幸福インカーネーション
●ノバラの会
「さあ、皆さん。祈りましょう。輝かしく、逞しく咲き誇る銀の薔薇に」
壇上に上がった男がそういった。
白装束を纏い、優しく微笑んで。
『教祖』と呼ばれる男は、礼拝堂に集った同志たちを諭すように目の前に置かれた銀の薔薇の鉢に両手をかざす。
礼拝堂の信者たちが、厳かに頭を垂れて祝詞を呟き始めた。
「ああ、銀の薔薇にあなた達の祈りが届いています。神秘の薔薇はあなた達の祈りを吸い取り、さらに美しく……そして数多の願いを受け入れる器となるでしょう……!」
鉢の上で静かに咲き誇る銀の薔薇。その花弁が、淡く輝き始める。
「ノバラの会の教祖としてわたくしは宣言します。銀の薔薇の力を信じる者は──」
●潜む怪異を暴け
「全員が『幸せ』になれるんだとさ」
予知で垣間見えた光景を語りながら、此処璃・カリン(人妖「赤鬼」の妖怪探偵・h04544)は胡散臭そうに目を細める。
「『ノバラの会』ってのは知ってるか? √汎神解剖機関の山梨県……青木ヶ原の森の中に建てられた施設を拠点としてる新興宗教団体さ」
√能力を使って、自分の事務所から資料を受け取ったカリンが、呆れ半分と言った表情でその内容に目を通す。
「施設内には信者が100名ぐらいか? 子供から大人、老人まで老若男女問わず、ってところだね。子供が遊べる中庭も作ってるな……確かに、弱者を救済する建前はしっかりと持ってるみたいだな」
ノバラの会のパンフレットをぺらぺらとめくっていたカリンの視線がEDENたちへ向いた。
「……都合が良すぎる、だろ? 分かってるさ」
ぽいっ、とパンフレットを投げ捨てて、カリンは状況を説明する。
「ノバラの会の理念はたった一つ。『みんなが幸せになること』だ。そして、その幸福の神秘は、ノバラの会が所有する『神秘の薔薇』にある」
予知で垣間見えた、鉢に植えられた銀の薔薇。カリンは舌打ちすると、資料をEDENたちへ渡し始める。
「神秘の薔薇に祈りを捧げた者には、『幸福』がもたらされるらしい。バカみたいな話だけど……事実、その『幸福』を受け取った信者がいるらしいよ。だからまあ、信者数がどんどん増えているわけなんだけど」
怪しいよな、とカリンは不敵に微笑む。
「そんな簡単に奇跡を受け取れるんなら、√汎神解剖機関の退廃的な状況なんてとっくに解決してる。……確実に、施設内に怪異が潜んでいる」
EDENたちが顔を見合わせた。
要するに。
「ノバラの会に潜入して、潜んでいる怪異を暴いて撃破してくれ」
カリンはそう言うと、ノバラの会の施設に関する見取り図をEDENたちへ手渡した。
「礼拝堂に、食堂。図書室に……中庭。多目的ホールは信者たちの休憩の場かな。施設内では子供たちが走り回ってたりするし、そういう子供は要するに帰る場所のない身寄りのない子供なんだろうね」
さて、とカリンが言葉を続ける。
「ノバラの会に潜入するには、自身の『不幸』を|告解《・・》するか、なぜ幸福を求めるのかを入口で待機してる信者へ説明しなきゃいけない。そういうことをせずに信者たちの目を盗んで侵入するのも良いけど……絶対に『不信心者』だと思われるだろう。気をつけなよ……ノバラの会の信者の信仰心は、おそらく|常軌を逸してる《・・・・・・・》だろうから」
もしそういった正規の方法ではなく、侵入や隠密での潜入調査の場合『調査がかなり困難になる』だろう。
「信者たちへ話を聞くか、怪異の痕跡を施設内で発見するか……もしくは……そうだね。不条理な『不幸』によって自分が受けた『耐え難い精神的な苦痛』を信者へ説明できれば、『教祖』に会うこともできるかもしれないな」
