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呪宴を視る
伊藤政夫にとって、娘の加奈子は最後に残された家族だった。
妻の浮気が原因で離婚してからも、仕事に追われる毎日も、家へ帰れば加奈子がいる。それだけで耐えられた。
だからこそ、十歳でその加奈子を喪った後の家は、住み慣れているはずなのに酷く広く感じられた。
食卓に向かい合う相手はいない。廊下の向こうから足音が聞こえることもない。何気なく名前を呼びそうになるたび、返事など二度と来ないという現実だけが胸の奥を抉っていく。
そんな夜、テーブルへ伏せていたスマートフォンが短く震えた。
政夫が何気なく手に取り、画面を返す。暗い室内へ浮かび上がったのは、見覚えのない広告通知だった。
『亡くなった大切な人に、もう一度会いたくありませんか?』
「……なんだよ、これ」
悪趣味な広告だと吐き捨てながら、通知を消そうとした指は止まっていた。
表示されたアプリの名は『Re:Member』。
死者の名前と写真を登録すれば、その者と再会できるという。仕組みらしい説明はなく、到底まともなサービスには思えない。
それでも、だとしても。
疑う理性より、もう一度会いたいという願いが勝った。
「加奈子……」
藁にも縋る思いでアプリをインストールする。起動後に求められたのは、会いたい死者の名前と一枚の写真だけだった。
震える指で娘の名を入力し、ストレージに残っていた写真を読み込ませる。
『伊藤加奈子』
確認画面の先には、一つのボタンだけが表示された。
『儀式を実行する』
迷いはなかった。
指先が画面へ触れた途端、スマートフォンの光も、室内に残っていた僅かな明かりも一斉に消えた。
「……え?」
僅かな暗転を経て視界を取り戻した時、そこに先程までの自宅はなかった。
淡い色の壁紙。小さな机。棚へ並ぶぬいぐるみ。十歳の少女が暮らす部屋を思わせる一方、窓には太い鉄格子が嵌められ、壁の一部は冷たいコンクリートへ変わっている。子供部屋と監獄を無理矢理縫い合わせたような、歪な空間だった。
そして、その中央に少女が佇んでいる。
「加奈子……?」
見間違えるはずがない。
「加奈子! 加奈子ぉっ!」
堪え切れず駆け寄り、小さな身体を抱き締める。腕の中に確かな感触がある。その事実だけで喉が詰まり、涙が頬を伝った。
「ごめんな……! 父さん、ずっと……ずっと会いたかった……!」
返事の代わりに、肩へ鋭い痛みが突き刺さった。
「ぐぁあああああっ!?」
少女の歯が肉へ深々と食い込み、衣服の下へ生温かな血が滲む。反射的に身体を引き剥がした政夫が数歩よろめいた。
「な、何するんだ……加奈子……?」
娘の口元は赤く濡れていた。怒りも涙もなく、何の感情も浮かばない眼差しだけが政夫へ向けられている。
少女が一歩、距離を詰めた。
「ひっ……!」
本能に突き動かされるまま扉を押し開け、廊下へ飛び出す。
そこにも知っている自宅はなかった。異様に長い廊下には鉄格子と重い扉が連なり、階段を下りたはずなのに二階へ戻る。曲がった先で同じ場所へ辿り着く。
それでも、壁の時計や棚、柱に残った古い傷には覚えがある。
間違いなく自宅なのに、知っている家とはまるで違っていた。
背後から響く、小さな足音。
部屋へ逃げ込んでも、別の廊下へ駆けても、気付けば加奈子がいる。
逃げる。
追われる。
また逃げる。
いる。いる。いる。冷たい目で、どこにでも。
やがて混乱する頭に、一つだけ希望が浮かんだ。
(玄関だ……玄関からなら!)
乱れた呼吸を引きずりながら駆け続け、ようやく見覚えのある玄関へ辿り着く。
「あった……!」
震える両手でドアノブを掴み、勢いよく回した。
開かない。
「なんでだよ……!」
押しても、引いても、微動だにしない。
「開けよ! 頼むから開いてくれぇ!」
何度もドアノブを捻るうち、背後の足音が消えた。
恐る恐る振り返った先で、加奈子が立っていた。
小さな手には、鈍い光を返す刃物が握られている。
「や、やめろ……」
政夫の背が扉へ張り付く。
「加奈子……父さんだぞ……!?」
答えはない。
少女は血に濡れた口元を動かすことなく、刃をゆっくり持ち上げた。
●
「ここまでが、ボクの見た√汎神解剖機関で起きる事件の予知だよ」
水瀬・恋眞の言葉を受け、集まった√能力者たちの間に僅かな沈黙が降りる。
「予知の後で調べてみたらね、死者に会えるっていう闇アプリが一部で出回ってるみたいなんだ。その名前が『Re:Member』」
大切な人を亡くした者へ広告を送りつけ、名前と写真を登録させる闇アプリらしい。ネット上には「本当に会えた」という体験談も残されていた。
「けど、今回の予知と、これまで出てる体験談が食い違ってるんだよねぇ。噂を調べても、死者に襲われたって話は出てこなかったんだ」
だが今回の予知では、自宅が牢獄じみた異界へ変貌し、加奈子らしき少女が政夫を執拗に追い回している。
「この事件、予知の範囲では見えなかった何かがあるのかも」
目の前の加奈子らしき存在を退ければ終わる、と考えるには不明な点が多過ぎた。
「みんなが入る頃には、政夫さんはまだ玄関へ追い詰められる前で、家の中を逃げ回ってるはず。まずは彼を探して。それと、異界化した家そのものも調べてもらいたいんだ」
差し出された紙には、異界化する以前の伊藤家の間取りが印刷されている。スマートフォンを持つ者には同じデータも送信された。
「中はかなり変わってるけど、元の家がベースにはなってるみたい。調査する時の目安にはなると思うよ」
侵入地点は玄関口。
ただし、一度足を踏み入れれば、異界が消えるまで外へ戻れない可能性が高い。
「何が待ってるのか、ボクにも全部は分からない。でも、みんななら真相を突き止めて、ちゃんと解決してくれるって信じてるよ」
恋眞は最後にいつもの笑みを浮かべ、√能力者たちを見回した。
「おねがいね!」
こうして彼らは、死者との再会が待つ伊藤家へと向かうのだった。
第1章 冒険 『侵蝕された地へ』
なぜ、自分は逃げているのだ。
加奈子から。もう一度会いたいと願い続けた、たった一人の娘から。
乱れた息を押し殺し、政夫は廊下の角からそっと顔を覗かせる。
どこまでも続く薄暗い廊下に、人影はない。
それでも安心できなかった。
さっきまで誰もいなかった場所へ、あの子は突然現れた。曲がり角の先にも、開いた扉の向こうにも、いつの間にか立っている。
――どうしてだ……。
壁へ背を預け、ずるずると腰を落とす。
こんな再会を望んでいたわけではない。
加奈子の声を聞いて、顔を見て、それから――謝りたかった。
――あのことを……。
今でも忘れられない。
あの日、あんなことにならなければ。
自分があの時、もっと――
考えようとするだけで胸の奥が締め付けられ、政夫は両手で頭を抱えた。
「そんなに……俺を恨んでるのか……?」
掠れた声が、誰もいない廊下へ消えていく。
あの日のことを恨んでいるのだとしても、父親を殺したいと思うほど、自分を憎んでいるのか。
「違う……違うだろ……」
血に濡れた口元。
何の感情も映さず、自分へ刃を向ける眼差し。
脳裏へ蘇る姿を振り払うように、何度も首を横へ振る。
「加奈子が……あんなことするはずない……」
優しい娘だった。
無邪気な笑みを向けられると、自分まで嬉しくなった。
腹を立てることも、拗ねることもあったけれど、それでも最後にはいつもの笑顔を見せてくれた。
ならば、これは何かの間違いではないのか。
ふと、政夫の意識へ『Re:Member』が浮かぶ。
「そうだ……アプリ……」
アプリに何か異常が起きたのかもしれない。
儀式の途中で何かがおかしくなったのなら、アプリを止めれば元に戻せる可能性もある。
加奈子から逃げることばかり考えていた頭に、初めて具体的な希望が生まれた。
息を潜めたまま、政夫は自分の手元へ目を落とす。
スマートフォンがない。
「……え?」
慌ててポケットへ手を突っ込む。
ない。
反対側のポケットへ手を入れる。
そこにもない。
上着を探り、ズボンを確かめ、もう一度同じ場所へ手を入れる。
「スマホ……どこだ……?」
背中に嫌な汗が滲む。
逃げ回っている間に、どこかへ落としたのだろうか。
記憶を辿ろうにも、その間の光景は恐怖に掻き乱され、まともに繋がらない。
「嘘だろ……」
探しに戻らなければならない。
けれど、どこへ。
立ち上がろうとした、その時だった。
ぺた。
小さな音が聞こえた。
政夫の身体が固まる。
ぺた。
また一つ。
裸足で床を踏むような音が、廊下の向こうから近付いてくる。
「……加奈子?」
返事はなかった。
廊下の角から恐る恐る覗いた先で、小さな影がこちらを向いている。
「ひっ……!」
声を漏らした途端、少女が低く身を沈めた。
次の瞬間、床すれすれを駆けるような勢いで迫ってくる。少女は大きく口を開き、政夫の足首へ飛びついてきた。
「うわぁああああっ!?」
間一髪で脚を引き、壁へ肩をぶつけながら角の向こうへ転がり出る。
振り返っている暇などない。
傷む身体を引きずり、息も絶え絶えに、また走り始める。
背後から、小さな足音が追ってくる。
その頃、異界と化した伊藤家の玄関へ、政夫の知らない新たな来訪者たちが近づいていた。
異界へ踏み込んだ√能力者たちは、それぞれの判断で伊藤家の探索へ散っていった。
事件を解く手掛かりは、牢獄じみた姿へ変貌した家のどこかにあるはずなのだと信じて。
その一人、フィオ・エイル・レイネイトもまた、気配を殺して薄暗い廊下を進んでいた。
見た目だけなら十四、五歳ほど。百五十センチほどの小柄な身体に、金の装飾が施された濃紺の上着と赤いスカートを纏っている。
帽子の下から覗く髪は鈍い赤茶色。本人はあまり好きではないその髪色も、白い肌と鮮やかな緑の瞳にはよく映えていた。
腰には二振りの刀を佩いている。
可憐な少女としか見えない外見に反して、その足取りに隙はない。
――死者に襲われたって話が出てこないのは、そりゃあその通りだとは思うかな。語る口がなければ、体験談も出しようがない。
いわゆる生存者バイアスというやつだ。
Re:Memberを利用した者が全員無事だったとは限らない。異常に巻き込まれ、体験を語れる状態ではなくなった者がいたとしても、その事実が噂として表面へ出てくることはないだろう。
もっとも、それだけで今回の異変を説明できるわけでもなかった。
――まず見たいのは、加奈子さんの部屋かな。
予知の始まりは、少女の部屋と監獄が混じり合ったような空間だった。
あそこが異界化の中心に近いのであれば、何らかの痕跡も色濃く残されている可能性が高い。何より加奈子本人の部屋ならば、彼女について知るには適した場所だろう。
家のどこかでは、今も政夫が娘から逃げ続けている。
申し訳なさがないわけではないが、仲間たちの中には救助優先で動いている者もいた。
少なくとも今すぐ命を落とす状況ではないことも分かっている。全員が救助優先に回らず、その猶予を調査へ回した方が、事件そのものの解決に繋がるだろうという判断だ。
足音を抑え、曲がり角へ差し掛かるたび、先に気配を窺ってから進む。
異界化した家には、かつて人が暮らしていた面影が随所に残されていた。壁に掛かった時計、使い込まれた棚、柱についた小さな傷。ところが、それらを繋ぐ廊下は不自然なまでに長く、まともな家屋とはあまりにかけ離れている。
何より避けたいのは、あの少女との遭遇だった。
予知で見た加奈子が相手なら、事情を聞くより先に牙を剥かれる可能性もある。
幸いにも怪異らしいものとは鉢合わせず、やがて目的の部屋へ辿り着く。
僅かに開いていた扉を押し、その向こうへ慎重に視線を滑らせた。
「……やはり、部屋も広くなっているね」
渡された間取りから想像していた子供部屋より、明らかに奥行きがある。
異界に呑み込まれたことで空間そのものが引き延ばされたのか、十歳ほどの少女が使うには不釣り合いな広さへ変貌していた。
淡い色の壁紙に、小さな勉強机。本棚には児童書や学習用の教材が収まり、ベッドには可愛らしい柄のシーツが掛けられている。
それだけを切り取れば、ごく普通の少女の部屋だった。
だが、窓は太い鉄格子で塞がれ、天井は本来の家屋からは考えられないほど高い。灰色のコンクリートへ変質した壁には無骨な鉄板が継ぎ接ぎされ、扉にも内側から開けられるものとは思えない重々しい金具が取り付けられていた。
可愛らしい子供部屋と、人を閉じ込めるための牢獄。
本来なら相容れない二つの意匠が、初めからそういう部屋だったかのように溶け合っている。
少女らしい温かさが残っているからこそ、その中へ食い込んだ冷たい監獄の意匠が一層不気味だった。
部屋の一角には、小さな棚を埋めるほどのぬいぐるみが並んでいる。
うさぎや猫、くまといった可愛らしいものが多い中、一体だけ妙に毛色が違った。
「……ヒーロー?」
蜘蛛を意匠に取り入れた全身スーツ姿のヒーローが、頭身を低くした愛嬌のある姿でデフォルメされている。
他がいかにも少女向けの品で揃えられているだけに、男の子向けに見えるヒーローのぬいぐるみだけが僅かに浮いていた。
趣味は人それぞれだ。それだけで何かを決めつける理由にはならない。
それでも胸に引っ掛かった小さな違和感だけは覚えておき、フィオは室内へ踏み込んだ。
予知で見た部屋と、ほぼ同じ光景だった。
「さて……普通に探して見つかるものなら、それが一番なんだけど」
視線を巡らせても、露骨に怪しいものが転がっているわけではない。
手当たり次第に家具をひっくり返すより、もう少し手早い方法もある。
「こういう時に頼れるのがいるのは助かるよ」
腰へ手を伸ばし、妖刀『無尽廻廊』の柄へ指を添える。
「――こいつも結構な埒外でね」
言葉に応じるように、鞘の内側で何かが蠢いた。
|妖刀解放《ネジフセロ・ソノリンリ》――刀を僅かに抜くと、緑色の刀身に刻まれた獣の意匠を通じ、封じられた妖の気配が滲み出してくる。それは獣のような異質なインビジブルだった。
「この異変を解き明かすための取っ掛かりが欲しい」
妖刀に封じられた妖は、言葉にされた願いを叶えて困難を打開する。そういう能力を有している。
願いの結果を期待して少しの間待機するも、やがて滲み出していた気配が薄れ、静寂だけが戻ってきた。
「……何も起きないな」
机も、本棚も、並べられた小物も変わらない。
隠された何かが姿を現すでもなければ、引き出しがひとりでに開くようなこともなかった。
「ハズレかな?」
そう呟きながらも、すぐに考えを改める。
この力が願いを叶えるには、一つだけ条件がある。誰も傷つけることのない願いであることだ。
仮にこの部屋にある何かを知ることで誰かが傷つくのならば、それが直接示されなかったとしても不思議ではない。
言い換えれば、何も起きなかったという結果自体、情報の一つにはなる。
「だったら、自分で探し出すしかないね」
怪異現象を形作るものとして、頭へ浮かぶのは強い感情だった。
愛する者と別れる愛別離苦。
憎む者と出会う怨憎会苦。
望むものを得られない求不得苦。
そして、自分の心や身体すら思い通りにならない五陰盛苦。
今回の一件には、そのどれもが奇妙なほど馴染んでいる。
「そういう念が残りそうなものから当たってみようか」
手記や書類、あるいはスマートフォン。
そういった分かりやすいものを念頭に置きながら、まずは机へ向かう。
ところが、期待した品は簡単には見つからない。
引き出しに収められているのは文房具や学校関係らしいプリントばかり。本棚へ並べられたノートも一冊ずつ確認するが、胸中を綴った日記のようなものは混じっていなかった。
適当に一冊を取り出し、頁を送っていく。
記されている内容そのものは、子供が学ぶ範囲から大きく外れていない。
ただ、目を留めたのは文字だった。
「……思ったより、しっかりした字を書くんだね」
一字一字が整っている。
幼さは残っているものの、十歳ほどの子供が書いたものとしては、どこか大人びて見えた。
それだけなら、単に字の綺麗な子供という可能性もある。
もう少し詳しく調べようと、別のノートへ手を伸ばしかけ――。
――視線?
