①卑劣なるマッスル大作戦
七月の博多は容赦がない。
アスファルトが白く灼け、駅ビルのガラスが陽光を跳ね返し、行き交う人々は皆一様に日陰を選んで歩く。そんないつも通りの休日になるはずだった博多駅前広場に、今、およそこの世のものとは思えぬ絶叫が響き渡っていた。
「許してくれ! これ以上は無理だ!」
「もう限界! 本当に痛いの……!」
スーツ姿の会社員が膝を震わせながら哀願し、買い物袋を傍らに置いた主婦が涙目で訴える。その隣では、大学生らしき青年が既に言葉にならない声を上げていた。
「ひぎぃ! 痛い痛い痛い痛いぃぃぃ!」
「おかしいよ、お前ら! こんなの、死んじまうって!」
誰かが叫べば、別の誰かが続く。そして限界を迎えた彼らの声は、やがて一つの大合唱となって夏空へ吸い込まれていった。
「「「「太ももが死ぬうううううう!!」」」」
広場に集められた数十名の一般市民。彼らを取り囲むのは、動物のマスクを被った四人の男たちである。
マスクから下は見事なまでに鍛え抜かれた肉体で、盛り上がった大胸筋がタンクトップを内側から押し上げ、丸太のような腕が組まれるたびに上腕二頭筋が誇らしげに隆起する。
そう、人質たちは彼らに、延々とスクワットを強要されていたのだ。
「大丈夫だ! 筋トレはすべてを解決する!!」
鶏マスクの男が、朗々と、そして心の底からの善意すら感じさせる声で断言した。
「その筋トレで死にそうなんだよぉ……!」
会社員の魂の叫びに、周囲の人質たちが一斉に頷く。もはや言葉を交わす必要すらなかった。その想いだけは、この場の全員の中で完全に一致していたのである。
「安心しろ。腰を傷めないよう、フォームの正しさは俺たちがしっかりと見ていてやる!」
犬マスクの男が親指を立てる。要らない。そんな気遣いは誰も求めていない。
「さあ、あと十回! お前たちならばやればできる!」
「ひぃぃっ!!」
あと十回。文字にすればたった四文字の激励が、これほどまでに絶望を運ぶことがあるだろうか。日頃、駅の階段すらエスカレーターで済ませてきた彼らにとって、その言葉は死刑宣告と何ら変わらなかったのだ。
●
「みんなー、戦争のー、じっかんだよー!」
場所は変わって、とある拠点。極めて深刻な事態が進行中のはずなのだが、集まった√能力者たちを前に、一人だけ場違いなほど陽気な娘がいた。星詠みの水瀬・恋眞(同人サイコガール・h12227)である。
「ボクが予知したのはここ。博多駅だよ。ここは怪人軍団が民間人を利用した作戦を実行してくるんだ」
小さな指がモニターを差す。画面には博多駅周辺の地図が表示され、駅前広場のあたりに赤い印が点滅していた。
ゾディアック・サインによって降りてきた予知。それを頼りに、彼女はこうして戦える者たちを招集したのだ。
「中でも、今回はブレーメンの筋肉隊が相手……うん、見るからに変態さんだね!」
カチリ、と画面が切り替わる。映し出されたのは、恋眞が記憶から描き起こしたという四人の似顔絵だった。動物マスクを被ったムキムキのマッチョマンたち。デフォルメされたマスクにどこか愛嬌が漂っているのが、逆に腹立たしい。
「鶏がジョンで、猫がジョージ。犬がポールで、ロバがリンゴだよ。筋肉とプロレスをこよなく愛する、暑苦しい人たちなんだ」
どこかで聞いたような名前の並びだが、深く考えてはいけないのだろう。恋眞はくるりと聴衆へ向き直り、本題を続けた。
「彼らは民間人を捕まえて、その場で筋トレを強いてるんだ」
(なんで?)
(何の得があって?)
誰もが同じ疑問を顔に浮かべる。世界征服を企む悪の組織の作戦としては、あまりに意味不明だったからだ。しかし恋眞は、そんな一同へキッパリと告げた。
「ひ弱な人に筋トレ強制するのが趣味なんだって」
趣味。趣味なら仕方ないね! ……いや、仕方なくなどない。断じてない。むしろ趣味であるがゆえに一切の交渉の余地がないという、ある意味で最悪の動機であった。
「これが意外と面倒でぇ……人質はみんな普通の人たちだから、長時間の筋トレに耐えられなくて、産まれたての小鹿みたいに足プルプルになってるんだ」
困ったように頬をかく恋眞。つまり、こういうことだ。仮に怪人たちを引き剥がしたとしても、人質たちは限界まで酷使した太腿のせいで、誰一人まともに歩けない。自力での避難は絶望的で、逃がすにも運ぶにも一工夫が必要になる。
ついでに言えば、明日の筋肉痛は確定事項だろう。
「そんなわけで、なにかいい感じの対応方法を考えて、人質さんたちを救って、変態マッチョマンズをやっつけてね!」
依頼の言葉はあまりにも軽い。だが、これも紛れもなく√EDENを狙う侵略の一手であり、放置すれば犠牲が出かねない戦いである。
ゾディアック継承戦争は、まだ始まったばかり。この一戦は、あるいは些細な小競り合いに過ぎないのかもしれない。それでも、こうした小さな積み重ねの先にこそ、いずれ訪れる大きな勝利は待っているのだ。
第1章 集団戦 『ブレーメンの筋肉隊』
博多駅前広場——本来ならば旅行者が行き交い、待ち合わせの人々が佇み、鳩がのんびりと羽を休める平和な空間である。
だが今、そこは地獄と化していた。
通称・強制筋トレ会場。
ロバ、犬、猫、ニワトリの被り物をした四体の筋肉の塊——ブレーメンの筋肉隊に包囲された人質たちが、汗だくでスクワットを続けさせられているのだ。
誰が呼んだか知らないが、会場の名前のセンスだけは的確だった。強制だし、筋トレだし、会場だった。見上げれば青空だけど。
そしてさらに理解不能なことに、当のブレーメンの筋肉隊たちまでもが、人質たちに混じって熱くスクワットを始めている。
なぜだ。お前たちはやらせる側だろう。だがその瞳(被り物)には一片の曇りもない。彼らはただ、筋トレがしたいのだ。心の底から。
「ここからが真の踏ん張りどころだ! あと十回! お前たちならやれる!! 俺たちはそう信じてる!!」
吼えたのは、隊のリーダー枠ニワトリである。もちろん吼えながら完璧なフォームでしゃがんでいる。
「初対面だろうが!」
人質の一人、スーツ姿のサラリーマンが涙目でツッコんだ。当然である。信頼とは積み重ねた時間の上に築かれるものだ。出会って三十分で寄せられる信頼など、重すぎて受け取れない。
「そりゃ、一っ!」
「「「「話聞けやあ――!」」」」
でもやらされる。容赦なくやらされる。
膝が曲がる。腿が悲鳴を上げる。
それでもニワトリの野太い掛け声は、拒否という選択肢を人質たちの脳から消し去っていた。
「ほら、俺たちの動きに合わせろ! ブレーメンみたいに! 二っ! 三っ!」
言うが早いか、ロバの上に犬、犬の上に猫、猫の上にニワトリと積み重なり、四体そのままの姿勢で全員スクワットをしてみせる。物理法則への挑戦だった。
そしてブレーメン要素がオマケすぎる。積み重なる意味はどこですか。むしろ一番下のロバの負荷だけが不当に増えているが、当のロバは三体分の重量を得て「追い込めるッ……!」と歓喜に打ち震えていた。筋トレ中毒に救いはない。
「いいぞ! その汗! その汗だ! 魂ごと燃やし尽くす勢いで滴らせ、飛び散らせろ!! 四っ、五ォっ!!」
人質の誰よりも汗を飛び散らせながらニワトリが叫ぶ。容赦なく、そして確実にカウントは進む。地獄の終わりへと向かって。
あと五回。あと四回だ……回数が減るごとに人質たちの濁った瞳に、わずかな光が戻り始める。終わる。この地獄が終わる。その希望だけが、震える膝を支えていた。
「燃やせ燃やせ! 魂を燃やせぇ!! 九ッ! よっしラスト五回ッ!」
「「「「増えてるうううぅぅぅぅぅ!!」」」」
計算が合わない。九の次は十だ。十で終わりのはずだ。小学生でもわかる算数を、この鶏冠は平然と破壊した。
「限界は超えるためにあるんだよおおおぉ!!」
卑劣! それは回数増加ッ!!
