君がいないこの世界で、僕は
●離別
器物は、百年愛されると魂が宿り、付喪神なる存在へと変じるという。
――|俺《・》がまさに、そういった類のモノだ。
ただの鏡だったはずの俺が、いつしか人の姿を取れるようになり、持ち主の家で一騒動となったのも今や懐かしい話。
不気味な鏡だと俺を遠ざけることもなく、むしろただの物品だった頃以上に重宝されるようになったのは気のせいか。
あの人は――ああ、よく俺に自分の顔を映して、その身なりを整えていたものだ。
若い頃から、俺はあの人と共にあった。
ペタペタ指紋をつけられることもあった時分から、いわゆる思春期に入って身だしなみを気にするようになり、やがて成人しては毎朝の支度に重宝されたり、まあ色々だ。
|人間《ひと》の成長ってのは本当にあっという間だよな、なんて思っていた。その程度のはずだった。いずれ俺は別の誰かの手に渡り、また己の役割を全うするだけだろうと思っていた。
「ねえねえ、どうしてぼくのかおがうつるの?」
「悪い、寝癖がどうしても気になってさ……お前から見てどう思う?」
「おはよう、今日もピカピカだね。自分磨きを怠らない君が頼もしいよ」
あの人の成長を、親御さんに負けないくらい、見守ってきたという自信がある。
時折人の姿になっては、それはもう色々な話をした覚えだってある。
俺はいつしか、この人に万が一のことがあれば、一緒の墓に入れて貰えたらいいなんてことまで考えるようになっていた。
まさか、そんな急に『万が一』が来るなんて思わないだろう?
悪い病気だった。どんなに発達した医療でも、救いきれない命はある。身体の不調という形で見つかった時には、既に手遅れだったという。
俺は結局あの人の上っ面しか映せず、重大な事態を見落としていたことを後悔した。
でもあの人は最期まで、そうやって泣いてばかりだった俺を、むしろ励ましてくれた。
「私もだいぶやつれてしまったね、それでも精一杯身綺麗にはしておきたいから」
そう言って、病床で毎日、俺にその姿を映しては身なりを整えていた。
人の姿を取って、すっかり骨と皮だけになってしまった手を握っているうちに、生き物の身体から魂が抜ける瞬間というものを知った。
泣いて、泣いて――思い出しては、まだ涙ぐんで。
俺の中で、あの人がどれだけ大きな存在だったかを、思い知る。
だから、うすぼんやりと聞いた『もう一度、亡き友に会わせてやろうか』という言葉に、くだらないと思いつつもすがり付いてしまったのは――仕方がないと言い聞かせる。
町外れの封印を解いて、凶暴な古妖が野に放たれようと、知ったこっちゃない。
本当に、あの人に会えるなんて思っちゃいない。
「あの人がいないこの世界なんて、めちゃくちゃになったって、どうだっていいんだ」
雲外鏡と呼ばれる付喪神の青年は、どんよりとした空の下、独り天を仰いだ。
●苦悩
「√妖怪百鬼夜行で、強力な古妖の封印が解かれる事件が起きちまった」
星詠みの猫獣人、カデンツァ・ペルッツィ(星を見る猫・h01812)は端的に切り出した。
「|雲外鏡《うんがいきょう》って分かるか? 言っちまえば鏡の付喪神なんだけどよ、そいつが自分のことを大事に扱ってくれた人間を亡くして、|自棄《ヤケ》を起こしちまったみてえなんだ」
古妖の甘言自体は、お約束通りのものだったという。
しかし雲外鏡の青年はそれを真に受けず、古妖を解放するということの重大さを承知した上で、自ら封印を解いた。大切な人が存在しないこの世界など、どうにでもなれと。
「最終目標は、当然解放された古妖の再封印だ。けど、ここまで思い詰めちまったヤツをそのままにしておくと、またおんなじことを繰り返しちまうかも知れねえ」
だからどうか、まずは雲外鏡の青年に何らかのアプローチをかけて、捨て鉢になってしまった状況をリカバリーして欲しいとカデンツァは言う。
「雲外鏡の人としての名前は『|鏡介《きょうすけ》』っていうんだが、今はもういない大切な人の墓の前で呆然としてる。今から向かえばまだ間に合うと思うから、どうにか気持ちの整理をつけさせてやっちゃあくれねえか」
そう言うと、カデンツァは被ったフードを直しながら、軽く耳の後ろを掻いた。
「いきなり置いてかれるとさ、辛いよな。でも、遺された側にだって生きようはあるだろ? 何より、古妖の好き勝手にはさせらんねえ。どうか、よろしく頼んだぜ」
第1章 冒険 『友のいない世界』

●独白
立ち並ぶ奇妙建築を抜けた先に、小さなお寺と、併設の墓地が見える。
今にも泣き出しそうな曇天の下、とある墓標の前で、藍色の髪を長く伸ばした男女の区別もつかぬ人物が、独り佇んでいた。
「俺がしでかしたことを、あなたは怒るかな」
死者からの答えはない。
だから、勝手に思う。
あの人が怒ったところなんて見たことがないから、きっと怒ったりはしないだろうと。
けれど――。
「あなたが悪いんだ、中途半端に俺を置いていったから」
本来が器物である自分は、他に行くあては幾らでもあるというのに。
身勝手にも、執着してしまった。
この想いが、世界を滅ぼすとしても構うまいと思ってしまった。
「……何でだよ」
どうしてこんなことになってしまったのかと、青年は顔を覆う。
けれども一度転がり出した運命は、もう止めることはできない。
――√能力者の力でもない限りは。
●心を寄せて
長い藍色の髪を生温い風になびかせるまま、その青年はある墓標の前に立っていた。
今にも雨が降り出しそうな空模様は、彼の胸中そのものなのかも知れないと思わせる。
(「鏡介さんが墓の前にいるって聞いたけど」)
赫夜・リツ(人間災厄「ルベル」・h01323)はその事実自体は星詠みから聞かされていたけれど、実際目の当たりにしてみて、その後ろ姿から漂う沈痛さを敏感に感じ取ったあまり、思わず身を乗り出してしまった。
「……誰か、いるのか」
ほんの僅かだけ視線を向けられ、リツは慌ててぺこりと頭を下げる。そばに行こうと思った時、別の誰かの声がした。
「こんにちは、大丈夫ですか? 具合が悪いなら、どこかに座って、お水でも……」
おいしい水のラベルが貼られたペットボトルを片手に、鏡の付喪神――鏡介を慮ったのは、アズ・パヴォーネ(|幸福の蒼い鳥《チルチルミチル》・h00928)だった。
「あ、ボクはアズ・パヴォーネと言います」
「僕は赫夜・リツです、驚かせてしまってすみません」
丁寧に自己紹介をするアズにつられるように、リツも名乗り出れば、青年は「鏡介だ」とだけ応えて軽く会釈をすると、すぐにまた暗い面持ちに戻ってしまう。
「お知り合いさんのお墓参りに来ていて……あなたも、お墓参りですか?」
会話の糸口を掴もうとするだけではなく、鏡介と名乗った青年を努めて労るように、アズは優しい声音で言葉を紡ぐ。
「……ああ、まあ」
手向けられた花は瑞々しく、美しい花弁を風に揺らしている。墓石の側面にはまだ新しい日付と、星詠みから伝えられた通りの人物の名が刻まれていた。
「透さん、ってお名前の方がここに眠っているんですね」
「……その方のことを思い出して、つらくなられてしまったのでは……」
リツとアズに気遣いを受けた鏡介は、寄せていた眉根をほんの僅かだけ緩めて、二人に向き直った。目の下の濃い隈が際立つ、痛々しい表情こそ変わらなかったけれど。
「辛い……ああ、辛いな」
お骨となり墓に納められているということは、葬儀など一通りのことは済ませたに違いない。気持ちに整理をつけるための儀式であるとも言うが、それでもあふれ出る想いが、青年の心に古妖がつけ込む隙を与えてしまったのかも知れない。
「心に穴が空く、っていう表現は、こういう時に使うんだなって思うよ」
雲外鏡の青年が、ぽつりと語り出した。
「気持ちの整理が全然つかないんだよ、|人間《ひと》との別れなんて何度も経験してきたはずなのにさ」
涙こそ見せないものの、その声音は確実に震えている。流す涙はとうに涸れ果てたのだろうか、繊細な手指で顔を覆いながら、青年はぽつりぽつりと胸中を吐き出していった。
「……俺は、とんでもないことをしちまった。でも、あの人はもう何も言ってくれない。ここに来たってもうどうしようもないって分かってるのに、俺は……っ」
リツは思う。自分はまだ『大切な人』を亡くしたことはないけれど、己が|人間《ひと》ではない限り、いつかはこんな風に誰かの墓標の前で立ち尽くす日が来るのだろうと。
――そう、想像するだけで。胸が潰れてしまいそうだ。
ならば今まさにその状況に置かれているこの鏡の付喪神の胸中たるや、いかばかりか。
(「こうしてお墓に問いかけても、相槌も何も返ってこないのは、僕も悲しくなると思うし、鏡介さんはもっと辛いだろうな……」)
無造作にポケットに放り込んだままの小銭やレシートについて、今でこそあれこれ言われたりもするけれど、いざそれがなくなったら――どうだろう?
「鏡介さん……」
人間災厄なる存在が口を開こうとしたその時、|青い鳥《パヴォーネ》が先に囁いた。
「あなたが透さんの幸せを願ったように、透さんだって、あなたの幸せを願うんじゃないですかね」
「……それは」
「優しい人だったのでしょう?」
「優しかったさ! でも、俺を置いていった!」
慟哭めいた言葉はまるで悲鳴のように、墓地に響き渡る。
「幸せでいるためには、生きていなくちゃいけません。あなたの友人は、あなたの幸せを、生を――願う人ではありませんか?」
けれどもアズは信じているからこそ、心からの言葉を止めない。この世に同時に生を受けた|双子《そんざい》を想えば、そうとしか言いようがなかったから。
「生きて……欲しいって……」
憔悴しきって、絶望の淵に立たされ、挙げ句古妖にそそのかされ世界をも滅ぼさんとすることを良しとするなど、果たして彼の人が望むところのものだろうか。
「……そりゃあ、そうだけど、さ……」
そんなことはない。
自分のしたことは間違っていると、頭では理解している。
だが、それをどうか――他ならぬ『あなた』に咎めて欲しかった。
「本当は……透さんの口から、その言葉を聞きたかったんですよね?」
「……」
おずおずと、リツが思うままを口にしたそれこそが、真理だった。僅かに俯いたまま肩を震わせる鏡の付喪神を見て、二人は確信を深める。
「分かってる……本当は、あなたたちの言う通りなんだろうって」
悔悟の念を言葉の端々に滲ませながら、鏡介は言った。
「けれど、俺がしたことは」
「それは! 僕たちが何とかします!」
そのためにこそ、自分たちはここに来たのだと。リツは、力づけるように返す。
「ゆっくりでいいですから、いつか――また笑えるようになってください」
本来は、磨かれた鏡たる本体のように美しい面立ちの青年なのだろうと、アズは思う。
そんな鏡介の笑顔こそ、今は亡き大切な人への手向けとなるに違いないのだから。
「そのためなら、ボクたちは全力を尽くします」
藍色の髪の間から垣間見えた鏡介の表情は、呆然としたものから、やがてくしゃりとした笑顔に変わる。苦し紛れの、本当に、絞り出すような表情だったけれど。
「……ありがとう、本当に何とかなるかは信じられないが……」
√能力者の力をまだ知らぬ雲外鏡の反応は至極真っ当なものであったが。
「今は……あなたたちの言葉を信じてみようと思うよ」
ついぞ先程まで絶望に染まっていた心に、間違いなく、一筋の光が差したのだから。
●愛に時間を
(「お墓を見るのはつらいな」)
霊園に踏み入れば、当然ながら立ち並ぶのは墓石、墓石、墓石。
ぽつりぽつりと花が添えてあったとて、寂寥とした風景であることに変わりはない。
メイ・リシェル(エルフの|古代語魔術師《ブラックウィザード》・h02451)は、ある墓標の前に立ち尽くす人物――「鏡介」と名を受けた鏡の付喪神へと、驚かせぬよう注意を払いながら、そっと近付いた。
「こんにちは、鏡介さん」
「……」
俯いていた青年は、メイの呼びかけにほんの僅かだけ応えるように視線だけを向ける。
チラと垣間見えた表情は疲弊と憔悴が明らかに見て取れたものだから、メイの口からは驚くほどすらすらと言葉が紡がれた。
「そのお墓は、あなたの大切な人のもの?」
「……」
力無い頷きではあったけれど、反応は確実に返ってくる。
「あなたがそこまで嘆くなら、本当に強い想いを寄せていたんだろうね」
「それ、は」
肯定か、照れ隠しか。言葉は途中で詰まり、最後まで発せられることはなく。
ならばとメイは自らの率直な想いを告げる。
「置いて行かれる側の気持ちは、ボクも少しは分かるつもりだよ――エルフだからね」
ゆうに数百年の時を生きる長命種は、それこそ多くの命を見送ってきた。どんなに外見が幼くとも、エルフとはそういう存在なのだ。
さあ、と。墓地を風が吹き抜けていく。生温い風は、雨の気配を感じさせた。
「あなたがした事を知っても、透さんは怒らないと思う」
「!」
そこで初めて、鏡介はメイを見た。目の下に刻まれた隈は深く、疲弊が見て取れる。
「もう、被害が出始めてるのか」
己がしでかしたことを自覚しているのか、雲外鏡の青年は声を漏らした。メイはそれに対してかぶりを振ると「でもね」と返す。
「透さんと過ごしたこの世界を壊して、あなたはそれでいいの? 思い出も何もかもなくしてしまって、あなたは救われる?」
「……っ」
藍色の長い髪を揺らして、鏡介が口を引き結び、メイを見据えた。
(「ボクの言葉がどこまで届くかは分からないけど、少しでも力になれたらいい」)
すらりとした長身の青年に見下ろされる形となりながら、小柄なメイはそれを見上げる。
「古妖は、ボクたちがなんとかする。だから」
もこもこのミトンに包まれた手を、青年に向けて差し出すようにして。
「透さんへの気持ちと、もう一度向き合って欲しい」
「……そんな、今更」
「今更なんかじゃない、世界が壊れてもいいくらい強く想っているのなら、なおさらだよ」
心が揺らいでいる最中に囁かれた甘言に乗ってしまっただけ、だとしたら。
自身が真に願うのは一体何なのかを、見極める必要があるだろう。
「俺が……救われる……?」
時間をくれるというのか。
取り返しがつかないことをしてしまったと思っていたのに?
