⑭悪人であれ
●敬虔なる愚者
神に殉じたもうた聖人たちがいた。
彼らは神の奇跡を後世に遺した。
困難を受け入れ、信仰に身を沈め、博愛を示す――そのために。
|聖遺物《奇跡》を身に纏う女――バルバラ・アルペンローゼは、溜息を吐いた。
敬虔な信徒でもない。賢くもない。
請われた。それだけで、奇跡の御業の遺物を手にしたのだ。
「賢い彼らが言っていた。――なら、これが正しいのだろう」
神の御前で、胸を張って立つことは出来ずとも。自分自身が生きている世界を愛している。
守るべきもののためならば、悪辣だと謗られてもいい。その覚悟だけは、あった。
――ああ、それでも。せめて、
「悪人で、あればいい」
祈るように、言葉を零す。
守るものもなく、大義もなく。ただ我欲のために、なにかを傷つけるような。そんな者であれば。
緑を纏う建物へ、女は足を踏み入れる。
眼鏡の奥の赤の瞳は真っ直ぐと、そこに在る人々へ視線を向けた。
「すまないな。私はあまり賢くないんだ――だから、教えてほしい」
床を踏み抜かぬよう努めながら距離を詰め、彼女は問う。
「君たちに、守るべきものはあるか」
●守りたいもの
集まったEDENたちに、星詠みの女――白露・花宵は長く残る煙草を揉み消し。挨拶もそこそこに、早速と口火を切る。
「√仙術サイバーのEU。そこの最高議長、バルバラ・アルペンローゼのこと、お前さんたちも知っているだろう?」
|聖遺物《レリック》で武装した、理知的に見えるバルバラ。しかしウェイトリフティングの選手だという彼女は、賢さではなく武強主義によってその座に選ばれたのだという。
「そんなお偉いさん自ら、戦争に乗じて|√EDENの資源《インビジブル》を鹵獲しにおいでなすったようだ」
ご苦労なことだよ、と笑う花宵は、しかし直ぐに表情を引き締める。
「バルバラは人を殺めて奪うことに、躊躇はない。できることなら悪人で、とは思っているようだけどねぇ」
それは彼女の甘さか、優しさか。だが、悪人だから良いという話でもない。しかし此度は、それを逆手に取れるのだと、花宵は蜜色の瞳を悪戯気に細める。
「悪人で、と思っているなら、悪人がいなけりゃいい」
バルバラの悪と善の判断基準は、“守るべきもの”があるか、その行動に理由があるか、を見ているようだと、花宵は語る。
「お前さんたちの守りたいもんでも、譲れない理由それを、問いかけてくるバルバラに語ってやればいい」
“悪人”がいないと判ずれば、バルバラは撤退するだろう。何れは相対する時が来るかもしれないが、今は戦時中だ。消耗なく済めば、こちらとしても利がある。
「――あのお人にも守りたいもんがある。だからこそ、お前さんたちも見せてやりな。なんのためにここへ立ち、なにを守ろうとしてるのかを」
そこまで話した花宵は、ふ、と表情をやわらげて。
「なあに、大層なもんじゃなくていい。人でも、故郷でも、宝物でも、約束でも、自分自身でも――お前さんが『守りたい』と思うもんなら、それで十分さ」
第1章 ボス戦 『EU最高議長『バルバラ・アルペンローゼ』』
「こんにちは!バルバラさん」
立ち竦むバルバラに向けられた、溌剌とした挨拶。理知的に感じる眼差しが、見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)を振り返った。
「……君は?」
「見下・七三子、と申します!」
お好きに呼んでくださいね、と屈託なく言う彼女に、バルバラも毒気を抜かれたように表情をやわらげる。
「ふふっ、今日はお話聞いてくださるって聞きまして」
「ん? ああ、そうだな。聞きたいことがある。七三子、君には守りたいものがあるのだろうか?」
