして、彼女はその場に崩れ落ちた。
怪人48号が倒れたことを確かめると、ハイネは銃を下ろした。
それまで彼を支えていた緊張が一度だけ途切れ、膝が崩れそうになる。
けれど、まだ倒れるわけにはいかなかった。濁りの差した瞳が探す先に、ずっと辿り着きたかった人がいる。
マリナ。どうしても助け出したかった。ようやく、ようやくそれが叶う。
ハイネは傷の痛みも、ゾンビ化に侵される身体の重さも忘れたように駆け出した。
「マリナ! もう、大丈夫だ……」
声は掠れていた。
けれど、そこには人の言葉が残っていた。
マリナの頬には涙の跡がいくつも残っている。それでも彼女は、ハイネの姿を見つめる瞳を強く輝かせていた。
「ハイネ……会いたかった。きっと来てくれるって……」
「ああ……」
ハイネは、マリナを見つめる。
彼の瞳は澄んでいるわけではなかった。血走って濁ったものが沈み、時折、焦点が遠くへ外れそうになる。
それでも、かろうじて人の知性は宿っていた。
彼女のもとへ帰るのだと誓った執念が、崩れかけたハイネの魂を今も繋ぎ止めている。
その時、背後から床を擦る音がした。
ハイネは振り返る。
反射的にマリナを庇うように半身を動かした。
そこには、怪人48号がいた。
倒れたはずの怪人は、床に手をついて上体を起こしていく。
だが、身体に力が入らないのだろう。立ち上がるとすぐにふらつき、よろめくように後退した。
背が壁にぶつかる。
そのままずるりと崩れ落ち、壁面にはべっとりと血の跡が伸びた。
「あーあ、負けちゃった。やっぱり怪人は本物のヒーローに勝てないんだね」
血溜まりを作りながら、怪人が力なく笑った。
白いワンピースは赤く染まり、先ほどまで自在に踊っていた影も、今は足元で弱く揺れているだけだった。
声には軽さが残っているのに、もうまともに動く余力すら失っている。
クラウスは、その姿を静かに見つめていた。
世界は平等ではない。
その言葉自体を、クラウスは否定できなかった。
√ウォーゾーンで過酷な人生を歩み、大切な人を失った彼にとって、不公平や不条理は遠い概念ではない。
世界は誰かの願いを聞き届ける前に奪い、善意の量に応じて報われるわけでもなく、時には何も持たない者からさらに奪っていく。
だから、怪人48号の考えそのものをただ切り捨てることはできない。
彼女がどんな世界で、どんな痛みを見てきたのか、クラウスは知らない。
知る前に、彼女を倒すことを選んだ。
だからこそ、一つの疑問だけが胸に残る。
なぜ、全員を等しく不幸にすることを選んだのか。
世界が不公平だと知った時、手を伸ばす方向はいくつもあったはずだ。
誰かを救う道もあったかもしれない。
同じ痛みを持つ者へ寄り添う道もあったかもしれない。
けれど、怪人48号はこのダンジョンで、命あるものを生ける屍へ変える遊びを選んだ。
その理由を、クラウスはもう聞けない。
少なくとも、自分には聞く資格がない。
怪人48号を止めるために刃を振るい、彼女を倒すことを選んだ時点で、彼はその答えを受け取る権利を手放していた。
もう怪人四十八号には何もできず、彼女の思想はどこにも辿り着けない。
だからクラウスの視線はゾンビ化の進むハイネへと戻された。
●
悪い怪人を倒した王子様は、無事にお姫様を救い出しました。
めでたしめでたし。
……なんて、そんなふうには終わらないよね。
だって、王子様はもうすぐゾンビになるんだから。
お姫様は泣いていた。
王子様も泣きそうな顔をしていた。
きっと二人は、会えたことを喜んでいるのに、もうすぐ別れが来ることも分かっている。
そういうのは、物語としてはとても綺麗で、とても残酷で、だからこそ正しい場面みたいに見える。
でも、わたしはその結末まで見届けられそうにない。
もうすぐ死ぬから。
体が重い。
背中もお腹も熱くて、けれど指先は冷たい。白いワンピースは血でべったり濡れて、影を動かそうとしても、いつものようには言うことを聞いてくれない。
壁にもたれかかったまま、ずるずると力が抜けていく。