もう、先のことなど考えられぬと思っていたのに?
予想だにしなかった言葉に、青年は知らず己が胸に手を当てていた。
●刻まれるもの
付喪神という存在は、果たして人間という存在を、どう見ているのだろうか。
少なくとも百年の時を経て魂を宿し、人や異形の姿を取れるようになった彼らは、その有りようも様々だろう。刻・懐古(旨い物は宵のうち・h00369)の場合は、懐中時計として幾多の人々と共に在り、その生に寄り添い、時には別れも経験し――故に人の生を『美しい』と思うように至った。
「そう、『付喪神』が……」
なればこそ、己と同じくかつてはモノだった存在が『自ら望んで古妖の封印を解いた』と聞いた時は、些か複雑な心中になったものだ。
鏡の付喪神たる鏡介とは、少しばかり価値観が違うのだろう。
それでも、かける言葉が見つからないなどということはない。
生温かい風が吹き抜ける墓地で、懐古は己の本体たる懐中時計を手に、そっと歩を進めた。
「君は鏡か、僕は之れだ」
「! 懐中時計の……」
重厚かつ精巧な作りの懐中時計に、同じ器物として思わず息を呑まずにはいられない。鏡の付喪神はやつれた顔に驚きの色を宿し、懐古を見た。
「あなたは、俺を咎めるのか」
同じ付喪神として、己が取った行動を――他ならぬ鏡介自身が悔いているかのような問いに、懐古はゆるりと首を横に振った。
「『人は二度死ぬ』って言葉を、知ってるかな」
「二度、死ぬ……?」
穏やかな笑みでそう問いかける懐古に、鏡介は初めて聞いたという顔で返す。
「そう、一度目は『肉体が死んだ』時。二度目は『みんなから忘れられた』時」
丁寧に螺子を巻かれて百年愛された結果生まれた付喪神は、誰よりも刻まれる時についてを良く知っている。その言葉には、深い深い重みがあった。
「二度目の、死」
鏡介は繰り返すように呟く。自分の中で、あの人は果たしてどうなのかと考える。
今にも泣き出しそうな顔になる雲外鏡の青年へと、時刻みの青年は言葉を続けた。
「僕は思うんだ。付喪神である僕らなら、彼らを永遠に覚えていられる」
限られた時間の中で、選択を繰り返し、運命が重なり紡がれる――その一つ一つを、懐古はその身に刻み込み、忘れたことがない。全てを愛おしく思いながら、生きている。
「君が彼を想い生きていけば、彼は『二度死ぬ』ことはない、とね」
「……っ」
鏡介が、きつく唇を結んだ。奥歯を噛み締め、何かを堪えるかのように。
「そして、彼の生きたこの世界――本当に滅びを望むかい?」
「生きろって……言うのか」
その問いには、敢えて答えず。
懐古は、ただゆるりと微笑んだ。
「今なら、まだ間に合うよ」
そういえば、誰かが、古妖のことなら自分たちが何とかすると、言ったような気がする。
具体的にどうするのかは分からないが、捨て鉢な気持ちは徐々に収まりつつあった。
「生きていていいのか、生きるべきなのか……俺は……」
自問自答に過ぎずとも、声に出さずにはいられなかった。
「こんな気持ちを抱えたままで、生きていける訳ないって思ってたのに」
狡い、という呟きが漏れる。
「……同じ付喪神にそんなこと言われたら、そうなんだなって思っちまうじゃないか」
●などと供述しており
「ちょいちょい、職質いいかニャン?」
「は……!?」
お巡りさんから突然の職質を受けたら、普通は誰だって驚愕する。ましてや、後ろめたいことを一つ抱えている鏡の付喪神――鏡介からすれば、なおのことだ。
自身を不良警官と笑う広瀬・御影(半人半妖の狐耳少女不良警官・h00999)は、見るからにやつれた顔つきをさらに強ばらせた青年に、片目を閉じてこう言った。
「ここで会ったもニャにかの縁だと思ってさ、悪いお巡りさんの話に付き合って?」
「え、あ、まあ……」
少年とも少女ともつかぬ顔立ちの、とにかく若き警官に見える御影のペースに乗せられるまま、鏡介は少しだけ緊張を解くと、藍色の髪を一度掻き上げた。
「それで……話って、やっぱり俺みたいなのが一人で墓場にいると、怪しいとか……」
「いーや? 身勝手な執着も、そうと理解していても止まれないのも分かるワンって話」
「! 何でそれを」
「勘ってヤツかニャ? 僕もそういうタイプだワン」
もちろん、勘というのは嘘だ。星詠みから一通りの事情を聞いた上での接触だ。けれどもそれはごく自然に、するりと鏡介の懐に飛び込むには十分な言葉だった。
「……知ってるのか、全部」
「古妖の封印を解いた犯人はお前ニャ! なーんて」
疲弊しきった表情を隠そうともせず呟く雲外鏡の青年にズビシと指を突きつけ、ズバリ核心を突く発言をしつつも、御影の表情はお咎めとはまるで程遠い。
「気持ちは分かるって言ったワン、だからこそって訳じゃニャイけど――世界を滅ぼしたいってのは、本意とは違うんじゃニャイ?」
狐耳をぴこっとさせながら鏡介の顔を覗き込めば、そこには苦々しい表情があった。
「それ、は」
「もっと見てたかったとか、一緒にいたかったとか、そういうのが大元でしょ?」
「……う」
率直な気持ちほど、こじらせてしまうとなかなか口にはできないもので。一歩引いたところからならばありありと手に取るように分かるのに、当の本人は認めたがらない。
「違うなら違うで色々聞かせてワン、聞き込みはお巡りさんの得意分野だニャン」
そこまで言うと、不意に御影の瞳がすいと細められた。
「――どんな話でも聞くよ?」
蠱惑的なまでの視線に、そして曲がりなりにも警官という立場がもたらす社会的信用に、知らず鏡の付喪神は口を開いていた。
「好き、だったんだと思う」
あなたの言う通りだ、と小さく言い添える。
それが尊敬なのか親愛なのか恋慕なのか、正体はともかくとして――好意であることは明確だったと、青年の姿をした雲外鏡は告げた。
「あの人のせいだなんて、本当は微塵も思ってない。悪いのは俺なんだ、でも」
この手で古妖の封印を解いてしまった。その事実だけは覆らない。
「本当に、あの時はどうなってもいいと思って」
「オッケー、じゃあ何とかしようじゃニャイか!」
自供は十分。これ以上己を無為に責めさせる必要はないと、御影はパッと笑った。
「起きた事件を解決するのも、お巡りさんの得意分野だワン」
職務の一つとは敢えて言わず、不良警官は任せておけとフライトジャケットの胸元を叩くのだった。
●その痛みを知る者よ
「鏡の神よ、少し話をせぬか」
辺鄙な場所にある墓地に、しゃんと鈴の音が鳴るような声がしたという。
声の主ことツェイ・ユン・ルシャーガ(御伽騙・h00224)は、弔い酒でもないただの茶を手にしながら、雲外鏡の青年に柔らかな視線を送った。
「……どうぞ」
不思議と、反発心のようなものは湧いて来なかった。自分でも驚くくらいに眼前の神秘的な雰囲気纏いし|青年《そんざい》を受け入れながら、鏡介は酷くやつれた顔で向き直った。
「何、斯様に畏まることは無い。多少世を泳いだだけの小妖だがの」
「……いえ、俺も付喪神の端くれです。あなたの気配から……何となくは」
注がれるままに茶を受け取り、一礼して口をつける。
「つまらない話ですが……それでも良ければ」
己の姿を映したならば、きっと愕然とするだろう表情で、鏡の付喪神はそう切り出した。
ぽつりぽつりと紡がれる絶望と悔悟に、ひとしきり相槌を打ったツェイは瞑目する。
「成る程、成すべきことを成せなかったと――抱くべきではない想いであったと」
「……はい」
「……嗚呼、前者ほどに悔いるものは無いな」
深々と頭を垂れたまま、返事をするのが精一杯な鏡介に、一定の理解を示してみせて。
「されど、後者を恥じることは無いさ」
そして――顔を上げるように促さんばかりの言葉で、力づけるのだ。
「恥じることは……ない?」
「何せ種族も、在りようも、そして定められた命も、どれをも超えて手を取った先」
――此処に在るのが、我ら半妖ゆえな。
そう言われて、ようやっと顔を上げた鏡介は、随分と呆けた顔をしていた。まるで、自分のしたことが許されたかのような心地がしたものだから、信じられぬという状況だった。
「のう、お主は世を恨んでいるようで――少し、違うようだ」
ツェイはすいと繊手を伸ばし、鏡介の胸のあたりを指した。
「壊したいのは、|これ《・・》か」
「……っ」
ずきり、と。指し示された箇所が痛みを上げた。目頭が熱くなるのを何とか堪え、息を呑むのが精一杯で。明らかに肩を上下させ、息を整えようとする雲外鏡がいた。
「我らの時は長い、痛みのまま悔い嘆いても構わぬが」
ツェイの穏やかな声音は、その痛みを優しく包み込んでくれるようだった。
「透殿は、お主に映る世界が、荒れ果てた姿であるのを是とする方か――」
「……う」
「お主は、存じていよう」
「ああ……違う……っ!」
誰かに、いや――願わくば、もはや返事をすることも叶わぬ|あなた《・・・》に、己の愚行を咎めて欲しかったのかも知れない。
だからこうして、あの人が眠る場所へと来てしまったのだろうと、鏡介は思う。
自暴自棄になって危険な古妖を解き放ってしまった事実は変えられないけれど、どこかで救われたかったのだろう。何て浅ましい奴だと蔑まれようと、構うまい。
「人の愛受けし者よ」
今にも崩れ落ちてしまいそうな程に身を震わせる雲外鏡の青年へ、神仙気取りと己を嗤う半人半妖の青年は優しく告げた。
「透殿が眠る世を守ってやるのも、付喪神の弔いとしては、悪くないのでは無いか?」
「……でも、もう取り返しがつかな、い……?」
にこり、と。
まるで大丈夫だと言わんばかりに、ツェイはただ笑顔で返すのだった。
●主観と俯瞰
墓地で立ち尽くす鏡の付喪神を見つけて、さてどうしたものかなと白・琥珀(一に焦がれ一を求めず・h00174)は顎に手を添え思案した。
(「ただ、若いんだろうな――亡くなった人はもちろんだが、その雲外鏡も」)
百年の時を経て|人間《ひと》の身体を得たとて、精神的にも成熟しているかとはまた別の話だ。自身も勾玉の付喪神たる琥珀だからこそ、深く理解を示すことができる。
(「大事な人を失った悲しみはわかる。でも、乗り越えた人の強さも知っている」)
ロイヤルアンバー製の勾玉は、それはもう、たくさんの『想い』を背負っていると言っても過言ではないだろう。元となった原石を掘り出した人、勾玉の形であれと願った人、そして願いを込めてその形を作った人――それら全てが今となっては遠い記憶になりつつあるけれど、それを忘れたことなど、一時たりともなかった。
(「俺に、何ができるんだろうか」)
外見こそ若人の姿をしているが、琥珀が過ごしてきた年月は、付喪神の中でも相当に長い。それこそ眼前の雲外鏡は、何なら孫にも見える勢いだ。
なればこそ、逆に、かけるべき言葉がなかなか見つからないのはそのせいか。
今まさに追い詰められている相手に、たとえば「時間が解決してくれる」だとか、一体何の慰めになろう。
「なぁ」
本当に、どうしたものかと悩みつつ、琥珀は思い切って鏡の付喪神へ声をかけた。
「……あなた、は」
力無く振り向く姿も痛々しい青年が、光を半ば失った瞳に琥珀の姿を捉えた時、その正体を察したのだろうか、誰何しかけて言葉を止める。
「あんたは、その人と一緒に逝きたかったのか」
「……」
墓石に供えられた花が揺れている。青年――鏡介は、長い藍色の髪が乱れるのも気にせず、ただ立ち尽くしているだけだった。
そうして少しばかり、沈黙がその場を支配した。生温い風が墓所を吹き抜け、二人の付喪神は、互いに己が本体たる器物にそっと手を当てていた。
「あの人が死んだことで、俺は」
ぽつり、と。雲外鏡の青年が重い口を開く。
「あの人と共にある自分……ってやつを、失ってしまった心地がするんだ」
名を与え、共に育ち、そして――心の準備もできぬまま、別れることとなった人。
鏡介にとっては、それこそこの世の全てと言っても大袈裟ではないのかも知れない。
「だから……俺が、今こうして生きているのは、何かの間違いなんじゃないか、って」
「……そうか」
琥珀のように、達観するには遠く及ばず。
あまりにも親しかったものだから、反動もまた大きく。
「だから、どうでも良くなってしまったのか」
「……っ、それ、は……」
琥珀は言葉を紡ぎながら、しかし、決して鏡介を咎めることはしなかった。
あくまでも鏡介の言葉を引き出す雰囲気を作り、想いを吐き出させることに徹した。