カリンはそう言って言葉を区切った。
「まあ、あんまりいろんな場所をうろついてると逆に怪しまれるからね。調査する場所は一箇所に絞った方が良いよ」
新興宗教団体『ノバラの会』。真の奇跡と祝福か、はたまた闇の蔓延る狂気の渦か。
「調査結果によって、怪異の出方も変わってくるだろう。みんな、気をつけてな」
第1章 冒険 『新興宗教団体の調査』
●ノバラの会へ
「皆様、ようこそいらっしゃいました」
青木ヶ原の森の中に建てられた予想以上に大きな施設に、EDENたちは呆然とするかもしれない。
ノバラの会本拠地、その入口前に佇んでいた信者が、優しく微笑みながらこちらへと近づいてくる。
「入会希望者ですね? とても素晴らしい行いです。皆様も私たちと共に『幸福』になりましょう」
信者の男はそう言うと、では、と言葉を区切った。
「ノバラの会に入会する方々へは、降り掛かった『不幸』、もしくは幸福を追い求める信念を聞き入れることとなっています。世界に満ちる不条理、幸福を追い求める欲望を|告解《・・》し、正しき幸福の道を見出すのです」
男はそう言うと、目を瞑る。
ノバラの会へ潜入するためには、自身に降り掛かった『不幸』か、もしくは幸福を求める理由を説明しなければならない。
ノバラの会に潜入するための、第一フェーズだ。
そして、どの場所を調査するか。判断はEDENたちに託される。
(……人の不幸を利用とは、いい性格してるね?)
|告解《・・》を聞き届けようとする信者の前で、刻見・雲雀(最果てに挑む翠瞳・h01237)は微かに表情を歪めた。
人の想いを利用する怪異。そんなもの、見過ごすわけにはいかなかった。
(ああ、全く以て気に食わないな)
とにかく、今はこの信者に自身の|身の上《・・・》を説明するべきだろう。
「愛する人がいたんだ。けれど……失ってしまった」
「……なるほど。あなた様には、我らの扉をくぐる資格があるようですね」
ひどく悲しみに満ちた表情と声音を聞いた信者は満足したように頷いて、雲雀をノバラの会の入口の先へ通す。
雲雀の演技には気付いていないようだ。
「教祖様がいずれ来られます。その時まで、しばらくお待ちください」
「ああ、ありがとう」
雲雀が通されたのは多目的ホールだ。
多くの信者たちが生活しており、互いに歓談したり、ボードゲームをしたり……その表情に『不幸』は感じられない。
「……さて」
そうして、雲雀は静かに姿を消した。
多目的ホール内は落ち着いた雰囲気に包まれているが、怪異が絡んでいる以上、魔力や呪詛の痕跡はあるはずだ。
雲雀の瞳が映し出したのは、ホール内に存在する魔力と呪詛の流れ。
揺蕩うように揺らぐそれは、間違いなく超常の力の残滓だ。
「痕跡はある、が……ホール内に満ちていて辿ることは難しいか」
そうして、雲雀は√能力を発現させた。
「来たりて降りて、来たりて降りて。汝が器はここに在り」
【降霊・紅這子】によって近くに存在していたインビジブルは紅い着物を纏う市松人形へと形を変える。
「怪異に関する情報を持っているかい?」
その問いに答える市松人形の返答に、雲雀は顔をしかめた。
「……|いつもここにいる?《・・・・・・・・・》」
どこに、と問い直したが、あくまでも目撃証言のみのようだ。
この|施設内を歩き回っている《・・・・・・・・・・・・》、という。
「随分とお節介な怪異みたいだね?」
そこで、後ろから声をかけられる。どうやら、信者に存在を気付かれてしまったようだ。
軽く会釈をして、雲雀はその場を後にする。
(――こんな糞食らえな宗教団体、徹底的に潰してやろうじゃないか)
怪異が潜んでいることは確定した。