ああ、負けたんだなって思った。
昔は、自作自演の舞台で殺されるのが嫌だった。
ただただ|平穏《システム》を維持するために、悪い怪人として出てきて、ヒーローに倒される。
そうして観客が安心して、これで世界は正しいですって顔をする。
そういう役目が嫌だった。
死ぬのも怖かった。
√能力者になって、蘇ることができるようになっても、やっぱり死ぬのはつらい。
痛いし、苦しいし、終わる直前はいつも心細い。
何度繰り返せるとしても、死そのものが優しくなるわけじゃない。
でも、きっとこれが|正しい結末《ハッピーエンド》なんだよね。
悪者は倒される。
皆に見向きもされず、誰にも惜しまれず、物語の隅で死んでいく。
ヒーローたちはお姫様と王子様を見守って、悲しくても美しい余韻の中で、次の場面へ進んでいく。
わたしはその背景として役目を終える。
それでいいはずだった。
だっていうのにね。
一人だけ、今もわたしを見ている子がいた。
黒髪の女の子。
さっきまでマリナさんを守ろうとして、わたしに騙されて、ゾンビに襲われかけていた子。
他の人たちみたいに二人を見守ればいいのに、その子だけは、哀しそうな目でわたしを見つめていた。
困るなあ。
そういう目は、本当に困る。
「ねえ……」
「……っ」
声をかけると、その瞳が揺れた。
澄んだ青い瞳だった。
綺麗で、まっすぐで、今にも泣きそうで、それでも逸らしてくれない目。
「倒した怪人をそんな目で見ちゃダメだよ」
わたしは笑おうとした。
ちゃんと笑えていたかは分からない。
口の端が少し動いたくらいかもしれない。
「ごめんなさい……私は、あなたの望み、応えられなかった」
女の子は謝った。
ただ、それだけを言った。
自分にはそうすることしかできないみたいに、悔しそうに、苦しそうに。
変なの。謝るのは、悪いことをした人がするものだよ。
君たちは正しいことをした。怪人を止めて、お姫様を守った。王子様が最後に会いたい人へ会うための道を作った。
だから、そんな顔をする必要なんてないのに。
「君たちは正しいことをしたんだから。他の人たちみたいに、二人を見守っていればいいんだよ」
「どうして……あなたは…………」
女の子の言葉は、途中で途切れた。
聞きたいことがありすぎたのかもしれない。
それとも、自分にはもう聞く権利がないと思ったのかもしれない。
わたしを倒した側だから。
助けられなかった側だから。
どちらにしても、その先は言葉にならなかった。
だから、わたしは勝手に質問を想像して答えることにした。
「皆が公平になるにはね、全員で不幸になるしかないんだよ……上手くお茶会が出来ない人がいるなら、皆でお茶会を我慢する……それで公平でしょ?」
わたしにとっては分かりやすい答えだった。
誰かだけが招待されないお茶会なら、最初から開かなければいい。
誰かだけがケーキを食べられないなら、皆も食べなければいい。
誰かだけが笑えないなら、皆で笑わなければいい。
そうすれば、少なくとも差はなくなる。
皆で同じだけ不幸になれば、不公平ではなくなる。
誰もが幸せになれない理想郷。
けれど、それを皆は悪と呼ぶんだろうね。
「そんなこと考えてる悪い怪人だから、倒されただけ」
誰もが幸せにはなれないという公平を、皆が受け入れたくない。
だから一部を犠牲にして、なるべく多くの人に幸せを分け与える。
そういう|仕組み《システム》を|√マスカレイド・ヒーロー《わたしがいた世界》は作った。
誰かを犠牲にしても、全体が保たれるならいい。
誰かが舞台裏で死んでも、観客が安心できるならいい。
わたしは、それを受け入れられなかった。
受け入れられない|怪人《異物》は、悪として倒されるのがきっと正しい。
平穏を壊して、皆の幸せを邪魔する。そしてヒーローに倒されて、物語から退場する。その役割を今回はこなすことになっただけ。
「だから君は……謝らなくていいんだよ……」
視界の端が暗くなっていく。
黒髪の女の子の顔も、少しずつ滲んでいく。
