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呪宴を視る
伊藤政夫にとって、娘の加奈子は最後に残された家族だった。
妻の浮気が原因で離婚してからも、仕事に追われる毎日も、家へ帰れば加奈子がいる。それだけで耐えられた。
だからこそ、十歳でその加奈子を喪った後の家は、住み慣れているはずなのに酷く広く感じられた。
食卓に向かい合う相手はいない。廊下の向こうから足音が聞こえることもない。何気なく名前を呼びそうになるたび、返事など二度と来ないという現実だけが胸の奥を抉っていく。
そんな夜、テーブルへ伏せていたスマートフォンが短く震えた。
政夫が何気なく手に取り、画面を返す。暗い室内へ浮かび上がったのは、見覚えのない広告通知だった。
『亡くなった大切な人に、もう一度会いたくありませんか?』
「……なんだよ、これ」
悪趣味な広告だと吐き捨てながら、通知を消そうとした指は止まっていた。
表示されたアプリの名は『Re:Member』。
死者の名前と写真を登録すれば、その者と再会できるという。仕組みらしい説明はなく、到底まともなサービスには思えない。
それでも、だとしても。
疑う理性より、もう一度会いたいという願いが勝った。
「加奈子……」
藁にも縋る思いでアプリをインストールする。起動後に求められたのは、会いたい死者の名前と一枚の写真だけだった。
震える指で娘の名を入力し、ストレージに残っていた写真を読み込ませる。
『伊藤加奈子』
確認画面の先には、一つのボタンだけが表示された。
『儀式を実行する』
迷いはなかった。
指先が画面へ触れた途端、スマートフォンの光も、室内に残っていた僅かな明かりも一斉に消えた。
「……え?」
僅かな暗転を経て視界を取り戻した時、そこに先程までの自宅はなかった。
淡い色の壁紙。小さな机。棚へ並ぶぬいぐるみ。十歳の少女が暮らす部屋を思わせる一方、窓には太い鉄格子が嵌められ、壁の一部は冷たいコンクリートへ変わっている。子供部屋と監獄を無理矢理縫い合わせたような、歪な空間だった。
そして、その中央に少女が佇んでいる。
「加奈子……?」
見間違えるはずがない。
「加奈子! 加奈子ぉっ!」
堪え切れず駆け寄り、小さな身体を抱き締める。腕の中に確かな感触がある。その事実だけで喉が詰まり、涙が頬を伝った。
「ごめんな……! 父さん、ずっと……ずっと会いたかった……!」
返事の代わりに、肩へ鋭い痛みが突き刺さった。
「ぐぁあああああっ!?」
少女の歯が肉へ深々と食い込み、衣服の下へ生温かな血が滲む。反射的に身体を引き剥がした政夫が数歩よろめいた。
「な、何するんだ……加奈子……?」
娘の口元は赤く濡れていた。怒りも涙もなく、何の感情も浮かばない眼差しだけが政夫へ向けられている。
少女が一歩、距離を詰めた。
「ひっ……!」
本能に突き動かされるまま扉を押し開け、廊下へ飛び出す。
そこにも知っている自宅はなかった。異様に長い廊下には鉄格子と重い扉が連なり、階段を下りたはずなのに二階へ戻る。曲がった先で同じ場所へ辿り着く。
それでも、壁の時計や棚、柱に残った古い傷には覚えがある。
間違いなく自宅なのに、知っている家とはまるで違っていた。
背後から響く、小さな足音。
部屋へ逃げ込んでも、別の廊下へ駆けても、気付けば加奈子がいる。
逃げる。
追われる。
また逃げる。
いる。いる。いる。冷たい目で、どこにでも。
やがて混乱する頭に、一つだけ希望が浮かんだ。
(玄関だ……玄関からなら!)
乱れた呼吸を引きずりながら駆け続け、ようやく見覚えのある玄関へ辿り着く。
「あった……!」
震える両手でドアノブを掴み、勢いよく回した。
開かない。
「なんでだよ……!」
押しても、引いても、微動だにしない。
「開けよ! 頼むから開いてくれぇ!」
何度もドアノブを捻るうち、背後の足音が消えた。
恐る恐る振り返った先で、加奈子が立っていた。
小さな手には、鈍い光を返す刃物が握られている。
「や、やめろ……」
政夫の背が扉へ張り付く。
「加奈子……父さんだぞ……!?」
答えはない。
少女は血に濡れた口元を動かすことなく、刃をゆっくり持ち上げた。
●
「ここまでが、ボクの見た√汎神解剖機関で起きる事件の予知だよ」
水瀬・恋眞の言葉を受け、集まった√能力者たちの間に僅かな沈黙が降りる。
「予知の後で調べてみたらね、死者に会えるっていう闇アプリが一部で出回ってるみたいなんだ。その名前が『Re:Member』」
大切な人を亡くした者へ広告を送りつけ、名前と写真を登録させる闇アプリらしい。ネット上には「本当に会えた」という体験談も残されていた。
「けど、今回の予知と、これまで出てる体験談が食い違ってるんだよねぇ。噂を調べても、死者に襲われたって話は出てこなかったんだ」
だが今回の予知では、自宅が牢獄じみた異界へ変貌し、加奈子らしき少女が政夫を執拗に追い回している。
「この事件、予知の範囲では見えなかった何かがあるのかも」
目の前の加奈子らしき存在を退ければ終わる、と考えるには不明な点が多過ぎた。
「みんなが入る頃には、政夫さんはまだ玄関へ追い詰められる前で、家の中を逃げ回ってるはず。まずは彼を探して。それと、異界化した家そのものも調べてもらいたいんだ」
差し出された紙には、異界化する以前の伊藤家の間取りが印刷されている。スマートフォンを持つ者には同じデータも送信された。
「中はかなり変わってるけど、元の家がベースにはなってるみたい。調査する時の目安にはなると思うよ」
侵入地点は玄関口。
ただし、一度足を踏み入れれば、異界が消えるまで外へ戻れない可能性が高い。
「何が待ってるのか、ボクにも全部は分からない。でも、みんななら真相を突き止めて、ちゃんと解決してくれるって信じてるよ」
恋眞は最後にいつもの笑みを浮かべ、√能力者たちを見回した。
「おねがいね!」
こうして彼らは、死者との再会が待つ伊藤家へと向かうのだった。
これまでのお話
第1章 冒険 『侵蝕された地へ』
なぜ、自分は逃げているのだ。
加奈子から。もう一度会いたいと願い続けた、たった一人の娘から。
乱れた息を押し殺し、政夫は廊下の角からそっと顔を覗かせる。
どこまでも続く薄暗い廊下に、人影はない。
それでも安心できなかった。
さっきまで誰もいなかった場所へ、あの子は突然現れた。曲がり角の先にも、開いた扉の向こうにも、いつの間にか立っている。
――どうしてだ……。
壁へ背を預け、ずるずると腰を落とす。
こんな再会を望んでいたわけではない。
加奈子の声を聞いて、顔を見て、それから――謝りたかった。
――あのことを……。
今でも忘れられない。
あの日、あんなことにならなければ。
自分があの時、もっと――
考えようとするだけで胸の奥が締め付けられ、政夫は両手で頭を抱えた。
「そんなに……俺を恨んでるのか……?」
掠れた声が、誰もいない廊下へ消えていく。
あの日のことを恨んでいるのだとしても、父親を殺したいと思うほど、自分を憎んでいるのか。
「違う……違うだろ……」
血に濡れた口元。
何の感情も映さず、自分へ刃を向ける眼差し。
脳裏へ蘇る姿を振り払うように、何度も首を横へ振る。
「加奈子が……あんなことするはずない……」
優しい娘だった。
無邪気な笑みを向けられると、自分まで嬉しくなった。
腹を立てることも、拗ねることもあったけれど、それでも最後にはいつもの笑顔を見せてくれた。
ならば、これは何かの間違いではないのか。
ふと、政夫の意識へ『Re:Member』が浮かぶ。
「そうだ……アプリ……」
アプリに何か異常が起きたのかもしれない。
儀式の途中で何かがおかしくなったのなら、アプリを止めれば元に戻せる可能性もある。
加奈子から逃げることばかり考えていた頭に、初めて具体的な希望が生まれた。
息を潜めたまま、政夫は自分の手元へ目を落とす。
スマートフォンがない。
「……え?」
慌ててポケットへ手を突っ込む。
ない。
反対側のポケットへ手を入れる。
そこにもない。
上着を探り、ズボンを確かめ、もう一度同じ場所へ手を入れる。
「スマホ……どこだ……?」
背中に嫌な汗が滲む。
逃げ回っている間に、どこかへ落としたのだろうか。
記憶を辿ろうにも、その間の光景は恐怖に掻き乱され、まともに繋がらない。
「嘘だろ……」
探しに戻らなければならない。
けれど、どこへ。
立ち上がろうとした、その時だった。
ぺた。
小さな音が聞こえた。
政夫の身体が固まる。
ぺた。
また一つ。
裸足で床を踏むような音が、廊下の向こうから近付いてくる。
「……加奈子?」
返事はなかった。
廊下の角から恐る恐る覗いた先で、小さな影がこちらを向いている。
「ひっ……!」
声を漏らした途端、少女が低く身を沈めた。
次の瞬間、床すれすれを駆けるような勢いで迫ってくる。少女は大きく口を開き、政夫の足首へ飛びついてきた。
「うわぁああああっ!?」
間一髪で脚を引き、壁へ肩をぶつけながら角の向こうへ転がり出る。
振り返っている暇などない。
傷む身体を引きずり、息も絶え絶えに、また走り始める。
背後から、小さな足音が追ってくる。
その頃、異界と化した伊藤家の玄関へ、政夫の知らない新たな来訪者たちが近づいていた。
異界へ踏み込んだ√能力者たちは、それぞれの判断で伊藤家の探索へ散っていった。
事件を解く手掛かりは、牢獄じみた姿へ変貌した家のどこかにあるはずなのだと信じて。
その一人、フィオ・エイル・レイネイトもまた、気配を殺して薄暗い廊下を進んでいた。
見た目だけなら十四、五歳ほど。百五十センチほどの小柄な身体に、金の装飾が施された濃紺の上着と赤いスカートを纏っている。
帽子の下から覗く髪は鈍い赤茶色。本人はあまり好きではないその髪色も、白い肌と鮮やかな緑の瞳にはよく映えていた。
腰には二振りの刀を佩いている。
可憐な少女としか見えない外見に反して、その足取りに隙はない。
――死者に襲われたって話が出てこないのは、そりゃあその通りだとは思うかな。語る口がなければ、体験談も出しようがない。
いわゆる生存者バイアスというやつだ。
Re:Memberを利用した者が全員無事だったとは限らない。異常に巻き込まれ、体験を語れる状態ではなくなった者がいたとしても、その事実が噂として表面へ出てくることはないだろう。
もっとも、それだけで今回の異変を説明できるわけでもなかった。
――まず見たいのは、加奈子さんの部屋かな。
予知の始まりは、少女の部屋と監獄が混じり合ったような空間だった。
あそこが異界化の中心に近いのであれば、何らかの痕跡も色濃く残されている可能性が高い。何より加奈子本人の部屋ならば、彼女について知るには適した場所だろう。
家のどこかでは、今も政夫が娘から逃げ続けている。
申し訳なさがないわけではないが、仲間たちの中には救助優先で動いている者もいた。
少なくとも今すぐ命を落とす状況ではないことも分かっている。全員が救助優先に回らず、その猶予を調査へ回した方が、事件そのものの解決に繋がるだろうという判断だ。
足音を抑え、曲がり角へ差し掛かるたび、先に気配を窺ってから進む。
異界化した家には、かつて人が暮らしていた面影が随所に残されていた。壁に掛かった時計、使い込まれた棚、柱についた小さな傷。ところが、それらを繋ぐ廊下は不自然なまでに長く、まともな家屋とはあまりにかけ離れている。
何より避けたいのは、あの少女との遭遇だった。
予知で見た加奈子が相手なら、事情を聞くより先に牙を剥かれる可能性もある。
幸いにも怪異らしいものとは鉢合わせず、やがて目的の部屋へ辿り着く。
僅かに開いていた扉を押し、その向こうへ慎重に視線を滑らせた。
「……やはり、部屋も広くなっているね」
渡された間取りから想像していた子供部屋より、明らかに奥行きがある。
異界に呑み込まれたことで空間そのものが引き延ばされたのか、十歳ほどの少女が使うには不釣り合いな広さへ変貌していた。
淡い色の壁紙に、小さな勉強机。本棚には児童書や学習用の教材が収まり、ベッドには可愛らしい柄のシーツが掛けられている。
それだけを切り取れば、ごく普通の少女の部屋だった。
だが、窓は太い鉄格子で塞がれ、天井は本来の家屋からは考えられないほど高い。灰色のコンクリートへ変質した壁には無骨な鉄板が継ぎ接ぎされ、扉にも内側から開けられるものとは思えない重々しい金具が取り付けられていた。
可愛らしい子供部屋と、人を閉じ込めるための牢獄。
本来なら相容れない二つの意匠が、初めからそういう部屋だったかのように溶け合っている。
少女らしい温かさが残っているからこそ、その中へ食い込んだ冷たい監獄の意匠が一層不気味だった。
部屋の一角には、小さな棚を埋めるほどのぬいぐるみが並んでいる。
うさぎや猫、くまといった可愛らしいものが多い中、一体だけ妙に毛色が違った。
「……ヒーロー?」
蜘蛛を意匠に取り入れた全身スーツ姿のヒーローが、頭身を低くした愛嬌のある姿でデフォルメされている。
他がいかにも少女向けの品で揃えられているだけに、男の子向けに見えるヒーローのぬいぐるみだけが僅かに浮いていた。
趣味は人それぞれだ。それだけで何かを決めつける理由にはならない。
それでも胸に引っ掛かった小さな違和感だけは覚えておき、フィオは室内へ踏み込んだ。
予知で見た部屋と、ほぼ同じ光景だった。
「さて……普通に探して見つかるものなら、それが一番なんだけど」
視線を巡らせても、露骨に怪しいものが転がっているわけではない。
手当たり次第に家具をひっくり返すより、もう少し手早い方法もある。
「こういう時に頼れるのがいるのは助かるよ」
腰へ手を伸ばし、妖刀『無尽廻廊』の柄へ指を添える。
「――こいつも結構な埒外でね」
言葉に応じるように、鞘の内側で何かが蠢いた。
|妖刀解放《ネジフセロ・ソノリンリ》――刀を僅かに抜くと、緑色の刀身に刻まれた獣の意匠を通じ、封じられた妖の気配が滲み出してくる。それは獣のような異質なインビジブルだった。
「この異変を解き明かすための取っ掛かりが欲しい」
妖刀に封じられた妖は、言葉にされた願いを叶えて困難を打開する。そういう能力を有している。
願いの結果を期待して少しの間待機するも、やがて滲み出していた気配が薄れ、静寂だけが戻ってきた。
「……何も起きないな」
机も、本棚も、並べられた小物も変わらない。
隠された何かが姿を現すでもなければ、引き出しがひとりでに開くようなこともなかった。
「ハズレかな?」
そう呟きながらも、すぐに考えを改める。
この力が願いを叶えるには、一つだけ条件がある。誰も傷つけることのない願いであることだ。
仮にこの部屋にある何かを知ることで誰かが傷つくのならば、それが直接示されなかったとしても不思議ではない。
言い換えれば、何も起きなかったという結果自体、情報の一つにはなる。
「だったら、自分で探し出すしかないね」
怪異現象を形作るものとして、頭へ浮かぶのは強い感情だった。
愛する者と別れる愛別離苦。
憎む者と出会う怨憎会苦。
望むものを得られない求不得苦。
そして、自分の心や身体すら思い通りにならない五陰盛苦。
今回の一件には、そのどれもが奇妙なほど馴染んでいる。
「そういう念が残りそうなものから当たってみようか」
手記や書類、あるいはスマートフォン。
そういった分かりやすいものを念頭に置きながら、まずは机へ向かう。
ところが、期待した品は簡単には見つからない。
引き出しに収められているのは文房具や学校関係らしいプリントばかり。本棚へ並べられたノートも一冊ずつ確認するが、胸中を綴った日記のようなものは混じっていなかった。
適当に一冊を取り出し、頁を送っていく。
記されている内容そのものは、子供が学ぶ範囲から大きく外れていない。
ただ、目を留めたのは文字だった。
「……思ったより、しっかりした字を書くんだね」
一字一字が整っている。
幼さは残っているものの、十歳ほどの子供が書いたものとしては、どこか大人びて見えた。
それだけなら、単に字の綺麗な子供という可能性もある。
もう少し詳しく調べようと、別のノートへ手を伸ばしかけ――。
――視線?
背中へ、微かな気配が触れた。
伸ばしていた手を止め、身体ごと静かに振り返る。
同時に重心を落とし、必要とあらば刀を即座に抜き放てる態勢を整えた。
部屋の入口に、一人の少女が立っていた。
十歳ほどの、小柄で華奢な少女だ。艶のある黒髪は癖のないボブで、大きな瞳は僅かに垂れている。左目の下には小さなほくろがあり、髪の隙間から覗く耳たぶはやや大きかった。
――この子が、本当に?
政夫を襲っているという話から想像していた姿とは、あまりにも様子が違う。
目の前の少女に宿っているのは、敵意ではなく不安と怯えだった。
こちらを警戒しているのは、むしろ少女の方に見える。
それでもフィオも警戒は解かず、刺激しないよう声の調子だけを穏やかにする。
「名前を聞いてもいいかな?」
「加奈子……」
返ってきた名は、想像していた通り。
しかし、それで疑問が解けるどころか、違和感は強まった。
予知で見た少女と同じ人物なのだとすれば、あまりにも様子が違いすぎる。
少なくとも今この場で、目の前の少女が襲いかかってくる気配はなかった。
「加奈子さん。少し聞きたいことが――」
問いを続けるより早く、少女の顔へ怯えが広がる。
次の拍子には身を翻し、小さな背中が廊下へ消えていった。
「あっ」
咄嗟に後を追って部屋を出る。
けれど、廊下へ踏み出した時には、既に左右のどちらにも姿はなかった。
走り去ったにしては早過ぎる。遠ざかる足音すら聞こえてこない。
「……消えた?」
ここが異界であり、少女も怪異の類なのだとすれば、それ自体は不思議ではないのだろう。
周囲へ意識を広げてみても、少女がいた気配は急速に薄れ、辿ることも難しくなっていた。
この時のフィオはまだ、一つの可能性へ思い至っていなかった。
誰も傷つけることなく、この異変を解き明かすために必要な取っ掛かりが欲しい。
そう願った後、何も起こらなかったと思っていた部屋へ現れた、一人の少女。
妖刀は沈黙していたのではない。
願いへの答えとして現れた少女を、フィオが予知で見た怪異と同一視し、襲撃を警戒してしまった。
逃げるように姿を消した少女こそが、妖刀に封じられた妖によって導かれた――この事件の真相へ辿り着くための、最初の糸口だった。
鉄格子の影が、異界化した廊下を斜めに横切っていた。
元はごく普通の一軒家だったはずなのに、壁紙の途中から冷たいコンクリートが露出し、見慣れた室内扉の隣には用途の知れない鉄扉が生えている。天井の高ささえ場所によって揃わず、少し目を離しただけで廊下の長さまで変わったような錯覚に襲われる。
その歪んだ空間を、二人が並んで進んでいた。
先を行く見下・七三子は、細身の身体を黒いスーツで包み、ネクタイから手袋、靴に至るまで暗色で統一している。腰を越えるほど長い黒髪は高い位置でまとめられ、歩みのたびに大きく尾を引いた。赤い瞳とすらりと伸びた手足だけなら鋭利な印象を与えそうなものの、表情に宿る柔らかさがそれを和らげている。
隣を歩くシアニ・レンツィは、そんな七三子よりもずっと小柄だった。
鮮やかな青い肌に、白銀の短い髪。黒いベレー帽の下では大きな緑の瞳が忙しなく周囲を見渡している。星や魔術文字を散らした青いマフラーが背後へ揺れ、その華奢な身体には不釣り合いなほど巨大なハンマーが肩へ担がれていた。
「儀式かぁ。なんだか|前の事件《シセンノマ》を思い出しちゃうな……」
ぽつりと零れた呟きが、静まり返った廊下の奥まで妙に長く響いていく。
「シセンノマ……?」
聞き慣れない言葉だったらしく、七三子が不思議そうに小首を傾げた。
「あ、えっとね。前にあたしが行った依頼で――」
説明しかけたところで、声が僅かに淀む。
古い屋敷。
人の欲。
そして、そのためだけに組み上げられた悪辣な儀式。
誰かを意図的に苦しめ、怒りと憎悪を育て、その果てに命まで奪う。死後すら解放せず、凝り固まった怨嗟を怪異へ変えて利用する。
そんな呪いが、シセンノマと呼ばれていた。
「……人をわざといっぱい苦しませて、怒らせて、憎ませて。その気持ちがずっと消えないようにして、怪異に変えちゃうような儀式だったの」
どんな方法で人を苦しめたのか。
その後も何を続けていたのか。
そこまで詳しく伝えるのはやめておいた。
七三子は自分より十歳近く年上の女性だ。それでも、ときおり自分よりもずっと純朴に他人の善意を信じているようなところがある。
わざわざ聞くだけで胸の悪くなる話まで教える必要はないだろう。
「そうですか、前にもそんな事件が」
赤い瞳が、気遣うように柔らかく細められる。
「シアニさん、がんばりましたね」
「……うん」
たった一言だった。
それなのに、胸の奥へ沈んでいた重たいものへ、そっと触れられたような気がする。
あの事件が忘れられないのは、怪異が強かったからではない。
そこに至るまで積み重ねられた苦痛も、その中で知った想いも、今なお記憶へ深く刻まれていた。
――そういえば……あの儀式を授けた呪術師は、その後どうしたんだろう。
屋敷に残された資料をいくら調べても、その存在について分かったことはほとんどなかった。
あれほど悪辣な仕組みを生み出せるのだ。まず、まともな人物ではない。
とはいえ、シセンノマが作られたのは少なくとも数百年前の話。今回現れたスマートフォンのアプリとは、時代からして隔たりが大きすぎる。
「さすがに今回と結びつけるのは飛躍しすぎだけど……でも、こういう儀式とかアプリとかを作って、誰かに使わせてる人がいるんだよね」
「うん、確かにアプリが気になりますね」
普段の依頼なら、起こる事件や戦うべき相手がある程度は判明している。そこまで明確でなくとも、事件を追う道筋くらいは示されていることが多かった。
しかし、今回は違う。
伊藤政夫が、娘の加奈子に襲われる。
分かっているのは、ほとんどそれだけ。
『Re:Member』が何を起こしているのか。
どうして今回に限って、再会した死者が政夫へ牙を剥いたのか。
進む先はあるのに、その少し先さえ霧に覆われて見えない。そんな落ち着かなさが付きまとっていた。
やがて二人の前へ、半ば鉄格子に侵食された引き戸が現れる。
渡された間取りが正しいのなら、この先がリビングだ。
扉を潜った途端、家庭の生活空間と監獄を無理矢理縫い合わせたような光景が視界いっぱいに広がった。
ソファの背後から太い鉄柱が伸び、壁の一部は格子へ置き換わっている。食卓の上からは錆びた鎖が垂れ下がる一方、テレビや棚、冷蔵庫には現実の伊藤家だった頃の面影が色濃く残されていた。
「……ここが、政夫さんがアプリを使った場所」
周囲へ目を巡らせたシアニの視線が、すぐ床の一点へ吸い寄せられる。
「あっ! あれって政夫さんのスマホじゃないかな?」
拍子抜けするほど無造作に、黒いスマートフォンが転がっていた。
「逃げ回っているうちに落としたのでしょうか?」
「たぶん。見てみよっ」
拾い上げて確かめても、目立った破損はない。
液晶へ指先を触れさせると、暗かった画面が白々と発光した。
ロック画面ではない。最初から『Re:Member』が開かれている。
「これが……」
表示されている名前は『伊藤加奈子』。
そのすぐ下には、十歳ほどに見える少女の顔写真が一枚。
「この子が加奈子ちゃんみたいだ」
二人の視線が画面へ集まる。
黒に近い暗色の髪。丸みを残した卵型の小さな顔。大きな黒い瞳に、小さな鼻と口。色白で、首も細く、写真からでも小柄で華奢な少女なのだろうと想像できる。
年齢より僅かに幼く感じられる、整った顔立ちだった。
「……『実行中』」
七三子が画面下部の表示を読み上げる。
「止められたりしないのかな?」
試しにシアニが指を滑らせるものの、何の反応も返ってこない。
戻る操作も、アプリを閉じる操作も受け付けず、名前と写真、その下に浮かぶ短い表示だけが画面へ焼き付いたように固定されていた。
「うーん……そもそも、この『儀式』とはなんでしょうかね」
七三子の表情へ戸惑いが滲む。
「喪われた人は戻らない。戻せる、と謳うならば、もう最初から罠でしかない気もします」
命を失えば、死者はインビジブルとなる。
死後蘇生を果たす自分たち√能力者は、その中でも例外だ。
ならばこれは、死者との再会を餌にして、遺された者を何かへ誘い込む仕掛けなのだろうか。
「壊しちゃう?」
「……何が起きるか分かりませんから、今はやめておきましょう」
「だよねぇ」
重要物として預かることにはしたものの、端末からそれ以上の情報を引き出せそうにはない。
改めて周囲へ目を向けても、儀式を開始した場所らしい特殊なものは見当たらなかった。
床に魔法陣が刻まれているわけでも、祭壇や呪物らしきものが据えられているわけでもない。
異界化した部分を除けば、ここはごく普通の家族が暮らしていたリビングに見える。
「二人は、ここでどんな生活を送っていたんだろ」
シアニの呟きへ、七三子も小さく頷いた。
「家族の生活痕跡から、加奈子さんが亡くなった頃の情報を探しましょう。失せ物探し、私、結構得意なんです」
まず向かったのは冷蔵庫の周辺。
学校からの配布物や予定表なら、こうした場所へ貼ってあるかもしれない。
冷蔵庫そのものには目立つものがなかったものの、すぐ近くの壁へ今年のカレンダーが掛かっていた。
「あっ」
昨日の日付だけ、赤い丸で囲まれている。
脇に添えられた手書きの文字は『加奈子 誕生日』。
「仲が悪いなら、お誕生日に印を付けたりはしないですよね」
「そうだよね」
シアニの表情からも、僅かに緊張が抜ける。
「今回に限って襲われたのなら、家族に理由が……あって欲しくないから。普通に生活してたって言えそうなもの、もっとないかなぁ」
緑の瞳を細め、室内へ意識を集中させる。
「|視えて《おしえて》。ここで何が起きたのか」
|竜眼・過去視《メモワール》。比較的近い過去を見通す力が、異界化したリビングへ向けられる。
「んん……?」
視界へ薄い膜を重ねるように、もう一つの風景が滲んだ。
ところが、普段のようには像を結ばない。
現実の家具へ半透明の輪郭が重なっては崩れ、人影らしきものが浮かんだと思えば、激しい砂嵐の中へ呑まれていく。
「だめだぁ。ほとんど見えない……」
「無理はしないでくださいね」
「うん。でも、何もないよりはマシかな」
過去から直接拾えないのなら、今も残っている物を調べればいい。
手分けして探すうち、食器棚の奥から同じ柄の茶碗が二つ見つかった。
台所の隅には、小さな踏み台。
角は丸く擦れ、足を乗せる部分にも長く使い込まれた跡が残っている。
別の引き出しから出てきたのは、子供用のエプロンだった。
「いっぱい使ってたみたい」
布地へ指を滑らせながら、シアニが小さく笑う。
同じ食器を使って食卓を囲み、台所では踏み台へ乗って父親の手伝いをする。
少なくとも、そんな団らんの日々があったと考えることに無理はなさそうだった。
「やっぱり、仲は良かったみたいだね」
「そうみたいですね。あ、これは……」
棚の引き出しを奥まで探っていた七三子の手に、硬いものが触れる。
引き出されたのは、一つの写真立て。
ガラスにはひびが走り、フレームの角にも何かへ強くぶつかったような傷が残っていた。
その下には、折れ曲がった一枚のプリントが敷かれている。
「学校からのお知らせ……授業参観ですね」
内容へ目を通した七三子の表情が、少し曇る。
「もしかして、これも『ごめんな』に関係しているのでしょうか……」
普段どれほど仲が良くても、長く暮らせばすれ違うことくらいある。
仕事の都合で学校行事へ行けなかったのかもしれない。
何か約束をして、それを破ってしまったのかもしれない。
けれど、推測を巡らせかけた視線が、紙面の一点で止まった。
「……え?」
「どうしたの?」
「これ……五年前の日付です」
隣から覗き込んだシアニも、その数字を確かめる。
娘を亡くしてから五年間、悲しみ続けていた。
それだけなら、不自然とは言えない。
「でも……さっきのカレンダーは今年のだよね?」
「はい。間違いありません」
古い学校のプリント。
壊れた写真立て。
その一方で、現在まで娘の祝い事を書き留め続けていた形跡。
食い違う互いの意味を結びつけるには、まだ情報が足りない。
その時、七三子の視界の端を淡い影が横切った。
「……?」
空中を漂っていたのはインビジブル。
しかし、この家へ入るまでに見慣れてきたものとは様子が違う。
輪郭が縦横へ引き伸ばされ、細かな粒子となって離れたかと思えば、また別の場所で繋がる。一つの身体として存在しているはずなのに、幾つもの映像をずらして重ねたように姿が揺らぎ続けていた。
「少し、お話を聞けないでしょうか」
静かに手を合わせ、死者の残滓へ一時の知性と言葉を与える|降霊の祈り《ゴーストトーク》を紡いでいく。
祈りへ反応したのか、漂っていた影の動きが止まった。
ざり。
どこからともなく、砂を噛んだ機械のような音が鳴る。
ざざっ。
幾つにも分かれていた影が寄り集まる。
けれど滑らかには繋がらない。
細い腕らしき輪郭が浮かび、その少し離れた場所へ肩が現れる。脚の形が一度崩れ、黒い帯状のノイズを挟んで別の位置へ繋ぎ直される。
まるで壊れた映像を無理矢理一人分へまとめ上げているかのようだった。
やがて二人の前へ形を成したのは、十歳ほどの少女。
「……!」
七三子の呼吸が僅かに止まる。
先ほどスマートフォンで見た顔だった。
暗い髪。
色白の肌。
小柄で華奢な身体。
丸みを帯びた幼い顔に、大きな黒い瞳。
画面の中の『伊藤加奈子』が、そのまま抜け出してきたかのようだ。
――政夫さんを追いかけているはずの子が、どうしてここに?
政夫を追っているという加奈子が同じ存在ならば、今頃は家のどこかにいるはずだった。
それなのに、目の前には同じ姿を持つ死者がいる。
「あなたは……加奈子さん、ですか?」
出来るだけ刺激しないよう、七三子が柔らかな声音で問い掛ける。
返事はない。
降霊の祈りによって知性を得たインビジブルなら、直近の出来事について尋ねれば協力的に答えられるはずだった。だが、目の前の少女は問い掛けそのものへ反応を示さない。
ノイズの暗がりの中、光を映さないような黒い瞳だけが、じっとこちらを見返していた。
「……シアニさん?」
「待って……」
背後から届いた声には、先ほどまでとは違う緊張が混じっている。
少女が形を得た直後から、|竜眼・過去視《メモワール》の視界にも変化が生じていた。
ほとんど何も判別できなかった過去の残像が、ほんの僅かに繋がり始めている。
「見える……ちょっとだけ……」
現在の異界へ、別のリビングが薄く重なる。
まだ壁に鉄格子はない。
天井から鎖も垂れていない。
けれど、それ以上の細部は白と黒の砂嵐へ沈み、まともに判別できなかった。
二つの人影だけがいる。
一方が大きく腕を動かす。
ざああああっ。
激しいノイズが挟まる。
「どう……だ……昔は……だっ……のに……!」
途切れ途切れの男の声。
何を言っているのか分からない。
人影の腕が再び動いた。
鈍い音。
もう一方の輪郭が大きく揺れる。
「ごめ……い……ごめ……さい。もう……叩……で」
「……っ」
シアニの指が、ハンマーの柄を強く握り込む。
また影が動く。
一度。
ノイズ。
もう一度。
誰が、誰を。
どんな顔で。
何を使って。
ほとんど何も見えない。
ただ、片方がもう片方へ暴力を振るっている。
それだけは嫌になるほど伝わってきた。
「……して」
声。
過去の残像へ意識を奪われていたシアニが、はっと現実へ焦点を戻す。
今の声は、あちら側からではない。
七三子の前に立つ少女からだ。
「え……?」
黒い瞳の下、白い頬との境目へ赤が滲んだ。
一滴。
血の雫が涙のように頬を伝い、顎先から床へ落ちる。
ぽたり。
もう一滴。
表情を歪めることも、嗚咽を漏らすこともない。
それなのに、血の雫だけが止まらなかった。
初めは細かった二筋の赤が、見る間に太くなる。下瞼から溢れ続ける血が白い頬を覆い、顎から首筋へ、さらに胸元へと流れ落ちていく。
ぽた、ぽた、ぽた。
床へ落ちる音が重なる。
やがて雫では済まなくなった。
まるで瞳の奥で何かが決壊したかのように、両目から大量の血が溢れ出す。頬も首も服も赤黒く染まり、足元には見る間に血溜まりが広がっていった。
「……っ」
七三子の喉が小さく鳴る。
これほど血を流しながら、少女は微動だにしない。
黒い瞳だけが、血の向こうから七三子を見つめていた。
ざざっ。
不意に、少女の輪郭へ黒いノイズが走る。
腕が横へずれる。
肩から先が途切れ、次の瞬間には僅かに離れた場所へ繋ぎ直される。
頬の一部が砂嵐へ削られた。
それでも血は止まらない。
崩れていく身体から、あり得ない量の赤だけが流れ続けている。
「わたしを返して……」
幼い声だった。
怒鳴っているわけでもない。
泣き叫んでいるわけでもない。
血に染まった顔で、ただ七三子を見つめながら告げている。
何を返せというのか。
激しい砂嵐のようなノイズが走り、少女の輪郭が一気に乱れた。
腕と胴がずれる。
脚が途切れる。
顔さえ上下に食い違い、崩れた映像を無理矢理一人の人間として映し続けているかのように明滅する。
その間も、流れ出す血だけは鮮明だった。
「待って!」
シアニが咄嗟に手を伸ばす。
指先が届くより早く、少女の身体へ細い黒線が幾重にも走った。
ぶつり。
何かを断ち切るような音がした。
少女の姿が消えた。
同時に、シアニの視界へ重なっていた過去のリビングも砂嵐へ呑み込まれる。
「……っ」
消える寸前まで、そこには二つの人影があった。
何度も腕を振るう、大きな影。
その前で身を縮める、もう一つの影。
顔は見えない。
誰なのかも分からない。
ただ、鈍い音と途切れた謝罪だけが耳の奥へこびりついていた。
そして、現在へ引き戻される。
異界化したリビングは静まり返っていた。
「……消えちゃった」
シアニが伸ばしていた手を下ろす。
七三子は答えなかった。視線は床へ向けられている。
つい先ほどまで、少女の足元には大量の血が溜まっていた。
頬から溢れ、服を濡らし、床へ滴り続けていたはずだった。
けれど、その血が一滴もない。
床は乾いている。
血痕どころか、少女がそこに立っていた痕跡さえ残されていなかった。
「……シアニさん。今の、何か見えましたか?」
七三子がようやく口を開く。
「うん……でも、ほとんど分かんなかった」
普段の明るさは、シアニの声から消えていた。
「誰かが、誰かを何度も叩いてた。叩かれてる方は謝ってた。でも……顔も、何をしてたのかも、ちゃんとは見えなかった」
シアニはそこで口を閉ざす。
ハンマーの柄を握る指には、まだ力が入ったままだった。
「そう、ですか……」
七三子は少女が消えた場所を見つめる。
|降霊の祈り《ゴーストトーク》によって知性を得たインビジブルの少女は、最後まで質問へ答えなかった。
身体すらまともに一つへ繋がらず、血を流し続け、残したのは意味の分からない一言だけ。
正常ではない。
何が正常ではないのかさえ、まだ分からない。
五年前の日付が記された学校のプリント。
ひび割れた写真立て。
今年まで使われているカレンダー。
断片的にしか視えなかった暴力の記憶。
そして、『Re:Member』に伊藤加奈子として登録されている少女と同じ姿を持つ、異常なインビジブル。
七三子は預かっていたスマートフォンを取り出した。
白い画面が、薄暗いリビングの中で浮かび上がる。
『伊藤加奈子』
その下には、先ほど見た少女の写真。
血に濡れてもいない。
身体が崩れてもいない。
どこにでもいそうな十歳ほどの少女が、画面の中からこちらを見ている。
さらに、その下。
『実行中』
表示は何一つ変わっていなかった。
「……まだ、続いているんですね」
七三子の呟きに、シアニは答えなかった。
異界化したリビングには、二人の呼吸だけが小さく響いている。
さっきまで目の前にいた少女も。
大量に流れていた血も。
過去に響いていた鈍い音も。
すべて、最初から存在しなかったかのように消えている。
それでもスマートフォンだけは、何事もなかったように白く光り続けていた。
『実行中』
いったい何が、まだ続いているのか。
二人には分からなかった。
「死者と再会できるアプリ、ですか……」
異界化した伊藤家の廊下を進みながら、エレノール・ムーンレイカーの脳裏には、予知で伝えられた政夫の言動が何度も浮かんでいた。
肩口で揃えられた銀髪の隙間から、エルフ特有の長い耳が覗いている。琥珀色の瞳は廊下の奥から僅かな物音まで慎重に追い、色白の身体を包む衣装は帽子や外套も含めて黒でまとめられていた。
「何よりも大切な娘さんなら、政夫さんが縋ってしまうのも……仕方ないと思います」
娘へ会いたい。
謝りたい。
加奈子を喪った後の生活そのものが耐え難かったのだと、予知で伝えられた政夫の言動からも察せられた。
――少しだけ、気持ちは分かるのです。
十二歳の頃、エレノールも家族を喪った。
両親と、姉。
今でこそ一人で考え、一人で判断し、誰かを守るために戦える。しかし昔からそうだったわけではない。
むしろ正反対だった。
――元々のわたしって、甘ったれた子でしたから。
何処へ行くにも姉の後をついていきたがり、困ったことがあれば両親へ泣きつく。自分で何とかしようとするより、誰かに寄り掛かって生きることが当たり前だった。
そんな自分から、ある日突然、寄り掛かれる相手が全員いなくなった。
そのままでは生きていけないと嫌でも思い知らされ、少しずつ自分を変えていった。
姉ならどう考えるだろう。
姉なら、こんな時どんな顔をするだろう。
そうやって記憶に残る姉を手本に、臆病さを慎重さへ、誰かへ依存したい弱さを自分で立つための冷静さへ変えていった。だから、
――もし、全部を失った直後のわたしに「家族ともう一度会えますよ」と言われていたら……。
今の自分なら警戒する。
けれど十二歳なら、その甘言に抗えたという確固たる自信はない。。
「……だからこそ、余計に嫌な感じがするんですけどね」
喪失で弱った心へ入り込み、その願いを利用するための仕組みなのだとしたら、悪質にも程がある。
もっとも、それを断じるには情報が足りない。
「とりあえず、わたしは納戸を調べてみましょう。こういう所には何かあると、わたしの第六感が……」
曖昧な理由だが、全く根拠がないわけでもなかった。
以前発生したシセンノマの事件では、屋敷の蔵から儀式へ繋がる重要な品や記録が幾つも見つかったと聞いている。
日常的には使わないもの。
人の目へ触れさせたくないもの。
けれど捨てることもできないもの。
家に何か秘密があるのなら、そうした品を押し込める納戸は調査する価値がある。
異様に長く引き延ばされた廊下を抜け、渡された間取りで納戸と記されていた扉へ辿り着く。
周囲の気配を確かめてから取っ手へ指を掛け、僅かに開いた隙間から内部を覗いたところで、琥珀色の瞳が大きく見開かれた。
「…………」
伊藤家の内部は、どこも既にまともな住宅とは呼び難い。
壁には鉄格子が食い込み、日常の家具と監獄めいた意匠が歪に混ざり合っている。
だが、納戸に広がっていた光景は、それらとも明らかに趣が違った。
狭い壁面には用途不明の金具が幾つも埋め込まれ、天井から垂れた細い鎖が僅かな空気の流れに揺れている。棚の隙間には革製の拘束具を思わせるものが押し込まれ、脇には乗馬鞭にも似た細長い黒色の鞭が立て掛けられていた。
床へ目を移せば、同じ場所を何度も何かが擦ったような深い傷まで残されている。
物をしまうための部屋というより――。
「……まるで、拷問部屋ですね」
思わず落ちた声も、自然と低くなる。
もちろん、現実の納戸がこのままの姿だったとは限らない。
家全体が異界へ呑まれ、存在しなかった鉄格子や鎖まで出現しているのだから、この光景も何らかの意識や記憶によって形作られた可能性が高い。
だからこそ、疑問が残る。
何故、ここだけがこれほど露骨なのか。
――考えてみれば、加奈子さんの死因って何でしょうね。
予知では明らかになっていない。
分かっているのは、再会した娘が政夫へ噛みつき、最後には刃物を手に追い回していたこと。
さらに政夫自身も、加奈子へ何かを謝りたがっていた。
――あれほど恨まれるような何かを、政夫さんがした……?
