味ぽんのマツコ、クイックルワイパーのセバス、黒猫の悪戯
その黒い猫は、悪戯好きで気まぐれ。
人の大切なものを隠し、その反応を眺めるのが好きで。
困惑する顔も、必死に探し回る姿も、見つけた瞬間の安堵も、すべてが面白くて仕方がない。
だから今回も、ほんの悪戯心だった。
ブック型の缶が美しく並ぶ紅茶専門店。
まるで図書館を思わせる店内には、色とりどりの装丁を纏った本が天井まで隙間なく並び、どれも実は紅茶の茶葉を収めた缶という、少し不思議で優雅な空間。
だが、今やその光景は見る影もなく。
棚という棚は空になり、床には無数のブック型の缶が散乱していた。 赤、青、緑、革張り風、金箔入り、古びた魔導書のようなものまで、ありとあらゆる装丁が積み重なり、小さな本の山をいくつも作り、足の踏み場がない。
元通りに戻すだけでも骨が折れる。
それだけではない。
黒い猫はもう一つ悪戯を加えていた。
ブック型の缶という形は、中身を入れ替えてしまえば外からでは分かりにくい。
つまり。
誰かの大切なものを、その中へ紛れ込ませるには実に都合が良いだろう。
例えその隠されたものが【味ぽん】の瓶であろうとも。
ーーーー。
なんとも言えない間が空いた。
【味ぽん】という項目に知っている者は、気づいてくれただろう。
「知ってる人はおめでとう、また彼女だ。知らない人は初めまして、新鮮な気持ちでここに来てくれてありがとう」
芹沢・ことり(黎明・h10646)は視えてしまったことに呆れたように笑う。
「ただ、今回は少し訳が違うみたいでね」
無惨に荒らされた店内は足の踏み場もなくブック型の缶がばらまかれ、本来なら色別に本棚へと分けられていたブック型の缶は、今や色合いもバラバラだ。
「キミには迷惑を掛けるけどね。缶の中身を確認するか、ちょっと振ってみて瓶の音がするとか確認しつつ、本棚に合わせた色のブック型の缶を集めてほしいんだ」
だって、このままじゃこのお店、営業できないし。と視線をずらすことりは苦笑いのまま。
「運がいいのか悪いのか、この本棚、赤い本棚に赤い本を入れると、元にあった位置に勝手に移動してる仕様でね。まぁつまり【本棚の色合いと同じ背表紙の色を合わせて入れればいい】」
簡単に言ってのけたことりだが、床に散らばる缶の数は尋常ではない。
それにプラスして。
「ちなみに、赤い本棚に青い本とか適当に違う色を入れちゃうと、【本棚から全部吐き出されて最初からやり直し】になるから気をつけてね」
簡単に(以下略)ことりを、あなたは理不尽だと呪ってもいいだろう。
何故なら。
「それとキミには大っ変申し訳ないけど、黒い猫の悪戯は、まだ始まったばかりでねぇ」
なんとも、嫌な言葉を残したのだから。
第1章 日常 『ブック型の缶が売りの紅茶専門店』
「味ぽんがありませんのッ!!」
あなたが店内へ足を踏み入れた瞬間、店の奥から、悲鳴にも似たそんな声が響き渡る。
本の山に埋もれるように一人の淑女が床へ膝をついていた。
【味ぽんのマツコ】。
高貴な雰囲気を漂わせるはずの彼女は、髪も服も少し乱れ、散らばったブック型の缶を夢中でひっくり返している。
「ありませんの……ありませんのぉ……!」
缶を開けては閉じ、積み上げては崩し、また違う山へ飛びつく。
その様子には、もはや優雅さの欠片もない。
「どこへいきましたの……わたくしの味ぽん……」
震える声。
目元には涙が滲み、鼻をすすりながら周囲を見回す姿は、取り乱した令嬢というより、大切なおもちゃを失くしてしまった幼い子供そのもの。
「いやですわぁ……」
ぽろり、と涙が床へ落ちる。
「味ぽんがないと、ごはんがおいしくありませんの……」
ついにはしゃくり上げ始め、ぐすぐすと泣きながら両手で顔を覆う。
「わたくし、ちゃんと探しましたの……いっぱい探しましたの……でも、ありませんのぉ……」
その声には演技も見栄もなく、ただ純粋な悲しみだけが滲んでいた。
そして、あなたの存在に気付く。
涙で潤んだ瞳が、まるで最後の希望を見つけたかのようにこちらを向く。
「お願いですわぁ……」
泣きじゃくる声で、必死に手を伸ばし。
「わたくしの味ぽんを、一緒に探してくださいまし……」
店内一面に散らばる、膨大な数のブック型の缶。
このままでは、この店は営業ができない。
それに、あなたは聞こえてしまった。
あなたの背後にある、たった今通ってきた店の扉にガチャリッとロックがかかる音を。
押しても引いても扉はびくともせず。
あなたは、散らばった本を元の棚へ整理しながら、紛れ込んだ一本の味ぽんを見つけ出さなければならない。
店内に足を踏み入れたエアリィ・ウィンディア(精霊の娘・h00277)は、広がる惨状を見て思わず立ち止まった。
本を模した紅茶缶が床一面に散乱し、棚は空っぽ。
その中心で、一人の淑女が涙を流しながら缶を抱えては放り、また別の山へ飛びついている。
「味ぽんがありませんのぉ……!」
それは聞き覚えのある声であった。
「……えと?」
エアリィはきょむん、と小さく首を傾げる。
以前会った時は、味ぽんを誇らしげに掲げ、お嬢様らしく高笑いしていたはずのマツコ。
それが今は髪も乱れ、目を真っ赤に腫らし、小さい子のように泣きながら本の山を崩し続けている。
あまりの変わりように、頭の中が一瞬真っ白になった。
「味ぽんの人……まさかの再登場?」
思わず漏れた声に、マツコが涙で濡れた瞳を向ける。
「エアリィさん……お願いですわぁ……! わたくしの味ぽんを、一緒に探してくださいましぃ……!」
もはや、びゃああん、とでも激しく泣きそうな様子に、エアリィは困ったように笑う。
「でも、困ってるみたいだし、悪い人じゃないし……助けてあげたいな」
店内を見回すと。
積み上がったブック型の缶。
色も装丁も様々で、どれがどれだかわからない。
「んー……でも、この沢山の中からどうするかなぁ……」
一瞬だけ考え込み。
「……よし、まず整理っ!」
ぽん、と両手を叩いた。
「同じ色の本をまずはまとめるっ!」
エアリィは床へ散らばる缶を拾い集め始める。
赤い装丁は赤へ。青は青。緑は緑。
乱雑だった店内が少しずつ秩序を取り戻していき、整理を進めながら、小さく目を閉じた。
「精霊達よ、あたしに力を……。ね、おしえて? ここで何があったかを。」
静かな祈り。
エアリィの視界のあちこちに漂っていた淡い輝きが、小さな精霊たちへと姿を変える。
風の精霊がくるりと舞い。
土の精霊が棚の隙間を指差し。
光の精霊が本棚の一角を照らした。
「ね、教えて。」
エアリィは優しく微笑む。
「味ぽんがどの色の本に入ったかを」
知性を得た精霊たちは、三日以内に見た出来事を思い返すように、小さな手で一冊の色を示した。
「……この色なんだね!」
希望が見えた。
「じゃあ、あとは時間をかけてでも調べるだけ!」
その色の本だけを一冊ずつ手に取り、確かめていく。
振ったりころがしたり。
「……振って音があるの?」
小さく首を傾げ。
「ちゃぽんちゃぽんって音、するのかな?」
耳を近づけて振ってみるが、カサリとした音で中身は茶葉。
ハズレが紛れないように、違う場所に置きながら一冊ずつ、丁寧に。
その間もマツコは不安そうに見守っていた。
「いやですわぁ……もし見つからなかったら……」
「大丈夫だよ」
エアリィはにこっと笑った。
「まだ探し始めたばっかりだもん」
それでもマツコの表情は曇ったままだ。
「ねね。」
エアリィは缶を抱えたまま問いかける。
「味ぽん愛で何かヒント得られないかな? あなたの味ぽんの特徴とかある?」
その問いに、マツコの瞳が少しだけ輝きを取り戻しながら。
「もちろんありますわ! わたくしの味ぽんは、世界で一番素晴らしい味ぽんですの! 手に取れば運命がわかりますし、見れば胸が高鳴りますし、触れれば心が落ち着きますわ! あと、瓶の重みも愛おしいですの!」
あまり具体的ではない説明に、エアリィはきょむんと困った顔になり、苦笑しながら。
「でも、そのくらい大好きなんだね」
「もちろんですわぁ……!」
少しだけ元気を取り戻したマツコを見て、エアリィも自然と気合いが入る。
「よーし!」
両手で本を抱え直し。
「絶対見つけよう!」
精霊たちの導きと、地道な整理、そして一本一本を確かめる根気。
散らばった本はやがて元の棚へ戻されていき、その中に紛れたたった一本の味ぽんも、きっと見つかるはずだと信じながら、エアリィは笑顔で捜索を続けた。
