シナリオ

蒼の瀲光

#√ドラゴンファンタジー

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●愛し焦がれ
 海は、すべてを映す。

 水面に弾ける泡も。
 大地に咲く花も。
 天空を渡る星も。

 美しいものを愛する人魚の王は、深い海の底から、それらを見上げていた。
 けれど、それらを望むほどに、王は思い知る。
 海を統べる己の手は、海の外へは届かない。

 美しいものはすべて、己のものにしたい。
 それなのに、どうして手が届かないのだろう。

 嗚呼――、許せない。

 だから月が満ちる夜、王は海底から城を浮かび上がらせる。
 渦潮と貝殻で築かれた、月夜にだけ現れるまぼろしの城。
 美しいものを、ひとつ。
 またひとつ。
 その姿に魅せられた者は、王の“宝物”となる。
 海の底へ。
 静かな、静かな水底へ。
 愛し焦がれたものを、永遠に手放さぬために。

 * * *

 ――そんな古い伝承が残る、南海の楽園『マリステラ島』
 白い砂浜、透き通るラグーン、色鮮やかな珊瑚礁。
 世界中から観光客と冒険者が集うこの島では、夏のマリンマーケットが開催されていた。
 砂浜にはカラフルなビーチパラソルが咲き、その下では夏を彩る露店がずらりと並ぶ。
 珊瑚や貝殻を使ったアクセサリー、海色で彩られた魔法雑貨、水中探索に役立つ魔法のアイテム。
 さらに、南国の果実を使った夏限定のスイーツやドリンク、海の幸や海獣肉を使用したグルメ料理まで、海にまつわる様々な品が並ぶ賑やかなマーケットだ。
 潮風に吹かれながら、気になる店を覗いてみるのもいい。
 冷たい飲み物を片手に、浜辺を歩くのもいい。
 夏のマリステラ島は、海を楽しむためのもので溢れていた。

 賑わうマーケットを包むのは、楽しげな声と波の音。
 そしてその合間に混じる、小さな噂話――。
『……今夜は満月だ』
『また、あの城が現れるらしい』
『綺麗な人ほど攫われるって、本当なのかねぇ?』
 賑やかな夏の喧騒の中、その囁きだけがどこか、潮騒に溶けるように響いていた。


●水底へ誘う聲
 マリステラ島の宿泊施設――その一角に設けられた臨時の依頼所。
 開け放たれた窓からは潮風が吹き込み、白いカーテンをゆらゆらと揺らしている。
 窓の外から聞こえてくるのは、波音とマーケットからの賑やかな呼び声。
 そんな中、集まった者達の前に立つのは、星詠みの竜人 ノヴァ・フォルモント。
 真夏の島には些か不釣り合いな闇色のローブを身に纏っているが、当の本人は涼しい顔をしていた。彼の所作に合わせ、淡く輝く装身具がしゃらり、しゃらりと澄んだ音を奏で、潮騒に混じって響くその音色に耳を傾ければ、暑さが少しだけ遠のいていくようだった。

「さて――、今日は暑い中 集まってくれてありがとう」
 ノヴァはそう言うと、テーブルの上へ島の地図を広げた。
 珊瑚礁によって形作られた大きな環礁。
 その内側に、白い砂浜と緑豊かなマリステラ島が広がっている。
 島の中央には、青く澄んだラグーン。
 さらにその中央には、ひときわ濃い色の円。
 ――ブルーホール。
 地図上では小さく見えるその穴も、実際には底が見えないほど深い。
 海底へ向かって、数百メートルにも及ぶ巨大な縦穴が続いているという。
「今回の目的地はここだ。マリステラ島中央にある、ブルーホール」
 ノヴァは指でその地点を差しながら、話を続けた。
「普段はただの観光名所なんだが……最近になって、この海で妙なダンジョンの目撃情報が確認されている」
 ノヴァはさらに別の資料を広げる。
 少し古めかしいその紙には、ブルーホールの深部を推測した断面図が描かれていた。
 深く、暗く伸びていく海底の縦穴。
 その最深部には、何か巨大な建造物のようなものが描かれている。
「……どうやら、この辺りに伝わる伝承を描いたものらしい」

『――満月の夜、蒼の水底には城が現れる』
 渦潮と珊瑚、無数の貝殻によって築かれた海底に聳え立つ荘厳な城。
 そこには『人魚の王』が棲み、美しいものを宝物として蒐めているのだと――。

「まあ、ただの昔話だと思われていたんだがな」
 ノヴァは小さく肩を竦めた。
 しかし最近になって、満月の夜に海へ出た観光客や冒険者の何人かが、行方不明になっているという。それに合わせて、ブルーホールの底に存在するダンジョンを見たという情報も増えつつあるのだ。
「そこで、今回の依頼というわけだ」
 ノヴァは再び島の地図へ指先を戻した。
「島の中央にあるブルーホールへ向かい、海底にあると思われるダンジョンを調査して欲しい」
 内部にいるモンスターへの対処はもちろん、行方不明者がいればその救出も。
 そして――ダンジョンの最深部には何があるのか、その目で確かめてもらいたいとノヴァは言った。
「海の中は普段と勝手も違うだろう、準備はしっかりしておいてくれ」
 そう言いながら、ノヴァは窓の外の浜辺へ視線を移した。
「幸い、この島にはマリンマーケットがある。水中活動を助ける魔法道具も色々と売ってるはずだ。必要なものがあれば、そこで探してみるといい」

 そこまで話を終えたノヴァは、こちらを振り向き少しだけ口許を緩めた。
 先程までの張り詰めた空気が、柔くほどけてゆく。
「……まあ、せっかくこんな所まで来たんだ」
「依頼に出る前に、夏を楽しんでくるのもいいかもな」
 満月が空へと昇る夜までは、まだ時間がある。
 冒険の準備を整えつつ、マリンマーケットを巡る時間も十分にあるだろう。
「それじゃあ――準備ができたら、ブルーホールに向かってくれ。海の底に何があるのか……しっかり見届けてきてくれよ」

マスターより

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第1章 日常 『魔法露天商』


●
 白い砂浜に並ぶ色とりどりの露店。
 潮風に揺れる旗、珊瑚や貝殻を飾った屋台、南国らしい甘い香り。
 波打ち際まで続く店々を眺めているだけでも、どこから見て回ろうか迷ってしまいそうだ。

 冒険者向けの店を覗けば、南国らしい装飾を施された魔法道具が並んでいた。
 珊瑚と真珠をあしらった『泡沫の耳飾り』は、不思議な泡が持ち主の周囲を淡く纏い、水中でも呼吸を可能にしてくれる。他にも、羽織れば水の抵抗を減らしてくれる『人魚の羽衣』や、深海の暗闇を照らす『月灯りの真珠』、周囲の海流を読み取り安全な進路を指し示す『潮詠みの羅針盤』なんてものもある。

 隣の露店には、珊瑚や貝殻を使ったアクセサリーがずらり。
 淡い桃色の珊瑚をあしらった『珊瑚花の耳飾り』、小さな真珠を連ねた『月雫のブレスレット』、波間の光を閉じ込めたような『海星のペンダント』など、どれもここでしか手に入らない手作りの一品らしい。

 そして、賑わいの中心にあるのは、やはり食べ物の屋台だ。
 南国の果実をたっぷり使った『トロピカル・パフェ』は、マンゴーやパッションフルーツを重ねた色鮮やかな夏限定スイーツ。
 ふわふわのかき氷に南国フルーツのシロップをたっぷりとかけ、珊瑚を模した飴細工を添えた『珊瑚氷のかき氷』も大人気の品だ。
 他にも、南国フルーツをたっぷり使った冷たいジュースや、青い海を思わせる『マーメイド・ソーダ』は、淡い水色の炭酸に柑橘とミントを添えた爽やかな一杯となっている。
 もちろん、お腹を空かせた冒険者向けの料理も豊富にある。
 魚介を串に刺して炭火で焼いた『珊瑚礁の海鮮串焼き』、魚や貝の旨味を閉じ込めた『南海貝のブイヤベース』、香草と岩塩で豪快に焼き上げた『海獣肉のグリル』など、海の幸から海獣肉まで様々な料理が楽しめる。
 甘いものから食べ応えのある料理まで、浜辺を歩けば次々と気になる香りに出会うことだろう。

 さて、まずはどこから見て回ろうか。

 夏のマリステラ島を満喫するもよし。
 海底ダンジョンへ向けて、必要なものを揃えるもよし。

 満月の夜まで、もう少し時間はある。
 海辺の賑わいを楽しみながら、ゆっくりと冒険の準備を整えていこう。

 * * *

●マスターより
 1章はマリンマーケット巡りを中心に、島の散策なども自由にお楽しみいただけます。
 オープニングや断章でご案内したものに限らず、「こんなことをしてみたい」と思ったことがあれば、ぜひ自由な発想で遊んでみてください。

 ※フラグメントの行動例も、今回は特に気にせずご参加いただいて大丈夫です。

 マリンマーケットのご案内は、以上となります。
 それでは、佳き夏のひとときをお過ごしください。
 
 
トゥルエノ・トニトルス
緇・カナト
野分・時雨

●
 マリステラ島に降り立ち、まず三人を迎えたのはどこまでも蒼い海だった。
 白い砂浜の向こうでは潮風に旗が靡き、珊瑚や貝殻で飾られた露店が波打ち際まで並ぶ。そこに南国の果実や香ばしい料理の匂いが、夏の空気に混ざっていた。
「マリステラ島……! まずは観光から楽しむとしようか~」
 夜色の髪を潮風に揺らしながら、トゥルエノ・トニトルスが楽しげに辺りを見回す。
「海底ダンジョン行きの準備もするなら、まずは魔法道具の店から覗いてゆくか?」
「……海に入れるかと思ったら、まだだったんですよね」
 その傍らでぽそりと独り言ちた 野分・時雨は、少しだけ残念そうに海を眺める。
「海への気持ちは、今だけステイします」
「オレもだよ~。夏も元気な雷獣トール君と、海と泳ぎが大好きな牛鬼妖怪くんに挟まれてるからねェ」
 二人の間でほんの少し小さくなりながら、緇・カナトは日差しを避けるように目を細めた。
「オレは日傘でも差して、大人しくしてたいなァ」
「ふふ、わんちゃんらしいですね」
「お主、泳がぬのか? 海底まで行くというのに?」
「行くけどねェ。行くまでの時間は、浜辺で大人しくステイしてても良いかなって」

 そんなやり取りを交わしながら、三人は魔法道具の露店へ足を向けた。
 水中呼吸が出来る珊瑚をあしらった耳飾り。水の抵抗を減らす羽衣。淡い光を放つ真珠の玉や、海流を読み取る羅針盤。他にも便利で変わったアイテムが沢山取り揃えられている。
「すご~。水中の魔法具、たくさんありますね」
 お預け気分だった時雨の眸も、ぴかぴかと輝き始めた。
「わんちゃん、エノくん的には耳飾りが良いんじゃない? 水中呼吸できるの、楽ですよ」
 試しに二つ手にとって、両者の耳元に近づけて眺めてみる。
「へぇ、水中呼吸の魔法道具ってわりと何処でも取り扱っていそうだけど。耳飾りなら目立たなくて良いんじゃない?」
「うむ、確かに良さそうだな! それに主にも似合うぞ!」
 トゥルエノもこくこくと頷きながら。
「時雨殿は月灯りや羅針盤なくとも、すいすい進めそうで頼もしい限りである……!」
「ぼく、泳ぎは好きですからね。羽衣も気になります。より早く泳げそうでしょう? びゅんびゅんと水中移動、楽しそうじゃないですか?」
「黒麒麟と水妖くんは、何処までも泳いで行けそうで頼もしい~」
「ならば、わたしも負けてはいられぬな!」

 そんな調子で道具を選別したあと、三人の足は自然と食べ物の屋台へと向かっていた。
 炭火の上ではじゅうじゅうと海鮮串が香ばしい音を立て、鍋では魚介と貝の旨味を閉じ込めたブイヤベースがぐつぐつと煮えている。
「ふたりの好きなご飯タイムだよ!」
「おお!」
「食べ物屋台は、やっぱり良いよねェ」
 トゥルエノの視線を奪ったのは、色鮮やかなかき氷だった。
「見よ! この南国フルーツにふわふわなかき氷の芸術品を……!」
 早速買ってきたトゥルエノが、じゃじゃーんと片手にかき氷の杯を掲げれば、二人もその神々しさに思わず圧倒される。雪のようにふわふわ真っ白なかき氷は、マンゴーやパッションフルーツ盛りだくさんのシロップに彩られて、頂には珊瑚を模した飴細工がきらきらと輝いている。
「おお~、飴細工綺麗~。頭、キーンと来ない?」
「そこは食べてからのお楽しみだろう!」
 トゥルエノはむんと胸を張って、溶けないうちにと早速かき氷の山を崩すのに取り掛かる。
 一方カナトはというと、青い海を思わせるマーメイド・ソーダを受け取っていた。
「まずはこれで涼もうかなァ。暑いしねェ」
「ぼくはブイヤベースをいただきます。貝好きなので、嬉し嬉し」
 熱々のスープを受け取った時雨は、立ち上る香りと湯気に満足そうに頷いた。
「暑い時こそ、熱々食べたくならないですか?」
「まあ、分かるよ~。……いや、でも他のも食べたいな」
 ドリンクで口を潤しながら、カナトの視線がぱちぱちと弾ける海鮮串の屋台へと向く。
 そんな彼を見て、トゥルエノは楽しげに笑った。
「あるじのフードファイトも良いが、今日は皆で分け合うのも良いな!」
「じゃあ、エノくん。かき氷で冷えたお口に、ブイヤベースひとくちどうぞ」
「うむ、いただこう!」
 差し出されたスプーンを受け取り、トゥルエノがぱくりとひと口 味わう。
「……美味しい!」
「でしょう?」
「ならば時雨殿も、珊瑚氷をひと口いかがだろうか?」
「いただきます~!」
 ひと匙のかき氷を口に運んで、時雨が笑う。
「冷たいですね。甘くて美味しいです」
「わんちゃんも食べます?」
「いいねェ。じゃあ、オレは海獣肉もいってみちゃおうかな」
「それは食べすぎではないか?」
「だってオレ、いつもハラペコだからねェ」

 三人の笑い声が、潮風に乗って浜辺へ広がっていく。
 海底ダンジョンへの出発は、まだもう少し先だ。

エレノール・ムーンレイカー

●
 マリステラ島へ降り立ったエレノール・ムーンレイカーは、まず真っ青な海を眺め、それから静かに息を吐いた。
 白い砂浜。透明なラグーン。潮風に揺れる色とりどりの旗。
 ダンジョンがあると云う海底へ向かう手段なら、すでに持ち合わせている。
 今は必要な魔法道具を買い揃える必要もなさそうだ。
「それなら……時間まで、思いっきりこの島を楽しみましょうか」
 そう呟いて、楽しげな足取りで浜辺のマーケットへと歩き出す。
 珊瑚や貝殻で彩られた露店を眺めていれば、さっそく香ばしい匂いに誘われた。
「……これは……たまりませんね」
 思わず足が止まったのは、串焼きの屋台。
 炭火の上では魚介の串焼きがじゅうじゅうと音を立て、その隣では海獣肉のグリルが豪快に焼き上げられている。少し離れた屋台では、魚介と貝の旨味が溶け込んだブイヤベースが湯気を立てていた。
「こういう時は……食欲に逆らわず、食べちゃいましょう!」
 エレノールの決断は早かった。
 まずは海鮮串焼き、続いて海獣肉のグリル。
 さらにブイヤベースをいただけば、魚介の旨味と香草の香りが口いっぱいに広がる。
「美味しい……!」
 次々と料理を味わっていくうちに、いつの間にかテーブルの上に皿が増えていく。
 海鮮焼きそばまで平らげたところで、エレノールはようやく満足した――かと思えば。
「……あちらも、気になりますね」
 目に入ったのは、色鮮やかなスイーツの屋台だった。
 マンゴーやパッションフルーツがたっぷり乗ったトロピカル・パフェ。珊瑚を模した飴細工が美しい珊瑚氷のかき氷。淡い水色のマーメイド・ソーダに、南国フルーツを使ったジュース。
「……デザートは別腹、ということで!」
 そうして彼女は、また一品ずつ味わっていく。
 食べ歩きながら眺める島の景色は、どこまでも鮮やかだった。
 波がきらめき、潮風が銀糸の髪を揺らす。
 普段ならば任務のために訪れる場所も、今日ばかりは違う。
 海底ダンジョンへ向かうまでの、ほんのひととき。
 何も考えず、美味しいものを食べて、南国の景色を楽しむ。
 たまにはこんな贅沢も良いものだ。
「……ふう」
 最後にジュースを一口飲み、エレノールは満足そうに息を吐いた。
「結局、結構食べてしまいましたね」
 振り返れば、いくつもの屋台を巡った証がそこかしこに残っている。
「全部、美味しかったです」
 ごちそうさまでした、と手を合わせ。けれど、ふと我に返る。
「……でも何か、依頼を忘れてリゾートを満喫しに来ただけのような気がしていますが……」
 エレノールは少しだけ首を傾げた。
「良いのでしょうかね……?」
 その疑問へ応えるように、寄せては返す波音が静かな音を立てていた。

シンシア・ウォーカー
神隠祇・境華

●
 マリステラ島の浜辺に並ぶマリンマーケットは、今日も夏の陽射しと潮風に包まれていた。
 珊瑚や貝殻で彩られた露店を眺めながら、シンシア・ウォーカーと神隠祇・境華は、冒険者向けの魔法道具店へと足を運ぶ。
「水中での活動があると聞きます。まずは下準備といきましょう」
 真剣な面持ちで、シンシアは店先に並ぶ品々を見渡した。
「呼吸ができないと困りますからね。まずは、そういった道具を……」
 水中呼吸を可能にする魔法道具。水の抵抗を減らす羽衣。
 深海を照らす月灯りの真珠。海流を読み、安全な進路を示す羅針盤。
 見慣れない品々に、隣で同じように眺めていた境華も興味深そうに覗き込む。
「泡沫の耳飾り……可愛らしいですね」
 珊瑚と真珠をあしらった小さな耳飾りを、境華がそっと手に取った。
 淡い光を纏うそれは、実用的な魔法道具でありながら、まるで海の中で咲く花のように美しい。
「わぁ、可愛らしいものもありますね。これ境華さんに似合うのではないでしょうか!」
「私に、ですか?」
「ええ。きっと似合います」
 シンシアに勧められ、境華は少し嬉しそうに耳元へかざしてみる。
「……どうでしょうか?」
「まあ、とても素敵です! 境華さんの黒髪にもよく合っていますよ」
「……ありがとうございます」
 境華もふわりと小さく笑って、もう一度鏡を覗き込んでみた。
 泡沫の耳飾りが陽射しを受けてきらりと輝く。

 二人は互いに似合いそうなものを選びながら、露店の商品を見て回った。
 そんな中、シンシアがふと思い出したように口を開く。
「そういえば以前、水中でお話しようとしたら『んー!!』しか伝わらなかったことがありましたね」
「ふふ……そういえば、ありましたね」
 境華も思い出したように表情を緩ませる。
「呼吸だけでなく、声を届けたり、意思疎通を助けてくれる道具もあれば探してみたいです」
「それは確かに必要ですね……」
「あ……シンシアさん、こちらはどうでしょう?」
 境華が見つけたのは、淡い水色の真珠を嵌め込んだ小さなペンダントだった。
 珊瑚を思わせる銀細工の中心で、真珠が水面のように淡く揺らめいている。
「『人魚の囁き石』……水中で発した声を魔力で拾い、相手の耳元へ届ける魔法具だそうです」
「まあ。まさに探していたものですね!」
 シンシアは嬉しそうに眸を輝かせた。
「これなら、水の中でも普通にお話しできるのでしょうか?」
「そのようですね。二人とも身につけていれば、声を届け合えるそうです」
 泡沫の耳飾りと、人魚の囁き石。
 これで、水の中でも呼吸と会話の心配はない。
「では、これも旅のお供にしましょう」
「はい!」