自分とは正反対の、太陽のように快活な赤い瞳を細める七三子が、悪人だとは思えない。それでも、悪人であればいい、と願ってしまいながら、問いかけるのだ。
けれど当の本人は、バルバラの想いを知ってか知らずか、物知り顔で何度も頷いて。
「うんうん、いきなり戦うより、お互いのこと、いっぱい知れた方がいいですよね」
細めていた瞳をきゅっと閉じて、表情いっぱいに笑いながら、人差し指をぴんと立てた。
「守りたいもの、いっぱいありますよ! お姉ちゃんって慕ってくれる義妹とか、こんな私を好きって言ってくれる、大好きな友達たち」
猫耳と尻尾をぴょこっと揺らす義妹や、笑顔で傍に居てくれる友人を思い浮かべる。明るいばかりだった面立ちも、優しげにゆるんだ。
「それから、こんな怪しい戦闘員を地域の一員として迎えてくれる近所の街の人たち。――特に商店街の皆さんにはすっごくお世話になってて」
七三子ちゃん、と可愛がってくれる人たち。照れくさい反面、とても嬉しい。
「飼い犬のことも守りたいですし」
元気いっぱいで人懐っこい黒柴の仔犬のことだって大切で。
こうして挙げていくだけで両手では足りなくなるくらい、七三子の守りたいものはたくさんあった。
そして、ふっと頬が染まる。一番大切で、愛しい人を、バルバラの髪から連想したから。
「……あとは、これは一方的にっていうんじゃないですけど、恋人のことも」
意地悪ぽく釣り上がる唇、けれど七三子を見つめる瞳は優しい色を宿していて。そんな彼を、自分も守りたいと、思うのだ。
「……そうか。君には守りたいものが多いのだな」
「えへへ、改めて並べると欲張りですねえ。でも、譲るつもりはないです!もしバルバラさん達が私の大切なものを害すっていうなら――私、負けないです」
覚悟を見せ、燃えるような色合いになった瞳に、バルバラは微笑む。“善人”を害す気はないと。
「どうしよう、ものすごい装備と殺意がある人がいるんだけど……」
アクロス福岡と呼ばれる建物に足を踏み入れたプロキオン・ローゼンハイム(シリウス・ローゼンハイムのAnkerの弟・h03159)は困ったように、僅かに眉を顰める。
目を惹く赤い髪に赤い瞳。聖騎士にも見える豪奢な|聖遺物《レリック》に身を包んだバルバラは、圧倒的な存在感があった。
覚悟を持って立つ彼女はプロキオンに気付くと、眼鏡の奥の瞳を探るように細めた。
「君に、守るべきものはあるのだろうか?私は賢くないから、教えてほしいんだ」
祈るように、見つめてくるバルバラは、“どちら”を願っているのか。プロキオンに判断はできない。だがその問いに対する答えだけは、彼の胸に当然のように存在している。
「守るべきもの?――大切な人が帰る場所かな」
「大切な人が?君が帰る場所ではなく?」
首を傾げたバルバラに、プロキオンは冷たくも見える美貌を、ふっとやわらげた。
「それは、僕が存在する場所でもあるんだ。僕が|大切《その》人のAnkerというのもあるんだけど……僕がいないと、どうしようもないんだよ。僕がいるから、立ち上がって、人のために戦えるんだ」
鮮やかな、揃いの瞳と、青々と萌えるような髪の人を想う。顔を合わせていると、ついツンケンどんになってしまうけれど。プロキオンがいないと、なにも出来なくなるようなあの人が愛おしくて堪らない。
「それに、すぐ怪我するし、栄養偏った食事しがちだし、僕が手当したり管理していなかったらどうなっていたことか……」
ほんのり尖る唇とは反対に、頬は淡い薔薇色に染まり、表情には愛しさが満ちている。
「――だから、こういう心身の健康を、僕が守ってあげてるんだ」
熱の篭った言葉が、吐息と共に溢れ出る。