店内は、まるで小さな図書館が嵐に巻き込まれたかのような有様。
本棚から引き抜かれたブック型の缶が床一面へ散乱し、開け放たれた蓋からは芳醇な紅茶の香りが幾重にも重なって漂っている。
その中心で、【味ぽんのマツコ】は膝をついたまま肩を震わせていた。
「ありませんの……ありませんのぉ……!」
涙で頬を濡らしながら缶を開け、違うと分かれば放り出し、また別の山へ飛びつく。
「どこへいきましたの……わたくしの味ぽん……」
淑女たる気品は見る影もない。
まるで大切な宝物を失ってしまった幼子。
「いやですわぁ……味ぽんがないと、ごはんがおいしくありませんのぉ……」
しゃくり上げる声だけが、静かな店内へ響いていた。
そんな光景を見つめながら、一人の女性がゆっくりと歩み寄る。
銀髪に乳白色の瞳を持つ若きドラゴンプロトコル。
スアン・ラバラティーソ(頂に響く祈りの暴風・h13024)。
『バア』と名乗る、不思議な世話焼き。
泣き崩れるマツコの前へしゃがみ込み、その肩へそっと手を添える。
「まあ、大変! ご飯は美味しく食べるのが一番なのよ! ええ、バアも一緒に探すから、どうか涙を拭ってちょうだい」
穏やかな声は、冬の日差しのように優しく、マツコはぐすりと鼻をすすりながら顔を上げる。
「ほ、本当ですの……?」
「もちろんよ」
安心させるように頷いてから、スアンは散らばるブック型の缶を見渡した。
「……味ぽんの入れ物が、紅茶を仕舞う缶に入る大きさなのか、ちょっと気になるところだけれど」
その一言に。
ぴたり、とマツコの涙が止まる。
潤んだ瞳が、ぱあっと輝いた。
「……そうですわ!」
勢いよく立ち上がり、両手を胸の前で握りしめる。
「味ぽんの可能性は無限大なのですわぁ!」
さっきまで泣いていたとは思えないほど目を輝かせ、希望に満ちた笑みまで浮かべる。
「瓶だからといって固定観念に囚われてはいけませんの! 世界には、想像もつかない収納方法がありますもの! もしかしたら奇跡的に、ぴったり収まっていますかもしれませんわぁ!」
ほんの一瞬だけ。
その瞳には希望が宿った。
しかし。
店内を見回した途端、その希望はあまりにも広すぎる現実へ押し潰される。
積み上がる缶に散らばる缶。
まだ一つも調べ終わっていない膨大な山。
「……あ」
笑顔が固まり。
ぷるぷると唇が震え始め。
「これ……全部、探しますの……?」
目尻が赤くなり。
「ひっ……うぅ……」
また涙が盛り上がってくる。
「やっぱり無理ですわぁぁ……!」
その場へへたり込み、子供のように声を上げて泣き始めた。
「味ぽんがぁ……味ぽんがぁぁ……!」
感情のジェットコースターを垣間見たスアンは微笑みながら、優しく首を横へ振る。
「大丈夫よ。万が一味ぽんが缶の中に入っていたら、振りすぎちゃうと缶の方にダメージが入ってしまうかもしれないから、一つ一つ、ブック型の缶を開けて、中身が無事であれば、本棚と缶の背表紙の色を合わせて片付けていきましょう」
慌てる必要はない。
そう語りかける声には、不思議と人を安心させる力があった。
「それにしても、いい香りねぇ。缶を開けるだけでも楽しいわぁ!」
スアンは最初の一冊。
いや、一缶を手に取り、丁寧に蓋を開く。
ふわり、と甘く華やかな紅茶の香りが漂った。
中身は無事。
背表紙の色を確認し、本棚へ静かに戻していく。
「……あら。片付けはちゃんとしてるわよ、探し物もちゃんとしてるわよ。ね!」
その穏やかな言葉を聞きながら、マツコも袖で涙を拭った。
「……ぐすっ」
まだ鼻は赤く、目元も潤んだままだったが。
「わ、わたくしも頑張りますわ……」
そう呟いて、一冊のブック型の缶へ震える手を伸ばす。
閉ざされた扉は開かない。
店内には数え切れないほどの本型の缶が散らばっている。
ならばやるべきことは一つ。
散らばった本を元の棚へ戻しながら、どこかへ紛れ込んだたった一本の味ぽんを見つけ出すことだった。
店内へ足を踏み入れた黄・夜巡(夕立巡り・h13090)は、泣き崩れる淑女の姿を見るなり、目を丸くした。
「……ああっ、マツコさん……お久しぶり……!」
散乱したブック型の缶。
乱れた髪。
涙でぐしゃぐしゃになった顔。
以前会った時の、どこか尊大で優雅な淑女の面影はあるものの、その振る舞いはあまりにも必死。
マツコは顔を上げる。
「夜巡さん……! 来てくださったのですねぇ……!」
その声だけで、また涙が溢れそうになっている。
夜巡は周囲を見渡し、散らばった缶の山を見て頭をかいた。
「というか予備の味ぽんはないのか? 一瓶でもなくなったら危機なのか?」
その問いに、マツコはぶんぶんと首を横へ振る。
「ありませんの! あれは、わたくし専用の一本ですもの! あの味ぽんでなければ駄目ですのぉ!」
「なるほどな……」
夜巡は神妙に頷いた。
「まあ、味ぽんがなくなったらパフェにかけて食えなくなっちまうもんな。」
「そうですわぁ!」
涙目のまま力強く肯定され、夜巡は一瞬だけ真顔になる。
確かに美味かったが、その食文化だけは最後まで理解できそうにない。
しかし、本人にとっては世界が終わるほど重大な問題なのだ。
夜巡は拳を握り、にっと笑った。
「ここはオレらに任せとけ!」
勢いよく親指を立て。
「オ~ッホッホ!」
どこか聞き覚えのある高笑いまで真似してみせる。
マツコは涙を拭きながら、少しだけ表情を和らげた。
「ありがとうございますわぁ……!」
夜巡は両手を打ち鳴らした。
「出番だぜ、ネズミどもっ!」
その瞬間、小さな雷光が店内を走る。
ぱちぱち、と青白い火花を散らしながら、九匹の雷素トビネズミが宙へ飛び出した。
手のひらほどの小さな体をぴょんぴょんと跳ねさせ、すぐさま夜巡の周囲へ集結する。
夜巡は店いっぱいに散らばる缶を指差した。
「トビネズミども、振ってみて変な感触の缶があったらまずオレのとこへ持って来いよ! オレが確認してやるからな!」
九匹は一斉に散開した。
本棚の隙間。
机の下。
積み上がった缶の山。
透明化しながら器用に潜り込み、一冊ずつ、いや一缶ずつ持ち上げては軽く振っていく。
夜巡も負けじと作業を始めた。
一冊手に取る。
軽く振る。
茶葉のさらさらという音か、それとも瓶が転がる鈍い感触か。
違えば元の色の本棚へ戻す。
また一冊。
また一冊。
単純だが、膨大な作業。
店内には缶を振る小さな音だけが響く。
やがて夜巡は、ふと考えた。
ここは紅茶専門店。
見つかったら、きっとお礼があるだろう。
限定茶葉。
高級紅茶。
焼き菓子。
そんな想像をしながら、脳裏に一つの嫌な予感がよぎる。
マツコさんかあ。
ここは紅茶専門店。
味ぽんを見つけた暁には、ひょっとして。
「味ぽん入りの紅茶が振る舞わ……れ……」
想像した瞬間、夜巡の手がぴたりと止まった。
いや。
この人なら、やる。
絶対にやる。
しかも満面の笑みで「絶品ですわ!」と言いながら勧めてくる未来が、ありありと目に浮かんでしまった。
夜巡は遠い目をしながら、小さく息を吐く。
「……いや、まずは味ぽんを見つけるのが先だな」
そう呟くと、再び一冊のブック型の缶を手に取り、静かに振ってみせた。
味ぽんが見つかってほしいのと見つかってほしくないという葛藤が、延々に脳裏をよぎりながら。
「味ぽんがありませんのッ!!」
店内へ足を踏み入れた羽柴・カレナ(ふくすけといっしょ!・h13109)を迎えたのは、高飛車な笑い声ではなく、世界の終わりを告げるような悲鳴。
本棚の合間という合間に、ブック型の缶が雪崩を起こし、その中心で膝をつき、涙をぽろぽろと零しているのは【味ぽんのマツコ】。
缶を開け、閉じ、積み上げ、崩し、また別の山へ飛び込む。
気品あるはずの所作は見る影もなく、必死そのもの。
カレナは思わず目を丸くした。
「マツコさんお久しぶり!……なんだけど、味ぽんがなくなっちゃった?……な、なんだってー!」
その言葉に、マツコは涙で潤んだ瞳を向ける。
「カレナさん……! お願いですわぁ……わたくしの味ぽんを、一緒に探してくださいまし……!」
背後では、ガチャリ、と重々しい音が響き、入口の扉は押しても引いても微動だにしない。
どうやら、この店を出るには味ぽんを見つけ出すしかないらしい。
カレナは小さく拳を握った。