胸中に残った最後のものこそが、鏡介の本意だと考えたからだ。
「俺は……とんでもないことをしてしまった」
「ああ」
「本当は、どの面下げてここに来たんだって、自分でも思う」
「……そうか」
どうなってもいいや――だなんて、とんでもない。
悔悟の念に胸を痛め、どうしたらいいかも分からずに、まるで赦しを乞うかの如く、墓前にやって来たという所だろうか。
「そこまで分かっているなら、後は任せてくれ」
「え……」
「あんたの本当の想いが聞けただけで、十分だ」
これも何かの縁だと、勾玉の付喪神は笑んだ。
ここから先は、√能力者たる自分たちの出番だ、と。
●欠落と願望
空沢・黒曜(輪る平坦な現在・h00050)を√能力者たらしめる『欠落』は、一定以上の感情の高揚である。
故に、此度の事件の原因である激情を、事象として理解はできても完全な意味で把握することは難しいなと、黒曜は正直に思う。
けれども黒曜は、鏡の付喪神への接触を諦めなかった。
――全ての破滅を願うのは、きっと、誰にとっても正しいことなんかじゃないと思うから。
「大丈夫かな? ずいぶん顔色が悪そうに見えるけど」
そう声をかければ、鏡介と名を受けた青年は黒曜の方を見た。この世界で土竜の姿をしていたとて、然程珍しくはなかろうと、獣人は動じることなく片手を挙げた。
亡くなった人の元に来る者の胸中など、そもそも喜や楽からは遠かろうとは分かる。けれども鏡介が纏う雰囲気は、あまりにも危うく。それを捨て置けず声をかけずには居られぬ程度には、己がお節介だという自覚はあった。
「そこの墓の人は……仲が良かった人、かな」
「……ええ、まあ……」
どこか奥歯に物が挟まったような返事に、違和感を覚える。気の迷いだったかも知れぬとはいえ、世界と天秤にかけて傾いた程の存在だろうに。
「もし苦しいなら、話してみるといい」
雨を予感させる生温い風を受けながら、黒曜は促す。
「見ず知らずの相手だからこそ、吐き出せるものもあるかもだし」
「……」
男性とも女性とも言えるし、判別がつかぬといえばつかぬ存在である鏡の付喪神は、酷く疲れた表情を黒曜に向けて、口を開こうとしては躊躇するのを、数度繰り返した。
やはり、突然思いの丈をぶちまけろというのは、難しいのだろうか。
ふと黒曜が墓石の方に視線を向けると、墓石自体が新しいことに気付く。先祖代々の墓などではないのかと、不思議に思うのも当然であった。
「……ところで、透さんにはご家族さんとか他の友達、いたのかな」
「全部……知られていると思ったのに、知らないのか……?」
花を手向けた相手の名を知られていること自体は、驚かない。古妖の封印を解いてしまった事実が知られているとあらば、自然と至る情報であろうと理解できるからだ。
けれども、あの人にまつわる話を問われたならば答えなければなるまいと、鏡介は眉根を寄せた。思い出すのも苦しいが、溢れる感情に蓋をできなかったが故に、ここにいるのだから。
「……年老いたご両親が、いて……交友関係までは、わからない……」
少なくとも、特別好意を寄せていた相手などはいなかったようだが、親より早くに亡くなるという不幸があったことだけは事実である。
「そっか、……それはきっと、お辛いだろうね」
瞑目し、哀悼の意を表しつつ、言葉を続ける黒曜。
「ご両親も、鏡介さんと同じく大切な人――なんじゃないかな」
「お世話になったから、それは……もちろん」
「透さんは、みんなにどうして欲しかったんだろう?」
「……っ」
鏡介が嘆き悲しむさまを見て、むしろそちらを心配するまであったかも知れない。少なくとも、愛息を亡くした悲しみのあまりに、この世の滅びを願うかと問われれば――きっと答えは、否だ。
「……止めたいと思ったなら、まだ遅くはない、と思うよ」
今にも儚くなってしまいそうな姿で、しかし青年は、初めてしっかりと黒曜を見た。
「まだ……何とかなる、のか?」
その問いに、黒曜は深く頷いて返事とした。
●明けぬ夜を灼く
己が凶悪なる古妖の封印を解いてしまったことを、既に知られているのだと理解して、鏡の付喪神はきつく口元を引き結ぶ。
誰もがそれを責めるでもなく、ただ「大丈夫だ」と声をかけてはくれるけれど、今回の事件が解決したところで――己は、一体どうなるというのだろう。
「……それでも」
頭では、理解している。
残された自分こそがあの人との思い出を胸に生きていくことこそが、最善なのだと。
「自信が……ないよ」
墓地を吹き抜ける生温かい風に髪を乱されるまま、鏡介なる青年は言葉を絞り出す。
その姿は、クレス・ギルバート(晧霄・h01091)の予想を超えて痛々しかった。大事なものを喪う気持ちを多少は感じ取れると思っていたけれど、ここまでとは。
「浮かない顔してるけど、大丈夫か?」
「……あ」
「急に話し掛けて悪い、あんたの遣る瀬無い呟きが気になって」
「いや、……こちらこそ、心配をかけて」
精一杯の気遣いで接するクレスに、青年――鏡介は長いまつげを伏せながら返す。元々は端正な顔立ちだったろうに、酷く疲れ切った表情で、今や見る影もない。
「何があったのか、良ければ聴かせて貰えないか?」
「……っ」
「誰かに話す事で、先に繋がるものがあるかもしれないぜ」
「先、に……」
あくまでも鏡介を案じる姿勢を崩さず、言葉を引き出そうとするクレスの姿勢は、千々に乱れた心を何とかしようと揺らいでいた雲外鏡の青年を支える力となる。
眼前に墓標に眠る人は、己にとってかけがえのない存在だったと。
あまりにも早すぎた別離に嘆き悲しんでいるところへ、古妖に囁かれたと。
封印を解けばまた逢える――だなんて、まるで信じていなかったと。
「……大切な奴が居ない世界なんて要らないって、そう思ったか?」
「!」
ぽつりぽつりと、断片的に語る付喪神の言葉を真摯に拾いながら、クレスがその胸中をずばりと言い当ててみせたものだから、青年は息を呑んだ。
「俺があんたの立場だったら、きっと同じことを考えるからな」
眼前の白き青年は、己を咎めるどころか、柔らかく笑って曇った心を包み込んでくれる。
その言葉が慰めでも何でもなく、ひたすらに事実であると伝わってくるからこそ、鏡介は墓前に向けていたその身をクレスの方へと向き直らせた。
「あなたは……その先の答えを識っているのか」
問われたならば答えようと、クレスは真っ直ぐに鏡介の昏い瞳を見据えて、言った。
「たとえばだ、もし彼に逢えたとして――今のあんたを見て、どんな顔すると思う?」
「……」
「……悲しい顔を、その眸に映したいわけじゃないだろ?」
「酷い顔をしていると……自分でも、分かってはいるんだ」
あなたに幸せであって欲しかったように。
あの人もまた、俺の幸せを願っているとしたら。
きっと、今の状態は――間違っている。
「答えは……とうに、出ていたんだな」
「分かってたって、どうにもならないことはあるさ――感情ってもんがある限りはな」
正しさよりも先立つものがあると、理解を示したその上で。
「上手く言えないけど」
菫色の双眸は確りと鏡の付喪神を捉え、どうかこの思いが伝わればいいと願う。
「付喪神のあんたが憶えてさえいれば、二人が紡いだ絆や生きた証は、永の時を経ても褪せる事なく、その|裡《うち》でずっと生き続けると思うんだ」
何のための永い生か。
何のために残されたか。
それはきっと、大切な人を己が裡で生かし続けるためなのではないか?
「……あの人は、もう俺には映らないと思っていた、けど」
窶れた表情に、ほんの僅か、色が差す。
「俺が忘れなければ、あの人は俺の中で生き続けるんだな」
鏡介の瞳に、ようやっと光が戻ったのを、クレスは認めた。
心の置き場所は見つかった。
――さあ、区切りをつけに行こう。
第2章 冒険 『1番の愛を、あなたに』

●二月の贈り物
「何というか……色々と、本当に申し訳ない」
強大な古妖を解き放ってしまったことももちろんだが、自身にも心配をかけてしまったと、雲外鏡の青年――鏡介は√能力者たちに向けて深々と頭を下げた。
その面持ちは、墓地で見かけた時と比べればだいぶ持ち直したように思える。酷く思い詰めていた表情だったのが、今や口角を上げる余裕さえ見せているのだから。
「俺がもう二度とこんなことをしでかさないためにも、気持ちに区切りをつけたいんだ」
藍色の長い髪をまとめながら、青年は光を取り戻した瞳で、真剣にこう言った。
「料理を作って、あの人に――透さんに、手向けたいと思って」
料理?
突然の展開に、√能力者たちは目をまあるくするばかり。無理もないと、鏡介は慌てて言い添えた。
「いや、その……透さんは小さな頃から料理が得意だったんだ。食事からお菓子まで、色々作っては俺に振る舞ってくれたな、って」
いつか、そのお礼に今度は自分が何かを作って驚かせてやろうと思っていた、のに。
あの人に感謝の気持ちを込めて、今からでも遅くはないと、何かを作ってみたくて。
「でも、恥ずかしい話なんだが……俺は料理ってやつがからきしで」
ちら、と。鏡介の視線が√能力者を射抜く。
なるほど、長い髪は料理の邪魔にならぬよう結い上げたということか。
「この時期なら、まあその……チョコレートってやつなんだろうけど」
時期的に、バレンタインが近い。
基本的には女性から男性へとチョコレートが贈られるイメージだが、最近は特に性別や感情の在りように問わず、感謝の気持ちを伝えるのにこの日が選ばれることも多い。
「初心者には難易度が高いかも知れないから、あなたたちが得意な料理を教えてもらえると、俺としてはありがたいんだが……」
チョコレートに限らず、比較的簡単な料理を教えてあげても良いだろう。もちろん、腕に自信があるのなら、これを機に挑戦させてみるのも一つの手だ。
鏡介と同じく、初心者としてスタートラインに立って、レシピを片手に奮戦するのもまた良い経験となることだろう。
「あの人が遺してくれた思い出に、少しでも、触れられたらって思うんだ」
●ご案内
鏡介と一緒に、何か一品、料理を作ってみませんか?
今まで料理を作ってもらうばかりだった鏡介が作る側に回ることで、初めて感じ取れることもありましょう。テクニックは二の次、何よりも愛情を込めてチャレンジです!
時期的にバレンタインのチョコレートを作るのが定番かも知れませんが、それに限らず、作りたい料理やお菓子をご提案いただければと思います。
場所は鏡介と透が過ごした一軒家のキッチンを使います、人数のことは細かく考えなくても大丈夫とします。大丈夫ったら大丈夫なんだよ(迫真)。
皆様のアイデアを、鏡介と共にお待ちしております。
●手作りチョコレート
一見すると古びた一軒家のキッチンは、いわゆるリノベーションを行ったのか意外と立派で、だいたいの料理は作れそうに思えた。
鏡介の元に真っ先に駆けつけたメイ・リシェルは、墓地で見た時と比べてだいぶ良くなったその顔色を見て、ほんの僅かながら安堵の笑みを浮かべてみせた。
「良かった、気持ちは持ち直したみたいだね」
「おかげさまでな……心配や迷惑をかけてしまって、申し訳ない」
鏡介が二度と道を踏み外さぬようにする、これは一つの儀式めいて。
ならば真摯に取り組もうと、メイもまた身支度を始める。
「感謝の気持ちを伝えるのは、今からでも遅くはないと思うから」
手にしているのは、道中で鏡介と共に商店で購入したチョコレートが入った袋だ。
「少しでも、お手伝いさせてもらうね」
キッチンに並べられた、何の変哲もない板チョコに見えるそれらは、これから心のこもった手作りチョコレートになるのだ。
「作り方は大丈夫だよ。|昔《・》、本で読んだから」
任せておいてと胸を張るメイだが、その昔とはどれくらい昔なのだろうと、エルフという存在を知る者たちは考えてしまったかも知れない。
「まずは、こいつを刻む所から始めるのか」
「うん、なんだか本で読んだやつと形が違うけど……たぶん基本は一緒だよね」
二人並んで、乾いたまな板の上に板チョコを前に、初歩的な会話から始める。
包丁を握り、いざ入刀――というところで、鏡介が難しい顔をしたものだから、メイは「どうしたの?」と軽く声をかけてみた。
「ど、どこからどう包丁を入れたものか……それすら分からない……」
そう、お料理ミリしら勢はここから話を始めなければならないのだ!
