覇の鼓動は煙と共に
●Speak Softly, Carry a Big Stick
|煙水晶《スモーキークオーツ》の灰皿の上で、細く紫煙が立ち昇る葉巻から灰が落ちる。
「|Ah...《さて。》 |now, how shall I put this《何処から話したものかね》――」
ダークスーツに身を包み、椅子に深く腰掛けた隻眼の男は、ゆっくりと口を開いた。
仔産みの女神『クヴァリフ』。その仔たる触手状の怪異が、怪異を崇める狂信者たちの手によって召喚された。
その触手状の怪異……便宜上『クヴァリフの仔』と呼ぼう。それ自体はさしたる戦闘力を持たないものの、他の怪異や√能力者と融合することで宿主の戦闘能力を大きく増幅する力を持つ。
その臓腑に秘められた|新物質《ニューパワー》に期待をするな、という方が土台無理な話だ。
「|連邦怪異収容局《我々》は既に、『クヴァリフの仔』が召喚された地域を特定済みだ。|新物質《ニューパワー》についても、精度の高い予測を立てている」
「狂信に陥るような極東の弱者に、クヴァリフの仔は扱えまい。ならば早い内に彼等から引き離し、然るべき機関……|連邦怪異収容局《FBPC》が善意の下、回収をすべきだ」
|こちらを真っ直ぐに見据え《・・・・・・・・・・・・》、男は独り言を続ける。
「|楽園《√EDEN》の諸君、先程お話した情報は提供しよう。その代わりと言っては何だが、今回の件からは手を引き給え」
「人類進化の行止りを打開しようとする中で、人間同士が争うなど……実に愚かなことだ」
星読みが予知をする事を見据え、男――連邦怪異収容局員『リンドー・スミス』は薄ら笑いさえ浮かべる余裕を見せる。
「一つ忠告するが、これは取引ではない。――お解りかね? 君達が|聡い集団である《サルよりは賢い》事を、願っているよ」
以上だ。とリンドーは言葉を切り、葉巻を咥えると静かに紫煙を燻らせた。
●
「――そのメッセージを仮にボクが詠み損なったら、単なる独り言が煩い中二病のオジサンになるんだけどね」
ムスっとした表情で自分の見た予知に皮肉を返し、神童・裳奈花(風の祭祀継承者・h01001)は立ち上がる。
「さ、気を取り直して……ちょっとだけ出遅れちゃうけど、追い付いて追い越しちゃえばいいだけですから」
集まってくれた√能力者たちに向けて、星詠みの少女はホワイトボードを引っ張り出して説明を始めたのだった。
==============================
ミッション:『クヴァリフの仔』の回収
ある海岸沿いの地方都市、その市街地にて『クヴァリフの仔』の召喚を確認。
現場に急行したいのは山々だが、召喚儀式の余波で怪奇現象が発生している。
まずはこれを解決し、住民の安全を確保しなければならないだろう。
怪奇現象解決後、召喚儀式が行われたエリアを守る低級怪異を撃滅。
儀式場に蠢く怪異を倒し、融合している『クヴァリフの仔』を回収する。
低級怪異はキミ達が苦戦する相手ではないだろうが、『クヴァリフの仔』が融合した怪異は強敵となる恐れがある。
==============================
「怪奇現象は "ループする街" 、一種の空間を歪める結界のようなものみたいです。解除方法は簡単、結界を維持する "オブジェクト" を破壊して下さい。 "オブジェクト" は 『どう考えても本来そこに存在し得ないもの』 として皆さんの近くに現れるようなので、注意して見回せばすぐ見つかるでしょう」
キュポ、とマーカーの蓋を閉めて裳奈花は向き直る。
「怪奇現象の解決がスムーズに進めば、こちらより僅かに先行している|連邦怪異収容局《FBPC》を出し抜けます。あのオジサン……もとい、リンドー・スミスに一泡吹かせてやりましょう!」
威勢良く締めくくり、ぺこりと一礼する裳奈花。
しかしその表情は、台詞に反して何処か引掛りを残すものであった――。
第1章 冒険 『無限ループってこわくね?』

●√UNIVERSAL THEOGONY DISSECTION INSTITUTE
/FEB.09.2025/ 1730hrs/CLOUDY
黒塗りの車が夕闇の街を滑るように進む。街灯の明滅が窓に映り込み、リンドー・スミスの隻眼に一瞬だけ虚ろな光を宿す。彼は深く座席に沈みながら、指先で膝を軽く叩いた。
「フ……|Puppy《子犬》とはよく言ったものだな。星を詠むだけでは猟犬にはなれん」
口の端を歪めて静かに嗤う。その声音には冷淡な諧謔が滲む。
「予知をひっくり返される事も考えられないようでは、まだまだ牙が甘い――いや、そもそも牙が生え揃ってすらいないか。踊らされる√能力者がいっそ気の毒になる程に、ね」
フロントガラス越しに映るのは、海風に晒された地方都市の光景。舗装の剥げた道路、潮の香りを帯びた風。ここで狂信者どもが何を欲したのか、リンドーには理解できる。
「未知への渇望、そして進化……それは善き動機だ。しかし、求めるものが身の丈に合っていない。だからこそ、苦労して召喚した矢先に容易く奪われてしまうのだよ――」
都市の中心部、"ループする街" の境界線。ここは既に異常な静けさに包まれていた。空気が澱み、道路の白線がうねるように見える。
「さて、|Vitravore《ヴィトラヴォア》……食事の時間だ」
リンドーの手がポケットからシガー・ケースめいた箱を取り出す。路地の暗がりへと放ると、箱――|怪異収容特殊空間《コンパートメント》が開いた。透明な液体が音もなく流れ出す。いや、それは "流れた" のではなく "形を変えた" だけだった。
無色透明な身体の内部に無数の "眼" が蠢く。"眼" たちは闇の中に煌めき、街灯の光を歪ませた。
リンドーは満足そうに腕を組み、呟く。
「人は水がなければ生きられぬ。だが、それに沈めば命もまた失う。|√EDEN《楽園》の諸君、果たして如何に足掻くかね?」
"ヴィトラヴォア" は這うように市街地へと流れ込み、静かに獲物を狩るために動き出した。
【怪異データ】
ヴィトラヴォア(Vitravore)
分類:液状捕食怪異
特徴:無色透明の流動体であり、内部に無数の "眼" を持つ。人間が本能的に警戒しづらい水のような姿と、相手の心を麻痺させる "眼" により、獲物を無抵抗のまま捕食する。
能力:視線を合わせた相手の心を麻痺させ、動きを封じた後、じわじわと包み込み消化する。
弱点:動きが遅い。視線を合わせる以外の攻撃手段を持たない。怪奇現象の中では何をどうやっても倒せないが、逆に怪奇現象が解決されると無条件に滅びる。
--------------------------
早くも予知に綻びが生じている。
絶対に倒せない怪異を避けつつ、可能であれば住民の保護と "オブジェクト" の破壊を急いで欲しい。
●恐怖を以て、絶望を討つ
「……これが"異常事態"ってやつなのね?」
驕傲宮・はどま(傲慢のくびき・h05776)は、ひらりと着物の袖を払った。琥珀色の髪がそよぐ。元いた世界では、混乱を治めるのは"徳高き者"の役目だった。だが彼女は既にその価値観に疑念を抱いている。こうして動く理由は――"正しさ"とは何かを見極める為だ。
「……いるわね」
はどまは歩みを速める。
辿り着いた路地裏。そこでは、無色透明の液体が獲物を絡めとり、じわじわと同化させていた。
薄桃色の髪の女性は恐怖に震え、紫の瞳が虚ろに光っていた。彼女の頭には緑のベレー帽――だが、それは今、足元に落ちている。
「間に合って良かったわ。さて、"お祈り"の時間よ」
はどまは深く息を吸い込み、その歌声を解き放った。
「トラペゾヘドロンの光」
昏き燐光が周囲に広がると、ヴィトラヴォアの"眼"が一斉に震えた。歌声の響きに包まれた市民の瞳が震え、麻痺の呪縛が脆くも崩れ去る。だがそれと引き換えに、新たな悪寒が彼女の背を撫でる。
膝を突く市民を、はどまは冷静に見下ろす。彼女の歌は決して優しくはない。怯えを以て麻痺を押し流す……それが彼女のやり方だった。
「もう動けるわね?」
震える手で緑のベレー帽を拾い、彼女の手に押しつける。市民は戸惑いながらも頷き、ふらつく足取りでその場を離れた。
獲物を逃がされたヴィトラヴォアは、その視線をはどまへ向ける。無数の眼が光を孕み、心を凍りつかせる波動が放たれる。
「まだ分からないのかしら。わたくしのほうが各上だって事」
手加減無しの洗脳を声に乗せ、今度こそ恐怖を刻み込む――|視線を合わさず《・・・・・・・》はどまが囁くと、ヴィトラヴォアの"眼"たちが、まるで悲鳴をあげるかの如く一斉に姿を消した。それは"見る者"でありながら、今、"見る事への恐怖"に蝕まれたのだ。液体の塊が激しく震えながら、じわじわと後退する。
「……目障りよ。さっさと消えなさいな」
ヴィトラヴォアはしばらく躊躇った後、闇の奥へと退いていった。
「ふふ……案外、悪くない気分かもしれないわね」
彼女は背後を振り向いた。通りの先に建つ広場の中央。そこに、異質な輝きを放つものがある。純金の魚類の像――"オブジェクト" だ。
「ああ、見つけた」
はどまは袖を翻し、軽く指を鳴らす。
"世界の歪み"が渦巻き、像が砕け散った。破片が煌めき、街を満たしていた異常な閉塞感が薄らいでゆく。
彼女は、ふっと微笑んだ。
「人助けなんて趣味じゃないけれど……まぁ、慣れとかないとね」
●虚ろなる眼が覗く時
海沿いの地方都市は今や閉じ込められた世界となっていた。ループする街。その歪みの只中へと、飛鳥井・合歓(災厄の継承者・h00415)は足を踏み入れる。
スマートフォンを取り出し、公衆無線LANを介して|No.1898《ヴァイラス》を侵入させる。電波を介して拡散するウイルスは、都市の情報を解析し、街の生物たちにも感染していく。やがて数羽のカラスの視界が合歓の脳裏に重なった。
「さて、見せてもらいましょうか……」
街の構造が浮かび上がる。曲がれば戻る道、決して辿り着かない目的地。それが、この空間の本質。合歓はループの仕組みを分析しながら、目に映る "共有された視界" を精査する。
カラスの一羽が視界に異変を捉えた。闇に浮かぶ無数の "眼" と視線が交差する。――瞬間、カラスの意識が切れ、合歓への視界の共有が途絶えた。
ヴィトラヴォアがいる。
静かに流れる "水" のような怪異。だが、そこには無数の眼が蠢く。ゆっくりと、墜ちたカラスを包み込み、溶かすように消化していく。何の音もなく、ただ静かに。
「……ふふ、なんて悪趣味なこと」
合歓は微笑しながらも、気を緩めなかった。あれは倒せる相手ではない。視線を交わすことすら危険。その事実を理解したと同時、次の行動に移る。
別の視界。街をさまよう老人。腰の曲がった体、年老いた眼差し。違和感を抱きながら、何が異常なのかを理解できずにいた。このままでは、やがてヴィトラヴォアと出くわしてしまう。
その姿に、合歓は胸の奥が僅かに軋むのを感じた。それを振り払うように次の手を打つ。
「そろそろ助け舟を出さなくてはね」
合歓は別のハッキング済みの個体に意識を向ける。路地裏に潜んでいた一匹の大型犬。合歓の命令が、即座に実行される。
犬は俊敏に駆け出し、老人の足元へ。驚いた表情を見せた老人も、大型犬が優しく寄り添うように促すと、困惑しながらも背に跨った。
「……どこかへ、連れて行ってくれるのかい?」
犬は吠えることなく、静かに動き出す。ヴィトラヴォアから遠ざかるように。
合歓は彼らの進行方向を確認しつつ、本来の目的へと視線を向ける。十字路の中央に、ぼろぼろの墓。その存在はあまりにも不自然だった。
ゆっくりと歩を進め、ステッキを手に取る。
「さて、オブジェクトはあなたかしら?」
墓石に近づくと、周囲の空間が歪む。蜃気楼のように街の輪郭がぼやける。やはり、これが結界の核。
躊躇なくステッキの先端が墓石を叩き、鋭い衝撃音が響く。
次の瞬間、結界が不安定に軋み始めた。
周囲の街並みが揺らぎ、蜃気楼の向こうに本来の街の姿が見え隠れする。住民たちが気づかないまま、異常空間は少しずつ崩壊へと向かっていく。
「これで、一つは片付いたわ」
合歓は静かに吐息をつき、闇の向こうを見据えた。
「燥ぎ過ぎている子供は、早く捕まえてキツイお灸を据えてあげなきゃいけないわね……」
●「……はぁ!? 急がなきゃじゃん! あのオジサン何考えてんのよもう!」
ループする街の空気はどこか湿り気を帯び、異常を知覚できる者だけが、この歪みを肌で感じていた。
非常階段に凭れ掛り、煙草をくゆらせる黒髪の女。目の下に薄暗い影を落とし、夜の帳に紛れるようにして佇んでいた。彼女は、ここが異常な場所であることを知っていた。むしろ、それを確かめに来たかのように。好奇心か。将又、退屈を埋める娯楽か。
なのかは遠方にある建物の屋上に身を潜め、双眼鏡越しにその姿を確認する。
視線をずらすと、建物の壁伝いに、無色の流動体がゆっくりと滴り落ちてくるのが見えた。ヴィトラヴォア。その内部に蠢く何か。獲物に悟られない為か、無数の瞳を閉じているのだ。あの女へ忍び寄っている。
「変身!」- Whethelier,it’s going to be Cloudy -
瞬時にクラウディフレームの装甲を纏い、なのかは一気に加速する。屋根を蹴り、電線の支柱を掴んで飛び、空を裂くように疾駆した。
ヴィトラヴォアの影が、女の真横まで迫る。瞬間、なのかの手が女の腕を引き寄せ、空へと跳ぶ。
「って、え? うわっ!?」
女は驚愕の声を上げる間もなく、宙を舞った。非常階段の手すりを蹴り、なのかはそのまま隣のビルの屋上へと着地する。
「ギリギリセーフ! よし、逃げるよ!」
「……えぇ、まぁ、いいけど……」
唐突すぎる救出に、女は呆気にとられながらも、抗う気配はない。むしろ、気怠そうにしながらも淡々と受け入れるその態度が、逆になのかの焦りを煽った。
「ちょっとさぁ、もう少し緊迫感持とうよ!?」
「いやぁ、これくらいなら想定内でしょ」
なのかが呆れかけたその時、視界の端で影が蠢いた。
「ちょ、後ろ!?」
予め二手に分かれていたのか、突如現れたヴィトラヴォアが屋上の縁から這い上がり、内部の眼が一斉に女を映し込む。その視線が交差する前に、なのかは彼女の体を抱え直し、助走をつけた。
「飛ぶよっ!」
ビルからビルへ。なのかは全力で駆け抜け、次の屋上へ飛び移る。断崖を蹴り、パイプを支えに着地、そのまま駆け続ける!
