密逃デスゲーム
「皆さんには今から、駆け落ちして貰うんですけど」
――なんて? という声が上がる前に、焦香色の星詠みはにっこり笑って続ける。
「大丈夫、ただのデスゲームですからね」
何も大丈夫な気がしない者は、この時点で回れ右をしただろう。正しい判断である。何しろこの依頼を持ちかけている焦香・飴(星喰・h01609)はこれをいかにも『面白いこと』だと思っているからたちが悪い。残った者たちへ、飴は変わらず機嫌よく「説明しますね」と笑った。
「文車古妖――改め|死亡遊戯尊《デスゲームのみこと》のことはご存知の方も多いと思うんですが、要するに彼は人々を密室や迷宮の類に閉じ込めて、謎解きゲームを強要する、という悪事を今後も働いていくことに決めたそうです。とっても迷惑」
彼の『死亡遊戯迷宮』は数多の√に出現する。そして新たに迷宮が出現し、そこに一般人が巻き込まれる予知を得た――しかし今回は未だその場所が特定されていない。まずはそれを見つけるために、
「皆さんにはまず、√妖怪百鬼夜行で|駆け落ちする《・・・・・・》ふりをして、彼の手下である下級の古妖に攫われてもらいます」
だからなんで。それがですねえ。
「今回のデスゲームの達成ルールのひとつが『駆け落ちを達成する』みたいなんですよ。細かいルールは入ってみないとわかりませんが、彼のゲームマスターは何だかんだ、ちゃんとゲームをクリアして欲しいようなので、今まさに駆け落ちしてる人がいれば優先して攫われるはずなんです」
しかし、いかに√妖怪百鬼夜行といえど、今の世に駆け落ちを試みる者がしょっちゅういるかと言えばそうではない。そこでだ。
「……あ、今隣の人と顔を見合わせましたね? ではとりあえず手と手を取って駆け落ちしてみましょう。大丈夫、あくまで『ふり』ですよ。別にホントにしちゃっても良いですけど」
要するに、それくらいの気軽なノリでも駆け落ちとして認定されるということだ。何なら一人で『今から俺は愛しい人と駆け落ちする!』と高らかに叫んでいたって対象になり得る。ガバ判定である。たぶん、この様子ならデスゲームのルール自体もそこまで難しくはないだろう。
「それでも一応『デスゲーム』を称しているので、命の危険は伴います。一般人なら簡単に殺されてしまう程度には」
かくなる上はゲームの参加者を|√能力者《EDEN》で埋めてしまうしかない。そういう建前で、星詠みは終始楽しげに話を括る。
「それでは皆さん、良い駆け落ちを!」
第1章 集団戦 『ニャンベロス』
●駆け落ち宣言!
「にゃーん!」
「にゃにゃーん!」
「にゃにゃにゃーん!」
√妖怪百鬼夜行、どこか懐かしさの残る町中を、三つの頭の古妖たちが一斉に駆け出した。しかしそれも、この√の人々はさほど驚きもしない。|その程度《・・・・》の妖怪ならいくらでもいるのだ。
だが、ニャンベロスたちは明確な目的を持って探している――『駆け落ちデスゲーム』をクリアできる者たちを。
例えば、駆け落ちの話をしているとか。駆け落ちという単語を出しているとか。駆け落ちの意気込みが伺えるとか。
だってそれ以上のことはよくわからないのだ。かけおちなにそれおいしいの?
攫ってこいと言われたから、みんなでわーっと駆け寄って、駆け落ちする? する? ってすり寄って、するみたいならにゃんにゃか攫うのだ。
我らニャンベロス隊、駆け落ちするひといませんか!
「|かけおち《・・・・》するぞ、ララ! うな重買ってやるから!」
「うな重をご馳走してくれるの?」
ぴくぴくっと、ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)の頭の上で、愛らしい耳が反応する。その時点で詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)が告げた|主題《駆け落ち》はすっかりうな重に逆転されているのはわかっていたけれども。
(確かに俺もうな重で釣った。釣ったよ。けど仕方ないだろ、聖女サマは駆け落ちが何か理解していないんだから)
いかに聖女と呼ばれてもまだララは幼い。つまり他の誰かに誘われても、「よくわからないけどいいわ」なんて言ってついて行くはずだ。容易に想像ができるし、そういう気安い関係にある者たちにだって心当たりがある。――けれども。
(嫌だ)
想像するだけで虫唾が走るほど嫌だった。たとえこれが『ふり』でも、ろくでもない仕事でも、笑い飛ばすだけの遊びでも。
(俺は……ララの護衛だから)
いつも使う、都合の良い言い訳。それが言い訳であることに、イサ自身だってもう気づいている。だって『駆け落ち』は、本来――。
「イサ、どうしたの?」
ひょこ、とララが顔を覗き込んでくる。そうしなくたって、挙動不審だったり、赤くなったりする顔を見られていたんだろう。逃れようもなく花の瞳に視線が捕まれば、容易に頬の熱が上がりそうで。
「……手、つなぐぞ」
誤魔化すようにわざとらしいため息をついて、イサは小さな手のひらをぎゅっと握った。こみ上げるのは、自分勝手な想いばかりだ。
この手を離したくない。本当の家族にだって渡したくない。聖女の背負う役目も神の役割の全てを捨てさせて、このままララを連れ逃げられたら。それこそ、本当の駆け落ちのように。
(俺の役割を裏切る思考だ)
そして、彼女の努力を否定することにだってなる。それでも夢想してしまうのだ。二人で食べたいものを食べて観たいものを見て、寄り添って。
――人のように、|生きて《・・・》。
そうすることができたら、なんて、叶うはずもない淡い泡沫の夢なのに。
これを、人は『|■《恋》』や『|■《愛》』と呼ぶのだろう。それでも、人形の身に余るその感情は、痛いほど|心臓《パーツ》を軋ませる。本当に気づいてしまえば、きっと容易く壊れてしまうから。今は、何も知らない手を引いて、何も知らないふりをするのだ。
(かわいいこ。……ララがわかってないと思ってるのね)
イサが頬に熱を宿したまま手を引いて行くのを、ララはまじまじと見上げた。本当はララだって『かけおち』が何かは知っているけれど、口にするつもりはない。だってそれは、現状から逃げるということに他ならないからだ。逃げるなんて、ララらしくはない。
全てに真正面から挑みぶつかり、粉砕することこそ誉。役目も役割も、それに当然付随する痛みもつめたさも何もかも――ララが選んだ道で、ララが愛することだ。
(ぜんぶ、ララのものだから)
それを投げ捨てて行くわけにはいかない。それはイサだってわかっているのだろう。だからこそこんなろくでもないことに一生懸命で、
(イサがこんなにもかわいいから、今日は|かけおち《・・・・》てあげるの)
自然と唇が笑む。瞳の花が綻んで、小さなララの手がイサの手をぎゅっと握り返した。
「イサ。ララは誰にでもついて行くわけじゃないわ。……お前だからついてきたの」
「えっ!? ララ、もしかしてわかって――」
「ふふ! 一緒に攫われましょう。今は、ただのララと、ただのイサよ」
ね、と笑ってララは駆け寄ってくるニャンベロスたちを見ながら唇に指をひとつ立てる。
「するんでしょう? かけおち」
「あ……ああ。する、けど」
いつの間にか、イサの手はララに引かれている。敵わないな、と囁いた声は、ニャンベロスたちの元気な声で掻き消されて――駆け落ちのはじまりを告げる。
二人抱いたままならぬ想いを逃げ遂げる――駆け落ちという響きにサテラ・メーティス(Astral Rain・h04299)が抱く印象は、どうしても甘やかなものだった。
けれど、今『駆け落ち』をするためにここにいるのだと思った途端、頭が真っ白になってしまう。落ち着きなくまばたきながら見る隣には、結・惟人(桜竜・h06870)がいる。ちょうどこの仕事を隣り合って聞いたせいだ。ふたりでやると決めた。
目が合う。どちらともなくぱっと逸らす。どうしようもなく頬に熱が集まって、行き場のない想いを隠すみたいに、サテラは口元を両手で隠した。
その両手を、惟人がそっと握る。
「サテラ、駆け落ち……しよう」
真剣な眼差しで、惟人はサテラを見つめた。――本当は惟人も、今にも照れてしまいそうなのだ。けれど、変に照れては|そう《・・》見えないかもしれない。駆け落ちはきっと、他に手段のない二人が強い意志と勢いでするもののはずだ。だから惟人も強い意志と勢いで込み上げてくる照れを捻じ伏せる。それに何よりは、
「他の人とサテラが一緒になるなんて、嫌だ」
サテラに、他の人と嘘でも駆け落ちしてほしくない。この気持ちは間違いなく本物だ。だから、握る手に力を籠める。サテラが、息をのんだのがわかった。
「……っ、惟人さん、私」
「二人で遠く、星空がよく見える所へ行こう」
赤くなった頬を誤魔化しようもなく、サテラは俯いてしまう。頭は真っ白なまま、心臓はうるさい。こたえとして出せるのは、ふりでもなんでもない素直な言葉だけ。
「私も、惟人さんと一緒に行きたいです」
彼と、ずっと一緒にいたい。そうできるなら、どれほど遠くに行ったっていい。包まれた手をサテラからも動かして、握り返す。ほっとしたように、惟人が微笑んだ。
「庭には木香薔薇を植えて、天気が良い夜は外で晩ご飯を食べて……サテラが毎日笑っていられるような生活をしたい」
「素敵な毎日ですね。二人で木香薔薇のお世話をして、惟人さんの喜ぶ姿を楽しみにしながら手料理をつくって。きっと……幸せです」
それは容易に思い描ける幸せだった。誰に祝福されずとも――今周りにいる人々は、きっとみんな祝ってくれるだろうけれど。二人で重ねる日々がこんなにもあたたかなものなのだと日ごと知るばかりだ。
「私、星空を見るのは好きですけれど……最近は、隣で同じ空を見る時間が好きなことに、気づいたんです。だから」
すっかり真っ白になっていたはずのサテラの頭には、たくさんの想いが溢れてくる。どこか驚いたように、けれど嬉しそうに見つめ返してくれるその瞳が好きなのだ。
「朝になったらおはようを言って、夜になったらおやすみなさいを言って、二人で見つけた綺麗な花や星座のお話をして……そんな毎日を、惟人さんと過ごしたいです。だから……どこまでも、一緒です」
言い終えてから、恥ずかしさに耐え切れなくなった。あれ、私、変なことを言ったかも。だってこれじゃあ駆け落ちじゃなくて。
思わず、サテラは惟人の肩口にぽすりと額を落とす。ひそめた声で、
「す、すみません、なんだか……ぷ、プロポーズみたいに」
「ぷ、」
途端に惟人の顔も熱くなるのを自覚した。見つめていたサテラの瞳が肩口に隠されてしまったことで、うろうろと行き場のない視線が彷徨う。
(早く攫ってくれ、ニャンベロス……!)
いっそ願うように思ったところで、にゃーんと駆けてくる猫たちを見つける。それに最早ほっとしながら、惟人はサテラの耳元に囁き落とした。惟人からの答えは、勿論。
「……良いな。そんな風に、どこまでも一緒に――」
この先を誓う言葉は、にゃんにゃかの大合唱に攫われていく。
「駆け落ち、か。夕蓮、お前は……いや」
――お前は、駆け落ちを夢想したことがあるか。
そう言いかけて、時月・零(影牙・h05243)は言葉を飲み込んだ。今隣にいる欺三・夕蓮(泥中の蓮華・h00360)は花魁――|足抜け《・・・》という言葉がある程度には、遊女のなかでは『あり得る』話だ。戯れにもするべき問いではない。
仮に願ったとして、口に出せぬ願いだとも知っている。
そして夕蓮も、零の言いかけた言葉を、取りやめたその優しさすら察することができた。だからこそ微笑んで、なんでもないことのように冗談めかす。
「ふふ、まさか、零様の口より斯様な言葉を聞くなんて」
足抜けし、囚われ、命を落とした遊女たちの話には事欠かない。それが遊廓であり、遊女たちの顛末のひとつであると、夕蓮はうたうように語ってみせる。華々しく見える世界はどこまでも血泥に塗れた地獄に近い。
「けれど、わたくしはね。命をかけて、愛する人と手を取りあって……地獄より逃れようとするなんて、なんといじらしいことだと思うのですわ」
「いじらしい?」
「ええ、それに、その選択肢を選べる程の、目も心も眩ませるような『愛』が――何だかとても羨ましく、恐ろしくもある」
「……そうか」
なんでもないこととして美しく微笑んだまま語られた|現実《それ》に、零は一言頷くことしかできなかった。零が夕蓮のためにできることは、さほども多くはない。暫しの時間、こうして連れ出して、彼女が見たがる景色を見せるくらいがせいぜいだ。
「……何か、やりたい事があれば遠慮無く言うといい。俺に出来る限りは叶えよう」
それでも、叶えてやりたいと思う。不自由であることを当然に受け入れてしまっている夕蓮が重ねた欺きを少しでも――『ふり』でも戯れでも、取り払うことができればいい。
猫の鳴き声がしている。話に聞いた通り、ニャンベロスたちが駆け落ちをする者を探しているのだろう。無邪気な鳴き声はいっそ微笑ましい。そしていつしか、三つ頭の猫たちは夕蓮たちのそばにも現れた。にゃーん、と鳴くのは、『駆け落ちする?』と訊いているのだろうか。
(|足抜け《かけおち》なんて、現では叶わぬこと。わたくしに自由など望めない)
なら、今は?