「マツコさんのため、うっかり紅茶(味ぽん)を買ったお客さんが味ぽんティーを作らないためにも、味ぽん探し、がんばろう!」
まずは冷静に考える。
「味ぽんと紅茶の魅力を思い出してみようかな」
ひとつ、缶を手に取りながら指を折る。
「味ぽんは酸味や柑橘系の香りが食欲をそそるよね」
続いて別の缶を開ける。
「紅茶は甘い香りや落ちついた香りが気分をリラックスさせる」
ふんわりと立ち上る茶葉の香りに微笑みながら、カレナは大きく頷いた。
「……これで両者の見分け方はばっちりだね!」
ぱちん、と指を鳴らす。
「おいで、ふくすけ!」
淡い光と共に現れたのは、デフォルメ調のニホントカゲによく似た小さな護霊。
青いしっぽを嬉しそうに揺らしながら、カレナの肩へ飛び乗る。
「いっけぇー! ふくすけ!」
ふくすけは元気よく飛び降り、一冊ずつ本型の缶へ突撃していく。
カレナも負けじと缶を開ける。
甘い香り。
花のような香り。
渋みを感じる香り。
柑橘の香りに確認すればアールグレイの茶葉。
中身を確認した缶は、棚を見ながら元の場所へ丁寧に戻していく。
「色を間違えないように本棚へ戻そうね」
ふくすけも器用に缶を運び、小さなしっぽをぶんぶん振りながら整理を手伝っていく。
店内は少しずつ元の姿を取り戻していった。
何十冊。
何百冊。
気の遠くなるような数の缶を開け続けても、味ぽんは見つからない。
それでもカレナは諦めなかった。
「沢山あるから【気合い】を入れて探すよ!」
その時。
棚の最下段。
一冊だけ、わずかに蓋の閉まり方が甘いブック缶がある。
まるで中身が大きくて、蓋が閉まりにくい時のような。
カレナがそっと開くと。
ふわり。
他とは違う、鼻をつき食欲を刺激する、あの独特の香り。
カレナの表情がぱっと明るくなる。
「食欲をそそる香りがしたら……君が味ぽんだ! 味ぽんは好きな人の元で輝くんだよ!」
カレナが缶の中から掲げるように取り出したのは【味ぽん】と銘が打たれた一本の瓶。
「ありましたわぁぁぁぁ!!」
マツコは涙を飛ばしながら駆け寄り、カレナの掲げた手ごと、瓶を抱き締める。
「帰ってきましたの! わたくしの味ぽんですわぁ!」
カレナもふくすけを抱き上げ、顔いっぱいの笑顔を浮かべた。
「やったね、マツコさん!」
二人はしばらく喜び合う。
だが、次の瞬間。
マツコの笑顔が固まった。
「……あら?」
ふと瓶が軽いことに気づき、恐る恐る蓋を開けると。
中は、空。
味ぽんの香りだけは、はっきりと残っている。
長く味ぽんが入っていた瓶には、液体がなくなってもガラスや蓋の内側に香り成分がわずかに残ることがある。
いわゆる残留臭と呼ばれるもの。
だからこそ、缶を開けた時や今だって味ぽんの香りがしている。
しかし。
「…………」
数秒の静寂。
そして。
「からっぽですのォォォォォーーーーッ!!」
店中を揺らす絶叫が響き渡った。
その悲鳴に応えるように、店の奥からゴゴゴ……と重い音が鳴り響き、本棚が左右へゆっくりと動き、その奥から石造りの通路が姿を現した。
薄暗い階段は、さらに下の階層へと続いている。
どうやら、本物の味ぽんはまだ先にあるらしい。
カレナはふくすけと顔を見合わせ、小さく頷き、マツコは空瓶を胸に抱き締めたまま、涙目でその扉を見つめる。
新たに開かれた道へ、足を踏み出すしかなかった。
第2章 冒険 『足つぼダンジョン』
味ぽんの瓶は見つかった。
――だが、中身は空。
あなたの手の中にある硝子瓶は、間違いなく探し求めていた一本。
しかし肝心の液体は一滴たりとも残っておらず、底に琥珀色の名残すら見当たらない。
その現実を目の当たりにした【味ぽんのマツコ】は、その場へ崩れ落ちた。
「ありませんのぉ……中身がありませんのぉぉぉぉ……!」
抱きしめた空瓶を頬へ押し当て、子供のようにわんわんと泣きじゃくる。
あなたは泣き崩れるマツコを支え、空瓶を持ちながら、唯一開いたままになっていた奥へ足を踏み入れると背後で重々しい音を立てて閉まり、世界は一変した。
石造りの通路。
左右の壁には無数の足裏模型。
足の裏を刺激する効能を解説する木札がこれでもかと吊るされ、延々と続いている。
そして通路の境界線を越えた先。
あなたの履いていた靴は、ふっと姿を消した。
マツコの靴も同様に消滅。
もし翼や浮遊能力で進もうと考える者がいたとしても、それを空間そのものが許さぬように重く沈み込み、宙に浮いた存在は強引に地面へ引きずり下ろされる。
逃げ道は存在しない。
ここは『足つぼダンジョン』。
入った探索者を強制的に裸足にさせ、飛ぶ者は地へ落とし、健康という名目で足裏を徹底的に虐待する迷宮。
行きも地獄。
帰りも地獄。
ただし健康だけは保証される。
そんな理不尽極まりない場所。
その迷宮の中央では、一人の男が黙々と床を掃除していた。
黒い燕尾服。
白手袋。
背筋は真っ直ぐ。
髪は一切乱れず、まるで名家に仕える完璧な執事。
しかし唯一、素足だけが異様。
凶悪な足つぼを何事もないように踏み締めながら、長柄のクイックルワイパーを器用に滑らせている。
それが、この迷宮の番人。
【クイックルワイパーのセバス】。
だが、その視線の先には問題がある。
せっかく磨き上げた石畳が、茶色い液体でべっとりと汚れていたのだ。
「……ったく、またかよ。掃除したそばから汚しやがって。本当に性格の悪ぃダンジョンだな」
ぶつぶつと悪態をつきながら、セバスは慣れた手つきで液体を拭き取っていく。
床は見る見るうちに元の輝きを取り戻していく。
その瞬間。
ぴちゃん。
天井から一滴。
続いて、ぽた、ぽた、ぽた、と。
さらに勢いを増し、大量の茶色い液体が降り注ぐ。
掃除したばかりの床は一瞬で元通り。
いや、それ以上に派手に汚されてしまった。
「きゃああああああああああああああああああっ!? 味ぽんですのぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
マツコが地面に膝をついて絶叫する。
「味ぽんがぁぁぁぁぁ!! 床にぃぃぃぃ!! もったいないじゃありませんのぉぉぉぉ!!」
涙を撒き散らして転げ回るマツコの姿を一瞥したセバスは、大きくため息をついた。
「……うるせぇな、泣いてる暇があるなら拭け、この味ぽん狂い」
「味ぽんですのぉぉぉぉぉ!」
「知ってんだよ」
即答。
もはやマツコに反応することすら億劫らしい。
セバスは頭を押さえ、小さく首を振ると、あなたの方へ向き直る。
目があった瞬間、不良じみた空気は霧散。
姿勢を正し、一礼する。
「ようこそ、お客様。お見苦しいところをお見せいたしました」
声色は穏やかな執事そのもの。
「こちらの迷宮は、一定時間以内に床を清掃し続けなければ先へ進む道が開かれない仕組みとなっております。しかし、ご覧の通り天井から定期的に味ぽんが降り注ぎ、再び汚されます」
まるで長年ホテルへ勤めていたかのような淀みもない流れる説明。
「幸い、液体が降ってくるまでには少々猶予がございます。その短い時間でどこまで綺麗な床を広げられるかが突破の鍵となりましょう」
そして、あなたの持つ空瓶へ静かに目を向ける。
「もし可能でしたら、その瓶へ落ちてくる液体を回収していただけませんでしょうか」
視線だけが、少しだけ疲れている。
「……あの馬鹿を黙らせるためにも」
「聞こえましてよぉぉぉぉ!!」
「聞こえるように言ったんだよ……コホン、失礼。お客様の前でした」
ぴしゃりと返したあと、セバスは何事もなかったかのように人数分のクイックルワイパーを差し出した。
「どうぞ、お一人様一本ずつご利用くださいませ。それと先端のシート部分ですが、今回は交換不要で使い続けられる仕様となっております」
交換の手間が要らなくなったクイックルワイパー。
それを手にあなたはダンジョンを見回す。
一面の茶色い液体に、足つぼの石がぽつぽつと浮かんで見える床。
天井から再び、小さな一滴が床へ落ちる。
静寂の中、その音だけがやけにはっきりと響いた。
次の"味ぽんの雨"が始まるまで、残された時間はそう長くはなかった。
セバスから差し出されたクイックルワイパーを受け取り、白百合・蓮華(徒花の実・h12988)は柄の長さを確かめるように軽く持ち上げた。
軽量ながら重心は絶妙で、研究器具を扱う時のような馴染みやすさがある。
「シート交換不要なの? 夢のようだね。研究所にも一本ほしいくらいだ」