女は抱えられたまま、呆れたように笑った。
「……本当に忍者みたいだね、キミ」
「ありがと! でも今は喋らないで!」
次の屋上へと飛び移り、息を整えようとするなのか。しかし、女の視線は別の方向へと向けられていた。
「ねぇ、アレ」
指さした先には、夜空にぽっかりと浮かぶ一枚の絵画。
「また妙なもんがあるね」
「間違いない、オブジェクトだ!」
結界の核を破壊すれば、この街のループは崩れる。なのかは躊躇なく、クラウディフレームの力を指先に込めた。
「ぶっ壊す!」
稲妻が走る。雷の刃が絵画を貫いた。瞬間、空気が震え、街の輪郭が揺らぐ。
「結界が、薄れてきた?」
「やった! でも、まだ逃げないと!」
ヴィトラヴォアがまだそこにいる。なのかは女の腕を引き、さらなる逃走を続けた。夜の街の歪みは、少しずつ解かれ始めていた。
●喰らう者と喰らわれる者
夕闇が蠢く。静寂の街で、影が音も無く走り、路地の隅々にまで浸透する。住民たちは知らぬ間にそれへ|飲み込まれ、暗闇に包まれ《ストックされ》ながら、特定の建物へと放り込まれていく。
「怖がらせちまって悪ィな。危険なスライムがいるからよォ?」
声は軽く、しかし闇の奥底から響くように響いた。闇顎の狼と鷹が編成された群れとなり、都市を縦横無尽に走る。彼らの任務は明確だ。結界内の一般人を捕らえ、無理やり安全圏へ送り届けること。驚く住民たちは声を上げるが、狼顎の鋭い歯が一瞬でも見えれば、抵抗などできるはずもない。
ウィズ・ザー(闇蜥蜴・h01379)自身は、別の「獲物」に意識を向けていた。
「……ほう?」
怪異は音もなく、ゆっくりと滑るように進んでいた。その身体は透明な水のごとく流動し、壁面を伝いながら建物の隙間へ入り込もうとする。その内部で蠢く無数の眼が、まるで神経の塊のように動くたびに、異様な存在感を放った。
視線の束を受ければ、人間は心を麻痺させ、抗うことなく捕食される。
「俺ァ、美味そうなモノには|目が無くてよ《・・・・・・》」
クカカ、と笑いながら影が動く。
ヴィトラヴォアが異変を察知し、動きを止める。粘液状の体が不自然に膨れ、まるで獲物を見極めるように、ゆっくりと流れを変える。
「喰らわせてもらうぜ!」
黒き顎が裂ける。異常なほどに広がった闇の口が、ヴィトラヴォアへと襲いかかる。その途端、怪異は身を二つに裂き、左右へと分かれて回避した。同時に無数の眼がこちらを睨み、圧倒的な殺意を向ける。
――だが。
「おっとォ、視線技ってのァ効かねェんだよなァ」
眼孔を持たない彼は、正しくヴィトラヴォアの天敵足り得る存在だ。
ウィズは笑いながら、影を爆発的に広げる。分裂したヴィトラヴォアを包囲するように黒霧が渦を巻き、四方八方から影の顎が生まれた。
「どっちもまとめて…頂きます!」
ヴィトラヴォアの身体が一気に飲み込まれる。だが、捕食された怪異は即座に消化されることはない。闇の中で蠢き、なおも生き続ける。
ウィズはそれを感じながら、静かに呟いた。
「…まァ、結界が健在な限り、消化は無理か」
然し、それも結界が崩れるまでのこと。怪異が糧となる瞬間を想像し、ウィズは舌なめずりする。
「さて、他の餌は…まだいるかねェ?」
軽く顎を鳴らし、次の標的を探しながら闇の中へと溶けていった。
●雨弾と怪力、夜を裂いて
夜の街に、不気味な光が瞬く。
鏡見・氷雨(愛を掴んだ暗殺者・h00561)はARウェアラブルデバイスのディスプレイを確認しながら、手早く周囲の防犯カメラをハッキングしていた。画面の端には、ドローンが映し出した遠方のシルエットが揺らめいている。
「……まずいな」
視界に映るのは、ゆらゆらと形を変えるヴィトラヴォア。まるで透明な闇が波打つように蠢き、その内部で無数の眼が微かに光を放っている。
「日向、急げ。ヴィトラヴォアがそろそろ動く」
「おっけー、こっちはもう見つけたぜ!」
高天原・日向(得意技は|鉄拳制裁《プラズマナッコォ》・h04661)が指差した先には、金ピカの着物を着た松……否、三代将軍・徳川家光公の等身大フィギュアがあった。問題は、それが単なるオブジェではないことだ。
フィギュアは、頻繁にノイズが走るたびにポーズを変えている。 その動きが、まるで踊っているように見えるのだ。
「う……これは確かに異常だな」
「だろ? いやもう、サンバどころか怪奇現象じゃねぇか!」
「怪奇現象だから壊すんだろうが。さっさと片付けるぞ」
氷雨は手早く『マルチ・サイバー・リンケージ・システム』を起動し、日向との間に細かな電子リンクを構築した。
「システム接続。リンク完了」
次の瞬間、二人の体感速度が変わる。動きが研ぎ澄まされ、反応速度が一気に上昇する。日向は拳を握り込みながら感触を確かめた。
「おぉ、やっぱコレ繋ぐと身体が軽くなるな!」
「お前の動きが無駄に速くなるのはいいが、暴走するなよ」
「分かってるって!」
氷雨は迷いなくレイン砲台を起動し、フィギュアへと照準を合わせる。
「レーザー射撃、開始」
瞬間、赤い光線が雨のように降り注ぎ、フィギュアの表面に無数の穴を穿つ。
だが――
フィギュアが一瞬だけ、奇妙な動きを見せる。
ノイズが走ると同時に、頭部が180度回転し、関節がありえない方向にねじれる。 背骨が波打つように揺れ、指先が異様な速さで蠢いた。
「……っ」
「おいおいおい氷雨、こいつ思ったよりキモいな!? もう一発やっとくか?」
氷雨は眉をひそめつつも冷静に答える。
「念のため確実に破壊する。ハチェットで仕上げ――」
「せーのっ!!」
氷雨の指示を聞かず、日向は殴り棺桶を全力で振り抜いた。
「おい待て、それは――」
ドゴォォォンッ!!
轟音が響き、フィギュアは吹き飛びながら建物の壁にめり込んだ。
「――オーバーキルだって言っただろうが!!」
氷雨が珍しく声を荒げるが、日向は得意げに棺桶を肩に担ぎながらニヤリと笑う。
「いや、念には念を入れるのが大事ってもんだろ? ほら、完全に止まったぜ」
彼の言う通り、壁に突き刺さったフィギュアはもう動かない。だが、その直後――
世界が、一瞬だけ“別のもの”に変わった。
視界がぐにゃりと歪み、目の前の街並みが消え、まったく異なる風景がちらりと覗く。
古びた石畳、朽ちた建物、不規則に散らばった怪異の腕、脚、胴体。だが、それが映し出されたのは刹那の間。
次の瞬間には、元の夜の街へと戻っていた。
「……今の、見たか?」
「見たぜ。不気味だったけど結界の揺らぎ……って事で多分合ってるだろ」
氷雨はARデバイスをチェックし、すぐに異常値の変化を確認した。
「オブジェクトの影響は減少。結界の強度も低下しつつある。ただ――」
「まだ完全には消えてねぇ、ってことか」
日向が舌打ちし、殴り棺桶を軽く振る。
「氷雨、次は?」
「……ヴィトラヴォアの動きが加速している。もう一つ、オブジェクトを破壊しなければならないかもしれん」
「なら、さっさと行くぜ!」
二人は駆け出した。薄れつつある結界の中、更なる一撃を放つために――。
●|SYLPHIS SONAR《空中聴音風切羽》
夕闇の街に、軽やかな足音が響く。
「拗らせたおぢが色々とやらかしてるっぽいねー」
星詠みの少女の予知を自己流でざっくり纏めるとそうなる。Key:AIRのバーチャルキーボードを叩きながら、薄羽・ヒバリ(alauda・h00458)は息を整える。戦場でもテンションは落とさない。だって、それがイケてるギャルの基本でしょ?
「でも、戦いに巻き込まれてる人を放っておくとか、ナシじゃん?」
自らも走って移動しながらのオペレート。ネイルに彩られた指を素早く躍らせると、ヒバリの周囲を舞う小型無人兵器、レギオンが一斉に展開し、街の人々へと導きを示す。
「いこ! レギオン!」
レギオンが放つ微かな青い光の波が、避難する住民たちを包み込む。
「あれ、足が痛くない?」
杖をついていた老人が、驚いたように足を動かす。転倒して捻挫していたはずの足が、何事もなかったかのように軽く動く。
「すご……なんか、楽になってる?」
荷物を抱えて息を切らしていた女性も、疲労感が薄れていくのを感じ、目を丸くする。
レギオンが生み出す光が通過するたび、住民たちの傷や疲れが癒されていく。
「もう大丈夫! みんなレギオンについていって!」
だが、安堵の息をつく間もなく、ヒバリの風切羽が不快な音を拾う。
……ぽた、ずる……ずるり……
「ヤーバ、ここでループ?」
周囲を見渡し、彼女は背筋が凍るような違和感を覚える。
さっき通り過ぎたはずの電柱が目の前にある。周囲の街並みが微妙に歪んで見える。そして……背後、潮風に紛れるように、微かな水の蠢く音。
風切羽が、その嫌な音の源泉を捉えた。
「ヴィトラヴォア……近いっ!」
心臓が跳ねる。背後を振り向きたくなる衝動を抑え、焦る気持ちを押し込める。今、大事なのはループを抜けること。そのためにはオブジェクトの破壊が必須。
――どこだ、どこにある!?
必死に視線を巡らせたヒバリの目が、一つの違和感を捉える。
「……絶対あれ!!」
学校の演習場にあった銃痕だらけのバリケード。本来あるはずのないものが、ここにぽつんと佇んでいる。
風に煽られ、そこに刻まれた無数の弾痕が、まるで胡乱な眼窩の如くヒバリを見つめているように見えた。
「√ウォーゾーンならまだしも、普通の街にこんなのあるわけないじゃん!」
指先がKey:AIRのパネルの上を鮮やかに跳ねる。
「レギオン、レーザー砲! ぶち抜いちゃって!」
指示と同時、レギオン達が一斉に鋭い軌跡を描いて反転し、細い青いレーザーをバリケードへと向ける。
音もなく、バリケードの中心に貫通する青い光線。次の瞬間――
ドンッッ!!
青白い閃光とともに、バリケードが炸裂した。破片が周囲に飛び散り、轟音が夜の街に響く。
――ピキッ。
空気が、ひび割れる。
突如、夕闇の色が狂ったように変容した。空は紫がかった燃えるような赤へと変わり、建物の輪郭が歪む、異常な光景。
「……っ!?」
数秒後、世界は元の街並みに戻る。しかし、ヒバリの直感は告げていた。
閉塞感が、少しだけ緩む。風が流れる。先ほどまでの圧迫感がわずかに軽減されているのだ。
「あとちょっと……!」
それでも、背後の水音は遠ざかってはいない。むしろ、じわじわと迫ってきている。
「急がなきゃ……!」
ループの崩壊はもうすぐ。そう信じて、ヒバリは再び駆け出した――。
●揺れる視線、止まらぬ足音
夜の街に、かすかな指鳴の音が響く。
月代・陽介(不変バケラー・h03146)は耳ではなく、皮膚で周囲を探っていた。音の波が反響し、建物の隙間、細い路地、地面の凹凸までも浮かび上がる。
「……やべぇな、結構いるじゃん」
何かの異様な動きが、波紋のように返る。ただの液体ではない。滑るように蠢き、路地の壁を這い、排水溝を抜け、屋根から落ちる。それらが織りなす水音は、普通の雨音とは決定的に違った。
「うわぁ……気持ち悪ぃ」
直感が警鐘を鳴らすと同時、聴覚と触覚に全てを委ねて、速やかに動こうとし――
次の瞬間、強い波長がぶつかってきた。
「うっわ、もうそこかよ!」
目の前、すぐそこに「いる」。
壁に滲み出るように降りてきたヴィトラヴォア。その無色透明な身体の内部に、無数の眼が蠢いている。液体の表面が揺らぎ、視線を合わせようとする。
「いやいや、こっちは目ぇ潰してんだっての」
視線が交差する。その瞬間、コンマ1秒以下の反射速度で視覚を調整し、超近眼化。眼があったところで、対象を正確に認識できなければ意味はない!
――けど、こりゃマズイな。
陽介は背後の泣き声に気付いた。視界の端に、小さな影がうずくまっている。
ヴィトラヴォアの液状の体が、じわりと迫る。
「はいストーップ!」
陽介は即座に指を鳴らした。
パァン!!
空間に鋭い破裂音が響き、地面が波打つように揺れ、ヴィトラヴォアの身体が震動に囚われた。深度七相当の猛振に動きが止まり、その液状の身体が滅茶苦茶に波打つ。
その隙に、陽介は一気に距離を詰め、子供の前に膝をついた。
「おーい、立てるか?」
小さな子供が目を潤ませ、陽介を見上げる。
「……怖い……」
「怖くねぇよ、俺がいるしな」
軽く頭を撫で、腕を伸ばす。
「ほら、俺につかまれ」
子供が震える手で陽介の服を掴む。そのままひょいと抱き上げた。
ヴィトラヴォアはまだ震動の影響を受けている。だが、その足止めが解除されるのも時間の問題だ。
「……? お兄ちゃん、あの……」
子供が不思議そうに指をさす。見ると、ヴィトラヴォアの無数の眼が、振動のせいでぶっ飛んだ方向を見ている。更に上下の強烈なブレも加わり、どこを見ているのかまるでわからない。
「おー……確かにこれはヤベェな。見る気は満々だったっぽいけど、これじゃ視線が合いようが無ぇわ」
今なら安全と、陽介は足元の感覚を研ぎ澄ませた。
「韋駄天脚、発動っと」
最小限の踏み込みで、一気に地面を蹴る。
バンッ!!
爆発的な加速。地面を蹴り、建物の壁を駆け上がる。パルクールの要領で足場無き足場を駆け、送水管から隣の屋上へと飛ぶ。
ヴィトラヴォアが再び動き出すのを、再度肌が察知した。
「――遅ぇよ」
建物の隙間を翔け抜け、民家の屋根の上へ。体育館はすぐそこだ。
「よっと」
体育館の屋根を蹴り、静かに着地する。
「着いたぜ、お姫さま」
子供をそっと下ろす。驚いたように陽介を見上げる瞳。
「お兄ちゃん……ヒーロー?」
「は?」
「すっごく、かっこよかった……!」
ぎゅっと袖を握る小さな手。陽介は照れくさそうに笑い、頭をポンと撫でる。
「ま、俺ってば割と万能だからな」
子供が安心したように笑う。
遥か後方では、新たな得物を見つけたヴィトラヴォアの水音が遠ざかっていく。陽介は深く息をつき、再び指を鳴らした。
「さて、もうちょい仕事するかね」
●蒼き氷翼の導き
「氷翼よ、来たれ」
夕闇に薄青い光が|旋《まわ》り、それは忽ち氷の鷹たちとなって舞い上がる。矢神・霊菜(氷華・h00124)の視界に重なるように、氷應の視覚を通じた景色が映し出された。
「違和感のあるものを探しなさい。結界の核となるものがあるはずよ」
霊菜の命を受け、氷翼たちは静かに旋回しながら街の隅々を捜索する。建物の屋根、曲がりくねった路地、歪んだ影の中――異質な存在を見逃さない。
そして、それはすぐに見つかった。
広場の中央に佇む、異様な石像。怪異を象ったその姿は、細かな粒子となって削れながら、瞬く間に再生を繰り返していた。まるで、生と死が絡み合うかのように、崩れ、蘇る。その度に、周囲の空気がひどく重たく沈む。
「面倒なこと……凍てつかせれば再生も止まるかな」
霊菜は冷気を込めた一撃を放つ。
氷翼漣璃の力が解放され、純白の霜が石像を覆い尽くす。瞬く間に表面が凍りつき、再生の動きが鈍る。
「このまま――」
柔拳の構えを取り、跳躍する。氷翼の加護を受けた拳が、鋭く空を裂く!