信者たちが怪異に与している可能性も鑑みて、最悪のケースを予想しつつ。
雲雀は礼拝堂へと歩を進めるのだった。
目を瞑り、告解を聞き届けようとする信者へ桜井・日向(|桜の樹の下には《The girl who lived.》・h12236)は思考の底で自嘲する。
告解。要するに、不幸自慢だと。
(私みたいなのにおあつらえ向きだ)
日向は、その重い口を開いた。
「昔……大きい、火事で。それで……家族も。友達、も」
絞り出すように、ゆっくりと。
「……私、だけ。助かって……みんな。みんな、生きたかった、はずなのに。みんな、見捨てて。私なんかが」
「……」
「……それから……ずっと……ずっと、怖いん、です。幸せだって、思うの、が。ずっと……赦して、欲しいって。ずっと……」
「……ああ、お嬢さん。申し訳ありません。辛いことを思い出させてしまいましたね」
あの日の光景を幻視すれば、ひどい眩暈に襲われる。
胃を握りつぶされるような、深い、深い傷。
信者は日向の肩に手を置いた。
そうして、近くにいた別の信者へ耳打ちを始める。
「お嬢さん、どうやらあなたには教祖様に拝謁する権利がありようです。どうぞ、こちらへ」
そう言って、日向を礼拝堂へと誘う。
その背を追うように、日向は礼拝堂の中へと歩みを進めた。
ボディーガードのように意匠の伴う大きな扉の先、絢爛な装飾を身に纏った白装束の男が、日向と向かい合う。
「ああ、『幸福』を追い求めるものですね。心配には及びません、正しき『幸福』の元で、眩しき日の輝きを浴びましょう」
そうして、日向は教祖の後ろに存在した『銀の薔薇』の前へと通された。
「『銀の薔薇』に祈るのです。あなたの『不幸』はやがて『幸福』に至り──|我が神《・・・》が正しき道へと導いて下さるでしょう」
教祖の言葉を聞き流しながら、日向のその『銀の薔薇』へと視線を移した。
「あの……持ってみても、いいですか?」
「ええ、もちろん。あなた様に相応しいものが得られるやもしれません」
(……祈りはしないけど、その記憶を読み取らせてもらうよ)
祈る所作と共に、教祖たちにバレないように√能力を発現させる。
【|火葬《アベンジ》】によって過去の所有者の記憶を受け取ろうと試みる。
怪異に関連する物品だ。もしかしたら有益な情報を得られるかもしれない。
正直なところ、日向自身この力を好いているわけではない。見たくない事を見てしまう事も、他人の心の中に土足で踏み込む罪悪感もあるからだ。
しかし、怪異の痕跡を辿れるのならば。この力が、破滅を防ぐ力になるのなら。
意識が遠のき、陽炎のように揺らぐ記憶が視界を覆う。
投影した記憶の先にいるのは、跪く教祖の姿だ。
──ああ、我が神よ。
そう言って、こちらへと深く頭を垂れている。
√能力【|桜の樹の下には《リンカーネイション》】によって、さらなる過去が投影された。
──ああ、神様。いつも私たちに手を差し伸べてくださるなんて光栄です。
──神様だ! ねえ神様、一緒に遊ぼうよ!
信者たちの声。|神《怪異》を称える言葉の数々。
そこで、日向は気付く。
√能力【火葬】は、過去の所有者の記憶と交渉できる√能力。
つまり、怪異の物品であるこの薔薇の過去の所有者は怪異本体。
で、あるならば。
怪異は、その交渉を|なんの抵抗もなく良し《・・・・・・・・・・》としたのだ。
ばちり、と視界に火花が弾けて日向の意識が現実へと引き戻された。
過去から飛んできた声に、日向の表情が曇る。
|所有者《怪異》は日向へと過去から囁いたのだ。
──あなたも、幸福になりたいのね? 大丈夫、私があなたを幸福にしてあげる!