静かに聞き入っていたバルバラは、どこか穏やかに頷いた。
「そうか。それが、君にとっての“守り方”なのだな」
冴えているようでいて、胸の奥で燃え盛らせている熱情のような|守り《愛し》方。蕩けるようなプロキオンの微笑みに、彼の“善性”を知る。
「そうですね。――僕のような能力を持たない人でも、どういう形であれ、守るべき人はいるんですよ」
その方法は、戦える√能力者たちとは違うだろう。けれど、想いの強さに貴賤も差もないのだ。
「だから、ここは一度引いてもらえますか?」
あなたの求める“悪人”はいないのだと、唇の端を釣り上げ、首を傾ける。
バルバラも、それに同意せざるを得ずに苦く笑うに留めるしかなかった。
「あるよ」
『大切なものは?』と問うてきたバルバラに、クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は、笑みをやわく湛えて頷いた。
手には念の為、|武器《二丁拳銃》を携えている。しかし、その銃口は彼女へ向かず、地面を向いていた。
(問答無用で襲いかかってきてもいいのに、わざわざ聞くなんて律儀な人だ)
賢くないと自分で言うとおり、良くも悪くも真っ直ぐなのだろうなと、クラウスは思う。だからこそ、少し迷うように視線を彷徨わせ、逡巡する。その先で、バルバラと瞳がかち合えば、唇をそっとほどいて。
「俺は、平穏を守りたいんだ」
大切な人を喪った。その事実は、心の奥深くに癒えない――癒えてほしくない傷を、作る。じくじくと疼く、そんなクラウスと同じような想いを、他の誰にも味合わせたくなかった。
彼の|世界《√WZ》のように、殺伐とした戦争ばかりの世界にも、なってほしくはない。
だから、
「俺は戦うんだ」
「……君の、|守りたいもの《戦う理由》、か」
戦うためではなく、守るために武器を取る。その在り方は、自らとどこか重なって見えた。だからこそ、胸が小さく軋む。あまりにもひたむきな願いに、バルバラはきりりと吊り上がっている眉尻を垂れ下がらせた。
しかし、クラウスの表情は痛ましさよりも、ほのかな熱を灯している。
「あとはその……俺を大切にしてくれる人も、守りたくて」
生々しいままの傷が齎す希死念慮は、未だにクラウスを苛み続けている。沈んでいきそうな彼を想い、大切にしてくれている人たち。
共犯者として寄り添ってくれる人。全てを慈しみ愛おしんでくれる人。
クラウス・イーザリーという人間を、包み込んでくれる彼らの、身も心も、共に過ごす時間も全て。
「守りたいと思うんだ。……まだまだ、そんな力はないんだけどね」
微かに滲む、苦い笑み。けれど譲ることのない誓い。
それをしっかりと聞き届けたバルバラも、穏やかに笑みを浮かべる。
「お互い守りたいものは譲れないだろうけど」
「……そうだな。私にも、守りたいものがある」
故にここに訪れた、と。凛と立つEU最高議長という存在を、揺るがない眼差しで見つめて意志を貫く。
「今は、退いてくれないかな」
長く感じる、ほんの数秒の沈黙。
その末に、ふ、と零れた吐息。
――今、この場に“悪人”はいない。
そう結論づけた背中は、振り返ることなく、静かにクラウスから遠ざかっていった。
「アンタがEU最高議長か」
赤い瞳を持つ女を見据え、天使・夜宵(|残煙《ざんえん》・h06264)は、咥えていた煙草の火を携帯灰皿で揉み消しながら、小さく肩を竦めた。
「そんなお偉いさんが足を運ぶなんざ、よっぽどだな」
地位の高い者が自ら動くことなど、多くはない。面倒だろうに、と夜宵が呟けば、バルバラは困ったように眉を下げる。
「そうかもしれない。だが、私が来るべきだと言われたからな」