「えっと……確か、角からななめに大きく切っていけばいいはずだよ」
メイが手本を見せるように、割と大胆なカッティングでチョコを切り崩していく様子に、鏡介はおおと声を上げる。まずは大まかに切って、それを何度も細かく刻んでいくという工程を経ることで、湯せんの時にダマにならず均一に溶かすことができるのだ。
「包丁の先端を片手でおさえて、それを軸にするように動かす……」
「やってみればそんなに難しくはないからね、何事も経験だと思うな」
そうして二人は、チョコレートが均一に細かくカットされるまで、無心で包丁を入れ続けたという。
刻まれたチョコレートを前に、メイはふうと息を吐いた。
「後は溶かして型に入れて冷やすだけだよ」
「そ、そうか、じゃあこの沸かしておいたお湯にボウルを入れて」
「待って」
湯せんをする時の温度はちゃあんと決まっている。絶対に沸騰したお湯など使ってはならない。故にメイは鏡介を静かに制し、スッと温度計を取り出すと、適温である約50℃になるまで待つことにした。
「何だかんだで大変なんだな……溶かすだけにしてもコツが要るなんて」
「鏡介さんは、チョコレートも作ってくれたりしたの?」
「んー、あー……チョコレート菓子なら、ちょくちょく作ってたな」
「だからかな、きちんとゴムべらも用意されてるから、そうだろうと思った」
刻んだチョコレートにまんべんなく熱が通るように大きくかき混ぜながら、メイと鏡介は言葉を交わす。途中、チョコを混ぜるのを交代して鏡介にもしっかり溶けてなめらかになったのを確認してもらったら、これまたキッチンの棚から出てきた可愛らしい型に溶けたチョコレートを流し込んで固まるのを待つばかり――と。
「あああ!? は、はみ出た!」
「ちょっと不格好になっても問題ないよ、大事なのは気持ちだから」
鏡介は、どうやら本当に料理に関しては素人らしい。型に流し込むだけでも大騒ぎだ。
それをメイがフォローしながら、次々と型を用意していく。
「上手に作れればそれに越したことはないけど、大事なのは気持ちだから」
「……う、うーむ……」
「大好きも、ありがとうも、全部入ってる。それこそが大切なんだって、ボクはそう思う」
流し込まれたチョコレートは、冷蔵庫に入れられ、冷やし固められるのを待つばかり。恐らく形は市販品のそれと比べれば見るからに崩れているかも知れないけれど、鏡介が心を込めて作ったという事実こそが最優先されるのだと、メイは信じていた。
●花を編む
「ふぅむ、然程凝ったものは作れぬが」
そう言いつつも、ツェイ・ユン・ルシャーガの手には何やら製菓の材料が入っているであろう袋が下げられている。
「鏡介殿、透殿の好きな花を御存知かな?」
「好きな、花……?」
「然様、それから差支えなければ、お主の好きな花も」
ツェイの問いかけに、ううむと暫し考え込んだ鏡の付喪神は、不意に何かを思い出したかのようにぽつりと呟いた。
「……庭先に咲く、椿の花」
キッチンからは見えないが、きっと居間に行けば窓越しに見えるであろう、赤い花弁が美しい冬の花。それを、今にして思えば透は愛でていたのだと思い知る。
「椿も綺麗だと思うし、俺は……夏の前に咲く紫陽花も好きだ」
鏡介の答えを聞いたツェイは目を細め微笑むと、袋の中から手際良く用意してきたものをまな板の上に並べていった。
「椿に紫陽花とは丁度よい、ではそれを我らの手で形取ってみようではないか」
「え……?」
白餡と求肥に、色とりどりな食用の粉を見て、鏡介はまさかとツェイを見る。
「うむ、練り切りという菓子だの」
「わ、和菓子じゃないか! そんな大層なもの、俺には」
「そう難しく考えるでない――ふふふ、泥団子遊びだと思えばよい」
料理好きが生前使っていたキッチンには、篦や箸など最低限の道具は揃っている。専用の器具がなくとも、有り合わせで何とかなるものよとツェイは笑んだ。
そうして電子レンジで白餡を熱して求肥と混ぜ合わせるところから、二人の練り切り作りは始まった。
果たしてツェイが告げた通り、それはまさに泥団子遊びそのもので。
最初こそ躊躇していた鏡介も、いざ取り組んでみるとまるで童心に返ったかのように楽しげに手を動かすものだから、共に手を動かすツェイも笑みが絶えない。
「練り切りの生地はこれで完成だの、此処までの手応えは如何かな?」
「あ、ああ……思ったより難しくなくて、少し安心したよ」
しっとりとした手触りの練り切り生地が完成して、安堵の表情を浮かべる鏡介。ツェイは用意した色粉の中から赤と緑、そして黄色を選ぶと、大小に生地を分けて、それぞれに彩りをつけるよう混ぜ込んでみよと鏡介に告げた。
「赤は椿の花に、緑は葉に、黄色はシベにそれぞれ用いよう」
「ほんの少しだけで色がつく……これは加減が難しいな、俺だけだと入れすぎそうだ」
こねこね、こねこね。
白い生地が鮮やかな彩りを帯びていくのもまた楽しいと、先程まで今にも儚くなってしまいそうな顔をしていた者とは思えぬ程に、鏡の付喪神は手を動かす。
「これを……椿の花にしていくのか」
「多少歪とて構わぬさ、お主の手で咲かせるのが一番ゆえな」
ともすればすぐに気負ってしまいそうになる鏡介に寄り添いながら、ツェイは中に包む餡をそっと用意しつつ、自らも何か別のものを作るべく生地を捏ねていた。
「赤い生地を掌でまあるく伸ばして、この餡を包み込めれば上出来よ」
「……っ」
上手くできるだろうかとまず考えてしまうも、隣に立つツェイから先立ってかけられた言葉に背中を押されるように、勇気を出して自分なりに赤い生地を伸ばし始める。
餡を中央に置き、それを包み込もうとして、鏡介の表情は難しいものになった。
「な、何というかこう……形が」
「よい、よい。十分綺麗に丸まっておるし、此処から花弁を表現するのに少し崩すゆえ」
丸めた紅に箸の太い側を軽く押し当て、手で軽く整えて花弁と凹みを作る部分だけ手を貸したツェイは、篦を鏡介に渡して続きを促す。
「五等分になるよう線を入れてみよ、然すればより一層花弁らしくなるぞ」
「成程、椿の花をイメージして……こうか……?」
気持ち強めに篦を押し当てたのが絶妙な力加減となり、椿の花らしさがグッと増していく。それを見守りつつ、ツェイは茶漉しに黄色の生地を押し当て、シベを作った。
「窪んだ所にこの黄色い生地を添え、緑色の生地を葉の抜き型で……そう」
「……わ、すごいな……本当に椿の花に見える!」
「ころころとした愛らしい椿にて、我より余程筋が良くておられるのう」
「そんな! 俺一人じゃとてもこんな風にはできなかった」
さて、鏡介を手伝いつつ、ツェイが別に作っていたものは何だろう? 鏡介がふと興味を持って繊手の先を覗き込めば、平たく伸ばして整えられた、どこか慣れ親しんだものがそこにはあった。
「そう、小さくはあるが――鏡だの」
「鏡……」
言わずもがな、己のことを形にしてくれたのだと知り、その心遣いに鏡介はツェイを見た。何だか感極まってしまって、謝辞の一つも口にせねばと思うのに、固まってしまう。
その反応だけでツェイにとっては十分というもの、出来上がった椿の花と鏡の練り切りをそっと並べて、言葉を紡いだ。
「熱持たぬ料理ではあるが、茶には合うぞ」
或いは、と。
「木枯らしばかり吹く時期ゆえに、墓前に手向けるにも丁度良かろう」
「……そう、ですね……」
あの人は、喜んでくれるだろうか。
料理を振る舞われてばかりだった己が、手ずから生み出した『花』を手向けたならば。
そう考えられることの、何と幸せなことか。
「透殿が残した痛みと同じように、思い出の色かたちも、その甘さも」
まるで鏡介の胸中を見透かしたように、御伽騙りの|半人半妖《せいねん》は告げた。
「お主の裡で、糧と咲くさ」
●クッキーできるかなチャレンジ
「え、え、え? りょう……り? リョウリ……?」
突然の展開に、赫夜・リツが凍り付いたのも無理からぬことだった。ねえこれ古妖の再封印と何か関係ある? と問われれば、確かにうーむと唸ってしまうのも否めない。
けれどもこれで鏡介の気持ちが収まるというのならば、向き合うべきなのだろう。
「料理……料理? みーくんもそういうのは全く……」
そっと√能力【|最適化《ヒトナラザルモノ》】を発動させて器用さを底上げしつつ、リツと同じく困惑を隠せないのは広瀬・御影だ。
「僕、愛情でカバー出来る範囲は限られてると思うんだけど、どうなんだろう?」
料理は愛情! などと口にするのは簡単だが、冷静に現実を見た時、果たしてその言説は通用するのか――御影にとっては怪しいものだったに違いない。
「そういうの分かんニャイ、本当に愛があれば大丈夫なのかワン……?」
そこんとこどうなの鏡介さん、と言わんばかりに事の発端たる鏡の付喪神を見れば、申し訳なさそうに口をキュッと引き結んで見返してくる。本当に大丈夫なのか……?
「ちょ、ちょっとだけ待ってね!? 少し電話させて!!」
この膠着した状況を何とか打破せんと、リツはスマホを操作して通話を試み始めた。呼び出し音がやたらと長く感じるのは、それだけ気が急いている証拠だろうか。
どうか電話に出て欲しいと願った相手――リツのAnkerたる一ノ瀬・エミ(赫夜・リツのAnker・h01718)が、祈りが天に通じたが如く『もしもし?』とスマホ越しに応えた。
「エミちゃんエミちゃん、手作りチョコ菓子とか作れる? 作れるなら教えてください……」
『え、急にどうしちゃったの?』
「ごめん、帰ったら説明するから……レシピとかよろしく……」
切羽詰まった状況であると声音から伝わったのだろう、エミはこの場では深くを追求せず『じゃあメールするね』とだけ返事をして、手短に通話を終わらせた。
はあ、と大きく息を吐き、リツは鏡介たちの元へと戻る。
「クッキーとかなら作れるかニャ……? 失敗も分かり易いかな……?」
ちょうど御影が頑張って案を出しつつ鏡介の反応をうかがっている最中に、リツのスマホにメールの着信通知が届いた。
「援軍来たワン!?」
「き、来たと思う! えっと……!?」
メールタイトルには『焼きチョコクッキーの作り方』と記されていた。
「エミちゃん!? こんなの僕に作れるの!?」
「で、でもチョコレートの時期だし、一緒に摘めるような甘さ控えめなレシピっぽいワン! 本文も一応見てみるニャ!」
あまりの衝撃に目を点にしたリツを御影が励ましつつ、鏡介も交えて三人でスマホの画面に注目した、その時だった。
「鏡介さん、鏡介さん。一緒にクッキーを作ってみませんか?」
何の偶然か、クッキーの材料一式を携えて、アズ・パヴォーネが現れたのだ。
先に集ったリツと御影、そして鏡介の視線はいっせいにアズへと注がれる。
「えっと、ボクは見ての通り子どもですし、火や包丁を使うのは危ないだろうって、料理好きのお知り合いさんが勧めてくれたんです、が……?」
助っ人登場とはまさにこのことか、齢六歳のアズに向けられた視線は、今や期待の眼差しと化していた。クッキーと聞いて、リツがスッとスマホの画面をアズに向ける。
「こ、このレシピでも大丈夫かな? チョコを溶かして薄力粉を混ぜて、オーブンで焼くシンプルなものだって勧められたんだけど」
ふむ、と見せられた画面に視線を走らせたアズは、にっこり笑って頷いた。
「はい、これならきっと大丈夫です。チョコレートも用意してありますし、せっかくですから、みんなで一緒に作ってみましょう」
おおお、と先に集まった面子から声が上がる。チョコレートを湯せんする過程で包丁が必要になるが、そこは大人が担当すれば良い。幸い鏡介も一度チョコレートを刻んで湯せんした経験をついぞ先程したばかり、復習がてら率先してやってもらうのが最適だろう。
「クッキーはバターを練ったり小麦粉を振るったり大変ですけど、見せてもらった焼きチョコクッキーのレシピでも、時間をかけて丁寧にやっていると、その分だけ心を込められるような気がしませんか?」
アズがあどけない笑顔でそう鏡介に語りかければ、鏡の付喪神は素直に頷いた。
「確かに……あの人もきっと料理を作るたびに心を込めて振る舞ってくれたと思うと……」
「透さんも鏡介さんも、こういうお菓子は好き……かな?」
リツが恐る恐る様子をうかがうと、鏡介は墓地での様子からは考えられない程穏やかな笑みで「ああ」と答える。
「……失敗したら僕が責任もって全部持ち帰るから、鏡介さんもレッツチャレンジだニャン」
「いや、大丈夫だ――ありがとう、失敗したとしても構わないって、今なら思えるから」
大事なのは、心を込めて作ること。
出来は二の次で、全然問題ないと。
リツのスマホに送られてきたレシピを参考に、鏡介たちは役割分担をしつつ、焼きチョコクッキーを作り始めた。自ら率先してチョコを刻む役を買って出た鏡介は見事な包丁さばきを披露し、その間に湯せんのボウルを用意した御影が、おっかなびっくりながらチョコレートを溶かしていく。台に登ってキッチンの高さに背丈を合わせたアズは薄力粉をふるい入れ、そこからは四人交互にゴムべらでしっかりと混ぜ合わせた。
「えっと、これをラップに乗せて……棒状に丸めて……」
「冷蔵庫で30分ほど休ませてる間に、オーブンを160℃に予熱……?」
「このオーブンですね? 使い方は何となくわかりますから、やってみます」
レシピを読み上げながら都度確認をしつつ、作業を進めていく四人。その様子は真剣そのもので、鏡介も言葉少なながらに頑張っているのが伝わってくるようだった。
アズがオーブンの予熱機能を見事に見つけ出して操作を終えると、しばしの休息となる。生地となるチョコレートを寝かせている間、鏡介からはぽつりぽつりと、かつてこのキッチンで色々な料理を作ってくれた透についてが語られた。
「こんな大変なこと、あの人は全然苦じゃなさそうにやってのけてた」
どういう胸中だったのか、今はもう直接問うことはできないけれど。
「俺は今、あの人のためにっていう気持ちで何とかやれてるけど」
