粧練
「オフ、ですか?」
√EDEN、とある施設の一室。
端末に表示された勤務予定表を前に、リンゼイは何度か瞬きをした。
かつて『封印指定人間災厄』として厳重に管理されていた彼女にとって、自由時間というものはあまり馴染みがない。誰にも拘束されず。誰にも監視されず。好きな場所へ行き、好きなことをしていい時間。
「ふむ。確かに、封印指定も解除されましたし……」
無差別自殺を引き起こしていた能力は失われた。現在のリンゼイは通常任務にも駆り出され、以前より遥かに自由に行動することを許されている。
ならば。
「……この機会に、EDENの視察をしておくべきでしょうか」
真面目な顔で、リンゼイは呟いた。
これまで任務で足を運ぶことはあっても、戦闘と関係のない施設をゆっくり見て回ったことはほとんどない。
人々がどんな場所で過ごし、何を楽しみ、どのような文化を築いているのか。
FBPCのエージェントとして現地事情を把握しておくことは今後の任務にも役立つはずだ。
そう、これは視察である。遊びではない。
決して。
「とはいえ、どこから見て回れば……」
端末を閉じ、廊下へ出る。
悩みながらしばらく歩いていると、休憩スペースの椅子の下に何かが落ちているのが見えた。
薄い冊子だった。職員の誰かが置き忘れたのだろう。
リンゼイは拾い上げ、表紙を見る。
そこにはやたらと眩しい笑顔の女性たちと、ピンク色の大きな文字が踊っていた。
『今日から無敵♡最強ガールの女子力強化バイブル』
「……最強?」
リンゼイの目が止まった。
さらに小さな文字が並んでいる。
『指先から磨け! 真夏のネイル&ご褒美マッサージ』
『ふわふわは正義♡ 愛されお菓子作り完全攻略』
『夜のプールで視線を独占! 水辺で輝く最強女子へ!』
「戦力強化の指南書?」
表紙を見つめる。
勝ち誇った笑顔の女性と目が合った。
戦力強化の指南書。そう読めなくもなかった(本当に?)
「なるほど」
明日は休暇。EDENの視察も必要だ。
そして、自らの戦力向上も怠るべきではない。
――ならば、一石二鳥である。
リンゼイは真剣な顔のまま、『今日から無敵♡最強ガールの女子力強化バイブル』を手にした。
そしてぺらりと、1枚目の頁を開く。
✦
「じょしぢからってなんだ?」
ジャン・ローデンバーグ(裸の王冠・h02072)は、同じ雑誌を開いていた。
表紙にはきらきらはーとふわふわ。そして『最強』の二文字。
眉間に皺を寄せた少年王は、何度か頁をめくった。
「戦闘能力……ではねえよな?」
君たちを前に、ジャンは雑誌を机へ広げた。
どうやら予知に出てきたリンゼイが持っていたものと同じものをわざわざ探してきたらしい。
「まあ、なんだ。リンゼイ・ガーランドが明日、EDENを出歩く」
人間災厄『リンゼイ・ガーランド』。
かつては近づく者を無差別に自殺へ追い込む√能力によって、アメリカFBPCから『封印指定』を受けていた女だ。
現在はその無差別性を失い、封印指定を解除されているらしい。
通常任務へ投入されることも増え、以前と比べれば危険度は大きく低下した。
「で、今回の予知を見る限り――大っぴらに何かやらかす予定はないみたいだ」
ジャンは腕を組み、一度机上の雑誌を見る。
「戦力をアップさせる予定らしい」
真面目な顔だった。
「そう。じょしぢからってやつを……な」
真面目な顔だった。
ジャンは一度ごほんと大袈裟に咳払いした。
「予知に出た場所は大きく三つ」
最初は、真夏のネイル&マッサージ体験。
冷房の効いた店内で、好きな色や飾りを選んで爪を彩り、その後はハンドや肩、脚など希望する場所をマッサージしてもらえる場所らしい。
夏らしい海色のネイル。透き通った氷菓子のようなネイル。星や花、果物を飾ったものまで、選択肢はかなり多い。
勿論、ネイルをせずマッサージだけ受けても構わない。
日頃の疲れを癒やすには、なかなか良さそうな催しだ。
「リンゼイはそこで『指先から戦闘意識を高める』つもりらしい」
何故かは分からない。
二つ目。
「ふわふわお菓子作り教室」
ジャンが読み上げる。
ふわふわのパンケーキ。ふわふわのシフォンケーキ。ふわふわのマシュマロ。
その他、泡立てたクリームやメレンゲを使った、ふわふわした菓子を好きに作ることができる教室だという。
作ったものは、その場で食べてもいい。
綺麗に包んで持ち帰ってもいい。
同行者と交換したり、一緒にひとつの菓子を作るのもいいだろう。
「リンゼイは『柔らかなものを扱う繊細な技術を身につけることで、精密な任務にも対応できる』と考えてるらしい」
ジャンが雑誌を見る。
「まあ、本人がそう思ってるならいいんじゃねえか」
少し自信がなくなってきた。
そして最後。
ジャンは雑誌の頁を一枚めくった。
「ナイトプールだ」
少しだけ、沈黙。
「…………」
もう一度予知の資料を見る。
「ナイトプールだな」
それは夜空の下、ライトアップされたプール。
水面には色とりどりの光が揺れ、浮き輪やデッキチェアが並んでいる。
昼間の暑さが和らぐ頃、水辺で飲み物を楽しみ、泳ぎ、写真を撮り、夏の夜をのんびり過ごす。
少しばかり雰囲気のいい場所らしい。
「ナイトプールって、多分後日の"決戦"に向けての場所だよな」
ジャンは真顔で言った。
「……まあ、当日は何もないとは思う」
言ったように、今回の予知には戦闘らしい戦闘は映っていない。
誰かが襲われる様子も、リンゼイが能力を振るう様子も、何か恐ろしい計画を企んでいる様子もなかった。
ただ爪を綺麗にし。身体をほぐし。ふわふわの菓子を作り。最後にナイトプールへ行く。
どう見ても休日である。
「だが、リンゼイ・ガーランドが現れるのには違いない」
元『封印指定人間災厄』。危険性が以前より低下したとはいえ、放っておいて何か起きてからでは遅い。
「だから、おまえたちもそれとなく同じ場所へ行って、様子を見てきてくれ。怪しまれない程度でいい。普通に客として遊んで、近くにリンゼイがいたら時々様子を見る。そのくらいで十分だ」
友人と一緒にネイルを選んでもいい。
日頃の疲れをマッサージで癒やしてもいい。
ふわふわの菓子作りに本気を出してもいい。
夜になれば、水着に着替えてプールへ飛び込むのもいいだろう。
「監視とは言ったが、何も問題がないなら、それでいい」
リンゼイ本人と顔を合わせたなら、話しかけても構わない。
向こうが拒まなければ、一緒に菓子を作ったり、同じテーブルを囲んだりしてもいい。
ジャンは椅子の背にもたれた。そして片手を、ひらひらと振る。
「何ならおまえたちも一緒に、じょしぢからってやつをアップさせてくるといいさ」
一拍。
少年王はもう一度、『今日から無敵♡最強ガールの女子力強化バイブル』へ目を落とした。
「男でも上がるのか、これ?」
――ともあれ、今回の任務は人間災厄の監視である。
ネイルを塗って。
マッサージを受けて。
ふわふわのお菓子を作って。
最後は夜のプールで遊ぶ。
監視任務である。
第1章 日常 『夏に向けて、フットネイル&マッサージ!』
涼しい店内へ足を踏み入れたリンゼイは、受付で渡された見本帳を前に難しい顔をしていた。
「種類が多いですね」
机いっぱいに並ぶのは、色とりどりのネイルサンプルだ。
青い海に白波を浮かべたもの。氷菓子のように透き通ったもの。小さな星や花、果物を飾ったもの。可愛らしいものから大人びたものまで、頁をめくるたび違う指先が現れる。
「お好きな色やモチーフはありますか?」
「好きな……」
問われ、リンゼイは真剣に考え込んだ。
「任務に適したものを」
「任務?」
「はい。戦闘時にも集中力を阻害せず、可能なら士気向上に寄与するものが望ましいです」
「ええと……では、まずはお好きな色から決めましょうか」
リンゼイの対応にもスタッフは笑顔を崩さなかった。プロである。
「こちらは夏限定のデザインです。海や花火をイメージしたものですね。こちらはラメを控えめにしたシンプルなもの。モチーフを指定していただければ、出来る範囲でアレンジもできますよ」
「アレンジ」
「星や花、果物、動物なんかも人気です。お連れ様とお揃いや色違いにする方もいらっしゃいますね」
「なるほど……」
リンゼイの視線が、見本帳の上をゆっくり移動していく。
ネイルは色だけを指定してもいい。
好きな花や星、動物、食べ物などをモチーフにしてもいいし、夏らしい海や空、花火を爪先へ閉じ込めてもいい。
同行者がいるなら、お揃いや色違いのデザインを頼むのも楽しそうだ。
派手な装飾が苦手なら、透明感のあるものや単色、爪を整えて艶を出すだけでも構わない。
「それと、こちらがマッサージのメニューになります」
今度は別の一覧が差し出される。
ハンド、肩、首、脚。短時間で気軽に受けられるものから、少し長めにじっくり身体をほぐしてもらえるコースまで揃っているようだ。
「ネイルと一緒に受けることもできますし、マッサージだけでも大丈夫ですよ」
「戦闘による疲労にも効果はありますか?」
「戦闘……は分かりませんけど、肩凝りや脚の疲れでしたら」
「十分です」
リンゼイは頷いた。
肩や首を重点的にほぐしてもらってもいい。
歩き疲れた脚を労ってもいいし、ネイルと合わせてハンドマッサージを頼んでもいい。
同行者と隣同士で施術を受けながら話すのも、ひとり静かに寛ぐのも自由だ。
勿論、ネイルだけ、マッサージだけの参加でも何の問題もない。
「…………」
リンゼイはネイルの見本帳と、マッサージのメニューを交互に見比べた。
戦力向上。任務への備え。そのための選択として、どれが最も合理的なのか。
本人は至って真剣である。
やがて、ひとつのネイルデザインを指先で示し。
続いて、マッサージのメニューへ視線を落とした。
「では、このメニューでお願いします」
どうやら人間災厄のじょしぢから強化方針も、無事に決まったらしい。
さて。
こちらも好きな色を選び、好きな形で身体を休めるとしよう。
折角の真夏の美容体験だ。
指先を飾るか、疲れを癒やすか、それとも――両方楽しむか。
「まあ、じょしぢから!」
ライラ・カメリアは、その響きだけでぱっと空色の瞳を輝かせ。
「って、なあに?」
そして、すぐ首を傾げる。
――まあ、力という言葉が付いているのだから、きっと強くなるための何かに違いない。
ライラがそう結論づけるまでに、さほど時間はかからなかった。やる気は十分である。だって、力とは強さだからだ。
✦
そんな彼女が案内された先で目にしたのは、剣でも防具でも訓練器具でもなく、色とりどりの小瓶とネイルサンプルの山だ。
「……えっ」
きらきら。つやつや。花に星、果物、宝石めいた小さな飾り。
さらに視線を移せば、奥にはゆったりとした椅子とマッサージの案内まである。
「ネ、ネイルにマッサージ?」
一瞬、固まった。
(じょしぢからって、自分磨きのことだったのかしら!?)
知らなかった。
いや。
「――し、知ってたもんっ」
誰にも尋ねられていないのに、つい口から出た。
ともあれ、意味が分かってしまえば話は早い。強くなる方向性は想像と随分違ったけれど、綺麗になることだって立派な自己強化なのだろう。
たまには自分も夏らしいネイルでお洒落をしたい。
見本帳を開けば、そこには小さな夏が何頁にもわたって並んでいた。
海の底を思わせる深い青。炭酸水のように透き通った水色。珊瑚の桃色。夕焼けの橙。白い貝殻や、小さなヒトデを閉じ込めたものまである。
「わあ……」
ライラは頁を捲るたび、目移りするように視線を行き来させた。
どれも可愛い。
どれも綺麗。
けれど、その中で不意に指が止まる。
「……これ」
ぱっと目を惹いたのは、透き通った海の色を基調にしたデザインだった。
透明な爪先へ淡い水色を重ね、その奥へ少しだけ深い青を滲ませている。澄み切った浅瀬から、遠い水平線へ向かって色が深くなっていくようなグラデーションだ。
そこへ差し込むのは、細い金色。
爪の中央から先端へ、薄い金箔と微細なラメをふわりと散らし、夕暮れ前の太陽が海面を照らす光の道を作っている。
「ゴールデンアワーみたい……」
思わず、声が柔らかくなる。
昼と夜の境目。空も海も金色に染まって、どこを見ても少しだけ特別に見える時間。
「こちら、お似合いになると思いますよ」
スタッフに勧められ、ライラは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、これにするわ!」
施術が始まると、白い指先へまず透明な艶が乗せられた。
その上から、淡い青を薄く薄く重ねていく。
一度で色を作るのではなく、半透明の層を幾つも重ねることで、硝子越しに海を覗き込んだような奥行きが生まれていった。
親指と中指には少し濃い青を。人差し指と小指には、ほとんど透明に近い水色を。そして薬指だけには、水平線を思わせる細い金のライン。
「わあ……!」
少しずつ姿を変えていく自分の爪を、ライラは飽きることなく見つめていた。
金のラメが一粒ずつ置かれていく。
爪先へ集まった光は、まるで凪いだ海の表面へ太陽の欠片を散らしたようだった。指を僅かに動かすだけで、青の奥から金色がきらきらと浮かび上がる。
「すごい。ほんとうに水の上みたいね」
小さな面積の中に夏の夕暮れがそのまま閉じ込められている。
仕上げに透明なトップを重ねれば、海色には一層深い艶が生まれた。
白金の髪。
空色の瞳。
そして、海と夕日の色を宿した指先。
「とっても可愛い……!」
ライラは嬉しそうに両手を持ち上げた。
光へ翳せば、爪先の金色が一斉に瞬く。
淡い青は肌によく馴染み、それでいて動くたび確かに存在を主張していた。
可愛い。
綺麗。
そう思うだけで、なんだか少し気持ちまで浮き立つ。
施術を受けながら、ライラの頭にふと浮かんだのは、近々控えている水着コンテストのことだった。
そこでは――。
「…………」
ほんの少しだけ、頬が緩む。
とくべつな人と並んで立てる予定がある。
水着を選んで。髪を整えて。こうして爪先まで綺麗にして。
普段なら、守れるように強くなりたいと願うところだけれど。
今日くらいは。
「少しでも、可愛くなりたいな……なんて」
誰に聞かせるでもなく、小さく零す。
金色の光を閉じ込めた爪先が、きらりと瞬いた。
強さにも、きっと色々ある。
剣を振るう強さ。
誰かを守る強さ。
怖くても前へ進む強さ。
そしてもしかすると。
好きな人の隣へ立つ日に、いつもより少しだけ可愛い自分でいようと思えることだって。
「……これも、じょしぢから?」
ライラは完成したネイルを見つめ、楽しそうに笑った。
答えはよく分からない。
けれど、海と夕陽を纏った指先は、来た時よりほんの少しだけ彼女の背中を押してくれている。
折木・龍也は、店内へ足を踏み入れた瞬間から場違いな空気を感じた。
夏色のネイル見本。花や果物を模した小さなパーツ。淡い香りの漂う、涼しく整えられた空間。その中で、右頬に傷を持つ悪人面の男がひとり、どうにも馴染まない顔で受付を眺めている。
「女子力を上げる趣味はねえが……まあ、監視任務ってことで」
龍也が選んだのはネイルではなくマッサージメニューだ。
席につけば、少し離れたところにはリンゼイ・ガーランドの姿も見える。真剣な顔でスタッフと話しているだけで、今のところ妙な動きはない。視界の端に監視対象を収められる位置を選び、龍也は椅子の背へ身体を預けた。
「肩、首、脚。まとめて頼めるか?」
「はい。力加減はいかがしましょう」
「強めで。遠慮はいらねえぞ」
戦場から戻れば警察仕事があり、必要とあらば決戦型WZの操縦までこなす。身体を使うことにも、多少の疲労にも慣れている。肩が重いだの、脚が張るだの、その程度でいちいち気にしていては仕事にならない。だから本人としては、少し疲れている程度の認識だった。
肩へ、指が沈み込むまでは。
「…………」
「かなり凝ってますね」
「そうか?」
「はい。特にここですね」
ぐ、と肩甲骨の内側を押される。
「……お」
思わず声が出た。
痛い。だが、嫌な痛みではない。固まっていたものの中心を的確に押され、そこからじわじわと熱が広がっていくような感覚だった。
「もう少し弱くしますか?」
「いや、そのままでいい。効いてる」
龍也は平然と答える。多少強く押されたところで眉を顰めるほどではない。むしろ痛気持ちいいくらいが丁度いい。
首筋をほぐされ、肩へ移り、背中へ。
指が筋肉の流れに沿って押し進むたび、自覚のなかった張りがひとつずつ浮き彫りになっていく。
「普段、ご自身でケアはされていますか?」
「してねえな。寝りゃ治ると思ってる」
「少し、治っていない部分があるようです」
「らしい」
苦笑する。
その間にも、龍也は一度だけリンゼイの方へ目を向けた。
スタッフ相手に何かを確認しながら、相変わらず真面目な顔で座っている。
問題なし。
そう判断して視線を戻したところで、今度は首の付け根を強く押された。
「……あー」
今度は隠す気もなく声が漏れる。
「効くな。これ」
最初は背筋を伸ばしていた身体も、いつの間にか随分と椅子へ沈んでいた。
戦場では身体の力を抜きすぎることはない。
警察の仕事でも、人と話している時でも、どこかしらには常に意識を残している。
敵がいるなら当然のこと。いない時でさえ、長年の癖というものはそう簡単には消えない。
けれど今は、誰かに肩を預け、ただ押されるままになっていればいい。
「次、脚いきますね」
「ああ」
ふくらはぎへ手が移る。
こちらも思っていた以上に張っていたらしい。掌で包むように圧をかけられると、重く溜まっていた疲れが少しずつ解けていく。
「結構歩かれます?」
「まあ、仕事柄」
歩く。走る。戦う。操縦席へ長時間座り続けることもある。
思い返せば、身体を休ませることを目的に時間を使ったのは随分久しぶりだった。
煙草を吸う。
飯を食う。
酒を飲む。
そういう息抜きはあっても、何もしないまま誰かに身体をほぐされているだけ、という時間は珍しい。
「戦力強化ってより、こりゃ疲労回復だな」
龍也は薄く笑った。
確かに身体が軽くなれば動きも良くなるだろう。
女子力とやらが上がったかは知らないが、任務前の整備だと思えば悪くない。
もう一度だけ、リンゼイへ視線を向ける。
――異常なし。
確認を終えると、龍也は今度こそ目を閉じた。
「監視ってのも、たまには楽な仕事があるもんだ」
ぼそりと呟く。
肩の奥へ、また心地よい圧がかかる。
戦場でもなく、取調室でもなく、操縦席でもない。誰かの命を背負う必要も、次の一手を考える必要もない。
ただ身体から力を抜いていればいい時間。
思えば任務を口実にして手に入れた、久々の休息だった。
施術が終わる頃には、龍也の肩は来店時より明らかに軽くなっていた。
「どうですか?」
「悪くねえ」
首を左右へゆっくり回してみる。
引っ掛かっていた重さが、少し消えている。
「……いや」
ひとつ訂正するように、口元を緩めた。
「かなり良かった」
女子力が上がったかどうかは、最後まで分からないが。
少なくとも、今日の監視任務で得た戦果として、この軽くなった身体は十分すぎるほどだった。
店内へ足を踏み入れるなり、希良星・シュンヤの青い瞳がきらりと輝いた。
「曉さん、お出かけ付き合ってくれて感謝です♡ 折角ですし、一緒に『じょしぢから』上げちゃいましょ!」
「此方こそ、素敵なお誘いに感謝を」
呉羽・曉は柔らかく笑う。
「……最初は自分の耳を疑いましたけどね」
「えー、なんで?」
「監視任務と聞いて来てみれば、ネイルとマッサージでしょう?」
「あはっ。いいじゃないですか。何事も経験ですよ♡」
少し離れた席では、監視対象であるリンゼイ・ガーランドが、スタッフ相手に真剣な顔で見本帳を眺めている。
今のところ何か危険なことをしでかす気配はない。
「そういうことでしたら……二人で確り沢山上げてしまいましょう、女子力」
「そうこなくっちゃ!」
意見はすぐにまとまった。
テーブルへ案内されれば、そこには色とりどりのネイルサンプル。
夏空の青。果実のような赤。淡い乳白色。宝石めいた紫。夜を思わせる黒。透明なチップの上に小さな花や星、貝殻、金箔、ストーンが飾られ、一頁めくるたび別の宝石箱が現れるようだった。
「わ、これ可愛い♡」
シュンヤが指差したのは、透明なジェルの中に砂糖菓子のようなパステルカラーを閉じ込めたデザインだ。
薄桃色のキャンディ、ソーダ色のドロップ、クリームを絞ったような白い立体パーツ。爪先ほどの小さな世界に、甘い菓子箱をそのまま詰め込んだようである。
「食べられそうですね」
「あはっ、確かに。でもこっちの星もいいなぁ。あ、この黒も好き!」
甘そうなデザインに惹かれたのも束の間、シュンヤの視線はすぐ隣の星やストーン、ゴシック調の見本へ忙しなく移っていく。頁を捲る手も止まらない。
そんな様子を横から眺めていた曉が、ふっと笑った。
「貴方は菓子より、ネイルの方がお好みでしょう?」
「分かります?」
「何となく」
「さすが曉さん♡」
シュンヤは楽しげに見本帳を覗き込む。
「折角ですし、お揃いにしましょうか」
「お揃いも嬉しいけど……ん~」
少し考えてから、悪戯っぽく目を細める。
「曉さんの『わんちゃん』が怖いかも? な~んて」
「……ああ」
一拍遅れて、曉も理解した。
「確かに。留守番している犬には妬かれそうだ」
「でしょー?」
完全なお揃いも捨てがたい。
だが、それで妙な唸り声でも聞こえてきたら困る。
「それなら、互いを模した色やデザインにしますかね」
「えっ、概念ネイル!?」
シュンヤの顔がぱっと明るくなる。
「いいですね! 推されてる~って感じがして嬉しい♡」
「そういうものですか?」
「そういうものです♪」
即答。
✦
シュンヤが選んだのは黒地のベースカラー。
ただの漆黒では少し強すぎる。何本かには、煙を薄く溶かしたようなスモーキーグレーを入れることにした。
「マットか艶ありか、迷うなぁ」
「両方使うこともできますよ」
「ほんと? じゃあ、それで♡」
艶のある黒は、光を受けると硝子のようにつるりと輝く。
一方、マットな黒はベルベットのように静かに光を吸い込んだ。
そこへ一本だけ、銀色の細い十字架を。別の一本には、小さな黒いストーンを一粒。
「あと、灰色のところにちょっとだけ銀を入れたいです」
「ラメにしますか?」
「うん。でも近くで見ないと分からないくらいで」
淡い灰色の奥にごく細かな銀粉が沈む。指を傾けた時だけ、ひそやかに光が浮かんだ。
派手ではない。
けれどただ暗いだけでもない。
静かで落ち着いていて、何を考えているかすべては見せない。
それでも、近づいてよく見れば、――思っていたよりずっと柔らかな光がある。
「……うん」
シュンヤは満足そうに頷いた。
「曉さん、どう思います?」
「俺がこんなにお洒落かは気になりますね」
「僕から見た曉さんなんだから、いいんです♡」
さらりと言い切る。
その言葉に、曉は僅かに目を細めた。
「では、俺はシュンヤを。青色の……冬の星空を模したデザインで。あとはお洒落に可愛くしてくださればと」
こちらは迷いが少なかった。
そうですね、とネイリストが幾つか空の色を出したが、選ばれたのは澄んだ深い青色。
夏空の明るさとは違う、空気の冷えた冬の夜。遠くまで見渡せるような透明感のある色だった。
根元には濃い青。
爪先へ向かうほど少しずつ薄くし、夜空に淡い光が滲むようなグラデーションを作る。
そこへ銀のラメを細く散らせば、小さな星々が生まれた。
一本には星形のストーン。
もう一本には、青白く光る小粒のビジュー。
「かわいい~~!」
シュンヤが思わず身を乗り出す。
「これ、僕っぽい?」
「ええ」
曉はさらりと答える。
「貴方は、やはり光っている方が似合いますね」
一瞬、シュンヤがぱちりと目を瞬く。
「……そういうこと言われると、嬉しいなぁ」
いつものきらきらした笑顔。
けれどそこにほんの少しだけ、素直な喜びが混じった。
デザインが決まれば、いよいよ施術の開始だ。
シュンヤは白い指をスタッフへ預けた。
「お客様、指が綺麗ですね。普段からケアされてます?」
「えっ、僕の指、綺麗ですか?」
途端に顔が華やぐ。
「ほぼセルフケアだから、プロに褒められるの嬉しいな♡」
「かなり丁寧にされていますよ」
「ほんと? やったぁ」
爪の形を整えられながら、シュンヤはご機嫌で笑う。
指先は意外と見られる。ステージでも、配信でも。マイクを持つ時も、手を振る時も、誰かへハートを作る時も。
「あ、良かったら配信も見てください♡」
「宣伝まで自然ですね」
「だって、いつどこに未来のファンがいるか分からないでしょう?」
隣で曉が小さく笑った。
やがてシュンヤの爪へ黒が落ちていく。
艶やかな漆黒。
柔らかな灰。
光を吸い込むマットブラック。
銀の十字架が一本だけ鋭く浮かび、控えめなストーンが静かに光る。
「わ……」
シュンヤが指を少し傾けた。
「これ、思ったより好きかも」
「似合っていますよ」
「ほんと?」
「ええ。時折、黒も取り入れてみては?」
「確かに黒系もいいな~」
一方、曉の指先には青が重ねられていく。
濃紺の奥へ、細かな銀が一粒ずつ散る。
光を受ければ青は群青へ、群青は僅かに紫へと色を変え、爪の小さな面積の中に深い夜が生まれた。
最後に透明な艶を重ねれば、まるで硝子の向こうに星空を閉じ込めたようだ。
「プロにして頂くと、やはり違いますね」
曉は指先をゆっくり傾ける。
銀の星屑が光を拾い、小さく瞬いた。
「見ているだけでワクワクとするものだ」
「曉さんも爽やか&可愛くていいですね!」
シュンヤは自分の手と曉の手を見比べる。
片方は黒と灰。
片方は青と銀。
まったく違う色なのに、並べると不思議とひとつの景色に見えた。
静かな夜。その奥で煌めく、一番星。
「やっぱり概念ネイル、いいですね♡」
「自分で選ぶものとは、少し違ったものになりますね」
「それがいいんですよ。相手から見た自分って、こうなんだ~って分かるから」
シュンヤは嬉しそうに黒い爪を眺める。
「推されてるって感じするでしょ?」
「少し分かった気がします」
曉も、青い星空を宿した自分の手をもう一度見た。
やがてシュンヤがぱっと顔を上げる。
「じゃあ……はい、手を出して?」
「写真ですか?」
「もちろん! セルフィー撮りましょ♡」
スマートフォンを構え、二人の手をカメラの前へ。
「曉さん、もうちょっとこっち。ネイルが見えるようにして――そうそう」
「……こうですか?」
「完璧!」
黒と灰。
青と銀。
互いを思って選んだ色が、画面の中で並ぶ。
シュンヤは慣れた笑顔を作り。
曉はその隣で、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
ぱしゃり。
「いい感じ! 早速SNSにアップしよ♪」
「仕事が早いですね」
「アイドルですから♡」
慣れた手つきで写真を整え、投稿文を打ち込んでいく。
曉も送られてきた写真を眺め、ふと笑った。
「留守番しているあの子にも、あとで送ってあげましょうね」
「えっ。それ絶対、機嫌悪くなるやつじゃないです?」
「でしょうね」
「しかも曉さん、僕の概念ネイルしてるし」
「ええ」
柔らかく笑ったまま頷く。
「あははっ。曉さん、結構意地悪だなぁ」
二人の笑い声の間で、爪先の星がきらりと光った。
真夏の日差しから逃げ込むように店内へ入った瞬間、緇・カナトは気持ちよさそうに目を細めた。
「わぁ、天国みたいに涼しいところ」
冷房の効いた室内には、淡い花の香りと、磨かれた硝子のような清潔な匂いが漂っている。壁際には色とりどりのネイルカラーが並び、テーブルには季節限定の見本帳。海や花火、果物を模したものまで、小さな爪先のためだけに夏の景色がぎゅっと詰め込まれていた。
「戦力強化で爪を磨くンだってねぇ。時雨くんって、ネイルサロンとか行った事ある?」
「ネイルですか」
野分・時雨は、いかにも未知の技術を前にしたような顔で見本帳を覗き込む。
「女のひとって嬉しいもん?」
「どうだろ。けど、ご主人サンにお勧めするなら実地体験も重要だよね~」
「それはたしかに」
時雨は妙に深刻な顔で頷いた。
「いつ何時、ご主人が『ワ~! お爪綺麗に彩るの素敵だねぇ』って言い出すか分からないですもんね」
「うーんひょっとして思ったよりヤル気?」
「『肩疲れちゃったかも!』って言われるかもだし」
「やっぱすっごいヤル気じゃん」
「万全を期すために。いざ、じょしぢから!」
目的が研修めいてきた。
少し離れた席では、件のリンゼイ・ガーランドも同じように見本帳へ難しい顔を向けている。今のところ危険な様子はないし、ならば彼らも心置きなく戦力――もとい、女子力強化に勤しめばいい。
カナトはぱらぱらと見本帳を捲り、海をテーマにした頁で目を止めた。
「夏らしい海色のネイルかー。キラキラしてるね」
透明な青の中に白い波を描いたもの。砕いたシェルを閉じ込めたもの。水面のように光が揺れるマグネットネイル。
どれも涼しげで綺麗だが、カナトの灰色の瞳がひときわ楽しげに輝いたのは、少し変わった見本を見つけた時だった。
「あ。時雨くん、これ見てよ」
「……ウミウシ?」
「十色ウミウシちゃんセット~~」
名前だけ聞けば、なかなか攻めたデザインに思える。
しかし見本帳に並んでいたのは、思いのほか可愛らしいネイルだった。
白をベースに空色の縁取りをしたものには、青銀の細かなラメが泡のように散り、乳白色の中を小さな水滴が漂っているように見える。
鮮やかなコバルトブルーのものは、黒い細線と黄色の小粒なストーンをアクセントにしたポップな配色。別のチップには藤色と橙、淡い桃色が丸く重なり、海中の小さなキャンディを並べたような愛嬌があった。
生き物そのものを写実的に描くのではなく、特徴的な色や模様だけを可愛らしく拾っているらしい。
「……普通に可愛いですね」
「でしょ~? 名前から想像するよりずっとお洒落じゃん」
カナトは嬉しそうに二枚のチップを指差す。
「特に青系のミゾレとアオウミウシは、夏らしいサマー色してるじゃないの」
「どの色のこと?」
「これと、これ」
一方は透ける乳白色に淡い青の縁取り。
もう一方は鮮やかな海青に、黒と黄色をちょんちょんと効かせたもの。
「黄色い雷獣みたいなウデフリツノ~ちゃんも可愛いよね」
「いいですね。ウミウシみたいなネイルってなに……って思いましたけど」
「うん」
「これは確かに、ありです」
時雨は先ほどまでより少しだけ真剣に見本帳を覗き込んだ。
「じゃあ、ぼくはこれにしてみます」
「青い方?」
「分からないので、カナトくんのお勧めで」
決めれば切り替えは早い。
時雨は施術台へ手を置いた。
そして次の瞬間から、明らかに客としての距離ではない近さでスタッフの手元を見始めた。
「最初に形を整えるんですね」
「はい。長さを揃えて、表面も軽く整えていきます」
「その道具、どのくらい寝かせるんです?」
「時雨くん近い近い」
カナトが笑う。
だが時雨は気にしない。
爪を削る動きも、甘皮を処理する手順も、ベースを塗る筆の運びも、逃すまいとばかりに視線で追っている。
「ベースは薄く一回?」
「基本はそうですね」
完全に覚える気だった。
透明なベースの上へ、海を思わせる青が薄く重ねられる。
「一度で濃くしないんですね」
時雨はさらに顔を寄せた。
細い筆で黒の曲線が描かれる。
黄色の小さな点が、海の中へ光を落とすように置かれていく。
最後に青銀のラメをほんの少し散らすと、鮮やかな配色は不思議と派手になりすぎず、むしろ水の中で揺れる生き物のような瑞々しさを帯びた。
「そこ、ラメは筆で置いてるんです?」
「はい。流れが出るように少しずつ」
「全部均等じゃ駄目なんですね」
「均等にすると平面的になりやすいので」
「なるほど……」
じー。
今度はトップコートの塗り方まで凝視している。
「牛鬼くん、瞬きしてる?」
軽口にも、目はほとんど逸れない。
やがて完成した指先を渡されて、時雨はようやく少し身体を起こした。
指を傾ける。
コバルトブルーは光の下で少し透け、黒いラインは意匠としてきりりと映える。黄色の粒は小さなキャンディのようで、青銀のラメが水泡めいて揺らめいた。
「思ったよりずっと可愛いですね」
「ウミウシちゃん、侮れないねえ」
「名前の印象で損してる気がします」
「それはちょっとあるかも」
カナトは満足そうに笑う。
「そこそこ似合ってんじゃない?感想は?」
時雨はまた爪を近くで眺めている。
光の入り方。色の重なり。ラメの位置。どうやら完成品まで教材らしい。
「次、カナトくんもやるでしょう」
「オレ?」
「折角来たんですから。お勧めネイルでも選んであげますよ」
「えー。別にじょしぢからに興味ないんだけどな~……」
ぼんやりとした返事をするカナトを無視して、時雨は今度は花の見本を開いた。
「じゃあわんちゃん、お花やってもらいなよ」
「わんちゃん」
「夏っぽい花とか。ドライフラワー入れるのもありますよ」
小さな押し花を透明なジェルの中へ閉じ込めたサンプルを指差す。
「ラベンダーとか合いそう」
「オレに?」
「なんとなくですけど」
「じゃあ……1、2枚だけなら」
「よっしゃ。あともう少し見て修行できる」
「そっちかよ」
施術前のカウンセリングも時雨が全面的に参加し、カナトは苦笑いしながらそれを眺めていた。
選ばれたのはくすみがかった淡い紫。
爪全体を塗り潰さず、透明なベースへ薄紫を霞のように滲ませる。その上に細いラベンダーの押し花を一、二輪。白い小花と銀箔をほんの少し添えれば、カナトの指先は夏の夕暮れに風へ揺れる花畑のような、涼やかな指先になった。
今度はカナトの施術だというのに、時雨の観察は一切終わらない。
花を置く前にジェル塗るんですか?
量は?
厚くすると浮く?