 やがて二人は、店の奥に並べられた魔導書へと目を向ける。
「……あ」
 境華の足が思わず止まった。
「シンシアさん、こちら……水に関する魔導書みたいです」
 手に取った一冊を開けば、海や水にまつわる古い伝承と、それをもとにした魔術が記されていた。
「まあ、素敵ですね!」
 シンシアも隣から頁を覗き込む。
「この島らしい魔導書があるなら、私も一冊欲しくなってきました」
「同じ水でも、物語によって随分と姿が違うそうですよ」
 境華は楽しそうに頁をめくりながら、この土地に伝わる水の伝承について語っていく。
 人魚の歌が海流を導いたという話。
 満月の夜だけ姿を現す海の道。
 深海に眠る古い王国の伝説。
 どれも、これから向かう海底の世界を思わせるものばかりだった。
「なるほど……。実際に海の中へ行く前に、こうして伝承を知っておくのも面白いですね」
「はい。知っている物語があると、実際に見たときも少し違って見えるかもしれません」
 しばらく頁を眺めたあと、シンシアが一冊の本を手に取った。
「では、私はこれにしましょうか」
 そして、嬉しそうに本を掲げる。
「じゃーん。見てくださいっ!」
 シンシアが手にした蒼い表紙の本には『蒼海の綺譚、海の魔法』と記されていた。
「まあ、素敵な本ですね」
 境華が微笑みながら覗き込む。
「水の伝承と魔術が一緒になっているみたいですよ」
「ふふ、さっそく読んでみたいです……!」
「では、あちらで一休みしつつ二人で楽しみましょうか」

 二人は顔を見合わせ、浜辺の賑わいへと歩き出す。
 海底への冒険は、まだ始まらない。
 だからこそ今は、未知の海へと思いを馳せながら過ごす、この穏やかな時間を楽しもう。

ララ・キルシュネーテ
鴛海・ラズリ

●
 白い砂浜。潮風に揺れる旗。珊瑚や貝殻で彩られた屋台。南国の果実を使った甘い菓子の香りに、炭火で焼かれる魚介の香ばしい匂い。
「マリンマーケットって賑やかなのね。わくわくするわ」
 眸を輝かせながら、ララ・キルシュネーテは市場を見渡した。
「ララ! 露店がたくさんだね……!」
 隣では、鴛海・ラズリも同じように青い眸をきらきらとさせている。
「早速お買い物よ!」
 二人は並んで、海辺の市場へと駆けていった。
 最初に足を止めたのは、珊瑚や真珠を使った魔法道具を並べた露店だった。
「魔法道具には素敵な効果もあるから、何か欲しいところなんだけど……」
 ラズリの目に留まったのは、貝殻のような形をした桜瑪瑙の耳飾りだった。
 真珠と繋がれた小さな耳飾りには、水底へ沈んでいくほどに淡い光が灯る魔法が込められているらしい。
「かわいい。これにしようかな」
 ラズリが手に取ると、ララも興味深そうに覗き込む。
「あら、優しい海の加護を感じるのよ。ラズリにぴったりだわ。どんな魔法が秘められてるのかしら?」
「ララにも着けてみていい?」
「あら! ララにも付けてくれるの?」
 嬉しそうにモモンガ耳を揺らし、ララが身を寄せる。
 ラズリがそっと耳飾りを着けてやると、その傍らに小さな桜の花がふわりと咲いた。
「お揃いの御守り代わりなのよ」
「ふふ、ラズリとお揃いね!」
 鏡代わりの水面を覗き込み、二人は顔を見合わせて表情を綻ばせる。
 その後も市場を歩いていれば、今度はララが一つの露店の前でぴたりと足を止めた。
「桜色の珊瑚と、まろやかな真珠と……たくさんのお花飾り。これがいいかしら」
 手にしたのは、華やかな麦わら帽子だった。
「シュネーもお揃いにするの。どう? 似合うかしら」
「わあ、海の贈り物みたいな麦藁帽子……! シュネーも可愛いの」
 シュネーを抱きつつ、帽子を被ってくるりと一回転。
 飾りの花が潮風に揺れ、ララのモモンガ耳もぴるぴると嬉しそうに揺れる。
「うん、似合ってるよ、ララ!」
「ふふ。ラズリも耳飾り、似合っているのよ」

 ――そうして暫く露店を巡っていた、そのとき。
「む! いい香り!」
 潮風に乗って流れてきた香ばしい匂いに、ララのセンサーがぴくりと反応する。
「ラズリ、急ぐわよ!」
「えっ、ちょっと待ってー!」
 次の瞬間には、ララは香りのする屋台へ一直線だった。
 炭火の上では、何か大きな肉がじゅうじゅうと音を立てて焼かれている。表面には岩塩と香草がたっぷり振られ、炭火に脂が落ちるたび、香ばしい煙がふわりと立ち上っていた。
「これは、海獣肉グリル!」
「海獣肉……ジビエ的なもの?」
「アザラシとか、イルカかしら?」
 正体不明のその肉を見つめながら、二人は首を傾げる。
「――海竜かも」
「海竜!?」
 ラズリが思わず目を丸くする。
 けれどララの視線は、すでに肉のほうへ釘付けだった。
「食べるわ……!」
(なぜか今ので、ララの食欲が増した気がするの……)

 ララは迷うことなく肉に齧りついた。
 表面は香ばしく、中は柔らかい。噛むほどに濃厚な肉の旨味が広がり、岩塩のほどよい塩気と香草の爽やかな風味が後から追いかけてくる。
「んー! おいしいのよ!」
「ふふ。ララ、本当にお腹空いてたんだね」
「いつもハラペコなのよ」
「それは知ってるよ」
 ラズリがふわりと柔く笑う。
「海鮮串焼きも食べる? つい色々買ってきちゃった」
 香ばしく焼かれた魚介からも、食欲を誘う匂いが漂っている。
「勿論食べるわ!」
 ラズリが買ってきた海鮮串を、ララは嬉しそうに受け取った。
 ぷりっとした魚介に齧りつけば、炭火の香ばしさとともに海の旨味がじゅわりと広がる。
「ん……これも美味しいのよ!」
「よかった」
「ラズリもお食べ」
 ララは串を持ったまま、ラズリへ差し出す。
「え?」
「食べさせてあげるわ」
 ラズリは少し驚いた顔をして、それから嬉しそうにあーんと口を開けて。
「じゃあ、いただきます」
 ぱくん。
「……おいしい!」
「でしょう?」
 二人は新鮮な海の幸を味わいながら、次々と料理を平らげていく。
 そして最後は、淡い水色のマーメイド・ソーダを手に。
「綺麗ね。海みたい」
「ふふ。まるでここの海みたいな色だね」
「乾杯よ」
「乾杯!」
 グラスを軽く合わせれば、しゅわしゅわと細かな泡が弾けた。
 ぐいっと飲めば、爽やかな炭酸が喉を駆け抜ける。
「しゅわぱちが身に染みるのよ……!」

 夏の海辺で味わう、少し贅沢な昼下がり。
 お揃いの小さな宝物を身につけて、二人の夏は始まったばかりだった。

井碕・靜眞
物部・真宵

●
 マリステラ島の浜辺には、夏の陽射しと潮風に誘われるように、色とりどりの露店が並んでいた。
 白い砂浜を歩けば、珊瑚や貝殻を飾った魔法道具の店が目に入り、その隣にはアクセサリーの露店。少し先からは炭火で焼かれた海鮮の香ばしい匂いが漂い、甘い南国果実の香りまで混じっている。
「水底の城……御伽噺みたいで惹かれてしまったんですけど」
 露店を眺めながら、物部・真宵は小さく息を吐いた。
「現地に来ると、緊張してきました……。わたしまだ……泳げなくって……」
 隣を歩く 井碕・靜眞は、その言葉に少しだけ目を瞬かせる。
 ――かわいい理由だと、思ったからだ。
 そんなことを口にする勇気は、もちろんない。
「大丈夫ですよ。おれも、そう長くは泳げません」
 安心させるように、穏やかな声で続けた。
「水中歩行の魔法道具も探しましょう。無理に泳ぐ必要はないでしょう」
「……そうですね」
 真宵の表情が、ほんの少しだけ和らぐのを見届けて。
 二人は冒険者向けの露店へ足を向ける。

 珊瑚と真珠をあしらった『泡沫の耳飾り』。深海の暗闇を照らす『月灯りの真珠』。さらに、水の抵抗を減らす『人魚の羽衣』や、水中を歩くための魔法道具まで並んでいる。
 靜眞は一つひとつを手に取りながら、性能や使い勝手を確かめていく。
「耳飾りは、あったほうがよさそうですね。明かりも……」
 手のひらにころりと収まる大きさの、小さな月灯りの真珠を手に取る。
「深海にあるお城ですもの。やっぱり昏い……ですよね」
「そうですね。明かりは余分にあっても困らないでしょう。救護用にも、もう一つ購入しましょうか」
 実用性を確かめるように呟きながらも、靜眞は細かな装飾に目を瞠った。
 冒険のための魔法道具だというのに、珊瑚や真珠の配置まで丁寧に仕上げられている。
 やがて二人の足は、隣のアクセサリー店へ向かった。
 淡い桃色の珊瑚をあしらった耳飾り。小さな真珠を連ねたブレスレット。波間の光を閉じ込めたようなペンダント。
 どれも陽射しを受けて、きらきらと輝いている。
「わぁ……かわいい」
 真宵がまるで宝物を見つけたかのように、柔く目を細める。
 その横顔を眺めていた靜眞は、ふと別の品へ視線を向けた。
「こっちは……髪飾りですね」
 指差した先にあったのは、螺鈿を使用したバレッタだった。
 青や緑の光が角度によって淡く揺らめき、まるで海の底に差し込む光のような色彩を纏っている。
「まあ、まるで人魚の鱗のようですねぇ」
 真宵も隣から覗き込んだ。
 はらりと揺れる彼女の白い髪に合わせれば、きっとよく映えるだろうか。
 靜眞はしばらくバレッタを眺めたあと、改めて真宵へ視線を向けた。
「……あなたに、似合いそうです」
「わたしに、ですか?」
 思いがけない言葉だったのか、真宵が少しだけ目を丸くする。
 靜眞はそれに気づいて、慌てたように言葉を足した。
「その……白い髪に、海の色がよく映えると思いまして」
「そう、ですか? ……ありがとうございます」
 思わず真宵の視線が落ちる。
 真っ直ぐな彼の言葉が、何だかちょっと照れ臭い。
(――頬、赤くなっていないといいのだけれど……。)
 そんな真宵を見て、靜眞は少しだけ緊張したようにバレッタを手に取った。
「これ、贈らせてください。此処に来たことの、記念に」
「え、いいんですか……?」
「はい」
「……ありがとうございます。うれしいです」
 真宵はバレッタを受け取り、螺鈿の光にそっと触れる。
 それから、ほんの少し迷うようにして。
「良ければなんですけど……バレッタ、付けてくれませんか?」
 ふと、あなたの手ずからがいい、なんて想ってしまったから。
「ええ、いいですよ」
 靜眞は静かに頷いた。
 そして壊れ物を扱うように慎重に手を伸ばし、白い髪へ、そっとバレッタを留める。
「……似合います、とっても」
「ありがとうございます……」
 真宵はバレッタの存在を確かめるように髪へ手を添えながら、小さく微笑む。
 螺鈿の光が、白い髪の中で海の色を宿していた。

 けれど、穏やかなこの時間はいつまでも続かない。
 夜になれば、海の底へ向かうことになる。
 その先には、御伽噺のような水底の城が待っているのだ。
 真宵はふと、不安そうに蒼くきらめく海面を見つめた。
 そして、隣に立つ靜眞の服の端を、そっと摘まむ。
「……井碕さん」
「どうしました?」
「もし、怖くなってしまったら……手を繋いでもらっても、いいですか……?」
 一瞬、靜眞の眸が揺れる。
 けれど、すぐに静かに頷いた。
「……はい。おれも慣れない海の中ですから」
 少しだけ照れたように、それでも真っ直ぐに。
「離れないようにしましょう」
「……はい。そばに……居ます」

 海底に待つものが、御伽噺のように美しいものなのか。
 それとも、恐ろしいものなのか。まだ誰にも分からない。
 けれど今は、この髪に揺れる小さな海の輝きがある。
 そして、隣には一緒に歩いてくれる人がいる。
 それだけで、深い海へ向かう足取りは、ほんの少しだけ軽くなった気がした。

雨夜・氷月
四十万・白灯

●
 白い砂浜に沿って広がるマリンマーケットは、昼間から大いに賑わっていた。
 潮風に揺れる色とりどりの旗。珊瑚や貝殻で彩られた露店。南国の果実を使った甘い菓子の香りに、炭火で焼かれる魚介や肉の香ばしい匂いまで混ざり合っている。
 そんな喧騒の中を、雨夜・氷月はぼんやりと歩いていた。
 ふと気づけば、隣には四十万・白灯がいる。
 いつの間にか現れて、いつものように笑顔で隣を歩いている男。
 最初なら鬱陶しく感じていたかもしれないが――今はもう、さほど気にならない。
「偶にはこういう場所もいいですね」
 白灯はそう言いながら、貝殻のガーランドが吊るされた店先を覗き込んだ。
「見たことないものばかりだ」
「そうだねえ」
 適当に相槌を打ちながら歩いていた氷月は、ふと目を留めた。
「あ、あっちの方。キレーなの並んでる」
 白灯が興味深そうに覗き込んでいるのを横目に、氷月は構わず先へ進む。
「……あれ、置いていく気ですか?」

 背後から聞こえる声。
 少し遅れて追いついた白灯は、青いリボンで包まれた小さな包みを持っていた。
「僕から贈り物です」
「ん? 贈り物……?」
 氷月は受け取った包みをまじまじと眺める。
「なあに、点数稼ぎ?」
 くすりと笑いながら包みを受け取り、紐を解く。
 中から現れたのは、随分と綺麗な髪飾りだった。
 乳白色の真珠は光を受けるたび、青銀から淡い紫へと色を揺らす。
 その中心には、ごく薄い三日月型の遊色が浮かんでいた。
「『月蝕真珠』というらしいです」
「月蝕真珠かあ……」
 指先でつまみ、光へかざす。
 揺れるたびに色を変える真珠を、氷月は興味深そうに眺めた。
 氷月の様子を見ながら、白灯はいつもの笑顔のまま少しだけ言葉を続ける。
「月が海を満たすなら、時には海からの見返りがあってもいいでしょう?」
「……へえ」
 氷月の口元に、ゆるく笑みが浮かんだ。
 随分と意味深なことを言う。
 髪飾りを指先で揺らせば、真珠が光を拾って淡く色を変えた。
「綺麗じゃん」
 ぽつりと零してから、氷月は先に歩き出した白灯の背を眺める。
 そして今度は、置いていかれる前に自分から追いかけた。
「白灯」
「はい?」
「髪飾り、気に入ったから教えてあげる」
 並んだところで、氷月は少しだけ彼の顔を覗き込んだ。
 此方を見返すその眸は変わらず漆黒に染まっていて、光さえ映さないほど底なしだ。
「――俺の名前は氷月。雨夜・氷月だよ」
「……氷月?」
「聞きたかったんでしょ、名前」
 ふいに渡された本当の名前に、白灯は氷月の眸をじっと見つめた。
 深い青の虹彩、その下方に浮かぶ三日月のような形。
 それはまるで、青い夜の底に月が沈んでいるようにも見える。
「――成程。その美しい瞳にぴったりだ」
 白灯の笑顔はいつも通りだった。
 けれど、どこか不気味なほど嬉しそうでもある。
 氷月はそんな顔を眺めてから、肩を竦めた。
「ほら、必要なもの買いに行くんでしょ。いこいこ」
 今度は互いに置いていかず。
 二人は並んで、次なる露店――冒険者向けの魔法道具屋を目指して歩き出す。
 月蝕真珠が陽射しの中で揺れ、淡い三日月の光を返していた。
 それはまるで、まだ昼の海に浮かぶ小さな夜の欠片のようだった。

セレネ・デルフィ
羽純・にあ

●
 白い砂浜に、きらきらと陽射しを反射する青い海。
 そんな夏の海を、セレネ・デルフィは嬉しそうに眺めていた。
 隣を歩く 羽純・にあ も、照り付ける陽射しへ眩しそうに目を細める。
 以前、海で出会って友達になった二人。
 そして今回も、また二人で海へ来ることができた。
 それがなんだか嬉しくて。
「にあさんは、海によく来られるんですか?」
「えっと……生まれつき身体が弱かったので、遠出ってしたことないんです。だから海もはじめてで……」
 少し照れたように答えるにあへ、セレネはぱちりと瞬きをする。
「そうでしたか……でも今は、大丈夫なのですね……?」
「はい! 今は元気です!」
 そう言って、にあは胸を張る。
 その姿に、セレネの頬がふわりと緩んだ。
「なら、よければまた来ませんか……?」
「……っ、はい! ぜひ!」

 小さな約束を結び、二人はそのまま浜辺に並ぶマリンマーケットへと足を向ける。
 珊瑚や貝殻で飾られた露店には、夏らしいアクセサリーや冒険に役立つ魔法道具が所狭しと並んでいた。
「わぁ……綺麗ですね」
 にあがきらきらと眸を輝かせながら、並べられた品々を眺めている。
 その中に、ひとつ気になる耳飾りがあった。
 透き通るような珊瑚と、淡い鴇色の貝殻。小さな飾りが耳元で揺れる、柔らかな色合いの品だ。
「セレネさん、これ……」
 にあはそっと耳飾りを手に取った。
「似合いますね!」
「私に、ですか……?」
「はい。夏の夜明けみたいで……」
 にあはセレネの白い髪と、澄んだ眸を見つめる。
「セレネさんの白い髪や青い瞳に映えると思うんです!」
 にあのまっすぐな言葉に、セレネは少しだけ目を瞬かせた。
 それから、耳飾りと にあの顔を交互に見て。
「でも……にあさんにも似合うと思うんです」
「わたしにも?」
「はい。きっと、とっても可愛いですよ」
 そう言われると、にあは少し照れたように頬を緩める。
「……えへへ」
 そのまま二人で耳飾りを眺めながら、セレネがふと思いついたように首を傾げた。
「よければ……お揃いで、いかがですか……?」
「おそろい!」
 にあの表情がぱっと明るくなる。
「えへへ……うれしいです」
 同じ耳飾りを、それぞれの耳元へ。
 珊瑚の透き通った色と鴇色の貝殻が、陽の光を受けて小さくきらめく。
 海で出会った友達と、初めてのお揃い。
 それだけのことなのに、にあはなんだか胸の奥がくすぐったくて。
 セレネもまた、嬉しそうに目を細めていた。

 そのとき、ふわりと甘い香りが漂ってくる。
「……あっちには、スイーツもあるみたいです……!」
 甘い香りに気づいたセレネが、少しだけ歩調を速める。
「スイーツ! 行きましょう! 腹ごしらえは大事です!」
 二人で屋台へ向かえば、色鮮やかな南国スイーツが並んでいた。
「わ、どれも見た目がトロピカルですね!」
 二人は沢山の誘惑に悩んだ末、セレネは果実をたっぷり重ねたトロピカル・パフェを選び。にあはふわふわの氷に鮮やかなシロップをかけ、珊瑚を模した飴細工を添えた珊瑚氷のかき氷を選んでみた。
「飴細工、きれい……」
「良かったらセレネさんもどうぞ!」
 にあが一匙すくってスプーンを差し出す。
「……いいんですか?」
「はい!」
「では……いただきます」
 しゃくり、と口にすれば、ひんやりとした氷と南国の果実の甘さが広がった。
「おいしいです……!」
「でしょう?」
 セレネも嬉しそうに、自分のトロピカル・パフェを差し出す。
「よければ、私のもどうぞ……!」
「わぁい! ありがとうございます!」
 にあがぱくりと、幸せそうに一口頬張る。
「えへへ、美味しさ二倍ですねっ」