「――砕く!」
鋭い破壊音と共に、氷結した石像が砕け散り、光の粒となって消え去っていく。
その瞬間、まるで波紋のように空気が歪んだ。閉塞していた気配がわずかに薄れる。
「此処までは順調だけど……」
霊菜は周囲の異変を察知するため、改めて視界を巡らせた。その時、助けを求める住民の姿が映る。
彼女は素早く駆け寄った。怯えた様子の女性が、小さな子供を抱えている。
「ここは危険よ。体育館に避難して」
「で、でも……本当に安全なんですか?」
女性の腕の中の子供は、母親の服をぎゅっと握りしめ、不安げに霊菜を見上げた。その視線に、霊菜は優しく微笑む。
「仲間の指揮下にあるレギオンが守っているわ。あなたたちを安全な場所まで導くから、ついていって」
氷の鷹が羽ばたき、住民たちの前へと飛び出す。青白い光を放ちながら先導するその姿に、女性は迷いながらも頷いた。
「ほら、怖がらないで。あの鳥さんについていこう」
母親が優しく子供を促すと、子供はおそるおそる一歩を踏み出した。氷應がゆっくりと飛びながら、一定の距離を保って誘導する。
「気をつけてね」
霊菜は彼らを見送りながら、背後の気配に警戒を向ける。仲間の影が徘徊し、ヴィトラヴォアの動きを抑えているのを感じ取る。
「ふぅ……これで少しはマシね」
住民が無事に避難していくのを確認し、霊菜は改めて結界の揺らぎを確かめた。この異常を完全に崩すため、彼女は次の目標へと向かう。
●沈黙のベルが鳴る時
静まり返る夜の街。歩みを進める北條・春幸(人間(√汎神解剖機関)の怪異解剖士・h01096)の耳に、己の足音だけが響く。
街灯が明滅している。
光が失せる寸前、視界の隅に映るのは、仰向けの遺体。
いや、違う。次の瞬間には何もない。
目の錯覚か。
だが、次に街灯が点ると、また別の場所で何かが横たわっている。
光が消える度に、どこかで何かが存在し、闇がそれを隠しているのではないか。
「どうやらこの街、本当にループしているみたいだね」
曲がり角を幾度越えても、目に映る風景は同じだった。街灯の位置、道端の張り紙、ひび割れたアスファルト――細部が微妙に異なるが、それでもこの空間が円を描くように繋がっていることは明白だ。
「ループの中心があるはずだけど」
足を止め、周囲を見回す。風が吹き抜けた刹那、ぽつんと置かれた異質な存在を見つける。
道の真ん中、小さな机の上に鎮座するのは、黒光りするダイヤル式の電話。
「……ずいぶんとクラシカルなオブジェクトだ」
機械仕掛けのレトロな造形。時代の残滓がそのまま切り取られたかのように場違いだ。
近寄り、試しに触れてみようとしたその時――
ジリリリリリリリリリ……!
鋭く響くベルの音。
春幸は思わず眉を上げた。無人の街に鳴り響く古い電話の音は、奇妙なほど鮮明で、どこか現実感を削ぐ。
出てみようか。
恐怖心の欠落した彼には、ためらう理由などない。
受話器を取る。
途端に、耳をつんざくようなノイズと、不明瞭な囁きが流れ込んできた。
「ッ……シグ…… ……ヮボ……ァア……」
言葉ではない。"何か"の呻きと囁きが混じり合った音の洪水だった。意味の分からない声なのに、なぜか不快で、聴覚を掻き乱す。
――いや、これは。
声ではない。耳に届くよりも先に、脳の奥へ直接流れ込んでくる"情報"のようなもの。
「……へえ」
突如、首筋に冷たい吐息が掛かった。
「……ッ」
咄嗟に振り向く。
そこには何もない。
しかし、次の瞬間。
ギギ……ギギギ
足元の影が揺れる。
建物の隙間、舗装の割れ目、闇の奥底から―― "それ" が湧き出した。
皮膚のない歪な肉塊、関節を持たぬ腕が地を這い、顔の形を保てぬほど崩れた者たちが、粘つく足音を立てながら迫り出してくる。
まるで闇が形を成したかのように、都市の隙間から這い出してきた。
春幸はゆっくりと口を開く。
「一枚……二枚……三枚……」
怪談「番町皿屋敷」が、空間を塗替える。
街の光が消え、冷気が漂う。朽ち果てた屋敷の幻影が辺りを覆い、無数の皿が宙を舞う。
怪異たちは怯まない。影はさらに膨れ上がり、無数の歪な手が春幸へと伸びる。
「四枚……五枚……」
音が反響する。怪異の動きが速まる。戸惑うどころか、ますます勢いを増して迫る。
「六枚……七枚……」
絶対必中の支配が発動し、怪異たちは一斉にその場に凍り付く。
「これでおしまい」
春幸の微笑みと共に、皿と同じ様に低級怪異たちは粉々に割れて消え去った。
再び受話器を耳にあてる。
「ツー、ツー、ツー……」
低くくぐもった通話終了音。
そして――
黒電話が微かに震え、ダイヤルがゆっくりと勝手に回り始める。最後の抵抗のように震えた後、表面に無数の亀裂が走り、音もなく崩れ去った。
周囲の空気が揺らぎ、空間の圧迫感が大きく緩む。
「うん、結界はかなり弱まったねえ」
春幸は壊れた電話の残骸を眺めながら、次の手を考え始めた。
●[STANDBY] AWAITING ENGAGEMENT CONFIRMATION
SYSTEM BOOTING......
[ALLMIND Δ W.E.G.A] # ……接続完了。
[ALLMIND Δ W.E.G.A] # |戦闘拡張機械化鎧《W.E.G.A》、全機能正常。現在の作戦目標は「ループする街のオブジェクト破壊、および住民の避難誘導」。
[ALLMIND Δ W.E.G.A] # 識別信号を照合。
[ALLMIND Δ W.E.G.A] # ループ空間の分析開始。
静かにスラスターを吹かし、ビルの縁から宙に飛び出す。スコープ越しに街を見渡し、瞬時に異常を洗い出す。機神・鴉鉄(|全身義体の独立傭兵《ロストレイヴン》・h04477)の視界には、規則的な街の景観が、不意に“ぶれる”瞬間が幾度も訪れた。
「……AI、異常発見率の分析を継続」
『了解しました。データ解析開始……異常度の高い地点をマッピングします』
マップ上の一点に、僅かな歪みが浮かび上がる。そこには何もないはずの空間に、黒く巨大な立方体が浮かんでいた。
表面が脈打つように微かに回転し、時折パーツがずれ、あるいは再構成される。
『高いステルス性能を確認。オブジェクトの挙動は空間に影響を及ぼしている模様。近接時の認識障害が発生する可能性があります』
「……破壊を優先」
青白い光が走り、重力慣性制御力場がパワードスーツを包む。
――|暗黒の森の番犬《ケルベロス》、展開。
機体重量を無視したかのような推進力が、鴉鉄の体を弾丸めいて加速させる……!
突如、視界がバグに覆われる。
立方体が“次の瞬間”、突然数メートルずれた位置に移動した。
『オブジェクトの挙動に規則性はありません。高確率で接近阻害が発生します』
「……問題ない」
右腕を振り抜き、拳がオブジェクトの表面に叩きつけられた瞬間、衝撃で空間が震えた。
立方体の表面が“ひび割れ”、内部から異様な光を漏らす。が、それは即座に修復され、再び表面が整った。
「耐久値、想定よりも高い」
スラスターを吹かし、急上昇。全身を旋回させながら次の一撃の角度を計算する。
AIの補助演算が即座に軌道最適化を行い、次の打撃ポイントを割り出した。
『3.4秒後、再度慣性増幅打撃の衝撃を加えてください』
|炸裂加速式杭打機《パイルバンカー》を構え、ブースターを全開。|戦闘拡張機械化鎧《W.E.G.A》が流星の如く、音の壁を突き破る。
標的:|謎の立方体《UNKNOWN》、距離:0.2M。
カウント:――
「……砕く」
――ZERO. |慣性増幅打撃《イナーシャル・ブースト》に拠り破壊力を倍加させた金属製の刺突杭が、衝撃波を纏って標的のド真ん中をブチ抜く。
打撃面が弾け、内部構造が崩壊を始めた。
オブジェクトはパーツを外されるように分解され、次々と崩れ落ちていく。
まるで機体の外装が剥がれるような、あるいは異形の兵器が最期に見せる断末魔のように。
『ループ空間の崩壊反応を検出。異常空間は約80%修復。解除まであと僅かです』
「……確認」
爆散したオブジェクトの破片が、微細な光の粒となって霧散していく。
直後、地上で動く影が視界に入った。
──一般人。
二人の若者が混乱した様子で立ちすくんでいる。
『住民を発見。救助が必要です』
「……AI、対話を代行」
【音声送信開始】
『落ち着いてください。この街は現在、異常事態下にあります。最寄りの安全区域へ誘導します。指示に従ってください』
「な、なんだよ……! お前、何者だ!?」
『詳細は後回しに。敵性存在の接近を検知』
遠くの建物の影が揺れ、奇妙な水音が響く。
|ヴィトラヴォア《敵性存在》。
鴉鉄は即座に地上へ降下。
スラスターの噴射により、衝撃を殺しながら接地。
住民の腕を掴み、パワードスーツの怪力で片手ずつ抱え上げる。
『移動します。振り落とされないように』
「は、離せ!? 待て、おい、これどこに──」
応答する余地もなく、跳躍。空を翔け、僅か数秒で街の外周へと到達する。
視界の端で、仲間の指揮下にあるレギオンが飛び交い、体育館周辺の防衛を固めているのが見えた。
『安全圏へ到着。住民の保護、完了しました』
鴉鉄は静かに住民を降ろし、再び街へ向かって跳躍した。
結界崩壊まで、あと一手。
●鑑識不能な『異常掲示物』
「……さて」
街を覆っていた不可解な結界は、依然として不気味な静寂を伴っている。しかし、そんな怪奇現象も職務の前ではただの障害に過ぎない。
警備部対異能第四十二課巡査部長――瀬条・兎比良(|善き歩行者《ベナンダンティ》・h01749)は、足元を固めるように軽く息を整えた。
まずは住民の保護が最優先だ。視界を巡らせ、倒壊しかけた建物の影や薄暗い路地をくまなく探索する。|警視庁異能捜査官《カミガリ》として培った冷静さが、こうした状況でも自身の心を揺るがせることはない。
瓦礫の隙間から微かな息遣いを捉えた。人影が震えてうずくまっている。
「警察です。私は警視庁の瀬条・兎比良。安心してください。あなたを安全な場所まで案内します」
端正な口調と警察手帳を示し、視覚情報から信用を与える。ここで感情を露わにするのは逆効果だ。淡々とした声が、混乱した市民にとって最も安心できる材料となる。
「た、助けて……何が起きているのか、わからなくて」
住民の目は焦点が合わず、震えが止まらない。心神喪失状態だ。
彼は静かに|【物語】「心無き物の狂想曲」《ディアアンデルセン》を紡ぐ。
低く穏やかな旋律が夜気を震わせれば、空気が透徹するような静寂の後、|泡のように住民の意識が澄んでいく《正気への復帰に成功する》。
「……私っ、ここは……」
怯えた住民の呼吸が落ち着き、瞳に光が戻る。彼が今まで幾度も見てきた光景だ。異能による補助は最小限にとどめ、最終的には自力で立たせる。
「体育館に向かってください。仲間が保護しています。落ち着いて、焦らずに」
住民は何度も礼を言いながら、彼の指示に従って走り去った。
残された空気に緊張が戻る。次の捜索へ移るべく歩みを進めようとした時、ふと視界の端に「それ」は映った。
――ポスター。
古びた掲示板に、剥がれかけのポスターが貼られていた。
「行方不明者を探しています」
見覚えがある。これまでの捜査で関わった、怪異による失踪事件の|被害者《ガイシャ》たち。だが――
写真が歪んでいた。
彼らの顔が、不自然に長く伸び、目が異様に肥大し、笑顔が引き裂かれたような凶悪な形になっている。
「……何のつもりですか」
兎比良は眉一つ動かさずに呟いた。
ポスターの写真が切り替わる。今度は別の失踪者。さらに別の者。次々に切り替わる映像は、どれも彼が知る被害者たちの、あり得ざる姿 だった。
「愚劣な悪趣味ですね」
拳銃を抜く。
|略式允許拳銃《らくいん》の銃口が、ポスターへ向けられる。
引き金を絞る――轟音と共に弾丸が紙面を貫いた。
ポスターはただ破れるのではなく、燃え上がるようにして炭化し、黒い灰へと還った。だが、消える間際に 誰かの笑い声のようなノイズ が微かに響いた。
燃え尽きるポスター。消え去る不吉な存在。
そして。世界が、開けた。
重苦しく淀んでいた空気が、徐々に澄んでいく。
「結界が……崩壊しましたか」
街の閉塞感が消え去り、ループは完全に崩壊したのだ。
だが、まだ終わりではない。
「リンドー・スミス。|貴方《クズ》の逮捕状を取り寄せておかねばなりませんね」
拳銃の弾倉を回転させ、兎比良は静かに歩みを進める。
この手で、必ず――。
第2章 冒険 『追跡』

●
ヴィトラヴォアの気配が、完全に消えた。
ループする街を覆っていた異常空間が完全に崩壊したことを確認したリンドー・スミスは微かに笑みを浮かべる。
「これは驚いた。住民を守りながら、迅速に怪奇現象を解除するか……これだけの精鋭を投入するとは、よほど私にご執心のようだ」
その賞賛は軽薄で、どこか芝居がかった響きを帯びていた。
「とはいえ——私のプラン遂行に支障はないな」
リンドーは手元のアタッシュケースに視線を落とす。内部に構築された|怪異収容特殊空間《コンパートメント》に揺蕩う、ぼんやりと鈍い光を放つ有機的な物体。
クヴァリフの仔……それは脈打つ心臓のように微細な波動を発していた。
アタッシュケースを閉じてロックし、丁寧にトランクへ納め、自らも後部座席へ。
「目的地は変更だ。奴らの動きに合わせて、対応する」
投げかけられた言葉の先。リムジンの運転席に座る男は、人間でありながら、もはや人間とは言い難い状態に変貌していた。
首筋と背中がぱっくりと割れ、そこから這い出た異形がダッシュボードやハンドルを覆い、更にギアボックスと融合。粘膜を帯びたその器官がぎくしゃくと動き、まるでリムジンそのものが一体の怪異生命体であるかのよう。
運転手は何も答えない。ただ、命令への快諾を示すかのように、エンジンが唸りを上げる。怪異の神経が機械と完全に同期し、タイヤが回転を始めた――。
同時刻。
『逃走するリンドー・スミスを捕えてほしい』
星読みの少女からの新たな情報が、ウイルスやレギオンを通じて拡散されていく。
『カミガリの協力で、怪異が組み込まれた追跡用車両を用意できた』
それは、通常の車両ではなく、異常存在を追うために特化されたものだ。
『舞台は建設中で進入禁止となっている、無人の高速道路』
リンドーの逃走を許せば、汎神解剖機関はクヴァリフの仔を失ってしまう。√能力者たちは機敏に動き出していた。
==============================
※二章では二種類の展開を用意しております。
A:追跡用車両でリンドーを追い詰める
→こちらはカーチェイス風の展開となります。『怪異が組み込まれた追跡用車両』を使うもよし、自慢の愛車を持ち込むもよし。マシンは余程の問題がない限り、プレイングに書いた通りの物が用意されます。
B:何か別の手段で追跡する(ご自由に想像して下さい)
→こちらは皆様が用いた手段 vs それに対抗してリンドーが繰り出す怪異のバトル展開となります。
お好きな展開をどうぞ!
==============================
●「1'42.315 - Speed, Fire, Chaos | Hadoma K.」
車酔いと爆発、どちらがマシかと問われれば……どちらも嫌に決まっている。
「う、ぷ……吐きそう」
追跡用車両の助手席に座る驕傲宮・はどま(傲慢のくびき・h05776)は、顔をしかめながらダッシュボードを軽く叩いた。内部に組み込まれた怪異が不気味な唸りを上げ、エンジンの回転数が僅かに変動する。まるで、彼女の指示を待っているようだ。
「まあ、仕事だからね。やるしかないわ」
目の前を滑るように疾走する黒塗りのリムジン。後部座席の窓は黒く、内部の様子はほとんど見えない。やるべきことはシンプル──横づけして、強引に妨害する。そして、派手に爆破する。
「いくわよ!」
内部に怪異が組み込まれた車両は、彼女の指示に応じて異様なまでに機敏に動いた。一気にリムジンへと肉薄し、ドアが擦れ合うほどの距離で幅寄せを仕掛ける。タイヤが鳴り、金属同士が不快な音を立てる。
リムジン側も当然、振り切ろうとする。運転手──いや、ハンドルとギアボックスを吞み込んだ怪異の肉体が蠢き、車体を強引に制御しようとする。だが、はどまは引かない。
「もっと詰めなさいッ」
叫ぶと同時に、車体がさらに傾き、リムジンの側面へと押しつける。反動でガラスが軋む音が響き、リムジンの後部座席の窓から──
ちらり、と。
リンドー・スミスの顔が覗いた。その表情は、苦々しさに満ちていた。
「……ざまぁ見なさいよ。精々、優雅に逃げるのを楽しんでいたんでしょうけど」
はどまはダッシュボードに手を叩きつけ、低く囁く。
「怪異腹腹時計、16個。ばら撒け」
瞬間、車両のボンネットの隙間、そして排気口から黒い時計の形をした物体が転がり出る。
路面を跳ねるように弾み、まるで意思を持つかのように散開し、カチリと時を刻み──瞬間、爆発。
爆風と共に、見えない何かがリムジンに絡みつく。爆発が与えるのは単なる物理的破壊ではない。
空間に広がるのは、精神を焼き爛す見えない炎。疑念。狂気。嘘。暴走。
リムジンの様子が僅かの間狂った。敵意にタイヤが揺れ、車両に体当たり。逃げに徹さず速度が落ちる。はどまの狙いはドンピシャだ。
……ただし、彼女自身の乗る車両も爆風に煽られバランスを崩している。
「げ、やば──」
次の瞬間、追跡車両はスピンし、制御を失った。はどまはシートベルトに身体を強く締め付けられる。
ガゴンッ!!