背中へ、微かな気配が触れた。
伸ばしていた手を止め、身体ごと静かに振り返る。
同時に重心を落とし、必要とあらば刀を即座に抜き放てる態勢を整えた。
部屋の入口に、一人の少女が立っていた。
十歳ほどの、小柄で華奢な少女だ。艶のある黒髪は癖のないボブで、大きな瞳は僅かに垂れている。左目の下には小さなほくろがあり、髪の隙間から覗く耳たぶはやや大きかった。
――この子が、本当に?
政夫を襲っているという話から想像していた姿とは、あまりにも様子が違う。
目の前の少女に宿っているのは、敵意ではなく不安と怯えだった。
こちらを警戒しているのは、むしろ少女の方に見える。
それでもフィオも警戒は解かず、刺激しないよう声の調子だけを穏やかにする。
「名前を聞いてもいいかな?」
「加奈子……」
返ってきた名は、想像していた通り。
しかし、それで疑問が解けるどころか、違和感は強まった。
予知で見た少女と同じ人物なのだとすれば、あまりにも様子が違いすぎる。
少なくとも今この場で、目の前の少女が襲いかかってくる気配はなかった。
「加奈子さん。少し聞きたいことが――」
問いを続けるより早く、少女の顔へ怯えが広がる。
次の拍子には身を翻し、小さな背中が廊下へ消えていった。
「あっ」
咄嗟に後を追って部屋を出る。
けれど、廊下へ踏み出した時には、既に左右のどちらにも姿はなかった。
走り去ったにしては早過ぎる。遠ざかる足音すら聞こえてこない。
「……消えた?」
ここが異界であり、少女も怪異の類なのだとすれば、それ自体は不思議ではないのだろう。
周囲へ意識を広げてみても、少女がいた気配は急速に薄れ、辿ることも難しくなっていた。
この時のフィオはまだ、一つの可能性へ思い至っていなかった。
誰も傷つけることなく、この異変を解き明かすために必要な取っ掛かりが欲しい。
そう願った後、何も起こらなかったと思っていた部屋へ現れた、一人の少女。
妖刀は沈黙していたのではない。
願いへの答えとして現れた少女を、フィオが予知で見た怪異と同一視し、襲撃を警戒してしまった。
逃げるように姿を消した少女こそが、妖刀に封じられた妖によって導かれた――この事件の真相へ辿り着くための、最初の糸口だった。
鉄格子の影が、異界化した廊下を斜めに横切っていた。
元はごく普通の一軒家だったはずなのに、壁紙の途中から冷たいコンクリートが露出し、見慣れた室内扉の隣には用途の知れない鉄扉が生えている。天井の高ささえ場所によって揃わず、少し目を離しただけで廊下の長さまで変わったような錯覚に襲われる。
その歪んだ空間を、二人が並んで進んでいた。
先を行く見下・七三子は、細身の身体を黒いスーツで包み、ネクタイから手袋、靴に至るまで暗色で統一している。腰を越えるほど長い黒髪は高い位置でまとめられ、歩みのたびに大きく尾を引いた。赤い瞳とすらりと伸びた手足だけなら鋭利な印象を与えそうなものの、表情に宿る柔らかさがそれを和らげている。
隣を歩くシアニ・レンツィは、そんな七三子よりもずっと小柄だった。
鮮やかな青い肌に、白銀の短い髪。黒いベレー帽の下では大きな緑の瞳が忙しなく周囲を見渡している。星や魔術文字を散らした青いマフラーが背後へ揺れ、その華奢な身体には不釣り合いなほど巨大なハンマーが肩へ担がれていた。
「儀式かぁ。なんだか|前の事件《シセンノマ》を思い出しちゃうな……」
ぽつりと零れた呟きが、静まり返った廊下の奥まで妙に長く響いていく。
「シセンノマ……?」
聞き慣れない言葉だったらしく、七三子が不思議そうに小首を傾げた。
「あ、えっとね。前にあたしが行った依頼で――」
説明しかけたところで、声が僅かに淀む。
古い屋敷。
人の欲。
そして、そのためだけに組み上げられた悪辣な儀式。
誰かを意図的に苦しめ、怒りと憎悪を育て、その果てに命まで奪う。死後すら解放せず、凝り固まった怨嗟を怪異へ変えて利用する。
そんな呪いが、シセンノマと呼ばれていた。
「……人をわざといっぱい苦しませて、怒らせて、憎ませて。その気持ちがずっと消えないようにして、怪異に変えちゃうような儀式だったの」
どんな方法で人を苦しめたのか。
その後も何を続けていたのか。
そこまで詳しく伝えるのはやめておいた。
七三子は自分より十歳近く年上の女性だ。それでも、ときおり自分よりもずっと純朴に他人の善意を信じているようなところがある。
わざわざ聞くだけで胸の悪くなる話まで教える必要はないだろう。
「そうですか、前にもそんな事件が」
赤い瞳が、気遣うように柔らかく細められる。
「シアニさん、がんばりましたね」
「……うん」
たった一言だった。
それなのに、胸の奥へ沈んでいた重たいものへ、そっと触れられたような気がする。
あの事件が忘れられないのは、怪異が強かったからではない。
そこに至るまで積み重ねられた苦痛も、その中で知った想いも、今なお記憶へ深く刻まれていた。
――そういえば……あの儀式を授けた呪術師は、その後どうしたんだろう。
屋敷に残された資料をいくら調べても、その存在について分かったことはほとんどなかった。
あれほど悪辣な仕組みを生み出せるのだ。まず、まともな人物ではない。
とはいえ、シセンノマが作られたのは少なくとも数百年前の話。今回現れたスマートフォンのアプリとは、時代からして隔たりが大きすぎる。
「さすがに今回と結びつけるのは飛躍しすぎだけど……でも、こういう儀式とかアプリとかを作って、誰かに使わせてる人がいるんだよね」
「うん、確かにアプリが気になりますね」
普段の依頼なら、起こる事件や戦うべき相手がある程度は判明している。そこまで明確でなくとも、事件を追う道筋くらいは示されていることが多かった。
しかし、今回は違う。
伊藤政夫が、娘の加奈子に襲われる。
分かっているのは、ほとんどそれだけ。
『Re:Member』が何を起こしているのか。
どうして今回に限って、再会した死者が政夫へ牙を剥いたのか。
進む先はあるのに、その少し先さえ霧に覆われて見えない。そんな落ち着かなさが付きまとっていた。
やがて二人の前へ、半ば鉄格子に侵食された引き戸が現れる。
渡された間取りが正しいのなら、この先がリビングだ。
扉を潜った途端、家庭の生活空間と監獄を無理矢理縫い合わせたような光景が視界いっぱいに広がった。
ソファの背後から太い鉄柱が伸び、壁の一部は格子へ置き換わっている。食卓の上からは錆びた鎖が垂れ下がる一方、テレビや棚、冷蔵庫には現実の伊藤家だった頃の面影が色濃く残されていた。
「……ここが、政夫さんがアプリを使った場所」
周囲へ目を巡らせたシアニの視線が、すぐ床の一点へ吸い寄せられる。
「あっ! あれって政夫さんのスマホじゃないかな?」
拍子抜けするほど無造作に、黒いスマートフォンが転がっていた。
「逃げ回っているうちに落としたのでしょうか?」
「たぶん。見てみよっ」
拾い上げて確かめても、目立った破損はない。
液晶へ指先を触れさせると、暗かった画面が白々と発光した。
ロック画面ではない。最初から『Re:Member』が開かれている。
「これが……」
表示されている名前は『伊藤加奈子』。
そのすぐ下には、十歳ほどに見える少女の顔写真が一枚。
「この子が加奈子ちゃんみたいだ」
二人の視線が画面へ集まる。
黒に近い暗色の髪。丸みを残した卵型の小さな顔。大きな黒い瞳に、小さな鼻と口。色白で、首も細く、写真からでも小柄で華奢な少女なのだろうと想像できる。
年齢より僅かに幼く感じられる、整った顔立ちだった。
「……『実行中』」
七三子が画面下部の表示を読み上げる。
「止められたりしないのかな?」
試しにシアニが指を滑らせるものの、何の反応も返ってこない。
戻る操作も、アプリを閉じる操作も受け付けず、名前と写真、その下に浮かぶ短い表示だけが画面へ焼き付いたように固定されていた。
「うーん……そもそも、この『儀式』とはなんでしょうかね」
七三子の表情へ戸惑いが滲む。
「喪われた人は戻らない。戻せる、と謳うならば、もう最初から罠でしかない気もします」
命を失えば、死者はインビジブルとなる。
死後蘇生を果たす自分たち√能力者は、その中でも例外だ。
ならばこれは、死者との再会を餌にして、遺された者を何かへ誘い込む仕掛けなのだろうか。
「壊しちゃう?」
「……何が起きるか分かりませんから、今はやめておきましょう」
「だよねぇ」
重要物として預かることにはしたものの、端末からそれ以上の情報を引き出せそうにはない。
改めて周囲へ目を向けても、儀式を開始した場所らしい特殊なものは見当たらなかった。
床に魔法陣が刻まれているわけでも、祭壇や呪物らしきものが据えられているわけでもない。
異界化した部分を除けば、ここはごく普通の家族が暮らしていたリビングに見える。
「二人は、ここでどんな生活を送っていたんだろ」
シアニの呟きへ、七三子も小さく頷いた。
「家族の生活痕跡から、加奈子さんが亡くなった頃の情報を探しましょう。失せ物探し、私、結構得意なんです」
まず向かったのは冷蔵庫の周辺。
学校からの配布物や予定表なら、こうした場所へ貼ってあるかもしれない。
冷蔵庫そのものには目立つものがなかったものの、すぐ近くの壁へ今年のカレンダーが掛かっていた。
「あっ」
昨日の日付だけ、赤い丸で囲まれている。
脇に添えられた手書きの文字は『加奈子 誕生日』。
「仲が悪いなら、お誕生日に印を付けたりはしないですよね」
「そうだよね」
シアニの表情からも、僅かに緊張が抜ける。
「今回に限って襲われたのなら、家族に理由が……あって欲しくないから。普通に生活してたって言えそうなもの、もっとないかなぁ」
緑の瞳を細め、室内へ意識を集中させる。
「|視えて《おしえて》。ここで何が起きたのか」
|竜眼・過去視《メモワール》。比較的近い過去を見通す力が、異界化したリビングへ向けられる。
「んん……?」
視界へ薄い膜を重ねるように、もう一つの風景が滲んだ。
ところが、普段のようには像を結ばない。
現実の家具へ半透明の輪郭が重なっては崩れ、人影らしきものが浮かんだと思えば、激しい砂嵐の中へ呑まれていく。
「だめだぁ。ほとんど見えない……」
「無理はしないでくださいね」
「うん。でも、何もないよりはマシかな」
過去から直接拾えないのなら、今も残っている物を調べればいい。
手分けして探すうち、食器棚の奥から同じ柄の茶碗が二つ見つかった。
台所の隅には、小さな踏み台。
角は丸く擦れ、足を乗せる部分にも長く使い込まれた跡が残っている。
別の引き出しから出てきたのは、子供用のエプロンだった。
「いっぱい使ってたみたい」
布地へ指を滑らせながら、シアニが小さく笑う。
同じ食器を使って食卓を囲み、台所では踏み台へ乗って父親の手伝いをする。
少なくとも、そんな団らんの日々があったと考えることに無理はなさそうだった。
「やっぱり、仲は良かったみたいだね」
「そうみたいですね。あ、これは……」
棚の引き出しを奥まで探っていた七三子の手に、硬いものが触れる。
引き出されたのは、一つの写真立て。
ガラスにはひびが走り、フレームの角にも何かへ強くぶつかったような傷が残っていた。
その下には、折れ曲がった一枚のプリントが敷かれている。
「学校からのお知らせ……授業参観ですね」
内容へ目を通した七三子の表情が、少し曇る。
「もしかして、これも『ごめんな』に関係しているのでしょうか……」
普段どれほど仲が良くても、長く暮らせばすれ違うことくらいある。
仕事の都合で学校行事へ行けなかったのかもしれない。
何か約束をして、それを破ってしまったのかもしれない。
けれど、推測を巡らせかけた視線が、紙面の一点で止まった。
「……え?」
「どうしたの?」
「これ……五年前の日付です」
隣から覗き込んだシアニも、その数字を確かめる。
娘を亡くしてから五年間、悲しみ続けていた。
それだけなら、不自然とは言えない。
「でも……さっきのカレンダーは今年のだよね?」
「はい。間違いありません」
古い学校のプリント。
壊れた写真立て。
その一方で、現在まで娘の祝い事を書き留め続けていた形跡。
食い違う互いの意味を結びつけるには、まだ情報が足りない。
その時、七三子の視界の端を淡い影が横切った。
「……?」
空中を漂っていたのはインビジブル。
しかし、この家へ入るまでに見慣れてきたものとは様子が違う。
輪郭が縦横へ引き伸ばされ、細かな粒子となって離れたかと思えば、また別の場所で繋がる。一つの身体として存在しているはずなのに、幾つもの映像をずらして重ねたように姿が揺らぎ続けていた。
「少し、お話を聞けないでしょうか」
静かに手を合わせ、死者の残滓へ一時の知性と言葉を与える|降霊の祈り《ゴーストトーク》を紡いでいく。
祈りへ反応したのか、漂っていた影の動きが止まった。
ざり。
どこからともなく、砂を噛んだ機械のような音が鳴る。
ざざっ。
幾つにも分かれていた影が寄り集まる。
けれど滑らかには繋がらない。
細い腕らしき輪郭が浮かび、その少し離れた場所へ肩が現れる。脚の形が一度崩れ、黒い帯状のノイズを挟んで別の位置へ繋ぎ直される。
まるで壊れた映像を無理矢理一人分へまとめ上げているかのようだった。
やがて二人の前へ形を成したのは、十歳ほどの少女。
「……!」
七三子の呼吸が僅かに止まる。
先ほどスマートフォンで見た顔だった。
暗い髪。
色白の肌。
小柄で華奢な身体。
丸みを帯びた幼い顔に、大きな黒い瞳。
画面の中の『伊藤加奈子』が、そのまま抜け出してきたかのようだ。
――政夫さんを追いかけているはずの子が、どうしてここに?