 青い海と白い砂浜。
 きらきらと輝く夏の日差し。

 海底に待つ冒険は、まだ少し先。

 今はただ、甘いお菓子を分け合って、友達と笑う。
 そんなひとときが、二人にとって新しい夏の思い出になっていった。

廻里・ぱふぇ
ベルナデッタ・ドラクロワ
廻里・りり

●
 潮風が、ふわりと白い毛並みを撫でていく。
 廻里・ぱふぇは、弾むような足取りで砂浜を歩いていた。
(ふたりとも、おそいですよ! さあ、はやくはやく!)
 少し先へ行っては振り返り、後ろの二人がちゃんとついてきていることを確かめる。
 そのたびに、白い毛並みの間から覗くつぶらな眸が楽しそうにきらきらと輝いていた。
「わぁ……! お店がいっぱいですねっ」
 後ろを歩いていた 廻里・りりは、楽しげにきょろきょろと辺りを見回す。
「アクセサリーも、食べ物もたくさんあるみたい。散策だけなら、濡れる心配もないわね」
 その隣で、ベルナデッタ・ドラクロワもふわりと優雅に微笑む。
 浜辺には、珊瑚や貝殻を飾った店がいくつも並んでいる。南国の果実を使った甘い菓子、冷たい飲み物、色鮮やかなアクセサリー。少し歩くたびに新しいものが目に入り、どこから見て回ろうか迷ってしまうほどだ。
「りり、あのお店はスムージーですって。冷たくて、お散歩のお供に良さそうじゃないかしら?」
「ほんとうです! ……わたしは、いちごとバナナにします!」
「ワタシはドラゴンフルーツとバナナのにするわ」
 二人が注文したスムージーは、果実の色がそのまま閉じ込められたように鮮やかだった。
「よかったら……ベルちゃんのひとくちください!」
「ふふ、もちろん。一口どうぞ」
「ありがとうございますっ」
「わあ、ドラゴンフルーツってはじめてです!」
 二人は楽しそうにスムージーを味わう。
 その隣で、ぱふぇも自分の分を待っていたのだが――。
 スムージーの容器と、それからストローを見上げ、しばし考えてみた。
 前足で触ってみる。
 傾けてみる? ううん、やっぱり難しいかも。
 ぱふぇは、すっと顔を背けた。
「……あら。ぱふぇにはストローは難しいわね」
 ベルナデッタが察して、メニューを覗き込む。
「犬用のアイスですって。これならどう?」
(いぬよう……! ぼく、つかいまですが!?)
 それでもぱふぇの尻尾は、ぱたぱたと揺れた。
(もちろん、それがいいです!)
 さっそく運ばれてきた犬用のアイスを一口。
 ひんやりとした甘さが舌に広がり、ぱふぇは目を細める。
(おいしいです。さっぱりです! ひやー!)
「ぱふぇちゃんもおいしいですか?」
 りりが嬉しそうに屈んで顔を覗き込む。
 ぱふぇは胸を張って、わふわふと顔を上げた。
「ふふ。気に入ったみたいね」
 甘いひとときを楽しんだ二人と一匹は、そのまま次の店へと歩いていく。

 りりが足を止めたのは、アクセサリーの露店だった。
「わ、虹色のおさかなさんチャーム!」
 小さな魚を模した飾りが、陽射しを受けてきらきらと輝いている。
「らでん? とってもきれいですねっ」
「持っているひと同士で、どこにいるかわかる魔法がかかっているんですって!」
 りりが説明を読み上げると、ベルナデッタも興味深そうにチャームを眺めた。
「とってもいいわ。迷子タグはやっぱり欲しいわよね」
 そして、ちらりとぱふぇを見る。
「(……さすがに一人で追いかけるのも大変だもの)」
 その意図を察したのか、ぱふぇは自分から首を差し出した。
「ぱふぇは早速着けたいの?」
(もちろんです。ぴかぴかですから!)
(それにそれに、りりったらすぐにまいごになりますから、さがしやすいのはとてもよいです!)
 さっそく店員に取り付けてもらうと、虹色の魚が白い毛並みの中にちょこんと収まった。
「……毛に埋まった、わね」
「ふふっ」
 りりも思わず笑みを零してしまう。
 けれど、当のぱふぇは気にしない様子だ。
 むしろ誇らしげに胸を張った。
「かわいいわよ。ええ、とっても」
「おにあいです、ぱふぇちゃん!」
(かわいい……!)
 ぱふぇは満足そうに尻尾をぶんぶんと振る。
(これがあると、たくさんよんでもらえます。ぼくはたいへんきにいりました!)
 何よりも、ぴかぴかなのがよい。
 それに、りりもベルナデッタも、自分とお揃いのものを持っている。
 それがなんだか嬉しくて、ぱふぇはごきげんにぴょんぴょんと跳ねる。
「わたしとベルちゃんはキーホルダーにしてもらいましょうっ」
「ええ。お揃いも悪くないわね」
 こうして三人分の虹色の魚が揃う。
 ひとつは、ぱふぇの首元で。
 残る二つは、りりとベルナデッタの鞄で。
 太陽の光を受けるたび、それぞれが小さくきらめいていた。

 露店を巡るうち、ぱふぇがふと海のほうへふと顔を向けた。
 波打ち際では、白い波が寄せては返している。
 どうやら砂浜を駆け回りたい気持ちが、うずうずとしてきたらしい。
 それを見たりりが、くすりと笑う。
「海は――またこんどですね!」
「そうね……海に入るのはまた今度にしましょう」
「ぱふぇちゃんったら、いっぱい砂まみれで帰ってきて、お風呂たいへんでしたし……」
 その言葉に、ぱふぇの耳がぴくりと動く。
 たしかに、以前は砂浜を思いきり駆け回った。楽しかった。とても楽しかった。
 けれど、そのあとが大変だったことも、ちゃんと覚えている。
 はい、ぼくはまなびました。
(すなはまダッシュは、おあづけですね……)
 ぱふぇは少しだけしょんぼりしながらも、素直に頷くように頭を下げた。
「ふふ。ちゃんと分かっているみたいね」
 けれど、海に入れなくても、まだまだ楽しめるものはたくさんある。
「……あら」
 ベルナデッタがふと、少し先の屋台に目を留めた。
 そこには、ふわふわの氷に南国の果実をたっぷり乗せたかき氷が並んでいる。
「珊瑚氷のかき氷ですって。ねえ、あれを食べていきましょ」
「珊瑚氷? 食べたいです! わたしはマンゴーがいいです!」
 りりの顔がぱっと輝く。
 ぱふぇも、期待に満ちた眸でかき氷を見つめた。
「甘くて、楽しい思い出を集めて帰りましょう」

 潮風が、三人の髪と毛並みをそっと揺らす。
 虹色の魚のチャームが、陽射しを受けてきらりと瞬いていた。

小弓・佐倉
木邑・零壱
イルゼ・ラウィーネ・ローゼンクランツ

●
 最初に聞こえてきたのは、波の音だった。
 寄せては返す波の向こうから、呼び込みの声や笑い声、食べ物を焼く音が重なって聞こえてくる。潮風に混じって、甘い果実の香りや香草の匂いまで漂ってくるものだから、海辺へ来たというより、大きなお祭りの真ん中へ迷い込んだようだった。
「砂浜、眩しい……。お店の上にも、きらきらがいっぱい」
 小弓・佐倉は、少し眩しそうに目を細める。
 表情が大きく変わらないのは相変わらずだったが、きらきらと輝く浜辺を見つめる赤い眸には、ほんの少しだけ好奇心が浮かんでいる。
「……へぇ、こんな場所があるんだな」
 木邑・零壱も、珍しそうに辺りを見回した。目許を隠すサングラスも、この太陽の下ならば何も違和感はない。
「イルゼとコキューは誘ってくれてありがとよ」
「海沿いのお祭りに、海底の城だなんて、とっても楽しそうだもの。いつも通り楽しむとしましょう?」
 イルゼ・ラウィーネ・ローゼンクランツも、気持ちよさそうに空を仰ぎながら微笑む。

 三人がまず足を止めたのは、冒険者向けの魔法道具を並べた露店だった。
 軒先を飾る貝殻が、陽の光を受けてきらきらと輝いている。
「あら……これは、耳飾り?」
 イルゼが手に取ったのは、水中でも呼吸が出来る魔法が込められた魔法道具だった。
「海底にあるダンジョンをさまようってんなら、それなりに準備はいるよな」
「俺とコキューは人間だし、イルゼも水棲ってわけじゃねぇだろ?」
「そう、ね……泳ぐのはできるけれど、海底まで息継ぎなしはさすがに無理だものね」
 店主から詳しい説明を聞きながら、三人は耳飾りを見比べ始めた。
 小弓は並んだ真珠を、ひとつひとつ眺めている。
「この飾りの真珠、色もいっぱい?」
 白いもの、青みがかったもの、淡い桃色のもの。そして、艶やかな黒もある。
「白だけど、青っぽいの、ピンクっぽいの……この黒いのは、くろちょーがい?」
「ああ、黒蝶貝だな。よく知ってたな」
「……ん」
 褒められて、ほんの少しだけ小弓は嬉しそうに睫毛を伏せる。
 やがてその視線は、黒い真珠を使った耳飾りに止まった。
「……零壱は、きっとこれ」
「俺?」
「うん。似合うよ」
「そうか?」
 零壱が耳飾りを自分の顔の横に当ててみると、イルゼがくすりと笑った。
「ええ、似合っていると思うわ」
「イルゼさんは、青っぽい白?」
 小弓は別の色の耳飾りを指差す。
「そうね。ありがとう、小弓ちゃん」
 イルゼはその耳飾りを受け取り、それから少し考えるようにして、別の一品を手に取った。
「小弓ちゃんは……そうね。木邑さんと似たこの黒色で、ピンクの貝殻が一緒にあしらわれているものなんていいかもしれないわね」
「……これ?」
 黒い真珠の傍らに、小さな桃色の貝殻が揺れている。
 小弓は耳飾りをじっと眺め、それからこくりと小さく頷いた。
「……かわいい」
「ふふ、でしょう?」
「じゃぁ、コイツを人数分。店主さん、頼めるか?」
 零壱がまとめて注文する。
「ふふ、選んでくれてありがとう、小弓ちゃん」
「……うん」
 小弓は自分の耳飾りを大切そうに見つめて、小さな手のひらにぎゅっと包みこんだ。

 その傍らで、鬼火のような護霊――ヤグロがふわりと揺れる。
「ヤグロは、暗いとこ、照らしてくれる……?」
「それなら明かりの問題は大丈夫か」
「……耳飾りの泡に、ヤグロ、おさまるよね……?」
 真剣な顔で耳飾りを見つめる小弓に、零壱は思わず笑った。
「ふふ。ヤグロにはヤグロのお仕事をしてもらいましょう?」
 そんなやりとりをしていると、ふいに小弓が顔を上げる。
「……あっち」
「どうしたの?」
「海の匂いとは違う、いい匂い。ジュージュー聞こえる」
 三人が振り向く。
 少し先の屋台から、香ばしい煙が立ち上っていた。
「鉄板焼き、っていうのかな?」
 屋台には魚介の串焼きや、香草を効かせた料理、海獣肉のグリルなどが並んでいる。
「そうそう、二人とも?」
 イルゼが振り返り、少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「この後しっかり泳いで、その後は戦いが待っているのよ? 途中でバテちゃわないよう、しっかりと食事は食べておきなさいな」
「……ああ、確かに海底までいくとなると体力勝負になるもんな」
「体を冷やすことになるし、あったかいモンで腹ごしらえ済ませとくか」

「……あちち」
 焼きたての串を受け取った小弓は、両手で持ったまま、ふう、ふう、と小さく息を吹きかけた。
 香草と岩塩の香り。その下から、炭火で炙られた肉の香ばしい匂いが立ち上っている。魚介も一緒に焼かれているらしく、潮の香りも混じって、いっそう食欲を誘った。
「熱いから気をつけろよ」
 零壱に言われ、小弓はこくりと頷く。
 ようやく冷めてきたところで、小さく一口。
「……おいしい」
「そりゃよかった」
 無表情ながらも幸せそうに頬を膨らませる小弓を見て、零壱も自分の串にも齧りつく。
「……うん。これは確かにうまいな。肉だけじゃなくて、魚介も一緒に焼いてるのがいい」
「ふふ。海辺ならでは、という感じね」
 イルゼも一口味わい、頷いた。
 香草の爽やかさと岩塩のほどよい塩気が、炭火で焼かれた肉の旨味を引き立てている。海風に晒されて少し冷えた身体にも、焼きたての温かさが心地よかった。
「……串焼きの肉って、もっと硬いのかなって思ってた」
 小弓がぽつりと言う。
「思ったより柔らかいね」
「そうね。しっかり食べておきなさいな。海底では何が待っているかわからないもの」
「……うん」
「……ところで、これ、なんのお肉?」
「海獣肉じゃないかしら?」
「かいじゅう……」
 小弓は少しだけ首を傾げ、それ以上深く考えるのはやめたらしい。
 もう一口、ぱくりと食べる。
 そんな様子を見ながら、零壱が海の向こうへ視線を向けた。
「満月の冒険、何が起きるんだろうな」
「さあ、どうかしらね」
 イルゼも同じように海を眺める。
「でも、その前にしっかり楽しんでおかなくちゃ。食べすぎは逆効果だけれど……ほどほどなら、ね?」
「……うん。みんなで、楽しく」
 小弓もそう言って、もう一度串を口に運んだ。

 きらきらと輝く海と、賑やかな浜辺。
 満月の夜は、まだ少し先。
 だから今は、迫る冒険を忘れるくらいに――夏の味を、ゆっくり楽しもう。

セージ・エルヴ・ラ・サルトゥリス

●
 潮風が、ふわりと翠緑の髪を撫でていく。
 セージ・エルヴ・ラ・サルトゥリスは、片眼鏡越しに遠くまで広がる海を眺めていた。
 蒼い海と白い砂浜。その向こうには、陽光を受けてきらきらと輝く珊瑚礁が見える。
「蒼が美しい、珊瑚礁と海だね……」
 思わず、そんな言葉がこぼれた。
 海へ来ること自体、もしかすると初めてかもしれない。
 自分が泳げるのかどうかすら分からないのだから、この場に居るのがなんとも不思議な話だ。
 けれど、聞こえてくるカモメの鳴き声も、潮風に混じる海の香りも、森で暮らす彼にとっては新鮮なものばかり。
「さて。せっかくだし、早速露店を見て回ろうか」

 のんびりと歩き始めたセージは、ほどなくしてアクセサリーを並べた店の前で足を止めた。
 貝殻に珊瑚、そして真珠。
 これまでじっくりと眺める機会のなかった海で生まれたものばかりだ。
 陽の光を受けたそれらは一つひとつ異なる表情を見せていて、自然が作り出した美しさに思わず目を細める。
「これは……珊瑚花の耳飾りというのかい?」
 淡い桃色の珊瑚をあしらった耳飾りを、そっと手に取る。
「成程。珊瑚って、海に咲く花のようにも見えるよね」
 ふわりと花びらのように広がるそのかたちは、確かに花のそれと良く似ていた。
 育ちと環境の賜物か、花や植物には目がない。
 そんな自分だからこそ、この花のような珊瑚にも惹かれたのだろうか。
 しばらく眺めた後、セージは小さく笑った。
「ふふ。記念に一つ、買って帰ろうかなあ」

 耳飾りを大切そうに包んでもらった後は、冒険者向けの露店へと足が向かう。
 水中や海に潜るための魔法道具の品々は、森で暮らす彼にとってはどれも珍しいものばかりだ。
「店主さん、何かお勧めはあるかい?」
 棚に並ぶ品々を眺めながら、セージは楽しそうに首を傾げる。
「どれも素敵だから、目移りしてしまって。海底ダンジョンの探索に役立ちそうな品だと嬉しいな」
『お、これから海底へ行くのかい? そりゃあ、ちょうどいい』
 日焼けした店主は気さくに笑うと、棚から一つの耳飾りを取り出した。
『それなら、こいつだな』
 店主が取り出したのは、『泡沫の耳飾り』。
『水の中でも息ができる。まずはこれだ』
「なるほど。これは頼もしいね」
『で、泳ぎに自信がないなら『人魚の羽衣』。水の抵抗を減らしてくれるんだ』
「……それは、僕にも必要かもしれないなあ」
 セージが苦笑すると、店主は愉快そうに笑った。
『ははっ、それならなおさらだ。無理して泳がなくても、道具に頼ればいいさ』
 そして店主が最後に取り出したのは、小さな真珠だった。
『じゃあ、最後は『月灯りの真珠』だ。海底は暗いからな』
 次々と店主に勧められた品を手に、セージは目を丸くする。
『題して、海底ダンジョン攻略セット、ってところだな。どうだい?』
 気さくな店主につられて、セージも可笑しそうに笑い返した。
「……なるほど。海の中には、陸とはまた違った冒険が待っているんだね」

 珊瑚の花を思わせる耳飾りと、海底を旅する冒険セット。
 さて、どれを連れて帰ろうか。
 海を知らなかった青年の旅は、どうやら思いがけず、可愛らしい花から始まったようだった。

夕星・ツィリ
ラデュレ・ディア

●
 白い砂浜を、透き通る波が静かに撫でていく。
 陽射しを受けた水面はきらきらと輝き、その向こうには色鮮やかな珊瑚礁。
「わあ……!」
 思わず声を弾ませた 夕星・ツィリは、海へ向かって一歩駆け出す。
 潮風が銀色の髪をさらい、ふわりとやさしく揺れた。
「綺麗な海に、白い砂浜! 吹き抜ける風も気持ちいいね、ラーレちゃん!」
「ええ。本当に……これぞ海、といった光景ですね」
 ラデュレ・ディアも、アメシストの眸を細めて水平線を眺める。
「南海の楽園という名に、とても相応しい場所なのです」
 この地に残されている、伝承の続きも気になる。
 この先に待つ海底ダンジョンのことも、もちろん忘れてはいない。
 けれど、今は――。
「ダンジョンのことも気になるけど。まずはゆっくり楽しもうね!」
「はい。わたくしも、マーケットを心ゆくまで楽しみたかったのです……!」

 指差した先には、浜辺へ並ぶ色とりどりの露店。
 珊瑚や貝殻で飾られた屋台。風に揺れる旗。南国の果実を思わせる甘い香り。
 歩き出した途端、あちらこちらから気になるものが目に飛び込んでくる。
「――ここは、魔法具のお店?」
 最初に立ち寄った冒険者向けらしい露店には、珊瑚と真珠をあしらった耳飾りや、淡い光を宿した真珠、海を思わせる不思議な道具が並んでいた。
「これ……海流を読んで、安全な進路を示してくれるんだって」
 ツィリが手に取った羅針盤の盤面には、細かな波模様が刻まれていた。
「この『潮詠みの羅針盤』このあとのお仕事で頼りになりそうじゃないかな?」
 便利な魔法道具であると同時に、繊細な意匠に目を瞠りながらラデュレも覗き込む。
「海の中で往くべき路を示してくださるのですね……綺麗なひと品です」
「うん。これにしよう!」
 ツィリが嬉しそうに頷く。
 その隣で、ラデュレは別の棚をじっと見つめていた。
「あ……こちらも素敵です」
 そこにあったのは、貝と真珠を細い鎖で繋いだ、小さなシーグラスの魔法具だった。
「探したいものや、失くしものを見つけられるダウジングだそうですよ」
 淡い青緑色のシーグラスが、光を受けて海の欠片のように輝いている。
「これなら、海の中で何かを探すときにも役立ちそうですね」
「わぁ、ラーレちゃんにぴったりだね!」
「ふふ。では、こちらをいただきましょうか」
「……あっ、こっちはこぱんだへのお土産にしようっと」
 ツィリは小さな耳飾りを大切そうに眺める。
「お土産ですか?」
「うん。きっと喜んでくれると思う!」
 そんなツィリを見ながら、ラデュレもふわりと微笑みを返す。

