ベルベッドブルーの伽藍へ沈む
●『潮騒の|馨石《こうせき》』
——その始まりは、酷く唐突なものであった。
深夜、澄んだ夜空で煌々と輝く満月の輝く海岸の潮が引く。常識的では考えられぬ速度で轟々と。
潮の引き切った果てに表れたのは海水滴る洞穴であった。奥に微かな輝石の輝きをチラつかせるそこから、香しい水の馨に交じって心を擽る芳醇な香りが放たれているではないか。
そして引き切った海水は知らぬ顔で海岸へと戻ってきた。唯一の異変は、洞穴と海岸を繋ぐ麗しい海水壁に包まれた一本の道を織り成したこと——ただ、それだけ。
未だ、その異変には誰も気付いてはいない。
未だ。
●
「——明朝の出発にも関わらずよく来てくれた、礼を言おう」
冬特有の寒さで透き通る空気から暖かな部屋へ入った瞬間、能力者たちへ所作美しく礼をした男が、青い瞳を伏せ溜息を一つ。
「概要を……あぁ、すまない。自己紹介がまだだった。私は星読みの一人 |黛《まゆずみ》 |巳理《みこと》だ。よろしく頼む」
黛・巳理(深潭・h02486)と名乗った星読みが咳払いをすると“改めて”と仕切り直して始まったのは皆が此処へ足を運ぶ理由となった事件の話。
「——して、今回君たちに向かってもらいたいのは東京湾のある海岸だ。仔細はこちらに、端的に言うが“ダンジョンが発生した”」
慣れた手で簡潔に纏められた資料を配った巳理が万年筆でトンとその紙面を叩き、無表情な当人とよく似た文章を追いかけてゆく。
「海を割り現れたダンジョン――潮騒の馨石は客でも招くが如く、海岸より海水で織り成したトンネルで一本道を紡いでいる」
幸いにも現場は観光地なこともあり、現場であれば一般人への危機無く対応から排除までが可能……というのが巳理の見立てであった。
また、巳理曰くダンジョンは近付いた者を誘因するように嗅いだ者が好む馨を放っているという。
「これは“|七蜜馨《ななみつごう》”と呼ばれる千変万化の香りを放つ|魔馨石《まこうせき》が自生した洞穴が侵入口にあるためだ」
資料曰く|七蜜馨《ななみつごう》とは、香りを吸った者に合わせ鼻腔で変化する魔馨である。特に純度の高い|魔馨石《まこうせき》ほど放つことが叶う、所謂レア魔石の一つだ。
“かなりの硬度であると聞くが、君たちであれば多少の採集も可能だろう。香りに惑わされ過ぎず、あくまで嗜む程度で願いたいが……”と前置いた巳理が、次の説明へ視線を移し“注意してほしいのが——”という喚起から始めたのは、洞内のこと。
「魔馨洞内は非常に道が入り組くんでおり、いくつもの分岐点がある。よって、ダンジョンに生息しているモンスター、ないしはこのダンジョンをこの楽園へ持ち込んだ者と遭遇する可能性がある」
現在洞内たるダンジョンに生息しているモンスターは。“エンジェル・フラットワーム”。
そして√EDENへ天上界の遺産を落下させた当該の主犯については、星の聲が途切れたと巳理は首を振りながら眉間に皺を寄せていた。
「……主犯及びダンジョン最奥については明確に聞き取り切れなかった。判然とせずすまないが、気を引き締め洞内の散策をしてほしい」
香りに気を緩め過ぎた者から狩られるダンジョン 潮騒の馨石——その、最奥に待つものは何か。
謎は多い。
だが、希少な魔馨石の採集を一時楽しむのも悪くはないはずだ。
「海水のトンネル——と先程伝えたが、あれは恐らく君たちが踏み込めば閉じるだろう。よって……触れる程度であれば、そこも愉しめるはずだ」
海水のトンネルという神秘的な通路もライトや月光に照らされ神秘的な光景を楽しむことができるだろう。
「では、よろしく頼む。怪我の無いよう、君たちが帰ってくることを願う」
第1章 冒険 『水晶森のダンジョン』

●懐古の薫香
艶やかな蜜色の髪を潮風に棚引かせたパトリシア・ドラゴン・ルーラー(竜帝・h00230)が優雅な足取りで海水トンネルを歩んでゆく。泳ぎ抜ける魚たちに瞳を細め、鼻腔を抜ける芳醇な香りに美しい口角を上げながら。
「七蜜馨とは、なかなかに珍しい」
辿り着いた洞窟の入り口へ迷いなく踏み入り、やっと出会えた魔馨石の鉱床へそっと触れたパトリシアが思い出すのは、過去——己が“竜”の身であった時のこと。
「(——たしか、人間たちが余へ“献上品”と持参したのだったか)」
朧げな記憶の中、それはそれは恭しく極上の絹布に乗せられた大粒の七蜜馨——蜜色と焔を抱いた至高の魔馨石を捧げていったのだ。だがそれも、パトリシアが|真体《竜体》を封じられたのちに盗み出されでもしたのか……現状、パトリシアの手元には残ってい。
「……何にせよ、懐かしいものだな」
魔馨石を伝い落ちる雫が蜜のように見えるほど潤み輝く魔馨石の群れに、パトリシアが瞳を綻ばせ気になったものを一つ一つ確かめてゆく。
輝き、爪で弾いた折の耐久性、色の鮮明さ——そして内包物の有無。時折香水瓶のように洞穴内の水分を孕んだまま結晶化しているものもあり、その愛らしさもパトリシアは評価しつつ、求めるのは最高純度の心惹かれる一つのみ。
「おぉ……やはり、ここまで来ると純度が違うな」
踏み入ってしばし、七蜜馨を楽しみながら魔馨石を鑑賞していたパトリシアの目の彩が変わる。静かな足取りで本能めいた勘に頼り進んだ先で出会ったのは懐かしき“潤む七蜜馨”——!
どれにしようか。
悩もうとした瞬間、一際目を惹く赫が艶めいた。それは炎にも似た赫き魔馨石——純度も高く、芯には更に純度の高い紅色を抱いた炎のようなそれ。
「……“お前”にしよう」
そう甘やかに微笑んだパトシリアが神速の拳ながら繊細に採集した魔馨石をそっと手中に収め、すんと匂いを楽しんでみる。
「なるほど。かつてより幾分華やか——……これが、人と竜の違いか」
イランイランにも似た甘くもエキゾチックな香りに、ジンジャーのスパイシーさやマンダリンの甘味……そして、奥にはローズやムスクの大人びた深さを感じられるそれは、パトリシアの微笑みを麗しくさせるには十分。
「——さて、ゆくか」
更なる敵の待つ、奥へ。
●喰らうもの
足早に海水のトンネルを抜けた冥道・三色(一頭ケルベロス・h00943)は、辿り着いた入口ですんすん、と香りを嗅いでみる。
「んー……美味しそう、かな?」
「……僕的には、おいしそうに見えますけれど」
「そう? まだウチら食べてないし、やっぱり食べてからだよ!」
——おそらく、此処に星詠みがいれば“……何をだ?”ときょとんとしたことだろう。だが、三色は一人の身で三言も話しているのではない。話した順に白、紅、藍の三姉妹で一人の体でこの芳醇な香りのする洞穴を“|楽しみに来た《味見をしに来た》”のだ。
料理人たるもの、世界中の味や香りを知るのも——! なんて意図では、なかったのだけれど……。
「じゃあ——」
“いっくよー!”という“紅”の言葉は、入って即 犬歯の大鎌を振り下ろす音に掻き消されていた。
ガァン! と凄まじい音を響かせ、石も鉱石も砕きながら紅は進んでゆく。√—|食装《イートスキル》—で魔馨石を食みながら、道など無視してまるで無軌道に採掘する“紅”は、頑丈な大鎌をピッケルの如く振り下ろして使っていたのだ。
「む……おいしくない」
艶めく七蜜馨をすんと嗅ぎ、藍好みのアイスクリームめいた馨りを一つ咀嚼した“藍”がきゅっと眉を寄せてから裡へ引っ込めば、“白”が“だってこれ、鉱石でしょう?”と至極真っ当な答えを出していた。たしかにひどく惹かれる香りはするものの、何分どこをどうしても鉱石。唯一の利点と言えば、√能力の効果で大槌が美しく華やかで薫り高い食装を得たというところ。
「ねぇねぇ、ウチばっかりやってるけどこれって藍の方が効率的なんじゃないの?」
ぷぅ、と頬膨らませた“紅”が抗議して見せれば“藍”がうーんと考える素振りの後、微笑んだ。
「……塊を|砕く《噛む》ならともかく、壁は紅の方がいいよ。もっと奥に行ったら、|僕《大槌》と交代」
「そう?」
“藍”の言葉に“紅”の眉間に皺が寄ったのも一瞬、交代の言葉にちょっと気分がよくなった紅は再び大鎌を振り下ろす。
こうして三色こと、白・紅・藍の三姉妹は|砕き食って《食べながら》進んでゆく。
これはもう採集やら採掘など生温い“採食”であり、複雑だった洞窟にさらに道を増やす——少々不思議な状態を生み出しているのであった。
●真を射抜く金紅の貴石
日差し差すことで眩さ増す海水のトンネルを抜け、鼻腔を擽る馨りに瞳を瞬かせた御剣・刃(真紅の荒獅子・h00524)が興味深そうに洞窟へと足を踏み入れた。
「なるほど、水晶の森——というのも言い得て妙だ」
海底に生じた洞窟に“森”とは? と半ば訝しんでいたものの、岩の目立つ一帯を抜ければ馨りを増す煌びやかな鉱床に囲まれ思わず刃は納得してしまう。
木々というものは無いものの、上下左右無く壁面や天井、床と生じる幻想的な魔石の美しさに舌を巻いたのだ。
「(水晶……いや、もうここまでくれば宝石か。こういうものには、とんと縁がなかったからな)」
よく占術や魔術に使われるとされる宝石・鉱石というものを刃もなんとなく知識と知ってはいたものの、目の前にすればまた話は違う。幻想的で、まさしく“√ドラゴンファンタジー”の落胤 天使の遺物が生じさせるには十分な代物。
「こうも美しいと……不思議なものだ、壊すことさえ惜しいな」
剣に慣れた無骨な指先でそっと触れれば、香るのは清廉な水と爽やかなシャボンの馨り。
そういうものに疎いと自覚のある刃でも受け入れやすい、記憶に在る馨りを生じさせる七蜜馨に柔く刃の口角は緩んでいた。
「(……日差しの匂いも。そうか、これが七蜜馨)」
導いた星詠みが“出回りが少ない”と言っていたのも頷ける。こうも触れた者へ献身的に応える石ならば、強欲なものに出会えば狩りつくされ価値——いや、値段さえつけられなくなるだろう。
だが、ここで出会うのも多生の縁。妙に目を惹いて仕方がないそれ……真っ直ぐ歪み裡に金の一針を抱く“|針水晶《ルチルクォーツ》”へ、ひどく優しく触れてみる。
不思議と指先へ熱を伝えてくるような針水晶と刃が見つめ合うこと、数秒。
「一欠片選んでいいなら、お前だな。ここへ来た記念がわりだ」
フゥ——と呼吸一つ、美しささえ感じさせる一刀で水晶一つを斬り落とした刃が獅子吼を納めた片手に、一握りの針水晶。
「さて、奴らを探すとするか」
その金針もつ幸運に導かれるように、刃は奥へと歩を進めてゆく。
●凍て海の摺硝子
透き通る海風に耳を澄ませ、漣の音と海中で変わらぬ日常を送る魚たちを水壁越しに眺めていたユオル・ラノ(メトセラの嬉戯・h00391)は、明け行く空に浮かぶ月へと手を伸ばす。
「(……もう少し、)」
見つめていたつもりだった。
揺らぐ水面の淡い月は大粒の真珠めいた麗しさと、不思議と距離が近く感じられたのだ。
「あ。……それは、そうだね」
水の月を掴む直前、指先へ触れた海水の冷たさに手を引っ込めたユオルは眉を下げ困ったように微笑んでしまう。美しい白月は波に砕かれ欠片さえ掴めずとも波の間を縫い掴もうとした事実だけは、一つの思い出となる。
「さて、海水のトンネルなんて物語みたいだねぇ……うん、絵に描いたみたい」
ふふと笑ったユオルが海水の壁越しに戯れようとする小魚と指先で挨拶をすれば、喜ぶように踊った小魚はくるくると踊りだす。愛らしい姿に“素敵なお土産話ができたよ、ありがとう”と礼を告げ、もう一つのお土産“魔馨石”の洞窟へと靴の先を向けていた。
歩んでしばし、先へ待っていたのは馨る暗がり——七蜜馨の魔馨石窟だ。
踏み込めばひた、と滴る水滴の音が耳を打つ静寂。きっと他に探査している√能力者がいるだろうに、不思議と隔絶されているような感覚さえするほど。
「なるほど、同じ入り口でも……あのトンネルから、もう“ダンジョン”」
常人が踏み込めばきっと、取り込まれてしまう。下手をすればトンネルでモンスターに不意を突かれる可能性だってある。
——よって、太陽が昇るより早く対処の依頼がやってきたのだ。
全てを介したユオルが改めて洞窟を覗けば、微かに香るのは香ばしくも甘やかで、温もりと共に在る馨り。鼻先を擽るその香りは、ユオルの胸を躍らせるには十分過ぎた。
「(踏み込んだら、もう潮の匂いが掻き消されている……“七蜜馨”、なるほど正しく魔石だね)」
喋れば香りに酔ってしまう気がして、心の内で囁けば馨りが増した気さえする。このユオル好みの馨りは、気に入りの店の焼き菓子。菓子など嗜好品で、必要最低限の糖分は食事で十分補えるというのに、誰彼でもつい手を伸ばしたくなる。
そしてその甘さがひとへ幸福を齎すと知った瞬間から、ユオルは甘味というものに愛おしささえ感じていから——自分も、甘味というものが好きになったのだ。
「……ふしぎだね、」
瞬く魔馨石の鉱床の群れを通り抜けながら無意識に呟いたユオルの瞳を惹いたのは、真昼の青海を映したような彩。
甘く仄暗い洞窟内で一際輝いて映る一対の“滄海”へとユオルが手を添えれば、柔らかに輝くそれは酷く手に馴染んでいた。
「ボクを待っていたのは……きみ?」
真珠色に輝くメスで迷いなく採集すれば、ぴったりをユオルの手中に収まった青二つ。先ほどまでは鉱石であったのに、手へ収まればまるで菓子の様相だと笑みを溢したユオルは大切そうに握った二つを胸の内ポケットへ仕舞うと、再び歩む。
美しすぎるこの幻想の根源へ——ひととっては余りに刺激的すぎる魔窟を閉じに、奥へ。
●“魔”たる所以を
「——凄いな、神話……いや、旧聖書か?」
海を割った預言者 モーセが如き行いと似通った海水のトンネルに感嘆の息を溢した白・琥珀(一に焦がれ一を求めず・h00174)が、優雅な一歩を踏み出した。
琥珀本人も神の末席に連なる存在ではあるものの、その奇跡の矛先は異なる。“神”だからと万能ではなく、力の方向性という点においては人間の才能と似て非なるもの。
元より勾玉が本体である付喪神の琥珀の身は、数多のひとの“祈り”や“願い”から形作られている。揮う全てはそれが発端の力なのだ。
「そういえば、この時間は魚も寝て——……はは、泳ぎながら寝てるのか」
ゆったりと水壁の向こうを観察しながら歩む琥珀が、月明かり差す海中で眠っているのか茫洋と泳ぐ一匹に気が付いた。水壁は触れようと壊れることは無いものの、皮一枚向こうへの干渉は断っているのだろう、少し遠くのその魚へ琥珀は触れることが叶わなかった。
「(……なるほど。やはり水流の流れからして、ダンジョン自体が鑑賞しているのは“此処だけ”)」
つまりは、この海水のトンネル自体“ダンジョン”なのだろう——そこまで察した琥珀は、魔馨窟……否、最奥に待つ存在と√ドラゴンファンタジーからの落胤 天使の遺物の力に、背筋の震えさえ感じそうになってしまう。見ようによって、この場自体が洞窟内のモンスターや最奥のボスモンスターへ食糧を供給するため、命を誘き寄せる装置に見えてしまったのだ。
——事実、そうである。
美しくも残酷なこのダンジョンへ明朝から対処令が出ることにも、琥珀は合点がゆく。
「……ま、心配したところで——か」
物事とは成るように成るもの。このダンジョン排除に足るだけの“願い”があれば、恐らくひとはそれを成す。そして、その手助けの一つくらいしてやるのも悪くはなかろうと笑みを深めた|琥珀《一柱》はリンと腰の鈴を鳴らして魔馨窟へと足を踏み入れた。
人型を成して異界の√へ赴く経験は未だ多くはない分、琥珀は魔馨石のもつ七蜜馨が如何なるものか。そして、魔馨石の硬度も気になっていた。一種、“石”という同族的な視点で。
「——さて、どんなものやら」
自身の好みというものが未だ明確ではないものの、ふと気になったのは涼やかな白檀にも似た馨り。
柚子や檸檬のような甘苦さと、ジャスミンの華やかさと伽羅の気高さも混じるオリエンタルな匂い。それはいつかの誰かの馨りのような——けれど、どこか神秘的な記憶の蘇るそれに瞳を瞬いていた。
「……なんだ、これは」
はっきりとはしない。けれど、惹かれてやまぬ衝動に身を任せれば徐々に歩みは早まって。辿り着いたのは、月の光を抱いたような涙石の前。
月長石にもにたその魔馨石は、中ほど透明な蜜に似た七色の輝きを抱きごつごつとした岩肌の上から琥珀をじっと見つめている。
——触れて。爪で傷つかず落とす気さえ沸かぬ魔性の美しさ。当然のように惜しみない魅力放つ一粒を手にした琥珀は、無意識に口角を上げていた。
「なるほど、魔石……俺だって惹きつけたんだ、ひとならとっくに酔ってるところだ」
ク、と喉を鳴らした琥珀は懐へしまった一つを胸に先へと踵を返す。奇妙な出会いに小さな運命を感じながら。
●静けさへ蕩けて、
じ、と。
琥珀の瞳で静かに見つめた全てを、ぽつぽつりと“|それ《見たもの》”をより鮮明に示す言葉を選んでは|音《言葉》にして、繕うように|胸の内の帳面へ綴る《物語へと昇華する》篠森・香子(問わず語りの月・h01504)は、既に此処へ導いた星詠みに誰より事細かに見えた全てを聞き取っていた。
“あなたの所感で構いませんの”と上品ながらどこか語り紡ぐための材料を探す香子へ、星詠みたる医師は是と頷き出来る限りの仔細を彼らしい言葉て香子に伝えている。
更なる表現には、|守るべき旦那様《Anker》が褒めていた満月湛えた香子の眸と奥ゆかしい旦那様が“好きだ”と直接的な心を浮かべ耳を傾けた香子の感覚さえあれば伝えるべき物語が一つ完成するには十分。
「……——目も、それに心も。馨りも、五感でたのしませてくれる洞窟ね」
海水洞を満たす潮の馨りは勿論、月光の名残残る麗しき光に透ける水鏡に包まれた道の不思議さと言ったらない。絵にも描けぬ美しさが惜しいほどのそこを抜ければ、ごつごつとした岩肌の洞穴が待っている。踏み入った瞬間に漣の音は遠のき、まるで世界から切り離されたような違和感と神秘ささえ感じる静けさは“ひと”を怖気づかせてしまうだろう。しかし、チカと光る蛍めいた光と甘く心擽る馨りに誘われるように歩みを進めれば、待っていたのは光の群れ。
否、彼の幻想世界でも希少と謳われ、恐らく献上品とされるほどの貴石の原石が瞬いているではないか。
魔石に名を連ねるその名は魔馨石——中でもこの洞窟に生じているのは七蜜馨と言われ、嗅いだものの嗜好合わせ香りを変化させる代物。
「(……得てして、“魔”とは誘うもの。きっと、私のような人間も——生物という生物を惹きつける)」
目についた魔馨石へそうっと触れた香子が瞳を細めれば、その熱伝わった魔馨石が微かに香りを強くした。
「どの馨りも素敵。……火をつければ、一層強く馨るのかしら」
香木然り。香油然り。熱に当てられより香りを強くするそれらを思い浮かべた香子が石へと囁きかければ、若干石が引いたように見え、つい香子は笑みを溢してしまう。
「ふっ……ふふ、やだ、冗談よ。大丈夫、あなたたちを“たった一夜”なんて、勿体ないでしょう?」
そう言って初めに触れた魔馨石へ別れを告げた香子は輝きの中への身を投じていた。
鼻歌を歌い、花畑を歩く少女のように静かな洞窟へ微かな歌声を響かせながら。弓なりに細めた月の眸で緩やかに洞窟内を見回して。
——慎ましき貴婦人のようでその実、香子は煌めくものが好きだ。香子の話に興味深げに瞳を輝かせる旦那様の眸も。職人が丁寧に研磨した貴石も、自然の作り出す鉱石の光も。
「ふふ、どれもこれもが魅力的……なんて、チープかしら。でも、|お菓子の缶々《宝箱》にぎゅうっと詰め込んで——偶に逢う。そんな関係も、素敵でしょう?」
秘密秘密、私とあなたの秘蜜の馨り。
少女のように“どーれーにーしーよーうーかなー……”とうたいはじめた香子の頭へ、こつんと衝撃。
「きゃっ……あら、ふふ。随分とお転婆だこと」
天から降り来たそれは、香子の愛しい旦那様を凝縮したようなバイカラーのトルマリンにもにた魔馨石。
馨るムスクと——庭の、花の馨。どうしてか、何故か。とてもとても懐かしく愛おしい日々のような匂いに、香子の眸が茫洋と遠くを見たのは一瞬。“缶々の寝床へ入る前に、旦那様にもお会いしましょうね”と微笑んだ香子が、微かに呟く。