政夫を追っているという加奈子が同じ存在ならば、今頃は家のどこかにいるはずだった。
それなのに、目の前には同じ姿を持つ死者がいる。
「あなたは……加奈子さん、ですか?」
出来るだけ刺激しないよう、七三子が柔らかな声音で問い掛ける。
返事はない。
降霊の祈りによって知性を得たインビジブルなら、直近の出来事について尋ねれば協力的に答えられるはずだった。だが、目の前の少女は問い掛けそのものへ反応を示さない。
ノイズの暗がりの中、光を映さないような黒い瞳だけが、じっとこちらを見返していた。
「……シアニさん?」
「待って……」
背後から届いた声には、先ほどまでとは違う緊張が混じっている。
少女が形を得た直後から、|竜眼・過去視《メモワール》の視界にも変化が生じていた。
ほとんど何も判別できなかった過去の残像が、ほんの僅かに繋がり始めている。
「見える……ちょっとだけ……」
現在の異界へ、別のリビングが薄く重なる。
まだ壁に鉄格子はない。
天井から鎖も垂れていない。
けれど、それ以上の細部は白と黒の砂嵐へ沈み、まともに判別できなかった。
二つの人影だけがいる。
一方が大きく腕を動かす。
ざああああっ。
激しいノイズが挟まる。
「どう……だ……昔は……だっ……のに……!」
途切れ途切れの男の声。
何を言っているのか分からない。
人影の腕が再び動いた。
鈍い音。
もう一方の輪郭が大きく揺れる。
「ごめ……い……ごめ……さい。もう……叩……で」
「……っ」
シアニの指が、ハンマーの柄を強く握り込む。
また影が動く。
一度。
ノイズ。
もう一度。
誰が、誰を。
どんな顔で。
何を使って。
ほとんど何も見えない。
ただ、片方がもう片方へ暴力を振るっている。
それだけは嫌になるほど伝わってきた。
「……して」
声。
過去の残像へ意識を奪われていたシアニが、はっと現実へ焦点を戻す。
今の声は、あちら側からではない。
七三子の前に立つ少女からだ。
「え……?」
黒い瞳の下、白い頬との境目へ赤が滲んだ。
一滴。
血の雫が涙のように頬を伝い、顎先から床へ落ちる。
ぽたり。
もう一滴。
表情を歪めることも、嗚咽を漏らすこともない。
それなのに、血の雫だけが止まらなかった。
初めは細かった二筋の赤が、見る間に太くなる。下瞼から溢れ続ける血が白い頬を覆い、顎から首筋へ、さらに胸元へと流れ落ちていく。
ぽた、ぽた、ぽた。
床へ落ちる音が重なる。
やがて雫では済まなくなった。
まるで瞳の奥で何かが決壊したかのように、両目から大量の血が溢れ出す。頬も首も服も赤黒く染まり、足元には見る間に血溜まりが広がっていった。
「……っ」
七三子の喉が小さく鳴る。
これほど血を流しながら、少女は微動だにしない。
黒い瞳だけが、血の向こうから七三子を見つめていた。
ざざっ。
不意に、少女の輪郭へ黒いノイズが走る。
腕が横へずれる。
肩から先が途切れ、次の瞬間には僅かに離れた場所へ繋ぎ直される。
頬の一部が砂嵐へ削られた。
それでも血は止まらない。
崩れていく身体から、あり得ない量の赤だけが流れ続けている。
「わたしを返して……」
幼い声だった。
怒鳴っているわけでもない。
泣き叫んでいるわけでもない。
血に染まった顔で、ただ七三子を見つめながら告げている。
何を返せというのか。
激しい砂嵐のようなノイズが走り、少女の輪郭が一気に乱れた。
腕と胴がずれる。
脚が途切れる。
顔さえ上下に食い違い、崩れた映像を無理矢理一人の人間として映し続けているかのように明滅する。
その間も、流れ出す血だけは鮮明だった。
「待って!」
シアニが咄嗟に手を伸ばす。
指先が届くより早く、少女の身体へ細い黒線が幾重にも走った。
ぶつり。
何かを断ち切るような音がした。
少女の姿が消えた。
同時に、シアニの視界へ重なっていた過去のリビングも砂嵐へ呑み込まれる。
「……っ」
消える寸前まで、そこには二つの人影があった。
何度も腕を振るう、大きな影。
その前で身を縮める、もう一つの影。
顔は見えない。
誰なのかも分からない。
ただ、鈍い音と途切れた謝罪だけが耳の奥へこびりついていた。
そして、現在へ引き戻される。
異界化したリビングは静まり返っていた。
「……消えちゃった」
シアニが伸ばしていた手を下ろす。
七三子は答えなかった。視線は床へ向けられている。
つい先ほどまで、少女の足元には大量の血が溜まっていた。
頬から溢れ、服を濡らし、床へ滴り続けていたはずだった。
けれど、その血が一滴もない。
床は乾いている。
血痕どころか、少女がそこに立っていた痕跡さえ残されていなかった。
「……シアニさん。今の、何か見えましたか?」
七三子がようやく口を開く。
「うん……でも、ほとんど分かんなかった」
普段の明るさは、シアニの声から消えていた。
「誰かが、誰かを何度も叩いてた。叩かれてる方は謝ってた。でも……顔も、何をしてたのかも、ちゃんとは見えなかった」
シアニはそこで口を閉ざす。
ハンマーの柄を握る指には、まだ力が入ったままだった。
「そう、ですか……」
七三子は少女が消えた場所を見つめる。
|降霊の祈り《ゴーストトーク》によって知性を得たインビジブルの少女は、最後まで質問へ答えなかった。
身体すらまともに一つへ繋がらず、血を流し続け、残したのは意味の分からない一言だけ。
正常ではない。
何が正常ではないのかさえ、まだ分からない。
五年前の日付が記された学校のプリント。
ひび割れた写真立て。
今年まで使われているカレンダー。
断片的にしか視えなかった暴力の記憶。
そして、『Re:Member』に伊藤加奈子として登録されている少女と同じ姿を持つ、異常なインビジブル。
七三子は預かっていたスマートフォンを取り出した。
白い画面が、薄暗いリビングの中で浮かび上がる。
『伊藤加奈子』
その下には、先ほど見た少女の写真。
血に濡れてもいない。
身体が崩れてもいない。
どこにでもいそうな十歳ほどの少女が、画面の中からこちらを見ている。
さらに、その下。
『実行中』
表示は何一つ変わっていなかった。
「……まだ、続いているんですね」
七三子の呟きに、シアニは答えなかった。
異界化したリビングには、二人の呼吸だけが小さく響いている。
さっきまで目の前にいた少女も。
大量に流れていた血も。
過去に響いていた鈍い音も。
すべて、最初から存在しなかったかのように消えている。
それでもスマートフォンだけは、何事もなかったように白く光り続けていた。
『実行中』
いったい何が、まだ続いているのか。
二人には分からなかった。
「死者と再会できるアプリ、ですか……」
異界化した伊藤家の廊下を進みながら、エレノール・ムーンレイカーの脳裏には、予知で伝えられた政夫の言動が何度も浮かんでいた。
肩口で揃えられた銀髪の隙間から、エルフ特有の長い耳が覗いている。琥珀色の瞳は廊下の奥から僅かな物音まで慎重に追い、色白の身体を包む衣装は帽子や外套も含めて黒でまとめられていた。
「何よりも大切な娘さんなら、政夫さんが縋ってしまうのも……仕方ないと思います」
娘へ会いたい。
謝りたい。
加奈子を喪った後の生活そのものが耐え難かったのだと、予知で伝えられた政夫の言動からも察せられた。
――少しだけ、気持ちは分かるのです。
十二歳の頃、エレノールも家族を喪った。
両親と、姉。
今でこそ一人で考え、一人で判断し、誰かを守るために戦える。しかし昔からそうだったわけではない。
むしろ正反対だった。
――元々のわたしって、甘ったれた子でしたから。
何処へ行くにも姉の後をついていきたがり、困ったことがあれば両親へ泣きつく。自分で何とかしようとするより、誰かに寄り掛かって生きることが当たり前だった。
そんな自分から、ある日突然、寄り掛かれる相手が全員いなくなった。
そのままでは生きていけないと嫌でも思い知らされ、少しずつ自分を変えていった。
姉ならどう考えるだろう。
姉なら、こんな時どんな顔をするだろう。
そうやって記憶に残る姉を手本に、臆病さを慎重さへ、誰かへ依存したい弱さを自分で立つための冷静さへ変えていった。だから、
――もし、全部を失った直後のわたしに「家族ともう一度会えますよ」と言われていたら……。
今の自分なら警戒する。
けれど十二歳なら、その甘言に抗えたという確固たる自信はない。。
「……だからこそ、余計に嫌な感じがするんですけどね」
喪失で弱った心へ入り込み、その願いを利用するための仕組みなのだとしたら、悪質にも程がある。
もっとも、それを断じるには情報が足りない。
「とりあえず、わたしは納戸を調べてみましょう。こういう所には何かあると、わたしの第六感が……」
曖昧な理由だが、全く根拠がないわけでもなかった。
以前発生したシセンノマの事件では、屋敷の蔵から儀式へ繋がる重要な品や記録が幾つも見つかったと聞いている。
日常的には使わないもの。
人の目へ触れさせたくないもの。
けれど捨てることもできないもの。
家に何か秘密があるのなら、そうした品を押し込める納戸は調査する価値がある。
異様に長く引き延ばされた廊下を抜け、渡された間取りで納戸と記されていた扉へ辿り着く。
周囲の気配を確かめてから取っ手へ指を掛け、僅かに開いた隙間から内部を覗いたところで、琥珀色の瞳が大きく見開かれた。
「…………」
伊藤家の内部は、どこも既にまともな住宅とは呼び難い。
壁には鉄格子が食い込み、日常の家具と監獄めいた意匠が歪に混ざり合っている。
だが、納戸に広がっていた光景は、それらとも明らかに趣が違った。
狭い壁面には用途不明の金具が幾つも埋め込まれ、天井から垂れた細い鎖が僅かな空気の流れに揺れている。棚の隙間には革製の拘束具を思わせるものが押し込まれ、脇には乗馬鞭にも似た細長い黒色の鞭が立て掛けられていた。
床へ目を移せば、同じ場所を何度も何かが擦ったような深い傷まで残されている。
物をしまうための部屋というより――。
「……まるで、拷問部屋ですね」
思わず落ちた声も、自然と低くなる。
もちろん、現実の納戸がこのままの姿だったとは限らない。
家全体が異界へ呑まれ、存在しなかった鉄格子や鎖まで出現しているのだから、この光景も何らかの意識や記憶によって形作られた可能性が高い。
だからこそ、疑問が残る。
何故、ここだけがこれほど露骨なのか。
――考えてみれば、加奈子さんの死因って何でしょうね。
予知では明らかになっていない。
分かっているのは、再会した娘が政夫へ噛みつき、最後には刃物を手に追い回していたこと。
さらに政夫自身も、加奈子へ何かを謝りたがっていた。
――あれほど恨まれるような何かを、政夫さんがした……?
そこで生じた強い恨みを触媒として『Re:Member』の儀式が働き、少女の記憶や感情を異界へ反映した。
もしそうならば、この納戸の姿にも一応の説明はつく。もっとも、
「……まだ、想像でしかありませんね」
答えを先に決めてしまえば、その答えへ都合のいい証拠しか見えなくなる。
そんな失敗は避けたい。
「実際に何が残っているか、先に確認しましょう。特殊な用途に使われていたとか、誰かを閉じ込めていたとか……何か変わった道具が残っているかもしれませんし」
棚の一つへ近づこうとしたところで、視界の端を透明な影が横切った。
世界中の何処にでも存在し、√能力者以外には認識すらできない見えない怪物――インビジブルが、ここにも幾体か漂っている。
それ自体は何ら不思議なことではない。
死者が変じた彼らの大半は明確な目的も持たず、海中を漂う生物のように空中を揺蕩っている。
ただ、ここにいるそれらは妙だった。
透明な輪郭がノイズによって細かく震え、一つの形を保てずにいる。身体の一部が僅かに離れた位置へずれて見えたかと思えば、次の瞬間には重なり、再び別方向へ崩れる。
――ここはインビジブルも何かおかしい。
だが、相手が何であれ最近三日間にこの部屋で起きたことを目撃しているのなら、問いかける方法はある。
「少しお話を聞いてみましょうか」
もっとも、異常が起きている場所で無防備に術を使う気にはなれなかった。
シセンノマの調査でも、インビジブルへ働きかけた結果、想定外の怪異へ接触てしまったのだ。
今回は先に自分の側を固める。
エレノールはゆっくりと息を整え、物語の冒頭を語り始めた。
「今語りしは、世界樹が生み、守りし世界の、悠久の記憶――」
言葉が異界へ染み込むにつれて、彼女の傍らから|世界樹の神話《ユグドラシル・ミソロジー》の淡い光が芽吹いた。
光は小さな幹を形作り、そこから枝葉が伸びていくようにして、青々とした葉を茂らせていった。
やがて掌に乗りそうなほどの小さな世界樹が具現化すると、それを中心として不可視の境界が周囲へと静かに広がっていく。
語られた神話を映した聖域。
その内側にいる限り、外から心を侵す精神攻撃も、魂へ触れる霊的な干渉も、身体や意識を蝕む異常も遮断される。
異界の不気味さそのものが消えたわけではない。
けれど、自分が立つ場所だけは世界樹の物語へ塗り替えられた。
「これなら、多少のことがあっても大丈夫でしょう」
聖域を維持したまま、もっとも近くで揺らぐ一体へ意識を向ける。
「では、あなたの見たものを教えてください」
|交霊の呪法《コンタクト・オブ・インビジブル》が発動し、視界の中を漂う透明な怪物へ働きかけた。
本来ならば、この術を受けたインビジブルは生前の姿と知性を取り戻し、目撃した出来事を協力的かつ正確に語る。
最大で一時間ほど姿を保つこともできる、安定した術だ。
だから今回も、そうなるはずだった。
透明だった輪郭へ、徐々に色が宿っていく。
暗い髪に、白い肌、そして細い手足。
しかし変化の途中で何度も像が乱れ、一度形成された腕が横へずれ、肩と噛み合わない位置へ現れる。僅かな間を置けば元へ戻るものの、また別の部分が揺らいだ。
それでもやがて、どうにか一人の少女として形がまとまっていく。
年齢は十歳ほど。
黒に近い暗色の髪に、丸みを残した卵型の小さな顔。大きな黒い瞳、小さな鼻と口、色白で華奢な体つき。
――もしかして、加奈子さん……?
異界の中で姿を得た十歳ほどの少女。
真っ先に思い浮かんだ名前は、伊藤加奈子だった。
だとしたら、妙なことになる。
予知で伝えられた通りなら、加奈子は今も異界の何処かで政夫を追っているはずだ。
それなのに、加奈子と思われる死者が納戸にもいる。
「あなたは……加奈子さん、ですか?」
警戒を残しつつ、声音だけは穏やかに保つ。
「もし加奈子さんなのでしたら、ここで最近起きたことを教えていただけませんか?」
返事がない。
「……?」
本来なら、それだけで異常だった。
目の前の少女は光をほとんど映さない黒い瞳で、黙ってエレノールを見つめ続けている。
――術は発動しています。それなのに、答えない……?