あの人は、どうだったのだろうか。よもやまさか、己のためを思っていてくれたなどと、自惚れても良いのだろうか。
「……美味しかったって、もっとちゃんと言っておけば良かった」
いけない。前を向かなければならないのに、どうしても後悔の念がよぎってしまう。
「その気持ちを伝えるために、今こうして頑張ってる訳で……!」
「その通りだワン、何だか愛があれば本当に大丈夫な気がしてきたニャ!」
「鏡介さんが心を込めて作ることが一番大事なんです、楽しんで続けましょう」
リツが、御影が、そしてアズが口々に落ち込んでしまいそうな鏡介を励ます。そう、料理はまだ終わっていない――そろそろ、次の工程に移る時だ。
鏡介が冷蔵庫から休ませた生地を出してくる。それを適度な大きさに切り分ける様子を、三人はじっと見守っていた。オーブンの天板に並べて、10分少々焼けば――完成となる。
「や、やってみたら何とかなりそうで、本当に良かった……」
後でエミちゃんにお礼しなきゃと、リツは一先ずの安堵を見せた。
「焦げなければいいんだけど、様子見ながらなら……何とかなるかニャ?」
最後まで気を抜かないのは御影らしくもあり、実に頼もしく。
「出来上がったら、ラッピングも楽しみたいですね」
色々持ってきたんですよと、アズはカラフルなラッピング用品を皆に見せた。
「……ありがとう、俺一人だったらきっと何もできなかった」
最初こそどうなることかと思いきや、三人寄れば何とやら。キッチンには程良く香ばしい匂いが漂い、焼きチョコクッキーが無事完成したことを告げるのだった。
●クリームシチューの隠し味
突然の話で申し訳ない、と恐縮する鏡介に、全く構わないとクレス・ギルバートは頷く。
「前に進む為の手伝いなら、喜んで。手向けに料理、いいと思うぜ」
あっという間に自らも身支度を整えて、さて何を作ろうかと思案するクレス。そしてふと浮かんだのは、幼馴染の好きなものだった。
「そうだ、一緒にクリームシチュー作ろうぜ」
「シチューを?」
「ああ、下準備さえきちんとすれば簡単だ」
柔らかな笑みを鏡介に向けるクレスが、近くに食材が買える商店はないかと訊ねれば、そういえば透が足繁く通っていた店があるとすぐに鏡介が案内を請け負った。
「荷物持ちで買い物に付き合うことも、そういえば良くあったな……」
「本当に仲が良かったんだな、そういう思い出ひとつとっても大事だぜ」
買い物カゴに鶏肉とじゃがいも、ニンジン、タマネギを放り込みながら、二人は言葉を交わす。クリームシチューのルウを最後に見つけると、会計を終わらせ、帰路についた。
まな板と包丁、フライパンに鍋。
大仰な道具は必要ないと、クレスは緊張の面持ちを見せる鏡介を激励した。
「お、ピーラーがある。これがあればニンジンやじゃがいもの皮むきも楽だぜ」
「よ、良かった……皮むきから始めるって言われたらどうしようかと思った」
キッチンの引き出しを開けると、一通りの台所用品が揃っていて有難く。
「野菜と鶏肉をひと口大に切って炒めたら、鍋に水を加え煮込んでいく」
ピーラーでの皮むき、食材の切り方、それらの手本をまずはクレスが見せて、次に鏡介に実践させるという手順で、丁寧に教えていく段取りを取った。
鏡介に足りないのは単純に経験だけだったか、ひとたび手順を教えれば、意外なまでの器用さで作業をこなしていく。飲み込みの速さは、クレスを内心で驚かせていた。
「透は、料理を作るのも、あんたが美味しそうに食べる姿を見るのも、両方好きだったんじゃないか?」
「ああ……今なら、それが分かる気がするよ」
「俺もそうだからな、だからあんたが今こうして料理を作るのにも、きっと意味がある」
熱したフライパンで野菜を先に炒めつつ、鏡介は穏やかな笑みを浮かべていた。
「クリームシチューも……作ってもらった覚えがある」
ほんのり飴色になったタマネギ、後から入れたニンジンやじゃがいもに一通り火が通ったら鍋に移し、空いたフライパンで今度は鶏肉を炒める。
頃合いを見てそれらも鍋に投入したら、クレスの指定通りの分量で鍋に水を満たした。
「灰汁が出てくると思うから、取れる範囲で取って、しばらくの間煮込むんだ」
「分かった、確かに思ったより難しくなくて良かったよ」
何事も、実際自らの手で取り組んでみないと分からないもので。クレスが買い出しから付き合い丁寧に作り方を教えたことで、鏡介はまた一つ学びを得たことだろう。
鍋に蓋をして二十分ほど弱火で煮込む工程を挟む間、鏡介がクレスに緑茶を振る舞ってくれた。料理の担当こそ透であったが、その代わり茶を淹れるのは鏡介が担っていたのだという。
「悪いな、気ぃ遣わせちまって」
「いや、これ位させてもらわないとかえって申し訳ない」
程良い渋みと風味がしっかりと出た緑茶を味わいながら、食材にしっかりと火が通るのを待つ。キッチンタイマーが時を告げるまで、透に関する他愛ない話を幾つか聞いた。
「そろそろいいか」
ご馳走様、と礼を言いつつ、クレスは鏡介と共にキッチンへ戻り、鍋の蓋を開ける。じっくりと煮込まれた食材の香りが漂い、それだけで食欲がそそられる心地だった。
「ルウと牛乳を入れて、更に煮込めば完成だ」
「よ、よし……」
ルウを割り入れ、牛乳を流し込むと、いよいよ完成へグッと近付く。木べらで混ぜ合わせると、見知ったとろみを帯びたクリームシチューへと近付いていくのが分かり、鏡介が明らかに嬉しそうにしているのが見て取れたものだから、教え導いたクレスも微笑ましくそれを見守るばかり。
唯一持参していたホワイトチョコレートをそっと取り出すと、一欠片割って、シチューの鍋に投入するクレス。
「? 今のは……」
「隠し味だ。優しい味わいになるし、この時季にお誂え向きだろ?」
「……はは、そういうのを知ってるの、何かいいな」
クレスが目を細めて愉しげに告げれば、鏡介もその粋な計らいにつられて笑った。
せっかくだからと、二人で器によそって早速クリームシチューを堪能する。
「どうだろう……変な所などがあれば、率直に教えて欲しいんだが」
「いや、全く問題ないどころか――とても美味しいぜ」
これなら、次は一人でも作れるだろとお墨付きを与えながら、クレスは率直な感想を述べた。
「こんな風に、二人で過ごした大切な日々を辿って心に映せば」
「……」
「想い出を重ねていけるし、何時だって透の笑顔と逢えると思うぜ」
「そう、だな……」
最初に見た時の酷い顔からすっかり立ち直ったように見える鏡介は、今や穏やかな笑みで、クリームシチューが入った器をじっと見ていた。
「……頼んで良かった、本当にありがとう」
そうして視線をクレスへと向けて、深々と頭を下げたのだった。
●思い出の玉子焼き
美しく伸びた白い髪を纏めつつ、白・琥珀はさて何を作ったものかと、鏡介に許可を得てキッチンや冷蔵庫の中などを一通り眺めて迷いに迷う。
(「あー、一人暮らししてるからできなくはないけど……」)
料理に関してはほぼ素人、という鏡介でも作れるものは何が良いだろうかと、うんうん唸った結果導き出された結論は――玉子焼きであった。
決定打は、目に留まった長方形のフライパンの存在だ。これはもう玉子焼きを作るしかないという何かの導きとしか思えない、そう思わせてくれる何かがあった。
「よし、ちょうど卵もあることだし、玉子焼きを作ろう」
「玉子焼き、か……」
「砂糖と醤油、それに少しの出汁を入れた、おかずにもつまみにもなる甘じょっぱい味付けのだ」
琥珀の解説を聞いて、普通に美味しそうだと鏡介はほんのりと目を輝かせる。ついぞ先程まで自暴自棄になっていた人物とは思えないが、良い兆候だった。
「ただもうこれ、誰から教わったか覚えてないんだよなあ」
「あんたは確か……勾玉の、だったか」
「ああ、ただ完璧に味付けして作れた時に『これが母親の味だ』ってなぜか思ったから、たぶん過去のだれかに母親となる人がいたんだと思う」
付喪神同士であるがゆえにこそ、分かり合えることもある。何となくのニュアンスで鏡介に自らの記憶を伝える琥珀は、ほんの少しだけ口角を上げてこう続けた。
「俺の、ではなく、過去の持ち主の誰かの母親だとは思うんだけど」
「……それでも、あんたの中には確かに伝わっているんだな」
琥珀にとっては何のこともない思い出話かも知れないが、今の鏡介にとっては何よりも心強い言葉だったに違いない。
その永い生に過去を刻んで、こうして|現在《いま》に活かすことができるのだから。
鏡介がまさに望むのはそういうことで、透が生きた証を己が身に刻むため、料理は一番身近な行為であったから。
そういう訳だから、と琥珀は前置きする。
「調味料は目分量でいい、好みがあるからな。都度調整して覚えるのが一番だ」
「そ、そうか……やってみて覚えないといけないよな」
ボウルに卵を割り入れて、おっかなびっくりまずは砂糖を少しずつ入れていく鏡介。
「出汁……出汁って、うちにあったろうか」
「あー、醤油と出汁の代わりに麺つゆでもいいんじゃねぇかなとは思う」
「麺つゆでいいなら冷蔵庫にあった! 今回はこれで代用する!」
麺つゆ最強伝説の幕開けである。これなら自分でも何とかなりそうだと鏡介が麺つゆを慎重に加えていくのを見守りながら、琥珀は角形のフライパンを用意した。
「あとはここに流し入れて、砂糖が入ってるから焦げ付きに気を付けて巻いていく」
「巻く……」
琥珀の言葉に鏡介が息を呑みながら、そうっと溶いた卵液をフライパンに投入した。
「最初に入れるのは三分の一くらいでな、残りは後から入れる」
「分かった……!」
多分ここで何も言わないでいたら、初手から全部投入してしまっていたことだろう。琥珀の言葉に従い、適度な量を全体に広げて、半熟状になるのを待つ。
「巻くのは奥から手前に、フライパンを下から上に持ち上げるイメージで……」
「ぐ、ぐぬぬぬ……!」
やはりここが最難関であったか、鏡介は見るからに苦戦しながら、それでもどうにかそれらしい形に卵を巻くという仕事を成し遂げた。
「形にはこだわらなくてもいいさ、焦げてないだけ上出来だ。巻いた卵を奥にずらして、油を塗ったらもっかい卵液を入れて巻く、の繰り返しな」
「分かった……これは確かに、色々と慣れが必要だな……」
「最初から上手に出来れば苦労はねぇからな、これからも暇な時にでも作ってみな」
たどたどしい手つきながら、何とか卵を巻き終えた鏡介は、やり切った顔で完成した玉子焼きをまな板の上に移動させる。少しばかり時間を置いてから切った方がいいからだ。
ふと気になって、琥珀は鏡介に訊ねてみる。
「思い出の味とか、そういうのは特にないのか?」
「レシピとかが残ってれば良かったんだが……生憎と、そういうのは」
残念そうに応える鏡介は、しかし、どこか嬉しそうでもあった。
「けど、あんたが言う通り……どこかで、何となく、覚えてるから」
例えば、コロッケの味付けが、胡椒がしっかり効いていて好きだったこととか。
記憶を辿りながら作り続ければ、いつかは再現できるかも知れない。
あるいは、その過程こそが大事なのかも知れないと――今なら、そう思えるから。
「ああ、そうだな――いつか、そこにたどり着けるよう、応援してるぜ」
今日教えた玉子焼きが、その切っ掛けの一つになればいいと、琥珀は笑った。
●あなたと作ったハンバーグ
突然料理を作って欲しいと言われ、刻・懐古が取った手段は『援軍を呼ぶ』ことだった。
鏡介とその持ち主を深く繋ぐ要素の一つである料理の思い出は実に興味深いものだったけれど、懐古自身は料理上手と言える程の腕がないと判断し、√EDENの一角に店舗を構えるバーガーショップで縁を結んだ顔馴染み二人を助っ人として呼んだのだ。
一人はその身を彩るパステルカラーが愛らしい、いわゆるゆめかわ系女子の夢咲・紫雨(dreaming・h00793)。もう一人は橙色の髪に茶色の瞳が凜々しい、見るからに頼もしげな長男こと溝渕・浩輝(worry worry・h02693)。
そこそこ広いキッチンに一人きりで立つには些か寂しいと思っていた鏡介は、懐古だけでなく紫雨と浩輝もがやって来てくれたことに、喜びを隠さず頭を下げた。
「と、言うわけで。先生を呼んだよ」
「わざわざ手伝いに来てもらえるなんて、手間をかけてしまうがありがたい」
「初めまして、夢咲・紫雨です。よろしくお願いします」
「どうも、溝渕・浩輝だ」
にっこり笑って『先生』を紹介する懐古に、簡単な挨拶と自己紹介から入り。
「百パーセントとはいかないが、思い出が詰まった料理だ。目一杯やってやろう」
任せろと気合い十分に浩輝が告げれば、紫雨が続いて鏡介に問うた。
「思い出の料理がどんなものだったか、よければ教えてください!」
「お、思い出の……?」
「折角だから、鏡介と透――二人の思い出の料理を作ってみたいんだ」
問われて初めてううんと考え込む雲外鏡の青年に、見よう見まねでも良いからと背中を押す懐古。難しく考えずとも、これだけの助っ人がいるのだから大丈夫だと。
「……そういえば、ハンバーグを一度だけ一緒に作ったことがあったような……」
ぽそりと鏡介がそう呟けば、なるほどと頷く三人。
「そ、そうは言っても、タネを丸めるのを手伝った程度で」
「十分です! 大切な思い出ですから、ハンバーグ作りで行きましょう!」
「決まりだな、早速食材を買って始めるとするか」
「皆で作ればきっと上手く行くよ、気負わずに楽しんで作ろう」
あれよあれよという間に話は進み、鏡介が近所の商店を案内して食材を調達することから話は始まった。
(「ハンバーグなら普段から家族に作ったりするし、全然問題ないな」)
料理の腕には自信がある浩輝は、買い出しの際も率先して食材を選び、頼れる一面を早速披露する。紫雨も料理ならば家庭科の授業や母から習ったこと、そしてデザート作りに至るまで幅広くサポートできる力量を持っている。母と一緒にハンバーグを作ったことを思い出し、今日のこの日に役立てられることを嬉しく思っていた。
合びき肉と玉ねぎ、パン粉と牛乳、にんにくのチューブを購入して、いざ調理開始!
