蒼の泡沫 ~光涙~
ためらいが無かったと言えば、嘘になる。
〇
ふわりと頬を撫でていったペチュニアの仄かな香りに、もうすぐそこまで夜が近付いてきていることを窺い知り、アリアは花紡ぎの手を止める。夏の盛りはとうに過ぎたと一の姉が教えてくれたように、風は澄み切ってほんのりと冷たく、あたたかな陽射しの香りがしなかった。
「アリア、そろそろ帰ろう」
水面にぷかりと顔を出したベタが、ほっそりとしたなよやかなアリアの指先をやさしくつつく。生まれつきの盲目であるアリアを心配して、一の姉、三の姉たちが選んだお供は、彼女を水底に連れ戻そうと螺鈿のように美しい尾鰭を引っ張った。すこし強引なのは、アリアがここ最近ずっと地上から聞こえてくる旋律に、心をとかしたように惹かれているのを危惧しているのだ。
「みんなが心配するよ」
この世の善性を搔き集めたらきっとアリアのような人魚になる。それをよく理解っているからこそ、ベタは敢えてそう口にした。
たとえ水底のお宮だとしてもアリアはひとりでは生きてはいけない。自分を助けてくれる姉や海の友人たちの思いを無下には出来ない彼女は素直に頷くと、編んだ花を岩陰にそっと隠して水中に帰ってゆく。
その背中を見つめている者が居ることに、気が付いたまま。
〇
隠し事は、ひどく胸が痛い。
けれど日毎膨らんでいく想いは、アリアの儚げな美しさをひときわのように輝かせてゆく。
まろい月明りを浴びたアリアは絵画と見紛うほどの静謐さと神聖さに満ちていた。指先がその膚に触れてしまえば、ひとたび胸の裡に押し込めた不浄がほどけていくのではないかと、そんな錯覚を覚えて眩暈がするくらいに。
「ごきげんよう」
紡がれる言葉は清廉で、天上で奏でられる音色のように耳朶をくすぐった。彼女はまるで夢のようだと演奏を褒めてくれるけれど、無垢で愛らしいアリアを前にすると稚児の戯れのような気さえする。
――知っていた。
この海原の底には人魚たちが住まうお宮があるのだと。
海岸でバイオリンを演奏するのは賭けだった。深海に音色が届くかどうかも分からない上にかえって警戒されるかもしれないが、それでもやらなくてはならない。他にもう、方法がなかったから。
その時は、刻一刻と近付いてきている。
〇
皆がいう「笑顔」って、いったいどんな表情なのだろう。
はじめはぷかりと浮いては弾ける泡沫のような疑問だったのに、彼に出逢ってしまってからというもの、アリアは段々とその想いが色濃くなっていくのを止められずにいる。
――これが、恋?
胸に手を当ててみるけれど、アリアの心臓はやさしくおだやかに鼓動を刻んでいる。きっと、ちがう。でも特別な温度が宿っているのは確かだ。
だってアリアは、もうずっと、ずぅっと、たった一度きりでもいいからあなたの姿が見てみたいのだと淡い想いを捨てきれずにいる。笑顔を、見てみたいのだと。
(わたくしが唄うと、あなたはいつもよろこんでくださるから――)
うれしかった。
その気持ちは本物だから――だから、願ってしまった。
〇
その日は満月だった。
月溜まりの揺れる水面から光を織ったような美しい髪を揺蕩わせて姿を現したアリアに青年は安堵する。バイオリンは持ってきていない。もう必要がないから。
「こんばんは」
伏せた睫毛が頬に長い影を落としている。その瞼が開かないことをよく知っている青年は、隠しもしない抜き身のナイフを頭上へと振りかざす。
霏々とした月光をとろかせた瞳が己を映したのは、その数瞬あとのこと。ほとんど衝動的に、ひと思いに振り下ろした右手はもう止まらない。「あ」と思ったときには切っ先がアリアの白皙を突き破り、赤い血を吸っていた。
アリアが初めて目にした世界は、唇を噛み千切りながら苦しい顔でナイフを握った青年の姿であった。そこに笑顔は欠片もなく。
――ああ。
これまでアリアが美しいと思った旋律が、どこか悲しくて、切なく感じた理由を、いま初めて識ってしまう。はじめからこのためだった。
だって人魚の血は不治の病を治すという。
二の姉がそのせいで人間たちに連れ去られたと知っていたのに、アリアはどうしてもひとの善性を信じたくて。だから、知らないふりをしていた。
きっとこれが罰なのだ。
ずっと自分を見守り、助けてくれた姉たちではなく、たった数日しか言の葉を交わしていない名も知らぬ彼のために魔法を使った罪がいま、深海へとアリアだった怪物を沈ませてゆく。
恨んではいない――そう伝えるように、蒼に融ける最期のそのときまで、アリアは唄い続けた。
青年は知らない。
盲目の人魚が願ったちいさな想いも、涙しながら繰り返す懺悔も、唄うたびに激痛が走り、海中に秘されていた尾鰭が異形の怪物に成り果てていたことも何もかも。
それから、言い伝えがただの呪いでしかなく、助けたかったひとを最も悲しませる結末も、訪れる虚しさも。