やがて少女の視線が逸れる。
ゆっくり背を向けて歩き出したかと思えば、数歩先にある棚の前で足を止め、その一角へ細い指を向けた。
「そこを見ろ、ということでしょうか」
正確な説明とは到底呼べない。
ただ、完全に意思疎通が失われているわけでもないらしい。
異常の理由を考えるより、今は示されたものを確かめる方が先だ。
少女の動きを視界へ収めたまま棚へ近づき、扉を開く。
奥に詰め込まれていたのは、何冊ものノートだった。
「これは……」
適当に一冊を抜き取る。
表紙に題名も、名前もない。
最初の頁を開いた瞬間、琥珀色の瞳が僅かに見開かれた。
『わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。』
その下も。
『わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。』
さらに次の行にも、一字一句違わない文章が並んでいる。
『わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。』
一頁を埋め尽くしているのは、それだけだった。
頁を送る。
『わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。』
もう一枚。
『わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。 わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。』
さらに捲っても、変わらない。
『わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。
わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。
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わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。
わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。
わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。わたしは加奈子です。』
「これは……一体……?」
文字の練習にしては、あまりにも異様だった。
自分の名前を覚えるためなら、延々と同じ文章だけを書き連ねる必要などない。
しかも終わらない。
十頁。
二十頁。
紙を送る指が次第に速くなっていく。
どこまで進んでも。
『わたしは加奈子です。』
同じ。
最初の一頁を最後まで確認すると、今度は棚から別のノートを引き抜いた。
『わたしは加奈子です。』
さらに一冊。
『わたしは加奈子です。』
その隣も。
その奥も。
棚へ詰め込まれた幾冊ものノートが、同じ一文だけで埋め尽くされている。
驚きよりも、じわじわと這い上がってくる不気味さの方が強かった。
不意に背後から、床を踏む音が聞こえた。
こつ。
「――!」
振り向いた先に、少女がいる。
先ほど棚を示していた場所から、いつ移動したのか分からない。
数歩先でこちらを見据える右手には、先ほど棚の脇へ立て掛けられていた黒い鞭が握られていた。
声を掛ける暇もなく、それが勢いよく振り上げられる。
「っ!」
空気を裂いた鞭先が、エレノールの顔へ迫った。
身体を僅かに逸らせば、黒い軌道が鼻先を掠めて棚へ激突する。
乾いた音。
使い方には洗練された技術などなく、狙いも粗い。
ただ、目の前の相手を打つためだけに、力任せに振っている。
――これが、協力的……?
あり得ない。
次の鞭が振るわれるより早く距離を詰めた。
長く実戦を重ねてきた身体が滑らかに相手の懐へ入り、鞭を持つ細い手首を掴む。
「待ってください。わたしは、あなたと戦いに来たわけではありません」
無理に捻り上げることはせず、振りほどかれない程度に留めながら目線を合わせる。
聖域は今も健在だった。
傍らに具現化した小さな世界樹が淡い光を宿しており、その効果は、もはや防御というより確定に近いものへと変質していた。
聖域内で行われるあらゆる認識・干渉・術式を防ぎ、エレノールが起こした行動は意図した結果へと収束する。回避も抵抗も成立せず、すべては必中として成立するのだ。
「このノートは、あなたが書いたんですか?」
少女の顔には怒りも焦りも浮かばない。
黒い瞳だけが、異様なほど静かにこちらを見つめている。
「ここで何があったのか、教えて――」
言葉の途中で、掴んでいた手首の感触が薄れた。
「え……?」
指先をすり抜けたわけではない。
そこにあった身体そのものが崩れている。
手首から前腕、肩、そして顔へと、崩壊は段階的に広がっていった。少女を構成していた輪郭は細かな揺らぎとなり、空間へ溶けるように透明さを取り戻していく。
「待ってください!」
制止の声にも、変化は止まらなかった。
発動してから、まだ僅かな時間しか経っておらず、術式を自分から解除した覚えもない。
それなのに、黒い瞳までが細かなノイズへほどけ、最後には透明な怪物としての輪郭さえ捉えられなくなった。
鞭は消えず、床へ落ちていた。
エレノールはそれを拾い上げ、指先で重さと革の擦れを確かめる。使い込まれた痕跡が濃く、異界が形作っただけの装飾品とは思えない生々しさがあった。
「…………」
姿を取り戻し、こちらの言葉を理解しているような反応も見せ、棚に隠されていた手掛かりまで示した。
しかし質問には答えず、突然襲い掛かってきたかと思えば、その途中で姿を失ってしまった。
どれも、普段この術を使った時の反応とは噛み合わない。
――わたしの術だけが原因ではない。あの子か、この家か……何か別のものが干渉している?
まるで、この異空間自体が横から手を出してきたみたいだ。
この予想が正しいのかは不明だが、通常のインビジブルへ術を使った時とは明らかに違う。
――それに……。
拷問部屋のように歪んだ納戸。
何冊にもわたって強迫的に書き連ねられた『わたしは加奈子です』という文章。
そして、少女自身が手にしていた、使い込まれた黒い鞭。
「どうやら今回の事件も、一筋縄ではいかないようですね……」
重苦しい静寂の中で、エレノールは次の手掛かりを求めて視線を巡らせた。
鉄格子と住宅の廊下を無理矢理継ぎ合わせたような異界を、六人の√能力者がひとかたまりとなって進んでいた。
足元に残るフローリングだけを見れば、ここが元々はごく普通の民家だったことも窺える。
けれど壁紙の途中からは黒ずんだコンクリートが露出し、曲がり角には本来存在しなかったはずの鉄格子が幾重にも食い込んでいた。
間取り図では数歩で抜けられるはずの廊下も異様に引き延ばされており、少し先へ目を向けるだけで遠近感が狂わされる。
「予知と今までの体験談が違うねぇ。その場合、生者か死者――もしくは両方に、今までとは違う何かがあったってことでしょ」
アーシャ・ヴァリアントが、考えを整理するように片手を顎へ添えた。
橙色を帯びた赤い髪の合間から鋭い竜角が伸び、背中には赤褐色の翼、腰の後ろには長い尾が揺れている。
身に纏うのは黒と深紅を基調とした露出の多い戦装束で、両腕を覆う巨大な籠手には赤い宝玉が埋め込まれていた。
少女めいた外見とは裏腹に、敵と正面から殴り合うための身体と装備を隠そうともしない、ドラゴンプロトコルの格闘者である。
「生者の方が、これまでアプリを使った人たちとは違って、実は死者から相当恨まれてたとか。逆に死者の方が、本物じゃなくて別のナニカだったとか。今のところ考えられるのは、その辺じゃない?」
「別の何かなら、負い目のある相手の姿を使って精神的に追い詰めてから、最後は物理で襲ってくる怪異……とかかなぁ」
アーシャの推測を受けて、飴澤・茲も自分なりに可能性を組み立てていく。
濃紺の制帽の下から流れる銀白色の髪は、高い位置でまとめられている。同系色の軍装めいた衣服と長い外套に身を包み、その足元や周囲では、同じような小さな帽子を被った九匹の白い忍獣たちが、異界の気配を窺いながらせわしなく行き来していた。
「政夫さんだけを狙ってるなら、罪悪感を利用して獲物を追い詰めるタイプっていうのもありそう。でも、自分が大切な娘さんに殺されるのは嫌なんだよね? うーん……会いたいだけじゃなくて、何か贖罪したい気持ちもあるのかな」
そこまで考えてみても、どうにも感覚を掴みきれないらしい。
「お父さん心って、そんなもの?」
茲が何気なく投げた疑問に、すぐ答えを返せる者はいなかった。
この場にいる六人のうち五人は女性で、唯一の男性であるクラウス・イーザリーにしても、まだ二十歳。親として子供を持つ立場を実体験から語れる者は、残念ながら一人もいない。
もっとも、そのクラウスは会話へ耳を傾けながらも、注意の多くを周囲の捜索へ割いていた。
色白の端正な顔を黒髪が縁取り、青い瞳は閉じられている。
暗色の戦闘服と大きな外套に身を包んだ傍らでは、眼球を思わせる小型の無人機が一機浮遊している。同型の機体は既に何機も異界の奥へ放たれており、そのセンサーが拾った映像や音を、自らの五感へ接続していた。
――嫌な感じだな……。
一人では決して追えない複数の廊下が、ドローンを介して同時に意識へ流れ込んでくる。
閉ざされた鉄扉の向こう。途中から格子へ変わった壁。何かが引き摺られたような床の傷。誰もいないはずなのに、遠方から時折響いてくる微かな物音。
そこへ仲間たちの推測まで重ねて聞いていると、情報を得るほど安心するどころか、胸の内へ正体の知れない不快感が沈んでいった。
「何だか……嫌な真実が裏にありそうな気がする」
「裏ねえ……」
その言葉を拾ったリリンドラ・ガルガレルドヴァリスが、長い赤髪を揺らしながら視線を向けた。
アーシャと同じドラゴンプロトコルであっても、二人の風貌はかなり異なる。
褐色の肌を持つリリンドラの頭には角ではなく青のリボン。髪の一部にも青紫色の房が混じっている。
緑の瞳の下で身を飾るのは、白を基調とした華やかなドレス。編み上げのコルセットや幾重にも重なるレースの裾は戦場より舞踏会を思わせるほどだが、その可憐な装いの傍らには、本人の身体を遥かに上回る無骨な屠竜大剣が携えられていた。
「そういえば、不幸の手紙とかメールとか……昔から似たような怪異はあったみたいだけれど、今はアプリなのね。時代が変われば、怪異の形も変わるのかしら?」
リリンドラ自身、以前にシセンノマという古い呪いが残された屋敷へ赴いている。
何百年も前に生み出され、代々受け継がれてきた呪術。
その記憶がまだ新しいうちに、今度はスマートフォンへ広告として現れる闇アプリへ遭遇したのだから、同じ怪異に纏わる事件でありながら随分と様変わりしたものだと思わずにはいられない。
「アプリの名前もなんだか意味深よね。『Re:Member』って。普通に『remember』にも読めるし」
「覚えている、思い出す、記憶している……」
複数のドローンへ意識を繋いだまま、クラウスが思い浮かぶ意味を拾っていく。
「政夫さんは名前と写真を入力したんだったね。その二つが単に対象を指定するためだけなのか、それとも、利用者が記憶している情報を元に何かを起こすためなのか……今の段階では、どちらとも言えないかな」
「そこなんだよねぇ」
茲も同じところが引っ掛かっていたらしく、紫色の瞳を細める。
「名前だけでも、写真だけでもなくて、その両方。死者がどこかにいて、その人を探して連れてくるだけなら、なんで二つも必要なんだろうって。入力されたものから、何かを作ってるみたいにも思えない?」
もちろん、対象を間違えないための仕様だと言われれば、それまでかもしれない。
しかし、政夫が予知の中で遭遇した出来事は、噂として聞いていた『Re:Member』の性質から明らかに逸脱している。
当たり前に見える機能でさえ、今は疑ってかかるべきなのだろう。
「Re:Memberではなく、ReFakeな私です」
そんな思考の流れへ、唐突に割って入ったのはリズ・ダブルエックスだった。
短い銀髪の周囲を、白銀と青の装甲が幾重にも取り囲んでいる。
細身の少女という輪郭こそ保っているものの、肩や脚を包む硬質な装甲、背後へ広がる巨大な結晶状の兵装を見れば、人間というより兵器に近い存在であることは一目瞭然だった。
しかし本人の調子だけは、その物々しい外見とはまるで噛み合わない。
「昔の私と今の私は別人格らしいんですが、記憶データは受け継いでいますし、極めて大雑把には同一人物という扱いでも良いんじゃないでしょうか……という適当なスタンスで生きています」
身体、人格、記憶。
どこまでが同じならば、同じ人物と呼べるのか。
ある意味でテセウスの船を自ら体現している|少女人形《レプリノイド》だが、リズ自身はその曖昧さに答えを求め続けることなく、今ここにいる自分として受け入れている。
「しかし、加奈子さん(仮)はどうも、適当に生きるには難しそうな状況ですね」
「仮って付けちゃうんだ……」
茲から苦笑が漏れる一方、その少し後ろでは、小明見・結がいつの間にか歩みを止めていた。
長く真っ直ぐな黒髪と澄んだ青い瞳に、紫色のハイネックと黒いワンピース。異形や兵装を纏う者の多い仲間たちに混じれば、比較的日常へ近い装いをしている。
ただし、閉じられた瞼の奥で練り上げている力まで平凡というわけではない。
「結……だったかしら。何してるの?」
リリンドラから問い掛けられ、しばらく精神を集中させていた結が、ゆっくりと目を開いた。
「忘れようとする力で、この家の異常を無くせないかと思って試してみたんだけど……ダメみたい」
彼女の√能力によって強く引き出された『忘れようとする力』は、人の身体だけを対象とするものではない。
無機物にも作用する力を異界そのものへ向け、この歪んだ姿を家に生じた『異常』として元へ戻せないかと試したのだ。
もし成功すれば、探索は遥かに楽になる。
伸びきった廊下が元へ戻り、鉄格子も消え、普通の住宅としての間取りさえ取り戻せれば、政夫を捜し出すにも家中を調べるにも、それほど時間は掛からない。
けれど、現実は何一つ変わっていなかった。
壁へ食い込んだ鉄格子も、冷たいコンクリートも、歪んだ距離感も、その力を受けた痕跡すら見せず異界として存在し続けている。
「ルートブレイカーで√能力を無効化された時に、少し似てる」
「大人しそうな感じだけど、結構大胆なことするのね……」
「上手くいけば、探索しやすくなると思ったから。それなら政夫さんも早く見つけられるし」
「戦闘のことだけを考えるなら、今のままの方が少し助かります」
リズが、自分の周囲へ浮かぶ決戦気象兵器レインを見上げる。
「普通のお家へ戻った途端に戦闘になってしまうと、レインで壁ごとお隣さんを穴だらけにする可能性がありますから」
「それはそれで別の事件になるわね……」
半ば呆れながら応じたリリンドラも、巨大な屠竜大剣へちらりと視線を落とす。
「私もこれを狭い普通の廊下で振り回すのは嫌だし。今回は集団戦になる可能性もあるんでしょ? 多少広い方が――」
その言葉が最後まで続く前に、クラウスの表情が変わった。
異界の奥へ送り込んだドローンの一機が、これまでとは違う映像を捉えている。
息を荒らしながら廊下を駆け抜ける男の姿があった。
伊藤政夫。その背後には、十歳ほどの少女が間を詰めるようにして、静かに、しかし確かな執念をもって追走していた。
「……見つけた。こっちだ」
閉じていた目を開き、向かうべき方向だけを短く告げる。
先ほどまで考察を交わしていた五人も、その声音から説明を待つ場合ではないと察したのだろう。クラウスが駆け出すのとほぼ同時に足を速め、六人は歪んだ廊下を一気に駆け抜けていった。
●
何度逃げれば、この追跡は終わるのだろう。
政夫の身体には、既にいくつもの傷が刻まれていた。けれど、肩や脚へ残る噛み傷の疼きより、もっと深く彼を追い詰めているものがある。
逃げても、逃げても、加奈子が現れる。
角を幾つ曲がったかも分からない。
見覚えのない部屋へ駆け込んでも、別の階へ逃げたつもりになっても、いつしか背後から小さな足音が聞こえてくる。
もう一度会いたいと、どれほど願ったことか。
その願いが叶ったはずなのに。
今は、最愛の娘から逃げ続けている。
「もうやめてくれ、加奈子! 話をしよう!」
振り返りざまに投げた懇願にも、少女の歩みは緩まなかった。
幼い身体が前へ傾き、そのまま勢いよく床を蹴る。
両腕を広げながら迫る姿だけを見れば、久しぶりに再会した父親へ飛びつこうとしているようにも映ったかもしれない。
けれど、幾度も襲われた政夫は、その仕草の意味を嫌というほど理解していた。
抱き締めるためではない。
首元へ顔を寄せ、歯を突き立てるためだ。
「ひいっ!」
恐怖に顔を歪め、両腕で頭を庇おうとした、その眼前。
青い光が横合いから飛び込んできた。
幾つもの半透明な六角形が瞬時に連結し、結晶質の盾となって父娘の間へ割り込む。飛びかかろうとしていた少女も、突然出現した障害物を前に反射的に動きを止めた。
「そこまでです!」
廊下の奥から響いたリズの声と共に、政夫を守る盾の後方へ複数のレイン兵器が展開される。
続いて駆け込んできた仲間たちの中から、真っ先に政夫へ寄ったのは結だった。
「大丈夫ですか?」
「君たちは……?」
壁へ背を預けるように尻餅をついた政夫の顔には、突然現れた六人への困惑と、ようやく追跡から解放されるかもしれないという安堵が入り混じっていた。
「助けに来ました。私たちが来たからには、もう安心です」
リズの穏やかな声音とは裏腹に、周囲へ浮遊するレイン兵器の砲口は一つたりとも少女から外れていない。
その防御を信じて政夫へ触れた結は、傷そのものへ『忘れようとする力』を働かせ始める。
――思ったよりも、深い傷はないみたい。
衣服の肩口や脚には血が滲んでいるものの、命に関わるほどではない。傷を負った状態そのものが薄れていけば、ほどなく全快するだろう。
一方、青い盾を挟んで向かい合う少女は、√能力者たちが現れてから明らかに様子を変えていた。