 そうしてひとしきり魔法具を見て回ったあと。
「ねえ、ラーレちゃん。次、あっちのアクセサリーも見てみていい?」
「もちろん、ご一緒にまいりましょう」
 隣の露店には、珊瑚や貝殻、真珠を使ったアクセサリーが並んでいた。店主に尋ねれば、どれもこの海で取れた素材を使用した手作りの一点ものなのだという。
「一点もの……」
 ツィリが、じっとアクセサリーを見つめる。
 同じように見える耳飾りも、珊瑚の色合いや貝殻の形がほんの少しずつ違う。
 ラデュレもひとつひとつ手に取って確かめていた。
「よおく見ると、本当にひとつひとつの表情が異なるのですね……」
「うん……こっちは珊瑚の色が綺麗で、こっちは貝殻の形が可愛くて……」
 ツィリは素敵に映ったアクセサリーを抱えたまま、しばらく唸る。
「ぜんぶ……」
 そこで、ちらりと自分の身につけているものを見やり。
「……ううん。でも私の体は一つ……」
 少しだけ悩んで。
「うぅ、やっぱり全種類一つずつお願いします……!」
「まあ」
 ラデュレが目を丸くする。
「だって、この機会を逃したら、もう出会えないかもしれないから……!」
 ツィリは真剣そのものだった。
 その言葉に、ラデュレも並ぶアクセサリーを見つめる。
「……それも、そうですね」
 どれも二度と、同じものには出会えない。
 今この場所でのめぐり合いも、小さな縁のひとつなのかもしれない。
「では、わたくしも気になる装飾をいただきます……!」
 それぞれお気に入りを選び終えたところで、ツィリがふと思いつく。
「じゃあ……せっかくだし、お互いに購入品を一つ着けてみない?」
「まあ! 楽しそうですね」
 二人は並んで選び、互いに選んだアクセサリーを身につけてみた。
 陽射しの下で、珊瑚と貝殻が小さく揺れる。
 互いに贈るように身につけてみれば、いつもの姿にほんの少しだけ新しい彩りが加わる。
「どうかな?」
「とても素敵ですよ、ツィリさま」
「ラーレちゃんも、すごく似合ってるよ!」
 二人は顔を見合わせて、嬉しそうに笑った。

 買い物を満喫したところで、今度は別の香りが二人を誘う。
「あら?」
 ラデュレの視線の先には、色鮮やかなスイーツの屋台があった。
 陽射しを透かしてきらめく果実。透明な器の中で鮮やかな色を重ねるジュース。しゃりしゃりと氷を削る音の向こうには、色とりどりのシロップや飴細工が並んでいる。
 どの屋台も南国らしい装飾で彩られていて、珊瑚や貝殻をあしらった看板まで可愛らしい。
「お買い物のあとは、ご飯のお時間!」
 ツィリも目を輝かせる。
「ふふ。わたくしも、甘いもののお時間を心待ちにしていました……!」
「じゃあ、決まりだね!」
 二人は甘い香りに誘われるように、スイーツの並ぶ屋台へ歩いていった。
 ツィリが選んだのは、色とりどりの果実が重なったトロピカル・パフェと、淡い水色ゆらめくマーメイド・ソーダ。ラデュレは飴細工が美しい珊瑚礁のかき氷と、搾りたてフレッシュな南国フルーツジュースを選んだ。
「ご覧くださいませ、ツィリさま。珊瑚礁のような飴細工ですっ」
 かき氷の頂に添えられた珊瑚を模した飴細工は、陽の光を透かしてきらきらと輝いている。
「わあ……綺麗!」
 ツィリもパフェを覗き込む。
 マンゴーやパッションフルーツが鮮やかな層を作り、その上には小さな果実が飾られていた。
「では、とけないうちに……」
「いただきましょう……!」
 白い氷の雪をひと匙すくえば、ふわふわの氷が舌の上で溶け、南国の果実の甘さが広がった。パフェのひと口目も、濃厚な甘さが舌の上に広がる。とろりとした果実の甘みに、酸味のあるソースが重なって、暑い日にぴったりの爽やかさだった。
「ん……おいしい……!」
 マーメイド・ソーダを一口飲めば、しゅわりと細かな泡が弾ける。南国フルーツジュースも果物の香りと涼やかさが爽やかに抜けるようで、火照った身体まで軽くなるようだった。
「ラーレちゃん、よかったらこっちも一口食べてみてください……!」
 ツィリがスプーンを差し出す。
「美味しいのお裾分け!」
「まあ。わたくしにも良いのですか?」
「もちろん!」
「嬉しいです……! では、いただきます」
 ラデュレが一口味わえば、果実の甘酸っぱさがふわりと広がった。
「とても美味しいのです!」
 そして今度は、ラデュレが自分のかき氷へスプーンを伸ばす。
「ひと口の交換こ、わたくしのかき氷も召し上がってくださいませ……!」
「私にも? 嬉しい! ありがとう!」
 冷たい甘さを分け合いながら、幸せそうに顔を見合わせて笑う。

 潮風がお互いに選んだアクセサリーを小さく揺らした。
 まだ見ぬ冒険のための準備も、夏の思い出も、少しずつ手の中に増えていく。
 蒼い海の向こうには、これから向かう未知の世界が待っている。
 けれど今は、夏の陽射しと甘いお菓子、それから隣で笑い合う友人との時間を。
 二人だけの小さな宝物として、心にしまっておこう。

第2章 集団戦 『シーフフィッシュ』


●
 蒼い満月が、海の上で静かに輝いていた。
 昼間はあれほど賑やかだった浜辺も、今は波音ばかりが響いている。
 銀色の月明かりが水面に細い道を描き、その先には夜の海を丸く切り取るようなブルーホールが大きな口を開けていた。

 ひとたび水へ身を沈めれば、空の音は遠ざかる。
 波の音も、風の音も、もう聞こえない。
 水面から差し込む月明かりが、揺らめきながら海の底へ落ちていく。
 蒼白く照らされた珊瑚の森を、小さな魚たちが群れを成してすり抜けて、波打つ海藻はゆるやかな海流に揺れ、ところどころで白い泡がぷかりと舞った。
 けれど、美しく輝くその景色も、潜るほどに光が薄くなっていく。
 青が深くなる。
 水面が遠くなる。
 深い青へ、藍色へ、そして夜よりも昏い闇へと変わっていく。
 いつしか鮮やかだった珊瑚の色でさえ、暗がりの向こうへ溶けてしまった。

 ――そのとき。
 闇の中で、小さな光が瞬いた。
 ひとつ。
 ふたつ。
 やがて、いくつもの光がゆらゆらとこちらへ近づいてくる。
 それは硝子の身体を持つ、不思議な魚だった。
 宝石のような眸を輝かせながら、ぷくぷくと泡を吐いて優雅に泳いでいる。その透明な身体の中には、金貨や真珠、珊瑚の欠片や綺麗な貝殻がころりと収まっていた。
『シーフフィッシュ』
 気に入ったものを見つければ、何でも吸い込んで自分の身体に抱えてしまう、深海の小さな盗賊だ。
 ぷくぷく。
 きらきら。
 しゃらしゃら。
 闇の中を泳ぐ彼らの姿は、まるで海底に広がっていく小さな星のようだった。
 深海の静けさの中に、小さな音がいくつも転がってゆく。

 その群れの中に、ひときわ大きな宝石を抱えた一匹がいた。
 それは、これまで見てきたものとは明らかに違う。
 月の光など届かないはずの場所で、それだけが眩い光のように輝いていた。
 どこから拾ってきたのだろうか。
 そう思った、その瞬間だった。
 そのシーフフィッシュは、こちらに気づくとくるりと身を翻した。
 まるで逃げるように宝石を抱えたまま、暗い海の向こうへと泳いでいく。
 その後を追うように、ほかの硝子の魚たちも泳ぎ始めた。
 しゃらり、しゃらり。
 小さな光が、ひとつ、またひとつと海の底へ消えていく。

 彼らが向かう先には、暗闇の中に淡い光が連なっていた。まるで誰かの宝物を運び出す小さな盗賊たちが、海底に一本の道を作っているかのように。
 どこへ向かっているのだろう。
 その先には何があるのか。
 ――深い海は、まだ何も語らない。
 ただ、小さなきらめきだけが、静かな海底へと続いていた。


●マスターより
 2章は冒険パートです。
 巨大なブルーホールから月夜の海底ダンジョンへ。
 幻想的な深海を探索し、人魚の王が待つ海の城を目指します。
 集団敵フラグメントですが、戦闘の必要はございません。

 基本的には海の底から現れた『シーフフィッシュ』を追うことで、自然と海底の城に辿り着くことができます。もちろん、他の方法で目指してもらっても構いません。
 海の中の探索も自由な方法で進んでいただいて大丈夫です。
 マリンマーケットで購入した魔法道具や、√能力、技能、自前のアイテムなどをご活用いただいても構いません。

※今年の水着コンなど、衣装のご指定がある場合はプレイングにお書き添えください。
 こだわりポイントなども教えていただければ、描写に取り入れさせていただきます。

 補足と説明は以上となります。
 それでは、よろしくお願いいたします。
 
 
 
 
井碕・靜眞
物部・真宵

●
 水面へ足先を浸した瞬間、ひやりとした感触が肌を撫でた。
 夜の海は、昼間とはまるで違っている。
 頭上には蒼い満月。銀色の光が水面に揺らめき、波間から覗くブルーホールは月明かりさえも飲み込んでしまいそうなほど深く、静かだった。
 靜眞は身に着けた魔法道具を確かめる。
 水中でも呼吸ができ、水底を歩くことのできる道具。これなら、泳ぐことが苦手な二人でも海の底へ進めるだろう。
「……これなら大丈夫そうですね」
 そう呟いてから、隣に立つ真宵へ目を向けた。
 彼女は海を見つめている。
 夏宵の眸に映るのは、月の光と、果ての見えない深い青。
「……はい。大丈夫……ですよね」
 その声には、まだほんの少しだけ不安が滲んでいた。
 それに気づいた靜眞は、何も言わず、そっと手を差し出す。
「ゆっくり進みましょう」
「……ありがとうございます」
 真宵は一度その手を見つめ、それから静かに靜眞を仰ぐ。
 指先が触れる。
 その瞬間、胸の奥で膨らんでいた不安が、ふっとほどけていくような気がした。

 二人は手を繋いだまま、ゆっくりと海へ身を沈めていく。
 水面が遠ざかるにつれて、世界から音が消えていった。
 波音も、風音も、もう聞こえない。
 ただ、月明かりだけが水の中で細く揺らめいている。
 最初に二人を迎えたのは、月光を浴びて淡く輝く珊瑚の森だった。
 小さな魚たちが群れを成して泳ぎ、海藻がゆるやかな海流に揺れている。
 真宵が感嘆するように目を細めた、そのとき。
 ――ぽう。
 遠くで、小さな光が瞬いた。
 ひとつ。
 ふたつ。
 やがて幾つもの光が、暗くなり始めた海の向こうから近づいてくる。
「……金魚みたいな子がたくさん」
 真宵がそっと呟く。
 けれど、それは金魚ではなかった。
 硝子のように透き通った身体の中に、真珠や珊瑚、貝殻や金貨を抱えた不思議な魚たち。きらきらと輝きながら、ぷくぷくと泡を吐いて二人の周囲を泳いでいる。
「……綺麗ですね」
 靜眞も目を奪われる。
 それぞれが抱えた宝物が、海底に小さな星を撒いているようだった。けれど、そのうちの一匹が、真宵の髪へ視線を向けるようにふわふわと近づいてくる。
「……あ」
 真宵は反射的に、螺鈿のバレッタを片手で覆い隠した。
「盗まれたりしないでしょうか……」
「ふふ、確かに盗まれるのは困りますね」
 靜眞が小さく笑う。
「そうなったらすぐに取り返さないと」
 そんな二人の会話を知ってか知らずか、シーフフィッシュたちはくるりと身を翻した。その中に、ひときわ大きな宝石を抱えた一匹がいる。月の光など届かないはずの深海で、それだけが眩いほどに輝いていた。魚は二人を振り返ると、逃げるように深い闇へ泳ぎ始める。
 その後を、ほかの魚たちも追っていく。
 しゃらり。
 きらり。
 小さな光が、闇の中へ続いていく。
「……あの魚達の光、綺麗な道をつくっていますね」
 靜眞がそう言うと、真宵もその先を見つめた。
 怖いほど暗い海の中に、彼らが残していく光だけが続いている。
「……行ってみましょうか」
「はい」
 二人は手を繋いだまま、光の道を追って進んでいく。
 海はさらに深くなる。
 青が藍へ変わり、やがて夜よりも昏い色へ。
 それでも、繋いだ手の温もりだけは確かだった。

 その途中、靜眞がちらりと横目に真宵の姿を映しながら、ぽつりと口を開く。
「……あの」
「はい?」
「水着、とてもよく似合ってます」
「え……」
 思いがけない言葉に、真宵が瞬きをする。
「すごく……綺麗です」
「……まぁ」
 真宵の頬が、じわりと熱を帯びていく。
 靜眞自身も思わず言ってしまってから恥ずかしくなったのか、視線を少し逸らした。
「その……お姫様みたいだなって……思って……」
 最後のほうは、海の静けさに溶けてしまいそうなほど小さかった。
「あら、まぁ……」
 真宵は照れたように笑う。
「お姫様なんて歳ではないでしょうけれど」
「いえ、そんなことは……」
「ふふふ。ありがとうございます」
 水に透ける白い布は月明かりを受けて、深い海の中でも淡く浮かび上がっている。そして、その足元には――去年の誕生日に靜眞から贈られた青い硝子の靴。
 それに気づいた瞬間、靜眞は目を瞠った。
 今も履いてくれている。
 気に入ってくれているからだろうか。
 何気なく浮かんだ問いの答えを、思いがけず目の前で見つけた気がした。
 口の端が、自然とほころびそうになる。
 そんな彼に気づいたのか、真宵がそっと笑った。
「実は……去年の誕生日に頂いた硝子の靴に似合うかなって、思って」
「……」
「だから、井碕さんにそう言って頂けるとうれしいです」
 胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「……よかった」
 靜眞は小さく息を吐いた。
「おれもうれしいです。大切にしてくれて、ありがとうございます」
「こちらこそ」
 真宵は繋いだ手をほんの少し握り直す。
「素敵な贈り物、ありがとうございます」
 二人の前では、シーフフィッシュたちの光がまだ続いている。
 その先に待つのは、深海の城。
 けれど今は、不思議と怖くなかった。
 月明かりと、小さな魚たちの光。
 そして、離れないように繋いだ手。
 深い海の底へ続く道を、二人はゆっくりと泳ぎ歩いていった。

セレネ・デルフィ
羽純・にあ

●
 月明かりを受けた海は、昼間とはまるで別の場所のようだった。
 波打ち際に立つセレネの銀糸の髪が、夜風にさらさらと揺れている。
 その装いは、人魚にも似た夜の歌姫――セイレーンを思わせるものだった。
「わぁ……セレネさん、人魚姫みたい! とってもきれい……」
 にあは目を輝かせながら、うっとりとセレネを見つめている。
「月の光みたいな髪が、夜の海にふんわりなびくの。きっとレースみたいですてきに違いないです!」
「ありがとうございます……!」
 そんなふうに真っ直ぐ褒められて、セレネも少し照れたように頬を染める。
「にあさんも、可愛らしいです」
「えへへ、ありがとうございます」
 二人は顔を見合わせて、ふわりと笑う。
 その耳元では、昼間に二人で選んだ耳飾りが月光を受けて小さく揺れていた。珊瑚と鴇色の貝殻があしらわれた、二人のお揃い。
 これがあれば、水の中でも息ができる。そう聞いてはいても、実際に海へ潜るとなれば話は別だった。二人の前には、夜の海を丸く切り取るように、巨大なブルーホールが口を開けている。
「……昏い……」
 にあが、その底をじっと覗き込んだ。
 月の光が届いているのは、ほんの入り口まで。
 その先は、青とも藍ともつかない深い闇が続いている。
「ちょっと、こわい……かも」
 にあは耳飾りを、ぎゅっと掌の中で握り込んだ。
「大丈夫ですよ」
 セレネが穏やかに微笑む。
「行きましょう……私も一緒です」
 そう言って、細い手がそっと差し出される。
 にあは一瞬だけためらってから、その手を握った。
「……は、はい!」
 セレネの手を頼りに、二人はゆっくりと海へ身を沈めていく。
 水面が頭上へ遠ざかる。
 ざあ、と響いていた波の音が、いつの間にか消えていた。
 代わりに聞こえるのは、自分たちの呼吸だけ。
 ――けれど。
「……っ」
 にあは思わず目を見開いた。
 息が、できる。
 水の中なのに、苦しくない。
 セレネも確かめるように一度息を吸い、それからにあへ笑いかけた。
「ちゃんと、呼吸できますね」
「……ほんとに?」
「はい」
「ほんとに!? ほんとに平気!?」
 安堵した途端、今度は驚きのほうが勝ったのか、にあがぱたぱたと慌てる。
 そんな様子がおかしくて、セレネはまた小さく笑った。
「ふふ、大丈夫ですよ」
 その笑顔を見て、にあもようやく肩の力を抜く。
 繋いだ手には、いつの間にか少しだけ力が込められていた。
 けれど、その先に広がっていた景色を見れば、そんな不安も忘れてしまう。
「……見てください」
 セレネが指差した先を、小さな魚の群れが横切っていった。
 月明かりを透かすような身体。
 珊瑚の間をすり抜けるたび、その鱗が淡く煌めいている。
「わあ……きらきらしてますねぇ」
 にあが目を丸くする。
 それは、硝子のように透き通った身体を持つ、不思議な魚たちだった。身体の中には、真珠や貝殻、珊瑚の欠片。しゃらり、しゃらりと小さな音を鳴らしながら、深海を泳いでいる。
「綺麗なお魚さんです……!」
 セレネが目を輝かせる。
「むむむ……」
 にあはその群れをじっと見つめた。
「でも、なんだか、誘われている予感……?」
 確かに、魚たちはどこかを目指しているようだった。
 その先には、淡い光が連なっている。
 まるで深海に落ちた星々が、一本の道を作っているように。
「何だか場所を示しているような……?」
 セレネが首を傾げる。
「どうしましょう。目的地は海底のお城ですけれども……ついて行ってみますか……?」
「……行きましょう!」
 にあは迷いなく頷いた。
「もし悪い子なら、わたしがえいっ!ってしちゃいます!」
「ふふ、それは頼もしいです」
 セレネは微笑むと、握った手を離さないまま、そっと光の方向へ泳ぎ出す。
 にあもその隣へ続いた。
 しゃらり、しゃらり。
 二人のお揃いの耳飾りが、深い海の中で小さく揺れる。
 硝子の魚たちが作る光の道を追って、二人はさらに深い場所へ。
 その先に待つものを、まだ知らないまま――。