感心したように微笑む蓮華へ、セバスは僅かに口角を上げる。
「お目が高い、お客様。掃除をする者なら誰もが一度は夢見る逸品でございます」
その横では、マツコが涙を流しながら床を見つめていた。
「味ぽんが広がっておりますのぉ……! 早く助けませんとぉ……!」
ぎこちなくワイパーを握りしめる姿は、まるで初めて箒を持った子どものようで。
「泣く前に腕を動かせ、味ぽん狂い」
「動かしておりますのぉぉぉ!」
叫びながら一拭き。
しかし力加減を間違え、せっかく集めた味ぽんを再び広範囲へ塗り広げてしまった。
「増えておりますわぁぁぁ!」
「器用に仕事増やしてんじゃねぇよ……」
深いため息をつきながらも、セバスは無駄のない動きで床を滑るように掃除していく。
右へ。
左へ。
流れるような足運びは、凶悪な足つぼなど存在しないかのようだった。
一方、蓮華は恐る恐る最初の一歩を踏み出す。
「さて、足つぼは初体験だけど、痛みには強い方だよ。サクッと移動して掃除を――」
次の瞬間。
「イ゛ッ」
表情が固まる。
「え、なにこれ」
二歩目。
「ア゜ッ」
三歩目。
「大丈夫? これ本当に健康になる痛み? 確かに仕事柄運動不足気味だけど――モ゛ッ」
普段は崩れない穏やかな笑みが、濁音混じりの悲鳴へと変わっていく。
それでも歩みは止めない。
痛みに肩を震わせながらワイパーを滑らせ、少しずつ床を磨き上げていく。
その様子を見たセバスは感心したように頷いた。
「素晴らしい。痛みに乱されず状況を分析し、作業効率まで維持しておられる。実にお見事です、お客様」
「ありがとう……だけど褒められてもイ゛ッ……これは結構くるね……」
「初挑戦でそこまで動ける方は滅多におりません」
対照的に、マツコはというと。
「味ぽんを踏んでしまいましたのぉぉぉ!」
「前見て歩け!」
「痛いですのぉぉぉ!」
「足つぼだからな!」
「味ぽんがぁぁ!」
「だから掃除しろ!」
愛する味ぽんを踏みつけるという愚行に半泣きになり、マツコの掃除の手はますます遅くなるのを、セバスが叱りつけながら完璧にフォローしていく。
まるで熟練の執事が、手のかかる主人の失敗を毎日片付けているかのように。
蓮華は苦笑しつつも、味ぽんの雨が落ちる位置を静かに観察する。
天井から落ちる一滴。
その間隔。
着地点。
研究者らしい冷静さで法則を見抜くと、空瓶を静かにその真下へ置いた。
ぽた。
ぽた、ぽた。
琥珀色の液体が瓶へ少しずつ溜まっていく。
「……あ゛、一回じゃ満タンにならないんだね」
降雨が止むとすぐ瓶を回収し、再び別の地点へ。
足裏は悲鳴を上げ続けているが、もはや痛みは鈍いもので。
「うん……だんだん痛みにも慣れてきたかも……」
そう呟きながら、蓮華は再び石畳を進んだ。
セバスはその立ち回りを見届け、満足そうに一礼する。
「観察、判断、実行。どれも一級品でございます。お客様のような方と共に仕事ができるのは、大変光栄ですね」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
その頃ようやく、瓶の中には八分目ほどまで味ぽんが溜まっていた。
蓮華は慎重に瓶を持ち上げ、泣きながら掃除を続けていたマツコへ歩み寄る。
「これくらいの量でいいかな?」
「……味ぽんですのぉぉぉ!」
マツコは瓶を抱き締めるように受け取り、大粒の涙を流しながら何度も頷いた。
「ありがとうございますのぉ……! 命が助かりましたのぉ……!」
その姿を見たセバスは肩をすくめ、盛大に息を吐く。
「……やれやれ。ようやく静かになりますね」
足裏はまだじんじんと熱を帯びていて。
健康効果には詳しくない蓮華だったが、全身を巡る血流だけは確かに良くなっている気がして、小さく苦笑するのであった。
足つぼの石畳を前に、羽柴・カレナ(ふくすけといっしょ!・h13109)は胸を張った。
「足つぼかあ。健康には自信があるし、乗っても痛くないんじゃないかなあ。というわけで、えいっ」
勢いよく跳躍した、その瞬間。
「……ぎゃー!」
着地した両足へ、針を何百本も突き立てられたような激痛が突き抜ける。
涙目になりながら飛び退こうとするが、どこへ踏み出しても足つぼ、足つぼ、また足つぼ。
「うう、これは油断しちゃいけないんだよ!」
必死に体勢を立て直し、小さな相棒であるふくすけを抱き上げる。
デフォルメ調のニホントカゲ風の身体は軽く、青い尻尾がぴこぴこと揺れていた。
「まずはお願いね」
空になった味ぽんの瓶をふくすけへ預けると、味ぽんが滴る天井の真下まで慎重に歩いていく。
その横では、セバスが信じられない速度でクイックルワイパーを滑らせていた。
痛みなど存在しないかのような足取り。
無駄のない歩幅。
滑るような腕の動き。
茶色く汚れた石畳が、通った後から鏡のような輝きを取り戻していく。
その一方、マツコは。
「味ぽんですのぉぉぉ……ぐすっ……もったいないですのぉぉぉ……」
涙をぼろぼろ零しながら、しゃくり上げ、前も見えないままワイパーを動かしていた。
拭いているつもりでも同じ場所を何度も往復し、時折自分の涙まで床へ落としてしまう始末。
「また汚してんじゃねぇか、その涙も拭け」
「ひどいですのぉぉぉ!」
「泣く暇あったら腕動かせ」
辛辣な言葉を浴びせながらも、セバスの手は止まらない。
その姿に苦笑しつつ、カレナもワイパーを握り直した。
「私は……クイックルワイパーを手に持って掃除を頑張るよ!」
足裏は痛い。
一歩踏み出すたび悲鳴を上げそうになる。
「痛い、痛いけど思い出すんだよ……! ふくすけを、マツコさんを、セバスさんを……そして、たぶんビンに戻りたがっている味ぽんを……!」
気合いと共にワイパーを押し出す。
「うおー!」
床に広がる味ぽんを丁寧に集め、拭き取り、また一歩。
そのひたむきな姿を見たセバスは、ほんの少し口元を緩めた。
「素晴らしいです、お嬢様。無理をせず、それでも止まらない。その姿勢こそ掃除人の鑑でございます」
さらに、瓶を支えるふくすけへ視線を向ける。
「そちらのお連れ様も実に優秀ですね。一滴も無駄にせぬとは、お見事です」
天井から落ちる味ぽんは、ぽたり、ぽたりと瓶へ吸い込まれていく。
決して多くはないが、確かに少しずつ溜まり始めていた。
その様子を見ていたマツコは、目を潤ませながら歓声を上げる。
「味ぽんが助かっておりますのぉぉぉ!」
「だからお前も手を動かせ」
「はいですのぉぉぉ!」
返事だけは元気。
しかし、掃除はやはりぎこちない。
その隣でセバスだけが、寸分の乱れもない所作で床を磨き続ける。
熟練職人と初心者ほどの差。
そんな中、カレナはふと思いつきを口にした。
「ところで……これだけ沢山味ぽんが降ってくるなら、二本分貯まったりはしないかな?」
セバスは掃除の手を止めることなく、即座に答える。
「残念ながら、それは叶いません。この迷宮は必要量以上を決して与えない性質でしてね。瓶が満ちる頃には、天井もまた沈黙いたします」
「しないのかあ、むむー」
少しだけ肩を落とすカレナ。
その反応に、セバスは小さく笑う。
「ですが、その発想は悪くありません。状況を利用しようと考える柔軟さは、探索者として大変素晴らしい資質です」
褒められたカレナは、照れくさそうにはにかむが、その間にも足裏へ突き刺さる激痛は容赦なく続く。
それでもカレナはワイパーを止めなかった。
ふくすけが守る瓶には、少しずつ、本当に少しずつ味ぽんが集まっていく。
泣きながら掃除するマツコ。
毒づきながら誰より美しく床を磨くセバス。
そして痛みに顔をしかめながらも前へ進み続けるカレナ。
三者三様の奮闘によって、茶色く染まった足つぼダンジョンの床は、ほんのわずかずつ、本来の輝きを取り戻し始めていた。
黄・夜巡(夕立巡り・h13090)は、足裏へ伝わる最初の一歩で、この迷宮の悪意を理解した。
鋭く突き上げる痛みが、踵から脳天まで一直線に駆け抜ける。
「足つぼ、ヤ!」
悲鳴にも似た叫びが石造りの通路へ響いた。
「だけどこれも乗りかかった船、いや足つぼか……乗りたくなさすぎない?」
泣き言を漏らしながらも、夜巡は足を止めず。
止まれば痛みに負ける気がした。
隣ではセバスが、まるで平坦な廊下でも歩くかのように凶悪な足つぼを踏み締め、クイックルワイパーを滑らせていく規則正しい音だけが響き、味ぽんで汚れた床は見る間に鏡のような輝きを取り戻していく。