仕事、戯れ、欺き。いくらでも言い訳が用意できる。だってこれは、|現《ほんとう》ではないのだから。そして今隣にいる彼は、いつものように夕蓮を甘やかそうとしてくれている。
(罪なひと)
真摯に見つめる金眼にはそれ以上の熱などないと知っているのに。――甘えてしまいたくなる。この世は地獄、死にゆくものの遊戯盤。そう知ればこそ、ほんの一時だけでも。
「零様……此度はわたくしを――攫ってくださいまし」
そっと夕蓮が伸ばした手は、甘えるように零の手に触れる。答えは声よりも、握り返す手のほうが先だった。
「……わかった。ならば共に行こう。必ず――お前は俺が守り抜く」
零が戯れでも偽りでもない決意を確かに伝えれば、ニャンベロスたちがわっと駆け寄ってくる。まあ、と頬を緩ませた夕蓮を慎重に抱き上げて、零は猫たちの迎えを受け入れた。
――本当に攫って逃げられたら。
裡に過ぎった言葉を掻き消すように首を横に振っても、夢想はいまだ腕に抱かれたまま。
そういう|仕事《・・》なのだと説明を受けしながら、井碕・靜眞(蛙鳴・h03451)がやたらに緊張をしたのはなぜか。
その日その時、隣にいたのが他でもない物部・真宵(憂宵・h02423)であったからだ。
いくらでも誤魔化す機会はあったのに、笑い流すことなく『駆け落ち相手』を引き受けてくれたのは――彼女も嫌ではなかったのだと、そう思いたい。
くだんの迷宮へ攫う古妖は√妖怪百鬼夜行の町中に現れるらしい。新古入り混じる風景に、やはり真宵の雰囲気はよく馴染む。それでもどこか落ち着きなく視線を俯かせた彼女の手を、靜眞はそっと取った。
「ご両親が認めないとしても、僕はあなたと居たい。……いい暮らしはさせられないかもしれない。でも、どうか、一緒に逃げてくれませんか」
――これは演技だ。
仕事上、演じるのは慣れている。だというのに情けなく声が震えるのは、やはり緊張のせいだろう。たった|ひとかけら《・・・・・》自覚しただけなのに。
靜眞の唐突な言葉に、真宵は驚いて目を瞬かせた。しかし同時に気づく。靜眞の肩越しにこちらを伺う愛らしい視線があった。あれは話に聞いた|猫の古妖《ニャンベロス》だろうか。猫たちは、迷宮へと攫う対象を探している。条件は、駆け落ちをしそうであること。そんな人々がぽんぽんいるわけがないし、明らかに急にそこかしこで駆け落ち話が始まっている不自然さは、猫たちには関係がないのだ。それでも万に一つも一般人を巻き込むわけにはいかない。
つまり今は、『駆け落ちするふたり』を演じなければ。
「もちろんです。あなたが……靜眞さんがいてくれれば、わたしはそれだけでじゅうぶん幸せですよ」
真宵は靜眞の手をそっと握り返す。普段は『井碕さん』と呼ぶけれど、駆け落ちまで考える男女でそれは不自然かと思ったのだ。けれども思いがけず、靜眞は驚いた顔をして言葉に詰まったようだった。
(名前呼びは、ちょっとやりすぎたかしら?)
少し不安になりかけたが、あともう一押しくらいはしておきたい。ちらと見た先で、猫の瞳がキラキラしている。それでもまだ、こちらに駆け寄って来てはくれないから。
「靜眞さんと一緒なら、駆け落ちなんて怖くないです」
これでどうかしらと伺えば、ニャンベロスたちは『今かけおちって言った!』とばかりに猛ダッシュをかけてくる。さながら玩具を見つけた子猫で愛らしいけれど、今はそれに惑わされるわけにもいかない。にゃーにゃーと足元にすり寄る猫たちに、真宵は目をまぁるくさせた。驚いたふりで、ぎゅうと靜眞の腕に抱きつく。微かに呻き声がした気がするような。
「あ……あなたたちは一体だぁれ? わたしたち、これから駆け落ちをするのに見つかってしまったわ…?」
ダメ押しとばかりに言えば、ニャンベロスたちはそれはもう嬉しそうににゃんにゃかの大合唱をはじめた。これで大丈夫かしら、と真宵は腕に抱きついたまま上目がちに靜眞を見やる。
「井碕さ……靜眞、さん」
「あー……本当に連れ去ってしまおうか」
靜眞の呻き声に似た呟きは、いこういこうと歩き出したニャンベロスたちの声で掻き消されてしまう。
「ええと……僕達は君達に関わってる暇はないんだ。一刻も早く二人で遠くの街に行かなくては」
誤魔化すように付け足したいかにもな説明は、猫たちを尚更上機嫌にさせたらしい。靜眞と真宵は寄り添ったまま、ニャンベロスたちに攫われていく。手を握りあい、腕を抱きしめたまま。
(勘違いしてしまいそうだ)
ただの演技と知りながら、彼女から返された言葉がうれしくて。今、我に返ったらしい真宵が耳まで赤くして顔を上げられずにいるのも全部。
熱は伝わり合って、互いの熱を上げていく。靜眞が真宵を抱き寄せたのは攫われるための一環で、それ以上の意味はないことにしたいのに――離せる気もしないのだ。今彼女がどんな顔をしているか見たいのに、誰にも見せたくはない気もして。
「……名前は反則だろ」
ぽそりと落とした本音は、気づいたひとかけらをふたつみっつと繋ぎ合わせていく。
「随分と愉快な遊戯があるんだね」
話を聞き終えて、迷わずアドニス・ガルダ・インファリリ(プシュケの花檻・h12904)は|分かれ道《√妖怪百鬼夜行》の先へと足を進めた。そうしたのは、傍らにフルラ・フィル(蜜葬Agnus Dei・h13279)がいたからだ。
「フルラ……駆け落ちの経験は?」
「駆け落ちは……したことが無い、と思います」
フルラに過去の記憶はない。けれど駆け落ちという単語にピンとくることもなかった。首を傾げたフルラに、アドニスはくすくすと笑う。
「おや、ないのか。意外だな」
「い、意外とはどういう?」
むしろぎょっとしたのはフルラのほうだ。しかし見上げた先からは、楽しそうな笑みが返るばかりだった。
「……ふふ、冗談だ」
「冗談に聞こえません、猊下」
食い気味に言葉を被せる。仕事であり戯れの一環として来ているのに、このひとはフルラをすぐに掻き乱す。既に重ねている手に抗議を込めて力を籠めれば、その手を簡単に引き寄せられるからたまらない。
「手と手を取り合い、何もかも捨てて愛しい存在と身と命だけを頼りに逃げだす――其れは愛の祝する新たな門出と見るか、それとも、破滅へと駆け上がっているのか」
恋は盲目という言葉がある。そして互いだけを求めあったふたりは、真の『駆け落ち』が横行した当時、多くを心中という形で終幕とした。
「……まさに、死の遊戯にはもってこいなのかもしれないな」
どこか皮肉に笑って、アドニスはその目を伏せる。どこか底知れぬ憂いを帯びる彼の視線をフルラは静かに追って、新緑の瞳を澄んだ色で揺らす。
「……わたしは幸いな門出である駆け落ち、であってほしいと思います」
誰にも祝福されない道が、そのふたりが幸福へ至る道であったのだと。
「全てを捨てて、逃げられる者ばかりではない」
「そうかもしれません。それでも、だからこそ。全てを投げ打って……いいえ、選んだのですよ」
「選んだ?」
「そうです。――お互いを、唯一として」
そんな感情に、フルラは憧れがある。何も覚えていないから、あるいは失ったものが求めるのかはわからないけれど。
「にゃーん!」
いまかけおちって言った?
――とばかりに三つ頭の猫古妖がフルラの足元にすり寄ってきたのはそのときだ。思わずぴゃっと上げかけた声をどうにか手で押さえる。しかも一匹ではない。みるみる集まってくる|ねこたち《モフモフ》はわらわらとアドニスとフルラを取り囲んでしまった。
「な、なんですか、この可愛らしい生き物は!?」
「ふふ、フルラ、君は相変わらず小動物に好かれるね。……どうやらこの者たちは私とフルラに駆け落ちして欲しいみたいだよ」
「か、駆け落ち……わたしと猊下が……?」
確かにそんな仕事の話は聞いた。けれどもフルラたちにはそんな、いかにもな雰囲気はなかったはずなのだ。判定がガバすぎませんか。まあそんなものだよ、猫だし。
「はは! いいじゃないか。ちょうど、手を取りあって逃げた先に何があるのか見てみたかったんだ」
「そんな、簡単に……! 猊下――いえ、アドニス様! 完全に面白がってますね!?」
「楽しめるくらいがちょうどいいさ。……私には、選べなかった道だ」
にゃんにゃか騒がしくなる猫たちの声に、アドニスが落とした声は紛れてしまう。それを気にすることもなく、アドニスはその手をフルラへと差し出した。きらきら輝く猫たちの期待に応えんとばかり。
「そういうわけだよ、フルラ。駆け落ちしよう。――死がふたりを分かつまで、果てまで逃げようじゃないか」
「……わかりました。アドニス様が望むなら、わたしもお供いたします。たとえ、何が待受けていたとしても」
差し出された手を取る。途端、フルラの胸の奥で鼓動が走り出した気がした。いつもと違う、どこか不思議な気持ちの正体は、それに憧れるこの心の理由は、駆け出した先にあるだろうか。
――|駆け落ちなんて《・・・・・・・》楽しそう。
先ず、思ったのはそんな単純で明瞭な好奇心だった。けれど、駆け落ちともなれば一人では成せない。あるいは一人でも良いとは聞いたけれども、|つまらない《・・・・・》。
そう思うのがロズランシェ・リアディオ(赫耀・h08219)のさがでもあった。纏う赤を翻して、ロズランシェはふと目についた男を追う。そのままひらりと眼前へ文字通り踊り出れば、目を合わす。見つめて――開口一番。
「ねえ、あたしのこと愛してる?」
唐突に問いかけられた男――夜鷹・芥(stray・h00864)は驚くままに目を瞠る。目の前にいる彼女に、毛ほども見覚えはなかった。喉元まで、お前は誰だと問う言葉がせり上がる。
「なに、を」
僅かに滲む困惑と躊躇を、しかし女は気にした素振りもなかった。そのまま距離が詰まる。甘い香りが鼻をついた。覗き込んでくる瞳は、目を逸らせないほど鮮烈な色をしている。
「今更あたしを諦めるつもり?」
甘い色をした髪と、ぴんと立った兎耳が揺れながら芥を覗き込んだ。その傍らに、三つ頭の猫が見える。にゃあ、と煌めく瞳は間違いなく獲物を探していて――それは眼前の兎も、そして芥も同様だった。
(こいつも相手が必要なのか。……面白ぇ、合わせてくれよ)
視線だけで伝わるかは知れない。ただ、戸惑いが消えたことだけは確かだっただろう。
「……どう思う?」
柔らかな髪を指先で掬う。まるでいつもそうしているみたいに。
「諦める? まさか。言って欲しいならもっと強請ってくれねぇと――甘やかせない、だろ?」
くすりと笑って戯れる。最後の囁きはちょうど唇に近い兎耳に寄せて。そうすれば、楽しげに瞳が笑んだ。交渉は成立だ。互いに都合よく在るならば、甘い囁きも惜しまない。
「意地悪ね。あなたが欲しくて仕方ないことくらいわかっているくせに」
猫の鳴き声がする。その騒々しさも気にしないふうで、ロズランシェは芥の耳元に唇を寄せた。
「……もっと恋人らしくしてくれなくちゃ」
それでは足りないと、目の前の彼にだけ届く声量で|囁く《あおる》。すぐそこで微かに嘆息する声がした気がして、すぐにその体が強く引き寄せられた。
芥としてはもう自棄だ。そもそもこの振る舞いが必要かだってわからないし、なんなら遊ばれている気がするけれど。それでも煽られて引き下がるのも癪である。
「お前を誰にも見せたくない。……悋気でも起こしそうだ」
腕の中に閉じ込めるように抱き寄せる。そうすれば女は慣れた様子で身を預け、嬉しそうに微笑んで見せた。しなやかな腕が芥の首元へ伸びて。
「……もう我慢できねぇんだけど。俺とお前しかいない世界まで着いて来てくれんなら、いくらでも」
「んふ。あなたが望むならどこまででも。だからたくさん浴びせて、あなたの愛を」
そっと引き寄せ合う唇が寸前まで近づいたところで――猫たちに即席の偽りごと攫われていく。
まだ名前さえ知らないのは、猫たちには秘密の話。
さも簡単そうに言われた『隣の人と駆け落ちしましょう』は、楪葉・伶央(Fearless・h00412)の整った顔を珍しく、露骨に歪ませることとなった。
何せ今、隣にいるのは――、
「えっ? ……れおと?」
ぱちくりと鮫咬・レケ(悪辣僥倖・h05154)は瞳を瞬かせる。れおとかけおち? だれが? おれが? そっかおれか〜。……んー?
首を傾げ、傾げ、レケははっとした。
「これはれおにいやがらせするちゃんすじゃん!」
「全部口に出てるぞ」
「え〜? 出てたあ?」
けらけら笑いながらレケが見る先で、伶央は深々と眉間に皺を刻む。レケとは違って口には出さないまでも。
(何故今、隣にいるのがこいつなんだ)
じろりと向ける視線は心底嫌そうなものだ。レケが楽しそうに笑えば尚更嫌である。なんでこいつを喜ばせなきゃならない。任務だからか。
「……任務ならば仕方ない」
ひとつため息を吐いて、伶央は眉間の皺を解こうとする。嫌がる素振りすら喜ぶ相手に、そういう顔も見せたくはないのだ。ともあれ既に周りではくだんの猫たちの声がし始めている。まぁふりだしと袖をひらひらさせたレケが狙い澄ました角度で伶央を覗き込んだ。
「れお~♡ かけおち、しよ♡」
「……ああ、しようか」
どうしてだろう、違和感が仕事をしない。いつもこういうことを言われているような気がする。そのお陰か、躊躇なく伶央の手はレケへ伸びて――その頭をがしっと掴んだ。
「いてっ! かけおちに暴力があるわけないだろ! いたっ! れお〜!」
「すまない思い余って力が入ってしまったな」
「ぼうよみやめろ〜! だいこん〜!! いだだだだ! あたまわれる!ばっかるこーんなる!! こんなかけおちあるか〜!」
「華々しいじゃないか。お前を連れて密逃すればいいのだろう? はは」
「そうだよ、おれらはかけおちするんだよ! かけおち! かけおち~!」
元気よく連呼された『かけおち』にニャンベロスたちが気づかないわけもない。ぴいぴいとレケが声をあげるほどわらわらもふもふ集まってきた猫たちは、キラキラとその三対の瞳を輝かせて足元にすり寄った。ねえねえいまかけおちっていった?