「——きっと、寝ていても声は聞こえるでしょうから」
寂しさ滲む言葉が、微かに洞内に木霊した。
●縒る絆を縒る
指を絡めて、重ねた手に感じる互いの温もりに愛しさを。
この後に事件を解決しなければならない、とってもとっても朝早くからのお仕事だから——……|二人の宝物《Ankerたる愛娘》はまたまたねむねむ、温かなお布団で夢の中。
透き通る海風の中、今日だけ二人だけのデートをしてみよう。
冬の朝に吹く風は、冷たい。その寒さに矢神・疾風(風駆ける者・h00095)が首を竦めれば、ふふと笑った妻 矢神・霊菜(氷華・h00124)が冷えて赤くなった疾風の頬に掌を当ててみる。
「朝の海風ってとても爽やかね。気持ちがいいし——……このトンネルも、ダンジョンなんて思えない。ほら見て疾風、魚の群れ」
「へえ、海水でできたトンネル——って、こんな感じなんだな。水族館みたいだ!」
伸ばされた霊菜の手へ応えるように少し腰を屈めて掌の温もりを受け取った疾風は、トンネルへ踏み込み優雅に泳ぐ魚たちを目にした瞬間、少女のように瞳を輝かせ水壁へ触れるか触れないかギリギリの距離へ手を伸ばし魚指さした霊菜に微笑み相好を崩していた。また、自身も海水トンネルの神秘と自然の美しさに瞳を瞬かせ、ついはしゃぎたくなってしまう。
「——きっと、零が此処に来ていたらとっても喜んだかも」
「——もし零がここに来たら、もう凄い喜んだよな」
今朝は二人だけでお仕事なのに。
ちょこっとだけ“デート”をしようか、なんて笑いあっていたはずなのに。
「「ふふっ……あははっ」」
二人でつい考えるのは愛おしい二人の宝物 愛娘の零のこと。目に入れたって痛くない、二人だけの世界の楔。忘れることなんてありはしない、寧ろ——……この手中に今ないことが少し寂しいような、どこかに忘れものをしてしまったような感覚になる。
同時に呼んだ名前に笑いあった矢神夫妻は“なら、零が起きてしまう前に終わらせよう”と視線を交わして魔馨洞へと足を踏み入れた。
「なるほど、ここが魔馨石の洞窟か。へえ~~……確かに、いい香りがするな!」
「ええ、そうみたい。もう少し進んだら魔馨石があるのかしら……でも本当ね、良い匂い」
すん、と鼻をならせば鼻腔を擽る心躍らせるような馨りに微笑みあいながら、二人は匂いを頼りにごつごつと岩肌続く無骨な道を越えてゆく。
手を取り合って進み、削られた場所を越えて。ふわりと馨る匂いへ惹かれるように歩んだ先——……それは待っていた。
「「!」」
光差さぬ薄暗い洞窟にも関わらず、魔馨石の鉱床に溢れた領域では石たちが蛍のような淡い光を放っているではないか。
その姿は正に“魔石”。此処へ導いた星詠みが“純度が高い”と表現していたのも頷けるほど馨りが溢れた洞窟内……のはずなのだが、不思議と嫌味もなく受け入れられる。
「素敵ね……ねぇ疾風、せっかくだし一つ採集していかない?」
「いいね、採集。零にも見せてやりたいもんな~!」
可愛らしく小首を傾げて提案する霊菜に、疾風は優しい眼差しで応えながらその提案の真意を察しニッと笑って。
数多の鉱床の中、心ひくものはどれか。きょろりと見回し、ふむと顎を撫でた疾風の目当ては娘によく似合う桃色の石。濃すぎるのは違うし、淡すぎるのは少々大人っぽいのではないだろうか。
馨りも、愛らしい娘を想えば応えるように疾風へ届く魔馨石の馨りは変化する。
心にある娘の姿まで察すように、瑞々しい果物の馨りへ。最近一番喜んだのは何だっただろう? そう考えた疾風の唇から、ぽつぽつと想いが言葉になってゆく。
「……甘い方がいいよな。——桃、いや、苺……?」
甘さの中に酸味隠し、それでいて蕩けるように魅力的。もう一つ、と後を引くような馨りの中——……疾風の眸を捉えたのは、柔くも甘やかな鴇彩の結晶。おそらく、輝き収まれば一段濃い桃色へと変化するであろうそれへ手を添えれば、零と手を繋いだ時に感じる温もりに似た熱が伝わってくる。
「よし、俺は——これ!」
疾風が零の石を探していた一方、霊菜もきょろりとあたりを見回しずっと馨っていた匂いを発している石を見極めようとしていた。
「むぅ……ここから、どれかしら」
清潔感溢れたサボンの心地よさと、レモンやオレンジの柑橘のフレッシュな馨り。そしてジャスミンやミュゲなど花の馨りと——……。
「(零を、抱きしめた時の馨り……)」
菓子よりも純粋な甘さで、零が疾うに卒業したはずのミルクの名残りがあるような。蜂蜜のように柔らかさ馨る、それ。
複雑な馨りから高純度と推察した霊菜が馨りに意識を集中させたとき、瞼下ろした視界に見えたのは一筋の光の糸。
「っ、そう——辿ればいいのね……?」
“来て”と導かれるように歩んだ先、決して岩肌にもぶつからず辿り着いたのは花緑青彩の結晶の前。
そっと手を添え、手にした短剣 玻璃で断つ。
「さて、帰ったら何に加工しようかしら」
そうして互いに手中へ納めた鉱石を手に、微笑み交わし再びその手を結び合う。
●思い出のお茶会とピクニックは馨る
海水のトンネル越しに聞く潮騒は、遠くて近くて不思議な感覚がする。
そう微笑んだ久遠・マリーツァ(Ipheion・h01241)が好奇心旺盛に白い毛柔らかな耳を揺らせば、その姿に金木犀に似た山吹色の眸細めた蔦ノ森・まほろ(Olivier odorant・h02875)が密やかに警戒心を張り巡らせつつ帯同していた。
透明な海水は夜明けの月光と未だ届き切らぬ薄い陽光に照らされ時折七色に瞬いてはその中を縦横無尽に魚が泳ぐ。正しくファンタジーを閉じ込めた光景だが、√ドラゴンファンタジー出身のマリーツァとまほろからすれば慣れたもの。
——けれど、美しいものは土の世界で見たって変わらず美しいから、乙女は楽しくなってしまうのだ。
「みて、まほ! ほら、お水がきらきらしてすっごく神秘的……なんだかるんるんしちゃう!」
「あまりはしゃぎすぎて気を緩めると、こっちが狩られるらしいよ? わくわくしたいかもしれないけれど——」
「あ、洞窟!」
「マリィ、滑らないように気を付けて!」
気付けば潮風よりも洞窟から馨る匂いの方が鮮明になっていた。
本能的に海水トンネルへ踏み入った時点でダンジョンであることを察していたまほろは、呼吸を整え更に神経を張り詰めさせる。何せ星詠みが“入り組んでいる”と言った洞窟だ。敵に不意を突かれるなど、許されない。
一方マリーツァはすんと鼻をならして跳ねるように洞窟へと踏み込んでみる。“ステキハンター”として様々な場所へ赴ける能力者である今、希少魔石と名高い七蜜馨湛えた魔馨石を見逃すことなどあってはならないのだから……!
「わぁっ……! まほ、ここもすごい……! あっちからは甘い匂い、こっちは——柑橘と、ミント? それとそこの向こうからはシャボンかなぁ……ふふ、ステキ!」
「——マリィ」
岩肌の隆起が目立つ洞窟内で、興奮からぴょこぴょこと飛び跳ねるマリーツァを、宝石よりも鮮明に瞬くまほろの眸がジトリと射抜く。
「う゛」
「気を緩めたら?」
「ゆっ、ゆるめてないもん!」
精一杯キッ! と吊り上がった菫色の眸が“むん!”と厳しい空気を醸し出そうとするも、|お目付け役《まほろ》の視線は一つも緩まない。
何せまほろは久遠家に仕えて約三十年程——……その三分の一ほどしか生きていないマリーツァの本心を見抜くなど朝飯前。
ましてまほろが帯同し赴いているこのダンジョンへ、マリーツァは“久遠家の√能力者”として任務に従事している。決して遊びなどではない。
たぶん。
「ゆ、油断して……ない、もん」
ぎゅう、気に入りのスカートの裾を握って目線を落としたマリーツァに、まほろは眉を下げ“それは何より”と甘く微笑んだ。幼い頃から、マリーツァは言い訳をする時にスカートの裾を握る癖がある。知っているのはまほろと彼女の家族だけ。
「——ほんと?」
「あぁ、それとさっき気になっていた馨はどれ? 曲がり角を曲がるときは——」
「気を付けるね!」
「あ、ちょっと」
マリーツァもお目付け役たるまほろのお小言など右から左へ慣れたもの。キチンと守れって右左確認してから曲がり角を曲がる小さな背に苦笑して、まほろはその背を追ってゆく。
「えへへ……洞窟さん、魔石のカケラ、ちょっとだけくーださい!」
「いいね。潮の香りもいいけれど、好きな馨りに包まれると安心するし……少し採集して行こうか」
元より希少なものだが、少しであればと採集許可も下りていることを記憶していたまほろが頷けば、そのGOサインにパァ! と瞳を輝かせたマリーツァが一目で気に入った桃薔薇色の砂糖菓子に似た一粒。
そして、まほろが選んだのはピンクと日差しのようなレモンイエローが一つになった長方形のバイカラー。
そっと触れればころりと石肌から落ちた二つを咄嗟にマリーツァが拾えば、それは小さな掌に無事収まっていた。
「……ねえ、まほにはこれ——どんな馨りがする?」
「おっと……んー、お日様と、紅茶……かな」
「むぅ」
マリーツァが触れた時は花々とフルーツの馨りだったのに……と呟けば、ふむと首を傾げたまほろが一言。
「香りの共有は、どうしたらできるんだろう?」
「共有できなかったら、残念かも……ねえ、まほのは?」
「……——そうだマリィ、ちょっとこのまま嗅いでみて」
「うん…………あれ? あ、おひさまのにおい……かも!」
先程自身へ魔馨石を渡されてから香りを確認したことで馨りが変化したことから、持ち主が持てば馨りの維持ができるのでは? と閃いたまほろの提案は大成功! しょんぼりしていたマリーツァは瞬く間に元気になり“パパとママの馨りも知りたいし、わたしのも知ってほしい! まほのも!”と無邪気に喜ぶ姿に、相好を崩したまほろが喜んで頷いていた。
●「なんてすてきな光景でしょう!!」
わぁ! といっそ叫びだしたいほどにアリス・アイオライト(菫青石の魔法宝石使い・h02511)は感動に打ち震えていた。
魔法宝石——略して魔石の研究を行っているアリスは、古今東西石という石を見ては楽しみ、解析しては喜び、魔力を籠めれば発生する変化には誰より機敏な魔法宝石研究学者の一人。
魔馨石という聞いたことも無い魔石があると聞き、海水のトンネルからほぼ早歩き……いや、ダッシュで魔馨鉱床洞穴へと到達。柔らかな青の眸は今や爛々と輝き、はふはふと乱れる息を整えるのもそこそこに、好奇心旺盛に洞窟へと踏み入った。
「様々な石について調べたけれど魔馨石なるものは初めてです……! どんな馨りがするのでしょう? そうだ、魔力への呼応は? それに硬度もそうですが魔力耐久度も気になりますし、耐熱耐冷——魔装への転用も可能でしょうか」
出発前に聞き取った星詠み曰く希少鉱石のため市場に出回ることは無く、所謂“献上品”にされていた歴史があるという。市井で見かけない品物であるならば、それこそ研究で来た者も少ないだろう。
——その。その希少物が原石で拝めるというのだから、興奮しない学者がいるだろうか!!
「魔力分類は何に特化しているのでしょうか……。あぁ、もっと計測機器を以ってこの洞窟自体の観測までしてみるべきだったのでしょうかっ……!」
火のついた学者魂と共にわくわくと踏み入って——……アリスは暗き洞窟に星を見た。
否、遠き星の如く煌めく方へ足を向け進んだ先に、銀河が待っていたのだ。それほどまでに、魔馨石で煌めく洞窟内は眩くも香しい。
「わあっ……すごいですね、これも——これも、魔馨石なんですね?」
応える者がなくとも、いくつもの石を研究してきたアリスには分かる。目の前の石が並々ならぬ雰囲気と、硬化しているはずの結晶の裡が微かに蠢く……というより、液体が流れているような気配がする不思議な石だということが。
甘くやわらかな、大好きなティータイムの馨り。
爽やかな五月の風に交じる花が美しい春風の馨り。
甘酸っぱく気分が上がってくる柑橘を絞った時の馨り。
心落ち着くラベンダーと、温もりある干したお布団の馨り。
どれもこれもがアリスが心動かされそうになる馨りで、アリスは一瞬意識がとろりと蕩けそうになってしまう。ゴツゴツしているはずの岩肌に寝転がり、ただ静かに呼吸していること方が良いのではないだろうか……? なんて。
「っ! ——、これが、魔馨石」
すんと一つ香りを吸っただけで八方から馨りに真綿で首を絞められているような幻覚さえ見たのだから、恐ろしい。
これではミイラ取りがミイラになってしまうと気づき、即座にハンカチで口を覆ったアリスは、生地越しに“花”の石で色の異なるものを採取してゆく。取りすぎず、それでいて最低限数度の研究に必要な数だけ。
「素敵な馨り……水に浸したりしたら、一体どうなるのでしょう? はあ、早くこの石を研究したい……」
研究室に並ぶ魔馨石を想像して“ふふ”と笑んだアリスが密閉魔法の掛けられた革袋へ魔馨石を納めると、ガッツポーズ。
「無事に持ち帰るためにも、早くダンジョンを攻略しなければ!」
えいえいおー! と洞窟に小さな気合が木霊した。
●分かち合う輝きを包む
ほう、と頭上で波打つ海水のトンネルと魚を眺めるうち、気が付けば魔馨石の鉱床が瞬く洞穴へとたどり着いた冬凪・雪正(フューリー・アイス・h00307)は、くんと匂いを嗅いでみる。
「……——すごい。入口からずっと“非日常”って感じだったけど、ここもそうだ」
洞穴から一足早い春の草花の匂いを感じ、目を細めて笑った雪正はゴツゴツと頑丈な岩肌の壁に触れ、整備された観光地とは異なる天然の要塞めいたそこに感嘆の息を漏らしていた。
ここは同業の星詠みが言った通り、√エデン。通称 楽園。こうもファンタジーな存在など、アトラクションや映画の中くらいしかない世界で、天然の絵に描いたような場所に遭遇すれば思わず口を突いて出たのは有体な言葉。
「綺麗なところだね……うん、これが危険なダンジョンでさえなかったら——」
“いっそ、友達誘ってみたかったかも”などとお道化てしまうのも余裕あればこそ。
√ドラゴンファンタジーからの落胤へ、脳裏では沢山の言葉が浮かんでいたはずなのにと一人で頬をかきながら雪正は洞窟の中で周囲を警戒しながら淡々と進んでゆく。
複雑で入り組んだ道ではあるが、心を落ち着けて冷静になれば自然に形作られた洞穴も美しい。だが 雪正はその美しさが魔性であることを知っている。
「(……けど、奥のも此処に生息するモンスターだって街へ出て行ったらどうなるか。朝のうちに対処しないと)」
——とは言ったものの。
ふわと馨る香しい馨りがさっきから気になってしかたがあに。魔馨石は嗅ぐ人によって香りを変える希少なる魔石の一つ。市場には出回らないと聞けば見てみたくなるのが好奇心と言うものだ。
「どんな石が採れるんだろう。……せっかくなら記念に、綺麗なものを一つ頂こうかな」
多少であれば採集も許可されているのだからと雪正は徐々に魔馨石の鉱床増えてきた周囲を見回しながら鼻歌交じりに歩んでゆく。素敵な馨りと元よりファンタジックな楽園にはなき現状にワクワクしているから。
「この辺……わ、海みたい。青、色々あるな……こっちは、緑寄り。あっちは青寄り、か」
沢山の彩のバケツを一斉にひっくり返したように洞穴へあふれ出した彩へ圧倒されながら、無意識に雪正の歩みが向けられたのは青い石の集うゾーン。
春の花、時折果実の馨りが混じり、心地の良い気分になってくる。
「(この甘さは——苺か桃、かな。でもオレンジの馨りも結構好きかも)」
心の変化に身を任せ、思うままに触れたジェイドグリーンの魔馨石一つ。集中し、一思いに採集すれば瞬く南国の海めいた色が雪正の手中に収まっていた。
なんだか香りが抜けて行ってしまいそうな気がして、そっとハンカチに包んでみる。
「……——よし、持って帰ったら部屋に飾ろうかな」
きっと|あの子《幼馴染》に見せれば、びっくりするだろう。どこで見つけたの? どうやって持って帰ったの!? なんて冒険譚、きっと喜んで耳を傾けてくれるだろうから。
●原初の|光《炎》
「へぇ」
海水のトンネルへ踏み込んだ革靴が湿った海底の岩肌を踏む。
感嘆の声を漏らしながら、黒いゴーグルグラス越しに月光透ける海水を眺め、海の内側を見るウィズ・ザー(闇蜥蜴・h01379)だが、実は眼孔の無い身の上。それでも気配と感触、そして音で全てを介しながら楽し気に。
鮮明な漣の音と踏みしめる海底の感触は勿論、水中の泡の音も魚の呼吸さえ聞こえるほど。水の流れと波の具合で浅瀬からどれほど進んだのかを理解し、脳裏に浮かぶ情景——という環境を楽しみながら、時に水壁へ触れ魚との交流を楽しみ、まだ1月の冷たい海水を堪能していた。
そうこうするうち、気付けば目の前には魔馨石の洞穴。数分前から鼻腔擽る馨りがあったのは理解していたが、まだ入り口にもかかわらずこの馨の鮮明さ。
「……なるほど、」
黛と名乗った星詠みが“希少”と言った“七蜜馨”という魔石の力をウィズはすでに肌で感じていた。
察するに、それは“献上品”に分類されるのだろう。貴重過ぎたが故の独占か、それともただ市場へ出回るには価値が付き過ぎたか——……判然とはしないが、見た事のないものと言われれば気になるのが人の心。
「魔馨石“七蜜馨”——か。こりゃァ良い」
いっそ本気で高純度の代物を探そうと踏み込んだウィズは、持ち前の判断力と経験から迷いない足取りで洞窟を進んでゆく。まるで、一度でも来たことがあるというような足取りで。
そうして七度目の角と長い長い下り道を二度、狭い上り坂を四度を越えたところで、ウィズは太陽の欠片散らばるような赤や橙、炎を散らしたような空間へとたどり着く。
「ここか。……——いい。こりゃ|あっち《入口》よりよっぽど熟成されてるな」
馨る匂いに感じるのは、藿香草に薔薇、紫丁香花と龍涎香——……香道を修めしものならば、これが一つの石から馨っているという現実に腰を抜かすほどの奇跡を湛えたそれが、全て一つの魔馨石から強く強く馨っている。
「はは、流石は七蜜馨だぜ……墨と香木……蓬やら、あぁ他にもあるな? 石は一つだってのに、正に魔石だ」
至高の品に出会えた歓喜を唇に写し、緩やかな所作でウィズは力籠めた指先を振り被りわらった。
「——さァて、採掘だ。白檀も悪くはないが、今回は此方にするかねェ」
空間切り裂く影の爪 刻爪刃が狙うは焔抱く|深紅色《こきべにいろ》。
陽光へ晒せば眩い輝きを放つであろうそれが、ウィズの手中へと収められた。
●瑠璃海に宝石苺を添えて
「へェ……これがダンジョンか」
「そうなのよ灰那おねーさん……!」
“ほー”と感嘆の声をあげ、夏空色の隻眼細めてダンジョンを見上げる凍雲・灰那(Embers・h00159)へ、並び立ったルーシー・シャトー・ミルズ(|おかし《・・・》なお姫様・h01765)がふんすとやや鼻息荒めになぜか胸を張れば、灰那が猫のようにニンマリと笑って見せる。
「"香る鉱石"——とは、これまた不可思議な。他のダンジョンがどうかは知らんが、此度は面白い環境のようだ————なァ、ルーシー」
海水のトンネルなんて夢世界を抜けたと思えば、待っていたのが宝の山だなんて誰が思おう。
しかし場所は√エデンであっても、それを齎したのは√ドラドンファンタジーの落胤——天使の遺物の力√エデンからすれば、ほぼ埒外が常識の空間だ。
「ふっふっふ……これが√ドラゴンファンタジーだからこその神秘、奇想天外の概念を幾らでも齧れちゃう!」
「あー、洞窟なんだから足元気ィ付けろよー? おねーさん他人を癒すのは得意じゃねーんだ」
「んふふ、わかってますって。寧ろ癒しはあたしの得意分野だから——……って、待ってー!」
長い脚で遠慮なく進み続ける灰那を、ドヤ顔めにふふりとした笑み浮かべていたルーシーが慌てて追いかけて。
海水トンネルの話で盛り上がりながら、初めの曲がり角まで二人はテンポよく進んでゆく。
「んでも、本当にあのトンネル宝石みたいに綺麗だったね」
「ん、あぁ。さて、ちょいと暗くなってきたな……なら、火でもつけるか」
顎を撫でふむと呟く灰那にルーシーが首を傾げた直後、それは起こった。
√N—|炎を齎す者の召喚/従属《サモン・ミニオンズ・オブ・クトゥグア》—!