車体が路肩に激突し、エンジンが停止。
しばらくして、ドアが軋みながら開く。
ふらつきながら降りてきたはどまは、路上に片膝をつき、胃の中のものを盛大に吐き出した。
「おえええええ……もう、最悪……」
それでも、リムジンの動きを鈍らせたことに間違いはない。
はどまの後を継ぐように、異様な気配を纏ったスポーツカーが猛スピードで躍り出た。
テールランプの赤光が鋭い軌跡を描く。
「……次、頼んだわよ……」
苦笑しながら、はどまは遠ざかる光を見送った。
●
リンドー・スミスは静かに紙箱を開けた。
高級チョコレートの詰め合わせのような箱の中に、淡く青白く光る臓器が整然と並んでいる。まるで美しい宝石のように。
彼はそのうちのひとつを摘まみ上げた。奇妙に柔らかく、脈動するそれを、運転席に融合した怪異の口へと放る。
怪異は喉を震わせ、咀嚼する。粘性のある液体が滴る音。
次の瞬間――リムジンの傷ついた車体が何かの歯のように噛み合い、再構築されていく。
ねじれたドアは無音で元の形へと戻り、罅割れたガラスは逆再生のように細かな破片が空中で集まり、完璧な滑らかさを取り戻す。焦げ跡が消え、擦れたタイヤのゴムすらも新しくなったかのようだ。
「――フム」
リンドーは残る臓器の数を数えた。あと7つ。
彼は箱をそっと閉じると、何事もなかったかのようにリムジンの背凭れに身を沈めた。
●「1'38.527 - Chasing, Impact, Precision | Nemu A.」
都市の夜景が流れ去る。道路標識の灯りが連続する残像となり、風切り音とエンジンの咆哮が耳を打つ。
飛鳥井・合歓(災厄の継承者・h00415)は冷静にセンターパネルに指を滑らせ、錬金術の要領で車体改造を施す。ボディの流線が滑らかに変形し、吸気口が拡張され、より高出力のエンジンへ。
ステアリングを握り、ペダルを踏み込めば、トルクが跳ね上がる振動が爪先に伝わる。彼女は静かにギアを上げた。
前方、リンドー・スミスのリムジンが猛スピードで逃走している。だが、No.1954は着実に距離を詰めていた。
「もう少しよ……」
合歓は静かに呟くと、ハンドル操作に集中を絞る。気流を捉え、一気にリムジンの背後へ滑り込んだ。
強烈な衝撃とともにリムジンのリアへ追突。鈍い金属音が響き、車体が大きく揺れる。
リムジンはすかさずカウンターを入れ、車体を持ち直すが、その余裕を奪うため合歓は更に圧をかける。再びアクセルを踏み込み、押し続ける。
「――|No.1998《ジョン・タイター》」
アクセルから足を離さず、合歓は意識を深層に投げた。幾重にも施された拘束が解かれ、"聖櫃" がその蓋を重々しく開く。
「|出獄を許可する《・・・・・・・》」
車内に淡い光が満ちる。虚空に手を伸ばした合歓の指先に触れるのは、存在しないはずの何か。空間の理が歪み、現れたるは偽予言者。
『終着点は、ここに定められた』
不気味な宣告の声と同時、合歓の手に銃が顕現する。その瞬間、彼女は照準を合わせ引き金を引いた。
凄まじい衝撃が車内に響く。発射された弾丸がリムジンの運転席を貫いた。
リムジンを操る怪異が悲鳴を上げる間もなく、爆散。肉片が四散し、だらしなく開いた異形の口だけが残っている。
運転手を失ったリムジンは大きく蛇行したが、その瞬間――リンドーが後部座席から身を乗り出し、的確にハンドルを掴む。
「ほう……大胆な追撃だな」
彼は余裕の笑みを浮かべつつ、合歓の方をちらりと見やった。
「止まりなさい。止まれば貴方の身の安全は保障するわ」
「ご親切にどうも。しかし、私の身の安全は私自身で保証することにしているんでね」
合歓の淡々とした勧告に、しかしリンドーは笑ってそう返す。
――ドン!
リンドーへと向けて弾丸を放つ合歓。
それは、一度ではない。二度、三度、いや、それ以上。回避も防御も不可能なその弾丸は――
リンドーが持ち上げていた黒い鞄に阻まれた。
カバンに開いた弾倉から黒い血が流れ、怪異の断末魔のような響きが漏れる。
異常事態にいち早く気付いたのは合歓だった。
「……カバンの中で、怪異が死んだ?」
現時点では未だリンドーは屠れない。彼女は即座に次の標的を定めた。
狙うべきはリムジンのタイヤ。
破裂音が響き、弾丸が右後輪を撃ち抜く。リムジンの車体が傾き、スピンしかける。それでもリンドーは落ち着きを失わず、ギリギリのバランスで車体を立て直した。
「しぶといわね……」
合歓は静かに吐息をつく。No.1954の車体が軋み、焦げた金属の匂いが車内に充満する。限界を迎えた箇所が次々と自己改造により強引な修復を試みてはいるが、追いついていない。
速度は徐々に、しかし確実に落ちていた。
「……もう無理はしないで」
ダッシュボードにそっと手を置く。振動は弱まり、エンジンの回転音が荒く不安定になっている。
「私の走行区間はここまで。あとは、次の仲間に任せるわ」
合歓は労るように囁き、静かにブレーキを踏み込んだ。
●
リンドー・スミスは僅かに肩を竦めると、後部座席の傍らに置かれた黒い箱を開いた。整然と並べられた 「薄青く光る怪異の臓器」。
彼はそのうちのひとつを摘み上げ、残骸と化した運転手――いや、もはや異形の口だけとなった怪異のもとへ無造作に放る。
「やれやれ、二人とも|Mad Racer《スピード狂》には縁遠いようなお嬢さん達だと思ったのだがね……どうして中々、侮れない相手だ」
怪異はだらりとした舌を伸ばし、臓器を絡め取るように咀嚼する。次の瞬間、びくんと痙攣しながら、残されていた口の断片が異様に蠢き始めた。
肉の繊維が伸び、血管のようなラインが迸る。ちぎれた部分が繋ぎ合わされ、内臓がリムジンの機構と同調しながら修復されていく。
ボディが不気味な音を立てながら歪み、削れた部分が自己補完される。エンジンが再び鼓動を取り戻し、車体のバランスが回復していく。
だが、その乗り心地には微かな変化が生じていた。微細な振動、加速のわずかな遅れ、ハンドリングの感覚が以前と比べて "ほんの僅かに粗雑" になっている。
リンドーは鼻を鳴らし、不満げに独り言ちた。
「ふむ……修復機能はあるが、やはり"完全"とはいかないか」
箱の中の臓器は、残り6つ。
●「1'38.350 - Hack, Drift, Impact | Hisame K. & Hinata T.」
「俺はハッキングに集中する。そこで……だ」
一旦言葉を切る。直後に口走った言葉を、鏡見・氷雨(愛を掴んだ暗殺者・h00561)は後悔するだろう。
「日向、運転はお前に任せる」
「え、……任せろ!」
聞き捨てならない一瞬の間。それを自ら打ち消すように高天原・日向(得意技は|鉄拳制裁《プラズマナッコォ》・h04661)は笑いつつ、自信満々に言い切った。
「車の運転くらいできらぁ!」
今なんて? と氷雨の問いが届く前にアクセルが踏み込まれる。エンジンが咆哮し、装甲車が衝撃と共に跳ねた。瞬時に加速。アスファルトが軋む。トンネルの光が流れ、視界が歪む。
氷雨が|裏の伝手で《苦労して》用意してもらった、|運び屋《ポーター》特製の車両。リミッター解除済み。だが、そのポテンシャルをフルに活かす相手が、日向であるとは考慮していなかった。
後部座席では、氷雨は端末を操作し続けている。ハッキングを仕掛け、リムジンの走行データとトンネルの制御システムを掌握しようと試みる――が。
「おい……!」
端末を睨む氷雨。装甲車の車体が大きく揺れ、氷雨の指先が一瞬ブレる。
「もう少し静かに運転しろ」
「はぁ? 俺の運転にケチつけるのか? 任せたって言ったろ!」
「違う、振動が……くそ、コードミスだ」
液晶に映るコードが一瞬崩れ、警告音が短く鳴る。舌打ち。氷雨は即座に修正を試みる。
しかし、日向は容赦なくギアを叩き込み、蛇行しつつさらに加速。
「日向、無駄に揺らすな!」
「いやいや、蛇行と急加速はカーチェイスのお約束!」
「それを今すぐやめろと言っている……!」
カーブに差し掛かる。日向は一切ブレーキを踏まず、強引にサイドブレーキを引く。装甲車が傾ぎ、重力がねじれる。タイヤが悲鳴を上げ、焦げた臭いが車内に充満した。
「ッ、もういい。調整する!」
氷雨は端末を膝で固定し、振動に合わせて指のリズムを修正する。乱れた呼吸を制し、ブレる視界の中で最適な入力を叩き続ける。極限の集中。雑音を遮断し、コードを流し込む。
「揺れがある方がスリルあって楽しいだろ?」
「俺の仕事の邪魔だ、黙れ」
瞬間、画面にトンネルの制御システムが映し出される。氷雨は微かに息を吐いた。
「……接続完了。システムを掌握する」
「お、やっとか!」
日向は楽しそうに笑う。氷雨はそれを無視し、端末を睨みつけた。
「念のため言っておくが、俺がヤツの走行を妨害する。お前は運転に集中しろ」
「OK!」
「……くれぐれもリムジンに特攻するなよ?」
「OK!!」
日向の軽快な返事が重なる毎に、氷雨の表情は曇って行く。
「……嫌な予感がするんだが」
不安を振り払うように氷雨は指をスライドさせ、端末に信号を送る。
装甲車の天井からドローンが解き放たれた。鋭い機械の羽音を響かせ、火力を搭載した無機質の眼がトンネル内を駆け抜ける。
リムジンが視界に入る。後部座席の窓が開き、黒く冷たい金属の光が覗く。|.50口径の最強と名高いハンドガン《S&W M500》。
「随分と高価な花火じゃないか。私のところの会計担当に見習わせたい程だ」
リンドーは静かに呟くと、そのトリガーを引いた。
轟音と閃光。撃ち抜かれるドローン。火花が散り、無機の影が墜落していく。
「くそっ、やるな……だが」
氷雨は端末にコードを打ち込み、トンネルのシステムを掌握する。
「|蓄電体《コンデンサ》、強制フルチャージ。……ブレイク」
直後、天井のジェットファンが閃光を放ち、鋭い破裂音と共に爆ぜた。
支えを失った巨塊がわずかに傾ぎ――轟音と共に落ちる。
「チッ……!」
リンドーは素早く身を引き、リムジンが急加速。ギリギリのタイミングでジェットファンの落下を掻い潜る。背後で金属音と爆発音が響いた。
しかし、氷雨の手は止まらない。
「まだだ……消火システム作動」
天井から降り注ぐ豪雨のような水。トンネル内が白く霞み、その中から青白いレーザーが閃いた。
──リムジンのタイヤが弾ける。
「今だ! |日向、やるぞ《横付けしろ》!」
「待ってました《特攻了解》!!」
日向は猛然とアクセルを踏み込み、装甲車が火を吹く勢いで突撃した。
装甲車のフロントがリムジンのリアに直撃し、タイヤが悲鳴を上げる。
「運び屋《ポーター》が怒る? 知るかんなもん!!!」
「日向、貴様――ッッ!!!」
日向の吠えるような叫びが、氷雨の怨嗟のような呻きが、トンネル内に響く。
だが、リンドーは溜息一つ。運転席の怪異に手を置き――
「……咆えろ」
短い命令。その瞬間、身を震わせた怪異に同期するかの如く、リムジン全体が脈打つように震えた。
次の瞬間、爆発的な衝撃波が発生。空気が一瞬にして張り詰め、まるで爆風に飲み込まれたかのような衝撃がトンネルを駆け巡る。
「なっ……!?」
装甲車の車体が悲鳴を上げるように軋み、十数メートル後方へ押し戻される。日向は咄嗟にハンドルを握りしめ踏ん張るが、タイヤは無慈悲にアスファルトに引きずられ、路面が焦げるような摩擦音を響かせた。
「くそっ、押し戻された……!」
「チッ……あれは、怪異の隠し玉か……!」
日向が歯を食いしばりながらアクセルを踏み込む。しかし――。
ガガ……ギギギ……ッ!!
エンジンルームの奥深くから異様な金属音。瞬間、警告音が鳴り響く。
ダッシュボードには「エンジン異常検出」「出力低下」の赤い警告が点滅し、マフラーから黒煙が噴き上がる。
「エンジンブローするぞ。もう無理だ、離脱する」
氷雨は苛立ちを押し殺し、怪異の挙動を解析。次の一手に繋ぐべく、即座に√能力者たちへ共有した。
遠ざかるリムジンの後姿を見ながら、日向はハンドルを思い切り殴りつける。
「クッソ……! もうちょいだったのに、見失う!!」
だが、その時だった。
トンネルの後方、暗闇の中から "疾駆する何か" が影のように現れる。
「……追いついたか」
メタリックな機械化鎧。無言でリムジンを追跡していくその影に、氷雨と日向は視線を向ける。
「……時間稼ぎとしては、上出来だった訳だ」
「後は任せるぜ、お仲間さん!」
トンネルの奥へ消えていく黒い影を見送りながら、二人は息を吐いた。
「ところで氷雨。最寄りのレッカー会社は?」
「――。カグツチ・コンシェルジュ。通称『カグ・コン』……だそうだ」
●「1'42.915 - Breakthrough, Blaze, Termination | Akane H.」
トンネルの奥。揺らめく光の中、機神・鴉鉄(|全身義体の独立傭兵《ロストレイヴン》・h04477)の駆る|戦闘拡張機械化鎧《W.E.G.A》が疾走していた。
重力慣性制御力場が展開され、黒き影は地面すれすれを滑走する。通常の車両では成し得ぬ速度。機体は滑るように敵影に急接近した。
『目標の走行速度を解析……速度優位を確認。貴方の追跡能力は、敵を凌駕しています』 |総体支援人工知能《オールマインド》の静かな声が通信に響く。
応答は不要。鴉鉄は冷徹に状況を把握し、トンネルの構造、敵車両の挙動、攻撃の予測範囲を瞬時に処理する。
「射撃開始」
|長砲身機関銃《アサルトライフル》が咆哮。銃火が爆ぜ、リムジンの後部に鋭い弾痕を刻む。だが、怪異と融合した車両は生物めいた挙動で滑るように弾道を避ける。
『敵機の構造を解析中……通常の装甲ではなく、異常生命体としての再生機能を保持している可能性が高いです』 オールマインドが即座に補足する。
リムジンが加速。鴉鉄を撒こうとする。しかし、それを許すつもりはない。
「|暗黒の森の番犬《ケルベロス》、展開」
|重力慣性制御力場《G.I.C.フォース・フィールド》がフルドライブ。身体が軽くなる。推進機関の出力が上がり、リムジンを完全に捉え、機動戦闘が可能な範囲へと踏み込む。
『敵の攻撃パターンを予測……接触攻撃の可能性が高いです。回避推奨』
次の瞬間、リムジンから黒き触腕が解き放たれた。異形の捕縛器官が一斉に鴉鉄へと襲いかかる。空間を裂く、猛毒の罠。
即座にブースターを噴かし、空中へと跳躍。触腕が地面を裂き、アスファルトが爆ぜる。
「|長砲身機関銃《アサルトライフル》、連続射撃」
一斉掃射。触腕をなぎ払い、リムジンの車体へ再び弾丸を叩き込む。
リンドーの姿が後部座席の奥に見えた。彼は冷静に薄く笑みを浮かべ、何かを呟く。
その瞬間――リムジンが鼓動した。
生き物のように全体が脈打ち、爆発的な衝撃波が発生する。
『高エネルギー反応を検知――!』
立体機動推進機関を最大稼働し、空間を切り裂くように回避滑空する。――僅かに間に合わない!