「私は…………」
黒髪の女の子は、迷っていた。
言葉を選んでいるのが分かる。ただ否定して終わらせたくないんだろうね。
わたしが間違っていると感じていて、それでも、どうしてそう考えるようになったのかを少しでも拾おうとしている。
変な子。
怪人に、そんな気遣いはいらないのに。
「上手くお茶が飲めない人を手伝って、一緒にお茶会をしたいよ」
その答えは、あまりにも真っ直ぐだった。
誰かだけがお茶会に入れないなら、皆でやめてしまえばいい。
わたしはそう思った。
けれどこの子は、入れない子の椅子を用意しようとする。
「カップを持てないなら手を添えて、注ぎ方が分からないなら教えてあげたい」
そんなの、言うほど簡単じゃないよ。
きっと誰かが文句を言うし、誰かが疲れるし、誰かが傷つく。
それでも、この子はそれがいいと言う。
「…………お利口さんだね……こふっ」
わたしの世界は、壊れずに済んだのかもしれない。
そんな世界が本当にあるのかは知らない。
でも、少なくともこの子は、それを本当に夢見ている。
「私は小明見・結…………あなたの名前は?」
名前。
名前かあ。
わたしは少しだけ考えた。
一つだけある。大切な友達がくれた、特別な名前。
ヒーローにも怪人にもなれない、それでもここにある、たったひとつの宝物。
「…………四十八号。人間の作る|世界《システム》が大嫌いな、悪い|怪人《ヴィラン》だよ」
結ちゃんは、何か言いたそうな顔をした。
でも、言葉は出てこなかった。
優しい子だね。
だから困る。
悪い怪人は、そんな目で見られると役を間違えそうになる。
でもね、わたしもそんなに優しくなれない。
君みたいに、上手くお茶が飲めない人を手伝って、一緒に席に着こうなんて言えない。
置いていかれた痛みを、置いていかれたまま笑う強さに変えることはできなかった。
だからこれからも、わたしはわたしなりに探すんだ。|四つ葉のクローバー《しあわせ》を。
誰かが用意したお茶会じゃなくて、わたしが愉しいと思えること。復讐だってそのひとつ。それもわたしの一部だから。
だからきっとまた、悪いこともする。そして、誰かに止められるとも思う。
それでも、探すのをやめるつもりはないよ。
「バイバイ、結ちゃん……ヒーローになれない女の子…………」
視界が暗くなる。
音が遠くなる。
結ちゃんの顔も、滲んで形が分からなくなっていく。
悪役を倒して、胸を張って正義の答えを選ぶには、結ちゃんはあまりに優しすぎるから。
でも、きっとその優しさでしか届かない場所もあるんだろうね。
結ちゃんには、それを探し続けてほしいな。
わたしは、次はどんな愉しいことをし――
●
茲たちは、ハイネとマリナの最期の時間をただ見守っていた。
腐臭の染みついたダンジョンの一角で、さっきまでの戦闘痕が壁や床に残っている。
倒れたゾンビたちにもう動く気配はなく、怪人48号の影も沈黙した。けれど、そこに安堵はなかった。
終わるべき戦いが終わっても、救われきらなかったものが目の前に残っている。
その事実が、重く胸に沈んでいた。
蜚廉は腕を組んだ姿勢で、静かに二人を見つめている。誇り高く立つその姿に言葉はなく、ただ沈黙だけがあった。
クラウスもまた、柔和な顔から表情を消しすぎないようにしながら、ハイネとマリナの方を見ている。
何かを言うべきではないと分かっているからこそ、彼は黙っていた。
茲は、押収するべきゾンビフラスコのことを考えていた。
あれをこのまま放置するわけにはいかない。回収し、害が及ばない形で処分する。それは確定事項だった。
けれど、頭のどこかで別の可能性を探してしまう。
フラスコの中身をどうにか使えないか。
ハイネへの特効薬めいた手がかりはないのか。
ゾンビ化を引き起こすものなら、逆に止める糸口も残っているのではないか。
考えは次々と浮かぶ。
しかし、どれも都合が良すぎることを茲自身が一番よく分かっていた。
他の√能力者から、ワクチン生成に成功したという情報は届いていない。