「すいません、入ったばかりで右も左も分からず……みなさんどんなお話をされているのですか?」
信者たちに合わせるようににこりと微笑んで。
斯波・紫遠(くゆる・h03007)は、怪異の深層に触れるために、言葉を連ねていく。
「あなた様は、なぜ幸福を求めるのですか?」
「僕ですか…? よくある話です」
そうして、紫遠は前髪をかき上げた。そこに映る両目の違いを見て、信者は微かに目を見開く。
「……そうですか。なるほど。あなた様もまた、我々と同じ幸福の道を辿る者のようです」
「お陰でたらい回し、身体も傷だらけでお見せできませんし。まぁ…ココではありふれた話でしょう」
「そうですね……さあ、こちらへどうぞ」
そうして、信者は紫遠を多目的ホールに招き入れた。
集まる信者たちの様子は落ち着いており、静かな囁きのような会話が聞こえてくる。
傍らに立っていた信者へと、紫遠は再び口を開く。
「こちらの祈りは綺麗な薔薇に聞き入れていただけるとか。僕まだお目にかかれていなくて……」
「その通りです。あの薔薇は、神の眼であり耳。そして、口でもあり、心でもあります」
一体どういう薔薇なのか、と聞こうとして、信者からそう返ってくる。
不幸に苛まれる同志として、おそらく信者は紫遠のことを信じ切っている。
√能力【|閃き《スペック》】による能力の増大の恩恵は、信者たちの心を容易く解きほぐしたようだ。
不穏な言葉の羅列に、微かに眉間に皺を寄せて、紫遠は更に言葉を連ねた。
「幸福を授かった方はいらっしゃるんですか? 不躾で申し訳ないのですが、どのような幸福だったか伺っても…?」
にこり、と信者が微笑む。
そうして、指差したのは椅子に座る一人の女性だ。
「彼女は、借金取りに追われておりました。連帯保証人となって逃げる道のない地獄だったと聞き及んでおります。そこに、神は現れた」
次の言葉に、紫遠は衝撃を受けるだろう。
「神のおかげで、|彼女の夫は死んだ《・・・・・・・・》のです。その保険金によって、借金の坩堝から脱することができました」
「……」
紫遠の表情は、動かない。
いや、あまりにも歪んだ幸福に何も言うことが出来なかったのかもしれない。
しかしだからこそ、|近づいてくる異質《・・・・・・・・》に気付くことができたようだ。
『あなたも、私の与える幸せを受け入れてくれるのね?』
第2章 冒険 『底無しの欲望をあなたに』
●『幸福』の幻を振り払え
時空が歪むように、EDENたちの視界が揺れて歪んだ。
ねじ曲がった空間の先は、礼拝堂の一室。しかし、窓の外に見えるのは虚空の黒。おそらく、次元そのものが切り取られたのだろう。
未知の空間、孤立した礼拝堂という空間の中、EDENたちは目の前に現れた存在を知覚する。
|それ《・・》は、少女だ。
まだ小学生程度の少女は、こちらを認識してにこりと微笑む。
民族風の衣装に身を包み、頭には月桂冠を付けていた。
「いらっしゃい! 私の領域へ! みんな、私の幸せを求めにきてくれたのね!」
そう言って、無邪気に笑う。
ニコニコと愛嬌の良い笑顔を振りまいて、そうして少女は挨拶をした。
「私の名前はフォルトゥナ。幸福の織り手『フォルトゥナ』よ、みんなに幸せをあげるために、私は存在しているの」
だから、と続けた。
「あなたの不幸を、私の幸せで埋めてあげる! 旅立ちましょう、誰もが望み叶わなかった、IFの世界に」
EDENたちの視界がブレる。
先に見えるのは、EDENが望む幸福の幻。
それは、大切な人が死ななかったIFの世界。
それは、自らが傷つかなかったIFの世界。
それは、自分が何も欠落せず、安寧と平和の生活を続けるIFの世界。
幸福という甘い幻が、EDENたちを包み込む。
「私の幸福に身を委ねて。私はね、みんなを幸せにするための存在なんだから!」
幸福と安寧に満ちた幻を、EDENたちは振り払わなくてはならない。
この怪異がもたらす幸福は──幸福を望む者にその人が望んだ幸福の幻影を見せる──「疫病」だ。
周囲を見渡す。
どこかのリビングだろうか。
斯波・紫遠(くゆる・h03007)が視線を動かすと、カチャカチャと音を立てる食器の音が耳に響いた。
(……内容から記憶が亡くなる頃、17歳くらいか)
知らない部屋。知らないのに誰だか分かる、目の前にいる夫婦──否、両親。
──今日は何をするの?