一方、そのすぐ後ろでは。
「味ぽんですのぉぉ……ひっく……もったいありませんわぁ……」
マツコは涙で前も見えないまま、ぐしゃぐしゃになった顔でワイパーを動かしていた。
しかし泣きながらでは真っ直ぐ拭けるはずもなく。
右へ左へ蛇行し、せっかく綺麗になった場所まで汚してしまう始末である。
セバスは額へ手を当て、大きくため息をついた。
「おい、そこ二度拭きになってる。泣く暇があるなら手ぇ動かせ、この味ぽん狂い」
「味ぽんが床にぃぃぃ……!」
「だから知ってるって言ってんだよ」
呆れ切った声。
そのやり取りを横目に、夜巡は歯を食いしばる。
痛い。
痛すぎる。
だが負けるわけにはいかない。
自分を奮い立たせるように、胸いっぱいの声を張り上げた。
「愛! 情熱! 友情! 信頼! 感動!」
叫ぶたびに一歩。
叫ぶたびに激痛。
それでも前へ。
ワイパーを滑らせるたび、床が少しずつ広く輝いていく。
「前へと進める喜び! 成長! 夢! 達成! 苦あれば楽あり為せば成る! 努力は必ず報われる!」
その勢いに、セバスの口元がわずかに緩み、夜巡へ向ける視線には、棘が一切ない。
「その心意気、お見事です。痛みに屈せず前進する姿勢、清掃の手際も申し分ございません。実に立派なお客様でございます」
丁寧な賞賛に、夜巡は少し照れくさそうに鼻をこすった。
「へへ……そう言われると頑張れるな」
その直後。
天井から最初の一滴が落ちた。
ぽたり。
味ぽんの雨が始まる。
「来るぜ!」
夜巡は素早く空瓶を掲げると、高らかに叫んだ。
「出番だぜ、ネズミどもっ!」
雷光が弾け、九匹の雷素トビネズミが次々と姿を現す。
小さな身体をぴょんぴょん跳ねさせながら、一斉に瓶へ取り付き、器用に支え始めた。
さらに透明化した数匹が空中を舞い、降り注ぐ味ぽんを次々と瓶の中へ誘導していく。
軽い身体だからこそ可能な見事な連携。
夜巡は羨ましそうに見つめる。
「いいよな、お前らは軽くて……体重からくる痛みとかがさほどなくて……!」
ぴょこん、と一匹のネズミが励ますように肩へ飛び乗る。
その様子を見たセバスは、感心したように何度も頷いた。
「お見事です。なんと優秀な使い魔なのでしょう」
トビネズミたちは胸を張るように小さく跳ねる。
「連携、判断力、作業効率、どれを取っても一級品です。あなた方のおかげで作業速度が飛躍的に向上しております。本当にありがとうございます」
褒められたネズミたちは、ぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ねながら、さらに張り切って味ぽんを回収し始めた。
その横では。
「味ぽんがぁぁぁぁぁ!」
マツコが泣きながら床を雑に拭き、また汚し、また泣く。
セバスは肩を落とした。
「……お前は、お客様の使い魔以下だな」
「聞こえておりますわぁぁぁ!」
「聞こえるように言ってる」
容赦はない。
やがて瓶いっぱいに琥珀色の液体が満たされる。
夜巡は痛む足を引きずりながらマツコの前へ歩き、そっと瓶を差し出した。
「ほらよ。笑顔! 努力を続ければ……必ず目標は達成できる……!」
マツコは震える手で瓶を受け取り、中身を見つめる。
その瞳からは今度こそ嬉し涙が溢れ出し、宝物を抱くように瓶を胸へ抱き締めていた。
足裏へ伝わる刺激は確かに鋭く、丸く突き出た石が土踏まずを押し、踏み出すたびにじわりと痛みが走る。
探索者たちが顔をしかめるのも無理はない。
しかし、その中でエアリィ・ウィンディア(精霊の娘・h00277)は首を傾げていた。
「あれ? このぼこぼこの床って……?」
裸足のまま何度か足踏みし、不思議そうに石畳を見下ろす。
「あ、なんか足つぼがどうのって言ってたやつだね。みんな痛がっているけど、あたしそこまで痛くないんだけどなぁ……」
早寝早起き健康優良児。
健康そのものの生活を送る精霊剣士には、この程度の刺激は少々痛い程度でしかないらしい。
一方その頃。
「味ぽんですのぉぉぉぉ……ぐすっ……もったいないですのぉ……」
マツコは涙をぼろぼろ零しながら、慣れない手付きでクイックルワイパーを動かしていた。
前へ押す。
斜めになる。
引っ掛かる。
泣く。
もう一度押す。
その隣では、セバスが無駄のない動きで滑るように床を磨いていく。ワイパーは蛇のようにしなやかに動き、一振りごとに石畳が鏡のような輝きを取り戻していた。
「……そこ、拭き残しだ」
「ふぇぇぇぇ……」
「泣けば床が綺麗になるなら俺も泣く」
「冷たいですのぉぉぉ!」
「現実だ」
辛辣。
執事とは思えないほど容赦がない。
そのやり取りを横目に、エアリィは空瓶を左手へ持ち替えた。
「よし、変則二刀流でっ!」
右手にクイックルワイパー。
左手に味ぽんの空容器。
ぺた、ぺた、と軽快な足取りで床を掃除していく。
小柄な体が左右へ揺れるたび、茶色く汚れていた石畳が少しずつ本来の色を取り戻していった。
「お見事です、お嬢様。その一定の速度、実に無駄がございません」
セバスは感心したように目を細める。
「えへへ、ありがと!」
「足運びも素晴らしい。健康な方ほど、この迷宮とは相性が良いのでございます」
その横では。
「味ぽんですのぉぉ……」
「ほら、そこ。また汚れを広げた」
「うぅぅぅぅ……」
「雑巾の方がまだ上手い」
「ひどいですわぁぁぁ!」
扱いの差があまりにも激しかった。
やがて天井から、ぽたり、と一滴が落ちる。
味ぽんの雨が始まる兆し。
エアリィの表情がきりっと引き締まる。
「高速詠唱開始っ!」
《六芒星空想黙示録》
足元から六芒星が広がり、空気が震え、淡い光が通路全体を包み込む。
「精霊達の声が聞こえる……。うん、あたし達の物語を始めようっ!」
少女が語り始める。
「ね、精霊さん達。物語を聞かせて?」
春風と遊んだ日。
木漏れ日の森で妖精たちと歌った日。
雨上がりの虹を追い掛けて笑った日。
語られる思い出に応えるように、小さな妖精たちの幻が通路いっぱいへ舞い始めた。
妖精界。
優しい風が吹き、花びらが舞う幻想世界。
その中心で、エアリィはにっと笑う。
「さて、普通であれば何をしているのってことだけど……」
左手の空瓶を掲げる。
「必中なんだよね」
ぽたり。
降ってきた味ぽんが、不自然なほど真っ直ぐ瓶の口へ吸い込まれる。
本来なら四方八方へ飛び散るはずの液体が、まるで意思を持つかのように瓶へ集まっていく。
「逆に言えば……味ぽん容器の入り口が味ぽんに対して必中させれるってことでもあるっ! ということで、がんばって集めるよ!」
その発想に、セバスは一瞬だけ目を丸くした。
「……素晴らしい」
思わず本音が漏れる。
「必中をそのように応用なさるとは。実に柔軟な発想でございます、お嬢様」
「えへへ!」
「その判断力、観察力、そして実行力。執事として拍手を送らせていただきます」
拍手を送りながら掃除を続けるセバス。
床は磨かれ。
降り注ぐ味ぽんは瓶へ吸い込まれ。
再び磨かれ。
繰り返しの末、とうとう最後の一滴まで拭き終えた。
ごごごごご……。
最後の一滴まで床が磨き上げられた瞬間、迷宮全体が低く唸り、正面の巨大な石扉がゆっくりと左右へ開いていく。
最下層へ続く道。
「できたぁ!」
同時にエアリィが嬉しそうに声を弾ませる。
左手に握っていた空瓶の中では、先ほどまで降り注いでいた味ぽんがたっぷりと満たされ、琥珀色の液体がゆらりと揺れていた。
それを見ていたマツコは、目を輝かせながら瓶を受け取る。
「オーッホッホッホッホッ! 戻りましたわ! 味ぽんが! わたくしの味ぽんが帰ってきましたのーッ!!」
胸へ抱き締め、頬ずりし、感極まったように笑い声を上げる。
「この芳醇な香り! この艶! この色合い! やはり世界で一番美しい液体ですわぁぁぁぁ!」
先ほどまで泣き崩れていた人物と同一人物とは思えないほど、完全に調子を取り戻していた。
その姿を見たセバスは目を細め、何かを悟ったように静かに口を開いた。
「おい味ぽん狂い、来るぞ」
「え?」
次の瞬間。
黒い影が床を滑るように駆け抜ける。
それは一匹の黒猫、のようなもの。
しなやかな跳躍。
マツコが抱えていた味ぽんの瓶を前足で器用にさらい、そのままくるりと口にくわえながら着地し、開いた石扉の奥へ一直線に駆け出していく。