ガン見である。
「時雨くん、オレより楽しんでない?」
「勉強してるんです」
「それを楽しんでるって言うンじゃないかなぁ」
カナトはくつくつ笑いながら、自分の指先が飾られていく様子を眺めた。
透明な層の中へ薄紫の花が閉じ込められていく。
一本に少し深い紫を置き、銀のラメを散らせば、昼の花畑にほんの少し宵の気配が混じって。
「すごー。ここだけ景色がじょしだ」
「やっぱあと8本もやりません?」
「残念。見る修行はこれで終了でーす」
✦
完成した二人の手を並べる。
時雨の指には、青い海の中を泳ぐようなポップで瑞々しいウミウシカラー。
カナトの指には、透明な紫の中に咲くラベンダー。
並べてみれば、どちらも透明感のある夏色で、不思議とよく馴染んだ。
「手だけ写真撮っときます?」
時雨は自分の爪をもう一度間近で確認してから、次の案内を見る。
「次はマッサージでしたっけ」
「そうだねぇ」
「全部教えてもらってきます」
即答だった。
「押す場所とか、力加減とか。肩も手も、できれば全部」
「気分が完全に研修だよね」
「じょしちがらを物にします」
やる気だけは誰よりも高い。
その横でカナトは、薄紫の花を宿した指をひらひら振る。
「オレは実地体験するのは一個くらいでいいかなぁ」
「一緒にやりましょうよ、首肩腰足全身コース」
「それ何分掛かるの?」
カナトの問いに、時雨は案内表へ視線を落としたまま答えなかった。
どうやら今日いちばんじょしぢから――ならぬ耐久力を試されるのは、カナトの方らしい。
「女子力アップだって。どうする、ひーちゃん?」
篭宮・咲或はずらりと並んだネイルサンプルを眺め、琥珀色の瞳を楽しげに細めた。
「ただでさえ揃って美人なのに、その上女子力まで上がったら、そこら辺の女子よりモテちゃうかもよ」
「えー。これはもうやるしか無くない?」
雨夜・氷月も迷う素振りすら見せずに笑う。
長い銀髪が肩からさらりと流れ、それだけでも随分と人目を惹く男だ。
「そこらの女子よりモテちゃう覚悟でさ。やっぱ美しさは磨いてこそだと思うんだよね」
「美しいって……罪だよねぇ」
「ばっちり罪を重ねてこっ」
今回の目的が元『封印指定人間災厄』の監視であることなど、聞いていると忘れそうになる会話だった。
とはいえ、件のリンゼイ・ガーランドは少し離れた席でスタッフ相手に真剣な顔をしている。何やら見本帳と睨み合っているだけで、危険な気配は今のところない。
――ならばこちらも、女子力向上という名の任務へ励むとしよう。これはサボりではない、れっきとした監視任務である。
席へ案内されると、目の前には季節限定のデザインがずらりと並べられた。
青い海に白い波を描いたもの、果実を思わせる瑞々しい赤や橙、透明な爪先へ金魚や貝殻を閉じ込めたもの。夏祭りを思わせる朝顔や花火、夜空に星を散らしたものまで、その小さな見本帳にはひと夏分の景色が詰め込まれている。
「どうしようかなぁ」
咲或は細い指で頁を捲りながら、のんびりと声を零した。
「派手にやって、同僚たちに見てみて~ってやるのも面白そう。どういう反応が返ってくるか、すごい気になるのがちらほら」
「それは俺も見たいなぁ」
「でしょ? でも、あえてシンプルにいくのもそれはそれでありなんだよねぇ」
しばし迷った末、彼の指がひとつの見本の上で止まった。
「最低限、夏っぽいカラーは入れたいからー……この花火のヤツ、おねがーい」
少しの思案のあと咲或が選んだのは、夏の宵をそのまま爪先へ閉じ込めたようなデザインだった。
ベースには透き通る群青と、暮れかけの空を思わせる淡い紫。
すべてを同じ色にはせず、一本ごとに少しずつ色の濃淡を変えていく。
親指には夜空へ大きく開いた金色の花火。人差し指には薄青の中へ白銀の細かな光を散らし、中指には夕焼けの名残のような淡い橙をほんの一筋だけ忍ばせる。
そして薬指は、少し華やかに。
濃紺の夜へ赤、青、金の細い線を幾重にも重ね、爪いっぱいに大輪の花を咲かせていく。中心には小さなストーンを一粒。光を受けるたび、今まさに弾けた火花のようにきらりと瞬いた。
「金色、少し多めでも似合いそうですね」
「ほんと? じゃあ増やしちゃおっか」
スタッフの提案に笑って頷けば、金髪の色とも呼応するように、爪先へ小さな金の光が増えていく。
花火は華やかで、賑やかで、それでいて一瞬しか咲かない。
けれど咲或の指先へ乗せれば、その儚ささえ何処か戯れるような色香へ変わる。色白の手に夜色が映え、柔らかく笑う彼が指を傾けるたび、金の火花がちらちらと夏の灯りを返した。
「みてみてー、ひーちゃん」
途中だというのに、既に随分と楽しそうだ。
「咲或ちゃん、似合いすぎじゃない?」
「自分で言うんだ?」
「だって似合ってるもの」
当然のように返され、氷月が愉快そうに笑う。
「じゃあ俺も負けてらんないねー」
今度は氷月が見本帳を引き寄せた。
「うーん、どんな柄にしよっかな。花を咲かせても良いしー、でも夜っぽいのも捨て難いしー」
「両方やれば?」
「それだ」
即決だった。
「じゃあ全体的に星月と夜なイメージで。薬指に月下美人咲かせて」
差し出した指を眺めながら、氷月はスタッフへ楽しげに笑いかける。
「絶対綺麗だと思うんだよねー。そう思わない? オネーサン」
「はい、とてもお似合いになると思います」
「ほらね」
満足そうに笑う横顔は、本人の言葉どおり、夜の意匠がよく似合う。
氷月のネイルは、咲或の華やかな夏夜とは違う、静かで深い夜を基調に整えられていった。
親指には黒に近い紺。その上から青紫のマグネットを重ねると、爪の中央へ光が細く集まり、まるで真夜中の空に天の川が流れているように見える。人差し指には透明感を残した夜色を塗り、銀の細筆で小さな三日月をひとつ。その周りには星屑のようなラメが控えめに散った。
中指は一転して月光のような乳白色。真珠めいた柔らかな艶の中央に、小さな透明のストーンを置く。
「わ、これ好きかも」
氷月が手を傾ければ、石は青白く光った。
そして薬指には月下美人。
深い群青の上へ、白い花弁が一枚ずつ丁寧に描き重ねられていく。薄く透ける白を幾層にも重ね、中心には淡い金。花の周りへ細かな銀を散らせば、それは夜露を纏い、月の光だけを浴びて咲いた花のようだった。
「綺麗だねぇ」
隣から覗き込んだ咲或が、素直に呟く。
「でしょ?」
自分で描いたわけでもないのに、氷月は何故か得意げだ。
「やっぱ俺って儚い夜が似合うと思うんだよね」
「ひーちゃん、自分で儚いって言うんだ」
「似合うものは似合うんだから仕方なくない?」
夜にだけ咲き、朝には萎れる月下美人。
そんな花の性質など、氷月なら笑って面白がるだけかもしれない。けれど月光めいた白い花を宿した指先は、彼の銀髪とよく馴染み、冗談めいた言葉以上に美しく見えた。
✦
やがて二人分の施術が終わる。
「うわー、夏の咲或ちゃんめっちゃ似合うー!」
氷月が咲或の手を覗き込む。
夜空に咲く大輪の花火。群青、紫、金、赤。透明なトップコートの下で色は硝子細工のような艶を帯び、金髪の傍へ翳せば、爪先の火花まで一緒に煌めいて見えた。
「でしょ? ていうかもう俺たちが美しすぎて、美の女神が嫉妬しちゃうかも」
「もう気のすむまで嫉妬させとこうよ。俺のも見て見て。綺麗じゃない?」
氷月も負けじと手を並べる。
こちらには三日月と星、乳白の月光、そして薬指いっぱいに咲いた月下美人。濃い夜色の中で銀だけが静かに煌めき、咲或の指先とはまた違う華やかさを宿している。
「うんうん。ひーちゃんも最高に似合ってる」
「更に罪深くなっちゃったカンジ?」
「そうかもねぇ」
誰も否定しないので、罪は順調に重なっていく。
咲或は満足そうに自分の爪を眺めていたが、ふと思いついたようにスマートフォンを取り出した。
「一緒に写真撮ろ」
「写真! いいね! 撮ろ撮ろ」
二人の顔が同時に明るくなる。
「ネイル見えるように、ハートポーズしよっか」
「いいねぇ」
片手ずつを寄せ、親指と人差し指で半分ずつのハートを作る。
片側には夏の花火。
片側には星月と夜の花。
金と銀、群青と紫。違う景色を選んだ二人の指先が、ひとつの小さなハートの輪郭で繋がった。
「ひーちゃん、もうちょっと寄って」
「咲或ちゃんこそー」
金髪と銀髪が近づき、整った二つの顔が画面へ収まる。
ぱしゃり。
「いいじゃん。女子力アップ~って知り合いに送っていい?」
「勿論! ついでに俺にも送ってー。色んなヒトに見せたーい!」
もう一枚、今度は爪先だけを主役に撮る。
咲或は写真を確認して満足そうに頷いた後、ふと施術を担当していたスタッフへ顔を向けた。
「おねーさんも最高に可愛いの、一緒に撮ってもらお」
「私もですか?」
「だってこんな綺麗にしてくれたんだもん」
「そうそう。記念記念」
氷月も楽しそうに誘えば、スタッフは少し困ったように笑いながらも、最後には二人の間へ入った。
「写真、あとで送るねぇ」
「ありがとうございます」
咲或が花火の咲いた指をひらひら振り、氷月も夜を纏った手を灯りへ翳す。
ほんの小さな爪の上でも、夏の夜はこんなに賑やかだ。
大輪の花火も、月明かりも、夜にだけ咲く花も、数え切れない星々も。
好きな景色を好きなだけ閉じ込めて、指先ひとつで連れて歩ける。
「ね、ひーちゃん。これ、女子力上がったと思う?」
「そりゃ上がったでしょ」
氷月は迷いなく笑った。
「だって俺たち、来た時より綺麗じゃん」
「なるほど。説得力あるねぇ」
二人で顔を見合わせ、また笑う。
監視対象は今のところ異常なし。
そしてこちらは、花火と月夜を十本の指先へ宿して。
どうやら順調に、罪深いほどの女子力を獲得しているらしかった。
色とりどりのネイルチップが並ぶテーブルを前に、憂・サディストは早くも帰りたそうな顔をしていた。
「おい、リンゼイの監視が本題だろ」
少し離れた席には、件のリンゼイ・ガーランド。
今のところ怪しい動きはなく、やたら真剣な顔でネイリストと相談をしているだけだ。
「ちゃんと対象も見えてますよ、先輩! 折角なんだから、俺たちも戦闘力高めましょ~」
「……戦闘力じゃなくて女子力とか言ってたぞ」
「同じようなもんじゃないですか?」
その横で曇天・ぱぅるは上機嫌で見本帳を捲っている。
淡いピンク、透き通るブルー、繊細な押し花。真珠めいたパールや金銀の箔に、小さなハートや星のパーツまで。どれを選ぼうかと目を輝かせる後輩とは対照的に、サディストの黒い瞳は並べられた装飾品へ胡乱げに向けられていた。
「今時、男もネイルくらい普通ですもんね!」
「悪いけど俺は、男のネイルが普通の界隈にはいないんだよね……」
「あ! これかわいい~! すみませーん、あっちのサンプル帳も取ってもらえますか?」
ぱぅるは聞いていない。
「俺、先輩に似合いそうなネイルパーツもいっぱい持ってきちゃったんですよ」
「持ってきた?」
嫌な予感がして振り向けば、ころんとテーブルへ小箱が置かれた。
リボン。薔薇。小さな宝石。蝶。十字架。明らかに今日この日のために準備したらしい。
「パーツ? これを爪に付けるの?」
「そうです。ねね、先輩。お揃いでリボンのパーツ付けましょうよ」
「流石に仕事に支障が出る」
「ダメですか……?」
ぱぅるの桃色の瞳が、これでもかというほど悲しげに揺れた。
「…………」
あからさまである。
あからさまだが。
「……今回だけだよ」
「やったぁ!」
歓声が上がる。
サディストは深く息を吐き、ネイリストへ念を押した。
「パーツはともかく、俺はシンプルにしてください。本当に。仕事で手を使うから」
「かしこまりました。でしたら、色味を抑えてアクセントを一本だけにしましょうか」
「それで」
選ばれたのは、黒を基調とした落ち着いたデザインだった。
全てを真っ黒に塗り潰すのではなく、爪本来の色が僅かに透けるシアーブラック。薄い墨を水へ溶かしたような透明感があり、光の下では灰色にも見える。
何本かは艶を抑えた薄墨色にして、爪先へだけ細い黒のラインを引く。
それだけなら随分と端正で、仕事の邪魔にもならなさそうだ。
問題は薬指だ。
「ここにリボン付けましょ♡」
「小さいやつだからな」
「分かってますって!」
黒い細線で小さな蝶々結びが描かれ、その中央へ銀の極小パーツがひとつだけ置かれる。
甘さを抑えた黒一色のリボン。
可愛いというより、まるで何かを結び留めているような意匠。
「……これなら、まあ」
サディストは仕上がりを見つめ、僅かに眉を緩める。
「先輩、めちゃくちゃ似合ってるじゃないですか!」
「声がでかい」
「あは、かーわいい!」
そこでサディストは露骨に嫌そうな顔をした。
「可愛いのはお前だけで十分だよ」
「え!」
ぱぅるの顔が一瞬で輝いた。
「今、俺のこと可愛いって言いました?」
「言ってない」
「言いましたよね!? えへ、もっかい言ってください♡」
「断る」
そっぽを向いた先輩の横で、ぱぅるはすこぶる上機嫌だった。
それでも施術中のサディストは、どうにも落ち着かない。
手を預けたまま動かせないのが気になる。細い筆が爪の上を滑るたび、無意識に指先へ力が入りそうになる。
「力抜いて大丈夫ですよ」
「……こういう時間、慣れないんだよね」
じっと何かをされる側に回るのが苦手なのかもしれない。
対して、隣のぱぅるは最初から最後まで楽しそうだった。
「俺はトレンドのレースネイルにしたいです!」
選んだのは、透けるような乳白色と淡いピンク。
白い肌に馴染む薄桃色をベースに、爪先へ細いレース模様を描いていく。
花弁を思わせる半円を連ね、その隙間へ小さな点を置き、まるで本物のレースを一片ずつ切り取って貼り付けたような繊細さだ。
人差し指には透明感のある白。そこへ銀糸のようなラインを細く走らせる。
薬指には少しだけ華やかに、透き通った桃色のストーンと、小さなリボン。
「涼しげで可愛くて天才~」
ぱぅるは作業中からすでに満足げだった。
「このレース、全部手描きなんです?」
「はい。細筆で少しずつ」
「すごーい! ここの花っぽいところ好きです」
ネイリストともすぐに打ち解け、あれが可愛い、こっちも好きと楽しげに話す。その合間にも、ちらちらと隣のサディストの手元を覗き込んでは笑っていた。
「先輩のも出来てきた!」
「見るなよ」
「なんでですか。あは、やっぱ可愛い」
「……うるさいな」
ぱぅるの方も完成が近づいていく。
トップを重ねると、乳白色の爪は磨り硝子へ砂糖を一匙溶かしたような艶を纏った。
白いレースは柔らかく浮かび、桃色のストーンは光を受けるたび、小さな飴玉のようにきらきらと輝く。
甘く、軽やかで、愛らしい。けれど過剰な飾りつけではなく、細かな模様そのものを楽しむデザインは、ぱぅるに妙に馴染んでいた。
「先輩もお洒落して、いーっぱい可愛くしてみたら、きっと人生もっと楽しいですよ」
「十分間に合ってるよ」
「えー」
口ではそう返しながら、サディストは完成したぱぅるの指を一度だけ見た。
綺麗に整えられた爪。
白いレース。
小さなリボン。
この後輩へ背負わせたものは、決して少なくない。
なら、このくらいの我が儘を聞く程度は。
「……満足した?」
「はい!」
その笑顔を見れば、それでいいと思った。
✦
ネイルが終われば、次は肩のマッサージだ。
「これはちょっと有難いな……」
サディストは椅子へ深く腰掛ける。
日頃からストレスの多い職場である。肩へ指が入った瞬間、思った以上に凝っていたらしく、僅かに息が漏れた。
「先輩、凝ってます?」
「お前も人のこと言えないだろ」
「俺も肩お願いしまーす」
ぱぅるも隣へ腰掛け、素直に肩を預ける。
白いレースを纏った指先は膝の上で落ち着きなく揺れ、光を拾うたび小さなストーンがきらきらと瞬いた。
一方のサディストは、最初こそ背筋を伸ばしていたものの、首筋から肩へゆっくり圧をかけられるうち、次第に身体の力が抜けていく。
「……あー。そこ、結構くるかも」
「先輩、思ったよりお疲れですねえ」
「日頃の苦労が色々とね……」
二人並んでほぐされながら、サディストはふと思い出したように尋ねる。
「ぱぅるは……研究、進んでる?」
「もちろん全て順調です!」
返事は明るい。
「この前も被験体が逃げようとしたから、ちゃんと理解らせました!」
「被験体が逃げ……」
サディストは目を閉じたまま、少しだけ眉間に皺を寄せた。
「俺が研究室にいた頃じゃ考えられないけど」
「ふふ。やっぱ暴力は全てを解決しますね~」
「そこは胸張って言うところじゃないよ」
呆れたような声。
けれど、その響きはどこか柔らかい。
ぱぅるが変わらず研究を続けていること。そのやり方に眉を顰めることはあっても、こうして明るく話せる場所にいること自体には、少なからず安堵しているのだろう。
「まあ……お前がお前らしく研究を続けられてるなら、それでいい」
ぱぅるは一瞬だけ黙った。
それから、いつもの甘い笑顔を浮かべる。
「はい、先輩!」
ちょうどその頃には、張っていた肩も随分と軽くなっていた。
サディストは一度ゆっくり首を回し息を吐く。
視界の端では、ぱぅるがさっそく完成した爪を光へ翳し、白いレースと小さなリボンを満足そうに眺めていた。
肩の凝りは少し軽くなり。指先には、黒いリボンと白いレース。
果たして女子力がどれほど向上したのかは分からない。
けれど隣で嬉しそうに自分の爪を眺めている後輩を見れば、サディストは、今日くらいはこれでよかったのだと思った。
「リンゼイさんだー! わあい!」
明るい声が涼しい店内へ弾ける。
色とりどりのネイルサンプルを前に難しい顔をしていたリンゼイ・ガーランドが、聞き覚えのある声に振り返った。
そこには満面の笑みを浮かべる斎川・維月と、その少し後ろで穏やかに手を振る不忍・ちるはがいる。
「元気してました? こないだは災難でーしたねー。ちるはさんも居ますよ!」
「こんにちは、リンゼイさん」
「お二人とも……」
リンゼイが目を瞬く。
「三人揃うの、これで三度目になりまーすね! ご一緒しましょー!」
「え、あの、今日は――」
「ネイルがあるって聞いてー! これはもう、みんなで楽しむべきですよね!」
「ぜひに、みんなで女子力高めましょう」
ちるはまで静かに援護した。
「…………はい」
押し切られた。
秋葉原ではお菓子を囲んで恋の話をし、博多では物騒な相手を退けた後で再び恋の話をした。
ならば三度目がネイルサロンでも、今更不思議ではないのかもしれない。少なくとも維月はそういう顔をしている。
「ばっちり可愛いのにしましょう!」
テーブルへ広げられた見本帳を、維月が勢いよく捲った。
透き通ったソーダブルー。砂糖菓子のような乳白色。淡い桃色に金箔を散らしたもの。押し花を閉じ込めたものや、小さな宝石を爪先へ並べたものまで、夏らしい色彩が頁いっぱいに溢れている。
「維月さんは普段ネイルします?」
「ボクは普段は指先の感覚変わるから、あんまりしませんねー。けど御洒落ならばどんと来いです!」
「私も、すぐオフできるのをデートの時にする、とか……それくらいですが」
ちるははずらりと並んだ色を前に、珍しく迷うように首を傾げた。
「お色たくさんで悩みます……」
「そんな時には伝家の宝刀!」
維月がびしっと手を上げる。
「店員さんに任せるという技がですね!」
「潔いです」
「プロですもん。絶対可愛くしてくれます!」
というわけで二人とも、大まかな希望だけを伝えて後はお任せすることになった。
ちるはには、柔らかな雰囲気に合わせた透明感のあるデザイン。
淡い乳白色を下地にして、ほんのりと霞むような薄桃色と藤色を重ねる。
水に花弁を一枚浮かべたような、控えめで優しい色合いだ。
爪先には極細のゴールドをほんの少し。
全面を煌びやかに飾るのではなく、光が当たった時にだけ気づく程度の細い線を入れる。
「わ……綺麗です」
ちるはが指先を傾けると、金色がきらりと瞬いた。
派手ではない。けれど穏やかな色の中に一本だけ光が走ると、不思議と目がそこへ吸い寄せられる。
「お似合いですよ」
「ありがとうございます。あ、それと……一本だけ」
ちるはは少し考えてから、薬指を示した。
「すぴき概念カラーにするのは如何でしょう」
「すきぴ概念カラー!?」
維月が即座に食いついた。
「それ良いですね!」
声が大きい。
ちるはは少しだけ目を伏せつつ、それでも嫌がる様子はなく、色見本の中から深みのある焦茶を選んだ。
そこへ、元の柔らかなデザインを壊さないよう、ほんの僅かに琥珀めいた光を重ねてもらう。
誰を思っているのか、そこまで口に出す必要はない。
ただ爪一本分だけ他とは違う色。
指先を見るたび、胸の奥にいる誰かをそっと思い出せるくらいで丁度いい。
「可愛いですねぇ」
「かわいいはつよいので、ばっちりです」
ちるはが満足そうに頷いた。
一方、維月の方はといえば。
「ボクは元気いっぱい可愛くお願いします!」
注文からして大雑把だった。
けれど、その言葉だけでスタッフは彼女によく似合う色を見つけていく。
ベースは明るいミルキーピンク。
そこへ透明感のある紫や青を一本ずつ差し込み、維月の華やかな髪色にも負けない、賑やかでポップな仕上がりにする。
細かなホログラムは丸や星。動かすたびに赤、青、金へと色を変え、まるで大道芸の舞台から零れ落ちた紙吹雪のように見える。
「わー! 可愛い!」
維月が手元へ顔を寄せる。
「このキラキラ良いですねー!」
「薬指だけ少し雰囲気を変えてみますか?」
「変えましょう!」
迷いがない。
「そうだ、ちるはさんの『すきぴ概念』!ボクもやります!」
「いいですね。……維月さんにとって、お兄さんって何色です?」
ちるはに問われると、維月はほんの少しだけ考え込んだ。
「お兄ちゃんだから……んー」
いつもの勢いが、一瞬だけ柔らかくなる。
それから、くすりと笑った。
「刀の銀色かなあ」
薬指だけを、透き通るようなシルバーへ。
鏡のようにぎらぎらとはさせず、曇り空から差す淡い光のような銀。
その上には細い白のラインを一本走らせるだけにする。
他の指が明るく楽しげだからこそ、その一本だけ静かな銀色がよく映えた。
「お兄さんカラー、素敵ですね」
「でしょー!」
維月の笑顔はすぐにいつもの眩しさへ戻る。
「リンゼイさんもやりましょうよ!」
「……私もですか?」
「もちろん!」
逃がすつもりはないらしい。
「もっとガンガンにアピールしなきゃですし! だってあの人絶対手強いもん!」
「誰の話を……」
「先輩の話です」
「言い切りましたね!?」
リンゼイの頬がみるみる赤くなっていく。
ちるははその様子を眺め、色見本へ目を落とした。
「……シアンとか、でしょうか」
思い浮かべたのは、以前聞いた誰かの話。
その人の瞳を連想するような、澄んだ青緑。
「一本だけなら、目立ちすぎないと思います」
「一本……」
リンゼイは悩む。
その横で維月が、にこにこと待っている。
「…………一本だけ、なら」
「やったー!」
✦
結局、三人とも薬指だけに誰かを思わせる色を宿すことになった。
ちるはには焦茶と琥珀。
維月には刀のような銀。
リンゼイには澄んだシアン。
言葉にしてしまえば、ただの色だ。
けれど、自分がその色を選んだ理由を知っているだけで、指先の小さな面積が少し特別なものになる。
「こうして並べると、なんだか面白いですね」
ちるはが三人の手を見比べる。
「みんな全然違います」
「でも可愛いは共通でーす!」
維月はぱっとスマートフォンを取り出した。
「んじゃー並んで写メりましょー! 記念撮影!」
「でしたら」
ちるはも手を上げる。
「ネイルが見えるように、福之型ポーズで」
「福之型! いいですね!」
「な、なんですか? そのポーズ……」
リンゼイはよく分からないまま巻き込まれた。
三人で指先がよく見えるように手を構える。
乳白色に淡い金。
賑やかなミルキーピンクと銀。
そしてリンゼイの選んだ色。
それぞれの薬指には、小さな特別がひとつずつ。
「いきますよー!」
維月がカメラへ満面の笑みを向ける。
「はい、プリティ!」
ぱしゃり、と。
映った画面の中で、三人分のネイルがきらきらと輝いた。
「可愛く撮れてます!」
「ふふ、本当ですね」
「……話に聞くジョシカイのようですね」
リンゼイが小さく零す。
その言葉に、ちるはと維月は顔を見合わせた。
「普通の女子会ですよ?」
「はい。今回は、少なくとも」
監視任務ではあるけれど。人間災厄だとか、能力だとか、戦いだとか。そういうものは今だけ少し横へ置いて。
好きな色を選び。
誰かを思う色を、ほんの一色だけ忍ばせて。
出来上がった爪を見せ合って笑う。
――そんな時間があってもいい。
ちるはは淡い色の指先を眺め、維月は銀の薬指をひらひらと振る。
「かわいいは、つよいですから」
「そうそう! 女子力も戦闘力もばっちり強化完了!」
「……」
ならばきっと、リンゼイの言う戦力強化も。
「そうですか」
案外、間違いではなかったのかもしれない。
「女子力を高める……!」
夕星・ツィリは、きらきらと並ぶネイルサンプルを前に、小さく拳を握った。
「自分を磨いて、自信も持てたら。もっと綺麗で素敵な女性になれそう」
「そうなのよー……! 女子力も磨いたら、自信もついていくのよ!」
隣では鴛海・ラズリも楽しげに頷いている。白銀の髪がさらりと揺れ、薄氷を思わせる瞳にも期待の光が浮かんでいた。
「うん。もっと可愛く素敵な女の子になっちゃおう!」
「女の子の力あげに、ごー!」
二人揃って意気込みは十分。
少し離れた席では今回の監視対象であるリンゼイ・ガーランドも、やはり真剣そのものの表情で見本帳を眺めている。
今のところ危険な気配は何もない。
ならばツィリたちも、心置きなく女子力向上に励めばいいのだ!
テーブルへ広げられた見本帳には、この季節に合わせた小さな夏が幾つも並んでいた。
透き通る海の青。
氷を浮かべたソーダのような水色。
夕暮れを溶かした淡い桃色。
真珠めいた乳白色。
夜空を思わせる紺青には、小さな星や月が煌めいている。
「青色だけで、こんなにたくさん……」
ツィリの青い瞳が、頁の上を忙しなく行き来した。
「青は絶対に入れたくて。でも、どんなのにしよう……?」
淡い水色のチップを手に取り、その隣の群青へ視線を移す。
「ラズリちゃんは決まった?」
「私も悩んじゃってるの。――やっぱり夏色カラーで爽やかな感じかな? でもブルー系だけでも、こんなに色々あるんだね」
二人で顔を寄せては、これも綺麗、こっちも可愛いと見本帳を何度も行き来する。
透明な青に銀箔を沈めたもの。
白い貝殻を閉じ込めたもの。
マグネットの光が水面のように揺れるもの。
どれも捨てがたくて、なかなか一つに決められない。
「……はっ!」
やがてツィリが顔を上げた。
「二人で来たことだし、テーマ合わせなんてどうですか……!」
「テーマ合わせ?」
「うん。私たちなら、共通は星とか空がいいかな……?」
その提案に、ラズリの表情がぱっと明るくなる。
「それ、素敵! 青とか星とかでも、テーマに合わせて決めていくんだね!」
「全部同じにするんじゃなくて、それぞれ好きな空にするとか」
「お揃いだけど。お揃いじゃない感じ?」
「そう!」
同じものをそのまま選ぶのではなく、ひとつのテーマを二人で分け合う。
ツィリの空。
ラズリの空。
「完成したら、みせっこしようね!」
「うん。ツィリの選ぶのも楽しみ……!」
「それじゃあ……」
「解散!」
そうして二人はそれぞれのサンプルへ向けて歩き出す。
それぞれの空を目指して。
✦
ツィリが選んだ空は、甘い星空のミルキーウェイ。
「白と、ラベンダーと……ブルーのニュアンスでお願いします」
真っ白ではなく、少し透ける柔らかな乳白色をベースにする。
そこへ淡いラベンダー。
さらに、夢の中の空を思わせる薄いブルー。
色同士の境目は作らず、柔らかな刷毛でぼかすように滲ませていく。白の中へ青が溶け、青の縁へ紫がふわりと重なると、それだけで雲の向こうに広がる星河のような景色が生まれた。
「わぁ……」
ツィリは施術の始まった指先を、じっと見つめている。
「重なっていくと、全然違って見える」
一色目だけなら淡く単純だったものが、薄い色を一層、また一層と重ねるたび奥行きを増していく。
「自分でポリッシュ塗ると、どうしてもムラが目立っちゃうんだよね」
「分かるのよ……!」
ラズリも隣からしきりに頷いた。
「ネイルチップもお手軽だけど、こうやって直接、丁寧に彩られていく爪先ってわくわくするよね」
「うん。見てるだけでも楽しい……!」
薄いブルーの上へ、ごく細かな銀ラメが散らされていく。
ラメは均一ではない。
ある場所には細く。ある場所には少し密に。
天の川が夜空を斜めに横切るように、光の粒を爪の上へ流していく。
「飾りに……これと、これもお願いします!」
仕上げは小さな星形のストーンと白銀色の貝殻。
一本には銀の細線で流れ星の軌跡を描き、その先へ小さな星を一粒。別の一本には、虹色の光を返すシェルを薄く砕いて散らす。
貝殻の欠片は、見る角度によって青にも桃色にも光った。
星空に、ほんの少し海の気配がする。
夜空から零れ落ちた星が、そのまま波間へ沈んだような。
あるいは海の底から見上げた天の川のような。
星と海の境目を曖昧にした、ツィリらしい幻想的な指先になっていく。
「きらきら星空に、流れ星と可愛い貝殻……」
完成が近づくほど、ツィリの声も弾んだ。
「すごい。自分の爪じゃないみたい……!」
白い指を少し傾けるだけで、流れ星が光を拾う。
ラベンダーの奥で銀河が瞬き、シェルの欠片が泡のように淡く輝いた。
「すっごく似合ってるよ、ツィリ」
「ほんと?」
「うん。甘くて綺麗で、星の夢みたい」
その言葉に、ツィリは嬉しそうに笑った。
今度はラズリの番だ。
「私は、こっち。アイスブルーと夜空のグラデをベースにしたいな」
ツィリより少し深い夜。
根元には、凍った水面のような透明感のあるアイスブルー。
そこから爪先へ向かうほど、少しずつ色を濃くしていく。
水色から青。青から群青。
深くなるにつれて、夜へ沈んでいく。
「こっちはもっと、夜っぽくしたいな」
「ラズリちゃんらしいね」
「ほんと?」
「うん。すっごく似合ってる」
ラズリは嬉しそうに目を細め、それから飾りを選んでいった。
「月と星屑。それから真珠と……波の花」
まず薬指には、細い銀色の三日月。
輪郭だけを繊細に描き、その傍へ粉雪ほど小さな星をいくつか散らす。月は主張しすぎず、深い青の中で静かに浮かんでいた。
中指には乳白色の小粒なパールを一つ。
青い爪の上に乗せられた真珠は、まるで夜の海から掬い上げた月の雫のよう。
「かわいい……!」
ツィリが思わず覗き込む。
「でしょ?」
ラズリも満足そうだ。
人差し指には白い波。細い筆で描いた白を爪先に沿って柔らかくぼかし、その上から細かな銀箔を重ねる。
波頭の泡は、よく見れば白い花弁にも見える。
「うん」
ラズリが楽しげに笑う。
青い海の上に咲く、真白な花。
さらに小指には細かな星屑を多めに散らし、親指には群青の奥へマグネットの光を仕込んだ。
指を動かすと光の筋がするりと滑る。まるで夜の海面に月明かりが一本の道を作っているようだった。
ラズリは何度か指を傾けると、光の移ろいを楽しんで。
「光が動いてるみたい」
最後に透明なトップが重ねられる。
その瞬間、二人の指先へ一斉に艶が宿った。
ツィリの乳白とラベンダーには、天の川を渡る流れ星。
ラズリのアイスブルーには、三日月を映した夜の海。
「わあ……!」
揃って声を上げる。
ツィリは両手を持ち上げ、指を開いたり閉じたりしてみる。
小さな星が光を追い、流れ星の銀線がきらりと瞬いた。
「自分で塗った時と、ほんとに全然違う……!」
「丁寧にしてもらうと、こんなに綺麗なんだね」
白銀の髪の傍で指を持ち上げると、その色合いは驚くほど自然に馴染んだ。
「ラズリちゃん、すごく綺麗」
「ツィリも。すっごく可愛いよ」
二人は顔を見合わせる。
「ね、並べてみよう!」
ツィリがそっと手を伸ばし、ラズリもその隣へ自分の手を添えた。
白、ラベンダー、淡い青。
アイスブルー、群青、銀。
二人分の十本を並べれば、ばらばらだった景色がひと続きになる。
ツィリの指先から流れた銀色の星が、ラズリの深い夜空へ落ちて。そのまま青い海へ沈み、真珠や波の花へ変わっていくように。
ラズリが嬉しそうに目を細めた。
「ツィリのネイルに流れた星と私の星が、ひと続きになってるみたい」
「ほんとだ……!」
最初から狙ったわけではない。
ただ二人とも好きな青を選んで。好きな星を飾って。それぞれが綺麗だと思う空を作っただけ。
けれど、並べればちゃんと繋がっている。
「合わせ、大成功だね」
「うん!」
ツィリは嬉しそうに頷き、もう一度二人の爪を見比べる。
違う夜空。違う海。それでも、同じ星の下にある。
そのことが、何だかとても嬉しかった。
「可愛い!」
ラズリはしばらく満足げに指先を眺めていたが、やがて今度はツィリの服へ視線を移した。
「……これ見てたら、一緒にお洋服も選びに行きたくなっちゃった」
「お洋服?」
「うん。ネイルに合わせた服。ツィリならいつもの白もかわいいけど、ラベンダー色もすっごく似合うんだろうな」
「じゃあラズリちゃんは……いつも色んなお花で飾ってるよね? 次はスズランなんかも似合うと思う。星の飾りと合わせて……」
「それもいいね……!」
あれもしたい。
これも似合いそう。
そうしてひとつ綺麗になると。
次に試してみたいことがまたひとつふたつと、増えていくのだった。
店内へ案内されると、神隠祇・境華は目の前に広げられた見本帳を、しばらく無言で眺めていた。
透明感のある水色。果実のような桃色。金銀のラメ。小さな花や星、真珠のようなパーツ――どれも爪先ほどの小さな面積に、ひとつの景色を作り上げている。
「お互いに似合いそうなネイルを選べるわけですね!」
隣でシンシア・ウォーカーが楽しそうに声を弾ませた。
「境華さんの爪先を彩るものですから、真剣に選びますよ」
「それは……少し緊張しますね」
境華はそう答えつつ、金の瞳をやわらかく細める。
自分の好みだけで決めるのではない。相手を見て、似合うものを考える。それは少しだけ、誰かのために布や糸を選ぶ感覚に似ていた。
境華もまた、シンシアの手元と見本帳とを交互に見比べる。
「淡い色も似合いそうですし……でも、明るい色も良いですね」
「ふふ。悩んでいます?」
「はい。せっかくですから、きちんと似合うものを選びたいので」
一方のシンシアは、候補を次々と指差していく。
「こっちも可愛い。あ、思いっきりハートも素敵ですね!」
「かなり華やかですね」
「でも、せっかくなら夏っぽいものがいいかしら……」
頁を捲る手が止まる。
「あ。これ、いいですね」
選んだのは、透明なオーロラカラーを基調としたデザインだった。
白とも水色とも紫ともつかない、見る角度によって色を変える薄い光の膜。その上へ銀色のラメを細く散らし、薬指にだけ白いプルメリアを一輪。
「境華さんには、こういうのが似合いそうです」
「私に、ですか?」
「ええ。一見するとシンプルですけど、よく見るとすごく華やかでしょう?」
シンシアの言葉に、境華はもう一度サンプルを見る。
たしかに、派手ではない。
けれど光を受けるたび、透明な層の奥から淡い虹色が浮かび上がる。
静謐。それでいて、見るたびに印象が変わる。
「……なるほど」
少し嬉しそうに、境華は頷いた。
「では、こちらでお願いします」
境華の爪へ、まず透明なベースが薄く塗られる。
その上に重ねられるのは極淡いオーロラ。
白金にも、水色にも、うす紫にも見える微細な偏光が、指を動かすたびふわりと表情を変える。
そこへ銀のラメをほんの少し、爪先から斜めに流すように散らしていく。
光の筋は細く決して主張しすぎない。
けれど、そこへ白いプルメリアが一輪描かれると、一気に夏の気配が生まれる。
花弁は真っ白ではなく、中心へ向かって少しだけ乳白色。細い線で柔らかく重ねられた五枚の花弁は、まるで月明かりの中で咲いているようだった。
「わ……」
境華が、思わず声を漏らす。
「これは凄いですね」
爪先を少し傾ける。
透明だったはずの色が青く、紫に、銀にと揺れた。
「非常に華やかなのですが……可愛らしくも思えます」
「でしょう?」
「似合うかも、と感じるのは……シンシアさんが選んで下さったからでしょうか」
その言葉に、シンシアは嬉しそうに笑う。
「それなら、選んだ甲斐がありました」
今度は境華が選ぶ番だ。
シンシアの手を見て、また見本を見る。白い肌。金の髪。柔らかく笑う顔。華やかな色が似合うのは間違いない。
けれど、ただ派手にするよりも、その明るさが自然に引き立つものの方がいい。
「淡い桃色を基調にして……」
境華はサンプルをひとつ取った。
「ここに、黄色がかった金の細いラインを入れるのはどうでしょう」
「金?」
「はい。桃色だけでも柔らかく綺麗ですけれど、明るく華やかな色もお似合いですから」
さらに小さなストーンをひとつ。
色は透明。ただし光を受けると、ほんのり金色に見えるもの。
「これなら、可愛らしさもありつつ、少しだけ華やかになるかと」
「素敵ですね! それでお願いします」
シンシアの爪には薄い桃色が重ねられていった。
桜貝の内側のような柔らかなピンク。濃く塗りつぶすのではなく、爪本来の透明感を残したまま、血色のように自然に馴染むような色合いで。
その上へ、爪先に沿って細い金のライン。
黄色みのある柔らかな金は、派手すぎず、けれど動くたび確かに光を拾う。
一本だけその金の線を少し長く伸ばし、先端に小さな透明のストーンを一粒。
まるで夕陽の光を、小さな雫にして閉じ込めたようなネイルだ。
「わあ……!」
完成していく指先を見て、シンシアの銀の瞳が輝く。
「私にしては珍しい組み合わせですけれど……」
手をひらりと傾けると、金髪の傍で爪先の細い金色がきらりと光った。
「かなり似合うのではないでしょうか!?」
「はい。私もそう思います」
「流石境華さんのチョイス」
嬉しそうに笑われて、境華も少しだけ頬を緩めた。
二人の手を並べてみれば、まったく違うデザインだ。
境華は透明なオーロラと銀。そこに白い夏の花。
シンシアは柔らかな桃色と金。そこに夕陽の雫のようなストーン。
どちらも華やかすぎず、けれど近くで見れば細かな光が幾つも隠れている。
「こうして並べると面白いですね」
「選んだ本人の好みも、少し入っているのかもしれません」
「なるほど。相手に似合うと思うものと、自分が綺麗だと思うもの、その両方が混ざっている……と」
シンシアの言葉に、境華は静かに頷いた。
「なんだか、少し気恥ずかしいですね」
誰かに選んでもらうというのは不思議だ。
自分では手に取らなかった色が思った以上に自分へ馴染む。
それは、誰かの目に映る自分を――少しだけ、そっと教えてもらうようでもあった。
✦
ネイルを十分楽しんだ後は、二人揃ってマッサージへ。
「ここからは日々の疲れを癒やす時間ですね……!」
シンシアは椅子へ深く腰掛け、いかにも楽しみにしていた様子で肩を預けた。
肩から首へ、ゆっくりと圧がかけられていく。
「わ……これは良いですね」
旅を続ける身であれば、知らず知らずのうちに疲れも溜まる。
心地よい刺激に、シンシアの表情は次第に柔らかくなっていった。
「日々の疲れが癒されますね……」
対して。
「……っ」
隣から、妙な声が聞こえた。
シンシアが目を開けると、境華が肩を押されるたび、ほんの少し身を縮めている。
「境華さん?」
「だ、大丈夫です!」
もう一度、肩の端へ指が入る。
「……っ、そこは、少しくすぐったいです」
肩も脚も、特に凝っているわけではないらしい。
それゆえ、ほぐされるというより、触れられる感覚の方が勝ってしまう。
「ふふっ……」
今度は堪えきれず、小さく笑いが漏れた。
「癒やされるより、笑いを堪える時間になりそうです……」
シンシアもつられて笑う。
「これが若さ、というものなのでしょうか」
「それは関係あるのですか?」
「少なくとも、私より肩は凝っていないみたいですよ」
また触れられて、境華の肩がぴくりと跳ねる。
「ふふ」
とうとう本人も諦めたように笑った。
シンシアはその横で、すっかり力の抜けた肩を預けながら、時折ちらりと境華の様子を見ている。自分は押されるたびに心地よさが増していくのに、境華は同じ場所へ触れられるたびに小さく身を揺らしているのだから、どうにも可笑しい。
「境華さん、脚の方も同じだったら大変そうですね」
「……言わないでください」
「では、その時は笑わないよう努力します」
「今も十分笑っていらっしゃいますよね?」
抗議する声までどこか楽しげで、二人の間にまた小さな笑いがこぼれた。
施術がひと段落すると、シンシアは肩を軽く回してから、改めて手元へ視線を落とす。
「こうして見ると、やっぱり素敵ですね」
「はい。先ほどより、少しだけ気恥ずかしさも消えてきた気がします」
「自分のものになってきた、ということでしょうか」
そんな言葉に、境華も静かに頷いた。
静かな店内。
指先には新しい色。
隣には、一緒にそれを選んだ相手。
監視任務という名目で始まった時間ではあるけれど、今のところ不穏なことは何もない。
シンシアは桃色と金の爪を眺め、境華はオーロラの中に咲く白い花を見つめる。
「境華さん」
「はい?」
「今日の女子力強化、かなり成功ではないでしょうか」
「そうですね」
境華は少し考えてから、柔らかく笑った。
「自分では選ばなかったものを、似合うと言っていただけたのが……少し嬉しいです」
誰かに選ばれた色は、ほんの少し特別に見える。
境華の爪には、角度を変えるたび淡く色を移ろわせる透明な光と、銀の煌めきの中に咲く白い夏の花。
シンシアの爪には、柔らかな桃色を縁取る金の光と、夕陽の雫を閉じ込めたような小さなストーン。
異なる色を纏った二つの手は、それでもどこか互いによく馴染んで見えた。
二人の指先には、相手の瞳に映った自分の姿が、それぞれ小さな花のように美しく咲いていた。
「じょし、ぢから?」
白水・縁珠は、聞き慣れない言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「いまはそう呼ぶのがブームなん?」
涼しく整えられた店内には、淡い花の香りと、色とりどりのネイルサンプル。
見本帳には海、花火、果物、星、透き通った氷菓子のような色まで並んでいて、縁珠はぼんやりとした顔のまま頁を捲っていく。
その途中で、少し離れた席に見覚えのある姿を見つけた。
「あ、リンゼイ。やっほー」
軽く手を上げる。視線に気づいたのか、向こうもサンプル帳から目を上げた。
「この間、一緒に浜辺でバーベキューしたやん」
「……覚えていてくださったんですね」
「そりゃね。ホルモン食べながら、きゅんな話も聞いたし」
抑揚の薄い声のまま、縁珠はこくりと頷いた。
「今日はちゃんとキャッキャウフフしに来たん?」
「キャッキャウフフ……」
聞き覚えのある言葉を反芻するリンゼイを見て、縁珠はほんの少しだけ目を細める。
「うんうん。できてそうで良かったな」
縁珠は少し考え、それからあっさり頷いた。
細かいところは気にしないらしい。
以前浜辺で会った彼女には、外へ出られるようになったならこれからいくらでも楽しいことができる、と話したことがある。その言葉どおり、こうしてネイルサロンで真剣な顔をしているのなら、それはそれで何よりだと、うんうんと頷いた。
「縁はどうしようかなー」
改めて見本帳へ視線を戻す。
今後の予定を考えると、手のネイルは少し都合が悪い。土を触ることも多いし、仕事柄指先は自由に使えた方がいい。
「フットネイルだけでー」
そう告げて、椅子へ腰を下ろした。
「ネイル詳しくないから、デザインはおすすめで……。持ってる水着が桜色と、パールのシュシュだから、その辺のカラーで」
「では、柔らかいピンクにパール感を合わせてみましょうか」
「うん。自分でネイルオフできる程度に、お手柔らかにー」
普段、園芸店で客の相談に乗る側だからだろうか。自分の希望の伝達は妙に簡潔だった。
やがて足元へ選ばれたのは桜貝の内側みたいに柔らかなピンク。
親指には少し透明感を残した桜色を重ね、その上へ微細なパールパウダーを薄く重ねる。光が当たると白く、角度を変えるとほんのり桃色に揺らめいて、春の花弁に朝露が乗ったような艶が生まれた。
他の指はさらに淡く。
乳白色を混ぜたピンクを基調にして、小さな銀粒やごく控えめなラメを爪先へ散らす。
「……きらきらしとる」
縁珠がぽつりと言う。
「もっと華やかにもできますよ」
「いや、これくらいがちょうど良いー」
親指にだけ、もう少し遊びを入れる。
小さなパールを二粒。その横に、透明なストーンをひとつ。
派手ではない。けれど水着の桜色にも、パールのシュシュにも自然に馴染みそうな、やわらかく涼しい夏色。
「ほー」
縁珠は足先を少し持ち上げて眺める。
土の色や葉の色に囲まれていることが多い自分の足が、今日は見慣れない桜色をまとっている。
「自分の足じゃないみたい」
感情の起伏は相変わらず薄い。
けれど、爪先を眺める時間だけは少し長かった。
「……ちょっとばかし、むず痒いな」
嫌というより、照れに近いのかもしれない。
その一方でリンゼイの方へ視線をやれば、彼女もまた真剣に爪を見つめている。
縁珠は少しだけ身体を傾けた。
「ねえ、リンリン」
「はい?」
「戦闘力磨くのは良いけど」
真面目な顔のまま、リンゼイの手元を見る。
「オフする時のコト、ちゃんと考えてるー?」
「オフ?」
「剥がす時。仕事とかで邪魔になったりせん?」
リンゼイが、一瞬止まる。
「……そこまでは」
「やっぱり」
縁珠は小さく息を吐いた。
「可愛いのは良いけど、後で困るのはめんどいからねー。落としやすいやつにしとき」
自分の足元を示すように、軽く爪先を揺らす。
監視任務とは言っても、ずっと警戒しているつもりはない。
ただ、放っておくと妙な方向へ全力で走りそうな相手なら、必要なところだけ声をかけておけばいい。
リンゼイが少し考え込んでいる横で、縁珠は完成した足元をもう一度見る。
桜色。小さなパール。爪先に散る、ささやかな光。
夏の陽射しの下でサンダルを履けば、きっと足元は少し浮き立って見えるだろう。
「じょしぢからって、こういうことなんかなー」
よく分からない。
縁珠は桜色の爪先を見つめたまま、ほんの少しだけ口元を緩める。
そして隣へ向けて、いつもの調子で。
「リンリンも、きばってこー」
以前、浜辺で投げた言葉を、もう一度。
今度は焼けた玉ネギではなく、桜色のネイルを足元に添えて。
睡眠寺・静時はいつもの朗らかな笑顔のままネイルサロンへ足を踏み入れた。
「じょしぢから、うちも磨きにまいりましょう」
涼しい空気にはほんのり甘い香り。壁際には色とりどりのボトルが並び、テーブルの上には小さな見本帳が幾冊も広げられている。
青、桃、白、紫、金銀――夏らしい透明色から宝石めいた深い色まで、ひとつひとつの爪先に違う景色が閉じ込められていた。
「ネイルサロンって初めてです。うっきうきいたしますねえ」
ぱらぱらと頁をめくりながら楽しげに眺めていると、少し離れた席には真剣な顔で見本を確認しているリンゼイの姿がある。
「あら、リンゼイさん」
見つけるなり、静時は遠慮なくそちらへ身を乗り出した。
「戦いに備えたお爪になさるので?」
「……備える、という意味では、そのつもりです」
「なるほどなるほど。長い爪は攻撃力が高そうですなあ」
静時は尖った形のサンプルを一本つまみ、光に翳してみる。
「この辺りなんて、引っ掻けば結構痛そうでございます。繊細なパーツは魔法の触媒になりそうですし。こちらのストーンなど、いかにも何か撃てそうで」
「そういう用途ではないと思います」
「あら。そういうのとは、ちょいと違う?」
リンゼイがこくりと頷く。
静時は腕を組み、至極真面目な顔になった。
「ふむふむ……人間災厄の先輩の見解、勉強になりますな」
「そのように納得されるのは困りますが」
「困りますか」
訂正されても楽しそうである。
それからもしばらく、これは機動力が上がりそう、こちらは幻惑に向きそう、などと勝手な戦闘性能を付与してはリンゼイへ話しかけ続けた末に、ようやく自分の席へ戻ってきた。
「では、うちのお爪もお願いいたします!」
静時には、実はもう決めてきたものがある。
「ぷるぷるの、つやつやで。お空が徐々にオレンジ色になっていくような……夏の夕方みたいなお色をお願いいたします」
そう告げると、スタッフがさっと幾つかの色を並べてくれた。
透き通った蜂蜜色。熟した杏のような橙。ほんのり赤みを含んだ珊瑚色。そして、日が沈む寸前の空に残る淡い金。
静時は色を暫く見比べた後。いちばん最後、淡い金のような、橙色のような。透き通る空を選んだ。
✦
爪にはまず硝子のように透明なベースをひと塗。
その上から、根元には淡いミルクオレンジ、中央へ進むにつれて瑞々しい杏色、爪先には夕焼けを煮詰めたような深い橙を薄く重ねる。
色と色の境はふわりとぼかされ、――まるで一日の終わりに空がゆっくり染まっていく瞬間を切り取ったようだ。
「おお……本当に夕方のお空ですなあ」
静時のオレンジ色の瞳が、爪先と同じ色にきらめく。
さらに透明なジェルを厚めに重ねていくと、表面はつるりと丸く、光を含んでぷるんと艶めいた。
艶感は飴玉のようでもあり、陽射しに透ける果肉のようでもある。
静時は嬉しそうに指を揺らすと、まだ途中なのに何度も角度を変えて眺めてしまう。
「それから、お星さまのようなキラキラも付けていただきたいです!」
はい、と笑顔のネイリストから爪先へ散らされたのは、金色と淡い銀色の細かなラメ。
満遍なく塗るのではなく、夕空に一番星が現れるように一粒ずつ間隔を空けて置いていく。
薬指には小さな星型のホログラムをひとつ。その周囲へ極小の金箔を散らせば、沈みかけた太陽の名残と、これから始まる夜の星空がひとつの爪の上で重なった。親指には、柔らかなオレンジの奥へマグネットの光を忍ばせる。
指を傾けるたび、細い金の光がすうっと横切った。
「おおお……!」
今度こそ静時は声を弾ませる。
「お空が動いておりますなあ!」
全ての指へ仕上げの艶が重ねられると、夕焼け色はいっそう瑞々しくなった。
淡い杏色から濃い橙へ。
ところどころに散る金の光は、星が灯り始めるほんの少し前の、まだ明るさを残した夏の空だ。
静時の青い髪にもよく映えて、普段から笑っている彼女の手元を、いっそう陽気に彩っている。
「可愛いですなあ。キラキラですなあ。これは良い。大変良いです」
完成した両手を目の前に掲げ、右へ、左へ。
何度見ても光る。
すっかりご機嫌になった静時は、その場でスマートフォンを取り出した。
「完成したら、お写真いっぱい撮りたかったのです!」
夕空のような爪を顔の横へ持ってきて。
「ピース!」
ぱしゃりと一枚。
今度は両手の爪をしっかり見せるように、指を広げてもう一枚。
さらに光が一番綺麗に入る角度を探して、もう一枚。
「リンゼイさんも撮ります?」
「私は……」
「戦闘意識の記録ということで」
「……その言い方をされると、必要な気がしてきますね」
どうやら女子力強化の解釈は、二人ともまだ少しばかり怪しいが。
けれど静時は、夕焼けと星を宿した指先を満足そうに眺めて笑った。
「まあ、楽しんだもの勝ちでございましょう」
戦闘力が上がったかどうかはさておき。
指先を動かすたび夏の夕空がきらめき、今日のじょしぢから修行はなかなかの出来である。
ついでに、人間災厄の先輩とのツーショもゲットだ! やったぜ!