「んあっ!? なんかきた! あ、これか? にゃんべろす……そう、おれたちかけおちするんだよかけおち~。な~れお?」
レケがかけおちと言うたび嫌そうな顔の彫りを深める伶央を肘でつつきながら、レケはニャンベロスの前でぎゅっと伶央にすり寄って見せた。
「おれたちは、なかよしだから~~……な?」
「……ああ、そうだな。かけおちだ。なかよしだな」
レケが促す声に、伶央は果てしない棒読みと目の笑っていない笑みで返す。こんなに嫌な任務がかつてあっただろうか。いや、ない。あと絶対|鮫咬《こいつ》は面白がっている。猫たちは誤魔化せたようだけれども。
「ほら、頷いただろ~。……れ〜お♡ へへ~どこまでもいっしょにいこーな♡」
「そうだな。ならばあとで、ゆっくりふたりきりになろうか」
「え〜♡」
それって〜♡ つまり〜♡
伶央とくっついたままニャンベロスたちに攫われながら、レケは直感した。なんと既にこめかみが痛くないのである。これは。
「……やばいあとでしばかれる」
「はは」
「大丈夫、フィユはちゃんと本で予習をしてきたのです」
ふわもこのテディベアの耳をひょこりと揺らし、祈紡・フィユ(夢境・h12707)は幼げな瞳をきらきらと自信に輝かせた。
これには呼宵・秋祈(黄昏・h12424)も素直に感心する。突拍子もない内容とはいえ仕事は仕事だ。
「へ~フィユちゃん駆け落ちの予習してきたんだ。偉いじゃん」
「愛の逃避行は物語を彩る一大イベントなのですよね」
「うんうん、そうそう」
駆け落ちについて、まだ稚さを残す少女たちが語らっている――普通ならば二度見する光景も、今限り√妖怪百鬼夜行のそこかしこで横行している。往来で見学会を開く結婚式会場のスタッフも、ああ今局所的に流行ってる駆け落ちか、みたいな顔で入ってきた少女たちを受け入れたし、かけおちってきこえたーと駆け込んでくるニャンベロスたちさえ通した。寛大である。最早驚いていたら身が持たないのかもしれない。
一方で。
「ところでなんで逃げ出すのでしょう?」
「――って、え? そこ……わかってないの!?」
秋祈はぎょっとした声をチャペルの中に響かせる。駆け落ちでは一番大事なところだ。しかしフィユとしては、物語で得た知識でしかない。きょとんと首を傾げて秋祈を見た。
「愛を誓うのならば堂々とすればいいのに不思議なのです。秋祈さまは知ってるです?」
「そりゃあ……お互いにしか誓えないからこそ良いって言うか……! 堂々とできないからこその……ああ、もうっ」
なんで私駆け落ちについて一生懸命力説してるんだろう。なんなら足元に観客よろしくニャンベロスは来ているし、もうこれで『ふり』としては成立してるんじゃあ。
そう秋祈は思うが、フィユとしてはここからだったらしい。
「でも、本で予習はばっちりなのです!」
「駆け落ちの理由も説明しない本なのに……!? あっ、フィユちゃん?」
秋祈が止める間もなく、フィユはぱたぱたと一度式場の外に出て行く。少女の希望を受けて、チャペルの豪奢な扉は一度閉められ――、
「その結婚、ちょっとお待ちくださいませなのですよ!」
ばーん! と扉を開けてフィユが叫んだ。それで秋祈もはっとする。あっこれ私が花嫁役なんだ。
「わ……私こんな知らない人と結婚するの……?」
「いいえ! 花嫁さまを生涯かけて守ると誓ったのはフィユなのですよっ」
駆けてきたフィユの小さな手が、ぎゅっと秋祈の手を握る。
「フィユちゃん……!!」
「秋祈さまはフィユが連れていくのです!」
同時に少女二人が|誓いの道《ウェディングロード》を逆に駆け出した。やいのやいのにゃんにゃか騒ぐのはニャンベロスで、あっ外出るんですねと音楽を鳴らしてくれるのはスタッフの粋な計らいだ。
「私フィユちゃんといくわ! 婚約は……破棄よ!」
駆け落ちを宣言して、フィユと秋祈は式場の前に顕れたオープンカーに飛び乗る。いつの間にと驚いたが、どうやらフィユの|夢の具現化《√能力》だ。勢いよく走り出す車には、当然の顔してニャンベロスたちも相乗りしている。あっ、そこ右です。右なのですね!
びゅんと走っていく車は清々しく、飾らない秋祈の髪を靡かせて、肩に負っていたもの全て置いていくようで。
「そっか、これが自由か……でもなんか思ってたのと違う……!!」
「え、違うです? でも本ではこうだったのです!」
「もうフィユちゃんったら何読んだのよー!!」
豪快な駆け落ちを果たした少女たちのウェディングロードは、デスゲーム会場へと続いている。
「かけおちって、ちょこっとあこがれちゃいます!」
一歩で|道《√》を踏み越えながら、廻里・りり(綴・h01760)は声も瞳も煌かせた。そして言ってからはっとする。
「いえ、みなさんにお祝いしていただけるのなら、いちばんうれしいなぁって思いますけど……」
駆け落ちとは周囲から認められない二人のゆく末――そこだけを切り取れば悲しい話のようにも思うけれど。
「それだけ、たいせつにしたいひとができて、叶えたい想いがあるってことですもんね? なんだかロマンティックだなぁって!」
りりはまだ、その『想い』のかたちをよくは知らない。それでも想い合う二人が手を取り合って選んだ道というものには、きっと意味がある。
「ベルちゃんはどう思いますか?」
きゅっとりりが繋いだ手に力を籠めて見た隣で、ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きもの・h03161)はどこか微笑ましいものを見るように眸を眇め、
「そうね……『お姫さまって何を食べるんでしょうか?』って言っていたりりが、ロマンティックって思うなんて、大人になったのねって思うかも」
りりが生まれた頃から見守っていればこそ、ベルナデッタとしてはいっそ感慨深いものがある。すっかりベルナデッタの膝に収まっていた小さな子が、今やこんなに大きくなって、『かけおち』のロマンを語っている。
「そ、そんなのちっちゃいころのお話ですっ」
「ふふふ、そうね。大きくなったわ、りり」
「おおきくなったって言われているのに、こども扱いされている気がします……!!」
むう、とりりは頬を膨らませる。そんな素直な仕草だって、ベルナデッタにこそ見せる昔ながらの一面ではあるから、ベルナデッタとしてはやはり微笑ましくはなるのだけれど。
「誰かがとっても大切だからこそ、悩んで考えて導き出される選択だもの。あなたの言う通り、祝福されるに越したことはないのだけれどね」
だからこそ選ばれる『駆け落ち』は、持つ意味も大きい。今の仕事のようにふりでもいいと言われなければ、冷やかすのだって憚られるだろうけれど。
「……大きくて難しくて、強い選択だと思うわ。りりはそういう恋がしたい?」
「うぅ。……恋? とかは、まだあんまりわからないですけど……家族以外にも、いちばんたいせつに想ってくれるひとがいたらいいなぁ、たいせつに想えるひとができるのかなぁ、って」
ぽそぽそと、りりは答えながら自分の考えを纏めていく。相変わらず、考えていることはぜんぶ口に出てしまうほうで、それをベルナデッタも知っているから、ひとつひとつに打たれる相槌が優しい。
おとなの女性って、きっとベルちゃんみたいなひとを言うんだろうな。
ぼんやりと、そんな想像もあって。
「おたがいに想いあえる関係ってすてきだなぁって、あこがれはあります……!」
「……りりはまず、恋に恋するところからはじめても良いかもしれないわね」
「えっ?」
それってどういう、とりりが言いかけたところで、にゃーんと鳴き声がした。足元を見れば、いつの間にか小さな三つ頭の猫たちがすりすりとりりたちの足元にすり寄っている。いまかけおちっていった? いった?
「あら。何か探しているのかしら?」
そういえば、駆け落ちデスゲームの参加者を探している古妖たちがいると聞いた。それがもしかしてこの猫たちだろうか。つまりこの猫たちの探しものは――、
「ねえ、りり。この子達の探し物ってもしかして、|ワタシたち《・・・・・》かしら?」
ぴんときて、ベルナデッタは隣を見やる。その先に見えた光景といえば、すっかりニャンベロスたちに囲まれ、抱き上げ、もふもふを堪能しているりりだった。
「わぁ! ねこさんがいっぱいだぁ……っ! かわいい……」
「……りりったら」
恋の話をしているときより余程嬉しそうに頬を緩ませているりりに、ベルナデッタもつい目を細める。その足元を先導しようとするニャンベロスたちに、はいはい、と応えて。
「ついてきて欲しいのね。いいわよ。……りり、この子たちに身を任せてみましょうか」
「はいっ。もふもふ……しあわせ……」
モフモフでちょっと嬉しそうね、とりりを見守るようにしながら、ベルナデッタはその手を握る。駆け落ちで迷子になりました、なんて話は、ロマンティックにはなりそうにないから。
「日宮・芥多、既婚者です! 今から奥さんと駆け落ちします!」
往来で高らかに宣言すれば、√妖怪百鬼夜行の町中をゆく人々が振り返る。けれども今現在局所的に多発している『駆け落ち』騒動のおかげか、さして怪訝な顔もされない。目の合った人の良さそうな青年が、あ、お兄さんもですか大変ですね。ええそうなんですよちょっと聞いて下さいます? 俺が奥さん以外の人と駆け落ちなんて、出来る筈ないじゃないですか! あくまで『ふり』だとしても、やはり気持ち的にちょっと……あれいない。おかしいな、あと79万時間くらい話せたんですけど。
日宮・芥多(塵芥に帰す・h00070)という|惚気話《迷宮》から逃げおおせた青年は、ある意味幸運だったのかもしれない。何せ芥多の今後の目標はくだんの古妖たちに攫われることだ。
「にゃーん!」
「お、来ましたね! 待ってましたよ!」
いまかけおちってきこえた、とばかり駆け寄ってきた古妖――ニャンベロスたちを芥多は迷わず羽交い絞めにした。絵面は立派な猫攫いである。しかしニャンベロスたちもまた芥多を攫いに来ているわけだ。『駆け落ちデスゲーム』などという突拍子もない迷宮に。
「ああ、俺を攫うのは別に構わないんですけど。折角なので俺の惚気トークを聞いてからにしてもらっていいですか?」
「にゃーん……?」
「ええそう、惚気です。自分の事を語るのはあまり得意ではないのですが、それでも言葉にしたくなる時がたまに訪れるんですよねぇ! それが今です」
「にゃにゃ」
「その通り! つまりは実に貴重な瞬間ですよ、良かったですね」
ニャンベロスたちは羽交い絞めにされたまま多くの頭を見合わせる。なんか会話成立してない? してるかも。このひとニャンベロスにとってとっても|有益《とくべつ》なんじゃあ。にゃんにゃか。
「おや猫会議中ですか? ちなみに一応言っときますけど、惚気系の話、俺はちゃんと相手を選んでしているんですよ?」
惚気というのは本来、かなり個人的な話になる。大人数での雑談で話を振られるならまだしも、こうしてひとり語り出せば場が白けることだって多い。
「こういう話があまり好きじゃない相手もいますしね。そういう御方に話した結果、嫌われてしまっては厄介です」
せっかく仲良くなったとしても、それで距離を取られるようになってしまっては勿体ない。気にしないという人のほうが多いとしても、ヒトのかたちをした生き物は、多かれ少なかれ社会性という厄介なものを持たなければならないがゆえ。
「なので、この場での惚気トークはこの先の俺の人生において有益な存在になる可能性が無さそうな相手を選んでいます!」
芥多は堂々胸を張る。そしてニャンベロスたちを抱えたままに歩き出す。ところでどっちに攫う気でした? ああ、あっち。
「そして今回選ばれたのが君たちというわけです。良かったですね」
「にゃーん!」
「誰も無益とまで言ってませんよ。今から君たちには惚気をこれでもかというほど聞いて貰うわけですし」
ねえ、良かったですね?
ひとつも目の笑わない笑みを猫たちに見せ、自主的に攫われながら芥多は早速惚気だす。しおしおになった猫たちが迷宮に着くや力尽きたのは、惚気という一種の|√能力《こうげき》として認められたせいかもしれなかった。
「あれっ。まだ終わってないですよ!」
第2章 冒険 『パートナーを担がないと進めないダンジョン』
●お|姫《こめ》さま宣言!