玉ねぎを手に取った鏡介は、必死に記憶を辿る。そうだ、まずはみじん切りだと思い至りそれを口にすれば、よし来たと浩輝が包丁を鏡介に渡す。
「あー、あれだ。ガッとやってパッとすればいける」
「ガッ……と……?」
浩輝が料理上手なのは間違いない。間違いないが、何せ大雑把な男料理な上に普段は感覚で作っているため、他人に伝達することに関しては――この通りとなってしまう。
はてどこからどう包丁を入れたものかと、まずはそこからの話となり、呆然と立ち尽くす鏡介に、紫雨が助け船を出したのはその時だった。
「縦はんぶんに切るのがよくある切り方ですけど、横はんぶんに切るとみじん切りにしやすいって、お母さんが言ってました」
「! な、なるほど、横に切ってから細かくしていくのか……!」
具体的なイメージができたおかげで、遂に鏡介は玉ねぎに包丁を入れる決心がついた。ざくりと横半分に切り、次に細かく切っていこうとして――たどたどしい手つきになる。
「うっ……やっぱり、あの人みたいに上手にはできないな……」
「透はやっぱり、包丁さばきも上手だったのかい?」
それを覗き込んだ懐古の問いかけに、苦心しながら鏡介が答える。
「ああ、包丁で何かを切る時の小気味良い音は……今でも覚えてる」
「じゃあ、それを思い出しながら、ゆっくりでもいいから丁寧にやってみよう」
フードチョッパーがあれば一発で解決だったかも知れないけれど、手ずから刻むことに今は意味があるのだろう。玉ねぎは徐々にみじん切りと呼ばれるそれへと変化していく。
「そうそう、できるじゃねーか」
何とかみじん切りを成し遂げた鏡介に、浩輝が「これが言いたかった」とばかりに深く頷いた。大変だったが何とかなって良かったと安堵する鏡介だが、料理はまだ始まったばかり。
「じゃあ、この玉ねぎをいい感じになるまで炒める」
「いい感じ……いわゆる飴色ってヤツだろうか……」
「んー、そこまでじゃねえかな? キツネ色くらいか」
自分だったらどこまで炒めるかを思い出しながら、可能な限り言語化を試みる浩輝。料理初心者がこうして頑張っている様子を目の当たりにすると、自然と応援したくなるというものだ。
玉ねぎをフライパンに入れて、弱めの中火でじっくりと炒める。火加減は浩輝が調整してくれた。時折木べらで混ぜながら、玉ねぎが色づいていくのを待った。
「この位でいいだろうか?」
「大丈夫だ、火を止めて少し置いておこう」
粗熱を取ってから、ひき肉などと合わせていくのだという。
「紫雨、塩と砂糖はこのくらいでいいかな?」
「調味料ですか? はい、その量でバッチリです!」
小さじを使って計った量を念の為確認する懐古に、紫雨がオッケーを出す。
「そろそろ玉ねぎと合わせるか、ドーンと入れていいぞ」
「分かった、ドーンとだな」
鏡介も、だんだん浩輝のノリが掴めてきたようで、フライパンから炒めた玉ねぎを思い切って全部ボウルへと移動させた。そこへ懐古が塩と砂糖を入れ、次にパン粉を……?
「おい、懐古!」
「なんだい、ひろくん」
「それ入れすぎじゃねーの?」
「え、いれすぎ?」
パン粉が見るからにこんもりと入れられている様子を見て、感覚的に入れすぎと判断した浩輝が懐古にストップをかける。幸い多少ならつまんで戻せるタイミングだったため、適量にまで修正することができた。
「浩輝せんぱい、牛乳ってこの量で大丈夫ですかね?」
「多分……? 紫雨、こういうのは感覚だ」
「えっと、じゃあ大さじ一杯ずつ入れていきますね」
「分かった、じゃあ適当な所でストップをかける」
いーち、にーい……という感じで牛乳を入れていく紫雨に、四杯目あたりで浩輝がストップをかけた。普段は目分量で入れている完全感覚派の浩輝なものだから、協力して作業するにはこの形式が一番なのかも知れなかった。
にんにくチューブと胡椒を少々、それら全てをボウルに入れたら、いよいよ混ぜていく。
「混ぜるのは、鏡介さんもやったことありますか?」
「いや、初めてだ……あまり体温が伝わってしまうといけないという話だけなら……」
紫雨の問いに鏡介が答えると、うんうんと浩輝が頷く。
「それが分かってれば大丈夫だ、心のままに練るといい」
「そうだね、透ならどうしたかをイメージするといいかも知れない」
懐古も励ますように言い添えると、鏡介は意を決したかのように材料を混ぜ始めた。
ひき肉と調味料を握るように混ぜる手つきは初心者とは思えぬ程に鮮やかで、アドバイスが絶妙に功を奏していることを示しているようだった。
「……こんな所か!」
「いい感じだと思います!」
しっかりと練られたタネを前にする鏡介へ、紫雨が素直な賛辞を送る。
「ここからは……覚えている、丸めて形を整えたら、空気を抜くんだよな」
「おお、遂にその時が来たね」
「やってみるといい、きっと上手くいく」
楕円形に丸められたタネを、片手から片手へ軽く投げるように行き来させて、空気を抜く。最後に、ハンバーグの中央部分を軽く押さえて形を作った。
鏡介が無心にハンバーグを成形する姿を、三人はそっと見守る。今はきっと、在りし日の透と過ごした日々を思い出しているに違いないと、何も言わないでいた。
「こんな感じで、どうだろうか」
出来上がったハンバーグがバットの上に並べられた様子を見て、浩輝は深く頷き、紫雨はパチパチと手を叩き、懐古はほうと感心しながらしげしげと眺める。
「あとは焼いたら完成だね、楽しみだ」
懐古がにこにこと笑って鏡介を労った。よくぞここまで頑張ったという気持ちだ。
「おいしいハンバーグになりますように!」
最後の仕上げが上手く行くようにと、紫雨も願いを込める。
「何、ここまで来れば上出来だ。ジュワッとなるまで焼くだけだからな」
浩輝の目には、鏡介が初心者とは思えぬ程に映っていた。きっとそれは、思い入れのある一品を一生懸命作っているからだろうと、感心するばかりだった。
「ありがとう、美味しく焼き上がるように、最後まで気を抜かずに頑張るよ」
鏡介がフライパンにハンバーグを並べ、いよいよ焼きの工程に入っていく。片面にこんがりと焼き色がつく頃合いを確認して、裏返したら弱火にして、蓋をしてじっくり蒸し焼きにするという作業を、鏡介は自ら進んでやってのけた。
「……ハンバーグにして正解だった、焼き方を教えてもらったことを思い出した」
「鏡介の中に、今でも透が生きている何よりの証だね」
懐古の言葉に、鏡介はこくりと頷いて、蒸し焼きが終わるのを待った。
その間に、紫雨が食器戸棚から皿を人数分用意したり、ソースを作るために浩輝がケチャップやウスターソースを準備したりを続ける。
「焼けた……と、思う……!」
蓋を開けると、たちまち広がる肉が焼けるよい匂いが漂った。竹串を刺して透明な肉汁が出てきたのを確認した鏡介が嬉しそうにそう告げると、紫雨がお皿を持ってきた。
「どうぞ!」
「ああ、ありがとう」
焼き上がったハンバーグはちょうど四つ。肉汁や脂が残ったフライパンには、浩輝がケチャップとウスターソース、それに醤油を投入して軽く煮詰める。
「これをかければ、完成だな!」
「わあ、そうやってソースを作るんだ」
「浩輝せんぱい、やっぱり頼りになります」
見るからに美味しそうなソースがハンバーグの上にかけられ、遂に完成の時を迎えた。
「せっかく作ったんだ、どうか……食べる所まで付き合ってもらえないだろうか」
鏡介がそう言うと、もちろんだと三人は頷く。
手分けして食卓にお皿を運び、四人揃っていただきますをすると、ハンバーグを口にした。目をまあるくして美味しいという気持ちを表現したのは、全員が同じだった。
「……!」
無心に食べて、あっという間に平らげてしまうと、鏡介が嬉しそうに口を開く。
「不安だったが、皆のおかげで俺でも作れると分かって、本当に良かった」
ありがとう、と。深々と頭を下げる鏡介に、三人は笑って返す。
「思い出がしっかりと蘇ったみたいで、何よりだ」
「こちらこそ、お手伝いができたなら嬉しいです!」
「鏡介の気持ちが持ち直したなら、それに勝る喜びはないよ」
最初に出会った時は、どうなることかと思ったけれど。
こうして前を向いてくれたのならば、きっと大丈夫だろう。
助っ人を呼んだ甲斐があったと、懐古は安堵するのだった。
●チョコブラウニーと最高の手向け
チョコレート菓子ならある程度は作れそうな用意を携えた上で訪問した空沢・黒曜を、鏡介は快く出迎えてくれた。墓地で会った時の絶望的な状況を脱したかのような様子に、黒曜は安堵の笑みを漏らす。
「うん、前向きに考えてくれるようになってよかった」
「おかげさまでな……俺がしてしまったことの償いにはならないが」
封印を解いた古妖の影はちらつくが、今は鏡介が二度とその心を曇らせぬようにと。
「もう二度と同じ過ちを繰り返さないように……立ち直りたいんだ」
「それにしても料理……料理か」
嗅覚という、料理においては必須とも言える様子を欠落として抱える黒曜にとって、正直これは難題だと思わずにはいられなかったが、それ以上に鏡介の力になりたいという思いが勝って、今こうしてここにいる。
「味見とかは自信ないけど、心尽くしが重要なのが料理――一緒に頑張ろうか」
「ああ、よろしく頼む」
鏡介は深々と頭を下げ、黒曜をキッチンへと導いた。
「そういえば、透さんが好きだった料理とかよく作ってた料理って、あるのかな」
黒曜がそう問いかければ、鏡介はううんと少し考え込んでしまう。
「あの人は何でも手広く作ってくれる人だったから……」
「手書きのレシピブックとか、そういうのも残ってたりしない?」
「俺もそう思って探したんだが、生憎……多分、全部頭の中に入ってたんだろうって」
せっかく作るなら思い出深い一品をと思ったが、絞り込むのは中々に難しいようだ。
そこで黒曜は思考を変えて、こう切り出してみた。
「じゃあ、透さんが好みそうで、鏡介さんが作ってみたいお菓子なら――どうかな?」
手向けの品だと考えれば、自然と気持ちもこもるだろう。
「……そ、それなら……やっぱり時期的にチョコレート系、というか……」
もぞもぞと答える鏡介に、ならばと手にした袋を掲げてみせる黒曜。
「じゃあ、チョコブラウニーなんてどうだろう? ちょうど材料もあることだし」
「本当か? 俺にもできるなら挑戦してみたいが」
ならば決まりだと黒曜は笑って、調理器具の確認を始める。自身が普段作るのはいわゆる冒険料理という類で、分量も割と大雑把だと自覚しているが故に、こと繊細な製菓という工程には正確な計量が必須だろうと考えたのだ。
「アレンジは惨事直行とよく言うような……手順確認して、慌てず丁寧にやろう」
「そ、そうだな……特に俺は素人だし、レシピ通りにやらないと」
鏡介はキッチンスケールを取り出して、黒曜が持参した材料と向き合った。
チョコレートを細かく刻んで、バターと一緒にボウルに入れて湯せんするという作業は、既に数度経験したからか、鏡介が比較的慣れた手つきでこなしてくれる。
その横で、包丁を器用に握った黒曜がクルミを粗く刻んでいた。この刻んだクルミと上白糖、そして薄力粉をレシピで指定された分量で用意する。
「チョコレートに溶いた卵を入れてよく混ぜる……卵を使うんだな」
「用意があって良かったよ、流石に卵は持ってきてなかったからね」
レシピに忠実に、手順を確認しつつ、二人はチョコブラウニーの下地を着々と完成させていく。小さなチョコレートの粒と刻んだクルミを加えたものを型に流し込み、予熱しておいたオーブンで三十分ほど焼く工程へと入った。
「し、しかしチョコブラウニーだなんて、本当に大丈夫だろうか……」
焼き上がるのを待つ間、鏡介が淹れた緑茶を楽しむ黒曜に、不安げな声が届く。
「多少見た目が悪くても大丈夫、それを誰かの為に作りたいと思った心が大事なんだから」
黒曜は「このお茶だって、とても美味しいしね」と言いつつ笑った。
「きっと、透さんも鏡介さんが美味しく食べてくれるのが嬉しくて、料理を作っていた所はあったんだと思うよ」
鏡介が、自分のために料理に挑戦していると知ったならば。
透は、その事実だけで間違いなく喜ぶに違いない。
「そう……だと、いいんだが」
自分に言い聞かせるように鏡介が呟いた時、オーブンが小気味良い音を立てた。
「おや、そろそろ焼けたかな? 早速様子を見てみよう」
「ああ、緊張するな……!」
二人揃ってキッチンに戻り、オーブンを開けると、チョコレートの香ばしい風味がキッチン一杯に広がる。これは――恐らくいい感じに焼けているに違いない!