シンシア・ウォーカー
神隠祇・境華

●
 耳元で、小さな硝子が月明かりを受けて揺れた。
「先程購入した泡沫の耳飾りに、人魚の囁き石を付けて……っと」
 シンシアは、留め具を確かめるように指先でそっと触れる。淡い光を宿した耳飾りは、夜の海辺に静かに輝く星明かりのようだった。
「純粋にアクセサリーとしても素敵なのですが、これで水中の活動も快適になるといいますからね。境華さんとお揃いですし!」
「はい、お揃いですね」
 隣では境華も、自分の耳元に手を添えている。
 同じ耳飾りが月光を受けて、二人の間でちいさくきらめいた。
「こうして身に着けてみると、思っていた以上に綺麗ですね」
「ふふ、そうでしょう?」
 思わず嬉しくなって、シンシアの表情も柔らかくなる。
 準備はもう整った。購入した魔導書も忘れずに携えて、あとは――。
「さ、行きましょう。二人で、れっつだいぶ!」
「はい。一緒に、れっつだいぶ、です」
 そんな言葉を合図に、二人は揃って海へ身を沈めた。

 冷たい水が身体を包む。
 けれど、不思議と苦しさはなかった。
「わあっ……!」
 思わず声が漏れる。
 息ができる。
 しかも、隣の境華の声まできちんと聞こえている。
 人魚の囁き石がもたらす力は、どうやら思っていた以上に頼もしいらしい。
「凄いですね。呼吸も難なくできます。準備を整えていた甲斐がありました!」
「……すごいですね」
 境華もまた、金の眸を大きく見開いて辺りを見回している。
 水面から差し込む月明かりが、海の中を淡く照らしていた。
 珊瑚の森が静かに揺れ、その間を小さな魚たちが銀色の群れとなって通り抜けていく。海藻はゆったりと波打ち、吐息の代わりに生まれた泡が、二人の間をふわりと昇っていった。
 そして、その先。
 暗がりの中で、いくつもの光が瞬いた。
「……あれが例のシーフフィッシュですね」
 硝子のような身体。その中には、金貨や真珠、貝殻の欠片がころころと収まっている。小さな盗賊たちは、まるで宝物を自慢するようにきらきらと輝きながら、二人の前を泳いでいた。
「一体、何処へ導いてくれるのでしょう?」
「追ってみましょうか」
「そうですね!」

 二人はシーフフィッシュを追って、ゆっくりと海底を進んでいく。
 無理に捕まえようとはしない。
 逃げていくなら、そのまま見送る。
 ただ、その小さな背中が作る光の道を辿るだけだ。
 深く潜るほど、海は静かになっていった。
 それでも、不思議と寂しくはない。きっと互いが隣に居てくれているからだろう。
「……シンシアさん、見てください」
 境華が指差した先には、淡い青紫色の珊瑚が咲いていた。
 海流に合わせて枝を揺らし、その周囲を小さな魚が舞っている。
「わあ、綺麗!」
 シンシアもすぐにそちらへ顔を向ける。
「写真でしか見たことのないような世界ですね、本当に――!」
 思わず近寄りそうになるシンシアを、境華が微笑ましそうに見つめた。
「まだまだ、いろいろありそうですね」
「ええ。あちらにも何かありますよ!」
 今度はシンシアが指を伸ばす。
 揺れる海藻の隙間から、小さな魚の群れが飛び出した。
 さらにその向こうでは、何かがきらりと光る。
 近づいてみれば、それは海底に沈んだ貝殻だった。
 月明かりの届かぬ深さなのに、その表面には淡い光が宿っている。
「……綺麗ですね」
「本当です」
 ほんの小さな発見さえ、二人で見つければ楽しい。
 シーフフィッシュを追いかけているはずなのに、いつしか二人は、海底そのものを楽しむ散歩へ夢中になっていた。
「こうしてゆっくり海中を巡るというのも、よいものですね」
 シンシアがふわりと笑う。
「境華さんと一緒だからか、余計に楽しく感じます」
「私も……そう思います」
 境華がほんの少し嬉しそうに答える。
 その間にも、シーフフィッシュたちは先へ先へと進んでいた。
 しゃらり。
 きらり。
 硝子の身体に抱えた宝物が、暗い海の中で小さな星のように瞬く。やがて珊瑚の森を抜けると、二人の前に広がったのは、これまでよりさらに深い青だった。その奥に、淡い光が連なっている。
「……あの先、でしょうか」
「ええ。きっとそうですね」
 二人は顔を見合わせる。
 まだ見ぬ海底の景色へ。
 小さな盗賊たちが残していくきらめきを追いながら、二人は再びゆっくりと、深い海へ泳ぎ出した。

エレノール・ムーンレイカー

●
「いっぱい食べましたし、これでやる気はばっちりです!」
 これから深海へ潜るというのに、エレノールはどこか遠足へ向かうような言葉だった。
 けれど、その琥珀色の眸が見つめる先――夜の海にぽっかりと開いた巨大な穴を前にすれば、自然と表情は引き締まる。
「ここがブルーホール……」
 月明かりを呑み込むような深い青。その底は見えず、ただ静かに、遥か下へ続いている。
 見れば見るほど不思議で、圧倒される場所だった。
 エレノールはしばしその光景を眺めた後、静かに息を整える。
「さて。さっそく探索を始めましょうか」
 海へ身を乗り出しながら、エレノールは魔法の言葉を紡いだ。
 身体を淡い光が包み込む。
 銀髪がふわりと揺れ、肌を撫でるように魔力が巡っていく。人の脚は水を掻く尾へと変わり、やがて彼女の姿は美しい人魚へと移り変わった。
 空想の中にしか存在しないはずの姿も、彼女にとっては自在に手繰れるひとつの可能性だ。
「これなら、水の中でも自由に動けますね」
 尾鰭をひと振り。
 そのままエレノールは、青い海へ身を躍らせた。
 水面を抜けた瞬間、世界から音が遠ざかる。
 静かな海流に身を委ねながら、ブルーホールの壁面に沿って深く、深く潜っていく。珊瑚の森を抜け、海藻の揺れる青を越え、やがて周囲の光が薄れていく。
 深海域へ辿り着いた、そのときだった。
 暗闇の向こうで、小さな光が瞬いた。
 ひとつ、ふたつ。
 続いていくつもの光が現れ、ゆらゆらとこちらへ近づいてくる。
「あれは……」
 硝子の身体を持つ魚たち。その透明な身体には、真珠や貝殻、宝石の欠片がきらめいている。
 エレノールが目を細めた、その瞬間。
 ひときわ大きな宝石を抱えた一匹が、くるりと身を翻した。
 まるで見つかったことを悟ったように、群れは一斉に深海の奥へ泳ぎ始める。
「待ってください……!」
 エレノールもすぐさま後を追った。
 人魚の身体は、水の中を驚くほど滑らかに進んでいく。小さな盗賊たちとの距離は、みるみる縮まっていった。
 やがて彼らの光が、暗い海の中へ一本の道を描き始める。
「……まるで、星のようですね」
 深海にいるはずなのに。
 その光景はまるで、満天の星空の中を泳いでいるようだった。
 不思議な感覚に目を細めながら、エレノールはその小さな星々を追っていく。
 目指すのは、この海底の先にある人魚王の城。
「このままついていけば、辿り着けそうですね」
 そう呟いて、エレノールは尾鰭をひと振りする。
 深い青の向こうへ、ひとつ、またひとつと小さな光が消えていく。
 その後を追って、彼女もまた海底の城を目指して泳いでいった。

四十万・白灯
雨夜・氷月

●
 夜の浜辺には、昼間の喧騒が嘘のような静けさが降りていた。
 遠くに見えるブルーホールは、蒼い満月を水面に映しながら、深い海の底へと続いている。
 その傍らで、白灯は潜水の準備を進めていた。
「水中呼吸に、水中会話に……潜るのに必要な道具は、こんな所でしょうか」
 マリンマーケットで買い揃えた魔法道具を、水着の上からひとつずつ身につけていく。そんな白灯の姿を、氷月がじっと覗き込んでいた。
 視線に気付いた白灯が顔を上げる。
「呀、気になります?」
 にこ、と笑って、自分の胸の中央へ指を添えた。
 そこには、縦に走る裂け目がある。
 それを縫い合わせる赤い糸を、白灯は指先でゆっくりとなぞってみせた。
「これですか?」
「ウン。アンタの水着姿、新鮮――」
 氷月は好奇心のまま、ずいと身を寄せる。
「その縫い目、何?」
 裂け目の向こうに何があるのか。
 そんな想像を膨らませるように、氷月の眸が赤い糸を追っていく。
 白灯は彼のその様子を見て、嬉しそうに笑った。
「………」
 けれど氷月は、露骨に喜ぶ白灯の様子を見ているうち、なんとなく面白くなくなったらしい。
「……なんか、喜ばれるのも癪だし。いいや」
 ぷい、とそっぽを向く。
 ――どうやら、少し気を引こうとした下心まで見抜かれたようだ。
 そのまま、先に海へ向かって歩き出してしまった。
 白灯は一度、その背中を見送る。
「……あらら」
 そして、残念そうに小さく肩を揺らしながら彼の後を追った。

 蒼い月明かりが、水面の上で静かに揺れている。
 その先に待つものを確かめるように、二人は海へ身を沈めた。
 ――水中に入った瞬間、世界から音が消えた。
 波の音も、風の音も遠ざかる。
 代わりに、月明かりだけが水の中を細く伸びていた。
 深く潜る。
 青が濃くなり、珊瑚の森が暗がりへ溶けていく。
 そのとき。闇の中で、小さな光が瞬いた。
 ひとつ。
 ふたつ。
 やがていくつもの光が、ゆらゆらとこちらへ近づいてくる。
 硝子の身体を持つ魚たちだった。透明な身体の中には、真珠や珊瑚、貝殻や金貨がころりと収まっている。まるで小さな星の群れが、深海を泳いでいるようだった。
 その中に、ひときわ大きな光を抱えた一匹がいる。月明かりさえ届かない深海で、それだけが妙に眩い。その様子に、氷月が訝しげに目を細める。
 次の瞬間、その魚がくるりと身を翻した。
「逃げたね」
 氷月が追おうとした、その瞬間。
 白灯の手からワイヤーが伸びた。
 それは手近の大きな魚へ絡みつき、その勢いを借りて一気に加速する。
「では――」
 すい、と白灯の身体が魚へ引かれていく。
 そして次の瞬間には、氷月の身体まで片腕で攫われていた。
「――!? ちょっと!!」
 じたばたと抵抗する。
「城まで海中ドライブです」
「いや、頼んでないから!」
「暴れると逸れてしまいますよ?」
「別に逸れてもいいから離してよ!」
「器用さも力強さもアピールしておかないと」
「って……聞いてないし!」
 抗議もどこ吹く風。
 白灯は楽しそうに魚を操り、深海を進んでいく。
 やがて氷月も抵抗するのを諦め、不満げに身体から力を抜いた。
「……後で覚えてなよ」
 それでも、視線だけは暗い海の向こうへ向いている。
 光る魚たちが作る道。
 その先には、淡い光が連なっていた。
 氷月はぼんやりと、その景色を眺める。
 月明かりに輝く珊瑚礁、優雅に泳ぐ夜の海の魚たち。
 こんな状態じゃなければ、もっと楽しめたかもしれないのに。
「――そういえば」
 ふと白灯が声をかける。
「似合ってますよ、髪飾り」
 氷月の髪に留められた、月蝕真珠へ視線を落とす。
「……そう?」
 自分でも気に入っているものだから、否定する気にはならない。
 けれど、嬉しそうに告げる白灯の顔を見ると、どうにも面白くない。
「アンタが選んだんだから、似合わなかったら困るだろ」
 そう言って、氷月は前を向く。
 乳白色の真珠が、青銀から淡い紫へと静かに色を変える。
 その光を連れて、二人は深海の奥へ進んでいく。
 二人を連れた海中の魚は、光の道を駆けていく。
 その先で深海の闇に沈んでいた何かが、少しずつ輪郭を現し始めていた。

野分・時雨
緇・カナト
トゥルエノ・トニトルス

●
「さあ、お待ちかねの海ですよ!」
 時雨が意気揚々と、すっかり準備万端といった様子で振り返った。
 その隣では、カナトがまだ浜辺に座っている。夜の海を眺めながら、すっかり寛いだ様子だ。
「えぇ〜……オレ、もうちょっとここにいたいんだけども」
「海に来たのに?」
「だって蒼い満月がキレイじゃないか。これは浜辺で眺めるやつだよ〜」
「それもそうではあるのだが」
 黒麒麟の姿になったトゥルエノも、海を眺める。
 水面に揺れる月は、空に浮かぶものとは少し違って見えた。
 波が砕けるたび、青白い光が砂浜へ散っていく。
 確かに、此処で眺めているだけでも悪くない。
 しかし。
「せっかく三人で来たのだから、主だけサボりは頂けないぞ〜」
「えー」
「ほら、行きますよ!」
 時雨に促され、カナトは渋々立ち上がった。
「夏場の牛鬼くんは強気で元気だなぁ」
「楽しいスイミングタイムですよ!」
「ずっとそういう感じで引っ張ってけば良いのに〜」
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だねぇ」
 そんな会話を交わしながら、三人は波打ち際へ向かう。
「ところで、おふたりは呼吸できるアクセサリーとか付けた? 万全ですか?」
「付けたよ〜。ちゃんと水中呼吸できるやつ」
「わたしも問題ないぞ」
「それなら安心ですね!」
 時雨がにっこり笑う。
 そして――。
「それっ!」
 ざぶん!
 時雨は迷いなく海へ飛び込んでいく。
「おお……」
 水面が大きく揺れる。
 少々圧倒されたカナトも、するりと自分の身体を変化させた。月夜の海面に現れたのは、灰色の毛並みを持つ大きなボルゾイ犬。四つ足になったカナトは、そのまま海へ潜っていく。
「こっちの方が楽だからねぇ」
 ざぶざぶ。ざぶさぶ。水を掻き分けていく。
 犬掻きだった。
「……主よ」
 黒麒麟の姿で海へ浸ったトゥルエノが、なんとも言えない顔をする。
「それで良いのか?」
「良いんだよ〜。泳ぎやすいからねぇ」
 時雨はすでに少し先まで泳いでいた。
「ほら、早く来てください!」
「はいはい〜」
 カナトが犬掻きで追いかける。
 その姿を眺めながら、トゥルエノも海中へ身を沈めた。

 水に包まれた途端、浜辺の喧騒が遠ざかった。
 頭上には、揺れる月。
 珊瑚の枝を縫うように、小さな魚たちが群れで泳いでいる。水の中ではすべての動きがゆるやかで、ボルゾイの長い毛並みも黒麒麟の鬣も海流に揺らめいていた。
「普段は湖面を歩くこともあるが……こうして海中を移動するのも、中々新鮮ではあるなぁ」
「でしょう?」
 時雨が得意げに振り返る。
「涼しくて静かで、綺麗で快適です。ぼく、海から見上げる月明かりって好きなんですよね」
「わたしも好きだぞ」
「お、エノくんも海派ですか?」
「うむ」
「じゃあ今度、海の話しましょうよ」
「構わんぞ」
 時雨が嬉しそうに笑う。
 珊瑚の陰。岩の隙間。暗い海藻の向こう。
 青い闇の中で、小さなものがきらりと瞬いた。
「あっ」
 時雨が二人を振り返る。
「魚いたよ!!」
 ぱっと身を翻し、その光へ向かっていく。
「ねぇ! 聞こえてるー!?」
 ボルゾイ姿のカナトが振り返る。
「聞こえてるよ〜」
「聞こえてない??」
「聞こえてるってば〜」
 時雨は魚のほうへ近づいていく。
 そこにいたのは、普通の魚ではなかった。
 硝子のように透き通った身体。その中には金貨や真珠、珊瑚の欠片、色とりどりの貝殻がころころと収まっている。魚が身体を揺らすたび、しゃらり、と小さな音が鳴った。
「これが噂のシーフフィッシュ?」
 追いついたカナトが鼻先を向けながら小さく首を傾げる。
「ぴかぴか星のように輝いてるねぇ」
 シーフフィッシュは一匹ではなかった。気づけば周囲に、いくつもの小さな光が浮かんでいる。ぷくぷくと泡を吐きながら、硝子の魚たちはゆっくりと泳いでいた。
「綺麗なお魚さんですね」
 時雨が目を細める。
「捕まえたくなるよね」
「うん?」
「こういうの、手のひらに乗せてみたくなりません?」
「ああ、なるほどねぇ」
 カナトがふよふよと自分に近付いてきた一匹を目で追う。
 魚が右へ。犬の頭も右へ。魚が左へ。頭も左へ。
 そして。
「……」
 ぱく。
「こらこら!」
 トゥルエノの声が飛んできた。
 ボルゾイの口が、魚を咥える寸前で止まる。
「いくら野生の本能に戻っているとは言え、ダンジョンのものを何でも口に入れようとするんじゃないぞ……!」
「いやぁ、動くモノは大体猟犬の獲物だ……ってねぇ」
「其のシーフフィッシュは食べない方がいい」
「さすがに食べるのは向いてなさそう〜だけど」
 カナトは名残惜しそうに魚を見送る。
「でも、目印代わりには丁度良いよねぇ」
 その言葉どおりだった。
 シーフフィッシュの群れは、ばらばらに泳いでいるように見えて、いつの間にか一つの方向へ進み始めている。
 中でもひときわ大きな一匹が、眩い宝石を抱えて先を泳いでいた。
 しゃらり。
 きらり。
 暗い海の中に、小さな星の列が続いていく。
「……あっちへ向かっているようだな」
 トゥルエノがその先を見据える。
「道案内してくれるのかもしれませんね」
「じゃあ、追いかけましょう!」
 時雨が先陣して水流を操る。
 三人の身体を押すように、ゆるやかな流れが生まれた。
「おお、これはさらに楽だねぇ」
「でしょう?」
「わたしも水流操作の術でも覚えようかな……」
「便利ですよ!」
「……主は覚えなくていいのか?」
「オレは犬掻きでじゅうぶん〜」
「なぜだ」

 三人のやり取りをよそに、シーフフィッシュたちはさらに深くへ進んでいく。
 青は次第に濃くなり、やがて夜よりも昏い色へ変わった。
 それでも、小さな魚たちの光だけは消えない。
 そして――その先。
 月明かりの届かない海底へ。
 まだ見ぬ冒険と、人魚の王が待つ城へ。

時結・ラチア
時結・セチア

●
 水の中では、いつもの衣服とは違う軽やかさがあった。
 ラチアの身を包む濃紺の衣が、海流に合わせてゆらりと揺れる。白い肌の上を銀色の光が滑り、その背に広がる翼さえも、今は水の中で静かに羽ばたいていた。
 隣を泳ぐセチアもまた、海へ合わせた装いだ。オリエンタルな薄布を重ね、長い黒髪が水中にほどけている。その琥珀色の眸に月明かりが淡く映っていた。
 頭上を見上げれば、水面は遥か遠い。
 そこから落ちてくる月明かりが、ゆらゆらと揺れながら二人の周囲を照らしている。
「……こうして見ると、やっぱり海の中って不思議だね」
 ラチアが呟く。
 声は水に溶けてしまうように小さく響いた。
 そのときだった。
 視界の隅で、何かがきらりと光る。
「……待って」
 ラチアが泳ぐ速度を緩める。
「セチア、あそこ」
 指差した先を、一匹の小さな魚が泳いでいた。
 透き通った硝子の身体。その中には、真珠や小さな貝殻がころころと収まっている。宝石のような眸を瞬かせながら、魚は二人の周囲をくるりと一周すると、まるで挨拶でもするように近づいてきた。
「ホントだね、ラチア。とても綺麗だ……」
 セチアも目を細める。
「あれがシーフフィッシュ、と呼ばれているお魚さん、かな」
「そうみたいだね」
 ラチアが手を伸ばす。
 けれど魚は逃げるどころか、その手のすぐ傍まで寄ってきた。
「人懐っこいというか警戒心がないというか……」
 魚の身体の中で、貝殻がしゃらりと鳴る。
「野生にしては少し心配になるけれど」
「そうだね……だからこそ、こうしてしっかり見る機会が貰えた、と考えるとどうにも悩ましいところだね」
 セチアが微笑む。するとシーフフィッシュは、何を思ったのかラチアの目の前でぴたりと止まった。透明な身体の中で、何かがきらめく。
「なーに? オレにくれるの?」
 ラチアが首を傾げる。魚は、どうやらそのつもりらしい。
「ふふ、気持ちは嬉しいけれど見るだけで十分。ありがとう」
 そっと手を引く。すると今度は魚がセチアへ向かって泳いでいった。
「……って、セチアにも渡そうとしないの」
「ふふ、自分の宝ものを渡したくって仕方がない、と言った所かな」
 セチアが困ったように笑う。
「渡そうと想ってくれる気持ちは嬉しいけれど、ね」
「大切なものを易々と人に渡すのは駄目だよ?」
 ラチアも諭すように言う。
 魚はつぶらな眸で二人を交互に見つめた。
「そんな顔しても駄目。……あ、拗ねちゃった?」
「ふふ。拗ねてる所もどこか可愛らしく想えるよ」