涼やかな店内をうろちょろと見回していたラデュレ・ディアは、ふと、見覚えのある白い髪を見つけて足を止めた。
春の光をそのまま纏ったような柔らかな佇まい。
記憶の頁を一枚めくるように、ラデュレは紫の瞳を瞬かせる。
「……もしかして」
そっと近づいて、少しだけ首を傾げた。
「泉純さま、でしょうか……?」
声に振り返った花岡・泉純もまた、一瞬だけ目を丸くして。それから、春風に花が揺れるようにふわりと笑った。
「たしか、春の廃教会で見かけた――春の祝祭みたいに、あざやかな子」
「……!」
「ラーレ、ラーレ……! 泉純も、また会えてうれしい」
名前を覚えていてもらえたことが嬉しくて、ラデュレの長い兎耳がぴんと立つ。
「わたくしも、またお会い出来て嬉しいのです……!」
二度目の邂逅がネイルサロンになるとは、御伽噺にもなかなか無い展開かもしれない。
「泉純さまも、広告をご覧になられましたか?」
「うん……ネイルとか、お菓子作りとか。泉純の好きなものだから、気になって」
「わたくしは『指先から戦闘意識を高める』との文言が気になりまして」
「戦闘意識……」
「ところで、指先の戦闘意識とは……?」
二人が揃って見本帳へ視線を落とすと、そこには色とりどりのネイルチップが並んでいた。
「あっ。ネイルなのですね……!」
「考えたことなかったけど、たしかに戦闘意識が高くなりそう……かも」
本当にそうだろうか。
一瞬の疑問が頭をよぎったが、確かに綺麗になれば気分は上がる。
気分が上がれば、少しくらい強くなれるのかもしれない。
かも。
「泉純さまは、普段ネイルをなさるのですか?」
「んー……ピンクとか白に塗るのが好きだよ」
「まあ……!」
ラデュレは早速、淡い桜色や真珠色のサンプルを泉純の手元へ並べてみる。
「ピンクも白も、泉純さまにぴったりですね」
「ラーレは?」
「わたくしは手袋をつけていることが多くて。ネイルの経験はあまり、なのです」
「手袋も素敵、だね」
泉純はラデュレの手元を見て、ゆっくりと笑う。
「手を見て気分があがるってところは、ネイルとおなじかも」
「なるほど……」
なら、今日は手袋の下に仕立ててもらってもいいかもしれない。
じいとサンプル品を見つめ、これがいいあれがいいと暫く相談しあう。
「せっかくの夏ですものね。海をモチーフに、うさぎを添えていただきましょう」
最終的にラデュレが選んだのは、澄み切った海の色だった。
ネイリストに要望を伝えると、よくお似合いになると思いますと早速施術に入る。
すべてを濃い青にはせず、爪本来の透明感を残したまま、淡いアクアブルーを薄く重ねていく。そこへ乳白色をぼかして混ぜれば、白い波が寄せる浅瀬のような色合いになった。
親指には、波打ち際を思わせる青と白のマーブル。
人差し指には、透明なベースへ銀色の小さな泡。
中指には、光の筋が水面を滑るように偏光ラメを重ねていく。
「わぁ……」
ラデュレは、爪へ色が一層ずつ重なっていく様子から目を離せない。
「泉純さま。見てくださいませ。まるで、海が指先にあるようです……!」
「ほんと。すごく綺麗」
泉純も隣から身を寄せる。
「ラーレ……泉純のおすすめはね、キラキラのラメをたっぷり塗ってもらうこと……!」
「たっぷり、ですか?」
「うん。手をかざしたら……ね、ふとした時にもかわいいって見惚れちゃうんだ」
それなら、とラデュレは頷いた。
「では、きらきらのラメも取り入れてみます……!」
アドバイスに沿って、細かな銀と青のラメを海面へ光が落ちるように斜めへ散らしていく。すべて同じ密度ではなく、爪先へ行くほど少しだけ光を増やす。指を揺らせば、海の上で太陽が砕けたように無数の小さな光がきらきらと追いかけてくる。
そして薬指には、今日いちばんの遊び心。
「うさぎさんは、こちらにいたしましょうか」
透明感のある淡い青を背景に、白い兎の横顔を小さく描いてもらう。ぴんと立つ長い耳。その傍には、真珠のような白いストーンをひとつ。さらに足元へ、極小の貝殻を添えた。
海辺へ迷い込んだ白兎。
あるいは、波の向こうに何かを探している旅人。
「……可愛らしくお仕立てをいただきました……!」
完成した手を胸元まで持ち上げラデュレがそっと指を揺らすと、爪面で銀のラメが煌めく。
水色の奥で白い波が揺れる。
薬指の兎は、貝殻の傍らで海を見つめている。
「指先を揺らすと、キラキラといたします……」
「ラーレのうさぎさんネイル、とってもかわいい!」
泉純にそう言われ、ラデュレは嬉しそうに目を細めた。
「綺麗にしていただけて、よかったです……!」
今度は泉純の番だ。
「泉純も夏をイメージして……海と、桜色や白の貝殻を添えてもらいたいな」
選ばれた色は、泉純らしい淡い桜色。
ただし春の桜そのものではなく、透明な海水に一滴だけ桃色を溶かしたような、涼しく淡いピンク色だ。爪の根元はほとんど透明に。先端へ向かうほど桜色が濃くなり、その境目へ乳白色をふわりとぼかす。
親指には、白い波と桜色を溶け合わせたマーブル。
中指には、虹色の光を返す薄いシェルを砕いて散らす。
小指には、泉純の好きな白を生かして真珠色の艶を一層。
「泉純さまのお色も、とてもお可愛らしいです……!」
「ほんと?」
「はい。桜色がぴったりとお似合いです」
その言葉に、泉純の桃色の瞳が嬉しそうに柔らぐ。
「じゃあ、私もキラキラにしちゃおうかな!」
本人が勧めた通り、泉純の爪にもラメをたっぷり。
ただし銀だけではなく、薄い桃色や白金の微粒子も混ぜる。光を受けた瞬間だけ色が立ち上がり、普段は淡く透けるような仕上がりになるように。まるで春の花弁が夏の海へ落ちて、波の上で光を纏ったように。
薬指には、桜色の小さな貝殻をひとつ。
その脇に白いパールを添える。
「……かわいい」
泉純は、施術中から何度も自分の手元へ視線を落としていた。
歌を届ける時。
何かへそっと手を伸ばす時。
日常の中で何気なく視界へ入る、自分の手。
そこが綺麗に彩られているだけで、確かに少し気持ちが華やぐ。
「泉純さまのネイル、光に当てるときらきら、お花のようで……とても綺麗なのです」
ラデュレが嬉しそうに泉純の指先を眺める。
「桜色の海なのでしょうか。春と夏が一緒に訪れたような」
「ありがと。ラーレの海と、ちょっとお揃いだね」
「まあ……!」
二人で手を並べてみる。
ラデュレは、水色と白の海。
泉純は、桜色と真珠の海。
色は違うのに、どちらにも貝殻と波と、たっぷりの光がある。
透明な層の中でラメが輝き、二人分の海面が隣り合う。
「泉純さま」
「なあに?」
「こうして並べますと、別の海ですのに、どこかで繋がっているようです」
「うん。……きっと遠く離れた海でも、水はどこかで続いてるよ」
泉純の柔らかな声に、ラデュレは少しだけ目を見開いた。
遠く離れていても。
頁が途切れていても。
失くした物語がどこかにあるなら、いつか繋がることもあるのかもしれない。
そんなことを思ったのはほんの一瞬。
すぐに泉純が「見て」と手を動かせば、ラメが一斉に輝いて、ラデュレの意識も今この瞬間へ戻ってくる。
「ふふ……本当に、見惚れてしまいますね」
「でしょう?」
「はい。手袋をするのが勿体ないと思うぐらいには」
「ふふ。じゃあ、してる間だけ外して過ごすのもいいかも」
泉純はそう言って、ラデュレの指先へ視線を落とした。
「でもね、ずっと見えてなくても素敵だと思う。手袋を外した時にだけ、ちらっと可愛いのが見えるのも……ちょっと特別でしょ?」
「……特別」
「うん。自分だけ知ってる可愛い、みたいで」
ラデュレはその言葉を確かめるように、きらめく指先をもう一度眺めた。
隠していてもなくなるわけではない。
見えない時間も、その下には今日選んだ海と白兎がちゃんと残っている。
「それも……素敵ですね」
「でしょう?」
二人でもう一度顔を見合わせて笑った。
隠れていても、そこに在るものまで失われるわけではない。
そのことが、ラデュレにはほんの少しだけ嬉しかった。
✦
ネイルを存分に堪能した後、二人が興味を示したのはハンドマッサージだった。
「ハンドマッサージも気になりますね」
「泉純も、手の集中マッサージは受けたことないなあ」
並んで席へ座り、スタッフへ手を預ける。
まずは温かなクリームを手の甲から掌までゆっくりと馴染ませてもらい、それから親指の腹で掌の中央を押し込むようにほぐされていく。痛みはないのにじんわりと奥まで響くような独特の感覚に、泉純が不思議そうに目を瞬いた。
「はじめての感覚……! これが……ハンドマッサージ……!」
「こちらを押していただくと――わっ」
ラデュレも小さく肩を揺らす。
指の付け根から掌へ円を描くように圧をかけられると、思いがけず気持ちの良い場所へぴたりと指が入ったらしい。
「すごいです、泉純さま……!」
「ラーレ、どうしたの?」
「此処がツボ、なのですね。とても気持ちがいいです……!」
続いて一本ずつ指を包み込まれ、付け根から爪先へ向かってゆっくり伸ばされていく。
きゅっと軽く引かれるたびに、指の間に溜まっていた細かな強張りまでほどけていくようだ。
親指の付け根を深く押された時には、ラデュレはまた「わ」と声を漏らして、くすぐったさと心地よさの狭間で兎耳まで僅かに揺らす。
一方の泉純は、手の甲をなぞるように筋をほぐされた後、掌を開くように指をゆっくり反らされていく。さらに手首を小さく回されれば、普段は意識もしない関節がするすると動いて、思わず自分でも何度か手を握ったり開いたりしてしまう。
「手にも、知らないうちに疲れが溜まってたみたい」
「わたくしもです。手が軽くなったような気がするのです」
最後は手首から指先へ向かって、包み込むように何度か優しく撫で上げられる。施術が終わる頃には、二人の掌はすっかり温まり、指先まで血が巡ったようにぽかぽかとしていた。
「うん……泉純もちょっと軽くなった、感じ……!」
二人揃って、新しくなったような自分の手を持ち上げてみる。
握って、開いて。少し動かしてみれば、先ほどまでよりも指が素直についてくる。
その先には、綺麗に彩られた二つの海。
見た目だけではなく、手そのものまで少し軽くなったようだった。
「……ところで」
ラデュレは、思い出したように泉純へ顔を向けた。
「この後、お菓子作りやナイトプールのご予定が続くそうです」
「うん」
「よろしければ、この後もご一緒に如何でしょう?」
一度きりの再会で終えるのではなく。
せっかく巡り合ったのだから、その続きをもう少し。
泉純は一瞬だけ目を丸くしてから、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。
「ん。泉純でよければ――これからも一緒に楽しみたいな」
「……!」
泉純は、桜色の海を宿した指先をラデュレの方へ差し出す。
「夏の想い出の一頁をラーレと彩れるなら、すごくうれしいから」
その言葉に、ラデュレもそっと手を重ねる。
水色の海と、桜色の海。
銀の光。
真珠の光。
小さな貝殻と、海辺の白兎。
たった爪先ほどの場所に、今日という日の記憶がひとつ増えた。
「では、次の頁も……ご一緒に」
ラデュレが微笑む。
「いっぱい可愛くして、いっぱい楽しもうね」
「はい……!」
指先できらきらと揺れる夏の海を眺めながら、ふたりは次の頁へ向かう。
第2章 集団戦 『非実在怪異『ふわもこ』』
甘い香りに満ちた料理教室で、リンゼイ・ガーランドは再び難しい顔をしていた。
目の前には白いエプロンや泡立て器。色とりどりのトッピング。そして、ずらりと並ぶ菓子の見本。
「これも、戦力強化なのですね」
確認するように呟く。
今回の課題は菓子作りだ。
ただし、作れば何でも良いというわけではない。
この場には『ふわもこ』と呼ばれる怪異がおり、完成した菓子を気に入ってもらえれば大人しくしてくれるらしい。
つまり。
「対象を武力で制圧せず、要求を満たすことで無力化する訓練……」
リンゼイの中では、かなり立派な実戦訓練になっていた。
なお、当のふわもこは少し離れた場所で試食を待っている。
「ですが……何を作れば」
リンゼイはテーブルに並んだ見本へ視線を落とした。
今回のテーマは名前の通り「ふわふわ、もこもこ、かわいいお菓子♡あの子のハートを鷲摑み」らしい(文言は『今日から無敵♡最強ガールの女子力強化バイブル』より抜粋)。
初心者でも作りやすいものなら、カップケーキやマフィン。
ふっくら焼き上げた生地の上へ生クリームを絞り、マシュマロやカラースプレー、チョコレートを飾るだけでも十分可愛らしい。クリームを羊毛のようにもこもこと絞れば、ひつじや雲、小さな動物を模したものにもできる。
少し料理をしてみたいなら、パンケーキやワッフルもいいだろう。ふかふかに焼いて何枚も重ね、生クリームやアイス、果物を添える。粉糖を雪のように振ったり、ソースで模様を描いたりすれば、見た目も十分華やかになる。
「積層構造……」
リンゼイがパンケーキを見つめる。
もう少し本格的に挑戦するなら、シフォンケーキ、スフレ、ロールケーキなども用意されている。
きめ細かな泡を潰さないよう生地を作り、ふわりと膨らませるのが腕の見せどころだ。
そして更に上級者向けには――。
「……立体ケーキ?」
リンゼイの目が止まる。
スポンジを切り分け、クリームで形を整え、耳や尻尾、毛並みまで再現するアニマルケーキ。
あるいは、絞り袋を使って何十、何百という小さなクリームの房を重ね、全体をもこもこに仕立てるケーキ。
表面はふわふわ。切れば中から果物やムースが現れる、凝った構造にしてもいい。
さらにはメレンゲや飴細工、チョコレート細工を組み合わせて、自分だけの架空の『ふわもこ』を作ることもできるらしい。
リンゼイは真剣に見本を眺めた。
可愛い。
料理が得意なら思い切り腕を振るっても。
初心者ならスタッフに教えてもらいながら、一緒に泡立て器を握っても。
二人以上で参加するなら、ひとつの大きなお菓子を共同制作しても、それぞれ別のお菓子を作って交換してもいい。
ちらりとリンゼイが『ふわもこ』を見る。
試食役は既に、食べる気満々で待ち構えている。
完成した菓子は自分たちでも味見できるし、ふわもこにも振る舞える。
美味しいものを食べさせ、満足してもらえたなら――本日の戦闘は、それだけで終了だ。
リンゼイは改めてレシピの一覧を開いた。
「まず、何を作るべきか決めましょうか」
そして第二の女子力強化訓練は、甘い香りとともに始まる。
甘い香りの漂う料理教室で、リシェル・チェルケス(白銀の魔女・h13518)は並べられた材料を前にじっと考え込んでいた。
「ふわふわ……ふわふわ……」
今日のお題はふわもこを満足させるお菓子作り。
ならば自分も、ちゃんとふわふわしたものを作ってみたい!
いつもはマフィンを作ると少し固くなってしまうのだ。
今回は絶対に成功させると意気込んでレシピ本を見て、薄力粉の袋と、白い砂糖と、卵を順番に眺めていく。
「……今日は、ふわふわしたマフィンができるといいな」
菫色の瞳がほんの少しだけ期待に輝く。
バニラのマフィン。
淡い焼き色の表面がふっくら持ち上がって、中は柔らかく、指で割ればほわりと甘い湯気が立つようなもの。
想像しただけで、何だか少し幸せになれる。
ふと横を見れば、リンゼイもまたレシピの一覧を前に、随分と真剣な顔で悩んでいた。
どうやら何を作るかまだ決めかねているらしい。
リシェルは少し考えてから、そちらへ歩み寄った。
「リンゼイさん」
「はい?」
「もしよかったら、いっしょに作ってみませんか?」
リンゼイが目を瞬かせる。
「一緒に……ですか」
「はい。わたしも、ふわふわのマフィンを上手に作る練習をしたいのです」
それに、と心の中で付け足す。
本来のお仕事は彼女の監視なのだから、傍にいればきっと間違いない。お菓子も作れて、仕事もできる。
かなり良い案のように思えた。
「共同作業……なるほど。相互確認しながら製作する方が、失敗率も下げられそうですね」
「……そうですね?」
少しだけ意味が違う気もしたけれど、リンゼイも一緒に作ってくれるらしい。
ふたりで頷きあうと、エプロンを整えて調理台へ並んだ。
まずは卵と砂糖。
ボウルの中で卵を割れば橙色の黄身がつるりと落ちる。そこへ白い砂糖をさらさらと加えて、泡立て器で混ぜていく。
次に溶かしたバターと牛乳。
それから、バニラエッセンス。
小瓶の蓋を開けた瞬間ふわりと甘い香りが立った。
「わあ……いいにおい」
リシェルは思わず目を細める。
ほんの数滴なのに、空気が一気にお菓子らしくなる。焼き上がる前でまだ粉も入れていないのに、これから甘いものが出来上がるのだと分かる香り。
「お菓子をつくってるときの、しあわせの瞬間のひとつだわ」
「香料だけで、かなり印象が変わるんですね」
リンゼイも真面目に頷く。
「はい。魔法みたいでしょう?」
「魔法……」
その言葉に、リンゼイは少しだけ納得したような顔をした。
そして、いよいよ粉を加える。
ふるった薄力粉とベーキングパウダーが白い雪のようにボウルへ落ちる。
リシェルはいつものように、丁寧に丁寧に混ぜようとして――。
「あっ」
講師の言葉に、手を止める。
「材料を混ぜすぎると、だめなのね……」
どうやらここに今までの原因があったらしい。
粉気をなくそうとするあまり、いつも随分と長く混ぜ続けていた。
「ゆっくりしすぎだったんだわ」
リシェルは少しだけ眉を下げる。けれど、原因が分かれば嬉しい。
「手早く、手早く混ぜる……」
今度はゴムベラを使って底から生地を持ち上げるようにさっくりと返していき、白い粉が見えなくなったところで潔く止める。
「ここで止めるのが正解なんですね」
リンゼイもボウルを覗き込みながら言う。
「少し粉が残っているような」
「ダマにならない程度に……なんですって」
「……確かに、戦闘でも適切な時点で手を止める判断は重要ですね」
「じょしりょくとの意外な共通点……!」
ともあれ生地は無事に完成した。
マフィン型へ紙カップを並べ、淡いクリーム色の生地を流し込んでいく。ぽってりとした生地はカップの中へ柔らかく落ちた。
少しだけ表面を整えれば、あとはオーブンへ。
「ふわふわおいしいバニラマフィンになりますように!」
祈るように呟いて、ぱたんと扉を閉める。
✦
長い待ち時間だった。
……いや、実際にはそれほど長くない。
けれどリシェルにとっては、かなり長い。
「まだかしら」
少し待つ。
「まだね」
さらに待つ。
「少し膨らんできた!」
「本当ですね」
二人揃ってオーブンを見つめる。
やがて、平らだった生地の中央が丸く持ち上がり始めた。
「あ……!」
リシェルの瞳が輝く。
ぷくり。
小さな山が出来上がっていく。
薄いクリーム色だった表面は、少しずつ蜂蜜を溶かしたような淡い狐色に変わり、焼けたバターとバニラの甘い香りが教室いっぱいに広がり始めた。
「おー!」
嬉しくなって、リシェルはほとんどオーブンとにらめっこだ。
「今度は、固くならないといいな」
願うような声。
やがて、焼き上がりを知らせる音が鳴る。
扉を開ければ熱気とともに甘い香りがふわりと溢れた。
並んでいたのは、きれいに丸く膨らんだバニラマフィン。
「まあ!」
表面は淡い黄金色。
天辺には柔らかな割れ目ができ、その隙間から白い湯気がほんの少し立っている。
中はきめ細かく柔らかな薄黄色。指で軽く押せば、ふんわり沈んで、すぐに元へ戻った。
「ふわふわ……!」
思わず頬が綻ぶ。
「できました、リンゼイさん。ちゃんとふわふわです!」
「……ええ」
リンゼイもリシェルの笑顔に少しだけ、嬉しそうに笑った。
続いての料理教室で、ツィリとラズリは並んでエプロンの紐を結んでいた。
「普段は食べる派だから、作るのはあんまりなんだけど……」
ツィリは目の前に並んだ薄力粉や砂糖、卵を眺めながら、ちょっぴり緊張したように笑う。
「これも女子力アップのため……! 得意じゃないからって、避けてばかりはよくないもんね」
「私も作るのは好きだけど、あんまり凝ったものはまだ出来なくて」
ラズリも同じように袖口を整え、それから小さく拳を握った。
「でも、お菓子作りも女子力の基本! 頑張っちゃうぞー!なの!」
「うん。一緒に頑張ろうー!」
今回の課題はふわもこを満足させられる甘いお菓子。
料理教室のテーブルには初心者向けから上級者向けまでいろいろなレシピが並んでいるけれど、二人が選んだのは同じものだった。
「カップケーキを作ります!」
「じゃあ、私も同じのにするのよ」
「ふふ、一緒だね!」
「うん。ひとりで作るより、ツィリと一緒の方が心強いし……飾り付けも一緒にできるもんね」
「うんうん。それは楽しそう!」
「でしょ? もし途中で分からなくなっても、二人でレシピ見ればなんとかなるの!」
「じゃあ……一緒に頑張ろう!」
「うん! 二人で可愛く飾り付けちゃおう!」
意気込みだけは、すでに十分!
シンプルなカップケーキは飾り方次第でいくらでも姿を変えられる。花にしても。動物にしても。好きな色をたっぷり使ってもいい。
レシピには色んな飾りつけの例が載せられている。その自由さが、二人には何より楽しそうに思えた。
「私はプレーンと……あとココアも作りたいな」
「じゃあ私はプレーンと、好きな紅茶味!」
味も綺麗に決めたところで。
さっそく、作業開始である。
まずは材料を量るところから。
ラズリはデジタルスケールの表示をじっと見つめながら、薄力粉を少しずつボウルへ入れていく。
「あと三グラム……二グラム……あっ、多い」
「ちょっとぐらいズレても大丈夫だよ?」
「で、でも、あとちょっとだから……!!」
隣ではツィリが砂糖とココアパウダーを用意している。
「ココアも入れすぎたら苦くなるのかな?」
「たぶん……?」
「じゃあ、ちゃんとレシピ通りにしよう……!」
初心者こそレシピに忠実に! 二人とも慎重派だ。
数グラムまで器用に測ると、卵を割って、砂糖を加えて。泡立て器でまぜまぜ。
溶かしたバターと牛乳が加われば、甘くまろやかな香りが立ち始める。
ラズリの紅茶生地には、細かくした茶葉をひと匙。
「わ……いい香り」
ふわりと立ち上った香気にツィリも顔を寄せた。
「お菓子屋さんみたいな匂いがするね」
「まだ焼いてないのにこの匂い……焼いたらどうなっちゃうんだろう?」
楽しそうに笑いながら、今度は粉類を合わせていく。
ゴムベラを使って底から大きく返すように。
「混ぜすぎ注意、だって」
「うん。さっくり、さっくり……」
口に出しながらやっているせいか、二人のゴムベラの手つきはなんだか似通っている。
でもツィリの方では、ココア生地を混ぜる途中で粉が端に残っているのを見つけて慌てたり、ラズリは紅茶の茶葉を落としそうになって両手で器を受け止めたり。
「わ、わ……!」
「ラズリちゃん、大丈夫?」
「セーフ! まだ女子力は落ちてないの!」
「え!? 女子力って低がるのもある……!?」
「ある……かも?」
よく分からないまま、二人で笑った。
出来上がった生地は、それぞれ可愛い紙カップへ。
ツィリは白と淡い水色。ラズリは薄桃色とクリーム色。
スプーンで少しずつ流し込むと、プレーンの生地は淡い乳白色、ココアは柔らかな焦茶色、紅茶味には細かな茶葉が散っている。
「入れすぎないように……」
「膨らむ分を残すんだよね」
並べ終わったカップを二人で確認して、いよいよオーブン。
扉を閉じれば、あとは待つだけの時間。
けれど二人ともすぐにはオーブン前から離れなかった。
「……見ちゃう?」
「見る!」
オーブンの前へ並んでしゃがみ込み硝子越しに中を覗くと、最初は平らだった生地が、熱を受けて少しずつ持ち上がっていく。
「ラズリちゃん、見て!」
「わ……おいしそうにできてる!」
そう言ったのは、ほとんど同時だった。
丸い天辺が膨らみ、プレーンには柔らかな狐色がつき、ココアは濃い艶を帯びていく。紅茶味からはバターの甘さに混じって芳醇な茶葉の香りが漂い始めた。
「綺麗に膨らんでいってる……!」
「それに、すっごくいい香り」
オーブンの中で並ぶ小さなカップケーキは、まるで一斉に花開いていく蕾のようだ。
✦
そして、焼き上がりを知らせる音が鳴った。
扉を開ければ熱気と一緒に甘い香りが一気に溢れる。
「わあ……!」
綺麗に膨らんだカップケーキを冷ましている間にも、二人の仕事は終わらない。
ここからが、本日の本番――飾り付けである。
「可愛くしよう!」
「いっぱいしよう!」
テーブルには、生クリームに苺クリーム、チョコレート、果物、カラースプレー、ホワイトチョコの飾り。思い思いの品々が並ぶ。
ツィリがまず手に取ったのは、生クリームを絞ったプレーンのカップケーキだった。
その上へ、薄く切った苺やキウイ、黄桃を一枚ずつ。
「中心から順番に並べたら……」
花弁を重ねるように、果物の薄切りをぐるりと配置していく。
赤い苺に柔らかな黄桃。透き通るような緑のキウイ。中心へ小さなブルーベリーを一粒置けば、色鮮やかな果物の花が咲いた。
「できた!」
「綺麗……!」
ラズリが目を輝かせる。
「ツィリ、器用なの! ほんとのお花みたい」
「ふふ。ラズリちゃんにそう言ってもらえると嬉しい」
ツィリは照れたように笑いながら、今度はココア味へ。
「こっちは……くまさんにしたいな!」
丸く切ったチョコレートを二枚、上の方へ差し込んで耳にする。
チョコペンで目を二つ。鼻と口も慎重に描いて。
「……見えるかな?」
「見える! くまさんだ! すっごくかわいい!」
ちょこん、と丸い耳を立てたチョコレート色のくま。少しだけ表情が左右非対称なのも、かえって愛嬌がある。
ラズリも自分のカップケーキへ飾り付けを始めていた。
「私は兎さんにするのよ」
プレーンのカップケーキへ、ふんわりと苺クリームを絞る。
淡い桃色のクリームは、渦を描くように重ねるほど柔らかな花びらにも見えた。
そこへ、細長く作ったホワイトチョコを二枚。
「これを耳にして……」
白い兎耳が桃色のクリームからぴょこんと覗く。小さな銀粒を瞳にして、鼻先には白いチョコをひとつ。
「完成!」
「わぁ……!」
ツィリが思わず身を寄せる。
「ラズリちゃんの兎さん、すっごく可愛い!」
「ツィリのくまちゃんのお友達!」
二つのカップケーキを隣へ並べてみる。
「お友達できたね」
「うん!」
苺色の兎と、チョコレート色のくま。
二匹を並べて満足そうに眺めていたラズリだったが、ふと何かを思いついたように顔を上げた。
「はっ!白玉も作れるかな……?」
「白玉ちゃん?」
一瞬きょとんとしてから、ツィリの瞳がぱっと輝いた。
「いいね。カップケーキの白玉ちゃん……やってみたいです!」
「わあい! 作ろう、作ろう!」
「どうしたら白玉ちゃんっぽくなるかな?」
「やっぱり、ふわふわで真っ白?」
ということで、二人は余っていたプレーンのカップケーキをひとつ、新しい小さな友達へ仕立てることにした。
まずは白い生クリームをこんもり。滑らかに一面を覆うのではなく、絞り袋で小さな丸を幾つも重ねていく。
ぽふ、ぽふ、と白いクリームの房を作れば、それだけで柔らかな毛並みのようだ。
「ふわふわしてきた!」
ラズリも嬉しそうに身を寄せる。
顔の周りには少し細かくクリームを絞り、頬をまんまるに。
先ほど兎さんにも使った三角形に整えたホワイトチョコを二枚ふわふわの毛の間へちょこんと差し込めば、小さな耳が生まれる。
「お顔はどうしよう?」
「黒いチョコで目とお鼻……とか」
「じゃあ私、やってみるの!」
ラズリはチョコペンを両手で慎重に持つ。
白玉のつぶらな瞳を二つ。真ん中に、ちいさな黒い鼻。口元にはほんの少しだけ線を添えて。
「白玉ちゃん!」
「白玉なのー!」
ラズリが白玉カップケーキを兎の隣へそっと寄せると、カップケーキの上で小さな動物たちが仲良く並んだ。
気づけばテーブルの上には、果物の花に、くま、兎、それから白玉。
それは食べてしまえばなくなってしまう、小さく可愛い景色。
「次は、もうちょっと難しいのも作ってみたいな」
「私も! 今度はもっと凝ったのに挑戦するの!」
少しだけ自信を増やした二人の声は、焼き菓子の甘い香りと一緒に、ふんわりと教室へ広がっていった。
「お菓子の類は基本、買うか人の作ったもの食べるかなのよね」
咲或は並べられたレシピを眺めながら、いつものように気怠げな笑みを浮かべていた。
作れないことはない。
たぶん。
けれど、ふわもこを満足させるために何か一品となると、さてどうしたものか。
「ひーちゃん、どうすんの?」
隣では氷月が、すでに随分と楽しそうな顔をしてスマートフォンを操作している。
「ココは――ふわもこの為のプリティ立体ケーキを作るしかないね」
「立体……?」
咲或がゆっくり瞬く。
「ケーキって立体になるものだっけ」
「なるなる。こういうヤツ」
差し出された画面を覗き込めば、そこにはクリームで毛並みまで表現された動物型のケーキ。
「へー。こういうのあるんだ」
「可愛いだろ?」
「うん。完成楽しみにしてるねぇ」
「他人事みたいに言うじゃん」
氷月が笑う。
とはいえ、やるからには本気らしい。
「俺も基本食べる側なんだけどさ。じょしぢからアップの為もあるし……」
そう言って、楽しげに袖を捲る。
「全力で作らないとね!」
対する咲或は、立体ケーキの画像と、隣に並ぶ初心者向けレシピを見比べた末。
「とりあえず、パンケーキでも焼くかなぁ」
「思ったより堅実じゃん」
「高さのある、ふかふかのやつ」
薄いパンケーキもそれはそれで美味しいけれど。
「じょしぢから的には、ふかふかが良い気がする」
「そこ判断基準なんだ」
「大事でしょ、多分」
多分である。
そうして二人は同じ調理台でそれぞれ全く違うお菓子作りを始めた。
咲或はまずパンケーキの生地から。
卵に砂糖、牛乳を加えて混ぜ、ふるった粉を少しずつ合わせていく。泡を潰しすぎないように気をつけながら、ふんわりと空気を含ませて。
「これ、混ぜすぎるとダメなやつ?」
「あんま混ぜると上手く膨らまないよ」
「お菓子って繊細だなぁ」
いつもの気の抜けた調子で言いながらも、手元は案外丁寧だ。
出来上がった生地はぽってりと柔らかい。
熱したフライパンに型を置き、そこへ生地を流し込む。
じゅうと小さな音と一緒に、生地の焼け始めた甘い香りがふわりと立ち上った。
咲或が仕上がりを確認するために少しだけ身を乗り出す。
表面に小さな気泡がぷつぷつと現れ、下からじわじわと火が入っていく。
頃合いを見て、ひっくり返す。
「……やば」
現れたのは、驚くほど均一な狐色。
焦げ目ひとつない、まるで食品サンプルみたいに綺麗な焼き面だった。
「見てひーちゃん」
「ん?」
「これ、パッケージ飾れそうなくらい美しすぎる焼き色」
氷月が横から覗き込む。
「ホントだ。綺麗じゃん」
「咲或ちゃん、パンケーキ焼く天才かも」
「天才爆誕じゃん。目線下さーい」
「お写真はマネージャー通して貰わないと困るなー」
咲或は妙に満足げである。
さらに二枚、三枚。どれも同じように厚みがあり、ふっくらと焼き上がっていく。
重ねれば、まるで柔らかなクッションを積み上げたよう。横から見ても高さがあり、指で軽く触れれば、ふわりと押し返してくる。
「よし。ふわもこ対応としては、こんなもんで十分かな」
その頃氷月の方では、立体ケーキの中身となるチョコレートケーキが焼き上がっていた。
濃い焦茶色のスポンジを横に切り分け、間へチョコクリームと果物を重ねていく。
苺。バナナ。少し酸味のあるベリー。切った時にも綺麗になるように、断面を考えながら順番に並べていく。
「普通に美味しそう」
「中も外もかわいくて美味しくてふわふわもこもこがコンセプトね」
積み上げたスポンジを丸みのある形に整え、いよいよ外側へ白いクリームを塗っていく。
さて、ここからが本番。
氷月が目指すのは、メインクーン風のネコチャンだ。
まず全体を白いクリームで覆い、土台を滑らかに整える。その上から絞り袋を使って、細く長い毛並みを一本ずつ。
耳の周りはふわふわと長めに。頬のあたりは少し丸く。胸元には、もこもことした毛束を重ねる。
「……ひーちゃん」
「何?」
「猫のスゴイのできてる」
咲或が思わず手を止めた。
「やば~。店に出せそう」
「でしょ?」
氷月は得意げだ。
耳はホワイトチョコで薄く作り、内側だけほんのり桃色に。
そして瞳。
「ここは俺の目っぽくしちゃお」
色をつけたホワイトチョコを小さく丸く固め、猫の顔へ丁寧にはめ込んでいく。
光沢のある瞳は、月夜みたいに少し妖しく、それでもケーキの上では妙に可愛らしい。
最後にストロベリーチョコで小さな舌を作る。口元からぺろっと、いたずらっぽく舌を出した白い長毛猫。
――完成。
「ひーにゃんケーキの出来上がりー!」
「うわー、完成度高いなぁ」
咲或はしばらく眺めた後、ふと自分のパンケーキへ視線を戻す。
「ねえねえ、咲或ちゃんのパンケーキに乗せるやつも作って~」
「仕方ないなあ」
氷月は笑う。
「とびきり可愛いのよろしく」
「注文多くない?」
「ひーちゃんそういうの得意そうじゃん」
「まあね」
よし。パンケーキの飾り付けも、いっちゃおう!