そこで生じた強い恨みを触媒として『Re:Member』の儀式が働き、少女の記憶や感情を異界へ反映した。
もしそうならば、この納戸の姿にも一応の説明はつく。もっとも、
「……まだ、想像でしかありませんね」
答えを先に決めてしまえば、その答えへ都合のいい証拠しか見えなくなる。
そんな失敗は避けたい。
「実際に何が残っているか、先に確認しましょう。特殊な用途に使われていたとか、誰かを閉じ込めていたとか……何か変わった道具が残っているかもしれませんし」
棚の一つへ近づこうとしたところで、視界の端を透明な影が横切った。
世界中の何処にでも存在し、√能力者以外には認識すらできない見えない怪物――インビジブルが、ここにも幾体か漂っている。
それ自体は何ら不思議なことではない。
死者が変じた彼らの大半は明確な目的も持たず、海中を漂う生物のように空中を揺蕩っている。
ただ、ここにいるそれらは妙だった。
透明な輪郭がノイズによって細かく震え、一つの形を保てずにいる。身体の一部が僅かに離れた位置へずれて見えたかと思えば、次の瞬間には重なり、再び別方向へ崩れる。
――ここはインビジブルも何かおかしい。
だが、相手が何であれ最近三日間にこの部屋で起きたことを目撃しているのなら、問いかける方法はある。
「少しお話を聞いてみましょうか」
もっとも、異常が起きている場所で無防備に術を使う気にはなれなかった。
シセンノマの調査でも、インビジブルへ働きかけた結果、想定外の怪異へ接触てしまったのだ。
今回は先に自分の側を固める。
エレノールはゆっくりと息を整え、物語の冒頭を語り始めた。
「今語りしは、世界樹が生み、守りし世界の、悠久の記憶――」
言葉が異界へ染み込むにつれて、彼女の傍らから|世界樹の神話《ユグドラシル・ミソロジー》の淡い光が芽吹いた。
光は小さな幹を形作り、そこから枝葉が伸びていくようにして、青々とした葉を茂らせていった。
やがて掌に乗りそうなほどの小さな世界樹が具現化すると、それを中心として不可視の境界が周囲へと静かに広がっていく。
語られた神話を映した聖域。
その内側にいる限り、外から心を侵す精神攻撃も、魂へ触れる霊的な干渉も、身体や意識を蝕む異常も遮断される。
異界の不気味さそのものが消えたわけではない。
けれど、自分が立つ場所だけは世界樹の物語へ塗り替えられた。
「これなら、多少のことがあっても大丈夫でしょう」
聖域を維持したまま、もっとも近くで揺らぐ一体へ意識を向ける。
「では、あなたの見たものを教えてください」
|交霊の呪法《コンタクト・オブ・インビジブル》が発動し、視界の中を漂う透明な怪物へ働きかけた。
本来ならば、この術を受けたインビジブルは生前の姿と知性を取り戻し、目撃した出来事を協力的かつ正確に語る。
最大で一時間ほど姿を保つこともできる、安定した術だ。
だから今回も、そうなるはずだった。
透明だった輪郭へ、徐々に色が宿っていく。
暗い髪に、白い肌、そして細い手足。
しかし変化の途中で何度も像が乱れ、一度形成された腕が横へずれ、肩と噛み合わない位置へ現れる。僅かな間を置けば元へ戻るものの、また別の部分が揺らいだ。
それでもやがて、どうにか一人の少女として形がまとまっていく。
年齢は十歳ほど。
黒に近い暗色の髪に、丸みを残した卵型の小さな顔。大きな黒い瞳、小さな鼻と口、色白で華奢な体つき。
――もしかして、加奈子さん……?
異界の中で姿を得た十歳ほどの少女。
真っ先に思い浮かんだ名前は、伊藤加奈子だった。
だとしたら、妙なことになる。
予知で伝えられた通りなら、加奈子は今も異界の何処かで政夫を追っているはずだ。
それなのに、加奈子と思われる死者が納戸にもいる。
「あなたは……加奈子さん、ですか?」
警戒を残しつつ、声音だけは穏やかに保つ。
「もし加奈子さんなのでしたら、ここで最近起きたことを教えていただけませんか?」
返事がない。
「……?」
本来なら、それだけで異常だった。
目の前の少女は光をほとんど映さない黒い瞳で、黙ってエレノールを見つめ続けている。
――術は発動しています。それなのに、答えない……?
やがて少女の視線が逸れる。
ゆっくり背を向けて歩き出したかと思えば、数歩先にある棚の前で足を止め、その一角へ細い指を向けた。
「そこを見ろ、ということでしょうか」
正確な説明とは到底呼べない。
ただ、完全に意思疎通が失われているわけでもないらしい。
異常の理由を考えるより、今は示されたものを確かめる方が先だ。
少女の動きを視界へ収めたまま棚へ近づき、扉を開く。
奥に詰め込まれていたのは、何冊ものノートだった。
「これは……」
適当に一冊を抜き取る。
表紙に題名も、名前もない。
最初の頁を開いた瞬間、琥珀色の瞳が僅かに見開かれた。
『わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。』
その下も。
『わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。』
さらに次の行にも、一字一句違わない文章が並んでいる。
『わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。』
一頁を埋め尽くしているのは、それだけだった。
頁を送る。
『わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。』
もう一枚。
『わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。』
さらに捲っても、変わらない。
『わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。
わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。
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わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。
わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。
わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。』
「これは……一体……?」
文字の練習にしては、あまりにも異様だった。
自分の名前を覚えるためなら、延々と同じ文章だけを書き連ねる必要などない。
しかも終わらない。
十頁。
二十頁。
紙を送る指が次第に速くなっていく。
どこまで進んでも。
『わたしは加奈子です。』
同じ。
最初の一頁を最後まで確認すると、今度は棚から別のノートを引き抜いた。
『わたしは加奈子です。』
さらに一冊。
『わたしは加奈子です。』
その隣も。
その奥も。
棚へ詰め込まれた幾冊ものノートが、同じ一文だけで埋め尽くされている。
驚きよりも、じわじわと這い上がってくる不気味さの方が強かった。
不意に背後から、床を踏む音が聞こえた。
こつ。
「――!」
振り向いた先に、少女がいる。
先ほど棚を示していた場所から、いつ移動したのか分からない。
数歩先でこちらを見据える右手には、先ほど棚の脇へ立て掛けられていた黒い鞭が握られていた。
声を掛ける暇もなく、それが勢いよく振り上げられる。
「っ!」
空気を裂いた鞭先が、エレノールの顔へ迫った。
身体を僅かに逸らせば、黒い軌道が鼻先を掠めて棚へ激突する。
乾いた音。
使い方には洗練された技術などなく、狙いも粗い。
ただ、目の前の相手を打つためだけに、力任せに振っている。
――これが、協力的……?
あり得ない。
次の鞭が振るわれるより早く距離を詰めた。
長く実戦を重ねてきた身体が滑らかに相手の懐へ入り、鞭を持つ細い手首を掴む。
「待ってください。わたしは、あなたと戦いに来たわけではありません」
無理に捻り上げることはせず、振りほどかれない程度に留めながら目線を合わせる。
聖域は今も健在だった。
傍らに具現化した小さな世界樹が淡い光を宿しており、その効果は、もはや防御というより確定に近いものへと変質していた。
聖域内で行われるあらゆる認識・干渉・術式を防ぎ、エレノールが起こした行動は意図した結果へと収束する。回避も抵抗も成立せず、すべては必中として成立するのだ。
「このノートは、あなたが書いたんですか?」
少女の顔には怒りも焦りも浮かばない。
黒い瞳だけが、異様なほど静かにこちらを見つめている。
「ここで何があったのか、教えて――」
言葉の途中で、掴んでいた手首の感触が薄れた。
「え……?」
指先をすり抜けたわけではない。
そこにあった身体そのものが崩れている。
手首から前腕、肩、そして顔へと、崩壊は段階的に広がっていった。少女を構成していた輪郭は細かな揺らぎとなり、空間へ溶けるように透明さを取り戻していく。
「待ってください!」
制止の声にも、変化は止まらなかった。
発動してから、まだ僅かな時間しか経っておらず、術式を自分から解除した覚えもない。
それなのに、黒い瞳までが細かなノイズへほどけ、最後には透明な怪物としての輪郭さえ捉えられなくなった。
鞭は消えず、床へ落ちていた。
エレノールはそれを拾い上げ、指先で重さと革の擦れを確かめる。使い込まれた痕跡が濃く、異界が形作っただけの装飾品とは思えない生々しさがあった。
「…………」
姿を取り戻し、こちらの言葉を理解しているような反応も見せ、棚に隠されていた手掛かりまで示した。
しかし質問には答えず、突然襲い掛かってきたかと思えば、その途中で姿を失ってしまった。
どれも、普段この術を使った時の反応とは噛み合わない。
――わたしの術だけが原因ではない。あの子か、この家か……何か別のものが干渉している?
まるで、この異空間自体が横から手を出してきたみたいだ。
この予想が正しいのかは不明だが、通常のインビジブルへ術を使った時とは明らかに違う。
――それに……。
拷問部屋のように歪んだ納戸。
何冊にもわたって強迫的に書き連ねられた『わたしは加奈子です』という文章。
そして、少女自身が手にしていた、使い込まれた黒い鞭。
「どうやら今回の事件も、一筋縄ではいかないようですね……」
重苦しい静寂の中で、エレノールは次の手掛かりを求めて視線を巡らせた。
鉄格子と住宅の廊下を無理矢理継ぎ合わせたような異界を、六人の√能力者がひとかたまりとなって進んでいた。
足元に残るフローリングだけを見れば、ここが元々はごく普通の民家だったことも窺える。
けれど壁紙の途中からは黒ずんだコンクリートが露出し、曲がり角には本来存在しなかったはずの鉄格子が幾重にも食い込んでいた。
間取り図では数歩で抜けられるはずの廊下も異様に引き延ばされており、少し先へ目を向けるだけで遠近感が狂わされる。
「予知と今までの体験談が違うねぇ。その場合、生者か死者――もしくは両方に、今までとは違う何かがあったってことでしょ」
アーシャ・ヴァリアントが、考えを整理するように片手を顎へ添えた。
橙色を帯びた赤い髪の合間から鋭い竜角が伸び、背中には赤褐色の翼、腰の後ろには長い尾が揺れている。
身に纏うのは黒と深紅を基調とした露出の多い戦装束で、両腕を覆う巨大な籠手には赤い宝玉が埋め込まれていた。
少女めいた外見とは裏腹に、敵と正面から殴り合うための身体と装備を隠そうともしない、ドラゴンプロトコルの格闘者である。
「生者の方が、これまでアプリを使った人たちとは違って、実は死者から相当恨まれてたとか。逆に死者の方が、本物じゃなくて別のナニカだったとか。今のところ考えられるのは、その辺じゃない?」
「別の何かなら、負い目のある相手の姿を使って精神的に追い詰めてから、最後は物理で襲ってくる怪異……とかかなぁ」
アーシャの推測を受けて、飴澤・茲も自分なりに可能性を組み立てていく。
濃紺の制帽の下から流れる銀白色の髪は、高い位置でまとめられている。同系色の軍装めいた衣服と長い外套に身を包み、その足元や周囲では、同じような小さな帽子を被った九匹の白い忍獣たちが、異界の気配を窺いながらせわしなく行き来していた。
「政夫さんだけを狙ってるなら、罪悪感を利用して獲物を追い詰めるタイプっていうのもありそう。でも、自分が大切な娘さんに殺されるのは嫌なんだよね? うーん……会いたいだけじゃなくて、何か贖罪したい気持ちもあるのかな」
そこまで考えてみても、どうにも感覚を掴みきれないらしい。
「お父さん心って、そんなもの?」
茲が何気なく投げた疑問に、すぐ答えを返せる者はいなかった。
この場にいる六人のうち五人は女性で、唯一の男性であるクラウス・イーザリーにしても、まだ二十歳。親として子供を持つ立場を実体験から語れる者は、残念ながら一人もいない。
もっとも、そのクラウスは会話へ耳を傾けながらも、注意の多くを周囲の捜索へ割いていた。
色白の端正な顔を黒髪が縁取り、青い瞳は閉じられている。
暗色の戦闘服と大きな外套に身を包んだ傍らでは、眼球を思わせる小型の無人機が一機浮遊している。同型の機体は既に何機も異界の奥へ放たれており、そのセンサーが拾った映像や音を、自らの五感へ接続していた。
――嫌な感じだな……。
一人では決して追えない複数の廊下が、ドローンを介して同時に意識へ流れ込んでくる。
閉ざされた鉄扉の向こう。途中から格子へ変わった壁。何かが引き摺られたような床の傷。誰もいないはずなのに、遠方から時折響いてくる微かな物音。
そこへ仲間たちの推測まで重ねて聞いていると、情報を得るほど安心するどころか、胸の内へ正体の知れない不快感が沈んでいった。
「何だか……嫌な真実が裏にありそうな気がする」
「裏ねえ……」
その言葉を拾ったリリンドラ・ガルガレルドヴァリスが、長い赤髪を揺らしながら視線を向けた。
アーシャと同じドラゴンプロトコルであっても、二人の風貌はかなり異なる。
褐色の肌を持つリリンドラの頭には角ではなく青のリボン。髪の一部にも青紫色の房が混じっている。
緑の瞳の下で身を飾るのは、白を基調とした華やかなドレス。編み上げのコルセットや幾重にも重なるレースの裾は戦場より舞踏会を思わせるほどだが、その可憐な装いの傍らには、本人の身体を遥かに上回る無骨な屠竜大剣が携えられていた。
「そういえば、不幸の手紙とかメールとか……昔から似たような怪異はあったみたいだけれど、今はアプリなのね。時代が変われば、怪異の形も変わるのかしら?」
リリンドラ自身、以前にシセンノマという古い呪いが残された屋敷へ赴いている。
何百年も前に生み出され、代々受け継がれてきた呪術。
その記憶がまだ新しいうちに、今度はスマートフォンへ広告として現れる闇アプリへ遭遇したのだから、同じ怪異に纏わる事件でありながら随分と様変わりしたものだと思わずにはいられない。
「アプリの名前もなんだか意味深よね。『Re:Member』って。普通に『remember』にも読めるし」
「覚えている、思い出す、記憶している……」
複数のドローンへ意識を繋いだまま、クラウスが思い浮かぶ意味を拾っていく。
「政夫さんは名前と写真を入力したんだったね。その二つが単に対象を指定するためだけなのか、それとも、利用者が記憶している情報を元に何かを起こすためなのか……今の段階では、どちらとも言えないかな」
「そこなんだよねぇ」
茲も同じところが引っ掛かっていたらしく、紫色の瞳を細める。
「名前だけでも、写真だけでもなくて、その両方。死者がどこかにいて、その人を探して連れてくるだけなら、なんで二つも必要なんだろうって。入力されたものから、何かを作ってるみたいにも思えない?」
もちろん、対象を間違えないための仕様だと言われれば、それまでかもしれない。
しかし、政夫が予知の中で遭遇した出来事は、噂として聞いていた『Re:Member』の性質から明らかに逸脱している。
当たり前に見える機能でさえ、今は疑ってかかるべきなのだろう。
「Re:Memberではなく、ReFakeな私です」
そんな思考の流れへ、唐突に割って入ったのはリズ・ダブルエックスだった。
短い銀髪の周囲を、白銀と青の装甲が幾重にも取り囲んでいる。
細身の少女という輪郭こそ保っているものの、肩や脚を包む硬質な装甲、背後へ広がる巨大な結晶状の兵装を見れば、人間というより兵器に近い存在であることは一目瞭然だった。
しかし本人の調子だけは、その物々しい外見とはまるで噛み合わない。
「昔の私と今の私は別人格らしいんですが、記憶データは受け継いでいますし、極めて大雑把には同一人物という扱いでも良いんじゃないでしょうか……という適当なスタンスで生きています」
身体、人格、記憶。
どこまでが同じならば、同じ人物と呼べるのか。
ある意味でテセウスの船を自ら体現している|少女人形《レプリノイド》だが、リズ自身はその曖昧さに答えを求め続けることなく、今ここにいる自分として受け入れている。
「しかし、加奈子さん(仮)はどうも、適当に生きるには難しそうな状況ですね」
「仮って付けちゃうんだ……」
茲から苦笑が漏れる一方、その少し後ろでは、小明見・結がいつの間にか歩みを止めていた。
長く真っ直ぐな黒髪と澄んだ青い瞳に、紫色のハイネックと黒いワンピース。異形や兵装を纏う者の多い仲間たちに混じれば、比較的日常へ近い装いをしている。
ただし、閉じられた瞼の奥で練り上げている力まで平凡というわけではない。
「結……だったかしら。何してるの?」
リリンドラから問い掛けられ、しばらく精神を集中させていた結が、ゆっくりと目を開いた。
「忘れようとする力で、この家の異常を無くせないかと思って試してみたんだけど……ダメみたい」
彼女の√能力によって強く引き出された『忘れようとする力』は、人の身体だけを対象とするものではない。
無機物にも作用する力を異界そのものへ向け、この歪んだ姿を家に生じた『異常』として元へ戻せないかと試したのだ。
もし成功すれば、探索は遥かに楽になる。
伸びきった廊下が元へ戻り、鉄格子も消え、普通の住宅としての間取りさえ取り戻せれば、政夫を捜し出すにも家中を調べるにも、それほど時間は掛からない。
けれど、現実は何一つ変わっていなかった。
壁へ食い込んだ鉄格子も、冷たいコンクリートも、歪んだ距離感も、その力を受けた痕跡すら見せず異界として存在し続けている。
「ルートブレイカーで√能力を無効化された時に、少し似てる」
「大人しそうな感じだけど、結構大胆なことするのね……」
「上手くいけば、探索しやすくなると思ったから。それなら政夫さんも早く見つけられるし」
「戦闘のことだけを考えるなら、今のままの方が少し助かります」
リズが、自分の周囲へ浮かぶ決戦気象兵器レインを見上げる。
「普通のお家へ戻った途端に戦闘になってしまうと、レインで壁ごとお隣さんを穴だらけにする可能性がありますから」
「それはそれで別の事件になるわね……」
半ば呆れながら応じたリリンドラも、巨大な屠竜大剣へちらりと視線を落とす。
「私もこれを狭い普通の廊下で振り回すのは嫌だし。今回は集団戦になる可能性もあるんでしょ? 多少広い方が――」
その言葉が最後まで続く前に、クラウスの表情が変わった。
異界の奥へ送り込んだドローンの一機が、これまでとは違う映像を捉えている。
息を荒らしながら廊下を駆け抜ける男の姿があった。
伊藤政夫。その背後には、十歳ほどの少女が間を詰めるようにして、静かに、しかし確かな執念をもって追走していた。
「……見つけた。こっちだ」
閉じていた目を開き、向かうべき方向だけを短く告げる。
先ほどまで考察を交わしていた五人も、その声音から説明を待つ場合ではないと察したのだろう。クラウスが駆け出すのとほぼ同時に足を速め、六人は歪んだ廊下を一気に駆け抜けていった。
●
何度逃げれば、この追跡は終わるのだろう。
政夫の身体には、既にいくつもの傷が刻まれていた。けれど、肩や脚へ残る噛み傷の疼きより、もっと深く彼を追い詰めているものがある。
逃げても、逃げても、加奈子が現れる。
角を幾つ曲がったかも分からない。
見覚えのない部屋へ駆け込んでも、別の階へ逃げたつもりになっても、いつしか背後から小さな足音が聞こえてくる。
もう一度会いたいと、どれほど願ったことか。
その願いが叶ったはずなのに。
今は、最愛の娘から逃げ続けている。
「もうやめてくれ、加奈子! 話をしよう!」
振り返りざまに投げた懇願にも、少女の歩みは緩まなかった。
幼い身体が前へ傾き、そのまま勢いよく床を蹴る。
両腕を広げながら迫る姿だけを見れば、久しぶりに再会した父親へ飛びつこうとしているようにも映ったかもしれない。
けれど、幾度も襲われた政夫は、その仕草の意味を嫌というほど理解していた。
抱き締めるためではない。
首元へ顔を寄せ、歯を突き立てるためだ。
「ひいっ!」
恐怖に顔を歪め、両腕で頭を庇おうとした、その眼前。
青い光が横合いから飛び込んできた。
幾つもの半透明な六角形が瞬時に連結し、結晶質の盾となって父娘の間へ割り込む。飛びかかろうとしていた少女も、突然出現した障害物を前に反射的に動きを止めた。
「そこまでです!」
廊下の奥から響いたリズの声と共に、政夫を守る盾の後方へ複数のレイン兵器が展開される。
続いて駆け込んできた仲間たちの中から、真っ先に政夫へ寄ったのは結だった。
「大丈夫ですか?」
「君たちは……?」
壁へ背を預けるように尻餅をついた政夫の顔には、突然現れた六人への困惑と、ようやく追跡から解放されるかもしれないという安堵が入り混じっていた。
「助けに来ました。私たちが来たからには、もう安心です」
リズの穏やかな声音とは裏腹に、周囲へ浮遊するレイン兵器の砲口は一つたりとも少女から外れていない。
その防御を信じて政夫へ触れた結は、傷そのものへ『忘れようとする力』を働かせ始める。
――思ったよりも、深い傷はないみたい。
衣服の肩口や脚には血が滲んでいるものの、命に関わるほどではない。傷を負った状態そのものが薄れていけば、ほどなく全快するだろう。
一方、青い盾を挟んで向かい合う少女は、√能力者たちが現れてから明らかに様子を変えていた。
黒い瞳をレイン兵器へ向け、身じろぎもせず立ち尽くしている。
先ほどまで政夫へ向けていた執拗な襲撃を、そのまま新たな相手へ切り替える気配はない。かといって、戦意を失って立ち去ろうとする様子も見せなかった。
「問答無用で、目に入った相手を誰でも襲うってわけじゃないみたいね」
アーシャが少女の挙動を観察しながら、何かあれば即座に前へ出られるよう重心を落とす。
「だったら、少しだけ退いてもらいましょう」
リズの意志を受けた一基のレイン砲台が、少女自身ではなく足元へ照準を移した。
次の瞬間、青白い光弾が床へ撃ち込まれ、破砕された床材が乾いた音とともに散る。
直撃はしていない。
身体へ掠りさえしない、明確な威嚇だった。
それにもかかわらず、砲撃が着弾した直後から少女の輪郭は水へ溶ける影のように薄れ始めた。
立っていた場所から駆け去ったわけでもなければ、何かの物陰へ身を隠したわけでもない。
そこに存在していた少女だけが、異界の景色から静かに抜け落ちていく。
誰かが一度瞬きを終える頃には、姿ばかりか気配まで完全に失われていた。
「……退いてくれたみたいだね」
クラウスが僅かに息を吐く。
倒すだけなら、今の六人で戦うという選択もあった。
しかし、あの少女が異界そのものとどう関わっているかも分からない状態で、安易に撃破するのは危険が大きい。
もし少女が異界を維持する中心で、倒した瞬間に現実の伊藤家との差異が一気に消失したら。
変形した部屋の中にいる仲間や、壁や床と重なる位置にいた者へ、どんな影響が及ぶのか予測できない。
事件の真相がほとんど見えていない以上、取り返しのつかない選択だけは避けるべきだった。
「あの子の異常も治療できたらいいのだけど……」
結が、先ほどまで少女のいた場所へ青い瞳を向ける。
「今みたいに敵対してる間は難しいんじゃないかな」
茲から返された指摘に、結も否定はしなかった。
『忘れようとする力』が作用するのは敵以外だ。今の少女がこちらを明確な敵としている以上、政夫と同じように治療することはできない。
「とりあえず、一番急いでた政夫さんの保護はできたわね」
治療を受ける男へ一度視線を向けてから、アーシャが廊下の分岐を見やる。
「なら、このまま予定してた場所を調べましょ。本人も見つかったんだし、聞けることは直接聞いた方が早いでしょ」
「ここから二手に分かれるんだったわね」
リリンドラも頷いた。
六人がこれまでまとまって動いていたのは、政夫の捜索を優先していたことに加え、それぞれが選んだ探索先へ向かう経路が途中まで重なっていたためでもある。
一方の目的地は、政夫自身の部屋。
もう一方は、和室。
本人を救出できた今なら、政夫の部屋を担当する者たちがそのまま保護を引き受けるのが自然だろう。
短い相談の末に、アーシャ、クラウス、結が政夫と共に政夫の部屋へ向かい、リリンドラ、リズ、茲の三人は和室を調べることになった。
別れ際にそれぞれの役割を改めて確認すると、六人は三人ずつ異なる廊下へ足を向ける。
●
政夫の部屋は、異界化した家の中では比較的侵食が浅かった。
扉を開けた先には、まだ『一人の男が暮らしていた寝室』と呼べるだけの原形が残されている。壁の一部には黒ずんだコンクリートが露出し、天井近くを鉄格子めいた構造物が這っているものの、ベッドや机、収納棚といった家具の配置までは大きく崩されていない。
全体として質素で、趣味を強く主張するような装飾も少なかった。だからこそ、机の上へ一体だけ大切そうに飾られた、蜘蛛を意匠に取り入れた古いヒーローのフィギュアが目を引いた。
「アンタのことを助けてあげるから……って交換条件にするつもりはないけど、部屋の捜索と情報提供には協力してほしいの。いい?」
室内へ踏み込む前に、アーシャが政夫へ確認を取る。
調査自体は最初から行う予定だったとはいえ、寝室ともなれば個人の私物が多い。何より、本人を連れて来られた今なら、物だけを調べるより直接問い掛けながら進めた方が早いだろう。
「ああ……構わない」
政夫から返った声には、身体以上に精神を消耗した者特有の弱々しさが滲んでいた。
結の治療によって傷こそほとんど塞がっている。それでも、死んだはずの娘から家中を追い回された恐怖まで、同じように消えたわけではない。
「ありがと。それじゃあ早速なんだけど――」
遠回しに探るより先に核心へ触れる方を選び、アーシャは政夫の顔を正面から見据えた。
「何か、娘さんに恨まれるような心当たりはある?」
問いを受けた瞬間、政夫の表情が強張った。
すぐには答えが返ってこない。
視線が床へ落ち、何かを堪えるように唇が震える。やがて喉の奥から絞り出された声は、質問への返答というより、ずっと繰り返してきた自責そのものだった。
「……俺のせいなんだ」
「何が?」
「加奈子が死んだのは……俺のせいなんだ……」
予想していた以上に重い言葉へ、アーシャも続けざまに問い詰めようとはしなかった。
代わって一歩前へ出たクラウスが、追い詰めない程度の穏やかな声音を向ける。
「それは、どういう意味ですか?」
「病気だったんだ。突然の……急な病気で」
話し始めた政夫の呼吸が、徐々に浅くなっていく。
「あの日、俺は仕事だった……帰る直前で急な対応が入って、残業で遅くなって……家へ戻った時には、もう……」
言葉が詰まる。
「加奈子は、一人で死んでた」
「それは政夫さんのせいじゃないわ」
結の口から、ほとんど反射的に言葉が零れた。
少なくとも、今聞いた話だけなら政夫が意図して娘を放置したわけではない。突然の急病だったのなら、仕事へ出た父親が事前に予測できたとも思えず、残業していたことまで責任に結びつけるのは酷というものだ。
けれど、政夫には届かなかった。
「だが、俺がその場にいれば!」
唐突に張り上げられた声が、狭い部屋へ反響する。
結へ怒鳴ったわけではない。向けられているのは、自分自身だった。
「もっと早く帰っていれば、加奈子が苦しんでることに気付けた! すぐ病院に連れていけたかもしれない! そうしたら、助かったかもしれないんだ!」
それが医学的に正しいのかは、今となっては誰にも分からない。政夫自身にも分かっていないのだろう。
けれど、『もし自分がいたなら』という可能性だけが、ずっと消えずに残っている。
「辛かったよな……怖かったよな……」
怒鳴るほどだった声音が、不意に萎んだ。
「一人にして、ごめんな……加奈子……ごめんな……」
膝から力が抜けるように、その場へ崩れ落ちる。
両手で顔を覆うことさえせず、頬を伝った涙が次々と床へ落ちていった。
クラウスは、その様子を静かに見つめていた。
――恨む可能性がない……とまでは、言い切れないな。
彼が生まれ育った√戦闘機械群では、死は決して遠い出来事ではない。
理不尽な形で命を落とした者も、その死を目の前で見せつけられた者も、数え切れないほどいる。そんな場所で生きてきたからこそ、死を前にした感情が必ずしも綺麗に整理されるわけではないことも知っていた。
自分は死んだのに父親は生きていて、何より苦しい時に傍にいてくれなかった。もし、そんな感情が死後も残っていたのなら、責任の有無とは関係なく政夫へ怒りを向けることはあり得る。
たとえ理屈の上では八つ当たりだったとしても、失ったものが自分自身の命である以上、単純な善悪だけで切り捨てていいとも思えなかった。
「事情は分かったわ」
沈みかけた空気を断ち切るように、アーシャが部屋へ視線を戻す。
「でも、今聞いた話だけで全部決めるのは早いでしょ。他に何かないか調べましょう」
「そうだね」
クラウスも頷き、机や棚へ向かった。
政夫本人から許可も得ている。手掛かりになりそうなものを一つずつ確認しながら引き出しを開けていくと、文房具や仕事関係の書類に混じって、奥へ押し込まれた写真が数枚見つかった。
「これは……?」
一番上にあった写真には、一組の男女が写っている。
並んで歩くだけなら友人同士とも取れるが、肩が触れ合うほど近い距離や互いへ向ける表情を見る限り、そうした関係には見えなかった。
クラウスから写真を示された政夫は、一目見るなり苦々しそうに目を伏せる。
「離婚した元妻と、浮気相手だ。昔、探偵に調べてもらった時の証拠だよ」
重ねられた残りの写真にも、同じ二人が写っていた。
中には先ほどの一枚より関係を誤魔化しようのないものまで含まれている。少なくとも、政夫が妻の不貞を疑った根拠としては十分だった。
「その頃から、上手くいってなかったんですか?」
クラウスの問い掛けに、政夫は僅かに考え込んでから、机の上へ飾られたフィギュアへ視線を移した。
「俺は……ちゃんとやってるつもりだったんだ」
蜘蛛を意匠にしたヒーローを見つめる目に、遠い過去を懐かしむ色が宿る。
「そいつは俺が子供の頃から好きだったヒーローでな。何があっても大切な人を守る。俺もそんな大人になりたいって思ってた」
理想通りになれたのかは分からない。それでも結婚し、子供が生まれてからは、自分なりに家族を守るため働いてきたつもりだった。
「仕事も頑張った。休みの日は、なるべく家族と出掛けたりもした。でも……妻から見れば、俺はただのつまらない仕事人間だったみたいでな」
少しずつ夫婦の会話が減り、気付けば妻には別の男がいた。自分に何が足りなかったのか、当時はそればかり考えていたという。
「すみません。込み入ったことまで聞いてしまって」
クラウスが僅かに眉を下げる。
「いや……いいんだ」
政夫は小さく首を振った。
「それでも、加奈子だけは俺の側にいてくれたから」
妻に裏切られた後も、娘だけは離れなかった。
「離婚する時も、俺と元妻、どっちについていきたいかって話になって……加奈子は迷わず俺を選んでくれた」
その一言を口にする時だけ、政夫の顔へ僅かな温かさが戻った。
当時の彼にとって娘がどれほど大きな支えだったのか、言葉以上にはっきりと伝わってくる。
「だから、今度こそ何があっても守ろうって思ってた。加奈子だけは……俺が絶対に守るって……」
そこで過去を語っていた声音が途切れる。
「そう……思ってたんだ……」
最後だけが、酷く弱々しい。
クラウスはそれ以上踏み込まず、手元の写真を机へ戻した。
少なくとも離婚へ至った事情は把握できた。
元妻の不貞が今回の事件へ直接関わっている可能性も今のところ見えない。ならば、これ以上私生活を暴く必要は薄いだろう。
その写真へ、横から伸びた褐色の指先が触れた。
アーシャだった。
――この男の話を、全員でそのまま信じ込む必要はないわね。
結が政夫へ同情しているのは明らかだった。
クラウスも慎重ではあるが、人の痛みを放っておける性格ではない。
だからこそ、自分まで同じ方向へ流されるべきではない。
政夫が本当に悲しんでいることと、彼の語った内容が全て真実であることは別問題なのだから。
写真へ触れた指先から、|竜姫共鳴術《ドラゴニック・シンパシー》が過去へと繋がる。
物に刻まれたかつての所有者の記憶と交渉し、そこから情報を引き出す能力。
もっとも今回は、交渉らしい抵抗すらなかった。
そもそも現在の所有者である政夫自身から、部屋の調査を許可されている。写真へ残された記憶も、アーシャからの問いを拒むことなく、その来歴を明かしていった。
――所有者は政夫。探偵へ依頼したのも本人で、写真を受け取って妻の浮気を知り、その後に離婚した。
記憶の中から得られる情報は、先ほど政夫自身が語った内容と食い違っていない。
少なくとも、この件について作り話をしているわけではなさそうだ。目の前にいる男が政夫を名乗る偽物で、写真に写る男の方が本物の政夫だった――なんて落ちでもないらしい。
「加奈子さんのこと、本当に大切に思っていたんですね」
結の言葉へ、政夫はゆっくりと頷いた。
娘からどれほど恨まれていたとしても、加奈子を愛していたことだけは嘘ではない――少なくとも、今の政夫の表情はそう思わせるものだった。けれど、
「それじゃあ、おかしくない?」
静まりかけていた室内へ落ちたアーシャの声には、それまで政夫の身の上を聞いていた時とは明らかに異なる、鋭い疑念が滲んでいた。
「何がだい?」
問い返したクラウスへすぐ答えることはせず、アーシャは赤い瞳をゆっくりと室内へ巡らせていく。
机の上には、政夫が子供の頃から大切にしてきたというヒーローのフィギュア。引き出しの奥には元妻の不貞を示す写真が残り、仕事関係の書類や日用品にも、この男が長くここで暮らしていた痕跡がある。
にもかかわらず、先ほどから三人で探している中で、一度として目にしていないものがあった。
「娘さんの写真よ。一枚もないじゃない」
「……え?」
今度はクラウスではなく、政夫の口から呆けたような声が漏れた。
何を指摘されたのか理解できていないらしく、しばらくアーシャを見つめたまま固まっている。
「さっきから手掛かりになりそうな物を探してるけど、出てきた写真は元妻のものだけ。アンタの話が本当なら、加奈子さんは離婚してからずっと一緒に暮らしてきた、たった一人の家族なんでしょ?」
アーシャは責めるような語調にはせず、それでも誤魔化しを許さない声音で続けた。
「それだけ大切だった娘の写真も、アルバムも、この部屋には一つもない。変じゃない?」
「そんなはずは……」
否定の言葉とは裏腹に、政夫の顔から見る間に血の気が引いていった。
「そんなはずない。俺は……」
何かを確かめずにはいられなくなったように棚へ歩み寄ると、先ほどクラウスが調べたばかりの引き出しを自ら開き、奥まで腕を差し入れる。
そこにないと分かれば隣へ、さらにその下へ。
収納箱を引きずり出し、中身を床へ広げていくうち、当初はまだ残っていたはずの落ち着きが急速に失われていった。
「ない……」
掠れた呟きが、乱雑に散らされた私物の上へ落ちる。
「加奈子の写真が……ない」
それでも、紙の写真をどこか別の場所へしまっただけだと思いたかったのだろう。
政夫は今度はデスクへ向かい、パソコンの電源を入れる。起動を待つ僅かな時間さえ惜しむように指先を震わせ、画面が表示されるとすぐ画像フォルダを開いた。
年月ごとに整理されたデータから古いバックアップ、普段はまず確認しないような保存先まで、思い当たる場所を片端から探していくものの、そこにも娘の姿は見つからない。
「なんでだ……?」
画面を睨みつける政夫の声に、先ほど娘の死を語っていた時とは異なる恐怖が混ざる。
「俺は消してない。写真だってもっとあった。アルバムも……俺は、一枚も処分なんてしてないぞ……!」
その狼狽ぶりを見る限り、少なくとも政夫自身は、写真が存在しないことを今初めて知ったかのようだった。
クラウスは政夫の言葉を遮らず、彼が一通り探し終えるのを待ってから、現時点で確かめられる事実へ話を戻した。
「スマホには、娘さんの写真が残っていたんですよね?」
「ああ。あった」
その問いだけには迷いなく頷く。
「その写真を選んで『Re:Member』を実行したんだ。間違いない。逃げ回ってるうちにスマホを落として、今は手元にないけど……」
「だとすると、少なくともアプリを使う直前までは写真が存在していたことになりますね」
クラウスは確認するように言葉を選びながら、空になった引き出しからパソコンへ視線を移した。
紙の写真にも、パソコンに保存されたデータにも加奈子の姿はない。それなのに、『Re:Member』を実行する直前までスマートフォンには写真が残っていた。
政夫の言葉どおり本人が処分していないのなら、娘の写真だけがこれほど選択的に消えていることには、何らかの理由があるはずだった。
「誰かが、この家から加奈子さんの写真だけを消した……?」
結が不安げに呟いた。
異界化によって、伊藤家は元の姿を大きく失っている。壁や廊下をここまで変えられる何者かが存在するのなら、写真だけを消すこと自体は不可能ではないのかもしれない。
だが、その仮説を採用したところで、すぐ次の疑問にぶつかる。
「可能性としてはあると思う。でも――もし誰かが意図的に消したのなら、どうして加奈子さんの写真だけなんだろう」
クラウスが静かに付け加える。
「元妻のものも、政夫さん自身の昔の物も残っている。それなのに、娘さんだけがいない。偶然じゃないなら、そこには何か理由があるはずだよ」
結も返す言葉を失い、室内へ視線を巡らせた。
そこにあるのは何処にでもありそうな男の部屋なのに、その男が心の支えにしていた娘だけが、記録の上から不自然なほど綺麗に抜け落ちている。
そんな中、アーシャの視線が机上のヒーローフィギュアへ吸い寄せられた。
政夫が幼い頃から憧れ、自分も家族を守れる大人になりたいと語るきっかけになった品。
もし先ほど聞いた父娘の関係が本物であったなら、長くこの部屋に置かれていたそれには、加奈子自身に関わる記憶が残されている可能性がある。
「ねえ、政夫さん。このフィギュア、加奈子さんも触ったことある?」
「ああ……何度もあるよ。俺が大事にしてるのを知ってたから、勝手に持ち出したりはしなかったけどな」
「なら、もう一つだけ確認させてもらうわ」
了承を得た上でアーシャがフィギュアへ指先を触れさせると、|竜姫共鳴術《ドラゴニック・シンパシー》によって、物へ刻まれた過去との接触を試みる。
先ほど浮気の写真から確かめたのは、政夫の証言そのものが事実なのかどうかだった。
今度は違う。
知りたいのは、伊藤加奈子がこの品へ触れた時の記憶。
政夫が一方的に「娘から愛されていた」と信じているだけなのか。それとも、本当に加奈子の側にも父親を慕う気持ちがあったのか。
記憶へ問い掛けてから間もなく、男は温かな情景を語った。
小さな手が、机の上にあるヒーローを壊さないよう慎重に持ち上げる。
『パパの大事なヒーローだもん。わたしも好き』
弾むような声音。
そのままフィギュアを眺めていた少女が、何かを思いついたように父親の方へ顔を向ける。
『けどね――わたしのヒーローはパパだよ』
その想い出を、政夫の記憶は嬉しそうに語った。
アーシャはすぐには指を離さなかった。
今のものが、このフィギュアに刻まれた過去である以上、政夫が都合よく作り上げた思い出ではない。少なくとも、生前の加奈子が心から父親を慕っていたことだけは疑いようがなかった。
――だったら、本当に死んだ後の逆恨みだけ?