今から解析して、原因を突き止めて治療法を確立し、ハイネのゾンビ化へ間に合わせる。そんなこと、現実的に不可能なのは明らかだ。
茲はこれから起きる出来事を認めたくないだけだった。
悲劇が目の前にあると、人は頭の中で勝手に逆転劇を探してしまう。
誰かが隠していた万能薬を持ってくる。
敵が最後に治療方法を明かす。
奇跡が起きて、全部が間に合う。
そんな都合の良いハッピーエンドを、脳が勝手に夢想する。
けれど、現実は物語の都合に合わせて曲がってはくれない。
起きることは起きる。
時計の針は幸も不幸も平等に運ぶ。
そして今、ハイネの内側では、止めようのない変化が進行していた。
「マリナ、この人たちに付いていけ。君を出口まで案内してくれる」
ハイネの声がした。
それは穏やかに聞こえた。
聞こえた、はずだった。
けれど声の端は掠れており、時折、喉の奥で獣じみた濁りが混ざる。
彼自身もそれに気づいているのか、言葉を選ぶように少しずつ話していた。
「ハイネ……どうして……」
マリナの声は震えていた。
金色の長い髪が肩からこぼれ、涙に濡れた瞳がハイネを見上げている。彼女は再会を喜びたいはずだった。抱きしめて、無事だったと泣きたいはずだった。
それなのに、ハイネの言葉は別れの形をしていた。
「俺も助けてもらった。もう何も心配は……」
「違うわ! ハイネ……あなたも一緒に来るのよね?」
ハイネは、静かに首を横へ振る。
その動きはゆっくりで、まるで、自分の身体が自分のものではなくなってきていることを確かめながら動かしているようだった。
「俺はもう……ここまで」
戦いが終わったことで、支えていた緊張が切れたのだろう。
ハイネは、自分の内側から何かが剥がれていくのを感じていた。
さっきまでは、まだ自分という輪郭があった。
マリナの名前。
彼女を助けるという目的。
ここまで来た理由。
それらが√能力者たちの力と言葉によって、杭のように胸に突き刺さり、意識を繋ぎ止めていた。
けれど今は、その杭の周囲から土が崩れていくようだ。
言葉が遠くなる。
視界が曇る。
マリナの顔が、涙で霞んでいるのか、自分の目がもう人のものではなくなりかけているのか分からない。
「一緒にここを出て、お医者様に診てもらいましょう!」
マリナは必死だった。
その提案が届かないものだと、本当は彼女自身もどこかで分かっているのかもしれない。
それでも言わずにはいられない。
言葉にすれば、まだ道がある気がするから。
一緒に出ると言えば、まだ二人の明日が続く気がするから。
けれど、ハイネには分かっていた。
医者では間に合わない。
薬では戻せない。
ここまで辿り着けたこと自体が、自分にとっては奇跡にも等しい。
噛まれて、変わり始めて、それでも歩いた。
何度も襲われ、倒れかけ、見知らぬ誰かたちに支えてもらえた。
それでようやく彼女のもとへ戻れたのだ。
もうこれ以上は望むべくもない。
「もう君も霞んで……。声も遠くて……」
そう説明する声が、ひどく掠れていた。
自分の声が自分から離れていく。
マリナの声も、遠くなる。少しずつ。
目の前にいるはずなのに、深い水の向こう。呼ばれているようだ。
言葉も意識もなにもかも、暗く深い黒い。
沈んでいく。
金色。
涙。
手。
温かい、はず。
触れたい。
触れては、いけない。
ハイネは息を吸った――まだだ。まだもう少しだけ。
腐ったように生臭くて、血の匂いもした。
それが自分から出ているのだと気づくまで、少し時間がかかった。
ここまで辿り着く間、ずっと考えていた。
彼女に最後に何を伝えるべきか。
謝罪か。
感謝か。
愛しているという言葉か。
もっと一緒にいたかったという未練か。
どれも本当だった。
けれど、最後に彼女へ残していいものは、きっとひとつだけだ。
行ってほしい。
生きてほしい。
自分から離れてほしい。
「俺は伝えにきた、最後に……さよならを」
「そんなの嫌よ!」
マリナが身を乗り出した。
泣きながら、ハイネへ腕を伸ばす。
抱きしめようとしたのだろう。