 しばらくその小さな魚と見つめ合っていたが――やがて、魚はくるりと身を翻した。そして少し先まで泳いでから、二人を振り返る。
「どうやら、何か伝えたいみたいだね」
「うん。もしかして……ついてきてほしいのかな」
 魚の向かう先には、いくつもの小さな光が浮かんでいた。
 一匹ではない。
 二匹、三匹――やがて数え切れないほどのシーフフィッシュが、暗い海の底を泳いでいる。硝子の身体に抱えた真珠や貝殻が、しゃらり、しゃらりと鳴る。その光景を眺めながら、ラチアはふっと笑った。
「エスコートしてくれるならついていこうかな」
「そうだね、偶にはエスコートされる側も、悪くないかもね?」
「……本当はされるより、したいけれどね」
 ラチアは先を泳ぐ魚へ視線を向ける。
「海底は魚たちの方が詳しいだろうし」
 そうして、ゆっくりと泳ぎ出す。
「たまには海の中を踊るように泳ぐのも悪くないでしょ?」
「折角の機会だし、――そうしようか、ラチア」
 二人が進み始めると、シーフフィッシュたちも一斉に泳ぎ出した。
 しゃらり、しゃらり。
 小さな光が暗闇の中を流れていく。
 それを追うように、二人の翼が水を掻いた。
 珊瑚の森を抜け、揺れる海藻の間をすり抜ける。
 その先には、まだ月明かりの届かない深い海が広がっていた。
 二人を導く小さな光が、暗闇の向こうへ続いている。
 その先に何が待っているのか――今はまだ、魚たちだけが知っている。

木邑・零壱
小弓・佐倉
イルゼ・ラウィーネ・ローゼンクランツ

●
 水面へ足を踏み入れた瞬間、夜の海が静かに三人を呑み込んだ。
 波間から聞こえていたはずの音が、ひとつ、またひとつと遠ざかっていく。
「……時間になったな」
 零壱は耳元に手を添える。マリンマーケットで選んだ『泡沫の耳飾り』が、淡い光を帯びている。次の瞬間、耳飾りからこぼれた泡が身体を包み込み、呼吸のための空気を優しく閉じ込めた。
 隣では小弓も、淡紫のワンピースをふわふわと水に靡かせながら、慣れない海流に身を任せる。傍らを漂うヤグロも同じ色味に淡く染まり、鬼火のような光をぼんやりと灯していた。
「……ブルーホール、深い穴……」
 小弓は、眼前に広がる巨大な海底を覗き込むようにそっと身を乗り出す。
 月明かりを映していた海面は、もう頭上に遠い。
「お月様まで飲み込んじゃいそうで、なんだか、怖い」
「ずいぶんと深い穴ね。二人とも逸れないよう、気をつけましょうね」
 イルゼも二人を気遣いながらやわく微笑む。黒い総レースのビキニにパレオを纏った姿は、月明かりの下では昼間よりもずっと鮮やかに映えていた。
「イルゼさん、とっても……キレイ」
「ふふ、ありがとう。……ちょっと攻めたものになったけど、素敵でしょう?」
「小弓ちゃんの水着も、淡い色合いが白い肌とあっていてとっても素敵よ」
「……ありがとう、イルゼさん」
 小弓は耳飾りに嬉しそうにそっと触れる。
「これも……この姿なら似合う、よね」
「ええ。とっても可愛いわ」
「ああ。まあ……似合ってるんじゃねぇか」
 零壱も遅れてそう答えつつ、視線は海を泳ぐ魚に向いている。
「折角だもの。来年は木邑さんも、もう少し華やかなものになさいな」
「俺はこれでいいんだよ」
 黒ずくめの零壱は、頑なにイルゼから視線を逸らしつつ答えた。

「……場所が場所だ。はぐれねぇように、手ぇ繋ぐなりしておくか」
「うん……」
「ふふ、そうしましょう」
 三人の手が繋がる。
 小弓は二人の間で左右へ手を伸ばした。片方を零壱へ。もう片方をイルゼへ。
 そして、ゆっくりと海底へ。
 青い。ただひたすらに、青かった。
 水面から差し込む月光が、揺らめく筋となって海の底へ落ちている。その光の中を小さな魚が群れを成して横切り、珊瑚の枝先では海藻が静かに揺れていた。
「……海の中ってのは、また幻想的な光景だな」
 水深が増すにつれて、周囲は次第に暗くなっていった。
 月明かりも届かなくなり、頼りになるのはヤグロの淡い光だけだ。
「……この先、かなり暗くなりそうだな」
 零壱が周囲を見回す。
「だったら、少し先を見てきてもらうか」
 零壱が手を掲げると、九体の小さな亡霊がふわりと浮かび上がった。
「――力を貸してくれ、俺の家族たち」
 亡霊たちは三人の周囲を一度巡ると、そのまま暗闇の向こうへ散っていく。
「何かあれば知らせてくれ」
「……じゃあ、わたしも」
 小弓の足元に、小さな鬼火がぽつぽつと灯る。
「黒猫さん、リーダーね」
 九匹の子猫が、ふわふわと暗闇へ泳ぎ出した。
「まあ。頼もしいわね」
 イルゼがその姿を見送り、それから自分も手を伸ばす。
「それなら、私もお手伝いしましょうか」
 冷気が水中に淡く広がった。生まれたのは、小さな氷の人形たち。
「二人の使った子達を、私も氷人形で再現するわ。これで数が増えれば、もっと広く探せるでしょう?」
「助かるな」
 亡霊、鬼火猫、そして氷人形。
 小さな探索者たちが、それぞれ別の方向へ散っていく。
 やがて、小弓がふと目を細めた。
 猫たちから伝わってくる視界の中に、小さな光がいくつも瞬いている。
「……あ」
「何か見つけたのか?」
「うん。あっちに、光るお魚さんがいるよ」
 三人がそちらへ目を向ける。
 暗闇の向こうで、ひとつ、またひとつ。小さな光が揺れていた。幾つもの光がこちらへ近づいてくる。硝子の身体。宝石のような眸。透明な身体の中には、金貨や真珠、珊瑚の欠片がころころと転がっている。
「……お魚さん」
 小弓が目を開く。その魚たちは三人を警戒するでもなく、ぷくぷくと泡を吐きながら泳いでいた。
「お腹にキラキラ集めて、なにするのかな」
「奥地への案内人、ってわけじゃねぇだろうが。一つの導にはなるだろうな」
 零壱の亡霊たちが先を追い、鬼火猫たちも後を追う。
 小弓はその視界を確かめるように、ゆっくりと頷いた。
「……大丈夫。あっちで間違いない、よ」
 猫たちが見つけた先には、暗闇の中へ続く淡い光があった。
「魚を追った結果、狙ってる所に辿り着くことを願うか」
「ええ。後は綺麗なお魚を眺めながら、ゆっくりと底まで行きましょうか」
「疲れたのなら私に言って頂戴な。魔竜の姿で一気に潜ってあげるわ」
 小弓が二人の手を握り直す。
 前方では、硝子の魚たちが小さな星のように揺れている。
 その光を追うように、三人もまた、深い青の底へと降りていった。
 暗闇の向こうに何が待っているのか――まだ、その姿は見えない。
 けれど、硝子の魚たちが運ぶきらめきだけは、迷うことなく海底の奥へと続いていた。

ララ・キルシュネーテ
鴛海・ラズリ

●
 水面が、頭上で揺れている。
 月明かりを受けた海は、まるで大きな鏡を裏返したようだった。
「ラズリ、海底探検なのだわ!」
 小さな身体を水へ沈めながら、ララが振り返る。
 レトロ可愛い雰囲気の水着には、しゅわぱちと弾けるレモンスカッシュを思わせるフリルやリボン。腰にはレモンの浮き輪まで添えられている。海の中でもお気に入りの飾りはふわふわと揺らめいていた。
「海の底って、どんなところなのかな?」
 ラズリも楽しそうに頷いた。
 月から降りてきた少女を思わせる水着には、鱗や花をあしらった十二単のような裾や刺繍が施されている。水の中でそれらがひらひらと揺れるたび、まるで花が咲いているようだった。
「ふふ、耳飾りのおかげで海底でも加護がばっちりなの」
 ラズリが耳元に触れる。
 桜瑪瑙と真珠を繋いだ耳飾りが、月明かりの下で淡くきらめいた。
「ラズリがくれた桜のお守り飾りがあるから、ララは水の中でもへっちゃらの泳げる迦楼羅になったのよ」
「うん、ララもとっても似合ってる!」
 その言葉に、ララは得意げに胸を張る。
「それなら、私も泳げる兎にならなくちゃ」
「むふふ。ラズリも頑張るのよ」
 ララが先へ泳ぎ出す。
「待って、ララ!」
 慌てて追いかけるラズリの姿に、ララは楽しそうに笑った。
 まだ水の中では少し動きにくい。それでも、二人の周囲には陸では見ることのできない景色が広がっていた。珊瑚の森を小さな魚たちがすり抜け、海藻がゆったりと揺れている。
 二人はそんな景色に惹かれるように、少しずつ深く、深く泳いでいった。
 やがて水面の光が遠ざかり、さらに青が濃くなる。
「わあ……」
 ラズリが小さく息を呑んだ。
 深く潜るほど、世界は静かになった。
 そして暗闇の中に、ぽつり、ぽつりと小さな光が浮かび始める。
「海底って、まるで星空のようなのね」
 ララが見上げる。
 その先を泳いでいたのは、硝子のように透き通った魚たちだった。
 身体の中には金貨や真珠、珊瑚の欠片がきらきらと詰まっている。
「わ、深くなると周りも暗くなって……」
 ラズリの耳元で、桜瑪瑙の耳飾りがほわりと光った。
 その光に誘われるように、シーフフィッシュが一匹、二匹と近づいてくる。
「シーフフィッシュの瞬きがお星様のようにも見えるね」
 ラズリが目を細める。
「よく見ると、海の宝物が詰まってるの」
「綺麗ね。ラズリによく似合うと思うわ」
「えへへ、似合う?」
「ええ」
 ララが笑う。
「じゃあ私は、ララをすぐに見つけられるお星様になるの」
「ふふ、ラズリが一緒だもの。どこまででもいけるわ」
 差し出された小さな手を、ラズリがそっと握る。
「任せて!」
 今度はラズリが、しっかりと手を繋ぎ返した。
「あなたが迷子にならないように」
 繋がった手が嬉しくて、ララは満開に咲う。
 そのまま二人で、暗い海の底を進んでいった。
 ――そのときだった。
「見て、綺麗な宝石の魚がいるのよ」
 一際大きな宝石を抱えたシーフフィッシュが、少し離れた場所で瞬いた。
 ほかの魚たちよりも明らかに強い光。
「誘っているのかしら?」
 その魚は二人を見つめるように一度だけ身を翻すと、暗闇の向こうへ泳ぎ始めた。
 その後ろを、ほかのシーフフィッシュたちも追いかけていく。
 しゃらり、しゃらり。
 小さな光が、闇の中へ続いていく。
「何処へ向かっているのかな……」
「行ってみましょう!」
 ララが手を引く。
「……うん! 一緒に行ってみよう!」
 二人は並んで泳ぎ出した。
 頭上にはもう、月の光は届かない。
 けれど、二人の前には小さな星々が続いている。
 海の底へ、さらに深く。
 ただ、繋いだ手だけは離さずに。
 小さな盗賊たちが残していくきらめきを追って、二人は静かな深海の彼方へ進んでいった。

夕星・ツィリ
ラデュレ・ディア

●
 水の中では、音の代わりに光が揺れていた。
 波間から差し込む月明かりは、細い銀の筋となって海底へ伸びている。水面は次第に遠ざかり、寄せては返す波音も夜風の気配も、もう届かない。
 その静けさの中を、ツィリはゆっくりと沈んでいった。
 白い砂浜も、賑やかなマリンマーケットも、頭上の水面へと遠ざかっていく。代わりに視界へ広がったのは、月光を受けて淡く輝く珊瑚の森と、海流に揺れる海藻の道だった。
「……場所は違うけれど、『家』に帰ってきたみたい」
 ぽつりとこぼした声は、水の中で小さくほどけていく。
 海は、ツィリにとって懐かしい場所だった。もちろん此処は見慣れた海ではない。それでも、光を受けて揺れる水の色や、足元をすり抜けていく魚の群れには、不思議と心を落ち着けるものがある。
 隣では、ラデュレがゆるやかに身を浮かせていた。
 乙姫を思わせる衣が水流に合わせてひらりと揺れ、月明かりを受けて淡くきらめいている。地上では少し目を引いた装いも、珊瑚や魚たちが暮らす海の中では、まるで最初からここにあったもののようによく馴染んでいた。
「歩き慣れた地上とは、ずいぶん勝手が違いますね」
 そう言いながらも、ラデュレの表情に恐れはない。
 ふわりと水に包まれるような浮遊感も、不思議と心地好く感じられた。
「けれど、此度のわたくしは自在です。こちらは『乙姫』から着想をいただいたもの。水中での活動が叶う魔法をかけました……!」
 ラデュレが身を翻すと、水着の裾や飾りが海藻のようにふわりと広がった。
「すごいね、ラーレちゃん!」
 ツィリが嬉しそうに表情をほころばせる。
「これなら、海の中も一緒に冒険できるね!」
「はい。わたくしも、楽しみにしておりました」

 そんな二人のすぐそばを、小さな魚たちが通り過ぎていった。透明な鱗をきらめかせ、月光の中を滑るように泳いでいく。ツィリは魚たちにそっと指先を向け、口元から小さな泡を吐き出した。
 ぷわり。
 泡は水の中で丸く膨らみ、ひとつ、ふたつと連なっていく。
「こんにちは。元気でね」
 次々と生まれたバブルリングが、魚たちの群れへと漂っていった。魚たちはそれを避けたり、くぐり抜けたりしながら、やがて二人の周りを小さく一周する。
 まるで、海からの挨拶のようだった。
「ふふ……ツィリさま、とても楽しそうなのです」
 そのとき、深い青の向こうから、かすかな音が届いた。
 しゃらり。
 しゃらり、しゃらり。
 昏がりの中に、小さな光がいくつも浮かんでいる。
 鈴の音を奏でるように、硝子の魚たちがこちらへ泳いできた。透明な身体の中には、金貨や真珠、貝殻の欠片。ひとつひとつが、まるで海底に浮かぶ蛍火のように輝いている。
「わあ……!」
 ツィリの青い眸がきらめいた。
「海底の蛍火たちだね。彼らの光を追うのもいいけれど……」
 用意してきた腰元の道具へ視線を落とす。
「さっき買った道具たちのお披露目も、したいよね!」
「まあ。ステキなご提案です」
 ラデュレも楽しそうに頷く。
 ツィリはさっそく『潮詠みの羅針盤』を取り出してみた。
 淡い光を宿した針が、ゆっくりと回り始める。やがてひとつの方向を示すと、二人の前に安全な道を示す光の帯が浮かび上がった。珊瑚の森の間を縫うように、海流が穏やかに流れる道筋を光指す。
「わぁ、こんな風に分かるんだ……!」
 ツィリが嬉しそうに言う。
「この道を進みながら、ラーレちゃんのダウジングも使ってみない?」
「ええ。わたくしのダウジングが、何を見つけてくださるのか……楽しみなのです」
 二人は羅針盤の示す道を進んでいく。
 珊瑚の枝を避け、海藻の揺れる隙間を抜け、深い海の底へ。
 すると、ラデュレがふと足を止めた。
「……あら?」
 手にしたシーグラスのダウジングが、かすかに震えている。
 貝と真珠が連なる道具の先が、海底の砂地へ向かって揺れた。
「反応していますね……」
 ラデュレがその場にそっと近づく。
 砂の間からは、淡い光が覗いていた。
 ツィリもすぐに隣へ泳ぎ寄る。
「宝物?」
 二人で砂を払うと、そこから現れたのは、月光を閉じ込めたような小さな石だった。深い青の海底でも、はっきりとわかる輝きだ。
「宝物、早速発見だね!」
 ツィリが目を輝かせる。
「これは……玉髄、でしょうか?」
 ラデュレは両手でそれをそっと拾い上げた。
 石の表面には、薄い雲のような模様が浮かんでいる。角度を変えるたび、淡く青白い光が流れる波のように揺らめいた。
「とても綺麗ですね……」
 ラデュレの声が、静かな海の中で柔らかく響く。
 そしてそれを大切そうに眺め、そっと玉手箱へ仕舞い込んだ。
「持ち帰って、装飾品にするのもステキなのです」
「うん!」
 ツィリは嬉しそうに頷く。
「装飾品に生まれ変わったら、ぜひみせてほしいな」
「もちろんです、ツィリさま」

 そのとき、二人の前をシーフフィッシュの群れが横切った。
 しゃらり、しゃらり。
 宝物を抱えた硝子の魚たちは、深い海の向こうへと泳いでいく。
「目的地は、あっちみたい」
 ツィリが羅針盤を確かめる。
「行ってみよう、ラーレちゃん……!」
「ええ。ご一緒にまいりましょう」
 二人は小さな光の群れを追いかける。
 海はますます深く、青は藍色へと変わっていく。
 けれど二人の行く先には、羅針盤が示す道とダウジングが導く宝物の気配があった。
 遠い海の底で、まだ見ぬ城が待っている。
 その先に何があるのか。
 今はまだ、深い海だけが知っていた。

第3章 ボス戦 『綿津見の王魚『呼渺』』


●
 昏い海中に沈む海底の最深部には、荘厳な城が聳え立っていた。
 壁も、床も、天井さえも。淡い光を宿した珊瑚と貝殻で形作られ、ところどころに埋め込まれた真珠が、深い海の底を柔らかく照らしている。
 一歩、城に踏み入れば、無数の泡が宙を漂っていた。泡の中には、珊瑚の花や色褪せぬ地上の花、絢爛豪華な装飾品、見目鮮やかなカトラリーなど、その種類は様々だ。
 それらはどれも乱雑に置かれているわけではない。ひとつひとつ、もっとも美しく見える場所を選ぶように、大切に並べられていた。
 けれど、そこに並べられていたのは、宝石や金貨だけではなかった。
 大きな泡が、いくつも宙を漂っている。
 その中に、人がいた。
 泡の内側には淡い光が満ち、彼らの身体を包んでいた。胸元はかすかに上下している。死んでいるわけではない。ただ、深い眠りの中に閉じ込められているようだった。