賢くない、と自ら語る彼女。しかし、その受け答えは驚くほど冷静だった。己を知らぬ愚者ではない。認められるだけの器があることは、短いやり取りだけでもどことなく伝わってくる。
夜宵を推し量るように見つめ返すバルバラは、最も知りたい答えを得るために、唇を開いた。
「君には、守るべきものがあるのだろうか」
静かな問いに、夜宵は肺に残る紫煙と共に、息を吐いた。
「……守りたいもん、か」
そんなものは、昔の自分には無かった。――いや、あった。小さかった手を、かつては繋ぎ止めたいと思っていたけれど。自ら赤く染め、摺り抜けていってしまった。
しかし、いつの間にか夜宵の傍には、たくさんの人が増えた。
共に戦う同僚や仲間。そして、彼を一等大事だと言って、甘ったるく笑う相棒。
絶望に身を任せ、捨てようとした命は|相棒《彼女》が救ってくれた。
抱えきれないほどの信頼も、惜しみない愛情も、数えられないくらい貰った。
だから。
「応えたいって思えるようになった。この気持ちに間違いはねぇ」
その言葉に嘘はない。守る理由は十分すぎるほどにあり、守らない理由は一欠片たりともなかった。
彼らのいる世界を繋ぎ止めるためならば、夜宵は何度だって刀を握る。
そして、なによりも。夜宵という人間は、なにを欠落しようとも、正義と法を遵守する者であった。
「悪人だとはいえ、命を奪うっていうなら容赦はしねぇ」
低く告げる声には、覚悟が宿る。
「……腐っていても警察なんでな。それを許せるほど、俺は甘くない」
腰に下げた|――《無名》に手をかけ、しなやかな獣のように腰を下げた。
バルバラはしばらく黙って夜宵を見つめ、やがて静かに目を伏せる。
「そうか」
短い一言だった。その声音には、失望ではなく納得が滲んでいる。
彼もまた、守るべきもののために立つ一人。この場に、自分が求める”悪人”はいない。
そう結論づけたバルバラは踵を返し、歩き出した。
「守りたいもの?」
逆朽・ミロク(鵺鳴きの夜・h13500)は僅かに目を細め、赤い瞳の女――バルバラを見据えた。
「生憎と、そう呼べるもんは、とっくに失くしちまったな」
淡々と零れた言葉に、女の眉がぴくりと動く。
「……なァんて言えば、お前はおれを”悪人”として判断するのか?」
試すような眼差し。しかしその声音に敵意はなく、純粋な探究心だけが宿っていた。
「バルバラ・アルペンローゼ。話そうぜ。おれはお前に興味がある」
問いかけられるはずだった立場が、いつの間にか問いかける側へ変わった。
「お前にとっての悪人とはなんだ?」
静かな声が、建物の吹き抜けへ溶けていく。
「殺すのは悪人であればいい、とお前は言うが。その定義を考えたことはあるのか?」
善悪とは誰が決めるものなのか。悪人だから殺していいのか。善人だから生かすべきなのか。――視点が変われば、その答えすら変わるのではないか。
ミロクの言葉は、相手を責めるのではない。ただ、思考を促すためのもの。
急かすこともなく、待ち――やがてバルバラは、小さく息を吐いた。
「……私は、賢くない」
「知ってる」
間髪入れずに返され、バルバラは苦く笑う。
「だから賢い彼らを信じている。それしか――」
「それで、お前自身は納得したのか?」
短い問いかけが、胸の奥へ沈む。己の判断を誰かへ委ねること。それは本当に、自分で選んだ正しさなのだろうか。
「事物の正誤に、個人の賢愚も善悪も関係ない」
ミロクは滔々と語り続ける。
「己の判断を放棄するなら、お前は只の|悪人《かいらい》だ」
責めるのではなく、思考を停止するなと望む声音。
「――なぁ。正しさは、お前の中にしかないんだぜ」