「あっ、ちょ……」
待って、というエアリィの言葉は虚空に溶け、状況を理解できていない迷宮に静寂が落ち、数秒後。
「いやあああああああっ!! わたくしの味ぽぉぉぉぉん!!」
マツコの絶叫が迷宮中へ響き渡る。
膝から崩れ落ち、両手を伸ばしながら涙を撒き散らす。
セバスは額へ手を当て、大きく息を吐いた。
「……やっぱりこうなったか」
黒猫の姿は、すでに最下層への闇へ消えた。
味ぽんを取り戻すには、後を追うしかない。
こうして、味ぽんを奪った黒猫の追跡のため、開かれた最後の階層へ足を踏み入れるしかないのであった。
第3章 ボス戦 『星雨猫『ステラレイン』』
あなたは、黒い猫を追って下層へと降りていた。
一章目で見つけたのは、隠された味ぽん。
二章目では、足つぼ地獄を耐え抜きながら、降り注ぐ味ぽんの雨を空瓶へと詰め込んだ。
衛生面その他諸々の事情により、実際に口へ入れることはできない。
それでも、その味ぽんは味ぽんのマツコにとって、何より大切なもの。
情緒安定に、大いに役立った。
一瞬だけ。
黒い猫が、それを奪っていくまでは。
そして今。
あなたの前に、その黒い猫がいる。
広い空間の中央。
そこそこ……いや、かなり高い場所にある足場へ陣取り、黒猫はあなたを見下ろしていた。
その傍らには、見覚えのある瓶。
味ぽんである。
黒猫、星雨猫『ステラレイン』は、前足を伸ばした。
ちょい。
瓶が揺れる。
あなたが一歩近づく。
ちょい。
また揺れる。
ステラレインは、まるで「これ、落としちゃうかもなぁ」とでも言いたげな顔をして、味ぽんの瓶を前足でちょいちょいしている。
明らかに、わざとだ。
ふと、あなたとステラレインの間に小さな光が浮かび上がる。
ぽんっと。
一匹。
二匹。
三匹。
次々と姿を現したのは、体高十センチほどの小さな子猫たち。
合計九匹となった星雨の子猫。
手足を持ち、ふわふわと宙に浮かびながら、あなたの周囲をくるくると飛び回る。
にゃ。
にゃあ。
みゃー。
さっそく一匹が警戒心の欠片もなくあなたの肩へ乗った。
別の一匹が頭の上へ。
もう一匹は目の前でくるくる回り、別の一匹は足元にじゃれついてくる。
残りの子猫たちは、少し離れたところからあなたをじーっと見つめていた。
まるで「次は僕の番!」とでも言わんばかりに、順番に飛び込んでくる。
その身体は、驚くほど柔らかくぬくい。
押し退けようとすれば、前足の小さな爪を服に引っ掻けて、全力で抵抗してくる。
透明になって消えたと思えば、いつの間にか背中に乗っている。
戦闘力はない。
ないのだが。
とにかく、邪魔で可愛い。
圧倒的に可愛い。
頭の上で丸くなる子。
肩に頬を擦りつける子。
足元をちょこちょこと走る子。
あなたの目の前で両前足を広げ、「構って」と訴える子。
さらには、あなたが反応するたびに嬉しそうに喉を鳴らす子までいる。
ごろごろごろごろ。
ごろごろごろごろ。
その音が、少しずつ空間を満たしていく。
そして。
星空が、降り始めた。
ステラレインの全身から溢れ出した淡い星の光が、空間をゆっくりと漂う。
それは【安心】の感情を与える、【眠気を誘う星空】。
風下へ。
低い場所へ。
ゆっくりと流れ、薄まりながらも消えない。
ここが密閉された空間なら、その濃度は最大で八倍にまで膨れ上がる。
つまり。
子猫に囲まれているだけではない。
可愛らしいゴロゴロ音を聞きながら、安心させられ、眠気まで誘われている。
なんという周到な罠だろう。
ステラレインは、そんなあなたを高所から眺めている。
そして。
ちょい。
前足で味ぽんの瓶を押す。
ころ。
瓶が少しだけ動いた。
あなたが子猫を押し退けようとすれば。
ちょい。
さらに瓶が動く。
あなたが止まれば。
ステラレインも止まる。
しばしの沈黙。
その猫は、満足そうに尻尾を揺らす。
理解しただろうか。
この猫。
とても、したたかなのだ。
あなたが無理に突破しようとすれば、子猫たちが邪魔をする。
子猫を振り払えば、ステラレインは味ぽんの瓶を落とそうとする。
そして戦闘を長引かせれば、【眠気を誘う星空】の影響が強くなっていく。
ならば、攻略法は一つ。
耐えるしかない。
子猫の可愛さにも。
ゴロゴロ音にも。
眠気にも。
何より――。
ステラレイン本人が飽きて、諦めるまで。
ただひたすら、耐える。
それがこのボス戦の攻略法。
なお、味ぽんのマツコとクイックルワイパーのセバスは、現在も足つぼダンジョンにてお留守番中である。
つまり、この戦いにおいてあなたの背後に援護してくれる者はいない。
完全に、あなた一人。
対するステラレインは九匹の子猫を従え、眠気を撒き散らし、味ぽんを高所に置いている。
なんとも理不尽な構図。
そんな状況を理解しているのかいないのか。
ステラレインはあなたを見下ろしながら、ゆっくりと前足を上げた。
そして。
ちょい。
味ぽんの瓶を、また少しだけ押した。
瓶が、足場の端へ近づく。
ステラレインは目を細め。
九匹の子猫が、楽しそうに鳴く。
ごろごろごろごろ。
戦いは始まった。
これは、最後まで根気よく耐えた者が勝つ、史上まれに見る「猫との我慢比べ」である。
大茴香・蘆花(飢餓の青き獣・h09093)は、完全に詰んでいた。
目の前には、足場の上で悠々とこちらを見下ろす黒猫、星雨猫『ステラレイン』。
その傍らには、今にも落とされそうな味ぽんの瓶。
そして蘆花の周囲には、九匹の星雨の子猫。
肩に一匹。
頭に一匹。
足元に一匹。
残りも順番待ちでもしているかのように、ふわふわと宙を漂っている。
蘆花はしばらく無言でそれを眺め。
「いやぁ、これは反則ッスよ……」
正論。
あまりにも正論。
子猫たちは蘆花の言葉を理解したのかどうか、にゃあ、と一斉に鳴く。
そのうちの一匹が蘆花の頬へ身体を寄せ。
もふっと蘆花の頬が沈みこむ。
「子猫さんたち、かわいいッスねぇ……」
別の一匹が頭の上に乗り、蘆花は抵抗しようとしたが、しかし頭の上の子猫が尻尾をぺしぺしと額へ当ててくる。
やめられない。
というか、やめたくない。
「こんなにモフモフに囲まれたら、抵抗するほうが無理ッスよ……」
ごろごろごろ。
九匹の子猫たちが、一斉に喉を鳴らしたことで、蘆花の表情から戦意が消えた。
それはもう、綺麗さっぱり消えた。
代わりに灰色の瞳が、とろん、と細くなる。
空間にはステラレインの【眠気を誘う星空】が満ちている。
安心。
ぬくもり。
ふわふわ。
ごろごろ。
蘆花は非常に素直な人間であった。
つまり。
誘惑に弱い。
「ごろごろ音、気持ちいいッス……」
蘆花はゆっくりとその場に正座した。
何故、正座なのか。
本人にも分からない。
ただ、猫を享受するには正座が最も礼儀正しい気がした。
頭の上の子猫を撫で。
肩の子猫を撫で。
膝の子猫を撫でる。
すると子猫たちは嬉しそうに身体を擦り寄せ、温かみに包まれると蘆花の瞼が重くなっていく。
「ちょっとだけ……目を閉じるだけッス……」
ちょっとだけ。
ほんのちょっとだけのつもりだった。
だが。
ごろごろごろごろ。
星空がきらきら。
子猫がもふもふ。
安心感がふわふわ。
蘆花の身体から、力が抜けていき。
頭がこくん、と揺れる。
肩の子猫が驚いて一度だけ宙へ浮かび、すぐに蘆花の頭へ戻る。
そして。
「……すやぁ」
寝た。
開始から、ほぼ何もしていない。
ステラレインは呆然と蘆花を見下ろした。
味ぽんを人質に取る必要すらなく。
【お気に入りの寝床作り】作戦によって行動を失敗させる必要すら無く。
子猫をけしかけただけで終わった。
ステラレインは、ゆっくりと目を細め。
ふん。
鼻で笑った。
「……ステラレインさん、鼻で笑ったッスよね!?」
目を閉じたまま、眉間に皺を寄せている蘆花の突っ込みにステラレインが、ぴたりと動きを止めた。
蘆花は寝ている。
完全に寝ている。
寝言で抗議をする。
ステラレインは、静かに味ぽんの瓶を前足でころころと動かしながら、満足そうに喉を鳴らし続けている九匹の子猫たちと眠り続ける蘆花を見下ろしていた。
皆で集めた、マツコさんの大切な味ぽん。
それを、イタズラ心で奪っていった黒猫、『星雨猫『ステラレイン』』に羽柴・カレナ(ふくすけといっしょ!・h13109)は、ぷくっと頬を膨らませながら、足場の上にいるステラレインを見上げた。