「燃えてるー!」
「この先徐々に浅瀬から深くなるんだろうが……まぁ、襲撃なんざねェとは思う。が、念の為の熱源探知だな」
絵に描いたような小さな炎が跳ね回り、キラキラとその歩みが残す軌跡で周囲を照らし、放つ熱で冷える洞窟内へ温もりを伝えてゆく。
それは灰那とルーシーにとって光源であると同時に可愛らしい護衛兼ヒーターとして、本格的な洞窟の探索が始まった。
“かわいい!”と褒めるルーシーへ喜び表現するように光を巻き、その最終助ける光は灰那の√Nの名の通り炎の精の末端——最も弱く最も人類に身近な原初の火の幼子だ。興味津々な様子を隠さないルーシーの姿に薄く笑み浮かべながら、ふと灰那は担いだピッケルを振り下ろす。
「……そういえばルーシー」
「うん?」
「お前さんが嗅いでるのは、一体どんな香りなんだ? オレは爆ぜる炎と肉脂の焼け焦げる薫香だけど……」
何気ない問いにルーシーが瞬きをすること2回。灰那の想像通りと言っては無礼に当たるかは分からないが、ある意味“らしい”答えにルーシーはクスクス笑みを漏らしてしまう。
「灰那おねーさん、聞くだけだととってもジューシーだね。ステーキか何か焼いてるとか……でも、刺激的でもありそう。お腹へってる時、とか! それに、危ないものだって——こんがり、とか?」
「おいおい、人聞き悪いな……旨そうは当然、やる気も出るだろ?それと、“危ないものだってー”って、オレがなんでも焼いてるみたいじゃないか」
突き合ってからかいあって、そうこうするうち灰那が見つけたのは大粒の深い瑠璃色を湛えた一粒。
「これだな。……ところでルーシー、お前さんは?」
「あたしはね〜、ケーキ。生クリームたっぷりの、甘デコレーションケーキの香りかな。
あたしらしいでしょ〜」
「……あァ、ルーシーらしい香りだ」
大粒の苺めいた石を手に、にっこりと微笑むルーリーにつられ、灰那の唇もまた柔らかに弧を描く。
●トリコロール・ムーンナイト
「うーみーー!」
「いやぁ絶景だ、あまり海に来たことは無いがまさか海水のトンネルとはね」
「そうみたいです。ふふ、僕もあまり海に行った記憶はありません」
“さむいー!”と言いながら夜と朝の堺の空に瞬く海へ向かい両手を広げた薄羽・ヒバリ(alauda・h00458)が興味津々な様子で海を眺める緇・カナト(hellhound・h02325)と茶治・レモン(魔女代行・h00071)に小首を傾げれば、返ってきたのは随分と可愛らしい答えだった。
「えっじゃあ、レモンもカナトさんも海は初めて?」
ヒバリの言葉に一瞬顔を見合わせた二人が頷けば、二度三度瞬きしたヒバリが照れくさそうに頬を掻きひそひそと。
「……あのね、実は私もおんなじ」
「「えっ」」
ヒバリの告白に今度はカナトとレモンが驚いた顔をすれば、“そんなに驚かないでよ!”とヒバリが二人をつつく。
「だから、オソロじゃん?」
「はい! 皆さんと一緒に、オソロで海デビュー……ですね?」
お揃い、ってなんだかちょっと特別だ。
他人だから分け合って楽しめる現象に、声を揃えて笑いあい三人仲良く“はじめて”の海底散歩の幕開けを。
ゴツゴツした岩肌としっとりとした砂地。水壁越しに優雅に泳ぐ魚もいれば、うとうと未だ夢の中なのかぷかぷかと水中で浮き止まる魚など、水族館ではとても見られないような特別を三人はゆっくりと楽しんでみる。
「ダンジョンを片付ける前だし、ゆっくりとさせて貰おうかなー……っと。あ、けどこっからでも七蜜馨、だっけ。その石の匂いがするんだね。すごいな、複雑だけどいい馨りだ」
「カナトさん分かるんですか? すごいです!」
「オレのモデルが黒妖犬だしね。ある意味、人間よりは匂いに敏感かな」
「——もしかして、カナトさんについていけば本物の“七蜜馨”に出会えるかも、ってこと!?」
いち早く魔馨石の匂いを探知したカナトが呟き、その言葉にパっと瞳を明るくしたレモンが小さく拍手し褒めれば閃いたヒバリの言葉に、言われたカナトが“たぶんできるかも?”と応えればレモンとヒバリの眸が輝いた。
希少でほぼ市場に出回らない魔石など、一目見てみたいと思うのが人の性。
そうしてナチュラルに隊列が組まれ、カナトを先頭に楽しいお喋りに興じながら、険しい道を支え合って越え、狭い下り坂で手を取り合い、斜度の厳しい坂道で引っ張り合って越えること——五度。
「く……まだ、遠い?」
「そろそろ、でしょうか……はぅ」
「あ゛ー……ん? わ、びっくりした。突然ここ、強いんだけど……たぶんあるよ」
「「!!!」」
いくら√能力者であっても、いっそ壁でもぶち抜きたいなどと思考がパワーに傾き始めたころ、それは顔を出す。
濃密になった馨りにほぼ反射的に口元覆ったカナトが見たのは、高さの低い入口。
「なんだかお茶室みたいです」
「たしかに。けど、低くなると香りがキツくなるかもしれないけど……カナトさん、いけそう?」
「中の天井が高いことを祈る……かな」
“せーの!”でと見込んだ先——……天井高く、まるでグラデーション美しい宇宙空間へ踏み込んだと勘違いしそうな輝きの中へ入った三人は、思わず声を失っていた。
“きれい”なんて言葉がチープに感じるほどの光景に息を呑み、それぞれに感じる香りに酔いそうになりながら。
「……すごい。ふふ、紅茶と、お菓子と、本と……お日様の匂い。とっても、きもちがいいです。お茶会みたいで、胸がポカポカします」
「レモンの馨りも、いいなぁ……んー、私は綺麗。お花とハーブ?と、——うん、フルーツ。甘酸っぱいのに優しくて、丸い馨り……かな!」
互いの言葉を尽くしてレモンとヒバリが自身の感じる馨りを表現する傍ら、“よいしょ”といつのまにやら岩壁から下ってくるカナトが手にしていたのは一欠片の馨り。
「ん? あぁ、なんだかこれは月の欠片のようでね。陽光のような彩だけれど——淡くて。なのに、イランイランとベルガモットが心地よい。でも、さっきムスクの馨りも思ったより気分が良くてね」
浮かばなかったはずの馨りを汲み、表現する七蜜馨の力は正に魔石。月光めいた一粒を手にしたカナトが、じっとレモンとヒバリを見つめたのち、二か所の壁を指さした。
「たぶん、あの鳥の子彩の石——……あれはレモン君。それと、ヒバリさんは……あの春空い色か、春花色のあの石……かな」
「ヒバリさんの、あのミントが少し入った石ですか? それで、僕のは——……わ、こっち側から見ると白っぽい。ふふ、オパールみたいです。それにカナトさんの、満月の欠片みたいで素敵です……!」
「わ、本当にお花みたい! これ、この角度から見ると桜っぽくない?」
こうして見事カナトの見つけた七蜜馨の魔馨石。
レモンとカナト、ヒバリの手中へと収まったそれらはまるで随分と前からそうであったように——……優しく馨り続けていた。
●彩を、握る
「さぁ!」
「えっ?」
ついさっきまで楽しく海水のトンネルで魚と戯れ、波打つ海水越しの月を見るなんて体験にはしゃいでいたはずの聖女様ことララ・キルシュネーテ(白虹・h00189)が愛らしい丸眉をきりっと吊り上げフォークを掲げるここは、七蜜馨届く魔馨石の洞窟入口。
ちなみに、“へぇ、岩だらけの入り口だけど雰囲気があって綺麗だな”と呟いた詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)が突如やる気マックスなララにが瞳を瞬かせ驚いた置いたのも、ほぼ一瞬のみ。
「……フォークで?」
「さぁイサ、魔馨石を掘るわよ」
わぁい聖女サマやる気満々。神秘も何もあったものではない。
「フォークで、掘れるの?」
「|堀りに行く《・・・・・》わよ」
「……まぁ、やる気ならいいけど」
二回確認してみたが意思を変えないララに肩を落とす仕草をしたイサと共に、ララは持ち前の直感と幸運を信じて険しい道へと挑んでいた。
突如低くなる道を越え、狭い入口を何とか抜けて。道中に発見した魔馨石と、更なる奥から馨る七蜜馨と思しき馨りを比べながら、ララとイサは進んでゆく。
「そういえば、ララは甘くて美味しそうな香りがするらしいけれど……ララにはどんな馨りの魔馨石が採れるかしら?」
「あぁ、たしかにララはそういう馨りがするかもな。……どちらかというと、引きずり込まれて食べるどころかたべられそうな香りだよ」
人はそれを“蠱惑”と表現するのだが、イサが呟くよりも早くイサの言葉に微笑み湛えたままのララがパチンと手を打つと齢よりも遥かに艶やかな笑みを唇に乗せ微笑んだ。
「イサはね、爽やかな馨りがするわよ?」
「……俺が? 普通の石鹸かなんかじゃないの?」
不思議そうな顔をするイサへクスクスと大人のようにララが微笑めば、今までむぅと眉寄せたイサが“やれやれ”というようにでも肩を上げ下げようと、ララは未だ微笑んだまま。
「ふぅん……ララはその馨り、好きだけど」
「聖女サマは、随分と変わってるな」
なんやかんやと話しながらララの勘を信じ進んだ二人は、ふと強く馨った匂いに振り返る。
「「あ」」
次の瞬間ストンと穴へ落ち、されるがままに下りの滑り台めいた通路を揃って滑り落ちること——暫し。
ポーン! とララとイサが排出されたのは、岩壁に爆ぜた水しぶきのきらめきを閉じ込めたような空間であった。放り出された衝撃は合ったものの、慌てて立ち上がり仰いだ光景の美しさに僅かばかり目を奪われてしまう。
「きれいね」
「……すごいな。ここで、宝探しか」
「ふふ、ええ。見つけましょう? ララたちの“|運命《七蜜馨》”」
最初のうちは一つ一つ香りを確かめ楽しんでいたララとイサであったが、それではそのうちに朝が来てしまう! と、いっそ精神を集中して——……一つ、香りを辿っていた。
自分へ届く馨りの糸の中から、最も強き香りの道を探すのだ。
「すごい。ふふ、とても細かいのね……でも、ララとイサの運命……」
目を瞑り、ララが揮うのは銀災——それはララだけが扱うことの叶う、界を穿くカトラリー。
「ふふ、とてもかくれんぼの上手な春だこと……そろそろ冬は眠りのつくの。一緒にいきましょう?」
甘く柔らかく、それでいて蓬めいた苦みを携えた花開く桜に似た一つ。それはじっと、イサの見つめていた岩の裏にあったものだった。
「ララ、それ」
「イサにあげる。懐かしい春の……桜の馨り。素敵、本当に桜を写したみたい」
香りに沿った甘やかな色味は春の象徴そのもので、鮮やかながら控えめな数多幾多に愛でられる春の一片。そして、ララが春を手渡そうとしすると同時、天から降った赫がイサの頭にこつんと当たる。
「わっ……あ、これ。——綺麗だ」
ザクロに似た赤は、ララの眸に近しい赤。無意識に石を掲げララの眸と並べたイサが優しい眼で笑むと“ララ、これ”と差し出した。
「なんだろう……上手く言えないけど、これ」
「あら、いいの?」
互いの石を交換し、手中に互いの馨りが収まることは、なんの運命か。
「綺麗ね……ララの、だいすきなものの馨りがするわ」
「そう、か……? なら、よかった」
音にできない想いは、石と共にそろりとイサの胸の内へと仕舞われた。
⚫︎雪に馨れば兆しきたる
心配性な店主の手から逃れることするするり。
ひょこりと海水のトンネルを覗き込んだヴァロ・アアルト
(Revontulet・h01627)の瞳が、ふんわりと輝いた。
√ エデンの海でこんな摩訶不思議なものが見られる機会など早々ない。そして、ここへ案内した星詠みが偶然にも自身の勤める古本屋店主の華夜の知り合いであると同時に、同業であり友人の海瑠び上司であるなんて……!
場所も不思議なら縁も不思議とは、奇妙なこともあるものだとヴァロの広角が上がってしまう。
「七蜜馨なんて……ふふ、とっても不思議です」
言葉の響きからして眩く、まして馨立つ魔石など聞いたこともない。
ふわふわと胸の踊る感覚を覚えながら、そわりと尾を揺らしたヴァロは小さな手で持った|お守りフォン《店主の心配》を手に、写真をパシャリ。
「ーーこれを見たら、華夜さんは喜んでくれるでしょうか」
未だ明けぬ空より差す頼りない光にランプを掲げ、無骨な岩肌の洞窟へゆっくりと踏み入った。
ほうっと溢す息は白く、掲げたランプの光に未だ魔馨石は応えない。微かな名残で散った結晶が微かに瞬く姿は、酷くヴァロの心をくすぐってゆく。
そうしてグネグネした道を行き、曲がること七度。
ふとした瞬間、ひどく記憶にこびり付いた馨りがヴァロの鼻をくすぐった。
「……あ、れ? あっ、これ……!」
雪だ。
冷たく、透き通る、鼻腔の奥まで冷えるような不思議な感覚を覚える、ヴァロの記憶にも鮮明な故郷の雪!
よいしょ、とうさぎ穴のような壁の穴へ潜れば、そこは雪の香りの主がいる部屋。グイグイと狭い穴に体を通してなんとか入り込めば、より香りが鮮明になる。
青くも深いきぎの馨りと湿った土香る森の懐かしさに、柔らかな頬綻ばせたヴァロはそろりそろりと手を伸ばした。
結晶化の折りに様々な石と繋ぎあったのか、半身に森を抱いたような一掴みほどの巨大な真珠。
触れればもっともっと馨りの鮮やかさが増す現実に、ヴァロは瞬く。トクトクと胸で疼いていたワクワク感は、ぎゅうっとランプを握るヴァロの手でも表情でも無く、ふるふると震える尻尾。
この震えは恐怖でも怯えでもなく、感動だ。
未知の世界ーー否、自身の常識外へ招かれたことがこうも胸踊る冒険であったなんて!!
「…………〜〜〜っすごい!! です!!」
珍しく出してしまった大きな声にハッと口を押さえて、ふふと笑う。
沢山の物語を知る店主に、話したいお土産話がたくさん出来てしまった。なら、安全に帰らなければ! と気合を一つ。
「ーーさぁ、先を急ぎましょう!」
●天藍の水籠に揺蕩うならば
「……どこだよ、此処は」
朝日に瞬く海水は、何処までも硝子のように透明な癖に、折重ねられる波がその表面を乱して行く。
吸い寄せられるように、“|七蜜馨《思い出の匂い》”へ釣られ海水トンネルへ踏み込んだ神水流・霄(水天一碧・h05651)が、頬滑った海水の冷たさに目を醒ましてからぽつりと呟いた。
それもそのはず、ふと気づけばあまりに懐かしくも胸を締め付けられるような香りがしたせいなのだから。
「(妙ちきりんな場所に出た……)」
霄は辺りを見回しながらも慎重に、本能的にあまり物音を立てずに進みながらも、無骨な岩肌へ徐々に宝石砕いたような魔馨石の鉱床が見えるようになると景色も香りもより鮮明になってゆく。
「でも、キレーなトコだな……馨りも、」
“気になって仕方ねえし”と心のうちで小さく言い訳めいた呟きをした霄は、偶にはいいかと無意識に口角を上げ先の見えぬ洞窟をゆっくりと探査することにした。
「(……どうせ、棄てた|人生《いのち》だ)」
音にせず呟いた言葉が微かに、洞窟のうちでこだまする。
一度は戸惑いながらも、霄は決して歩みを止めなかった。当てがあったわけでもなんでもない。だが、揺ら揺らと歩み淡くも霄が辿り着いた先には、一つの馨りがひどく鮮明に待っていた。
馨る。
馨る。
高らかに。
「(……あぁ、)」
ふわり、鼻腔を通じて霄の心くすぐられる“想い出の馨”は沢山あるというのに、その心ごとーー記憶も何もかもを|掻き乱され《惹かれる》のは、たった一つ。
“一際甘く華々しい、花香水の馨り”
……ーーそれは、挫けそうな|霄《おれ》をいつも励ましてくれた、|あのうつくしい人《近所に住んでた年上の姉ちゃん》が纏っていた幸せな匂い。
あれはきっと霄の“戀”だった。それこそ、“新婚じゃなきゃ確実に告白してた”という想いさえ浮かぶほどの。同時に、“例え玉砕してもそれで良い”とさえ、思えるくらい。
甘酸っぱい、忘れられない初恋でありーー恩人。
「おれの、ねえちゃん」
とうとう呟いた言葉が静寂に水滴の音こだまする洞窟へ響いた瞬間、眼前の魔馨石へ跪いた霄が、滴る水滴に潤むピンクオパールに似た石へそうっと触れながら、胸の内で渦巻いていた言葉と記憶の堰を切る。
「……なあ、アンタ“平和な日常が何よりも大切なの”なんて嘯くクセに……|誠《ほんとう》は。豪奢で華美なモノが好きだったんだろ?」
石は触れる手は優しいのに、言葉は酷く固く、何処か涙混じりに洞窟を満たして。
「……だから、凡庸無味な旦那もーーその娘も、棄てられた」
徐々に言葉が小さくなる?
「敏腕社長と持て囃された浮気相手の手も.取れたおれは、アンタを……信じてたのに」
“うそつき”
心も言葉も記憶もチグハグになりそうになる。燃えるような戀は未だ埋火の如く霄を苛むのに、その反面氷の如く冷たい顔が愛しい人の罪を並べて行くのだ。
「母親が帰らない部屋で独り寂しく朽ちた娘も、娘への後悔と自責の念に駆られて首を括った旦那も……|霽《はる》としての、おれも」
もしかしたらきっと、片手なんかじゃ犠牲は足りないのかもしれないなと脳裏で笑う自身を押し除け、霽は“|わらった《ないた》”。
「みんな、アンタが殺したんだ」
呟いたはずの言葉は、重くこだまする。
ダンジョンゆえに、なんの仕掛けか誰とも遭遇しない場所ゆえにこぼせた胸の内は未だ止まらず、ほろほろと溢れた涙だけは、洞窟を滴る水滴の音が優しく隠していた。
「、っ面倒が見れないなら引き取るなよ。ーー娘は、子供は……装飾品じゃ、ねえんだぞ」
なのに。
これほどの思いを胸の内に溜め続けるにも関わらず、やはり消えない埋火ーー霽の胸に未だ在る戀の記憶に、霽は己を笑った。
馬鹿|みたい《・・・》どころではない、“大馬鹿だな”と自身を嘲笑うように。
戀を形作るのは、細くも華々しい彩で織られた愛しい人の言葉たち。貰った言葉の鮮明さが、未だ忘れられないから。
気付けば手の内に収まっていた石を一つ、強く強く霽は握りしめていた。
胸を焦がすような想いへ添えるように、当てながら。
第2章 ボス戦 『『DEEP-DEPAS』』

洞窟を探索していた能力者は、ふと。虫の知らせか突如得も言われぬ不快感を覚えた。
眩暈はしないが視界が微かに歪み、世界が震えるような感覚……それは地震でもなく、何か魔力的な干渉でもない。
ただ、言葉にしがたい感覚。あえて言葉にするのならば——“違和感”。
「一体、何が……」
辺りを見回したその時、通路の向こう——……開けている奥の闇に、何者かが立っている。
そして自然と、視界に入ったそれを“あれはなんだ?”と認識した瞬間、それは起こった。
『繧、繝ウ繝薙ず繝悶Ν繧貞ッ?%縺』
「な……っ!」
地を蹴り迫るそれ。周囲のインビジブルが騒めき、震え怯えているのが肌に伝わってくる!
「っ、来ます——!」
『縺ゅ≠縺√=縺√=縺ゅ≠縺√▲縺」??シ』
ごうと迫る嵐の如きそれこそ、此度この|原因《天使の遺物》を√EDENへ持ち込みし主犯——狂えるインビジブルの集合体である。
ゆるされよ、と鳴る福音は滅び叫ぶ。
ゆるされよ、と笑む福音は饐え臭う。
ゆるされよ、██████████████。
ゆ██れ█、██████████████。
████、
どうか、
『|████-█████《DEEP-DEPAS》遭遇戦』
深く昏きより、だれかが囁いている
暗がりの中、DEEP-DEPASを中心に“ソレ”は巻き起こっている。
ぼうと、青白くも暗い光——それはDEEP-DEPASがインビジブルを喰らう度、繰り返し燈るインビジブルの|燈火《いのち》が消える合図めいた輝きだ。
「っ、ひどい……」
無造作に掴み喰われ、そして噛み砕かれてゆく。無辜のインビジブルを喰らい、にやりと笑うDEEP-DEPASの醜悪さに矢神・霊菜 (氷華・h00124)が眉を顰めれば、ぐっと眉間に皺を寄せた矢神・疾風 風駆ける者・h00095)は先程から耳の奥で反響する硝子を擦り合わせたような甲高くも耳障りな音に奥歯を噛んだ。
「(——そうか、こりゃあいつらの悲鳴)」
疾風に寄り添う風の神も、霊菜に寄り添い羽搏く氷の神霊も、想いは同じ。聞くに堪えぬ悲鳴を——|被害者《インビジブルを狂わせる》根源を、斃さねばならない!
「疾風」
「いくぞ、霊菜」
こつんと拳をぶつけ合えば、互いが何をしようとしているかなど二人には手に取るように分かってしまう。
先手を取ったのは、今や相棒たる憑き神——風龍神の力で即座にDEEP-DEPASの間合いと周囲で苦しむインビジブルを把握した疾風が強風を巻き起こす!
√N—風拳三段法—!