衝撃波が襲う。装甲が軋み、機体が大きく弾き飛ばされる。鴉鉄は制御を失わず、推進機関を緊急噴射して姿勢を立て直した。
「……攻撃継続」
敵はしぶとい。しかし、敗北の選択肢はない。
『最適戦術を提案、接近戦への移行を推奨します。貫通力を活かして敵機の中心機構を破壊してください』
助言を受け、鴉鉄は決断した。
「|炸裂加速式杭打機《パイルバンカー》へ換装」
右腕に装備された杭打機が駆動を開始。炸薬が装填され、貫通攻撃の準備が整う。
「突撃」
|暗黒の森の番犬《ケルベロス》が牙を剥く。リムジンへ向かい、一直線に突貫する。敵も迎え撃つよう触腕を展開。ならば結構、上回る超速で包囲を抜けるだけの事――!
加速、加速、超加速。空を裂く速度を以て、|炸裂加速式杭打機《パイルバンカー》が解き放たれる。
――直撃。
金属の悲鳴。杭がリムジンの装甲を貫き、爆発。内部の組織が焼かれ、リムジンが異常な蠢きを見せながら速度を落とす。
敵の動きが鈍る。その隙に。
「……次の追撃者に引き継ぐ」
鴉鉄は滑走しながら後方へと退く。
リムジンはなおも再生を続ける。しかし、確実に動きを制限した。トンネルの合流地点が目前に迫る。
『戦闘完了。貴方の攻撃は、次の戦闘へと繋がります』 オールマインドが静かに告げる。
「……任務完了」
鴉鉄はただ、それだけを呟いた。
●「2'29.444 - One Shot, Two Seconds, One Trophy | Haruyuki H.」
高揚感が背筋を駆け抜ける。北條・春幸(人間(√汎神解剖機関)の怪異解剖士・h01096)はシートに深く腰を沈め、目の前の光景を堪能していた。
「すごいな怪異! 車にも組み込めるんだね!」
リンドー・スミスの乗るリムジン――いや、もはやそれは生きた怪異そのものだ。脈打つ金属の外殻、再生するタイヤ、車体を包む触手。映画さながらの光景に、春幸の目は輝いていた。
だが、のんびり眺めている暇はない。リムジンは前回の戦闘で大打撃を受け、速度は落ちているとはいえ、徐々に回復しつつある。早めに手を打たなければ、振り切られる可能性もあるだろう。
「怪異君、リンドー氏の後を追ってくれ」
この追跡用車両もまた、異形の存在と融合していた。春幸の指示に反応し、エンジン音が一段と唸りを増す。
「それと、音楽鳴らせるならそれっぽいの頼むよ。ハリウッドみたいなやつ!」
スピーカーから流れ出したのは、重厚なオーケストラとドラムのビート。カーチェイスシーンを飾るにふさわしいBGMだ。
「いいねえ、まさに映画みたいだ!」
笑みを浮かべながら、春幸は車窓から身を乗り出す。そして手に持つのは、彼の愛用するシリンジシューター。
次の瞬間、トリガーを引く。
飛び出したのは麻痺薬を込めた注射弾――狙うはリムジンのタイヤ。
鋭い音を立て、シリンジがゴムを貫く。だが――
「……おや?」
確かに命中した。麻痺薬も注入されたはずだ。にもかかわらず、タイヤはまるで生き物のように蠢き、切り離されたかと思うと、すぐに新たなタイヤが現れる。
「再生能力付きの車か……面白いなあ」
普通なら絶望する状況だろう。しかし、春幸の声色にはどこまでも愉快さが滲んでいる。
「なら、次は……体当たりしてみようか!」
ダッシュボードに意図を伝えると、車体が傾きながらリムジンの側面へと迫る。
金属と金属がぶつかり合う轟音。
壁際に押しつけながら、春幸は再びシリンジシューターを構え、運転席を狙う。
「ねえ、リンドー氏。そろそろ停まってくれると助かるんだけど」
その言葉が届く間もなく、リムジンが異様な動きを見せた。突如として触手が車体から伸び、春幸の車を強引に押し返す。
「おっと、抵抗するか。いいねえ!」
カーチェイスは続く。だが、そろそろ決め手が必要だ。春幸は眼鏡をクイと持ち上げ、目を細める。
√能力が効くか、試す価値はある。彼は深く息を吸い込み――
「だるまさんがころんだ!」
その瞬間、視界内のすべてが静止する。
リムジンも、触手も、そして怪異と化した運転手も。
時間にしてわずか二秒。
それでも、高速走行中に突如停止するというのがどれほどの負荷を生むかは言うまでもない。慣性の力が働き、車内のリンドーたちは無防備なまま衝撃を受けることになる。
同時に春幸は、車をリムジンの前へと回り込ませ、進路を遮る。
逃がさない。そう思った矢先――
「……え?」
次の瞬間、リムジンの触手が爆発的な勢いで跳ね上がり、春幸の車を弾き飛ばす。
リムジンは再び速度を取り戻し、視界の先へと消えようとしていた。
然し、ここで終わりではない。
遠ざかるリムジン、その後ろから疾駆する2シーターのスポーツカーが追いかけていく。
そのスポーツカーに並走するのは――人間の姿をした何か。
運転席に身体を預ける春幸はなおも微笑み、ゆっくりと自分の手を確認する。
「これは僕の戦利品って事で」
何時の間にか彼はリムジンの触手を一本、切断して握りしめていたのだった。
●
リンドー・スミスは、不機嫌だった。
首筋を押さえ、僅かに顔を歪める。ダークスーツの内側に潜む怪異の力が慣性の衝撃を和らげたとはいえ、ムチウチの鈍痛は消えない。神経を焼くような痛みに、舌打ちが零れる。
「……時間が狂ったな」
彼は紙箱から取り出した青く脈打つ臓器を、運転席の怪異の口に無造作に突っ込んだ。怪異は喉奥でぐちゃりとそれを咀嚼し、車体全体が脈動するように震え、回復していく。
装甲車の妨害が余計だった。
そのせいで、あの異形の機械鎧――高エネルギー機動兵器が、エンジン部へパイルバンカーを叩き込む隙を与えた。怪異の修復能力が働いたとはいえ、完全にダメージを抑えられたわけではない。その影響でバランスが崩れ、ムチウチを喰らったのだ。
リンドーは肩を回し、不機嫌なまま低く息を吐く。
「……まあいい。そろそろ逃走経路も折り返し――無事に振り切れる」
車内の暗がりに、僅かに笑みが浮かぶ。
紙箱の臓器は、残り5つ。
●「1'03.498 - Leap, Cut, Silence | Yosuke T. & Hinano S.」
トンネル内の空気は熱を孕み、コンクリートの壁面を打つエンジンの咆哮が金属の獣の唸りのように反響している。排気ガスと焦げたゴムの匂いが満ち、視界を流れるオレンジ色のライトが、激しい戦いの舞台を照らしていた。
月代・陽介(不変バケラー・h03146)は、高速道路を疾駆するスポーツカーの屋根の上で膝を曲げ、風を受けながら目を細めた。
「随分と派手な車だな……で、助手席の君は同業者って事でOK?」
助手席に乗る少女――杉崎・ひなの(しがない鍛冶師・h00171)が、僅かに首を傾げる。
「あなたも、√能力者?」
「そうそう、お仲間。通りすがりの連携パートナーってことで、とりあえずよろしく」
陽介は軽く手を振り、すぐに前方へ視線を戻した。リムジンが黒い影となって走る。通常の車両ならばこの速度での追跡は難しい。しかし、彼らの車もまた怪異の力を宿し、リムジンを追うべく高速を駆け抜けていた。
「行くよ……」
ひなのの瞳が一瞬だけ鋭く光る。次の瞬間、虚空が波打った。青白い炎が燐光のように揺らめきながら膨張し、十本の刀剣が具現化する。怪異で強化された装甲すら貫く、稀代の名刀でさえも青褪めるかの如き鋭利さを以て、超速でリムジンに襲いかかった。
ガガガガガッ!! 刃が金属の車体に突き立ち、乾いた衝撃音と共に装甲が裂ける。続くガッ、ガッ、ガッ! と甲高い音が、リムジンの車体に叩きつけられた刀剣の共鳴を響かせる。
「いいねいいね、派手にやるじゃん」
陽介の視線が次の足場を瞬時に計算する。工事車両のルーフに一瞬だけ足を乗せ、弾かれたように跳ぶ。空中で膝を折り、体をひねり、遮音壁を蹴って加速――まるで風そのもののように、三次元軌道を描いてリムジンに迫る。彼の視線がリムジンの前輪を捉えた。
「ちょいと一瞬止まってもらおうか……」
その瞬間、リムジンの金属ボディが脈打つように膨れた。まるで生き物の鼓動。直後――ボディから無数の触手が噴き出す。鋭利な刃のような先端が陽介を狙い、一閃。
「ッ……反撃が早ぇな!」
陽介は即座に跳び、触手を踏み台にしてさらに高く舞い上がる。
ならばと触手はボディに突き立つ刀剣を引抜き、邪魔な陽介を仕留めんと鋭く投擲!
「おっと悪いな、使わせてもらうぜ!」
陽介は宙返りしながら飛来する刀剣の一本を足場にし、別の一本を手に掴む。残る刀剣が矢のように迫るが、陽介はそれすらも利用するように軽やかに蹴り飛ばし、体勢を崩さずに次々薙ぎ払って叩き落とす!
「……これで、どう!?」
更にひなのの声に応じて現れた新たに二本の刀剣が、出番を待っていたとばかりにリムジンの後輪を次々と切り刻む。タイヤが破裂し、スパークが飛び散る。
ほぼ同時、陽介は宙返りしながらリムジンの前輪を指先で狙う。
天地が逆さになった視界。重なる|指先《照準》と|前輪《標的》。
「――避けられるか? なーんちゃって!!」
ぱんっ! 空間を裂くような破裂音が発せられる。その瞬間、陽介の視線の先でタイヤが震え、回転が止まった。電流のような麻痺が広がり、リムジンの挙動が狂う。重心が崩れた車体が大きく横滑りし、火花が散る。
「決まったか……?」
だが、直後。リムジンの車体が再び蠢いた。低く唸るような怪異の咆哮が、トンネル全体に轟く。
「くっ……!」
「っとぉ……これはなかなか!!」
ひなのが身を低くし、陽介は体勢を立て直す間もなく吹き飛ばされる。刃傷だらけのリムジンは、ボロボロになりながらもなおトンネルの出口に向け走って行く。
陽介は苦笑しながら、地面に膝をつく。
「やれやれ、タフな奴だな……でも、追撃の手は緩めねぇぜ」
ひなのは静かに頷き、傍らに停車したスポーツカーに乗り込んだ。
「……追うわよ」
ひなのが呟くと、スポーツカーが咆哮を上げた。陽介はそれに応じるように車の屋根へと飛び乗る。
風が彼の頬を叩きつける。彼は手を翳しながら、不敵に笑った。
「さあて、次はどんな手でくる?」
追跡の幕が再び上がる――。
●
リンドー・スミスは、煙草の煙を燻らせながら舌打ちした。
リムジンの計器が狂い、異形の心臓が不規則に脈打つ。的確に急所を撃ち抜かれ、タイヤの制御はまだ回復せず、装甲には焼けた刃痕が刻まれている。
黒い紙箱を開くのも、これで何度目か。「薄青く光る怪異の臓器」を、運転席目掛けて放る。
「……忌々しい」
追跡者が、異常な軌道で迫ってきた。疾駆する影と舞う剣閃——リンドーはその様子を思い出す。苦々しい表情を打ち消し、敢えて笑みを浮かべて見せる。
「フ、楽しませてくれるな」
紙箱の臓器は、残り4つ。
●「2'04.532 - Glacial, Wings of Frost | Reina Y.」
トンネルを抜けた直後、矢神・霊菜のバイクが闇を裂いて飛び出す。視界の先、リンドー・スミスのリムジンが夜の高速道路を疾走していた。
エンジンが脈打つ。通常の6気筒エンジンに加え、異形の心肺が組み込まれたこのバイクは、まるで生き物だ。シリンダーが規則正しく燃焼する合間に、怪異の肺が膨らみ、圧縮空気を送り込む。スロットルを開くと「ズゥゥ……ドゥン!」と不気味な吸気音が響き、爆発的なトルクが炸裂した。
霊菜は瞬時に、氷翼漣璃を上空に飛ばした。一方は視界共有によりリムジンの正確な軌道を捉え、もう片方はナビゲーターとして主を先導する。
「リムジン、加速中。さて、ここからが本番ね」
霊菜の唇が薄く笑う。カーブが迫る。霊菜はバイクを地面スレスレまで倒す。並のバイクなら既に転倒している程のバンク角。耳のすぐ近くをアスファルトの川が猛スピードで流れ去る。タイヤと路面の摩擦音が悲鳴のように響き、駆動系の異形の腱がギチギチと蠕動しながら、バイクにさらなる推進力を与えた。
視力を持つライトが猫の瞳孔めいて絞られ、最適な走行ラインを導き出す。僅かに先行して動くハンドル。張り巡らされた怪異の神経が、霊菜の操作をサポートする。スリップギリギリの軌道を攻め――加速を維持したままカーブを抜ける!
リムジンも異形の脚で地面を這うように動き、不可解な軌道を描いて速度を落とさぬまま疾駆する。
「なかなかやるじゃない」
霊菜は加速力を活かし、リムジンの側面に並ぼうとする。しかし、その瞬間。
リムジンのボディが蠢いた。
黒い触手が爆発的に伸び、霊菜を捉えようと襲いかかる。と、氷翼漣璃の片割れが触手を弾き飛ばし、強制的に|引き付ける《タゲを取る》。
軌道を変えて迫り来る触手を、凄まじい空戦機動で回避。空を裂く触手に、鋭く旋回し、氷の羽が閃く。
触手の一部が瞬時に凍結した。
瞬間、根元が「バチン!」と弾け飛び、凍結部分を自ら切り離す。千切れた触手が地面に落ちると、黒い液体が弾け、新たな触手が再生された。
「化け物め……なら、これはどう?」
霊菜は腕を振り上げた。
「|雪風《かぜ》が満ち、白氷覆う。敵絶える|凍界《せかい》には何もなく――」
氷翼漣璃が輝き、巨大な氷の鷹がリムジンを襲う。冷気が旋風のように巻き起こり、リムジンのボディを白く染めていく。
凍結が駆動系にも届こうかと言う刹那、リムジンが脈打ったように感じる。
霊菜の第六感が危険を告げた。直後、怪異の咆哮が炸裂。圧縮された音波が空間を揺るがし、アスファルトが粉砕される。
「ッ……!」
霊菜は瞬時に進行方向を探す。同調し、サーチするように動く単眼の光が、ガードレール近くに置かれた金属塊を浮かび上がらせる。
利用するしかない。
バイクを浮かせ、障害物を踏み台にして大ジャンプ!