咲或はまず三段に重ねたふかふかのパンケーキへ、生クリームをこんもりと。
その周りに苺とブルーベリー。薄く切ったバナナを添え、上から蜂蜜を細く垂らす。
黄金色の蜜がパンケーキの縁をゆっくり伝い、白いクリームと重なって艶めく。
「これはこれで、かなりじょしぢからじゃない?」
「いい感じじゃん」
氷月が別の絞り袋を持つ。
パンケーキの天辺へ、白いクリームを丸く絞り、その上へさらに小さな丸を重ねる。
耳をちょこん。丸い手足も小さく添える。
「何これ」
「ふわもこぱんけーき」
白いクリームの塊に、チョコで小さな目と口を描く。頬には薄桃色。
仕上げに粉糖をふわりと散らすと、まるで雪の中から生まれた小さな生き物のようだ。
「ほら。完成」
「あー、可愛いじゃん。ありがとひーちゃん」
咲或が素直に笑う。
パンケーキには小さなふわもこ。白いクリームに包まれ、苺と蜂蜜に囲まれている。
対して氷月のひーにゃんケーキは、白い長毛をふわりと纏い、ぺろっと舌を出してこちらを見ている。
「並べるとすごいね」
「系統違いすぎて面白い」
「こっちはカフェで出てきそう」
「こっちのはショーケースにいたら二度見するなあ」
「褒めてる?」
「めちゃくちゃね」
二人で顔を見合わせて笑った。
✦
試食役のふわもこへ、それぞれ少しずつ取り分けて差し出す。
ふわもこは二つの皿を行き来するように味わって、それから満足げに落ち着いた。
「無事、戦闘回避だねぇ」
「プリティが世界を救ったな」
「じょしぢから強い」
咲或はフォークで自分のパンケーキをひと口分切り、生クリームを少しだけ掬って一緒に口へ運ぶ。
「……うま」
ふっくらした生地は、見た目よりもしっかりと弾力がありながら、噛めば柔らかくほどけていく。
蜂蜜が染みたところはじゅわりと甘く、果物を一緒に食べれば後味も軽い。
「天才だった?」
氷月が面白そうに聞く。
「じょしぢからつよすぎて世界救っちゃうかも」
「一枚焼いただけで随分デカい話になったなー」
「でもこれ、店で出てきても普通に嬉しいよ」
「自分で自分を褒めるの上手だねぇ」
「大事でしょ。自己肯定感」
咲或は悪びれもせず、もう一口。
対する氷月も、とうとうひーにゃんケーキへナイフを入れる。
白いクリームで作った毛並みが刃先に触れ、ふわりと形を崩す。
さっきまでこちらを見ていた小さな猫の顔が切り分けられてしまうのは、作った本人でなくとも少し惜しい。
「なんだか切るの、もったいないね」
咲或がぽつりと言う。
「いいんだよ。こういうのは食べるために作るんだから」
氷月はあっさりしている。
それでも切り分けた断面を見れば、本人も少し楽しそうに目を細めた。
「ほら。中も綺麗じゃない?」
皿の上には焦茶色のスポンジと白いクリーム、赤い苺がくっきりと層になっている。
氷月も一口食べて、満足そうに頷いた。
「うん。ちゃんと美味しい」
「ひーちゃん、こういうの作る人、向いてるんじゃない?」
「俺ってば多彩だからね」
「天才と多彩かあ」
「二人揃って才能に満ち溢れてるね」
「すごい教室になってきたな」
そう言いながら二人とも笑う。
ふわもこを満足させるために始めたお菓子作り。
けれど振り返れば、作っている間も、完成したものを眺めている間も、食べている間も、随分と楽しんでいた。
「今回の女子力強化も大成功じゃない?」
咲或が言えば、氷月も軽く肩を竦める。
「少なくとも退屈はしなかったね」
甘くて、可愛くて。少しだけ騒がしくて。
そんな平和な時間が、焼き菓子の香りと一緒に、料理教室の午後へゆっくり溶けていった。
「リンゼイちゃんの言う通り。実践訓練と言われれば、まあそうでしょうね」
時雨はそう言いながら、足元へ寄ってきたふわもこの頭をなでなでと撫でていた。
ふわふわ。もこもこ。指を沈めれば柔らかな毛並みに包まれて、いつまでも触っていたくなるような感触だ。
「いつ何時、ご主人が『お菓子食べたいかも!』と言い出すか分かりませんからね」
声真似はやはり似ていないが、いつものことなので隣の人物は突っ込む気配がない。
「お菓子食べたいかも~」
カナトは調理台へ並んだ材料より先に、完成見本のふわふわパンケーキを眺めていた。
「ふわふわのパンケーキ食べよ」
「今日は作るところからですよ」
「……えーん」
カナトの肩が落ちる。
「何とかクッキング~! みたいに、『完成品はこちら!』とか無いの?」
「料理教室の存在意義がなくなるでしょう」
「それもそうかぁ。じゃ、自分で好きなの作るっきゃないな~」
時雨はそんなカナトを横目に、調理台の前で袖を整える。
「おてて洗った?」
「洗ったよ」
「準備万端?」
「お腹は空いてる」
「それはいつもでしょう。では――いざ、出陣!」
お菓子作りに向かう掛け声としては勇ましすぎるが、時雨にとってはこれも立派な習得機会だ。
では、レッツクッキング。このあたりで聞き覚えのあるお料理テーマソングが流れる。
✦
「ぼくはハッピーになるパンケーキを作るよ」
「何それ」
「ふっっっわふわのやつです」
レシピを開き、時雨は早速材料を揃えていく。
卵は卵黄と卵白に分ける。
卵黄へ牛乳を加え、ふるった薄力粉と合わせて滑らかな生地へ。残った卵白は別のボウルへ移し、砂糖を少しずつ加えながら、真っ白なメレンゲに仕立てていく。
「ここの加減が大事とありました」
泡立て器を動かす目は真剣そのものだ。
しゃか、しゃか。
透明だった卵白が細かな泡を抱き、白く曇り、やがて艶めく雲のように膨らんでいく。
「おお~」
カナトが横から覗き込む。
「もう美味しそう」
「卵白ですよ」
時雨は泡立て器を持ち上げ、先端へ立ったメレンゲの角をじっと観察した。
「……うん。このくらい?」
卵黄側の生地へメレンゲを少しずつ加え、ゴムベラで底から大きくすくい上げる。
「潰さないように……でも混ぜ残しもないように」
折り畳むたび、黄色の生地へ白いメレンゲがふんわり馴染んでいく。
「一秒たりとも目を離しませんからね」
「パンケーキに圧かけすぎじゃない?」
「ご主人へ作る時、失敗したくないからね」
即答。
前回はネイルの施術を食い入るように見つめ、今度はパンケーキ。
学ぶ対象が変わっても、その熱心さは変わらないらしい。
一方のカナトは、もう少し気楽に。
「普通に……薄力粉とベーキングパウダー混ぜて、卵と砂糖入れれば良いんでしょ」
「牛乳も忘れずに」
「はいはい」
レシピをぱらぱらと捲っている途中で、ふと手が止まった。
「へえ」
「どうしたの?」
「甘酒とかヨーグルト入れるレシピもあるみたい」
「甘酒?」
時雨が反応する。
「しぐしぐちゃん、お酒好きだったでしょう?」
「好きだよ。……甘酒は普通のお酒とは違うけど」
「でも甘酒」
「まあ、興味はありますね」
カナトが選んだのは、砂糖を控えめにして甘酒とヨーグルトを加える生地。優しい甘みとほのかな酸味で、しっとり柔らかく仕上がるらしい。
「これ絶対うまいやつじゃない?」
「絶対て」
「だって材料が美味しいもん」
理屈は単純だが、強い。
カナトは気楽そうに見えて、分量だけはレシピを見ながらきちんと量っていく。
甘酒を注げば、米の柔らかな香り。ヨーグルトを加えれば、生地は白く滑らかになった。
「いい匂いする」
「じゃ、焼いてみましょうか」
先に火へ向かったのは、時雨のパンケーキ。
弱火で温めたフライパンへ、空気をたっぷり抱えた生地をこんもり落とす。
平たく広げるのではなく、丸く高さを作るように。蓋をして、じっくり。
「……来た」
時雨がじいっと覗く。
白っぽかった生地が少しずつ上へ持ち上がり、丸い側面がぷくり、ぷくりと膨らんでいく。
「見てカナトくん」
「おお」
「ふっっっわふわ!!」
大変嬉しそうである。
頃合いを見て慎重にひっくり返せば、現れた表面は淡く均一な狐色。
横から見れば驚くほど厚く、まるで小さな雲をそのまま焼き固めたよう。指先でそっと触れれば、ふわりと沈み、すぐに柔らかく戻ってくる。
「ハッピーですね」
「焼いただけで?」
「ふわふわなので」
続いてカナトの生地もフライパンへ。
こちらはスフレ風ほどの高さはないけれど、甘酒とヨーグルトのおかげか、ふっくらと柔らかく焼き上がる。
表面には香ばしいきつね色。
中は白くしっとりとして、割ればほわりと湯気が立つ。
「これ普通にバターとシロップだけでもいいな~」
そう言いながら周囲を眺めたカナトの視線が、ワッフルメーカーで止まった。
「……これで挟んだら、サクサクのも作れるんじゃない?」
「それはもうワッフルなのでは?」
「パンケーキの生地で作ったからパンケーキ判定」
「判定が雑ですね」
でも、やる。
美味しそうなので、やる。
残った生地をプレートへ流して蓋を閉めれば、甘い香りは次第に香ばしさを増し、綺麗な格子模様の黄金色に焼き上がった。
「わ~」
カナトが嬉しそうに取り出す。
作ったものの特典で、端の部分を味見代わりにぱくっと一口。
外はさくっと。けれど中には、甘酒入りの柔らかな生地が残っている。
「これもいいねぇ」
さて、ここからは仕上げ。
時雨は自分のふわふわパンケーキを二段へ重ね、生クリームをこんもり添えた。
白いクリームの周囲には、半分に切った苺。ブルーベリー。薄く切ったキウイ。
「完璧!」
時雨はふわもこの方へ視線をやる。
「ふわもこちゃんは何好き?」
返事はなくとも、ふわもこは苺の方へ興味を示しているような気がする。
「苺かな。じゃあちょっと多めね」
一方のカナトは。
「生クリームもアイスもいいけどさぁ」
甘味コーナーから視線を外した。
ベーコン。卵。チーズ。
「……そっち行く?」
「ベーコン焼こ~」
フライパンでベーコンをかりっと焼き、目玉焼きは黄身を半熟に。
パンケーキへチーズを乗せて熱でとろりと溶かし、ベーコンと卵を重ねる。
白身の縁は香ばしく、中央の黄身は艶やかな橙色。
「これ最高じゃない?」
「普通にご飯じゃん」
「でもしぐしぐちゃん、甘いの苦手だったでしょ?」
時雨もあっさり頷いた。
甘い方には生クリームと果物。
食事系にはベーコン、卵、チーズ。
同じパンケーキなのに、皿を変えればまるで違う料理に見える。
「じゃあ、ふわもこちゃんにはこっち」
カナトは甘酒入りのパンケーキを一枚、試食用に取り分ける。
「拘りパンケーキはわんちゃんのだからダメー」
「扱いに露骨な差が」
「これは本番用だから」
そこは譲る気がないらしい。
二人もようやく自分たちの分をいただいた。
時雨はベーコンとチーズを添えたパンケーキを一口。
ふわふわの生地へ、塩気のあるチーズ。かりっとしたベーコン。半熟の卵がまろやかに絡む。
「……うん。これ好き」
「でしょ~?」
「甘酒の方もください」
「結局いっぱい食べるじゃん」
「せっかく作ったんだから味見します」
カナトはその横で、バターを乗せたパンケーキへシロップをたっぷり。
琥珀色の蜜が表面からゆっくり染み込み、切った断面までしっとり艶めいていく。
「うま~」
さらにサクサクのワッフル風も一口。
「こっちも好き」
「カナトくん、全部好きでは?」
「美味しいものはだいたい好きだよ」
時雨はもう一口食べてから、自分で焼いたふわふわの山を眺めた。
カナトも自分の皿を見つめる。
「……オレはちょっと足んないな」
「わんちゃんは燃費悪すぎるんですよ」
「いいじゃん、生地あるんだしもうちょい焼こ」
悪びれる様子もなく、カナトはもう一度席を立った。
ふわふわの生地に、真っ白なクリームと色鮮やかな果物。香ばしいベーコン、溶けるチーズ、黄金色の卵。
甘いお菓子作りのはずだった調理台には、いつの間にか食事ともおやつともつかない賑やかな皿が並んでいる。
「お菓子食べたいかも!」
時雨が再び裏声を出した。
「――って、これでいつ言われても大丈夫ですね」
「完璧だね~」
ふわふわも、サクサクも。
甘いものも、しょっぱいものも。
誰かのための一皿と、自分たちの腹を満たす一皿。
どちらも美味しく焼けたなら、それで十分。
少なくとも二人の女子力強化は、今日も満腹になるまで続いていくようだ。
「パンケーキか……悪くないね」
サディストはレシピ冊子を開いたまま、しばらく無言で頁を眺めていた。
目に留まったのは、最近よく見るような、皿を揺らせばふるふる震えるほど柔らかなものではない。
昔ながらの喫茶店にありそうな、少し厚くて、輪郭のしっかりしたホットケーキ。
表面は香ばしくさくりと焼け、中はふっくら。フォークを入れればほどよい弾力があって、バターとシロップをたっぷり受け止めてくれそうな、どこか懐かしい姿だった。
「柔らかめのものも流行ってるけど、俺は少し硬めのしっかりしたパンケーキも好きかな」
「えっ」
その言葉に、隣でメニューを見ていたぱぅるが勢いよく顔を上げる。
「じゃあ俺も今から硬め派になります」
「ならなくていいよ」
「一緒にでーっかいパンケーキ作りましょ~! ガッチガチのバリカタパンケーキ!」
「そこまで硬くしたいとは言ってないし……」
ぱぅるはさっきまで「パンケーキといえばふわふわとろとろぷるぷるですよねっ」と言っていたはずなのだが、先輩の好みひとつで主義が変わるらしい。
サディストは一度だけため息をついて、それでもレシピ冊子を二人の間へ置いた。
「別々に作る?」
「えー。一緒がいいです!」
「じゃあ勝手なことしないでよ」
「善処します♡」
あまり信用できない返事だった。
✦
選んだレシピには、喫茶店風のしっかりした焼き上がりにするための小さな工夫が書かれている。
牛乳は一般的な生地より少し控えめにして、水分を増やしすぎないこと。溶かしバターを加えて、香りとコクを出すこと。そして、隠し味にほんの少しのみりん。
「みりん?」
ぱぅるが瓶を持ち上げる。
「お菓子に入れるんですねえ」
「甘みもあるし、焼き色も綺麗になるみたいだね。入れすぎたら別物になるから量は守って」
「はーい」
言われた傍から、砂糖の器へ手が伸びた。
「……ぱぅる」
「俺、甘い方が好きなのでお砂糖追加♡」
「さっき自己流やめろって言ったよね?」
「これは味覚に基づく仮説検証です」
「ただの砂糖の追加だよ」
もっともほんの少量ならば味の調整の範疇だ。
サディストは止めるのを諦め、薄力粉とベーキングパウダーを量り始めた。
几帳面な彼らしく、目盛りはきっちり。卵も牛乳もみりんも、レシピの数字を一度確認してからボウルへ入れる。
一方でぱぅるは、白い砂糖が卵へさらさら落ちていく様子を楽しそうに眺め、泡立て器を握れば鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌だ。
「先輩、もっと混ぜます?」
「粉を入れた後は混ぜすぎない。ほら、ここに書いてある」
「先輩、ちゃんとこういうの全部読むタイプですよね」
「レシピは手順書なんだから全部読むだろ」
混ぜた卵液へ温かい溶かしバターを細く流す。
乳白色の液体に黄金色が溶けていき、そこへ粉を加えれば、ぽってりと重ための生地になった。
スフレのように軽く流れる生地ではない。お玉ですくえば、とろりというより、ゆっくり厚みを保ちながら落ちる。
「おお。既に強そう」
「何に対して?」
「ふわもこに?」
怪異へパンケーキで挑むという状況そのものについては、もう誰も疑問を呈していない。
熱したフライパンへ薄くバターを引くと、途端に香ばしい匂いが立った。
生地を丸く流すと、じゅうと優しい音。厚めに落とした生地はほとんど広がらず、綺麗な円を保ったまま、ゆっくりと火を含んでいく。
「触らない」
「まだ何もしてないですよ」
「触りそうだった」
「先輩、俺のこと分かってる~」
ぱぅるが嬉しそうなのが微妙に腹立たしい。
表面に小さな気泡が浮かび、縁がほんの少し乾いてきたところで、サディストはフライ返しを差し込んだ。
「そろそろだね」
ぱたり、と。
「わ」
ひっくりかえすと同時に、ぱぅるが目を輝かせる。
現れた焼き面は驚くほど綺麗なきつね色だった。中心へ向かって深く、縁はほんの少し明るい。むらのない丸い焼き色は、昔ながらの喫茶店のメニュー写真からそのまま抜け出してきたようだ。
「見て、先輩! めっちゃ美人!」
「パンケーキに美人って言う?」
「だって綺麗ですよ。研究資料に写真つけたいくらい」
「研究室に持ち込まないでよ」
二枚目、三枚目と同じように焼いていく。
外側は薄くさくりと。けれど押せば中からふわりと弾力が返ってくる。流行りのぷるぷるとは違う、どっしりした厚みのあるパンケーキだ。ナイフを入れた時に、ちゃんと「切る」感覚がありそうな存在感がある。
「これですよ、先輩。バリカタパンケーキ!」
「そんなに固くないよ」
「ほぼ同義です」
「全然違う」
そして、サディストがパンケーキの焼き加減を見ている間に、ぱぅるはいつの間にやら別の作業を始めていた。
「先輩~。俺、やっぱり飾り付けしたいんですけど~」
「好きにすれば」
「やった♡」
許可が出るや否や、ぱぅるはトッピング用の材料を次々と調理台へ集めていく。
苺にバナナ、キウイ。生クリームにチョコソース、粉糖。ついでにカラースプレーまで手に取って、ずらりと並べて満足そうに眺める。
「……ぱぅる。盛りすぎないでよ」
「まだ盛ってませんよ? 準備してるだけです」
「その準備量がもう怪しいんだよ」
とはいえ、飾り付けるからには果物も必要だ。
サディストは焼き上がったパンケーキを皿へ移すと、空いた時間で果物を切り分けていく。
苺はへたを取って縦半分。バナナは少し厚めの輪切り。キウイは半月型へ。
「では、ここからが重要です」
急にぱぅるの声が改まった。
「何」
「隠し味の愛情を、日本伝統のお呪いで熟成させます」
「…………」
嫌な予感しかしない。
ぱぅるは両手をクリームのボウルへ翳して、にこにこと笑った。
「おいしくなぁれ、萌え萌えきゅん♡」
サディストの手が止まった。
「……日本伝統の呪術?」
「はいっ!」
「俺の母国じゃ、そんなものがなくても美味しく焼けるんだよね……」
「先輩もご一緒に!」
「やらない」
「ええ~。共同研究なのに?」
「いつから研究になったんだよ」
「じゃあ俺一人分の愛情しか入りませんよ?」
「それで十分だろ」
「先輩の分が重要なんです!」
ぱぅるは譲らない。
――サディストはしばらく無言で見返していたが、満面の笑顔が崩れる気配はなかった。
「……おいしくなれ」
「もっと!」
「やっただけありがたいと思って」
「はーい♡」
煽ってはみたものの、さっきの一回でちゃあんと満足したらしい。
それから二人でパンケーキを三段に重ねる。もちろん、最後に一番綺麗な焼き色の一枚を天辺へ。
四角く切ったバターを中央へ置けば、熱の残る生地の上で角が少しずつ丸くなっていく。
その周囲へ、ぱぅるが絞り袋でクリームをぽん、ぽん、と丸く飾った。
「可愛くなってきた」
苺、キウイ、バナナを彩りよく添えて。最後に琥珀色のメープルシロップを細く垂らす。
とろりと温かなパンケーキの縁から蜜がゆっくり落ち、生クリームの白へ金色の筋を描いていく。
「……まあ、いい仕上がりなんじゃない?」
「愛情のお呪いも効いてますよ」
「それはいらない」
サディストがナイフを入れた。
軽すぎず、重すぎず。牛乳を少し控えたぶん、生地そのものの存在感があり、バターの香りがほのかに重なる。
切り分けたひと口へ、生クリームと苺を添えて。
「……うん、ちゃんと甘くて美味しい」
サディストが静かに咀嚼する。
その様子をぱぅるが、じーっと見ていた。
「何」
「甘いもの食べてる時の先輩、幸せそうな顔するなあって」
楽しそうに笑う。
「ずっとずーっと見てたくなっちゃう」
「お前も試食したら?」
サディストは視線を逸らすように、切り分けたパンケーキをぱぅるの皿へ置いた。
「早くしないと怪異に全部食われるよ」
「あ、それは困る!」
ぱぅるも慌ててフォークを取る。
一口食べれば、途端に表情がぱっと明るくなった。
「んー! 美味しい!」
「砂糖増やしたから甘いね」
「先輩のお呪いも入ってますからね♡」
「それまだ言うんだ」
「当然です」
並んで作業している間、時折ふと蘇ったのは、かつて同じ研究室にいた頃のことだった。
並んで同じ資料を覗いて。手順を確認して。
「……なんか、一緒に研究してた頃を思い出しますね」
ぱぅるがぽつりと言う。
サディストはフォークを止め、それから少しだけ目を細めた。
「そうだね。あの頃から、お前は適当なようで何でも上手くこなしてたし」
「でも」
「?」
「今はもう少し、甘くて幸せです」
ぱぅるがそう言って笑うので。
サディストはもう一口、パンケーキを口に運んだ。
「もしかして、あなたもお菓子作り初心者なの?」
レシピの一覧を前に真剣な顔で悩んでいたリンゼイの隣から、リリアーニャ・リアディオ(深淵の爪先・h00102)がひょいと顔を覗かせた。
「え?」
「実は私もなのよね」
返事を待つより早く、勝手に仲間認定である。
リリアーニャは料理をまったくしないわけではない。けれどお菓子作りとなると――どうにも敷居が高く見えてしまう。
「細かく分量を計るのも、あんまり得意じゃないし。お菓子ってちょっとした失敗で駄目になっちゃうイメージがあるのよねぇ」
「確かに、初めてこのような書物を確認しましたが……手順の遵守は重要なようです」
「でしょう? ほら、私たちやっぱり初心者仲間だわ」
調理台の上には、丸いマフィンに、クリームを積んだカップケーキ、動物を模した立体ケーキまで様々な見本が並んでいる。けれど碧い瞳が見つめた先にあるものは、どうやら今日だけの話ではないらしい。
「私ね、練習……したいの」
「練習ですか?」
「……いつか、大切なひとにケーキを作ってあげたくて」
言葉にしてしまえば照れ臭かったのか、黒い兎耳がわずかに揺れる。
欲しいものほど上手く手を伸ばせないくせに、いつかの未来を想像すると、こうして少しだけ挑戦してみたくなる。
とはいえ。
「あっ、さすがにその立体ケーキは無理なのよ!」
リンゼイが眺めていたふわふわの動物を模した見本を見て、リリアーニャは即座に両手を振った。
「まずはマフィンとか、簡単なものから……!」
「堅実ですね」
「大切でしょう? 段階って」
選んだのは、チョコチップ入りのマフィンだ。
卵と砂糖、牛乳、バター。薄力粉とベーキングパウダーを計り、まずはレシピ通りに進めていく。
「薄力粉、これくらい?」
「一グラム多いですね」
「一グラムくらい誤差じゃないかしら?」
「お菓子作りでは誤差ではない可能性がありませんか?」
「うーん……測りましょう、一グラム」
ぶつぶつ言いながらも、リリアーニャは素直に粉を少し戻した。
卵を割って砂糖と混ぜ、溶かしたバターと牛乳を加えていく。
最初はさらさらとしていた液体が、粉を加えるにつれて、とろりと淡いクリーム色の生地へ変わっていった。
「混ぜすぎないように、だったわよね」
「はい。粉気が消える程度で良いそうです」
「こう?」
「ちょうど良いと思います」
「ふふ。なんだか本当に一緒に練習してるみたいね?」
リンゼイは少しだけ困ったような、それでもどこか楽しそうな顔をした。
そこへ分量のチョコチップ。
ぱらぱらと落ちていく小さな焦茶色の粒を見て、リリアーニャは首を傾げた。
「これ、もう少し入れてもいいかしら?」
「レシピではこの量ですね」
「でもチョコって、多い方が美味しいでしょう?」
「……理屈としては理解できます」
「でしょう?」
ひとつかみ。
さらに、もうひとつかみ。
「……先ほどまで分量を気にしていたのでは?」
「チョコは別」
妙に堂々としていたので、リンゼイはそれ以上何も言わないことにした。
出来上がった生地を小さな紙カップへ流し込んでいく。
白地に赤い小花、淡い茶色に金の星。ころんと並ぶ姿は、まだ焼く前なのに少し可愛らしい。
「ここまで来るとそれっぽいわね」
「まだ油断はできませんが……そうですね」
いよいよ天板をオーブンへ。
しばらくすると生地は熱を含み、少しずつ膨らみ始めた。
平らだった表面が丸く持ち上がり、ところどころにチョコチップが顔を覗かせる。
バターと砂糖、焼けたチョコレートの甘い香りがふわりと漂ってくると、リリアーニャは思わずオーブンの前へ近づいた。
「ちゃんとマフィンになってるわ」
自分で言って、少し可笑しくなったのか自分で笑ってしまった。
"ちゃんとマフィン"は、ちゃあんとかわいく膨らんでいく。
✦
やがて焼き上がったマフィンは、表面が淡い狐色に染まり、天辺がふっくらと割れていた。隙間からは溶けたチョコが覗き、熱の名残を抱いた甘い香りが立ち昇っている。
「わあ……」
リリアーニャの碧い瞳が、素直に輝いた。
「それっぽいものが完成したわね」
「十分成功していると思います」
「ほんと?」
「はい」
「じゃあ、ひとつくらい味見しても……」
そう言いかけて、視線がふわもこへ向く。
「……先に試食役だったわね」
少しだけ冷ましたマフィンを割れば、中はふんわりと柔らかく、あちこちにチョコチップが溶け込んでいた。
「やっぱり入れすぎたかしら?」
「見た目にはかなり多いですね」
「でも美味しそうよ?」
小さく切り分けふわもこへ差し出すと、どうやら気に入ってくれたらしい。
そこらで嬉しそうにぽんぽんと跳ねている。
「ひとつくらい、お土産に持ち帰ってもいいわよね」
独り言のように呟きながら、ふわもこが試食に夢中になっている隙に、小さな透明袋へ。
薄い紙を敷き口をリボンで結ぶ。
黒い兎は、誰に渡すとも言わないまま、それを大事そうに手元へ寄せた。
「……これは練習用だから」
「そうなのですか?」
「そうよ」
リンゼイの視線から逃げるように、リリアーニャは少しだけ笑う。
――いつか本当に、大切なひとのためにケーキを焼く日が来るのなら。
今日の少し不格好なマフィンも、その未来へ続く最初の一歩くらいにはなってくれるかもしれない。
甘いチョコレートの香りの中で、黒い兎耳が少しだけ嬉しそうに揺れていた。
「お菓子作りは奥深いですよ」
ちるはは並べられた材料を眺めながら静かに頷いた。
薄力粉、卵、砂糖、牛乳、生クリーム。見慣れた材料ばかりなのに、分量や混ぜ方、火の入れ方が少し違うだけで仕上がりは大きく変わる。
「作業は集中力を高める訓練であり、食べたり喜んでもらうことは戦略的イメトレにもなります」
「なるほど!」
維月も同意するように勢いよく頷いた。
「つまりこれも立派な女子力強化……そして戦闘訓練!」
「そこまで言ってはいませんけど」
ちるはは淡々と返す。
その傍らでは、リンゼイも何を作るべきか真剣に考え込んでいた。
「というわけで、お菓子作りですか、リンゼイさん!」
維月はそんな彼女を見つけるなり、ぱっと身を乗り出す。
「流石の乙女! ラッピングして先輩に渡せば、メロメロですよ!」
「な、なぜ先輩へ渡す前提なんですか!?」
「だってこんな可愛い後輩に手作りお菓子貰って、メロメロにならんとか極刑です」
真顔だった。
リンゼイが言葉を失っている横で、ちるはは何やら納得したように頷く。
「では今日は、維月さんにとっては振る舞う側を学ぶ会でもあり……リンゼイさんにとっては、メロメロ大作戦の作戦会議ということですね」
「ちるはさんまで!?」
「そういうことなら気合い入りますね!」
なぜか維月だけが満面の笑みである。
「ボク、普段は割と食べる専なんですよねー。作るのはお兄ちゃんで」
「おー、お兄さんお料理されるんですね」
「そうなんですよ。でも簡単なものならなんとか……パンケーキとか?」
レシピ一覧を覗き込み、維月が指を差す。
「ふわふわパンケーキ。女子力!」
「では、それにしましょうか」
「難易度は知らないけど何とかなる!」
「そこは確認しましょう」
ちるはは早速レシピを手に取り、内容へ目を走らせた。
ふわもこを満足させるなら、やはりふかふかで柔らかいものが良い。
卵黄と牛乳を混ぜた生地へ粉を合わせ、別に泡立てたメレンゲを加えて焼く、厚みのあるスフレ風パンケーキ。
皿の上へ重ねれば雲のようにふっくらして、白い生クリームを添えれば見た目にも申し分ない。
「分量は勘で!」
維月が言った瞬間。
『このばか』
『おかしづくりはかがくやぞ』
『ばけばけばー』
足元や肩口にふわふわ漂っていた古霊たちから、一斉に非難が飛んだ。
「……え、駄目?」
『だめです』
『めずらしくぜんいっち』
『はかれ』
『けいりょうすぷーんをしんじろ』
「何ですかその連携!?」
ちるはは古霊たちと顔を見合わせ、こくり。
「維月さん」
「はい」
「リンゼイさんと二人で、力いっぱい混ぜる担当をお願いします」
「おお、それなら出来そうです!」
維月が袖を捲る。
「女子力パワーで力強く混ぜまーすよ!」
「粉を入れた後は力いっぱいやらないでくださいね」
「女子力って繊細!」
じょしぢから強化とは何とも忙しい。
まずは卵を卵黄と卵白に分ける。
ちるははボウルへ薄力粉を量り入れ、ベーキングパウダー――つまり炭酸水素ナトリウムを含んだ膨張剤もきっちり計量していく。
『かがくですからな』
『すうじはうそをつかない』
『ひとはうそをつく』
「お菓子作りの話をしましょう」
淡々と古霊を流しながら、ちるはは粉をふるう。
一方の維月は、リンゼイと並んで卵白を泡立てている。
「はいリンゼイさん! もっともっと!」
「これ以上ですか?」
「角が立つまでです!」
「女子力は腕力も要求されるのですね……」
「そういうものなんでしょう!」
泡立て器がしゃかしゃかと忙しく鳴る。
最初は透明だった卵白が白く濁り、細かな泡をまとい、やがて艶のある柔らかな雲へ変わっていく。
「おおー!」
維月が泡立て器を持ち上げると、真っ白なメレンゲがぴんと角を立てた。
「ちるはさん、見てください! めっちゃふわふわ!」
「良い感じです」
『よくできました』
『ひゃくてん』
別のボウルでは、卵黄と牛乳を混ぜ、ふるった粉を加えて滑らかな生地を作る。
そこへ完成したメレンゲを三回ほどに分けて。
「ここからは、優しくですよ」
「了解!」
維月が先ほどまでの勢いをぴたりと止める。
「……」
先ほどまでと違い、ロボットのように覚束ない手つき。
「下からすくって、返すように」
「こう?」
「はい。泡を潰さないように……」
真っ白なメレンゲと淡い黄色の生地が少しずつ馴染んでいく。
混ざり切った頃には、ふわりと空気を抱えた柔らかな生地になっていた。
「わぁ。もう美味しそう!」
維月が覗き込む。
「焼く前ですよ」
「でもこの時点でふわふわ!」
「食べないでくださいね」
「流石に食べませんって!」
『あまくてたべれそうです』
『ゆるす』
『なにを?』
『ぜんぶを』
騒がしい一行をよそに、ちるははフライパンを弱火で温める。
油を薄く馴染ませ、丸型を置いてから生地をこんもりと流し込んだ。
コツは平べったく広げず高さを残したまま。レシピにそう書いてあった。
「これ、本当に火が通るんです?」
「ゆっくり火を通すそうです」
蓋をして待つ。
透明な蓋の向こうで生地が少しずつ膨らんでいく。
ぷくりと丸みを帯びた側面が上へ伸び、まるで白い雲が育っていくようだ。
「おー……!」
維月が目を輝かせる。
「リンゼイさん見て! ふくらんでますよ! 女子力が!」
「膨らんでいるのは生地では?」
「でも女子力も同時に!」
「そうなのでしょうか……」
リンゼイはまだ疑っている様子だが、膨らんでいく様子を維月と一緒にじいと眺めている。
頃合いを見て、ちるは慎重にひっくり返した。
表面には淡いきつね色。柔らかな焼き色が円形に広がり、中央だけほんの少し濃い。香ばしい匂いがふわりと立ち上って、バターと卵の甘い香りが教室いっぱいに広がった。
「すごい! お店みたい!」
維月が嬉しそうに拍手する。
二枚、三枚と同じように焼いていき、完成したパンケーキを皿へ重ねる。ふかふかの生地は厚みがあり、重ねても潰れず、柔らかく丸みを保っている。
その上へ、ぽってりと生クリームを添える。
白いクリームの山には苺をひとつ。
粉砂糖を薄く振れば、焼き色の上へ雪が積もったように淡く白が重なる。
「可愛い!」
維月が両手を合わせた。
「これはもう女子力です! 間違いない!」
「おいしいも、かわいくてつよいです」
ちるはも満足そうに頷く。
古霊たちも周囲へ集まり始めた。
『できましたな』
『たべますか』
『たべます』
『われわれはしょくじできるので?』
ふわもこも寄ってくる。
焼きたての甘い香りに惹かれたのか、どうやら興味津々らしい。
✦
ちるはがパンケーキを小さく切り分ける。
ふわりとナイフが入り、断面には細かな気泡。口に入れればしゅわりと軽くほどけそうな、柔らかな生地。
「イタダキマス♪」
三人一緒に試食する。
「ん!」
維月の紫の瞳がぱっと輝く。
「おいしい!」
「ちゃんとふわふわですね」
ちるはも一口食べ、満足げに目を細めた。
生クリームの優しい甘さと苺の酸味、ほのかな卵とバターの香りが、柔らかな生地によく合っている。
ふわもこも無事に満足したらしく、戦闘の気配はない。
「これで乙女力もバッチリ! ですよね?」
「そうですね」
ちるはは頷き、それから維月とリンゼイを順番に見る。
「お二人とも、今日作ったの、今度また作ってみてくださいね」
「え」
「えっ」
返事が綺麗に重なった。
「維月さんは、お兄さんに」
「お兄ちゃんに!?」
「振る舞う側を学ぶ会だったでしょう?」
「そうでした!」
維月が思い出したように手を打つ。
「じゃあ今度作ってあげます! ちゃんと分量も量って!」
「で、リンゼイさんは」
ちるはが穏やかに微笑む。
「先輩に」
「……やっぱりそこへ戻るんですか?」
「メロメロ大作戦ですから!」
「そうですね」
二人から一斉に言われ、リンゼイが顔を赤くする。
「別に、渡すとは……」
「お菓子なら綺麗にラッピングもできますよ!」
維月が即座に箱を持ってくる。
白い小箱。透明な窓。細いリボン。
「ほら、これに入れたら完璧です!」
「維月さん、いつの間に」
「女子力に抜かりなし!」
『さっきまでぶんりょうかんでいこうとしてたやつが』
『よくいう』
『じょしぢからはせいちょうするもの』
『しらんけど』
古霊たちの好き勝手な声が飛び交う。
ちるははその賑やかさの中で、最後のパンケーキをもう一口。
甘くて、ふわふわで。
誰かに食べてもらうことまで考えると、不思議と作る時間そのものまで少し楽しくなる。
「やっぱり、お菓子作りは奥深いですね」
「はい!」
維月が元気よく答える。
「女子力も戦略も乙女力も全部入り!」
笑い声の傍らでは、甘いパンケーキの香りがまだふんわりと漂っていた。
リンゼイの前には、いつの間にか可愛らしいラッピング用品まで並べられている。
どうやら今日いちばん強化されたのは、戦闘力ではなく――誰かへ「どうぞ」と差し出すための、ほんの少しの女子力のようだ。
「料理教室、ですか」
足を踏み入れた境華は、まず調理台の上へ整然と並べられた材料を眺めた。
薄力粉、卵、牛乳、砂糖、バター。
その向こうには、艶やかな苺やブルーベリー、瑞々しいキウイ、淡い黄色の桃。さらに生クリームや粉糖、色とりどりのソースまで揃っている。
「パンケーキとスフレ作りです。えいえいおー!」
隣でシンシアが楽しげに腕を上げたので。
「……えいえいおー、です」
境華も少し遅れて合わせる。
ネイルに続いて、今度はお菓子作り。
監視任務という名目はあるけれど、やるからにはきちんと美味しいものを作りたい。
「料理はレシピ通りに作るのであれば、それなりに得意です」
「頼もしいですねえ」
「ただ、シンシアさんの方が経験はありそうですから……分からないところは教えてください」
「もちろんです! とはいえ――」
シンシアは砂糖の袋を持ち上げ、にこやかに言った。
「分量なんて、十グラム二十グラムくらいは誤差です」
「誤差ではないと思います」
「失敗しても気に病む必要はありません。砂糖はいっぱい入れた方が美味しくなります、経験上」
「そこは経験則で押し切らないでください」
境華の返しは穏やかだが、秤の数字を見る眼差しだけは妙に真剣だった。
「……では、重要なところだけ厳密に」
隣から覗き込んだシンシアが、いかにも妥協しましたという顔で頷く。
「全部大事では?」
「境華さんと一緒なら大丈夫ですよ」
なぜだか全面的に信頼されてしまった。
境華は小さく笑い、改めてレシピを開く。
さて、ふたりで作るのは、ふっくら厚みのあるパンケーキ。そしてふわりと膨らむスフレ。
「早速、材料を量るところからですね」
境華はスケールを置き、器を載せてから目盛りをゼロへ戻す。
薄力粉をさらさらと。砂糖をきっちり。牛乳もレシピ通り。二種類の菓子に使う材料が、調理台の上へ順々に並んでいく。
「境華さんは几帳面ですねえ」
「お菓子作りは分量で仕上がりが変わりますから」
「そう言われると、十グラムが急に重大な数字に見えてきました」
「実は最初から重大な数だったかもしれません」
その横でシンシアも卵を割る。
パンケーキ用は器へ落とし、スフレ用は殻を綺麗に二つへ割って、黄身と白身を分けていく。銀の瞳で器を覗き込みながら、今度はさすがに真面目な顔をしている。
「スフレは泡を潰さないように、でしたね」
「はい。そこは慎重にいきましょう」
「ふっ……わかりました。厳密にレシピに則りますよっ」
計量と下準備を終えれば、次はパンケーキの生地に取り掛かる。
卵と砂糖を混ぜ、牛乳を加え、ふるった粉を合わせる。粉気がなくなるまで混ぜ合わせれば、滑らかな生地がとろりとボウルへ落ちた。
「こんな感じでしょうか?」
「ええ。良さそうですね」
必要なところでは迷わず止める。
その様子を見ながら、シンシアは少し楽しそうに笑った。
「境華さんとお菓子作りをする日が来ようとは」
「私も、少し不思議な感じがします」
「でも、こういうのも良いですね」
パンケーキの生地をひとまず休ませ、その隣で今度はスフレへ。
卵白を泡立てて、艶のあるメレンゲを作る。
シンシアが泡立て器を持ち上げると、白い角がぴんと立った。
「……綺麗ですね。しっかり立っています」
「よし。ここからは慎重モードですね」
卵黄生地へメレンゲを数回に分けて加える。
境華がゴムベラを持ち、泡を潰さないよう、底から大きくすくい上げる。白と淡い黄色がゆっくりと混ざり、最初はまだらだった生地が柔らかなクリーム色に整っていく。
「ここまで出来ると、少し安心しますね」
「でもまだ焼くところが残ってますよ」
「確かに」
これで二種類の生地が揃った。
あとは、それぞれを焼き上げるだけだ。
先に出来上がったスフレの生地を、そっと型へ流してオーブンへ入れる。
「では、その間に」
境華がパンケーキのボウルを手に取る。
温めておいたフライパンへ生地を流し弱火でじっくりと火を通していくと、やがて表面に小さな気泡がぽつぽつ現れた。
「そろそろ返してもよさそうですね」
「いきますよ!」
シンシアがフライ返しを差し込み、えいとひっくり返す。現れたのは綺麗な狐色。
「わあ、いい焼き色!」
「本当ですね。とても綺麗です」
二枚、三枚と焼き上げていく。
厚みのあるパンケーキは重ねるほど、ころんと可愛らしい姿になる。表面は香ばしく、中は柔らかい。
パンケーキが出来上がると、しばらく待つ時間だ。
ふたりはどちらからともなく、オーブンの前に座り込んだ。
低かった生地が少しずつ持ち上がり表面が丸くなっていく様子を、二人は並んで眺める。
「膨らんできました」
「ほんと。かわいいですねえ」
扉の向こうから漂ってくるのは、卵とバターの甘い香り。焼き上がる頃には表面に淡いきつね色がつき、中央はふっくらと柔らかなまま。
「ようし、いい感じに焼き上がりましたね!」
「成功ですね」
二人で顔を見合わせる。
パンケーキも、スフレも、どちらもとっても綺麗に出来上がり。
けれどこれで完成ではない。
美味しそうなお菓子を、もっと可愛くするために――。
✦
「さて、ここからが重要です――飾り付け!」
シンシアが目を輝かせる。
「可愛らしく飾る、というのは……少し難しいですね」