「風拳の怖さを味わうと——」
『縺ゅ?』
吼えた。
風は、確かに吼えた。しかしDEEP-DEPASもまた、|敵と距離を詰めた《インビジブル強化現場を起こした》だけ。
「——、」
「疾風、伏せて!」
『縺ゅl?』
至近距離で自身を覗き込むDEEP-DEPASに疾風があっけにとられた一瞬、疾風に噛みつこうとしたDEEP-DEPASを、霊菜の√Nが間一髪で見通した√に沿い全てを氷雪で白く染め上げる!
√N—凍壊の一撃—!
コキ、白に染まった顔面でぐるりと霊菜へ振り返り、白く染め上げられた隙を突き鋭く腹を打った疾風のトンファーの一撃を思い出したようにDEEP-DEPASがニマニマとわらっていた。
ガシャンと華奢な音を立て凍結粉砕されたのは、あくまで彼奴の一部。いまだ健在である四肢と、爛々と輝く目は生命力を失ってはいない。
「ただダンジョンを|こんなところ《√EDEN》へ持ち込んだってやつじゃないみたいだな」
「素敵な景色も良かったけれど……それとこれとは話が別ね」
陣が狙う隙を、奴もまた狙っている。そしておそらく、捕らえられるのは一瞬であろう——別個体のDEEP-DEPASは勿論、様々なモンスターと矛を交えた二人の勘が“一瞬で取れ”と言っている。
「(3)」
次、奴は必ず霊菜か疾風の背を取るだろう。これは勘であり、賭けだ。だがきっと分は悪くないと背を押す風の聲に笑った疾風が再び膝に力を籠める。
「(2)」
ヒリついた空気はもう慣れた。恐れるべきは、|愛娘《Anker》を心配させることただ一つ。
選ぶべき一線は、必ず交わる一線の上にある!
「「(1!)」」
合図は要らない、ただ霊菜が目の前へ身を投げ出し、疾風はDEEP-DEPASへ向け一直線に駆けた。
瞬間、想定通りに|霊菜の背後《見えた√》をD EEP-DEPASは取り、疾風の眼前には暴走したインビジブルが劈くような悲鳴を放ち暴れている。
「「ビンゴ」」
重なり木霊す霊菜と疾風の声に、本能か逃げを打とうとしたDEEP-DEPASへ霊菜が微笑む。
「凍った経験、“あなたは”ないでしょう?なら、氷漬けにしてあげる——もう動くこともできないくらい、徹底的に」
手中に溜めていた氷雪へ霊菜がふぅと息を吹きかけた瞬間、爆ぜた凍てゆく白は主たる霊菜を柔らかく受け止め、周囲を悉く凍結させながら凄まじい速度で亀裂を刻んでゆく!
雪に受け止められた霊菜とDEEP-DEPASの間へ、凍てゆく白を巻き上げる強風伴った疾風が滑り込む! 霊菜へ無作法に伸ばされたDEEP-DEPASの手を素早く竜巻で捩じ上げると、怒り湛えた静かな瞳で睨み上げていた。
「さぁてお返しの時間だ。歯ぁ食い縛れよ!」
『██、?ゅ』
風に乗るインビジブルの涙声がこの洞穴で木霊するのはもうお終い!
「何度傍迷惑なことしようが|オレたち《√能力者》が阻止してやる。その心臓に刻んどけ!」
一つ、狂える道筋が潰えて消えた。
●『風清らに雪静寂に染み入るのならば』
●継ぐは赫
ただならぬ気配を発す暗がりに立つDEEP-DEPASを見やったパトリシア・ドラゴン・ルーラー(竜帝・h00230)は、柳眉を顰めると、“ふぅ”と小さく息を吐いた。
「(——狂気の淵にいる輩か)」
正常なるインビジブルを喰らい狂わせ糧とし従えるDEEP-DEPASの行いは浅はかなる暴君に同じ。パトリシアからすれば、高々瞬間移動擬き——“位置交換”が為せた程度で、まるで世界を制したような顔をするDEEP-DEPASが小物に見えて仕方がない。
「……小細工よな」
七蜜馨クラスの美しき魔馨石洞穴を内包したダンジョンを楽園へ持ち込み、偶然にも自身へ出合わせたこと——は、多少評価できるだろう。
だがそれは、|楽園の住民の危険《一般人の犠牲の可能性》と隣り合わせだ。諸手を挙げて評価をすることは困難に値するため、やはり天使の|遺物《落胤》を|楽園《√EDEN》へ持ち込んだDEEP-DEPASは|楽園《√EDEN》にもこの美しき洞穴にも必要ない存在に他ならなかった。
「(おそらく、目的はないのだろうな……ならば、)」
インビジブルという楽園の臣民を犠牲にし続ける悪鬼を、今楽園に身を置く竜として——……パトリシアがその拳を揮うに値する!
「余の戦場には灼熱の天幕を。余の舞踏には貴様が砕け行く喝采を。そして、余の一時に値する力を示してみせよ」
言外に“首を垂れよ”をわらう竜帝と彩亡き咆哮を上げるDEEP-DEPASが激突する瞬間、炎が迸る。
√N—爆炎轟舞踏—!
『縺ゥ縺?@縺ヲ縺ゥ縺?@縺ヲ縺ゥ縺?@縺ヲ!!!』
艶やかな爪先が紡ぎ織り成した灼熱の天幕に突如囲まれたDEEP-DEPASは悲鳴を上げていた。
轟々と吹く風にも似たその悲鳴は空間を揺るがすには至らず、まして逃れるためにパトリシア近くのインビジブルと入れ替わる——……と同時に、DEEP-DEPASの首と思しき部位をパトリシアの拳は捉えていた。
「は、」
『縺ゅ?』
「囀るな。竜の舞踏——それ即ち、敵対者を圧殺せしめる原始の暴虐であるっ!!」
ニィっと弧を描く竜帝の唇に、全身を震わせたDEEP-DEPASが牙を剥く。だが如何に藻掻こうとも、もう遅い。
力一杯地を踏みしめたパトリシアが吐き出す息は生気に満ち溢れ、握りしめた拳のきしむ音が孕む闘争心は敵対したDEEP-DEPASへ畏怖を与えるには十分!
鮮烈なる赤き踵を高らか鳴り響かせ、爛々と眸に炎燈しわらうパトリシアは唯一人の格闘者である——!
暫しの時を経て滅茶苦茶な音を混ぜ合わせたような絶叫は途絶え、洞穴に戻ったのは染み入るような静けさ。
傷一つなく、ただ一人立つパトリシアの言葉が静寂へと落ちてゆく。
「……当て無き貴様の狂気をも、ただ力で捻じ伏せる。それが、竜の闘いだ」
「……なんだあ?」
虚ろに佇むDEEP-DEPASを目にしたとき、御剣・刃(真紅の荒獅子・h00524)の口から思わず思ったことが思ったままも口から洩れていた。
驚いた——というよりも、この美しき洞穴を有するダンジョンには余りに不釣り合いな存在との遭遇を果たしたからに他ならない。しかし決して刃は油断などしておらず、寧ろ明確な強者の気配に指先を震わせてしまうほど。
「(体がはっきりしない奴……周りのアレは、もやか何かか? いや、)」
見識での分析も悪手ではないが、見た瞬間に指先がじんと滲むような興奮を覚えたこと、そして今、|奴《DEEP-DEPAS》が刃の進む先を邪魔していること。その全てが、刃が為すべき最善を示している。
「まぁ、いい。……もう、俺とてめぇが殴り合うには十分な理由ができてたな」
ハ、と笑った刃は決して笑ってなどいない。
同時に、じっと刃見返すDEEP-DEPASがにんまりと口を開いたその時——戦いの火蓋が切って落とされる。
力強い踏み出しから勢いよく地を蹴り駆け出した刃が、ニタニタ笑いのDEEP-DEPASへ向かって飛び込みながら拳を引き絞った瞬間、目の前にいたはずのDEEP-DEPASは刃の後ろを取っていた。
「ンなもん予測済みだ!」
『縺√=縺√≠縺ゅ≠縺√=縺√≠縺ゅ≠??シ?シ?シ』
DEEP-DEPASと入れ替わり狂い叫ぶインビジブルの動きの癖を即座に見切りった刃が、いっそ足場にしてしまえとインビジブルを蹴り飛ばし、その勢いで反転した刃の拳が|本当に打ち倒すべき者《DEEP-DEPAS》を捉える!
「男だか女だか男の娘? とやらだか知らんが、邪魔するなら——チッ!」
瞬間、再び刃の拳逃れたDEEP-DEPASが、インビジブルを喰らい硝子を擦り合わせたような甲高い悲鳴を洞窟内に木霊させていた。
だが、こうして幾度も刃交えるうちに刃は“その技の欠点”に気が付く。
「(……——なるほど“俺”の視界内)」
DEEP-DEPASが、刃を狙いながら入れ替わるために“刃の視界内の範囲”を優先して入れ替わるインビジブルを選んでいたのだ。
『縺ゥ縺?@縺ヲ縺ゥ縺?@縺ヲ縺ゥ縺?@縺ヲ』
「ったく……どれだけ逃げようが、俺はてめぇを追い続ける。いくら入れ替わろうと、殴り砕いて進むだけだ!」
√N—百錬自得拳—!
その√のカラクリが分かってしまえば、もう。
左拳を囮に刃の右拳がDEEP-DEPASの頭部を正面から打ち据え、連なる拳の応酬と合間にはさまれるカウンターめいた残像は決してDEEP-DEPASを逃がさなかった。
●「目瞑ったくらいでてめぇを見逃せるような鍛錬は積んでないぜ」
●心知れずに沈みゆく
「(……何が、目的なんだろう)」
白・琥珀(一に焦がれ一を求めず・h00174)の心に、ほんの一滴落ちた疑問が静かに波紋を作る。
「(それとも、目的も何もないのかな……?)」
目の前でインビジブルを掴むと藻掻くその身に歯を立て、ガツガツと喰らうDEEP-DEPASの姿に小さく眉を顰めた琥珀は、あのDEEP-DEPASを野放しにすれば|楽園《√EDEN》など一溜りもないと内心溜息を溢してしまう。
インビジブル溢れる楽園は、恐らく飢餓感からインビジブルを喰らっているように見えるDEEP-DEPASからみてもまさに食べ放題の“楽園”。皮肉だな、と裡で笑ってDEEP-DEPASの悲し気な叫びに引き寄せられ集うインビジブルを横目に、琥珀は手中の|勾玉《本体》を握り締める。
「そろそろ、食事の時間は終わりだぜ」
『縺ゥ縺?@縺ヲ縺ゥ縺?@縺ヲ縺ゥ縺?@縺ヲ』
細い手より滴る“|洸《ひかり》”が波打ちうねり、真白い一糸——√N—天照—へ。
「はじめよう」
始まった激戦の余波凄まじく、強かに天照でDEEP-DEPASを打ち据えながら、琥珀はどこか達観していた。目の前のDEEP-DEPASの伸ばす手を掻い潜り、嗾けられるどこか茫洋とDEEP-DEPASに従うインビジブルを勘で見切りながら。
只管に嗾けられる鰯や鯵などのインビジブルを、琥珀の操る天照が撃ち落とす!
『縺?▲縺励g縺?▲縺励g縲√>縺」縺励g縺?繧』
「同化も融合も、ごめんだね……っ!」
時に進行方向変えるように受け流しながら、インビジブルの隙間を縫い琥珀が地を蹴る!
それは泳ぐように。インビジブルの群れを足場に、素早い方向転換と空駆けるダッシュではためく裾は人魚のよう。
畳みかけるように間合い詰め、琥珀が天照を振り被る——!
すれば、両腕を広げ歓喜するような仕草で琥珀を喰らおうと大口を開けたDEEP-DEPASへ、琥珀は口角を上げ淡く笑んだ。
「そういう押し付け、やめれば。全然、分かってないよな——“こころ”を」
ほんとうのいのりを。
ほんとうのおもいを。
一際強く光迸った一瞬、洞窟内で|太陽《天照》が影すら残さず光を咲かせていた。
その騒めきに、初めに気が付いたのは緇・カナト(hellhound・h02325)であった。
「んー……待って。二人とも、いけそう?」
「「カナトさん?」」
静かに歩みを止めたカナトの密やかな声に、薄羽・ヒバリ(alauda・h00458)と茶治・レモン(魔女代行・h00071)がきょとんとしつつ、鋭敏なカナトの振る舞いと徐々に肌を舐めるように浸食してきた違和感に倣うように声押さえれば“前”とカナトが合図をする。
「——うわっ、ヤバ……アレ、インビジブル?」
「そうだね、イヤな気配の原因はアレみたい」
「きっと、先程カナトさんの仰っていたイヤな気配の原因ですね……禍々しい、というか」
顎で示すカナトにつられ前を見た二人だが、ヒバリは分かりやすく顔を顰めて見せればクククと声潜め笑ったカナトは苦笑い。一方、酷く冷静に納得したレモンは此処へ来る直前にい“何か空気が変わった”と呟いたカナトが神経を張り詰めさせていた意味を悟りながら、鮮やかな瞳でじっと狂えるインビジブル集合体 DEEP-DEPASを観察していた。
だが、√能力者が気が付けばDEEP-DEPASもまた√能力者に気が付くのは必然。
互いが互いに脅威である事実は永劫変わらず、ほぼ全員無意識で得物へ手を掛けていたのだから。
いける? なんて確認は要らない。
「さぁて」
「んじゃ、」
「では」
「「「“頑張ってお仕事 するとしようか/モードでいっくよー!/しましょう”」」」
戦闘の開幕と同時に、まるで人間のように深呼吸をし威嚇するように大声発しようとするDEEP-DEPASを封じるように天へ高く吼えたのはカナトだ。
√N—咆哮—!
「——……、っと。“|そういうの《インビジブル入れ替わり》”は想定済みなんだ、よねっ!」
『縺ゅ?縺√?縺√?縺√?縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゑシ?シ?シ?シ』
咆哮はあくまで牽制。自身の背後を浮遊していたインビジブルと入れ替わり、背後から奇襲しかけるDEEP-DEPASへ獣爪を揮おうとしたカナトの前へ差し入れられたのは、ヒバリのレギオン!
√N—CODE:Assist—!
「ちょっと! そんなことまでできるの!? もー、そーゆーのやめてよー! 二人がちょー強いのは知ってるけど、私の|お守り《レギオン》もちゃんと連れてって!」
「おや、ごめんね」
「ふふ、“僕たち三人”で戦っていますからね」
この戦闘は、決して一人ではない。
√能力の効果で全員の状態を把握したヒバリは、鎖で抑えたDEEP-DEPASという保険を掛けながらもカナトが悪い姿勢で無理矢理に剛腕揮おうとしたことに気が付いていたのだ。
そして投入したレギオンでDEEP-DEPASを弾き、一瞬の間を生んだ。それでも、それはKey:AIR使い熟したヒバリだから為せたこと。当然ながら、分かりやすく頬膨らませて腰に手を当て怒って見せるヒバリの眸にあったのは“心配”の二文字で。
“チーム友達でしょ!”と暗に頼ってと叱るヒバリと、そんなヒバリを援護するようにレモンへ微笑まれれば、さすがのカナトも肩を竦めて“ごめん”とジェスチャー。そんな二人に笑みを溢していたレモンだが、軽やかな足取りでカナトと擦れ違うように地を蹴った表情は戦士のものになる。
「先制、とは存外難しい……ですが、惜しみなく」
√N—魔導式短剣技巧—!
唸り怒るDEEP-DEPASは二人に任せ、狂い暴れるインビジブルの不規則な動きを躱したレモンが|放置できぬ脅威《狂い暴れるインビジブル》を一刀両断!
「ヒバリさんの援護、心強いです。さ、次は僕のが先に斬れそう……では、いきますよ——!」
そして三人息の合った戦闘は徐々にDEEP-DEPASを追い詰め、いくらインビジブル喰らおうと差は歴然。淡々と狂わされ泣き叫ぶインビジブルをただ一刀のもとに解き放つレモンの慈悲と、そんなレモンを襲わんとが標的を変えようとするたびに押さえ込み、懐へ踏み込んではその身を獣爪で削るカナトに油断はない。
咆哮し空間揺らがせたDEEP-DEPASにヒバリが思わず“サゲぽよー!!!”と振動しながら怒り、“ヒバリさんへのアプローチがエグいです!”とレモンが素直に指さし笑った一場面を除いて。
そんなサゲぽよを越えて二人の全てを把握し、不意を突かんと必死に立ち回ろうとするDEEP-DEPAS
の全てを封殺したのはヒバリだ。
「そういうズル、私ぜーーったいゆるさないから! てゆかステキな冒険してきた気持ち、サゲさせないでよね!」
『縺ゥ縺?@縺ヲ縺ゥ縺?@縺ヲ縺ゥ縺?@縺ヲ』
いくら藻掻こうと、三人という鉄壁の前にDEEP-DEPASは手も足も出ぬまま——。
『縺√=』
「さようなら」
洞窟へ、静けさが帰る。
●三原色に沈め
先に“ソレ”の悪しき気配に詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)が気が付いたのは、当然のことだったのだろう。
「嗚呼、」
「イサ」
じっと揺らぐDEEP-DEPASを見つめるイサへ同じくDEEP-DEPASから目を逸らさぬままララ・キルシュネーテ(白虹・h00189)“来るわよ”と強気に微笑んだ。
「——お守りしますよ、聖女サマ」
「ふふ。それでこそ、“ララの護衛”ね」
視線を躱して、得物に手を掛けた二人は掛け声も無く呼吸を添わせて力を揮う。
『縺ゅ?縺√?縺√?縺√?縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゑシ?シ?シ?シ』
「っ、随分とデカい声だ……!」
絶叫めいた叫びに顔を顰めながら、伸ばされたDEEP-DEPASの手を蛇腹剣で振り払ったイサが飛び退けば、その横へ現れたのは手を払ったはずのDEEP-DEPAS。
「(なるほど、あの叫びは牽制にも見えて瞬間移動——……いや、入れ替わりの√)」
随分と厄介なやつが来たもんだ、と内心溜息を溢しながらイサは素早く放った水撃で狂わされ泣き叫ぶインビジブルだったものを撃ち落とし、ぐるんと自身を睨め付けるように首を回したDEEP-DEPASを視線で射抜き返す。
「ま、何を言ってるかわからない分、惑わされなくて大助かり……だなっ!」
『縺弱<縺?>縺?>縺ゅ≠縺√=縺√≠縺ゑシ?シ』
水撃で横面を殴り飛ばし、その隙を突いてイサの揮う蛇腹剣がDEEP-DEPASの片腕を斬り飛ばせば、痛覚があるのか人の真似事かDEEP-DEPASが断たれた片腕を押え絶叫した。
「(痛がっている……?)」
不定の、それこそ影すらないような化け物の作り物めいた演技をついイサが凝視してしまったその時、ソレは来た。
「イサ!」
「っ!」
決して好奇心ではない。
人としての性のようなもの。戦う者としての癖のように、相手を分析する思考が過ってしまった……ただ、それだけ。
即座にイサの近くのインビジブルと入れ替わったDEEP-DEPASが飛び掛かる様に襲い来る!
「似たような手は、食わないからなっ!」
「っ、……もう、イサってば。そうよ、ララたちの楽園に|異物《天使の遺物》を持ち込んだのは、お前ね?」
『縺ゥ縺?@縺ヲ縺ゥ縺?@縺ヲ縺ゥ縺?@縺ヲ』
持ち前の反射神経でガードし掠り傷で済ませたイサの姿に、ララは無意識に詰めてしまった息を吐き出し、手中で光溢す窕を手に踏み出した。
供をする小鳥の羽搏き鮮やかに、イサに食らいつかんと身を躍らせた狂わされたインビジブルを薙ぎ払う!
「花一匁、しましょうか」
√N—花一匁—!
——いのちは、死する前に甘やかな香りがするといふ。
先人曰く、それは極楽浄土より漏れ出す花の馨なのだとか。しかして此処に極楽はなく、七曜紋背負い伽羅の光輪輝く聖なる乙女と従者が立つのみ。
いくらDEEP-DEPASが苛烈に攻め立てるララを狙おうと、エネルギーバリア纏ったイサが変幻自在の蛇腹剣を操りその身を削り、不意を突こうにも素早い水撃の射撃が幾度となく足を撃つ!
微か|遠く《深く》より、聞こえた囁きにイサがわらった。
「……沈むのは俺たちじゃない。お前の方だよ、なあ?」
「そうね、それに残念。お前は決してゆるされない。ふふ、ララが今決めたのよ。だって——」
“お前、傷つけてはいけないものを傷つけたもの”
艶やかに断じた聖女の瞳の奥は、決して笑っていなかった。
それを知るのはただ一人、DEEP-DEPASの懐へ踏み込むイサの背見つめていたララ本人のみ。
「その狂気ごと消えろ」
√N—死海ノ導—!
甘く儚き桜の馨纏うイサの掌が、確りとDEEP-DEPASの核を捉えて|先行き《√》を断ち切った。
ララの指先が、いくつも赤い線が引かれたイサの頬を撫でる。
「ふふ、さっきのはかっこよかったわ」
「……あたりまえだ、俺は護衛だぞ。そしてララは|聖女サマ《ララ》だから守るに決まってる」
今は決して言葉にはしないけれど、イサは聖女の護衛だから聖女たるララを守るわけではない。肌のヒリつくような敵と相対してなお微笑める|ひと《聖女様》だからこそ、守るのだ。
●じゃあ、“今”はそういうことに
ともとの旅路は未だ続く。
●呑み下して
唸りインビジブルを喰らうDEEP-DEPASを前に、冥道・三色(一頭ケルベロス・h00943)は一人密やかに囁く。
「味……あるかな?」
じっと目を細め眉を寄せた表情を紅がすれば、同じくDEEP-DEPASを視界に入れている藍が数度瞬きをしたのちに入れ替わり、紅の疑問に首を傾げ応えていた。
「どうだろ……」
緊張感が曖昧になりそうな内容であったため常人が聞けば首を傾げそうな会話ではあったものの、三色からすれば至極真面目で大切な話なのだ。
ふぅ、と呼吸を整え姿勢を低く。三食が地を蹴ると同時にDEEP-DEPASが咆哮する!