にゃんにゃか攫われたその先の|死亡遊戯迷宮《デスゲーム会場》は、√ドラゴンファンタジーに在る。
ダンジョンをもとに作り替えられたその迷宮は、駆け落ちしてきた者たちをそれぞれ密室に閉じ込めた。
どこにも逃げ道がないことは、一目で明らかだ。
何せ――見渡す限り、壁も床も天井も、|水槽《アクアリウム》で埋め尽くされている。下手に逃げようとすれば水槽から溢れた水が、密室の中さえ水槽に変えてしまうだろう。
そしてデスゲームとして掲げられた条件は――『パートナーを担げ』である。
どうやらパートナーを担がなければ、この先には進めないらしい。そんなものと軽んじて進めば、アクアリウムに飾られるのは自身となる。
一応、逃げ道はあった。パートナーがいなかったり、どうしても担げない理由があれば同等の重量のものを持てばいい。要するにひと一人分のぬいぐるみとか、ねこ数匹分の犬だっていい。
ただ、一度担いでしまえばこの迷宮を抜けるまでただの一度も降ろせない。
降ろしてしまえば例外なく、水が密室に満ちてくる。あるいは水が得意な者もいるかもしれないが、ゲームオーバーと見なされればこのデスゲームからは帰れない。
担げばデスゲームの幕は上がって、参加者たちはアクアリウムの迷宮を彷徨うことになる。示される順路は何もない。手がかりは、担がれたパートナーにのみ授けられる直感のみ。どうしてもわからないときは――ふたりの直感が重なり示すほうが答え。
死ぬか、担ぐか。
青く美しいアクアリウムの中では、ふわふわとクラゲが踊っている。
駆け落ちを騙るまま|古妖《ねこ》たちに攫われ、どうやってか放り込まれたのは青い迷宮。
退路を断たれた上で眼前に広がったその景色に、鮫咬・レケ(悪辣僥倖・h05154)はぱっとご機嫌な顔になった。
「アクアリウムじゃん~! 鮫は? 鮫はいねーの?」
足元、壁、天井。その全てを埋め尽くした水槽をレケはぺたっと覗き込む。けれどもどうやら、見えるのは呑気なクラゲばかりだ。あまつさえその水槽を画面にするように映し出されたのは――、
―― 『パートナーを担げ』
「……なるほど、この水槽がデスゲームの檻、というわけか」
眉間に皺を寄せたまま、楪葉・伶央(Fearless・h00412)は至極真面目に呟き、そして条件として掲げられた文言を目でなぞり、レケを見た。かけおちの次は、担げ、だと?
ばちんと視線がぶつかって、レケはぴょんと伶央の間合いに踏み込む。
「れお~、はこんで~、おれうごくのやだ~♡」
「何を言っている、担ぐのはお前の方だ」
両手を掲げて『だっこして♡』のポーズを取ったレケに、伶央はにべもなく言い放った。しかしこれには当然、
「え、おれがれおを担ぐ? れお重そう、むり~」
即答でぐずるレケである。実際、レケの両手は伶央の貼り巡らせた呪符で封じ込められているわけで。だが、これに伶央が応じるわけもない。
「手が多少使い難くても、担ぐくらいできるだろう」
「ぜったいできない~、おててのつかえないおれに酷~」
「いいから、つべこべ言わずにやれ」
威圧を込めて真顔で見下ろす。絶対零度の視線は常人ならば耐えきれないほどではあるが、これを受けるのはレケであるから通用しない。むくれ、ふくれて子どものように拗ねた顔でレケの視線が明後日の方向に逸れた。
「……あっ、独楽がいるっ!」
「なんだと」
「ちゃんす、とうっ!」
この場においてはあり得ない第三者の名前を出す。それでも律儀に確認をするのが伶央だからだ。とはいえ飛びつこうとしたレケの気配もまた容易く伝わる距離であり、「ちゃんす」も「とうっ!」もしっかり発語されているからこれ以上ない回避の合図である。難なくさっと躱した伶央は、勢い余ってべしゃっと転んだレケの上に乗った。ぎゅむ。乗ったというより最早踏んでいる。
「んあっ! よけんな!! って、のるな! 重いっ!」
「もう一度言う。早く俺を担いで先へ進め」
「だからむり~……って」
『ゲームスタート』
じたばたと伶央の下から逃れようとしたレケだったが、アクアリウムの中に鳴り響くのは無機質なデスゲームの開始の合図だ。ぽかんと目を丸くしたレケを、伶央は涼しい顔で見下ろす。
「もうお前が担ぐ判定されたようだ、さっさとしろ」
「は!? な、なんでおれが!? 判定おかしいだろ!!」
どう考えても抱えてない、なんて反論を、この迷宮が受け入れるはずもない。水槽の中ではクラゲが相変わらず呑気に泳いでいて、レケの上には伶央がいる。れおをはこぶ。おれが。こいつ、おれよりデカいのに?
そうは思ってもルールは動かせない。ぐぬぬと呻いてからレケは伶央をよろよろと持ち上げる。
「ふぬっ! おもっ、おいわざと体重かけてんだろ!」
「まさか。俺達はなかよしなんだろう?」
にっこりと笑って伶央は己をよたよた担ぐレケを眺めた。別段先程のことを根には持っていない。しっかり記憶しているだけで。
「あ、あとでぜったいしかえしする! こんなっ、手のつかえないおれに労働させてっ!」
「やかましい。何フラフラしている、あっちだ」
「れおが重いんじゃんか~! いますぐ、もやしにな……れッおあっ! イタッ! あたま、またっ、頭ばっかるこーんなる! やめ、ばらんすくずれる! イタイッ!」
ぴいぴい文句を言うレケの頭をギリギリと鷲掴みながら、伶央はゲームが与えてくる直感を受け取った。なるほど、こういう具合にわかるのかと、感覚的に理解する。
「れお~! どっちいけばいーんだよ! はやくいえよ! こっちか!? 好きにいくぞ、おれはっ!」
「逆だ。早く終わらせたいのなら、俺の言うことをよく聞くんだな。――わかったら、さっさと進め」
「れおのば~か!! ば~か!! アッ、いたい、イタイッ!」
ぎゃんすか騒ぎながら、ふたりは試練を越えていく。心から不本意な|絆《だっこ》は、アクアリウムのみぞ知る姿となったのかもしれない。
賑やかな猫たちの攫われているときはまだ良かった。
けれども青く静かな死亡遊戯会場――アクアリウムの中に二人きりになると、途端に先程までの|駆け落ち《ふるまい》が思い出される。
(どうしよう、任務とはいえ凄い台詞を……勢いって恐ろしいな)
ふと自分が口にした言葉を思い出して、結・惟人(桜竜・h06870)はつい視線を横へと逸らす。ふりとわかっていたはずだった。けれど何故だか、たくさん言葉が溢れてしまった。あれは、もしかして自分の本心すら語ってしまっていたのだろうか。そうとさえ思ってしまうから、照れて隣の彼女の目を見ることができない。
そしてそれは、サテラ・メーティス(Astral Rain・h04299)も同じだった。
(すごいこと言っちゃったけど、嘘を言った気はしないのはなんでだろう……)
まだ頬は熱いままで、顔を隠すようにした両手だって外せる気がしない。それでも、仕事のためだったのだと言い訳しようとは思わなかった。
(……心のどこかで、ずっと考えていたのかも)
彼と――惟人とそうできたらと。
そんな熱に浮かされたような気づきを、青いアクアリウムの中に響く機械音が遮る。どうやらデスゲームの始まりらしい。片方が、片方を担ぐ。それならば、役割も決まっていた。
「……どうぞ、サテラ」
まだ真っ直ぐに目は見れないけれど、それも膝をつき両手を広げる動作で誤魔化せる。惟人は柔らかな声でサテラを呼んだ。それに、サテラも頷く。幸い、運は良いほうだ。直感での道案内はきっと問題ない。
けれど。
「えっと……」
抱っこのされ方のほうが問題だった。惟人はどうサテラが来てもいいようにしてくれているものの、だからこそ迷う。子どもにするように、あるいはお姫様だっこ、はたまた俵のように。
「……えいっ」
結局決めきれず、彷徨った両腕は惟人の首にぎゅっと回された。こうして彼に委ねてしまえばいいと思ったのだ。――すると、惟人は迷わずサテラを大切そうに横抱きにした。所謂『お姫様抱っこ』である。
「案内は頼む」
「はいっ。……ふふ、抱っこされるなんて初めてです」
「なるべく快適な心地になるようにする」
至極真面目にそう言って、惟人はアクアリウムの迷宮を進み出した。静かな青の景色の中に、ふたりぶんの重さを乗せたひとりの足音がゆっくり響く。
「惟人さんの高さで見る景色、ちょっと新鮮で楽しいです」
「そうか? この景色が気に入ったのなら……また、いつだって」
そう口にしてから、惟人はこれもまた照れくさく感じてしまうことに気づく。そして顔を俯けても、抱き上げているサテラからは隠せない。――今までで一番、ふたりの距離が近い。抱き寄せていれば、心臓の音さえ伝わってしまいそうな静けさに気づけば、尚のこと心音は駆け出すようだった。それを誤魔化そうとして――、
「あっ」
「……っと、すまない、サテラ。少し躓いてしまった」
「ふふ、びっくりしたけど大丈夫です。……あっ、惟人さん、そこを右に」
ああ、と答えて足を進めながら、惟人はサテラを抱き寄せ直す。またいっそう距離が、温度が近くなって心臓が跳ねた気がした。
(何をやっているのだ私は)
彼女が身を預けてくれているのだから、もっとちゃんとせねばならない。
「しっかり掴まっていてくれ。絶対に怪我なんてさせたくない。サテラは……大切な人だから」
「……たいせつな、ひと」
惟人が口にした言葉を、サテラはそっと繰り返した。彼にも、そう思って貰えていることが何より嬉しい。知らず緩む頬で、頷く。
「……はい、信じています。だから惟人さんも私の直感を信じてくださいね?」
「ああ、私もサテラの直感を信じる」
頷きあって、やっとまっすぐ視線を結んだ。至近で見つめる互いの瞳に、吸い込まれそうな錯覚をする。それも、照れに交えて笑い合えば、ふわふわとした感覚に溶けた気がした。
互いを頼りに、惟人とサテラは迷宮を進む――けれど、不思議なくらいなんの心配も、怖さもなかった。それはサテラにとって、惟人の腕の中が一番安全な場所で、惟人にとってサテラが、心から信を預けられる大切な人だったからだろう。
見渡す限りの青にふわりと踊る|白《クラゲ》――どこか星空にも似たその空間は、デスゲームの会場としては緊張感もなかった。
だからつい、廻里・りり(綴・h01760)ははしゃいだ声をあげてしまう。
「わぁ……! とってもきれいな空間ですねっ。見てくださいベルちゃん、くらげさんがおよいでますよ! かわいい……!」
「……りりったら。ワタシたちは|死亡遊戯《デスゲーム》に参加しているのよ」
「そ、それはわかってるんですけどっ。でも……ベルちゃんもいるし……」
淑やかにたしなめられて、りりは大きな耳をぺしょっと落とす。いつも隣り合う寄る辺――ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きもの・h03161)がいればこそ、こうしてはしゃいでいられるのだ。
けれどそれも、ゲームの『ルール』が開示されるまでの話だった。
アクアリウムの青に浮かび上がる電子文字――そこには、この迷宮のクリア条件が並んでいる。それを読み進めるごと、さあっとりりの顔が青くなっていった。
「……かつがないと……お水が……? ぴゃーっ!」
周りには水槽――水しかない。それが割れて水の迫る想像はいかにも容易すぎて、りりは勢いよく隣のベルナデッタに抱きついた。と同時によじ登る。相談するまでもなく、どちらが担ぐかは決定されて、『ゲームスタート』の無機質な声が響いた。
「ベルちゃん! わたしおよげないので! ぜったいにおとさないでね……!」
「知っているわよ。……ええ、落とさないようにするわ」
くすくすと笑いながら、ベルナデッタは苦もなく、よじ登ってきたりりを|お姫様抱っこ《横抱き》で抱えた。それにしても、と巡らせるベルナデッタの視線は常と変わらず落ち着き払っている。
「のんびり水槽を眺めながら進む……なんてことはできないのね」
「ベルちゃんが落とさないでいてくれるなら……ながめるのもたのしそうだなあって」
思うけど、と言うりりの声は徐々に小さくなっていく。きっとうっかり水に落ちてしまう想像をしたのだろう。それを安心させるように、ベルナデッタは丁寧にりりを抱え直した。
「落とすなんて……あらあら、そんなにしがみつくと前が見えないわ。落としてしまうかも」
「ぴえっ、ベ、ベルちゃん……っ?」
「ふふ、なんて。……冗談よ」
冗談めかして笑いながら、ベルナデッタはりりを抱えたまま歩き出した。狭いアクアリウムに見えていたそこは、いつの間にか果ての見えない迷宮を広げている。
「逃げ道は……|りり《パートナー》の直感と書いてあったかしら」
「はい! もちろん、道案内はおまかせください!」
「……そう、りりの直感。そう、そうなのね」
自信に満ちた様子で目を煌かせるりりに、ベルナデッタは静かな表情の奥で言い知れない不安を感じた。何しろこの子は折り紙付きの『迷子』の申し子である。その案内で出口を見つける――駆け落ちより難しくないだろうか。ゲームが直感を授けるというならくれぐれも上手くやって頂戴と言い添えたいところだ。
「まずはー……あっち!」
「わかったわ。……大丈夫よ、りり。あなたが進んでみたい方に、まずは進んでいってみましょう」
「はい!」
元気よくりりが指さす方向へ、ベルナデッタは歩き出す。どうしてだろう、順路なんてベルナデッタにもわからないのに――何となしに違うような気がするのは。
「くらげさんっていろんな子がいるんですね! 光っている子もいて、きれいでした……っ」
「ええ、綺麗だったわね。リンゴクラゲやムラサキクラゲ、色もとりどりで」
「よく見かけるミズクラゲさんは、やっぱりかかせませんねっ。さかさになっている子はおもしろかったですし、ぽよぽよした子もかわいかったです!」