境華は並べられた果物とクリームを見つめる。
味や手順ならばレシピに答えがある。けれど、可愛さには正解がない。
「シンシアさん、こちらはどうでしょう?」
境華が手に取ったのは、苺とブルーベリー。
「パンケーキの周りに苺を並べて、その中央に生クリームを置いて……」
「なるほど。そこへブルーベリーを少し散らす」
「はい! では、こちらに」
二人で相談しながら、少しずつ皿の上へ色を足していく。
重ねたパンケーキの一番上には、ぽってりと絞った白い生クリーム。
その周囲へ薄く切った苺を花びらのように並べる。
赤い苺の間には、青紫のブルーベリー。
さらに細く切ったキウイを葉のように添えて。
「花畑みたいになってきました」
「とても良いじゃないですか」
仕上げに粉糖をふんわりと。
淡い白が、パンケーキの焼き色の上へ雪のように積もる。
一方のスフレには、もっと軽やかな飾りを。
皿の中央へ置き、その脇に生クリームをふわりと一匙。
薄く切った桃と苺を重ね、上から蜂蜜を細く垂らす。
金色の蜜が、白いクリームの上に細い筋を描く。
「シンシアさん、ここにミントを置くのはどうでしょう?」
「素敵。色が締まりますね!」
一枚緑の葉を添える。
それだけで、柔らかな色の中に小さなアクセントが生まれた。
「……こうしてみると、飾り付けも楽しいですね」
「でしょう? 味だけじゃなく、見た目もごはんの要素のひとつですから」
「勉強になります」
完成した二皿を並べる。
一方は、苺の花が咲くふっくらパンケーキ。
一方は、淡い果物と蜂蜜で飾られた、雲のようなスフレ。
優しい色が皿の上でまとまり、夏の午後の小さなティーセットのように見えた。
「おいしそうにできましたね!」
「はい。思ったより、ずっと可愛らしく仕上がりました」
シンシアがフォークを手に取る。
「では、いっただっきまーす!」
「いただきます」
まずはパンケーキから。
フォークを入れると、柔らかな生地がふわりと沈む。
口へ運べば、香ばしい表面のあとから、優しい甘さが広がった。
「わあ……」
境華の金の瞳が少し大きくなる。
「美味しいです」
「ですよね!」
「自分で作ったからでしょうか。それとも……」
隣を見る。
シンシアもスフレを一口食べて、幸せそうに目を細めている。
「わ……一緒に作ったからでしょうか。なんだかもっと美味しく感じますね」
「ふふっ、私も同じことを思っていました」
スフレはさらに軽い。
フォークで切り分けるだけで、ふわりと形が揺れる。
口に入れると、ほとんど噛むより先にほどけて、卵とバターの香りだけが柔らかく残った。
「ふわっふわですねえ」
「はい。これなら、ふわもこも満足してくれそうです」
試食用に取り分けて差し出せば、やっぱり満足したらしい。
戦闘の気配はない。
シンシアが満足げに頷くと、境華も、残ったパンケーキを小さく切り分けながら静かに笑った。
材料を量り。手順を確かめ。泡を潰さないよう気を配り。
最後には二人で悩みながら、皿の上へ小さな花を咲かせた。
ひとりなら、もっと手順通りに。もっと無難に仕上げていたかもしれない。
けれど誰かと作れば、ここへ苺を置こう、もう少しクリームを足そうと、思いがけない色が増えていく。
「こういうのも、ひとつの経験になるのでしょうか」
境華がふと呟く。
「もちろん」
シンシアは迷わず答えた。
「今日、境華さんと作ったパンケーキとスフレのこと。私はちゃんと覚えておきますよ」
その言葉に、境華は少しだけ目を細める。
「……それなら、素敵ですね」
甘い香りの残る皿の上には、苺の赤とクリームの白。
二人で作った小さな午後の物語は、最後の一口まで、きっと特別に美味しかった。
「今回のステージは台所!」
甘い香りに満ちた料理教室を見渡して、シュンヤはぱんと両手を合わせた。
目の前に並ぶ泡立て器やボウル、薄力粉の袋を眺めて、ううんと首を捻る。
「……でも僕、普段あんまり料理しないんだよなぁ」
ステージの上なら、客席からどう見えるかも、カメラへどんな角度で笑えばいいかも分かる。
――けれど、今日の相手はオーブンと生クリームだ。
ちらと隣を見れば、曉はエプロン姿でレシピへ目を通し、すでに必要な材料を手際よく準備している。
「お菓子作りですか。ある程度はお教え出来るかと思いますが……」
「曉さん」
シュンヤがじいっと見つめる。
「『ある程度』なんて言って、お菓子作りほぼプロでしょ?」
「そこまでではありませんよ」
「ほんとかなぁ。だって曉さんの作るお菓子、美味しくていつも食べすぎちゃうんですからねっ」
少し頬を膨らませるような仕草まで添えれば、曉は否定も肯定もせず、いつもの柔らかな笑みを浮かべた。
「それは光栄ですね」
「もう、そうやってちょっと嬉しそうな顔しちゃって」
そんなやり取りをしながら、二人は今日のレシピを選んでいく。
今回の試食役はふわもこたち。
小さくて甘いものを待っている様子を見ると、大きなケーキをひとつ作るより、一つずつ手に取れるものの方が似合いそうだ。
「ん~……あ」
シュンヤが一枚のレシピを指差す。
「ミニカップケーキなんてどうでしょう?」
「良いですね」
曉も頷いた。
「小さなお客様にはちょうど良いでしょう。飾り付けは貴方好みでしょうし」
「分かってる~♡」
「今回はカップケーキで女子力アップといきましょうか」
「はーい! お手伝い頑張ります♡」
さて、さっそくふたりで作るのはプレーンとココアの二種類の小さいカップケーキ。
曉は材料を並べると、迷うことなく計量を始めた。
薄力粉に砂糖。ベーキングパウダー。卵と牛乳。
そこへ、溶かしたバター。
数字を確認する視線も、器へ材料を移す手つきも淀みがない。
「やっぱり手慣れてる」
シュンヤは横から感心したように覗き込む。
「生地は混ぜすぎないように。粉気がなくなる程度で十分です」
「はーい、先生」
「先生ではありませんが……」
そう返しつつ曉は卵と砂糖を泡立てる。手つきはやはり淀みない。
明るい黄色だった卵液が、空気を含むほど淡いクリーム色へ変わっていく。その中へ牛乳と溶かしバターを細く流し込み、ふるった粉を加えて、ゴムベラで底から大きく返す。ぽってりとして、それでいて重すぎない柔らかな生地。
半分にココアパウダーを加えると、淡い乳黄色とチョコレート色ができあがる。
「二色並ぶだけでもう可愛いですね~」
「まだ焼いてすらいませんよ」
「素材の段階から褒めて伸ばすタイプなんです、僕♡」
小さな紙カップへ生地を流していくのはシュンヤも手伝う。
白地に星柄。淡い水色。小さな赤いハート。紙カップも賑やかに、可愛い色で。一つ一つ高さを揃えるように生地を入れていく。
曉がそれを見て、ふっと目を細めた。
カップを天板へ整然と並べオーブンへ。
扉が閉まればしばしの待ち時間。けれど曉は休まず、今度はデコレーション用のクリームを準備し始めた。
「生クリームと、こちらはバタークリームで」
「バタークリームも?」
ボウルへ生クリームが注がれ、さらさらと砂糖が落ちていく。
滑り落ちていく砂糖の量にシュンヤの笑顔が一瞬止まった。
「……わぁ」
「どうしました?」
「生クリームって、結構お砂糖入れるなぁ……」
普段は完成品として目の前に現れる、白くて軽やかなクリーム。
……が、その正体をこうして真正面から見せられると、少々話が違う。
「現実見ちゃったかも」
曉は泡立て器を動かしながら、いかにも穏やかに言う。
「シュンヤ」
「はい」
「スイーツは、ひとときの夢を見させてくれる魔法です」
「……はい?」
「時には目を閉じるのも大切ですよ」
「で、でも曉さぁん」
「それに、」
滑らかに角を立てたクリームを確認して、曉はにこり。
「砂糖も、愛も。マシマシの方が嬉しいでしょう?」
シュンヤは曉の笑顔を見た。
そうして、仕方ないなあとばかりに頷いて。
「まあ、曉さんの愛入りなら」
✦
オーブンから甘く香ばしい匂いが漂い始めていた。
ぷっくりと膨らんだ小さなカップケーキは、プレーンなら蜂蜜を薄く塗ったような黄金色。ココアなら、焼きたてのチョコレートを思わせる深い焦茶色。
どれもころんと丸く、手のひらへ二つくらい乗ってしまいそうな愛らしい大きさだ。
「いい感じですね」
「わー、ほんとだ!」
粗熱を取ったところで、いよいよシュンヤの出番。
「じゃあここからは僕のステージですね!」
絞り袋を手に取る。
白い生クリームをくるり。チョコ色のバタークリームをぽてり。
一つ目には丸いクリームをこんもり絞って、耳に見立てたチョコレートを二枚。
「猫っぽくしたいんですけど……できてます?」
「ええ、とっても」
「やった♡ じゃあ曉さん、そこのチョコペン取ってください」
曉が小さなチョコペンを渡すと、シュンヤは慎重に、つぶらなおめめも二つ。小さな三角の鼻。口元は、少しだけ笑っているように。
「可愛い~!」
二つ目は犬。こちらは垂れ耳になるよう、少し長めのチョコを斜めに差し込む。クリームの頬をふっくらさせれば、どこか人懐こい顔になった。
「猫、それに犬ですか」
「そうです♡ ふわもこちゃんたちのお友達っぽく」
「とても愛らしく仕上がっていますね」
褒められたシュンヤは、ぱっと嬉しそうに笑う。
「でしょ? でもでも、まだ完成じゃないですよ」
最後に取り出したのは、小さな星形のシュガー。
青。
白。
黄色。
銀。
「やっぱり星は外せないよね♪」
猫の周りへぱらぱら。
犬のクリームにも、きらきら。
小さなカップケーキの上に、夜空の欠片みたいな星が散っていく。
曉が星型シュガーをひとつ摘まんだ。
「流石に器用でおいでですね」
「こういう細かい作業は結構好きなんですよ。見た目、大事ですし」
「折角ですから、こちらにも顔を描いてみますか」
「星に?」
「ええ」
極細のチョコペンで、ほんの小さな目と口。
「わ、ちっちゃ!」
瞬く間に、星そのものまで小さな生き物のようになった。
「曉さん、これ可愛い!」
「少し表情があるだけで随分変わりますね」
二人で笑いながら、他のカップケーキも次々と飾っていく。
白い犬。
チョコ色の猫。
星を抱えたもの。
クリームの上へチョコを散らしたもの。
中には、シュンヤが「この子ちょっとアイドルっぽくしたい」と、星を冠を被せたものまである。
最後の一個を仕上げる時、シュンヤはふと指先で小さなハートを作った。
「そして最後は、愛♡も込めなくちゃ、ですねっ」
「それはどうやって?」
「こうやって」
カップケーキへ向けて、指ハート。
「……入ったかな?」
「どうでしょう」
「そこは『入りました』って言ってくださいよ~!」
曉は少し笑ってから。
「では、たっぷり入ったということにしましょう」
「やった♡」
完成したカップケーキをトレーへ並べれば、トレーの上は小さな動物園のよう。
ふんわりクリームの犬と猫。その間を、顔のついた星がちらちら瞬いている。
食べてしまうのが惜しいくらい、愛らしい。
「ふわもこちゃん、良かったら一緒にツーショ撮ろ♪」
シュンヤはさっそく一体のそばへしゃがみ、カップケーキを手にポーズを取る。
「はい、こっち見て~。きらり☆」
相手がカメラを理解しているかはさておき、ファンサに抜かりはない。その様子を見守っていた曉は、残った皿を整えてから、ふわもこたちへ静かに差し出した。
「シュンヤも、ふわもこの君達も」
甘い香りを纏った小さなケーキたち。
「どうぞ、心行くまで召し上がれ」
「僕も入ってるんだ?」
「作った者の特権でしょう」
「じゃ、遠慮なく♡」
シュンヤもプレーンの一つを手に取り、ぱくり。
ふっくらした生地に、軽い生クリーム。
甘さの中へバターの香りが広がって、口元が自然と緩む。
「やっぱり曉さんのお菓子、危険ですよ。食べすぎちゃう」
「今回は貴方も作ったでしょう?」
「あ、そっか」
料理は得意ではないけれど。
曉に教えてもらいながら、生地を流して、クリームを絞って、小さな星を散らした。
「……僕も結構、女子力上がっちゃったかも?」
そう笑うシュンヤの手元では、星を纏ったカップケーキがきらきらと光っている。
「そうですね。かなり」
隣には、いつも通り涼しい顔をしながら甘いものへは一切妥協しない様子の彼。
今日のステージにスポットライトはないけれど。
白いクリームと小さな星に囲まれた甘い舞台も、なかなか悪くないものだった。
折角だし、たまには普通の飯以外にも手を出してみるか?
料理教室に並ぶ色とりどりの菓子を眺めながら、龍也はそんなことを思った。
普段なら腹に溜まるものを選ぶところだが、今日はそういう場でもない。甘い香りに満ちた調理台には、焼き菓子や果物、クリームの見本がずらりと並んでいて、見ているだけでも妙に華やかだった。
とはいえ、菓子作りの経験はほとんどない。
「……いきなり凝ったのやって失敗するより、無難にいくか」
選んだのはカップケーキ。
スタッフに教わりながら、まずは材料を量るところから始める。薄力粉、砂糖、卵、牛乳、溶かしバター。普段の料理なら多少の目分量も通るが、菓子となるとそうはいかないらしい。
「十グラムくらいなら誤差じゃねえのか?」
そう言いつつも、結局きっちりスケールの数字を合わせる。
卵と砂糖を混ぜ、牛乳とバターを加えて、最後にふるった粉を合わせる。
粉を入れてからは混ぜすぎないようにと言われれば素直に従う。
「意外と気ぃ遣うな」
冗談めかして口にしながらも手元は丁寧だ。
出来上がった生地を紙カップへ流し込み天板に並べてオーブンへ入れると、甘い匂いがじわじわと教室へ広がり始めた。
透明な扉の向こうでは、平らだった生地が少しずつ膨らみ、丸い天辺を作っていく。焼き色も淡い狐色へ変わっていき、見た目だけなら十分それらしい。
「お。……まあ、悪くねえな」
焼き上がったカップケーキは、表面がふっくら割れて、中から柔らかな香りを立ちのぼらせていた。
――さて、ここまでは順調。
問題は、その先だった。
「飾り付けか」
生クリームにチョコソース、カラースプレー、果物。必要なものは揃っている。
龍也はしばらく眺めた末、生クリームを絞り袋へ詰めた。
「おし、どうせなら見た目までやってみるか」
最初のひとつへ、白いクリームをくるりと絞る。
「ん?」
もうひとつ。
「いや、こっち高くねえか?」
並べて眺める。
一つ目と二つ目で、クリームの巻き方が微妙に違う。
「…………もうちょい揃えた方が良いな」
……気になった。
一度気になり始めると、もう駄目だ。
絞ったクリームを少し直し、また眺める。
高さを揃えて、巻き終わりの位置も整える。
三つ目を作れば今度は一段目の幅が気になり、最初の二つと見比べてから、また絞り袋を持ち直した。
「これ、一周目から同じ太さで巻いた方が綺麗だな」
誰に言うでもなく呟きながら、手首の角度まで調整する。
別に売り物でもないし、多少ばらついていたところで味は変わらない。それくらいは本人だって分かっている。分かっているのだが、横一列に並べた時に一つだけ形が違うのが妙に落ち着かない。
「よし」
ようやく納得したところで、次はチョコレート。
小さく割った板チョコを差し込むが、今度は角度が気になる。
「傾きすぎだな」
抜いて、差し直す。隣も直す。
さらに苺を半分に切って飾れば、左右の位置まで気になってきた。
「もう少し内側か……」
苺の大きさまでなるべく近いものを選び、断面の向きを揃える。チョコとの間隔も見比べて、片方を数ミリ動かしては一歩引いて全体を確認した。
「……こっちだけ詰まって見えるな」
また修正。
スタッフが何か言いたげにこちらを見ていたが、龍也は気づいているのかいないのか、黙々と調整を続ける。
そのうちカラースプレーまで、適当に振りかけるのではなく指先で摘まんで配置し始めた。
「赤が寄りすぎるとうるせえな……」
ここまで来ると、もう菓子作りというより検品に近い。
けれど龍也本人は至って真面目な顔で、最後の一個まで同じ調子で整えていった。
✦
気づけば焼くまでより飾り付けの方に時間を使っていた。
最終的には、生クリームの高さも、チョコレートの角度も、苺の位置も、きっちり等分。
出来上がったカップケーキは派手なものではなかったが、まるで売り物かのような綺麗なお菓子になっていた。
「……何やってんだ、俺」
龍也は腕を組み、出来上がったカップケーキを眺める。
「食ったら同じなんだよなあ」
そう言いながらも、どこか満足そうに。
試食役のふわもこへひとつ差し出せば、どうやら味も問題ないらしい。
「気に入ったなら何よりだ」
せっかく作った以上自分でも味を確かめておこうと、ひとつ手に取り、紙を剥がして一口。
外側はほんの少し香ばしく、中はふんわり柔らかい。バターの香りと優しい甘さのあとに、生クリームのなめらかさと苺の酸味が重なる。
「普通にうまいな」
もう一口食べてから、残りのカップケーキを見る。
残った分はスタッフが持ち帰り用の箱へ詰めてくれるという。どうやら、この几帳面な出来栄えを家まで持ち帰ることになりそうだ。
よく見れば、ケーキはどれも同じ高さにクリームが絞られ、チョコの角度まで揃っている。
「……菓子作りなんて柄じゃねえと思ってたけど、案外悪くねえな」
龍也は小さく笑った。
甘い香りに包まれた調理台の前で、今日ばかりは煙草の代わりにフォークを片手に。
戦場でも捜査現場でもないごく普通の午後を、龍也はそれなりに楽しんでいた。
「まあ、じょしぢから第二弾!」
料理教室にずらりと並んだ甘い見本を前に、ライラは空色の瞳をきらきらと輝かせた。
「武器を使わずに戦えるだなんて、とっても素敵な方法だわ。よーし、わたしも頑張るわね!」
本人はすっかり実践訓練のつもりらしい。
もっとも、今日の武器は剣ではなく泡立て器。相手を倒すのではなく、甘いお菓子で満足させるのが目的だ。
「とはいえ……わたし、簡単なお菓子作りしか経験がないのよね」
立体ケーキや繊細なマカロンにも惹かれるけれど、いきなり挑戦する勇気まではない。
「……スタッフさんに教えていただきながらでも、大丈夫かしら?」
もちろんと返事をもらえば、ぱっと表情が明るくなった。
「よかった! それなら、ふわふわのパンケーキを作りたいわ」
選んだのは、厚みのあるスフレ風のパンケーキ。
白い雲のようにふっくらと膨らんだ見本には、生クリームと苺がたっぷり添えられている。
「これなら、ふわもこさんもきっと喜んでくれるわよね」
ふわふわの第一歩は、まず卵を黄身と白身に分けるところから。
スタッフに教わりながら、ライラはボウルを二つ並べる。
「別々にするのね」
卵をこん、と台の縁へ当てて、慎重に殻を割る。
つるりと現れた黄身を殻の間でおっかなびっくり行き来させながら、透明な卵白だけを細い糸のようにボウルへ落としていく。
卵黄には牛乳と粉を合わせ、滑らかな淡い黄色の生地へ。
そして卵白には砂糖を少しずつ。
「こっちは、ふわふわにすればいいのよね!」
泡立て器を握る手に力が入る。
しゃかしゃか、しゃかしゃか。
透明だった卵白は次第に白く泡立ち、細かな泡をたっぷり抱き込んでいく。
「……わあ、ほんとうに雲みたい」
「もう少しですね」
「もっと?」
少し腕が疲れてきても、ライラはなお一生懸命に泡立てた。
「じょしぢからも、体力が必要なのね……!」
それでも泡立て続けるうちに、メレンゲは艶のある真っ白な姿へ変わった。泡立て器を持ち上げれば、先端につんと角が立つ。
「できた!」
できあがりに、思わず笑顔。
次は、そのメレンゲを卵黄側の生地へ。
「泡を潰さないように、下から……そうっと」
今度は力任せにせず、ゴムベラで底からすくい上げるように優しく混ぜると、白と黄色はやがて柔らかなクリーム色へ馴染んでいった。
「……不思議ね。さっきまで全然違うものだったのに」
こういう変化を見るのも、お菓子作りの楽しさなのかもしれない。
出来上がった生地を、温めたフライパンへこんもりと落とす。
丸く厚みを残したまま、蓋をして弱火でじっくり。ライラはしばらくその前から離れなかった。
「膨らむかしら……」
じいと見守るうち、生地はぷくり、ぷくりと持ち上がっていく。
「……わ、見て! すごく膨らんできたわ!」
そっと返せば、表面は見本に負けないくらい綺麗な狐色。
何枚か焼いて重ねれば、ふかふかの小さな雲の塔が出来上がった。
✦
さて、焼きあがったら後はいよいよ飾りつけ。
生クリームを泡立てて、パンケーキの天辺へたっぷりと。
真っ白なクリームが柔らかく盛り上がり、その周りには半分に切った苺をひとつずつ並べていく。
「……苺は、たくさんあった方が可愛いわよね」
赤い果実が白いクリームに映えて、ぐっと華やかになる。
さらに粉糖を茶漉しへ入れて、上からふわり。
細かな白い粉が雪のように舞い落ち、淡い狐色のパンケーキへ薄く積もっていく。
最後の仕上げにライラが選んだのは、小さな星形の砂糖菓子。
黄色と白の星をいくつか散らし、いちばん綺麗なひとつを天辺へちょこん。
「――これで、完成!」
白い雲と雪、その間に赤い苺が咲き、小さな星がきらきらと瞬いている。
「かわいい……!」
自分で作ったものなのに、ライラはしばらく嬉しそうに眺め――それから、はっと思い出したようにふわもこへ向き直った。
「そうだったわ。今日はあなたたちに喜んでもらうためだったのよね」
パンケーキを少し切り分け、生クリームと苺を添えて差し出す。
「どうかしら?」
ふわもこが食べる様子を、ライラはそわそわしながら見守った。
剣を握る時とは違う緊張感。
上手に出来ただろうか。
美味しいと思ってくれるだろうか。
……やがて、どうやら満足してくれたらしいと分かると、ライラの肩から力が抜ける。
「よかったぁ……!」
ほっとした笑顔がこぼれた。
自分でも一口お味見。
口へ運ぶと、ふわりとほどける生地に、生クリームの優しい甘さと苺の酸味が重なった。
思わずふんわり笑顔が漏れる。
誰かに喜んでもらえるように考えながら、自分の手で材料を混ぜて、焼いて、可愛く飾る。
戦うための力とはまるで違うけれど、こうして笑顔をひとつ増やせるのなら。
「誰かに喜んでもらえるものを、自分の手で作れるって素敵ね」
ライラは星の乗ったパンケーキを眺めながら、ふと首を傾げた。
「……もしかして、これも『じょしぢから』なのかしら?」
まだ、その正体はよく分からない。
けれど今日は武器を取らずにふわもこを満足させて、自分まで楽しい気持ちになれた。
それなら、今日は。
甘い苺と焼きたての香りに包まれながら、ライラは満足そうにもう一口、ふわふわのパンケーキを頬張った。
「ケア満喫できたー?」
「まあ、ボチボチかな」
料理教室で待ち合わせていた賀茂・和奏(火種喰い・h04310)と合流すると、縁珠はいつも通りの淡々とした調子でそう答えた。
先ほどまでのネイルやマッサージの話を交わしつつ、二人は並んで今日の調理台へ向かう。
泡立て器やボウル、卵、薄力粉、砂糖、バター、それから瑞々しい果物まで、使いやすいよう綺麗に揃えられた調理台は使いやすそうで、とっても清潔。
「……で、そっちも食べたいの考えた?」
縁珠が和奏の見ているレシピ一覧を覗き込むと、和奏もその隣で見やすいように頁を捲る。
「んー、まだ決めかねてて……ワッフルもスフレもありだなぁって」
「直感で選べば良いのに」
「いやあ、どっちも美味しそうで」
「……ふむ」
縁珠は少しだけ考える。
ワッフル。
スフレ。
ふわもこへ差し出すなら、どちらも申し分ない。
それに相手は和奏だ。激務の最中でも三食きっちり食べる健啖家なのだから、片方だけより両方あった方がきっと喜ぶ。
「わっきーは食べ盛りだし、使える材料は二人分。手も四本」
「食べ盛りって歳でもないけどね?」
「両方いってみるー?」
縁珠は何でもないことのように言った。
「両方?」
「アメリカンワッフルなら、ココットスフレ焼いてる間にできるし」
「なるほど」
和奏の顔がぱっと明るくなる。
「二種作って交換も、二人ならできるか」
けれどすぐに縁珠へ視線を向けた。
「縁さんは食べたいのない? 大丈夫?」
「縁が遠慮するとでも?」
「しないかぁ」
「しないなー」
即答。
縁珠はそのままボウルとホイッパーを和奏の手へ渡す。
「ほれ。じゃあ協力の方向で」
「ありがとう。お願いしちゃお」
手洗いを済ませエプロンを整えれば、まずはスフレから。
「基本はレシピ通りね」
縁珠が材料を確認しながら言う。
「でも夏だし、レモンスフレは如何?」
「レモン爽やかでいいね。好きだし賛成ー」
そうと決まれば話は早い。
卵黄と卵白を分け、縁珠は卵黄側へ砂糖と牛乳、それからほんの少しのレモン果汁と、細かく削ったレモンの皮を加えていく。
白いボウルの中へ落ちる黄色い皮は、夏の日差しを小さく刻んで散らしたように鮮やかで。
「もうレモンのいい匂いがするな」
和奏が少し顔を寄せる。
「うん。焼くともっと出ると思う」
縁珠はそこへ薄力粉をふるい入れ、だまにならないよう滑らかに混ぜていく。
一方、和奏に任されたのは卵白。
「ふわふわメレンゲは任された!」
「砂糖は何回かに分けてね」
「了解」
ホイッパーを動かす音がしゃかしゃかと軽快に響く。
透明だった卵白が白く泡立ち、細かな気泡を抱き込んでいく。砂糖を加えるごとに艶が増し、やがて柔らかな雪のような質感へ変わっていった。
「これくらい?」
和奏が泡立て器を持ち上げる。先端には、つんと綺麗な角。
「うん。良い感じ」
「お、褒められた」
「ちゃんと出来てるからね」
縁珠はそう言いながら、自分のボウルを和奏の方へ寄せる。
「じゃ、これに混ぜてってなー」
「はいはい」
最初に少量のメレンゲを馴染ませ、それから残りを二回ほどに分けて加える。
「泡を潰さないように、下から」
「慎重にやるやつ?」
「そう」
和奏の手つきも、先ほどまでの軽さから少しだけ丁寧に。
ふわりと持ち上げて、返す。また持ち上げて、返す。
黄色の生地と白いメレンゲが少しずつ混ざり、やがて淡いレモンクリーム色へ整っていく。
「きれいだな」
「ね」
出来上がった生地は小さな白いココットへ。
縁の少し下まで満たされた生地は、まだ静かで平らだった。
「これが膨らむの面白いよね」
「あとはオーブンに仕事してもらおー」
天板へ並べて、そのまま庫内へ。
扉を閉じれば、次は待ち時間――ではない。
✦
「じゃ、ワッフルね」
「早いね」
「何という時短連携プレイ」
「ふふ、良いチームになれてるなら嬉しいとこだな」
和奏も笑って、次のボウルを手に取った。
アメリカンワッフルは、スフレより少し気楽だ。
卵、牛乳、溶かしバター、砂糖。そこへ薄力粉とベーキングパウダーを加え、粉気が消えるくらいまでさっくりと混ぜる。
「今度は俺がこれやる?」
「じゃあお願い」
縁珠は隣でトッピング用の果物を見繕い始める。
「ワッフルはー……縁さん何乗せたい?」
「んー」
「ホイップは俺が混ぜるとして。彩りセンス的にも好み的にも、果物任せたいな」
「ならバナナとチョコ掛けで」
「即決」
「相性いいし」
「間違いないね」
縁珠はバナナの皮を剥き、少し厚めの斜め切りへ。断面の淡い黄色が綺麗に見えるように揃えていく。
その横で和奏は、生クリームの入ったボウルを氷水へ当て砂糖を加えて泡立てる。さらりとしていた白い液体が少しずつ重たくなり、泡立て器を持ち上げれば、柔らかな角がふわりと立った。
「このくらいでいい?」
「ちょうどよさそう」
その時、和奏がふと鼻を動かす。
「……しかし、お菓子の焼ける匂いってお腹減って来るなあ」
オーブンからは、レモンと卵、バターが混じった甘い香り。
ワッフルメーカーを温めれば、今度はそれに溶けたバターの香ばしさまで加わる。
「まだ食べちゃだめだよ」
「分かってる分かってる」
「でも、生地もおいしそうだよねー」
「アメリカの方だと生地のまま食べるお菓子とかあるらしいよ」
温まったワッフルメーカーへ生地を流す。
淡いクリーム色の生地が格子の溝を埋め、蓋を閉じれば、じゅわ、と小さな音がした。
少し待ってから開くと。
「おー」
中はこんがりと黄金色。
表面にはくっきりした格子模様が並び、縁はかりっと香ばしく、中にはまだ柔らかな弾力が残っている。
「良いね」
「うん。綺麗に焼けた」
縁珠は焼きたてを網へ移し、続けて二枚目へ。和奏も手伝って生地を流し、二人で次々に焼いていく。
「あ」
その時、縁珠がオーブンを見た。
「膨らんでるねー」
「ほんとだ」
透明な扉の向こうで、ココットの生地はゆっくりと持ち上がっていた。
最初は器の中へ収まっていたのに、今では縁を越えてふっくらと丸く盛り上がっている。
表面は淡い金色。中心にはほんの少し白さが残り、柔らかな雲を小さな器へ閉じ込めたようだった。
「おいしそう」
和奏が素直に言う。
「でしょ」
「レモンの匂いもいいな」
焼き上がったスフレを取り出すと、甘い熱気と一緒に爽やかな香りがふわりと広がった。
粉糖を薄く振れば、淡い焼き色の上に真っ白な雪。さらに削ったレモンの皮をほんの少しだけ散らす。黄色と白だけの、夏らしく涼しげな仕上がりだ。
「こっちはこれで完成ね」
「じゃ、次ワッフル盛ろうか」
焼き上がったワッフルも一枚ずつ皿へ。和奏が泡立てたホイップを、縁珠がすくって中央へふんわりと乗せる。
「このくらい?」
「もう少しあってもいいんじゃない?」
「わっきー基準?」
「食べるならいっぱいの方が嬉しいでしょう」
「それはそう」
満場一致のため、遠慮なくもう一匙。
真っ白なホイップの周囲へ、縁珠がバナナを扇のように並べていく。淡い黄色の果肉が黄金色のワッフルによく映える。
仕上げはもちろんチョコソース。
和奏が細く垂らすと、艶やかな焦茶色が格子の溝を伝い、白いホイップの上へゆっくり線を描いていく。
最後に砕いたナッツを少しだけ散らせば完成だ。
「おー」
「ちょっとカフェっぽい」
ふかふかのレモンスフレ。
外はさくり、中は柔らかなバナナチョコワッフル。
白と黄色を基調にした皿は、真夏の午後の陽射しみたいに明るく、甘い匂いまで柔らかく見える。
「これは自分達も食べたいね」
和奏がしみじみと言う。
「ふわもこ君達にもだけど」
「もちろん」
縁珠はスフレを一つ、試食用としてふわもこへ差し出す。
「はい。お納めして」
スプーンを入れれば、ふるっと表面が揺れる。
中はしっとりとして柔らかく、熱の残った生地からレモンの香りが一層濃く立ち上った。
「良い反応じゃない?」
「満足してそう」
ふわもこが満足したなら、今度こそ二人の番。
「いただきます」
「いただきまーす」
和奏はまずスフレから。
スプーンで掬えば、軽い生地がふわりと崩れる。
「ん」
口へ運んだ途端、目元が緩んだ。
「美味しい。甘いけど、レモンでさっぱりしてる」
「夏向けでしょ」
「これは何個でもいけるやつだ」
「そんなに個数作ってないよ」
一方、縁珠はワッフルを切り分ける。
表面はさくりと小気味よく、中はふんわり。そこへ冷たいホイップと柔らかなバナナ、濃厚なチョコが重なる。
「……うん」
「どう?」
「王道はつよい」
「分かる」
結局のところ、美味しいものは美味しい。
二人で違う皿を少しずつ交換しながら、スフレとワッフルを味わっていく。
「こういうの、二人でやると効率いいな」
和奏がワッフルを頬張りながら言う。
「スフレ焼いてる間に次の作れて」
「手も四本あったし」
「良いチームだったね」
「ボチボチ」
「そこはもうちょい褒めても良くない?」
「良かった」
「お、昇格した」
食べ終えた後、縁珠は残っているワッフルを確認した。
スフレは出来たてがいちばん。
けれどワッフルなら、冷めても持ち帰りやすい。
「残り、包んで奏さんへ」
「え。お土産?」
「うん」
「やったー」
和奏が素直に喜ぶ。
縁珠はワッフルを一枚ずつワックスペーパーで包み、透明な袋へ重ねていく。
少しだけ空気を逃がして口を閉じれば、持ち歩くにも嵩張らない。チョコやクリームを載せていない分、家へ帰ってから温め直してもいい。
「これならお土産も邪魔にならんしね」
「ありがたい。明日の朝でも食べようかな」
「わっきーなら今日中に食べちゃいそー」
「否定はしません」
小さく笑いながら、和奏が包みを受け取った。
テーブルには、食べ終えた皿と、レモンの爽やかな残り香。
最初はどちらか一つに決めるはずだったのに、気づけば二種類とも作って、二種類とも食べて、おまけにお土産まで出来ている。
「欲張って正解だったね」
和奏が袋を受け取りながら言う。
ふわもこも満足。
二人の腹も満足。
スフレのように軽く、ワッフルのように香ばしい午後は。
二人で手を動かしたぶんだけ、少しだけ欲張りで、ずっと美味しい時間になった。
「次は、お菓子作り……!」
ネイルで彩った指先を胸元へ寄せながら、ラデュレは料理教室いっぱいに並ぶ甘い見本を紫の瞳できらきらと眺めていた。
ふっくら膨らんだカップケーキ。真っ白なクリームを纏ったケーキ。粉糖を雪のように被った焼き菓子に、色とりどりの果実を飾ったタルト。
「何をお仕立ていたしましょうか……」
どれも可愛らしくて、目移りしてしまう。
その隣で泉純もレシピを一枚ずつ捲っていたが、やがて、ころんと丸い菓子が幾つも並んだ頁で手を止めた。
「お菓子……マカロンなんて、どうかな」
「マカロン……!」
ラデュレの兎耳がぴんと立つ。
薄桃色、白、黄色に紫。小さく丸い生地の間へクリームを挟んだそれは、宝石箱へ収められた春の色のよう。
「可愛らしくて、美味しくて、大好きです」
「泉純も好きなお菓子なの」
「では、こちらにいたしましょう……!」
もっとも、レシピの説明へ目を落としたラデュレは、すぐに表情を引き締める。
「マカロンとは、どのようにお仕立てをするのでしょう?」
「作るの難しいって、聞いたことあるけど……」
二人揃ってじいと、レシピと睨めっこ。
レシピによると、手順はこう。
卵白を泡立てて。
粉類を合わせて。
マカロナージュという工程を経て。
絞って、乾かして、それから焼く。
「工程だけ見ると思ったよりシンプルに思えますが」
「このマカロナージュっていうのが難しいんだって」
「難しい……」
「うん。……でも、ラーレとなら、きっとうまくいくと思う」
泉純が元気づけるようにふわりと笑うと、ラデュレも嬉しそうに頷いた。
「はい! 精一杯がんばります……!」
難しさを知れば知るほど、上手に出来た時の喜びもきっと大きい。
二人はもう一度レシピへ顔を寄せ、まだ形もない春色のお菓子へ期待を膨らませた。
さて、可愛らしいマカロンは――無事にお仕立てできるでしょうか。
✦
まずは材料の準備から。
「泉純さまは、お菓子作りをされますか?」
「ん……趣味くらいだけど、好きだよ。クッキーとか、タルトとか」
「まあ、クッキーやタルト……!」
ラデュレの目が輝く。
「わたくしは、お友だちとお仕立てをしたくらいなのです」
「あ、でも……泉純もそんなに上手ってほどではない、よ」
「でしたら、一緒に覚えていけますね」
「そうだね」
ふたりで笑って、それぞれ得意そうな作業を受け持つことにした。
「計量は、得意です。お任せくださいませ……!」
「ふふ。じゃあお願いするね」
ラデュレはスケールの前へ立つと、途端に真剣になる。
アーモンドプードルに粉糖。グラニュー糖。
ひと匙ずつ、表示される数字を確認しながら慎重に器へ移す。ほんの少し多ければ戻して、足りなければまた一粒ずつ足していく。
「……ぴったりです」
「すごい。ほんとにぴったり」
「こういった作業は好きなのです」
得意げというより、ほっと満足するような微笑みだった。
一方の泉純は卵白を準備。
「泡立てながら、計ってもらったグラニュー糖を少しずつ入れて……」
ハンドミキサーを回せば、しゃらしゃらと軽い音を立てながら、透明だった卵白が白く泡立っていく。
「機械で混ぜると、すごく綺麗にできちゃう、ね」
最初は儚い泡だったものが、次第に艶を持ち、真珠色の雲のようにきめ細かく変わっていく。
「泉純さま、角が立ってまいりました」
「うん。もう少しだけ……」
ミキサーを持ち上げると、真っ白なメレンゲの先端がつんと可愛らしい角を立てていた。
「できた!」
「まあ……!」
ラデュレも嬉しそうに覗き込む。
「ここからお色付け、ですね」
二人が選んだのは、薄桃色に白、薄紫と柔らかな黄色。
「なんだか春っぽくて、かわいいカラー」
「ええ。お花の色のようです」
ほんの少しずつ色を加えれば、四つのボウルには淡く優しい春色が並んだ。
ここへ、先ほどふるったアーモンドプードルと粉糖を加える。
「粉を入れて、さっくり混ぜ合わせる……」
ラデュレがゴムベラを握る。
「さっくりとは、こう……でしょうか」
「うん。最初は潰しすぎないように、ね」
泉純も隣で同じように混ぜていく。
ふわふわだったメレンゲが粉を抱き込み、少しずつ重さを増していく。
そして、ここからがマカロンらしい大事な工程。
「今度は、ボウルに擦るように伸ばして……」
泉純がゴムベラで生地を側面へ押しつけ、ゆっくりと気泡を整える。
ラデュレもその動きを真似する。
「メレンゲを作ったのに、今度は少し潰すのですね……?」
「不思議だよね。でも全部残したままだと、綺麗にならないみたい」
「お菓子作りは奥深いです……」
伸ばして、集めて、また伸ばす。
やりすぎても足りなくてもいけない繊細な工程に、二人ともいつしか真剣な顔になっていた。
「……あ」
ラデュレがゴムベラを持ち上げる。
薄紫の生地がとろりとゴムベラから零れるが、途中で途切れず、幅のある帯になってボウルへ落ちていく。
「泉純さま。リボン状になってまいりました」
「ほんと。いい感じだよ」
「これが、マカロナージュ……」
ラデュレは楽しそうにその言葉を繰り返す。
「お洒落な名前です」
「ふふ。響きもお菓子みたいだね」
いよいよ、形を作る。
絞り袋へ生地を詰め、まずは基本の丸型から。
ラデュレは天板へ敷いたシートの上へ、ひとつずつ慎重に絞っていく。
「丸く、丸く……」
ぽてん。ぽてん。
薄紫と黄色の小さな丸が、規則正しく並んでいく。
「お上手だよ、ラーレ」
「ありがとうございます……! では、こちらは少し形を変えてみてもよろしいでしょうか」
せっかくなら、もっともっと可愛らしく。
「お星さまのかたちにしてみたいです」
絞った生地の先を少し伸ばし、五方向へ角を作る。
完璧な星ではないけれど、少し丸みを帯びた姿はそれもまた愛らしい。
「かわいい……!」
泉純も目を輝かせる。
「じゃあ、泉純は桜にしてみたい」
薄桃色の生地を中心から五つ。一枚ずつ、小さな花弁を描くように絞っていく。
「この辺を、ちょっと細く整えて……」
爪楊枝で花弁の先を少しだけ尖らせれば、小さな桜の形。
「わあ……!」
ラデュレが嬉しそうに兎耳を揺らした。
「泉純さまの桜、とても可愛らしいです……!」
「ラーレの星も。夜空に浮いてるみたい」
丸に桜、星。淡い色が天板いっぱいに並ぶと、それだけでもう小さな砂糖菓子の庭のようだ。
表面を乾かしてから、いよいよオーブンへ。
天板を中へ入れ扉を閉める。
あとはもう、焼き上がりを待つだけだ。
ラデュレは早速オーブンの前へと座り込んで、そうと中を覗き込む。
「……」
「ラーレ、近いよ」
「気になってしまいまして……」
紫の瞳が、硝子の向こうを見つめている。
泉純も釣られるように隣へ並んだ。
「焼きあがるまで、ドキドキだね」
「膨らんでくださるでしょうか……」
「きっとうまくいくよ」
少しずつ熱が回り始めると、甘いアーモンドの香りがふわりと漂ってきた。
「この、お菓子を焼いてる匂い……ほんとうに大好き」
泉純が目を細める。
「わたくしもです。まだ食べていないのに、幸せな気分になりますね……」
やがて、「あ……!」とラデュレが小さく声を上げた。
マカロンの下側に、小さな膨らみが現れている。
薄桃色の桜にも。黄色の丸にも。薄紫の星にも。
生地の裾から、細かな泡を重ねたような縁取りがふっくら育っていた。
「泉純さま、見てくださいませ……!」
「できてる……!」
焼き上がりを知らせる音に、二人は期待いっぱいに天板を取り出した。