ほんの僅かの沈黙。だが、バルバラにとっては随分長く感じられた。
それを終わらせたのは、やはりミロクだった。
「――逆に問おう。お前の守りたいものは?」
不意を突かれたように、バルバラは目を見開く。
答えはある。世界を守りたい。人々を守りたい。だからこそ、自分はここへ来たのだから。
それは誰かに与えられたのではなく。自分自身が選び取ったのかと聞かれれば――。
「……私は、賢くない」
零れたのは、同じ言葉。けれど、二度目の呟きは重さが変わっていように思えた。
今はまだ出ない結論を胸に。戦うことではなく、考えることを選んだ背は、ゆっくりとミロクの前から離れていく。
「正義の敵は別の正義だという。正義と悪が対立しないなら、悪は何を以て悪と成るのか。……バルバラ嬢の考えは、とても興味深いね」
道中。椎宮・紫水(シセキエイ・h12162)が零した呟きに、相手を否定する響かはなかった。ただ、彼女の思考の奥にあるものを知ろうとするような、静かな探究心が滲んでいる。
彼の隣に立つエアリィ・ウィンディア(精霊の娘・h00277)は聞きながら、少しだけ首を傾げた。
「正義、かぁ……」
少し考えるように視線を上げる。
「うーん、正直、あたし自身は正義でも悪でも……」
言葉を探すように間が空き。
「だって、護りたい人がいて。それを守ることが悪っていうなら、あたしはそれでいいし」
見つけた答えには、迷いがなかった。
誰かに認められるためでもない。正しいと思われたいからでもない。ただ、譲れない想いだけが、エアリィを動かしている。
そうだね、と頷いた紫水は少女へ手を差し出した。
「というわけでエアリィ嬢、いこうか」
目の前には、これから向かう場所――アクロス福岡。この先に待つのは、自らを“悪人”と称する者を探す女。
手を取ったエアリィの胸にある答えは、もう決まっていた。
「譲れない護りたい人がいるから」
小さく呟く。
「お母さんやお友達」
家族や友人と共に過ごした時間、笑い合った思い出。
(――でも、今、もっと守りたいものが出来たから。あの時からずっとそう思って……)
心の裡で、そうっと囁く。大切な存在を、改めて確かめるように。
音にした方の言葉に、紫水は優しく目を細める。そして、少しだけ冗談めかして。
「まぁ、私は君が居れば……悪人であってもいいんだけどね?」
エアリィは、驚いたように紫水を見上げるけれど。その言葉が冗談だけではないことを、感じ取っていた。
そして二人は、アクロス福岡へ足を踏み入れ。待ち受けていた赤い瞳の女――バルバラ・アルペンローゼと、向かい合う。
「――君たちには、守りたいものがあるのだろうか」
待っていたこのように告げられた静かな問いは、彼女がここへ来た理由を確かめるためのものだった。
エアリィは、少しだけ紫水へ視線を向ける。
家族。友人。そして、今、自分の隣にいる人。大切な人たちを胸に抱いて。
「紫水さん」
呼びかける声は、いつもの明るさを残しながらも、強い決意を宿していた。
「あたしはあなたを守りたい」
真っ直ぐな気持ち。
「もちろん守るだけじゃない。隣で歩いていきたいからっ!」
これまでの日々を思い返す。笑った時間も。一緒に過ごした何気ない日常も。
「あなたと過ごす、その日常全部が愛おしくて、うれしくって」
だからこそ。
「だから、護るよ。あたしの全部を使ってでもっ!」
少女の想いを確と感じ、応えるように紫水は笑った。
「私にも守りたいもの。あるよ。出来た、ともいう」
バルバラへの答えでありながら、それ以上に、目の前の少女へ届ける言葉だった。
「私の心の拠りどころ。帰る場所。大切な人。 ――エアリィ嬢、君だよ」