スポーツ界において古来より伝わる最悪の裏切り。「ラスト一回」が一回で終わった試しがないという、あの伝統芸能である。残る筋肉隊の三体は回数が増えた途端、明らかに目を輝かせた。増量は彼らにとってご褒美だ。
「嫌だ! もう嫌だああぁぁぁ!」
「無理ぃ! 限界なのよおおぉぉぉぉ!」
中年の男性が吠え、若い女性が泣き崩れそうになりながら叫ぶ。しかしニワトリは動じない。むしろその叫びを待っていたかのように、鶏冠を揺らし胸筋をピクピクと躍動させた。無論、しゃがみながら。
「嫌だ無理だは聞き飽きた! 言ってるうちは限界なんか来てねえんだ! 行くぞぉ! 一ィ! 二ィ!」
「聞き飽きるほど言わせてんのはそっちだろうがあああ!」
サラリーマンの魂の叫びが広場に響く。だが悲しいかな、その絶叫の間にも彼の膝は律儀に曲がり、伸びていた。
口では反抗しながら、肉体はすでにニワトリのカウントに従属している。哀れな条件反射がそこに完成していた。
「心で勝手にかけたリミッターなんてぶっ壊しちまえ! 大丈夫! お前たちならできる! 俺を信じろ! 三ッ! よぉんっ!」
「だから初対面だろうがああああああぁぁ! 信じられるかボケええええええ!!」
サラリーマンが再び叫ぶ。もはや彼のツッコミだけが、この空間に残された最後の正気だった。
だがニワトリは、その叫びを真正面から受け止め——スクワットの立ち上がりに合わせて胸を張り、翼を模した腕で天を指差して吼えた。
「だったら! 俺を信じるな!! 俺が信じるお前を信じろ!! ゴォォォォ! ロォォォォク!!」
「回数超過ァァァァ!!」
どこかで聞いたことのある熱い名言が、まったく熱くない文脈で消費された。しかもニワトリの被り物で言われても説得力が地の底である。そしてしれっとカウントは進んでいる。もう誰も正確な回数を把握していない。把握する余裕がない。
わけがわからないまま叫んで、筋肉を痛めつけ続ける。
「痛いか? 辛いか? 限界か!? 七ァァァァァ!! そら、今お前は限界を超えたァ!! ハァァァァチッ!!」
超えさせられただけである。自発性は皆無である。
しかし震える太腿は確かに動き続けていた。人体の神秘だった。
「筋トレは自分との闘いだッ! お前たちは今っ! 自分に勝ち続けている!! ラストスリー! これが真のラストだ! あと三回、自分を超越しろぉ!! ワンッッッ!!」
「モモガァァァァァ! モモガァァァァァ!!」
人質の一人が謎の言語で咆哮した。おそらく「腿が」と言いたかったのだろう。だがもはやまとも発音する余力すら残されていなかった。
「悲しみ! 苦しみ! 怒り! なんでもいい! それをエネルギーにして動かせ!!」
「ちくしょおおおおおおおおおおおおおおおお!! ツゥゥゥゥゥゥゥゥ!!」
人質たちも、もはや自分がなぜ叫んでいるのかわからない。
わからないが、魂を燃やし続けている。
カウントの合間にはロバ、犬、猫が「「「ヒィィィホォォォ! ワオォォン! ニャァァァ!」」」と鳴き声で応援を重ねてくる。うるさい。とてつもなくうるさい。しかも三体とも鳴きながら一切フォームを崩さずスクワットを続けている。積み重なったまま。筋トレ異常者集団だった。
「いいぞ! まさに魂の叫びだ!! 燃やせ、燃やせ! 今こそ魂の完全燃焼だ!! さあ、ラストォォォァァァ!」
「「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」」」」
膝を曲げ、尻を出し、そして立ち上がる。
咆哮と共に、ラスト一回の負荷が肉体に刻まれた。
汗が、涙が、陽の光を受けてきらきらと輝いていた。無駄に感動的な絵面だった。
「ナイス筋トレだ! お前たち!!」
タワー化を解除したブレーメンの筋肉隊が、被り物の下で涙ぐんだ声を出しながら、人質たちをハグしていく。分厚い大胸筋に顔面が埋まる。息ができない。だが不思議と、嫌ではなかった。
「最初からここまでやれるヤツはそうそういねえんだ。お前たちは本気で自分の全部を絞りだして俺たちについてきた!!」
ニワトリが誰よりも熱い涙声で語る。マジ泣きだった。
「ありがとう! ありがとう!」
なぜか人質たちも熱い抱擁を返す。そこには男も女もない。年齢も職業も、人質と犯人という立場の違いすらもない。
ただ、己の限界に打ち克ち、筋肉を躍動させ続けた者たちが、そこにいた。
そして——抱擁が解けた途端。
人質たちは、その場に次々と崩れ落ちていった。
ぺしゃり、ぺしゃりと、糸の切れた操り人形のように広場の石畳へ沈んでいく。もはやまともに立つことも叶わず、まさに精も根も尽き果てていた。
博多駅前広場には、燃え尽きた魂たちが累々と転がっている。
その中央で、ブレーメンの筋肉隊だけが「「「「よし、次は上腕二頭筋だな!!」」」」と輝いていたのだった。
「「「「ふざけんな!!!!」」」」
●Ye are guilty.
真夏の陽射しが照りつける博多駅前広場に、絶叫と野太い掛け声が響き続けている。
その異様な光景を、少し離れた人混みの中から見つめる一団があった。
「なにやってんだ、こいつら」
あきれ果てた声の主は劉・涼鈴である。
装いは白いタンクトップにデニムのホットパンツという涼しげなもの。長い銀髪を頭の高い位置でまとめ、赤いリボンで結んでいる。角さえ視界に入らなければ、夏を満喫しに来た長身の観光客としか思われないだろう。
もっとも当人が民間人に紛れたつもりでも、その紛れる先の民間人たちは強制スクワットの真っ最中。もはや紛れる日常のほうが残っていなかった。
「変態さん、変態さんが出ました……」
隣に立つ見下・七三子の口から、ぽろりと本音がこぼれ落ちた。
飾り気のないカーディガンと膝丈のスカートという出で立ちは、どこまでも庶民的で人混みによく馴染む。
柔和な顔立ちも相まって、元は悪の組織の戦闘員だったなどと見抜ける者はいないはずだ。
「いえ、でもそんな、趣味はいろいろですから、出会い頭に変態と悪口言うのはダメです……?」
言った直後に反省を始めるのが彼女である。根っこの部分が純朴な良い子なのだ。
実際のところ筋トレ自体は健全な趣味ではあるだろう。筋トレ自体は。
「なんですかこのマッチョさん達は!?」
藍色の髪を揺らして声を上げたのは架間・透空。ブレザーを着崩した姿は今どきの女子高生そのものである。
(良かった。やっぱり変ですよね!?)
同年代の常識的な反応を得て、七三子は安堵しかけた。だが次の瞬間である。
「ナイスバルク!!!!!」
(えぇ――!?)
透空は口元に両手を添え、全力の声援を送っていた。マッチョマンに寛容すぎる女子高生だった。考えてみれば彼女は√マスクド・ヒーロー出身。怪人やヒーローが跋扈する世界で育っただけあって、鍛えられた肉体への評価値が高いのだろう。
「めっちゃいいひとじゃん。安心安全の指導に、熱く励ましてくれて、めっちゃいいひとたちじゃん?!」
軍服風の装いに制帽を合わせた銀髪の娘、飴澤・茲までもが好意的な評価を下す。冗談を言っている顔ではなく、本気で感心している声色だった。
武強主義の√仙術サイバー出身とあれば、これも当然の帰結なのかもしれない。筋肉は強さ。強さは善。そもそも判定基準からして異なっていた。
「えぇと…求めるひとは求める熱意だと思うので、逆に見ず知らずの人質でよかったのかなって」
夏らしい白のワンピースにボンネット帽を合わせた不忍・ちるはが、おっとりと感想を述べる。
ブレーメンの外見については見事に一言も触れていない。
人外種の恋人を持ち、紙袋を被ったままブリッジ走行する厄災が友人という環境で暮らしていれば、この程度の光景では動じなくなるのだろう。なお後者に関しては慣れてはいけない部類である。
「で、でもこの格好はさすがに……」
七三子はなおも控えめに食い下がった。そう、装いだ。看過できないのはそこなのだ。
「まあBremenも港湾都市でしたから、こんな人達もいたような気がしますね!」
三つ編みの金髪を揺らし、白いローブ姿のエルフ……ルナリア・ヴァイスヘイムがあっけらかんと横槍を入れる。
柔和な微笑みのまま、実在都市の名誉を全力で毀損していた。動物の被り物で半裸の集団がうろつく港町扱いは、風評被害以外の何物でもない。裁判になれば確実に負ける。
(あ、あれぇ――? わたしズレちゃってます!?)