空間に響くような声。
母親が、こちらへと質問を投げかけてくる。
「今日はバイトがあるから遅くなるよ」
不思議と口から出た言葉に困惑するも、母親はそう、と微笑んで夜食でも用意しておこうかしら、と続けた。
父親だろう男が、それなら自分の分も用意してくれ、と母親と向かい合い、笑い合う。
──ああ。
──そうだね、きっとあり得ただろう日常風景だ。
こうやって何気ない日常の会話を交えて、バイト終わりに寄り道したり、母親からの小言を聞いたり。
父親は夜遅くに返ってきて、土産だとくだらないものを渡してきたり。
そう。そんな、他愛のない普通の光景だ。
机の並べられた朝食。湯気を立てるご飯と味噌汁。
その場から、紫遠は立ち上がった。
確かに、幸福かもしれない。
「あと10年早かったら僕も縋りたくなったかもね。けれど──」
もはや、|遅い《・・》のだ。
「生憎こちとら『たられば』や『|自分の存在の意味《生きててもしょうがない》』なんてのは散々やってきたんだよ」
そう、今更すぎる。
この光景はあり得た未来。
リビングの扉のノブに手を当てて、紫遠は振り向かずに告げた。
「それに今の生活、だいぶ気に入ってるんだよ。ぽっと出の神様もどきに指図されるいわれはないね」
──あら、もう行くの?
母親だろう女性が、席を立った紫遠の背に再び質問を投げかけてくる。
「さようなら。普通を見せてくれたことには感謝するよ」
扉を開けば、幻想は紙を千切るように消え去っていく。
微かな浮遊感と同時に、リビングと幻影の両親は姿を消していった。
「「いってらっしゃい」」
両親の声が──幻影のものとは違う確かな声が、脳裏に響いたのだった。
はっ、と意識が引き戻される。
目の前に並ぶのは食卓。横にあるテレビは、朝のニュースを告げているようだ。
──おはよう。
前の席に座った『両親』にそう言えば、にこりと微笑んでおはようと返してくれた。
──今日は学校?
──そういえば、もうすぐ文化祭なんですってね。
──勉強もしっかりしないとダメだぞ。
分かってる、と言いかけて。
(……あ……ダメ、違う……!)
そこで、桜井・日向(|桜の樹の下には《The girl who lived.》・h12236)は気が付いた。
柔らかく、安寧に満ちた日々。
後ろの扉を開ければ、平和な一日が待っている。
けれど、違う。
(……父さんは、母さんは。2人とも大火の日に。私が、炎の中で|見捨て《逃がされ》て──)
──日向、聞いてる?
──体調でも悪いの?
心配そうに訪ねてくる両親に、日向は、しばし沈黙した。
そうして、数秒の後、大丈夫、と元気なく微笑む。
──ダメでしょう?