記憶との接触を終えながら、アーシャは改めてこれまでの情報を繋ぎ直していく。
加奈子は突然の病で亡くなり、その夜、政夫は仕事のため傍にいなかった。死の間際に味わった孤独や恐怖が父親への憎しみに変わったのだとすれば、理不尽な感情だとしても筋は通らなくもない。
けれど、そう考えた途端に別の情報が邪魔をする。
――じゃあ、写真が消えたのは何?
少なくとも、死後の恨みだけを理由にしても、写真だけが消えたことまでは説明できない。
さらに、これまで『Re:Member』を使った者には起きなかったという異界化まで、今回だけ発生した理由も分からないままだ。
政夫の証言と一致する事実が少しずつ見つかるほど、むしろ単純な『父親を恨んだ娘』という図式だけでは説明できない部分が増えていく。
――まだ、何か隠れてる。
今まで見つけた手掛かりだけでは説明できない何かが、この家のどこかに残されている。それが何なのかを判断するには、まだ材料が足りない。
「加奈子さんのことを、本当に大切に想っていたんですね」
アーシャから能力で得た内容を聞いた結が、政夫へ静かに声を掛けた。
先ほどまで必死に写真を探していた政夫も、その言葉を受けると力なく頷く。
「ああ……何よりも大切だった。今だって……」
その先を続けようとして、口を噤む。
今、家のどこかにいる娘は自分を殺そうとしている。
けれど、それでも会いたくないとは言えないのだろう。
「亡くなった子供に会いたいと思うのは、きっと当然のこと……」
結の声音には、単なる同情以上のものが含まれていた。
「できれば、その願いは叶えさせてあげたい。もちろん、今みたいに襲われるんじゃなくて、何の危険もない状態で」
結自身にも、どうしても会いたいと願い、今も探し続けている人がいる。
死別した親子と同じではない。
それでも、一度失ってしまった大切な誰かを、もう一度だけでもこの目で見たいという願いならば、全く理解できないものではなかった。
「そうだね。俺も、できるならそうしたいと思う」
クラウスも同じ考えを示しながら、ただし事件への警戒までは緩めなかった。
「そのためにも、今のまま再会させるわけにはいかない。何が起きているのかを先に突き止めないと」
「……ありがとう」
政夫の口から零れた言葉は、何とか声にしただけで崩れてしまいそうなほど弱かった。
結とクラウスの善意に救われたのか、それとも、もう一度だけ娘と話せる可能性へ縋ったのか。おそらく、その両方が入り混じっていたのだろう。
「ほんっとうに厄介だわ、この事件……」
対照的に、アーシャは頭の中へ増え続ける疑問へ苛立ったように、大きく息を吐いた。
政夫を救出し、本人から事情を聞くことはできた。元妻との離婚については能力で証言の裏付けが取れ、フィギュアに残された記憶から、生前の加奈子が父親を心から慕っていたことも確かめられた。
さらに政夫の話によれば、加奈子は突然の病で亡くなり、その夜に彼は仕事で家を空けていたという。
普通なら、情報が増えるにつれて事件の輪郭は少しずつ明瞭になっていく。
ところが今回は正反対だった。
政夫の証言と噛み合う事実が見つかるほど、加奈子が豹変した理由は不明瞭になる。そこへ、家中から娘の写真だけが消失しているという新たな異常まで加わった。
手にしたのは答えではなく、今まで存在すら知らなかった大きな空白だった。
「けど、やるしかないでしょ」
苛立ちはあっても、投げ出すという選択肢は最初からない。
少なくとも今の時点で、目の前にいる政夫を単なる被害者だと決めつける気もなければ、反対に怪異となった加奈子だけを悪者として片付けるつもりもなかった。
事件へ関わる前ならば、危険な怪異を倒して異界を消せば終わり――そう割り切る余地もあったかもしれない。
けれど今は、政夫の言葉を聞き、父娘の過去にも触れたうえで、そのどちらとも噛み合わない異常がこの家の中に隠されていると知ってしまった。
ならば、それが何なのかを突き止めるまで、ただ敵だけを倒して帰る気はない。
厄介なら厄介なほど、最後まで付き合ってやる――そんな覚悟が、アーシャの胸の内で静かに燃えていた。
●
政夫の部屋へ向かった三人と別れ、リリンドラ、リズ、茲の一行は、異様に引き延ばされた廊下をさらに奥へ進んでいた。
地図に記された距離だけなら、目的の和室まではそれほど遠くない。ところが実際の廊下は、住宅の間取りを嘲笑うかのように幾度も折れ曲がり、ときには左右の壁から迫り出した鉄格子の隙間を縫うように進まなければならなかった。
ようやく辿り着いた先には、金属質の壁へ半ば呑み込まれながらも、辛うじて元が襖だったと分かる扉が残されている。
「多分、ここよね……」
リリンドラが手元の間取りと目の前の扉を見比べた後、何とも言えない表情で来た道を振り返った。
「なんか、向こうの方がド本命って感じになったけど」
政夫本人を保護した以上、自室を調べる三人なら、直接話を聞きながら私物を確認できる。事件の中心人物と行動を共にするという意味でも、そちらの方が重要な情報へ辿り着きそうに感じられるのは仕方がなかった。
「まー、政夫さんを見つけちゃったからね。そこはしょうがないよ」
茲も同じことを考えていたらしく苦笑したものの、すぐに気を取り直して胸を張る。
「でも、こっちはこっちでちゃんとお仕事! 手分けしてる意味がなくなっちゃうしね」
「はい。むしろ和室という個性の薄い場所こそ、案外大きな手掛かりが隠されているかもしれないと考え、大穴狙いで参りました」
妙に自信ありげなリズの発言へ、リリンドラが半眼を向ける。
「しっかり調べるのは賛成だけど、その言い方だと完全に博打じゃない。……まあいいわ、開けるわよ」
気を取り直し、襖の名残を留めた取っ手へ手を掛ける。
金属同士を擦り合わせたような重い音を立てながら扉が横へずれていき、三人の前へ和室の内部が姿を現した。
「うわ……っ」
真っ先に中を覗いたリリンドラの口から、警戒より先に素直な驚きが漏れる。
「っていうか……ここ、本当に和室?」
床には確かに畳が敷かれ、押し入れも残っている。壁の一部には木目が見え、部屋の隅には本来なら座布団や日用品を収めていたのだろう家具も確認できた。
それでも、目の前の光景を「和室」と呼ぶには無理があった。
部屋の中央で異様な存在感を放っているのは、いくつもの木々を積み上げて作ったような高い台。その真上からは太い縄が一本垂れ下がり、先端には人の首を通すことを想起させる輪が作られている。
牢獄めいた意匠が混じるだけだった他の廊下とは異なり、この場所には明確な用途を感じさせる悪意があり、寒々しい処刑場と形容するのが最も近かった。
「いや……でも、ちょっと待って」
茲も思わず声音を低くしていたが、恐怖に引きずられるより先に、目の前の異様な構造そのものへ注意を向ける。
「よく見たら、あの台の一部ってちゃぶ台じゃない? 支えになってるのも……椅子かな」
指摘されて改めて観察すれば、完全に未知の設備が生み出されたわけではないことが分かる。
ちゃぶ台の脚や天板が不自然な形で引き延ばされ、別の家具と接合されている。木製の椅子らしき部品も、あたかも最初から処刑台を構成するために作られたかのように組み込まれていた。
「家にあった物そのものが、異界の中で意味まで捻じ曲げられてる……ってところかしら」
リリンドラが眉を寄せる。
家族が食卓を囲むためのちゃぶ台や、腰を下ろして寛ぐための椅子。そんな日常を象徴する品々が、死を連想させる設備へ組み替えられている。その事実は、最初から処刑台が存在するよりも却って不気味だった。
「…………しくじりました。ありません」
そんな中、室内を隅々まで見回していたリズから、唐突に落胆の声が漏れた。
「何が?」
リリンドラが視線だけを向けると、リズはさも重大な見落としをしたかのように真顔で答える。
「仏壇です。和室といえば仏壇、仏壇といえば遺影。亡くなった加奈子さんについて調べるならば、かなり有力な手掛かりになると考えていたのですが……」
もう一度、青い瞳が部屋の端から端まで動く。
「肝心の仏壇そのものがありません」
「あー、それは私も思ってたんだよね」
茲も頷きながら、足元へまとわりつく忍獣を避けて室内へ踏み込んだ。
「和室だから絶対に仏壇があるってわけじゃないけどさ。娘さんを亡くしてる家だし、供養してる物が残ってたら手掛かりになるかなーって」
「ないものを眺めてても仕方ないわ。見つからないなら、まず他を調べましょ」
リリンドラがそう促したことで、三人も本格的な探索へ意識を切り替える。
「それじゃあ――忍獣ちゃんたち、出動!」
茲の掛け声が響くや否や、それまで彼女の周囲で待機していた九匹の白い忍獣たちが一斉に散開した。
小さな身体が家具の下へ滑り込み、戸棚の隙間から中を覗き込む。二匹ほどは早くも押し入れの前へ集まり、互いに顔を見合わせた後、戸を開けて暗がりの奥へと潜り込んでいった。
その様子を眺めていたリズも、負けじと周囲へ展開するレイン兵器へ意識を向ける。
「それでは私も、決戦気象兵器に秘められた力を解放しましょう」
「あら、まだ何か隠し玉があるのね」
「はい。決戦気象兵器には大きな秘密が眠っています。世界に介入する意味とは何か。レインシステムとは、そもそも何なのか……!」
妙に壮大な前振りとともに、リズの周囲へ浮かぶ結晶状の砲台から青白い輝きが溢れ始めた。
|創世の大気《レインシステム・ヘブンズコード》。レイン兵器に宿る精霊の力を通じて、周囲の世界へ働きかける現象が展開されていく。
淡い光が処刑場じみた和室へ広がり、三人の髪や衣服を青く照らし出す。今にも何かが起こりそうな、大仰な現象だった。
しかし、数秒、さらに十数秒と待ってみても、異界に目立った変化は訪れない。
垂れ下がった縄が消えることもなければ、隠された扉が現れるわけでもない。やがて青い輝きさえ何事もなかったかのように収束してしまい、残ったのは元通りの寒々しい和室だけだった。
「……何も起きませんね?」
術者であるリズ本人が一番不思議そうな顔をして、近くへ浮かぶレイン砲台を指先で軽く叩く。
「ちなみに、それってどういう仕組みなの?」
茲から当然とも言える疑問を向けられ、リズは少しも臆することなく堂々と胸を張った。
「なんやかんやで、誰にも害を与えず、いい感じのことが起こります」
「大きな秘密はどこにいったのよ!?」
リリンドラの突っ込みが、妙に音の響く和室を駆け抜けた。
理屈としては、レイン兵器に宿る精霊がその場へ働きかける能力なのだが、肝心のリズ本人が細かな原理まで理解しているかとなると、かなり怪しい。
少し離れた戸棚の前では、一連のやり取りを聞いていた忍獣の一匹が小さな両腕を広げ、呆れたように首を左右へ振っていた。
「こら、そこ! 味方を煽らないの! ちゃんとお仕事しなさい!」
茲に見咎められた途端、その忍獣は何食わぬ顔で身を翻し、ぴゅーっと家具の裏へ駆け込んでいく。
「むぅ……」
期待していた仏壇は見当たらず、頼みの能力も目に見える成果を出さない。
不満を隠そうともせずリズの頬が僅かに膨らむと、リリンドラは苦笑しながら、その肩を軽く叩いた。
「試してみたこと自体が無駄ってわけじゃないわ。誰にも害を与えずに、こっちに都合の良いことが起きる能力なんでしょ?」
「概ね、そういう理解で合っています」
「だったら逆に、何も起きなかったことにも意味があるかもしれないじゃない」
リズが小さく首を傾げる。
「つまり?」
「例えば――ここにある何かを見つけることが、誰かに害を与える結果へ繋がるとか」
「あ」
青い瞳が僅かに輝く。
「発想の転換ですね。コロンブス的です」
「そういうこと。だから拗ねないで、手を動かす!」
話を切り上げ、三人は改めて探索を再開した。
処刑台を思わせる異様な設備が中央を占拠しているというのに、その周囲を九匹の忍獣が縦横無尽に走り回り、時折リズの冗談とも本気ともつかない言葉へリリンドラが突っ込みを返している。
場違いなほど賑やかな光景ではあったが、異界の不気味さへ全員が呑まれて身動きを鈍らせるより、これくらいの空気を保てている方が調査には都合がいいとリリンドラは思った。
茲は忍獣たちへ細かな捜索を任せきりにせず、自分でも畳の上をゆっくり歩きながら、足裏へ伝わる僅かな高低差や感触の違いを確かめていく。床下へ何かを隠した形跡があれば、こうした地道な確認から見つかることもある。
一方のリリンドラも、部屋に存在する物をただ順番に調べるだけでは終わらせなかった。
――見えてるものだけ追いかけてたら、見落とすかもしれないわね。
自身の認識を幾つもの可能性へ開いていく|正義覚醒《アクノシュウマク》によって、異なる視点からこの部屋を見たなら何処に違和感を覚えるのか、その情報を重ね合わせていく。
押し入れや畳、処刑台へ変じた家具、壁際へ並ぶ収納棚へと順番に意識を向けていくうち、単独では何の変哲もないはずの光景に、小さな引っ掛かりが浮かび上がった。
「……んー」
収納棚の前を行き来してから、リリンドラが一つだけ離れた場所に置かれている家具の前で足を止める。
「ここ、とか!」
「何かあった?」
寄ってきた茲へ答える代わりに、リリンドラは周囲へ並ぶ他の棚を指で示した。
「ほら、あっち。ほとんど全部、壁に沿って横並びになってるでしょ。それにキャスターまで付いてる」
「ほんとだ」
「必要なら動かせるように揃えてたみたいね。なのに、これだけ列から外れて一個だけ独立してる」
言われてみれば、確かに不自然だった。
同じ用途と思われる収納家具の中で、それだけが部屋の角へ中途半端な形で置かれている。
「私の勘が、ここだって囁いてるのよね」
期待を込めたリリンドラが棚へ手を掛けると、底に取り付けられていたキャスターが小さく軋み、畳の上を滑るように家具が横へ退いていく。
隠し扉や床下収納、あるいは異界に関わる何かが姿を現すのではないかと、茲とリズも自然とその手元へ注目していたものの、棚の裏から現れたのは何の変哲もない畳だけだった。
「あれ?」
念のためリリンドラが腰を落として確かめてみても、床板が外れそうな継ぎ目も、何かを隠した蓋も見当たらない。
「私の勘、ここだって言ってたんだけどなぁ……外れたかー」
期待が大きかった分だけ肩を落としかけた、その傍らでリズが声を上げた。
「待ってください。何かあります」
リリンドラがもう一度畳へ目を向ける。
「何かって?」
「ここです」
指し示された場所をよく見れば、棚の下になっていた畳には、周囲とは僅かに異なる四角い痕跡が残されていた。
畳の表面が浅く沈み、何かの底面を押し当てたような輪郭が残っている。
「この棚を置いてた跡……かな?」
茲が覗き込む。つい先ほどまで実際にこの場所には棚が置かれていたのだから、まずそう考えるのが自然だった。
ところが、リズはすぐに同意しなかった。
「その可能性もありますが、確認してみましょう」
四角い痕跡と移動させた棚とをしばらく見比べた後、何かを思いついたらしく茲へ顔を向ける。
「茲さん。忍獣さんを何匹か、お借りしてもいいですか?」
「忍獣ちゃんを? いいけど……何するの?」
「測ります」
あまりにも簡潔な返答に首を傾げながらも、茲が近くを捜索していた忍獣たちへ手招きした。
「おーい、何匹か集合ー!」
呼ばれた白い忍獣たちが、濃紺の小さな帽子を揺らしながら、ぱたぱたと主人のもとへ戻ってくる。
リズはそのうち数匹へ身振りを交えて位置を示し、まず横へ移動させた棚の前へ一列に並ばせた。
「はい。できるだけ隙間なくお願いします」
忍獣たちは言われた通り肩を寄せ合い、棚の端から順に横一列を作っていく。
「一、二、三……」
リズがその並びをじっくり確認した後、今度は同じ忍獣たちを畳へ残った四角い痕跡の前へ移動させる。
先ほどと同じように端から並べていくと、棚の横幅を測った時よりも、最後の一匹がおよそ身体の四分の一ほど外へはみ出した。
「……やはり」
その差を見逃さず、リズが満足げに頷いた。
「忍獣さん四分の一匹分、こちらの跡の方が小さいです」
「忍獣ちゃんを単位にした!?」
予想外の測定方法に茲が思わず声を上げる。
「ちゃんと比較できていますので問題ありません」
「いや、間違ってはいないんだけど!」
二人のやり取りを横で聞いていたリリンドラも呆れ半分に笑いかけたものの、そこでリズの言葉の意味に気付いて表情を改めた。
「ちょっと待って。跡の方が小さいってことは……この棚が作った跡じゃない?」
「はい」
「元々ここには、別の何かがあった……」
茲も四角い痕跡を見下ろす。
「それをどこかへ移した後で、代わりにこの棚を持ってきたってことね」
「その可能性が高そうです」
リズが頷くと、リリンドラの表情にも先ほどまでの落胆は残っていなかった。
「やっぱり私の勘、外れてなかったじゃない!」
「そして違いを発見したのは私です」
「はいはい、二人ともお手柄ね」
少し得意げに胸を張る二人を宥めるように茲が笑った、その直後、服の裾へくいくいと小さな感触が伝わった。
「ん?」
足元へ目を向けると、先ほど押し入れの奥へ潜り込んでいった忍獣の一匹が戻ってきており、短い腕で何度も茲を引っ張っている。
「どうしたの? 何か見つけた?」
問い掛けると、忍獣は押し入れの方へ身体を向け、今度はそちらを指しながら、早く来いとでも言うようにぴょんぴょん跳ね始めた。
「……こっちにも何かあるみたい。二人とも、ちょっと手伝って!」
忍獣に導かれて三人が押し入れへ集まり、手前を塞いでいた荷物を順に外へ運び出していく。
布団や季節物を収めた箱、使われていない生活用品が幾重にも積まれており、奥へ進むほど隙間は狭くなっていた。普段から物を出し入れしていた形跡は乏しく、何かを隠すつもりなら、これほど都合のいい場所もない。
案内役の忍獣は荷物の隙間を器用に抜け、押し入れの最奥付近で立ち止まっている。
「まだ奥なんだね」
茲が身体を屈め、前を塞ぐ箱をずらしたところで、伸ばした指先へ硬い木の感触が触れた。
「……何かある」
リリンドラにも手を借りながら周囲の荷物を退けていくにつれ、暗がりの奥から黒褐色の木材が少しずつ露わになっていく。
箱というには装飾があり、家具というには不自然なほど奥深くへ押し込まれている。周囲の荷物をさらに退け、正面の観音開きの扉まで露わになったところで、三人ともその正体を理解した。
「仏壇あった!」
茲の声が、押し入れの奥から和室へ弾むように響く。
「本当に隠してあったのね……」
「わたしの予想も正解でした。発見したのは忍獣さんですが」
「そこは素直に忍獣ちゃんを褒めようよ!」
三人で周囲の荷物を完全に退かし、小型の仏壇を慎重に押し入れから運び出す。
その姿を見たリリンドラの視線は、自然と先ほど棚を動かした場所へ戻っていた。
「ねえ。これ……あそこに置いてみない?」
仏壇を四角い痕跡の上へ運び、底面が傷まないよう静かに畳へ下ろしていく。
先ほど忍獣を使って測った時には、現在の棚より四分の一匹分だけ小さかった痕跡へ仏壇を合わせてみると、その横幅と奥行きは畳へ刻まれた凹みに綺麗に収まった。
四角く残された輪郭も、仏壇の底面とほとんどずれがない。
「……ぴったりだ」
先ほどまでの軽い調子を失い、茲が小さく呟く。
ここまで一致すれば偶然とは考えにくい。元々この場所に置かれていた仏壇を誰かが押し入れの最奥へ移し、大量の荷物で覆い隠した。その後、空いた場所へ大きさの異なる棚を置いたのだろう。
「単なる模様替えじゃないわよね」
リリンドラが押し入れの奥と仏壇とを交互に見比べながら、眉を寄せる。
「移すだけなら、こんな奥まで押し込む必要なんてないもの。しかも代わりの棚まで置いてる」
「普段は目に入らないようにして、仏壇の存在そのものを意識しないで済むようにしたかった……という感じでしょうか」
リズの言葉へ、誰もすぐには答えなかった。
娘を亡くしてからその死を引きずり続け、ついには死者と再会できるという闇アプリへ藁にも縋る思いで手を伸ばした政夫。その家で、故人を供養するための仏壇だけが、人目につかない場所へ念入りに隠されていた。
何の理由もないとは考えにくい。
「……中も確認してみよう」
茲の提案を受け、三人は改めて仏壇の前へ集まった。
たとえ隠されていた物だとしても、故人を供養するための品であることに変わりはない。リリンドラが乱暴にならないよう慎重に観音扉へ手を掛け、ゆっくりと左右へ開いていく。
そして、内部へ目を向けた途端。
「……ねえ、二人とも」
それまでより幾分低くなった声音に、茲とリズも異変を察して仏壇へ視線を向ける。
リリンドラが黙って指し示した、その奥には――
異界化した伊藤家の廊下を進みながら、エアリィ・ウィンディアは、これまでに聞いた事件の内容を思い返して眉尻を下げていた。
鮮やかな青色の髪は肩の辺りで柔らかく跳ね、大きな緑の瞳には普段の好奇心に満ちた明るさよりも、今は戸惑いの色が強く浮かんでいる。
青を基調にした冒険者装束の腰には細身の剣と精霊銃が収められていたが、予知で政夫を襲っていると伝えられた相手が亡くなった娘だと思えば、最初から敵として武器を構える気にはなれなかった。
「亡くなった娘さんに会いたい、ただそれだけなのにこんな……」
大切な者を取り戻したいと願った結果、待っていたのが異界への幽閉と、その本人からの襲撃だった。少なくとも今まで知らされている事情だけを受け取るなら、政夫が何故このような目に遭わなければならないのか、エアリィには理解できなかった。
その傍らを歩く椎宮・紫水も、紫紺の大きな帽子のつばを僅かに下げ、紫色の瞳を細めている。柔らかな茶髪と中性的な顔立ちを、淡紫を基調とした和装と濃紫の袴が彩り、その上から花々の意匠を散らした華やかな外套を羽織っていた。
普段なら芝居がかった余裕を浮かべることも多い彼だが、この家に満ちる空気は、無視できない過去を連想させるものだった。
「この嫌な感じ……シセンノマの時によく似てる。愛情を捻じ曲げて呪いとする感じというのかな、どうにも良くないね」
以前遭遇した呪いも、人が持つ感情そのものへ悪意を混ぜ込み、苦痛と憎悪を肥大させることで悲劇を作り出していた。今回が同じものだと決まったわけではないが、人の心を利用するやり口に、紫水はどうしても嫌な共通点を感じてしまう。
ただ、過去の記憶へ意識を引きずられたままではいられない。紫水は隣を歩く小柄な少女へ目を向けると、僅かに表情を和らげた。
「エアリィ嬢、君は私が守るよ。何が潜んでいるか分からない以上、まずは備えておくに越したことはないからね」
紫水はツチミヤヒメノカミの加護を借りながら、自身の霊力で周囲へ霊的防護を巡らせる。
淡い霊光が静かに広がってエアリィまで包み込み、その内側には霊的な干渉や呪詛を遠ざける加護が満ちていく。先ほどまで肌へ纏わりついていた異界の不快な気配も、幾分か薄らいだように感じられた。
「うん! 頼りにしてるよ!」
エアリィは元気よく応じながら、紫水の表情に残る僅かな陰へ気付いていた。自分が沈んだ顔をしていたせいで、余計に彼まで過去の嫌な記憶へ引っ張られてしまったような気がして、今度は意識してではなく自然に、いつもの明るい笑みを向ける。
その笑顔につられたのか、紫水の口元にもようやく普段に近い柔らかさが戻った。
「さて、エアリィ嬢と一緒に浴室の調査だ。水というものは――」
「水場って清らかなイメージもあるけど、澱みが溜まることもあるから、怪異が関わってるなら気をつけた方がいいんだよね」
続きを先回りするようにエアリィが答えたものだから、紫水は一瞬目を丸くした後、堪え切れず小さく笑った。
「って、エアリィ嬢に全部言われたね。ふふ、私の出番がなくなってしまったじゃあないか」
「紫水さんも同じこと言おうとしてたの?」
「ああ、まさしくね。ならば考えていることは一緒ということだろうし、心強い限りだよ」
事件の最中に笑うのは不謹慎だと、二人とも理解している。それでも一瞬だけでも普段の調子へ戻れたことで、張り詰め続けていた気持ちにも僅かな余裕が生まれていた。
間取りを頼りに廊下を進み、やがて浴室へ繋がる引き戸の前まで辿り着く。紫水は自分たちを覆う霊的防護が十分に機能していることを改めて確かめてから、取っ手へ手を掛けた。
「さて、ここだね。では行くとしよう」
引き戸が横へ滑った瞬間、二人の間に戻りかけていた穏やかな空気は跡形もなく吹き飛んだ。
「うっ……!」
鼻腔へ飛び込んできたのは、反射的に口元を覆いたくなるほど強烈な臭気だった。生臭い血の臭いだけでなく、湿った空気へ腐敗を連想させる据えた臭いまで染み込んでおり、一度吸い込むだけで喉の奥へ粘りつくような不快感が残る。
視界へ広がる光景もまた、浴室という言葉から想像できるものとは程遠かった。
浴槽や水栓、シャワーといった元の設備こそ残っているものの、その周囲には白い処理台や金属製の排水溝が重なり、床は一面を赤黒い液体に濡らされている。さらに天井からは幾つものフックが垂れ下がり、その先には人間の腕や脚を思わせるものが、肉塊のように吊るされていた。
他の場所では家と監獄が混ざり合っていたのに対し、ここへ重ねられているものはもっと明確だった。浴室としての構造を残したまま、人間すら肉として扱う屠殺場のイメージだけを無理矢理被せたような空間が、二人の前へ広がっている。
その光景を前に、紫水の脳裏には否応なくシセンノマで目にしたものが蘇った。
誰かが苦しむことを前提に整えられた場所や、人間の尊厳など最初から考慮されていない悪趣味な舞台は、忘れようとして忘れられるものではない。
今いる場所があの屋敷とは異なると理解していても、記憶の奥へ刻まれた嫌悪まで理性だけで切り離すことはできなかった。
「エアリィ嬢……!」
思わず隣へ視線を移せば、エアリィもさすがに顔色を失っていた。大きな緑の瞳は異様な浴室へ向けられたままだったが、逃げ出す代わりにぎゅっと拳を握り、覚悟を決めるように紫水へ頷き返す。
「行こう……! ここを調べないと、何があったのか分からないから」
「ああ、けれど無理はしないように。何かあれば、すぐ私のところまで戻ってくるんだよ」
本心では外で待っていてほしいくらいだったが、それを口にすることだけは控えた。
エアリィはまだ幼さの残る少女であると同時に、自分の意志で危険へ踏み込み、仲間と並んで戦う冒険者でもあるのだ。一方的に庇護すべき存在として扱えば、彼女自身の在り方を否定することになる。
「うん……がんばる。ちょっと怖いけど、何もしないでいる方がもっと嫌だから」
無理をするなと言われた直後の返答としては、少しだけ意味が逆になっている。
それでも、何かを頑張らなければ一歩を踏み出すことさえ躊躇ってしまう場所なのは紫水にも分かっており、苦笑を浮かべながらそれ以上は止めなかった。
「では呪詛方面は任せてもらおう。こういうものを相手にするのなら、何でも屋としても陰陽退魔士としても私の領分だからね」
「うん。それじゃあ、あたしは魔力と精霊力の方から調べてみるよ。こんなに変な場所になってるなら、きっと普通じゃない力が混ざってると思うから」
互いの得意分野を確認した二人は、紫水の展開した霊的防護から大きく離れない範囲で、それぞれに調査を始めていった。
紫水が重視したのは、目の前の凄惨な光景だけではない。呪詛が染みついた場所では、空気の重さや肌へ絡みつく湿気、あるいは目には映らない澱みのようなものが残ることもあるため、視覚的な異様さに惑わされず、この場そのものへ沈殿した気配を丁寧に探っていく。
「つむぎ……手伝ってくれるかな? 君の眼なら、私が見落とすものも拾えるだろうからね」
呼び掛けへ応じるように紫水の足元へ落ちていた影が揺れ、そこからシルバーグレーの毛並みに黒い縞を持つ一匹の猫が姿を現した。腰から伸びる二本の尻尾がゆらりと揺れる様子から分かる通り、普通の猫ではなく猫又である。
つむぎは主人を見上げて一声鳴くと、両眼へ魔眼の力を宿して周囲へ視線を巡らせ始める。
「何か変な所があれば教えてくれるかい? 無理に触れる必要はないから、見つけるだけで十分だよ」
つむぎへ探索を頼んだ紫水は、さらに手数を増やすため、腰のアメジストの宝剣へ指を添えて陰陽の気を集め、淀んだ浴室の空気へ静かな詠唱を響かせた。
「陰陽太極にして万象を示す。すなわち陰転じて陽。我が力より形を持って至れ、式神」
凝縮された術力が掌ほどの小さな鼠へ姿を変え、その身体には常人には拾えない微細な音まで捉える超聴覚が与えられていた。
浴槽の裏側や床下、壁の奥といった目では確認できない場所へも注意を向けるよう命じると、鼠の式神は小さな足音を立てながら浴室の奥へ走り去っていく。
「さて、何か見つかるかな。何もないのでは困るけれど、この場所に限っては何が出てくるのか楽しみとは到底言えないね」
自身も周囲へ意識を広げながら探索を続けていると、程なくしてつむぎが二本の尾を大きく揺らしながら駆け戻ってきた。紫水の前を通り過ぎた猫又は少し離れた位置で振り返り、ついて来いと促すようにもう一度声を上げる。
「何かあったのかい? では案内をお願いしよう」
後を追った先では、屠殺場のイメージをさらに補強するように多数の刃物が並べられていた。大振りの鉈や重厚な肉切り包丁、場違いなほど大型のチェーンソーまで混在しており、いずれも浴室へ元から存在していた物とは到底考えにくい。
しかし、紫水の注意を引いたのは、それらの中央へ紛れるように置かれていた一本のノコギリだった。
「……なるほど。つむぎが私を呼んだのは、これかい」
形だけなら周囲の刃物に比べて特別なものではない。それでも他の道具が屠殺場を演出するためだけに作られた小道具のように見えるのに対し、この一本にだけは刃から柄にかけて赤黒い血がこびり付いている。
紫水の感覚にも、人の情念や強烈な淀みを思わせる異質なものがまとわりついていた。
つむぎの魔眼も同じ違いを感じ取ったのだろう。主人の足元へ戻った後もノコギリから視線を外さず、二本の尾を警戒するように低く揺らしている。
「他が異界によって形作られた物なのだとすれば、これだけは元からここに存在していた|本物《・・》……という可能性もあるね」
何に使われたのかまでは分からず、付着した血だけを根拠に答えを決めつけることもできない。ただ、この部屋に存在する品々の中で明らかに異なる気配を宿している以上、覚えておく価値のある手掛かりではあった。
「とはいえ、これ一本だけで事件の形まで決めるには情報が足りない。さて、エアリィ嬢の方はどうだろうね」
場所と特徴を記憶へ留めた紫水は、つむぎと鼠の式神を伴いながら浴室の反対側へ視線を移した。どういうわけか今回は、自分よりも精霊へ深く通じたエアリィの方が、この空間の本質に近い何かを掴みそうな予感がしていた。
その頃、エアリィが目を付けていたのは、浴室の中を漂うインビジブルたちだった。
世界中の何処にでも存在し、普通の人間には見ることのできない透明な怪物は、この家にも数多く漂っている。
ただし外で見かけるものとは異なっていた。輪郭は水面に映る像を揺さぶったように安定せずにノイズが走る。一体一体の存在そのものがぶれて見えていた。
「やっぱり、なんだか変なんだよね……」
この異様なインビジブルたちにも|精霊交信《エレメンタル・コンタクト》が届くのなら、精霊として別の在り方を与え、この場所で何を目撃したのか聞き出せるかもしれない。
「精霊達よ、あたしに力を……。ね、おしえて? ここで何があったかを」
|精霊交信《エレメンタル・コンタクト》が発動すると、周囲を漂っていたインビジブルへ少しずつ属性が宿り、生前とはまったく異なる精霊としての姿を形作っていった。
最初に姿を得たのは、水の精霊だった。液体が宙へ浮かんで小さな手足を形作り、背中には妖精を思わせる羽まで生まれていく様子は、エアリィにとっても馴染み深い変化である。
ところが、完全に姿を得た精霊を目にした途端、エアリィの表情から安堵が消えた。
「……これ、水だけじゃない」
本来なら透き通った色を持つはずの小さな身体は、鮮烈な緋色へ染め上げられている。しかも顔の中で目や口があるべき部分には、何も存在しないというより、そこだけ空間を穿ったような黒い穴がぽっかりと開いていた。
精霊としての形そのものは水に属していても、そこへ絡みついている力は別種だった。闇や邪気、あるいは明確に分類することさえ難しい淀んだ何かが、水の属性を血のような異形へ変えている。
――水だけじゃない。何か別の力が絡みついてる。それも、精霊の姿をここまで変えちゃうくらい強いものが。
六属性の精霊へ日常的に触れてきたエアリィにも、ここまで露骨に異形化した姿は滅多に見るものではない。
それでも臆して距離を取るのではなく、いつも精霊へ話しかける時と変わらない声音を意識して、目の前の存在たちへ問い掛けた。
「ね、おしえて? ここで何があったかを。あたし、そのことを知りたいんだ」
血色の精霊たちはすぐに返事をせず、黒い穴のような顔を一斉にエアリィへ向けたまま沈黙を続けている。
その視線らしきものを受けているだけで、何か得体の知れないものに取り囲まれているような圧迫感が徐々に強まっていった。
やがて、そのうちの一体から幼い声が零れる。
「わたしは加奈子です」
「え? どうして加奈子さんの名前を……?」
聞きたかったことへの答えにはなっていない。
意味を確かめる暇もないまま、別の精霊からも同じ言葉が続いた。
「わたしは加奈子です」
それだけでは終わらず、周囲に浮かぶ精霊たちから次々と声が溢れ、同じ名前と、それとはまるで噛み合わない苦痛の訴えが入り混じり始める。
「もうやめて」「ゆるして」「わたしは加奈子です」「痛い」「わたしは加奈子です」「苦しい」「もうやめて」「痛い」「わたしは加奈子です」「わたしは加奈子です」
順番に説明しているわけではなく、幾つもの声が互いへ重なり合いながら、同じ言葉を延々と繰り返していた。
それは情報を伝えようとしているようにも感じられる一方、聞き続けるエアリィにとっては、意味を持たない呪詛を四方から浴びせられているのとほとんど変わらない。
「待って、みんな落ち着いて! 一つずつでいいから、何があったのか教えて!」
何故加奈子の名を繰り返すのか。「痛い」「苦しい」「ゆるして」という言葉が何を意味しているのか。せめて一つでも繋げようとエアリィは何度も呼び掛ける。
しかし精霊たちの声が正常な会話へ戻ることはなく、やがて緋色の身体にまで異変が生じ始めた。
小さな足元から姿形が崩れ、血のような液体となって床へ垂れていく。
それは通常の精霊が力を失って消える様子とは明らかに異なり、形そのものを内側から壊されているような不自然さを伴っていた。
「待って! まだ何も聞けてないよ!」
伸ばした手が届くより早く、一体、また一体と溶け落ちた精霊は床へ染み込むことすらなく消失していく。
最後の一体まで姿を失った後には、エアリィが能力を発動する前まで漂っていた、揺らいだインビジブルの姿さえ残されていなかった。
「あたしから解除したんじゃないのに……。ちゃんと精霊にはなったのに、どうしてこんな消え方を……」
能力そのものは発動し、精霊として姿を得るところまでは成功していた。それなのに会話は成立せず、最後には身体を崩すようにして消えてしまった。
――この家の何かが、精霊との交信にまで影響してる……?