かつて何度もそうしたように、傷ついた彼を支え、震える身体を包み込んでくれる。
その動きが見えた時、ハイネの中で何かが疼いた。
温かい。
近い。
やわらかい。
だめだ。
違う。
マリナ。
来るな。
喰らうな。
守れ。
遠ざけろ。
「駄目だっ!」
叫びは、人の声ではなかった。
濁り、裂け、喉の奥で獣の咆哮に変わった。
自分でも恐ろしくなるほどの声だった。
マリナは伸ばしかけた腕を止め、びくりと体を竦ませる。
その瞳に恐怖が浮かんだのを、ハイネは確かに見た。
見た。
見えてしまった。
それだけで、胸の奥が千切れそうだった。
マリナを怖がらせた。
最後に、守りたかった人を怯えさせた。
でも、抱きしめられるよりはいい。
噛みつくよりは、まだいい。
彼女を傷つけるくらいなら、恐れられて離れてくれた方がずっといい。
ハイネは震える腕を、自分の胸の前で固く握り締めた。
もう手を伸ばしてはいけない。
もう温もりに縋ってはいけない。
マリナの姿が、また少し霞んだ。
「すまない……俺のことは忘れて……幸せに、なるんだ……」
ハイネは、そう告げた。
言葉にすると、心が引き裂かれるようだ。
けれど、それでも言わなければならないと思った。
どれほどつらい別れでも、人はいつか受け入れる。
昨日まで息もできないほど重かった悲しみが、年月の中で形を変えていく。触れれば痛む傷跡になり、やがて懐かしい思い出へと遠ざかる。
永遠を誓った愛でさえ、時間の流れの前では少しずつ色を薄めていく。
その先で新しい出会いがあり、別の誰かと笑い、もう一度幸せになれる日が来る。だから、きっと忘れることは裏切りではない。
幸せになるためには、忘れなければならないこともある。
もし、さよならを言わずに消えたなら。
もし、どこかでまだ生きているかもしれないという曖昧な希望だけを残したなら。
マリナは待ち続けてしまうかもしれない。
約束の場所で、何日も、何か月も、もしかしたら何年も、彼が帰ってくる奇跡に縋ってしまうかもしれない。
それだけは駄目だ。
自分の未練で、彼女の未来を縛ってはいけない。
だから、これでいい。
これで、いいんだ。
目の前でマリナが泣いている。
何かを必死に伝えようとしている。
唇が動いている。
声も、まだ聞こえているはずだった。
けれど、頭の中で意味が上手く結ばない。
音がばらばらに落ちてくる。
泣いている。
呼んでいる。
でも、何を言っているのかが分からない。
あんなに何度も聞いた声なのに、世界で一番大切だったはずの声なのに。深い水の底から泡だけが浮かんでくるみたいに、言葉が形を失っていく。
次は、どうするのだったか。
ハイネはぼんやりと思う。
ここまで来た。
言うことは言った。
もう触れてはいけない。
もう近づいてはいけない。
それなら、次は。
誰か、教えてくれないかな?
首が、ぎこちなく背後へ向いた。
そこに黒髪の男がいた。
柔らかい顔。
けれど今は、とても静かな目をしている。
ハイネは、その男と目が合った。
そうだった。
もう、これでいい。
自分にはまだ、残っている。
牙が。
飢えが。
彼女を傷つけてしまうかもしれない身体が。
だから、終わらせなければならない。
ハイネは小さく頷いた。
男が何かを言った。
何を言ったのかは分からない。
でも、声が優しかったような気がした。
悲しそうだったような気もした。
だから、もう一度頷く。
「おねがいします……」
言えた。
まだ、人の言葉で言えた。
男は、鋭いものをこちらへ向けた。
こわい。
ハイネはそう思った。
自分で望んだはずなのに、体の奥が震えた。
死ぬのは怖い。
終わるのは怖い。
もう何も思い出せなくなるのも、彼女の声を聞けなくなるのも、とてもこわい。
でも、これで彼女を傷つけずに済む。
おしまい。
さようなら。
さようなら。
大切な君。
ああ。
君の名前は、なんだっけ……。
金色。
涙。
あたたかい手。
笑った顔。
怒った顔。
一緒に歩いた道。
君は、どんな顔を、していたっけ?