感覚を共有できる仲間が見当たらない。孤立無援の七三子は、すがるような視線を友人の祭囃子・桜へと向けた。
「へ……」
白い髪を指先で梳きながら、桜は腕組みで思案に入る。変態と断じてしまうのは簡単だ。
しかし、彼らがあの格好なのは、悪の組織プラグマのせいだろう。
「へん……」
二文字目で停止。抑えきれぬ熱いパトスが暴走するのは、趣味人の世界ではありふれた話でもある。趣味に貴賎はない。ないのだが。
「うん……やっぱ変態だわ」
熟考の末、結局言い切った。琥珀色の瞳には一片の迷いも残っていない。
「野外の人通りが多い場所でパンイチは、露出狂な変態って言っていいやつだと思うんだ」
当人たちにしてみれば、鍛え抜いた肉体美を披露する芸術活動のつもりなのだろう。現にナイスバルクと叫んでいる者も一名いる。
だが受け手がどう感じるかは別問題であり、往来で動物マスクに半裸の男は警察のご厄介になるタイプとしかいいようがない。
「で、ですよね!?」
ようやく巡り会えた同意見に、七三子は心の底から救われた顔をしたのだった。
それに、と彼女は言葉を継ぐ。
「嫌がる人を強制的に筋トレさせるのが趣味って言うのは、やっぱり悪趣味な変態さんでは……」
先程まで揺らいでいた瞳に、確かな芯が宿り始めている。
趣味そのものは尊重したい。けれど、あの光景を趣味の一言で済ませていいはずがない。
「程よい筋トレは健康にいいとされてますけど、無理やり長時間やらせるのはさすがに良くないかもです!」
透空も大きく頷いて同意を示した。ナイスバルクの声援を送った身ではあるが、鑑賞と強制は別問題である。
「私は熱意があって好きだよ。でも誰彼構わずさせようとするのは別の話だし」
茲もまた、あっさりと評価を修正した。筋肉は正義。だが押し付けは正義ではない。武強主義の世界にも、その善悪の分別は存在するのだ。
「そ、そうですよね!」
七三子がこくこくと首を縦に振る。
ようやく仲間たちの認識が揃った。変態であるか否かの議論は一旦置くとしても、あれが止めるべき行為であることだけは間違いないのである。
「ひとまず変態さんの気を引いているうちに、人質の方々を救助するのが優先でしょうか」
「バルクの大きい人なら話を聞いてもらえるかもと、星詠みさんが言ってた気がします」
透空が記憶を辿りながら提案する。
つまり鍛え上げた肉体の持ち主であれば、あの集団との対話が成立する可能性があるということだ。交渉のテーブルが筋肉でできている連中だが、テーブルが存在するだけマシと言えよう。
「改造の強化筋肉で戦ってる私とか、許されないんだろうなあ……」
七三子が遠い目で呟いた。彼女の怪力は組織に施された改造の産物であり、鍛錬の積み重ねとは対極にある。
「俺も改造人間だから七三子がダメなら俺もアウトだけど……どうだろうね?」
桜が自らの腕を眺めて首を捻る。百の妖怪の力を注ぎ込まれた肉体は、ある意味で改造の極致だ。
「それはダメでしょうね」
キッパリと言い切ったのは紗舞・エトである。
猫の獣人らしい愛らしい顔立ちに、黒髪を左右で低く結んだ髪型。猫のイラストが描かれた白いTシャツにダメージジーンズという飾らない私服姿で、手足の肉球と金の腕輪だけが巫女の面影を残していた。今は完全に街歩きモードである。
「あのタイプは魅せる筋肉が重要です」
配信者としての分析眼が光る。
彼らにとって筋肉とは、苦難に耐えて練り上げた結晶であり、何よりも誇りなのだ。
手術台の上で得た力を見せたところで、対話の扉は開かないだろう。むしろ問答無用で説教とスクワットが始まる恐れすらある。
「ええと、変態さんたちの隙さえあれば、戦闘員さんで抱えて助け出すことはできると思います」
七三子が控えめに挙手をした。改造の怪力は交渉には使えずとも、救助になら存分に活かせる。
問題は、その隙をどう作るかだ。桜さん、私はどうしたら。言葉にせずとも、相棒へ向けた視線が雄弁に問いかけていた。
「よし、隙作り任された!」
視線だけで全てを察し、桜は快活に胸を叩いた。
「桜さん、頼りにしています!」
ここからが作戦開始だった。茶番が長いとか思ってはいけない。
●ハッソマッソ!!!!
さて、やるべきことは、あの筋肉たちの足止めである。
桜の頭にはいくつかの腹案があった。
筆頭はプロテインの差し入れだ。運動後三十分以内はゴールデンタイムなどと呼ばれ、この間のタンパク質補給を筋肉の徒が軽んじるはずがない。受け取る側の食いつきは保証されたようなものだろう。
「けど、あんまり触りたくないんだよね……」
手渡しの場面を想像したところで即座に案は棄却された。
「だからお前らに任せるぞ、白狼天狗」
桜が√能力を励起させると、空間が揺らぎ、白い毛並みの偉丈夫が音もなく降り立った。山伏装束を纏った天狗である。日々の峰入りと修験が造り上げた、装飾のない実用一辺倒の肉体が装束の下に息づいていた。
「山伏仕込みの実用的な筋肉を見せて、威嚇してこい」
命を受けた天狗は静かに顎を引き、大股でブレーメンの筋肉隊へと迫る。何奴、と四対の視線がそちらへ吸い寄せられた。
衆目の中、天狗は無言のまま上衣を肌蹴る。晒されたのは、鍛えるという行為が生活と一体化した者だけが持つ、野生の彫刻めいた裸身であった。
これにはブレーメンの四人も、しばし呆けたように固まってしまう。
「ふっ……」
沈黙を最初に破ったのは犬のポールだった。
「悪くない肉体だが……バルクが足りない! アオーンっ!!」
吠えると同時に、その場でフロントリラックスの構えへ移行する。両脚を張って背を広げ、腹圧を内へ収めて全身の輪郭を際立たせる。動かざること山の如し。静止によってこそ語る、ボディビル基本のポーズである。
「おい、あいつ鼻で笑ったぞ」
「あっちも良い身体してると思うんだけどね」
後方で見守る桜が憤慨し、茲が取りなした。目指す山の頂が違うだけで、どちらの肉体も本物ではあるのだ。
「ならば、ここは俺の出番のようだな」
悠然と歩み出る者があった。穴富谷・泰平。オールバックの黒髪へ爽やかな笑みを常備した、白衣姿の解剖士である。
だが何より目を引くのはその左半身だろう。顔から指先に至るまで皮膚というものが存在せず、鍛え抜かれた深紅の筋繊維が剥き出しのままだ。
歩く人体模型とでも呼ぶべき偉容だが、彼は√能力者。忘れようとする力の前では、白衣を羽織る程度の配慮で街に溶け込めてしまうのだった。
「確かに良い身体してると思うけど……」
桜の声が濁る。露出した筋繊維の造形は確かに見事だ。見事なのだが、あの筋肉の権化どもが競っているサイズは別次元である。彼の肉体で筋肉誇示の殴り合いに勝てるのかは、正直なところ怪しく思えた。
「なに、俺に任せておいてくれ」
根拠不明の自信を湛えたまま、泰平は敵陣の正面へ立つ。
「いい筋肉をしているな」
まず天狗へ、次いでポールへ。順に視線を送り、品評家のように深く頷いてみせた。
「ほう、この肉体美がわかるか」
「ああ、限界まで追い込み続けた末に仕上がった身体だ」
だが、と立てられた人差し指が空気を変える。
「初心者へいきなり過度なトレーニングを課すのは感心しない」
泰平の眼差しが、地に伏す人質たちへと注がれた。声の調子も、彼らへ言い聞かせる柔らかなものへと変わる。
「筋肉は一日にしてならず。大切なのは、自分の限界に合わせて継続することだ」
「今度は俺たちの指導にケチを付けるか!」
「苦痛だけでは筋肉は育たない。自主性を育んでこそ、本当に強い身体になる」
ポールの鼻息が荒くなった。
「筋肉を語るなら、まずは貴様が見本を示すべきだろう」
「いいだろう……」
答えは短い。だがその直後から、泰平を包む気配が異様な密度で膨張を始めた。
「見たまえ。これが100%のその先だ」
|筋肉開放《アルティメットフォーム》!!