「分かってる、分かってるよ」
後ろから囁き声がした。
自分をせせら笑う声が。
自分を責める声が。
日向が席を立つ。
「私なんかが、都合よく許されて……幸せに生きていて良いわけないでしょう?」
幻影の両親が揺らぐ。
日常という幸福が歪曲する。
幻想の中でも、√能力【蔓炎】は正しく機能した。
手に宿った燎原の火が、ぽたり、と水滴のように床に落ちた。
途端、瞬間的に延焼した火炎が、幸福の全てを飲み込む。
火炎が、あの日の悲劇と共に揺らぎ、満ちていく。
目の前に絶え間なく繰り返されるフラッシュバック。火焔に飲み込まれる両親は、それでも優しい眼差しを日向へと向けていた。
──大丈夫、日向ならできるわ。
──頑張れ、日向。
はっ、と日向は顔を上げた。
火焔に包まれる光景の中、幻影の両親は日向の頭に手を置いて微笑んだ。
そうしてすれ違うように、日向の後ろへと消えていく。
残響は幻想の中へと木霊し、消えていったのだった。
幸福が刻見・雲雀(最果てに挑む翠瞳・h01237)を包み込む。
幻影に覆われる視界、かつて在った当然の幸せ。
──√能力の発現。
渦巻いたインビジブルから力を搾取して、雲雀はただちに自身の精神を防御する。
【赫熟のマトカトリア】によって自身の理性や思考力を強化した雲雀は、眼前に映し出された光景に微かに目を見開く。
そうして、現れた『彼』を、雲雀は殺した。
呪刀が虚空を断つ。
幻影はまるで紫煙のように燻り、発散する。
「――ねえ。誰が、誰の、許可を得て、"彼”の姿を、勝手に造り出してるんだい?」
背中から声をかけられた。
雲雀を諭すような声音。振り向きざまにさらに一撃。斬り裂いた残影はしかし、何度でも具象する。
何度も。何度でも。何度も。何度何度何度何度何度何度。
その度に剣閃が虚空を絶った。
残影は揺らぎ、人という形を取ろうとしたところで霧散し、収束し。
「俺以外の存在が、簡単に、触れていいものだと、思ってるの?」
記憶という糸を手繰り、幸福は眼前に現れ続ける。
それでも、雲雀は刀を振り続けた。『彼』が幻想という現実に現われんとする瞬間、幾度となく斬り捨てる。
「ふざけるな」
煙のように揺らいだ幻影はとうとう、実像を結ばずに霧散する。
「それは俺のものだ。彼がいたことも、彼の言葉も、彼の記憶も過ごした思い出も、死の瞬間も、血と体温が流れ出ていく光景も、最期に見せた顔も!」
それを、幸福という幻影で創り出すことなど、あってはならないと。
全部、自分のものだ。自分だけのものだ。
誰にも触れさせるつもりはない。
ましてや、怪異などにその空虚を見出されては堪らない。
「俺以外の――ましてや人の不幸を餌にする下衆如きが勝手に触れていいものじゃないんだよ!!」
そうして、雲雀は緋血傷器をナイフに変えて、|気配《・・》がする場所へと擲った。
空間の隙間、そこに亀裂が走る。
まるでガラスが砕けたかのように、幻影の空間は砕け散った。
ぽかん、とした表情をしている少女の姿。怪異はあら、と小さく声を漏らす。
「……フォルトゥナとか言ったね? お前はただじゃ殺さない。死ぬことすら生ぬるい苦痛の奈落に突き落としてやるよ」
幸福の織り手『フォルトゥナ』は、その言葉にぱぁっと表情を明るくする。
「これくらいの幸福じゃ満足できないのね! 嬉しいわ!」
『幸福』という歪の思考を持つ怪異は、優しく微笑んでいた。
第3章 ボス戦 『幸福の織り手『フォルトゥナ』』
●幸福は語る
幻想は跳ね除けられて──それでも、異空間の礼拝堂はその形を変えていないようだ。
その中で、不思議そうにこちらを見つめる少女がいた。
少女、否、怪異である幸福の織り手『フォルトゥナ』はその後にこり、と微笑む。
「そっか! こんなに小さな幸福だと満足できないのね!」