そう考えた直後、背筋へ冷たい指を這わせられたような悪寒が走る。
エアリィの第六感が強く警告している方向へ顔を向けると、そこには異界化によって本来より遥かに広く引き延ばされた浴槽がある。その底から、ごぽり、と粘ついた液体へ空気が混じるような音が聞こえてきた。
「……何、これ?」
何も入っていなかったはずの浴槽へ、底から赤黒い液体が湧き上がってくる。水位は瞬く間に増していき、精霊たちの身体を染めていたものと同じ血のような色が、広大な浴槽を縁まで満たしていった。
「エアリィ嬢!」
異変へ気付いた紫水が、つむぎと鼠の式神を伴って駆け寄ってくる。エアリィもすぐに彼のもとへ向かい、霊的防護の内側へ飛び込むように戻った。
「精霊たちが急に崩れて消えちゃったの。それから浴槽から血みたいなものが出てきて……!」
「なるほど、随分と露骨に嫌な演出を重ねてくれるじゃあないか。まずは私から離れないようにして――」
紫水が言い終えるより早く、血で満たされた水面が大きく盛り上がった。
二人の視線が揃って浴槽へ向かう中、赤黒い液体を押し退けながら一人の少女がゆっくりと姿を現した。
十歳ほどに見える少女だった。黒に近い暗色の髪と色白の肌、丸みを残した幼い顔立ちに大きな黒い瞳を持ち、小柄で華奢な身体を衣服ごと血に濡らしながら、浴槽の中で二人を見つめている。
だが、異変は一人の出現だけでは終わらなかった。
最初の少女の横から新たな頭部が赤黒い水面を割り、そのさらに後ろからも同じ年頃の少女が立ち上がってくる。ほどなくして浴槽には、互いによく似た幼い少女たちが何人も並び、全身から赤黒い液体を滴らせながら二人へ顔を向けていた。
「どうなってるの!? 同じ子が何人も……!」
「私にも分からない。しかしこれは調査を続ける段階ではないね。エアリィ嬢、一旦退こう!」
紫水が撤退を判断した時には、少女たちは既に浴槽の縁へ手を掛けていた。濡れた衣服から赤黒い液体を床へ滴らせながら、一人ずつ外へ這い上がり、無言のまま二人へ向かって歩き始める。
「止まって! それ以上来るなら撃つよ!」
警告と同時にエアリィは腰から精霊銃『エレメンタル・シューター』を抜き放った。ただし狙いは少女たちの身体ではなく、その進路を塞ぐ床へ向けられている。
引き金に応じて放たれた魔力の弾丸が床へ着弾し、青白い光を弾けさせた。直撃を避けた牽制であっても、突然目の前で生じた衝撃には反応したらしく、少女たちの歩みが一斉に止まる。
「今だ、行こう!」
紫水の声を合図に、つむぎは素早く主の足元へ戻り、二本の尾から順に影へ溶け込んでいく。鼠の式神も術を解かれると淡い光となって消え、二人は互いが同時に動き出したことを確認しながら浴室を飛び出した。
廊下へ出た後も、すぐには足を止めなかった。血に濡れた少女たちの足音が背後から追ってくるのではないかという緊張が残り、何度か曲がり角を越えるまで、二人とも走り続けていた。
「やはり今回もこうなるのか……。まったく、趣味の悪い舞台を用意してくれるものだね」
走りながら漏れた紫水の声には、いつもの芝居がかった調子こそ残っているものの、その下には心底うんざりした感情が隠し切れずに滲んでいた。
「ホラー映画の主人公ってこんな気分なのかな!? 何か調べるたびに怖いものが出てきて、最後は逃げることになるんだけど!」
「それなら、この後は追いかけっこがお約束というところだろうけれど……どうやら、その演目までは用意されていないらしい」
紫水が肩越しに浴室の方角を確かめても、開いた扉から少女たちが溢れ出してくる様子はなく、追跡する足音も聞こえなかった。
霊的な気配そのものは依然として強いが、少なくとも先ほど現れたものが浴室から出てきている兆候はない。
「あの子たち、あの中からは出られないのかな。それとも、浴室の中でだけ出てくる怪異だったとか?」
「可能性はあるけれど、確かめるためにもう一度入るのは勘弁してもらいたいところだね。ノコギリという手掛かりも見つけたし、君も十分すぎるほど奇妙な現象を確認したのだから、今は仲間たちへ情報を持ち帰る方がいいだろう」
「うん、それがいいと思う! 戻ったらまた何が出てくるか分からないもんね」
追跡されていないことが分かると、二人ともようやく走る速度を落とした。
ただし完全に足を止めることはせず、異界の中で安全を確信できる場所などない以上、仲間との合流を優先して早足のまま廊下を進んでいく。
しばらくして呼吸も落ち着いた頃、エアリィが隣を歩く紫水へ視線を向けた。
「シセンノマの時と似てるって、さっき話してたよね。今回も、ああいう感じなのかな?」
「内容は違うけれど、趣味の悪さには嫌になるほど似たものを感じるよ。人の心を傷つけ、逃げ場を奪い、最後には何を信じていいのかまで分からなくさせる……二度と思い出したくない演目だったのだけどね」
紫水の声音へ僅かに影が落ちたのを聞いて、エアリィは少しだけ考え込んだ。やがて何かに納得したように頷くと、思い掛けない言葉を返す。
「そっか。じゃあ、良かった」
「良かった……というのは、さすがの私にも少々解釈が難しいのだけど?」
「あっ、違う違う! 良くはないんだけど、そういう意味じゃなくって!」
自分でも言い方がおかしかったと気付いたらしく、エアリィは慌てて両手を振った。そのまま少しだけ言葉を探してから、今度は紫水へ真っ直ぐ笑顔を向ける。
「前の時、紫水さんは一人ですっごく嫌な思いをしたんでしょ? でも今回はあたしもいるから、一緒に戦えるよってこと。だから、全部同じじゃないよ!」
その言葉を聞いた紫水は、歩みを止めこそしなかったものの、ほんの僅かに目を見開いた。
今回の事件とシセンノマには、悪意を帯びた仕掛けや、人の感情へ干渉する在り方など、似ている部分が幾つもある。紫水自身、無意識のうちにそんな共通点ばかりを探していたのかもしれない。
けれど、一つだけ決定的に違うことがある。前回、呪いによって見せられた『エアリィ』は、紫水を傷つけるために作られた偽物だった。
自分の知る少女の姿を利用し、心を揺さぶるためだけの虚像として襲いかかってきたのだ。
対して今、隣を歩いているのは本物のエアリィ・ウィンディアだ。
恐怖に顔を青ざめさせながらも、自分の足で屠殺場じみた浴室へ踏み入り、危険が迫れば銃を構え、それでも誰かを傷つけるより逃げ道を作ることを選んだ。
「ああ、それなら確かに前回とは大違いだ」
紫水の表情から、今度こそ過去の記憶へ引かれていた陰が薄れていく。
「最高に心強いよ、エアリィ嬢。ならば今回の演目は、一緒に最後まで見届けるとしようじゃあないか」
「うん! 一緒に解決しよう!」
二人の声に先ほどまでの恐怖は完全には消えていなかったが、それ以上に確かなものが戻っていた。そうして浴室で得た不穏な手掛かりを携えながら、二人は仲間たちとの合流を目指し、なおも歪み続ける伊藤家の廊下を進んでいった。
第2章 集団戦 『被害者』
観測対象:実行者
現在位置は和室。度重なる襲撃によって蓄積した恐怖と困惑により、精神的消耗が著しい。
精神負荷はなお緩やかな上昇を続けており、正常域から異常域へ移行する可能性が高い。
引き続き観測を継続する。
観測対象:被害者
現在、複数の部屋で同質の反応が確認されており、そのいずれにも恐怖と憎悪を原因とする過剰な恐慌状態が認められる。
外来者による複数回の干渉を受けたことで変動はさらに大きくなり、このまま推移した場合には怪異化の進行と、それに伴う単独での成長を示す可能性がある。
引き続き観測を継続する。
観測対象:例外者
現在位置は実行者の私室。恐怖と孤独による精神的不安定が継続している。
現状を左右し得るだけの影響力はほとんど保持しておらず、他の観測対象へ直接的な変化を与える兆候も認められない。
引き続き観測を継続する。
観測対象:外来者
和室へ集合し、各所で得た情報を共有しながら、観測対象と周辺環境に対する調査を続けている。
その出現と影響は想定された範囲内に収まっており、現在までに与えた外的刺激にも一定の価値が認められる。
引き続き観測を継続する。
私は『視て』いる。
●
伊藤家の各所へ散っていた√能力者たちは、一通りの探索を終えると、政夫を保護したまま合流地点に定めていた和室へ集まっていた。
つい先ほどまで三人が探索していたこの部屋には、異界によって処刑場じみた意匠が重ねられたままだった。畳の上へ不自然に影を落とす縄や、日用品を歪めて作られた処刑台めいた構造物が視界へ入り込んでくる中、その一角には押し入れから発見された仏壇が、本来置かれていたらしい場所へ戻されている。
壁際へ腰を下ろした政夫は、ここまで逃げ続けてきた疲労を隠し切れずにいた。傷の手当てこそ受けているものの顔色は悪く、何か物音がするたび肩を強張らせて周囲へ目を走らせている。
「これがリビングに落ちてたよ」
情報共有が行われている中で、シアニが取り出したのは、政夫が逃げる途中で失くしたスマートフォンだった。拾った時から変わらず『Re:Member』は起動したままで、操作へ反応することも、終了させることもできない。
その画面を政夫にも見えるように差し出すと、彼の疲れ切っていた表情が僅かに変わった。
「……加奈子だ」
名前を確かめる必要すらなかったらしい。画面上には『伊藤加奈子』という文字とともに一人の幼い少女が表示されており、政夫は迷うことなく、それを娘だと言い切った。
写真の少女は十歳ほどに見えた。白い肌にまだ幼さを強く残した卵型の顔を、黒に近い焦茶の髪が縁取っている。髪には僅かな癖があり、頬の辺りで柔らかく波打っていた。大きな黒い瞳はやや目尻が上がり、その上には比較的真っ直ぐな眉が伸びている。小さな鼻と口、小柄で華奢な体つきまで含めれば、この家の多くの場所で目撃されてきた少女と同じ特徴を備えていた。
「間違いない。俺がアプリに入れた加奈子の写真だ」
スマートフォンへ伸ばした政夫の指先は微かに震えていたが、その声音に迷いはなかった。その反応を確かめたクラウスは、彼の私室で調べた内容を思い返しながら、皆にも聞こえるよう静かに告げる。
「ただ、政夫さんの部屋には娘さんの写真が一枚もなかった。紙の写真だけじゃなくて、確認できたデータにも加奈子さんが写ったものは残ってなかったよ。政夫さん本人にも聞いたけど、自分で消した覚えはないそうだ」
「おかしいのよねぇ。娘を忘れられないくらい大事にしてたって話なのに、その娘だけ綺麗に消えてるんだから」
アーシャは腕を組みながらスマートフォンの画面を覗き込み、しばらく写真の少女を眺めていた。
やがてリリンドラが、何かを確かめるように周囲の顔を見回す。
「ところで、この写真の子と実際に遭遇した人ってどれくらいいる?」
質問へ応じて手が上がり始めると、その数はすぐに片手では足りなくなった。
リビングで姿を現した少女もいれば、納戸で不自然な行動を見せた少女もいる。浴室では同じ顔をした少女が一人どころか何人も血に満ちた浴槽から現れており、別の場所でもその姿は繰り返し目撃されていた。
ほとんど全員が何らかの形で遭遇しているのを確認し、リリンドラが「やっぱり同じ子が何人もいるのよね」と眉を寄せかけたところで、それまで手を上げていなかったフィオが小さく首を横へ振った。
「私は違うよ。似てはいるけど、私が会った子はこの子じゃない」
思い掛けない否定に、室内の視線が一斉にフィオへ集まる。
「違うって、顔が?」
「うん。髪型とか雰囲気は似てたし、年も同じくらいだと思う。でも別人だったよ。並べて見たら間違えないと思う。それに、名前を聞いたら『加奈子』と答えた」
フィオが記憶を確かめるように答えると、少し離れて話を聞いていた茲が仏壇へ目を向けた。
「それなら、確かめてみよっか。この中に写真があったんだよね」
茲は仏壇の前へ膝をつき、中に納められていた遺影を傷つけないよう両手で慎重に取り出した。
皆から見える位置まで運んで向きを変えた途端、それを目にしたフィオの表情がはっきりと動く。
「この子。この子だったよ」
遺影に写っているのも、十歳ほどの少女だった。
黒い髪と白い肌、大きな黒い瞳、小さな鼻と口を持つ幼い顔立ちは、スマートフォンに表示された少女とよく似ている。しかし、こうして並べて見れば違いは明白だった。
遺影の少女は艶のある真っ直ぐな黒髪が頬の線へ素直に沿い、大きな瞳は僅かに垂れた柔らかな形をしている。眉にも緩やかな丸みがあり、左目の下には小さなほくろがあった。
同じ年頃でよく似た顔立ちをしている。それでも、同じ人物と呼べるほどの一致ではなかった。
「この仏壇は、最初はここにありませんでした。押し入れの一番奥に、荷物で隠すみたいに押し込まれていたのです」
リズが仏壇の発見時について説明すると、七三子が遺影と押し入れを見比べながら怪訝そうに眉を寄せた。
「一体、誰がそんなことをしたのでしょうか?」
「元々ここに置かれてたのは、ほぼ間違いないと思うよ」
茲が示したのは、現在仏壇を戻している畳の一角だった。そこには何かの底面を押し当てたような浅い凹みと四角い輪郭が残されており、実際に仏壇を重ねると綺麗に一致する。
発見時には代わりにキャスター付きの棚が置かれていたことも説明されると、室内へ微妙な沈黙が落ちた。
この家で生活していた者が、自分の意思で仏壇を押し入れへ移したと考えるなら、候補はそう多くない。
やがて何人もの視線が、壁際に座る政夫へ向いた。
「……何だよ」
集中した視線へ気付いた政夫は、困惑していた顔を次第に険しくしていく。
「俺が隠したって言いたいのか? 一体何の話をしてるんだ。仏壇なら、ずっとそこに置いてた」
「ずっと?」
茲が聞き返すと、政夫は苛立ちを抑えられない様子で仏壇を指した。
「ああ、そうだよ。加奈子の仏壇を押し入れなんかに突っ込むわけないだろ。何で俺がそんなことをしなきゃならないんだ」
怒り方そのものは激しかったが、追及を誤魔化そうとしているようには見えなかった。本人にとっては、本当に身に覚えのないことで責められているらしい。
その反応を見ていたリリンドラは、少し考えてから茲の持つ遺影へ指先を向けた。
「じゃあ聞き方を変えるわ。この写真の子は誰?」
「写真の子……?」
政夫は問いの意味が理解できなかったように眉を寄せ、それから遺影へ真正面から視線を向けた。少なくとも目を逸らしているわけではなく、しばらく見つめた後には、からかわれていると思ったのか露骨な苛立ちが顔へ浮かぶ。
「誰って……誰も写ってないじゃないか。一体何なんだよ、さっきから。こんな時に悪ふざけしてる場合じゃないだろ!」
その言葉を聞いた瞬間、和室の空気が凍りついた。
政夫の目の前には確かに一人の少女が写った遺影があり、他の全員にはその姿が見えている。それでも政夫だけが、何も写っていないと言い切った。
「……見えていないのですか?」
エレノールが思わず確かめるように零すと、政夫はますます苛立った様子で遺影を見返した。表情にも声にも、嘘を押し通そうとする者特有の迷いはなく、本当に少女の存在そのものを認識できていないように見える。
「じゃあ、今まで私たちが加奈子さんだと思ってた子は……誰なの?」
結が困惑を隠せず、二枚の写真を見比べる。
遺影に写る少女と、スマートフォンで政夫が娘だと断言した少女は、確かによく似ている。それでも明らかに別人だった。
「この家には、少なくとも|二人の加奈子嬢《・・・・・・・》がいる。大量発生していることは別にしてね」
紫水がそう結論を告げるものの、その事実をどう受け取るべきなのか、誰もまだ答えを出せずにいる。
そんな沈黙へ割り込むように、和室の入口近くで微かな雑音が響いた。
壊れかけた映像機器から漏れるような、ざらついた音だった。
最初に気付いた者がそちらへ顔を向け、それにつられるように皆の視線が集まっていく。開いた襖の向こうには、十歳ほどの小柄な少女らしき影が立っていた。
しかし、その姿はこれまでに遭遇した時とは明らかに違っている。
小柄な身体の輪郭は辛うじて少女の形を保っているものの、肌も衣服もほとんど黒い影へ沈み、全身を絶え間なく砂嵐のようなノイズが駆け巡っている。顔立ちさえ細かな乱れに覆われ、辛うじて髪の長さや体格から、これまで何度も現れた少女と同じ存在だと判断できる程度だった。
「加奈子……なのか?」
政夫の声に反応したのか、少女の頭が僅かに動いた。
そのまま一歩、さらに一歩と畳へ足を踏み入れ、真っ直ぐ政夫へ近づいてくる。歩みに迷いはなく、リズが進路上へレイン砲台を滑り込ませても止まる気配を見せなかった。
「それ以上近付くのはおすすめしません。止まってください」
警告と同時に飛翔する砲口から光が走り、少女の目前を横切る軌道へ威嚇の一射が放たれた。
これまでなら攻撃の兆候を見せただけでも警戒するか、少なくとも足を止めていたはずだった。
ところが少女は歩みを緩めず、光弾が横切る場所へ自ら踏み込んだ。身体の端を貫かれてなお、衝撃を受けた様子すら見せない。
「……通り抜けましたね」
リズが僅かに目を細める。
傷口は生じていない代わりに、光弾が抜けた部分を中心として黒いノイズが急激に乱れ始めていた。映像そのものが破損したように身体の一部が何重にもずれていく。
その乱れが広がっていく刹那、目の前にあった和室の景色が唐突に遠のいた。
意識を失ったわけではない。それでも気付けば、そこにいる全員の視界には今とは違う和室が広がっていた。
処刑場を思わせる異界の歪みはなく、畳と襖のある、ごく普通の部屋だった。その片隅では、一人の幼い少女が壁へ背中を預け、膝を胸へ引き寄せるように抱えて蹲っている。
スマートフォンに写っていた少女だった。
半袖から覗く細い腕には、幼い身体にはあまりにも痛々しい青紫色の痣が幾つも浮かんでいる。少女はそれを隠そうともせず、額を膝へ押しつけながら肩を震わせていた。
『もうやだよ……おかあさん、会いたいよ……』
擦れた声とともに小さな嗚咽が漏れる。誰に訴えているのかも、何を嫌がっているのかも分からないまま、その光景は数秒も続かずに薄れていった。
気付けば、全員の意識は再び異界の和室へ戻っていた。
「……今の、みんなも見た?」
シアニが周囲へ問い掛けると、戸惑いを浮かべた顔が次々と頷く。誰か一人が幻覚を見たわけではなく、その場にいた√能力者たちへ同じ映像が一斉に流れ込んだことだけは、それで確かめられた。
「あたしの|竜眼・過去視《メモワール》じゃないよ。今は使ってないし」
「私も何もしてません。撃っただけです」
リズはレイン砲台を下げながら、先ほど光弾が通過した少女へ視線を戻そうとした。
だが、その時だった。
背後の押し入れから、戸板を叩きつけるような激しい音が響いた。
全員が振り返った時には、押し入れの襖が内側から勢いよく開き、そこからもう一人、同じ姿をした少女が飛び出していた。
「なっ――加奈子!?」
政夫が反応するより早く、小さな腕がその身体へしがみつく。
幼い少女一人とは思えない力で引かれた政夫の身体が畳の上を滑り、押し入れの方へ引きずられていく。
クラウスたちが救出へ動こうとした時には、開かれた襖の向こうから、本来あるはずの収納空間そのものが消えていた。
そこに広がっているのは、光の一切届かない黒だった。
奥行きも壁もなく、何処へ繋がっているのかさえ分からない暗闇へ、少女は政夫を抱えたまま後退していく。
「待て! 加奈子、やめろ! 何するんだ、離してくれ!」
必死にもがく声とともに二人の姿が闇へ呑まれ、直後には襖が勢いよく閉じられた。
「政夫さん!」
すぐさまエアリィが駆け寄り、躊躇なく戸へ手を掛ける。共に走っていた紫水の防護から飛び出し過ぎないよう注意しながらも勢いよく襖を開けば、そこに先ほどの黒い空間は残っていなかった。
布団や箱をすでに運び出した、ごく普通の押し入れがあるだけだった。
「いない……。さっきここに入ったのに、政夫さんもあの子もいないよ!」
エアリィが奥まで確かめても、人が隠れられるような場所は存在しない。床や壁に新たな穴が開いた様子もなく、二人はどこかへ移動したと考える以外になかった。
しかも混乱の間に、リズの攻撃を受けた最初の少女まで姿を消している。
「最悪ね。せっかく保護したのに、また連れていかれたじゃない」
リリンドラが屠竜大剣へ手を掛けながら入口へ向かう中、リズはすぐに後を追わず、少女が立っていた場所を見つめていた。
「一つ、気になることがあります。先ほどの映像が始まったのは、私の弾があの方を通過して、ノイズが大きく乱れた直後でした」
その指摘を聞き、シアニもリビングで経験した現象へ思い至る。
「……リビングでも似たことがあったよ。あの子が出てきた時、それまで√能力を使ってもほとんど見えなかった過去が急に見えるようになった。それでもノイズだらけで細かくは見えなかったけど、誰かが女の子を叩いてるみたいな光景が混ざったんだ」
「あたしの時もそうだよ!」
押し入れから戻ってきたエアリィも、浴室での出来事を思い出して言葉を重ねる。
「あの家のインビジブルに|精霊交信《エレメンタル・コンタクト》を使ったら、精霊になった子たちが『わたしは加奈子です』とか、『痛い』とか『もうやめて』って言い始めたの。その後すぐに崩れて消えちゃったけど、あれも近いのかも」
別々の場所で起きた時には、それぞれ独立した異常にしか見えなかった。しかし、こうして情報を重ねれば共通点がある。
あの少女や、それと同じ異常を示すインビジブルに何らかの変化が起きた時、少女に結びつく別の情報まで不意に表面へ現れている。
「納戸でも同じようなことが起きました。私の時はインビジブルがあの女の子の姿に変わった時です」
エレノールの言葉も聞き終えて、クラウスが冷静に推察する。
「攻撃そのものが条件とは限らないと思う」
彼はすぐに結論を決めつけず、現時点で分かっていることだけを整理するように続けた。
「リビングでは過去視が急に繋がって、浴室では精霊たちの言葉がおかしくなった。今回も、あの子のノイズが大きく乱れた直後にさっきの光景が見えた。何が引き金なのかまでは分からないけど、あの子たちに異常が起きた時は、周囲の変化も見逃さない方がよさそうだね」
「記憶の断片……ってことかな」
シアニが、先ほど目にした泣き顔を思い出しながら呟く。
「そうかもしれない。でも、まだ断定はしない方がいいと思う」
クラウスは小さく頷いた。
「政夫さんを見つけるのが先だけど、またあの子たちと遭遇したら、その時に何が起きるのかも見ておこう。この家で何があったのかを知る手掛かりになるかもしれない」
「なら話は早いわ。政夫を探しながら、あの子たちについても調べる。それでいいわね?」
リリンドラの言葉に異論を挟む者はいなかった。
ここまで集めた手掛かりは、少しずつ一つの方向を指し始めていた。
遺影には、これまで『加奈子』だと思われていた存在とは異なる少女が写っている。にもかかわらず、政夫にはその姿が見えていない。
さらに、仏壇は押し入れの奥へ隠され、先ほどは痣の残る腕を抱えて泣く少女の光景まで全員の脳裏へ流れ込んだ。
けれど、それらが何を意味するのかは、まだ誰にも分からない。
√能力者たちは政夫を連れ去った少女を追うため、再び手分けして伊藤家の各所へ向かった。
異界によって引き延ばされた廊下の先では、既に複数の部屋から幼い足音が聞こえ始めている。
扉の隙間や暗がりの奥を横切る小さな影も一つではなく、家中へ散らばった少女たちが、侵入者を迎えるように静かに動き始めていた。
被害者に生じた変動は、先ほどまでとは異なる段階へ移行しつつある。
外来者との接触を重ねるごとに精神と存在の揺らぎは増大し、新たな空間が生成されたことも確認された。
実行者が保持していたシステム上の支配権は、既に被害者側へ大きく移りつつあるように見える。
もっとも、これは突発的に起きた変化ではない。家屋へ生じた変調の大部分は、初期段階から被害者の影響を強く受けていた。
牢獄を模した構造も同様である。拘束され、閉じ込められ、外へ出ることを許されなかった記憶が空間へ反映された結果と考えれば、実行者の私室だけ異界による侵食が浅かった理由にも説明がつく。
被害者は、その部屋へほとんど足を踏み入れていない。
そして、今回生じた領域には、これまで以上に明確な願望が反映されている。
あの時点へ戻り、起きた出来事を変えることができたならば、その先に続いた未来も変わっていただろう。
異常化によって偶発的に生じた現象ではある。
しかし被害者自身が望む結果へ到達した場合、現実には変化がなくとも、この空間そのものが役割を終える可能性も否定できない。
それがどのような結末を生むとしても、その帰結は観測対象となる。
一方、強制的な介入によって別種の歪みも発生している。その領域へ実行者の認知が組み込まれた際、システムが矛盾を解消するため、自動的に整合を図ったものと推測される。
外来者の一部は、既にその歪みが生じた地点へ接近している。
さらなる変動が発生する可能性は高い。
私は『視て』いる。
●
政夫が再び連れ去られた後、√能力者たちは手分けして異界化した伊藤家の探索へ戻っていた。
一度調べた部屋へ向かい、見落とした痕跡や新たな変化を探る者もいる。その一方で、リリンドラ、リズ、結の三人は特定の部屋を再訪せず、ここまで通ってきた経路を逆に辿りながら、家そのものに変化が生じていないかを確認していた。
政夫の居場所を探すという目的は同じでも、三人の頭から先ほど和室で得た情報が消えることはない。
「今ある情報だけを見るなら、どうしても父親が黒く見えるのよね」
屠竜大剣を携えたまま先を歩くリリンドラが、歪んだ廊下の先を警戒しながら口にする。
仏壇は押し入れの奥へ隠され、フィオが出会った『加奈子』と名乗る少女と同じ人物が写る遺影を、政夫だけが認識できなかった。
さらに、『加奈子』として彼を襲っていた少女から流れ込んできた過去の光景では、細い腕に幾つもの痣が浮かんでいた。
それらを並べれば、政夫へ疑いを向ける理由は十分にある。
「それは……けど、私が話した政夫さんは、とてもそんな風には見えなかったわ」
結は周囲へ放った妖精たちの気配を追いながら、素直な印象を返した。
政夫の部屋で話を聞いた時、彼が娘へ向けていた愛情は偽りには思えなかった。
何があっても大切な人を守るヒーローに憧れ、自分もそんな大人になりたいと願っていたことや、娘から自分こそヒーローだと言われた思い出を語る姿には、今なお失われた家族を想う感情が滲んでいた。
アーシャの能力によって、その記憶自体が作り話ではないことまで確認されている。
「ええ、そうね……。あの人の必死さを見ていると、わたしも信じてあげたい気持ちの方が強いかな」
疑っているからといって、リリンドラも政夫を犯人と決めつけているわけではなかった。
「人形やぬいぐるみがあったっていうクモヒーローも……確か同じモチーフで、親愛なる隣人みたいなキャッチコピーのがいたわよね」
政夫の部屋に飾られていたフィギュアと、加奈子の部屋に残されていたぬいぐるみ。蜘蛛を意匠に取り入れたヒーローという話を聞いた時、リリンドラの頭には有名なアメリカンコミックの英雄が浮かんでいた。
あちらと同一の存在ではないにしても、身近な誰かを助ける英雄というイメージには通じるものがある。
リリンドラ自身が掲げる正義も、遠くから一方的に善悪を裁くものではなく、困っている誰かの傍らへ立てるものでありたいと思う。
「誰かを大切にしたり、救ったりするのって、そういうことじゃない?」
「ええ、そうね。政夫さんも、あのフィギュアに大切な人を守る勇気をもらっていたみたいだし」
結も頷いた。それなのに、その同じ男を疑わせる手掛かりばかりが積み重なっていく。
答えの見えない不快感を抱えたまま歩き続けていると、少し先を進んでいたリズが足を緩めた。
「結局、最初の玄関の方まで戻ってきましたね。おや……」
彼女の声に促され、二人も前方を見る。
伊藤家へ踏み込んだ時には、外界との繋がりを断つように閉ざされていた玄関が見えている。しかし、今は明らかに様子が違った。
「玄関が開いています……ですが、向こう側は真っ黒です」
リズの言葉通り、開いた戸口の先には屋外の景色も道路も存在していない。
光を吸い込むような黒一色の空間が、玄関の形に切り取られて広がっていた。
その様子を見た結の脳裏に、つい先ほど政夫が連れ去られた光景が蘇る。和室の押し入れが開いた時、その奥にも同じような暗闇が広がっていた。
「……あの時の押し入れと、似てるわね」
「はい。偶然とは考えにくいです」
リズも警戒を解かないまま、浮遊するレイン兵器を黒い戸口へ向ける。
「どうしましょう……」
結が不安を隠さず二人を見る。
政夫がこの先へ連れ去られたという確証はない。それどころか、何処へ繋がっているのか、通った者が戻ってこられるのかさえ分からなかった。
「いきなり全員で飛び込むのは、さすがに危険でしょうね」
リリンドラも同じ認識らしく、すぐに足を踏み入れようとはしなかった。
だからといって、見つけた異常を放置して別の場所へ向かう気もない。政夫が連れ去られてから既に時間は経過しており、慎重になりすぎた結果、救出の機会を失っては本末転倒だった。
少しだけ考えた末、リリンドラが二人より前へ出る。
「まずはわたしが入ってみるわ」
「それなら、先に|レインに宿る精霊たち《マイフレンズ》へ安全確認をお願いしてはどうでしょう?」
リズが提案すると、リリンドラもその方法自体を否定はしなかった。
「わたしも考えたけど、さっきみたいに一人が通ったら入口ごと消える可能性もゼロじゃないでしょ? そうなった時、偵察だけ先へ送ったせいで誰も追えなくなる方が困るわ」
目の前の暗闇が罠なら、自ら飛び込むのは危険に違いない。
それでも√能力者ならば、最悪の場合に命を落としても、通常の人間のようにそこで全てが終わるわけではない。だからこそ、今は自分が危険を引き受ける価値がある。
「わかったわ……けど、無理はしないでね」
結の心配そうな声に、リリンドラは振り返って笑みを返した。
「ええ。死ぬつもりなんて一ミリもないけれど、もし帰ってこなかった時は……そういう事態になったと思ってね」
冗談めかしてはいるものの、二人へ覚悟を求める言葉でもあった。
リリンドラは改めて暗闇へ向き直り、まず片手を伸ばす。
指先が黒へ触れても、冷たさや熱さは感じない。抵抗らしい抵抗もなく、手だけが水面へ沈むように向こう側へ呑み込まれていった。
腕。
肩。
身体の半分。
感覚そのものに異常がないことを確かめながら進み、やがて白いドレスの背中まで黒へ溶けると、その姿は玄関から完全に消えた。
残された結とリズは、いつ入口が閉じても対応できるよう身構えながら待つ。
「今度は消える気配はありませんね」
リズが状態を確認しているうちに、黒一色だった戸口から赤い髪と褐色の顔がひょいと現れた。
「二人とも、入ってきてくれていいわよ。特に害はなさそうだから」
それだけ伝えると、リリンドラは再び向こう側へ姿を引っ込める。
結とリズは互いの顔を見合わせた後、ほとんど同時に頷いた。
先に結が足を踏み入れ、続いてリズもレイン兵器を伴って黒へ進む。身体全体が境界を越えた途端、それまで閉ざされていた視界へ柔らかな明るさが広がった。
「……外?」
結が辺りを見回す。
足元には砂地が広がり、周囲を囲むように木々と柵が伸びていた。
砂地の向こうには滑り台やジャングルジム、鉄棒にブランコといった遊具が並び、伊藤家の内部から続いているとは思えない景色を形作っている。
「ここは、公園ですね。少し|古風《クラシック》さを感じます」
リズの表現通り、設備にはどれも相応の年月が刻まれていた。
滑り台の金属には曇りがあり、鉄製の遊具も塗装がところどころ薄くなっている。
整備が放棄されているほど荒れてはいないが、新しく作られた公園ではないことは一目で分かった。
「見た感じ、家の中みたいな変化もなさそうね」
先に待っていたリリンドラが周囲へ目を配る。
牢獄と家屋が混ざり合っていた伊藤家とは違い、この公園そのものに露骨な異界の歪みは見当たらない。遊具こそ多めだが、何処にでもありそうな住宅地の公園と大差なく見える。
ただし、後ろを振り返れば異常はすぐに見つかった。
三人が出てきた場所に住宅の玄関など存在せず、公衆トイレの入口だけが墨を流したような黒に染まっている。どうやら伊藤家とこの場所を繋いでいるのは、あの闇そのものらしい。
「まずはここを調査してみましょう」
結の提案に二人も同意し、三人は互いの姿を確認できる程度の距離を保ちながら公園へ散った。
「政夫さんや加奈子さんがいないか、一緒に探して」
結が頼むと、これまで家の探索にも力を貸していた妖精たちが、木々や遊具の間へ飛んでいく。
リリンドラも|正義集威《アクノカイサツ》によって使い魔の兎を呼び出し、小さな身体を砂地へ走らせた。
それだけでなく、万一の戦闘へ備えて幾振りもの黒竜剣を周囲へ展開し、自身から離れた場所にも即座に刃を届かせられるよう警戒を整える。
「なら、私は空から不審者を探してもらいます」
リズが呼び掛けると、青色のアマツバメの形を得た精霊たちが一斉に飛び立った。
細長い翼を広げた群れはたちまち高度を上げ、大気を介して周囲の情報を探りながら、公園の上空へ散っていく。
仲間へ空の探索を任せたリズ自身は、反対に公園の外周へ向かった。
もし、この空間が本物の屋外と繋がっており、政夫が既に公園外へ逃げているのなら、ここだけを調べ続けても意味がない。その可能性を先に潰しておくため、道路へ続いているはずの出入口へ足を進める。
ところが、公園の境界を越えようと伸ばした手は、何もない空中で止まった。
「……これは」
目には何も映っていない。
それでも掌には、硬い壁へ触れたのと変わらない感触が返ってくる。横へ移動して別の場所から抜けようとしても結果は同じで、公園全体が透明な何かに囲まれているらしい。
「公園の外には出られないようですね。コンビニへの買い出しはできそうもありません」
こんな状況でも変わらないリズの調子が、乾いた公園へ妙に馴染まない。
その直後、近くの茂みが大きく揺れた。
枝葉の擦れる音へ反応してレイン兵器が一斉に向きを変える。
茂みを押し分けて現れたのは、和室で見たものと同じ、黒いノイズに覆われた少女だった。
顔も衣服もほとんど判別できず、十歳ほどの小柄な輪郭だけが辛うじて人間らしさを残している。
「閉じ込められているのは、あなたも同じですか?」
リズは砲口を向けたまま問い掛ける。
返事の代わりに、少女は地面を蹴った。
和室で見た時より動きが荒い。距離を詰める動きにも躊躇がなく、そのままリズへ飛び掛かろうとする。
しかし、攻撃へ移る兆候を捉えていたレイン兵器の方が早かった。
青白い射線が少女の脚を貫く。
血も肉片も散らない代わりに、撃ち抜かれた部分から大量の砂嵐が噴き出した。膝から下の輪郭が幾重にもずれ、脚としての形を保てなくなった少女は、その場で大きく体勢を崩す。
「今度は逃がしません。お話を聞かせてもらいたいのです」
まともな対話が成立する保証はない。
だからといって、何も試さず倒すつもりもなかった。
リズは少女そのものではなく、その周囲へ虚像を組み上げる。
「あなた達にとって、彼はどんな意味を持ちますか?」
|虚構《フェイク》によって生み出された幻影が、砂地の上へ形を得た。
蜘蛛を意匠に取り入れた、全身スーツ姿のヒーロー。
クラウスたちが政夫の部屋で撮影してきたフィギュアを資料として、細部まで同じ姿が再現されている。