両拳を胸の前で絞り込むモストマスキュラーポーズ。刹那、爆発的に隆起した全身の筋肉が、内側から白衣を木っ端微塵に吹き飛ばした。
「おおっ……!?」
|最筋量姿勢《モストマスキュラー》は三角筋、僧帽筋、腕、脚と、余すところなく全身の筋量を凝縮して見せつける構えである。皮膚のある右半身は極限の隆起を、皮膚なき左半身は躍動する筋繊維の一本一本を、それぞれ余すことなく観衆へ叩きつける。
表と中身を同時に見せつける、彼にしか許されぬ二重の説得力。まさしく|究極肉体《オメガマッスル》である。品評する側だったはずのポールが、思わず感嘆を漏らしてしまった。
「これが正しい筋肉指導だ!」
物理的な圧すら錯覚させる、圧倒的筋量によるマッスル威圧。気圧されたポールの足が、じり、と半歩後退する。
「ここは俺が出るしかないようだな」
「ジョン……!」
仲間の窮地に、リーダーの鶏が進み出る。
「ゆくぞっ!」
ジョンの両腕が、大空へ羽ばたく翼さながらに掲げられていく。フロントダブルバイセップス。左右の上腕二頭筋を天へ誇示する、王道にして華のポーズである。
「さすがジョンだ……! バルク、カット、プロポーション、どれを取っても隙がない!」
筋肉とは、ただ大きければ良いという単純なものではない。量、絞り、そして全身の調和。その三位一体の頂きに、美しい逆三角形は屹立するのだ。
かくして真夏の博多駅前に、誰も望んでいなかった筋肉大戦が幕を開けた。
●出勤忍獣チャンズと筋トレ闘争!
「バルクの戦いに発展しましたよ……!?」
透空があわあわと両手を泳がせている。取り乱しているわりに、心なしか声が弾んでいる気もするが。
「とりあえず筋肉で威嚇して時間を稼ぐって作戦は上手くいってるな」
そう評する桜の表情は複雑だった。威嚇のつもりが品評会と化している。成功には違いないが、想定していた展開とはだいぶ異なっていた。
「けど、あとの二人はその戦いに参加していませんね」
原因は明白、泰平のマッスルが強烈すぎたのである。あの領域に付き合えるのは、先んじて見栄えのする筋肉を誇示していたポールと、リーダーのジョンくらいなのだろう。
あぶれた猫のジョージとロバのリンゴについては、別口で気を逸らす必要があった。
「筋肉が強いよりも魅せたいだけなら巻き込むなっていう」
茲がしみじみと漏らす。プロレスラーでもある集団ではあるのだが、リングの上ではなく往来のど真ん中で、揃いも揃って筋肉の誇示に命を懸けているのだから世知辛い。
「用法用量を守って正しく筋トレ、要指導対象!」
言い切った茲が両手を掲げると、ぽんぽんぽんと白い塊が九つ弾け出た。軍警から支給されている忍獣である。体長十センチほどの丸くころりとした身体に、細く小さな手足。頭にはお揃いの軍警帽が乗っている。
「みんな、変態さんを|お相手《・・・》して時間を稼いで」
跳ねて士気を示す子がいる一方で、「えー。しゃーなしやで」と言わんばかりに首を斜めにする子もいた。組織である以上、温度差は避けられない。というか個体差が普通に大きい。
「よおし、忍獣ちゃん出動!」
号令一下、白い群れが敵陣めがけて駆けていく。
ただし一体だけ、茲の空いた手をきゅっと握ったまま、断固として持ち場を離れない個体がいた。
あれ、いうこと聞いてなくない? 周囲の視線が集まる。
「…………きみは一緒に救助だよ」
そういうことにしておいた。この小ささが救助のどこで活きるのかは、指揮官にも分からなかったけれど。
「我らは筋トレの続きといくか」
「さらなる追い込みを!」
その頃、あぶれた二人組……ジョージとリンゴは、性懲りもなく人質たちへ狙いを定め直していた。無論、筋トレ的な意味で。
そこへ白い群れがなだれ込む。
「なんだ、こやつらは」
足元をちょろちょろと跳ね回る謎の生命体に、二人は困惑を隠せない。まさか貴様らも筋トレがしたいのか、と半ば冗談めかして問うてみれば、返ってきたのは全力の跳躍だった。肯定らしい。
「そもそもできるのか?」
当然の疑問である。骨格からして人類と設計思想が違う。
だが彼らは、筋トレはすべてを解決すると信じてやまない者たちであった。
筋肉とは負荷に応えて育つもの。その摂理はいかなる生物でも変わらぬはず。加えてこの丸い形状ならば、腕立て伏せくらいはいけるのではないか? という雑な結論により、青空プッシュアップ教室の開講が決定した。
「プッシュアップで鍛えられるのは、上腕三頭筋と大胸筋、三角筋などだ」
その白い球体に上腕三頭筋と大胸筋が実在するのかは、神のみぞ知る。
「腕をつく際に手幅が狭いと上腕三頭筋、広ければ大胸筋が鍛えられる」
講義しつつ、ジョージとリンゴが自ら手本の姿勢を取った。肘を折り、身体が地面すれすれまで沈む。
「腰が上下しないように注意することだ」
一本の棒と化した体幹はそのままに、肘だけがゆっくりと伸ばされていく。
「これがプッシュアップだ」
忍獣たちも見様見真似で続いた。白い丸がぺこぺこと上下する。もはやそれが腕立てなのかも、いまいち判然としない。
「う、うむ、そんな感じだ」
珍獣すぎて採点基準が存在しなかった。とはいえ動きだけは、なんとなくそれっぽい。
「ぬっ?」
ふとリンゴの視界の端に、新たな影が加わった。すぐ隣で腕立て伏せを始めている女がいる。
一部の乱れもないフォーム。そのうえ回転が速い。
「へっ、ヌルいぜ、筋トレジャンキーども。この程度、劉家拳じゃあウォームアップにもなりゃしねえ」
涼鈴だった。炎天下の腕立てに汗を光らせながらも、口元には余裕の笑みすら浮かべている。
「俺も、もうしばらく付き合わせてもらおうかな」
さらにもう一人。人質側から、自主的に列へ加わる男が現れた。
青い髪に眼鏡、目元の泣きぼくろが柔和な印象を与える青年である。
名をゼロ・ロストブルー。出張の道中で√EDENへ迷い込み、そのままゾディアック継承戦争に巻き込まれた不運なAnkerだ。
(トレーニングはやる覚悟のある奴にやらせるものだから、無理やりは感心しないんだが……)
簒奪者の存在は既知であり、戦う術も持っている。だが現場には√能力者たちが揃っていた。ならば自分は裏方に回り、サポートに徹するべきだろうという判断である。
(正直、この出張で少々食べ過ぎている気もするからな、はは……)
なお、判断材料には、そうした個人的事情も少なからず含まれていた。
「この男も良きフォームをしているな……!」
しかも涼鈴の刻む速いリズムに、眉ひとつ動かさず追随している。
「ならば……!」
対抗心へ薪がくべられ、ジョージとリンゴの回転数も跳ね上がった。
「97、98、99、100、っと……ふぅ」
目論見通り、残る二人のブレーメンは筋トレの沼へ沈んでいる。隙を作るという任務は既に完遂されていた。
「おい、お前さんも、もういいぞ……」
涼鈴はゼロへ小声を投げる。この非常事態への肝の据わり方、そして年季を感じさせるフォーム。おそらくこの男もルート世界の事情を知る側だろうと見当を付けていた。
「101……いや、俺のことはお気にせずともいいさ」
「101、102……これ以上筋トレジャンキーどもに付き合う必要はないってことだよ」
「102、103……そちらは残った者たちの救助を優先してくれ」
「103、104……」
(こいつ……!)
穏やかな辞退を繰り返しながら、ゼロは一向に腕を止めない。その回数の刻み方に、涼鈴はある法則を嗅ぎ取った。
「104、105……」
こちらが数を刻めば、必ずひとつ上回ってから息を整える。
(やっぱり、私を回数で上回る気だな!)