迷いなく、名前を呼んだ声音には、飾りも照れもなかった。ただ、自分にとってかけがえのない相手へ向ける、真っ直ぐさだけがあった。
「正確に言うなら、君の笑顔を、笑顔の魔法を守りたい」
紫水は続ける。
「君にとっての日常も冒険も家族も。君が花咲く様に笑う為の全てを守りたいと思っている」
傷つかぬよう閉じ込める、なんて想いではない。彼女が大切にしている世界そのものを、守りたいという願いだった。
「……今の私では、まだそんな力もないけれど」
一瞬だけ、悔しさにも似た影が落ちるけれど。それでも、この気持ちだけは揺るがない。紫水は、いつもの穏やかな笑みを取り戻した。
「つまるところは、私が君を大好きってことだね」
「え? ええと……」
不意打ちに、エアリィの頬が赤く染まる。だが、すぐに顔を上げた。
「大好きなら、あたしも負けないからーっ!」
明るい声の奥には、確かな覚悟があった。
「紫水さんが大好きっ!この気持ちも全部護りたいものだからっ!」
その言葉を、紫水は優しく受け止める。
「私だって、その気持ちは負けないけれど……それ以上に、君と歩いていきたいな」
二人は互いを見つめ合う。やがて自然に伸ばされた手が重なった。
一方が背負うだけではない。
一方が寄りかかるだけでもない。
互いに支え合うからこそ、絆は強くなる。
彼らを、バルバラは静かに見つめていた。
誰かを守りたい、誰かと歩いていきたい。それは決して、奪うためのものではない。
「……そうか」
小さく零れる声。彼女が探していた“悪人”とは、こういう者ではない。この場に、自分が求める悪人はいなかった。
二人の間で巡り合う想いを見届け、バルバラは静かに踵を返し、ただ二人の前から立ち去って行く。
「――君たちには、護りたいものがあるのだろうか」
問いかけるバルバラの赤い瞳が、二人を見据える。
彼女が知りたいのは、ただ力の有無ではない。なぜ戦うのか。何を背負っているのか――その理由だった。
「……僕が、護りたい……モノは……」
四之宮・榴(虚ろな繭〈|Frei Kokon《ファリィ ココーン》〉・h01965)は、ゆっくりと言葉を探す。
「……|現状《・・》、です」
榴の答えに、バルバラは僅かに眉を寄せた。
「現状?この戦争の状態を、守りたいということか?」
問い返す声音には、理解できないという戸惑いが滲む。戦いが続く今の状況を望む者などいるのか――そう思ったのだろう。
違うのだと、榴は小さく首を振った。
「……いえ。この戦争の状態ではなく……」
祈るように眼差しを伏せ、静かに紡ぐ。
「半永久的な……平和な日常の、風景に……其処に住むであろう無辜の人々の姿を……」
再び持ち上がった瞼の奥から、左右で色違いの瞳がバルバラを見据えて。
「……そ、そして……僕の|半身《相棒》、です」
傍らにいる存在へ、僅かに視線を向ける。
「……此れがEDEN衝動の、齎すモノなのかもしれませんが……」
利を求めずにつながりを求めてしまう、不可思議な欲望が突き動かしているのか。己の性格なのか。榴自身も分からないまま。
傍で聞いていた和田・辰巳(ただの人間・h02649)が、ふっと笑った。彼が胸に抱くものも、そのために戦う理由も、明確であったから。
「そりゃ決まってるだろ」
そう言うが速いか、隣に立つ榴を抱き寄せる。
「……っ!?」
「この世界一可愛い榴の笑顔を守る事さ」
あまりにも自然な振る舞いに、榴は瞳を瞬かせた。
「榴が平和を望んでるんでね。僕も日常を守る為に戦ってるってわけ」
「――って、何をし、してるのですか……辰巳!?」
慌てたような榴の声にも、辰巳はどこ吹く風だ。
「何って、そりゃ榴の可愛さアピールだよ」