「……ここまで来たのか」
 奥から聴こえた声は、驚くほど穏やかだった。
 怒りも、焦りもない。まるで、遠い場所から訪ねてきた客を迎えるような声音であった。
 視線の先。巨大な貝殻を思わせる玉座に、人魚の王は鎮座していた。
 波打つような長い髪が水の中でゆるやかに揺れている。その体躯には貝や真珠の飾りが絡み、尾鰭の先には月明かりにも似た蒼が淡く滲んでいた。
 王は、訪れた者たちを見てもすぐには立ち上がらなかった。
 ただ、宝物庫へ足を踏み入れた者たちと、その背後に続く海の気配を眺めている。
 やがて王は、泡の中で眠る人々へ視線を向けた。
「この者たちを探していたのだろうか」
 問いかけながらも、答えはすでに分かっているようだった。
「返せ、と言うのだろうな」
 王の周囲で、小さな泡がひとつ弾ける。
「だが、返せば失われる。海へ戻れば波に攫われ、地上へ帰れば時の流れに呑まれる。美しいものは、いつか壊れ、朽ちて、消えてしまう」
 淡々と語る声は静かだった。そこにあるのは、誰かを苦しめているという自覚ではない。むしろ、失われてしまうことへの恐れだった。
「だから、ここへ置いた。眠っていれば、傷つくこともない。奪われることもない。何ひとつ変わらぬまま、永遠に美しく在れる」
 人魚の王は、宝物庫を見渡す。
 やがて、その視線が訪れた者たちへ戻った。
「……そなたらもまた、外へ帰るのか?」
 問いかけには、ほんのわずかな寂しさが滲んでは、水底に沈んでゆく。
「海の外には、空がある。大地がある。遠くへ続く道がある。そなたらは、そこへ戻りたいのだろう」
 人魚の王は、ゆっくりと玉座から立ち上がる。
 その姿を包むように、水の中へ月色の光が集まり始めた。
「我には、届かぬ場所だ」
「どれほど手を伸ばしても、空には届かぬ。どれほど願っても、大地を踏むことは叶わぬ」
 だからこそ。せめて、手の届くものだけは失いたくない。そんな言葉が続くように。
「……嗚呼」
 王の唇から、感嘆にも似た息がこぼれる。
「そなたらも、美しいな」
 声に、先ほどまでとは違う熱が宿る。
「その姿も、声も、命の輝きも。深い海の底にあってなお、消えぬ光を抱いている」
 王は一歩、こちらへ進んだ。
「ならば、そなたらもここに置いてゆけばよい」
 王の尾鰭が、静かに水を打つ。
「我が宝となれ」
 それは命令というより、願いに近かった。

●マスターより
 3章はボス戦となります。
 人魚の王『呼渺』の使用する能力は記載の通りです。
 此方も√能力での対応をお忘れなきようお願いいたします。

※囚われた一般人などの救出は、無事戦闘が終われば安全に行なえます。
まずは戦闘に集中していただくのが良いでしょう。もちろん、気に掛けるプレイングなどは問題ありません。

※本章はプレイング内容により、複数人を纏めて描写させていただく場合があります。グループを分断することはありませんので、そちらはご安心ください。

 補足と説明は以上となります。
 それでは、よろしくお願いいたします。
井碕・靜眞
物部・真宵

●
 眠る人々を閉じ込めた泡を見つめ、真宵は静かに目を伏せた。
「骨董品を集めているわたしには、なんだか耳が痛い話ですね……」
 大切なものを、いつまでも美しいまま手元に置いておきたい。
 その気持ちは、分からないでもない。
「眠っていれば傷付かない……そうかもしれません」
 けれど、と真宵は王を見つめた。
「王様。それでは、さみしくはありませんか?」
 人魚の王は、何も答えない。
「せっかくわたしたちには、言葉という美しい旋律がありますのに」
 柔らかな声が、静かな海底へ溶けていく。
「光り輝くことだけを美しさであると呼ぶのは、もったいないですよ」
 その言葉を聞き終えるより先に、靜眞が一歩前へと歩み出た。
「お断りします」
 穏やかな声だった。
「あなたの願いには、応えられない」
 王の尾鰭が揺らめく。
 ――次の瞬間、鋭い爪が水を裂いた。

「物部さん、援護をお願いします……!」
「はい、井碕さん」
 真宵が白く細い指先を向ければ、彼女の足元から昏い狐の影が伸びる。
 それは幾本もの尾となって王へ絡みついた。
 靜眞はその隙を逃さない。警棒を握り直し、真正面から踏み込んだ。
 王の鋭く長い爪が振り下ろされる。
 それを警棒で受け流し、そのまま横薙ぎに振り抜く。
 王の身体が僅かに傾いた。だが、すぐさま尾鰭が翻る。
 靜眞へ迫る一撃を、彼は身を沈めて既の所で躱す。
「……っ」
 続く爪が頬を掠める。頬に僅かな熱い感覚が走った。
 だが次の瞬間、靜眞の姿が掻き消えた。
 視界の端に捉えていたインビジブルと、自分の位置を交代したのだ。
 現れたのは、王の背後。
 相手に振り返る暇も与えず、警棒を叩き込む。
 さらに、入れ替わったインビジブルが王へ触れ、霊障の力を重ねた。
「今です」
 真宵の声が響く。
 帝月の尾が王を捕らえ、その動きを鈍らせる。
「思う存分、暴れていらっしゃい」
 真宵の周囲で水が震えた。
 海水が凍りつき、無数の氷の矢へと変わる。
 放たれた氷の矢が一斉に王へ迫る。
 王は尾鰭を大きく振り、いくつもの矢を弾き飛ばした。
 その瞬間を、靜眞は見逃さない。
 再び相手の懐へ踏み込み、警棒を振るう。
 爪と警棒がぶつかり、鈍い音が響いた。
 その傍らで帝月がもう一度、王の身体へ絡みつく。
 真宵は繰り返す攻防を見つめながら、ふと眉を下げた。
「……傷付いてほしくない、というお気持ちは分かります」
 攻撃の手は緩めない。
 けれど、その声だけは優しかった。
「ですが、眠っているだけでは、誰かと笑うこともできませんもの」
 王の視線が真宵へ向く。
 靜眞はその間に割り込むように前へ出た。
 再び爪が迫る。警棒で受け、弾き、踏み込む。
 そして小さく息を吐いた。
「……すみません」
 真宵には聴こえぬ声で、口許を静かに動かす。
「この人を、あなたの傍に置くことは……出来かねます」
 人魚の王へ向けた言葉だった。
 その言葉に、彼は僅かに眸を細めた気がした。
「……あら?」
 真宵が二人の間に流れた間に首を傾げる。
「井碕さん、王様と何かお話しされましたか?」
「い、いえ……!」
「……あら、帝月?」
 真宵の傍らで、黒い尾がひらりと揺れる。
 どうやら何かを訴えているらしい。
「え……店の二階に置いているコモードを使った方がいい?」
 真宵は少し考え、
「あれ、高かったのよ……?」
 と、困ったように呟く。けれどすぐに、小さく笑った。
「いえ、そうね。売らないなら、せめてちゃんと使ってあげましょうね」
 どうやら自分の本音は彼女の耳には届かなかったらしい。
 その横顔を見ながら、靜眞はほんの少しだけホッとしたように目を伏せる。
 ――前言撤回。
 宝物を、他の誰にも触れられぬようにと。
 仕舞いこんでしまいたい気持ちは――やはり、似ているのかもしれない。
 けれど、真宵はここにいる。
 自分の言葉で笑い、自分の意思で海へ潜り、こうして隣に立っている。
 それを奪わせるつもりはなかった。

セレネ・デルフィ
羽純・にあ

●
「……わあ」
 にあが、思わず小さく声を漏らした。
 目の前にいる人魚の王は、月明かりをそのまま纏ったような姿をしていた。
 波のように長くうねる髪が水の中で揺れ、貝殻と真珠の飾りが淡く輝いている。螺鈿のような尾鰭が動くたび、海の底に光が零れた。
「きれいな人魚さん……」
 けれど、その視線が自分たちの奥へ向いたとき、にあは気づいた。
 泡の中で眠っている人々。
 その姿を見つめる王の眼差しは、どこか寂しげだった。
「この者たちは、美しいからここにいる」
 静かな声が響く。
「眠っていれば、傷つくこともない。失われることもない。永遠に、美しいままでいられる」
 そして王は、二人へ視線を戻した。
「……そなたらも、美しいな」
 その声に、ほんの少し熱が混じる。
「その姿も、声も。命の輝きも――我が宝となれ」
 その瞬間。
 セレネが、にあの前へすっと出た。
「あなたに渡せるものは、何もありません」
 そして、王に見惚れてかけている にあへ、少しだけ振り返る。
「にあさんも、渡しませんから」
「へっ?」
 にあが、きょとんと目を丸くした。
 けれどすぐに、その言葉の意味を理解する。
「そ、そうです!」
 にあは笹竹を握り直すと、王へ向かってぶんぶんと振った。
「セレネさんはとってもかわいくて、閉じ込めちゃいたくなる美人さんですが――あげませんよ!」
「ふふ……ありがとうございます、にあさん」
 セレネがほっとしたように微笑むと、王の尾鰭がゆっくりと水を打った。
「ならば――我が手で留めよう」

 轟、と海流が巻き起こる。
「セレネさん、わたしは死角から行きますね!」
「はい。お願いします」
 にあの足元に、淡い花がひとつ咲いた。
 水の中には存在しないはずの花弁が、ゆらりと揺れる。
 次の瞬間、にあの姿が掻き消える。
 透明な存在と入れ替わったにあが王の死角を縫い、周囲を游ぐ花溟たちが次々と王へ触れていく。神経毒が、その動きをわずかに鈍らせた。
 王が振り返る。
 けれど、そこにはもう誰もいない。
「こっちです!」
 別の場所から声が響いた。
 花溟が周囲を泳ぎ、さらに烟花が弾ける。
 深海の静寂を破る音が、王の意識を散らしていく。
「うるさかったら、ごめんねー!」
 にあがそう言った直後だった。
 王の動きが止まる。
 目の前に、ふよりと漂うセレネがいた。
 両手を静かに組み合わせている。
「――さぁ」
 海が凍りつく。
 白い冷気が一瞬にして広がり、氷雪が渦を巻く。
 王の尾鰭へ。
 腕へ。
 その身体へ。
 無数の氷が絡みつき、動きを封じていく。
 そして舞い上がった雪片が、鋭い刃となって降り注いだ。
「雪に抱かれて、おやすみなさい」
 白銀の嵐が、深海を埋め尽くす。
 王が逃れようとするたび、その先へ氷が生まれる。
 さらに水の中を、セレネの幻影が泳いだ。
 にあのインビジブルと重なり、いくつもの姿となって王を惑わせる。
 やがて――王の動きが止まった。

「……はわー」
 にあがその様子を眺めながら、目を丸くする。
「セレネさんって強いんだなぁ……!」
 ぱちぱち、と拍手をする。
「とってもきれいでかわいくて、それに強いなんて、すごいです!」
「ふふ、褒め過ぎですよ、にあさん」
 セレネはふわりと にあに近づき、少し照れたように笑う。
「にあさんも、とてもお強いですから」
「えへへ……」
 にあが嬉しそうに笑う。
 けれどセレネは、ふとぐったりとしている王を見た。
「……でも」
 少しだけ首を傾げる。
「可愛いにあさんを閉じ込めたくなっちゃう気持ちは、少しわかるかも……?」
「えっ」
 にあが固まった。
 しばらく考えてから、王へ向き直る。
「そっか! 三食美味しいごはんとおやつをくれるなら、いいですよ!」
「にあさん……」
「えへへ、冗談です!」
 慌てて笑う にあの耳元で、お揃いの耳飾りが小さく揺れた。
 閉じ込めるのではなく。
 一緒に海を越えて、外の世界へ帰るために。
 二人はもう一度、手を取り合った。

四十万・白灯
雨夜・氷月

●
 泡の中で眠る人々を一瞥し、氷月は小さく肩を竦めた。
「まー、綺麗なままにしときたい気持ちは分からないでもないけど……」
 それくらいなら、まだ理解できる。
 けれど、その次に人魚の王――呼渺が口にした言葉には、さすがに眉が動いた。
「ならば、そなたらもここに置いてゆけばよい。我が宝となれ」
「口説く相手が正しければ、射止めることも出来たやも」
 白灯はいつもの笑顔で、そんなことを言った。
「君に小猫はやらないが」
「ん、ちょっと?」
 すぐさま後方から抗議の声が飛んでくる。
 白灯が振り返ると、氷月がじとりとした目でこちらを見ていた。
「俺はアンタのでも無いんだけど?」
「おや」
 白灯は少しも堪えた様子がない。
「格好が付かないので、今はそういうことにしておいてください」
 氷月が呆れたように息を吐く。
「ならアンタが標的になりなよ」
「え?」
 海水の中を白い髪がふわりと舞う。
 氷月に腕を掴まれ投げられた白灯は、そのまま呼渺の前へと躍り出た。
「……王も王で、鬱陶しげな顔してないか?」
 めげない笑顔。
 その姿を見た呼渺の表情が、ほんのわずかに曇る。
 白灯は笑ったまま、首を傾げてみせた。
「目に見えるように選り好みしてくれるなよ」

 痺れを切らしたように、呼渺が尾鰭を打つ。
 螺鈿に輝く鰭が水を裂き、巨大な水圧が白灯へ襲いかかった。
「おっと」
 ひらりと身を捻って躱す。その隙に、指先は宝物庫に浮かぶ装飾品へ触れた。
 眠っていた記憶を、そっと掻き混ぜる。
「もっと君のことを知りたいなあ」
 触れた物に残された過去が、白灯の中へ流れ込んでくる。
 そして、記憶の奥から引きずり出されたものが形を得た。
 巨大な黒い影。白灯がそれを、ゆっくりと振りかぶる。
「その淋しい記憶ごと消してあげよう」
 巨鎚が振り下ろされる。
 だが、その直前。
 銀色の影が白灯の横をすり抜けた。
「ほら、次は俺の番」
 氷月だった。
 手にした銀片へ月光が纏わりつき、刃が淡い青白さを帯びる。
 呼渺へ一気に距離を詰め、ひと振り。
 さらにもう一閃。
 月光を引き裂くように、二つの斬撃が走った。
「生憎だけど、ヒトの意思も聞かないヤツのモノになる気は無いかな」
 氷月が笑う。
 呼渺が身を翻す。
 その姿が、ふっと揺らいだ。
 月光が水中に幾重もの幻影を作り出していく。
「本物の俺を見分けられたら、考えないこともないかも?」
 どれも同じ姿。銀髪も、白い肌も、月光を纏った刃も。
 だが呼渺の視線が幻影のひとつを追った。
「……あ」
 その背後から、白灯の声。
「僕はちゃんとわかりましたけど」
 本物の氷月の背後から、ひょいと顔を覗かせる。
「そこにいるでしょう?」
「ちょっと、勝手に見つけないでよ」
 氷月は振り返りもせず、口元だけで笑った。
 その後は言葉より早く、二人が動く。
 氷月が前へ出れば、白灯が後ろから追う。
 銀の刃が閃き、巨鎚が唸る。
 呼渺が攻撃の矛先を変えれば、二人もまた入れ替わる。
 まるで、互いの動きを最初から知っていたかのように。
「そこ」
 白灯の手から飛小刀が放たれる。
 柳の葉のように薄く、緩やかに湾曲した刃が、水を裂いて飛んだ。
 月光と銀の刃、その間を黒い影が駆ける。
 宝物を永遠に閉じ込めようとした海底の王を相手に。
 ふたりは、自分たちの意思までは決して捕らえさせなかった。

シンシア・ウォーカー
神隠祇・境華

●
 「……永遠に、美しく、ですか」
 人魚の王の言葉を聞き、シンシアは静かに目を伏せた。
 先ほどまで、二人で海底を眺めながら歩いていた。
 珊瑚の色に驚き、魚の群れを追い、昏がりに煌めく小さな光を見つけては、互いに声を掛け合っていた。けれど今、目の前にあるのは、その美しさを閉じ込めた場所だった。
「失われることが怖い、というお気持ちは……少しだけ、わかる気がします」
 境華もまた、泡の中で眠る人々へ視線を向ける。
「大切なものほど、変わってしまうことも、いつか失うことも怖いのでしょう」
 ほんの少しだけ考えるように間を置いて。
「ですが……そのために、続きを奪うことが正しいとは思えません」
「ええ」
 シンシアも頷き、レイピアを抜いた。
「囚われた方々を、このままにしておくことはできませんもの」
 その表情に、迷いはなかった。
「境華さん。一緒に戦ってくださいますか?」
「もちろんです」
 境華も御伽と羅紗の力が織り込まれた霊刃を構える。
「皆さんを、連れて帰りましょう」
 その言葉を聞いた王の尾鰭が、静かに揺れた。

 次の瞬間。海中へ、甘い香りが広がった。
 身体の奥まで染み込むような、不思議な香り。
 もっとここにいたい。
 この美しい景色を眺めていたい。
 そんな感情が、波のように押し寄せてくる。
「……これは、少々厄介ですね」
 シンシアは眉を寄せながらも、足を止めない。
「ただでさえ海中は慣れないのです。相手のペースに、いいように乗せられるわけにはいきません」
 シンシアは右手を掲げ、迫り来る力へ拳を触れさせた。
 瞬間。
 王の力が、淡い光となって砕け散る。
「今です、境華さん!」
「はい!」
 その隙に、境華が一気に踏み込む。
 手にした力が、長大な刃となって海中を走った。
 まずは白。
 天照らす白炎が、深い海の闇を焼き払う。
 続いて黒。
 月読の夜断ちが、その軌跡をなぞるように王へ迫る。
 昼と夜が交互に入れ替わるような連撃が、王の身体へと重なっていく。
「お見事です、境華さん!」
 シンシアもまた、レイピアを構えた。
 魔力が自動詠唱によって瞬時に紡がれ、海中を一条の光が駆ける。
 王が尾鰭を翻した。螺鈿の輝きを宿した尾が、水を激しく薙ぐ。
「っ……!」
 押し寄せる水流に、境華の身体が大きく流される。
 だが、その前へシンシアが滑り込んだ。
「こちらへ!」
 魔法で水流を散らしながら、レイピアを構える。
「境華さん、もう一度!」
「はい!」
 境華が再び踏み込む。
 その合間を縫うように、シンシアの刺突が王へ迫った。
 連続する斬撃が深海を切り裂いていく。

「……どうして、そこまでして外へ戻ろうとする」
 攻撃の合間、王が問いかける。
 シンシアはレイピアを構えたまま、微笑んだ。
「外には、失うものだけがあるわけではありませんから」
 そして、隣の境華を見る。
「私たち、ここへ来るまでにもたくさんのものを見つけましたでしょう?」
「はい」
 境華が頷く。
「珊瑚も、お魚も……綺麗なものがたくさんありました」
 少しだけ柔らかな笑みを浮かべて。
「でも、だからこそ……見つけたものを、ここに閉じ込めておきたくはありません」
 刀を握り直す。
「変わってしまうことも、失うこともあるかもしれません」
 それでも。
「その先があるからこそ、続きを歩いていけるのだと思います」
 シンシアも頷いた。
「ええ。そのためにも――」
 二人が同時に踏み込む。
「皆さんを、連れて帰りましょう!」
 月の届かない海底で。
 二人の攻撃が、王の閉ざした永遠を打ち砕くように幾度も閃いた。