「人の! 大切なものは! 取っちゃダメ!」
びしっと指を突きつける。
しかしステラレインは、そんなカレナを見ながら、尻尾をゆらゆら。
悪びれる様子は、まるでない。
むしろ。
ちょい、と前足で味ぽんの瓶を押すと。
ころ。
瓶がほんの少しだけ動く。
「……もう! イタズラ心はほどほどにしてよね!」
カレナは地団駄を踏みたい気持ちを抑えながら、周囲を見回した。
九匹の星雨の子猫。
戦闘力こそない。
ないのだが。
とにかく可愛い。
カレナの肩や頭、足元を好き勝手に占領している。
ここで無理に振り払えば、ステラレインが味ぽんを落とすかもしれない。
ならば。
「モフモフ地獄(天国)、耐えきってみせるよ!」
まずは慎重に。
目の前にいる子猫へ、そっと手を伸ばす。
子猫は逃げない。
むしろ、頭を差し出してきた。
指先が、ふわふわの毛に触れる。
なで。
「……おお、フワフワでやわらかい」
子猫は目を細め。
ごろごろ。
さらに撫でる。
ごろごろごろ。
もう一度撫でる。
ずーっとごろごろ。
柔らかさと暖かさにカレナの瞼が、ほんの少しだけ落ちる。
「って、このままじゃ寝ちゃうんだよ!」
慌てて手を引っ込めると今度は頭の上にいた子猫が、ぽふっと肩へ落ちてきて、別の子猫が足元をくるくると回る。
さらに別の子猫が、カレナの服を前足でちょいちょい。
ごろごろ。
ごろごろ。
眠気を誘う星空が、淡い光となって周囲を漂っている。
「うぅ……可愛いけど……これは罠だよ……!」
カレナはふらふらになりながらも、なんとか踏みとどまった。
そこで。
ふと、ある言葉を思い出す。
「そういえば、こんな言葉があった気がする」
カレナは拳を握り。
「目には目を、可愛いには可愛いを……!」
反撃開始。
カレナは胸元へ手を伸ばし。
「おいで、ふくすけ!」
淡い光が弾け。
その中から現れたのは、デフォルメ調のニホントカゲ風の護霊。
青い尻尾をぴこっと揺らし、ふくすけは姿を現すと、勇ましく一歩踏み出した。
星雨の子猫たちが、一斉にふくすけを見る。
ふくすけの尻尾が、ぴこぴこと揺れると子猫たちの視線も、その尻尾を追ってぴこぴこと動く。
完全に戦闘どころではない。
カレナは、そんなふくすけを見て嬉しそうに笑い、ぎゅっと抱き締める。
「猫さん達も可愛いけど、私の1番はやっぱりふくすけなんだよ!」
ふくすけを胸元に抱え、背中を優しく撫でる。
「そうそう、ふわふわもいいけど、やっぱこの鱗のザラザラ感がいいんだよね~♪」
ふくすけが気持ちよさそうに目を細め、カレナはさらに背中を撫でる。
「ひんやり感も癒されるよね♪」
その光景を。
ステラレインは高所からじっと見つめていた。
尻尾が、ゆっくり左右に揺れ。
九匹の子猫。
眠気を誘う星空。
癒され過ぎるのも、罠であると。
カレナの意識が、ぼんやりとしていく。
ふくすけを抱き締める腕にも、力が入らなくなり。
それでも。
大切な味ぽんを取り戻すために。
カレナは最後まで諦めなかった。
眠気が、さらに深くなり。
カレナの視界が、ゆっくりと霞む。
「……あれ……?」
ふくすけを抱き締めたまま、カレナの身体がふらりと揺れ。
ハッと目を開けたとき。
そこは、妙に静かな空間が広がっていた。
カレナは、きょろきょろと周囲を見回す。
さっきまで、あんなにたくさんいた子猫たちがいない。
肩にもいない。
頭の上にもいない。
足元にもいない。
あれだけ響いていた、ごろごろという可愛らしい喉鳴らしも聞こえない。
「……?」
さらに周囲を見回す。
ステラレインもいない。
ただ。
広い空間の中央に、味ぽんの瓶だけがぽつんと置かれていた。
そして、その傍らには。
「……マツコさん?」
味ぽんのマツコが立っていた。
穏やかに。
とても穏やかに笑っている。
カレナは首を傾げた。
どうして、マツコさんがここにいるのだろう。
さっきまで黒猫さんと戦っていたはずなのに。
子猫さんたちもいたはずなのに。
味ぽんだって、あんな高いところに置かれていたはずなのに。
何かがおかしい。
確かにおかしい。
けれど。
眠気に包まれた頭では、その違和感を上手く掴むことができず。
マツコが、ただ優しく微笑んでいる。
その顔を見ているうちに、カレナの胸にあった疑問も、いつの間にかふわりと消えていく。
代わりに浮かんできたのは、もっと単純で。
もっと嬉しい気持ち。
「味ぽんを渡して……マツコさんとハイタッチ!」
カレナはふくすけを抱えたまま味ぽんの瓶を持ち上げ。
そして、それをマツコへ差し出した。
マツコが受け取り。
ぱちん、と。
二人の手が、重なった。
カレナは嬉しそうに笑った。
その腕の中では、ふくすけも安心したように目を細めている。
――何もかもが、上手くいった。
味ぽんは戻った。
マツコも喜んでいる。
ふくすけも一緒にいる。
だから、これでいい。
そんな幸福感に包まれたその光景を、どこか遠くから見つめるように。
ステラレインの鳴き声が、かすかに響いていた。
ごろごろごろごろ。
まるで、眠りを褒めるように。
ごろごろごろごろ。
ステラレインが飽きるまで。
ごろごろごろごろ。
カレナは、ふくすけを抱き締めたまま、幸せそうな笑顔で眠りへ落ちていった。
エアリィ・ウィンディア(精霊の娘・h00277)は、迫り来る眠気と、全身にまとわりつく九匹の子猫を前にして、ぷるぷると震えていた。
肩に一匹。
頭の上に一匹。
両腕に二匹。
足元に三匹。
そして残り二匹は、いつの間にか背中に回り込んでおり。
もふ。
もふもふ。
触れるたびに、あまりにも柔らかい。
エアリィが少し動けば、子猫たちは楽しそうに追いかけ、服にしがみつき、透明になったかと思えば、次の瞬間には頭の上に戻っている。
そして空間には、星空。
淡い光がきらきらと舞い、エアリィの身体から少しずつ力を抜いていく。
ごろごろごろ。
ごろごろごろ。
眠い。
ものすごく眠い。
けれど。
エアリィが顔を上げると高所にいるステラレインと目が合った。
黒猫は、ただ味ぽんを前足の横に置き、高みの見物と言わんばかりに完全に楽しんでいた。
エアリィは頬をぷくっと膨らませた。
「ねこさん、すっごく意地悪だぁ~。 どーしよー。 かわいい猫たちもいるし、眠たくもなってくるしー ……」
しばしの沈黙。
エアリィの瞳に、きらりと光が宿った。
「かわいいにはかわいいをぶつけるっ!」
エアリィの口から高速詠唱が飛び出した。
眠気でふわふわしそうな頭とは思えない速度で、精霊具現化の術式を完成させていく。
この場所なら、土属性。
足場を作るのにも向いていて。
そして何より。
もこもこになれる。
「さぁ、来てね、精霊さんっ!」
ぽんっ。
エアリィの周囲に、九つの小さな光が弾けた。
そこから現れたのは、体高十センチほどの小さな土の精霊たち。
丸っこい手足を持った九体の精霊たちは宙に浮かびながら、エアリィを見上げる。
エアリィは満面の笑みを浮かべた。
「呼んでどうするって? そりゃこうするだけ」
両手を大きく広げ。
「さ、みんなーっ!! 踊ろーっ!!」
精霊たちが一斉に跳ね。
ぴょん。
くるっ。
ぽてっ。
「ダンス、スタートっ♪」
始まったのは。
攻撃ではなく。
子猫を追い払うことでもなく。
ただひたすら、踊る。
右へ。
左へ。
くるくると回って。
ぴょんぴょんと跳ねて。
時には精霊同士で手を繋ぎ、円になってぐるぐると回る。
その光景は、もはや戦闘というより、謎の猫歓迎イベント。
触発された子猫たちも負けてはいない。
一匹がエアリィの肩でしっぽを振り。
別の一匹が頭の上でころんと転がり。
さらに一匹が精霊の動きを真似して、空中でくるくると回る。
しかし。
ステラレインだけは。
高所の足場から、じーっと見ている。
その表情は非常に落ち着いていて。
ただし。
しっぽだけは。
ふり。
ふりふり。
ものすごく楽しそうなのをエアリィは見逃さなかった。
「さ、星ねこさん。あなたも一緒に踊らない? 味ぽんと踊るんじゃなくて、一緒に楽しく踊ろー♪」
ステラレインは。
ふいっ、と顔を背けた。
だが。
耳はエアリィに向いているし、しっぽは上機嫌で。
味ぽんの瓶には、前足を添えたまま。
絶対に踊らない。
「…これもある意味我慢比べだよね。 ねこさんが踊るか、あたしが体力切れるかの」
そう言いながらも、エアリィは踊り続け。
精霊たちも踊り続け。
子猫たちも楽しそうに跳ね回る。