「綺麗に焼きあがりました!」
「かわいい……成功してよかった」
表面はつるんと滑らかで、春らしい淡い色も綺麗に残っている。その下には、波打つような小さな縁。
「此処が……フリルのようです」
「それはピエっていう……らしいよ」
「ピエ?」
泉純が桜のマカロンを持ち上げれば、花弁の下から白っぽいピエが覗き、まるで小さなレースのようだった。
冷ましている間に、今度は中身。
冷ました生地には、それぞれバニラや苺、レモン、ベリーのクリームを。
片側へ丸く絞って、もう一枚をそっと重ねる。押しすぎないよう優しく挟めば、ころんと小さなマカロンの完成だ。
「できました……!」
「泉純も」
薄桃色の桜から苺色のガナッシュがちらりと覗き、二人は嬉しそうに顔を見合わせた。
「かわいい……」
泉純の桃色の瞳が嬉しそうに和らいだ。
けれど二人の女子力強化は、まだまだ終わらない。
「表面にもデコしてみよう」
「わたくしも、いたしましょう……!」
溶かしたホワイトチョコと苺チョコを、細いコルネへ。
星には、白いチョコで小さな流れ星の尾を。
桜の花弁には、さらに細い白の線を重ねる。
中心には小さな金色の粒を一つだけ。
「イメージは、春の夜」
「まあ……!」
二人のマカロンを並べる。
桜の花。
淡い星。
どれも掌に隠れてしまうほど小さくて、可愛らしい。
「とっても可愛らしく仕上がりましたね」
「うん。食べちゃうの、ちょっと勿体ないくらい」
「ですが……マカロンは食べても美味しいところが、大好きなのです」
「ふふ。じゃあ、食べようか」
ふわもこへも幾つか取り分けて。
二人もそれぞれ、ひとつずつ。
「いただきます……!」
歯を立てれば、外側はさくり。
そのすぐ後に、生地の内側がしっとりとほどけて、なめらかなガナッシュが舌の上で溶けていく。
「……!」
ラデュレの兎耳がまた立った。
「美味しい……」
ベリーの淡い酸味に、ホワイトチョコのまろやかな甘さ。アーモンドの香りが後から優しく広がっていく。
泉純の桜は、苺の甘酸っぱさ。
「甘くて、蕩ける……」
泉純は幸せそうに目を細める。
「至福の時……だね」
「はい……!」
一緒にレシピを読み、可愛い色を選び、難しい工程にどきどきしながら、オーブンを二人で覗き込んだ。
そうして出来上がった小さな菓子は、買って食べるものとはまた違った味がする気がした。
「泉純さま」
「なあに?」
「マカロンを作るのは、少し難しかったですけれど……」
ラデュレは星型のマカロンを指先へ乗せ、嬉しそうに笑った。
「また、お仕立てしてみたいです」
「泉純も。次は、もっと違うのにも調整したいな」
薄桃色の桜と薄紫の星が、皿の上で寄り添う。
前の頁では、二人の指先に海が生まれた。
そして今の頁には、甘い春の花とひとつぶの星。
一つずつ増えていく夏の思い出は、今ここで新しく綴られていくものだ。
甘い香りの中で二人はもう一つマカロンを選ぶ。
次はどれにしましょうと迷う時間まで、きっとお菓子作りの楽しさのうち。
ふわもこも満足そうなら、今日の実践訓練も無事成功だ。
色とりどりのマカロンを囲みながら、二人の夏の物語にはまたひとつ、可愛らしくて甘い頁が加わった。
第3章 ボス戦 『人間災厄『リンゼイ・ガーランド』』
夜の帳が降りた頃、リンゼイ・ガーランドは三度、難しい顔をしていた。
目の前に広がるのは昼間とはまるで違う姿へと変わったプール。
流れているのは夜の空気に似合う軽やかな音楽だ。
水辺のテーブルではドリンクを片手に寛ぐ者もいれば、光る浮き輪へ身体を預けて漂う者もいる。
「……これが、第三の女子力強化」
リンゼイは『今日から無敵♡最強ガールの女子力強化バイブル』を開いた。
そこには大きな文字で、
『夜こそ本番♡ 光と音楽に包まれて、最高に映えるナイトプールで最強ガールになっちゃお!』
と書かれている。
「光学演出下における水中活動……?」
とはいえ、今日のナイトプールは全年齢対象。
大人びた雰囲気こそあるものの、アルコールを飲まなければ楽しめないような場所ではない。
泳いでもいい。
浮き輪で漂ってもいい。
音楽を聞きながらプールサイドでのんびりしてもいいし、冷たいドリンクを片手に夜風へ当たるのもいい。
友達と賑やかに遊んでも、誰かとゆっくり話しても、ひとり気ままに夏の夜を満喫しても構わない。
まずは遊び方――もとい、強化方法から考えるべきだろう。
この夜だけの特別メニューとして、プールサイドのドリンクスタンドには『女子力強化バイブル』で紹介されていたスペシャルドリンクも並んでいる。
『スターライト・ブルー』
『サンセット・ピーチ』
『ムーンミルク』
どれもノンアルコールのドリンクだが、希望者にはアルコール入りでの提供もできる。
「飲料まで戦力強化に含まれるのですか?」
リンゼイはスターライト・ブルーの見本写真をじっと見る。
そこには『かわいいを補給すれば女子力もテンションも爆上がり♡』と書かれていた。
「……士気向上用の補給物資」
納得した。
また、ナイトプールといえば忘れてはいけないのが写真撮影だ。
プールサイドには、月や星を模したイルミネーションのアーチ。水面へ光の花が広がる撮影スポット。ハート形の浮き輪や、透明な椅子、夜空を背景に写真を撮れるスペースまで用意されている。
今年新調したとびきりホットな水着を見せたいなら、とびきり綺麗にポーズを決めるべきだろう。
同行者と肩を寄せても、ドリンクを並べても、浮き輪へ寝転がって撮ってもいい。
勿論、リンゼイを捕まえて記念撮影をお願いするのも自由だ。
――そして。
もし。
『じょしぢからといえば力!』
『やっぱり最後は戦闘でしょう!』
などと考える者がいるのなら。
プールの正面には、小さな特設ステージが用意されている。
普段は音楽や簡単なショーを行うための場所だが、模擬戦闘としても使える。
夜のイベント枠がひとつ急遽空いたらしく、その時間帯なら戦闘動作もショーの演出として披露できる。
ショーとして成立する範囲であれば、リンゼイ・ガーランドとの戦闘が可能だ。
いつもの戦いより映えを意識してもいい。照明の色を変え、音楽に合わせ、派手な技を見せるといいだろう。
「ふむ」
リンゼイは改めて、プールとドリンクスタンド、撮影スポット、それから特設ステージを順番に見た。
泳ぐ。
寛ぐ。
飲む。
撮る。
そして、ステージショー。
「……第三の女子力強化は、選択肢が多いですね」
本人は至って真剣である。
こちらも好きな水着で好きなように夏の夜を楽しむとしよう。
光る水面へ飛び込んでもいい。
冷たいドリンクを片手に、音楽へ耳を傾けてもいい。
お気に入りの場所で記念写真を残してもいい。
そして、もし拳や刃の方が性に合うのなら――ステージの上で、リンゼイへ挑んでみてもいい。
第三の女子力強化訓練は、色とりどりの光を水面へ散らしながら始まる。
色とりどりの光が水の上でほどけていた。
青、紫、桃色。プールの底から浮かび上がる光が細かな波に揺らされ、夜の水面いっぱいへ砕けた宝石のような輝きを散らしている。軽やかな音楽と人々の笑い声が遠く近く重なり、濡れたタイルにはイルミネーションが淡く映り込んでいた。
その光の中に、曉は一足先に身を浸している。
灰色の髪は夜の照明を受けて青銀にも見え、普段なら隙なく整えているそれも水辺ではどこか柔らかい。黒いスイムショーツは装飾を抑えたシンプルなものだが、そのぶん鍛えられた身体の線がよく映えた。腹部へ落ちる淡い影の中には花と刃を思わせる繊細な意匠が覗き、羽織った黒いラッシュガードは濡れた布地に青い光を薄く拾っている。
足元まで黒で揃えたサンダルも含め、派手さはないのに妙に目を引く。
本人はそんな視線などどこ吹く風で、プールの縁へ腕を預けながら、水面を渡っていく光を眺めていた。
「……中々、綺麗なものですね」
きらきらとした夜景はほんの少し眩しい。
そんな感想を胸の内へ置いた頃、プールサイドの向こうから見慣れた赤が近づいてきた。
曉はそちらへ顔を向け、そして、ゆるりと手を上げた。
「未明」
「……どーも」
四十万・未明(ぜんぶだいきらい・h12202)は、それだけ返して歩いてくる。
足取りからして既に億劫そうだ。
鮮やかな赤髪には黒が混じり、夜の光を受けるたび燃えるような赤から深い暗色へと表情を変える。上半身はほとんど裸で、黒いパーカーを肩へ引っ掛けるように羽織っているだけ。首元にはいつもの幅広の黒いチョーカーと鎖、手首にはいつもと違う革のバンドが重ねている。
対して水着は、緑を基調に紫や青の葉が重なるトロピカル柄のボードショーツ。真夏の遊び場にはよく似合う柄なのに、着ている本人の気怠げな顔との落差が妙に映えていた。
そして何より目立つのが、腕へ引っ掛けた巨大なハンバーガー型の浮き輪である。
曉の口元が僅かに緩んだ。
「随分、楽しそうな浮き輪ですね」
「俺が選んだみたいに言わないでくれます?」
未明は心底面倒そうにそれを抱え直した。
「呼び出されたから来ただけなんで」
「ちゃんと来てくれたでしょう」
「命令だったからっすよ」
返しながら、未明は曉を上から下まで一度見る。
「なんか色々楽しんでたすね」
「ええ、それなりに」
「色々送ってくるから確認すんの面倒でした」
ネイルだの菓子だの、その度に届くあれこれを思い出しているのだろう。
曉は悪びれるでもなく微笑んだ。
「仕事の一環で女子力を上げていましてね。その総仕上げなんですよ」
「女子力。総仕上げ……」
復唱する声には、微塵も興味が感じられない。
「ちっ……水着で来たら酒飲めるんじゃねえのかよ」
「酒もいいですが。折角ですからね」
曉はプールサイドまで歩み寄り、水から上がった片手を差し出した。
「一緒に泳ぎましょうか?」
「めんどくせえんですけど」
「未明」
「……で、何したらいいんすか」
結局、従う。
未明はハンバーガーを脇へ置いてサンダルを脱ぐと、のろのろとプールの縁へ腰を下ろした。
爪先が水へ触れる。思っていたより冷たい。
「……つめた」
小さく零しながら、そのまま足首、脛と水へ沈めていく。
周囲では誰かが光るボールを投げ合い、遠くでは写真を撮るための歓声が上がっていた。何がそんなに楽しいのか、未明にはやはりよく分からない。
「こんなん何が楽しいんだか」
「少なくとも皆さんは楽しそうですよ」
「俺は酒がまだなのが不満なんすけど」
「後でちゃんと用意しますよ」
「まだすかね」
「今入ったばかりでしょう」
曉は苦笑して、未明は盛大に溜息を吐く。
そのまま水際で止まるつもりだったらしいが、曉が差し出した手は引っ込まない。
「ほら」
「……」
「未明」
「はいはい」
面倒そうに手を乗せる。
指が絡んだわけでもない。ただ手を取られ、軽く引かれる。
その程度のことだった。
未明は抵抗もせず、ゆっくりと水の中へ入っていく。
胸元まで水へ沈めば、まとわりついた夜気の熱もすぐに遠ざかる。赤い髪の先が濡れ、光を含んだ雫を落とした。
曉は手を離さないまま、少し先へ進む。
「色んな光が水面に揺れて、中々賑やかで楽しいでしょう」
青い光が二人の腕を滑り、次には紫へ変わる。
「どこか、移りゆく空を映したようでもあって」
返事はない。
未明はぼんやりと水面を見ていた。水面と、水面の先に広がる光景を。
少し先を行く曉の肩。濡れた灰色の髪。こちらを引く手。
力は強くない。振りほどこうと思えば、たぶん簡単に離れられる程度だ。
それでも未明は離さなかった。
命令されたからと言えばそれまでで。面倒だから逆らわないだけだ、と言ってしまえばもっと簡単だ。
曉も何も言わない。ただ未明の歩幅に合わせるように少し速度を緩め、水を掻く音だけを静かに残していく。
そういうところが楽なのだ。
必要以上に振り返らず、それでも置いていかない。
――その感覚が、ひどく遠い何かを掠めた。
引かれる手。水の冷たさ。自分より先を進む誰かの背中。
昔、同じようなことがあった気がする。
ひどく遠い記憶だ。まだ身体が小さかった頃に手を引いていたのは、誰だったか。
いや。
覚えている。
兄貴だ。
水辺だったのか、川だったのか、それとも夏のどこかだったのか。細部はもう曖昧なのに、先へ行く大きな手だけが妙に残っている。
転ぶなよ、とでも言われた気がする。
未明は目を細めた。
けれど、その記憶を拾い上げようとはしなかった。
「……思い出すのもめんどくせえし」
「何か言いましたか?」
「別に」
「そうですか」
曉は追及しない。
それが楽だった。
何を考えているのか。何を思い出したのか。悲しいのか、懐かしいのか。いちいち名前を付けなくていい。
どうでもいい。
今、目の前にいるのは曉だ。
今、手を引いているのも曉で。
水面の光が揺れるたび、黒い水着と白い肌が明滅して見える。こちらを振り返る黒い瞳は、他の誰でもなく未明へ向けられている。
それが事実で。
それだけ分かっていればいい。
曉もまた、返らない言葉を求めてはいなかった。
未明が今、何を思い、何を感じようが構わない。
楽しいと思わなくても。夜景に感動しなくても。女子力など心底どうでもよくても。
ただ、自分がこうして一緒に過ごしたかった。
それだけだ。
不意に曉が少し強く手を引く。
「わ」
未明の身体が前へ傾き、水が大きく揺れた。
「何すんだよ」
「折角プールへ入ったのですから、少しくらい泳ぎましょう」
「聞く前に引っ張ってんじゃねえよ」
文句は言う。けれど離れない。
二人が進むたび、青と紫の波紋が重なっていく。
未明の派手なボードショーツも、水の中では植物の模様が揺らいで、まるで南国の葉が夜の水底へ沈んでいるようだった。
しばらく付き合ったところで、未明はとうとう限界を迎えたらしい。
「あー……もういいでしょ」
「早いですね」
「十分でしょ」
そう言った途端、先ほどまでとは打って変わって陸へ向かう速度だけは速い。
「やっと酒が飲める」
口端がにたりと歪んで、ざばっと勢いよく水から上がる。
肩へ掛けていた黒い布も赤髪もすっかり濡れ、雫が背中や胸元を伝って落ちていく。水を吸った髪をかき上げることすら面倒なのか、そのまま放置して椅子へ座ろうとしたところで。
「未明」
「何すか」
「その前に、ほら」
曉がタオルを広げた。
「髪、乾かしましょうね」
「……任せます」
未明は椅子へ深く腰掛け、完全にされるがままになる。
曉は慣れた様子で赤い髪をタオルへ包み、水気を取っていく。
「自分でやる気は?」
「ないっす」
「でしょうね」
くしゃりと髪を拭かれても、未明は抵抗しない。
その代わり、視線だけは既にドリンクスタンドへ向いている。
「酒」
「分かっていますよ」
「あの辺の奴も全部アルコール入りにできるんすよね」
「ええ。特別な一杯を呑みに行きましょうか」
曉は濡れた灰髪を軽く掻き上げ、穏やかに笑った。
「勿論、アルコール入りでね」
その言葉に、ようやく未明の機嫌が少しだけ上向いたらしい。
「最初からそうしてりゃ良かったんすよ」
「泳ぐのも悪くなかったでしょう?」
未明は一瞬だけ、まだ揺れている水面を振り返った。
「別に」
「そうですか」
青と紫、桃色の光。
誰かに手を引かれた感触は、もう掌には残っていない。
「酒の方が万倍も重要すよ」
「はいはい」
曉は笑い、未明の頭へもう一度タオルを被せた。
光に満ちた夜のプールを背に、二人はようやく本命の一杯を求めて歩き出した。
昼の太陽が沈みきれば、プールはまるで別の世界。
水底から滲む青や紫の光がゆるやかな波に砕け、プールサイドには星を散らしたようなイルミネーションが連なっている。遠くから響く音楽も軽やかで、笑い声と水音の合間を縫うように夜風が抜けていった。
「境華さん、ナイトプールですよっ! なんだかとかくキラキラしていますね!」
弾んだ声に、境華は金の瞳をぱちりと瞬かせた。
「これがナイトプールなのですね、シンシアさん」
知識としてなら知っている。けれど、実際に足を踏み入れてみれば、写真や文章だけでは拾いきれないものがたくさんあった。
揺れる光に水面に映る人影。冷たい水の匂いと、ドリンクスタンドから漂う果物の甘い香り。
そして、その景色の中に立つシンシアもまた、いつもとは随分違って見えた。
長い金髪は夜の照明を受けて淡い蜂蜜色に煌めき、耳元には白い薔薇の飾り。身に纏うのは白を基調に、深い青の縁取りを利かせた水辺の装いだ。片側の肩を優雅に見せるトップスから、腰元には柔らかな布を幾重にも重ねたようなロングのパレオが流れ、歩くたび裾に描かれた白い花や星の意匠が波のように揺れている。
透けるほど繊細なレースの手袋まで合わせれば、ナイトプールというよりまさしく海辺の舞踏会へ抜け出してきた淑女のようだった。
背の白い翼も相まって、色とりどりの照明の中にいてさえ不思議と涼やかだ。
「境華さんも、とっても素敵ですよ」
「え……ありがとうございます」
突然褒められて、境華は少しだけ視線を落とす。
境華が選んだのは鮮やかな青のワンピース水着だった。
胸元を縁取る二段のフリルは、水色から深い青へと重なって小さな波のよう。腰回りにも同じ柔らかなフリルが添えられ、すっきりした形の中へ少女らしい可愛らしさを残している。
その上から羽織った薄い水色のロングガウンには、大ぶりな白い桜模様。
濡れれば肌へ纏いそうなほど薄い布が夜風に揺れ、長くまとめた黒髪には白い花と細い飾りが咲いていた。水着姿にもかかわらず腰にはしっかりとベルトと小さなポーチを携えている機能美が境華らしい。
鮮やかな青と黒髪、そして金の瞳。
水の光が肌を滑るたび、それらがくっきりと映えた。
「……少し、落ち着かないですね」
「そうですか? よくお似合いなのに」
「似合うかどうかとは、また別のお話です」
境華が控えめに答えると、シンシアは楽しそうに笑った。
その笑顔につられて、境華の頬も少し緩む。
「ところで私、なにぶん限定という言葉に弱くてですね」
「ああ」
境華は納得した。
「早速ドリンクを頂こうかと思っているのですが、ご一緒にいかがですか?」
「ええ。限定ドリンク、良いですね」
二人でドリンクスタンドへ向かえば、ライトに照らされたメニューには今夜限りの特別な三杯が並んでいる。
星を閉じ込めたような青。
夕焼けを思わせる桃色と橙。
月明かりのような白と淡紫。
「色味も大変にお洒落境……うーむ。境華さんはどれにします?」
「ええと……」
境華はしばらく見比べてから、白と淡い紫がゆっくり混ざり合うグラスを示した。
「では私は、ムーンミルクにします。穏やかな味がしそうですから」
ぶどう風味の淡いミルクソーダには小さな月形のマシュマロが浮かんでいる。
「私は……サンセット・ピーチにしようかなと」
シンシアは桃色から橙色へ移り変わるグラデーションの一杯を選び、
「あっ、アルコール入りでお願いします!」
忘れてはいけないとばかりに、すぐ付け加えた。
その迷いのなさに境華は目を細める。
「そこは即決なのですね」
「ええ。せっかくですもの」
「ふふ」
出来上がった二杯を手に取れば、それだけでも絵になる華やかさだった。
境華のムーンミルクは乳白色の中に淡紫がほどけ、月形のマシュマロがぷかりと浮かぶ。対するシンシアのサンセット・ピーチは、熟れた桃から夕陽へ移り変わるような色合いで、透明なグラスの中に花びら形のゼリーが揺れている。
境華が一口飲めば、優しい甘さに葡萄の香りがふわりと重なった。
「……穏やかな、優しい味ですね」
「こちらも美味しいですよ。桃の甘さがしっかりしていて……ふふ、お酒もちゃんと感じます」
「シンシアさんらしい感想です」
「褒め言葉として頂いておきますね」
グラスを持ったまま歩いていると、シンシアの視線がある一点で止まった。
「境華さん」
「はい?」
「せっかくの一杯、写真にも納めたいもので……」
指差した先には、撮影用に用意された大きなハート形の浮き輪。
「二人とも水着ですし、あれに乗って一枚いかがです?」
「こちらですか……?」
境華は近づき、ハートの輪郭をまじまじと見つめた。
「なんだか可愛らしい形の浮き輪ですね」
「でしょう? そして、あって良かった自撮り棒!」
いつ用意したのだろう。シンシアが得意げに取り出したそれを見て、境華は少し笑ってしまった。
「準備が良いですね」
「旅先の思い出を残すためには必需品ですから」
二人で浮き輪へ収まれば、思ったより距離が近い。
水面に浮かぶハートの中、境華の青い水着とシンシアの白い装いが並ぶ。
「境華さん、もう少しこちらへ」
「こうでしょうか?」
「はいはい、良いですね。ではドリンクも見えるように……」
二人でグラスを少し持ち上げる。背景には青紫に輝く水面と、星形のイルミネーション。
「これで一緒に映るでしょうか!」
「シンシアさん、少し切れているような……」
「あら。ではもう少し寄りましょう」
「えっ」
肩が触れ合うほど近づかれて、境華の姿勢が僅かに固まった。
「では、撮りますよ。三、二、一――」
ぱしゃり。
画面を覗き込む。
「わあ」
シンシアの銀の瞳が嬉しそうに細められた。
「よく撮れています!」
境華もその画面へ顔を寄せる。
光に包まれた二人。白と青の水着。手には月夜と夕焼けのようなドリンク。
いつもの服装で並ぶ時とは、まるで印象が違う。
「これは……なんだか」
自分の水着姿を改めて写真として見ると、急に意識してしまう。
フリルに縁取られた青い水着も、花柄の薄衣も、想像していた以上に鮮やかに写っていた。その隣では、白い衣装を纏ったシンシアが翼を広げ、柔らかな笑顔を浮かべている。
思った以上に、二人ともよく撮れている。
だからこそ。
境華は少しだけ頬に熱を感じた。
「どうしました?」
「……いえ。思っていたより、綺麗に撮れていたので」
「でしょう?」
シンシアは屈託なく笑う。
「ドリンクに、二人の水着に……素敵な思い出がまたひとつ」
「思い出……」
その言葉を、境華は静かに胸の中で繰り返した。
旅をしていれば、色々な景色に出会う。
新しい土地。初めて知る話。そこに生きる人々。
境華はそうしたものを物語として集めてきた。
けれど。
こうして誰かと一緒に笑って、自分自身もその景色の中へ写り込む日は、少しだけ違う。
物語を見つけるだけではなく。
自分たちで、今日という頁を作っているような感覚。
もう一度、写真を見る。
――すると急に、一枚だけで終わらせるのが惜しくなった。
「シンシアさん」
「はい?」
境華は浮き輪から抜け出すと、今度は自分からシンシアの手を取った。
「あちらにも、撮影スポットがありましたよね」
一瞬だけ驚いた銀の瞳が、すぐ楽しげに輝く。
「わっ、ぜひぜひ!」
シンシアも握り返して立ち上がった。
「いーっぱい写真撮りましょう!」
「……はい!」
次は月の形をしたイルミネーション。
その次は、水面へ花の光が広がる場所。
どこで撮るか。
どんな風に並ぶか。
「今度はシンシアさんの翼も、全部入るようにしましょう」
「では境華さんのガウンも綺麗に広げたいですね。ほら、少しこちらへ」
「ちょっと待ってください。裾を踏みそうです」
「ふふ、では私が持ちましょうか?」
「それだと写真に写れないのでは?」
相談する声が、夜の音楽へ混ざっていく。
今度は肩を寄せて、次は互いのドリンクを交換して。水面へ足を浸して一枚。
撮るたびに、同じ夜なのに違う景色が残った。
境華の金の瞳にもシンシアの銀の瞳にも、きらきらとした水面の光が映っている。
いつか今日を振り返った時、この写真から思い出すのだろう。
夜風の涼しさ。
甘いドリンクの味。
少し照れたこと。
一緒に次の撮影場所へ走ったこと。
新しい物語はいくつ見つかるのだろう、と境華は旅の先々で考える。
けれど今夜は。
探して見つけるばかりではなく、こうして作っていく物語も、きっと悪くない。
「境華さん、次はあちらです!」
「はい。今度はどんな写真にしましょうか」
二人の手はまだ繋がったまま。
青と白の裾を夜風へ揺らしながら、月と星の光が待つ次の場所へ駆けていった。
水底から浮かぶ青や紫の光が波のたびにゆらめき、ところどころ桃色や白のイルミネーションが混ざって、細かな星屑のように水面を流れていく。遠くでは軽快な音楽が鳴っているものの、プールサイドまで来れば夜風と水音の方が少し近い。
「『光学演出下における水中活動』。いい言葉ですねえ」
時雨はリンゼイの言葉をいたく気に入ったらしい。
けれど、すぐに人差し指を立てた。
「ただしね、リンゼイちゃん。乙女に関しては水上活動だよ。しっかりメイクして、髪も綺麗に整えてるんだから。濡らしちゃ駄目なの。それが乙女心」
それらしく説きながら、時雨自身は早くも水際に立っている。
「ま、ぼくは男心なので、じゃぶじゃぶ遊びますが!」
「そこはいいんだ」
少し離れたプールサイドからカナトがのんびり返した。
夜の水辺へ来た二人の装いは、同じ『水着』でも随分と趣が違う。
カナトは濃紺を基調に、大輪の菊や葉を淡い紫で描いたボードショーツ。夜色の布地に咲く花は落ち着いているのに華やかで、その上から柔らかな白いパーカーを無造作に羽織っている。胸元は大きく開いて肌を覗かせ、明るい髪も夜風に好き勝手遊ばせたまま。
けれど何より目を引くのは、人の姿には到底収まりきらない黒妖犬の名残だった。
膝下を覆う黒い獣毛と大きな足、その後ろでは豊かな尾がゆったり揺れている。
「夜風へ当たりながら冷たいの飲むの、オレは好きだよ~」
当人は既にプールサイドへ腰を落ち着ける気満々だった。
一方の時雨は、こちらも随分と夏らしい。
髪は高めにまとめ、そこから覗く二本の角が夜空へ白く伸びている。腰には紫紺の短い水着を結び、その上から大胆に羽織ったのは鮮烈な緑の和装だった。
裾へ向かうほど朱が燃えるように広がり、内側には大きな虎の姿まで覗いている。散らされた紅葉や金の細かな意匠は、真夏のナイトプールだというのにひと足早い秋を連れてきたようで、足首には珠と房飾りが揺れていた。
角のある水妖が水辺で遊ぶには、妙に絵になる。
「わんちゃん、何したい?」
「飲みもの飲む」
「即答」
「だってドリンクスタンドあるでしょ。行かないと失礼だよ」
カナトの灰色の目が、既にそちらへ向いている。
「『スターライト・ブルー』って気になってたんだよねぇ。夜空みたいにきらきらしたやつ」
「わんちゃん、そういうの好きそうだもんね」
「そう?」
「好きそ~」
時雨は勝手に納得すると、自分もメニューを覗き込んだ。
「ぼくもまずは、映えそうなおしゃカクテルにしようかな。そのあとビールジョッキ行きます」
「そのあとが本番なんだ」
「夏の夜ですからね」
結局、カナトは青いソーダへ星形のゼリーが揺れるスターライト・ブルーをアルコール入りで。
時雨もまずは、イルミネーションによく映える一杯を注文した。
透明なグラスを持ち上げると、青い飲み物の中で小さな星がゆらゆら泳ぐ。
「おお」
カナトが目を細めた。
「へー、ほんとに夜空みたい」
一口飲めば冷えた炭酸が舌の上で弾ける。柑橘の爽やかな酸味にほのかな酒精が続き、底から吸い上げたゼリーはつるりと柔らかい。
「これいいねぇ」
「見た目もちゃんと女子力ですよ、わんちゃん」
「じょしぢからって何だっけ」
「今更そこへ戻る?」
「ネイルして、お菓子作って、夜に酒飲んでる」
「こうして並べると今日はだいぶ自由ですね」
時雨が笑う。
カナトも肩を揺らしながらグラス越しに水面を眺めた。
泳がなくても、これはこれで悪くない。
飲み物を片手に夜風へ当たり、光の波を眺めながら、たまに誰かの笑い声を聞く。夏の夜なんて、それくらい気楽でいい。
「静かにこうして過ごすのだって、全然楽しい夏夜だと思うんだけどなぁ」
「うんうん。それも正しい楽しみ方です」
時雨は素直に頷いた。
――かと思えば。
「じゃ、ぼくは泳いできます」
「今の話聞いてた?」
「聞いたよ。わんちゃんがプールサイドで楽しく過ごしてるのは分かった」
「ならそれでいいじゃない」
「ぼくはじゃぶじゃぶしたいので」
「自由だなぁ」
「今日の女子力は自由なんでしょう?」
「便利に使うねぇ」
時雨は笑いながら羽織の裾を軽く持ち上げ、水際へ足を下ろした。
冷たい水へ脛まで沈めると、足首の珠飾りが小さく鳴る。もう一歩進めば、緑の布が水面へふわりと広がった。
「おお、冷たい」
「そりゃプールだからね」
「わんちゃんも来れば?」
「オレはここでいいよ」
カナトはスターライト・ブルーを掲げる。
「見てるから、好きに遊んでおいで」
「保護者みたいなこと言う」
「妖怪くんが溺れないか見張ってあげる」
「ぼく水妖なんだけど」
「じゃあ安心だね」
時雨は呆れたように笑い、そのまま水の中へ入った。
しばらくは本当にじゃぶじゃぶ遊んでいた。
肩まで水へ沈み、少し泳いでは戻り、光る球を手で押してみたり、波紋の中へ足を蹴り入れたり。
緑の羽織が水面へ大きく広がるたび、朱の裏地や紅葉の柄が揺れて、青紫のプールによく映える。
カナトはそれを眺めながら、のんびりドリンクを飲む。
「楽しそうだねぇ」
「楽しいですよー」
少し離れたところから返事が飛んでくる。
「わんちゃんもくればいいのに」
「まだいいかなぁ」
「頑固」
「面倒なだけ」
そう言いながらも時雨が水の中で楽しそうにしているのを見るのは嫌いではない。
やがて時雨は、プールに浮かべられた大きな透明の浮き輪を確保した。
「さてさて。浮こう」
「それ今から?」
「水遊び第二部」
「ちゃんと部制なんだ」
時雨が浮き輪へ身体を預ける。
鮮やかな緑の羽織は水面へ大きく広がり、まるで水の上に浮かぶ葉のようだった。朱色の裏地が時折覗き、白い角にも青や紫の照明が映る。
そのままぷかりと漂いながら、時雨はプールサイドのカナトへ顔を向ける。
「ねー。わんちゃん」
「なに?」
「こっち来ない?」
「まだ誘うんだ」
「ここは映えを意識して、おしゃ浮き輪に乗ってのんびりすべきだよ」
「しぐしぐ君、最初じゃぶじゃぶするって言ってなかった?」
「じゃぶじゃぶしたから次はのんびりです」
「満喫してるなぁ」
「満喫してます」
時雨は両腕を浮き輪へ預けた。
「研修とご主人と水遊び大好きウシくんは、ご友人も浮いてくれたらもっと楽しい夏が過ごせます」
「盛ったねぇ」
「どこが?」
「だいたい全部」
「でも最後は本当だよ~」
時雨が金の目を細める。
「――ね、わんちゃん」
カナトは返事の代わりに、青いグラスをもう一口傾けた。
水の上では時雨が緩い波に揺られている。
青い光が角を照らし、紫が羽織の裾を流れ、時折白い光が水面で弾ける。
そのもっと向こうには本物の夜空。
人工の星と本物の星を両方眺められるこの場所は、確かに悪くない。
「そういえば、しぐしぐ君」
「ん?」
「研修とご主人と水遊び大好きしぐしぐ君はさ」
「その呼び方続けるんだ」
「少しは楽しい夏の時間、過ごせたのかい?」
軽い問いだった。
けれど時雨は、ほんの少しだけ目を瞬かせた。
ネイルをして。菓子を作って。今度は、夜のプール。
どれもこれも、何かの役に立つ技術として持ち帰ろうと思えば持ち帰れる。
けれど今、こうして水の上に浮かんでいる時間くらいは。
「そうですね」
時雨は浮き輪から片手を下ろし、水面へ指先を滑らせた。
小さな波紋が広がり、青い光を細かく崩していく。
「結構、楽しいよ」
「そっか」
「わんちゃんがそこで付き合ってくれてるしね」
「オレ、何もしてないけど」
「いるじゃん」
「それだけ?」
「それ結構大事じゃない?」
さらりと言われて、カナトは少しだけ目を細めた。
「じゃあオレ、良いことしたなぁ」
「しましたしました」
「ご褒美ある?」
「次のビール付き合ってあげる」
「それ、しぐしぐ君のご褒美じゃない?」
「バレた?」
二人で笑う。
時雨はしばらくそのまま水上を漂い、カナトはプールサイドでスターライト・ブルーを飲む。
同じ場所にいても、楽しみ方は違っていい。
それでも会話は途切れず、視線を向ければすぐそこにいる。
夏の夜をどう過ごすのが正解なのか。
たぶん、そんなものは最初から決まっていない。
水へ飛び込むのも。浮かんで光を眺めるのも。酒を片手に夜風へ当たるのも。隣にいる相手へ、楽しかったかと聞いてみるのも。
ぜーんぶまとめて、今夜の遊び方でいい。
「わんちゃーん」
「はいはい」
「そろそろ来ない?」
まだ諦めていなかった。
カナトは空になりかけたスターライト・ブルーを眺める。
それから、ぷかぷか浮かびながらこちらを見ている時雨へ視線を戻した。
「……しょうがないなー」
ようやく腰を上げる。
「浮くだけね」
途端に時雨の顔がぱっと明るくなった。
「はいはい。おしゃ浮き輪もう一個取っときますね」
「じゃぶじゃぶしない?」
「保証はしません」
「やっぱ帰ろうかな」
「待って待って」
笑い声が水面の光へ重なる。
女子力が上がったかどうかは――まあ、一旦置いておくとして。
少なくとも、二人の夏の夜はもう少しだけ続きそうだった。
青や紫のイルミネーションが水の底から淡く滲み、夜風に揺れるたび水面いっぱいへ細かな星屑を散らしていた。空を仰げば本物の夜、その足元には人工の星空。ツィリはきらきらした光景に目を輝かせる。
「最後の女子力アップのお仕事……!」
意気込みは十分。――けれど。さて、何をすればいいのだろう。
「お洒落なお姉さんたちがよくしてるの、参考にすればいいのかな?」
周囲を見渡せば、冷たいドリンクを手に談笑する人、浮き輪の上から手を振る人、その多くがスマートフォンを構えている。
その隣で、ラズリも同じものを眺めていた。
「ナイトプールで映えれば、女子力あっぷする?」
「たぶん……する!」
「じゃあ、かわいい写真いっぱい撮っちゃう……とか!」
「可愛い写真!」
ツィリがぱっと振り返った。
「それだ! 可愛くてきらきらした写真をたくさん撮れば、アップ間違いなしだね!」
「うん、きっと間違いなし!」
そうして方針は決まった。
何より今夜の二人は、写真に残さなければもったいないくらい、とびきりの装いをしている。
ラズリが纏うのは、水着という言葉だけでは収まりきらない、華やかな和装仕立ての一着だ。
白を基調とした衣には淡い藤色が重なり、襟元には赤と金がひと筋、鮮やかな差し色を添えている。肩を包む羽織は月光を織り込んだような淡い艶を帯び、袖口や裾には紅と橙の縁取り。腰元には金の蝶や組紐が重なり、薄紫の透ける布と花模様の裾が、歩くたび花びらのように揺れる。
白銀の長い髪には青と金の髪飾り。頭上にはすらりと長い白兎の耳。
水辺の装いでありながら、まるで月下に現れた白兎の姫君のよう。
対するツィリは、夜の水そのものを纏ったような水着だった。
なめらかな白のワンピースは装飾を抑えてすっきりと身体を包み、その清楚な輪郭を、深い紺のロンググローブと膝上まで伸びたニーハイがきりりと引き締めている。首元には同じ紺の大きなリボン。腰回りには透明な水色のフリルが柔らかく広がり、ライトを受ければ薄氷の縁のように淡く輝く。
何より目を奪うのは、銀白から深い青、鮮やかな水色、わずかな桃色へと移ろう長い髪だ。
幾筋もの髪が波のように大きくうねり、先端には透明な雫の飾りが揺れている。歩くたびにきらめくその姿は、星空から落ちてきた水の精のようでもあった。
「ラズリちゃん、そのお洋服……水着なのにすごく豪華だよね」
「ふふ。いっぱい可愛くしてみたの」
ラズリはその場でふわりと袖を広げた。
「ツィリも可愛いよ。お水の中に入ったら、もっときらきらしそう」
「ほんと?」
「うん。だから……たくさん写真に残さないともったいないの」
となれば、まず必要なのは小道具である。
「何かアイテムも欲しいよね」
ラズリがきょろりと見回して、すぐにドリンクスタンドを見つけた。
「あ! ツィリ、ドリンクあるよっ」
「ドリンク飲みたいですー!」
返事も早かった。
二人で向かったスタンドには、この夜だけのスペシャルドリンクがライトに照らされて並んでいる。
ラズリが選んだのは『スターライト・ブルー』。
透き通る青いソーダの底には、小さな星形のゼリーが沈み、炭酸の泡に押されてゆっくり浮かんではまた沈む。グラスの縁には銀色のシュガーが細かな光を散らし、名前の通り、夜空を一杯ぶん掬ってきたようだ。
「わ……星が泳いでる」
ラズリがグラスを軽く揺らす。
一方のツィリは『ムーンミルク』。
乳白色から淡い紫へ溶けていく柔らかな色合いに、ぷかりと浮かぶ月形のマシュマロ。ラズリの鮮やかな星空とは対照的に、こちらは夜が静かに更けていく頃の月明かりを思わせる。
「ラズリちゃんのが夜空で、私のが……お月様?」
「並べたら絶対かわいいの!」
「じゃあ、撮る場所も探そう!」
二人揃って周囲を見渡す。
そうして意識してみれば、あちらにもこちらにも写真を撮る人の姿があった。
✦
やがて二人が見つけたのは、イルミネーションの光が水面へ大きく映り込み、その向こうに夜空まで一緒に収められる一角だった。
「ここ!」
「いいね!」
まずはグラスを主役に。
「お邪魔します!」
ツィリがラズリのグラスの隣へ自分のムーンミルクを寄せる。
青い星空と淡紫の月明かり。二つのグラスを並べて、その向こうへ光るプールと夜空を重ねる。
「もうちょっとラズリちゃんのをこっちに……」
「こう?」
「うん! 星と月が近い方が可愛い!」
「じゃあ少し傾けちゃおう」
ぱしゃりと。画面の中には、今夜だけの小さな夜空が出来上がる。
「綺麗!」
「じゃあ次は……飲み物とご一緒に!」
「うん!」
今度はインカメラへ切り替える。
ラズリがそうっとツィリへ寄り添い、二人でそれぞれのドリンクを頬の近くへ持ち上げた。
「ふふ、こんな感じ?」
「待ってね。私、ちょっとだけ……」
ツィリは一度画面で自分を確認すると、先ほどまでの無邪気な笑顔をほんの少しだけ抑えた。
SNSでよく見かける、綺麗なお姉さんたちの写真を思い出す。
顎をほんのわずかに引いて。視線は柔らかく。口元には小さな微笑み。
「……どうかな?」
「わ、ツィリ大人っぽいの!」
「ほんと?」
「うん。じゃあ私も……」
二人揃って少しだけ澄ました顔で一枚。次はいつもの笑顔で。最後には顔を寄せすぎて笑ってしまったところまで残った。
「ツィリ可愛いね……SNSなら拡散間違い無しなの」
「ラズリちゃんもすごく可愛いよ! 和傘が入ってるのも好き!」
褒め合いながら画面を覗き込む。
自分たちがSNSで眺めていたような写真を、今度は自分たち自身が撮っている。
知らなかったことを知って、見ている側だったものを自分でもやってみる。
それだけで今までより少し、大人の夏へ近づいたような気がした。
ラズリが今度は水面へ視線を向けた。
そこには大きなフロートがいくつも浮いている。
「前は落ちちゃったから、リベンジでフロートも乗りたいな」
「いいね! 今度こそちゃんと乗ろう!」
「ぷかぷかー!」
早速二人で、写真映えしそうな大きなフロートを借りる。
水へ足を入れれば、ひやりとした感触が肌を撫でた。ラズリは長い袖や裾を邪魔にならないよう軽く整え、ツィリも流れる髪をそっと後ろへ払う。
「まず私が押さえるね」
慎重に、慎重に……。
ラズリがフロートへ乗り、そのあとツィリも身体を預ける。
「乗れた!」
「やったの!」
思ったより安定している。
二人で並んで座り、足先を水へ浸せば、フロートは光の波に乗ってゆっくり揺れ始めた。
「気持ちいいねぇ」
「このまま写真も撮れそう!」
「撮っちゃおう!」
先ほどまででやっと写真には慣れてきたところだ。
ドリンクも持って、光る水面を背景に。
今度は少し上から撮れば、ツィリの透明なフリルも、ラズリの華やかな和装も綺麗に映る。
「すごい! ちゃんと浮いてる!」
「リベンジ成功なの」
「もし二人とも落ちちゃっても、それはそれで映えな写真になりそうな気もする……!」
「そんな、二人で落ちちゃうなんてこと――」
ラズリが笑いながら身じろぎして。
「あっ」
つるーん。
フロートが傾いた。
「ラズリちゃ――わっ!」
支えようとしたツィリまで、反対側へ体重をかけすぎる。
次の瞬間。
――ばしゃあん!