黒い瞳をレイン兵器へ向け、身じろぎもせず立ち尽くしている。
先ほどまで政夫へ向けていた執拗な襲撃を、そのまま新たな相手へ切り替える気配はない。かといって、戦意を失って立ち去ろうとする様子も見せなかった。
「問答無用で、目に入った相手を誰でも襲うってわけじゃないみたいね」
アーシャが少女の挙動を観察しながら、何かあれば即座に前へ出られるよう重心を落とす。
「だったら、少しだけ退いてもらいましょう」
リズの意志を受けた一基のレイン砲台が、少女自身ではなく足元へ照準を移した。
次の瞬間、青白い光弾が床へ撃ち込まれ、破砕された床材が乾いた音とともに散る。
直撃はしていない。
身体へ掠りさえしない、明確な威嚇だった。
それにもかかわらず、砲撃が着弾した直後から少女の輪郭は水へ溶ける影のように薄れ始めた。
立っていた場所から駆け去ったわけでもなければ、何かの物陰へ身を隠したわけでもない。
そこに存在していた少女だけが、異界の景色から静かに抜け落ちていく。
誰かが一度瞬きを終える頃には、姿ばかりか気配まで完全に失われていた。
「……退いてくれたみたいだね」
クラウスが僅かに息を吐く。
倒すだけなら、今の六人で戦うという選択もあった。
しかし、あの少女が異界そのものとどう関わっているかも分からない状態で、安易に撃破するのは危険が大きい。
もし少女が異界を維持する中心で、倒した瞬間に現実の伊藤家との差異が一気に消失したら。
変形した部屋の中にいる仲間や、壁や床と重なる位置にいた者へ、どんな影響が及ぶのか予測できない。
事件の真相がほとんど見えていない以上、取り返しのつかない選択だけは避けるべきだった。
「あの子の異常も治療できたらいいのだけど……」
結が、先ほどまで少女のいた場所へ青い瞳を向ける。
「今みたいに敵対してる間は難しいんじゃないかな」
茲から返された指摘に、結も否定はしなかった。
『忘れようとする力』が作用するのは敵以外だ。今の少女がこちらを明確な敵としている以上、政夫と同じように治療することはできない。
「とりあえず、一番急いでた政夫さんの保護はできたわね」
治療を受ける男へ一度視線を向けてから、アーシャが廊下の分岐を見やる。
「なら、このまま予定してた場所を調べましょ。本人も見つかったんだし、聞けることは直接聞いた方が早いでしょ」
「ここから二手に分かれるんだったわね」
リリンドラも頷いた。
六人がこれまでまとまって動いていたのは、政夫の捜索を優先していたことに加え、それぞれが選んだ探索先へ向かう経路が途中まで重なっていたためでもある。
一方の目的地は、政夫自身の部屋。
もう一方は、和室。
本人を救出できた今なら、政夫の部屋を担当する者たちがそのまま保護を引き受けるのが自然だろう。
短い相談の末に、アーシャ、クラウス、結が政夫と共に政夫の部屋へ向かい、リリンドラ、リズ、茲の三人は和室を調べることになった。
別れ際にそれぞれの役割を改めて確認すると、六人は三人ずつ異なる廊下へ足を向ける。
●
政夫の部屋は、異界化した家の中では比較的侵食が浅かった。
扉を開けた先には、まだ『一人の男が暮らしていた寝室』と呼べるだけの原形が残されている。壁の一部には黒ずんだコンクリートが露出し、天井近くを鉄格子めいた構造物が這っているものの、ベッドや机、収納棚といった家具の配置までは大きく崩されていない。
全体として質素で、趣味を強く主張するような装飾も少なかった。だからこそ、机の上へ一体だけ大切そうに飾られた、蜘蛛を意匠に取り入れた古いヒーローのフィギュアが目を引いた。
「アンタのことを助けてあげるから……って交換条件にするつもりはないけど、部屋の捜索と情報提供には協力してほしいの。いい?」
室内へ踏み込む前に、アーシャが政夫へ確認を取る。
調査自体は最初から行う予定だったとはいえ、寝室ともなれば個人の私物が多い。何より、本人を連れて来られた今なら、物だけを調べるより直接問い掛けながら進めた方が早いだろう。
「ああ……構わない」
政夫から返った声には、身体以上に精神を消耗した者特有の弱々しさが滲んでいた。
結の治療によって傷こそほとんど塞がっている。それでも、死んだはずの娘から家中を追い回された恐怖まで、同じように消えたわけではない。
「ありがと。それじゃあ早速なんだけど――」
遠回しに探るより先に核心へ触れる方を選び、アーシャは政夫の顔を正面から見据えた。
「何か、娘さんに恨まれるような心当たりはある?」
問いを受けた瞬間、政夫の表情が強張った。
すぐには答えが返ってこない。
視線が床へ落ち、何かを堪えるように唇が震える。やがて喉の奥から絞り出された声は、質問への返答というより、ずっと繰り返してきた自責そのものだった。
「……俺のせいなんだ」
「何が?」
「加奈子が死んだのは……俺のせいなんだ……」
予想していた以上に重い言葉へ、アーシャも続けざまに問い詰めようとはしなかった。
代わって一歩前へ出たクラウスが、追い詰めない程度の穏やかな声音を向ける。
「それは、どういう意味ですか?」
「病気だったんだ。突然の……急な病気で」
話し始めた政夫の呼吸が、徐々に浅くなっていく。
「あの日、俺は仕事だった……帰る直前で急な対応が入って、残業で遅くなって……家へ戻った時には、もう……」
言葉が詰まる。
「加奈子は、一人で死んでた」
「それは政夫さんのせいじゃないわ」
結の口から、ほとんど反射的に言葉が零れた。
少なくとも、今聞いた話だけなら政夫が意図して娘を放置したわけではない。突然の急病だったのなら、仕事へ出た父親が事前に予測できたとも思えず、残業していたことまで責任に結びつけるのは酷というものだ。
けれど、政夫には届かなかった。
「だが、俺がその場にいれば!」
唐突に張り上げられた声が、狭い部屋へ反響する。
結へ怒鳴ったわけではない。向けられているのは、自分自身だった。
「もっと早く帰っていれば、加奈子が苦しんでることに気付けた! すぐ病院に連れていけたかもしれない! そうしたら、助かったかもしれないんだ!」
それが医学的に正しいのかは、今となっては誰にも分からない。政夫自身にも分かっていないのだろう。
けれど、『もし自分がいたなら』という可能性だけが、ずっと消えずに残っている。
「辛かったよな……怖かったよな……」
怒鳴るほどだった声音が、不意に萎んだ。
「一人にして、ごめんな……加奈子……ごめんな……」
膝から力が抜けるように、その場へ崩れ落ちる。
両手で顔を覆うことさえせず、頬を伝った涙が次々と床へ落ちていった。
クラウスは、その様子を静かに見つめていた。
――恨む可能性がない……とまでは、言い切れないな。
彼が生まれ育った√戦闘機械群では、死は決して遠い出来事ではない。
理不尽な形で命を落とした者も、その死を目の前で見せつけられた者も、数え切れないほどいる。そんな場所で生きてきたからこそ、死を前にした感情が必ずしも綺麗に整理されるわけではないことも知っていた。
自分は死んだのに父親は生きていて、何より苦しい時に傍にいてくれなかった。もし、そんな感情が死後も残っていたのなら、責任の有無とは関係なく政夫へ怒りを向けることはあり得る。
たとえ理屈の上では八つ当たりだったとしても、失ったものが自分自身の命である以上、単純な善悪だけで切り捨てていいとも思えなかった。
「事情は分かったわ」
沈みかけた空気を断ち切るように、アーシャが部屋へ視線を戻す。
「でも、今聞いた話だけで全部決めるのは早いでしょ。他に何かないか調べましょう」
「そうだね」
クラウスも頷き、机や棚へ向かった。
政夫本人から許可も得ている。手掛かりになりそうなものを一つずつ確認しながら引き出しを開けていくと、文房具や仕事関係の書類に混じって、奥へ押し込まれた写真が数枚見つかった。
「これは……?」
一番上にあった写真には、一組の男女が写っている。
並んで歩くだけなら友人同士とも取れるが、肩が触れ合うほど近い距離や互いへ向ける表情を見る限り、そうした関係には見えなかった。
クラウスから写真を示された政夫は、一目見るなり苦々しそうに目を伏せる。
「離婚した元妻と、浮気相手だ。昔、探偵に調べてもらった時の証拠だよ」
重ねられた残りの写真にも、同じ二人が写っていた。
中には先ほどの一枚より関係を誤魔化しようのないものまで含まれている。少なくとも、政夫が妻の不貞を疑った根拠としては十分だった。
「その頃から、上手くいってなかったんですか?」
クラウスの問い掛けに、政夫は僅かに考え込んでから、机の上へ飾られたフィギュアへ視線を移した。
「俺は……ちゃんとやってるつもりだったんだ」
蜘蛛を意匠にしたヒーローを見つめる目に、遠い過去を懐かしむ色が宿る。
「そいつは俺が子供の頃から好きだったヒーローでな。何があっても大切な人を守る。俺もそんな大人になりたいって思ってた」
理想通りになれたのかは分からない。それでも結婚し、子供が生まれてからは、自分なりに家族を守るため働いてきたつもりだった。
「仕事も頑張った。休みの日は、なるべく家族と出掛けたりもした。でも……妻から見れば、俺はただのつまらない仕事人間だったみたいでな」
少しずつ夫婦の会話が減り、気付けば妻には別の男がいた。自分に何が足りなかったのか、当時はそればかり考えていたという。
「すみません。込み入ったことまで聞いてしまって」
クラウスが僅かに眉を下げる。
「いや……いいんだ」
政夫は小さく首を振った。
「それでも、加奈子だけは俺の側にいてくれたから」
妻に裏切られた後も、娘だけは離れなかった。
「離婚する時も、俺と元妻、どっちについていきたいかって話になって……加奈子は迷わず俺を選んでくれた」
その一言を口にする時だけ、政夫の顔へ僅かな温かさが戻った。
当時の彼にとって娘がどれほど大きな支えだったのか、言葉以上にはっきりと伝わってくる。
「だから、今度こそ何があっても守ろうって思ってた。加奈子だけは……俺が絶対に守るって……」
そこで過去を語っていた声音が途切れる。
「そう……思ってたんだ……」
最後だけが、酷く弱々しい。
クラウスはそれ以上踏み込まず、手元の写真を机へ戻した。
少なくとも離婚へ至った事情は把握できた。
元妻の不貞が今回の事件へ直接関わっている可能性も今のところ見えない。ならば、これ以上私生活を暴く必要は薄いだろう。
その写真へ、横から伸びた褐色の指先が触れた。
アーシャだった。
――この男の話を、全員でそのまま信じ込む必要はないわね。
結が政夫へ同情しているのは明らかだった。
クラウスも慎重ではあるが、人の痛みを放っておける性格ではない。
だからこそ、自分まで同じ方向へ流されるべきではない。
政夫が本当に悲しんでいることと、彼の語った内容が全て真実であることは別問題なのだから。
写真へ触れた指先から、|竜姫共鳴術《ドラゴニック・シンパシー》が過去へと繋がる。
物に刻まれたかつての所有者の記憶と交渉し、そこから情報を引き出す能力。
もっとも今回は、交渉らしい抵抗すらなかった。
そもそも現在の所有者である政夫自身から、部屋の調査を許可されている。写真へ残された記憶も、アーシャからの問いを拒むことなく、その来歴を明かしていった。
――所有者は政夫。探偵へ依頼したのも本人で、写真を受け取って妻の浮気を知り、その後に離婚した。
記憶の中から得られる情報は、先ほど政夫自身が語った内容と食い違っていない。
少なくとも、この件について作り話をしているわけではなさそうだ。目の前にいる男が政夫を名乗る偽物で、写真に写る男の方が本物の政夫だった――なんて落ちでもないらしい。
「加奈子さんのこと、本当に大切に思っていたんですね」
結の言葉へ、政夫はゆっくりと頷いた。
娘からどれほど恨まれていたとしても、加奈子を愛していたことだけは嘘ではない――少なくとも、今の政夫の表情はそう思わせるものだった。けれど、
「それじゃあ、おかしくない?」
静まりかけていた室内へ落ちたアーシャの声には、それまで政夫の身の上を聞いていた時とは明らかに異なる、鋭い疑念が滲んでいた。
「何がだい?」
問い返したクラウスへすぐ答えることはせず、アーシャは赤い瞳をゆっくりと室内へ巡らせていく。
机の上には、政夫が子供の頃から大切にしてきたというヒーローのフィギュア。引き出しの奥には元妻の不貞を示す写真が残り、仕事関係の書類や日用品にも、この男が長くここで暮らしていた痕跡がある。
にもかかわらず、先ほどから三人で探している中で、一度として目にしていないものがあった。
「娘さんの写真よ。一枚もないじゃない」
「……え?」
今度はクラウスではなく、政夫の口から呆けたような声が漏れた。
何を指摘されたのか理解できていないらしく、しばらくアーシャを見つめたまま固まっている。
「さっきから手掛かりになりそうな物を探してるけど、出てきた写真は元妻のものだけ。アンタの話が本当なら、加奈子さんは離婚してからずっと一緒に暮らしてきた、たった一人の家族なんでしょ?」
アーシャは責めるような語調にはせず、それでも誤魔化しを許さない声音で続けた。
「それだけ大切だった娘の写真も、アルバムも、この部屋には一つもない。変じゃない?」
「そんなはずは……」
否定の言葉とは裏腹に、政夫の顔から見る間に血の気が引いていった。
「そんなはずない。俺は……」
何かを確かめずにはいられなくなったように棚へ歩み寄ると、先ほどクラウスが調べたばかりの引き出しを自ら開き、奥まで腕を差し入れる。
そこにないと分かれば隣へ、さらにその下へ。
収納箱を引きずり出し、中身を床へ広げていくうち、当初はまだ残っていたはずの落ち着きが急速に失われていった。
「ない……」
掠れた呟きが、乱雑に散らされた私物の上へ落ちる。
「加奈子の写真が……ない」
それでも、紙の写真をどこか別の場所へしまっただけだと思いたかったのだろう。
政夫は今度はデスクへ向かい、パソコンの電源を入れる。起動を待つ僅かな時間さえ惜しむように指先を震わせ、画面が表示されるとすぐ画像フォルダを開いた。
年月ごとに整理されたデータから古いバックアップ、普段はまず確認しないような保存先まで、思い当たる場所を片端から探していくものの、そこにも娘の姿は見つからない。
「なんでだ……?」
画面を睨みつける政夫の声に、先ほど娘の死を語っていた時とは異なる恐怖が混ざる。
「俺は消してない。写真だってもっとあった。アルバムも……俺は、一枚も処分なんてしてないぞ……!」
その狼狽ぶりを見る限り、少なくとも政夫自身は、写真が存在しないことを今初めて知ったかのようだった。
クラウスは政夫の言葉を遮らず、彼が一通り探し終えるのを待ってから、現時点で確かめられる事実へ話を戻した。
「スマホには、娘さんの写真が残っていたんですよね?」
「ああ。あった」
その問いだけには迷いなく頷く。
「その写真を選んで『Re:Member』を実行したんだ。間違いない。逃げ回ってるうちにスマホを落として、今は手元にないけど……」
「だとすると、少なくともアプリを使う直前までは写真が存在していたことになりますね」
クラウスは確認するように言葉を選びながら、空になった引き出しからパソコンへ視線を移した。
紙の写真にも、パソコンに保存されたデータにも加奈子の姿はない。それなのに、『Re:Member』を実行する直前までスマートフォンには写真が残っていた。
政夫の言葉どおり本人が処分していないのなら、娘の写真だけがこれほど選択的に消えていることには、何らかの理由があるはずだった。
「誰かが、この家から加奈子さんの写真だけを消した……?」
結が不安げに呟いた。
異界化によって、伊藤家は元の姿を大きく失っている。壁や廊下をここまで変えられる何者かが存在するのなら、写真だけを消すこと自体は不可能ではないのかもしれない。
だが、その仮説を採用したところで、すぐ次の疑問にぶつかる。
「可能性としてはあると思う。でも――もし誰かが意図的に消したのなら、どうして加奈子さんの写真だけなんだろう」
クラウスが静かに付け加える。
「元妻のものも、政夫さん自身の昔の物も残っている。それなのに、娘さんだけがいない。偶然じゃないなら、そこには何か理由があるはずだよ」
結も返す言葉を失い、室内へ視線を巡らせた。
そこにあるのは何処にでもありそうな男の部屋なのに、その男が心の支えにしていた娘だけが、記録の上から不自然なほど綺麗に抜け落ちている。
そんな中、アーシャの視線が机上のヒーローフィギュアへ吸い寄せられた。
政夫が幼い頃から憧れ、自分も家族を守れる大人になりたいと語るきっかけになった品。
もし先ほど聞いた父娘の関係が本物であったなら、長くこの部屋に置かれていたそれには、加奈子自身に関わる記憶が残されている可能性がある。
「ねえ、政夫さん。このフィギュア、加奈子さんも触ったことある?」
「ああ……何度もあるよ。俺が大事にしてるのを知ってたから、勝手に持ち出したりはしなかったけどな」
「なら、もう一つだけ確認させてもらうわ」
了承を得た上でアーシャがフィギュアへ指先を触れさせると、|竜姫共鳴術《ドラゴニック・シンパシー》によって、物へ刻まれた過去との接触を試みる。
先ほど浮気の写真から確かめたのは、政夫の証言そのものが事実なのかどうかだった。
今度は違う。
知りたいのは、伊藤加奈子がこの品へ触れた時の記憶。
政夫が一方的に「娘から愛されていた」と信じているだけなのか。それとも、本当に加奈子の側にも父親を慕う気持ちがあったのか。
記憶へ問い掛けてから間もなく、男は温かな情景を語った。
小さな手が、机の上にあるヒーローを壊さないよう慎重に持ち上げる。
『パパの大事なヒーローだもん。わたしも好き』
弾むような声音。
そのままフィギュアを眺めていた少女が、何かを思いついたように父親の方へ顔を向ける。
『けどね――わたしのヒーローはパパだよ』
その想い出を、政夫の記憶は嬉しそうに語った。
アーシャはすぐには指を離さなかった。
今のものが、このフィギュアに刻まれた過去である以上、政夫が都合よく作り上げた思い出ではない。少なくとも、生前の加奈子が心から父親を慕っていたことだけは疑いようがなかった。
――だったら、本当に死んだ後の逆恨みだけ?