野分・時雨
緇・カナト
トゥルエノ・トニトルス

●
 ぷくり、と、目の前を大きな泡が横切った。
 その中で眠っている人影を見つけ、時雨は足を止める。
 泡の向こうには、珊瑚の花や宝飾品、見慣れない食器まで浮かんでいる。そのどれもが丁寧に飾られているのを眺め、時雨はぱちぱちと瞬いた。
「海の王さま! すごい。ひとコレクションたくさん」
「感心するとこ、そこなのかい?」
 カナトが呆れたように返す。
「お気に入りのもの集めたくなるの、動物って感じだね~」
「まぁ、気持ちは分からなくもないケド」
 カナトは眠る人々を眺め、それから奥へ視線を向けた。
 巨大な貝殻を思わせる玉座。その前に、人魚の王がいる。
 王は静かに三人を見つめていた。
「……そなたらも、美しいな」
「そう?」
 時雨が首を傾げる。
「ぼくは海大好きですけど。基本肺呼吸だし。もちろん、ご友人も。ず~っと海にいるのはご遠慮したいな」
「海と陸とじゃ相容れないだろうから、棲み分けが大事なんだろうとは思うケド」
 カナトが肩を竦める。
「勝手な願いを押し付けてくるような輩とは、オレも相容れるような気は更々ナイよ」
「ん~……」
 トゥルエノは、玉座の周囲を見渡した。
 荘厳な城。美しく並べられた宝物。その中に眠る人々。
「厳かな城内ではあるが、わたしも理解を示すには難しい心境ではあるな」
 少年の青い眸が、王をまっすぐ捉える。
「地上も海も、それぞれの場所に良さがある。咲くべきところで咲き給えよ、と云うやつだな」
「……帰るのか」
 王の声が落ちる。
「我々も役目を終えたら帰路に着く者ではあるよ。友たちと一緒にな」
 トゥルエノが答える。
 その言葉を聞いた瞬間、王の表情から僅かに穏やかさが消えた。
 尾鰭が、ゆっくりと水を打つ。
「ならば――帰すわけにはいかぬ」

 王の尾鰭が、大きくしなる。
「――来るぞ」
 カナトが短く告げた直後。
 水底を揺るがすほどの勢いで、螺鈿に輝く尾鰭が振り抜かれた。
「おっと!」
 時雨が咄嗟に水流を捻る。
 けれど、避けたはずの一撃は終わらない。翻った尾鰭が、そのまま逆方向から迫ってきた。時雨が身を躱した直後、背後の珊瑚がまとめて砕け散る。
「海の王サマ、ずいぶん力任せだねェ!」
 カナトが愉しげに笑う。けれど、その足は止まらない。
「まぁ、オレも負けるつもりはないケド」
 またたく間に灰色の毛皮が身体を覆い、獣の姿へ変じる。
 三叉の槍を握り直し、水中で跳躍。迫る尾鰭を紙一重で躱し、そのまま王の懐へ潜り込む。そこへ時雨が水流を叩き込んだ。
「カナトくん、そのまま!」
 水の流れが王の身体を横から押し、巨大な尾鰭の軌道を逸らす。
「海の中だからって、好き勝手にはさせないよ~!」
 押し流された王が体勢を立て直す。その頭上には、すでに無数の雷槍が浮かんでいた。
「では、わたしからも行こう」
 トゥルエノが手を掲げる。
「雷の使用は程々に――黄昏れこえて射貫けよ、神の槍」
 雷を纏った槍が、一斉に王へ向かって奔る。
 王は再び尾鰭を振り抜いた。轟、と海そのものが鳴った。螺鈿の尾鰭が雷槍を弾き、二度目の一撃が横薙ぎに迫る。咄嗟に時雨が水流を巻き上げ、三人の身体が流れに押され、尾鰭の軌道から逃れた。
 その直後。
 トゥルエノの雷槍が、王の背後から突き刺さる。
「一人ではないのだぞ、王よ」
 王が振り返る。
 その隙を狙い、カナトが再び駆けた。
「そういうコト」
 三叉戟が閃く。
「勝手に宝物を増やそうとするのは、もう終わりにしようか」
 雷槍が降り注ぎ、水流が渦を巻く。
 海底の静かな宝物庫は、たちまち戦場へ変わっていった。

「……我が宝を、奪わせはせぬ」
 王が再び尾鰭を構える。
 時雨はその姿を見つめ、小さく笑った。
「海の外にも、良いものはいっぱいありますよ」
 その隣で、カナトが三叉戟を構え直す。
「そうそう、独り占めしたって、相手が望んでなきゃ意味ないだろ」
「うむ」
 トゥルエノもまた、静かに雷槍を浮かべた。
「失うことを恐れて留まるより、移ろう景色を共に見ていたいものだな」
 三人の言葉が、水底へ溶けてゆく。
 ――帰る場所があるからこそ、今この場所で見られる景色もある。
 三人はその思いを胸に、海の王へと挑みかかった。

木邑・零壱
小弓・佐倉
イルゼ・ラウィーネ・ローゼンクランツ

●
 眠る人々を閉じ込めた泡を見上げ、零壱は静かに息を吐いた。
「……どうも、お前が連れ去ってきた奴等を『迎えに来た』ぞ」
 その声に、貝殻の玉座に座していた呼渺がゆっくりと顔を上げる。
「生憎、そちらさんの美学を聞き入れる道理はこっちには無いんでね」
 零壱の手が、霊剣へ伸びる。
「そっちが抵抗を示すってんなら、こっちも相応の対応をするまでだ」
「……届かないもの、憧れる、ほしい……」
 小弓が、眠る人々を見つめたままぽつりと呟く。
「ちょっと、わかるけど」
 王の周囲に海流が渦巻き、甘い香りが水中へ広がっていく。
 小弓は一歩前へ出た。
「そこに眠ってるひとたちは、ほんとに、王様がきれい……美しいって思った姿?」
 護霊『夜黒の手』と、小弓の手が重なる。
「かしこみ、かしこみ……ヤグロ、つかまえて?」
 ――ぱんっ。
 柏手が、海中そのものを震わせた。
 衝撃波が香りを吹き散らし、続けて黒い鬼火が鎖となって伸びる。王の腕と尾鰭へ絡みつき、その動きを封じていく。
「いのち、きらきらしてる?」
 問いかける小弓の声は、責めるよりも静かだった。
 しかし、王は答える代わりに尾を振る。
 鎖を引き千切ろうとする強烈な海流が、三人へ押し寄せた。
「小弓ちゃん!」
 その前へ、蒼玉の巨体が躍り出る。
 イルゼが氷雪龍へと姿を変えていた。
「美しいものを欲しいと思う気持ちまでは否定はしないけれど」
 翼を広げ、蒼き龍は二人を覆う。
「それを本人の意思を無視して、なんてのは独りよがりが過ぎるわね?」
 激流が蒼玉の鱗を打ちつける。それでも、龍は一歩も退かない。
「二人とも、守りは気にする必要はなくてよ?」
 氷塊すら盾に変え、さらに身を低くする。
「この鱗は永久凍土そのものだもの」
「……助かる」
 零壱が短く返した。
 そして霊剣へ、自らの血を塗る。
「じゃあ、遠慮なく行くぞ」
「ええ。思い切り行きなさいな!」
「力を貸してくれ、竜魔。――奴さんに、裁きの一撃をぶち込むぞ」
 黒紅の焔が刃を包み、漆黒の竜魔が零壱の身体を覆う。
 次の瞬間には、もうその姿は王の懐へ迫っていた。
「随分と『美しさ』ってものにこだわりがあるようだがなぁ」
 振り抜いた刃が、呼渺の身体を捉える。
「相手のこともろくに考えず、独りよがりに捕えるお前は――その美しさに相応しいか?」
 王の爪が迫る。
 だが、その動きを小弓の鬼火鎖が再び絡め取った。
「……集めたきれいなもの、暴れたら、壊れちゃうよ?」
 小弓が両拳を構える。
「だから、ちゃんと……」
 ――ぱんっ!
 柏手の衝撃が王の身体を揺らす。
「零壱、お願い」
「ああ!」
 小弓の言葉を合図に、零壱が踏み込む。
 その背後では、イルゼが翼を広げていた。
「凍土の龍の証たる蒼玉の鱗――易々と貫けるとは思わないことね!」
 王の反撃を一身に受け止めながら、絶対零度の吐息を放つ。
 海中に白い氷が走った。
 零壱の黒紅の刃と、小弓の鬼火鎖。
 そしてイルゼの蒼玉の巨体。
 三つの力が、海底の王を追い詰めていく。

「見た目は美しいかもしれねぇがよ……」
 零壱が、さらに一歩踏み込む。
「その心根は、醜いと言えるだろうさ」
 眠る人々を閉じ込めた泡が、戦いの余波に揺れている。
 それを見上げた小弓は、ほんの少しだけ眉を下げた。
「……人魚の王様、悪い気持ちは、きっとない」
 小弓は、凍てついた海の向こうに王を見つめる。
「でも、ただ持っただけの憧れで、誰かを傷つける」
 少しだけ、寂しそうに目を伏せた。
「……難しい、ね。自分の欲って」
 その言葉をかき消すように、再び海底で激しい轟音が響いた。

ララ・キルシュネーテ
鴛海・ラズリ

●
 泡の檻の中で、眠る人々が静かに揺れている。
 ラズリはその一つへ歩み寄り、青い眸を細めた。
「まだ、生きているのね」
 安堵と同時に、胸の奥へ小さな痛みが走る。
「人は宝石と一緒に飾り立てるものじゃないのよ」
 その隣で、ララもまた檻の中を見つめていた。
「ふん、良い趣味をしているのね」
 幼い声に、ぴしゃりとした響きが宿る。
「お前の我儘で、彼らの人生を奪っている自覚はあるのかしら」
 呼渺の視線が、二人を捉えた。
 ずっと朽ちず、壊れず、変わらずに在れる。
 奪われる心配もない。
 そんな誘いは、ラズリにとって決して他人事ではなかった。
 けれど。
 繋いだ手に、ぎゅっと力を込める。
(せめて私は……心は人形じゃなくヒトとして在りたい)
 青い眸が、まっすぐに王を見据えた。
「それでも私は、地上で、生きてくの」
 ララもまた、その手を握り返す。
「……美しいものは、うつろうものよ」
 静かな言葉が、深海へ沈んでいく。
「だからこそ、その一瞬の瞬きに惹かれるもの。とこしえとは、永遠に変わらぬもののことを指すのではないわ」
 ララの赤い眼差しが、王を射抜いた。
「今のお前の恐れ、行動こそが醜いものだわ」
 その直後、海が唸った。
 螺鈿に輝く尾鰭が翻り、鋭い爪が二人へ迫る。

「花一匁、しましょ」
 桜龍神と迦楼羅天の恩頼が、破魔光の桜一華となって咲き誇る。
 次の瞬間、ララの姿が掻き消えた。
 迫る爪を紙一重で躱し、その懐へ潜り込む。神聖を宿した窕のナイフが閃き、王の身を切り裂いた。傷から生命を喰らい取ると同時に、ララはさらに跳ぶ。そこへ追いすがる鋭い爪。
「――流星の哀歌」
 ラズリの声とともに、深海へ星が降った。
 煌々と輝く無数の流れ星が海中を駆け抜け、爪の軌道を覆い尽くす。幾重もの星の軌跡がララの進路を守り、その向こうで迦楼羅焔が咲いた。
「海の底で降らせる星を、王様にも見せてあげるね」
 星々を縫うように、桜色の焔が走る。
 呼渺が身を翻し、炎を躱す。
 それでも完全には逃れられない。燃え上がる桜の焔が尾鰭を掠め、深い海の中でなお消えることなく燃え続けた。
「ララ、私が援護するのよ!」
「任せるのだわ!」
 二人の攻撃が途切れない。
 だが、王もまた倒れない。
 深海の王は傷を負いながらも玉座の前に立ち、なお二人を見据えていた。
「ララは、お前の宝物になんてならないわ」
 燃える桜を纏い、ララは小さく舌を覗かせて言い放つ。
「ラズリもよ。ラズリはララの、ねぇねだもの」
 ラズリは小さく笑った。
「ララはわたしの宝物。私もララのだから」
 そして、流星をさらに呼び寄せる。
「絶対に、誰にもあげないの」
 降り注ぐ星の向こうで、呼渺が静かに二人を見つめている。
 その、どこか寂しげな眸に浮かぶものを見て、ラズリはふと声を落とした。

「王様は……さみしかったのかな」
「――そうかもしれない」
 ララは答えながら、再びナイフを構える。
「でも寂しさは……誰かの犠牲で満たすものではないわ」
「うん」
 ラズリもまた、星を降らせ続けた。
「手が届かないからこそ、美しく見えるものもあるんだよ」
 その言葉を掻き消すように、深海の王が再び尾鰭を振り抜いた。
 桜の焔と流星が、再び海底を駆け巡る。
 ――戦いは、まだ終わらない。

夕星・ツィリ
ラデュレ・ディア

●
「私は、お父様とお母様の宝なの」
 ツィリの静かな声が、水の底へ落ちていく。
「貴方に飾られるだけの調度品なんて、絶対にお断りだよ。女神を手にしようなど、失敬千万なの」
 その言葉に、人魚の王――呼渺は静かに目を細めた。
 美しいものを失いたくない。その気持ちは、ツィリにも分からないものではない。
 けれど。
「それに海は、生命を育んで、終わったいのちの還る場所でもあるの」
 ツィリは手の中へ、星屑のような光を集める。
「不変のままでなど、いられない。それを理解した上で尚、失うのを厭うなら――貴方を、母なる海のひとかけらへ還すまで」
 ラデュレもまた、静かに頷く。
「あなたさまが仰る『永遠』は、美しいのでしょうけれど」
 紫の眸が、泡の中で眠る人々へ向けられた。
「それ以上に、侘しさを感じてしまうのです」
 過ぎゆく日々。重ねていく歳月。その中で生まれる喜びも、別れも、変化も。
 すべてを失ってしまえば、傷つくことはない。
 けれど同時に、新しいものへ出会うこともない。
「過ぎゆく日々を慈しみ、楽しむこと。歳を重ねてゆくことの喜びや尊さ。それを永遠に失くす訳にはまいりません」
 ラデュレは、まっすぐに王を見る。
「あなたのお願いは、叶えられません」
 呼渺の周囲で、泡が弾けた。
 次の瞬間、甘く、どこか懐かしい香りが宝物庫いっぱいに広がっていく。
「……この海原の香り……」
 ラデュレが小さく息を呑む。
 それは美しい海を思わせる香りだった。けれど、その奥には抗い難い何かが潜んでいる。
「多分、長引かせるのはよくなさそうだね」
 ツィリが一歩踏み出した。
「なるべく早めに、決着をつけなくちゃ」
「ええ」

 呼渺の尾鰭が、大きく水を打った。
 月色の光が奔り、海流そのものが牙となって二人へ迫る。
 ツィリは咄嗟に軌跡を描いた。
 生まれた泡沫が弾け、星屑の光がその軌道を縫う。押し寄せる水流を散らしながら、その隙間から呼渺へ向けて光が走った。
「ツィリさま……!」
 ラデュレの声に応えるように、無数の白紙が舞い上がる。
 頁の嵐。
 白い紙面へ海の色が流れ込み、青く、蒼く、深い藍へ染まっていく。
「ツィリさまが掌中に収めた、光なき波間から――どうぞ、見つけてくださいませ」
 それは二人が過ごした時間だった。
 南海の砂浜。月明かりの海。珊瑚の森。交わした言葉と笑顔。
 そして、これから紡がれるはずの、まだ白紙の物語。
 ラデュレは頁を舞わせながら、微笑んだ。
「皆さまとの思い出も、今までの軌跡も、これからの軌跡も――わたくしは、物語へと紡ぎたいのです」
 白紙の頁が、一斉に呼渺へ殺到する。
 その中心へ、ツィリが星の光を纏って踏み込んだ。
(ひとの命は短くて、儚くて――あぶくのように脆い)
 けれど。
「だからこそ、その歩みは輝いているの」
 泡沫が、光なき波間を飛ぶ。
 その先にあるのは、終わりではない。
「ラーレちゃん、お願い!」
「お任せくださいませ、ツィリさま……!」
 頁と星屑が、海底の闇を埋め尽くす。
 歩む先に、望んだ結末が待っていなくても。
 それでも二人は、進む。
 自分たちの物語を、終わらせないために。
「――さあ、物語の続きを始めましょう」
 海底の王へ向けて、二人の光が放たれた。

エレノール・ムーンレイカー

●
「申し訳ありませんが、その願いは聞き入れることなどできません」
 エレノールは、静かに呼渺を見据えた。
「わたしだって、やりたいこと、やるべきことは沢山あります。ここで停滞しているわけにはいかないのです」
 それでもなお、この海に留めようというのなら。
「……致し方ありません。お相手いたしましょう!」
 エレノールが両手を広げる。
「『大海を支配する、麗しくも強大なる人魚の女王へ変化する力を、わたしに!』」
 魔力が渦巻き、銀髪が大きく揺らめく。
 瞬く間にその姿は変わった。
 人魚の女王。
 手には珊瑚の装飾を纏った三叉槍、コーラル・トライデント。尾鰭が一度、水を打つ。
「――さあ、大海の王と女王、どちらが勝つか……一戦、交えましょうか!」
 次の瞬間、エレノールは水中を駆けた。
 強化された機動力を最大限に活かし、一気に呼渺の懐へ潜り込む。三叉槍が閃き、鋭い一撃がその身を狙った。
 呼渺の尾鰭が大きく翻る。
 エレノールは直感的に危険を察し、即座に身を翻した。直後、激しい水流が彼女のいた場所を薙ぎ払う。その勢いを利用してさらに加速し、反撃の槍を振り抜く。
「まだ、終わりません!」
 一対一では埒が明かない。
 そう判断するや、エレノールは大きく距離を取った。
「『来たれ、我が配下の精鋭たちよ!』」
 海中に幾つもの光が灯る。
 現れたのは、槍を携えた人魚の精鋭たち。女王親衛隊が一斉に呼渺へ向き直った。
「皆さん、行きますよ!」
 号令とともに、人魚兵たちが突撃する。無数の槍が水中を駆け、その隙を縫うようにエレノールも飛び込んだ。呼渺の尾鰭をかわし、懐へ入り込む。
 珊瑚の槍が、再び閃く。
「王よ」
 攻撃の合間、エレノールは真っ直ぐに呼渺を見据えた。
「永遠に変わらない美しさなんて、停滞と変わりないのです」
 銀糸の輝く髪が海流の中で揺れる。
「たとえ最後に朽ちて、消えてしまうとしても――限りある時間を生きるものには、また格別の美しさがあるのですよ」
 言葉とともに、三叉槍が大きく薙ぎ払われた。
 人魚の女王と、その親衛隊。
 海の王が守ろうとした永遠の宝へ向けて、彼女たちは一斉に攻め入っていった。


 * * *


●
 幾つもの戦いを重ね、少しずつ削られてきた人魚の王の力が、とうとう限界を迎えた。
「……なぜ、だ……」
 守りたかった。
 失いたくなかった。
 それなのに、自分の手の中に閉じ込めたはずの美しいものたちは、今こうして外へ帰ろうとしている。呼渺は震える腕を伸ばし、玉座へ縋った。
 呼渺の尾鰭から、力が抜ける。
 倒れまいと玉座へ手を伸ばすも、その指先は貝殻の縁を掠めただけだった。
 ゆっくりと身体が沈んでいく。
 最後に王が見つめたのは、珊瑚と真珠に彩られた自らの宝物庫だった。
 泡の中で眠る人々。
 きらめく宝石。
 そして、己に立ち向かった者たち。
「……美しい、な……」
 それは、敗北を悟った王の、どこか寂しげな呟きだった。
 掠れた声が、深い海へ溶ける。
 人魚の王は静かに玉座へ崩れ落ちた。
 その瞬間、城を満たしていた月色の光がひときわ強く瞬き――まるで失われていくものを惜しむように、深い海の底へ溶けていった。

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