「粗熱が取れたら、好みの大きさにカットして完成だって」
「分かった……一口大くらいでいいか」
黒曜はふと、キッチンに置かれたラッピング道具一式を見つける。
「これ、他の料理に使った残りかな? 包んで墓前に手向けたらどうだろう」
「ああ、それは……そうだな、持って行ったらきっと喜んでくれると思う」
予想以上に、墓前が賑やかになりそうだと、鏡介は心が弾むのを感じた。自分の中で彼を生かし、思い出を胸に前を向く姿をこそ、今度はきちんと見せようと誓うのだった。
第3章 ボス戦 『隠神刑部』

●願望
酷くやつれた様子だった鏡の付喪神は、気持ちの整理がついたのか、笑みを浮かべられるまでに持ち直すに至った。
「ありがとう、皆には何とお礼を言ったら良いか……いや、まだ終わりじゃないのか」
鏡介自身に関しては、もう心配はないだろう。だが、古妖の封印を解いてしまったという事実は変わらない。ここから先は――√能力者たちの出番だ。
「俺が墓参りをしていた場所から、更に町外れに行けば、俺が壊した祠があるはずだ」
お前あの祠壊したんか案件だった。封印を解くと言えばまあ、そういうことだろうけど。
「現れた古妖は、邪悪な化け狸たちの首領だ。あの人に会わせてくれると言っても、どうせそいつが化けるだけの話だろうって、真に受けなかったんだが……」
鏡介は申し訳なさそうに頭を下げると、最後の願いごとを告げた。
「俺の不始末を押し付けて済まないと思ってる、だが、他に頼める相手もいない」
一度は願ってしまった世界の滅びを、食い止めてはもらえないか。
大切な人と過ごした思い出を胸に、まだこの世界で生きていたいから。
「どうか、あの化け狸をもう一度封印して欲しいんだ」
その言葉を待っていたのは、√能力者たちの方かも知れなかった。他ならぬ鏡介が生きたいと願うならば、ここまで付き合ったのだ、最後まで尽力しようではないか――と。
●欲望
『つまらんのう、すっかり立ち直ってしまいよって』
壊れた祠の残骸の上であぐらを掻くように、化け狸は息を吐く。
『大人しく騙されてくれれば、多少は愉しみようもあったというに……まあ良いわ』
今やすっかり妖気も満ちた。ひとたび解放されたならば、後は好きにさせてもらうと、化け狸――『隠神刑部』はふてぶてしく嗤った。
『最早、儂を止められる者など居るまいて。どんなに後悔して遅いというものよ』
さあて、そろそろ世界を蹂躙することにしようと隠神刑部は立ち上がる。
『――む?』
邪魔者の気配に気付かぬ程、慢心はしていないということか。
煩わしげに目を細め、敵対者を迎撃する準備に入る隠神刑部だった。
●終わりの始まり
「思い出は時々つらいけど」
鏡介に教えられた古妖の居場所に到着したメイ・リシェルは、ふんぞり返る隠神刑部の前で立ち止まり、その手に炎を宿す。
「それでも生きたいって願う事は、とても大事だと思う」
『小童が何の用だ――いや、何の酔狂でそのような見た目をしておる』
メイの姿をじろりと睨めつけ、しかしすぐにその在りようを見抜いた古狸は立ち上がった。答える義理はないとメイは問いかけを無視して、掌の炎を燃え上がらせる。
「後はボクたちの仕事だ――ね!」
ごう、と。敵対者を灼き尽くせと明確な意志を以て放たれた【ウィザード・フレイム】は、隠神刑部が口から吹き出した炎によって相殺された。
『挨拶代わりの攻撃にしてはやるではないか、なれば相応の返礼をせねばなあ!』
古狸の掌がぽう、と青白く光ったのを認めたメイは、周囲の物体が動く気配を察知すべく感覚を研ぎ澄ませる。壊れた祠の破片や朽ちた倒木、打ち捨てられたゴミなど、何が来ても良いようにと、両の足に力を込めた。
果たして、飛んできたのは鋭く尖ったやや太い木の枝であった。視界の外から飛来したそれを、気配で察知してギリギリのところで躱す。帽子が脱げるのも厭わず身を投げ出した勢いのまま一度転がると、片膝を立てた格好で三秒耐えて再び炎を生み出し放った。
「さすがだね、今のはちょっと驚いたよ」
『ふは、ちょこまかと!』
魔炎を今度は真正面から受け止めた隠神刑部は、腕をじりじりと灼かれながら、ニィと嗤って開いた手をグッと握る仕草を見せた。
「……っ」
メイの背中を、神通力により動かされた石礫が強かに打った。痛みよりも先に、視界がぐにゃりと歪む違和感の方が勝り、まずそれを何とかせねばと苦悶の声を呑み込む。
(「視界を奪われても、音や匂いは消せない筈だから」)
うずくまった小柄な身体を、隠神刑部が嘲笑う声が響いた。
『どうだ、懲りたか小童? 泣いて赦しを乞えば今なら見逃してやらんでもないぞ』
大音声で言い放つものだから、意識を集中させたメイからはその居場所が丸わかりだ。
それに、狸の匂い――というのも妙ではあるが、獣特有の匂いも声の方から漂ってくる。
「……ねえ」
『あぁん?』
「知ってる? 祠を壊された妖は、結局最後には倒されちゃうんだよ」
三度目の魔炎を放つには、十分な時間を得た。キッと顔を上げたメイの前に炎の柱がうねりを上げて湧き立ち、真っ直ぐに隠神刑部めがけて飛んでいく。
『ば、馬鹿な!? 今のお主に儂が見える筈が――』
驚愕の表情を浮かべる古狸を、最大火力の炎が包み込んだ。古妖に負けず劣らず永い時を生きてきたエルフの少年が告げた通りの幕切れへと、まずは一歩近付いたのだ。
●理由が必要だと言うならば
赫夜・リツと刻・懐古は、自身が鏡介と共に作った料理のことを思い返していた。
(「アズくん、御影さん、鏡介さんと一緒にクッキー作れてよかった」)
一時はどうなることかと思ったけれど、皆で力を合わせて頑張ったあの時間が、確かに鏡介を立ち直らせたのだとリツは嬉しく思う。
(「ラッピングも楽しかったし、鏡介さんの笑顔も見れてほっとした」)
もちろん、協力者たるエミちゃんへの完成報告メールもバッチリだ。
「……ここから先は、古妖を封印することに集中しよう」
「ああ、任せて鏡介――僕らに」
懐古は、何とか持ち直したような鏡介の笑みを、心から喜ばしく感じていた。
付喪神として『持ち主との別れ』は様々あれど、またひとつ|物語《じんせい》を知れて――そして、関われて良かったと黄昏を映した瞳を輝かせる。
(「彼と作った思い出のハンバーグ、あの味は忘れないだろう」)
他ならぬ鏡介自身が望んだならば、最後まで願いを叶えてやろうではないか。
「さて、と」
「祠、きっちり壊されてるな……」
現場に到着したリツと懐古は、絵に描いたような壊され方を見せる祠――だったものと、その前に立つ諸悪の根源こと隠神刑部を前にして、それぞれ身構えた。
「残骸が散らばると直す時に苦労すると思うし、出来るだけこっちに引き付けて戦った方がいいかもね」
「心得た、残るは古妖のお片付けのみと行こうか」
二人の√能力者の姿を認めた古狸は、己の周りに木の葉を舞わせながら嗤った。
『もう遅いわ、封印は既に解かれた。最早儂を妨げる事など叶わぬと知れ!』
「随分なその自信と一緒に、もう一度祠へ仕舞ってしまおうか」
これは己で乗り込んだ船、途中で降りる訳には行かぬと、懐古は負けじと返す。そう言いつつ、じりじりと後方へ下がることで、リツの提案通り祠から古狸を引き離そうという試みだ。
『大口を叩きよる、まあ良い……直ぐに後悔させてくれよう』
果たしてその目論見通り、隠神刑部はずしん、ずしんと二人の方へと近付き、舞わせていた木の葉をいっそう強く巻き上げた。木の葉は配下の化け狸へと次々変じて、あっという間にリツと懐古の周りを取り囲む。
「暗冥よりお出で、鴉たち」
動じることなく懐古が√能力【|烏雲の陣《ウウンノジン》】を発動させれば、化け狸に負けない数の禍鳥たちが喚び出され、ばさばさと舞い飛んで化け狸どもを目眩ましで妨害し、そのほとんどを無力化させたのだ。
「狸の姑息な思考は手遅れ、後はもうお灸を据えるだけだ――さあ」
「ありがとうございます、助かります!」
懐古の支援を受けたリツが、感謝の言葉と共に片腕を鋭い爪持つ赤黒の異形へと変貌させながら、隠神刑部を守る化け狸どもへと斬り込んでいく!
『無駄な足掻きを! 配下どもは幾らでも居るでな、儂の元へは届かせまい!』
懐古が喚ぶ鴉たちでも抑えきれぬ一部の化け狸どもがリツへと迫るも、これ以上とないタイミングでそれらを弾き飛ばし、手の甲に生えた目玉がギョロリと睨めつけた。
もう片方の手で握った黒刃のナイフは√能力【|怪異解体《カイイカイタイ》】の力を宿して、次々と化け狸どもを切断していく。
「遠くからも狙われている、気を付けて」
「了解です!」
鴉たちによる牽制を続けながら、広く状況を確認して懐古がリツに伝えれば、すぐに反応して毒銃『オブリビオ』に得物を持ち替え応戦し、麻痺の効果で動きを鈍らせると宙を舞い、何の足場もないはずの空中を蹴り勢いをつけ、合間に再び持ち替えた黒刃で斬り裂いた。
『ふん、中々やるではないか――しかし、何故其処まで儂に刃向かう?』
化け狸どもをあらかた蹴散らされたところで、隠神刑部が不思議そうに問うた。己の封印を解いた鏡の付喪神は『この世界のことなど、もうどうでもいい』と確かにそう言ったのだ。言わば己は望まれてここにいるというのに、邪魔立てされる謂れはない、と。
「鏡介さんは、自分の気持ちと向き合って、思い直してくれたんだ」
ならば答えようと、リツがありのままを告げる。
「助ける理由は、それだけで十分だよ」
数多の鴉たちを従えながら、懐古も頷く。
「他ならぬ鏡介が、この世界で生き続けるという選択をしたからね」
かの鏡が、これからも紡いでいく物語を、閉ざさせはしない。
「要するに、古狸ごときの出番はない――ということだよ」
何度配下を喚ぼうとも、ことごとく返り討ちにしてやろう。その果てに二人の刃は、隠神刑部そのものに突き立てられるのだ。
●|栄誉ある碧い鳥の祝福《パヴォーネギフト・ホド》
これまでずっと、アズ・パヴォーネは、鏡介の心に寄り添ってきた。
なればこそ、その傷心につけ込んで悪事を目論む輩のことを、捨て置けなかった。
「ボクは、知っていますよ。ヒトは強いって」
たとえ己に事件の元凶を直接罰する手段がないからとて、引く理由にはならない。
「ヒトの強さって、物差しでは計れなくて」
眼前の隠神刑部がいやらしい笑みを浮かべようと構わず、アズは毅然と告げた。
「妖怪のみなさんが、ヒトの姿を目指したのって、そんなヒトの|輝き《つよさ》に焦がれてしまったんじゃないか――って」
『はん、人間なぞ所詮は美味い飯に過ぎぬわ。さもなくば、弄んで楽しむ玩具かの』
眼鏡の奥の瞳を細めて嗤う古妖からは、凶暴性を隠そうともしない殺気が漂う。アズはゆるりと首を横に振ると、胸の前で両の手を組み合わせた。
「力を持たないボクが何をしたって、何を言ったって、きっとあなたには響かないでしょう」
『随分と弁えているではないか、だが――ならばお主は何故此処に立っている?』
青に彩られた少年が、何の意味もなく己の前に立ち塞がるとは思えぬと、隠神刑部はふてぶてしい態度はそのままに、警戒心をちらつかせる。
問われたならば答えようと、アズは確りと前を見据えて、言葉を紡いだ。
「ボクにはたった一つだけ、確かなチカラがあるんです」
√能力を持たぬ者を、どうして無力と呼べようか。
「ボクにとって、生まれたときから当たり前にある、絶対的に信じられる力」
祈りにも似たそれは、確かな力となる。それを知っているから、アズは笑った。
「いってらっしゃい、ヴェル――いつだって、信じているよ」
その言葉こそ、|引鉄《トリガー》であった。
碧い風がアズを護るように巻き起こり――それはやがて人の形を取る。
「うん、いってきます――アズ」
ヴェル・パヴォーネ(|幸せの碧い鳥《チルチルミチル》・h00239)は、誰よりも何よりも大切なアズの言葉を聞き逃すことなく、ここにその姿を現したのだ。
(「アズに√能力関連の詳しいところは話していないけど、わかってしまうのかな」)
こうしてアズの許へ界を渡ってでも瞬時に移動できる能力は、尋常ならざるものとしか言いようがない。この|能力《ちから》のことをどう説明したものかと思ったりもするけれど、自分たちは|繋がっている《双子だ》から、余計な言葉は要らないのかも知れない。
――己が、説明されるまでもなく、何をなすべきかを理解しているのと同じように。
「アズは、とっても優しいんですよ」
背に庇った魂の片割れの気配を感じながら、ヴェルは言った。
「悲しんでいる人や苦しんでいる人を放っておくことができないんです」
隠神刑部はヴェルを品定めするように睨めつけながら、それを聞いている。
「だからね、最後にあなたがいようといまいと、鏡介さんを見つけたら、きっと手を差し伸べた」
『――ふん、要らぬ世話を焼いてくれたものよ』
アズが戦う術を持たぬ身でありながら、それでも鏡の付喪神を救うべく奔走したことを、ヴェルは知っていた。そして、今ここにこうして呼ばれた理由も理解していた。
隠神刑部がつまらなそうに否定の言葉を吐くけれど、構うものか。
「そんなアズの優しいところがボクは大好きだから」
信念を貫き通すために、力が必要だというのならば。
「アズには優しいままで、戦いなんて知らないままでいてほしいから」
与えられた力を、今こそ振るう時だ。
「戦うのは、ボクがやるんです」
決然と碧い少年が告げると同時、その背後にはただならぬ気配が可視化され、足元の影は意思を持ち蠢く。そこで初めて古狸は目を細め、身構えた。
「行くよ、ネロ、イビス」
イビスと呼ばれた死霊は影業たるネロの方を一瞥して舌打ちをしつつも、ヴェルの言葉に従い寄り添う。対するネロは愛しいヴェルからの呼びかけに歓喜の念を隠そうともせず、にゅいっと影の身を伸ばした。
『小童がほざきよる、儂を誰だと思うておるか!』
隠神刑部が大喝し、ほの青く光る掌をかざすと、周囲の物体が次々と宙に浮く。強力な神通力を発揮して、物体を自在に動かそうというのだ。
(「イビス、ボクにしっかりくっついて」)
(「おうとも、準備はできてるぜ!」)
命名の際にそれはそれは揉めたという曰くつきの名でも、今はすっかり受け入れて、死霊はヴェルを視界に入れれば嫌でもついてくる位置を保つ。
『跪けい!』
朽ちて打ち捨てられていたどこかの店の看板が、ヴェルを打ち据えるべく猛然と迫った。
「――っ」
咄嗟にヴェルが身を低くするのと入れ替わりに、イビスが身を挺して看板を受け止めた。正確には、その身を通過させて威力を削ぎ落としたというべきか。
『ふん、小賢しい――む?』
「ヴェルに何してくれてるの!」
いつの間にか古狸の死角にまで伸びた影ことネロが、不意を打ってその身を鋭く尖らせ、勢いよく隠神刑部の脚を斬り裂いた。怒りの一撃である。
(「右手で武器持つな、って言ってたけど……」)
そんなネロから押し付けられた護身用刃物をどうしたものかと一瞬考えるも、変に逆らわない方が良かろうと、ヴェルは徒手空拳で一気に間合いを詰めた。
『ふは、この程度のかすり傷で』
「失礼します」
『ふぎゃっ!?』
余裕綽々の顔面に、踏み込んだ勢いのまま、碧い少年は渾身の掌底を叩き込む!