記憶との接触を終えながら、アーシャは改めてこれまでの情報を繋ぎ直していく。
加奈子は突然の病で亡くなり、その夜、政夫は仕事のため傍にいなかった。死の間際に味わった孤独や恐怖が父親への憎しみに変わったのだとすれば、理不尽な感情だとしても筋は通らなくもない。
けれど、そう考えた途端に別の情報が邪魔をする。
――じゃあ、写真が消えたのは何?
少なくとも、死後の恨みだけを理由にしても、写真だけが消えたことまでは説明できない。
さらに、これまで『Re:Member』を使った者には起きなかったという異界化まで、今回だけ発生した理由も分からないままだ。
政夫の証言と一致する事実が少しずつ見つかるほど、むしろ単純な『父親を恨んだ娘』という図式だけでは説明できない部分が増えていく。
――まだ、何か隠れてる。
今まで見つけた手掛かりだけでは説明できない何かが、この家のどこかに残されている。それが何なのかを判断するには、まだ材料が足りない。
「加奈子さんのことを、本当に大切に想っていたんですね」
アーシャから能力で得た内容を聞いた結が、政夫へ静かに声を掛けた。
先ほどまで必死に写真を探していた政夫も、その言葉を受けると力なく頷く。
「ああ……何よりも大切だった。今だって……」
その先を続けようとして、口を噤む。
今、家のどこかにいる娘は自分を殺そうとしている。
けれど、それでも会いたくないとは言えないのだろう。
「亡くなった子供に会いたいと思うのは、きっと当然のこと……」
結の声音には、単なる同情以上のものが含まれていた。
「できれば、その願いは叶えさせてあげたい。もちろん、今みたいに襲われるんじゃなくて、何の危険もない状態で」
結自身にも、どうしても会いたいと願い、今も探し続けている人がいる。
死別した親子と同じではない。
それでも、一度失ってしまった大切な誰かを、もう一度だけでもこの目で見たいという願いならば、全く理解できないものではなかった。
「そうだね。俺も、できるならそうしたいと思う」
クラウスも同じ考えを示しながら、ただし事件への警戒までは緩めなかった。
「そのためにも、今のまま再会させるわけにはいかない。何が起きているのかを先に突き止めないと」
「……ありがとう」
政夫の口から零れた言葉は、何とか声にしただけで崩れてしまいそうなほど弱かった。
結とクラウスの善意に救われたのか、それとも、もう一度だけ娘と話せる可能性へ縋ったのか。おそらく、その両方が入り混じっていたのだろう。
「ほんっとうに厄介だわ、この事件……」
対照的に、アーシャは頭の中へ増え続ける疑問へ苛立ったように、大きく息を吐いた。
政夫を救出し、本人から事情を聞くことはできた。元妻との離婚については能力で証言の裏付けが取れ、フィギュアに残された記憶から、生前の加奈子が父親を心から慕っていたことも確かめられた。
さらに政夫の話によれば、加奈子は突然の病で亡くなり、その夜に彼は仕事で家を空けていたという。
普通なら、情報が増えるにつれて事件の輪郭は少しずつ明瞭になっていく。
ところが今回は正反対だった。
政夫の証言と噛み合う事実が見つかるほど、加奈子が豹変した理由は不明瞭になる。そこへ、家中から娘の写真だけが消失しているという新たな異常まで加わった。
手にしたのは答えではなく、今まで存在すら知らなかった大きな空白だった。
「けど、やるしかないでしょ」
苛立ちはあっても、投げ出すという選択肢は最初からない。
少なくとも今の時点で、目の前にいる政夫を単なる被害者だと決めつける気もなければ、反対に怪異となった加奈子だけを悪者として片付けるつもりもなかった。
事件へ関わる前ならば、危険な怪異を倒して異界を消せば終わり――そう割り切る余地もあったかもしれない。
けれど今は、政夫の言葉を聞き、父娘の過去にも触れたうえで、そのどちらとも噛み合わない異常がこの家の中に隠されていると知ってしまった。
ならば、それが何なのかを突き止めるまで、ただ敵だけを倒して帰る気はない。
厄介なら厄介なほど、最後まで付き合ってやる――そんな覚悟が、アーシャの胸の内で静かに燃えていた。
●
政夫の部屋へ向かった三人と別れ、リリンドラ、リズ、茲の一行は、異様に引き延ばされた廊下をさらに奥へ進んでいた。
地図に記された距離だけなら、目的の和室まではそれほど遠くない。ところが実際の廊下は、住宅の間取りを嘲笑うかのように幾度も折れ曲がり、ときには左右の壁から迫り出した鉄格子の隙間を縫うように進まなければならなかった。
ようやく辿り着いた先には、金属質の壁へ半ば呑み込まれながらも、辛うじて元が襖だったと分かる扉が残されている。
「多分、ここよね……」
リリンドラが手元の間取りと目の前の扉を見比べた後、何とも言えない表情で来た道を振り返った。
「なんか、向こうの方がド本命って感じになったけど」
政夫本人を保護した以上、自室を調べる三人なら、直接話を聞きながら私物を確認できる。事件の中心人物と行動を共にするという意味でも、そちらの方が重要な情報へ辿り着きそうに感じられるのは仕方がなかった。
「まー、政夫さんを見つけちゃったからね。そこはしょうがないよ」
茲も同じことを考えていたらしく苦笑したものの、すぐに気を取り直して胸を張る。
「でも、こっちはこっちでちゃんとお仕事! 手分けしてる意味がなくなっちゃうしね」
「はい。むしろ和室という個性の薄い場所こそ、案外大きな手掛かりが隠されているかもしれないと考え、大穴狙いで参りました」
妙に自信ありげなリズの発言へ、リリンドラが半眼を向ける。
「しっかり調べるのは賛成だけど、その言い方だと完全に博打じゃない。……まあいいわ、開けるわよ」
気を取り直し、襖の名残を留めた取っ手へ手を掛ける。
金属同士を擦り合わせたような重い音を立てながら扉が横へずれていき、三人の前へ和室の内部が姿を現した。
「うわ……っ」
真っ先に中を覗いたリリンドラの口から、警戒より先に素直な驚きが漏れる。
「っていうか……ここ、本当に和室?」
床には確かに畳が敷かれ、押し入れも残っている。壁の一部には木目が見え、部屋の隅には本来なら座布団や日用品を収めていたのだろう家具も確認できた。
それでも、目の前の光景を「和室」と呼ぶには無理があった。
部屋の中央で異様な存在感を放っているのは、いくつもの木々を積み上げて作ったような高い台。その真上からは太い縄が一本垂れ下がり、先端には人の首を通すことを想起させる輪が作られている。
牢獄めいた意匠が混じるだけだった他の廊下とは異なり、この場所には明確な用途を感じさせる悪意があり、寒々しい処刑場と形容するのが最も近かった。
「いや……でも、ちょっと待って」
茲も思わず声音を低くしていたが、恐怖に引きずられるより先に、目の前の異様な構造そのものへ注意を向ける。
「よく見たら、あの台の一部ってちゃぶ台じゃない? 支えになってるのも……椅子かな」
指摘されて改めて観察すれば、完全に未知の設備が生み出されたわけではないことが分かる。
ちゃぶ台の脚や天板が不自然な形で引き延ばされ、別の家具と接合されている。木製の椅子らしき部品も、あたかも最初から処刑台を構成するために作られたかのように組み込まれていた。
「家にあった物そのものが、異界の中で意味まで捻じ曲げられてる……ってところかしら」
リリンドラが眉を寄せる。
家族が食卓を囲むためのちゃぶ台や、腰を下ろして寛ぐための椅子。そんな日常を象徴する品々が、死を連想させる設備へ組み替えられている。その事実は、最初から処刑台が存在するよりも却って不気味だった。
「…………しくじりました。ありません」
そんな中、室内を隅々まで見回していたリズから、唐突に落胆の声が漏れた。
「何が?」
リリンドラが視線だけを向けると、リズはさも重大な見落としをしたかのように真顔で答える。
「仏壇です。和室といえば仏壇、仏壇といえば遺影。亡くなった加奈子さんについて調べるならば、かなり有力な手掛かりになると考えていたのですが……」
もう一度、青い瞳が部屋の端から端まで動く。
「肝心の仏壇そのものがありません」
「あー、それは私も思ってたんだよね」
茲も頷きながら、足元へまとわりつく忍獣を避けて室内へ踏み込んだ。
「和室だから絶対に仏壇があるってわけじゃないけどさ。娘さんを亡くしてる家だし、供養してる物が残ってたら手掛かりになるかなーって」
「ないものを眺めてても仕方ないわ。見つからないなら、まず他を調べましょ」
リリンドラがそう促したことで、三人も本格的な探索へ意識を切り替える。
「それじゃあ――忍獣ちゃんたち、出動!」
茲の掛け声が響くや否や、それまで彼女の周囲で待機していた九匹の白い忍獣たちが一斉に散開した。
小さな身体が家具の下へ滑り込み、戸棚の隙間から中を覗き込む。二匹ほどは早くも押し入れの前へ集まり、互いに顔を見合わせた後、戸を開けて暗がりの奥へと潜り込んでいった。
その様子を眺めていたリズも、負けじと周囲へ展開するレイン兵器へ意識を向ける。
「それでは私も、決戦気象兵器に秘められた力を解放しましょう」
「あら、まだ何か隠し玉があるのね」
「はい。決戦気象兵器には大きな秘密が眠っています。世界に介入する意味とは何か。レインシステムとは、そもそも何なのか……!」
妙に壮大な前振りとともに、リズの周囲へ浮かぶ結晶状の砲台から青白い輝きが溢れ始めた。
|創世の大気《レインシステム・ヘブンズコード》。レイン兵器に宿る精霊の力を通じて、周囲の世界へ働きかける現象が展開されていく。
淡い光が処刑場じみた和室へ広がり、三人の髪や衣服を青く照らし出す。今にも何かが起こりそうな、大仰な現象だった。
しかし、数秒、さらに十数秒と待ってみても、異界に目立った変化は訪れない。
垂れ下がった縄が消えることもなければ、隠された扉が現れるわけでもない。やがて青い輝きさえ何事もなかったかのように収束してしまい、残ったのは元通りの寒々しい和室だけだった。
「……何も起きませんね?」
術者であるリズ本人が一番不思議そうな顔をして、近くへ浮かぶレイン砲台を指先で軽く叩く。
「ちなみに、それってどういう仕組みなの?」
茲から当然とも言える疑問を向けられ、リズは少しも臆することなく堂々と胸を張った。
「なんやかんやで、誰にも害を与えず、いい感じのことが起こります」
「大きな秘密はどこにいったのよ!?」
リリンドラの突っ込みが、妙に音の響く和室を駆け抜けた。
理屈としては、レイン兵器に宿る精霊がその場へ働きかける能力なのだが、肝心のリズ本人が細かな原理まで理解しているかとなると、かなり怪しい。
少し離れた戸棚の前では、一連のやり取りを聞いていた忍獣の一匹が小さな両腕を広げ、呆れたように首を左右へ振っていた。
「こら、そこ! 味方を煽らないの! ちゃんとお仕事しなさい!」
茲に見咎められた途端、その忍獣は何食わぬ顔で身を翻し、ぴゅーっと家具の裏へ駆け込んでいく。
「むぅ……」
期待していた仏壇は見当たらず、頼みの能力も目に見える成果を出さない。
不満を隠そうともせずリズの頬が僅かに膨らむと、リリンドラは苦笑しながら、その肩を軽く叩いた。
「試してみたこと自体が無駄ってわけじゃないわ。誰にも害を与えずに、こっちに都合の良いことが起きる能力なんでしょ?」
「概ね、そういう理解で合っています」
「だったら逆に、何も起きなかったことにも意味があるかもしれないじゃない」
リズが小さく首を傾げる。
「つまり?」
「例えば――ここにある何かを見つけることが、誰かに害を与える結果へ繋がるとか」
「あ」
青い瞳が僅かに輝く。
「発想の転換ですね。コロンブス的です」
「そういうこと。だから拗ねないで、手を動かす!」
話を切り上げ、三人は改めて探索を再開した。
処刑台を思わせる異様な設備が中央を占拠しているというのに、その周囲を九匹の忍獣が縦横無尽に走り回り、時折リズの冗談とも本気ともつかない言葉へリリンドラが突っ込みを返している。
場違いなほど賑やかな光景ではあったが、異界の不気味さへ全員が呑まれて身動きを鈍らせるより、これくらいの空気を保てている方が調査には都合がいいとリリンドラは思った。
茲は忍獣たちへ細かな捜索を任せきりにせず、自分でも畳の上をゆっくり歩きながら、足裏へ伝わる僅かな高低差や感触の違いを確かめていく。床下へ何かを隠した形跡があれば、こうした地道な確認から見つかることもある。
一方のリリンドラも、部屋に存在する物をただ順番に調べるだけでは終わらせなかった。
――見えてるものだけ追いかけてたら、見落とすかもしれないわね。
自身の認識を幾つもの可能性へ開いていく|正義覚醒《アクノシュウマク》によって、異なる視点からこの部屋を見たなら何処に違和感を覚えるのか、その情報を重ね合わせていく。
押し入れや畳、処刑台へ変じた家具、壁際へ並ぶ収納棚へと順番に意識を向けていくうち、単独では何の変哲もないはずの光景に、小さな引っ掛かりが浮かび上がった。
「……んー」
収納棚の前を行き来してから、リリンドラが一つだけ離れた場所に置かれている家具の前で足を止める。
「ここ、とか!」
「何かあった?」
寄ってきた茲へ答える代わりに、リリンドラは周囲へ並ぶ他の棚を指で示した。
「ほら、あっち。ほとんど全部、壁に沿って横並びになってるでしょ。それにキャスターまで付いてる」
「ほんとだ」
「必要なら動かせるように揃えてたみたいね。なのに、これだけ列から外れて一個だけ独立してる」
言われてみれば、確かに不自然だった。
同じ用途と思われる収納家具の中で、それだけが部屋の角へ中途半端な形で置かれている。
「私の勘が、ここだって囁いてるのよね」
期待を込めたリリンドラが棚へ手を掛けると、底に取り付けられていたキャスターが小さく軋み、畳の上を滑るように家具が横へ退いていく。
隠し扉や床下収納、あるいは異界に関わる何かが姿を現すのではないかと、茲とリズも自然とその手元へ注目していたものの、棚の裏から現れたのは何の変哲もない畳だけだった。
「あれ?」
念のためリリンドラが腰を落として確かめてみても、床板が外れそうな継ぎ目も、何かを隠した蓋も見当たらない。