ステラレインは踊らない。
ただし、しっぽは踊っていた。
味ぽんは落ちそうで落ちず。
眠気はどんどん強くなって。
それでもエアリィは笑っていた。
「でも、まけないよーっ! たのしもーっ!!」
ごろごろごろ。
ぴょんぴょんぴょん。
ふりふりふり。
もふもふもふ。
戦場は、完全に意味不明なダンス会場へと変貌していた。
そしてステラレインは、そんな光景を高所から眺めながら。
やはり踊らず。
ただ。
しっぽだけは。
ずっと楽しそうに揺れていた。
黄・夜巡(夕立巡り・h13090)は、子猫に囲まれていた。
どの子猫も、ふわふわでぬくぬくしており、とても可愛く夜巡の様子を窺っている。
可愛い。
可愛いのだが。
夜巡の視線は、その先にいる黒猫へと向けられていた。
高所に陣取る星雨猫『ステラレイン』。
その隣には、例の味ぽんの瓶。
ステラレインは、前足を上げ。
ちょい、と瓶を揺らす。
夜巡の眉がぴくりと動いた。
「はー……最後はこういうやつか……かわいい黒幕だったなあ」
だがしかし、まったく嬉しくない。
戦闘力のない子猫九匹。
眠気を誘う星空。
そして、味ぽんを人質に取った黒幕。
あまりにも理不尽。
しかし。
夜巡はふっと笑った。
「猫にはネズミと相場が決まってるぜーッ!」
その声と同時に、夜巡の周囲へ雷が走り、九つの小さな光が弾ける。
「出番だぜ、ネズミどもっ!」
現れたのは、九体の雷素トビネズミ。
体高十センチほど。
手足を持ち、浮遊し、そしてぽよんと。
「……お?」
トビネズミの一匹が、床へ落ちる寸前に身体を柔らかく変化させ。
ぽよんと跳ね。
ぽよんとまた跳ね。
ぽよよよんと、九匹が一斉に跳ね始めると子猫たちの目が輝く。
にゃ。
にゃあ。
みゃー。
一匹の子猫が跳び。
トビネズミも跳んだ。
子猫とトビネズミが空中ですれ違い。
いつの間にか、戦場は完全に遊び場と化していた。
子猫がトビネズミを追いかけ。
トビネズミが跳ねて逃げ。
子猫がさらに追う。
誰も傷つかない。
むしろ全員楽しそうである。
「よーしよし、いいぞネズミども! その調子だ!」
夜巡自身も、子猫たちへ向けて生成りの襟巻きを取り出した。
ふよん。
左右へ振る。
ふよふよ。
まるで水中をなめらかに泳ぐ魚類のごとき動き。
子猫が一匹、反応した。
じーっ。
ふよん。
じーっ。
ふよふよ。
ぴくっと、子猫が飛びついた。
「おっ、来たな! ほら、来い来い~!」
襟巻きにじゃれつく子猫を撫でる。
別の子猫も寄ってくる。
さらに一匹。
さらに一匹。
気づけば夜巡の周囲には、九匹全員が集まっていた。
頭に乗り。
肩に乗り。
腕に抱きつき。
襟巻きを奪おうとする。
ごろごろごろごろ。
そして、星空が降り続け。
「……眠ぃ……」
瞼が重い。
それでも夜巡は耐える。
「……でも、構う……ここまで来たんだ。最後まで子猫を構うぜ……」
ふらふらしながら襟巻きを振る。
ふよん。
子猫が跳び。
ふよん。
子猫が跳ぶ。
ごろごろごろごろ。
「……ステラレインも来るか?」
高所を見る。
ステラレインは来ない。
「来ないのか? 水中をなめらかに泳ぐ魚類のごとき動きだぞ……!」
ふよふよと動く襟巻きをステラレインは無言で見ている。
そして。
ちょい。
味ぽんの瓶を押した。
「……あっ」
瓶が動き。
夜巡が固まり。
ステラレインも固まる。
ころり。
瓶が、足場の端へ。
「おい。待て。待て待て待て」
夜巡が一歩踏み出すと子猫が足元へじゃれつき出した。
「今は遊んでる場合じゃ――」
ステラレインが前足を伸ばした。
どうやら、押すつもりはなかったらしく。
だが。
転がった瓶は、ステラレインの前足をすり抜けてしまった。
「…………」
「…………」
ステラレインの目が見開かれ。
夜巡も目を見開く。
瓶が足場の端から落ちた。
「うおおおおおおおおっ!?」
じゃれつく子猫を踏まないように夜巡は全力で跳び、手を伸ばす。
しかし。
瓶は夜巡の指先を掠め、そのまま落下し。
ぱりん、と。
砕けた瓶から飛び散った味ぽん。
ごろごろと鳴っていた空間はぴたりと重苦しい静寂が落ちた。
「…………どうすんだこれ」
誰も答えない。
子猫たちは、ぽかんとしていて。
ステラレインは。
前足で顔を洗った。
すっ。
もう一度。
すっ、すっ。
毛繕いを始めた。
明らかに「私は何もしてません」という顔。
ただし。
尻尾が尋常ではない勢いで震え。
耳もイカ耳状態になるまで伏せ。
毛並みがブワッと荒れており。
めちゃくちゃに動揺が現れていた。
「……お前……」
夜巡が見上げると。
ステラレインは目を逸らし。
毛繕い。
すっ。
毛繕い。
すっ。
そして。
九匹の子猫たちが、淡い光へと戻っていく。
「おい、待て」
子猫が一匹。
消える。
もう一匹。
消える。
残りも次々とステラレインの中へ戻っていく。
「待て待て待て!」
最後の一匹が消え。
ステラレインが夜巡を見る。
割れた味ぽんを見る。
もう一度、夜巡を見る。
ばっ!
猫の瞬発力。
ステラレインが走り出した。
「お前ええええええええええっ!?」
逃げた。
ものすごい勢いで逃げた。
すべてを夜巡に押しつけて。
残されたのは、割れた味ぽんと、眠気と、静まり返った空間だけ。
夜巡はその場に膝をついた。
「……マツコさんに……なんて報告すりゃいいんだよ……」
情緒安定に大いに役立った、何より大切な味ぽん。
それを。
よりにもよって。
猫との我慢比べの末に。
ステラレイン自身の不注意で落とし。
当の猫は逃げた。
そして報告役は、自身。
「……無理だろ、これ……」
遠くから、かすかに猫の鳴き声が聞こえ、夜巡は空を仰いだ。
「ステラレイン……てめぇ……!」
こうして。
『星雨猫『ステラレイン』』との戦いは、誰も傷つかなかった代わりに、夜巡の精神だけが甚大なダメージを負い、幕を閉じた。
なお、マツコへの報告という第二の修羅場は、始まってすらいない。
下層から、ぱりんと静かな音が届いた。
もはや届いたのが奇跡と言えるほど、かすかな破砕音。
けれど、味ぽんのマツコには分かった。
精神的安寧そのものと言っても過言ではなかった、あの大切な味ぽんの瓶が、今割れた。
そして。
いつもの優雅なお嬢様然とした雰囲気が、音を立てて崩壊した。
「味ぽんが割れてしまいましたわああああああああああ!」
泣いた。
唐突に。
それはもう、幼い子供のように。
両手で顔を覆い、肩を震わせ、ぼろぼろと涙を流しながら、その場にしゃがみ込んだ。
「わたくしのあじぽんんんん! わたくしの安寧がああああ!」
クイックルワイパーのセバスは隣で眉をひそめた。
うるさい。
率直に言って、ものすごくうるさい。
セバスは深々とため息を吐き、泣き崩れるマツコを見下ろす。
「拠点に帰れば、物はあんだろ。お客様のお陰でここから出れるようになったからな」
極めて正論。
拠点に戻れば味ぽんはある。
そもそも、瓶が一つ割れたところで、味ぽんそのものがこの世から消滅したわけではない。
だが。
「わたくしのあじぽんんんん!」
聞いていない。
マツコにはまったく聞こえていなかった。
セバスの正論など、今の彼女には瓦礫と同じ。
むしろ泣き声が一段階大きくなった。
セバスの眉間に、さらに深い皺が刻まれる。
「……あー。なんで味ぽん狂いとなんだよ。他ならウィルキンソンのでも、龍角散のでも、香味野菜のでもいいっていうのに」
心底めんどくさそうに呟くセバス。
今のマツコにはそんな情報を拾う余裕などなかったのが幸いか。
「わたくしの……あじぽん……」
ついには床へへたり込み、涙を拭いながら小さく嗚咽する始末。
セバスはもう一度だけ、盛大なため息を吐いた。
そして。
マツコの襟元を掴み。
ずるずる。
「いやですわあああ! 味ぽんんんん!」
ずるずるずる。
「帰るぞ。もうここに用はねぇ」
「わたくしの味ぽんを置いていくなんてできませんわあああ!」
「割れたんだから無理だろ」
「いやですわああああ!」
泣き叫ぶマツコを、セバスは容赦なく引きずっていく。
その姿はもはや、お嬢様と執事というより、駄々をこねる子供とそれを連行する疲れ切った保護者。
こうして二人は、味ぽんの瓶が割れたという悲劇を抱えたまま、後にする。
なお、マツコの泣き声は、二つ先の区画までしばらく響き渡っていたという。
To Be continue……。