物腰の柔らかさに騙されるところだった。この男、爽やかそうな見かけによらず、結構な負けず嫌いである。
かたや涼鈴も生来の自信家であり、背には劉家の看板がある。
そしてブレーメンの二人にも、筋トレの数で他者に膝を屈せぬという矜持があった。
四者の意地が絡み合い、時間稼ぎだったはずの腕立て伏せは、いつしか純度百パーセントの筋トレバトルへと変質していた。
なお、忍獣たちの一部は早々に飽きて、その辺で転がって遊んでいた。フリーダム。
●スーパーマッスルコールタイム
一方、ボディビルファイトの戦況も熾烈を極めていた。
入れ替わり立ち替わり、渾身のポーズが披露されていく。自然体の肉体美一本で勝負する白狼天狗だけが、心なしか手持ち無沙汰に見えるのはご愛嬌だ。
「まあ! 二頭筋の大山脈!」
突如、エトの声が高らかに響いた。
「オーガもビビる大胸筋!」
ボディビル大会名物、観客席からの掛け声である。会場の熱気を高める伝統芸ではあるのだが、ここは大会会場ではなく駅前広場。味方一同は若干引いていた。
「たた確かに惚れ惚れするような筋肉ですけど、これもちゃんとした作戦ですよ?」
視線に気付いたエトが慌てて弁明する。曰く、コールで乗せれば乗せるほど、彼らの意識は人質から遠ざかるのだと。
透空がなるほど……と得心しかけたところで、ご一緒にどうですかと畳みかけられた。作戦と言われてしまえば、断る理由を探すほうが難しい。悩んだ末に……。
「か、肩にレイン砲台載せてんのかーい!」
「いいですね。いいですねえ。その調子です」
なんか乗っちゃった。
視線の先では、上腕二頭筋を隆起させた泰平が満面の笑みで応えている。
「手羽先の完全究極体!」
鶏だけに。
声を張り上げているうちに、不思議と気分が高揚してきた。エトのコールも止まらない。
「まるで腹筋スケイルアーマー!」
「仕上がってるよ! 仕上がってるよ!」
「世界樹ハムストリングス!」
√ドラゴンファンタジー育ちならではの、他所では絶対に聞けない語彙の数々である。だがその桁外れのスケール感が琴線に触れたのか、ジョンとポールは最高潮のテンションで筋肉を披露し続けた。
コールが響くたび、ポーズの切れ味が増していく。もはや彼らの世界に、人質という概念は存在していない。
意識を引き剥がすという当初の目的に照らせば、文句なしの大戦果であった。
●最強の筋肉は誰だ!? |筋肉番付《マッスルランキング》
「なんとか助かったのか……」
へたり込んだサラリーマンの男が、遠くで繰り広げられる腕立て競争を眺めながら胸を撫で下ろしていた。監視者たちの目は、もはや欠片もこちらへ向いていない。
「こんにちは!」
「こんにちは……?」
顔を上げると、ポヤポヤとした雰囲気の少女が立っていた。三つ編みの金髪に白いローブのルナリアである。
「身体を鍛えてくたくたなのは良いことですが、筋肉パワーをつけるには栄養面も重要です!」
「え、はぁ……」
鍛えたくて鍛えたわけではないのだが、指摘する気力も残っていない。
特に喉が渇いたままですと倒れる事もありますからね! と話は本人の中だけで進行し、目の前へ小瓶がずいっと突き出された。
「ということで、私が作った元気になるポーションです!」
日常会話に存在しない単語が混入した。よく見ればこの娘、耳の先が尖っている。
「飲んで」
「えっと……」
「飲め」
なんかこわい!
観念して受け取っても、ニコニコ笑顔の視線は微動だにしない。これは飲み干すまで終わらないやつだ。筋肉マスク集団とはまったく別系統の恐怖に背を押され、男はええいままよと中身を一息に呷った。
「筋肉に必要なエネルギーが補給できて助かりましたね!」
悔しいことに、身体の芯へ確かな活力が灯った気がする。助けようという善意そのものは本物なのだろう。男は素直に頭を下げた。
「あ、ありがとう……」
「じゃあ続きを頑張ってくださいね!」
「はい?」
礼を言い終えた次の刹那、腕を掴まれ、視界が回転した。豪快に振り回されて放り出された身体はよろよろとたたらを踏み、よりにもよって腕立て中のジョージのすぐ隣へと吸い込まれていく。
「おお、お前も続きを求めてきたか!」
「いや違……」
「良い心がけだ! 共に限界の向こう側へ向かうぞ!」
「なんでこうなるんだよぉおおおお!」
……ちるはがふと目をやると、腕立てメンバーの頭数が増えていた。
涼鈴とゼロにブレーメンの二人、そして新規参入のサラリーマン。すごい気合ですねー、と素直な感心が漏れる。
それはそれとして、自分が同じ輪へ加わる展開だけは全力でごめん被りたい。
「あの……」
声をかけると、ジョージはフォームを寸分も崩さず、視線だけをこちらへ寄越した。
「なんだ、娘よ。お前も共に」
「いえ、それは結構です」
食い気味の即答だった。本気の拒絶である。
「では何だ?」
平時であれば問答無用の強制参加コースだったのだろう。だが幸か不幸か、今の彼は腕立てバトルの真っ只中。他人を勧誘する余力までは残されていなかった。
「もっと『負荷』、必要ではありませんか?」
「なに……?」
言葉と同時に、ちるはの周囲へカラフルな毛玉たちがぽこぽこと湧き出した。本日この広場に現れる、二種類目の不思議小型生物である。
「この子たちはぽんです」
名称もぽんであるらしい。紹介された一匹がころりとジョージの背へ乗り移る。途端、見た目からは想像もつかない重量が彼の体幹へのしかかった。
「うぐううぅぅ!?」
限界域の攻防を続ける身体に、この追い打ちは効く。
毛玉はそのままリンゴの背へも転がり込み、悲鳴じみた呻きがもう一つ広場へ加わった。
「如何でしょうか?」
「ぬおおおおおぉぉ!」
両腕を震わせ、歯を食いしばり、それでも二人は姿勢を守り抜いた。耐えただけではない。むしろ腕立ての回転は勢いを増していく。追い込みとは、彼らにとって罰ではなくご褒美なのだ。
「っち! こっちもだ!」
「俺の方にもお願いする」
「えぇ……」
仲間たちへの援護射撃も兼ねていたはずが、なぜか涼鈴とゼロからも需要が発生した。
もはやここは本気の筋トレバトル会場と化しているのだ。
一方だけの負荷の追加は、彼らにとって敗北を意味する。
(今日の分の筋トレに満足したらお帰り頂けるとよいかと思ったのですが……)
結果、重り毛玉を背負った集団が延々と腕立てを続けるという、混沌だけが順調に深まっていったのだった。
●救助には熱中症対策も忘れずに
ブレーメン四名の意識は、完全に√能力者たちへと釘付けになっていた。
「今のうちに救出しましょう」
ぽんを放ったちるはが告げる。様子を窺っていた面々も静かに頷き合い、気配を殺しながら人質たちのもとへと散っていった。
「はい、おいしい水よ」
人質たちへ水を配って回るのは、サルサ・ルサルサである。
その正体はジェノサイドサボテンの獣妖なのだが、今は騒ぎに紛れ込むため人間体へと変化していた。白い髪に緑の瞳という、小柄で可愛らしい娘の姿である。
配られる水は、サルサが√能力によって花から生み出した、活力を与える恵みの水だ。炎天下で筋トレを強いられた者たちにとって、これに勝る癒しはない。
「美味い……ありがたい」
干からびかけた喉に水が染み渡り、あちこちから感謝の声が漏れる。
透空とエトも交互に人質たちへ声を掛けながら、手の空いたほうが救助を進めていく。
透空は気象兵器の力を穏やかに呼び起こし、きらきらと輝く細氷を人質たちの頭上からゆっくりと降らせた。舞い落ちる氷の粒が火照りきった肌を優しく冷やし、アイシングとなって疲労を和らげていく。
「これで少しは動けるようになるといいんですけど……」
精魂尽き果てた彼らにとって、それはまさに天からの恵みだった。灼熱の広場に、そこだけ瞬間的でささやかな冬が訪れたかのようである。
「救助ならお任せください」
七三子が両手を広げると、スーツ姿で仮面を被った戦闘員軍団がその場へ整然と出現した。
彼らは無駄のない動きで散開し、一人また一人と、自力で歩けない人質を丁寧に抱え上げていく。その様はもはや戦闘員というより精鋭救助部隊である。悪の組織の技術も、使い手次第でここまで人助けに化けるのだ。
「聖なる獣の精霊たちよ、喚び声に応え我が元に来たれ」
エトの祈りに応え、小さな猫を思わせる精霊たちがふわりと姿を現す。小さな不思議生物三種目だった。
彼らは残っていたぽんと連携し、ぐにょんと大きさを変えて長く伸びた。
そして担架のように、あるいは魔法の絨毯のように、動けない者たちを乗せて次々と広場の外へ運び出していく。
「も、もう……ほんとに……むり…………」
べしゃり……と、強制参加させられていた例のサラリーマンが、ついに地へ突っ伏した。とうに限界を迎えていた身体である。ポーション一本の活力で保つ時間など、たかが知れていたのだ。