宙を舞い、回転しながらギリギリで着地。しかし、衝撃が想像以上に大きかった。
「バチン!」
駆動系の異形の腱が軽く痙攣する。霊菜はすぐにハンドルを握り直し、感覚を確かめた。怪異の肺が「ゴボォ……ッ」と不気味に呻く。
走行は可能。だが、万全ではない。加速力がやや鈍り、反応速度も若干低下している。
霊菜は表情を一瞬曇らせるも、氷翼漣璃が無事であることを確認。
「まだ終わらせないわ」
バイクが呻くような排気音を響かせる。霊菜はスロットルを開く。空を行く氷翼漣璃を追って、決戦の地へ。
夜の高速道路に、獣の咆哮のようなエンジン音がこだました。
●
紙箱に並んだ臓器を指先で弄び、リンドーは短く溜息を付いた。咀嚼音が響く。怪異の口が喉奥で臓器を砕き、養分を取り込むたび、リムジンの回復が進んでいく。
だが、外装の一部には未だ霜が張り付き、張り付くような冷気が残っていた。タイヤの動作も僅かに鈍く、完全な走行制御には至らない。
「奇妙なものだな」
リンドーは、未だ冷え切った指先を眺める。長く経験してきたはずの逃走戦で、久しく味わっていなかった感覚—— "寒さ" と、"焦燥" 。
追撃は今も続いている。だが、次の一手は既に考えてある。残る臓器の数を数えながら、リンドー・スミスは口元を覆い、考え込むような仕草を見せた。
――紙箱の臓器は、残り3つ。
●「1'09.872 - Soaring Pulse, Code:Chase | Hibari U.」
夜の高速道路を駆け抜ける黒い影。風が裂けるようなスピードで、怪異と融合したリムジンが疾走していた。
その背後、カミガリが用意した特別仕様の追跡車が猛追する。後部座席に座るのは、薄羽・ヒバリ(alauda・h00458)。
「ありがたーくこの車、借りちゃいます!」
軽快な声と共に、ヒバリの指はKey:AIRを叩き続けていた。
指示は単純――追撃。
「レギオン、起動! |CODE:Chase《コード・チェイス》、行ってらっしゃい!」
ヒバリの号令と共に、車両の窓から23体の|小型無人兵器《レギオン》が解き放たれる。
内、10体の目標はただひとつ――リンドー・スミスのリムジン。
無人機群が追尾モードへと移行し、暗闇の中に青い光の軌跡を描いた。
「……ターゲット捕捉、追尾ミサイル、セットアップ!」
10本の追尾ミサイルが一斉に発射され、複雑な軌道を描いてリムジンへ向かっていく。
狙いは完璧だった――はずなのに。
瞬間、リムジンの車体が異様な変形を見せた。まるで“肉”がうごめくかのようにボディが変質し、ミサイルの直撃を避けるように歪む。
爆発の光が虚しく夜を照らし、リムジンは速度を落とすことなく突き進んだ。
「えぇー、やっぱ怪異ってばズルじゃん?」
不満げに唇を尖らせつつも、ヒバリの目は次の手を探る。
13体のレギオンのカメラ映像が、高速道路の先に橋があることを捉えた。怪異リムジンがこのまま逃げ続けるなら、ここで進路を塞げるはず。
「オッケー、狙いはあの橋! レギオン、レーザー照射、GO!」
レギオンが集結。束ねられたレーザー砲が青白い光を放ち、橋の支柱を焼き切る。コンクリートが崩れ、轟音と共に橋の一部が崩落を始めた。
ヒバリは満足そうに指を鳴らす。
「よーしっ、ミッションコンプリート! ……んー、チェックメイトの方がそれっぽい?」
だが、次の瞬間、リムジンの車体が脈打つように鼓動した。
不気味にうねり、まるで生物のように《呼吸》する。車体の両側から、極大の触手が二本、勢いよく飛び出した。
「はぁっ!? なんで!? いや、反則じゃん!」
触手はアスファルトを叩き、強烈な振動を巻き起こしながら、その身をポールのように扱う。
そして――
リムジンはまるで跳躍する生物のように、橋の向こうへ飛び越えた。
「マジで、洒落になってなくない……?」
ヒバリは唖然としながら、思わず運転席の怪異に視線を向ける。
トレンチコートを纏ったソレは機械のようでいて、確かに“生きた何か”の意志がそこにある。
怪異の手がゆっくりと動いた。
のそり、と指を折り曲げ、無言でサムズアップを作る。
|――《任せておけ》。
「……わ、分かりましたぁ! 飛んじゃってくださぁぁい!」
ヒバリの|悲鳴のような《ヤケっぱちの》声が夜の高速道路に響く。
その直後、追跡車は突然の急加速を見せた。
エンジンが悲鳴を上げ、焼けるような熱を発しながら、崩落した橋へ向かって突進する。
ヒバリは目をぎゅっと瞑り――。
瞬間、車両は宙を舞った。空間を裂くように、重力を無視するかのごとく。
着地の衝撃で車体が軋み、エンジンから黒煙が上がる。
速度は落ちたが、まだ動ける。
バクバクと鼓動する心臓を落ち着かせようと、ヒバリは息を整える。
「も、もうマジでやだ……! けど、まだ追える……!」
視界の先、リンドー・スミスのリムジンは依然として逃走を続けていた。
ヒバリは深呼吸し、再びKey:AIRに指を走らせる。
「……さて、次の一手、いっちゃいますか?」
●
「……予想外だったな」
崩落した橋を飛び越えたのは自分たちだけのはずだった。
だが、背後で爆ぜるようなエンジン音が、それを否定する。
バックミラー越しに映るのは、ボロボロになりながらもなお追跡を続ける影。
怪異の跳躍に食らいつく――まるで、歪みを超えたかのような追跡者。
リンドーは小さく舌打ちし、怪異の車体を軽く叩く。
「このままでは埒が明かん。加速しろ」
怪異の車が再び鼓動し、さらなる速度を引き出す。
背後の影を振り切るために。
しかし――
次の瞬間、リンドーは小さく呟いた。
「――面白い」
すぐに潰れるかと思ったが、違った。
これは想定外の変数。ならば、試す価値がある。
彼は懐から、新たな“餌”を取り出し、怪異の口に放り込んだ。
紙箱の中身は、あと2つ。
●「1'08.666 - Shots, Phantom Apex | Michika I.」
夜の高速道路、暗闇を裂くようにエンジンが唸る。
一百野・盈智花(|真理の断片《フラグメント》・h02213)のバイクはまるで獣のように路面を駆ける。通常機とは根本から異なる存在――そのエンジンには「怪異の心臓」が据え付けられ、脈打つ鼓動が金属フレームに響いていた。回転数が上がるにつれ、心臓の鼓動も激しくなり、ドクドクと地鳴りのような音が夜の闇へと広がる。
「|人様の国《ヨソサマ》で好き勝手してんじゃねーよ、|連邦怪異収容局《FBPC》!」
逃走するリムジンは、怪異と融合した異形の車両。こちらも通常のエンジン音ではなく、うねる脈動と共に滑るように路面を疾走する。ホイールが生き物の脚のように蠢き、路面を掴みながら加速していた。
「ハ、逃げ足が速いねぇ。でも、こっちの足も普通じゃねぇのよ」
盈智花はハンドルを強く握る。「怪異の筋肉」を加工した特製ホイールは、路面に応じて形状を変え、最適なグリップを得る。今は吸着するように舗装路に張り付き、リムジンへと鋭い軌跡を描いていく。
前方に急こう配の坂道が見えてきた。リムジンはそのまま傾斜を駆け上がり、速度を緩めることなく走り続ける。
「ったく、流石手練れのエージェント……逃げ方をよく知ってやがる。けど、」
盈智花はスロットルを思い切り吹かした。怪異の心臓が応えるように脈打ち、エンジンを繋ぐ血管めいたチューブが脈動。排気管、いや、怪異の喉管が裂けるように開き、猛獣の咆哮のような轟音を響かせる。ハンドルを握る盈智花の手に、バイクの意思が伝わってくるかのよう。
「こっちはもっとイカれた足回りしてんだわ!」
怪異の腱で構成されたサスペンションが収縮し、身を縮める猛獣めいて "溜め" を作り。そして次の瞬間、爆発的な跳躍力を発揮し、坂の上に向かって一気に加速した。
「さーて、スミスさんよォ。覚悟はできてるか?」
盈智花の体内で怪異が蠢く。|怪異拘束制御術式解放《リリース・プロトコル》。
彼女の腕から伸びる影が二丁の長銃へと形を変えた。貫通力を誇る長銃の怪異――|魔弾の射手《ザミエル》。
「まずは足止めだ」
放たれる弾丸。轟音と共にリムジンの左リアタイヤが弾けた。
黒煙を噴き上げ、車体がバランスを崩す。しかし、それでも完全には止まらない。
「クソしぶてぇな、やっぱ怪異と融合してるってワケか」
ならば、直接乗り込むまで。
盈智花はバイクのサスペンションを蹴り込む。怪異の腱が収縮し、彼女の体を前方へと弾き飛ばす勢いでリムジンへ接近させた。
「『かみのて』、やれ!」
腕から這い出す"手だけの怪異"。『かみのて』がリムジンのドアに伸びる。ギィッ、と金属が悲鳴を上げ、ベリリ、と紙のように引き剥がされていく。
「日本観光のお土産だぜ、冥土に持ってけ」
盈智花は、二丁に増やしたザミエルを構える。その瞬間――
「ほう、これは手荒い歓迎だ」
ドアの向こう側、闇の中で静かに笑う男がいた。
リンドー・スミス。両手には大口径ハンドガン。
「では、こちらからも米国土産だ。受け取りたまえ」
引き金が引かれる。
盈智花もまた、ザミエルの引き金を同時に引いた。
銃声が響く。
お互いの弾丸が紙一重でかすめる。
「チッ、やるじゃねぇか」
盈智花はすぐさまハンドルを切り、バイクと共に距離を取る。リムジンもまた、そのまま加速しながら前方へと逃げる。
両者、再び並走。
「次が決戦の地ってワケだな……いいぜ、最後まで付き合ってやる!」
バイクのエンジンが、再び猛獣のように咆哮する。
●「2'29.110 - ShadowClaw, Chase and Police | With Z. & Tobira S.」
《ザザ――ザッ》
「第四十二課より捜査三課。こちら瀬条、対象車両追跡中。現在位置、北緯35.1792度、東経138.7685度、建設中の高速道路トンネル内。対象、黒のリムジン。ナンバー未確認。速度300、東京方面へ向け逃走中」
「追跡継続。トンネル内上り車線、怪異車両複数台クラッシュ。全乗員負傷無し。現在位置、北緯35.1789度、東経138.7702度。至急、回収車両と人員を要請」
《――ザザッ》
夜の高速道路、暗闇を切り裂くようにエンジンが咆哮を上げる。
リンドー・スミスが乗るリムジンは、異形のエンジン音を響かせながら猛スピードで逃走していた。そのタイヤはただのゴム製ではなく、脈動する筋肉めいた怪異の組成。
工事中の区画が顕著になり、ガードレールが消え、路肩の先は奈落の闇へと落ちている。怪異車両が、その道を滑るように疾走する。
その遥か後方。瀬条・兎比良(|善き歩行者《ベナンダンティ》・h01749)のバイクが、道路上を矢のように突き進む。
彼の視線の先、トンネル内で停車する怪異車両。その乗員が無事であることを確認しながらも、彼は一切の減速をしなかった。警察無線を片手で操作しながら、冷静に応援を要請する。
「救助の手配完了。では、追跡を継続します」
オービスの光が視界をかすめる。兎比良はちらと睨むように視線を流し、呟いた。
「|――証拠はどこに在るのか《道路交通法第41条。最高速度適用緩和》。」
その言葉と同時に、オービスは沈黙。√能力『四十と一の切断』が発動し、バイクの駆動が跳ね上がる。次の瞬間、音速の如き加速が彼を前方へと叩き込んだ。
「……法に則った追跡ですので、速度違反では有りませんよ」
僅かに気まずさを覚えながらも、ハンドルをしっかりと握り直す。バイクの重心を整え、彼は視線を先へと向けた。
一方、ウィズ・ザー(闇蜥蜴・h01379)は闇と共に駆けていた。
彼の魔導バイクはただの機械ではなく、生きた影のように変幻自在。黒煙を撒き散らすようにして走りながら、前方を走るリムジンのテールランプを追跡。
追手の存在を予測していたのか。リムジンの異形のホイールが地面を刻み、抉り、悪路を作り出してウィズの進路を妨害する。
「無駄無駄ァ、足場の悪さは|魔導二輪《俺》の得手!」
魔導バイクが――否、|彼自身が《・・・・》加速を活かして大きく跳躍!
|星脈精霊術【梟刃】《ポゼス・アトラス》。√能力を利用し一気に距離を詰め、闇顎の射程へと捉える!
大きく開いた影の大顎は、しかしリムジンを捕えられない。
突如、ウィズの身体を連続した衝撃が襲う。
リムジンから溢れ出した怪異の腕が複数本、振り抜きざまに強かにウィズを打ち据えたのだ。
「今回の回収対象に君は入っていない。お呼びじゃないのだよ、|Gecko《トカゲくん》?」
霧散した闇を振り払う、強靭な怪異の腕。
壊れかけのリヤドアを押さえつつ、リンドーが皮肉気に笑う。
(イイ気になってるのも泡沫の間ダァな)
リンドーの声を受け、さも愉快そうに|風がほくそ笑む《・・・・・・・》。
意識は道路の遥か先へ。街灯と街灯の間、影の沼が最も深まる所に集中する。
(Show Time ってェヤツだ)
路面に拡がる影は、その時確かに|波紋を描いた《・・・・・・》
間髪入れず、甲高いエンジン音が鳴り響く。
|略式来援用途二輪《らくらい》。特例大型自動二輪に施された特殊術式が風を裂き、速度に見合わぬグリップ力を以てリムジンを追い上げる。
「前方のリムジン、こちらは|警視庁異能捜査官《カミガリ》です。直ちに停止せよ」
「繰り返す。前方の黒の怪異リムジン、速度を落とし路肩に寄れ」
まあ無駄だと思いますが――職務規定ですので。
あからさまに態度でそう示しつつ、兎比良は拡声器のスイッチを切る。
怪異に攻撃を仕向けつつ、車内のリンドーは吹き出すのをこらえるように口元を手で覆った。
「申し訳ないが、私は貴官の管轄外にいる身だ。それとも、日本の捜査官は "国際法" を超越する権限でもお持ちかね?」
――リンドーの返答が、|二人の《・・・》攻撃の合図となる。
略式允許拳銃を抜き、窓ガラスを狙う兎比良。一点へ集中する正確無比な射撃。銃弾が硝子を砕き、リンドーも応戦しようと.50口径ハンドガンに手をかけ――
「よォ…迎えに来たぜ?Puppy」
その隙を見逃すことなく、リムジンのルーフにその姿を現すウィズ。
天井を裂く刻爪刃がリムジンの内部を暴露し、直後の一瞬でリンドーから何かを奪い取る。
――黒縄。闇蜥蜴の身体の一部が、|避役《カメレオン》の舌の如く紙箱を捕らえていた。
「旨そうなオヤツ、食らわせて貰うぜェ♪」
薄青く光る怪異の臓器二つをバクリと捕食し、ウィズは舌なめずりして見せる。
「躾の成ってない蜥蜴が――「運転手不在で前方不注意、チェックメイトって奴だァな」」
リンドーの台詞を遮り嗤うウィズ。
見れば、運転席の怪異が居た場所には肉片が飛び散り、中央には深々と斧が突き刺さっている。
「一閃の内に四十回……ええ、童謡の通りです」
冷徹な言葉を残し、兎比良はガードレールのない路肩へバイクを滑らせる。
此処に至ってリンドーは漸く前方に迫る脅威に気が付いた。
闇が突き出している。
闇が突き出している。
闇が突き出している。
闇が突き出している。
闇が闇が闇が闇が――否、闇蜥蜴の刻爪刃がずらりと並び、リムジンに切っ先を向けている。
道路の路肩に僅かな隙間を残し、|星脈精霊術【薄暮】《ポゼス・アトラス》により執拗に敷き詰められた剣山の如く。
一列では足らぬとばかり、二列、三列……刻爪刃の総数、実に五〇〇〇オーバー!!