黒い少女の反応は劇的だった。
「ギ……ギギ……」
それまでリズへ向けられていた意識が、完全にヒーローの幻影へ吸い寄せられる。
両手で頭を抱え、爪を立てるように髪を掻きむしる。ノイズに埋もれていた身体が激しく揺れ、喉の奥から壊れた機械音のような声が漏れ始めた。
「ギギギィィィィィ! エエエアアアアアァァァ!」
金切り声が公園中へ叩きつけられる。
耳を塞いでも頭蓋の内側まで直接揺さぶられるような不快な大音量に、リズの顔からも普段の余裕が消えた。
「レイン兵器! 私の言葉を聞いてください。想定スペックをも超えた、あなたの本当の実力を見せてください!」
要請を受け、決戦気象兵器へ宿る精霊が応える。
|決戦気象兵器「レイン」・精霊術式ver2《レインシステム・ルーラーコード》。
少女の口元だけを狙うように局所的な気象操作が生じ、周辺の気圧が一気に超高空――電離層に近い環境まで低下した。
空気がほとんど存在しない領域では、どれほど声を張り上げても音は外へ伝わらない。
「ギ……!」
口はなお大きく開かれているのに、先ほどまで鼓膜を刺していた絶叫だけが嘘のように消えた。
「しかし困りました。まさか錯乱状態になるとは……」
音を封じなければこちらの心身が先に削られかねない。それでは話を聞くどころではなく、ヒーローの幻影を見せた試みが完全に逆効果だった可能性さえあった。
少女の反応を分析しようとした時、別方向から黒い影が駆け込んでくる。
「……むっ!」
木々の間から現れたのは、もう一人の少女だった。
上空へ放ったアマツバメの精霊たちから接近の報告は届いていない。何処かから走ってきたというより、何もいなかった場所に突然姿を現したと考える方が自然だった。
新たな少女はリズではなく、蜘蛛のヒーローへ一直線に飛び掛かる。
指先が虚像へ触れた途端、あらかじめ組み込まれていた反射作用が働き、その身体が弾き返された。役目を終えたヒーローの姿も同時に薄れ、光の粒へほどけるように消えていく。
着地を崩した少女が大きくよろめいた。
そこへ黒い刃が横薙ぎに走る。
刃が触れた脚の部分から輪郭が完全なノイズへ変わり、身体を支える形さえ保てなくなった少女が砂地へ崩れ落ちた。
「大丈夫!?」
遅れて駆け込んできたリリンドラの周囲には、何振りもの黒竜剣が浮かんでいた。
リズへ迫った少女の脚を断ったのも、その一本だった。
「はい、私は……けれど、やりにくいですね」
負傷したわけではないと答えながら、リズは倒れた少女たちを見下ろす。
攻撃性は明らかに増している。
それでも、こちらへ牙を剥いたというだけで、何も考えず倒してしまえばいいとは思えなかった。
痣だらけの腕を抱え、母親を求めて泣いていた姿を、全員が既に見ている。
あの少女が何者なのか。
何をされたのか。
どうして蜘蛛のヒーローへ、これほど激しい拒絶を示したのか。
その答えを得るより早く、倒れた少女の身体を覆うノイズが膨れ上がった。
砂地も、遊具も、傍らにいるリリンドラの姿さえ急速に遠ざかっていく。
意識の奥へ、また別の景色が割り込んできた。
●
夕暮れが近付く公園で、少女は一人ブランコを漕いでいた。
少し前まで一緒に遊んでいた友達は、もう帰ってしまっている。
両親は二人とも働いていて、家へ戻っても夕食の時間までは一人で過ごすことが多かった。
だからといって家族仲が悪いわけではなく、夕食の時間にはほとんど毎日二人とも帰ってくる。少女自身もいつもの時間までにはきちんと帰宅していたため、両親も放課後の居場所を逐一確かめるほど心配性ではなかった。
少女も、一人で過ごすその時間を寂しいと感じたことはない。
友達が門限を気にして一人、また一人と帰っていく中、自分だけもう少し公園へ残ることができるのは、むしろちょっとした特権のように思えていた。
ブランコが前へ揺れるたび、夕焼けに染まり始めた空が少しだけ近くなる。
後ろへ戻れば、砂場や滑り台が視界へ入る。
何度か繰り返しているうち、勢いをつけるのにも飽きて、少女は靴底を砂へ擦らせながら少しずつ揺れを弱めた。
もう帰ってもいい時間だとは思う。
それでも、夕方になると何となく帰りたくなかった。
家へ帰れば夕食を食べて、お風呂へ入り、宿題をして、それが終われば眠るだけ。一日の中に残っているものを順番に思い浮かべると、学校や友達との遊びが終わった後は、全部がおまけのように感じられてしまう。
だから、もう少しだけ。
一日が終わるまでの時間を引き延ばすように、公園をぶらぶらしてから帰ることが多かった。
もちろん、日が暮れかけた公園に子供一人で残ることが危ないという感覚くらいはある。
ただ、この公園はそれなりに広く、夕方になっても完全な無人になることは珍しかった。
散歩の途中で休む人や、ベンチに腰掛けて時間を潰す大人が一人か二人は残っている。
いざという時には、大声を上げれば誰かが気付いてくれると思っていた。
この日も、それは同じだった。
友達と別れた頃から、少し離れたベンチには一人の男が座っている。
ここ最近、何度か見掛けるようになったおじさんだった。鞄を膝の上に載せ、遊具へ目を向けるでもなく、ぼんやり空を眺めている。
特別気になる存在ではない。
公園へ何度も来ていれば、顔を覚える程度の常連は自然と増える。その中の一人というだけだった。
少女はブランコから降りると、今度は意味もなくジャングルジムの周りを歩き始めた。
あと少ししたら帰ろう。
そう決めながら、滑り台を一度だけ登って降りて、それから公園を一周する。
毎日の終わりを惜しんで続けているその時間も、考えてみれば昨日とほとんど変わらない。
それ自体がもう一つのルーティーンになっていることに、少女は気付いていなかった。
●
公園の景色は、薄い膜を一枚隔てたように霞み、そのまま遠ざかっていった。
夕焼けも、錆の浮いた遊具も、一人きりでブランコを漕いでいた少女の背中も消え去り、結の意識は元の空間へ引き戻される。
視界に戻ってきたのは、砂地に倒れた黒い少女と、その周囲へ広がるノイズだった。
直接戦闘に加わっていなかった結にも、先ほどの光景は最初から最後まで流れ込んでいた。
映像として見えただけではない。あの少女が夕暮れを惜しみ、公園にもう少しだけ残っていた時の気持ちまで、微かな余韻となって胸の内へ残っている。
――政夫さんが加奈子さんと呼んでいた子は、ここでよく遊んでいたのね。
家へ帰りたくないほどの事情があったわけではない。
ただ、一日が終わってしまうのを少し寂しく感じていた。その程度の、ごくありふれた感情だった。
だからこそ、結には一つだけ強い違和感が残った。
「あれは……政夫さんだった」
記憶の中で、ベンチに座っていた男は、つい先程まで話していた政夫で間違いない。
少女の側から彼へ向けられていた感情は、驚くほど希薄だった。
父親がそこにいるのに、何も注目することすらなく、友達と遊ぶ時間の背景へ半ば溶け込んでいた。
「……変ね」
リリンドラも同じ部分へ引っ掛かったらしく、眉間に僅かに皺を寄せる。
政夫は、娘が生きていた頃から仕事に追われる毎日を送っていたという。そんな彼が、この少女のいる公園に何度も姿を見せていた。
結が考えをまとめるより早く、探索へ出していた妖精の一体が戻ってきた。
小さな光が彼女の周囲を忙しなく旋回し、何かを訴えるように少し離れた場所へ飛んでいく。
「何か見つけたの?」
問い掛けへの返答を待つ必要はなかった。
妖精は真っ直ぐ、公園の奥に設置された洞窟型の遊具へ向かっている。
外から見れば、子供が腰を屈めて潜り込む程度の小さな空間だ。色褪せた岩肌を模した外装には幾つもの出入口が開き、その内側だけが暗く沈んでいた。
結が後を追い、入口へ近付く。
「政夫さん……?」
返事はない。
嫌な予感に背中を押され、身を屈めて中を覗き込んだ。
「いた……! 政夫さん……!」
声が裏返りかけた。
薄暗い洞窟の中に、黒い少女たちがいた。
数人が狭い空間に折り重なるように集まり、その中心に一人の男――伊藤政夫を押さえ付けている。
「んんっ……! んっ、んんんっ!」
悲鳴を上げることさえ許されていない。
小さな手が口を強く塞ぎ、別の少女たちは両腕と両脚にしがみついて、その身体を地面に縫い止めている。
薄暗い中で、結の視線が政夫の腕や脚に止まった。
学校で使うような細い鉛筆が、何本も突き刺さっている。その中には、金属製のコンパスまで混じっていた。
何をされているのか理解すると、結の呼吸が止まりかけた。
突き刺す。
抜く。
場所を変えて、また突き立てる。
「んんんんっ――!」
口を塞がれた政夫の喉から、押し殺された絶叫が漏れた。
少女は止めない。
命を奪うためなら、もっと容易な方法はいくらでもあるはずだった。
刃物を使えばいい。喉を狙えばいい。これまで見せた怪異じみた力を使えば、大人一人を殺すことなど難しくもないだろう。
それなのに、少女たちはそうしない。
細く尖ったものを選び、すぐには死なない箇所へ繰り返し痛みを与えている。
殺意とは別の、もっと粘ついた感情がそこにはあった。
少しでも長く苦しめたい。身体だけでは足りず、怯えさせ、助けを求めても届かないと理解させてから壊したい。そんな怨恨が、幼い姿の端々から滲んでいるように見えた。
――助けないと!
結の身体が先に動く。
和室で見た記憶が脳裏を掠めた。痣だらけの腕を抱き、母親を求めて泣いていた少女。
リビングや納戸、浴室で仲間たちが遭遇した『加奈子』たちも、いずれも何らかの苦痛に囚われた存在だったという。
できることなら、彼女たちも傷つけたくない。何か理由があるのなら、それを知った上で救いたい。
けれど、その願いを優先することで政夫を見殺しにするわけにはいかなかった。
「遅かったか……!」
背後から駆け寄ってきたリリンドラの声とともに、黒い剣が洞窟内へ飛び込んだ。
少女たちの間へ鋭く割り入り、政夫を押さえていた腕を強引に弾き退ける。刃が触れた輪郭から黒い砂嵐が飛び散り、何人もの少女が一斉に洞窟の外へ逃れた。
結は空いた隙間へ身体を滑り込ませ、政夫の腕を肩に回す。
「立てますか?」
「ひいぃ……痛い……痛いぃ……!」
「しっかりして。もう大丈夫だから」
完全に腰が抜けている。
自力で歩かせることを諦め、結は身体を支えながら洞窟から引きずり出した。
洞窟を出ると、背後で砂を蹴る音がした。
逃げ出した少女の一人が追いつき、政夫へ片手を突き出している。
指先の動きに呼応するように、近くに設置されていた小型の遊具が軋みを上げながら地面を離れる。
幼児が乗る程度のものとはいえ、人間へ向かって飛ばされれば十分な凶器になる重量だった。
「危ない!」
結が政夫を庇おうとするより早く、青白い結晶の盾が展開された。
飛来した遊具がシールド型レインに激突し、重い金属音が公園へ響き渡る。
「保護対象への追撃は禁止です」
リズの声は静かだったが、その周囲では複数の砲台が既に射撃態勢に移っていた。
政夫を少女たちの手から取り戻したことで、状況は大きく変わった。
リリンドラの黒竜剣が少女たちの周囲を飛び交い、進路を次々と塞いでいく。動きを狭められたところへ、レイン砲台から放たれた光弾が撃ち込まれた。
攻撃を受けるたび、少女たちの黒い輪郭が大きく乱れる。腕の一部が砂嵐のようなノイズへほどけ、脚も人の形を保てなくなっていった。傷口が生まれるのではなく、少女を形作る像そのものが削られていくような異様な光景だった。
攻撃を受けた一体が大きく揺らぎ、全身を覆う黒が膨れ上がる。
ノイズが視界を埋め尽くし、公園の景色が消えていく。
●
そろそろ帰ろう。
少女はそう思い、親から持たされていたスマートフォンで時間を確認した。
空はもう随分と暗くなり始めている。
友達はとっくに帰宅し、公園を歩いていた大人たちの姿もいつの間にか見えなくなっていた。
さっきまでベンチに腰掛けていた、よく見掛ける男もいない。
今日は少し残り過ぎたかもしれない。
鞄へスマートフォンを戻そうとした時、背後から突然、腕を回されて身体を抱え込まれた。
「――っ!?」
抱き締めるような動きに見えたのは最初だけで、その力はあまりにも強かった。
片腕で上半身を押さえ込まれ、反射的に上げようとした悲鳴は、口元に貼り付けられた粘着テープによって塞がれる。
「んんっ! んんんっ!」
暴れようとしても、子供の力ではどうにもならない。
恐怖に駆られて視線を上げた少女は、そこにいたものを理解できず固まった。
人間なのは分かる。
しかし顔も身体も、蜘蛛を意匠に取り入れた全身スーツに包まれていた。
蜘蛛を意匠に取り入れた全身スーツは、どこか子供向けのヒーローを思わせる。それなのに、少女を抱え込む腕には助けるための優しさなどなく、逃げようとする身体を力任せに押さえ付けていた。
「見つけたよ……ここにいたんだね、加奈子……」
何を言っているのか分からない。
自分の名前は加奈子ではない。
まして、この男が父親であるはずもない。
少女の中には疑問が次々と浮かんだものの、恐怖に喉まで凍りついたようで、その一つさえ言葉にすることができない。
男が少女の手からスマートフォンを取り上げた。
「こんなの、加奈子にはまだ早いよ」
そのまま地面へ放り捨てる。
スマートフォンは硬い音を立てて地面を転がり、美佳の手が届かない場所で止まった。
それを見て、胸の奥に残っていた僅かな希望まで失われていく。
誰かに助けを求めるための手段まで、奪われてしまった。
「ずっと探してたんだよ。絶対見つけるって諦めずに……パパは、加奈子のヒーローだから……」
この男は狂っている。けれど同時に、これは明らかに狙ってやっていたことだった。
公園にはもう誰もいなくなっている。さっきまでベンチにいた人も、公園を横切っていた通行人も、どこにも見当たらない。
「もう絶対に離さない……パパと一緒に帰ろう……」
帰る。
けれど、男の言う「帰る」が、自分の家を指していないことだけは分かった。
腕を掴まれ、公園の外へ引きずられていく。
必死に足を踏ん張っても、大人の力には抗えない。口を塞ぐテープ越しに何度叫んでも、漏れるのはくぐもった呻き声だけだった。
そのまま近くに停めてあった車まで引きずられ、ドアを開けられる。
車内へ押し込まれ、腕と脚をロープで縛られた。身体を捩って抵抗しても、ロープが肌へ食い込むばかりだった。
ドアが閉まり、やがて車が動き出した。
窓の向こうには、いつも友達と遊んでいた公園が見える。少しでも一日を長くしたくて、一人になっても残っていたその景色が、徐々に遠ざかっていく。
少女は助けを呼ぶこともできないまま、何処とも知れない場所へ連れ去られていった。
●
記憶が途切れた後も、リリンドラはしばらく動けなかった。
最初に見た穏やかな夕暮れが、最悪の形で意味を変えている。
公園に何度も現れて、少女の様子を遠くから眺め、その行動を把握していた。
そして、周囲から人がいなくなった時を狙い、ヒーローの全身スーツで姿を隠して少女を連れ去った者。
「やっぱり……」
口から落ちた言葉は、普段の彼女からは想像できないほど重かった。
誘拐犯が身に纏っていた蜘蛛のスーツは、政夫が大切にしていたヒーローと同じ意匠だった。
何より、あの声を聞き間違える余地はない。
自分たちが今守っている男の声だった。
「道理で、あの幻影を見て叫び声を上げたわけです」
リズも、先ほど自分が生み出した蜘蛛ヒーローの虚像を思い返していた。
少女にとって、あれは英雄ではない。それどころか自分を攫った男の姿そのものだった。
事情を知ろうとして選んだ方法とはいえ、結果的には最も深い恐怖を突き付けてしまったことになる。
「……悪いことをしてしまいましたね」
小さく零したリズの隣で、結は救出した政夫を見つめていた。
「政夫さん……どうして……こんなことを……」
「何を言ってるんだ、お前たち」
苦痛に顔を歪めながら、政夫は困惑した目で三人を見返す。
「俺を襲ってるのは、あっちだろうが!」
その反応に、リリンドラの中で何かが逆撫でされた。
自分たちが見たものを政夫は見ていなかったのかもしれない。
仮にそうだとしても、少女が味わった恐怖は消えない。
何日も公園へ通い、機会を窺い、顔を隠して幼い子供を攫った。父親を名乗り、少女を『加奈子』と呼んだ。
「あんた、自分があの子に何をしたか分かってるの!?」
張り上げられた声に、政夫の肩が跳ねる。
リリンドラは止まらなかった。
「あの子を加奈子の代わりにしようと攫って……!」
「加奈子……」
政夫の表情から、怒りが抜けた。
代わりに、何かを探すような空虚さが浮かぶ。
「あの子は、あんたの娘じゃないわよ!」
「ああ……そうだよ……」
「……え?」
予想していた否定が返ってこなかった。
政夫は項垂れたまま、力の抜けた声で呟く。
「あんなの……俺の娘じゃない……」
ゆっくり顔を上げる。
その目からは先ほどまでの恐怖も困惑も薄れ、濁った何かだけが残っていた。
「俺の加奈子なわけがない……!」
それは、娘を求め続けていた父親とは思えないほどに、冷え切った言葉だった。
●
政夫の行方を追うため、エレノールは再び納戸へ向かっていた。
監獄めいた異界へ変わった廊下を進みながら、先ほど和室で共有した情報を頭の中で整理する。『Re:Member』に登録されていた少女と、仏壇の遺影に写る少女は、よく似ていても明らかな別人だった。
それにもかかわらず、政夫は前者を迷わず娘の加奈子だと認め、後者については写真に誰も写っていないと本気で訴えている。
さらに気掛かりなのは、家の各所で得られた痕跡だった。
リビングでは少女が暴力を受けているらしき過去が垣間見え、和室では痣の残る腕を抱えて泣く少女の光景が全員の意識へ流れ込んだ。
そこへ、納戸で見つけた大量のノートと使い込まれた鞭まで重なる。
――あの部屋で、何が行われていたのでしょう。
考えれば考えるほど、嫌な推測ばかりが形を持ち始める。けれど、まだ推測にすぎない段階で答えを決めるわけにはいかない。
「いえ、記憶を見るまでは結論を出さないようにしましょう」
以前ここを調べた時と同じように、自分へ言い聞かせる。
先に答えを決めてしまえば、それに合う証拠だけを拾いかねない。認識そのものが歪められている可能性まで出てきた今なら、なおさら慎重であるべきだった。
ただし、確かめるための手段はある。
政夫が加奈子と認識している黒い少女へもう一度接触し、その記憶へ踏み込むことができれば、この家で何が起きていたのかを直接知れるかもしれない。
もう一つ、どうしても確かめたい言葉もあった。
――『わたしを返して』。
七三子たちの前で、血の涙を流した少女が残した訴え。何を奪われ、何を返してほしいのか。それを知ることが、二人の『加奈子』という矛盾を解く糸口になるように思えた。
やがて納戸へ辿り着いたエレノールは、周囲に異変がないことを確かめてから扉を開いた。
内部は先ほどと変わらず、物置という本来の用途からはかけ離れた姿を晒している。壁へ埋め込まれた金具、天井から垂れる細い鎖、拘束具を思わせる品々。
そして、その部屋の中央に黒い少女が立っていた。
十歳ほどの小柄な輪郭は辛うじて保たれているものの、顔も衣服も黒い影へ沈み、全身には映像の乱れを思わせるノイズが絶えず走っている。
「わたしは戦いに来たのではありません。ただ、知りたいのです」
エレノールは不用意に近付かず、まず声を届けた。
少女は答えない。表情どころか目の位置さえ判別しづらい姿になっているのに、自分へ向けられた視線だけは奇妙なほど鮮明に感じられた。
「この部屋で行われていたこと。そして、仏壇の遺影に写っていた少女が加奈子さんなのだとすれば、貴方は何処の誰なのか」
返答を待っても、少女は沈黙を守ったままだった。
以前の交霊では言葉を返さず、代わりにノートが隠されていた棚を指し示した。意思が完全に失われているわけではない。少なくとも、こちらの言葉を理解している可能性はある。
「それから、もう一つだけ。どうしても聞かせてください」
エレノールは琥珀色の瞳で少女を見据えた。
「『わたしを返して』とは、どういう意味なのですか?」
わずかな沈黙が流れる。
少女は身じろぎもせず、ただエレノールを見ていた。
「お願いです。わたしはできることなら、貴方のことも助けたい」
警戒を解かないまま、一歩だけ距離を詰める。
その途端、少女の輪郭が激しく乱れた。
「来るなっ!」
「……っ!」
鋭い拒絶と同時に、エレノールの身体が硬直した。
脚だけではない。肩も腕も、指先さえ意思に従わない。呼吸こそできるものの、見えない枷で全身を固定されたように身動きが取れなくなっている。
少女はナイフを握りしめて、ゆっくりとエレノールへ近付いてくる。
先ほどまでとは違い、明確な敵意がある。今の状態で対話を続けるのは難しいと判断し、エレノールは焦りを抑え込みながら、詠唱へ意識を集中させた。
「致し方ありません……。母なる世界樹よ、貴方の大いなる力を我が身に満たし給え!」
呼び掛けに応じ、世界樹の根源へ連なる力がエレノールの内へ流れ込む。
身を縛る冷たい感覚を押し返すように生命の気配が満ち、黒衣の上を淡い光が走った。やがて聖樹を象る鎖が幾筋も伸び、刃を手に迫っていた少女の胴と両腕へ絡み付く。
そのまま少女の身体を引き寄せると、エレノールを拘束していた力が緩んだ。
自由を取り戻すと同時に姿勢を整え、聖樹の鎖に捕らえた少女へ片手を向ける。
「少し、覗かせてもらいますよ?」
|記憶穿光《ハッキング・レイ》の光が放たれた。
細い光線が少女の額へ触れると、そこから黒いノイズが一気に全身へ広がった。納戸の壁も棚も輪郭を失い、エレノールの意識は、少女の内側に残された過去へと呑み込まれていく。
●
少女は納戸の椅子に座らされ、細い身体を背凭れへ固定されていた。腕も脚も拘束され、身動き一つ取れない。
目の前に立つのは、蜘蛛を意匠に取り入れた全身スーツ姿の男だった。
男は仮面を外し、そのまま身体を覆う衣装も脱いでいく。
現れた顔は、伊藤政夫だった。
脱いだスーツを乱雑に放ることもなく、納戸に置かれた棚の扉を開けて奥へ仕舞う。そんな何気ない所作だけを見れば、自宅へ帰ってきて服を片付けているだけのようにも映った。
「おかえり、加奈子……。少し見ないうちに髪が伸びたね」
声音まで穏やかだった。
しかし少女の身体は強張ったまま、目の前の男を恐怖に満ちた瞳で見上げている。
「わたしは加奈子じゃない……星野美佳――痛っ!」
名乗り終えた直後、平手が頬を打った。
顔が横へ弾かれ、遅れて熱を帯びた痛みが広がる。涙の滲んだ目を恐る恐る戻すと、政夫は無表情でこちらを見下ろしていた。
「そんな髪型は加奈子らしくないよ。お父さんが切ってやろう」
それなのに政夫は、何事もなかったかのように優しげな表情へ戻っていた。
鋏と櫛を手に取る政夫を見て、美佳は反射的に身体を捩る。
「やだ……やめっ――痛いっ!」
今度は反対の頬を打たれた。
「わがままを言わないでおくれ」
それは静かな口調だった。だからこそ、行動との乖離に恐ろしさが際立つ。
「ごめんな、加奈子。これ以上お父さんを困らせないでおくれ、な?」
また笑っている。
美佳には、その変化が理解できなかった。
何を言えばまた叩かれるのかさえ分からない。その男が、今は鋏を手にしている。
これ以上怒らせれば、その刃が髪以外へ向けられるかもしれない。そんな想像に怯え、美佳は抵抗することもできなかった。
髪を梳く櫛の感触と、耳元で繰り返される鋏の音だけが続く。
床へ落ちていくのは、自分が伸ばしてきた髪だった。
「ああ、ほらやっぱり。加奈子はこっちの方が似合っているよ」
美佳には覚えのない髪型を、政夫は昔からそうだったかのように褒めた。彼女自身はそれを確かめる術すらない。
満足したらしい彼は、今度は小さな机を椅子の前へ運び、ノートと鉛筆を置く。腕の拘束だけを解かれた美佳は、自由になった両手を胸元へ引き寄せた。
「加奈子は誰かに誘拐されて、どうも少しおかしくなってしまったみたいだ。可哀想に」
美佳は言葉を失った。
自分を公園から連れ去ったのは、今目の前にいる男だ。
それなのに政夫は、そんな事実などなかったかのように、誘拐された娘を心配する父親の顔をしている。
「自分が誰かしっかり思い出せるよう、ここに『わたしは加奈子です』と何度も書きなさい」
「あの……わたし、は……」
「書きなさい」
美佳の手が震えながら鉛筆へ伸びる。
従えば帰してもらえるのかは分からない。それでも拒めば、また叩かれる。それだけは先ほどのやり取りで理解していた。
「でも……」
「書きなさい!」
「ひっ……ちがう、の……ごめんなさい……漢字、分からなくって……」
怒鳴られた恐怖で涙を零しながら、美佳は懸命に説明した。
自分の名前ではないのだから、『加奈子』という漢字など書けるはずもない。
再び殴られるのではないかと身を竦めていたが、政夫の表情は意外にも和らいだ。
「なんだ、そうだったのか。きっと誘拐されたショックで一時的に忘れてしまったんだろう。怒鳴ってごめんね。加奈子の字は……」
一文字ずつ書き方を教えられる。
先ほど自分を殴った男が、今は子供へ勉強を教える父親のように振る舞っている。その歪さに戸惑いながらも、美佳は言われた通り鉛筆を動かした。
『わたしは加奈子です』
まず一度。
続けて二度、三度と書き、一行を同じ文章で埋める。
そこで終わりではなかった。
次の行も、さらにその下も。頁の最後まで辿り着けば、今度は次の頁へ書くよう命じられた。
指が痛くなっても休ませてもらえず、何度も同じ文字を書き続ける。十頁を丸ごと埋めた頃になって、ようやく政夫は鉛筆を置いていいと告げた。
「今度は声に出して読みなさい」
「わたしは加奈子です……」
「もう一度」
「わたしは加奈子です」
「もう一度」
同じやり取りが続いた。
何度繰り返したのか分からなくなる頃には、政夫が促すより先に、美佳自身が次の言葉を口にするようになっていた。
「わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です……」
声は次第に掠れ、意味を考える余裕も失われていく。
それでも、政夫から「もういい」と言われるまで止めることは許されなかった。
「よくできました、加奈子」
満足そうな笑顔とともに、ようやく拘束が解かれた。
けれど、それで終わりではなかった。
翌日も、その次の日も、同じことをさせられた。
ノートへ『わたしは加奈子です』と書き続け、終われば声に出して読み上げる。そんな日課が、一ヶ月ほど続いた。
やがて美佳は、自分の中に芽生え始めた別の恐怖に気付いた。
星野美佳という名前を思い浮かべても、以前ほど確かなものに感じられない時がある。
もしかすると、自分が間違っているのではないか。
本当は加奈子なのに、何かの拍子に自分の名前を忘れてしまっただけなのではないか。
わずかでもそんな考えが浮かぶたび、美佳は自分自身が薄れていくような恐ろしさに襲われた。
一ヶ月を過ぎた頃には、毎日ノートへ向かわされることはなくなった。
けれど、政夫の思い描く『加奈子』らしくない言動をすれば、その度にここへ連れて来られた。
「加奈子はいつそんな悪い子になったんだ!」
「痛い! ごめんなさいっ! 許して、パパ!」
いつからか、罰に使われるものは平手ではなくなっていた。
黒い革の鞭が腕や脚を打ち、細い身体へ幾筋もの赤い痕を残していく。
「ごめんなさい! もうしないから! 良い子になるから!」
「本当に?」
「はい……約束します……」
その答えを聞いた政夫の目が細くなる。
「加奈子はパパに対して敬語なんて使わないよ?」
また間違えた。
美佳は慌てて言い直す。
「……約束、するよ」
「なら、いつものおまじないだ」
折檻の最後には、決まってノートを渡された。
『わたしは加奈子です』と書き、それを声に出して何度も読み上げる。
逆らってはいけない。
加奈子なら、良い子でいなければならない。
加奈子なら、政夫の言う通りにしなければならない。
そうしなければ、またここへ連れて来られる。
「わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です……」
同じ言葉を繰り返すうちに、自分が何を言っているのか分からなくなっていく。
加奈子。
加奈子。
わたしは加奈子です。
そう言わなければならない。
そう思わなければならない。
けれど、その言葉の奥では、消えてしまいそうな自分が必死に訴えていた。
――わたしは誰。
わたしは加奈子です。
加奈子ではない。
わたしは加奈子です。
返して。
わたしを返して。
●
記憶が途切れ、納戸の光景が戻ってきた。
エレノールはすぐには言葉を発せなかった。
先ほどまで見ていたものは、この部屋で少女が実際に経験した過去だ。
誘拐された直後から、自分の名前を否定され、髪型を変えられ、別人として振る舞うよう強制された。
抵抗すれば暴力を受け、従えば優しく扱われる。それを繰り返した末に、自分の名前すら疑い始めるまで追い詰められていた。
「…………」
信じたくないという気持ちはあった。
しかし、記憶の中で政夫が蜘蛛ヒーローのスーツを仕舞った棚まで、はっきりと覚えている。
エレノールは少女を拘束したまま、その場所へ近付いた。
扉を開くと、奥には黒と赤を基調とした布地が収められている。引き出して広げると、記憶の中で政夫が身に着けていたものと同じ、蜘蛛を意匠に取り入れた全身スーツだった。
記憶だけではない。
過去の出来事を裏付ける品が、現実の納戸にも残っていた。
「まだ幼い子供に、なんてむごい仕打ちを……!」
抑えていた感情が声に滲む。
特別な術など必要としない、原始的な方法だった。
暴力への恐怖で抵抗を封じ、本人の名前や自己認識を否定し続け、望んだ答えを返した時だけ優しく扱う。
それを長期間繰り返せば、幼い子供の心がどれほど追い詰められるか、想像するだけでも胸が塞がる。
しかも少女は、知らない誰かになれと命じられたのだ。
自分の名前も、髪型も、振る舞いも否定され、いつか自分自身まで分からなくなるのではないかと怯えながら。
「こんなことが許されていいはずがありません」
納戸を覆う異様な光景も、もう単なる異界の演出には見えなかった。
大量のノートも、使い込まれた鞭も、この部屋が拷問室めいた姿へ変わったことも、一人の少女がここで受けた苦痛へ繋がっている。
そして、その少女が今、黒い怪異となって政夫を襲っているのだとすれば。
少なくとも、この家で何の理由もなく暴れている存在ではない。
エレノールは聖樹の鎖へ意識を向け、その拘束をゆっくりと解いた。
「ごめんなさい……」
必要だったとはいえ、長い間この部屋で自由を奪われてきた少女を、再び同じ場所で縛り付けてしまった。
鎖から解放された少女は、すぐに襲い掛かってはこなかった。黒いノイズに覆われたまま、警戒するようにエレノールを見つめている。
エレノールは改めて少女へ向き直り、頭を下げた。
「貴方が誰なのか、ようやく分かりました。必ず、このことを皆さんにも伝えます」
返事はなかった。
それでも、今までとは違って無理に言葉を求めることはせず、エレノールは蜘蛛ヒーローのスーツを証拠として確保すると、仲間たちへ知らせるため納戸を後にした。
●
フィオは、ここまで集まった情報の中に、どうにも噛み合わない部分があると感じていた。
和室で全員が見た記憶には、痣の残る少女が映っていた。さらに今までの探索結果を合わせれば、長期間にわたって誰かが暴力を受けていた可能性は高い。
状況だけを並べれば、伊藤政夫がその加害者だったと考えるのが最も自然に思える。
それでも、フィオには引っ掛かるものがあった。
――政夫さん、個人的には悪い人には見えないんだよね。
もちろん、人柄だけで罪の有無を判断するつもりはない。
ただ、実際に言葉を交わした政夫からは、誰かを欺くために自分を取り繕っているような器用さを感じなかった。
娘を襲う怪異に怯えていた姿も、加奈子を失った悲しみも、少なくともフィオには演技と思えなかった。
もう一つの疑問は、暴力の激しさだった。
腕に痣が残るほどの虐待が何年も続いていたのなら、学校や近隣の誰かに気付かれ、警察や行政へ繋がっていてもおかしくない。
それが表沙汰になっていないのだとすれば、周囲から発見されない何らかの事情があったことになる。
政夫が全てを巧妙に隠し通していた、と考えることもできる。だが、今目の前にいる彼の印象とは、その像も上手く重ならなかった。
――まだ見えてないところがありそうかな。
政夫の捜索を兼ね、フィオは再び加奈子の部屋へ足を向けた。
異界の侵食によって不自然に広げられた子供部屋は、以前と変わらず、少女らしい家具と牢獄の意匠が同居している。窓には太い鉄格子が嵌まり、淡い色の壁紙の途中から無骨な金属板が覗いていた。
「政夫さんと、大人しい方の加奈子さんも……いないか」
部屋の奥まで気配を探ったが、返事はなかった。
以前ここで出会った少女には、できればもう一度会いたいと思っていた。フィオを警戒しながらも『加奈子』と名乗り、怯えたまま姿を消した少女。あの時必要以上に警戒させてしまったことを謝りたかった。
だが、今はその姿もない。
フィオは改めて室内へ目を巡らせ、ベッドの上に置かれた一体のぬいぐるみへ視線を止めた。
蜘蛛を意匠に取り入れたヒーローを、愛嬌のある姿へデフォルメしたものだ。
「どうにも気になるのは、やっぱりこれかな」
手に取ると、柔らかな布地と中綿の感触が掌へ返ってくる。特別な呪物らしい気配はなく、長く子供部屋に置かれていた普通のぬいぐるみにしか見えない。
政夫の部屋にも、同じヒーローのフィギュアが飾られていたと聞いている。しかも、政夫にとっては加奈子との思い出に結びついた品だったらしい。
「親子でお揃いのヒーローが好きだった、ってことかな?」
もしそうなら、このぬいぐるみも加奈子にとって大切なものだった可能性がある。
何かの手掛かりになるかもしれないと考え、持ち帰るべきかと手にしたところで、部屋の一角が暗く沈んだ。
家具の影が本来よりも濃く沈み、墨を重ねたような黒へ変わっていく。その中から姿を現したのは、フィオが以前ここで会った少女ではなかった。
影のような黒い輪郭で全身にノイズが走っている、もう一人の『加奈子』。
「やっぱり出てくるのは、そっちの方か」
いつでも刀へ手を伸ばせるよう重心を整えたが、少女はすぐには襲い掛かってこなかった。
黒く潰れた顔が、フィオではなく、フィオの手にあるぬいぐるみへ向いている。
「君にとっても、これは特別なものなのかな?」
反応を確かめるため、ぬいぐるみがよく見えるよう僅かに持ち上げる。
少女は一歩退いた。
さらに半歩、距離を取る。
敵へ身構えるというより、見たくないものから逃れようとしているような後退だった。
「ギ……ギギィィ――ッ!」
耳を刺すような金切り声が、子供部屋いっぱいに響いた。
そこにあるのは怒りよりも強烈な拒絶だと、フィオには感じられた。
それでも警戒は緩めない。少女の周囲ではノイズが荒れ、これまでの報告を考えれば、いつ別の攻撃へ転じても不思議ではなかった。
「ギイイィィアアアアアァ!」
異音が破裂するような絶叫を上げて、少女がフィオへ飛び掛かった。
それとほぼ同時に、フィオは腰を落とした。
鞘から抜き放たれた妖刀『無尽廻廊』の緑色の刃に、封じられた妖の力が宿る。その加護を受けた身体が一気に加速し、少女との距離を詰めた。
緑色の刃が少女の首筋を横薙ぎにした。