「あー、ついに倒れちゃったかぁ。おつかれさま」
茲がサラリーマンを肩に担ぎ、避難場所へと運んでいく。逆の肩にはあの忍獣がちょこんと乗り、嬉しそうに茲の頬へ身体を擦り付けていた。
なるほど、一緒に救助とはこういうことか。役に立っているかはさておき、癒しではあった。
●逆襲の時来たれり
一回、また一回と数を重ねるごとに、腕へ鉛が流し込まれていく。蓄積した痛みが薄れることはなく、頭上の太陽は執拗に水分を奪い続けていた。
腕立て伏せの四つ巴は、既に持久戦の様相を呈している。誰の声にも張りは残っておらず、地へ滴る汗の音に混じって、掠れた数字だけが刻まれていた。
「そしてお前らはもう完全にやる気ないな……!」
リンゴの怒声が飛んだ先は、視界の端で好き放題に遊び回る白い群れである。
開講当初の生徒たちのうち、腕立てを続けているのは今や一匹きり。
何気にその背には、ちゃっかりぽんが一体乗っている。ぽんの重量こそ増えていないだろうが、自分と同じ体格を背負っての腕立てなのだから、十分対等な負荷にはなっているだろう。
さらに別の一匹は、チョークで地面へ正の字を几帳面に刻んでいる。喋れないなりにカウント係を務めているというわけだ。妙なところで仕事が丁寧だった。
そして残りは完全なる自由時間である。教えるべき相手のはずが、教室から真っ先に脱走していた。
あまつさえ一匹がとことこと近寄ってきて、ぺちぺちと脚を叩いてくる。フォームが甘いんじゃないの、とでも言いたげな面構えである。
別の一匹は目の前でくるくると回転し、また別の一匹は小刻みなステップを踏み始めた。
「こいつら……! やめろ……!」
殴りたい。心底殴りたい。だが地面から手を離せば、その瞬間に勝負は決する。そもそも今や、雑念に割く体力すら惜しい状況だった。気を抜けば重力に呑まれ、そのまま大地の一部になってしまいそうである。
挙句、二匹が視界の正面へ陣取って腕立てを始めた。無駄に高速である。ペース上げなよ、という煽り以外の何物でもなかった。
「うごおおおおぉ!!」
負けるものか。俺はブレーメンの筋肉隊。その誇りだけを薪にして、リンゴは燃え続けてきた。だが、薪には限りがある。
「ヒーホー……ジョージ……すまない。後は頼……む…………」
「リンゴォォォォ!」
ぐしゃり。潰れた蛙のような音を立てて、ロバの巨躯が大地と一つになった。その腕が己の身体を再び持ち上げることは、もうなかった。
「フォーメーションで一番下になっていたのに、無茶しやがって……!」
ジョージの脳裏に、あの四段タワーが蘇る。積み重なった仲間三人分の負荷を、一身に受け止め続けた最下段の男。誰よりも追い込まれた状態でこの死闘へ臨んでいたのだから、灯火が最初に尽きるのは道理であった。
「っへ、ザマーねえな」
涼鈴が横目でジョージを流し見て、挑発的に口角を吊り上げる。
「貴様……! ならば俺がリンゴの分まで回数をこなすまでよ!」
「だったら私も本気を出すぜ……!」
「なにぃ!」
宣言と同時、涼鈴の上下運動が別の生き物のように加速した。武の一門で練り上げられた身体は、この消耗戦の果てにあってなお、底を晒していなかったのである。
(これはキツいな……!)
その加速は、ゼロへも容赦なく波及していた。
地力なら人並み以上。だが彼にはトレーニングから離れていた空白の期間があり、背にはぽんの重量まで乗っている。肉体の悲鳴は、既に絶叫へと変わりつつあった。
なお、唯一の真面目な生徒だった忍獣は、この領域の速度に置き去りにされている。
それでも、ここで降りるという選択肢だけは取れない。涼鈴に負けるのが嫌なのではない。降りた瞬間、自分自身に負けるのが嫌なのだ。
どうやら今日は、心と身体の両方で限界の向こう側を拝むことになるらしい。
(それに……あっちもまだやる気か……)
一方のジョージも、内心では際限なく湧く弱音と格闘していた。
限界だ。苦しい。もうやめたい。浮かんでは沈む泡のように、諦めへの誘惑が次々と生まれてくる。
だが、それがどうした。筋トレとは元来苦しいものだ。厳しいものだ。楽な筋トレなど、もはや筋トレと呼べはしない。
そして、その苦しみを踏み越えた先で応えてくれるのが筋肉ではないか。
筋肉とは努力だ。
筋肉とは己だ。
筋肉は自分を裏切らない。積み上げた鍛錬だけが、明日の己を支えるのだ。
「俺はやれる! イケる! 信頼マッソォ――!!」
「なら、もう一段階だ」
涼鈴がさらにギアを上げた。
「なん……だと……!」
「まったく、無茶をするな……!」
驚愕に固まるジョージの傍らで、ゼロは無言の意地でその速度へ食らいつく。
まずい。置いていかれる。追わねば。焦りがジョージの頭を白く染めていく。
「俺はやれ……ニャオオオゥゥゥ!?」
突如、右腕から感覚が消えた。痙攣。つったのだ。よりにもよって、この正念場で。
原因は明白だった。焦燥に駆られながらの連続ペースアップ。一定のリズムを守ってさえいれば、まだ耐えられたはずの負荷を、無理な変速が一息に限界の外へと押し出してしまったのである。
限界ギリギリを攻めるにしても、筋トレはあくまで自分のペースで。
筋トレの中で、ジョージは筋トレの基本を見失っていた。
「ぬぶえぇ!」
鈍い音と共に、猫もまた大地へ還った。
「っへ、手こずらせやがって……おい、今度こそいいだろ」
「ああ……どうやら目的も果たせたようだ」
二人が視線を巡らせた広場に、筋トレを強いられていた人質の姿はもう一人も残っていない。避難は完了。長きにわたる死闘は、ようやく役目を全うした。
涼鈴とゼロはようやく腕立てを止め、汗だくのまま立ち上がった。
「リンゴ、ジョージ……!」
仲間の異変にようやく気付いたジョンが、ポージングを解いて二人へ視線を注ぐ。
「おのれ、謀ったな!」
ポールも状況の暗転を悟った。憎々しげに睨む先は、散々自分たちを乗せてくれたコールの主である。
エトはテヘペロと可愛らしく微笑んだが、すぐに表情をキリッと直し、
「そこまで絞るには眠れない夜もあったでしょうけど……お仕置きです!」
彼女が祈るように手を組むと、応じてディヴァインブレイドが起動した。主なき刀身が自ら宙を翔け、ポールへと斬りかかる。
「これは……味な真似を!」
迎え撃とうにも間合いが掴めず、ポールは防戦一方に追い込まれていく。
「こんな梅雨明けの季節に筋トレなんてやらせたら熱中症で犠牲者続出。それが狙いということね、ゆるすまじ……ということにしておきましょう」
「おい、聞こえてるぞ……ってきゃいーん!」
便乗するように参戦したのはサルサである。人間体を解き、本来のタマサボテンの姿へと転じると、頭頂の青い花から砂の爆弾を撃ち出した。
砂塵の炸裂に怯んだところへ、間髪入れずに針の斉射が浴びせられる。
「いだだだだだ!」
咄嗟に掲げた腕が、瞬く間に針山と化していく。
「サルサは筋トレなんてお断りよ。だって植物だもの。もともと筋肉なんてないのよさ~」
「申し訳ないですけど、止めさせていただきます──決戦気象兵器、起動ッ!」
針の弾幕が敵を釘付けにしている間に、透空の背へ淡く輝く翼が展開されていた。細氷を翼の形に束ねた気象兵器『ハイペリオン』である。照準の先から、氷の弾丸が放たれた。
「適切な筋トレには適切な休息が必要ですからね! 筋肉を愛してるというのなら! しっかり休憩時間を入れて! 飲み物も飲ませてあげてくださいっ!!」
着弾と同時に烈風めいた冷気が吹き荒れ、真夏の広場から体感温度を根こそぎ奪い去っていく。
「うおおぉぉぉ! だが、運動後の急速な冷却は疲労回復を早めるのだ!」
冷気の只中で踏み止まったジョンが、見よとばかりに腕を後方へ振った。
示された先には、よろめきながらも再び立ち上がったジョージとリンゴの姿がある。
「攻撃すら回復になるって、どれだけ追い込んでたんですか!」
先ほどとは違い、これは本気の攻撃として放たれた冷気だ。
それでも肉体機能を取り戻す回復になってしまうのは、あの腕立て対決の苛烈さの証明であった。
「ここからが真の闘いだ! 我々のマッスルが見かけだけではないことを見せてやろう!」
「見たところ、レスリングを嗜んでるんですかね?」
ルナリアの声が心なしか弾んでいる。
「我らは筋肉と共にプロレスを愛する者である! いくぞ、ジョージ、ポール、リンゴ!」
「ヒィィィホォォォ!」
「ワオォォォォォン!」
「ニャオォォォォン!」
「コケェェェェェェ!」
四つの咆哮が重なり、筋肉たちが次々と宙を舞った。着地と同時に連結していく。土台にロバ、その肩へ犬、さらに猫、頂点へ鶏。天へ聳える筋肉の四段櫓、これぞ無敵の戦闘形態!