ウィズはルーフから飛び退り、兎比良は砂利が崩れる路肩をギリギリで走り抜ける。
そして――リムジンは減速も出来ぬまま罠へと突っ込んだ。
鋼鉄の悲鳴が響く。タイヤが引き裂かれ、装甲が軋み、車体が炎を上げた。
夜空を赤く染める爆発。
「やるじゃねェの」
「そちらこそ」
火の手が上がるその先へ、二人の影が歩を進める。
リンドー・スミスの姿はまだ確認できない。
だが、確かにそこに、まだ"戦い"の気配があった。
第3章 ボス戦 『連邦怪異収容局員『リンドー・スミス』』

●
直前までリムジンとデッドヒートを繰り広げていた者。はたまた、応援車両で此処に辿り着いた者。
√能力者達が、炎上するリムジンを睨む。
夜闇を照らす炎のゆらめき。その赤い光の中で、無傷のコートを翻しながら男が歩を進める。焦げたアスファルトに靴底を叩きつけるたび、硬質な音が響く。まるで舞台に立つ役者の登場を知らせるかのように。
「君たちの実力を、私は少しばかり見縊っていたようだ」
リンドー・スミスは微笑しながら、砕け散ったフロントガラスの小さな破片を拾い上げる。それを指先で弄び。
「見直したよ。そうだな……このくらい、だがね」
氷粒めいた小片は、その手から落とされた。アスファルトに触れたと同時、彼の靴底に踏み砕かれる。
称賛のオブラートで包んだ皮肉が、空気を一層緊迫させた。
彼が携えているのは黒いアタッシュケース。「クヴァリフの仔」――|新物質《ニューパワー》の可能性を宿す、その存在を収めた|怪異収容特殊空間《コンパートメント》。
リンドーは僅かに息を吐き、肩をすくめながらそれを地面に置く。すると、彼のコートの内側から黒々とした影が溢れ出した。波打つ闇は瞬く間にアタッシュケースを飲み込み、再びその深淵へと引きずり込む。
「さて、見直したが……|連邦怪異収容局《我々》に楯突く|愚か者《サル共》であることには変わりない。少し躾けをしてやろう」
リンドーの声色は、まるで教師が生徒に諭すような冷ややかさを含んでいた。だが、次の瞬間、彼のコートの内側から、異形の口が幾つも覗いた。巨大な顎、牙の並ぶ咢。深淵から浮かび上がるその姿は、ヒトガタを維持するモノを嘲笑うかのよう。
――咆哮。
それは一つではなかった。無数の口が開き、夜闇を揺るがす。
異形の声が、開戦の合図を告げる。
==============================
【ミッションアップデート】
◆作戦目標:
⇒連邦怪異収容局員『リンドー・スミス』の撃破。
撃破と同時に『クヴァリフの仔』奪還も同時達成となる。
◆現場詳細:
⇒山中の高速道路上。建設中のため、一般人に被害が及ぶ可能性は無い。
また、周囲に多数のインビジブルを確認。
敵性インビジブルも漂っており、激戦が予想される。
工事車両等の残置物有り。キミが有ると言えば、"ソレ" は有る。
◆プレイング受付開始
⇒本断章公開と同時
●
《あら? この効果は想定外だったわ》
《ええ、間違いなくこれは私のせいね》
《でもループ結界で使ってから時間が経っているから……恐らく、じき消えるわ》
《……。そうね、|思考での会話《ウイルス同士の情報共有》なんて一瞬ですもの》
●
炎上するリムジンを背に、リンドー・スミスは悠然と佇んでいた。彼の黒いコートの内側から、異形の蠢きが見え隠れする。闇の中に無数の目が光り、ねじれた牙の影が微かに動く。その全てが、獲物を前にした捕食者の空気を放っていた。
「あら、まだデート終わりのバイバイするには早いと思うけど」
口元を拭いながらふらりと……否、よろりと現れる、青い顔をした驕傲宮・はどま(傲慢のくびき・h05776)。
「デートの締めには、もっと派手な演出が必要よね?」
「――フ。中々ユーモアに富んだ冗談だ。私は君と逢瀬を楽しむ程、」
台詞が終わらない内に、はどまは何かをリンドー目掛け蹴り飛ばす。時限爆弾・腹腹時計、設定された起爆時間はカンマ以下05秒。刹那に爆炎が拡がり、リンドーを跡形もなく四散させる――筈だった。
「特異な趣味は持っていないのだがね」
重く響く低い声は真上から聞こえた。足元の陰に潜ませた怪異共を足場にリンドーは跳躍、爆発寸前に上空へと回避したのだ。加速を乗せた脚撃が はどまを打つ――その瞬間。
「怪異腹腹時計、17個。起爆」
はどまの呟きと同時、再度轟音を伴い|七度《・・》の閃光が一つに重なる大爆発!
想定外の心中爆発、紙一重で直撃を避け即座に距離を取るリンドー。その視線はスーツの裾に焦げ跡を認め。
「ふむ、悪くない。私の仕立て屋が見たら泣くかもしれないがね」
しかし眉ひとつ動かさず裾を払い、悠然と立ち上がる。
「それとも、これは新しいファッションの提案かね? もう少しマシなセンスがあると期待していたが」
リンドーの視線の先、ブン、と音立てて心中の爆炎が散り、はどまが姿を現す。
爆発の衝撃は "世界の歪み" を以てすべて受け流し。しかし怪異脚の蹴撃により内蔵損傷。それでも彼女は敢えて涼しい顔をして見せる。
「残念、お気に召さなかったみたいね。爆風でヨレたのが気になるなら……」
前方に手を掲げる はどま。
「|プレス仕上げでもして差し上げましょうか?《√能力、結界展開――無限の平面》」
リンドーの精神が揺さぶられる。そんな能力が有るか否か、理屈でなく本能的な悪寒に飛び退り。
そして、
―― カツン ――
|石突がアスファルトを叩く《不自然なまでに響く》硬質な音。その|瞬間《スキ》を待ち侘びていた声が降る。
「|No.1758《クラブロ》――」
インバネスコートの裾がふわりと浮く。黒いヴェールの内、その唇より告げられるは忌みじき名。
「出獄を許可する」
戦場の空気が低く唸った。黒い翅音が一斉に響き渡り、殺人蜂と仇名される毒蜂の群れが、リンドーをぐるりと包囲する。
威厳を含んだ声の主は、猛毒蜂の群れを率いる飛鳥井・合歓(災厄の継承者・h00415)。
「掛かれ」
翅持つ尖兵達が無軌道旋回、彼女の短い号令の下、一斉に突撃を開始。
|Tsk!《チッ》と舌打ち一つ、リンドーはコートの裾を軽く弾く。コートの内より繰り出される|巨大な棍棒めいた右腕《武装化攻性怪異》が、爆発的な加速を以て並居る毒蜂を粉砕していく。
「なかなか手荒な歓迎だね、オモテナシの心はどうしたというのだ?」
彼はゆっくりと足を進める。その顔には余裕の微笑。しかし、合歓は構わず口を開く。
「投降しなさい。貴方が|聡い人間で《サルよりは賢いの》であれば、の話だけれど」
凛と響く冷徹な声。その裏で合歓は、視認できぬ毒霧が風に流されぬよう念動力で抑え込み、さらに濃度を高めながらリンドーの周囲を覆うように纏め上げる。
「お断りだな、|Lady《お嬢さん》。これは交渉では無い、と言い含めた筈だが」
リンドーは目を細め、次の一手を見極める。……だが、その慎重さが仇となった。
「ええ、これは交渉ではなく警告。聞き分けが無いのなら……」
|No.713《ステッキ》より複数の大蛇の霊体が奔り、リンドーを捕縛。尾をしならせ、そのポケットからオイルライターを弾き出す。
「――頂くわ、そのライター」
ソレを返せと言わんばかり、リンドーの影から海蛇めいた怪異が飛び出し、その鋭い牙が合歓の肩を抉る。
腕に走る激痛。構わず歯を食いしばり、手に納めた|真鍮《ライター》を点火。彼女は即座に毒霧に投げ込む。
――轟ッッッッ!!!!
高い引火性と揮発性を持つ毒霧に火を放ればどうなるか。|蒸気雲爆発《サーモバリック》めいた豪焔と衝撃が吹き荒れ、高速道路のアスファルトが剥がれて宙を舞う!
リンドーが成す術なく瓦礫と炎に呑み込まれる――爆炎が叩きつけられる寸前、コートの中から巨大な腕が飛び出した。異形の腕が蠢き、ねじれ、リンドーを庇うように覆い尽くす。――怪異の焼ける、鼻を突く臭いが立ちこめた。
「やっぱりそうくるのね」
合歓は片手でステッキを握りしめる。
「参ったね、|要塞と称された怪異《ボディー・ガード》をこうも簡単に爆殺されては。エレガントではないが、中々面白い戦い方をする」
炎の中から姿を現すリンドー。そのコートの内側からは、超高温の爆炎で炭化し、猛毒で枯れ果てた異形の腕が崩れ落ちていく。
多少は毒を吸ったか。顔色こそ多少冴えないが、リンドーは依然として冷静な笑みを崩さない。
「では、こちらも踊ろうか。」
その声と同時に、彼の足元から無数の怪異の腕が飛び出し、異形の巨大な爪が虚空を裂く。はどまと合歓が即座に跳躍し身を躱すも、怪異の腕は次々と再生しながら襲い掛かる。
リンドーは怪異の群れを踏み台に跳躍。空中に躍る影。昆虫、爬虫類、猛獣、人間、その混合か、或いはそれに属さぬ異形共。リンドーの周囲に狂乱する怪異が渦を巻き、二人を狙って猛然と落下する。大気が裂け、振動が響く。生きた災厄が、地を覆い尽くさんとする。
==== Tactical Briefing: Situation Update ====
リンドー・スミス
合歓の蜂毒により、判断能力に陰りが発生。
はどまの怪異腹腹時計により、深層心理に『疑心暗鬼』を刻まれた。
はどま&合歓により、防御の要となる怪異「|Bracchia Nocturne《ブラキア・ノクチュルヌ》《闇夜の腕》」を焼失。
驕傲宮・はどま
内臓損傷。命に別条はないが戦闘継続は危険。
飛鳥井・合歓
肩口に海蛇による陥創。複合毒により|本人の《・・・》戦闘継続は不能。
●
「おっしゃー! やーっとボス敵のお出ましか! もうボコしていいよな?」
「奴の手元にドーナツが無い。怪異の餌付けにでも使ったのか……」(なでこなでこ)
「って、橙弥お前来てたんか? おーよしよし、危ないからなー、お前はあっちで大人しく――」
●
――それは無音の殺刃だった。
音速を超える|線《0.1ミリ》が縦横無尽に空を薙ぐ。
リンドーは空中で咄嗟に身体を反らすも、切断された髪が数本夜の闇に舞う。
「ほう……?」
目を眇めるリンドー。
地上で口を真一文字に引き結び、睨みつける赤い瞳の少年と視線が交錯。
そして、周囲の状況を把握したリンドーの笑みが一瞬消える。刹那――
左膝より足先。腹腔部分横隔膜。左右両触覚。右前足第一関節。下顎より左眼窩まで。尾部より後ろ両脚付け根まで。及び上顎部分と牙一揃い。その他諸々、判別不能。リンドーの周囲に渦巻く怪異全てが、悉く解体され地に墜ちた。
少年が降らせる怪異の雨の中、鏡見・氷雨(愛を掴んだ暗殺者・h00561)は はどまと合歓のもとへ走る。
「後は引き継ぐ。一旦後方へ」
彼の声に頷き、僅かに離れた重機の影に一時的に退く二人。
氷雨は戦場に向き直り、
「ARウェアラブルデバイス、リモートコネクト」
義体化された両目の内、片目にハッキング端末の画面を映し出す。
と同時に、レイン砲台の設置に動き出す氷雨。そう、今回の彼は――
(やる事が……やる事が、多い……!!)
「うおぉぉぉ危ねえな! 攻撃する相手はあいつ!!」
一方、赤い瞳の少年の背後では、無惨にも剃り込みを入れられてしまった高天原・日向(得意技は|鉄拳制裁《プラズマナッコォ》・h04661)が涙目で怒鳴る。
「散々撫で回して怒らせた方が悪い。多少手元が狂うのも多めに見てよ――ね!!」
赤い瞳の少年――霧鎖・橙弥が、日向の抗議の声に答えつつ腕を振るう。闇夜にリムジンの炎を受け、リンドーに向かう一閃に鋭く光が走った。
|高炭素鋼ワイヤー《ピアノ線》。そう看破したリンドーは地上の闇から怪異の触腕を伸ばし、無理矢理その身を地面に引き戻す。
「鋼糸とはな。随分とマイナーな武器を使う少年だ」
「口動かす暇ある? オジサン」
橙弥の鋼線が唸りを上げ、夜闇の中で蜘蛛の巣のように張り巡らされた。その鋼の糸がリンドーを|覆う《切刻む》ように襲いかかる。
「無論だとも。その動き、"読めない" と思ったかね」
リンドーは頭を振りつつ、コートを開いた。次の瞬間その影が歪み、中から巨大な異形の手斧が現れ、鋼線を絡ませグン!と引く。
「ちっ……!」
舌打ちし鋼線を切り離す橙弥。その隙をリンドーは見逃さない。
怪異制御術式解放及び武装化攻性怪異。背の薄い蟲翅は四枚一対、片手は巨大蟷螂の手斧。足元の液状の闇には、更なる怪異が蠢いている。
「遊びはここまでだ、少年」
蟲翅の推力を活かし、瞬時にリンドーは無音のまま高速接近。|断頭台の刃《ギロチン》めいた手斧が今、橙弥の頸を刎ねんと振り抜かれ――
「うおおおおおおおおおおおっ!」
斧刃を掻い潜り、踏み込み一発。死角より割り込んだ日向が、大質量の異形の手斧を|左腕一本で打ち払う《・・・・・・・・・》。
「――ッ」
人の力ではビクともしない筈の怪異の手斧が逸らされた。その事象を理解する迄の僅かな思考停止。
日向は勢いそのまま身を反す。反転の勢いさえ乗せて放つ、|右手の強撃裏拳《バックハンド・スマッシュ》!!
「ぐ――ッッ」
衝撃波をも起こす程の轟音を受け、高速道路が揺れる。ダメージをいなし切れず、後方に飛び退るリンドー。その口の端には血が滲む。
「……君は何かね、我々と同じ怪異纏いか?」
「一緒にするな。俺は生身の人間だ」
痛ってー、と右手を振りつつ日向は凄む。
「機械式の義体にすら頼らずその身体能力。君が怪異でないならバケモノと呼ぼうか」
「はん、お前みたいな|外付け野郎《モヤシ》とは鍛え方が違うんだよ」
((モヤシ……だと……?))