「お、っと……震動、直撃はしたくですね」
“吐いちゃいそうですし”と掠める程度で済ませた藍が冗談めいて肩をすくませれば、ぷぅと頬膨らませた紅がやはりぎゅっと眉を寄せ、流れるような所作で手中に収めた犬歯の大鎌を構え、今度こそ震動で三色を捉えんと深呼吸したDEEP-DEPASの懐へ飛び込んだ。
「——とりあえず、」
その身を嬲り喰われかけのインビジブルも、三色の揮う鎌から逃れるように腕を交差させガードしたインビジブルの腕も、何もかもを全て断つ!!
√N—一口サイズ—!
「ん、っぐ。……ん?」
たった全てを自身の口と随伴させていたフタクチで口いっぱいに頬張った紅は、やっぱりぎゅっと眉を寄せていた。
噛めば噛むほどその表情は暗くなり、噛めば噛むほど口の動きは弱々しくなってゆく。そしてDEEP-DEPASが放つ震動が素早く三食を打ち据えるも、歯を食い縛り耐えた三食は踏み出す。
『縺?▲縺励g縺?▲縺励g縲√>縺」縺励g縺?繧』
「切り刻まないとねー……その、うるさい喉ごと!」
首と思しき箇所へ流麗な所作で犬歯の大を掛けたのは、ほんの一瞬。迷わず振り抜き、三色はその|首《発声器官》を一刀両断!
巻き込まれた周囲のインビジブルごと断ちおろし、断った全てを綺麗に三食は平らげる。
「ううん……なんだろ、全然食べた気がしない……」
むぅ、と眉を寄せむむむと唸った紅のコメントに、やはり似たような表情を浮かべた藍もまた渋い顔のまま。
「ほんとそれ……こう、ガム噛んだ感じです……」
静寂を取り戻した洞窟の中、一つのため息が木霊した。
●モノクロームに色を差す
ピュウ、と口笛を吹いたのは、決して囃し立てるわけではない。ただ——そのちぐはぐな様子に、何と声を掛ければいいのか一目で見抜くことが叶わなかった。
ただ、それだけ。
「(なんなんだ、違和感ってか……不快感、ってェか——)」
目の前の“ソレ”は、只管にこの洞窟内で異彩を放ち、蛍のような星粒のような小さな光を喰らっては只管に叫んでいる。
“見えぬ目”でものを見るウィズ・ザー(闇蜥蜴・h01379)も圧倒される“空気”は、何の偶然か交差した道で世界が絡んだか行き会ったユオル・ラノ(メトセラの嬉戯・h00391)諸共威圧していた。
そして、DEEP-DEPASの不安定さと相反する圧倒的な威圧感は二人の視線を釘付けにし、そんな二人にDEEP-DEPASは逃れようと抵抗するインビジブルが無残に喰われる様を見せつけていた。まるで“見ろ”とでもいうかのように。
「……なるほど、嫌な感じの正体は——キミ、だったんだぁ」
『縺ゅ?縺√?縺√?縺√?縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゑシ?シ?シ?シ』
「「っ、!」」
ユオルの声に反応したDEEP-DEPASが突如として咆哮すれば、二人が踏鞴を踏んだ。そうして二人の足を縫い留めた一瞬の隙を突きDEEP-DEPASは呼び寄せられ狂わされたインビジブルが二人を囲み、にじり寄る。
「おいおい、こりゃァ厄介だ……!」
「っ、こっちへ。オーラの中へ入って——!」
●馨りし悪意への導
「——わぁ! すごく綺麗……それに、なんだかいい香りが……」
明朝、甘く差し始めた朝の光に導かれるように久瀬・八雲(緋焔の霊剣士・h03717)がこの地へ辿り着いたのは、もはや運命だったのかもしれない。
好奇心いっぱいに海水トンネルを抜け木漏れ日や爽やかな木々馨る七蜜馨の坑道をの先で、ふと足を止めてしまう。
小さく反響する、剣劇の音が聞こえたから。
「……? なん、でしょう。戦って……る?」
ふと馨りより強烈に八雲の心を引く音が反響した瞬間、八雲の意識全てはとそちらへ攫われた。音が強くなる方へ駆けだした八雲は、大量の狂えるインビジブルに囲まれている男性二人を見た瞬間、条件反射のように駆け出していた。
●襲よ彩を
「多対一ならぬ多対二とは卑怯です、 そういう悪さはぶっ飛ばさねばなりません! そういうわけで、久瀬・八雲——参ります!!」
「「!」」
連綿の気合一閃! 驚くユオルとウィズを他所に、突如として後方より飛ばされた風の刃が狂わされたインビジブルを打ち払う!
√N—風斬—!
八雲がインビジブルごと吹き飛ばした空気に乗るように視線交わした二人は、唐突なウィズの問いかけでそれぞれ己の役割を決めていった。
「クカカ、こりゃァ良い助っ人だ! ——そういやァあんた、戦えるかい?」
「えっ? ……そうだね、戦闘は得意じゃないけど、フォローには自信があるよ」
「なら、助っ人さんとあんたでちょいと時間は稼げそうだ。俺ぁ潜る……また後で会おう」
人の姿を解き闇へ潜伏すると言ったウィズの姿に一つも驚かず、逆に甘く微笑んだユオルが頷けば、感謝を述べたウィズが宣言通りその身を闇へ溶かしてゆく。そして見送ったユオルは即八雲と合流した。
「キミ——っと、八雲さん、だよね。ありがとう、助かったよ」
「いいえ、では共に頑張りましょう!」
コツンと交わしたグータッチを合図に、光の雨降らせDEEP-DEPAS共々インビジブルを威圧するユオルの光は、戦闘の最中に増える八雲の怪我をも拭ってゆく!
√N—プシュケの涙—!
「——春の吐息、銀翅の蝶。ふりゆくは催花の恵み。我を阻みし者穿ち、夢裡の花をも散らせ!」
閉塞的な洞窟へ迸る新たなる風と光はDEEP-DEPASの眼を焼いた。
『縺弱<縺?>縺?>縺ゅ≠縺√=縺√≠縺ゑシ?シ』
「やぁぁあああ!!」
『繧ャ繝』
ダッシュで一息に距離を詰め、漣面の気合と共に八雲の刃がDEEP-DEPASを肉薄する!
畳みかけるようなユオルの攻防一体の√能力と八雲の√能力が今度はDEEP-DEPASに踏鞴を踏ませて押し込み、抵抗の全てを押さえ込んだ——その時!
やみはきた。
「なぁ、何を泣いてンだよ」
『縺ゥ縺?@縺ヲ縺ゥ縺?@縺ヲ縺ゥ縺?@縺ヲ』
「こりゃァ参った、何を言ってんだかてんで分かりゃしねェ」
耳を澄ませようと、じっと観察し続けようとも、DEEP-DEPASの真意は知れぬまま。
何故、“天使の遺物”なんて代物に手を出したのか。何故、このダンジョンでなければならなかったのか。
何故、 ないているのか。
「……——そうかい、お前もう何でないてたのか……己でも見失ってるな?」
ふと。
ウィズを取り込まんと伸ばされる手を無抵抗で闇に実を溶かしたまま囁いたウィズに、わずかばかりDEEP-DEPASの指先が反応した。
だが、きっとそれも偶然だ。
「なら、俺の糧と成れよ。……な?」
終わりなき歩みへ終止符を。 √N—暗寧—!
おやすみおやすみ、世界の迷子。おやすみおやすみ、夜の腹へ吞まれて眠れ。
「ふぅ」
静寂を取り戻した洞窟で、偶然交差した運命に三人で拳を交わす。
「(なるほど、あいつが異物を持ち込んだ犯人なんだ……)」
“あの洞窟内に必ずいる”と此処へ導いた星詠みが言った通り、偶然にも遭遇叶った 冬凪・雪正(フューリー・アイス・h00307)は淡々とした思考で考える。
同時に異界へ持ち込まれたダンジョンは性質上、目の前のDEEP-DEPASを斃したところで消えるわけではない——ということも、雪正はしっかりと把握していた。
「(まだ、|こいつの先《ダンジョンボス》がいる……ここで止まってる場合じゃない)」
するべきは、なんだ。
それは唯一つ——|√EDEN《雪正の故郷》に仇為す者を打倒するのみ!
『縺?▲縺励g縺?▲縺励g縲√>縺」縺励g縺?繧』
思考は常に冷静に置いて、雪正は淡々とDEEP-DEPASの行動を見つめていた。
元々既に収集されている別個体のDEEP-DEPASの記録は薄っすら頭に入っていたものの、実際に放たれた悲し気な絶叫に寄せ集められ、狂い藻掻き苦しむインビジブルの姿は見るに堪えない。
「っ……かわいそうに、」
集う誰もが、苦しんでいる。
皆等しく涙を流すことは無いものの、全身で訴える苦しみは目にした雪正の心にチクリと小さくも確かな痛みを残すから。
「けど、ごめん。……俺は、|俺の故郷《√EDEN》が大事なんだ」
雪正が握った拳に込めたのは小さな祈り。
√能力者になったからといって、誰彼を救えるわけではないけれど——それでも、大切なものだけは守ると誓った|能力《ちから》に想いを籠めて——!
「これ以上インビジブルも此処も、おまえの好きにはさせない。全力でっ、ぶっ飛ばす!」
√N—氷矢の雨—!
凍てる氷の矢は雪正の周囲に飴の如くっ降り注いでゆく。
囲み襲い来る全てを凍て落とし、洞窟の切り立った岩に当たっては砕け散ってゆく中を、雪正は駆け抜ける!
「っと!」
『縺弱<縺?>縺?>縺ゅ≠縺√=縺√≠縺ゑシ?シ』
「(危ない、あの腕——はっ!)」
身を翻してDEEP-DEPASの腕を躱せば、代わりにぶつかったインビジブルが握り締められすぐにDEEP-DEPASの大口に喰われ砕け散る。
「(この個体、食べるときに手みたいなところを使う……なら!)」
それこそが隙。
その瞬間こそが無防備。
狭くも障害物ある洞窟内で踊るようにDEEP-DEPASを躱しながらその行動を分析した雪正はいつのまにか切れていたらしい頬の傷を拭うと、静かに息を吐く。
「ふー……いくよ」
目の前の凍てついたインビジブルを殴り飛ばし、反射的に受け取り、癖のように口へ運ぶDEEP-DEPASを——!
「はぁぁぁあああっ!!」
氷矢の雨に晒せ!!
『縺ゅ?縺√?縺√?縺√?縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゑシ?シ?シ?シ』
絶叫木霊したのち静寂を取り戻した洞窟内には、雪正の荒い呼吸だけが残っていた。
「(聞く耳持てず——)」
叫び散らし、音という音を己の耳に入れようとしないDEEP-DEPASの姿に、篠森・香子(問わず語りの月・h01504)は思わずため息をついていた。
無垢なる√EDENという世界にとって、香子の前でインビジブルを無残に喰らい慟哭の渦中へ堕とすDEEP-DEPASはは脅威であるし、現に無抵抗なこの楽園へ華々しい地獄めいたダンジョンを引き摺ってきた時点で度し難い。
更に話をするも聞くも出来ないなど——……。
「その叫びこそがあなたの語り。そして、人めいた姿で騙る意味を——……私に、教えて頂戴?」
ついと細い香子の指先が煙羅煙羅憑いた煙管を取る。
ふぅと吹けば這い出た|ソレ《煙羅煙羅》は言葉少なに香子の意図を汲み取ると甘く馨りながら香子へ纏わりついてその身をDEEP-DEPASの視界から奪っていった。
『縺ェ繧薙〒縲√←縺?@縺ヲ??シ』
「お客様、語り部への御触りは厳禁よ……ご存じ、ないかしら?」
この明けきらぬ今を千夜一夜の一幕へ。
厚き天鵞絨の窓掛けを下ろし、言葉に酔うが良い——……。
「今宵語るは昔のこと——とある処に、聲が」
最初の裡は叫び狂っていたDEEP-DEPASも、蕩けるように囁く香子の聲が洞窟で反響し、木霊し、ふわふわりと酩酊してゆく。
“怯えないで”という触れたことも無い甘さに触れれば、裡なるインビジブルだったものが反応してしまったから。
死して尚記憶に刻まれた過去の記憶は連綿と命の内々に息を潜めているもの。密室で在り音木霊す洞窟という特殊な空間において、全てを誘うように細く美しく言葉を紡ぐ香子の聲は、言の葉は|劇薬《魔性》であった。
「そう、真っ暗な闇から呼ぶ声が……」
こえ。
こえがする。
「此方を手招いているのか、それとも誘っているのか」
在りもしないものがインビジブルにもDEEP-DEPASにも見えてきたのか、にゅうと首を伸ばし、目を凝らし——まるでその行為は“ひと”のよう。
「その声の正体は分からずとも声は寂しく、冷たく、凍てついている」
ヒュウと風が奔る。
「嗚呼けれども私は気づかない——……その声も、その冷たさも」
静かに。
だが凍て風の捉えたDEEP-DEPASは、|語り部《香子》の語る通りへ変化する。凍え、凍てつき、訪れた冬の息吹に喰らわれて。
「もう、その声は私の耳には”届かない”のだから……」
√N—千夜一夜の欠片—!
「……——きっと、月の光は貴方の胸を射落とすでしょう」
天より来る光が一条、細き矢のようにその身を射抜いて終いましたとさ。
●語り部語りて末は未だ
『縺√=縺√≠縺ゅ≠縺√=縺√≠縺ゅ≠??シ?シ?シ』
「あれが、」
“怪異”
ぶわりと全員総毛立つような感覚に耳の先までぴるりと震わせたヴァロ・アアルト(Revontulet・h01627)は、意味不明な言葉を叫ぶDEEP-DEPASの聲に、咄嗟にぎゅうと耳を押えたくなった。
今世話になっている店主の言葉を思い出す。
“あのねぇヴァロちゃん、言葉には意味以上のものがあるんだよ”
“意味以上、ですか?”
最初はピンとこなかった。意味以上があるなんて、それじゃあどうやったって他人の心など分からなくなってしまうではないか、とヴァロは至極真っ当に考えたからだ。
“うん。ほら、泣いてる子供に色んな想いがあるのと同じだよ”
「……ないてる、こども」
何と言っているのかなど分かりはしない。だがもし、店主の言う通りあの叫びに意味があるのならば——……。
「……きか、なきゃ」
“無理しちゃだめだし、言葉に呑まれないようにね”と微笑んだ店主は、よくヴァロの頭を撫でていた。そうして触れてもらうと、何故か力が湧いてきて、何故か胸がポカポカしてしまう。そんな店主に秘密で此処へは来てしまったから、もしかしたら怒られてしまう? と実は道中何度も思ったけれど。
「(きっと、華夜さんは“心配した”って……そうやって、怒るんですよね)」
そうして、頭を撫でるのだ。
“無事で良かった”と。
「(だから、無事で帰らないと!)」
見せたいものも、話したいことも沢山できた。
聞いてばかりではなくて、彼に話したい。柔らかに揺れる彼の眸の奥には、いつだって極彩の万色があったから。そこに一色、此の思い出を。
「(……それに、星詠みさんのお話もちゃんと聞いて此処に行こうって決めたのは自分ですっ)」
『縺?▲縺励g縺?▲縺励g縲√>縺」縺励g縺?繧』
手を伸ばすDEEP-DEPASの腕を躱し、襲い来る狂えるインビジブルの不規則な動きを掻い潜り、肌切る感触を耐えながらヴァロは叫ぶ!
「っ、我が紡ぐは原初のひかり! 燈して、炎よ——!」
√N—ウィザード・フレイム—!
「お願いです……インビジブルさん達を解放してあげてください……!」
●きみへ、ひかりを
隣で目の前の得物に涎を垂らしそうな顔をしている女の顔を、なんと言うべきか。
ニィっと口角を上げた猫——否、飢えた獣の如き表情を見せた凍雲・灰那(Embers・h00159)がニタニタ笑いながらDEEP-DEPASから目を離さぬまま言葉を紡ぐ。
「————!!き、ひっ」
舌なめずりをする灰那は今にも飛び出しそうな姿勢でわらう。
空映した隻眼の瞳孔開いたまま、低く静かに呼吸する姿は戦士なんて高尚なものでも何でもない。
「お出ましのようだぜ、ルーシー。まったく……“ただのお散歩”で終われれば良かったのになァ……!!」
「っは……すごぉい……。これじゃお散歩じゃなくてお仕事だね、んふふ」
その一方で、ルーシー・シャトー・ミルズ(|おかし《・・・》なお姫様・h01765)もまた人のことをとやかくは言えなかった。
口元を隠し、一見驚いた顔のようで決してそうではない。
狂乱の中で叫び、手近なインビジブルを捕獲し喰らう獰猛なDEEP-DEPASから目を離さぬまま、隣の灰那とぶつかればどうなるのか。そして自身の力をぶつかればどうなるのかを先に試案したのだから。
互いに、隣の女が獰猛な顔で的を見据えていた時の顔を何と言うべきか。
答えなんて特にない。
「「さぁ?」」
と笑って嘯くだけだ。
“今日も素敵ね”と最高に曖昧で中途半端な社交辞令を述べるような顔で。
●素敵なお嬢さん、お手をどうぞ
「じゃ——|打合せ通り《・・・・・》にな」
「ん。いいよ、始めちゃえ」
灰那が地を蹴ったのはルーシーの言葉とほぼ同時。
“攪乱は任せたぜ、|お姫様《ルーシー》っとォ!”とやっぱりニタニタ笑いの灰那に肩を竦めたルーシーは、炎の一団連れて刃抜いた灰那の背を見送りながら腰のホルスターから抜いた|双子銃《カイン》を手に、何より麗しく微笑み返す。
「はい、——OK」
手早く確認されたのは弾倉。ニューモデルアーミーの全てをチェック。ダブルアクション、スイングアウト、カートリッジに——45口径。軍人並みのスピード間で成すと同時に、撃った。
ふわふわと向上した気持ちで頬を染め、狂った叫びに呼び寄せられたインビジブルと自身の位置を入れ替える!
√N—Nuage—!
一方、燃え盛る灼熱の狼頭を五ツ率い、煮え滾り重なり合う赫も黒々とした黒焔の腕を七ツ従え、劫火の脚を五ツ走らせる灰那が、手を伸ばし吼え叫ぶDEEP-DEPASへ恍惚と刃を抜く。
「さァ」
一歩。
「さァ」
三歩。
「さァさァさァ!!!」
五歩。
「——遊ぼうじゃァねぇか」
√N—炎を齎す者の召喚/従属—!
『縺ゥ縺?@縺ヲ縺ゥ縺?@縺ヲ縺ゥ縺?@縺ヲ縺?∴縺医∴縺茨シ?シ?シ』
DEEP-DEPASの呼び寄せたインビジブルを撹乱するように入れ替わっては背後から狂えるインビジブルを撃ち落とすルーシーの弾丸とルーシーの呼び寄せたインビジブル。更に前面からぶつかる灰那の僕たちが狂えるインビジブルを噛み砕き挽き潰す!!
『縺?◆縺?>縺溘>縺?◆縺?>縺溘>縺?◆縺?>縺溘>縺?◆縺?>縺溘>縺?◆縺?シ?シ?シ?シ』
「オラオラオラ呼んでみろ!! 脚が増えたってェ事はよォ!踏破し制覇し蹂躙する、頭数が増えたって事だぜェ!!」
灰那の横で狂い喚くインビジブル噛み砕いた狼頭が高く吼える。凄まじく統率の取れた軍勢は数で押そうとした荒ぶるインビジブルの群れを即座に喰い潰し、威嚇するように幾度でも吼えるインビジブルの横面さえ蹴り飛ばす!