――果たして、りりとベルナデッタはアクアリウムを満喫していた。のんびり眺める時間はない、なんてこともなく、りりが指し示す先々に見つけるクラゲたちは多くの種類がいて、二人は揃ってクラゲを覗き、はしゃいだ声をアクアリウムに響かせて、そして、いまだ出口は見つかっていない。へんなの、直感がだいじって聞いたのに。
「ベルちゃん、つかれてないですか……?」
「疲れてはないから安心してちょうだい。……実は、魔術でちょっぴり、補助しているの。ナイショよ」
「わぁ、さすがベルちゃん……!!」
「それに……もしかして、一通り楽しんだのではないかしら。間違いなく楽しいルートだったからりりの直感は正しいわ」
「そうですか?」
「ええ、ふふ。……あとは残った道をいきましょ?」
「はい! あっちですね!」
「たぶん、こっちね」
あれっときょとんとするりりにふわりと微笑んで、ベルナデッタは残された一本道へと進み入る。心なしか、アクアリウムを泳ぐクラゲたちがほっとした様子を見せた気がした。
「さあ、素敵に駆け落ちを続けましょ」
「ねこさま、道案内ありがとうございました……あれっ、いない……」
「攫うお役目はここまでってことかしら。大胆な運転で酔っていないと良いんだけど、あの子たち……」
気づけば祈紡・フィユ(夢境・h12707)と呼宵・秋祈(黄昏・h12424)は逃げ場のないアクアリウムの中にいた。既に共にウェディングロードを爆走したニャンベロスたちの姿はない。
「とてもご親切なねこさまたちでしたね。……あれ? これって攫われたことになるのです?」
「攫わ……攫われ……てないね」
こてりと首を傾げたフィユにつられて、秋祈も首を捻る。ともあれ目的はこの迷宮に至ることであったのだから、ある意味駆け落ちのはじまりとしては成功として良いだろう。たぶん。
そして次に果たすべきは――いよいよ『デスゲーム』のクリアだ。条件として水槽に掲げられた電子の文字を目で追って、ふむとフィユは秋祈に向き直る。
「お身体の弱い秋祈さまにご無理をさせたくはありませんのでフィユが抱っこするのです」
「えっ。でもフィユちゃん、私より小さい……」
きょとんとした秋祈の前でフィユはむふんと得意げな顔をする。そして片手に持った羽ペンで宙に|夢《・》を描き出した。想像で描き出すのは『おおきなくまさん』――|夢《それ》を纏うようにくるりと回れば。
「じゃーん! なのです!」
「ひゃっ、なにこれー!?」
秋祈の目の前にいた稚い少女は、一瞬のうちに大きなテディベアになった。大きさはちょうど人間の大人ほど。フィユらしさの名残はふわふわのくまみみだろうか。唐突に目の前に顕れた『ぬいぐるみ』に、秋祈はつい声を上げた。それからまじまじと見て「フィユちゃん、ほんとうになんでもありね」としみじみ呟く。
「これならフィユでも、ばっちり秋祈さまを抱えていけるのですよ! えへん! 夢はなんでもありなのです」
だって夢ですから。そう言いながら、フィユはひょいっと秋祈を抱き上げた。そのふわふわした心地に、秋祈はぱちぱちと瞬く。車に、ぬいぐるみ。フィユはまるで魔法使いのようでさえある。
「まさかぬいぐるみに抱っこされるなんて……ほんとに夢でもみてるみたい。……重く、ない……?」
ぽてぽてと歩き出すぬいぐるみ――フィユに、秋祈は小さく問いかける。いくら魔法とはいえ、本来自分より小さな子に抱き上げられているなんて。しかもしっかりお姫様抱っこである。
「フィユは力持ちのくまさんなので大丈夫です!」
「……そう」
「秋祈さまこそ、怖いことや不安なことはないですか?」
つぶらなくまのひとみが秋祈を映す。その向こうに、いつものフィユの笑った顔が見える気がした。
「フィユはあなたを護るためにいるので、頼ってほしいのですよ」
「フィユちゃん……」
真っ直ぐで純真な言葉に、ついきゅんとしてしまう。大きなぬいぐるみに包まれている安心感のせいだろうか。ぜんぜん怖くなんか、と答える秋祈の声は、どこか気恥ずかしそうに小さくなって、その感情を代弁するようにもじもじとリボンが指先に絡んだ。
「さっきの車もびっくりしたけど、ちょっと楽しかったし、フィユちゃんが手を引いてくれてた。今だって……う、」
いざ言葉にしようとすると気恥ずかしくていけない。きゅうっと一度両目を瞑ってから、秋祈は顔を隠すようにアクアリウムの先を見やった。
「……と、とにかく大丈夫っ。あ、あっち! きっと何かある。ほら、いこ?」
「はいっ」
秋祈が直感のまま示す先へ、おおきなくまと秋色が揺れて、青いアクアリウムの迷宮の先へ|駆け落ちて《すすんで》行く。
|招待された《閉じ込められた》デスゲームの会場は、アクアリウムの中にあった。
見渡す限り青く透け光る光景を鮮やかな碧色に映してロズランシェ・リアディオ(赫耀・h08219)は『ゲーム』のルールを映した水槽の硝子を指先でつついた。
「デスゲームの会場にしてはロマンチックよね。そう思わない?」
「……俺としては、優雅に漂うクラゲが今はいっそ羨ましい」
一方で、死ぬか担ぐかの二択を迫られた夜鷹・芥(stray・h00864)は頭痛を堪えるように、皺を寄せた眉間を押さえた。あら、泳ぎたいの。そんなわけあるか。
「こう見えてあたし、結構力持ちなの」
嫋やかに微笑んだ上で、ロズランシェはそう言って見せる。――けれどもその腕は華奢で、足元には細いヒールさえ似合っているから、芥としては訝しげな顔をするしかない。
「……何で力持ち宣言?」
その問いへの答えは、一目でわかる形で示された。芥の目の前ですいと持ち上げられたロズランシェの片腕が、鋭利な爪を持つ獣手へと一瞬のうちに変じる。
「……ね?」
これには芥も訝しい顔を驚きに塗り替えて納得するしかない。力尽くで振るわれてしまえばひとたまりもないだろうその腕が、するりと芥へ伸びて。甘い薔薇の香りがふわりと広がる。
「――いや、此処は俺が! 是非担がせて欲しい、レディ」
我に返るようにして、芥は言い張ることに成功した。危なく担がれる側になるところだったが、いかに力があろうと、己より余程華奢な彼女に担がれる絵面はなかなかに想像したくない。
「ん。遠慮なく体重預けてくれ」
「ふふ、そこまで言うなら」
歓迎するように開かれた両腕と詰められた距離。それにロズランシェはくすりと笑って獣手をほどいた。言葉も態度も尽くされるなら、大人しく男性の顔を立てるのもやぶさかではない。
促す芥に応えて、躊躇なく伸ばされたロズランシェの腕が芥の首に回される。もっと深く、と囁くようにすれば、ぴんと立った兎耳の端がぴくりと跳ねた。至近で視線が交わって、どちらともなく戯れるように笑う。
「落ちたら終わりだからな? 兎サン」
「あら、命懸けのデートだなんて素敵じゃない」
「一緒に心中しても構わないって?」
「例え沈むことになっても、共に在れるのなら寂しくもないわ」
ね、と甘い声が誘うふうで戯れる。駆け落ちの『ふり』の延長線上であればこそ、甘い言葉は惜しみもしない。初めて顔を合わせてここまで来てしまった芥も、彼女の性質は薄らと理解しつつあった。華奢で柔らかな身体を易々と持ち上げて、青い空間を歩き出す。
「なら、深い水底まで喜んで」
――あるいはもう既に、水底に近い場所にいるのかもしれない。
四方を水槽に囲われた迷宮は、歩くほどその深度を増すように広がっていくようでもある。ただ、光景だけは美しかった。こんなゲームでなければ、それこそ絶好のデートになっただろう。それが名前すら互いに知らない者同士でも。
「……今更だが、貴女の名を聞いても?」
「あたしはロズランシェというの。気軽にロジィって呼んで頂戴」
「俺は、芥だ。夜鷹芥。……名も知らない男に抱えられて命を預けるのは嫌だろ?」
「あなたも一蓮托生でしょう」
くすくすと笑って、ロズランシェは惑わす青色の迷宮の先をピンクベージュの指先で指し示す。なるべくなら最短の道をと思うのは、彼の足取りに負担がかからぬように。こういうのは得意なほうよ、と迷わず示される先へ、芥も疑うことなく足を進めた。
「迷わないんだな」
「ええ。普段も直感に従う盤面は多々あるから」
「なら尚更。俺を上手く使うと良い、ロジィ」
「ええ、芥」
青く閉ざされた迷宮を、名を知り合ったばかりの二人は当然のように戯れるまま駆け落ちる。
「ん。イサ、抱っこよ」
「はいはい、聖女サマ」
退路も進路さえ、美しい青に閉じ込めてしまった|迷宮《アクアリウム》。
――デスゲームの会場と化したその場に示された『ルール』を確認して、ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)は驚くでもなく隣の詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)へ両手を広げて見せた。そしてそれを、イサも当然のように抱き上げる。
「聖女サマを抱える栄誉、有難く頂戴いたしますよー」
ララを抱えるのは、イサも常日頃の世話で慣れている。けれどもいつものように縦に抱き抱えようとして、それを何気ない素振りで横抱きにした。
だってこれは、|いつも《・・・》とは少し違う。何せイサとララは偽りでも『駆け落ち中』なのだ。改めて意識すれば妙にそわそわとした心地が湧き上がってくる。だが、ララに気取られたくはないから、いつものすまし顔を保って、イサはアクアリウムのなかを歩き出した。
「いつも縦に抱っこするのに、今日は横なのね」
「そ、そういう気分なんだよっ」
「ふうん? でも、抱っこで進めるなんて楽ね。見なさい、イサ。デスゲームの舞台にしては美しい場所よね」
クラゲもふよふよご機嫌そうだわ、とララが楽しそうに水槽の壁に自分の手を伸ばす。ぺた、と小さな手が簡単に目線の高さの硝子へ触れて、先の見えない青色を花の双眸が覗き込んだ。
「美しく恐ろしい……水葬の迷宮とでもいっておきましょうか」
ああ、と返すイサからの相槌はさほど気が入ってはいないものだ。意識すれば、浮足立つ思いに思考を取られてしまいそうだったから。
だと言うのに。
「でも、|水の世界《アクアリウム》 はお前に良く似合うわ。――溟海を游ぐ漆黒の美しい人魚……ララの自慢よ」
歩み進めていたイサの足が、ぴく、と震えて止まる。それから、白く透き通った頬が桜色にじわりと染まった。
「……っ、き、急に褒めるなよ!」
「あら、うれしくない?」
「いや、まぁ……自慢なのは嬉しいけど。俺はホンモノじゃなくて人魚の人形に過ぎない」
「だとしても、ララにとって自慢であることは変わらないわ」
ララが笑って、小さな手がイサの頭を撫でる。それにますます熱が上がりそうで、イサはふいと顔を背けた。ただ内心では、湧き上がった喜びを持て余している。人魚でよかった、とこんなに素直に思うなんて。密かに喜びを噛み締めることくらいは許されるだろうか。
「ねぇイサ、夏に海に行ったらまた一緒に泳いで遊びましょう」
「ああ、また遊ぼう。泳げるようになったか見てやる」
アクアリウムに海を思ったのだろう。ララがふと言い出した遠くない夏への楽しみに、イサは我知らず相好を崩した。その代わり、と続けながら青の先へまた足を進めていく。
「ララが飛べるようになったら、空に連れてって」
「もちろんよ。ララが空を飛べるようになったら、今度はララがイサを抱えて空を飛んであげるわ」
「楽しみにしてる」
そんないつかが来れば良いと思う。――そうなれば、ララはイサの護りなど必要としなくなるのかもしれないけれど。それでも。
「……きっと地からも何もかもからも、解き放たれるような気分なんだろうな」
「そうね。ララは迦楼羅天よ。天の仔だもの。三世を超えて、何処までも飛んでいけるの」
そのときはイサも一緒よ。当然のように言いながら、ララは小さな手をアクアリウムの青い天井へと伸ばす。ふわふわと游ぐクラゲが、晴れた空に浮かぶ雲のようで、まだ遠い。このまま本当に逃げ去ってしまえば、あるいは海の|底《そら》には届くだろうか。きっとイサはそんなことを望まないと、ララが一番よく知っている。
「……だからね。死の遊戯になんて負けてられないのよ」
「ああ。その為にも|死亡遊戯《デスゲーム》に勝たなきゃな」
夏の海ほど澄んだ声で、イサが笑って頷く。――今はあと少し、ふたりで『かけおち』の続きを。
「すこしだけ、失礼しますね」
死ぬか、担ぐか。示された|死亡遊戯《デスゲーム》の選択肢を前に、井碕・靜眞(蛙鳴・h03451)はそっと物部・真宵(憂宵・h02423)へ手を差し出して、その身体をなるべく丁寧に横抱きにした。
閉じ込められたアクアリウムの迷宮は、一見すればただ綺麗なだけだ。けれど、このまま閉じ込められるのは、泳げない真宵のためにはならない。
「ごめんなさい……。わたし、決して軽くはないと思うので……」
靜眞の手を取ったのは、真宵としても半ば無意識だった。けれども抱き上げられ、至近に靜眞の顔があるのを見れば、妙に気恥ずかしい心地が襲ってくる。横抱きなんて、父親にもされたことがない。攫われるときからやたら速いままの心臓が壊れてしまうんじゃないかとすら思う。
真宵が目を合わせられないまま小さな声で向けた謝罪に、靜眞はふと微笑んで、難なく歩き出した。
「思っていた以上にすごく軽くて、不安になるくらいだ」
アクアリウムの中に『ゲームスタート』と無機質な電子音が鳴り響く。いくら綺麗な空間であっても、命懸けのゲームであることは変わらないと思えば、真宵を抱く腕にも力が籠もった。
「行きましょう。大丈夫、溺れたりなんかしません。おれが居ます」