「あれ、どうやって戦うんでしょう? というかプロレス……?」
透空が小首を傾げた。無理もない。マッチョの四段肩車は、プロレス技の文脈へ置いてもなお異物であり、率直に言ってシュールの極みである。
「ディヴァインブレイドで斬り放題ですね」
エトの分析は冷徹だった。的として大きくなっただけではなかろうか。あまりの隙の多さに、攻める側が手心を検討し始める始末である。
「ならパンクラチオン! |拳闘《ピュグマキア》でお相手しましょう!」
だが一名、真正面から乗る者がいた。ルナリアが固く拳を握り込む。その闘争本能に火が入った!
「ヒィホォォゥ!」
先手は土台のリンゴ。両腕を地から離した神業バランスのまま、最下段から拳を突き上げてくる。
ルナリアは首をわずかに振るヘッドスリップで軌道の外へ。すかさず上方から、ポールの組んだ両拳がダブルスレッジハンマーとなって落下してくる。
これも片手のパリーで軽やかに受け流す。古代ギリシアより連綿と受け継がれし格闘技術である。
「だしゃあ!!」
お返しとばかりに、右の剛拳が唸りを上げた。
「ごぱぁっ!」
直撃を受けたリンゴが吹き飛び、四段櫓は土台から瓦解する。崩れ落ちる筋肉の只中へ、なおも拳、拳、拳。一打ごとに戦闘不能を狙う、慈悲なき連打が突き刺さっていく。
「なんだこの女、蛮族か!?」
ジョンの悲鳴じみた驚愕が上がった。
なお名誉のために強調しておくと、この蛮族エルフ、本来のジョブは魔術師や錬金騎士である。屈強なカボチャ精霊を召喚したり、杖で撲殺したり、真っ先に参戦すると奇声を上げて殴りかかったりするだけの、れっきとした魔法職である。
「おい、足がまだ全然ぷるぷるだぜ?」
風が奔った。跳躍した涼鈴がリンゴの眼前へ舞い降りるや、ローキックが一閃する。
常のレスラーならば足腰で受け止めたであろう一撃も、絞り尽くされた今の下半身には荷が重い。がくりと膝が落ち、前のめりに沈んだ顔面へ、返す膝が深々とめり込んだ。
「ヒボォオオッ!」
ロバ、二度目の、そして完全なる沈黙である。
「よくもリンゴをー!」
「待て!」
制止も虚しく、頭に血が上ったジョージが背後から躍りかかる。
だが涼鈴は慌てない。振り向きざま、しなやかな脚が弧を描き、マスク越しの顎を正確無比に蹴り抜いた。
後ろ回し蹴り。それも直前の上歩で軸を完璧に整え、待ちの体勢から自然な呼吸で放たれた一撃である。ルナリアの豪快な暴力とは対極の、研ぎ澄まされた技巧が生む静かな必殺だった。
「我々がこんなにもあっさりと……貴様は!」
崩壊していく戦線に動揺するポール。その眼前へ、のしりと白い巨躯が立ち塞がった。白狼天狗である。無言の眼光が、真っ直ぐにポールを射抜いていた。
「いいだろう……」
言葉はいらなかった。視線だけで意図を汲み、ポールは静かに拳を固める。
「アオォォォン!」
遠吠えと共に、渾身の右が天狗の顔面へ吸い込まれた。寸分違わぬタイミングで、天狗の拳もまたポールの顔面を打ち抜いていた。
互いの拳骨が深々と埋まり合い、二つの巨躯がゆっくりと、崩れるように倒れていく。
漢と漢の問答無用な相打ち――ダブルノックアウトであった。
●最後の|勝者《マッスル》
仲間たちは次々と大地へ沈み、広場に立つブレーメンは今や一羽きり。リーダーの鶏、ジョンだけが残されていた。
「たとえ一人でも、俺は戦い抜いてみせるぞ!」
「だったら、筋肉勝負らしくこれで決着を付けないか?」
「ぬぅ……?」
どこからか運ばれてきたテーブルが、ジョンの前へどんと据えられた。運び手は桜である。近くのオープンカフェから拝借してきたらしい。
そしてジョンへと向けて、ニヤリと意味深な笑みが向けられる。
「腕相撲勝負だ!」
腕相撲。別名アームレスリング。
ルールの説明など不要な、あまりに有名な競技である。だが一見すると単純な腕力比べに思えるこの勝負、その実態は違う。
真の強者は前腕や上腕に留まらず、回旋筋腱板、背筋、さらには下半身に至るまで、全身の筋肉を一本の鎖のごとく連動させて力を絞り出す。すなわちこれは、凝縮された筋力と筋力の正面衝突なのだ。
「この俺にアームレスリングか。いいだろう。相手は誰だ? 先ほどの見事な筋肉を持つ男か?」
脳裏に浮かぶのは、あの|究極肉体《オメガマッスル》である。奴との雌雄ならば、こちらとしても望むところ。
しかし桜は、ノンノンと指を振った。
「さあ、出番だぞ七三子!」
「……へ? 私ですか!?」
この場の誰よりも驚いたのは、指名された当人だった。
人質たちを安全圏まで送り届け、ちょうど広場へ戻ってきたところである。労いの言葉より先に降ってきたのが、まさかの大将戦への登板だった。
「私なんて全然|下っ端《かよわい》戦闘員なんですけど……?」
「ほら、七三子ここまで出番あんまりなかったし?」
「ちゃんと一般の方たちの救助したんですけど……」
華やかさこそないものの、作戦の根幹を支えた縁の下の力持ちである。出番の有無で言えば、むしろ働き詰めだったと言っていい。
「こんな華奢な小娘がだと……!」
当然、筋肉の信奉者たるジョンは激怒した。あの蛮族エルフや、神速の蹴りを放つ武術家が相手ならばまだわかる。よりにもよって、この場で一番の細腕を寄越すとは。舐められたにも程がある。
「ほらぁ、へん……マッチョさんも怒ってますよ! 私より、桜さんの方が強いと思うんですが」
「俺はほら、あんまり触りたくないし」
「何を? 俺には筋肉愛が醸し出す、パーフェクト・グルーミングな香気が……」
「いや、今そういうのいいから」
「むぅ……」
七三子を指名された時とは別方向の不服そうな空気が漂った。
だが今は香気の議論をしている場合ではない。
「そっちが勝ったら俺たちは全員撤収してやるよ。それとも、その細い女に負けるのが恐いのか?」
「言ったな。もう取り消せぬぞ」
「ああ、問題ないね」
「ちょっと、なんで勝手に決めちゃうんですかー!」
「勝てば問題ないんだよ。勝てば」
抗議の声も虚しく、気付けば退路は完全に断たれていた。
「来い……っ!」
ジョンがテーブルへ肘を据え、太い腕を差し出す。
七三子はおずおずと向かいへ立ち、腕を置き、互いの手を握り合った。
(ふん、やはり素人か……舐められたものだ)
組んだ瞬間、ジョンは内心で確信する。筋力勝負ならば、彼の知識と技術の独壇場だ。
肩は台と平行に。肘は身体の中心線上へ。腹をテーブルへ密着させ、組み手と同じ側の脚を前へ置く。全身を腕一本へ束ねる、教科書通りの構えである。
対する七三子は、身体が前へせり出した素人丸出しの姿勢だった。あれでは連動が切れて、腕の力だけが頼りになる。
「おおー、アームレスリングですか! 私もやりたかったー!」
「おや、まだ筋肉の躍動が見られるようですね」
ルナリアとエトをはじめ、仲間たちが何事かと輪を作り始める。
観衆は揃った。ならばこの衆目の中、己の筋肉を見せつけて勝利をもぎ取るのみ。ジョンは絶対の自信と共に腹を括った。
「それじゃあ、レディ…………ファイッ!」
開始の号砲。速攻で終わらせてくれる。
ジョンは全身の連動を解き放ち、腕と体重を同時に叩き込んだ。
「うっ……!」
(動かないだと……!)
微動だにしない。何だこの手応えは。
人の腕を倒しているはずが、まるで大地に根を張った巨木と組み合っているかのようだった。
「むううぅぅ!」
逆に七三子が力を込めると、ジョンの剛腕がずるりと傾き始める。
「うごおおおおおお!」
咄嗟に、ジョンは空いた手でテーブルの縁を鷲掴みにした。正式なアームレスリングでは、逆の手でバーを握るのが基本である。これで全身の出力を余さず腕へ乗せられる。
テーブルを掴んではいけないというルールは、事前に取り決められていない。グレーではあるが、反則ではないはずだ。
その甲斐あって七三子の腕が止まり、勝負は拮抗状態へと突入した。
(これでようやくかっ!)