灰那相手では埒が明かないと判断したのか、踊るように背後へ現れてはインビジブルを誘導し超重力の圧を掛けるルーシーへDEEP-DEPASは手を伸ばす。だが——……。
「遅いよ」
『縺ゅ=縺√≠縺』
「ね、その手は治りそう?」
——それは人型を模したがゆえに生まれたDEEP-DEPAS唯一の難点。肘を撃ちぬいたおまけに両肩まで打ち砕いたルーシーが、場違いなほど甘やかに微笑んだ。
「それと、灰那おねーさんから目——離しちゃダメでしょ?」
『縺』
「きひ」
まるで諭すようにルーシーが声を掛けた時にはもう遅い。DEEP-DEPASにとって、銃口逸らさぬルーシーという前門の虎と、背後より無名刀振り回す灰那とは後門の狼とはまさにこのこと。
全ての狂えるインビジブルを制し、あまつさえだらりと垂れていたはずのDEEP-DEPASの腕を斬り落としその背へ組み付いた灰那の隻眼が弧を描く。
「逃げるなよ、面白くねェだろ? ——きひひ、ひゃははっ……あーっははは!!!!!!」
「あーあ、だから言ったのに。んふふ、でも灰那おねーさん楽しそーだし、可愛い」
煌々と洞窟照らす光が収まったのちに木霊したのは、たった二人分の呼吸のみ。
●暁光の前に
「まぁ、」
——海水割き生み出されたトンネルが、薄い朝の光に透けている。
揺蕩う硝子めいた水は美しく、その内を浮遊するように泳ぐ魚たちは優雅で幻想的。まるで絵本のような——それこそ幼い夢物語めいた世界に、感嘆の息を漏らさずにはいられない。
そして微かに鼻腔を擽る柔らかくも淡く甘い梅花の馨りが、より香柄・鳰(玉緒御前・h00313)へこの場が美しいことを訴えているようにも感じられていた。
正に魔法——言葉で表現するのも惜しくなる風景に“ほぅ”と感嘆の息を溢す鳰の横顔を静かに視界の端に収めていた九鬼・ガクト(死ノ戦神憑き・h01363)も、
真白い頬に極僅かな赤みがさすのは、冬の朝の寒さゆえか。それとも——……。
「(こういうのは、“少女らしい”というのかな)」
そっと視線を上げ、鳰と同じく海水のトンネルを見上げガクトも鳰の視線を辿るようにすいと見上げ、噛み締める。
流れる水は煌めき柔らかい硝子にも見えるが、その中を自由に魚たちが泳ぐ様をより美しく見せるのは匂い。
爽やかな潮の香りの中に混じる瑞々しい花の馨が、幻想的なこの場をより風雅にしているのだろう……なんてことを考える傍ら、ガクトが“今自身の感じる花の馨りは鳰と同じものだろうか?”と頭の片隅で考えた時、並び立っていた鳰の唇から花弁の如く言葉が綻び散ってゆく。
「——此処は何とも、不思議です。ゆえにダンジョンなのですが……本当に、何があるか分かりません」
「んー、そうだね。この海の馨りの中にも違う匂いが混じっている……件の“七蜜馨”——コレが魔馨石かな?」
薄い微笑みを湛えたような表情ながら、緩やかに警戒のスイッチを入れた鳰へガクトが水を向ければ“恐らく”と鳰が頷いた。
「では、ガクト様は私の後ろへ」
「んーありがとうね」
凛々しい鳰の背を見つめたのち、ガクトの視線はすいと暗がりたるトンネル奥へ向く。本当は鳰の言う通り、何が待つのか知れたものではない場所——それが√ドラゴンファンタジーより持ち込まれたダンジョン。
だがダンジョンは現代日本には存在しない冒険性と同時に、秘匿されるべき魔術の神秘と埒外の非現実性を同居させたもの。穏やかな|楽園《√EDEN》の住人だからこそ、この場所に心躍らないはずがない!
「しかし——海水でできたトンネルに特殊な魔石のダンジョンなんて、とても冒険者ぽいね」
「えぇ、ですから——」
「分かっているよ、比例して予想外に危険な可能性は十二分にある。だからこそ、ここへ鳰と来る意味があるんだよ」
ガクトの言葉の裏に滲むのは、危険に十分見合った神秘が此処にある——つまり、その神秘を共に楽しみたいということ。“いつも頼もしい君と”と心の裡で添えながら、導く鳰に続いてガクトも洞窟へと踏み入った。
洞窟の岩壁に反響する漣の音は徐々に淡く空気へ蕩け消え、ひたと岩肌伝い落ちる雫の音さえ木霊する。
海水のトンネルとは異なる冷えと、閉鎖空間だからこその甘い温もり——そして、一段と強くなった馨りを辿る様に鳰は行く。
視力が弱いながらも鳰は歩み淀めずに、時折微かに煌めく魔馨石と肌が感じる風の流れに沿い歩んでいたものの——当然、均された足場ではない。
「……鳰」
「はい」
すいと流れるような所作で鳰の後ろから隣へ移動したガクトが掬うように鳰の手を取ると、緩やかな声音で囁いた。
「んー……此処は沢山の色が溢れて、君の眼にはわかりづだろう? それに、」
「あら。……ふふ。この程度、爆撃後の瓦礫に比べたら——」
「足元も凸凹し始めたからね。転けたら、痛いから」
——ぼやけた鳰の視界でも分かる。
主と仰ぐガクトが心配そうに眉を下げ、少し困った顔をして自身を見つめていることが。何より|空気《気配》から伝播するその優しさを固辞する理由が、今の鳰には存在しない。
たしかに徐々にチカチカと眩さ増しはじめた魔馨石の煌めきが目に痛かったし、何よりも——。
「——主の厚意を受け取るのもまた、従者の務めですね」
そうして今度は互いが互いを気遣いながら洞窟の内を進み、二人が目指したのは一段と強い馨りの方向。
幾度か細い道を曲がり更に進んだ先へ踏み込めば、一際華々しく絢爛ながら嫌味の無い馨りに溢れるの場所でガクトが足を止めた。
「鳰、見て。これが七蜜馨かもしれないね」
「この煌めきが……」
柔らかな春の陽光を幾重にも重ねたような色味のそれは、まるで蜜のよう。他にも花のような彩、空めいた青に水のよう透き通った彩など、色とりどりの輝きは万華鏡の裡に入り込んだ錯覚さえさせ覚えるほど。
「鳰、とても沢山の色とりどりの石があるよ。それに馨もそれぞれだ」
なんの嫌悪感も持たせず胸の裡へ滑り込み、嗅いだ者の心さえ絡めとりそうな魔性さは、初めて見る鳰もガクトをも魅了する。言葉にし難い独特の気配こそが、魔力なのだろう。希少性の理由も、何となく二人には察しがついた。
「……ガクト様、少し持ち帰りますか? お採りします」
「そうだね、せっかくだから頂いてみようか。それにしても、色とりどりで本当にたくさんの石があるね……それに、香りもそれぞれだ」
幾度も瞬きをしも留まらない魔馨石のひかりに惚けた鳰へガクトがそっと“色の洪水だね”と囁けば、ぼうっとした様子で“ほんとうに”と鳰が呟いたのも一瞬。すぐにハッとし“お採りします”と告げた従者の視線が、キリリと眼前へ狙いを定めてゆく。
一方、この不思議な石は茶の席での話のタネになるかもしれないな、なんて笑って頷いたガクトの前、魔馨石へ愛刀 鷦鷯を抜き打った鳰が、器用に採集した欠片は煌めきの欠片を溢しながら澄んだ音を響かせて地へと転がった。
春花の色を綾織にした藤の花のような甘い紫と、春の木漏れ日を折り重ねた日陰に似た深緑の二つ。
ガクトが数多幾多の彩の中からその二つを採集した鳰を盗み見れば、微かに見えたのは迷いの色。
「んー? 鳰、何か気になるのをみつけたのかい? これは……蝋梅の馨り?」
「あぁ、いえ。……私の分は、遠慮しますわ」
若干落ち着かない様子を見せた鳰へガクトが小首を傾げて見せれば鳰が深呼吸を一つした後、いつもと変わらぬ様子を装いながら告げた。
「目の利かない私は、嗅覚も周囲を測る道具です。ゆえに、香を纏う訳にはいきません。……まして」
“亡姉を思い出す香など”
鳰の無意識に発した寂し気な声音と、心の吐露。
静寂で満ちる洞窟内に痛いほど響いていると感じるのは言った本人か、それとも聞いたガクトか。ただ静かに頷いたガクトが、繋いだままだった鳰の手を包むように緩やかに力を籠めながら、開いた手でそっと鳰の頭を撫で同じくらい柔らかな声音で問いかける。
「——でも、嫌いではないだろう?」
「……、」
しばしの沈黙の後、極小さく頷いた鳰をガクトは見逃さなかった。
百年にも感じるような沈黙と、伏せた
——そも、私がその柔らかな言葉と温もり含んだ声で問われて、否と言う部下がいると思っているのでしょうか? そう鳰が心の裡で呟く反面、鳰が小さく頷くと空気から伝わるほどガクトが嬉しそうだから。鳰はつい、先程の従者としての言葉を繰り返せなくなってしまう。
「(ずるいひと)」
言葉にできない心が一つ、増えてしまう。
「さて……あぁ、私はこれを頂こうかな」
「はい、では——」
「深翠彩で、君みたいだからね」
「…………………、!」
長い沈黙に、驚き二度三度瞬きする鳰の顔。今日はいつも見られないものが沢山見られるね、なんて嘯きながらもガクトは脳裏で思案する。
「(……たしかに、視覚にかげがある者は嗅覚や音を聴き分けるのが鋭くなるというけど)」
星詠みが気を付けろと言った意味と、当然の如くこの洞穴が決して安全ではないことをがガクトにはよく分かった。
魔馨石は正に魔石。まさか石が、この場所を訪れたばかりの鳰の素性——いや、心の裡を読んで馨りを選んび発しているのだ。
魔石の名に違わぬしたたかさとでも言うべきか。
「(……悍ましい、と言うべきか。これほどのものが市場に出回らないのは、おそらく採集者さえ此処は喰っていたんだろう)」
此処はダンジョン。
感傷に浸っても、馨りに酔い痴れても、その暇さえあれば命はこの洞穴の肥やしとなるだろう。
「(まぁ、今はいいか)」
火急の危険が迫っているわけではないのなら、今は見ないふりで十分。
「——そうだ鳰、お手」
「はい?」
ガクトの言葉に反射的に鳰が掌を出せば、そこへコロリと転がったのは藤の花一片に似た魔馨石。惹きつけられるように鳰が鼻を寄せ馨りを確かめれば、伝わるのは見目通り微かな藤花の馨が返ってきた。
「……嗚呼、好い香りがします。っでも、」
「私と同じ匂いだから、君も支障は無いだろう?」
ハッと断ろうとした鳰の抵抗も微笑むガクトが素早く封殺し、“私は常に傍にいるからね”とダメ押しまでされれば鳰はもうお手上げ——……では終わらず、けほんこほんと咳払い。
「——では、此方をお預かりしましょう。我が主の、仰る通りに」
「うん、お願い」
今度こそ、繋いだものを指の間から落とさないように。
繋いだ手も、互いの胸へ仕舞った馨りもこの思い出も、全て。
「(ガクト様、ありがとうございます)」
越えにしない想いで瞬く小さな欠片を包んでゆく。
*
●闇へ添う藤の剣閃
「!」
鳰がハッと顔を上げたのと、空間劈くような絶叫らしきものが反響したのはほぼ同時。
穏やかなはずの静寂も温もりも裂き壊し、空気が震え戦慄く感覚だけが肌をヒリつかせてゆく——……それは戦いの気配。所謂“殺気”。
向けられた無粋な殺気は、鳰が決して目を逸らさぬ暗闇から発されていた。
「ガクト様」
「んー?」
するりと繋がれていた手を解き、慣れた所作でガクトの半歩前へ出た鳰が告げる。
「お下がりください。……おそらく、アレは言葉の通じるようなお相手ではなさそうです」
「——あぁ、何か声が。あれは……物体?」
鳰の視線を辿る様に揺らぐ暗闇見つめたガクトが呟く。至極淡く聞こえる異国の福音めいた言葉は|天使の遺物《√ドラゴンファンタジーの落胤》の囁きか。仔細は伺えないが、楽園のインビジブルを怯えさせる原因が音にも言葉にもならぬ戯言を叫んでいるのがガクトにも鳰にもよく分かる。
無辜のインビジブルを喰らいながら狂乱させ悲鳴を纏うそれこそ、|楽園《√EDEN》へ天使の落胤持ち込みし者——DEEP-DEPAS!
「(鳰の勘の通り、アレが……ねえ)」
楽園へ至る為にDEEP-DEPASが天使の落胤を用いたのか。それとも天使の落胤——否、ダンジョンが楽園へ至りたいがためにDEEP-DEPASは利用されたのか……経緯は分からないものの、|敵《侵害者》は|敵《侵害者》。
「んー……鳰」
「はい」
DEEP-DEPASが踏み出した直後、得物へ手を掛けた鳰の背へガクトが笑む。
「今回“も”怪我はいけないよ?」
「ま、アレを相手に難しい事を仰る。——けれど、“|主《貴方様》”の命ですからね」
艶やかに微笑んだ鳰が跳ねるように駆ければ、即座に深呼吸をしたDEEP-DEPASが吼え|世界《空間》を揺らがせる!
「(なるほど、至近距離では私もあなたも分が悪いと)」
ガクトの言葉を守る様に詰めた距離から躱すように踵を返した鳰が、反響する音で地形を把握し微笑んだ。
狭い洞窟内と言えど、刀を振るうには十分な広さがある。まして√能力を行使する者同士の戦いならば得物の大きさなど飾りでしかない。DEEP-DEPASもそのことは学習済みなのか、まるで鳰の射程圏内へ入る気はないと言わんばかりに空気を震撼させ鳰を吹き飛ばそうとしている。
「……なんとも、拙い」
うすら笑った鳰が納刀すれば、何の知恵かその行為へDEEP-DEPASが僅かにたじろぐも栓無きこと。
√N—鵙—!!
「どうぞ味わって」
『縺ゅ?縺√?縺√?縺√?縺√?縺√?縺√???シ?シ?シ』
指先まで美しい所作で腕が一本断たれ、その傷口までもを焼かれたDEEP-DEPASが絶叫しもんどうりを打った。鳰の剣閃にとって、距離など飾りのようなもの。“|それ《切るべきもの》”が視界にさえあればいい!
DEEP-DEPASの震わせた空間さえ切って捨て、果敢に切り込む鳰の後ろ——ガクトはじっと、DEEP-DEPASの動向を見つめていた。
「……“ゆるされよ”か。……実に自分本位だよね、発想が。ゆるしというのは相手次第、決して求めるものではないものだ」
“随分と業の深い”とガクトが口にするより早く、転身し一旦引いた鳰がやはりDEEP-DEPASから視線外さずに問う。
「ガクト様っ、」
「なんだい、鳰」
「お怪我はございませんか」
「んー、大丈夫だよ。……あ、でも」
「はい、何でしょう?」
鳰と同じくDEEP-DEPASを見つめたままのガクトが、ふと。日常会話の延長のように鳰へと言葉を投げた。
「——鳰、私は“アレ”が欲しい。“連れてきて”」
「——仰せの通りに」
我儘な人と咎める者は誰も無く、主が興味の光を瞳に燈したならば身を粉にして応えんとする従者が駆けるのみ。
『 』
「遅い」
既に見切ったと言わんばかりに足場の岩を蹴り、壁面の岩を蹴った鳰が縦横無尽に駆け抜ける。
咆哮定まらぬまま吼えようとしたDEEP-DEPASの逡巡は、鳰から見ればあまりに無防備な隙。視界の端で閃いた玉鋼の輝きへDEEP-DEPASが吼えるよりも、その首へ刃が添えられる方が先だった。
「あなたの乞うた“ゆるし”より、主の命が先に私の耳へ届けられました」
ゆるされよ
ゆ██れ、よ
『 ィ』
「その問答、最早関係無し」
……——√ドラゴンファンタジーにおいて、ダンジョンとは観光資源のようでいて、容易く命を手折る地獄の門の側面を持っている。
軽々に近付いてはならず、また命の取り合う戦場となるダンジョンにおいて敵への慈悲はほぼ無力だ。血が流れ、血を啜るものがいる——……本来、ダンジョンとは決して美しいものでも何でもない。素早い太刀筋に怯んだDEEP-DEPASを鳰が蹴り飛ばせば、その身はガクトの前へ跪く。
「はっ、お前が“ゆるされる”必要はないよ」
|闇《ガクト》が、遙か高みより断じる言葉を以て告げる。
抜き打たれた刃が鈍く閃く様が、DEEP-DEPASの最期の光景。
微かな声は八重咲に、途切れ途切れに歌っている。
乞うように縋るように、それでいて繰り返せと浸透するように偽りの聖歌が止むことはない。
「俺が今、決めた」
ゆるされよ
おまえの道が途切れること
ゆるされよ
最奥にて待つものの問いかけを
ゆるされよ
この場へ踏み入った全ての者よ、ゆるされよ
「さぁ、お前からは何色が流れるのかな。さっきは薄暗くて、見損ねたんだ」
√—オートキラー—
沈めてしまおう、深く深く。切り落としてしまおう、その命。弱きは淘汰されるこの場所の礎となるが良い。
きっとキラキラ瞬く香りのよい石たちが、全てを隠してくれるから。
第3章 ボス戦 『『アンドロスフィンクス』』

『汝、“██”なりや』
愛らしい女性の聲が問う。
『汝、“██”なるか』
朗らかな女性の声が問う。
ゆるされよ、深層へ至りし勇者たちよ
ゆるされよ、地底に差す唯一の洸の下で
ゆるされよ、数多の屍の上に笑む裁定者を
ダンジョン 潮騒の馨石 最深層——|馨洸殿《こうこうでん》の豪奢な門を押し開けた、先に声の主は居た。
恭しくも天に空いた穴より差す光の下、清廉なる純白に身を包み黄金の陽光を一身に蒐めた躰を玉座に据えて。
『——汝、“何█”なりや 汝、その身の“█”を██、よ』
徐々に玉座より響く聲が鮮明になってゆく。
同時に微かに響いていた讃美歌めいた歌声が三重、九重に重なり合って威圧的になるにつれ、ボス アンドロスフィンクスの放つ光が馨洸殿内部の全貌を明らかにした。
眩さに手を翳した君も、遠からず気付くだろう。——床に犇めくように転がる“|ひとだったもの《亡骸》”が晒される凄惨さに。
許されよ、深層へ至りし勇者たちよ
赦されよ、地底に差す唯一の洸の下で
|聴《ゆる》されよ、数多の屍が積んだ|後悔《石》の音を
『——汝、“何者”なりや 汝、その身の“罪”を述べよ』
●|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》討滅戦
__________________________________________________________________
🖋マスターより
🌟このシナリオ三章『|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》討滅戦』限定プレイングボーナス
『|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の問いに答え、自身の答えを自身が受け入れること』
長らくお待たせいたしました。三章ボス戦もどうぞ宜しくお願い致します。
●汝洸あれと望むならば
「よ、っと……ん?」
最奥にたどり着き、自分が通れる程度に門を押し開けた隙間へ身を滑らせた白・琥珀(一に焦がれ一を求めず・h00174)を待ち受けていたのは、玉座に鎮座する|馨洸殿の聖母《アンドトスフィンクス》であった。
二度三度瞬き、か細い光に照らされていた|馨洸殿の聖母《アンドトスフィンクス》の姿に目を細めた琥珀が明らかに人成らざるその身を言い当てる。
「……——なんだ、蜘蛛か」
ダンジョンボスとしていくら気高い名を賜ろうと、所詮虫は虫。
ただその中央にあるのが人間の聖母めいた何かを真似た異常さに呆れてしまう程度、と言ったところだ。正直|アレ《馨洸殿の聖母》と似たり寄ったりな姿と伝承で残る妖怪や何某かの記録も、異√である琥珀の故郷にはあるのだ。——だが、相手はダンジョンを統べるもの。あまり油断はすまいと√—古龍降臨—の力で古龍の力を纏った琥珀の呟きも、呼吸さえも反響させた静寂に、ぐるんと|馨洸殿の聖母《アンドトスフィンクス》が首を巡らせ視線で琥珀を射抜く!
『——汝、“何者”なりや 汝、その身の“罪”を述べよ』
その一声を合図とするように、馨洸殿の裡を天使の落胤の歌声が満たしてゆく。
三重に九重に反響する歌声で聖母へ挑む者を威圧するように。
「ぉ、っと——!」
膝を抱えて光の絲の間をくぐる様に琥珀が躱し、着地と同時に降り注ぐ幾つもの光の絲の間を纏う古龍の力で駆け抜ける!
「(答えも聞かずに、随分乱暴だな。だが、それでこんだけ積んだ……ってことか)」
聖母のようであるのは見目のみ。
その根源は命喰らう者であることに変わりはなく、その粗暴さも何もかもを隠せる馨りは存在しない。
「そうだ、」
地を蹴る。
ヒュウ、と頬撫でた風に口角を上げて琥珀は凪いだ笑みを浮かべ、踏み込んだ聖母の間合いで告げていた。
「答えてやるよ。俺は 付喪神 ——つまりは“物”だ」
互いに人成らざる者ながら、片やひとを・命を喰らい、片やその身に託された想いを喰らう。
「もし罪があるというのなら、……身近な人たちをただただ見送ってきた“だけ”って事だろうよ」
贖えぬものを言えというのならばと至近距離から告げた琥珀の腕が聖母の胸を射抜く。深く突き立てられたその一撃は正に神速——古き龍の力が聖母騙る諸悪の胸を貫き、だくだくといのちを垂れ流させてゆく。
「手を差し伸べることも、」
突き立てた腕を捻る。
「何も。物ゆえに出来ぬまま、」
グ、と生命活動を止めるまで力籠めた腕を引き抜いて、ただ琥珀は凪いだ目で聖母を見た。時と同じく幾重にも罪と示したものを重ねた時と同じように。
「そう、俺は肝心な時に役立てないまま“だった”んだ」
今は伸ばせる手ができた。
今は駆け寄る足がある。
今は叫べる聲と口がある。
だから、
「|俺《私》は在りつづけるんだよ」
ほんの一瞬、薄暗い馨洸殿に立つ琥珀の姿が少女とダブったをの見る者は無し。
●一筋の光を掻き消さず歩む者へ
|それ《馨洸殿の聖母》は歌うように、侵入者たる御剣・刃(真紅の荒獅子・h00524)へ問う。
燦々と幾重にも木霊する荘厳な讃美歌の中、微笑みを崩さぬままに。
『——汝、“何者”なりや 汝、その身の“罪”を述べよ』
天井の穴から細々と降る光を浴びながら問いかける|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の姿は、一見すれば荘厳だ。だがその身の両側に控える厳つい蜘蛛足を思わせる機械部分が目に入れば、モンスターで在ることを再認識せざるを得ない。
「……まったく、本当に女なのか疑わしいもんだな。“女子供は殴らない、斬らない”が信条の俺からすれば、やりにくいことこの上ない」
肩を竦めて問いと関係ないことを刃が答えると同時に、それは来た。
『汝、██なるか』
——ッ、ドォン! と響き渡る凄まじい落下音と吹き飛ぶ冒険者の亡骸たち。
第六感で咄嗟に身を翻す最中、刃は見た。|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》が、至極楽し気な笑みを浮かべている姿を。
「(なるほど、やはりモンスターであることには変わりない……か)」
中央部分に白いレースのような布を纏った女性のような体のアンドロスフィンクスこと|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》は刃の信条と非常に相性が悪いと言えるだろう。
このままいけばいつかは振り回される斬烈の赤脚が自身を捉え、致命傷となるのは想像に難くない。
『汝、罪人か』
「っ……!」
聖母が笑む。口元引き攣らせた刃は、咄嗟に叫んでいた。
「あぁそうだ、俺の罪は武術家として生まれ育ち、死合いの中で人を殺したことだろうよ!」
『ざいにんか』
「だが! 俺はそれを恥じてもいないし、後悔してもいないっ! そんなもんに囚われたら、俺と闘った奴の誇りが堕ちちまう!」
ドォン!と高みより叩き下ろされる鋼鉄の蜘蛛足から残像を贄に何とか逃れながら、強き信念のままに刃は構える!