「……はい」
安心させるように降ってきた声を辿るように、真宵はそろりと靜眞を見上げる。顔を上げ切ることができなくて、知らず上目遣いになった。――真宵が心配なのは、ゲームのことではなく、靜眞のことだ。負担になっていないか気にかかるのに、この距離で目が合うのもどうしていいかわからない。せめて、伝えるべきは。
「信じてます、井碕さんのこと」
あるいはここでも名前で呼んだほうが良かっただろうか。そんなことを考えるけれど、走ったままの心臓ではいかんせん器用なこともできない。少しだけ合った視線の先で、靜眞が軽く目を瞠った気がした。
「――、おれも、です。道、教えてくださいね」
「道は……ええと……あちらかしら」
ここでは抱えられた側の直感が道標になると聞いた。それならばと、真宵は青の中で泡沫が微かに輝いた気がするほうを指で示してみる。まるで星を探しているみたいだ、とも思う。
靜眞も迷わずそちらへと足を早めた。なるべく早く彼女をここから連れ出してあげたいと思う。けれど、抱き上げたその身体が辛くないよう意識もしておきたい――そうすると、どうしてもすぐそこで揺れる紫陽花が間近にあることを意識した。少し顔を傾ければ、触れてしまうほど。紫陽花は香らないはずだと知っているのに、どこか甘やかな香りにさえ気づいてしまった。たぶんこれは、真宵の香りだ。
ああ、余計なことに気づいてしまった。そう思っているうちに、先へと向けられていた真宵の視線が靜眞を見上げる。
「あの……こういう時って、首に腕を回した方が楽だったりしますか? 辛くないです?」
「おれからすると、軽すぎるくらいです。でも……その、そうしてもらえると、助かります」
体勢を安定させる上では、どうしたって首に腕を回すほうが良いのは確かだ。けれどもそれは、それでなくとも近い距離を、さらに密着させることでもある。そう気づいて、
「あ、いや、無理強いはしませんから!」
つい出した声が妙に慌てたふうで響いた気がして、靜眞自身が焦る。――だって、攫われるときからずっと心臓は大きく鳴ったままだ。やけに静かな青い空間では、その音すらばれてしまうのではないかと思う。
「無理強いだなんて、そんな」
ふるりと首を軽く振って、真宵はそっと伸ばした腕を靜眞の首へと回す。ぎゅ、と力を籠めれば、腕に抱きついたときよりもずっと顔が近くなって、どうしようもなく恥ずかしかった。なんだかずっと、顔が熱い。
「あ……えっと、次の道は、あちらで」
「は、い」
誤魔化すように、真宵はぱっと視線を逸らして迷宮の道を示した。
真宵が少しの動作を見せるたび、|香る《・・》紫陽花が靜眞の思考を少しずつ奪っていく。そういえば、紫陽花には毒が含まれるのだという話を脈絡なく思い出した。あるいは思考を逸らそうとしたのかもしれない。たかが気づきの感情ひとつでこの体たらく。彼女から齎されるひとつひとつが、どこまでも甘やかな毒のようだ。
あっちですね、と急ぎ進む歩みよりもずっと速い心音が――それ以上のものが、どうかばれていませんように。
逃げた先にあったのは、また逃げられない水底だった。
「|苦界《水槽》 から逃れた先もまた、水槽だとは。面白いものですわね」
どこか皮肉げに零された欺三・夕蓮(泥中の蓮華・h00360)の言葉に、時月・零(影牙・h05243)はただ静かに双眸を細める。
ゲームが指示するまでもなく、零は夕蓮を抱きかかえたままだ。攫ったときの名残――いまだ『駆け落ち』は続いている。
「……暫し此の儘になるが大丈夫か?」
それでも向けた確認に、夕蓮はやわらかな微笑みで応えた。華奢な腕を、その首元に回す。
「こうしたほうが、より|らしい《・・・》 でしょう?」
戯れるふうで、甘えた言い訳を添える。水底こそが夕蓮の世界だ。たとえ水がこの場に溢れても平気ではある。けれども、零はそうはいかない。だからこれは『ゲーム』のための|ふり《・・》の延長線上。既にそれが必要なくとも、死と隣合わせであることは確かだ。
夕蓮が回した腕を、その微笑みを肯定と取って、零もその身体をしっかりと抱き直した。両手が塞がるならばと、影狼を念のため走らせる。
そうして安全を確かめてから、ふたりは青いアクアリウムの中を歩き出した。
「天も地も水に満ちておりますわね。いざとなれば手の塞がる零様の代わりにわたくしが……なんて、力不足ではありますけれど」
「問題無い、お前を守るのが俺の役目だ。そう簡単に役目を変えられては困る」
申し訳ございません、と目を伏せる夕蓮の声に重ねるようにして、零はきっぱりと言いきった。それに、と続ける。
「――守ると言ったはずだ」
告げた言葉を違える気はない。その思いと共に言えば、夕蓮はふわりと柔らかく頷いた。どうしても戦事には長けていない。けれどここでは、夕蓮にもできることがある。
「此処は何方に?」
差し掛かった分かれ道で零に問われて、夕蓮は直感のまま、迷わず一方を指さした。
「こちらに行きたいですわ」
ふたりきりのこの迷宮で道がわかるのは夕蓮だけ。水底から零を導くように、アクアリウムの惑わす先を選んでいく。その感覚は夕蓮にとって、どこまでも得難い感覚だった。
既に夕蓮は水底に囚われている。自らの路さえ自分では選べない――そんな日々を游ぎ続けているからこそ。
「零様、次はこちらに」
「ああ。……お前の選んだ道を行こう」
「ふふ、なんだか嬉しいですわ。……共に往く路をわたくしが選べることが」
嬉しげに笑う夕蓮を見て、零もそっと目を細めた。
(いつもは閉ざされた世界に生きる彼女が、せめて此の場では苦海とは違う世界と感じられればいい)
それはどこか、願いに似ている。
逃れ得ぬ水底に、結局は帰さねばならないのなら、せめて。
「この先に出口がありそうですわ。このまま――、」
「――ああ。このまま行こう」
いっそこのまま本当に、と掠めた思いに蓋をしたのは、どちらだったか。
「――猊下。少しばかり居心地が良くないかもしれませんが暫し我慢してください」
当然のように、否応もなく。フルラ・フィル(蜜葬Agnus Dei・h13279)はアドニス・ガルダ・インファリリ(プシュケの花檻・h12904)をしっかりと丁重なまでに|横抱き《お姫様抱っこ》にした。
え? と一瞬固まって動けなかったことがアドニスの命運を分けたのかもしれない。だってまさか、当然のように華奢な彼女に抱き上げられるとは思ってもない。そしてもちろん『ゲーム』は担ぐ役にフルラを判定したわけだ。
「……あのさ、フルラ。何かおかしいとは思わないのかい?」
「何がですか」
「この状況」
既に降ろせない状況である。こうなってはアドニスだって暴れるつもりはない。ただ、ちょっと、気づいてはほしい。おかしいことに。
「水槽だらけの迷宮……確かにおかしいですね。小癪な罠がないか気をつけねば」
「そうではなく」
「わたしは妖です。問題もありません」
「妖だからとかでもなく」
なるべくなら自分で気づいてほしかった。だって現状のこの状況で口にすると、まるでアドニスがおかしいみたいではないか。そんなわけあるか。
「……普通、君が私を抱えるのではなく、私が君を抱える――と、なるのではないのか?」
「なりません」
即答である。なお真顔なものだから、これは私がおかしいのかと思いかけた。そんなわけもないのに。たぶん。
「わたしを抱えたせいで腕が疲れ執務が行えないとなる方が大変です」
「執務……面倒なことを思い出してしまった」
つい目を逸らす。逸らした先には青いアクアリウムが広がっている。ここを出れば、また面倒ごとと向き合わねばならない。
「というか、フルラはシスターであって私の秘書ではなかったはずだが」
「それはそうですが、軽すぎます。ちゃんと血を召し上がっていますか?」
「いや、|血《食事》 の話は今はいいだろう」
どうやらアドニスの常識は通用しないらしい。仕方がないからこの場はこのままフルラの気のすむようにさせるかと、下げた眉を戻すことに苦心する。その様子を、フルラも至近で楽しんで見ていた。困ったような彼の姿が新鮮で、どこか可愛くすら感じられてしまう。そして何より、この青い迷宮は幻想的で――美しいアドニスによく似合った。抱えた彼の指す先へ進みながら、我知らず笑みが浮かぶ。
「……偶然拾ったボロボロの狐がこんなにも|パワフル《面白い》 とは思わなかったよ。誰かに抱えられた記憶など無いからな」
「それは何よりです。……猊下、次はどちらへ参りましょう?」
「次? ……どちらがいい?」
ふと思いつきで、アドニスはフルラへとそのまま問い返す。直感は既に齎されていた。けれどこうして抱きかかえられているのだ。
「少し位、君で遊んでもいいだろう?」
「……面白がってますね? では、こちらへ」
軽く肩をすくめて、フルラは片方の分かれ道へ視線をやる。するとアドニスが嬉しげに笑った。それだけで、直感が重なったのだとわかる。――それがやけに嬉しくて、フルラの頬も緩んだ。
「わたしと遊んでくださるなら大歓迎です」
「それなら、もう少しだけ駆け落ちを続けようか」
この迷宮の先――|駆け落ちを果たす《ゲームクリア》まで、あと。
第3章 ボス戦 『宙の上から来た侵略者』
●ほしくず宣言!
アクアリウムを思い思いに抜けた先――ふと、青が途切れた。視界を覆うのは暗闇だ。けれどもその先に輝くものを見つける。
――それが星明かりだと気づくのはすぐだった。
満点の星空。その美しさに目を奪われて見上げる先から、ふわり、ふよりと白いものが降りてくる。
大きくて、つぶらな瞳のクラゲ――のような宙の上から来た侵略者。
どうやらそれが、このデスゲームのボスを任された存在らしかった。
『そらにかけおち したければ ぼすをたおさないでください』
『げーむをくりあ したければ ぼすをたおしてください』
星空に、迷宮に入り込んだときに見た電子文字が浮かび上がる。
ふよふよ漂う姿はいかにも無害そうではあるが、これでも立派な簒奪者。あるいはその謎の推進力にかかれば、宙までの駆け落ちだって可能かもしれない。だが、そのまま星になってしまえば意味がないのだ。
このデスゲームから生きて帰るそのためには、星空を泳ぐ侵略者を倒さなければならない。
けれども、デスゲームを押し付けられたのは侵略者とてそうである。こちらから攻撃しなければ、基本的にはふよふよしているだけだ。こちら、やとわれデスゲームボスなので。なんかこう、いい感じの流れ星くらい流しますよ。駆け落ちさせられてるらしいし。たいへんですね、おたがい。
少し星見を楽しんでからでも――デスゲームクリアには遅くないのかもしれない。
結局のところ、これはただの|遊戯《ゲーム》である。
生死をかけていることは確かとはいえ、ふよふよと星空に浮かぶ|侵略者《クラゲ》に、たいへんですね、なんて共感を向けられてしまうと、それを実感してしまって、つい物部・真宵(憂宵・h02423)はくすくすと笑った。
「たいへんですね、って……ふふふ。なんだかおかしなことになりましたねぇ」
「ええ。……どうやら、脅威ではないらしい」
攻撃の意志のなさそうなデスゲームのラスボスをちらりと見やり、井碕・靜眞(蛙鳴・h03451)は大切に抱きかかえていた真宵をそっと降ろす。この様子なら、少しばかり気を抜いても大丈夫だろう。
「疲れていませんか?」
「ありがとうございます、丁寧に運んでくださったから、ちっとも」
「……なら、よかった」
素直にほっとして、靜眞は目を細めた。
|迷宮《アクアリウム》ぶりに、真宵は自分の足で地面を捉える。どこかふわふわとした心地が残るのは、抱き上げられていたぬくもりが残っているせいか、それとも広がる星空が近く見えるせいだろうか。
「まるでプラネタリウムですね」
「井碕さんもそう思いましたか? わたしも……そうだ、流れ星を流せるって本当?」
星空を見上げながら、真宵はふよふよと漂ってきた侵略者へと問いかけてみる。こちらに気づいたらしい白い触腕がぷよぷよ揺れた。いけますよお、と聞こえた気がして「ならお願いしてもいいかしら」と首を傾げた。その視線を戻すまでもなく、流星が星空を駆け始めるのが見える。
「……ふふ、きれい。そういえば、今日は七夕ですね」
「そうか、もう夏……」
真宵の視線を追うように、靜眞も流れる星を見上げる。――このまま『駆け落ち』てしまえば、あの星のように遠くまで果てることができるらしい。
けれど生憎と、そのつもりはなかった。させたくもない。
真宵には家族が居て、友人が居て、仕事が有って、これはあくまでそういうフリに過ぎない。
それなのに。
(あなた以外、要らないだとか。……そんな、どうしようもないことを考えてる、なんて)
言えば笑われるだろうか。それとも少しは彼女の意識に残るだろうか。偽りでも、駆け消える星の煌めきくらいには。
「ゆっくり星を眺めることなんて久しぶり」
「――ねぇ、真宵さん」
不意に名前を呼ばれて、少しだけ声が詰まった。だって、靜眞から名前を呼ばれたのははじめてなのだ。いつも大人らしく苗字で呼び合って、けれどこの『かけおち』のあいだはと戯れるように名前を呼んだのは、真宵のほうが先で。
「なんですか、井碕さ、ん……」
何気ないふりをしようとして、声の調子が外れてしまう。いつもより高鳴った胸の音のせいだ。うれしいと、感じてしまったから。
「……おれは、あなたさえ良ければ、宙の果てでも連れ去りますよ」
これは、駆け落ちの延長線。そうわかっているのに、早まった拍動に押されて、頬がどうしたって熱を持つ。
その胸の音を誤魔化すように、今度は真宵から靜眞へ手を伸ばした。自分よりも大きくて骨ばった手を、やわく握りしめる。