冷や汗が背を伝う。もし相手が正しいフォームを知っていたなら、瞬殺されていたのはこちらだった。
しかも均衡は長く保てない。先に力尽きるのは、確実に己のほうだ。どうする。どうすればこの女に勝てる。教えてくれ、俺のマッスルよ!
「アオオオォン! ジョン! 諦めるな!」
「ニャオオオン! そうだ、まだ終わってないぞ!」
「ヒィィィホォォォォ! 限界なんて越えちまえ!」
「お前たち……!」
いつの間にか意識を取り戻していた仲間たちが、地に伏したまま声援を張り上げていた。
そうだ。この腕に乗っているのは、己の筋肉だけではない。
苦楽を共にし、同じ汗を流してきたポール、ジョージ、リンゴ。共に鍛え上げた日々の全てが、己の筋肉に宿っているのだ。
「コケエエエェェェ、コッコオオォォォォ!」
叫んだ。狂え。狂え。狂え。心が己へ掛けたリミッターを、今この時のために全て引き千切るのだ。
全身の筋繊維よ、一つに束なれ。そして力へと変われ。
腕が、動いた。
直後、ダンッ、と何かが叩きつけられる音が響く。
だが、倒れたのは七三子の腕ではなかった。
そして、ジョンの腕でもなかった。
組み合う二本の腕を結ぶ線に沿って、テーブルが真っ二つに割れたのである。
「これは、引き分けか……?」
あまりに予想外の幕切れに、勝負を仕掛けた張本人の桜も困り顔になっていた。
「やろうぜジョン。俺たちはまだ負けてないぞ! 徹底抗戦だ!」
沈黙を裂いたのはポールだった。倒れ伏したまま気炎だけは吐いている。ジョージとリンゴも、賛同の鳴き声を絞り出した。
「むっ……いや、退くぞ。お前たち」
しかしジョンは、割れたテーブルの断面を静かに見つめたまま、ゆっくりと首を横へ振った。
「どうしてだよ、ジョン!」
「気付いたのだ。我々にはまだまだ追い込みが……鍛えが足りない」
「そ、そんな……」
「俺たちの筋肉が、未熟だと……」
衝撃が三人を貫いた。誰よりも筋肉を信じてきたリーダーの口から、まさかの敗北宣言。
それも、自分たちの筋肉に鍛えが足りないというのだ。
刹那の沈黙。そして――
「俺たちの筋肉はまだ鍛えられるところが残っているんだな!?」
「俺たちの筋肉はまだまだ育つぞおおおぉぉぉぉ!」
「やったあああああ! そうとわかれば帰ってトレーニングだ!」
絶望の谷は、瞬時に歓喜の頂へと反転した。
伸びしろ。そう、伸びしろである。鍛えるべき場所が残っているという事実は、彼らにとって敗北の証ではなく、明日への福音なのだ。つくづく前向きな筋トレジャンキーたちだった。
満足げに頷いたジョンは、仲間たちと共に踵を返す。
「ちょっと待って」
その背を、茲の声が呼び止めた。ジョンは首だけで振り返る。
「スーツの人からの伝言。今日は途中で倒れたけど、鍛えて今度は最後までやってやるから覚えてろって」
あの、腕立てへ強制参加させられ、最後には力尽きたサラリーマンの言葉である。ついでにスクワットの時、全力でツッコミ入れまくっていたサラリーマンである。
マスク越しにもはっきりとわかるほど、ジョンは目を見開いた。
しかし彼は言葉を返すことなく正面へ向き直り、ただ大きく広げた手のひらを高々と掲げて、仲間たちと共に去っていったのだった。
「なんとか満足して帰っていってくれましたねー」
ちるはがほっと胸を撫で下ろした。戦闘こそ避けられなかったものの、結果としては穏便な部類だろう。そして何より、自分が強制筋トレへ巻き込まれずに済んだ。今日一番の安堵はそこである。
「お疲れさま。おいしいお水はいかが?」
「ありがとうございます! えへへー、もう緊張で喉カラカラでした」
サルサから小瓶を受け取り、嬉しそうに一息で飲み干す。
「はぁー、本当に美味しいです!」
「それならよかったわ」
満面の笑みにつられ、サルサも柔らかな微笑みを返した。
「七三子……」
名を呼ばれて振り向くと、桜がジト目でこちらを見つめていた。名前しか呼ばれていないが、結構な圧を感じる。
「いやぁ、その……勝てなくてすみませんでした……!」
「そうじゃなくてさ。これ、壊したの七三子だろ」
「えっ!?」
「ここっ」
桜の指が示したのは、割れたテーブルの片割れ。七三子が肘を据えていた部分である。そこだけが、めり込むように深く凹んでいた。
「そ、それはー、思わず力んじゃってですね……」
視線が泳ぐ。露骨に泳ぐ。
「はぁ……ま、そういうことにしておくよ」
「えへへー」
誤魔化し笑いの裏で、七三子は土壇場の迷いを思い返していた。
例えばジョンの相手が自分ではなく、泰平であったなら、何の躊躇もなかっただろう。彼もまた紛れもない筋肉の信奉者だからだ。
だが自分の力は違う。時間をかけて積み上げた鍛錬の結晶ではなく、手術台の上で与えられた改造の産物である。
筋肉を愛し、トレーニングを誇りに生きてきた者へ、そんな力で勝ってしまっていいのだろうか。
その葛藤の果てに彼女が選んだのは、勝負そのものを消してしまうという、第三の答えだったのである。
「衝撃的な結末でしたが、いい勝負でしたねー」
観戦していたルナリアが、ぽやぽやとした余韻に浸っている。
「ああ、思わず俺の筋肉も疼いてしまった」
泰平がそう応じると、ルナリアの瞳がおおっと輝いた。殺る気……もといヤル気の目である。
「じゃあ、私たちもやりますか?」
「ふふ、いいだろう。受けて立つとも」
双方が笑みを交わした途端に、二人を挟む空間がぐにゃりと歪んだ……ように見えた。触れてはいけない何かが対峙している。周囲はそっと距離を取った。
「はぁっ、眼福でした……」
筋肉をしこたま堪能したエトが、心底満ち足りた息を吐く。
「そうですねぇ……」
透空もつられて今日の躍動を思い返し、少しばかり頬を緩めた。無我夢中で張り上げたコールも、終わってみればなんだかんだ楽しかったのである。
その後、二人は戦争の休憩がてら喫茶店へと流れ、筋肉の感想戦へもつれ込んだという……。
「あー、やっと終わった……まったく、無駄に疲れさせてくれたもんだぜ」
涼鈴が肩を回しながらぼやく。当初はパフォーマンスのつもりだった腕立てが、蓋を開ければ本気の意地の張り合いである。
本来演じる予定だった筋書きは、忍獣やらゼロやら、似た発想の持ち主が重なったせいで、だいぶ違う演目になってしまった。
「俺は、今の自分の限界を知れる、良い機会になったよ」
ゼロは眼鏡を押し上げ、晴れやかに笑った。本当の限界とは、全てを出し切った者だけが知れる境地である。そういう意味では、彼にとって収穫の多い一日だったのだろう。
そこへ、ぽむぽむと二人の足を叩く小さな感触があった。
見下ろせば、そこにいたのは忍獣である。ついて来いと言わんばかりに向きを変え、とてとてと歩き出す。
導かれた先にいたのは、ぽんを背に乗せたまま、なおも腕立てを続ける例の一匹だった。
その手前の地面には、チョークの正の字がびっしりと刻まれている。
そして次の一回で体が沈み、また上がると、合計値は涼鈴とゼロの記録をひとつ上回った。
忍獣とぽんたちの視線が、静かに二人へと注がれる。
その光景にゼロは目を丸くし、それから観念したように笑った。
「これは負けを認めざるを得ないな」
とんだ伏兵だった、としかもはや言いようがない。限界への挑戦を行っていたのは、自分だけではなかったのだ。
そう思うと、なんとなく清々しく、そして嬉しくもあった。
「うっ……」
続けて、数多の視線が涼鈴へと集中して向けられる。何か言うことがあるだろうと迫る、物言わずして雄弁な視線の束だった。
「わかったわかったって。お前の勝ちだよ」
涼鈴も肩をすくめ、白旗を揚げた。
まさかこんな小さな丸っこいのに、ここまでの執念を見せられるとは思わなかった。
自分たちが戦っている間にも、黙々と腕立て伏せを続けていたのだろう。
そして遅れを密かに取り戻していたのだ。さながらウサギとカメのごとく。
そこまでやられればもう、認めてやるのが礼儀ってもんだな。さしもの涼鈴もそう思うしかなかったのだった。
本日の勝敗。忍獣の勝利。