二人揃って水の中へ落ちた。
青白い光の中を泡が一斉に駆け上がり、長い銀髪と白銀の髪が、水中で花のように大きく広がる。
その、ほんの数秒後。
「……ぷはっ!」
「……っ」
先に顔を出したツィリの隣で、ラズリも浮かび上がった。
二人、しばし顔を見合わせる。
せっかく綺麗に整えていた髪は濡れ、頬にも水滴。
華やかな衣もフリルもすっかり水を含んでいる。
「……落ちたね」
「落ちたの」
そして。
「あははっ!」
「ふふ、あはは!」
どちらからともなく笑い出した。
「さっき私、落ちても映えそうって言ったばっかり!」
「本当に落ちるなんて思わなかったの!」
その時、岸へ置いていたスマートフォンが連写設定のまま、ちょうど一連の騒ぎを残していたことに気づく。
あとで確認すれば、フロートが傾いて二人揃って目を丸くした瞬間から、派手な水しぶき、最後に水面から顔を出して笑うところまでしっかり残っていた。
「これ……」
「……こう見ると、すっごく楽しそう」
ツィリが笑う。
綺麗にポーズを決めた写真とは全然違う。髪は濡れているし、水滴だらけだし、構図だって完璧とは言い難い。
それでも。
「これもまた、記念の一枚!」
「うん。私、これ好きなの」
スターライト・ブルーを翳して撮った一枚も。
少しだけ大人びた顔で並んだ一枚も。
水着を綺麗に見せた一枚も。
どれも確かに今日の二人だ。
けれど、最後に残った盛大な失敗の一枚には、きっと今夜いちばんの笑顔が写っている。
「女子力、あっぷしたかな?」
「こんなに可愛い写真いっぱい撮ったんだから、きっとしてるよ!」
「じゃあ大成功なの」
「うん!」
二人はもう一度、揃って笑った。
映えているかどうかなんて、その頃にはもう些細なことかもしれない。
こうして一緒に笑った夏の夜そのものが、二人にとって何よりきらきらした一枚だから。
夜の水面は、昼間よりずっと賑やかな色をしていた。
青や紫のライトがプールの底からゆっくり滲み、浮かべられた光の球が波に揺られて、あちらへこちらへ流れていく。耳に届くのは軽やかな音楽と笑い声、それから時折ぱしゃりと跳ねる水音。プールサイドには色鮮やかなドリンクを片手に寛ぐ人々も多く、なるほど、これは泳ぐためだけの場所ではないらしい。
「水着!」
そんな風情を一息で吹き飛ばすくらい元気な声を上げたのは維月だ。
「ちるはさんの水着、とってもキュートですね!」
「維月さんも元気いっぱいの水着姿で、とってもかわいいです」
ちるははというと、いつも通りの穏やかな調子で返す。
今夜のちるはが身に着けているのは、涼しげな淡い水色のショートサロペット風の一着だ。
薄布には同系色のハイビスカスや葉がふわりと浮かび、裾は左右へ軽やかに分かれて、歩くたび夜風を含んで揺れる。その下には黒を基調にした水着が覗き、首元から胸元へ幾筋か渡る細いストラップが、柔らかな色合いをきりりと引き締めていた。
髪は高めにまとめ、淡い水色のシュシュをひとつ。
胸元に掛けたサングラスや、脚に添えた細いベルトまで含めると、大人びすぎないのにきちんと『おしゃん』である。
片手には小さなバッグ。もう片方には早速、青いドリンク。
リゾートを気ままに歩く姿がよく似合っていた。
一方、維月は遠くからひと目で彼女と分かるほど、明るくて可愛らしい水着だ。
華やかな珊瑚色のワンピース水着には、太陽や月、星を思わせる黄色い模様が散りばめられている。胸元には小さなリボン、肩紐にはくしゅくしゅとしたフリルが添えられ、活発な印象の中にも可愛らしさがいっぱいだ。
何より鮮やかなのは、黄色と青、そして頬周りへ差す赤が入り混じる髪。
紫の瞳まできらきらと輝かせ、大きな青紫の浮き輪を腰へ抱えて腕を広げれば、まるでそのまま夏の広告へ飛び込めそうな快活さだった。
「見てください! ボク、ナイトプールにいます!」
「いますね」
「そしてちるはさんもいます!」
「途中で帰ったりしないですよ」
「女子力の総仕上げです!」
「おー、ですね」
ふたりで嬉しそうに笑ったあと、維月はぎゅんと次の標的に目をつける。
「リンゼイさんはどんな水着ですか!?」
ぐいと身を乗り出した。
「それから自殺少女霊隊の人達は着てますか!」
「そこまで確認するんですね」
「当然です!」
維月は堂々と胸を張った。
「着てないならば許せん!」
「許されないらしいです」
「こんな事もあろうかと、フリーサイズの水着持って来ましたから!」
取り出されたのは、本人曰く『セクシー』な一着。
おお、確かにこれはセクシーだ。ちょっと布面積が少ないかもしれない。
「さあ着なさい!」
「いつの間に用意したんですか?」
「備えあれば憂いなしです!」
「……あの、いえ……その……」
たじろぐリンゼイの前に、ちるはが一歩前に出る。
「維月さん、待ってください」
リンゼイがそんなちるはの背に目をやる。救いの神でも見るような眼だ。
「なんですかちるはさん!」
「まず、清純なところから攻めるべきかもしれません」
「そんな! 男に肌見せて悪い事ないですよ! リンゼイさんは服からしてセクシー路線なんだからもう少し見せていかないと、」
「逆ですよ維月さん。こういう時こそ敢えて肌を見せない。そして……白です」
「白!!!」
「ああ~~~……」
……そんな二人に挟まれてしまえば、リンゼイの女子力強化も、まだまだ終わりそうにない。
因みにリンゼイと自殺少女霊隊の水着は黒です。よろしくお願いします。
✦
ひとしきり水着談義を済ませたところで、ちるはがドリンクスタンドへ視線を向けた。
「とりあえず、おしゃんなカクテルでも飲みつつのんびりします?」
「賛成でーす!」
せっかくのナイトプールなのだから、夜景に似合う一杯くらい楽しみたい。
ただし、いざメニューを開いてみると。
「……カクテルって、名前で味が浮かばなくないですか?」
ちるはは首を傾げた。
アプリコットフィズ。
ニコラシカ。
エンジェルキッス。
名前だけ見ても、甘いのか酸っぱいのか、果物なのかコーヒーなのかさえ初見ではよく分からない。
「ド初心者は素直に調べます」
すっとスマートフォンを取り出す。
検索。確認。また検索。工学部らしく――というより、単純に失敗したくない食いしん坊らしく、味の傾向まできっちり見比べていく。
「私は……今後に備えてニコラシカとか……」
「今後?」
「いえ、なんでも」
すすーっと画面をスクロールする。
「でも今日は飲むというより味も楽しみたいので、ちゃんと美味しそうなものを選びましょう」
「味の美味しさ選択も大事です!」
「維月さんは何にするんです?」
「ボクはカルーアミルクのノンアル版ですね!」
「おお」
「コーヒー、メープルシロップ、牛乳で作るんですよ。甘くて美味しい!」
実に分かりやすい理由だった。
ほどなく、ミルク色のモクテルが維月の手へ渡る。
コーヒーのほろ苦さへ牛乳のまろやかさ、さらにメープルシロップの柔らかな甘みが重なって、飲み物というより少し贅沢なデザートにも近い。
「んー! 美味しい!」
一口飲んだ維月の顔がぱっと輝く。
「幸せの味です!」
「それは何よりです」
ちるはも自分のグラスを傾けながら、もう一度スマートフォンへ目を落とした。
「そういえば、カクテルって『カクテル言葉』っていうのがあるんですよ」
「カクテル言葉?」
「花言葉みたいなものですね」
維月が興味深そうに覗き込む。
「へえー! 女子力っぽいです!」
「例えば……」
ちるはは画面を読みながら、淡々と言った。
「『あなたに心を奪われた』とか、『死んでもあなたと』とか」
「急に重くないですか!」
「奥が深いです」
なのにちるはは平然としている。
維月は笑いながら自分でも検索して――そこで何かを見つけたらしく、紫の瞳をすっと細めた。
「ふむふむ」
「何かありました?」
「いいえ?」
スマートフォンを伏せる。
「別に何にも?」
「その顔、絶対何か見つけましたよね」
そして二人の視線は、自然とリンゼイへ向いた。
「リンゼイさんには……アプリコットフィズとか如何ですか?」
ちるはが提案する。
「甘酸っぱくて飲みやすいですし、見た目も可愛いですよ。リンゼイさん、かなり女子力も強化しましたし!」
「あっ、良いですね!」
維月も勢いよく乗った。
「先輩を振り向かせなきゃですもーのね、リンゼイさん!」
「ですから、どうして先輩が出て来るんですか……」
「こういうのは勢いです! まずは顔を後ろからガッと掴んで――」
「え?」
維月は実演するようにリンゼイの背後へ回り込むと、両頬をがしりと挟んだ。
「そのまま、ぐいっと!」
「ちょっ……」
物理的に振り向かされるリンゼイ。
「はい! これで振り向きました!」
「振り向かせるの意味が違います」
「……女子力とは、力技なのでしょうか」
「違います」
「でもまず、視線を向けてもらわないと始まりませんから!」
物理的な攻略法はさておき、維月の手から解放されたリンゼイが複雑そうに頬をさする。
ちるはは何事もなかったように、再びドリンクのメニューへ視線を戻した。
「でも、単純にアプリコットフィズ、美味しいと思いますよ?」
「ですよねぇ!」
二人は揃ってにんまり。
リンゼイにとっては、何やら嫌な予感しかしない笑顔だ。
「じゃあ、ボクからはエンジェルキッスを進呈です」
「……維月さん。それ、さっき検索してましたよね」
「うふふふー!」
「なるほど」
ちるはも再びスマートフォンを見て、それ以上は言わなかった。
ただし笑みは少し深くなる。
二人だけ何かを共有しているらしい雰囲気に、リンゼイはますます難しい顔をした。
「何故笑うのですか?」
「いえいえ」
「女子力のお勉強です!」
「説明になっていませんが……」
笑い声が夜の水辺へ溶けていく。
ネイルをして。お菓子を作って。最後には、水着で光るプールへ。
何が『女子力』なのか、結局よく分からないままかもしれない。
けれど水面には、二人の姿と色とりどりの光が揺れている。
ちるはの淡い水色も。維月の鮮やかな珊瑚色も。どちらも真夏の夜によく似合っていた。
「じゃあ次は、リンゼイさんに似合うカクテルをもっと探しましょう!」
「まだやるんですか」
「もちろんです!」
「……では、検索しますか」
「ほら、ちるはさんも乗り気です!」
二人のスマートフォンが再び光る。
その向こうで、何となく身の危険を察したらしいリンゼイが一歩後退した。
――けれどもう遅い。
女子力強化の総仕上げは、まだしばらく続きそうだった。
ナイトプールの灯りが揺れている。
水底から滲む青や紫の光が波に揺れて砕け、プールサイドにはイルミネーションのアーチや、透明な椅子、光の花を水面へ浮かべる撮影スポットが点々と並んでいる。遠くでは音楽が流れ、誰かの笑い声が弾けるたび、水辺の光まで楽しそうに震えて見えた。
「ネイルにお菓子作りでじょしぢからは上がったけど、ナイトプールでこそ真のじょしぢからが試されそうだねえ」
咲或がいつもの柔らかな調子で言う。
「んふふ、でもこんだけじょしぢから高い俺達なら無敵じゃない?」
その横の氷月は、既にすっかりご機嫌だ。夜の方がテンションが高いタイプらしい。
「美の化身の底力、じょしぢから見せてこうよ」
「でもさー。美の化身といえどオトコノコだからねぇ、俺たち」
「え? そこはまあ、誤差じゃない?」
「誤差かな?」
「きっとね」
言いながら、二人ともまるで困った様子はない。
むしろ今夜の装いを見る限り、じょしぢから云々を抜きにしても、十分にこの場所へ馴染んでいた。
氷月は、銀白の長い髪を高めにまとめ、その上にゴーグルを引っ掛けている。白を基調にしたラッシュガード風の羽織には鮮やかなピンクが大胆に飛沫のように散り、袖から裾へ走るその色が、夜の光を受けるたびネオンのように浮かび上がった。
中には同じ白のトップスを合わせ、腹部を少し覗かせている。
対してボトムは黒。青や紫を差した和柄めいた意匠が裾へ広がり、腰元には金具を効かせたベルトが重なる。足元は軽いサンダルで、白、黒、青、そして派手なピンクが全体を引き締めていた。
まるで光る街をそのまま着てきたような装いだ。
「ひーちゃん、その服いつ見ても派手だねぇ」
「褒めてる?」
「褒めてる褒めてる。夜にちょうどいいよ」
「そ? 咲或ちゃんも似合ってるよ」
咲或は氷月とは対照的に、深い紺と赤でまとめた装いだ。
ゆったりしたフード付きの羽織は夜色を思わせる濃紺。その袖や裾には赤い花の意匠が散り、ところどころ青緑の葉が入り、夜の森に咲いた花のように静かに映える。裏地や大きなポケットには鮮やかな赤が差され、胸元を留める組紐の飾りもどこか和の気配を残している。
前を大きく開けているため、白い肌とすっきりした胸元がそのまま見えた。
ボトムも深い青で、膝下までのゆるい丈感。腰には細い金のチェーン飾りが重なり、濃い色の布地へ光を拾うたび、細かなきらめきを落としている。
銀白の髪、淡い色のサングラス、少し緩く被ったフード。咲或の持つ気怠さと柔らかさが、そのまま水辺の装いへ落とし込まれていた。
「ひーちゃんのが都会の夜って感じなら、俺はちょっと夜店寄り?」
「夜店っていうか、祭り帰りの美人かな」
「それは褒めてる?」
「褒めてる褒めてる」
お互い様だった。
「あ。ほら、あそこに映えスポットある!」
氷月がすぐに指差す。
「写真撮ろ撮ろ!」
「映えスポットかー……確かに女子は好きそう」
「俺達も好きでしょ?」
「まあねぇ」
「きまり~。じゃ早速――」
咲或が一歩踏み出しかけて、ふと止まる。
「……の前に、映えアイテム要るよね」
「あ、確かに」
二人同時に視線を向けた先はドリンクスタンド。
「サンセット・ピーチにアルコール入れてもらお。ひーちゃんどうするー?」
「俺はスターライト・ブルーのアルコール入りで!」
即決した二人の手には、ほどなく夜にぴったりのグラスが収まった。
咲或のサンセット・ピーチは、淡い桃色から橙色へ溶けていくグラデーション。その中で花びら型のゼリーがゆらゆらと揺れ、まるで夕焼けを一杯に閉じ込めたようなドリンクだ。
氷月のスターライト・ブルーは、鮮やかな青。底には小さな星型のゼリーが沈み、炭酸の泡が上がるたび、星も一緒にふわりと持ち上がる。
「いいねぇ。ちゃんと映えそう」
「味も気になるけど、まず写真だね」
「そこはぶれないなぁ」
アイテムも揃ったところで、最初の撮影スポットへ。
月と星を模したイルミネーションアーチの前に並び、互いのグラスを軽く掲げる。
「咲或ちゃん、もうちょいこっち」
「こう?」
「うん、そのくらい」
肩が触れるくらいに寄る。
青いカクテルと夕焼け色のカクテル。白と黒、赤と紺。
二人の水着も相まって、画面の中には随分と華やかな夜が収まった。
「お、いい感じ」
「ひーちゃんのドリンクいい感じだねー、星のゼリーがちゃんと光って見える」
「咲或ちゃんのも綺麗な夕焼け~」
「そりゃ、爪に花火があるんだから、夜空と夕日とも撮っておかないとねぇ」
咲或は以前整えたネイルへ視線を落とし、指先をグラスへ添える。
「ネイル撮った時の、夜バージョン」
「いいじゃん」
今度は手元を主役に一枚。
爪先の花火と、夜色の水面。その向こうに夕焼け色のドリンク。
「これだけで一枚絵っぽい」
「今日だけでフォトアルバム作れそう」
「作ろうよ」
「ほんとに?」
「面白そうじゃん」
「タイトルは『美の化身・夏のじょしぢから総決算』」
「長いしダサくない?」
「『今日から無敵♡最強ガールの女子力強化バイブル』よりマシ」
「それを引き合いに出すのはよくないよ」
次は水面へ光の花が浮かぶ一角。
その次は透明な椅子へ腰掛けて、夜空を背景に。ポーズも少しずつ変えてみる。
「全体的に夜で揃ってんのもオシャレだと思わない?」
氷月が画面を確認しながら言う。
「うん。夜テーマ統一、良いと思いまーす」
「昼の派手さと違って、全部光で盛れるのがいいよね」
「ひーちゃんそういうの好きそう」
「好きだよ。綺麗なものって、見てるだけで嬉しいでしょ?」
氷月は案外そういうものに素直だった。
咲或もまた、何かを深く考えるより、今目の前にある楽しさをゆるく掬い取るように笑っている。
ひとしきり撮ったところで、氷月がようやくグラスへ口をつけた。
「あ、このカクテル美味しい」
「どんな感じ?」
「甘いけど後味さっぱりって感じ。咲或ちゃんも飲む?」
「飲む飲む~。俺のもどーぞ」
交換する。
氷月はサンセット・ピーチを一口。
「こっちもいいね。桃っぽい」
「スターライトは……あ、思ったより爽やか」
「でしょ?」
「ひーちゃんの方が今夜っぽい味する」
「じゃあ俺の勝ち?」
「何の勝負?」
「じょしぢから」
「まだ勝負してたんだ」
二人で笑う。
撮影もした。ドリンクも味わった。
「これでじょしぢから的にもおっけーでしょ」
「だねぇ」
✦
咲或は近くを流れていた光る浮き輪へ目を向けた。
「最後、のんびりぷかぷかしにいこー」
「いいねえぷかぷか」
氷月も賛成する。
「とびきり可愛い浮き輪で浮いてこ!」
「可愛い指定なんだ」
「最後までじょしぢから意識してこう」
そうして二人が選んだのは、大きめの透明フロートだ。
縁には青紫のライトが仕込まれ、水へ浮かべると輪郭そのものが発光するタイプ。
「映え浮き輪だねぇ」
先に氷月が身体を預け、咲或もその隣へ。
水面へ出れば、プールサイドから見るよりさらに光が近い。
足元を青が流れ、次には紫が走る。氷月の白いラッシュガードへピンクの飛沫模様が浮かび、咲或の紺の羽織には赤い花がくっきり映える。
風は涼しく、音楽は少し遠い。
「……こういうのいいね」
氷月がぽつりと零した。
「何もしなくていい感じ?」
「それもあるけど」
少しだけ空を見上げる。
「夜の中に浮いてる感じかな」
「ひーちゃん夜好きだもんね」
「咲或ちゃんもでしょ」
「まあねぇ」
返事は軽い。
そのまま二人とも少し黙った。
水の揺れに任せて漂う。
さっきまで写真を撮っていた時の笑い声も、グラスの甘い香りも、今は少しだけ遠く感じる。
夜は静かだ。
「んふふ」
「何?」
「いや、思ってたより満喫してるなって」
「じょしぢから?」
「それも含めて」
氷月は笑う。
「ネイルして、お菓子作って、ナイトプール。こんなにちゃんと全部やるとは思わなかった」
「俺も」
「咲或ちゃん、意外と付き合いいいよね」
「ひーちゃんが楽しそうだからじゃない?」
「え、なにそれ。嬉しいこと言うじゃん」
「そう?」
「そうだよ」
水面の光が、二人の間を通り過ぎる。
咲或は少し目を細めた。
「ひーちゃんが楽しそうだから」なんて言葉を、どこまで軽く受け取るかは互いに任せたまま。
咲或はわざわざ確かめないし、氷月もまた説明するつもりはない。
だから今は、ただ同じ夜の中に浮いていればいい。
「写真、あとで送ってね」
「もちろん」
「全部?」
「全部」
「盛れてないやつも?」
「それは美の化身の俺が選別する」
咲或が笑う。氷月も笑った。ナイトプールの光が、その笑顔まで青く染めていく。
ふたりの浮き輪が水面でこつんと触れた。
そのまま離れず、同じ速度でゆっくり流れていく。
青と紫の光の中。夜色の装いも、夕焼けと星のカクテルも、爪先の花火も。全部まとめて、今夜だけの一枚みたいにきらきらしていた。
夜の帳がすっかり降りきった頃、ライラはきらきらと光るプールサイドの入口で、ほんの少しだけ息を呑んで立ち止まっていた。
「ナイトプール……!」
噂に聞いたことはあっても、実際に足を踏み入れるのは初めてだ。昼間の青空の下にある賑やかな水辺とは違い、今夜のそこはひどく幻想的だった。水底から滲む青や紫の光がゆるやかな波にほどけ、白や桃色のイルミネーションがその上を星屑のように滑っていく。軽やかな音楽が夜風へ溶け、笑い声さえもどこか大人びた響きに聞こえた。
「なんだか、とっても大人っぽくて……どきどきしちゃうわ……!」
けれど、ここで気後れしている場合ではない。ライラは両手を胸の前でぎゅっと握り、こっそり自分へ気合いを入れる。
「なんといっても最後のじょしぢからトレーニング、ですもの!」
そうして一歩踏み出した彼女の姿もまた、今夜の光の中でひときわ華やかだ。
白金の長い髪には、大きな白いリボン。耳元には小さな花飾りが揺れ、ふわりと流れる髪をよりいっそう可憐に引き立てている。
身に纏う水着は淡い水色とやさしい桜色を重ねた、繊細で甘やかな意匠のものだった。胸元には細やかなレースと柔らかなフリル、そこへ結ばれた小さなリボンが愛らしく、腰回りにも幾重もの透ける布と装飾が花びらのように重なっている。薄絹のような羽織はたっぷりと長く、レースの縁を夜風に遊ばせながら、天使が薄雲を引いて歩いているような印象さえ与える。
可愛らしいだけではなく、どこか神聖で、夢の中の姫君のような装い。
「先日仕立てた水着、こうして見ると……やっぱり素敵ね」
自分でそう呟いて、少しだけ照れる。けれど、せっかくの晴れ舞台なのだ。俯いていてはもったいない。
まず目を引かれたのは、プールサイドに設けられたドリンクスタンドだった。透明なグラスへ夜の色を閉じ込めたような飲み物がずらりと並んでいる。
「ふふっ、とても可愛らしくて美しいドリンクがたくさん!」
ライラは迷いながらメニューを見比べ、やがて一つを指差した。
「ムーンミルクを頂こうかしら」
差し出されたグラスは、乳白色のなめらかな飲み口の上へ、淡いきらめきをひと匙散らしたような一杯。
月光をそのまま溶かしてしまったみたいに優しい色合いで、見ているだけで心までほどけてしまいそうだ。口をつければ、やわらかな甘さが舌の上へ広がって、ほんのり香るバニラとミルクのまろやかさが喉をすべっていく。
「まあ……おいしい! なんだか大人の仲間入りをした気分だわ!」
グラスを胸元で大事そうに抱え、ライラは少し背伸びしたような気分で音楽へ耳を傾けた。
光る水面。涼やかな風。華やかな装いの人々。武器を手にして戦う時とはまるで違う世界なのに、不思議と胸が高鳴る。
その時だ。
「やっぱり女子力高いよね」
「このドリンク、女子力って感じ~」
近くで交わされた何気ない会話が、ライラの耳へひっかかった。
「……えっ?」
彼女はぴたりと動きを止めた。まばたきを一つ。二つ。
「いま……なんて?」
もう一度、周囲の声に耳を澄ませる。
「女子力」
「じょし"りょく"」
おかしい。確かに、そう言っている。
「じょし……りょく?」
その瞬間、ライラの顔へみるみる動揺が浮かんだ。
「えっ!? じ、じょしぢから、ではないの……!?」
思わず声が裏返る。だってだって、星詠みの少年だってそう言っていたし。
驚きのあまり取り落としかけたムーンミルクのグラスを慌てて両手で押さえ込む。危ないところだった。もしここでどんがらがっしゃんしていたら、女子力以前の問題である。
「そ、そんな……わたし、ずっと読み間違えて……」
頬がかあっと熱くなる。
ずっと彼女は胸を張って『じょしぢから強化!』と言い続けてきたのだ。
恥ずかしい。とても恥ずかしい。けれど、しばらくその場で固まったあと、ライラはやがてふるふると首を振った。
「……ううん、いいえ!」
空色の瞳が、きりっと前を向く。
「今のわたしに、女子力の素養はまだ全然ないのかもしれないわ。でも……」
胸の前でそっと拳を作る。
恥ずかしさも、失敗も、知らなかったことも、ぜんぶ抱えたままでいい。
大切なのは、そこでしょんぼり終わらないことだ。
「いつか、最強の女子力に、わたしはなる!」
ぐっ、と小さく気合いを入れる姿は、どこか言い訳のようでもあって。
……けれど、その真っ直ぐさこそが、ライラのとっても素敵な魅力だった。
「よしっ。せっかくだもの、もっと楽しまなくちゃ!」
ムーンミルクをもう一口。甘く優しい味が、今度はさっきよりもずっと美味しく感じられる。
レースの羽織を揺らし、翼を夜の光に滲ませながら、ライラはきらめくプールサイドへ歩き出す。
失敗しても、読み間違えても、知らないことがあっても構わない。そんなことまでひっくるめて、今夜はとびきり楽しい。
だって最強の女子力への道は、――まだ始まったばかりなのだから!