「ねぇ靜眞さん、どこまでもどこまでも一緒に行ってくれますか?」
「……ええ」
握られた手を、靜眞もそっと握り返す。こどもの頃に読んだ物語にも似た言葉に、妙に泣けてしまいそうだった。今ならそれも流星の一筋に誤魔化せるだろうか。
「たったふたりきりになったとしても……わたしたちの本当のさいわいのために」
「もちろん、どこまでも、どこまでも。ふたりで、一緒に」
でも、と二人は手を重ねたまま、視線を星空へ――星を追う侵略者へと向ける。それは『もしも』の話。これは『ふり』で、それを大人の靜眞と真宵はよくわかっている。
「今日は、お帰りいただきましょうか」
「そうですね。……それはまた、次の機会に」
星空に、不可視の弾丸と涙雨が降る。一夜限りの|星合《かけおち》を、そっと仕舞うみたいに。
「あら……なんて美しいのかしら!」
青いアクアリウムを抜けた先に広がった星空に、欺三・夕蓮(泥中の蓮華・h00360)は弾んだ声をあげた。
「……水槽の次は星空とはな」
いっそ呆気に取られたように、時月・零(影牙・h05243)は星空と、そこにふよふよと浮かぶ侵略者を見やる。夕蓮を抱えた腕を緩めることはなかったが、|敵方《あちら》に攻撃の意志がないらしいことは確かだった。
「本気で駆け落ちさせたいのか、デスゲームをさせたいのか分からない緩さだ。……どうする、夕蓮」
「ふふ、こんな死亡遊戯でしたら歓迎ですの。暫しの星空鑑賞を楽しみましょう」
夕蓮は零へ微笑みかけてから、星空へと視線を戻す。
「水底は、星空に似ているのだと聞いたことがございます。……本物の夜とはこんなにも、星が美しいものなのですわね」
憧れるように夕蓮が目を輝かせる。その様子を至近で見ながら、零は僅かに目を伏せた。
「――本物、とは言い難いかもしれないが」
迷宮の果てにある星空もまた、限られた箱庭に投影されたものでしかない。とはいえ、よくできているのもまた事実だ。
「此れもまた、駆け落ちの思い出作りとしては悪くないかもしれないな」
「偽りであったとしても。……わたくしの夜は煌びやかで暗くて、星を眺めることなどありませんから」
夕蓮が知るのは、遊廓に訪れる閉ざされた夜ばかりだ。たとえ本物でなかったとしても、こうして見上げるばかりの星空の下にいることが、素直に嬉しい。
「また、零様には美しい景色をみせていただきましたの」
どこか無邪気なまでに嬉しげにはしゃぐ夕蓮に、零はそっと双眸を緩めた。こうして何気ない光景を彼女が喜ぶたびに思ってしまう――彼女に、もっと広い世界を見せたいと。
「本物の星空も負けないくらいの美しさだ。いずれ探しに行くのも悪くは無いかもしれないな」
「まあ、それなら――、」
いっそこのまま。
危うく口にしかけた言葉を、夕蓮は笑みを描いた唇の奥に仕舞いこむ。このまま時を射止め、そらへ駆け落ちてしまえれば、なんてことは叶わない夢想だと知っている。叶えてはいけない。その先は、今こうして抱いてくれている彼すら死出の旅路へと誘ってしまう。
呑み込んだ言葉の代わりのように、夕蓮は星空へ、ふよふよと浮遊する星のような|侵略者《クラゲ》へと手を伸ばした。本当に手を伸ばしたいものにしがみついてしまわぬように。
己すら欺いて、夕蓮は微笑む。
「零様、わたくし……あの星が欲しいですわ」
指さす先には|侵略者《ほし》がいる。それをおとせば、この夢のような遊戯は終わってしまうと知っているけれど。それでも、覚めない夢はないと知ってもいるから。
「……ああ、わかった」
夕蓮の願いに応えるように、零は潜ませていた影から黒狼を走らせる。星空に獣が牙を剥けば、呆気なく輝きはそのあぎとに喰い尽くされた。
ぱちん、と夜が弾ける。まるで泡沫のように、偽りは消えていく。
残るのは互いに身を預けたぬくもりだけ。
(ならば、次は――もっと広い場所へ、彼女を連れていけたら)
零が胸に抱いた願いは消え失せた星に代わって、その深いところに刻まれる。
「ねえフィユちゃん、私まだ夢を見てるのかな」
きれい、と星空を見上げて、どこかぼんやりと呼宵・秋祈(黄昏・h12424)は呟いた。
すっかりいつもの姿に戻った祈紡・フィユ(夢境・h12707)はぱちぱちと、星のまたたきに重ねるように大きな瞳を瞬かせる。
夢――それは、フィユにとっては身近なものでもある。そしてきっと、今星空に輝く星も、みんな。
「これが夢なら……あのお星様もみんな、すてきな夢を見守っているのでしょうか」
「そうかもしれないわ。だって、結婚式でのオープンカーの逃走劇も、ぬいぐるみ抱っこも、ほんと全部めちゃくちゃで……。それが、楽しかったの」
それこそ、夢みたいに。
ぽつぽつと、秋祈は星空を見上げたまま言葉を紡ぐ。彷徨うように、ふわふわとリボンも揺れていた。
その隣で、フィユはえへへ、と笑いこぼす。
「秋祈さまにそう思っていただけて嬉しいのです。フィユもとっても楽しかったです」
「……でも、夢ならこんなに都合よく楽しい事ばかり起きないよね」
稚い声は笑って、どこか不安げな声は頼りなく揺れる。
夢がそう都合の良いものではないと、秋祈は知っていた。だって、
「だって、夢は選べないもの」
どんな夢も、都合の良いことばかりは見せてくれない。
「……まあ、私は現実もそうだけど」
ぽそりと付け足した言葉は、見上げた星空に沈んでいく。はちゃめちゃな『駆け落ち』が楽しかったからこそ、妙に不安になっているのかもしれなかった。
「ごめん、マイナス思考ね。忘れて」
笑って誤魔化そうとする。けれどその秋祈の言葉を、フィユは真っ直ぐに追った。
「夢は選べないものかもしれません。でも、目が覚めたあとにどこへ行くかは、少しずつ選べると思うのです」
フィユは秋祈を見上げる。頼りなげに揺れる瞳と、真っ直ぐな瞳が交錯して、フィユは笑った。
「もし、秋祈さまが自分で歩くの大変だなって思ったら、その時はフィユが抱っこして秋祈さまが望む場所に連れていきます」
ぬいぐるみになって抱き上げたときみたいに。
今は小さな身体で、フィユは両手を広げて見せる。
「疲れた、苦しい、悲しいって思った時はいつでもぎゅっとしてください」
寂しいときにぬいぐるみを抱き寄せるみたいに。その心の近くに寄り添いたい。それが、フィユがいる理由でもある。
「フィユは秋祈さまのためのお人形なのですから、秋祈さまの涙をぜんぶ受け止めたいのです」
「フィユちゃん……」
間違いなく秋祈のためだけに紡がれた言葉に、秋祈はしばらく返す言葉を見つけられなかった。けれどきっと、今言うべきは。
「ありがとう」
|秋祈《わたし》のための。そう紡がれた言葉を、胸の裡で反復する。じわじわと広がってくるのは、不安ではなく嬉しさだ。
「そっか。嬉しい。そういうの、憧れてた気がする……ずっとね」
「それなら、帰りましょう、秋祈さま」
ぱあっと笑ったフィユが、なないろの輝く流れ星を呼ぶ。それは星空を泳ぐ侵略者を、彗星のように追いかけて――このゲームからの帰り道を切り拓いた。
「うん、帰ろう。……今日のお礼に帰ったら美味しい物食べにいこう? 私、フィユちゃんと街に行きたいわ」
「はい、秋祈さま!」
「駆け落ちは楽しめたか?」
星空の下、結・惟人(桜竜・h06870)は抱き上げたままのサテラ・メーティス(Astral Rain・h04299)と視線を合わせた。それから、少しだけ微笑む。降ろそうとは思わなかった。できればこのまま抱っこしていたくて、惟人はそっとサテラを抱き直す。
「私はとても楽しかった」
「私も……楽しかったです! ふりだとしても……キュンキュンしました!」
サテラはきらきらと眩しいほどはしゃいだ笑顔を見せる。駆け落ちっていいですね、とどこか憧れるように言うのは、年相応の少女らしい。
「それにしても、星が綺麗だな。サテラと見上げる星空は、いつだって特別になる」
「ええ、綺麗です。命を懸けた愛の先に……こんな景色が待っていると思うと、素敵ですね」
まだ『ゲーム』は終わっていないのにご褒美みたいです、とサテラも惟人の視線を追って星空を見上げた。
ただふたりで星を見上げる。――それは、『ふり』の一環で紡いだ未来の光景に少し似ているのかもしれない。
そう思えば、惟人の胸の裡にあたたかな感情が湧き上がる。
(ずっと、ふわふわしている)
状況と駆け落ちという条件に照れが勝っていたけれど、それが落ち着いた今は胸の奥から湧き上がるものに押されて、無性に頬擦りしたい心地だった。何に、サテラにだ。
ほとんど無意識に顔を近づけて、ふと我に返る。
「……っ、すまない、何だかとても頬擦りしたくなって」
「まあ……! かわいい習性ですね。ドラゴンの挨拶……なのでしょうか?」
「そ、そういうもの……に近しいな」
正しくは愛情表現かもしれないとは言わずに、惟人は言葉を濁す。けれどもサテラはそれを疑う様子もなく、素直に「そうなんですね」と笑って、好奇心いっぱいに惟人を見上げた。
「よければ教えてください。えっと……こうでしょうか?」
すり、とサテラから惟人へ頬をすり寄せる。それがくすぐったくて――けれどうれしくて、思わず惟人も笑みをこぼした。
「……ふふ」
「惟人さん、私、上手にできましたか?」
「あぁ、上手だ」
頷いて、惟人からも頬擦りを返す。それだけで、胸の裡のふわふわが強くなった気がした。それでも、いつまでもこのデスゲームの中にいるわけにはいかない。
「さあ、終わらせよう、サテラ」
「はい。……一緒に」
並び立ち、惟人が花弁を侵略者へと放つ。その軌跡を辿るように、サテラの光の矢がまっすぐ飛んだ。
光と花が|侵略者《クラゲ》を穿ち――星空が眩しく弾ける。まるで、夜明けを迎えるように。
ゲームは終わる。それは楽しかったからこそ、ふたりに一抹の寂しさを与えた。けれどその寂しさが、駆け落ちのふりというこのきっかけが与えた確信がある。
(……まだ、内緒の気持ちだけれど。私は――)
口にはせず、サテラがそっと視線だけを向けた隣から、惟人もサテラを見つめていた。
この駆け落ちで、あるいは今このとき。惟人もはっきりと気づいてしまったことがある。
(彼女がとても、いとおしい)
本当に何処かへ連れ去りたいぐらいに。
ふわふわと胸を占めていた感情の正体は、きっとこの想いだった。
星空が明けてゆくなかで、確かに自覚する。それと同時に。
(この想い、許されるのだろうか)
それを確かめるときは――まだ。
青から一歩踏み込めば、その先には星空が広がっていた。
見渡して余りある星の輝きに、フルラ・フィル(蜜葬Agnus Dei・h13279)は綺麗、と囁いて、抱き上げていたアドニス・ガルダ・インファリリ(プシュケの花檻・h12904)をそっと降ろす。
「此処が最後の舞台でしょうか」
「やっと下ろして貰えた……」
アドニスは切実なまでの息を深々と落として、星の瞬く夜に立った。その視線はじとりと変わりない様子のフルラへ向けられる。
「随分と楽しそうだったね、フルラ」
「良い経験でした。わたしとしてはもう少し猊下を抱えていてもよかったのに」
「私はもう勘弁だけど。……今度は星見をしろって?」
いったい何がさせたいんだ、とアドニスとしてはつい肩も竦めたくなる。先程の|水槽《アクアリウム》といい、このデスゲームが酔狂が過ぎるのだ。
しかし、いかにもやらされてます、という態度を崩さずふよふよしっぱなしの|侵略者《クラゲ》の様子に、フルラは少しばかり目を細めた。
「くらげも苦労しているようです。よくわかります」
「……その苦労は何に対してなのかということは聞かないよ」
あえて口にしたアドニスに、フルラは横目を向けるばかりだ。ともあれ、一応の敵方に攻撃の意志がないことは確かなようだった。それならば。
「猊下、駆け落ち土産に天体観測でもしていきましょう」
「駆け落ち土産……?」
はじめて聞く単語だった。そもそも土産が発生していいものだろうか。深く考えてはいけない。
「……わからないが、それもまた一興だろう」
考えることをやめて、アドニスはフルラから星空へ視線を移した。そうして、ゆっくりとその瞳が無感動に眇められる。
「星を眺めた所で私は特に何も感じない。……キルシュネーテの星空の方が美しいとだけ」
「そうですか。――ならば、わたしが今から言うことは、告解室での懺悔のような独り言と聞き流して下さいませ」
告解。フルラからそう前置かれたものに、アドニスは静かに耳を傾ける。
「……わたしには過去の記憶はありませんが、星を眺めていると、無性に苦しくなるのです」
たとえるなら、大切なものを無くして、逢いたくて会えなくて――帰る場所もない。
そういう苦しみに似ているのだと、フルラは星空のもとで紐解く。
「これはきっと、得たいのしれぬ罪悪感。わたしは大切なものを裏切ったのだと」
自らの胸の裡を、得体の知れないものと言う。それは虚ろの感覚に似ているのかもしれないと、静かに聞きながらアドニスは思う。それを、彼女がどうしようもなく抱えていると言うのなら。
「……辛く苦しい記憶ならば、その痛みごと忘れさせてあげようか?」
「いいえ」
答えは短く、そして迷いがなかった。
「これはわたしのいたみ。だから抱えておきたい――そう思います」
大切に胸の裡に抱くように、フルラは自分の胸に手を当てる。その様子は、まるで。
「痛みと言いつつ、まるで|慈しみ深い愛情《ラシェリール》 の告解だ」
少し羨ましいな、と素直に湧いた思いは口にせず、アドニスはフルラの告解を聞き届けた。
「例え全ては虚構に過ぎなくとも、いつか巡り咲く事もある」
「……そう、かもしれませんね」
「ああ。――そろそろ帰ろうか、フルラ」