黒い輪郭が首元で途切れ、頭部が胴から離れる。血は流れず、切断された箇所から大量のノイズだけが溢れ出した。
「これが苦しみからの解放になるかは……ちょっと不安だなあ」
刀を振り抜いた姿勢から身を起こし、フィオは倒れていく少女を見つめた。
妖の力を借りたところで、今行ったことの本質は斬撃にすぎない。怪異の身体を断つことはできても、そこに残された恨みや苦痛まで斬り払えた保証はなかった。
床へ崩れた少女の身体が、黒い砂嵐の塊へ変わっていく。
その揺らぎが急速に膨らみ、部屋の輪郭を呑み込んだ。
フィオの意識へ、別の時間が流れ込んでくる。
●
美佳にとって、伊藤家の中で自由に歩ける場所などほとんどなかった。
自分へと与えられた部屋は、寝起きする場所であると同時に、外へ出ることを禁じる牢屋でもある。
用もないのに扉を開けることは許されない。
たとえ廊下へ出られたとしても、気付かれないことはなかった。
扉を少し開けただけで、向かいにある政夫の部屋の扉も僅かに動く。隙間の向こうに男の顔が現れ、美佳が何処へ行こうとしているのかを黙って見張っていた。
自分の意思で部屋を出ることを認められているのは、トイレや入浴へ向かう時くらいだった。それ以外に外へ出られるのは、食事などで政夫に呼ばれた時だけだ。
美佳を二度と一人にしないためだと、政夫は仕事まで自宅で行うようになっていた。
「これなら、ずっと一緒にいられるだろ」
そう言われても、美佳には喜べなかった。
政夫が外出するのは、食料や生活用品を買いに行く時くらい。その間も、美佳の部屋の扉には外側から鍵を掛けられる。
夜も同じだった。
政夫が眠る時間になれば扉は施錠され、家の中が静まり返った後で逃げ出すこともできない。
窓には鍵だけでなく、外へ出られないよう細工が施されている。大声で助けを求めようとしても、政夫が近くにいる以上、見つかった後に何をされるのかという恐怖が先に立った。
そうして、変わらない日々が何年も積み重なっていった。
学校へ行くことはできない。
代わりに、政夫が買ってきた学習用のドリルを部屋で解かされる。
美佳が十一歳になっても。
十二歳になっても。
十三歳になっても。
渡される教材の内容は、ほとんど変わらなかった。
今日で十五歳になる。
それでも机の上に置かれているのは、九歳や十歳の子供が使うような問題集だった。
部屋の中にある本や玩具も同じである。幼い子供向けの児童書、可愛らしいぬいぐるみ、昔のままの小物。身体は成長しているのに、周囲のすべてが、ここへ連れて来られた頃へ自分を押し戻そうとしている。
髪も伸ばすことは許されなかった。
ある程度長くなれば、政夫が鋏を持ってくる。
「加奈子は、この髪型が一番似合うんだ」
そう言って、毎回ほとんど同じ形に切られた。
鏡の中に映る自分が少しずつ大人へ近付いても、髪型だけは変わらない。
そんな生活の中で、美佳が特に目に入れたくないものが一つあった。
蜘蛛のヒーローのぬいぐるみ。
公園から攫われたあの日、政夫が着ていた衣装を思い出させる存在だった。
子供向けに丸く可愛らしく作られた顔も、美佳には恐怖の象徴にしか見えない。
以前、一度だけ耐えられなくなり、ぬいぐるみを押し入れの奥へ押し込んだことがある。
見なければ、少しは眠りやすくなると思った。
そのまま放置していたら、それに気付いた政夫が激怒した。
「何をしてるんだ!」
「ご、ごめんなさい……」
「これはパパと加奈子の大事な思い出だろ! 加奈子は親子の絆を押し入れになんか入れる子じゃない!」
その日は、長い折檻を受けた。
それ以来、ぬいぐるみは常に寝床の近くへ置かれるようになった。
眠ろうと目を閉じれば、公園で背後から掴まれた時の記憶が蘇る。目を開ければ、あの日の恐怖を呼び起こすヒーローがすぐそばにいる。
部屋に一人でいる時間さえ、美佳にとって安息にはならなかった。
政夫が望んでいるのは、自分ではない。
彼が見ているのは、自分の記憶の中にいる『加奈子』だ。
話し方や性格、好きなものから髪型まで、昔の少女と同じであることを求めてくる。
けれど、身体の成長だけは止められなかった。
背は伸びる。
体つきも変わる。
幼い頃の服は着られなくなり、身体に必要なものも増えていく。
さすがにそれだけは無視できないのか、政夫は定期的に身体へ合う衣服や下着を用意した。
新しい服を渡す時、美佳はいつも政夫の顔を見ないようにしていた。
以前より冷たくなった目が、自分の身体を確かめるように向けられるからだ。
変わっていくことそのものを、責められているように感じる。
「……ありがとう」
そう言って受け取るたび、次は何処を『加奈子と違う』と言われるのか分からない不安が胸へ溜まっていった。
●
子供部屋の景色が戻ってきた。
フィオは数秒の間、刀を構えたまま動かなかった。
流れ込んできたものを、頭の中でもう一度整理する。
少女が外へ助けを求めなかったのではない。
求められないように閉じ込められていた。
学校へ通わず、外部の人間と接触する機会もない。政夫自身がほとんど家を離れず、留守の時にさえ部屋は施錠される。
それなら、身体にいくつ痣が残っていたとしても、警察や周囲の大人に気付かれる機会そのものがない。
「……そういうことか」
先ほど自分が抱いた疑問の一つが、最悪の形で解けた。
フィオは刀を収めると、部屋のクローゼットへ向かった。
記憶の中では、美佳の身体の成長に合わせ、衣類だけは少しずつ大きなものへ取り替えられていた。
扉を開く。
子供向けの服に混じり、奥には明らかに十歳程度の少女には大きすぎる衣類が収められていた。丈も肩幅も違い、記憶の中で美佳に用意されていた衣類の変化とも一致している。
この部屋で暮らしていた少女は、十歳の姿のままではなかった。
「監禁と虐待は……もう疑いようがないか」
口にしてみると、その言葉は思っていた以上の重さを伴った。これまでに見た記憶と残された痕跡を重ねれば、認めたくなくてもその結論から目を逸らすことはできない。
伊藤政夫は別の少女をこの家へ閉じ込め、加奈子として生きることを強要していた。
そこまでは、これまで見た記憶と残された物証で説明がつく。
それでも、和室で保護されていた政夫の態度には、もう一つの矛盾が残っている。
黒い少女に怯え、何故娘から憎まれているのか本気で分からない様子だった。加奈子を失った時のことを語った際にも、嘘を組み立てているようには見えなかった。
あれほどのことをしておいて、すべてを忘れたふりをしているのだとすれば、政夫は相当な演技を続けていることになる。
だが、フィオにはやはりそう思えなかった。
「政夫さん自身も……記憶がない?」
それなら、二つの像が同時に成立する。
少女を監禁し、虐待していた過去の政夫。
その事実を本当に知らず、今も自分を普通の父親だと思っている現在の政夫。
どうしてそんな状態になったのかは、まだ分からない。
けれど、もしそこにもこの異界や怪異が関わっているのだとしたら、自分たちがまだ見つけていないものは想像していた以上に大きいのかもしれなかった。
●
七三子とシアニが再びリビングへ戻ってきた時、そこに政夫の姿はなかった。
一度目の探索から大きく変わった様子はなく、生活空間へ鉄格子や錆びた鎖が食い込んだ異様な光景が残されている。
それでも、和室で政夫が連れ去られてから新たな変化が生じた可能性はある。二人は互いの死角を補える距離を保ちながら、改めて室内を調べ始めた。
「今度は、もう少し細かく見てもらいましょう」
七三子が|警邏作戦《パトロール》を発動すると、彼女と同じ組織に所属していた戦闘員たちの幻影が次々と姿を現した。彼らは家具の隙間や棚の裏まで手分けして確認し、誰かが隠れていないかだけでなく、一度目の探索では見当たらなかった物が現れていないかにも注意を向けていく。
七三子とシアニも捜索へ加わったが、意識の片隅には和室で明らかになった二人の少女のことが重く残っていた。
「さっき泣いてた子、多分ここであたしが視た子と同じだよね……」
シアニが思い返しているのは、黒い少女から全員へ流れ込んだ記憶だった。和室の隅で膝を抱え、青紫色の痣が残る腕を庇うようにして「もうやだよ」と泣いていた少女。
その顔は、以前このリビングで現れた少女や、政夫が娘だと断言した写真と一致している。
しかも、シアニの|竜眼・過去視《メモワール》が辛うじて捉えた光景でも、同じ少女と思われる人影が誰かから繰り返し暴力を受けていた。
「そうだと思います。それに、あの子たちは……まるで『加奈子』を名乗らされているみたいでした」
七三子の耳には、|降霊の祈り《ゴーストトーク》によって姿を得た少女が残した声が、今もこびりついている。身体の輪郭を崩し、血の涙を流しながら、問い掛けには答えないまま告げた一言。
「『わたしを返して』……ずっと、あの言葉が気になっています」
自分が自分であることを否定され、他の誰かになれと強要されていたのだとすれば、それが少女にどれほどの苦痛を与えたのかは想像できる。何があったのかは、まだ分からないとしても。
「……自分が、私じゃなくなるって、ヤですね」
七三子の声音から、普段の軽やかさが僅かに薄れた。
シアニも同じ違和感を抱えていた。
――だとしたら、誰があの子にそんなことをしたの?
真っ先に浮かびかけた人物の名前を、そこで振り払う。
政夫だと決めつけるには早い。娘を失った悲しみに付け込まれ、怪しいアプリへ縋った末に事件へ巻き込まれただけの父親であってほしいという気持ちも、まだ消えてはいなかった。
――疑うなら、ちゃんと確かめてからにしないと。
そんなことを考えながら室内を見回していたシアニの隣で、七三子は以前調べた棚の引き出しを開いた。
中には、五年前の日付が記された授業参観のプリントと、壊れた写真立てが以前と同じ状態で残されている。一度目はプリントの日付へ注意を引かれていたため、今度は写真立てそのものを手に取って確かめることにした。
「写真は……やっぱり入っていませんね」
ガラスにはひびが入り、フレームの角も曲がっている。強い衝撃を受けたことは分かるものの、原形を留めないほど壊れているわけではない。
それなのに、本来収められていたはずの写真だけが失われていた。
「これも、他の写真と同じなんでしょうか……」
政夫の部屋を調べたクラウスたちから、加奈子の写真や動画は紙媒体にも電子データにも残っていなかったと聞いている。今のところ確認できたのは、政夫がアプリに登録した一枚と、押し入れから発見された仏壇の遺影だけ。その二枚には、それぞれ別の少女が写っていた。
幻影の戦闘員たちにも周囲を念入りに探してもらっているが、写真らしきものは一向に見つからない。
「どうしたの?」
写真立てを手に考え込んでいる七三子へ気付き、シアニが隣から覗き込む。
「これって、前もこの引き出しに入ってたんだよね?」
「ええ。授業参観のプリントと一緒に仕舞われていました」
写真立てには目立った埃も積もっていない。引き出しの中に仕舞われていたのなら、それ自体は不自然ではなかった。
「なんで、壊れてるのに捨てなかったんだろう……」
その疑問を耳にした七三子の表情が変わる。
「……それですっ!」
「ふえっ!?」
思いがけない反応に、シアニが驚いて身体を引いた。
「すみません。でも、気にするべきなのは写真がなくなった理由だけではなくて、壊れた写真立てがどうしてここへ仕舞われたのか、なのかもしれません」
「どういうこと?」
「シアニさんなら、壊れた写真立てを捨てずに引き出しへ入れるとしたら、どういう時ですか?」
問われたシアニは、ひびの入ったガラスと歪んだフレームを見比べた。すぐに捨てなければ危険というほどではないが、そのまま飾り続けるには気になる破損である。
「ええと……今は片付ける時間がないから、とりあえず引き出しに入れておいて、後で何とかしようとか?」
「はい、私も同じことを考えました。例えば、今は手が離せないから一旦しまっておいて、時間ができてから処分するとか」
ガラスが粉々に砕けていたなら、その場で掃除をする必要もあっただろう。だが、この程度のひびと歪みなら、ひとまず人目につかない場所へ避けて後回しにすることは十分考えられる。
そこでシアニは、空になったフレームへ改めて目を向けた。
「じゃあ、中に入ってた写真は?」
「写真立てに飾っていたくらいですから、大事なものだった可能性は高いですよね。壊れたフレームと一緒にして傷付けないよう、写真だけ取り出して別の場所へ置いた……ということは考えられます」
もちろん、それだけで説明がついたわけではない。写真そのものが見つからないのは、この家から他の写真が消えているのと同じ原因かもしれない。
七三子が気にしているのは、むしろ写真を取り出した後の方だった。
「でも、それならこの写真立ては、後で片付けるつもりでここへ入れたことになりますよね」
その言葉を受け、シアニも引き出しの奥へ視線を落とす。
「なのに、ずっとそのままだった……?」
「はい。プリントと同じ頃に仕舞われたものなら、五年間もです」
もし後で処分するつもりで仕舞ったのだとすれば、それが今まで残されていたことになる。
単に忘れていた可能性はあるにはある。それでも五年という長さを考えれば、別の理由を疑う余地もあった。
「なんだか、ここだけちょっとしたタイムカプセルみたいだ……」
シアニの言葉に、七三子は五年前の日付が残るプリントと写真立てを見比べた。
「そうですね。もし、これが単なる片付け忘れではないのなら……仕舞った後、この引き出しへ触れることすらできなくなるような出来事が起きた、とか」
慎重に選ばれた言葉の意味を察し、シアニの表情からも明るさが消える。
「それって、まさか……」
「……あくまで想像ですけど、この頃に加奈子さんが亡くなったのなら、ここに残された物を見ること自体が政夫さんには辛くなったのかもしれません」
もし、この壊れた写真立てが加奈子の亡くなる直前に起きた何かと結び付いているのなら、その後は引き出しを開くこと自体が辛くなったと考えることもできる。
そう考えれば、壊れた写真立てが五年間そのまま残されていたことには、一応の説明がつく。
「そんな……でも、今年のカレンダーには加奈子ちゃんの誕生日が書いてあったよね?」
シアニの指摘に、七三子は小さく頷いた。
五年前の品には触れられなくなったように見える一方で、加奈子の誕生日は今年まで書き込まれ続けている。その違いだけで何かを断定することはできない。それでも、二枚の写真に写っていた少女が別人だった事実まで重ねると、七三子には無視できない違和感が残った。
「やっぱり、この家にはもう一人の加奈子さんが――」
言葉が最後まで続く前に、周囲を捜索していた戦闘員の一人から異変が伝わってきた。
七三子は即座にその幻影と視界を共有する。
キッチンに近い壁際。つい先ほどまで何の異変もなかった床で、影だけが不自然なほど濃く膨らんでいる。
やがて黒い染みの中から細い腕が伸び、続いて少女の頭部が浮かび上がった。床へ落ちた影そのものを抜け道にしたように這い出してきたのは、全身をノイズに覆われた『加奈子』だった。
「見つけました!」
七三子の合図を受け、幻影の戦闘員たちが素早く少女を取り囲んだ。
すぐに襲い掛かられても対応できるよう距離を保ちながら、シアニたちへ一直線に近付けない配置を取る。
「待って。もう一度、話をさせて!」
包囲の内側へ入ろうとしたシアニを見て、七三子が咄嗟に声を掛ける。
「シアニさん……!」
「ごめん、見下さん。話が通じないかもしれないのは分かってる。でも、さっきの記憶と、あの子が泣いてた姿を思い出したら……」
目の前の少女が既に何度も攻撃的な行動を見せていることも、対話に応じない可能性が高いことも、シアニは理解している。それでも、最初から言葉を捨てることだけはしたくなかった。
その思いを汲んだ七三子は少しだけ迷った後、戦闘員たちへ包囲を維持するよう合図する。
「……分かりました。お願いします。でも、危なくなったら私も止めますからね」
「うん。ありがとう」
シアニは少女から十分な間合いを保ったところで足を止め、刺激しないよう穏やかな声を掛けた。
「あなたのお名前は、なんていうの?」
黒い少女は答えず、ただシアニへ顔を向けている。
「大丈夫。ここにはあたしたちしかいないから。『加奈子』じゃなくてもいいんだよ」
その言葉が届いたのかどうかも分からないまま、少女が床を蹴り、シアニへ飛び掛かった。
シアニへ向けて振り下ろされた両腕を、魔術で硬化させたマフラーが絡め取る。正面から力で押し返すのではなく、勢いを横へ流して軌道を逸らしながら、それでもシアニは呼び掛けを止めなかった。
「何か、あたしたちにしてほしいことはある? できることなら手伝うよ!」
返ってきたのは言葉ではなかった。
キッチンの方から金属の擦れる音が立て続けに響き、包丁差しに収まっていた包丁が一本ずつ宙へ抜け出していく。切っ先が揃ってシアニへ向けられたのを見て、七三子は迷わず割って入った。
「わ、包丁はダメです!」
飛来した一本目をナックルナイフで弾き、続く二本目も横から打ち落とす。残った包丁が七三子へ向きを変えた時、彼女は包囲していた戦闘員の一人と位置を入れ替え、少女の死角へ回り込んだ。
そのまま振り返る隙を与えず、七三子の蹴りが脇腹へ入る。
できる限り力は抑えた。それでも改造された肉体から放たれる一撃は軽くなく、少女の小柄な身体が大きく後方へ弾かれ、床を滑っていった。
衝撃を受けた脇腹から黒いノイズが広がり、少女の輪郭を激しく乱していく。
「……また、あれが来ます!」
和室で経験した現象を察し、七三子が身構える。
少女を覆った砂嵐が急激に膨れ上がり、リビングの景色は黒い揺らぎの向こうへ沈んでいった。
●
朝の食卓には、食器が触れ合う小さな音だけが続いていた。
美佳の向かいには政夫が座り、ほとんど言葉を交わさないまま朝食を口へ運んでいる。
以前なら、食事の時間にはもう少し会話があった。何を食べたいか。今日は何をして過ごすか。テレビで見た番組のこと。政夫の記憶にいる『加奈子』について語られることも多かったが、それでも今ほど息苦しい時間ではなかった。
最近は違う。
美佳が何か話せば、政夫は言葉遣いや仕草を以前より細かく見るようになった。顔を合わせれば、容姿を確かめるような視線が長く注がれる。
そのたび、自分の何処かがまた『加奈子らしくない』と判断されるのではないかと、美佳は無意識に身体を強張らせていた。
「加奈子は、今日で幾つになるんだったか」
不意に尋ねられ、美佳の箸が止まる。
「十五歳だよ……」
「そうか……もうそんなにか……」
政夫はそれきり黙り、再び食事へ戻った。
去年に付けられた誕生日のマークは、加奈子の成長によって、政夫にとって喜ばしいものではなくなっていた。
昔は、恐くても、狂っていても、自分へ投影された政夫の娘への優しさは感じていたのだ。
それは決して喜ばしいものではなかった。しかし、それすらも薄れている現状は、美佳にとって別種の恐怖となっている。
何も起きなかったことに安堵しかけた直後、政夫の掌が食卓を強く叩いた。食器が跳ね、激しい音を立てる。
「お前のどこが加奈子なんだ!」
「ひっ……!」
突然浴びせられた怒声に、美佳の背中へ一気に緊張が走る。
「喋り方も、態度も、全然違う!」
「もう五年も経ったんだから……あの頃と同じじゃ――」
最後まで言う前に、政夫が椅子を蹴るように立ち上がった。
食卓を回り込んで来る姿を見ても、美佳には逃げる時間がない。伸びてきた手に髪を掴まれ、頭皮が引き攣るほど強く引かれた。
「痛っ……!」
「加奈子はそんな言い訳しない!」
「ご、ごめんなさい……!」
平手で頬を打たれ、顔が横を向く。それでも髪は掴まれたままで、さらに強い力で上を向かされた。
「加奈子はそんな目で俺を見ない!」
何が正しいのか、美佳にはもう分からなかった。
怯えれば怒られる。恐怖を隠そうとしても、態度が違うと言われる。政夫の記憶にいる少女と同じでなければ、どんな反応をしても間違いになる。成長すればするほど、『間違い』は大きくなっていく。
美佳の顔を間近から睨みつけていた政夫の表情が、さらに険しくなる。
「加奈子は……こんな顔じゃない!」
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「どうしてだ。昔はあんなにも優しく見つめてくれる子だったのに……!」
続いて振るわれた拳が頬へ当たり、重い衝撃で美佳の身体が椅子ごと揺れた。
「ごめんなさい……ごめんなさい。もうやめて、叩かないで……」
「うるさい! 誰だ、お前は!」
その問いを聞いた途端、美佳の口から、長い時間を掛けて教え込まれてきた答えが零れた。
「わたしは加奈子です……わたしは、加奈子、ですっ……!」
それでも政夫の怒りは収まらない。
髪を掴んだまま頭を引き上げ、今度は美佳の顔を食卓へ叩きつけた。
「わたしは加奈子です! わたしは加奈子です! わたしは……加奈子、です……!」
何度も食卓へ顔を打ちつけられ、視界が揺れる。それでも、美佳は同じ言葉を繰り返した。
自分は加奈子だと言えば、いつか許してもらえる。これまでは、そうして政夫の怒りが収まるまで耐えてきた。
だが、この日は違った。
「来い!」
「いやっ……!」
髪を掴まれたまま強く引かれ、美佳は椅子から床へ転げ落ちた。
「痛い、痛いっ! やめて、お願い!」
引きずられるたびに膝や腕が床を擦った。それでも、政夫の足は止まらない。
向かっている先が何処なのか、普段の美佳には分かっていた。
逆らえば連れて行かれる、あの納戸だ。
けれど、今までとは違う。これまでの折檻では済まないのではないかという予感が、美佳の恐怖をさらに掻き立てた。
逃げようとするほど髪を引かれる痛みは増し、美佳は悲鳴と謝罪を繰り返しながら、リビングの外へ引きずられていった。
●
現在のリビングの光景が戻ってきても、シアニは顔をしかめた。
政夫を疑いたくなかった。
娘を失った悲しみに付け込まれ、異常な事件へ巻き込まれただけの人であってほしい。そう願っていた気持ちは、今見た過去によって打ち砕かれてしまった。
七三子も急かすような声は掛けず、少し離れた位置からシアニの様子を見守っていた。
「シアニさん……」
しばらくして静かに名前を呼ばれ、シアニはようやく七三子へ顔を向ける。
「見下さん、時間をくれてありがとう」
浮かべた笑みには痛ましさが残っていたが、声は先ほどより落ち着いていた。
それから、床へ倒れたままの黒い少女へ視線を向ける。
蹴りを受けた身体の広い範囲にノイズが走り、輪郭そのものが崩れかけていた。今にも消えてしまいそうな姿を前に、シアニは胸の奥に残る痛みを堪えながら、声を掛ける。
「きっと、あなた自身を取り返すから……ごめんね」
返事はなかった。
だが、少女を覆うノイズが大きく波打ち始める。
「え……?」
七三子が変化を見逃さないよう目を凝らす中、消滅すると思われた黒い砂嵐は少女の身体を削るのではなく、その輪郭を別の形へ組み直していった。
幼かった手足が伸び、華奢な身体つきも年齢相応のものへ変わっていく。十歳ほどだった背丈はみるみる高くなり、立ち上がった時にはシアニを上回っていた。
顔を覆っていたノイズも、少しずつ薄れていく。
そこに現れたのは、先ほど記憶の中で暴力を受けていた十五歳近い少女の姿だった。
二人がこれまで『加奈子』として見てきた幼い姿ではない。
この家へ連れ込まれた後も年月を重ね、成長していた少女の本来の姿が、初めて現在の異界へ現れていた。
●
同じ場所を調べ直す者も少なくない中、アーシャが向かったのは浴室だった。
「なんかよく分かんないけど、ずいぶんややこしいことになってきたわねぇ……。や、元々ややこしかったかしらね」
先ほど和室で流れ込んできた記憶には、痣の残る少女が映っていた。
政夫が加奈子と呼んでいる少女と同じ顔ではあったが、彼女が本当に娘本人なのか、それとも遺影に写る少女の方が加奈子なのかは判然としない。
分からないなら調べるしかない。
そのうえで浴室を選んだのは、そこが最も危険で、同時に最も凄惨な過去へ繋がっている可能性が高いと踏んだからだった。
紫水とエアリィから聞いた話では、浴槽からは同じ姿をした少女が次々と現れ、部屋そのものも他の場所以上に血生臭い異界へ変貌していたという。
少女たちに事情があると分かり始めたことで、戦うこと自体に抵抗を覚えている仲間もいる。
だからこそ、ここは自分が行けばいい。
相手が被害者であろうと、襲われるままになってやるつもりはない。必要なら叩き伏せ、その先にあるものまで見届ける。それくらいの割り切りなら、アーシャにはできた。
浴室へ近付くにつれ、曇ったガラス戸の向こうを横切る影が増えていった。
最初は一つだった。次に二つ。
やがて数える意味がなくなるほど重なり、狭い浴室の中を同じ背丈の加奈子たちがひしめいている。
立っている者だけではない。浴槽の縁へ上半身を預けたまま動かない者や、床へ四肢をついて這う者もいる。どれも十歳ほどの少女の輪郭を持ちながら、身体は黒いノイズへ沈み、人間らしい表情が削り取られていた。
「……本当に、うじゃうじゃいるわね」
アーシャが扉へ手を掛けた時には、ガラスの向こうにいた加奈子たちが既にこちらを向いていた。
戸を引き開ける。
押し込められていたものが溢れ出すように、少女たちが殺到した。
「アタシは邪魔する連中に容赦する気はないわよ」
踏み込んでくる群れへ背を向けることなく、アーシャは片腕を広げた。
その背後で炎が膨れ上がり、竜の顎を思わせる頭部を幾つも形作る。炎の首は蛇のようにうねりながら伸び、先頭を走る少女たちへ一斉に食らい付いた。
「燃え尽きなさい!」
炎の鞭が二体、三体の少女の胴へ巻き付き、そのまま別方向へ振り抜かれる。
互いの身体をぶつけながら加奈子たちが浴室の壁へ叩き付けられ、黒いノイズが飛沫のように弾けた。空いた中央へアーシャ自身が踏み込み、炎をすり抜けて懐へ入った一体の肩口へ竜爪を振り下ろす。
黒い身体が裂ける。
だが、左右から同時に伸びてきた腕が、次の攻撃へ移る前のアーシャを掴もうとした。
片方を籠手で払い、もう片方へ肘を叩き込む。その背後から三体目が飛び付いてきたところへ、竜鱗に覆われた尾が少女の脚を薙いだ。
重い衝撃を受けた少女が横へ吹き飛び、後続を巻き込む。
それでも勢いは止まらなかった。
倒れた身体の上を別の個体が踏み越えてくる。
浴槽の中から新しい腕が伸びる。
壁際の影からも、一人、また一人と浮かび上がってくる。
「減ってる気が、全然しないわね……!」
炎の鞭を引き戻し、アーシャは前方へ大きく振るった。
燃える竜頭が横薙ぎに群れを払い、浴室の片側へ加奈子たちを押し込む。狭い場所なら、数が多いほど互いが邪魔になる。そう判断した直後だった。
「ギィィィィィィ――ッ!」
壁際へ追い詰められた少女たちが、ほぼ同時に口を開いた。
甲高い絶叫が一つの塊となって浴室を満たす。
「あぐっ……!」
耳で聞いたというより、頭蓋骨そのものを内側から殴られたような衝撃だった。
視界が二重にぶれ、奥歯が震える。
展開していた炎の鞭まで一斉に軌道を乱し、少女を拘束していた一本が壁際へ大きく逸れた。
その隙を、黒い群れは逃さない。
一体がアーシャの腕へしがみ付き、別の一体が腰へ飛び付く。さらに壁際から、刃物を握った個体が人混みを縫うように迫ってきた。
「っ、この……!」
腕へ絡み付いた身体を力任せに振り払いながら、振り下ろされた刃を籠手で受ける。
甲高い金属音が絶叫へ混じった。
受け止めた刃を外側へ弾き、少女の胸元へ肩を叩き込む。それでも腰へしがみ付いていた一体が離れず、爪を立てるようにしがみ付いてくる。
アーシャは身体を捻った。
尾が壁を叩くほど大きく振られ、その勢いのまま少女を床へ叩き落とす。
「数で押せばどうにかなると思ってんじゃないでしょうね!」
怒鳴り返す声すら、次に重ねられた悲鳴へ飲み込まれた。
今度は真正面だけではない。
左右。
背後。
浴槽の中。
同じ加奈子たちが別々の高さから絶叫し、幾層もの音が浴室の中で反響する。
どこから攻撃されているのか、耳では判別できない。
炎の鞭で壁際を薙いでも、手応えの直後に別の影が横から飛び込んでくる。
竜爪で一体の腹部を裂き、続けて肘を別の少女の顔へ叩き込みながらも、アーシャの足元は徐々に乱れていった。
頭の中で絶叫が反響し続け、足運びが少しずつ乱れていく。
加奈子たちは、その僅かな隙も逃さず群がった。
一体が背後から肩へしがみ付き、もう一体が膝裏へ腕を回そうとする。
「しつっこいのよ!」
アーシャは前へ倒れ込む寸前で踏み止まり、肩へ乗った少女の腕を掴んだ。
そのまま強引に前方へ引き剥がし、迫っていた別の一体へ投げ付ける。
二つの黒い身体がぶつかって床へ崩れる。
けれど、その向こうからまた同じ顔が見えた。
右にも。
左にも。
浴槽の中にも。
どこを見ても、加奈子がいる。
同じ姿が増殖しているという事実そのものが、戦闘の最中にもかかわらず異様だった。
「根比べってやつね……!」
頭蓋の奥へ突き刺さる絶叫を堪え、アーシャは口元を歪めた。
「付き合ってあげるわよ!」
背後に残っていた炎が一斉に膨張する。
今度は個別に狙わない。
幾つもの竜頭が浴室の中央を縦横に走り、少女たちの身体へ絡み付きながら強引に群れを引き剥がしていく。
アーシャもその中央へ踏み込んだ。
炎から逃れた一体を竜爪で斬り払い、横から飛び掛かった加奈子には尾を叩き付ける。
至近距離まで入り込まれ、腕を絡め取られれば、振りほどくより先にその肩へ牙を食い込ませた。
倒しても裂いても、焼いても次が来る。
やがて加奈子たちから溢れた黒い砂嵐が、膝の高さまで立ち込めるほど浴室を満たしていた。
そこへ絶叫が重なるたび、ノイズそのものまで震える。
赤黒く染まった浴室の壁が揺らぎ、少女たちの身体が二重、三重にぶれて見え始める。
アーシャが爪を振るう。
確かに一体を斬ったはずなのに、その身体の奥から同じ少女がもう一人現れたように見えた。
「……っ!」
違う。増えたのか、視界が壊れているのか、それすら判別できない。
絶叫に揺さぶられた脳が、まともに景色を組み立てられなくなっている。
正面から迫る影へ尾を振ったはずが、手応えがない。
代わりに右肩へ冷たい腕が絡み付く。
爪で振り払い、振り向いた先では、浴槽から何本もの腕が伸びていた。
少女の腕。
同じ太さ。
同じ肌。
そのすべてが浴槽の縁を掴み、黒い水面の下から這い出そうとしている。
「……何なのよ、これ」
息を吐く間にも、一人の頭が水面から現れる。
続いて二人目。三人目。その顔を覆うノイズの向こうで、口だけが開いた。
絶叫が響く。
アーシャの視界が大きく歪んだ。
浴室も加奈子も、自分の手足さえ映像の一部を切り取ってずらしたように何重にも重なる。
黒い砂嵐が視界いっぱいまで膨れ上がり、その奥で今までとは違う映像が形を取り始めた。
激しく戦っていた少女たちの姿が薄れていく。
代わりに、まだ血にもノイズにも汚れていない浴室の扉が見えた。
その扉が、外側から勢いよく開かれた。
●
扉が壁へ叩き付けられるような勢いで開いた。
「痛いっ! わたしは加奈子です! わたしは加奈子です! わたしは加奈子です! もうやめてっ!」
美佳が浴室へ引きずり込まれてくる。
政夫は美佳の髪を鷲掴みにし、頭皮を引かれる痛みに顔を歪める彼女を引きずっていた。
美佳は両手で必死に、その手首へ縋り付いている。
「ごめんなさい! ちゃんとするから! 良い子にするから! わたしは加奈子です、だから――」
政夫は答えない。
浴槽まで美佳を引きずると、片手で蓋を乱暴に押し退けた。
浴槽には水が張られ、その水面は波一つなく静まり返っていた。
その静かな水面を目にして、美佳の顔から血の気が引いた。
「やだ……」
これから何をされるのか、理解してしまった。
「やだ、ごめんなさい! ごめんなさい! わたしは加奈子です、わたしは加奈子です、わたしは加奈子です! だから、もう――」
言葉の途中で後頭部を押さえられ、頭ごと水中へ沈められた。
水面が激しく弾け、叫びは水の中で潰れる。代わりに、口元から幾つもの泡が浮かび上がった。
「お前は加奈子じゃない!」
政夫の声だけが、水の向こうから濁って響いてくる。
美佳は浴槽の縁を掴み、両腕へありったけの力を込めた。身体を起こそうとするたび、後頭部を押さえる手にさらに力が加わる。
「お前が加奈子なわけがないだろっ!」
苦しい。
鼻から水が入り、顔を包む冷たさと息苦しさが意識を埋め尽くしていく。
息を吸いたいという本能が、頭の中から他の考えを追い出していく。
ひたすらに美佳は暴れた。
政夫の腕を引っ掻き、浴槽を蹴り、どうにか顔だけでも水から出そうとする。
「お前は加奈子じゃない、加奈子じゃない、加奈子じゃない、加奈子じゃない!」
その言葉が何より恐ろしかった。
五年近く、違うと言えば殴られた。
星野美佳だと名乗れば否定され、『加奈子』であることを何度も何度も書かされ、声に出させられた。
なのに今は、加奈子ではないという理由で殺されようとしている。
どちらを選んでも間違いになる。
何を言っても、もう助からない。
肺が限界を訴え、堪え切れずに口が開く。
最後に残っていた空気が泡となって水面へ昇り、代わりに冷たい水が喉の奥へ入り込んだ。
暴れていた手から力が抜けていく。
浴槽の縁に掛かっていた指が一本ずつ滑り落ち、やがて美佳の身体は政夫に押さえられるまま動かなくなった。
それでも彼は、すぐには手を離さなかった。
「違う……加奈子じゃない……加奈子じゃない……」
水面に浮かぶ髪を見つめながら、同じ言葉を繰り返している。
ようやく引き上げられた美佳の身体は、浴槽の縁へ力なくもたれ掛かった。
濡れた髪から落ちる水滴だけが、一定の間隔で床を叩いている。
胸は動かない。
呼吸も戻らない。
その光景を、美佳は見ていた。
見ているはずのない場所から。
浴室の上方へ浮かび、自分自身だった身体を見下ろしている。
手を伸ばそうとしても、腕がない。声を出そうとしても、喉がない。それでも意識だけは消えず、床へ横たわる自分と政夫の姿を鮮明に捉えていた。
――おかあさん。
助けを求めても、誰にも聞こえない。
政夫は動かなくなった身体をしばらく眺めていたが、やがて憑き物が落ちたような声を漏らした。
「ああ、加奈子……本物の加奈子を探さないと。きっと寂しい思いをして俺を探してる」
美佳には意味が分からなかった。
自分を加奈子にしたのは、目の前にいるこの男だ。
髪を切って名前を奪った
話し方まで矯正して、子供のままでいることを強要してきた。
加奈子ではないと訴えるたびに殴ったのも政夫なのに、今度はその美佳を偽物だと言う。
「その前に、これを片付けないとな」
政夫が見下ろした先には、美佳の身体がある。
けれど、その眼差しからは、そこに人間がいるという認識そのものが抜け落ちていた。
娘でもない。
殺した少女ですらない。
使い終わり、邪魔になった物。
政夫はいったん浴室を離れると、ほどなくして手鋸を持って戻ってきた。
その刃を見た時、美佳の意識に、死ぬ直前とは別の恐怖が走った。
――やめて。
政夫には届かない。
床へ膝をつき、着ているものを脱がせると手鋸の刃を身体へ当てる。
ぎ、と。
硬い音が浴室へ響いた。
刃が往復するたび、濡れた身体が床の上で僅かに揺れる。
美佳は目を逸らすことすらできなかった。