これにはたまらず声を上げる隠神刑部、たたらを踏んでやや後ろに下がってしまう。
「アズが信じてくれるから、ボクは負けません」
年端も行かぬ少年とは思えぬ意志の強さで、ヴェルは邪悪な古妖を見据えた。
●悪党の末路
『忌々しい封印をやっと解かせたというのに、ままならぬものよ』
√能力者たちの猛攻を受け、徐々に傷を増やしていく隠神刑部が、心底面白くないと言わんばかりに吐き捨てた。
「あぁ、古だぬきか」
そんな古妖の姿を認めた白・琥珀が、ふぅんと顎に手を当てて一度頷く。
「四国は、俺と同じくらい歴史のある古だぬきがいるものなぁ」
日の本には、三大狸話と呼ばれる物語がある。その一つこそ、伊予国で古くから語られる隠神刑部たる存在だ。
「それはそれとして、ただの娯楽で人の傷をえぐるようなものは、見過ごせないな」
少なくとも、琥珀が知る『隠神刑部』という存在と、眼前の凶悪な古妖は、どうしてもイメージが合致しない。四国最高の神通力を持つという点では間違いないが、自ら望んで他者を害したり陥れたりして悦に入るような存在ではなかったと記憶しているからだ。
「……俺が知る隠神刑部は、そんな悪趣味は持っていなかったはずだが」
『ならば儂はお主が知るものとは異なるのであろう、愚かな人間を謀り、化かして愉しみ、翻弄される様を見て歓喜する――それこそが儂よ』
古狸はニィと嗤い、手にした酒瓶を呷る。
『あの鏡はほんに惜しいことをしたわ、騙されてくれればさぞや愉快だったろうになぁ』
その一言に、琥珀は眼差しを険しくさせた。
「ひとは、大なり小なり何か傷を背負って生きていく」
墓地で出会った時の、鏡介の酷い顔を思い出す。
「癒える癒えないもまた、個人差で」
自分たちが関わったことで、鏡の付喪神をどれだけ救えたのだろうか。
少なくとも、世界の滅びを食い止めて欲しいとは、確かに言ってくれた。だから。
「それを、他人が茶々入れるのは――感心しないな」
生きていたいと、鏡介は願った。
その想いすらも踏みにじろうというのならば、容赦はしない!
隠神刑部の周囲を、無数の木の葉が舞い踊り始めた。
『お主の相手は此奴らで十分よ、儂が直接手を下すまでもあるまいて』
「侮られたものだ、その言葉をじきに後悔させてやろうか」
恐らくは、木の葉が配下の化け狸に変じるということなのだろう。数に任せて押し込まれては厄介だと、琥珀は言葉を返しつつ、霊剣「須佐」を抜き放った。
(「我が身に宿りし月の意思よ」)
刃が煌めいたのは、琥珀の本体たるロイヤルアンバー製の勾玉によるものだ。付喪神にとっては心の臓にも等しいそれとの完全融合を果たしたならば、霊剣は月神の刃へと変じて、まさに身も心も一つになった心地をもたらした。
『行けい、化け狸たちよ! ……ッ!?』
化け狸どもの群れをけしかけようとした隠神刑部が、ギョッとした声を出す。安全圏から配下どもを使い琥珀を圧倒するはずが、今、いかなる理由によるものか分からぬまま、琥珀の鋭い眼光に射抜かれるまでの距離に引き寄せられていたからだ。
「よく来たな、古だぬき」
琥珀の【|月降ろし《ツキオロシ》】は、任意の対象を空間引き寄せで強引に間合いへと引きずり込む効果を合わせ持つ。
配下がいようが距離があろうが、知ったことか。
月の刃を閃かせ、邪悪なる古妖を袈裟斬りにしてやろう。
『ぐ……ッ』
「悪い狸だと自認しているなら、討伐されるのも覚悟の上なんだろうな?」
刀を振るった琥珀は、古妖の忌々しげな目線に対して、淡々と返してみせた。
●血戦
(「心の在り処を識ったなら、鏡介はもう大丈夫だな」)
壊された祠の前に立つ隠神刑部と対峙しながら、クレス・ギルバートは思う。
(「大切なものを喪っても、其の面影を裡に残せるのは、少し羨ましくもある」)
己の裡にも、残されたものは確かに在る。
縹渺たる歌聲も、缺いた旋律も、時折口遊める程に刻み込まれているけれども。
果たして其れは、嘗て竜であった過日の残響であるか否か――それが、解らない。
忘却の彼方に置き去らねばならぬ程の『何か』があったのか。
其れすらも解らぬ侭に、しかし己は歩みを止める訳にも行かず。
寂寞たる想いは、暫し胸の奥底に沈めておこう。
今は、諸悪の根源たる邪悪な古妖を相手取ることに専念せねばならないから。
「『逢いたい』と希う想いを誑かす悪狸には、きつーいお灸を据えてやらねぇとな」
白皙の美少年から発せられる意外なまでの強い言葉に、隠神刑部は不敵に嗤う。
『大きく出たものよのう、小童! お灸を据えられるのは、どちらかの?』
老獪なる古狸が両手で印を組むのを認め、誇り高き|竜種《ドラゴンプロトコル》は咆えた。
「二度と悪さが出来ねぇように、ぶちのめしてやるぜ!」
クレスが気炎を上げると同時、その√能力――【|弥し晨《アマネシトキ》】は発動した。
人間の姿であったものはみるみるうちに晧き竜へと変じていく――いや、本来在るべき姿に『戻る』と言うべきか。
古狸も負けじとお得意の十二神将へとその身を変えて、体躯を巨大化させることで対抗しようとするが、残念ながら相手が悪すぎた。
菫の双眸という面影を残しつつ、すっかり雪白の鱗に覆われた偉容の|竜《クレス》がひとたび顎を開けば、魂をも燬き尽くさんと苛烈に爆ぜ猛る皎焔が放たれ、隠神刑部どころか辺り一面の悉くを呑み込み――その烈火は戦場を彩っていく。
『ば、馬鹿げておる……! このような出鱈目な存在が、あってたまるものか……!』
煌々と燃える焔に身を焼かれながら、古妖は呻く。よもやまさか、己を上回る力量を誇るモノが実際に現れるだなんて、想像だにしていなかったものだから。
(「このまま厄齎す狸を灼き祓ってもいいけど、一太刀浴びせねぇと気が済まねぇからな」)
体内の竜漿にはまだ余裕があると理解しつつ、敢えて絶対的な有利を手放すことにしたクレスは、継戦の余力を残したままヒトの姿に戻る判断を下す。
『ほ、炎が……途切れた……!?』
白竜から放たれていた燼滅の息吹が止まったことに、思わず安堵する隠神刑部。
「なぁに呆けてやがる」
『ぐ……ッ!』
有り得ぬ程に近い距離で、クレスの声がしたと思ったら、身体中に走る激痛よ。
ヒトの姿に戻るや否や地を蹴ったクレスは、あっという間に彼我の距離を殺し、抜き打ちの一撃をお見舞いしたのだ。
『お、のれ……!』
辛うじて致命の一撃を逃れた隠神刑部が、その掌を青白く光らせる。何かを企んでいることは明白だったが、クレスは構うことなく「晧」の銘持つ日本刀を振るい続けた。
皎刃の軌跡の付き従い奔るは、驟雨の如く降る無数の疾雷だ。【|霆哭《カミトキ》】と呼ばれるその能力は、紫電纏う一太刀より生じた霆く閃耀で、何百回も敵を討つ!
「……っ」
どすり、と。背中に衝撃を感じ、クレスは一瞬息を詰まらせた。恐らくは、古妖の神通力により飛来した瓦礫らしきものが叩きつけられたのだろう。口を開けば、薄らと鉄の味が広がり、こみ上げる朱いものを吐き出さずには居られなかった。
それでも、絳燬の霊剣士は嗤う。其れは愉悦故のものとしか言いようがなく。
「お前……祠の中にぶち込まれたくねぇんだろ?」
『当然よ、ようやく出られたばかりだと言うに、再び戻るなぞ有り得ぬ!』
クレスの雷撃も、隠神刑部の神通力による攻撃も、まだまだ尽きることはない。
「なら――どちらが先に地に臥すか、根比べといこうじゃねぇか!」
『ふは――面白い! 気に入ったぞ、儂の全力を思い知るが良い!』
互いの朱が散る。
|戦場《いくさば》は煌々と燃え上がる。
古妖は体躯を鋭く穿ち貫かれても、その度に命を刈り取る形をした何かを飛ばして、竜の青年に反撃の一撃を喰らわせる。
まさに、死闘であった。互いに譲れぬものの為、ぶつかり合うのだった。
●その憂いを打ち砕け
「噂の『祠ぶっ壊し案件』だったとは」
およそ器物損壊とは程遠いと思われた鏡介から聞かされた衝撃の事実に、空沢・黒曜は思わず目をまあるくしてしまう。現場に駆けつけてみれば、確かに祠は見事に破壊されていた。
「色々バリエーションはあるけど、不幸な結末はよくないよね」
黒曜がそう問いかける先は――ツェイ・ユン・ルシャーガ。然りとばかりに一度頷いたツェイは、双眸を細めると息を吐き、呟いた。
「只もう一度逢いたいのだと、他の何をも見えぬほどに願えるなど――寧ろ|幼気《いたいけ》で愛しいばかりであったがのう」
解き放たれた古妖――隠神刑部は、既に複数の√能力者たちとの交戦で手負いとなり、しかしそのふてぶてしい態度は崩さぬまま、二人の前に立ちはだかる。
『ふは、アレは格好の玩具になると思うたのに、つまらぬ事になったわい』
どこまで行ってもこの古狸は、人心を翻弄し嘲笑することにしか興味がないらしい。
「我より余程長う生きたのであろうに、そこな大妖殿は、そうは思われぬかの」
『斯様な情なぞ生憎と持ち合わせては居らぬでな、其れは此れからも変わらぬよ』
この期に及んでなお、隠神刑部は諦念一つ見せず、ニィと嗤うのだ。
「騙っては化かすばかりが御好みなれば――」
口元を長い袖で隠しながら、ツェイもまたふふ、と笑んでみせる。
「やはり、気が合わぬようだな」
そしてちらりと視線を黒曜に向ければ、モグラ獣人も心得たとばかりに答えた。
「うん、了解――鏡介さんの願いに応えて、古狸を封印の下に埋め戻そうか」
最早、言葉は尽きた。
古妖を再び封印するか、道を譲って恣に暴れさせるか、選択の時が来た。
隠神刑部。
嘗て八百八狸とも呼ばれる程に、従えた眷属の数は多い。
それが本気を出せば、周囲に舞わせた木の葉の悉くが配下の化け狸となって迫ることにも納得が行く。行くが――相手をする側にとっては一大事だ。
「いや数多いねこれ!?」
「さて、無傷で終えんとまでは高望みはせぬが、努めねばの」
黒曜もツェイも、これは流石に攻撃の一切を受けずに突破するのは困難だと判断する。
「先に自分が行くね、こういう時のための能力があるんだ」
古妖から目を離すことなく雷を纏ったツェイに、自慢の全一式万能ツルハシを掲げながら黒曜が言った。ならばと一歩引いた半人半妖の青年と入れ替わるように、モグラ獣人が地を蹴って飛び出す!
「収束否定、再拡散――【|不定への還元《アンノウン》】」
振りかざしたツルハシは影を纏い、次々と襲いかかってくる配下の化け狸どもの攻撃を受け流し、一瞬の隙を見逃すことなく反撃の一打を叩き込んだ。四方八方から迫られて傷を負うも、即座の反撃が命中することにより、√能力の効果でその傷は癒えていく。
『何をしておる、包囲して圧し潰せい!』
配下どもにそう怒号を飛ばしながら、掌を青白く光らせる隠神刑部。その様子さえも確と見届けていたツェイが、そうはさせじと指の間に挟んだ呪符「禍伏符」を鋭く飛ばし、ちいさく爆ぜて火花を散らす攻撃で化け狸どもを牽制した。
「かの鏡の青年に、続きを歩ませてやらねばならぬ」
伏し目がちになった表情は、今や真剣そのもので。
「そう――何一つ憂い無く、のう」
必ずやこの悪辣なる古妖の目論見を阻んでみせるという、意思表示であった。
不思議な呪符は次々と風に乗って舞い踊り、隠神刑部の周囲で爆ぜ、翻弄する。
『目障りな火花を散らしよる、お主の芸当は此の程度か?』
掌に宿した光は、神通力が発動する前触れだとツェイは把握していた。果たしてその読み通り、己を目掛けて先端が凶悪に尖った倒木が飛来する気配を察知すれば、【|神氣招來《ショウライ》】により強化された移動速度を活かして、ひらりと倒木の上に飛び乗ったではないか。
「おお、すごいね」
『何だと……!?』
そのまま倒木を足場にして宙へと舞い上がったツェイは、か細い雷鎗に動きを妨げる効果を持つ霊糸を絡めて、古狸目掛けて勢い良く投擲した。
一連の動作にあまりにも無駄がなかったが故に、隠神刑部の身は為す術なく貫かれ、その動きを縫い止められてしまう。
「永き夢路へと戻られよ、隠神刑部」
ツェイが地上へと舞い降りるのと入れ替わりに、突破口を見出した黒曜が、ツルハシを手に容赦なく遠慮なく、身動きが取れなくなった古狸の懐に飛び込んで致命の一撃を喰らわせた。
『が……ぁ……ッ』
「観念してもらおうかな、物語の最後は『めでたしめでたし』で終わらないと」
――がつん!
ツルハシが、古妖の身体ごと地面を穿った音が響く。
狸の姿は、手足の先から木の葉に変じて、ばらばらと散っていった。
「ふむ、どうやら此れで一先ずは再封印を成し遂げたようだの」
「……なべて世は事もなし、鏡介さんも気に病まず前を向けると良いね」
貫いた相手が掻き消えたのを認めたツェイと黒曜は、祠に背を向ける。
「我は一言、もう案ずることは無いと伝えに行こうと思うが――」
「うん、ツェイさんの言う通り――心配事はもう何もないよって」
最後の願いを、皆で確かに叶えたと。
そう伝えたならば、鏡の付喪神はいよいよ前を向いて、これからも生きていけるだろう。
彼はもう独りではない。
その胸の裡に、焦がれたひとは確かに息づいているのだから。