さも当然のように言う姿に、榴は困ったように視線を逸らす。その頬は、甘やかに熱を灯していた。
「……僕のことは……ど、どうでも……いいんですけど……っ……!」
「いやいや」
辰巳は笑う。
「こんな可愛い|榴《半身》がどうでも良い訳ないよ」
からかうような口調。けれど、瞳に浮かぶものは冗談ではなかった。榴を大切に思う気持ちだけは、微塵も揺らがない。
そして辰巳は、少しだけ表情を変える。
「まぁ兎も角」
真っ直ぐにバルバラを見る。
「男なら惚れた女の為に戦うのは当然だろう?」
抱き寄せている腕に、離すまいと僅かな力がこもった。
「女の笑顔の為に命を張るのが、男の生き様よ」
辰巳の言に榴は喜べばいいのか、困ればいいのか――どこか呆れたように小さく息を吐いた。
「……本当に、辰巳は……」
けれど、もう一度バルバラへ向き直る。
「……僕は自然が、有りの儘に……其処ある風景が……当たり前が、当たり前である事が大事なのだと……思います」
それは一人のためだけではない。誰かが当たり前に暮らせる日々や、風景そのもの。それこそが、榴の望むものだった。
辰巳は肩を竦める。
「……あんたにも、大事な人や家族が居るんじゃないか?」
問いかける声は、先ほどまでの軽さとは違っていた。
「国の為、世界の為。そういう大義もあるだろう」
バルバラの事情を探るように、言葉を重ねる。
榴もまた、慮るように頷いた。
「……色々と、そちらにも……理由は、あるのでしょう、が……」
相手を否定するのではなく。そこに至る事情があるのだと、理解しようとするように。
「だけど、それはこちらとて同じこと」
そう語り始めた辰巳の眼差しは、強さを帯びた。
「世界を守る為に、僕らは立っている」
「……其れを、台無しにするであろう方は……僕は放って置けません」
続く榴の声にも、迷いはなかった。
仮にバルバラから見れば、それが“悪”と呼ばれる行いであったとしても。守りたいものを踏みにじる存在を、見過ごすことはできない。
「悪いが、僕らは退くつもりはない」
辰巳の告げる声音に、榴も唇を開き。
「どうしても、と言うのなら――」
「……どうしても……と謂うなら……」
二人の声が重なった。
「力で交渉です」
「僕らを倒してから行きな」
それぞれの言葉。けれど二人が示した覚悟は、同じ場所を向いていた。
バルバラは、二人を静かに見つめる。
互いを想い。守りたい日常を願い。そのために立つ覚悟を持っている。
そこにあったのは、己の欲のために誰かを傷つける者の姿ではなかった。
「……そうか」
小さく呟く。
そうあってくれと祈った“悪人”は、ここにはいない。榴も、辰巳も、バルバラにとって紛れもなく“善”と呼べる存在だった。
彼らが武器を取る必要はないと語るように、ふ、と笑みを浮かべ。二人へ背を向けた。
●敬虔である故に
彼女は祈っていた。“悪人”であればいい、と。
だが――。
「ここには、いなかった。 君たちは皆、守るべきものを抱えているのだな」
残念であるような、ほっとしたかのような。賢くないと語る女は、複雑な笑みを湛えていた。
しかし赤い瞳は強い意志を宿し、EDENたちを見据える。
バルバラ・アルペンローゼもまた、守るべきもののため、歩む者であるのだから。
「今は、引こう。君たちの“善性”に、敬意を示して」
彼女が身に纏う鎧や武器は、聖人と呼ばれる善なる者たちが遺した|聖遺物《レリック》。ならば、“善”を“善”で討つなど、バルバラには出来なかった。
いつかは、刃を交える日が訪れるかもしれない。けれど、それまでは――。
床を踏み抜かぬよう慎重に歩く背が、遠ざかっていく。
アクロス福岡には、穏やかな沈黙が満たされた。