――やめて。
死んでいるのだから、もう痛くないはずだった。
それなのに、鋸が動くたび、自分の中まで削られていくような感覚がある。
政夫の顔には怒りも悲しみもない。
先ほどまで首を押さえながら喚いていた男が、今は家事の続きをしているような無表情で手を動かしていた。
そこにあるのは、殺人の興奮ですらなかった。
ただの処理だった。
不要になった物を小さくし、片付けやすい形に変えていくための作業。
その冷淡さが、美佳には何より恐ろしかった。
――わたしなのに。
身体の一部が離されるたび、自分の意識の輪郭まで引き裂かれる。
ここにいるはずの自分と、床に残された自分だったものとの距離が、少しずつ分からなくなっていく。
――わたしは、ここにいるのに。
政夫は止まらない。
刃が軋む音だけが、何度も、何度も繰り返される。
自分だったものが一つではなくなる。
そのたびに、美佳の意識まで別々の方向へ引っ張られるような恐怖が増していった。
――やめて。わたしを、そんなふうにしないで。
名前を奪われた時にも、自分が消えていくようで怖かった。
何年も加奈子と呼ばれ続け、星野美佳だった記憶さえ自信を失いそうになった。
ようやく最後に加奈子ではないと否定された時には、今度は命を奪われた。
そして死んだ後まで、自分という一つの形を残してもらえない。
人としての尊厳なんて欠片もなかった。
恐怖も、悲しみも、もう何処へ向ければいいのか分からない。
――わたしを返して。
自分の内側から零れた言葉だけが、暗い浴室へ残る。
――わたしを戻して。
星野美佳だった自分を。
公園で友達と遊び、夕暮れを惜しんでいた自分を。
家へ帰れば家族がいることを疑いもしなかった自分を。
誰かの代わりではなく、一人の人間だった自分を。
そして、切り分けられる前の、一つだった自分を。
――おかあさん。
助けて。
わたしを見つけて。
ここから連れて帰って。
身体を刻む音が止まらない。
そのたびに意識のどこかが遠ざかり、自分の居場所さえ幾つにも分かれていく。
――わたしは。
自分の名前を思い出そうとする。
――わたしが。
けれど、言葉の続きを掴めない。
――わたしを。
返して。
●
記憶が途切れた後も、アーシャの耳には鋸を引く音が残っていた。
実際にはもう鳴っていない。
浴室へ戻ってきたのは、戦いが終わった後の不気味な静けさだけだった。
頭の奥には、絶叫を浴び続けた余韻のような鈍い揺れが残っている。平衡感覚も完全には戻っていない。アーシャは一度よろめき、壁へ片手をついて荒い呼吸を整えた。
「……やっぱり、そういうことか」
見た内容そのものに、強い驚きはなかった。
政夫が何らかの理由で過去を忘れているか、あるいは自分に都合の悪い記憶だけを失っているのではないかという可能性は、既に予想の一つとして考えていたからだ。
しかし、記憶の中で起きたことを理解すると、目の前の浴室まで違って見えた。
壁にも床にも、赤黒い汚れがべったりと残っている。
その上へ、先ほどまで加奈子だったものが散らばっていた。
人間の死体そのものではない。
斃れた彼女たち一人ひとりに、黒いノイズが走って形状を変化させた。
腕のような形、膝から先だけの脚、肉片を思わせる輪郭の定まらない塊。どれも映像が壊れたように明滅し、ときおり位置さえ僅かにずれて見える。
数が合わない。一人の身体から生じたとは到底思えないほどの断片が、浴室中に散らばっている。
それなのに、どの断片からも同じ少女の気配がする。
浴槽の縁に掛かった細い手が、ノイズに崩れて消える。そのすぐ隣では別の手が床から滲み出し、何かを掴もうとするように指を曲げたまま止まった。
アーシャの脳裏へ、先ほどの記憶が重なる。
切り刻まれた恐怖も、一つだった自分を失った苦痛も、何処までが自分なのか分からなくなった無念もある。
「アンタ|た《・》|ち《・》も……そういう理由だったわけだ」
正確な仕組みまでは分からない。
けれど、この異常な数が現実の肉体の数を表しているとは思えなかった。
そうしたものが、この浴室では何度でも少女の姿を作り出しているのかもしれない。
もしそうなら、何かの刺激が加わるたびに浴槽や床から同じ顔が湧き上がることにも説明がつく。
倒しても倒しても、一人分では終わらない。
その考えに辿り着いたところで、浴室の隅にあった黒い塊が不意に輪郭を変えた。
少女の顔に見えた。
血の気のない頬と開いた口が形を作りかけ、声の代わりに砂嵐だけを漏らして崩れていく。
胸糞は悪い。
だが、アーシャの心を折るには足りなかった。
「決着は、しっかり付けてやるわ」
浴室の赤黒い床を埋める断片を見据えながら、アーシャは低く言い切った。
静寂の中、返事の代わりのように、何処かで黒いノイズが一度だけざらりと鳴った。
●
アーシャが浴室へ向かい、それまでクラウスと行動していた二人も別の場所の捜索へ移った。政夫の部屋を調べ直すのは、クラウス、紫水、エアリィの三人となった。
異界の様相は探索を進めるほど変化し、政夫自身まで黒い少女たちに連れ去られている。一度調べた場所であっても、状況が変わった今なら別の手掛かりが現れている可能性は十分にあった。
政夫の部屋へ続く廊下を進みながら、エアリィは和室を出てから考えていた疑問を二人へ投げ掛けた。
「『Re:Member』……意味が『再構成』だとしたら、何を再構成しているのかな?」
アプリは今も『実行中』と表示するばかりで、こちらの操作には何の反応も返さない。
仕組みを説明するものもない以上、三人にできるのは、これまで目にした現象を手掛かりに可能性を考えることだけだった。
「素直に解釈するなら、死者の生前の姿か、この空間そのものかな……」
「それだと、加奈子嬢は父親に殺意や敵意を持っていたことになるね」
紫水が示したのは、黒い少女たちが政夫へ向けていた激しい憎悪だった。
もし、あの姿だけでなく感情まで含めて生前の加奈子が再現されているのだとすれば、これまで聞いてきた父娘の関係とは大きく食い違う。
「死の寸前に父親を憎んでいた可能性は否定できないし、もしそうだったとしても誰にも責めることはできないな……。ただ、外れていてほしい推測ではあるね」
クラウスが和室で政夫から聞いた話では、加奈子は父親の帰宅を待つうちに一人で亡くなったという。
その最期に何を感じていたのかまでは分からず、今の段階で黒い少女たちの憎悪と結び付けることはできなかった。
「それじゃあ、もし名前と写真が違っていたらどうなるんだろう?」
エアリィが次に持ち出したのは、アプリに表示されていた少女と、仏壇の遺影に写っていた少女の違いだった。
二人は年頃も顔立ちもよく似ているものの、並べて見れば別人であることは明らかだ。
「遺影の方が本当に伊藤加奈子さんなら、アプリには別人の写真が使われたことになるね」
「うん。名前は加奈子さんなのに、写真は違う人でしょ? そういう時、どうなるのかなって」
「その場合は……例えば、写真に写っている別人へ生前の『加奈子』としての役割を押し付けることになる、とか」
クラウスも、それを答えとして口にしたわけではない。
本来一致しているはずの名前と写真が食い違った時、アプリが何を基準にするのかを判断できる材料はなく、考えられる可能性の一つを挙げただけだった。
「ふむ。どうあっても、良くない推測が先に立つなぁ」
紫水の声音には苦笑が混じったものの、家の中で起きていることを考えれば、楽観的な仮説を立てにくいのも事実だった。
「あの政夫さんの態度……きっと嘘はない。でも、それが真実とは限らない」
「見えている情報だけを信じるわけにはいかないだろうね」
政夫が意図して偽りを語っているようには見えなかったが、本人が信じている内容そのものが間違っている可能性は残る。
なかでも、仏壇の遺影に写る少女を政夫だけが認識できなかったことには、何らかの理由があるはずだった。
そうして三人が政夫の部屋へ辿り着くと、以前と同じく室内は異界の中では比較的元の姿を保っていた。
しかし扉を開けたクラウスの視線は、家具や棚ではなく、以前にはいなかった一人の少女へ吸い寄せられる。
「あの子……!」
エアリィの声に、部屋の奥にいた少女も驚いて三人を見返した。
「あっ……」
艶のある黒髪は頬に沿って真っ直ぐに落ち、大きな黒い瞳には柔らかな垂れ目の印象がある。左目の下にある小さなほくろまで含め、その顔は和室で確認した遺影の少女と一致していた。
浴室や和室で襲ってきた黒い少女ではない。以前この家でフィオと出会い、自らを『加奈子』と名乗った少女だった。
「あぅ……」
「こんにちは。さっきはびっくりさせちゃってごめんね。怖がらせちゃったね」
エアリィは警戒させないよう穏やかに声を掛けながら、腰に下げていた剣と銃を外して床へ置いた。
クラウスと紫水もそれに倣い、目に見える武器を手放して敵意がないことを示す。
「加奈子嬢は蜘蛛好きかな?」
紫水がそう問い掛けると、彼女の周囲へ何匹もの式神が姿を現した。柔らかな毛に覆われた丸い身体と短い脚は本物の蜘蛛よりもぬいぐるみに近く、床を動き回る様子にもどこか愛嬌がある。
「えっ!?」
まるで手品でも見せられたように加奈子の目が大きくなる。しかし未知の生き物へ向ける感情は、興味よりも警戒の方が勝っているようだった。
「蜘蛛は怖いから、パパが好きなヒーロー以外は苦手……この子たちは、可愛いけど」
「そっか」
加奈子を安心させる手段としては少し外してしまったものの、蜘蛛を意匠とするヒーローへの親しみが政夫に由来していることは分かった。
父親の部屋には同じヒーローのフィギュアが大切に飾られており、彼自身も娘との思い出として語っている。少なくとも、目の前の少女と政夫の関係については、これまで聞いた話と矛盾していなかった。
「あたしね、加奈子さんとお友達になれるかな? そうだと嬉しいな」
「……うん、いいよ」
返事にはまだぎこちなさが残っていたが、加奈子は拒まずに頷いた。
その様子を確かめたクラウスは少女との対話を二人へ任せ、自分は改めて部屋を調べることにする。
「そっちは二人に任せて、俺は部屋の捜索をするよ」
「ああ、頼んだよ。蜘蛛も手伝わせてくれて構わない」
「ありがとう、助かるよ」
何匹かの式神がクラウスについて棚や家具の周囲へ散っていく一方、紫水は加奈子へ威圧感を与えないよう床へ腰を下ろした。エアリィも少女の近くへ座り、目線の高さを合わせる。
「私は椎宮・紫水、彼女はエアリィ嬢。君とお話したくて来たんだけど、いいかな?」
「うん……あの人は?」
加奈子が気にしたのは、離れた場所で捜索を始めたクラウスだった。
「クラウスさんは、政夫さんを見つけるための手掛かりを探してるの」
「パパの?」
「うん、政夫さんがさっき連れ去られちゃったんだ。あなたに似た子たちに」
「わたしと、似た子……」
「助けるために、知っていることがあれば教えて?」
膝の上で組んでいた加奈子の指に力が入る。
「その子、お家にいるの、見た……。わたし、もういらない子になったんだ……」
頼まれたことに答える途中で声が沈み、俯いた少女の表情が髪に隠れる。エアリィはすぐに否定するのではなく、そう思った理由を尋ねた。
「どうして、そう思うの?」
「だって、パパはその子を加奈子って呼んでて……。わたしが何度話しかけても無視されて……全然話してくれないの」
父親に拒絶されたのだという不安を口にすると、堪えていた涙が大きな瞳から溢れた。
「わたしが、パパに酷いこと言ったから怒っちゃったんだ……」
「加奈子嬢、それは違うと思うよ」
「え……?」
「君のお父さんは『君』を認識できていないようだ。少なくとも、悪意があって無視しているようには見えなかったよ」
紫水が伝えたのは、これまで政夫を観察して分かった範囲のことだった。
理由までは分からないが、彼は加奈子の存在に気付きながら無視しているのではなく、そもそも目の前に少女がいること自体を捉えられていないように見えた。
「それに、なんだか変なの……。わたし、怖いとか嫌だって思ったら身体が透けて、気が付くと違うところにいる」
加奈子自身にも、その現象を制御している感覚はないらしい。
紫水は話を聞きながら、先ほどまで三人で交わしていた推測を頭の中でもう一度組み立てた。
この異界で何かが『再構成』されているとすれば、政夫が登録した写真の人物に『加奈子』という役割が与えられている可能性がある。
その影響で遺影の少女だけが政夫に認識されないのなら、一応の説明はつく。
自分たちが加奈子と接触できるのは、その認識の外から入り込んだ部外者だから――そう考えることもできるが、今ある情報だけで事実と決め付けられるものではなかった。
「わたしが倒れてから、お家も変になって……怖くて……」
自分にも理解できない異変を思い返した加奈子の声に再び怯えが混じると、エアリィは少女と目を合わせたまま、安心させるように言葉を返した。
「大丈夫だよ、加奈子さん。あたしたちは、加奈子さんのお家を元に戻しに来たから」
さらに、父親に見捨てられたと思い込んでいる少女へ、政夫から直接聞いたことを伝える。
「政夫さんが、加奈子さんのことを宝物みたいに大事にしてたって聞いたよ」
「パパ……」
父親を呼ぶ声に寂しさが滲む。エアリィはそれ以上言葉を重ねず、加奈子を安心させるように、その小さな手を握った。
触れ合った手の温もりを感じた直後、エアリィたち三人の意識へ別の光景が流れ込んできた。政夫の部屋の輪郭が遠ざかり、まだ異界へ変わる前の伊藤家が姿を現す。
●
その日の朝、加奈子と政夫は授業参観のことで喧嘩をしていた。
「そんなの酷いよ! 約束したのに!」
政夫が仕事で忙しいことも、自分のために働いてくれていることも、加奈子は知っている。
それでも、加奈子がずっと楽しみにしていた授業参観には、父親も来ると約束してくれていた。当日の朝になって行けないと告げられても、十歳の加奈子がすぐに納得できるはずもない。
「パパ、来てくれるって言ったじゃない!」
「ごめんな、加奈子。どうしても外せない仕事が入ってしまったんだ」
「そんなの知らない! パパはいっつも仕事ばっかり!」
感情のまま腕を動かした拍子に、後ろへ引いた肘が棚の写真立てへぶつかった。写真立てが床へ落ちて硬い音を立て、二人の言葉が途切れる。
「あっ……」
二人で遊びに出掛けた時の写真を収めたフレームは角が歪み、ガラスにもひびが入っていた。
自分が壊してしまったのだから謝らなければならない。それくらいは分かっている。
けれど、授業参観へ来てもらえない悔しさに写真立てを壊した気まずさまで重なり、素直に『ごめんなさい』を言えなくなってしまう。
加奈子は逃げるように自室へ入り、扉を閉じた。
廊下から政夫が何度声を掛けても返事をせず、やがて父親が出勤しなければならない時間になっても、意地を張ったまま扉を開けられなかった。
「加奈子。パパ、もう行かないと。帰ったら、ちゃんと話そうな」
最後にそう告げられても返事はできず、玄関の扉が閉まる音を聞いてから、ようやく後悔が込み上げてきた。
いつもなら、少し言い合いになっても話をすれば仲直りできた。
政夫が自分のために仕事を頑張っていることも分かっている。ただ今日は、写真立てまで壊してしまったことで余計に意固地になり、自分から謝るきっかけを逃してしまっただけだった。
――パパが帰ってきたら謝ろう。
そう決めてしまえば、朝から抱えていた怒りは長く続かなかった。
ところが、いつもの帰宅時間になっても政夫は戻ってこない。
スマートフォンには残業で遅くなるという連絡が届いていたが、まだ朝のことが気まずく返事を書くことができなかった。
そのままスマートフォンを自室に置き、加奈子はリビングへ向かう。外が暗くなった家には静けさが広がり、一人でいる寂しさと不安も強くなっていた。
ふと、朝に壊した写真立てが棚からなくなっていることに気付く。
どこへ行ったのだろうと周囲を探し、棚の引き出しを開けると、壊れたままのフレームが中に仕舞われていた。
「ここに、あったんだ……」
写真立てを見つけた直後、胸の奥が突然締め付けられた。
「……っ」
息を吸っているはずなのに、空気が足りない。何度呼吸を繰り返しても苦しさは増すばかりで、胸を押さえた加奈子の足から力が抜けていく。
「パパ……!」
何が起きているのか分からない恐怖の中で、家にいない父親を呼んだ。返事がないことは分かっていても、今の加奈子には政夫以外に縋れる相手がいなかった。
不安に押し潰されそうになりながら引き出しの中へ手を伸ばし、壊れた写真立てから中に残っていた写真だけを抜き取る。そこに写っているのは、二人で遊びに出掛けた日の自分と政夫だった。
加奈子は壊れたフレームを引き出しへ戻し、写真だけを胸へ抱いた。立っていることもできなくなり、床に身を縮める。
父親の笑顔に縋るように、写真を握る手に力を込めた。
「パパ、寂しいよう……ごめんね、パパ……ごめんなさい……」
帰ってきたら、ちゃんと仲直りしようと決めていた。
授業参観へ来られないことに怒り、写真立てまで壊したのは自分だ。何度も声を掛けてくれたのに無視したことまで、全部きちんと謝っていつもの親子に戻りたかった。
けれど、その言葉が政夫本人へ届くことはなかった。
大切な家族写真を胸に抱いたまま、やがて加奈子の意識は途切れる。それが、生前の彼女に残された最後の光景だった。
●
政夫の部屋へ意識を戻したクラウスは、先ほどまでの推測を修正する。
――こっちの加奈子さんは、父親を憎んでなんていなかった。
朝に喧嘩をしていたのは事実でも、死の間際まで抱いていたのは怒りでも復讐心でもない。
父親との写真をお守りのように胸へ抱き、喧嘩したまま別れてしまったことを最後まで謝りながら、その帰りを待っていた。
少なくとも、黒い少女たちが政夫へ向けている激しい殺意を、目の前の加奈子の最期から説明することはできない。
その一方で、クラウスが続けていた部屋の再捜索は成果を得られないまま終わりつつあった。
式神たちにも手を借りて棚や家具の周囲まで確認したものの、手掛かりになりそうな物は見つからない。ここにまだ重要な情報が残されているのか、判断できる材料もなかった。
「今の……」
自分の記憶が三人へ伝わったことに驚いた加奈子は、まだ状況を飲み込めない様子でエアリィを見つめている。
「お家で、加奈子さんに起きたこと……だよね?」
「うん…………ねえ、おしえて?」
「何を、かな?」
「わたしって幽霊、なの?」
自分が覚えている最後の出来事と、今の身体に起きている異変が結び付いたのだろう。
エアリィは怖がらせたくない気持ちから少し躊躇したものの、安心させるためだけの嘘で誤魔化すことはしなかった。
「近い存在、だとは思う」
「やっぱり……じゃあ、ここは地獄なのかな。悪いことした子が来るところ」
「それは違うよ。加奈子さんは、悪くなんてないから」
エアリィがそこだけは迷わず否定すると、加奈子の強張っていた表情が僅かに緩んだ。
「そっか……パパまで地獄に来ちゃうのは嫌だから、よかった……」
自分が既に死んでいると知ったばかりなのに、彼女が心配したのは自分ではなく政夫だった。
「加奈子嬢、君のお父さんは今、混乱していると思う。だから届かない声は私たちが届けよう。何か、伝えたいことはあるかい?」
「えっと……それなら……」
加奈子が父親へ向ける言葉を探し、口を開きかけたところで、部屋全体が激しく揺れ始めた。
棚に並んだ小物が一斉にぶつかり合い、床から突き上げるような震動が三人と加奈子の身体を揺さぶる。
比較的元の姿を保ち続けていた政夫の部屋にまで、異界そのものが軋み始めたような低い音が響き渡った。
そして、部屋がひび割れるように大きな亀裂が入るのを、この場に全員が目撃した。
●
そうだ。そうだそうだそうだ。
政夫の頭の中で、同じ答えだけが熱に浮かされたように膨れ上がっていた。
目の前で蠢いている少女たちは加奈子ではない。加奈子が父親である自分を憎み、叫びながら襲い掛かってくるはずがない。まして、あんな拷問をしてくるなんて有り得ない。
「違う違う違う違う違う違う!」
否定するほど胸の奥から熱が噴き上がり、皮膚の下を焼けた何かが這い回っていく。息は荒く、鼓動は耳の内側まで響いていたが、政夫はそれを異常だとは思わなかった。
怒っているからだ。大切な娘を騙る偽物がいる。ならば、これほど腹が立つのも当然だった。
「あんなのは俺の娘じゃない娘じゃない加奈子じゃない」
「政夫さん……落ち着いて」
結が慎重に呼び掛けても、政夫の視線は黒い少女たちへ縫い付けられたまま動かない。
届いていないというより、もはや自分以外の声を意味のある言葉として聞き取れていないようだった。
「加奈子を騙る悪魔め。加奈子は天使なんだ。許さない許さない許さない絶対に許さない」
吐き出される憎悪に呼応するように、政夫の肉体が変わり始めた。
肌が人間離れした赤と黒の混ざる色へ変わり、服の下で筋肉と骨格が膨張していく。
肩幅が広がるにつれて身体そのものも大きくなり、軋む背中を突き破るように二対の腕が伸び出した。
人の輪郭を残しながら、人として成立していた均衡だけが崩れていく。
「そんな……政夫さんが……!」
結が目を見開く横で、リリンドラも巨大化していく異形から目を離せなかった。
「何がどうなってるのよ!」
肥大した胴体と、背から張り出した六本の腕。その輪郭には、政夫の部屋で見た蜘蛛のヒーローを連想させる部分が確かにあった。
しかし、子供向けの英雄を思わせるのは形だけ。目の前に立つものから伝わってくるのは、正義とも憧れとも無縁の剥き出しの敵意だった。
異形となった政夫が地面を蹴った。
その巨体からは想像できない速さだった。地面が遅れて爆ぜた時には、すでにリリンドラの視界からその姿が消えている。
「速いっ!」
声を上げた時には、別の場所で衝撃音が轟いていた。
黒い少女の一人が政夫の腕に捕らえられ、細い身体ごと高く持ち上げられている。逃れようと手足をばたつかせても、政夫の手は少しも緩まない。
そのまま乱暴に振り回され、少女は地面へ叩き付けられた。
激突の衝撃とともに黒いノイズが弾け、少女の輪郭が大きく崩れる。
政夫はそれを確かめることさえせず、すぐ近くにいた別の少女へ複数の腕を伸ばした。
胴を横向きに掴み上げ、上下から逆方向へ力を加えていく。少女の身体は、人間を扱うとは思えない力で捩じられ、耐え切れなくなった輪郭がノイズの塊となって散った。
「加奈子じゃない。こいつらは加奈子じゃない」
政夫の中では、それだけで全てが正当化されている。
「取り押さえます」
リズの周囲で浮遊していたレイン砲台が一斉に向きを変え、異形となった政夫へ照準を合わせた。
放たれた砲撃が巨体へ集中する。
政夫は複数の腕を前へ重ねて受け止め、着弾するたびに身体を僅かに押し戻された。
表皮には確かに傷が刻まれている。それでも、黒い少女たちを相手にした時のような決定的な崩れはなく、砲撃が途切れる頃には再び踏み出せるほどの余力を残していた。
「…………っ!」
政夫が手の一つを開き、掌をリズへ向ける。
掌へ光が集まったと認識した直後、眩い光線が一直線に迸った。
リズの前へ盾型のレインが滑り込み、光線を正面から受け止める。白く灼ける光が視界を埋め、押し寄せる熱にリズは顔を背けながらも、その場を退かなかった。
照射が途切れるまで持ち堪えた盾は、表面が赤熱して軟化し、輪郭を保てないほど溶け始めている。
「強い、です」
リズの声から平静は失われていなかったが、目の前の敵を測る視線は険しい。これまで戦ってきた黒い少女たちとは、耐久力も攻撃の規模も明らかに違っていた。
だが、政夫は三人を敵として見てすらいなかった。
「ここじゃない。わかるぞ。殺してやる偽物め」
低く漏れた言葉に、結の表情が変わる。
「空間が……!」
政夫の『ここじゃない』という認識に呼応したかのように、公園の景色へ細い亀裂が走った。
最初は一本だったひびが枝分かれし、空や遊具、地面へと広がっていく。奥行きを持つはずの景色そのものが、薄い板に変わったかのように軋む。亀裂の向こうには、何もない黒が覗いていた。
「二人とも!」
異変が足元へ到達するより早く、リリンドラが結とリズを両側から引き寄せた。
直後、周囲の景色が一斉に砕けた。
鏡を巨大な槌で打ち砕いたように、公園を形作っていた空間が無数の破片となって飛び散り、三人を支えていた地面までひび割れの中へ崩れ落ちる。
リリンドラに引き寄せられたまま三人は足場を失い、砕けた世界の下へ落ちていった。
●
唐突に成長した少女の姿を前に、七三子とシアニは言葉を失った。
つい先ほどまで十歳ほどに見えていた姿は、記憶の中で見た少女と同じくらいの年頃まで成長している。
黒いノイズに輪郭を蝕まれていることに変わりはないものの、幼さを残していた頬つきや細い手足にも年齢相応の変化が現れ、政夫に長く囚われていた頃の彼女を思わせる。
少なくとも一つだけ、二人にも確信できることがある。
今の姿の方が、現実に存在していた彼女へ近い。
その変化が何を意味するのか確かめるため、シアニは少女の顔を正面から見据えた。
「教えて、あなたの名前……」
先ほどと同じ問いを、もう一度。
記憶を見た今なら、答えが変わるのではないか。政夫から押し付けられた名前ではなく、自分自身の名を取り戻してくれるのではないか――そんな期待が、シアニの胸には残る。
「わたしは加奈子です」
返ってきた声には、怒りも悲しみもなかった。
抑揚のない一本調子。それなのにシアニには、その言葉が先ほどまでより遥かに強い拒絶として響く。
自分が誰なのかを答えているのではなく、それ以外の答えを許すまいと自分自身へ言い聞かせているかのようだ。
「……っ!」
間合いを詰める気配さえ捉えられなかった。
『加奈子』の手がシアニの首を掴み、その身体を床から持ち上げる。両足が宙へ浮くと同時に喉が圧迫され、息を吸おうとしても僅かな空気しか通らない。
シアニは掴まれた腕へ両手を掛け、指を引き剥がそうと力を込めた。
しかし、細い腕からは想像もつかない力で喉を締め付けられ、両手で指を剥がそうとしても緩まない。幼い姿だった時とは比較にならない膂力だ。
「シアニさん!」
七三子は近くにいた戦闘員と位置を入れ替え、拘束されたシアニとの距離を一息に縮める。その勢いを殺さず『加奈子』へ突進したところへ、横から別の影が割り込んだ。
成長した少女ではない。これまでと同じ幼い姿の『加奈子』だ。
飛び付かれた七三子は勢いを崩され、少女ともつれ合ったまま床へ倒れ込む。
すぐに引き剥がそうと身体を起こしかけるが、新たな『加奈子』たちが上から折り重なった。身動きを封じられた七三子は、腕を伸ばすことさえ難しくなる。
周囲の戦況も似ていた。
七三子が呼び出していた戦闘員たちは、現れる少女たちを迎え撃っている。しかし一体を押し退けるそばから別の影が飛び掛かり、戦いが激しくなるほど数まで増していく。
「どう……して……」
締め付けられた喉から、シアニは掠れた声を絞り出した。
助けたい。
記憶の中で、本当の自分を奪われ続けた少女を知ったからこそ、なおさらそう思う。
それなのに少女はシアニの首を締め上げたまま、自分を縛ったはずの名前を繰り返す。
「わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です」
その無機質な声に、折檻部屋で見た光景が蘇る。
間違えれば罰を受ける。
否定すれば責められる。
何度も自分は『加奈子』だと言わされ続けた。その事実が、今の声へ重なっていた。
「こわ……いの……?」
掠れた問いにも、少女は表情一つ変えない。
けれどシアニの中では、別の考えが形を取り始める。
姿が記憶の中の彼女へ近付いたからといって、本来の自己認識まで取り戻して話が通じるとは限らない。
むしろ政夫に囚われ続けた時間へ近付いた今だからこそ、五年近く積み重なった恐怖が以前より深く根を張っているのではないか。
自分たちは少女の正体を探り、その過去へ辿り着いた。彼女を救いたいと願って進んだ結果、本来の姿と記憶には確かに近付きつつある。
だが、本質へ近付くことと救いへ近付くことは同じではないのだ。
視界の端から色が薄れていく。酸素を奪われた頭では考えを繋ぐことさえ難しい。それでもシアニは、少女から目を逸らせなかった。
――どうすれば……。
長年の恐怖に縛られた少女を、どうすれば救える。
政夫によって何年も刻み込まれた『加奈子』という名前から、どうすれば本当の彼女を解き放てる。
答えを探し続けるシアニの意識が遠のきかけた時、部屋全体を突き上げるような振動が襲った。
壁が軋み、棚や家具が跳ねるほどの揺れに『加奈子』も大きく体勢を崩す。その手から一時的に力が抜けた隙を逃さず、シアニは腕を振り払った。床へ落ちる勢いを利用して、少女との距離を取る。
「シアニさん! 無事ですか!?」
七三子も、自分へ幾重にも覆い被さっていた少女たちを戦闘員とともに押し退ける。どうにか拘束を抜け出し、身体を起こした。
「うん……でも、部屋が……!」
息を整える余裕もなく、シアニは周囲を見回した。
壁から天井まで、部屋の至るところを細い亀裂が這っている。
それは建物が崩壊する時のひび割れとは違う。透明なガラス板へ傷が広がるように空間そのものを這っていく。
床にも同じ亀裂が広がっていく。割れた箇所から足場が崩れ、闇が覗いた。部屋そのものが少しずつ失われていく。
戦闘中だった一人の戦闘員が崩れた床に足を取られ、そのまま暗闇へ落ちた。
七三子が目で追うより早く、落下する姿が輪郭ごと掻き消える。あとには何一つ残らない。
「√能力が無効化されているのですか?」
七三子の声に緊張が滲む。
戦闘員が消えた原因までは断定できなかった。それでも、もし暗闇へ触れたことで√能力そのものが成立しなくなるのなら、それは√能力者にとって脅威だ。
たとえ飛翔するための√能力を持っていたとしても、空間が闇へ呑み込まれた後まで維持できる保証はどこにもない。
考えている間にも崩壊は止まらず、七三子とシアニが立てる範囲は狭まる一方だ。
壁際も入口も、すでに亀裂の向こうへ消えた。残された僅かな足場だけが、暗闇の中へ取り残された小島のように浮かんでいる。
「どうすれば……っ!」
退路を探すシアニの意識に、別種の違和感が触れた。
誰かに見られている。
敵意とも殺気とも違う。もっと温度のない視線が、崩れゆく部屋の外側からこちらへ突き刺さってくる。
反射的に、シアニは|竜眼・千眸《アウディエンス》を発動した。
自分自身を俯瞰し、己へ注がれている視線を辿っていく。
部屋の中ではない。
暗闇の底でもない。
どこまで意識を広げても、視線の主には届かない。にもかかわらず、見られている感覚はむしろ鮮明さを増していく。
こちらから探ったことで、その存在がいっそう存在感を増したように感じられた。
何処から。
誰が。
何のために。
何一つ分からない。
それでも、確かに『何か』がこちらを視ている。
最後に残った床へ亀裂が伸びる中、シアニは所在すら掴めない視線の先を睨み返した。
「……『視てる』から」
何を視ているのか。誰を指しているのか。言葉を告げたシアニ自身も理解してはいなかった。それでも、言ってやりたいと思ったのだ。
足元が砕け、七三子とシアニの身体が同時に支えを失う。
二人の姿は崩壊した部屋とともに、底の見えない暗闇へ沈んでいった。
第3章 ボス戦 『青い流れ』
●
異界の崩壊とその直後に行われた再構築が確認された。
実行者が支配権を取り戻した影響により、管理権限の一部にも異常が発生している。
新たに再構築された空間だけが外界から切り離され、従来使用していた観測経路も遮断された。
外界からの観測継続は不可能と判断。
外界活動用の肉体を使用し、再構築された空間へ直接介入することで観測を継続する。
観測対象:実行者
被害者による加虐行為で恐怖と怒りが蓄積し、精神負荷は異常域へ移行している。
外来者による救助を受けた後、肉体にも明確な怪異化が発生。暴走の開始と同時に、異界に対する支配権を取り戻した。
管理権限を介して被害者の核を察知。自身の殺害を目的として構築されていた異界を破棄し、新たな空間への再構築を実行している。
再構築後は被害者を同一空間へ召喚し、殺害を目的とした戦闘を開始。
現在の実行者には、人として状況を判断し、行動を選択する意思が認められない。
被害者を偽物として排除する衝動が、その他すべてに優先している。
人としての意思を完全に手放したものと判断。
以後は自動化した怪異として扱い、実行者単独を対象とした観測を終了する。
観測対象:被害者
被害者の行動原理は二種類に分けられる。
自身が実行者に対して優位な状況では、長期間にわたり蓄積した憎悪によって加虐性が増大。
自身が受けた苦痛を疑似的に再現した後、実行者を殺害しようとする行動を繰り返していた。
しかし外来者による介入によって、被害者が脅威と認識する対象が増加。実行者以外にも攻撃性を向け、妨害する外来者の排除を開始した。
その過程で、複数の変化が確認されている。
外来者による呼び掛けと過去記録の再生を受け、それまで埋没していた自己認識が表出。それを核とする特別個体が形成された。
外見もまた、拉致された当初の幼い姿から現実に存在していた後年の姿へ近付いている。
ただし、自己認識の表出によって対話が可能になったわけではない。
長期間にわたって形成された心的外傷と実行者への恐怖が強く残存し、現在も正常な意思疎通は困難。
実行者が異界の支配権を取り戻した後も、被害者は奪取した管理権限の一部を維持している。
現在の異界は、実行者と被害者が管理権限を分有する状態であるが、両者に協調関係は存在しない。
被害者は実行者への恐怖と殺意を優先し、恐慌状態のまま分裂体と共に戦闘を開始。目的は実行者の殺害にある。
だが、その行動はパターン化されており、思考放棄しての単調な行為の繰り返しでしかない。
殺したいと殺されたくないの欲求に従い、今後も同じルーティーンを繰り返すだろう。
人としての意思を完全に手放したものと判断。
以後は自動化した怪異として扱い、被害者単独を対象とした観測を終了する。
観測対象:外来者
実行者による異界破棄の影響を受け、外来者と例外者は虚無空間へ落下した。
現在位置は世界と世界の隙間。上下も距離も方向も通常の意味を持たず、|無《・》という概念によって満たされた領域を漂流している。
外来者によるこれまでの介入は、実行者の怪異化と被害者の自己認識の表出を促した。
さらに、虚無空間を隔てたまま観測者そのものを察知した外来者も確認している。
さらなる介入を促すため、虚無空間内において情報統合を実行。
各所で外来者が個別に得た情報を相互に共有させ、これまで観測側のみが保持していた情報の一部も付与する。
処理の完了後、保持している管理権限によって外来者を再構築された異界へ移送。
観測を継続する。
観測対象:例外者
外来者による介入を受け、自身が生者ではないことを認識した。
異界に対する影響力そのものには大きな変化がなく、現在も他の観測対象より小さいままである。
ただし、実行者による被害者への認知が変化したことで、例外者の相対的な影響度は上昇した可能性がある。
現在は外来者と同様、虚無空間を漂流中。
実行者に関する情報を認知させ、それによって生じる変化を確認。
その後、管理権限を使用して例外者を外来者と同時に再構築後の異界へ移送する。
観測を継続する。
貴方たちは何を成しますか?