「だから、俺は俺を倒す奴が現れるまで、高い壁として立ちはだかるんだよ!」
愛刀を構え迫る衝撃に刃が身を固くした時、刃の視界の端をひらりと赫が過っていった。
馨洸殿の床へ、纏っていたいくつかの装飾品を落とした美女——パトリシア・ドラゴン・ルーラー(竜帝・h00230)が不敵に笑う。
「——その意気や、よし」
カツン、とヒールが高く鳴る。
「よい。余もまた貴様の問いに応えよう、驕りし者よ」
『汝、罪人なるか』
嫋やかな手で刃へ迫る斬烈の赤脚を弾いたパトリシアが、自身へ顔を向けた|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》へ悠然と、まるで“当たり前のこと”を告げるように口を開く。
「余は竜帝、永劫の闘争の渦中に身を置きし者である。して、この身の罪か……——そのようなものは、ない」
断じる物言いに、ギシリと|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の蜘蛛足が軋む。きらきらと瞬く金の輝き纏い荘厳そうなそれが、友禅と微笑むパトリシアを睨み付ける!
「なにせ、余の行いその全てが善である」
『——なんじ、██か』
「世の理、国の法、人の道徳——それらに照らし合わせてみれば、貴様と同じように余の行いの内の幾つかを悪と断じる者もいるだろう」
いくら|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》が睨みを利かせ、問いの答えが終わった瞬間を狙おうと、パトリシアには分かる。刃を庇うこととなった一撃を弾いた後、細やかな小傷も残さず刃が治したおかげで万全なのだ。
「しかして、余の行いの善悪とは他ならぬ余自身が定めるもの。故に余は——……竜帝たる者に相応しき振る舞いをしてきた」
」 何も変わらない。
ずっとパトリシアは己の全てに恥じることなく、刃と同じくただ信条と信念に沿い生きてきた。ただ、それだけなのだから。
『汝、██なるもの。憐れなり——あぁ、あぁ!!!!』
「来るぞ!!」
「案ずるな、見えている」
ギ、ギ、と鋼鉄の脚を軋ませていた|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》がとうとう絶叫し、高く掲げられた烈脚がパトリシアへ迫る!
構え、前へ出ようとした刃を制すように手を伸ばしたパトリシアの指先に炎が宿る。
「問い掛けにて余の罪を量らんとする者よ、その傲慢こそ滅に値する罪と識るが良い」
√—炎帝破進撃—!
●灰へと帰せ、驕れる聖母騙るものよ
天井の穴から降る光にキラキラと瞬く埃が、より幻想的な空気を醸し出している。
『——汝、“何者”なりや 汝、その身の“罪”を述べよ』
玉座より威圧的に——……けれど清廉さを以って問いかける|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》に、矢神・霊菜(氷華・h00124)は思わず肩を竦めていた。
「……私が何者か、ねぇ」
様々な人生の転機の辛さも喜びも、今並び立つ愛しい人と分かち合ってきた。まるで運命のように固い結びつきで、今日までずっと。
「(……そんなこと、深く考えた事は無かったわ)」
世間一般で言われる悪事に手を染めは記憶は無く、誰かを傷つけた記憶もない。いっそ、此処へ共に来た伴侶の事ならばすぐに答えられるというのに! と霊菜が内心唸りながらも思考していた。ただのダンジョンボスにしては随分と不思議な問いかけをするものだ、と。
ダンジョン発生の原因たる天使の落胤の影響か、それともダンジョン自体が本来在るべき世界にない影響かは未知数だが答えようと一手と動き出そうとした時、霊菜を守るように前へ出たのは夫である矢神・疾風(風駆ける者・h00095)だった。
「オレは矢神 疾風、風駆ける者だ。——オレの、罪は……」
「疾風……?」
『答えよ、汝が罪業』
——愛する伴侶である、疾風の罪。
その言葉に思わず瞬きをした霊菜が訝しげな顔をした時、お茶目に霊菜へ目配せをした疾風が笑顔のまま|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》へ告げる!
「——オレの罪はっ! 妻の霊菜と、霊菜との愛の結晶 娘の零を愛しすぎていることだ!!」
広々とした馨洸殿に、疾風の全力の言葉が余韻を残しで反響しながら徐々に薄まってゆく。
告げられた|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》は表情を変えず黙し、名前を上げられた霊菜もまたぽかんとしたのも一瞬、すぐに吹き出し大きな声で笑ってしまう。
「ふふっ……やだ、もう。今?」
「だって本当のことだし、霊菜は違うのか?」
「ふふ、……っくく、当たり前じゃない。そうね、私は矢神 霊菜——私のことを愛する旦那様と可愛い可愛い娘に今すぐ会いたいくらい家族が外好きすぎるの。だからこそ、」
笑い過ぎて出た涙を拭いながら、霊菜がこの場には連れてこられない愛娘を浮かべつつ表情を引き締め疾風を見た。
「そう、それこそ“浮気”なんてされたら愛しい旦那様をはっ倒したくなるくらい」
「ひえ」
にっこり。
それは美しく微笑む霊菜に一瞬ぶるりと疾風は震えたのは本能か。“そんなこと絶対にしない!!したこともない!!”と主張する疾風にホホホと笑った霊菜が“大丈夫よ、ちゃんとお世話はしてあげる”なんて冗談か本気かも分からない回答に、思わず疾風がはっ倒すの意味が実は斃すの方か?! と縮み上がり何とか撤回してもらおうとした時。
|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》が身動ぎ、震えたと思えば、足を力ませ——“飛んだ”。
「へ?」
「あら」
『答えよ』
『こたえよ』
『答えよ答えよよこ答えよこた答えよこたえこっ、こここここここここここここた、こえ、 こたえ』
『——こたえろ』
「「っ、!」」
ドォン!! と凄まじい音を立て夫妻の立っていた場所に着地した|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》は。狂ったように言葉を繰り返す。
閉じていたはずの眼は見開かれ、ギロリと睨む瞳には竜胆色の宝石が嵌っていた。
「……もしかしてバグっちまったか?」
「疾風がふざけたせいかしら?」
「俺はいつだって本気だし、あれは本心だ!」
「でも私と零を愛することって罪なの?」
「ぐぅ゛っ……」
高所より強襲した|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》を痴話喧嘩しながら躱した夫妻は内心で手を合わせながら床に転がる骨を蹴飛ばし受け身を取ると、|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》がぼたぼたと漆黒のオイルに似た涙を流しながら迫りくる!
『こたえよ 罪深きもの!!』
苛烈に吠え立て鋼鉄の蜘蛛足で加速した|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》が初めに狙ったのは、手近だった霊菜。視線が合った瞬間、ニンマリと笑んだ|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》は問う。
『——盗人たる汝に問おう。汝、彼の洞にて“そら”をみたか』
「(なによそれ、)」
「霊菜!」
霊菜からすれば、|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の問いかけは意味不明だった。
洞——とは恐らくこのダンジョンの魔馨石眠る坑道を指していることが察されるものの、だが“そら”とは? まして己が盗人と言われる謂われも無いし、恐らくこの問いかけに答えがないのかもしれないとさえ思えてくる始末。
「たしかに、石は一つ頂いたけど——!」
じっと睨めつける一対の青紫から、視線が逸らせない。ビリビリと体の芯から痛み伴い震わせるような麻痺感に得物を手放しそうになる。——不意だ。本当に、ほんの不意を突かれた。ただそれだけ。逃れようとした疾風もまたギリギリ範囲に巻き込まれ、歯を食い縛っている。
深く低く息を吐き霊菜は思考する。
こんなピンチは幾度もあったし、きっとこの先幾度もあるだろう。
「(私は私にできる最善をする。だって——)」
ピンチの最中だって、脳裏に浮かぶのは愛娘の“おかえり”なのだから!
√—天に舞え氷翼の守護者—!
「——せっかくだから私の|天藍《そら》を見せてあげる」
“雪風が満ち、白氷覆う”
痺れる喉が動く限りうたおう。
“敵絶える凍界には何もなく、”
きっとそろそろあの子が夢から覚めてしまう。朝ごはんの支度も、登校の支度だってあるのだから。
「孤高に舞うは護盾の翼。来たれ、氷天の王——!」
ひたと滴った一滴が、止まった風に翼を開く。
風へ“舞え”と叫んだ大翼が|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の視界から|風神《疾風》の姿を覆い隠す!
「本当に、随分なことするじゃないか」
止まっていた風は流れ、迸る氷が逃れようとした聖母の脚を喰らう。藻掻くほどに凍てる白氷を止めようにも霊菜を捉えるには至らない。
ギリギリと聖母が歯噛みした時、“そういえば、言い忘れていたことがある”と風が言った。遥か高みから、視界掠めた霊菜を襲わんとした|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の“頸”だけを怒りの旋風で織り成した風の首輪で引き寄せながら。
「オレは、オレの大切な二人に手出されるのが世界でいっっっっっっっっちばん許せないんだ」
『ガ、ァ』
疾風の指先一つで音もなく締められる風の首輪に、まるで生き物のように藻掻き苦しんだ|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》が瞳を閉じれば、無意識に呼吸を詰めていた霊菜が抜け行く麻痺感にどっと息を吐き出した。
そして正面に自由の身となった霊菜、背面を風の首輪の主たる疾風にとられた今“視界の範囲内”が攻撃対象である|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》は、抵抗の手段さえ残っていない。
『ギ、ギギ、ギ ィ』
「それと、お前たちモンスターにオレの家族が生きる世界を汚させる訳にはいかない。——だから、全力でお前を倒す!!」
異界たる√ドラゴンファンタジーのダンジョンボスは、楽園の諺の意味を身をもって知ることとなる。
「オレと風龍神の逆鱗に触れるとどうなるか……思い知るんだな!」
√—風龍神の逆鱗—!
●風龍神の逆鱗は薄氷に似る
「なにそれ」
|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の言葉を聞いた瞬間に薄羽・ヒバリ(alauda・h00458)はきゅっと眉間に皺を寄せ、不満を露わにしの瞳に滲むのは怒りだった。
ヒバリの目線から見れば、見上げる高所に座す|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》は酷く不公平な諸悪の根源に過ぎない。それが裁定者気取りとは、飛んだお笑い種もいいところ。
「裁定者とかウケる。あれでしょ、厨二病……それに酔ったあなたは屍の上にふんぞり返って——この人たちの罪でも、裁いたつもり?」
黒い瞳を吊り上げて睨むその横顔を盗み見た茶治・レモン(魔女代行・h00071)は思わずレモン色の眸を瞬かせ、白い睫毛を震わせてしまう。
「……ヒバリさん?」
「んー?どうしたのレモン」
「——いいえ」
声を掛けた瞬間、|いつもとよく似た《・・・・・・・・》表情になるヒバリが“そ?”と本来の優しさ滲む笑みを浮かべる落差に、レモンは心の裡で目を丸くしてきゅっと手袋で包んだ手を握る。
——人には人の生きざまというものがあり、|歩んできた道《人生》と今相対するものを比較し重ねるのはよくあることだ。そんなことはレモンとて重々承知しているが、内心つい“ヒバリさんが怒った”という事実につい意識が食われてしまう。そして同時に、優しいヒバリだからこそこの問いを投げかける|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》怒りを覚えるのだろうと予想がつく。——ほんとうに、このへやは命の残滓がひどいから。
「(……ヒバリさんは、“戦い”をよくご存じです)」
ぐるぐるりと思考の海に落ちてしまいそうな二人に、狐面風のアイマスクの下で静かに|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》を見つめていた緇・カナト(hellhound・h02325)が、パチンと手を打った。
「——はい」
「「!」」
“落ち着いていこう。けど動かないで”とあまりに冷静な声をレモンたちへ向けると、静かに口を開いた。
「落ち着いて、仕切り直しといこっか。……幸いあっちはまだオレたちに本気で気を向けていない。順番にいこう」
「……うん」
「はいっ」
互いが互いを埋められるのは、ここに来るまで様々な場面を越えた“勇者”の特権。
カツ、と敢えてヒールの音を響かせる。
床を埋める骨の間を縫い、凛と背筋を伸ばして。
「私は薄羽ヒバリ。一義体、最弱のサイボーグ! 人であり続けることを望むジェネラルレギオン。……んで、お洒落でイケてるママの自慢の娘! 私の罪は、美人な上に仕事ができすぎること!」
『——汝、』
従えたレギオン達と共にヒバリがしっかりと|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》へ言い切った時、反射的に動こうとした聖母へカナトが待ったをかける。
「はい、待った。何者かって聞くなら、オレたちの分も聞いてもらわないと。まぁ……そんな問いの意味も、答えを集めてどうするのやらってトコロだが……オレは緇・カナト。人間で——その在り方を棄てたコトが罪だ」
柔らかに波打つ灰狐狼の毛皮を纏ったカナトが得物たる三叉戟トリアイナを構える傍ら、じっと|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》を見つめたレモンも、先の二人を追うように。
「……僕の事を知らないくせに、一体何を裁くと? お2人になら兎も角、あなたに教える義理はないです……ですが、少しはしきたりに習いましょう。僕は茶治レモン、お伝えできるのはそれだけです」
『汝ら罪人なるか』
問う。
『汝ら、つみふかきもの』
確定する。
『——裁きを』
響き渡る破砕音。
衝撃で少し裂けた頬の血を拭いながら、ヒバリの√— code:Blast—によってレギオンが放った爆撃に|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》が悲鳴をあげる。
「バイブス上げてこ! カナトさん、今!」
「ありがとう、見えてる——よっ!」
『っ、あぁぁあぁぁぁぁ!!!!』
√— 狂人狼—の力によって反応速度の増したカナトが、畳み掛けらように聖母のガラ空きの胸へ三叉戟を突き立てた瞬間——待ってましたと言わんばかりにそれは笑む。
『————、ぁ?』
「っ、! ヒバリさんは右っレモンくんはっ……あぁ、どっちでも良いから離れて!!」
「えっ、ちょ」
悲鳴じみた注意をカナトが促すと同時に、その問いは放たれた。
『——盗人たる汝らに問う。汝ら、彼の洞にて“そら”をみたか』
「(……やられたっ!)」
他者の隙とは己の隙。決して油断したつもりはなかったが、しっかりと刺さった感触を捩じ込み、始末をつけようとカナトが動いた数秒に|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》という窮鼠は喰らい付いたのだ。
ヒバリとカナトにまとわりつく痺れの不快感。体の芯が得物を離せと訴えかけ始めたその時、ただ一人宙を舞う|者《レモン》がいた。
真白いマントを翻し、|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》へ降り注いでいた光を遮ぎる者!
「さっきまで、ずうっと僕と遊んでいたのに……カナトさんの重い一撃と、カッコいいヒバリさんのレギオンが気に入ってしまったんですか? ふふ、」
ひらり、淡々とした白が舞う。
サポートするヒバリのレギオンは既に爆破弾を構え、今にも投擲せんと待っている。
「——罪の無い二人は僕の大切な友人。あげませんよと、再三言ったでしょう」
“聞き分けが悪いですね”と見下ろす天暈色の瞳は、ギラリと冴える刃に似る。
√— 魔導式刀剣技巧—
●白へ堕ちる
|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の姿を仰ぎ見たアリス・アイオライト(菫青石の魔法宝石使い・h02511)は、ダンジョン最奥 馨洸殿——と美しき名を持つ空間に相応しくない凄惨な光景を前に、思わず拳を握りすぎて爪を食い込ませてしまう。
「(……っ、)」
あまりにも、惨い。
「(これが、馨りに囚われた人の成れの涯……という、ことでしょうか)」
委細は分からぬままだが、アリスの想定からすればこのアリジゴクのような体質を持つダンジョンの構造から察するに“奥へ行けば純度の高い石がある”と想像した冒険者や一般人、ハンターたちが考えそうなことなのだ。
……——実はでもなく、アリスもそう思って探索に夢中になった末、不思議な近道を通って此処へ辿り着いた結果から導き出した答えだから。
「(そうだとしても、そうではなかったとしても、これ以上の被害は出しません!)」
『——汝、“何者”なりや 汝、その身の“罪”を述べよ』
「私はアリス、魔法宝石の研究者です! 罪は、特に……あっ! 私に罪があるとすれば、」
厳かな空気を纏い問いかける|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》へ、アリスは笑顔のまま答えていた。
そして“うーん、”と唸った末に浮かぶ“罪”をぽそりぽそりと呟いて。
「うーーん……研究に夢中になりすぎて3日寝てない時とか、いっそ飲まず食わずで没頭してしまう時とかありますけど……もしかして、これも罪ですか?」
『——盗人よ』
「きゃっ」
淡く薄い煌めきが迸る。
よく見ればそれは酷く細い蜘蛛糸で、凄まじい落下音立てて着地した|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》が仕掛けていたトラップを発動させる!
「……この糸で、冒険者たちが犠牲になったんですね?!」
『盗人よ、何時が罪を述べよ』
絶えず死角を狙い発動される幾重もの糸の罠。だが、アリスとて無手で挑みに来たわけでは無い!
「——研究とは時間。そして時間を、費やした分だけ、あなたが知る以上に人類は先へゆく!」
アリスの手のひらから放たれた青い光が、蜘蛛糸を断ち切り聖母を射抜く!
√— 瑠璃星の光—!
「見せてあげる、私の罪の輝きを!」
●幸運なる青き雨の輝きよ
『汝、』
そう問われることには、慣れていた。
『汝、“何者”なりや』
そう問われることには、もう。
『汝、その身の“罪”を述べよ』
「(あなたに言っていたら時間がかかるくらいあると言ったら、どうするのかしら)」
馨洸殿の扉を押し開けてえ身を滑らせた時から、響き渡るような聖歌に篠森・香子(問わず語りの月・h01504)はつい瞳を細めていた。
決して|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の頭上から降る光が眩しいのではなく、|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》が浴び、纏う金の絲により増幅された輝きが眩しいのでもない。ただ——……。
「(随分と、面白くもない問いかけをするのね)」
それこそあまりにも|有体《オーソドックス》な話題で辟易するレベル。たしかにダンジョン最奥に待つものとして、侵入者へそう問いかけるのはよくある話なのだろうか? なんて香子が考えているうちに、もう一度|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》は問いかける。
『——汝、“何者”なりや 汝、その身の“罪”を述べよ』
「あら、ごめんなさい。そうね、私が何者かと言われたら――ふふ、所謂ただの“見える人”よ」
にこりと嫌に事務的に口角を上げた香子が細めた瞳に何を重ねているかなど、|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》は全く理解していなかった。寧ろ想定外。
「|其れ《死霊》が見えたから、目を逸らして口を閉ざした。見えない振りをして遠ざかろうとした。なのに、」
死ねは人は仏になる、なんていうのは宗教的な観念だ。
実際のところ世界に極楽も地獄も無く、楽園は楽園のままで妖が跋扈すれば夜な夜な油を舐めに来るものに脛を擦るものもいる。終らぬ戦に身を投じ続けねばならぬ世界もあれば、神の形損ないとやらやら、神擬きから得体のしれぬ何かが跋扈する世もあるというではないか。
そして、今香子の目の前で玉座と言うにはあまりにも血に塗れた場所に座す|化け物《モンスター》が存在する世もあるのだ。
だが全ての世界に死は平等。等しく命は死に、そして|海を行く魚《インビジブル》となり、時に|其《死霊》となる。
それでも世界とはまさに千差万別、摩訶不思議。広すぎる海というのも考えものだろう。
「どんな命も生きている限り死ぬもの。けれどそれが見える私を——……あの人は、良いと言ってくれたの」
ずっとずっと忘れない、いとしいひと。
ずっとずっと離れない、いっとう大切なひと。
“君は人より見えるものが多いから危ないことには気づけるんだね”
今も香子の中で息衝く夫の聲はいつでも反芻され、瞼に焼き付いたあの甘い微笑みは今や香子だけのもの。
「あの人はね、ふふ……こんな私を、すごいと言ったのよ。あの顔は、今でも思い出せるわ……」
いとしいひと。
こいしいひと。
あいたいひと。
あいたい。
あぁ。
逢いたや、恋しや。
「さぁ」
聞きたくば語ろう。
「これはとある少女の罪の話」
傾聴せよと語り部が微笑んだならば、しかと傅け聖母騙る魔障よ。
「——昔々ある所に、一人の少女がいました。その少女は、人ならざるモノを見る事ができる少女でした」
朗々と語る香子の言葉に|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》は黙して耳を傾け続けていた。——正確には朗々と語る|香子《お伽使い》の術中に既に嵌っていた。
細くも美しい声を優先し、気付けば天使の落胤の溢す荘厳な歌声は止み、まるで部屋の全てが香子の語りに酔い痴れていた。
「それ故に人から疎まれ、蔑まれ、瞳を、唇を閉ざしていました……。けれどもある日、|輝き《星》に出会った——……いいえ、“出会ってしまった”のです」
全ては己事。熱を帯びる香子の語りに固唾をのんだのは、誰だったか。
「暗がりへ追いやられていた少女は其の眩い光に、“欲しい”と手を伸ばしたのです」
全ては|己《香子》の罪だ。
どろどろりと色を増す後悔は幾重にも重なり、とろりと蕩ける夜のように|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の身へ柔く絡まってゆく。真綿で首を締めるように甘く柔く、それでも確かに。
「その輝きに相応しくないと知りながら、も伸ばしてしまったのです」
しずめしずめ。
世界よ沈めと密やかに歌う唇が求めるのは、恋しいあの人が楽しく生きて行ける場所。愛しいあの人の手を引いて歩める安全な場所。
「……嗚呼、それでも欲しがってしまったのです。恋、焦がれてしまったのです」
その全ては、“愛”あればこそ。
「――愛して、しまったのです」
蕩けた夜彩の後悔はついに輝く聖母騙り包み込み、|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》が気づいたころには至近距離で顔を除けれるほどになっていた香子が、微笑み告げた。
「どうぞ、国へお帰りなさい。この楽園に、あなたはいらないの」
沈めて二度と浅瀬へ上げることなど無いだろう。
最後の一押し、ぐいと香子が聖母騙る魔障を夜へ沈めたのだから。
それこそが香子の√、√—千夜一夜の欠片—。
「おやすみなさい、さようなら。生憎、|少女《私》の罪は|少女《私》だけものも……気軽に暴いてはならぬものも、沢山あるのよ」
●秘密あるその襟足に艶めくいろは
『——汝、“何者”なりや 汝、その身の“罪”を述べよ』
「っふ、んふふふ……」
「おいルーシー」
「っとに、おかしなこと聞くんだね? もうちょい博識に行こうよ、スフィンクスさん」
「あー……まぁ、なぁ?」
|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の問いかけが明確になった瞬間、二度三度瞬きをしたルーシー・シャトー・ミルズ(|おかし《・・・》なお姫様・h01765)が、目を見開いたと思えばすぐに喉を震わせ腹を抱えて笑い始め、バディとして共にダンジョンを訪れていた凍雲・灰那(Embers・h00159)はと言えば、ガリガリと頭を掻いたのち大きなため息を一つ。そして一転、灰那の視線もまた鋭く研がれてゆくではないか。
「……けッ。折角面白れェ石も手に入って、楽しく暴れた余韻が台無しにしてくれるもンだなァ——オイ」
だが、ギラつく二つの視線にたじろぐほど、|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》も、柔ではない。
『こたえよ。汝、』
「はぁい、いいよー。じゃあ、あたしから」
繰り返される機械的な問いかけに、ぱっと手を挙げ答えたのはルーシー。
先ほどの様子とは打って変わってニコニコと、まるで物語のページが捲られたかのように空気を変えて美しいカーテシー。
「あたしはね?」
これより語るは奪われし者の怒りの物語。歌うように。されど哀れみをかける者がいるならば蹴り飛ばしてしまいそうな苛烈さで!