柔らかな声で帰路を誘う。星空を泳ぐ侵略者を見やるアドニスの視線に、フルラはそっと目を細めて、頷いた。
「そうですね。猊下を無事に帰すことが今のわたしの役割です」
「それは確かだが。……今の君の居場所は、私の元にある」
星空に溶けるほど静かで、確かなその言葉がフルラの胸の裡へとすとんと落ちてきた。それを抱きしめるようにしてから、蜜の塊を天へと放つ。
帰りつく前に言えるだろうか。
――逃げるのではなく貴方と共に帰れることが、今は無性に嬉しいのだと。
「アクアリウムの次はプラネタリウム? 随分と贅沢なデートコースね」
それもこれも『デスゲーム』の酔狂かしら。ロズランシェ・リアディオ(赫耀・h08219)はくすりと笑って身体を預けていた腕からぴょんと跳ね降りる。
かつん、と小気味よく星空に響く音を聞きながら、夜鷹・芥(stray・h00864)は「またクラゲがいる」と呟いていた。そのつぶらな瞳につい視線を誘われて、
「いやあれ簒奪者だし。ちょっと可愛いとか思ってない」
はっとして視線を逸らした先で、悪戯に細められた鮮やかな碧色に捕まる。
「あら、漂うなら今じゃない?」
「……つれないな、漂うなら一蓮托生じゃねぇの?」
|迷宮《さき》の言葉を芥がそのまま返してしまえば、面白がるようにロズランシェが小さく笑った。
「あなたが流されてしまうなら、あたしも連れ添わなくちゃ」
「なら、次は宙の果てまで、ってことで」
そう言って見上げた先を狙ったように、流れ星が駆けていく。どうやら|侵略者《クラゲ》による演出らしい、とはすぐにわかった。ふよふよと浮かぶこのゲームのボスは、いかにも戦う気がないらしい。それならばと、芥は肩の力を抜いた。
「ロジィ、見ろ。良い感じの流れ星だ。少し休憩も良いだろ? 眺めていこう」
「あら、それじゃあ|それらしい《・・・・・》話をしましょうか」
くすりと笑って、ロズランシェの視線も流れてゆく星のひとつを追っていく。
「ね、流れ星に掛ける願い事は?」
「願いごと、――そうだな……強くなりたい、じゃないか」
少し考える間をあけてから、芥は自分の願いを口にする。星へ希うには荷が重いかもしれないし、飾り気のない答えではある。
「強くなりたい、ね。守りたいものがあるの?」
「守りたいよりも壊したい方かもな」
思い浮かべるものはいくつもある。芥が強さとして求めるものは、あるいは、力より、心のほうなのかもしれず。
「……お前も、何か願い事はあるか」
同じように問い返せば、ロズランシェは「んふ」と笑って、芥よりもあっさりと答えてみせた。
「あたしは願掛けはしない主義なの」
その答えがあまりにも|らしい《・・・》ものに思えて、芥は思わず笑い声を上げる。
「ははっ、ロジィなら願いは己の手で掴みに行きそうだ」
この突拍子もない『駆け落ち』でしか彼女を知りはしないが、妙に納得してしまう。
「じゃあ誰なら信じられる?」
「……信じられるもの」
ふと、稚い顔で繰り返す。そのまま首を傾げれば、兎耳が降り至る星を追ってぺたんと倒れた。
「何かしら。自分自身とか?」
口にはしてみるが、どうにも答えとしてはしっくりこない。けれどその先を探る興味は、今のところさほどなかった。続く声は、|独り言《たにんごと》みたいに星空へ溶けていく。
「いつか他に見つかるかしら」
「それなら、その心を願いにすれば良い」
「……ふふ、ふ。これを願いに?」
芥が示した願いの在り方は、ロズランシェにとってはそれほど身に馴染まないものだ。
「期待しすぎないでおくわ」
くすりと笑ったその華奢な手に、斧が顕われる。いつもならば遠慮なしに振り回すけれど、ここではそれもきっと必要がない。斧の柄で|侵略者《クラゲ》をぺちんと叩けば――星空はあっという間に消え失せていく。
同時に初対面のまま戯れた『駆け落ち』も終わりを告げた。
「結局なんだったんだ、あれ。駆け落ちしかしてないが」
「いいじゃない。駆け落ちは無事、できたんだから」
――腕のなかからは、すやすやと心地よさそうなララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)の寝息が聞こえてきていた。
迷宮からこちら、騒がしい内心を宥めすかしていた詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)も、これにはさすがに心底あきれた心地になる。
「……駆け落ち中に寝る? 普通」
いいや寝ない。というか寝てほしくない。そもそもこれはただの駆け落ちでもない、デスゲームだ。何よりは。
「俺はそれどころじゃないってのに……」
このお気楽聖女サマは、と眉を下げて寄せる。けれどもそれも、安心しきって眠っている顔を見れば長続きもしない。可愛い顔して寝ちゃって。
「ほーら! 起きろ、ララ!」
「むにゅう……むに……。――な、なぁに……起きてるわよ、イサ」
大きめに声をかければ、むにゃむにゃ言いながらララが寝ぼけまなこを開いた。ぽやぽやとしていたその瞳も、ややあってからぱちっと開く。あわてて付け足された主張にイサが軽く吹き出して「無理がある」と言えば、むう、とララはその視線をやや下げた。
「少しばかり安心してしまったのよ」
それが言い訳であることは自覚している。けれど、
「お前がいれば、ララは大丈夫だもの」
これは間違いのない本音だった。
まっすぐ見上げてくる腕の中からの視線に、イサは軽く笑う。
「安心したってのは嬉しいけどさ。……ま、そういうことにしといてやるよ」
抱き上げた小さな身体を抱き直す。これが駆け落ちであると意識すればするだけ、イサの心は落ち着かなくなる。けれど、それももう終わりが近いのを、この星空が示しているようだった。
「すっかり夜ね。これも|死亡遊戯《デスゲーム》の一環なの?」
「どうもそういう舞台みたいだな。ほら、クラゲが飛んでるだろ」
イサが片手で指さす先では、つぶらな瞳の|侵略者《クラゲ》がふよふよと星空を泳いでいる。目が合えば、ごいりようですかとばかりに星が流れはじめた。いい雰囲気にしようとしてないか、このクラゲ。
「流れ星なんて流してくれてさ……ロマンチックな雰囲気も醸し出してる」
あれだって舞台装置だろう、とイサが言おうとした声を遮ったのは、腕のなかにいるララの声だ。
「見なさい、イサ。――流れ星よ! あっちにも!」
「いや、あれは本物じゃ……」
「そんなことより、ちゃんと願いごとはした?」
ララの背で、小さな可惜夜の翼がはためく。星を呼ぶようなそのはためきに、流れ星がまたひとつ、ふたつと駆けた。きらきらと、ララの瞳が輝いて、星を見つめる。
(……こうして見ると、普通の幼子なのに)
はしゃぐララの姿についイサも破顔する。稚く、まだ守られるばかりでいられるはずの少女は、それでも空を目指すのだろう。そう思ったことが、そのまま言葉として出た。
「……ララはどんな時でも逃げないんだろうな」
「イサ、ララは逃げないわ」
星から戻ってきたララの花のひとみがイサを捉える。
「何一つ、放り出したりしない。だから……ララのそばに居なさい。何時だってララを抱えられるように」
小さな手がイサの服をぎゅう、と掴んでいる。頼もしい言葉を連ねる『聖女』は、それでもまだ幼いことに変わりない。あるいは不安も、逃げたいことさえあるだろうか。それを、自分がそばにいることで拭えるのなら。
「なら俺も、お望み通り――聖女サマのそばに居るよ」
小さな手に手を重ねて握る。置いて行かれないようにしなきゃ、と思うのも本当だった。きっといつかその幼い翼は、空をも掴むはずだから。
「……その言葉があればララは大丈夫」
ふわりと笑って、ララはもう一度星空を見上げた。駆け落ちた水底の先に見た星の輝きは、ララの選べない路のひとつ。それを夢見ることができた。
「駆け落ち、楽しかったわね」
「そうだな。そろそろ、駆け落ちもおしまいだ。……俺たちの家に帰ろうか」
頷くララを抱き寄せながら、イサは星の間をふよふよ泳ぐクラゲを穿ち堕とす。たったそれだけで、簡単に星空は弾けて消えてしまった。星屑になるゆめは、これでおしまい。
「あっ」
「どうした、ララ」
「イサ。まだうな重を食べてないわ」
「……、……食べて帰ろうな」
「どこを見てもお星さま! すごいですね、ベルちゃん!」
海月の泳ぐ青から|黒《よる》へ。
一歩踏み入れただけで星空に包まれたような感覚にさえなる星空をくるりと一回転しながら見上げて、廻里・りり(綴・h01760)は満面の笑みをベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きもの・h03161)へ向けた。
「アクアリウムもだけれど……こんなに幻想的な絶景が見れるなんて、びっくりよね」
りりの笑顔に、ベルナデッタはそっと目を細めてから、満天へとひとみを戻す。遠く、果ての果てまで届きそうな星空は、駆け落ちの果てに見る景色としては似合いな気もするのだ。
「駆け落ちの|終幕《さいご》を飾るにはピッタリかもしれないけれど」
それでもこれは|死亡遊戯《デスゲーム》。ゲームをクリアするための条件が存在している。それが――、
「わっ! ベルちゃん、おおきなくらげさんがいらっしゃいます! こ、こんばんは?」
ふよふよと、いかにも無害そうなつぶらな瞳で漂う大きな|侵略者《クラゲ》なんていうのは想定外である。身構えるまでもなく、りりはそれとお喋りまで始めてしまった。これだから目を離せないのだ。
「わたしたちもたいへん……はい! たいへんでしたっ」
「そうね、大変だったわね……|迷宮《あちら》のほうが」
まさか迷宮だって、あんなに迷い尽くされて、出口を示しても示しても辿ってくれないとは思わなかっただろう。猫たちに関しては、もふもふが魅力的で大変だった。
そしてこの侵略者にしても大変そうだ。どうも交戦するつもりはないらしい。すっかりにこにこしているりりと侵略者と星空を見比べて、ベルナデッタは首を傾げた。
「まさか、あの星はあなたが空へ送った命なの?」
しかしこれにもふよふよとゆるい返答が返る。そんなあ、むりむり。やとわれですから。てあてだってないし。
「――そういうわけではない? 雇われ? そう……大変ね……」
何だかしみじみと聞いてしまう。どうやら簒奪者と言っても色々なタイプがいるらしい。そのこと事態は把握していたつもりだったが、ここまでだと不思議な心地になってしまう。頬に手を当てて、ベルナデッタが考えることしばし。
「……どうも交戦する気はないみたいだし、のんびりして行きましょうか」
「はい! ベルちゃん、このくらげさん、流れ星がながせるらしいですよ!」
「流れ星を?」
思わずきょとんとしたベルナデッタの視線の先で、ふと光が走る。あっという間に夜空を光駆けたそれは、間違いなく流れ星だった。
「わぁ! 流れ星! すごいですね、くらげさん! ありがとうございますっ……あ!」
はしゃいだ声をあげたりりは、思わず声をあげる。ぺしょ、と頭の上の耳が倒れた。
「お願いごとしわすれちゃった……。おかわりって、できますか……?」
「あら、それじゃあワタシもおひとつ流して欲しいわ」
願い事し放題ね、と冗談めかしたベルナデッタとりりに、侵略者は応える代わり――夜空に星が流れた。次々と流れゆく星は、まるで流星群のようだ。それにもはしゃいだ歓声をあげたりりの隣で、ベルナデッタも星を見上げる。
「りり、願いごとは?」
「はっ、また忘れちゃうところだった……!」
あわててりりが両手を組み合わせて、流れ続ける星へと願いをかける。その隣で、ベルナデッタも目を伏せた。再び目を開くのは、ふたり同時。
星空ならばいつまでも眺めていられそうな気さえするが――そういうわけにもいかない。それは、りりもわかっていた。
「……そろそろかえらなくっちゃでしょうか。でも、そのためには、この子をたおさなくっちゃいけないんですよね?」
侵略者が敵であることはわかっている。けれども特に何もされてはいないし、むしろ楽しませてもらった気がするのだ。
「……じゃんけん、とかって……」
ぽそ、と呟く。だって、いたいことをするのはかわいそうに思ってしまうのだ。
「なるほど、勝敗が決まればよいのではってことね」
それならあるいは、とベルナデッタも侵略者へと視線を結ぶ。これがあくまで『ゲーム』だと言うならば、ボスを倒す方法は、どんなものだっていいはずだ。
「いかがかしらくらげさん。くらげ?」
確かめるように向けた問いには、くらげもぽけっとした顔をするばかりではあった。けれどしばらく待っても――|遊戯《ルール》の是正はどうやら行われない。
「じゃあ、じゃんけんで勝負、です! ……くらげさん、くらげさん、そのまま、パーって言ってくださいね! わたしはチョキをだしますからね!」
こそこそと、りりはくらげに耳打ちする。果たして必要かはさておいて、その様子がなんだか微笑ましくて、ベルナデッタも笑ってしまった。
「それなら、勝負はりりに任せようかしら」
「はいっ、おまかせください!」
さいしょはグー、じゃんけん――、
ぽん、の音で星空は弾けた。きらきらと、夜の欠片が煌めきながらこの『デスゲーム』の終わりを告げる。その光景にも目を輝かせるりりの傍らで、ベルナデッタも相好を崩した。
「デスゲーム……ではあったはずだけれど。面白かった、と言ってしまってもいいわよね」
「はい! とっても楽しかったです!」
弾む声を最後に、作り上げられた死亡遊戯迷宮は|終幕《エンディング》を迎える。
―― 『げーむはくりあ されました』
―― 『さんきゅー ふぉー かけおち!』