遠い。
消える。
白くなる。
黒くなる。
何も、分からなくなる。
それでも、最後に残ったものがあった。
名前も。
顔も。
声も。
全部が薄れていく。
でも、それだけは。
ずっと胸の中にあった。
だいすきだよ。
さよなら。
●
気が付くと、俺は町の中に立っていた。
知らない町だった。
石畳の道があり、色んな店の看板がある。
広場にある居酒屋の中では冒険者らしい人たちが武器の手入れをしていた。けれど、そこがどこの町なのか分からない。
そもそも、俺は自分の名前も分からなかった。
胸元や腰回りを探った。
身分を示すものはない。
スマホもない。財布はあったが、その中に身分証となるものはなかった。
どこかに落としたのかもしれないし、最初から持っていなかったのかもしれない。考えても、何も浮かんでこなかった。
ただ、着ている服だけは分かった。
丈夫な布地の服に使い込まれた防具。腰には武器を吊るためのベルトと剣がある。
俺は、冒険者なのだろう。
そう思うと、頭の奥に何かが浮かんだ。
誰かの輪郭。
光に溶けたような髪。
霞んだ声。
遠くで笑っているような、泣いているような、曖昧な面影。
けれど、名前は分からない。
顔も分からない。
手を伸ばそうとすると、霧の中へ沈んでいく。
俺は、ダンジョンへ潜ると決めた。
生きていくには金が必要だったし、冒険者ならそうするものだと思ったからだ。
それに、ダンジョンの奥には何かがある気がした。
探さなければならない何かが。
思い出さなければならない誰かが。
夜のバーで、店主からこの町についてや近くにあるダンジョンの情報を教えてもらった。
こういう店なら、ダンジョンを攻略しにきた旅行客と言えば、色々と親切に説明してもらえる。そういう冒険者としての知識は感覚的に覚えているようだ。
朝になると町を出て、ダンジョンへ向かう。
暗い通路を歩き、魔物を斬り、拾った素材を売る。
夜になれば安宿で眠る。
次の日も同じことをした。
毎日。
ただ毎日。
ダンジョンへ潜り、彷徨い、帰ってくる。
俺は何かを探していた。
でも、それが何か分からない。
金色。
声。
笑み。
そういう断片的なものが何度も浮かんでくる。
ある日、モンスターにやられた。
あっけなかった。
避け損ねた爪が喉を裂いたのか、毒が回ったのか、最後のことはよく覚えていない。
痛かったような気もする。
怖かったような気もする。
けれど、あまりにあっさり終わったので、自分の死なのにどこか他人事だった。
つまらない最期だと思った。
そして気が付くと、俺はまた町の中に立っていた。
そこは前の町ではなかった。
建物の形も、人々の服も、空気の匂いも違っていた。
それでも俺は生きていた。
理由は分からない。
どうすればいいのかも分からない。
だからまた、ダンジョンへ潜った。
それしかやるべきことが分からなかったからだ。
その後の日々も同じだった。
死ねば、また町が変わる。結局、変化という変化はそれぐらいだと気付いた。
生きているのか、死んでいるのか、だんだん分からなくなっていった。
いや、元々わからないも同然だ。
ずっと、ただ歩いて、剣を振って、何かわからないものを探し続けることしかやっていない。
まるで、生きる屍みたいだと思った。
何度も死んだ。
炎に焼かれた。
崖から落ちた。
巨大な魔物に踏み潰された。
毒沼に沈んだ。
罠で串刺しになった。
そのたびに目を覚ますと、知らない町にいた。
最初は驚いた。
自分自身を恐れたこともあったけれど、すぐにまた何も感じなくなった。
一年は経っただろうか。
三年かもしれない。
あるいは五年か十年。もっと長かったのかもしれない。
日付の感覚は曖昧だった。
季節が変わっても、それが何度目なのか分からない。
宿帳に書く名前がないから、適当に名乗る。
その名前すら、次の町へ行けば忘れた。
それでも、忘れられないものがあった。
金色。
美しい瞳。
泣きそうな笑顔。
心の奥で、ずっと誰かの欠片が揺れている。
俺にはそれしかなかった。
自分の名前もない。
過去もない。
帰る場所もない。
だから、その面影だけは手放せなかった。
たとえ、記憶の彼女が俺を忘れてしまっていても。
たとえ、彼女がもうどこにもいなくても。
俺は、探すしかなかった。
世界を彷徨い歩くだけの存在。
その日も、そうとしか思っていなかった。前触れも何もなく、ただ歩いていただけ。
いつも通りにどこかのダンジョンの中だ。
気付くと、俺は足を止めていた。
そこは記憶にはない、しかし知っている場所だと気付いた。
目の前に、一人の女性がいたから。
金色の長い髪。
風に揺れるその光を見た途端、頭の中の靄が晴れていく。
名前のない記憶が、一つずつ形を取り戻す。
笑顔。
約束。
手の温もり。
涙。
最後に言えなかったこと。
最後に言ったはずのこと。
ああ。そうだ。
彼女は泣きそうな笑みを浮かべていた。
その顔を見た時、俺の中で止まっていたものがようやく動いた。
「マリナ……君を抱きしめるために蘇ってきたよ」
マリナは涙を零しながら、笑った。
今度はちゃんと届いた。
「私は、ハイネに抱きしめられるために生まれてきたのよ」
俺は手を伸ばした。
彼女も手を伸ばした。
もう怖くなかった。
もう、忘れていなかった。
腕の中に温もりが戻る。
心の奥の欠けていた場所が、静かに満たされていく。
●
喪失が埋まった男は、生ける屍からただの人間へと戻った。