「あたしは√シュガーヘヴンのお姫様——……全てを|力ある簒奪者たち《お前ら》に奪わから
実際のところ現実に勇者なんているはずもなく成すがままに奪われ、苦しみに喘ぎ、恐怖に幾度も涙を飲んだ。愛すべき家族が——愛しむべき民たちが——みんな。
みんなみんな、この|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》が足蹴にしている亡骸と、酷似した姿にされたのだ。
「——酷いよね、とっても酷い。だからあたし、決めたの」
ニコニコと未だ、ルーシーは微笑んでいる。
己の凄惨な過去を語ったにも関わらず、背筋が震えるほど美しく。
「生きる為に、それ見たまま諦めることしか出来なかった——のが、前のあたし。けど、“今”は違う」
再び、ルーシーは指先まで神経を通した美しいカーテシーでご挨拶。
作法とは仮面だ。微笑みとは城砦だ。誰が見せお前などに“感情”を、見せてやるものか。
「昔からのお友達の正義ごっこに乗っかって、世界蝕む簒奪者どもを殺してきたの。さて、そろそろ時間だわ……——変 身」
√— キャンディの魔女—!
√— 緋岸華・纏気楼—!
キラキラ輝く透明な飴に包まれたその爪先。鋭利なヒールは高く高く、氷柱が如く。
「あ。ところで、|おねーさん《灰那》が今何してると思う?」
そう問われ、初めて|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》は己が“誤認”していたことを知る。
吐息さえ聞こえそうな距離から頬へ触れるその手に戦いたのは、|生物《モンスター》としての危機感か。それとも。
「オレの罪は、此処で語るにャちいと毒なんだ。まぁ? 別に、慚愧が無ェ訳じゃない。日の当たる道を歩める身じゃねェ事ぐらい、とっくの昔に自覚してらァ」
する、と陶磁器めいた|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の頬を灰那の手が撫で、ゆるゆるりと金の装飾を忌々しげに握り潰し、猫のように嗜虐的な微笑みで告げた。
「あー……ほんっとに癪に障るなァ。実に不愉快だァ——何処の野良犬とも知れねェ手前なんかに、一方的に“罪を述べろ”だァ?」
咄嗟に口を開き叫ばんとした|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の聖母の口へ、焔異銃『|貪る狂炎《Yomagn'tho》』の銃口が捩じ込まれる。
今や見下ろす凍てつくような隻眼はぐつぐつと煮えたぎる怒りを湛えて今にも吹きこぼれそうなほど。
「—— よっぽど。死にてェらしい」
開幕頭を撃ち抜かれた|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》がもんどうりを打ち倒れゆく身を灰那は容赦な 無く蹴飛ばし、“ルーシー!!”と合図を送る。
既に駆け出していたルーシーがウインク一つ。飛び上がり空へ駆け上がると、ダメ押しのように叩き込むのは鋭利なキック!
悲鳴なんて散々殺された。仕返しに踊る魔法使いは手加減知らずのファンキーさ!
『っ゛っ゛あ゛ぁ゛ぁぁぁぁぁああああああ!!!!!!』
「もう、うるさいなぁ。なら、もう一発!」
ズダンッ!! と轟音をたて起き上がった|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》は竜胆色の目を見開き叫び散らす——が、遅かった。
「ルーシー、伏せろ! —— 暫く其処で凍ってなァ!」
√— 待雪・闇劫瞳—!
「はー、ぁい!逃がさないよ……!」
“いけ”と合図をした灰那に笑ってルーシーは舞う。
華やかに美しく、そして一滴の毒のように苛烈に。
「あなたなんかじゃ|食べきれない《受けきれない》から、この魔法」
√— C-exa—
●絢爛なれ、その暈
天井の穴より降る光を浴びる|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》は、薄明かりに神々しいほど輝いていた。
|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の纏う金の絲が溢す煌めきはプリズムを宿し、その眩しさに思わず九鬼・ガクト(死ノ戦神憑き・h01363)と香柄・鳰 (玉緒御前・h00313)は瞳を細めて仰ぎ見てしまう。
「……んー、次にまた出てきたね。眩しいな、鳰にも少し眩しすぎるかな?」
「ええ、眩し過ぎるほど。——ですが、どうやら目を逸らす暇は貰えなさそうです」
油断せずガクトの前へ身を滑らせ、未だ動かぬ|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》に構えたまま鳰が頷くと同時、再び|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》は問いかける。
『——汝、“何者”なりや 汝、その身の“罪”を述べよ』
馨洸殿へ踏み入った時から歌い続ける天使の落胤の聖歌が木霊し、綾織に重なる歌声さえ眩しさを持っている。そう認識すると同時に、ガクトは|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の足元に積み重ねられた骸の山に気付き、眉を顰めてしまう。
「おや……どうやら、アレは沢山の亡骸みたいだ。その上に立つ彼女は、自分が女王か神かと思ってるのかね?」
「あの王座の下は……やはり、そうですか」
鳰は部屋に染みた匂いで察しではいたものの、ガクトの言葉で予測は確信に変わり、更に“馬鹿馬鹿しいね”とあからさまに言わずとも先の読める言い方をしたガクトの視線が、遥か遠く過去を見たことに気が付き得物の柄を握りしめていた。
「無知だね……屍の上なんて、ただただ虚しいだけだというのに」
死とは、本来生者の怪我してはならない領域だ。例え異国といえど、敬意をもって接せられるべき事柄だろう。
だが、モンスターに人の法は通じない。そんなことは当然鳰とて理解してはいるものの、せめてと思った一縷の望みは意図も容易く踏み躙られた。
「(……なら、化け物には化け物の法を)」
√能力者として鉄槌を下し、本来あるべき世界にて“冒険者”に暴かれよと帰すのみ。
そして再び問いが降る。
『汝、“何者”なりや 汝、その身の“罪”を述べよ』
徐に語気を強めた|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の前へ、鳰の頭を二度三度撫でたガクトが、するりとその守りを躱し前へ出る。
「はて」
無手のまま、まるで|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の問いに欠片も答える気のない様子で、逆に問いかけていた。
「さっきからさ、何者?また 何故、君に応えないといけないのかな? それに、答えたところで解決してくれるのかい?」
二歩三歩と前へ出たガクトの視線が真っ直ぐに|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》を射抜いたのも一瞬、すぐに視線を逸らしたガクトは口元に笑みを貼り付けたまま愛刀 藤重の柄に手を掛ける。
「罪など罪と思わなければ罪では無いし、亡骸の数で王になるなら私の方が王様だね」
ふふ、と笑ったガクトがちらりと鳰へアイコンタクトを送れば、ふわりと鳰が闇は身を溶かす。そしてさも何事もなかったかのように再び|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》へ向かい合い、その意識を惹きつけるように言葉を紡ぎ上げる。
「“戦争”という名の言い訳に、どれ程の数の血が流れただろう。——ねぇ。それは、罪かい?」
『汝████、か?』
ザラついて聞こえにくい|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の問いかけを無視して、ガクトは藤重を抜き切った。
「後悔は、無い。あるとすれば、君の様な悪い子を野放しにした事——……ねぇ鳰、そうは思わないかい?」
『っ……っ、?!?!』
「えぇ、ガクト様のおっしゃる通りです」
|闇《アンドロスフィンクスの背後》からぬらりと閃いた鳰の一撃が強かに|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の背に突き立てられた。
√—オートキラー—!
「……まったく、我が主へ挨拶もなしに何者かと問うなど、マナー違反も甚だしい」
素早く切り込み、遠慮容赦なく言葉と共に畳み掛ける鳰の急襲には慌てふためき、見開いた|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》がギリリ
と歯を食い縛る。
『っ、あ゛汝っ、は██っ、っ゛っ゛!!』
「その様な事を聞いてどうするのです。あなたが許して下さると? ——私を掬うのは、主のみだというのに」
ガクトへ伸ばされたその足を切り落とす。
声を発しようとした聖母の喉を切り裂く。
「私は武器。ガクト様に仕える、鈍らの刀」
身を翻して聖母の攻撃を躱し、返す刀で聖母を切り捨てる鳰は、目を見開き吼えたてる|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》を容赦無く蹴り飛ばす!
「主人なら武器たる“鳰”を上手に使わなければ、ね?」
「ええ!仰る通りです、我が主。ちゃんと私を使い切って下さいね」
ずるりと鳰の影から出でたガクトは、場違いなほど柔らかに微笑んでいた。
「まぁ—— 私は何者でも無い、しがない御茶屋の亭主だよ」
「お茶屋のご主人様な主様も、とても素敵ですよ」
√— 藤蒼—
√— 鵙—
●振り下ろされた鋼が白磁の首を
天使の落胤の齎す聖歌は幾重にも折り重なり、綾織の光を纏い光背背負うが如く屍の山に君臨するもの——|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》はただ微笑み“問う”。
『——汝、“何者”なりや 汝、その身の“罪”を述べよ』
美しいトンネルと香しい馨りで誘い、より至高の品を求め甘い誘惑にのってしまう。——すれば、“二度と外の世界”へ帰れない。
明確なヴィジョンが得られなかったと言いながら“狩られるダンジョン”と星詠みが表現した意味を、ウィズ・ザー(闇蜥蜴・h01379)は真摯に受け止めていた。
「(そうか、だからこそ星詠みの彼は決して楽しい顔をしなかったのか)」
馨りと色とりどりの鉱石という花畑の最奥に住まうは、聖母の仮面を被りし|バケモノ《蜘蛛》。
鉱石採集の時からそうだったが、幾人もの同胞が踏み込んでいるはずのダンジョン内でウィズは誰とも遭遇していない。唯一、DEEP-DEPASと戦いの最中にまるで次元が交差するかのように共闘したことだけ。……だが、その同胞も数歩歩けば気配が露と消えていたのだ。
ダンジョン『潮騒の鉱石』が楽園へ落ちた際のバグか、それとも|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の策略かは判断がつかないが、酷く危険な気配だけはする。
「……ダンジョンという巣は、相当お前に合っていたんだな」
こういう場所に慣れたウィズさえ“深い”と思うほど、このダンジョンは広く深い。
そしてこの最奥たる馨洸殿を満たす、冒険者や迷い人たちの死——……べったりとこべりつき、赤黒く酸化した命の片鱗は幾年も重ねた血痕とそれに連なる骸が満ちている。
「(……あぁ、酷い光景だ。一体何人の人々が、帰らぬ家族に涙したんだろう)」
——楽園を喰らわんとした眼前の聖母騙りへ、真の審判を下されねばならぬ時が来た。
「……それしても、やはりあの石の麗しさは命か——ならば俺も、納得がいく」
最奥の馨洸殿を満たす光景がこの世のものとは思えぬ悍ましさならば、此処までの道のりは凡そこの世のものではない美しさと馨しさを持っていた。その根源が、此処で潰えた数多幾多の命ならば——……それはきっと、誰も知らなくていいことだ。誰も、知ってはならぬことだ。下手をすれば、此処は“天然の賢者の石”の採掘場となってしまうし、邪な者共は是が非でも探し出そうと血眼になるはず。
「(そうか……あぁ、)」
ふとした瞬間に、ウィズは理解してしまった。
煩わしいほど天使の落胤が歌い続ける聖歌の意味と、天使の落胤を持ち込みしDEEP-DEPASが|このダンジョン《潮騒の鉱石》へ惹かれたそのワケ。
——全ての事象は、繋がっている。
この事件はきっと、起こるべくして起こったことなのだろう。
ただ一つ計算外であったのは、落胤と落胤を盗みだした者がこのダンジョンへ導かれ楽園へ落ちるまでを見通した“|星《ひかり》”とその|星《ひかり》の聲を星詠みが聞き届け、|自分たち《√能力者》を集め派遣したことであろう。
許されよ、深層へ至りし|勇者《命》たちよ
赦されよ、|地底に差す唯一の洸の下《ダンジョン最奥—馨洸殿—》で
|聴《ゆる》されよ、数多の|屍《悔い》が積んだ|後悔《石》の音を
「そうだ、あぁ……その通り。俺は全てを聴き、“見た”。瞳無き俺にさえ惹き付ける、生きた証を」
真に赦されるべきは、未だこの馨洸殿で蟠り嘆き続ける人々の想いの全て。
何であれ家族を置いて逝ってしまったことを悔いる彼らを慰めるべき清らなる歌。
求めたことへ応えぬウィズの言葉をただ受け続けた|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》が微笑みを深め尚問いかける。
『汝、“何者”なりや 汝、その身の“罪”を述べよ』
大らかさが消え、やや性急な声音で問う姿をウィズは笑った。
御大層な|称号《名》を持つ聖母も、どうやら空腹は耐えがたいらしいと。聖なるなどと聞いて呆れる浅慮と短慮。恭しくもそれらしく組んだ手は己のために祈れと脳裏で告げ、口角を上げながらウィズは口を開く。
「——汝、死を望む者」
問いへの答えではなく、それは詠唱の片鱗。
「汝が踏みしめし骸が導くは永劫の涯。物言わぬ骸は必ずや汝を|案内《あない》するは、魂有りき木偶の叫び——」
言葉一つ一つを噛みしめるように詠い連ね、“そうぞう”を紡ぎあげる。
魔法とは“|力《魔力》を以って、無より有を生む”と思われがちだが、本来そうではない。魔法がわざわざ“詠唱”されるのは、詠唱を通し“術者が魔法を『想像』し『創造』する”ためだ。
当然、√能力もまた想像に類する行為が、魔法と類似して伴われる確率が高い。
言葉なく使い熟すのは、場数を踏み練達した者や天賦の才を持つ者——乃至は音にせずとも特に高い想像力を持った者、術者自身がその力の根源……精霊や妖精の類などである場合など理由は様々。
「汝、死を望む者——ッ、!」
『汝、盗人なりや』
ごうと風が鳴り、薄っすらと聖母の呟きが聞こえた同時に“それ”は来た。
骸の山を足場に飛び上がり、ダァンッ!!!と馨洸殿に響き渡る轟音を立てウィズの至近距離に着地した|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》が、見開いた瞳に嵌まる竜胆色の魔馨石でウィズを見やって嗤うや、高く上げた鋼鉄の脚を振り下ろす!
『汝は盗人ッ——!!』
「(勘づいたか。なるほど、こいつも場数は踏んでいるっ!)」
骸の裡にいるであろう冒険者との戦闘経験か、ウィズの詠唱を阻止せんと襲い来る鋼鉄の脚を身を捻り伏せ躱すウィズの頬スレスレに鉄脚が風を切る。
『汝!!悪なる者へ制裁を!!』
「——|其《そ》が前に平伏したる、幾許もの今は亡き|生命《いのち》よ。想い遂げ、地に還る迄……!」
足を半歩前へ、ウィズが体を捻り躱した鉄脚が床を抉り骸を砕こうと嘆いてはいられない。逃げるウィズを追い、ギラギラと目を輝かせる聖母の瞳から立つ甘い香りは、小説に語られる“死”に似ていた。
ごくん、とウィズの呑んだ嘆きは塩辛く、喉を過ぎゆく怨恨は熱い。
渦巻く嘆きと物寂しさはウィズの腹の奥底へ埋火に似た熱を宿し、寄り添う優しい|風《聲》は紙一重で|致命傷《自分たちの受けた傷》を躱させるだろう。
「|其《そ》は“闇”」
死で満ちようとしていた馨洸殿へ、ひとひらの|闇《ことば》か落ち、鋼が閃く。
ほんの一瞬、ウィズの耳は己の呼吸と心音を頼りに体を後ろへ傾ければ、ごうと瞼の上を過ぎゆく鉄脚。その風音と並行して、徐々に周囲で呼吸を始める闇を聴く。
“右へ”とか細い声をに右へ転がれば、鉄脚はウィズの服さえ掠めるには至らない。
続いて“左へ”と呟く声を拾い飛び退けば、もう聖母にウィズを捕まえる術はなし。
この部屋の片隅に、全ての影にあった闇がウィズの言葉に目覚め、気配を増してゆく。
「——自我持つ現象 意志持つ素因 在りて無いモノ |視《み》えず|透《とお》すモノ 光に|対《つい》し|総《すべて》を内包するモノ」
ウィズの詠唱が影を指し闇を縫いその身へ纏わせ滴った指先で形を成す。音を吸い、ほんの一瞬静寂で満たした馨洸殿の中央に偶然立ったウィズは、あえて恭しく聖母へと礼をした。
「罪業を、述べよう」
求める|言葉《エサ》にひたりと動きを止めた|馨洸殿の聖母《アンドロスフィンクス》の睨みに決してウィズは退かぬまま、口元に携えた笑みで|言葉《詠》を|紡ぐ《唱える》。
「|贄《ニエ》たる其の身に負う罪業が在るとするのなら……未だ在るこの意思と、歩み。其の物だろう」
己が生そのものが罪業だと、ウィズは腹の裡で笑っていた。それこそ、本来在るべきで無い生命であると。絶望も諦観も怨みすらなく、ただの事実として。捧腹絶倒してやりたい衝動を呑んで、纏った闇で為した爪を研ぎ、天より差す洸を吸い光さえ殺す刃の雨雲をへ合図する。
今一時、ウィズの言葉を介そうと動きを止めた聖母へ——最期に敢えて、ウィズは恭しく礼をすした。
「汝、死に臨む者よ。廻る楔の中、再び相見える。今、此処に唯一の弔いを成さん」
合図で産み出すは不可視の刃。約240本が見舞うは鋼の集中豪雨! これは弔いであり、晩餐だ。さぁ喝采を!
√—星脈精霊術【薄暮】—!
『っ、ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛あああああああああああああああ!!!!!』
「遅いな」
素早く地を蹴り人型からその身を転じたウィズは滑る様に聖母の鉄脚を斬り飛ばし、踏み込んだ聖母のその身を蹴り飛ばす。泣こうが喚こうがウィズの知ったところではないし、この聖母を救う者など誰もいない。時折混線するように膜一枚向こうの聖母は切り捨てられ、穿たれ、そして蕩けて消えてゆく。
「見ろ、どの道を辿ろうと、今ここで汝こそが潰える——!!」
ならば、その罪を数えねばならない。
ならば、その在り様を答えねばならない。
抉られた腹から絶え間なく滴る|血《オイル》は止まらず、斬り落とされた脚を拾う者は無し。はじけ飛んだ竜胆色の眸は床を転がりどこかへ逃げた。
ひとつ。
半ば廃れつつあるが——元来、祈りとは神の為にあるものではない。
祈りとは、神仏へ願う“人間の”言葉であり、精神であり、|宣言《のりこと》を指す。
追撃を転がり避けながら最後の一文字まで詠いあげたウィズの影より、ずるずるりと這い出でた闇顎が無遠慮に開かれる。
「弔おう、その命。残さず余さず俺が喰らう」
洸の下、絢爛と輝いていたはずの女が最期に見たのは昏く底無しの闇かも分からぬ底の底。誰も帰らぬ底の底。
「……思ったより長引いたな」
パン、と服の裾を払ったウィズの革靴が高らかに馨洸殿の床を鳴らす。
天より降る光の面が増えた室内は光に満ち満ち、新たなるウィズの得物となった|刻爪刃《なかま》を寿ぐように鎮まっていた。
●洸よ、あれかし