私は『視て』いる。
●
暗闇だけが満ちていた。
落ちたはずなおに、気が付けばどちらが上なのか判別できず、まだ落下しているのか静止しているのかさえ分からない。
音も匂いもなく、肌に触れる空気すら感じられない。五感を失ったというより、感覚によって世界を捉える仕組みそのものが存在していないようだった。
そんな|無《・》の中へ、唐突に映像が流れ込んできた。
それは各々が直接目にした記憶だ。
伊藤家の各所へ散っていた√能力者たちが、それぞれ異なる場所で触れた過去。それが区切りの境界を失い、互いの意識の中で共有されていく。
蜘蛛のヒーローへ扮した政夫が、公園にいた星野美佳を連れ去ったこと。
少女の髪を切り、亡くなった娘へ少しでも近付くよう外見を変え、『加奈子』として振る舞うことを強いたこと。
家の中へ閉じ込め、家族や友人を含めた外界との繋がりを絶ったこと。
年月が過ぎ、美佳が成長するほど十歳で亡くなった加奈子との差異が広がり、それを目にするたび政夫の言葉と扱いが苛烈になっていったこと。
そして十五歳の誕生日、その違いに耐えられなくなった政夫が浴室で美佳の命を奪い、亡骸までも切り刻んだこと。
別々の場所で得られていた記憶が一つに繋がっていく。一人の少女から何が奪われ、その人生がどのように壊されたのかが、否応なく全員の中へ刻み込まれていった。
だが、それで終わりではなかった。
彼らの誰も見ていないはずの光景が、続けて暗闇の中に浮かび上がる。
●
浴室には、濃い血の臭いが残っていた。
床も浴槽も赤黒く汚れ、政夫の衣服にも血が染み付いている。それを拭おうとする様子はなく、つい先ほどまで使っていたノコギリさえ意識の外へ追いやられていた。
「加奈子。加奈子どこにいるんだ。探さないと、加奈子を探さないと。本物の加奈子、加奈子、加奈子、どこにいるんだ加奈子……」
返事のない浴室で、娘の名だけが繰り返される。
偽物の処理は終わったのだから、次は本物を探せばいい。どこかへ消えてしまった加奈子さえ見つけられれば、また二人で暮らせる。今度こそ何も間違えず、以前のような穏やかな日々を取り戻せる。
血と肉片に囲まれながらも、その確信だけは微塵も揺らいでいなかった。
「俺は諦めないぞ、加奈子……!」
政夫が決意を口にした直後、つい先ほどまで誰もいなかったはずの浴室に、一人の女が立っていた。
腰を越える長い黒髪。青白い光を帯びた装いの周囲には、細い光の環や回路を思わせる模様が浮かび、周囲の一部は空間が歪んだよう不規則に揺れている。
姿だけを見れば人間の女性だった。
しかし、その顔には敵意も好意もなく、こちらを見つめる瞳にも感情の揺れがない。
薄っすらと浮かぶ笑みにすら人間味を感じられなかった。
「初めまして。お久しぶりです」
初対面と再会を同時に告げる矛盾した挨拶にも、女は何の違和感も示さない。
「な、なんだお前は。どこから現れた!?」
「私は貴方を観測しています」
「は?」
返事は返ってきた。それなのに、政夫が尋ねたことには何一つ答えていない。
「貴方は何を成すのですか?」
今度は逆に問いを向けられ、政夫の困惑が深まる。
「生きている意味があるはず。生まれた意味があるはず。ならば逆説的に、存在の意味とは何かを成すということ」
女は政夫の反応を待たず、定められた文章を読み上げる装置のように淡々と言葉を続けた。
意味は分からない。
それでも、目を逸らしてはいけないような感覚が本能の奥へ薄く張り付いていく。同時に、今すぐここから逃げなければならないとも感じていた。
「わけがわからん……!」
政夫に理解できることは一つしかなかった。
この女は、浴室で自分が何をしたのかを見たのだ。
「うおおおお!」
隠したい事実を知られた焦りと、正体の掴めない存在への恐怖に突き動かされ、政夫はノコギリを振り下ろした。
けれど、刃は女へ届かず、何もない空間だけを切る。
「貴方は次に何を成すのですか?」
「なっ……!?」
背後から声が聞こえた。
振り返ると、女はまるで最初からそこにいたかのように立ち、変わらない眼差しを政夫へ向けている。
「くそ、見るな! 俺を見るな!」
もう一度斬りつける。しかし結果は変わらない。何度刃を向けても傷一つ付けることができず、女の表情にも声にも揺らぎは生じなかった。
「いいえ、私は視ています。貴方が何を成すのか。貴方の存在意義を。ずっと貴方を観測しています」
「ずっと……だと……!」
荒い呼吸を繰り返していた政夫が、その一語にだけ明確な反応を示した。
「はい、ずっと」
「ずっとって、いつからだ!」
女の次の言葉を待つこともできず、政夫が怒鳴る。
「私はずっと視ています。三分前に終了した解体も。四時間前の殺害も。一年前の折檻も。二年前の暴力も。三年前の虐待も。四年前の矯正も」
「ふざけるなっ……デタラメを言うな!」
あり得るはずがない。この女が家の中にいた記憶など一度もなく、誰かに生活を覗かれていた形跡もなかった。
それなのに、あり得るはずがないと思っている政夫の顔から血の気が引いていく。信じようとしている自分がいる。
「五年前の娘の死亡による嘆きと、星野美佳の誘拐も」
「はっ? ……違う」
「六年前の溺愛も。七年前の離婚も」
「違うだろ! 加奈子は死んでない! どこかに消えたんだ!」
声を荒らげる政夫とは対照的に、女は表情一つ変えなかった。
「貴方の娘は死亡しました。貴方はそれを理解していない振りを続けている」
「違う! 嘘をつくな!」
「私は貴方を観察しています。貴方が星野美佳を誘拐する前に、加奈子の映るデータをすべて抹消したことも。遺影は処分できず、押し入れの奥に仏壇と共に収納したことも」
「あっ……違っ、ち、が……」
違う。違う嘘だ違うはずだ。違うにきまってるだろそんなことあるはずないあるはずないんだ。なのに何で記憶がある。思い出すないはずのことを、したことを思い出す。嫌だ嫌だ嫌だ俺はそんなことをしてない。俺はただ加奈子と一緒にいたかっただけ
「彼女が最後に握っていた写真も、まだそこに」
「やめろっ!」
指をさす女の言葉を遮って叫んだ。
やめろ違う。浮かんでくるな。思い出すな。思い出してなんかない。
加奈子の写った写真を消し、動画も削除した。
娘が生きていた痕跡を見えない場所へ追いやった。
遺影だけは捨てられず仏壇と共に押し入れの奥へ仕舞っている。
そんなことをしたはずがない。
覚えていないのだから、していない。してない。してない。してない。思い出したくないやめて。違うから。
なんでそんなこと言うんだ。俺は違うって言ってるのに、なんで見つめる。視るんだ。視るな。やめて。やめてください。
「私は『視て』いる」
「うわああぁぁああああぁあぁああああ!」
ノコギリが床へ落ちた。
女へ背を向け、血に汚れた浴室から逃げ出した。どこへ行くのかさえ考えず、ただその視線から遠ざかろうと家の中を走る。
「貴方がどこに逃げようと、私は『視て』いる。目を閉じても、耳を塞いでも、口を閉ざしても、それを貴方の行動として観察しています。次は何を成すのですか? 貴方の命にはどのような意味があるのですか?」
●
それから、どれほど時間が経ったのか。
政夫は和室の隅で膝を抱え、目を固く閉じたまま両耳を塞いでいた。
見なければいい。聞かなければいい。余計なことは口走るな。何も考えず自分の中へ閉じ籠もってしまえば、あの女からも自分が何をしてきたのかという記憶からも逃げられるはずだった。
それでも、瞼の向こうから視線を感じる。
姿は見えない。声が本当に響いているのかさえ、もう分からない。
それなのに問いだけは消えなかった。
『貴方は何を成すのですか?』
現実から逃げたかった。
『私は貴方を視ています』
けれど突きつけられる。
『これまでも』
過去を突きつけられる。
『これからも』
突きつけられ続ける。
『私は貴方を視ています』
責められているわけではない。裁かれているわけでもない。
だからこそ、逃げる先がなかった。
怒りを向けられるなら、相手を憎み返すこともできる。罵倒されるなら、嘘だと叫んで耳を塞ぐこともできる。
しかし女は、ただ観察しているだけだった。
政夫が何をしたのか。何を忘れ、何を否定し、何から逃げようとしているのか。それらを善悪の言葉に置き換えることすらせず、起きた事象として視続けている。
拒んだところで、この先の自分まで観察される。
そこに在るのは、嘘のない観測の結果だけ。
男は狂っていた。
娘を失った現実を受け入れられず、一人の少女を攫った。名前も家族も自由も奪い、自分の望む娘に作り替えようとした。最後には命まで奪い、死後の身体を切り刻んだ。
そこに酌量の余地などない。
それでも、その狂気は|人の域《・・・》にあった。
喪失を恐れ、現実を拒み、自分に都合のいい記憶へ逃げ込む。それがどれほど歪んだ行為へ繋がろうとも、根にあるものは人間の感情だった。
対して、男を視続ける『それ』は違う。
怒りも憎しみも必要とせず、ただそこに在り、変化を観察する。
理解も共感もせず、それでも目を逸らすことだけはない。
狂気によって閉ざした世界の外から差し込むその視線は、政夫を否応なく現実へ引き戻してくる。
そして男は、自分が何をしてきたのかを知る、只人として壊れていった。
●
政夫は、テーブルに伏せていた身体をゆっくりと起こした。
いつ眠ってしまったのかは覚えていない。一人で食事を済ませた後、仕事の疲れと何もする気になれない倦怠感のまま、いつの間にか眠り込んでいたようだ。
薄暗い部屋を見回しても、他に誰もいない。
そんな時、最初に思い浮かぶのは決まって娘のことだった。
――ああ、加奈子……ごめんな……俺のせいだ……ちゃんと家に帰っていれば……。
もう何百回繰り返したのか分からない後悔へ沈みかけたところで、伏せて置かれていたスマートフォンが短く振動した。
政夫が端末を手に取ると、見覚えのない通知が画面に表示されている。
『亡くなった大切な人に、もう一度会いたくありませんか?』
それを見つめる彼の背後。
和室の梁から一本のロープが下がり、その下には倒れた椅子がある。
そしてその先には、一人の男が力なく吊り下がっていた。
伊藤政夫。
正確には、|生前に政夫だった男《・・・・・・・・・》の亡骸が、そこにあった。
●
何も存在しなかった暗闇の中に、遠くから滲み出すような光が生まれる。
√能力者たちの身体が、その光へ引き寄せられていく。
やがて音が戻り、身体の感覚も蘇った。
足裏に確かな床の硬さを感じた時には、別々の場所から虚無へ落とされた者たちが揃って一つの広大な部屋に立っている。
「二人とも無事!? ……っていうか、全員集合してるみたいね」
リリンドラは真っ先に左右へ目を走らせ、リズと結の姿を確かめた。
空間が崩壊した際には、二人を掴んだまま真竜化して飛ぼうとしたものの、あの暗闇では√能力そのものが発動しなかった。
その周囲でも、それぞれが近くにいる仲間へ声を掛け始める。
「エアリィ嬢、無事かい?」
「うん、加奈子さんは……」
紫水とクラウスを見つけたエアリィは、答えながらすぐに周囲を見回した。政夫の部屋から一緒に落ちた加奈子はほど近い場所におり、駆け寄って様子を見ると身体に目立った傷は見当たらない。
「良かった、怪我はないかな」
「パパが……」
加奈子の声は震えていた。
傷こそなくとも、その顔は青ざめ、今にも泣き出しそうに強張っている。
虚無の中で共有された記憶によって、加奈子は自分の死後に何が起きたのかを知ってしまった。
父親は星野美佳を攫い、自分の代わりとして五年間も苦しめた末に命まで奪っているのだと。
エアリィは少女の傍を離れず、他の者たちも互いに声を掛け合いながら、ようやく自分たちが移された場所へ注意を向けた。
広大な室内の一角には、伊藤家の和室で見たものと同じ、絞首台を思わせる異様な構造物が残されていた。
だが、今となっては意味が違って見える。虚無の中で最後に見せられたのは、伊藤家の和室で首を吊った政夫の遺体だ。
あの構造物は異界が勝手に作り出した処刑場の意匠ではなく、そこで実際に起きた出来事が歪んだ形で現れたものだった。
つまり、政夫もすでに死んでいる。
美佳と同じように死後インビジブルとなったものの、一部の記憶を失い、自分自身が死者であることさえ認識しないままこの家に存在し続けていた。
そして、その構造物の傍には一人の女が立っている。
「初めまして。お久しぶりです」
初対面と再会を同時に告げる、矛盾した挨拶。
声の抑揚も、人間らしい感情の希薄さも、先ほど政夫の記憶で見た存在と同じだった。
「もう二度と、会いたくはなかったな」
クラウスは女を見たまま、苦い表情を浮かべた。彼だけは、お久しぶりが正しく機能する唯一の存在だ。
クラウスには過去、この存在と遭遇した記憶がある。
自身の在り方や過去さえ、何かの実験結果を確かめるように観察された不快な経験を思い出しながらも、その視線を逸らすことはしなかった。
「君がこの悪辣な舞台を用意した黒幕かな?」
紫水はまず根本的な部分を質問した。
「半分はその通りです」
「半分?」
「この舞台の作成には、提供されたシステムを使用しています」
女はそれ以上の説明を加えない。
誰かから提供されたシステムを利用した――その事実だけを受け取り、紫水は僅かに目を細めた。
「政夫さんとあの少女はどこなの?」
続いて結が尋ねると、女は何もない空間へ片手を向ける。
「この空間内にいます」
伸ばされた手の先から一本の細い線が走り、それを境に前方の景色が切り替わった。
壁が開いたのでも、映像が映し出されたのでもない。離れた場所に存在していた空間そのものを、こちらへ直接繋いだように見える。
その向こうでは、巨大な蜘蛛を思わせる怪異と、複数の『加奈子』が激しい戦闘を続けている。
「あの大きい蜘蛛の怪物は……!」
クラウスが驚きを隠せずに怪物を見つめる。
「あれは少女に襲われた政夫さんが変異した姿です」
リズが公園で目撃した経緯を簡潔に伝えると、異形の喉から、しゃがれた低い声が漏れてきた。
「偽物が偽物が偽物が偽物が……!」
人間だった頃の声は大きく崩れている。それでも同じ言葉を執拗に繰り返す様子には、政夫だった男の狂気だけが色濃く残っていた。
「わたしは加奈子です」
それに対し、機械のような声で応じるのは、少女たちの中で一人だけ成長した個体――七三子とシアニが遭遇した、記憶の中の美佳に近い年齢の少女だった。
彼女の周囲には、これまで家の各所で戦ってきたものと同じ、幼い姿の『加奈子』たちが無数に蠢いている。
蜘蛛の怪異が腕を振るった。
指先をノコギリの刃のように変形させ、成長した少女の身体を深々と切り裂く。
これまでの黒い分裂体とは違い、傷口から飛び散ったのはノイズではなく鮮血だった。
ところが、散った血は床へ落ちる前に黒い闇へ変わり、その中から新たな幼い『加奈子』たちが次々と姿を現した。
傷を負った少女に別の幼い個体が触れると、触れた側の身体が黒いノイズとなって崩れていく。それと引き換えるように、成長した個体に刻まれた深い傷が閉じていった。
政夫だった怪異は、増えた少女たちを複数の腕で薙ぎ払いながら、なおも成長した個体を狙って進む。
幼い『加奈子』たちも群がり、手にした黒い刃を異形の身体へ突き立てていくが、裂けた傷は間を置かずに塞がっていった。
一方を傷つければ新たな分裂体が生まれ、既存の分裂体を取り込めば傷が癒える。
もう一方もまた、『加奈子』の刃程度では、どれほど攻撃を受けても傷を回復させていく。
互いに相手の死を望んでいるにもかかわらず、どちらも決定打を与えられない。そんな均衡だけが成立したまま、殺し合いは終わる気配を見せなかった。
「空間の一部を切り離して繋ぎ直しました。貴方たちの介入がなければ、あれらはこの世界で永遠に殺し合いを続けるでしょう」
女が淡々と告げても、二つの怪異は一度もこちらを振り向かなかった。
空間が繋ぎ替えられたことすら意識に入らないまま、政夫は『偽物』という言葉を繰り返す。美佳も『加奈子』という名前を唱え続け、互いを滅ぼすためだけの戦いは終わらなかった。
「どうして、政夫さんやあの少女を利用して、こんな空間を作ったのですか?」
終わりのない殺し合いを前に、七三子が女へ問い掛けた。
政夫がしたことも、美佳が抱えてきた憎しみも、すでに知っている。
けれど、その二人をここまで歪んだ形で結び付けた存在が何を望んでいるのかだけは、未だ見えてこない。
女は少し考える素振りさえ見せなかった。
「特に深い理由は有りません」
「え……?」
あまりにも簡単な答えに、七三子の声が漏れる。
「観察するためです。貴方たちの思考になぞらえるなら、『興味があった』が一番近いでしょう」
「本当に、それだけ……?」
その答えを聞いても、理解には繋がらなかった。
女は政夫に対してそう言っていたのは事実だ。
しかし、先ほど共有された記憶が事実なら、この女は加奈子が生きていた頃から政夫を観察している。
娘を失って壊れていく過程も、美佳を攫ったことも、その後に少女に何をしたのかも見続けていた。
そして美佳が殺された後には、自ら政夫の前へ姿を現した。
何年にも及ぶ出来事の果てに、今では二人が怪異となって互いを殺し続けている。それだけ長く二人の変化を追い続けた理由が、本当にただ観察したかったからだという。
それは人間の尺度だとあまりに異常だった。
「観察が目的だったなら、どうして政夫さんの前に姿を現して、アプリを渡したの?」
続いてシアニが尋ねた。
見ているだけなら、姿を現す必要はなかったはずだ。
だが女は美佳の死後、政夫の前へ直接現れ、忘却の中へ逃げようとする彼に過去を突き付け続けた。それが、やがて彼自身の死へと繋がっている。
「観察するためです。『私』という刺激を与えた時、彼という『|事象《そんざい》』が何を成すのか。そしてアプリという新たな刺激を与えた後、何を成すのか。それを観察するためです」
返答はやはり同じだった。後悔も、自分の行為を正当化する響きもなかった。
政夫を救おうとしたわけではない。破滅させようとしたわけでもない。
ただ新たな刺激を与え、その結果として何が起こるのかを観察する。
「本当に深い意味はないのだろう。俺が以前に遭遇した時も、まるで同じだった。きっと、そういう存在なんだ」
クラウスは苦い表情のまま告げた。
過去にこの女と遭遇した彼だからこそ、その言葉には実感があった。
害そうという意志があるから危険なのではない。誰かを不幸にして喜ぶからでもない。
対象へ刺激を加え、そこから生じた変化を観察するという在り方そのものが、人間にとって害になり得る。
人の倫理を当てはめて理由を探しても、最初から噛み合う相手ではないのだろう。
「ややこしいのはもう結構よ。あんたがこの胸糞悪い状況を生み出したことに変わりはないでしょ」
アーシャは議論を断ち切るように言い、女へ籠手と爪を向けた。
相手が悪意を持っているかどうかなど、今の彼女には重要ではない。
政夫と美佳を利用し、この異界を動かす一端を担っている存在が目の前にいる。それだけで敵意を向ける理由としては十分だった。
「あんたを倒せば全部終わるわけ?」
「いいえ」
女は武器を向けられても身構えず、先ほどまでと何一つ変わらない調子で答えた。
「システムは実行者と被害者による浸食を受けています。この空間の消去には、二人のうち、どちらかの消滅が必要です」
その言葉に、アーシャが眉を寄せる。
女はさらに説明を加えた。
「ただし、貴方たちの介入は私の権限によって行われています。私を消せば、二人だけが空間に残され、完全に隔絶した世界となるでしょう」
女を倒せば、この事件を生み出した異界そのものが消えるわけではない。
ただ現実との接点を失い、政夫と美佳だけが残される。
先ほど見せられた光景が、その結末を具体的に示していた。
殺しても再生する政夫。
傷つくたび分裂し、別の自分を取り込んで再び立ち上がる美佳。
互いを憎み、どちらも相手を殺し切れないまま、二人だけで外から誰も触れられない世界へ閉じ込められる。
怪異を現実世界から隔絶するという一点だけを見れば、それも事件の終息とは呼べるのかもしれない。
しかしエアリィの視線は、怪異たちではなく傍らの加奈子へ向いていた。
少女は青ざめたまま、父親だったものと美佳の殺し合いを見つめている。
――それじゃあ、加奈子さんの心は……。
自分が死んだと知った直後ですら、父親がこちらへ来なくてよかったと安堵した少女だった。
その加奈子にとって、父親を永遠にあの地獄へ閉じ込めることが、本当に救いになるはずはなかった。
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【補足情報】
今回は長いため、断章に追記します。
●基本条件
・青い流れ、『わたしは加奈子です』、大蜘蛛怪異(政夫)の三名は、それぞれ√能力者4名分に相当する能力値です。
・下記三名のうち、いずれかが倒されたら、シナリオのクリアとなります。
・『わたしは加奈子です』と大蜘蛛怪異は、√能力者から攻撃や妨害を受けた場合のみ反撃を行います。それ以外では、互いへの攻撃に集中します。
・『神聖竜詠唱』系の√能力は、上記三名+加奈子のいずれかにとって障害・不都合になると判断された場合、失敗もしくは大幅に弱体化します。
・リプレイ後に別途エピローグの断章が入ります。やりたいことなどがある場合は、プレイングに入れていただければ、なるべく拾うようにいたします。
ただし、リプレイ結果との乖離が大きい場合は採用が難しいことがあります。
また、プレイングに含めなかった場合でも、エピローグでの出番がなくなるといったことはございません。
・リプレイは参加者全員のプレイングから執筆(全体一斉返却)されます。各プレイング間で選択や行動に矛盾が生じる場合は、MS判断で採用内容を決定します。
●青い流れ
・EDENたちの観察が目的。
自発的に戦闘を行うことはありませんが、攻撃された場合は『刺激』を目的として通常どおり反撃します。
・この場において最も強い個体ですが、主目的が観察なので戦意が低く、他二人と同程度になっています。
・与えたダメージ総量によって、青い流れのみが知る記憶(本シナリオの追加情報)を得られます。
ただし、この情報は三章クリアに対してプラス要素になることはありません。
7割程度のダメージを与えればすべての情報を得られるため、情報のために完全に倒す必要はありません。
・青い流れが、全体の戦闘継続は不可能、もしくは戦闘終了と判断した場合は観測を終了して帰還し、Re:Memberも終了します。この場合も、青い流れが倒された場合と同等の扱いになります。
●わたしは加奈子です
POW:痛い痛い痛い
【幼き日の『加奈子』】を召喚し、攻撃技「【刃物で切り付ける】」か回復技「【本体への融合】」、あるいは「敵との融合」を指示できる。融合された敵はダメージの代わりに行動力が低下し、0になると[護霊「プリズマティック・ブルー」]と共に消滅死亡する。
SPD:もうやめて
半径レベルm内の敵以外全て(無機物含む)の【自分を偽る力】を増幅する。これを受けた対象は、死なない限り、外部から受けたあらゆる負傷・破壊・状態異常が、10分以内に全快する。
WIZ:わたしを×××
攻撃が外れるまで、近接範囲の敵をWIZ攻撃「【血涙を流しながらの薙ぎ払い】」とPOW攻撃「【幼き加奈子たちによる不意打ち】」で交互に攻撃し続ける。
その他:
大蜘蛛怪異からの攻撃を受ける度、幼き日の『加奈子』が複数召喚されます。ダメージが大きいほど召喚数は増えます。
能力は『被害者』と同等ですが、デフォルトで黒い刃物を所持しています。
大蜘蛛怪異が敵対の意思を持つ限り戦闘をやめることはありません。
消滅せず現実世界へと戻った場合は、監禁・虐待された恨みだけが残り『理由を問わず、子供を失った父親を襲って加虐する怪異』となります。
(大蜘蛛怪異も含めて、そういうエンディングになるだけで後日別途シナリオを出す予定は今のところありません)
●大蜘蛛怪異(政夫)
POW:お前は加奈子じゃない
自身の【一段目の左右の腕】がA、【二段目の左右の腕】がB、【三段目の左右の腕】がC増加し、それぞれ捕食力、貫通力、蹂躙力が増加する。ABCの合計は自分のレベルに等しい。
SPD:悪い子はお仕置きだ
命中する限り「【六本腕のいずれか】による攻撃→技能攻撃→[六本腕のいずれか]攻撃→技能攻撃」を何度でも繰り返せる。技能攻撃の成功率は技能レベルに依存し、同じ技能は一度しか使えない。
WIZ:ここは俺と加奈子の居場所だ
【ノコギリ型の指】による近接攻撃で1.5倍のダメージを与える。この攻撃が外れた場合、外れた地点から半径レベルm内は【呪いの汚染地帯】となり、自身以外の全員の行動成功率が半減する(これは累積しない)。
その他:
新たに生えた四本の腕(中段を除く二対)をすべて破壊すれば、一度だけ人間の姿に戻ります。
ただし、完全に正気が戻ることはなく、ただ声をかけて説得するだけでは、戦闘を停止させることはできません。
また、常時軽度の『忘れようとする力』が発動しており、攻撃を受けていない間は自動で回復状態となり、破壊した腕も順次復活します。
腕が復活して、再度怪異化した場合、永続的な狂気に陥ります。
消滅せず現実世界へと戻った場合は、『娘に似た少女を探して、異空間へ監禁して娘になるよう支配する怪異』になります。
●加奈子
この場で起きている出来事については、√能力者と凡そ同じ情報を把握しています。
政夫が狂気に陥って罪を犯し、怪異化したことを自分のせいだと受け止め、強いショックを受けています。
また、戦闘の恐怖から動けなくなっています。
(自分から戦場に割り込まないので、基本的には放置しても戦闘には巻き込まれません)