「私の勘、ここだって言ってたんだけどなぁ……外れたかー」
期待が大きかった分だけ肩を落としかけた、その傍らでリズが声を上げた。
「待ってください。何かあります」
リリンドラがもう一度畳へ目を向ける。
「何かって?」
「ここです」
指し示された場所をよく見れば、棚の下になっていた畳には、周囲とは僅かに異なる四角い痕跡が残されていた。
畳の表面が浅く沈み、何かの底面を押し当てたような輪郭が残っている。
「この棚を置いてた跡……かな?」
茲が覗き込む。つい先ほどまで実際にこの場所には棚が置かれていたのだから、まずそう考えるのが自然だった。
ところが、リズはすぐに同意しなかった。
「その可能性もありますが、確認してみましょう」
四角い痕跡と移動させた棚とをしばらく見比べた後、何かを思いついたらしく茲へ顔を向ける。
「茲さん。忍獣さんを何匹か、お借りしてもいいですか?」
「忍獣ちゃんを? いいけど……何するの?」
「測ります」
あまりにも簡潔な返答に首を傾げながらも、茲が近くを捜索していた忍獣たちへ手招きした。
「おーい、何匹か集合ー!」
呼ばれた白い忍獣たちが、濃紺の小さな帽子を揺らしながら、ぱたぱたと主人のもとへ戻ってくる。
リズはそのうち数匹へ身振りを交えて位置を示し、まず横へ移動させた棚の前へ一列に並ばせた。
「はい。できるだけ隙間なくお願いします」
忍獣たちは言われた通り肩を寄せ合い、棚の端から順に横一列を作っていく。
「一、二、三……」
リズがその並びをじっくり確認した後、今度は同じ忍獣たちを畳へ残った四角い痕跡の前へ移動させる。
先ほどと同じように端から並べていくと、棚の横幅を測った時よりも、最後の一匹がおよそ身体の四分の一ほど外へはみ出した。
「……やはり」
その差を見逃さず、リズが満足げに頷いた。
「忍獣さん四分の一匹分、こちらの跡の方が小さいです」
「忍獣ちゃんを単位にした!?」
予想外の測定方法に茲が思わず声を上げる。
「ちゃんと比較できていますので問題ありません」
「いや、間違ってはいないんだけど!」
二人のやり取りを横で聞いていたリリンドラも呆れ半分に笑いかけたものの、そこでリズの言葉の意味に気付いて表情を改めた。
「ちょっと待って。跡の方が小さいってことは……この棚が作った跡じゃない?」
「はい」
「元々ここには、別の何かがあった……」
茲も四角い痕跡を見下ろす。
「それをどこかへ移した後で、代わりにこの棚を持ってきたってことね」
「その可能性が高そうです」
リズが頷くと、リリンドラの表情にも先ほどまでの落胆は残っていなかった。
「やっぱり私の勘、外れてなかったじゃない!」
「そして違いを発見したのは私です」
「はいはい、二人ともお手柄ね」
少し得意げに胸を張る二人を宥めるように茲が笑った、その直後、服の裾へくいくいと小さな感触が伝わった。
「ん?」
足元へ目を向けると、先ほど押し入れの奥へ潜り込んでいった忍獣の一匹が戻ってきており、短い腕で何度も茲を引っ張っている。
「どうしたの? 何か見つけた?」
問い掛けると、忍獣は押し入れの方へ身体を向け、今度はそちらを指しながら、早く来いとでも言うようにぴょんぴょん跳ね始めた。
「……こっちにも何かあるみたい。二人とも、ちょっと手伝って!」
忍獣に導かれて三人が押し入れへ集まり、手前を塞いでいた荷物を順に外へ運び出していく。
布団や季節物を収めた箱、使われていない生活用品が幾重にも積まれており、奥へ進むほど隙間は狭くなっていた。普段から物を出し入れしていた形跡は乏しく、何かを隠すつもりなら、これほど都合のいい場所もない。
案内役の忍獣は荷物の隙間を器用に抜け、押し入れの最奥付近で立ち止まっている。
「まだ奥なんだね」
茲が身体を屈め、前を塞ぐ箱をずらしたところで、伸ばした指先へ硬い木の感触が触れた。
「……何かある」
リリンドラにも手を借りながら周囲の荷物を退けていくにつれ、暗がりの奥から黒褐色の木材が少しずつ露わになっていく。
箱というには装飾があり、家具というには不自然なほど奥深くへ押し込まれている。周囲の荷物をさらに退け、正面の観音開きの扉まで露わになったところで、三人ともその正体を理解した。
「仏壇あった!」
茲の声が、押し入れの奥から和室へ弾むように響く。
「本当に隠してあったのね……」
「わたしの予想も正解でした。発見したのは忍獣さんですが」
「そこは素直に忍獣ちゃんを褒めようよ!」
三人で周囲の荷物を完全に退かし、小型の仏壇を慎重に押し入れから運び出す。
その姿を見たリリンドラの視線は、自然と先ほど棚を動かした場所へ戻っていた。
「ねえ。これ……あそこに置いてみない?」
仏壇を四角い痕跡の上へ運び、底面が傷まないよう静かに畳へ下ろしていく。
先ほど忍獣を使って測った時には、現在の棚より四分の一匹分だけ小さかった痕跡へ仏壇を合わせてみると、その横幅と奥行きは畳へ刻まれた凹みに綺麗に収まった。
四角く残された輪郭も、仏壇の底面とほとんどずれがない。
「……ぴったりだ」
先ほどまでの軽い調子を失い、茲が小さく呟く。
ここまで一致すれば偶然とは考えにくい。元々この場所に置かれていた仏壇を誰かが押し入れの最奥へ移し、大量の荷物で覆い隠した。その後、空いた場所へ大きさの異なる棚を置いたのだろう。
「単なる模様替えじゃないわよね」
リリンドラが押し入れの奥と仏壇とを交互に見比べながら、眉を寄せる。
「移すだけなら、こんな奥まで押し込む必要なんてないもの。しかも代わりの棚まで置いてる」
「普段は目に入らないようにして、仏壇の存在そのものを意識しないで済むようにしたかった……という感じでしょうか」
リズの言葉へ、誰もすぐには答えなかった。
娘を亡くしてからその死を引きずり続け、ついには死者と再会できるという闇アプリへ藁にも縋る思いで手を伸ばした政夫。その家で、故人を供養するための仏壇だけが、人目につかない場所へ念入りに隠されていた。
何の理由もないとは考えにくい。
「……中も確認してみよう」
茲の提案を受け、三人は改めて仏壇の前へ集まった。
たとえ隠されていた物だとしても、故人を供養するための品であることに変わりはない。リリンドラが乱暴にならないよう慎重に観音扉へ手を掛け、ゆっくりと左右へ開いていく。
そして、内部へ目を向けた途端。
「……ねえ、二人とも」
それまでより幾分低くなった声音に、茲とリズも異変を察して仏壇へ視線を向ける。
リリンドラが黙って指し示した、その奥には――
異界化した伊藤家の廊下を進みながら、エアリィ・ウィンディアは、これまでに聞いた事件の内容を思い返して眉尻を下げていた。
鮮やかな青色の髪は肩の辺りで柔らかく跳ね、大きな緑の瞳には普段の好奇心に満ちた明るさよりも、今は戸惑いの色が強く浮かんでいる。
青を基調にした冒険者装束の腰には細身の剣と精霊銃が収められていたが、予知で政夫を襲っていると伝えられた相手が亡くなった娘だと思えば、最初から敵として武器を構える気にはなれなかった。
「亡くなった娘さんに会いたい、ただそれだけなのにこんな……」
大切な者を取り戻したいと願った結果、待っていたのが異界への幽閉と、その本人からの襲撃だった。少なくとも今まで知らされている事情だけを受け取るなら、政夫が何故このような目に遭わなければならないのか、エアリィには理解できなかった。
その傍らを歩く椎宮・紫水も、紫紺の大きな帽子のつばを僅かに下げ、紫色の瞳を細めている。柔らかな茶髪と中性的な顔立ちを、淡紫を基調とした和装と濃紫の袴が彩り、その上から花々の意匠を散らした華やかな外套を羽織っていた。
普段なら芝居がかった余裕を浮かべることも多い彼だが、この家に満ちる空気は、無視できない過去を連想させるものだった。
「この嫌な感じ……シセンノマの時によく似てる。愛情を捻じ曲げて呪いとする感じというのかな、どうにも良くないね」
以前遭遇した呪いも、人が持つ感情そのものへ悪意を混ぜ込み、苦痛と憎悪を肥大させることで悲劇を作り出していた。今回が同じものだと決まったわけではないが、人の心を利用するやり口に、紫水はどうしても嫌な共通点を感じてしまう。
ただ、過去の記憶へ意識を引きずられたままではいられない。紫水は隣を歩く小柄な少女へ目を向けると、僅かに表情を和らげた。
「エアリィ嬢、君は私が守るよ。何が潜んでいるか分からない以上、まずは備えておくに越したことはないからね」
紫水はツチミヤヒメノカミの加護を借りながら、自身の霊力で周囲へ霊的防護を巡らせる。
淡い霊光が静かに広がってエアリィまで包み込み、その内側には霊的な干渉や呪詛を遠ざける加護が満ちていく。先ほどまで肌へ纏わりついていた異界の不快な気配も、幾分か薄らいだように感じられた。
「うん! 頼りにしてるよ!」
エアリィは元気よく応じながら、紫水の表情に残る僅かな陰へ気付いていた。自分が沈んだ顔をしていたせいで、余計に彼まで過去の嫌な記憶へ引っ張られてしまったような気がして、今度は意識してではなく自然に、いつもの明るい笑みを向ける。
その笑顔につられたのか、紫水の口元にもようやく普段に近い柔らかさが戻った。
「さて、エアリィ嬢と一緒に浴室の調査だ。水というものは――」
「水場って清らかなイメージもあるけど、澱みが溜まることもあるから、怪異が関わってるなら気をつけた方がいいんだよね」
続きを先回りするようにエアリィが答えたものだから、紫水は一瞬目を丸くした後、堪え切れず小さく笑った。
「って、エアリィ嬢に全部言われたね。ふふ、私の出番がなくなってしまったじゃあないか」
「紫水さんも同じこと言おうとしてたの?」
「ああ、まさしくね。ならば考えていることは一緒ということだろうし、心強い限りだよ」
事件の最中に笑うのは不謹慎だと、二人とも理解している。それでも一瞬だけでも普段の調子へ戻れたことで、張り詰め続けていた気持ちにも僅かな余裕が生まれていた。
間取りを頼りに廊下を進み、やがて浴室へ繋がる引き戸の前まで辿り着く。紫水は自分たちを覆う霊的防護が十分に機能していることを改めて確かめてから、取っ手へ手を掛けた。
「さて、ここだね。では行くとしよう」
引き戸が横へ滑った瞬間、二人の間に戻りかけていた穏やかな空気は跡形もなく吹き飛んだ。
「うっ……!」
鼻腔へ飛び込んできたのは、反射的に口元を覆いたくなるほど強烈な臭気だった。生臭い血の臭いだけでなく、湿った空気へ腐敗を連想させる据えた臭いまで染み込んでおり、一度吸い込むだけで喉の奥へ粘りつくような不快感が残る。
視界へ広がる光景もまた、浴室という言葉から想像できるものとは程遠かった。
浴槽や水栓、シャワーといった元の設備こそ残っているものの、その周囲には白い処理台や金属製の排水溝が重なり、床は一面を赤黒い液体に濡らされている。さらに天井からは幾つものフックが垂れ下がり、その先には人間の腕や脚を思わせるものが、肉塊のように吊るされていた。
他の場所では家と監獄が混ざり合っていたのに対し、ここへ重ねられているものはもっと明確だった。浴室としての構造を残したまま、人間すら肉として扱う屠殺場のイメージだけを無理矢理被せたような空間が、二人の前へ広がっている。
その光景を前に、紫水の脳裏には否応なくシセンノマで目にしたものが蘇った。
誰かが苦しむことを前提に整えられた場所や、人間の尊厳など最初から考慮されていない悪趣味な舞台は、忘れようとして忘れられるものではない。
今いる場所があの屋敷とは異なると理解していても、記憶の奥へ刻まれた嫌悪まで理性だけで切り離すことはできなかった。
「エアリィ嬢……!」
思わず隣へ視線を移せば、エアリィもさすがに顔色を失っていた。大きな緑の瞳は異様な浴室へ向けられたままだったが、逃げ出す代わりにぎゅっと拳を握り、覚悟を決めるように紫水へ頷き返す。
「行こう……! ここを調べないと、何があったのか分からないから」
「ああ、けれど無理はしないように。何かあれば、すぐ私のところまで戻ってくるんだよ」
本心では外で待っていてほしいくらいだったが、それを口にすることだけは控えた。
エアリィはまだ幼さの残る少女であると同時に、自分の意志で危険へ踏み込み、仲間と並んで戦う冒険者でもあるのだ。一方的に庇護すべき存在として扱えば、彼女自身の在り方を否定することになる。
「うん……がんばる。ちょっと怖いけど、何もしないでいる方がもっと嫌だから」
無理をするなと言われた直後の返答としては、少しだけ意味が逆になっている。
それでも、何かを頑張らなければ一歩を踏み出すことさえ躊躇ってしまう場所なのは紫水にも分かっており、苦笑を浮かべながらそれ以上は止めなかった。
「では呪詛方面は任せてもらおう。こういうものを相手にするのなら、何でも屋としても陰陽退魔士としても私の領分だからね」
「うん。それじゃあ、あたしは魔力と精霊力の方から調べてみるよ。こんなに変な場所になってるなら、きっと普通じゃない力が混ざってると思うから」
互いの得意分野を確認した二人は、紫水の展開した霊的防護から大きく離れない範囲で、それぞれに調査を始めていった。
紫水が重視したのは、目の前の凄惨な光景だけではない。呪詛が染みついた場所では、空気の重さや肌へ絡みつく湿気、あるいは目には映らない澱みのようなものが残ることもあるため、視覚的な異様さに惑わされず、この場そのものへ沈殿した気配を丁寧に探っていく。
「つむぎ……手伝ってくれるかな? 君の眼なら、私が見落とすものも拾えるだろうからね」
呼び掛けへ応じるように紫水の足元へ落ちていた影が揺れ、そこからシルバーグレーの毛並みに黒い縞を持つ一匹の猫が姿を現した。腰から伸びる二本の尻尾がゆらりと揺れる様子から分かる通り、普通の猫ではなく猫又である。
つむぎは主人を見上げて一声鳴くと、両眼へ魔眼の力を宿して周囲へ視線を巡らせ始める。
「何か変な所があれば教えてくれるかい? 無理に触れる必要はないから、見つけるだけで十分だよ」
つむぎへ探索を頼んだ紫水は、さらに手数を増やすため、腰のアメジストの宝剣へ指を添えて陰陽の気を集め、淀んだ浴室の空気へ静かな詠唱を響かせた。