そう言って、怪異は自らの権能を解放する。
この怪異は、善性の塊。
あらゆる者を幸福にする、それが怪異が怪異たる所以だろう。
要するに、この怪異は──|心の底から他者を幸せにしたい《・・・・・・・・・・・・・・》と思っているのだ。
ただし、怪異と人間の認識は大きくズレている。
幸福という概念そのものを押し付ける、幸福という病を蔓延させる堕落の怪異である。
「大丈夫、私には見えているの。あなたが欲しいもの、見たいもの、触れたいもの。私が全部叶えてあげるからね!」
それは無垢の悪意。
堕落の病を蔓延させる怪異を駆逐し、この空間から脱出するために。
EDENたちは武器を手に取るのだった。
幸福をもたらす怪異は、EDENたちに純真な笑顔を向けてくる。
それは何の悪意もない真なる善意。
──怪異にとっては、だが。
「成程、一番たちが悪いタイプなのか。そりゃあ信者がああ言う感じなわけだ」
幸福を与える、と言われて拒む者は少ないだろう。
ましてや、ただ純粋な善意を向けてくるのだから。
だが、この怪異が蔓延させるのは幸福に溺れる病そのものだ。
ここで撃退しなければ、幸福の残滓はこの地帯のみではなく、周辺に広まっていくだろう。
「僕は宗教心の拠り所なのは別にいいと思っているよ。ただ……」
√能力は発現する。
【狗神】の宿怨が、斯波・紫遠(くゆる・h03007)の周囲に立ち昇った。
ゆらりと揺れる陽炎のごとき炎熱は、フォルトゥナから放たれる茨を寄せ付けず、むしろ圧倒的な熱量によって焼き切っていく。
「その茨は全部切って燃やして信者の前に姿を見せられなくしてやる」
「私の幸福を拒むの? そんな……こんなにあなたの幸福を願ってるのに!」
敵対心を奪い幸福に溺れさせる茨の力はしかし、紫遠には効かなかった。
眼鏡の奥、酷く冷めた金色の視線が怪異を射抜く。
「生憎これは敵対心では無いね。特別キミに興味はないから業務に近いよ」
√能力【【狗神】憑型】によって加速した体。
懐に差した無銘【香煙】の柄を握って、フォルトゥナの懐に入り込む。
襲いかかってくる茨が、宿怨の火焔によって跳ね除けられた──!
「強いてなにか感じると言えば……嫌悪かな? 僕にキミの救いは必要ないみたいだ」
抜刀。
剣閃は宿怨の炎の残滓を引いて、フォルトゥナの存在を断ち切る。
ぐらり、と揺らいだ怪異の体、それでもフォルトゥナは優しい微笑みを向けていた。
「わたシ……の幸せ……ヲ……」
「……信者の人たちが現実をみられることを祈るよ」
斬られた胴体が霞のように揺蕩い、しかし怪異としての存在は再び実像を結ぶ。
それでも、幸福の怪異の存在強度は間違いなく削られたようだ。
『幸福』は蔓延する。
幸福を司る怪異、存在するだけで幸せを紡ぐ、恐ろしい病。
桜井・日向(|桜の樹の下には《The girl who lived.》・h12236)が再び幻視するだろう。
存在するはずだった幸福の日々。当たり前の平和を享受する自分と、両親の姿を。
「もう一度、幸福になりましょう?」
怪異はもう一度そう誘ってくる。
ざわつく心に、日向は胸に手を置いた。
幸福は誘惑する。幾度でも、何度でも。
──こんな|こわいもの《炎》を、無理やり振るわなくてもいいのかも。
全ての『幸福』が崩壊したこの現実を放棄し、思考を融かす幸福に身を委ねても良いのではないか。
躊躇いと後悔、過去の幻視の中、それでも日向は確固たる意思を持って前を向いた。
「——けれど。けれど。今の私が、一番こわいのは。幸せに逃げて、家族に顔向けできなくなる事」
炎が全てを奪った。
自分は幸福になってはいけない。そう思っている。おそらく今でも思い続けるのかもしれない。
しかし、幻想の中で聞いたのだ。あの言葉を。