ナイトプールの水面に青と紫の光がゆっくり揺れていた。
ところどころに桃色や白のイルミネーションが混ざり、濡れたタイルまで淡く染めている。軽やかな音楽の向こうでは笑い声が弾け、撮影スポットの前ではスマートフォンを構える人影が絶えない。
そんな賑やかな夜の中でサディストはひとり、プールサイドを歩いていた。
「リンゼイに妙な動きは無し……」
視線の先には、例によって女子力強化へ真面目に取り組んでいるリンゼイの姿がある。
「……今日は一日、何の時間だったんだ?」
思わず漏れた声は、ひどく虚無的だった。
もっとも、今夜のサディスト自身も、普段とは随分と違う装いをしている。
黒を基調にした膝丈のスイムショーツは、余計な装飾を抑えつつも、片腿に施された編み上げのディテールが目を引く。上半身には薄手の黒いシャツを羽織っているが、前は大きく開かれていて、夜の照明の下にすっきりとした胸元が覗いていた。
黒髪も、普段より少し無造作で。肌を露出するだけの派手さではなく、どこか気怠く、鋭く、近寄りがたい雰囲気をそのまま夏の水辺へ落とし込んだような水着姿だった。
暗い色で揃えているぶん、プールの青い光が肌や髪の輪郭へ薄く縁取るたび、その姿は妙に目を引く。
本人は、そんなことを意識している様子もないが。
――その時だった。
「せんぱーい!」
聞き覚えのありすぎる声が、背後からものすごい勢いで近づいてくる。
「先輩ってばリンゼイばっか見て~!」
嫌な予感がした。
振り返る。
「俺の可愛い水着♡も見てくださーいっ!」
「は?」
ぱぅるが、満面の笑みで宙を飛んでいた。
いや、正確には大ジャンプしていた。
ぱぅるの今夜の装いは、ひと目見ただけで本人らしいと分かるほど甘く、派手で、可愛らしい。
淡いピンクを基調にした大きめのパーカーは白や薄桃のフリルをたっぷり重ね、裾や袖口から柔らかな布がふわふわと覗いている。丈は短く、そこから黒紫のハーフパンツが覗いた。片脚にはジッパーや星の飾りが散り、腰回りにはきらきらとしたチェーンや小さなチャームまで揺れている。
淡い色ばかりでまとめているわけではないのに、黒紫のボトムが全体を引き締めるせいか、不思議と甘すぎない。水辺の照明を受ければ、金属の飾りや星のモチーフが細かく光を拾い、そのたび衣装全体へ小さなきらめきが走った。
長いピンクの髪も、今夜ばかりはいつも以上に華やかだった。夜風に撫でられて肩や背へさらさらと流れ、ライトの色を受けるたび薄桃から淡い紫へと表情を変えていく。可愛いものをこれでもかと詰め込んだような装いなのに、それを着こなしてしまうあたりまで含めて、いかにもぱぅるらしい。
きらきら光る瞳。
そして満面の笑顔。
どう見ても、止まる気はない。
「ちょ、ぱぅ――」
それは文章にするなら、"交通事故"だった。
不意打ちで抱きつかれたサディストの身体がぐらりと傾く。
「お前――」
「わーっ!」
ばしゃあん! と、二人まとめてプールへ落ちた(※いい子は真似しちゃだめだよ)。
水の中へ沈んだ瞬間、青白い光と泡が一気に視界を満たす。
数秒後。
「ぷはっ!」
ぱぅるが勢いよく水面から顔を出す。
続いて、サディストもゆっくり浮かび上がった。
「……」
黒髪が額や頬へべったり張り付き、シャツも完全に濡れて身体へ貼りついている。
サディストはしばらく無言だった。
「……は?」
ようやく出た一言がそれだった。
ぱぅるは悪びれもせず、むしろ楽しそうに目を輝かせる。
「わぁ! 先輩、水も滴るいい男~!」
「滴るどころかびしょ濡れなんだけど……」
「そのまま髪掻き上げてみて!」
「何で」
「いいからいいから!」
サディストは深い溜息を吐き、邪魔な前髪を片手でかき上げた。
濡れた黒髪が後ろへ流れ、普段は隠れがちな額が露わになる。
その瞬間、ぱぅるは防水スマートフォンを構えていた。
ぱしゃり。
「はい、いただきました~!」
「……は?」
自分の髪もちょちょっと整え、サディストの横へぴたりと寄る。
「先輩、こっち見て!」
「嫌だよ」
「じゃあ俺だけ見てポーズとるので大丈夫です!」
「何が大丈夫なの」
もう一枚、ぱしゃり。
画面の中には濡れた二人。甘く派手なピンクのぱぅると、全身黒でまとめたサディスト。
対照的な色合いなのに、不思議と一枚の中では喧嘩しない。
ぱぅるは写真を確認して満足そうに笑う。
「えへ。エロがりを奏でちゃったなぁ」
「何を奏でたって?」
「色気です色気!」
「今の単語どこから出てきたんだよ」
サディストはもう突っ込む気力も薄い。
その様子を見て、ぱぅるはさらにスマートフォンを構えた。
「せーんぱい、次は浮き輪使って写真撮りましょ~」
「……ほんと好きだね、写真撮るの」
「好きですよ!」
「でも俺はいいよ、そういうのは」
ぱぅるの動きが一瞬止まる。
「よくないっ」
「何が」
「だって先輩、自分の写真全然撮らないじゃないですか」
「撮らないね」
「だから俺が代わりにいっぱい撮るんです」
さっきまでと変わらない明るい声。
けれど、その言葉の奥には少しだけ違うものが混じっていた。
「俺とこんな楽しいこともしたなぁって、思い出してほしいから!」
「……」
サディストは目を細めた。
俺が写真を撮らないのは遺すべきものが無いからだ。
そういうものをわざわざ残しておく必要を感じない。
明日なんて来ないかもしれないし、来なくていいとすら思っている。
なのに。
「……俺のこと、何も分かってないようで」
「はい?」
「全部分かった上で言ってるからタチが悪い」
「えへへ」
「褒めてないよ」
ぱぅるはそれでも笑っている。
その笑顔を見ていると完全に突っぱねる気にもなれなかった。厚意を無下にしたいわけでもない。
サディストは言葉の代わりに、ぱぅるの額をこつんと軽く小突いた。
「いたっ」
「……」
「え、今のOKってことですよね!?」
「どうしてそうなるの」
「だって、本気で嫌ならもっとちゃんと断るでしょう?」
「……なに。断られたかった?」
「違います違います! いっぱい残したいから寧ろオールOKです♡」
ぱぅるはスマートフォンの画面を指先で送りながら、さっき撮ったばかりの写真を並べて見せる。
「ほら。これ、先輩びっくりしてるやつ。こっちは髪上げたやつ。あとこれ、俺が寄った瞬間ちょっと嫌そうな顔してるやつ」
「消していい?」
「だめです! これも思い出なんで!」
「嫌そうな顔まで?」
「先輩がその時そこにいた証拠ですから」
あまりにも当然のように言うので、サディストは一瞬だけ返事を失った。
ぱぅるにとっては綺麗に撮れた一枚だけが大事なわけではないらしい。
濡れた髪も。呆れた顔も。くだらないやり取りも。その全部を、楽しかった時間として残しておきたいのだろう。
「……ほんと、お前って面倒だね」
「先輩育ちですから♡」
「最悪」
ぱぅるは、すぐに次の遊びを探し始める。
「あっ、先輩! ピザのフロートありますよ!」
「ピザ……?」
サディストが目をやると、プールに浮かべられているのは確かに大きなまあるいピザを模したフロートだった。
トマトソースにチーズ、ペパロニらしき丸い具材まできっちり描かれている。
「一緒に乗りましょう!」
「なんでピザ」
「映えるからです!」
「そう……なの?」
「ピザフロートで一緒にバズり散らかしましょうっ」
「ピザ……バズ……?」
サディストの眉が僅かに寄る。
そして。
「待って」
「はい?」
「もしかして、SNSに載せてるの?」
ぱぅるの笑顔が一瞬だけ固まった。
「……」
「おい」
「えへ」
「肖像権……」
「だ、大丈夫ですよ先輩! ちゃんと盛れてるやつしか載せませんから!」
「問題そこじゃない」
「じゃあ先輩はどの角度でも顔いいから安心してください!」
「だからそういう話じゃなくて」
ぱぅるは笑いながら、ピザフロートへ逃げるように泳いでいく。
「先輩も早くー!」
「……」
サディストは水面に浮かんだまま、深く息を吐いた。
今日は何の時間だったんだ。
今日一日、何度もそう思った。
ネイル。菓子作り。そして最後には、ナイトプール。
意味なんてたぶん無い。
少し離れたところで手を振るぱぅるの姿を見れば、完全に無駄だったとも言い切れないけれど。
「先輩ー!」
「分かったよ」
「やった!」
「ただしSNSは後で確認するからね」
「えー!」
文句を言いながらサディストもゆっくり泳ぎ出す。
青や紫の光が水面で二人の影をほどいていく。
残すべきものなんてない。そう思っている人間の写真を、勝手に増やしていく後輩がいる。
それが正しいのかどうかは、まだ分からない。
ただ、今夜の一枚くらいなら。――まあ、悪くないのかもしれない。
「女子力、つまり人間的魅力だね」
白百合・蓮華(徒花の実・h12988)は、いかにも名案を口にするような調子で言った。
夜のプールは昼とはまるで別の場所のようだ。
水底から滲む青や紫の光が波にほどけ、白や桃色のイルミネーションがその上をゆっくり流れていく。軽やかな音楽は夜風に混ざり、プールサイドでは色鮮やかなドリンクを片手に寛ぐ人々の姿がちらほらと見えた。
「高くて困ることはないし、僕ら男子も負けてられないよ」
「これって勝負事だったのか?」
イワタ・レイジ(気ままなバイク乗り・h13218)も応えるようにからりと笑う。
「勝負だと思った方が面白いだろう?」
「なるほどな!」
「ねえねえねえレイジくん、ところで……今日の僕は、いつもと違うと思わない?」
そこでレイジは、改めて隣を歩く蓮華へ視線を向けた。
少し遅れて気づく。
「そういえば眼鏡じゃないな! 不思議な感じだ」
蓮華は満足げに銀の瞳を細める。
「そう! プールだからコンタクトにしてきた!」
「やっぱりそこか!」
「アロハも見て見て。パイナップルとウクレレ柄だよ。可愛いでしょう」
いつも顔の一部になっている眼鏡がないだけで、印象は思っていた以上に変わる。
右眼を横切る傷も、銀の瞳も、今夜は何にも遮られずに光を受けていた。白い髪はいつもより少し無造作に流し、細身の身体には白を基調とした明るいボードショーツを合わせている。
丈は膝より少し上。ゆるく落ちるシルエットが長い脚をすっきり見せ、その上には白地のアロハシャツ。柄はパイナップルとウクレレ。黄色や橙の陽気なモチーフが白地によく映え、骨ばった肩へ軽く羽織れば、いつもの白衣姿とはまるで違う。胸元は大きく開け、薄い布地が夜風をはらむたび、どこか気楽で夏らしい雰囲気を纏った。
「服も明るくて陽気で白くて、蓮華くんに似合っているな!」
「でしょ?」
今度は蓮華が、レイジを上から下まで見た。
「レイジくんの水着もかっこいいねぇ」
レイジが選んだのは、黒を基調にした丈長めのスイムショーツだ。膝にかかるくらいのゆるい形で、普段の服装からそのまま水辺用へ寄せたような気楽さがある。
その上には黒地のアロハシャツ。大ぶりのハイビスカスと椰子の葉が鮮やかな赤、黄、緑で散り、黒い肌と緑の髪によく映えていた。派手ではあるが、レイジの快活さにはよく似合う。
「普段の服装っぽくていい。アロハもすごく似合ってるよ」
「ん? はは! ありがとう!」
レイジが嬉しそうに胸を張る。
「じゃあ、もっとご機嫌にしよう」
蓮華がどこからともなく取り出したのは、星の形をしたサングラス。
フレームそのものが七色に光るやつだ。ぴっかぴかに。
「もちろんレイジくんの分もあるよ」
「ご機嫌なサングラスだな!」
躊躇なく受け取って、そのまま装着する。
夜なのにサングラス、それも光る。合理性はたぶんないけれど、楽しそうなので今夜はそれでいい。
「ならこっちの腕輪をどうぞ、だ!」
今度はレイジが光る腕輪を差し出した。
「わけてくれるの?」
「お揃いにしよう!」
「あは、おそろいのビカビカだ」
二人の手首に、それぞれ発光する腕輪が巻かれる。星形サングラスまで合わせれば、見事なまでに浮かれた夏仕様。
「ヒメくんも一緒に女子力を上げていこうね」
蓮華が少し離れた場所に停められたバイクへ声を掛ける。
レイジの相棒、イワタ・ヒメも今夜は同行している。
もちろんプールに入るわけではないが、せっかくなら一緒に雰囲気くらい味わおうということで、どうにかこうにか施設内へ入れてもらったらしい。
「ちょっと交渉に香気使っちゃったけどまあ……ね♡」
『その件については後ほど検証が必要です』
「怒ってる?」
『検証が必要です』
「怒ってるねぇ」
とはいえ、ヒメも無闇にヘッドライトを点滅させたり、エンジン音を響かせたりはしていない。
その代わり、蓮華から以前もらったヒヨコ型ライトが車体の端で七色に光っていた。ぱっ、ぱっ、と色が変わるたび、レイジがちらりとそちらを見る。
「女子力強化の話をしたら、いつもより饒舌になってたからなぁ」
『通常範囲内です』
「楽しみにしてたんだろう」
『通常範囲内です』
「はいはい」
✦
ヒメの位置を確認してから、二人はドリンクスタンドへ向かった。
「僕はお酒飲んじゃうよ」
蓮華が選んだのはサンセット・ピーチ。
桃色から橙色へゆっくり色を変えるグラスの中に、花びら型のゼリーが浮かんでいる。
「オレはヒメちゃんがいるからな!」
レイジは迷わず、ノンアルコールのムーンミルクを選んだ。
乳白色から淡い紫へ溶ける色合いの中に、こちらは月形のマシュマロがぽかりと浮かぶ。
「甘くてうまい!」
一口飲んで、すぐ笑う。
「そっちも美味しそうだね」
「蓮華くんのも派手でいいな!」
「でしょ?」
蓮華もストローへ口をつけると、桃の甘さのあとから炭酸とアルコールが軽く抜けていく。
「ふふ。甘くて美味しい」
グラスを片手に歩けば、水面へ浮かんだ光る球がゆっくり流れ、その色が二人のシャツへ移っては消える。
「この空気で酔ってしまいそうだ」
「蓮華くん、酒強いんじゃなかったか?」
「強いはずなんだけどね。ふふ」
今夜は酒のせいだけではない気がする。
海水浴の経験ならある。
けれど、光と音楽で飾られた夜のプールは初めてだった。
眼鏡を外して、派手なアロハを着て、友人とお揃いの光るサングラスと腕輪まで身につけて。浮き球が流れるたび、蓮華の銀の瞳にも青や紫が映り込む。
「……初めての夜のプールって、けっこう楽しいねぇ」
普段なら白衣のポケットに手を突っ込んで、研究室の中を気ままに歩いている男が、今夜は光るサングラスにアロハシャツ、片手には夕焼け色のカクテルだ。自分でも少し可笑しくなったのか、蓮華はグラス越しに揺れる水面を眺めながら、楽しそうに口元を緩める。
何かを調べるでも、誰かを観察するでもなく、友人と同じ景色を見て笑うだけの時間は、思っていたよりずっと心地良かった。
「オレも、こういう夜の水場は初めてだ!」
「じゃあ、せっかくだし浮こうか」
「いいな!」
借りたのはふたつの大きな光る浮き輪だ。
二人でそれぞれ水へ入り、身体を預ける。
最初こそ足先に触れる冷たさへ少し肩を竦めたものの、浮き輪へ腰を落ち着けてしまえば身体はふわりと軽くなった。蓮華は長い手足を気ままに投げ出し、水面へ背を預ける。
「クラゲにでもなった気分だ。何もせず、ぼーっと波に揺られている感じ」
「蓮華くんらしいな!」
「褒め言葉として受け取るよ」
浮き輪がゆるい波に押され、二人は光る水面をゆっくり漂っていく。
水辺の音楽は少し遠のき、空を見上げれば……人工の灯りのその先に、本物の夜空がある。
レイジは浮き輪へ深く身体を預けながら、何度かヒメの方を振り返っていた。
七色に光るヒヨコライトはちゃんと同じ場所にある。
そのたびにヒメが変わらずそこにいるのを確かめて、また視線を水面へ戻す。
ゆるやかな波に任せているうちに、賑やかなはずのナイトプールも少し遠く感じられてくる。
笑い声も音楽も、水面をひとつ隔てれば角が取れて、ただ夜の中へ溶けていく音になる。
レイジは、、そんな静けさが嫌いではなかった。
賑やかな場所へ来ればそれなりに楽しめるし、こうして誰かと一緒にいることも楽しい。けれど、ときどき何も考えず、ただ景色だけを眺めていられる時間が欲しくなる。
今夜はそのどちらも、妙にうまく同居していた。
すぐ隣には蓮華がいて、少し離れたところにはヒメがいる。誰かに合わせるでもなく、それぞれ好きなように過ごしながら、それでも同じ場所にいる。
けれど、完全に気を抜いていたわけではない。視線を水面へ戻すたび、その端では何度となくリンゼイの姿も確かめていた。
「レイジくん、ちゃんと仕事のことも忘れてないんだねぇ」
真面目な表情で周囲を見ている姿は、ナイトプールにいるというのにどこか任務中のようだった。
「生真面目な顔をしてるが、こうして見ると普通に楽しんでる客の一人にしか見えないな」
「そうだねぇ」
蓮華もそちらを見る。
しばらくして、レイジが小さく呟いた。
「……もっと自由に生きたらいいのにな」
その言葉はたしかにリンゼイへ向けたものだったはずなのに。
口にした瞬間、レイジ自身の中で少しだけ意味がずれた。
自由に、好きに、気ままに。そんな言葉が似合うはずの友人が、隣で浮かんでいる。
不老で不死、何処へでも行けて何年でも生きられることさえ、僥倖だと笑う男。
「……」
レイジは、そっと蓮華を見た。
その視線に気づいたのか気づいていないのか、蓮華は変わらず水の上へ背を預けたまま笑う。
「自由こそが窮屈な人もいるんだよ」
「……そういうもんか?」
「そういうものだよ」
声はあくまで軽い。
「何をしてもいい。どこへ行ってもいい。何者にだってなれる。そう言われる方が困る人もいるだろう?」
蓮華は片手を水へ垂らした。指先に触れた青い光が、波紋と一緒に形を崩していく。
「枠がある方が楽なこともあるし、誰かに決めてもらいたいこともある。自由って、案外手間がかかるからね」
「蓮華くんが言うと妙に説得力あるな」
「僕は自由を満喫してる側だけどね!」
にっこりと、いつもの調子。
なのに、その言葉だけが妙に胸へ残った。まるで、見せるつもりのなかったところまで見透かされたような気がする。
だから。
「うわぁ!」
次の瞬間、蓮華の浮き輪がひっくり返った。
ばしゃんと派手な水音があがって、白い髪が水へ沈み、サンセット・ピーチは間一髪で手から離された。
数秒後。
「……レイジくん?」
ずぶ濡れになった蓮華が水面から顔を出した。
「悪い、手が滑った!」
「今ものすごく意志を感じたけど?」
「気のせいだ!」
「僕、不死だからって雑に扱っていいわけじゃないんだよ?」
「元気そうだから大丈夫だな!」
「なるほど、そういう判定なんだ」
蓮華はしばし瞬きをして――。
それから、笑い出した。
「ふふ、ははっ」
「怒ってないのか?」
「怒るの面倒だし」
「そっか!」
「でも仕返しはするよ」
「え?」
蓮華がノータイムでレイジの浮き輪へ手をかける。
「ちょ、待っ――」
ばしゃーん! と、今度はレイジが水へ落ちた。
「ははは!」
「やったな蓮華くん!」
「お互い様だよ」
水面が大きく揺れ、イルミネーションが二人分の波紋に砕けて散る。
遠くでは、ヒメのヒヨコライトが七色に瞬いていた。
『レイジ。周辺への飛沫量に注意してください』
「はい!」
「ヒメくん、僕にも言ってよ」
『白百合・蓮華。レイジを水中へ引きずり込む行為は推奨されません』
「あれ、僕だけ具体的に怒られてない?」
『事実を述べています』
「辛辣だなぁ」
「はは! ヒメちゃんはちゃんと見てるからな!」
「レイジくんまで嬉しそうにしないでよ」
濡れたまま浮き輪へ戻った蓮華が、飲みかけのサンセット・ピーチを掲げる。
「レイジくん」
「なんだ?」
「いい夜だね」
レイジもムーンミルクを持ち上げた。
「オレもそう思う!」
グラスが軽く触れ合う。
夕焼け色と、月明かり色。
その向こうで、プールいっぱいの光が揺れていた。
自由だろうが不自由だろうが、今夜くらいは好きなものを飲んで、好きなように浮かんで、友人の浮き輪をひっくり返して笑えばいい。
それもきっと、人間的魅力――女子力強化ということで。
たぶん、問題ないのだろう。
夜になればプールは昼とはまるで違う遊び場になる。
水底に仕込まれた青や紫の光が、ゆるい波に砕けながら揺れている。プールサイドには星や花を模したイルミネーションが連なり、少し離れた場所から聞こえる音楽も、賑やかすぎず夜風に溶ける程度の音量だった。
そんな光景の中へ足を踏み入れて、和奏はゆっくり辺りを見回した。
「ナイトプールって、俺も初めてだな」
興味はあった。けれど自分からわざわざ来る切っ掛けもなく、今日は誘われたからこその初体験だ。
昨年用意した水着は、今夜の景色にはよく馴染んでいる。
和奏が羽織るのは濃紺を土台に鮮やかな南国の花や葉を散らしたアロハシャツ。前を大きく開けているため、引き締まった胸元から腹部までが夜風に晒され、赤や緑、黄色の植物模様が黒髪と白い肌を華やかに引き立てていた。
水着は黒を基調とした膝丈のサーフパンツ。裾には白と鮮やかな桃色の大きな花が咲き、アロハの派手さをそのまま下へ繋げるようなデザインだ。
頭には丸いサングラス。足元には黒のサンダル。
「奏さん」
呼ぶ声に振り返れば、そこにいた縁珠は淡い桜色を主役にした水着姿だった。
「お待たせ」
「いや、俺も今来たところです」
縁珠が身につけているビキニトップは、肌馴染みの良い柔らかな桜色。胸元で細い紐を結んだシンプルな形が、長く淡い髪と色白の肌によく似合っている。
その上には白い薄手のパーカーをゆるく羽織り、下は黒のショートパンツ。
甘い色だけに寄りすぎず、普段着に近い気軽さも残した組み合わせだ。
長い髪は後ろでまとめ、淡い桃色のシュシュを添えている。額にはハート形のサングラス。厚底のサンダルまで明るい色で揃えていて、いつもの園芸店の店主姿とは少し違う、夏の少女らしい装いだった。
ただし片手には、妙にしっかりした水鉄砲がある。
「それ、使うんです?」
「使う時がきたら」
「来るんだ」
「かもしれない」
縁珠は真顔だった。
和奏は笑いながら、もう一度彼女の水着を見る。
「しかし、本当に来るとは」
「誘ったの、縁やけんね」
「そうなんですけど」
以前、縁珠から告げられたのは至って簡潔な誘いだった。
『ナイトプールでパリピしない?』
その時は、随分と珍しい言葉が出てきたものだと思った。
「そういえば縁さん」
「ん?」
「俺、ちょっと気になってたんですよ。縁さんがナイトプールに来たくなった切っ掛け」
「ほう」
「映え写真を撮ってみたいとか、誰かに誘われたとか……」
縁珠は少し考えて。
「パリピっぽいコトが気になったからでやんす」
「何、その急な三下口調」
「ほーん。三下口調ってんだ」
「そこからなんですね」
――どうやら深刻な理由ではなかったらしい。
和奏は内心で少しだけ息をつく。
薄着になり、人も多く集まる夜の遊び場。別に縁珠を子供扱いするつもりはないが、ナンパでもされたのか、何か妙な切っ掛けでもあったのかと少し気にしていたのだ。
「……まあ、それならいいか」
「何が?」
「いや、何でも」
「ふーん」
縁珠はそれ以上追及せず、すぐにドリンクスタンドを見つけた。
「そんな事より、バイブルドリンク嗜もうぜよー」
「切り替え早いなぁ」
「それとも、わっきー」
縁珠が少しだけ目を細める。
「リンリンが気になっちゃう感じ?」
「リンリンってリンゼイさん?」
「うん」
和奏は少し離れたところにいるリンゼイへ視線を向けた。
「俺、彼女とは初対面ですし。縁さんが声かけない限りは特には」
「そう」
「せっかくだし、今日は俺達で楽しみましょう」
縁珠は一度だけ瞬きをしてから、こくりと頷いた。
「じゃあ、縁はスターライトにしよう」
「俺はノンアルのサンセットにしようかな」
二人分のドリンクがほどなくしてカウンターへ並ぶ。
縁珠の『スターライト・ブルー』は、透明感のある深い青の中に星形のゼリーが沈み、炭酸の泡が上がるたびに小さな星までふわりと踊る。グラスの縁へ散った銀色のシュガーも、プールの光を拾って細かく瞬いていた。
和奏の『サンセット・ピーチ』は、淡い桃色から橙へと移り変わるグラデーション。花びら形のゼリーが夕焼けの中へ浮かぶように揺れている。
「なるほど。これがパリピドリンク」
「なんか持ってるだけで、それっぽい」
「それっぽさは大事ですね」
プールサイドの椅子へ並んで腰を下ろす。
目の前には水面へ投影された大きな花。青紫の水の上で、光だけで出来た花弁が開いては、波に崩れてまた咲き直している。
縁珠はスターライト・ブルーを一口飲んだ。
「おいしい」
「こっちも美味しいですよ」
和奏もサンセット・ピーチを傾ける。桃の柔らかな甘さと柑橘の酸味が、冷たい炭酸と一緒に喉を抜けていった。
しばらく二人で水面を眺める。
何かをしなくても、ただこうして冷たい飲み物を手に夜風へ当たっているだけで十分心地良い。
「縁、こういうのが大人っぽい遊び方ってイメージだった」
「大人っぽい?」
「キラキラプール眺めながら、パリピドリンク飲む」
「俺、遊び方を大人っぽいとかで括ったことないからなぁ」
「実際如何でしょう、大人の先輩?」
「俺まだ二十六ですよ」
「縁より大人」
「それはそうだけど」
和奏は水面へ目を戻した。
「でもまあ……こういう場所だと、ゆっくり話して心の距離を縮めたりとか」
「ほう」
「普段より解放的な気分になりたい人も、いるのかもしれませんね」
「それヤンチャしてた人が言うセリフ……」
「俺そんなにヤンチャしてました?」
「してそう」
「風評被害だ」
くつくつ笑いながら、和奏はグラスを傾ける。
その視線が、ふと縁珠の足元へ落ちた。
「ん?」
サンダルから覗く爪先。
水面の光に紛れて目立たないと思っていたらしいが、淡い光が足元を滑った瞬間、小さな色彩がきらりと見えた。
「縁さん、フットネイルしてる」
「……見つかった」
「桜貝みたいですね。水着にも合ってて、つやぴかで可愛い」
桜色の水着と、淡い爪先。
夜の青い照明が重なれば、本当に浜辺で拾う薄い貝殻のように見える。
縁珠は自分の足先を眺める。
「周りが輝き過ぎて、目立たんと思ってた」
「結構分かりますよ。可愛いですね」
「……そう」
声はいつもと大差ない。けれど、悪い気はしていないらしい。
しばらく足先を眺めていた縁珠が、ぽつりと続けた。
「あと」
「はい?」
「何となく、大人の恋がはじまる場所って感じで」
「……はい?」
「奏さんが一緒なら、ちょっと体験してみるのもありかなって」
和奏の手が止まった。
サンセット・ピーチの氷が、からんと音を立てる。
「……俺同伴なら、安心して雰囲気ちら見できそうって意味?」
「ん?」
「そういう……大人の恋がどうこうって空気を、安全圏から見てみたい的な」
「ふむ」
縁珠は否定も肯定もしない。
「……なるほど」
和奏は一人で納得した。
「それならまあ、俺がいる間は変なの寄ってきても追い払えますしね」
「番犬」
「そこまで言ってないですよ」
「でもそれっぽい」
「狐は憑いてますけど」
二人の間に、また軽い笑いが落ちた。
少しだけ意味ありげだった話題も、夜風にさらわれるみたいにそこでいったん途切れた。
和奏は残ったドリンクをひと口飲み、今度は水面へ視線を移す。
✦
それから和奏は立ち上がった。
「せっかくですし縁さん。プールも入りましょう」
近くから借りてきたのは一人掛けの椅子型フロートだ。
背もたれがあり、身体を預ければ水へ沈まずゆったり座っていられる。
「これならドリンクも持てますね」
「お姫様席ですな」
「俺が押しますよ」
「お願いしまっせ」
縁珠をフロートへ乗せ、和奏は水の中へ。
脚に触れた水はひやりと冷たかったが、すぐ心地良さへ変わる。
フロートをゆっくり押せば、縁珠の白いパーカーの裾が水面すれすれで揺れた。
桜色の水着も、夜の青へ照らされると昼とは違って少し大人びて見える。
「お姫様気分、味わえてますか?」
「くるしゅうない。奏さんも乗る?」
「お姫様、交代制なんですか」
水面には光の花が浮かび、フロートが通り過ぎるたび花弁が崩れて二人の周囲へ散った。縁珠は背もたれへ身体を預けながら、ぼんやりとそれを眺める。
思っていたより静かだった。
人は多いのに、不思議と二人で話す声はちゃんと聞こえる。
「さっきの話ですけど」
「うん」
「大人の恋とやらを、ちょっと覗いて終わりならいいですけどね」
「どういうこと?」
「そういうのって、ちょっとで終われないこと多いから」
和奏は冗談めかして笑う。
「縁さん無防備そうだし。番犬に噛まれないよう気をつけて」
そう言いながら、水面から覗いていた縁珠の爪先を、指でちょんと突いた。
「奏さん」
「はい?」
次の瞬間、縁珠はすかさず前屈みになり、両手で水を掬った。
「え」
ばしゃっ!
「うわっ」
正面から飛んできた水をまともに浴びる。黒髪もアロハシャツも一瞬で濡れ、和奏は目を丸くした。
「やったなぁ」
「つつくから」
「ちょっとだけでしょう」
「仕返しもちょっとだけ」
「量が違いません?」
「誤差」
縁珠は平然としている。
和奏は濡れた前髪をかき上げて――結局、声を上げて笑った。
「はは、参ったな」
その笑顔を見ながら、縁珠はもう一度フロートへ背を預ける。
「……そんなの」
「ん?」
「心があるから当たり前やん」
和奏が目を瞬かせる。
何を指した言葉なのか――和奏は少しだけ考えた。
さっきの「ちょっとで終われない」という話なのか。
誰かを好きになることなのか。
思い通りにいかないことなのか。
縁珠はもう水面へ目を戻している。
「……そうですね」
和奏はそれ以上問い返さなかった。
青い水面を押しながら、少しだけ歩く。
やがて縁珠が振り返る。
「やっぱり、交代希望?」
「何がです?」
「縁が押す側」
「ああ」
「波もないし、縁も押しまっせ」
「じゃあ、この辺一周したらお願いしましょうか」
「うん」
それから、縁珠はほんの少し間を置いた。
「……ただの同伴のつもりなら、声かけてないよ」
和奏が顔を上げると、水面を撫でた夜風が細かな波を作った。
スターライト・ブルーの青い星が、少し離れたテーブルのグラスの中で揺れている。
「……」
「奏さん?」
「いや」
和奏は小さく笑った。
先ほど自分が安心した理由を、今になって少しだけ考え直す。
ナンパされたわけでも、誰かに誘われたわけでもない。縁珠が自分で気になって、自分で来ようと思い、そのうえで一緒に来る相手として声をかけたのが自分だった。
「それは光栄ですね」
フロートの背へ軽く手を添える。
「うん」
「じゃあ、ただの番犬ではいられないなぁ」
「噛まないでね」
「そこは保証しますよ、今は」
「ならよし」
水面には色鮮やかな花が咲き続けている。派手なイルミネーションも、甘いドリンクも、桜貝みたいな爪先も、確かに今夜をいつもとは少し違うものにしていた。
こういう場所なら普段より少しだけ、いつもなら口にしないことまで水面へ浮かんでくるのかもしれない。
「縁さん」
「なに?」
「もう少し向こうまで行きます?」
「行く」
椅子型フロートはまたゆっくり進み出す。
白と桜色の後ろ姿を押す和奏のアロハからは雫が落ち、そのたび水面に小さな円が広がった。
ナイトプールが本当に大人の恋が始まる場所なのかどうか、その答えはまだ知らない。
ただ、誰でもよかったわけではないということだけは。
今夜の光よりもずっと確かに、二人の間へ残っていた。
「……ナイトプール」
泉純は夢の中へ足を踏み入れるように、その光景を眺めた。
ナイトプールの水面には、青や紫、淡い桃色の光が重なっていた。水底から滲むイルミネーションが緩やかな波に揺らされるたび、細かな光の粒がほどけて流れ、プールサイドを飾るライトは星のように瞬いている。
「泉純、すっごく楽しみにしてた」
「わたくしもです。この夜を楽しみにしておりました」
隣でラデュレも目を輝かせている。
ただでさえ華やかな夜の中で、二人の装いはそれぞれ違う色の夢を纏っているようだ。
泉純の水着は、淡い桜色と白を基調に仕立てられたバレエコア風。
胸元は柔らかなハートラインを描き、細い紐とリボンがデコルテを繊細に飾る。ウエストを絞ったトップからは軽やかなミニ丈のスカートがふわりと広がり、細かなパールや小さなリボンが、動くたび愛らしく揺れていた。
左右で意匠を変えた脚元も印象的だ。
一方には大きなリボンを結んだ白いソックス、もう一方には透ける薄布とレースを重ねたストッキング。足首から甲へ伸びる細いストラップにも、小さな飾りが散りばめられている。
白銀の髪にも幾つものリボン。
長く伸びた髪の束の途中まで結び目が連なり、その先で黒から淡い紫へ変わる毛先が、水中を漂うクラゲの触手のように揺れていた。
可愛らしく、どこか舞台衣装のような華やかさ。
「水着……どう、かな」
泉純は少しだけ照れながら、ラデュレへ顔を向けた。
「……似合ってる?」
「もちろん。泉純さま、とってもお似合いです……!」
返事は即座だった。
「まるで踊り子さんのようです」
「ふふ、うれしい」
「こちらは……なんというお仕立てなのでしょう?」
「バレエコア風に仕立ててもらったの」
「バレエコア……」
ラデュレは新しい言葉を大切そうに繰り返した。
「……困りました。目を離すと、夜にそのまま溶け込んでしまいそうです」
「ラーレにそう言ってもらえると、うれしいな」
泉純が微笑む。
「あ……この子はね」
彼女の傍らを、ふわふわと小さなものが漂っていた。
「クリオネのリンネちゃん、だよ」
「まあ……!」
ラデュレの紫の瞳が、ぱっと明るくなる。
「リンネさま、はじめまして。とてもお可愛らしいお姿ですね……!」
小さなクリオネへ丁寧に頭を下げてから、今度は泉純の方がラデュレをじっくり見つめた。
「ラーレの水着は、とっても華やか」
「ふふ」
「この場所にも負けないくらい煌めいてて……お姫さまみたい」
ラデュレの装いは、泉純とはまるで違う方向へ豪奢だった。
浦島太郎の物語に登場する乙姫を思わせる、海の宮殿の姫君そのもの。
淡い金色の髪は高く結い上げられ、冠のような金の髪飾りには赤い珠と繊細な簪が重なる。その左右から長く流れる髪は橙から薄桃、さらに紫へと柔らかく色を変え、海の中を漂う帯のように背後へたなびいていた。
上半身には、青緑を基調としたきらびやかな水着。
胸元や腰には金の縁取りと組紐を重ね、袖のように広がる薄布には白、藤色、桃色が重なっている。
そして何より目を引くのは、全身を包むように広がった多層の装飾だ。
貝殻を思わせる波型の布、真珠のような細い飾り紐、珊瑚や海草を連想させる淡い色彩。その足元には半透明の青い布が幾重にも広がり、水の中へそのまま溶けていきそうな透明感を纏っている。
「乙姫さまモチーフなのです」
「おとひめ、っていうんだ」
「はい。海の宮殿に住まう、お姫さまです」
「海の中のお姫さま……」
泉純は少し考えてから、柔らかく笑った。
「その物語、読んでみたいな」
「では今度、ぜひ。わたくしがお持ちいたします」
「うん。楽しみにしてる」
互いの姿を見つめているうちに、泉純は何だか可笑しくなって、ふふ、と小さく笑った。
「泉純たち、全然ちがう格好なのに……並ぶと、ちゃんと一緒に遊びに来たって感じがするね」
「本当です……! 泉純さまは春のお花のようで、わたくしは海の中から訪れたよう」
「……そんな二人が、いちにちだけ出逢うお話?」
「ふふ。では、今日のお写真はその物語の挿絵になりますね」
「いっぱい撮らなきゃ」
泉純が嬉しそうに頷けば、リンネも同意するように二人の間をふわりと漂った。
「リンネちゃんも一緒にね」
「もちろんです。三人で、たくさん思い出を残しましょう……!」
その約束だけでも、今夜が少し先まで続いていくような気がした。ふたりが笑えば、きっとリンネも一緒に笑っている。
「プールへ行く時は、こちらの羽織を脱いで水着になれます……!」
ラデュレがそう言って広い袖を軽く持ち上げる。その仕草に笑みを返しながら、泉純は改めて夜のプールを見渡した。
「……ナイトプールって、すごくお洒落な所だね」
ラデュレは水面へ映る光を眺めた。
「あ……先ほどお仕立てをしたマカロンも似合いそうです!」
「ふふ」
泉純が思わず笑った。
「マカロンとプールの共通点を見つけちゃうなんて」
「だって、どちらもきらきらしていて、色がたくさんあって……」
「たしかに」
春色のマカロンを並べた午後。
そして今夜は光の海。
色は違っても、どこか胸が弾むところは似ている。
「ご一緒にお写真を撮っても楽しそうです」
「うん。いっぱい撮りたい」
泉純は少しだけ首を傾げた。
「その前に……まずは喉を潤すのはどう?」
「泉純さま、気になるものはありますか……?」
「泉純、ムーンミルクを飲んでみたい」
メニューに描かれた乳白色の一杯を示す。
「……ミルクには目がなくて」
「ふふ。それでは、お先にお飲み物をいただきにまいりましょう」
二人でドリンクスタンドへ向かう。
泉純が受け取ったムーンミルクは、白から薄紫へと溶ける淡い色合いに、小さな月形のマシュマロが浮かぶ一杯。
一方のラデュレは、サンセット・ピーチを選んだ。桃色から橙へゆっくり変わるグラデーションの中に、花びらの形をしたゼリーが浮かんでいる。
「どちらもステキなひと品です……!」
「ほんとだね」
泉純は二つのグラスを並べて見比べる。
「では……お写真に収めましょう」
ラデュレは少し嬉しそうにスマートフォンを取り出した。
「わぁい、うれしい!」
まずは二つのドリンクを並べて一枚。
次は互いにグラスを持ってイルミネーションを背景に。泉純の桜色のバレエコア水着と、ラデュレの乙姫風の装い。月明かり色と夕焼け色のドリンクまで揃えば、画面の中はまるで異なる物語の姫君が夜の海で出会ったようだ。
「……すごく好き、かも」
泉純が写真を見ながら呟く。
「わたくしもです。泉純さま、とてもお綺麗です」
「ラーレも。ほんとうに海のお姫さまみたい」
撮影を終えてから、ようやく一口。
「……おいしいね」
泉純は目を細める。まろやかなミルクの甘さと、柔らかなぶどうの香り。
「見た目もかわいくて、味も好き」
「こちらも、桃のお味がとても爽やかです……!」
「ラーレの、ひと口もらってもいい?」
「もちろんです。わたくしも、泉純さまのお月さまをいただいても?」
「交換こ、だね」
互いのグラスをそっと差し出す。
泉純がサンセット・ピーチを口にすれば、桃の甘い香りのあとに爽やかな果実味が広がった。ラデュレもムーンミルクを一口含み、目をぱちりとさせる。
「まあ……! とっても優しいお味です」
「ね。ラーレのは、夕方の……優しい匂いがする気がする」
「泉純さまのは、夜のお月さまのような、包まれるような……まろやかな味です」
二人で顔を見合わせて笑う。
グラスの中では花びらと小さな月が揺れ、その向こうで本物の夜の光まで水面に溶けていた。
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しばらくドリンクを楽しんだあと、泉純が水面へ視線を向ける。
「ふふ、満足したし。今度はプール……!」
「はい……!」
二人で浮き輪が並ぶ場所を見に行く。
「かわいい浮き輪がいっぱい……」
「あっ」
泉純が指差した。
「ちょうど貝殻のが空いたみたい」
「まあ、貝殻の浮き輪……!」
大きな貝殻を模したフロートの中央には、真珠のような丸いクッションが置かれている。
「――行って、みる?」
「是非まいりましょう」
そうして二人で水辺へ。
ラデュレは大きな羽織を外し、下に隠れていた水着姿になる。金糸や青緑の装飾はそのままに、濡れても動きやすい軽やかな姿へ。
泉純も水へ足を入れると冷たい水が脚を撫で、淡いスカートの裾を揺らす。
「二人で一緒に乗って、真珠を抱えて撮るんだって」
「こうして……でしょうか?」
ラデュレが先に貝殻へ乗り、泉純も隣へ。
二人で真珠のクッションを抱えれば、自然と距離が近くなる。
肩と肩が触れ、髪が重なる。
「近いね」
「……はい」
「でも、かわいい」
「ふふ」
揺れるフロートの上で、また一枚。
写真を撮り終えても、二人はすぐには離れなかった。
大きな真珠を間に抱えたまま、貝殻はゆっくりと水面を滑っていく。
「……ほんとうの海の中みたい」
泉純が水へ指先を伸ばす。
触れた場所から小さな波紋が生まれ、青や紫の光が丸く広がっていった。
「ラーレのおとひめさまのお家も、こんな感じなのかなあ」
「ふふ。もし乙姫さまのお住まいでしたら、もっともっと華やかなのでしょうね」
「じゃあ泉純、遊びに行ってみたいな」
「その時は、わたくしがご案内いたします」
「ほんと?」
「はい。迷子にはいたしません」
そんな約束まで交わしているうち、リンネが真珠の上へちょこんと降りる。
「あ」
「まあ……!」
二人は同時に声を潜め、今度はリンネを真ん中にして顔を寄せた。
「これは絶対、撮らなきゃ」
「はい……! 動かないでくださいね、リンネさま」
また一枚。
けれど今度の写真に残ったのは、綺麗に作った表情ではなく、リンネを見つめて自然にほころんだ二人の笑顔だった。
「新たなお写真が増えて、とても嬉しいです」
「泉純も」
ふと、泉純が声を少しだけ落とした。
「ラーレと遊べて、すっごく楽しい」
近い距離だからこそ、囁くような言葉までよく届く。
ラデュレはほんの少し目を見開いて、それから柔らかく笑った。
「わたくしも、とっても楽しいです……!」
胸の奥がふわりと暖かくなる。
今夜が終わらなければいい――そんなことを思ってしまうくらいに。
泉純はラデュレの肩越しに流れていく光をぼんやり眺めた。
楽しい時間ほど、終わりを意識した途端に少しだけ寂しくなる。
さっき撮った写真も、飲み終えたグラスも、こうして同じ浮き輪に乗っている時間も、春色のお菓子を一緒に作ったことも、今夜こうして光の海を漂ったことも、いつかは全部『過去のこと』になってしまう。
「……でも、終わるから。また逢えるんだよね」
「泉純さま」
揺れる水面の向こうで、イルミネーションがゆっくり遠ざかっていく。
このままもう少しだけ、同じ夜の中にいたい。
そんな気持ちを抱いたまま、泉純はラデュレへ視線を戻した。
「ねえラーレ。また、逢おう……ね」
ラデュレは真珠を抱いたまま、小さく頷いた。
「はい。わたくしからも。また、のお約束をしてもよろしいですか……?」
「もちろん」
答えはすぐだった。
「次も、いっぱい遊ぼう」
「はい……!」
貝殻のフロートが、光の波に揺られてゆっくり進んでいく。
昼に作った春色のマカロン。
夜に飲んだ月と夕焼けのドリンク。
そして、海の姫君と踊り子のような二人が並んだ写真。
いつか写真を見返した時、その一つひとつから声まで蘇るのだろう。
楽しかったね、と。そして――また逢おう、と。
真珠を抱えた二人の笑顔を、夜の水面に散った光がいつまでもいつまでも、きらきらと照らしている。