「陰陽太極にして万象を示す。すなわち陰転じて陽。我が力より形を持って至れ、式神」
凝縮された術力が掌ほどの小さな鼠へ姿を変え、その身体には常人には拾えない微細な音まで捉える超聴覚が与えられていた。
浴槽の裏側や床下、壁の奥といった目では確認できない場所へも注意を向けるよう命じると、鼠の式神は小さな足音を立てながら浴室の奥へ走り去っていく。
「さて、何か見つかるかな。何もないのでは困るけれど、この場所に限っては何が出てくるのか楽しみとは到底言えないね」
自身も周囲へ意識を広げながら探索を続けていると、程なくしてつむぎが二本の尾を大きく揺らしながら駆け戻ってきた。紫水の前を通り過ぎた猫又は少し離れた位置で振り返り、ついて来いと促すようにもう一度声を上げる。
「何かあったのかい? では案内をお願いしよう」
後を追った先では、屠殺場のイメージをさらに補強するように多数の刃物が並べられていた。大振りの鉈や重厚な肉切り包丁、場違いなほど大型のチェーンソーまで混在しており、いずれも浴室へ元から存在していた物とは到底考えにくい。
しかし、紫水の注意を引いたのは、それらの中央へ紛れるように置かれていた一本のノコギリだった。
「……なるほど。つむぎが私を呼んだのは、これかい」
形だけなら周囲の刃物に比べて特別なものではない。それでも他の道具が屠殺場を演出するためだけに作られた小道具のように見えるのに対し、この一本にだけは刃から柄にかけて赤黒い血がこびり付いている。
紫水の感覚にも、人の情念や強烈な淀みを思わせる異質なものがまとわりついていた。
つむぎの魔眼も同じ違いを感じ取ったのだろう。主人の足元へ戻った後もノコギリから視線を外さず、二本の尾を警戒するように低く揺らしている。
「他が異界によって形作られた物なのだとすれば、これだけは元からここに存在していた|本物《・・》……という可能性もあるね」
何に使われたのかまでは分からず、付着した血だけを根拠に答えを決めつけることもできない。ただ、この部屋に存在する品々の中で明らかに異なる気配を宿している以上、覚えておく価値のある手掛かりではあった。
「とはいえ、これ一本だけで事件の形まで決めるには情報が足りない。さて、エアリィ嬢の方はどうだろうね」
場所と特徴を記憶へ留めた紫水は、つむぎと鼠の式神を伴いながら浴室の反対側へ視線を移した。どういうわけか今回は、自分よりも精霊へ深く通じたエアリィの方が、この空間の本質に近い何かを掴みそうな予感がしていた。
その頃、エアリィが目を付けていたのは、浴室の中を漂うインビジブルたちだった。
世界中の何処にでも存在し、普通の人間には見ることのできない透明な怪物は、この家にも数多く漂っている。
ただし外で見かけるものとは異なっていた。輪郭は水面に映る像を揺さぶったように安定せずにノイズが走る。一体一体の存在そのものがぶれて見えていた。
「やっぱり、なんだか変なんだよね……」
この異様なインビジブルたちにも|精霊交信《エレメンタル・コンタクト》が届くのなら、精霊として別の在り方を与え、この場所で何を目撃したのか聞き出せるかもしれない。
「精霊達よ、あたしに力を……。ね、おしえて? ここで何があったかを」
|精霊交信《エレメンタル・コンタクト》が発動すると、周囲を漂っていたインビジブルへ少しずつ属性が宿り、生前とはまったく異なる精霊としての姿を形作っていった。
最初に姿を得たのは、水の精霊だった。液体が宙へ浮かんで小さな手足を形作り、背中には妖精を思わせる羽まで生まれていく様子は、エアリィにとっても馴染み深い変化である。
ところが、完全に姿を得た精霊を目にした途端、エアリィの表情から安堵が消えた。
「……これ、水だけじゃない」
本来なら透き通った色を持つはずの小さな身体は、鮮烈な緋色へ染め上げられている。しかも顔の中で目や口があるべき部分には、何も存在しないというより、そこだけ空間を穿ったような黒い穴がぽっかりと開いていた。
精霊としての形そのものは水に属していても、そこへ絡みついている力は別種だった。闇や邪気、あるいは明確に分類することさえ難しい淀んだ何かが、水の属性を血のような異形へ変えている。
――水だけじゃない。何か別の力が絡みついてる。それも、精霊の姿をここまで変えちゃうくらい強いものが。
六属性の精霊へ日常的に触れてきたエアリィにも、ここまで露骨に異形化した姿は滅多に見るものではない。
それでも臆して距離を取るのではなく、いつも精霊へ話しかける時と変わらない声音を意識して、目の前の存在たちへ問い掛けた。
「ね、おしえて? ここで何があったかを。あたし、そのことを知りたいんだ」
血色の精霊たちはすぐに返事をせず、黒い穴のような顔を一斉にエアリィへ向けたまま沈黙を続けている。
その視線らしきものを受けているだけで、何か得体の知れないものに取り囲まれているような圧迫感が徐々に強まっていった。
やがて、そのうちの一体から幼い声が零れる。
「わたしは加奈子です」
「え? どうして加奈子さんの名前を……?」
聞きたかったことへの答えにはなっていない。
意味を確かめる暇もないまま、別の精霊からも同じ言葉が続いた。
「わたしは加奈子です」
それだけでは終わらず、周囲に浮かぶ精霊たちから次々と声が溢れ、同じ名前と、それとはまるで噛み合わない苦痛の訴えが入り混じり始める。
「もうやめて」「ゆるして」「わたしは加奈子です」「痛い」「わたしは加奈子です」「苦しい」「もうやめて」「痛い」「わたしは加奈子です」「わたしは加奈子です」
順番に説明しているわけではなく、幾つもの声が互いへ重なり合いながら、同じ言葉を延々と繰り返していた。
それは情報を伝えようとしているようにも感じられる一方、聞き続けるエアリィにとっては、意味を持たない呪詛を四方から浴びせられているのとほとんど変わらない。
「待って、みんな落ち着いて! 一つずつでいいから、何があったのか教えて!」
何故加奈子の名を繰り返すのか。「痛い」「苦しい」「ゆるして」という言葉が何を意味しているのか。せめて一つでも繋げようとエアリィは何度も呼び掛ける。
しかし精霊たちの声が正常な会話へ戻ることはなく、やがて緋色の身体にまで異変が生じ始めた。
小さな足元から姿形が崩れ、血のような液体となって床へ垂れていく。
それは通常の精霊が力を失って消える様子とは明らかに異なり、形そのものを内側から壊されているような不自然さを伴っていた。
「待って! まだ何も聞けてないよ!」
伸ばした手が届くより早く、一体、また一体と溶け落ちた精霊は床へ染み込むことすらなく消失していく。
最後の一体まで姿を失った後には、エアリィが能力を発動する前まで漂っていた、揺らいだインビジブルの姿さえ残されていなかった。
「あたしから解除したんじゃないのに……。ちゃんと精霊にはなったのに、どうしてこんな消え方を……」
能力そのものは発動し、精霊として姿を得るところまでは成功していた。それなのに会話は成立せず、最後には身体を崩すようにして消えてしまった。
――この家の何かが、精霊との交信にまで影響してる……?
そう考えた直後、背筋へ冷たい指を這わせられたような悪寒が走る。
エアリィの第六感が強く警告している方向へ顔を向けると、そこには異界化によって本来より遥かに広く引き延ばされた浴槽がある。その底から、ごぽり、と粘ついた液体へ空気が混じるような音が聞こえてきた。
「……何、これ?」
何も入っていなかったはずの浴槽へ、底から赤黒い液体が湧き上がってくる。水位は瞬く間に増していき、精霊たちの身体を染めていたものと同じ血のような色が、広大な浴槽を縁まで満たしていった。
「エアリィ嬢!」
異変へ気付いた紫水が、つむぎと鼠の式神を伴って駆け寄ってくる。エアリィもすぐに彼のもとへ向かい、霊的防護の内側へ飛び込むように戻った。
「精霊たちが急に崩れて消えちゃったの。それから浴槽から血みたいなものが出てきて……!」
「なるほど、随分と露骨に嫌な演出を重ねてくれるじゃあないか。まずは私から離れないようにして――」
紫水が言い終えるより早く、血で満たされた水面が大きく盛り上がった。
二人の視線が揃って浴槽へ向かう中、赤黒い液体を押し退けながら一人の少女がゆっくりと姿を現した。
十歳ほどに見える少女だった。黒に近い暗色の髪と色白の肌、丸みを残した幼い顔立ちに大きな黒い瞳を持ち、小柄で華奢な身体を衣服ごと血に濡らしながら、浴槽の中で二人を見つめている。
だが、異変は一人の出現だけでは終わらなかった。
最初の少女の横から新たな頭部が赤黒い水面を割り、そのさらに後ろからも同じ年頃の少女が立ち上がってくる。ほどなくして浴槽には、互いによく似た幼い少女たちが何人も並び、全身から赤黒い液体を滴らせながら二人へ顔を向けていた。
「どうなってるの!? 同じ子が何人も……!」
「私にも分からない。しかしこれは調査を続ける段階ではないね。エアリィ嬢、一旦退こう!」
紫水が撤退を判断した時には、少女たちは既に浴槽の縁へ手を掛けていた。濡れた衣服から赤黒い液体を床へ滴らせながら、一人ずつ外へ這い上がり、無言のまま二人へ向かって歩き始める。
「止まって! それ以上来るなら撃つよ!」
警告と同時にエアリィは腰から精霊銃『エレメンタル・シューター』を抜き放った。ただし狙いは少女たちの身体ではなく、その進路を塞ぐ床へ向けられている。
引き金に応じて放たれた魔力の弾丸が床へ着弾し、青白い光を弾けさせた。直撃を避けた牽制であっても、突然目の前で生じた衝撃には反応したらしく、少女たちの歩みが一斉に止まる。
「今だ、行こう!」
紫水の声を合図に、つむぎは素早く主の足元へ戻り、二本の尾から順に影へ溶け込んでいく。鼠の式神も術を解かれると淡い光となって消え、二人は互いが同時に動き出したことを確認しながら浴室を飛び出した。
廊下へ出た後も、すぐには足を止めなかった。血に濡れた少女たちの足音が背後から追ってくるのではないかという緊張が残り、何度か曲がり角を越えるまで、二人とも走り続けていた。
「やはり今回もこうなるのか……。まったく、趣味の悪い舞台を用意してくれるものだね」
走りながら漏れた紫水の声には、いつもの芝居がかった調子こそ残っているものの、その下には心底うんざりした感情が隠し切れずに滲んでいた。
「ホラー映画の主人公ってこんな気分なのかな!? 何か調べるたびに怖いものが出てきて、最後は逃げることになるんだけど!」
「それなら、この後は追いかけっこがお約束というところだろうけれど……どうやら、その演目までは用意されていないらしい」
紫水が肩越しに浴室の方角を確かめても、開いた扉から少女たちが溢れ出してくる様子はなく、追跡する足音も聞こえなかった。
霊的な気配そのものは依然として強いが、少なくとも先ほど現れたものが浴室から出てきている兆候はない。
「あの子たち、あの中からは出られないのかな。それとも、浴室の中でだけ出てくる怪異だったとか?」
「可能性はあるけれど、確かめるためにもう一度入るのは勘弁してもらいたいところだね。ノコギリという手掛かりも見つけたし、君も十分すぎるほど奇妙な現象を確認したのだから、今は仲間たちへ情報を持ち帰る方がいいだろう」
「うん、それがいいと思う! 戻ったらまた何が出てくるか分からないもんね」
追跡されていないことが分かると、二人ともようやく走る速度を落とした。
ただし完全に足を止めることはせず、異界の中で安全を確信できる場所などない以上、仲間との合流を優先して早足のまま廊下を進んでいく。
しばらくして呼吸も落ち着いた頃、エアリィが隣を歩く紫水へ視線を向けた。
「シセンノマの時と似てるって、さっき話してたよね。今回も、ああいう感じなのかな?」
「内容は違うけれど、趣味の悪さには嫌になるほど似たものを感じるよ。人の心を傷つけ、逃げ場を奪い、最後には何を信じていいのかまで分からなくさせる……二度と思い出したくない演目だったのだけどね」
紫水の声音へ僅かに影が落ちたのを聞いて、エアリィは少しだけ考え込んだ。やがて何かに納得したように頷くと、思い掛けない言葉を返す。
「そっか。じゃあ、良かった」
「良かった……というのは、さすがの私にも少々解釈が難しいのだけど?」
「あっ、違う違う! 良くはないんだけど、そういう意味じゃなくって!」
自分でも言い方がおかしかったと気付いたらしく、エアリィは慌てて両手を振った。そのまま少しだけ言葉を探してから、今度は紫水へ真っ直ぐ笑顔を向ける。
「前の時、紫水さんは一人ですっごく嫌な思いをしたんでしょ? でも今回はあたしもいるから、一緒に戦えるよってこと。だから、全部同じじゃないよ!」
その言葉を聞いた紫水は、歩みを止めこそしなかったものの、ほんの僅かに目を見開いた。
今回の事件とシセンノマには、悪意を帯びた仕掛けや、人の感情へ干渉する在り方など、似ている部分が幾つもある。紫水自身、無意識のうちにそんな共通点ばかりを探していたのかもしれない。
けれど、一つだけ決定的に違うことがある。前回、呪いによって見せられた『エアリィ』は、紫水を傷つけるために作られた偽物だった。
自分の知る少女の姿を利用し、心を揺さぶるためだけの虚像として襲いかかってきたのだ。
対して今、隣を歩いているのは本物のエアリィ・ウィンディアだ。
恐怖に顔を青ざめさせながらも、自分の足で屠殺場じみた浴室へ踏み入り、危険が迫れば銃を構え、それでも誰かを傷つけるより逃げ道を作ることを選んだ。
「ああ、それなら確かに前回とは大違いだ」
紫水の表情から、今度こそ過去の記憶へ引かれていた陰が薄れていく。
「最高に心強いよ、エアリィ嬢。ならば今回の演目は、一緒に最後まで見届けるとしようじゃあないか」
「うん! 一緒に解決しよう!」
二人の声に先ほどまでの恐怖は完全には消えていなかったが、それ以上に確かなものが戻っていた。そうして浴室で得た不穏な手掛かりを携えながら、二人は仲間たちとの合流を目指し、なおも歪み続ける伊藤家の廊下を進んでいった。