「あの言葉は、怪異が聴かせた幻聴だったのかもしれない。私が勝手に考えた、甘い幻想だったのかも知れない。それでも──」
右掌を自分の胸に置いた。
全身を覆うのは炎。けれど、その炎は全てを奪う炎ではなく、幸福という毒を滅する、覚悟の焔だ。
√能力【|焼盡《デッドエンド》】。その力は日向の身を灼かずに、怪異によってもたらされた|幸福《害悪》のみを焼却せしめた。
「それでも……それでも。ふたりは、言ってくれたから。私なら、やれるって。だから……!」
「そんな……私の……私の幸福を燃やし尽くすなんて……!」
超常の炎は異次元に呑まれた礼拝堂の内部へと拡散する。
あらゆる超常を否定し焼き滅ぼす火焔が、怪異の存在そのものさえも侵し、燃やし尽くしていく。
怪異の悲鳴が響き渡る。
火焔は礼拝堂を包む込み、あの日の現実を再び投影するが──それでも、日向は怪異を真正面から見つめ続けていたのだった。
幸福は織り成される。
幾度EDENの猛攻にさらされようと、幸福の化身は傷つきながらもそこに立ち続ける。
「すべての人を幸福にしなきゃ。ふふ、誰もが幸せを望んでいるんだもの!」
フォルトゥナが幸福を紡ぐ者へと変異する。
人々の心を覗き見る鍵を備えた幸福。目の前に現れたEDEN──刻見・雲雀(最果てに挑む翠瞳・h01237)へと視線が注がれた。
しかし、その行動すらも雲雀は許さなかった。
「――呪血」
『緋血傷銃』、指先から迸った血の弾丸。
√能力【呪血・紅霧】によって先制攻撃を行った雲雀は、霧散した血液を纏って礼拝堂の中へと紛れ込む。
周囲には、フォルトゥナの√能力によって生み出された薔薇の茨が蔓り始めた。
投擲された血の弾丸が、怪異の茨によって弾かれる。
そうして、フォルトゥナは自身の後ろへと視線を向けた。
隠密から姿を現した雲雀が、刀で斬り込んできていたからだ。
薔薇の茨が斬り裂かれて、フォルトゥナの肩に傷が走る。
周囲に拡散し始めた茨が距離を取って、雲雀は再び怪異の姿を垣間見る。
「あなたも幸福になりたいのね?」
「……幸運を司る以上簡単にこちらの手が通るとは思っていないよ」
フォルトゥナの視線は敵意ではなく、施すための慈愛に満ちている。
この怪異は正真正銘──善意の塊なのだ。
しかし、フォルトゥナは|それ《・・》を予期していない。
「――だからこそ仕込んでおいたのさ」
「……!!」
すでに雲雀の√能力は発現していた。
自身の体の不調に、怪異はとうとう気付いただろう。
「これは……」
「呪力を含んだ血は幸運の源たる精気を淀ませ穢れに変える……。呪術とは意図的に不運の因果を呼び寄せる禁術だ」
雲雀は不運を以て、この怪異を断罪せしめる。
√能力【呪血・霧散針筵】による体内腐食にさらされて、フォルトゥナはうずくまるように膝をついた。
「こんな歪んだ形で成就される幸運なんていらないんだよ。俺は言ったことは必ず実行するタイプでね……宣言通り死すら生温い苦痛を味わってもらうよ?」
呪刀が幾度となく振るわれた。
フォルトゥナの体を切り裂き、傷を抉り。
怪異の四肢が弾け飛ぶまで、何度でも、何度でも。
「苦しい? そうだろうね。身体が腐る間隔はさぞ苦痛なことだろう」
「……」
「けれど――お前が弄んだ人たちの心の痛みは、こんなもんじゃない!!」
怪異の血が迸り、やがて怪異の存在そのものは消え失せていくだろう。
口から鮮血を噴き出して、フォルトゥナは──にこり、と笑った。
「残念ね……もっと……幸せをあげたかったけど……」
怪異は消え失せる。幸せの病はそうして収束する。
「──もう一度会えたら、|その願い《・・・・》、叶えてあげるからね」
煙のように消え失せていく怪異の言葉が、雲雀の耳に響いていたのだった。