息巻く日向に僅かに顔を顰めるリンドー。……と、氷雨。
「……残念だよ。君が怪異ならば、|新物質《ニューパワー》の可能性を見出せそうなものだが」
影が渦巻き、リンドーの蟲翅と手斧を更なる異形へと進化させる。
「さらばだ、異国のバケモノ。私のキルスコアの一つとなって貰おう」
「出来るモンならやってみろってーの!」
対する日向も殴り棺桶をブン回し、怪異殺しの臨戦態勢。その背後には鋼糸を再装填した橙弥も隙無く控えている。
両陣営見合うまでも無く激突、再び戦場の空気が|轟音《悲鳴》を上げた――。
同時刻、着々とレイン砲台を設置していく氷雨。
攻撃の余波で足場が揺れる中、寸分の狂い無く手を動かし、同時に片目には忙しなくハッキングログが流れていく。
(リンドーの纏う怪異の底が見えない状態は不利だ)
氷雨は敵の手札を全開示させるべく、FBPCの支部に置かれたサーバに乗り込もうと試みていた。
《くっそ……! |保《も》たねえ、まだかモヤシ!》
《モヤシと呼ぶな!》
サイバー・リンケージ・ワイヤーを通し、リンドーと激戦を繰り広げる日向から氷雨に檄が飛ぶ。
飛んできた檄を忌々しそうに打ち返し、レイン砲台の最後の一つを設置した瞬間。氷雨の片目に待ち侘びたログが現れた。
[|NeuraNix # Authorize : breakthrough《FBPC末端サーバ認証突破:成功》]
[|Firewall Probe . . . SUCCESS《ファイアウォール侵入...成功》]
[|DMZ:refused] -> [QuantumGhost Tunneling: ACTIVE《侵入拒絶 -> 量子虚数トンネルにて迂回》]
[|Access Level: ROOT-SUPERUSER《管理者権限: 獲得》]
[|Logs Cleanup: SHADOW-MODE《痕跡削除: 潜伏モードで実行》]
|||||| |SYSTEM CONTROL: PARTIAL《システム制御: 一部掌握》 ||||||
暗号化された標的のファイルをコピーし、即座にネットワークを通じて最適な仲間に託す。
《撤収!!》
号令を下したのと、怪我だらけの日向を抱えた橙弥が氷雨のすぐ傍に転がり込んで来たのはほぼ同時だった。
・・・
「サルにしては実に素晴らしい連携だ。……だが、それで私を仕留められると思ったかね」
未だ余裕を見せるリンドーの台詞とは裏腹に、直後、力尽きたようにコートから異形の咢が剥がれ落ちる。
「……フ、これも投資の内だ。クヴァリフの仔さえ持ち帰れば、我々の勝ちなのだから」
そう言うと、リンドーはゆっくりと後退し、次の戦闘者を迎え入れる準備を整えた。
==== Tactical Briefing: Situation Update ====
リンドー・スミス
合歓の蜂毒により、判断能力に陰りが発生。
はどまの怪異腹腹時計により、深層心理に『疑心暗鬼』を刻まれた。
日向&橙弥により、第七・第八肋骨を骨折、先端肺に刺突。戦闘継続は可能。
はどま&合歓により、防御の要となる怪異「|Bracchia Nocturne《ブラキア・ノクチュルヌ》《闇夜の腕》」を焼失。
日向の怪異殺しにより、攻撃手段の内の一つ「|Fauces Obscurae《ファウケス・オブスクラエ》《暗き喉》」を喪失。
高天原・日向
右腰部、右肩部に怪異《暗き喉》の攻撃による咬創。左膝に切創、移動に支障。
霧鎖・橙弥
全身に軽度の切創、擦過創多数。|鮮血の幻影《ブラッディ・ミラージュ》(鋼糸操術)の酷使により意識朦朧。
鏡見・氷雨
高度なハッキングを行った反動による極度の頭脳疲労、及び低血糖症状。
●
「……というわけだ。任せたぜ、お嬢ちゃん!!」
「任されました…サルに躾という物を教えてあげます」
「――クカカッ! いいぞ、ヤツに弁えさせてやれ。『手前が躾出来る立場かよ』ってな?」
●
「ヒャッハー!暴れ馬の入場だー!」
軽業師めいた軌道で工事車両を跳ぶ人影。場違いとも言える快声に、冷たい視線を投げかけるリンドー。
「|Good grief...《やれやれ》、野生動物には草々お引き取り――」
その視界の先には、|自動拳銃《Beretta modello 92》をロックオン済みの月代・陽介(不変バケラー・h03146)の姿。
細部のディティール、重量感。何より本物だけが放つ殺気の有無。リンドーは即座にモデルガンである事を看破し接近戦に持ち込む。――|はどまにより深層心理に刻まれた『疑心暗鬼』が無ければ《普段のリンドーであれば》、そうしただろう。
(……何故だ。何の予感だ、この警鐘は)
本当に偽物か――? 疑念が拭いきれないリンドーは、トランパー・オブ・モンスターズの "怪異の群れ" を足元に留まらせ、警戒しつつ距離を保ったままハンドガンを構える。
その様子を見た陽介は更に跳躍。最小動作の踏み込みと反動を殺す着地を以て更に加速、加速、加速!! 空中のインビジブルさえも足場に縦横無尽、軌道を読めぬ風の如く!!
陽介を警戒している限り、リンドー・スミスは動けない――そう確信し、12体の素体に魔力を送り続ける杉崎・ひなの(しがない鍛冶師・h00171)。
彼女は現在、高速道路上に放置された重機の影に身を潜めていた。√能力:アルティメットダンスは強力無比である反面、前提となるチャージ時間がネックとなる。
注ぎ込まれる魔力に従い、茫と薄青く灯る魔力の光が輝きを強めていく。
……あと36秒。内心で焦りを押し殺しつつ、彼女は魔力チャージに専念する。
ガウン!! ガウン!!
銃声が吼える。リンドーの射撃の腕を以てしても陽介は捉えられず、銃弾は無駄玉に終わる。
――6秒。
しかし。風のように翔け回り、適宜狙いを定める陽介に対し、動けぬとは言えリンドーは絶えず警戒するのみ。
――4秒。
韋駄天脚を以てしても、消耗する体力だけは如何ともしがたい。
――3、
徐々に速度が落ち始め、風が人の姿を取り戻し始め。
――2、
リンドーが脚に力を籠める――範囲攻撃の予兆。
――1!!
「後は任せたぜ、お嬢ちゃん!!」
|彼の構えたモデルガン《シンジツニアラズ》は、確かに| "ぱんっ!" と火《響く幻弾》を噴いた。
「絶好の機会ね!」
破裂音を聞くや否や、重機の影から飛び出しリンドーの至近距離に突っ込むひなの。少女の背を守るように付き従うのは刀剣。その全てには膨大な魔力が宿り、刀身には煌々と蒼い光が灯る。
「怪異もろとも……ッ」
陽介が用意した60秒、彼女が己の魔力で鍛えに鍛えた怪異殺しの神剣相当。
「――斬ってくれよう!」
正面6本、迂回し死角より更に6本が揃い踏み、リンドー目掛けて放たれた!!
リンドーは眼を見開く。怪異のコートは開けない。否、
(指の一本すら動かない――だと?)
既に展開済みの怪異ですら微動だに出来ない。|響く幻弾《シンジツニアラズ》によるマヒの拘束、その効果は陽介の視界に納められていた怪異にも及ぶ!
「獲ッ、た――!!」
ひなのが叫ぶと同時。リンドーの足元の闇が蠢き、弾けるように新たな怪異が飛び出す!
全方向を視る無数の「眼」、|Tenebris Oculi《テネブリス・オクリー》《闇の瞳》。
毒を司り敵を無力化する「海蛇」、|Serpens Aeternus《セルペンス・アエテルヌス》《永劫の蛇》。
リンドーの秘蔵クラスの怪異が続けざまに二体。怪異殺しに太刀割かれ、耳障りな断末魔を残して崩れ去る。
「嬢ちゃん、後ろ!!」
陽介の絶叫、ひなのが反射的に飛び退る! 直後、怪異で膨れ上がった剛腕が振り下ろされ、ひなのの居た場所を陥没させた。
そこに居たのはリンドー・スミスめいた影の塊。
「――上出来だ。|Malum Tenebrarum《マルム・テネブラルム》《闇の果実》……いや、ドッペルゲンガーといった方が分かり易いかね」
未だ陽介の術中で動けないリンドーが、苦々しく言葉を吐く。
見れば、その身体には袈裟懸けに刀傷が入り、ボタボタと黒い液体を足元に流している。
「たった一撃放てば消えてしまう怪異でね。最後のサプライズに取っておくつもりだったが……」
ドッペルゲンガー・リンドーは足元に怪異の群れを沸立たせ、空高く跳躍!
「実に惜しい、君達は "あと一手" が足りなかった」
二人目掛けて怪異の群れの急降下が始まる、その直前。
「ぉーおー、そンなら "あと一手" を足してやろうじゃねェの! っても――」
闇夜に赤い|三日月《クチ》が浮く。
「"一手程度" じゃ済まねェかもしれないがなァ!」
闇が嗤う。ひなのと陽介が|闇蜥蜴に匿われ《ストックされ》、リンドーを残して攻撃着弾地点より離脱。
「|星脈精霊術【薄暮】《ポゼス・アトラス》――全ては泡沫の刻だぜ」
二人に代わり、闇より湧き出るのはヒトガタ。大量の|刻爪刃《コクソウジン》を備えた蹂躙の権化たる|闇顎《アンガク》、十体が立ち上がる。
次の瞬間、着弾し吹き荒れるトランパー・オブ・モンスターズ。
圧倒的物量で十体の闇顎を飲み込む怪異の群れ。直後、その只中で刻爪刃が無数に閃いた。
刻む刻む、|刻、刻、刻刻刻刻刻刻《ザッザッザザザザザザ》ッ!!
弾き刻み捕え喰らう事、瞬時のうちに二十度を上回り、忽ちの内に怪異の群れは全て彼――ウィズ・ザー(闇蜥蜴・h01379)の腹の中へと墜ちる。
「兄弟、お前らは躾られちゃったクチかァ? ……って、腹ン中じゃ返事のしようがねェか」
圧倒的な格の違いを見せつける、喰らい合いの勝者。
「――でェ?」
泥沼めいた影の中から、|闇蜥蜴《ウィズ》がぬらりと現れる。
「次は何を喰わせてくれんだァ? 旨けりゃァ尻尾くらいは振ってやるぜ」
「はは……痛いな」
刻爪刃の嵐に巻き込まれ、ズタズタになった腕をリンドーは躊躇いもなく自切。
「成程、能力の解釈の拡げ方……ソレはこう使うのかね?」
宙に放られた腕が膨れ上がり、爆発した。11の欠片が姿を変え、"自律型" 武装化攻性怪異となって着地、控えの√能力者達に向けて疾走!
それを許せば|何もかもが崩される《・・・・・・・・・》。ウィズと闇顎達は影を伝って高速移動、自律型怪異を食い止めんと激しくぶつかり合う!
「頼むぜェ……コイツ等は俺が完食しとくからよォ!」
接近する仲間の気配を感じつつ、ウィズは自律型怪異を突き崩し、その体へと咢を開く――。
==== Tactical Briefing: Situation Update ====
リンドー・スミス
合歓の蜂毒により、判断能力に陰りが発生。
はどまの怪異腹腹時計により、深層心理に『疑心暗鬼』を刻まれた。
日向&橙弥により、第七・第八肋骨を骨折、先端肺に刺突。戦闘継続は可能。
ウィズの顕現させた闇顎の群れにより、片腕を喪失。
はどま&合歓により、防御の要となる怪異「|Bracchia Nocturne《ブラキア・ノクチュルヌ》《闇夜の腕》」を焼失。
日向の怪異殺しにより、攻撃手段の内の一つ「|Fauces Obscurae《ファウケス・オブスクラエ》《暗き喉》」を喪失。
陽介&ひなのにより、「|Tenebris Oculi《テネブリス・オクリー》《闇の瞳》」を斬り刻まれる。
陽介&ひなのにより、「|Serpens Aeternus《セルペンス・アエテルヌス》《永劫の蛇》」を斬り刻まれる。
窮地を打開する為、「|Malum Tenebrarum《マルム・テネブラルム》《闇の果実》」を自ら消費(消滅)。
月代・陽介
|響く幻弾《シンジツニアラズ》の反動により要休息、戦線復帰は困難。
杉崎・ひなの
魔力を消耗してはいるものの、戦線への即応は可能。
ウィズ・ザー
闇顎と共に"自律型" 武装化攻性怪異と激戦中。
●
「してやられた癖に躾だなんてよく言えるわ。ね、そう思わない?」
「ホントですよ、そもそもイケてる私が厨二おぢのお小言なんて聞くワケないですし」
「ふふ。なら、お肌のゴールデンタイムが終わる前に――」
「はい!レギオン、さっさと全部終わらせるよ!」
●
静寂を切り裂く刹那の閃光。氷の羽根が疾り、獲物へと真っ直ぐに迫る。だが――リンドーは微かな音と気配の乱れだけで狙いを悟り、首筋に浅い傷を負いつつも紙一重で回避する。片腕を喪失し、胴には袈裟斬りの深い傷。だが、それでもなお彼の眼は研ぎ澄まされている。
.50口径ハンドガンをホルスターから抜き、流れるように照準を矢神・霊菜(氷華・h00124)に合わせるまで0.2秒。引き金に掛けた指が動く直前、
「レギオン、Go!」
ピンポイント狙撃、青いレーザー光がリンドーの手からハンドガンを吹き飛ばす!
「女子に対して顔面狙うとか、デリカシー無さすぎでしょ?」
風に揺れる髪の間に見えるのは、美しい風切羽。薄羽・ヒバリ(alauda・h00458)は高台から|氷翼漣璃《氷翼の鷹》の足を掴み、猛スピードで滑空してくる。
「しつこいな、君たちは」
嘆息するリンドーから上がるのは、うんざりと言った声。だが、そこに揺るぎない殺気があった。
「あら、余裕そうにしてるけどその実随分苛立っているのではなくて?」
霊菜の「竜漿魔眼」が映すのは、ただ一瞬の隙。― ずくり ― 合歓の蜂毒がリンドーの神経を蝕む刹那。
「――そこ!」
霊菜は手首をスナップさせ、氷の短剣を最速の挙動で投擲。
リンドーの纏う「武装化攻性怪異」が咆哮し、氷の短剣を弾く――だがそれは囮に過ぎない!
次の瞬間、霊菜の足元から凍気が溢れる。濃密な冷気が空気を凍らせ、温度を急激に奪い去る。リンドーの足元で、泥沼めいた怪異の闇が道路ごと硬く凍り付いた。
「ふむ、悪くない判断だ」
例え僅かな時間でも、足元からの怪異の援護が途絶える――その事実がリンドーの余裕を削ぎ落す。
殆ど同時、ヒバリは靴底の隠し刃を立て着地、加速その儘にスケーターめいてリンドーに肉薄!
「厨二おぢこそ、しつこく生き残り過ぎ、で、しょ!!」
|瞬時の回転連続蹴り《トリプルアクセル&ダブルルッツ》、|ハイブランド・パンプス《Kick-Ass》の刃が幾重にも|弧《ループ》を描く。一歩踏み込むリンドー、隻腕を怪異の牙に変えて隠し刃を弾く、弾く、弾く!
彼の迎撃はそれだけではない。怪異の白い牙に黒点が滲み、次の瞬間黒い触手が幾本もヒバリを貫かんと伸びる。
ヒバリが瞬時に両手を突きだせば、|Def:CLEAR《エネルギーバリア》が展開され、触手が行く手を塞ぐ。高エネルギーの光が脈動し、黒い触手がバリアに衝突する度に鈍い衝撃音が響く。
「ほんとどれだけ詰め込んでんのよ、コートの中サファリパークな訳ぇ?!」
軋むように押し込まれる防壁の感覚にヒバリは舌を打つ。そのヒバリの背後から、影のように跳躍する人影――霊菜!
息の合ったコンビネーションから繰り出される奇襲。氷のレイピアと化した「融成流転」を、霊菜は容赦なく突き出す!
リンドーは不完全な怪異の拳で迎撃。氷と拳がぶつかり合い、周囲の空気が振動した。
更に霊菜は瞬間的に身体を僅かに捻り、攻撃の力を受け流すかの如くフェイントを織り交ぜる。
「っ――!」
攻撃が一瞬流れる。その隙を見逃さず、霊菜の刃が鋭い閃光となって脇腹へ滑り込む。
突き刺さる瞬間、霊菜の刃が冷気を纏い、一瞬で凍結を拡げる。怪異の肉体を通じて、凍結の波紋が内部へと侵食する。
「いい腕だ。"凡庸" ではあるがね」
苦笑するリンドー。
だが、彼の体はまだ倒れない。
― パキリ ―
リンドーの足元の闇。凍結した表面に罅が入り、砕けた。
瞬時にリンドーの背後に展開される怪異。その中には幾つもの縦長の瞳孔が光る。
「――あれは、猫?」
「さて、どうかね……」
霊菜の呟きに、静かに返すリンドー。
九対の瞳孔の内、3対が血走りながら消える。するとどうだ、リンドーの刀傷が、欠損した腕が、凍結した部位が。
徐々に怪異の身体に取って代わっていくでは無いか――!
「不死身とかマジでイケてない。ちょーしつこいし、ほんとお肌の治安に悪い!」
「ダかラ最初に言ったのダよ、テを引けとね――」
==== Tactical Briefing: Situation Update ====
リンドー・スミス
合歓の蜂毒により、判断能力に陰りが発生。
はどまの怪異腹腹時計により、深層心理に『疑心暗鬼』を刻まれた。
日向&橙弥により、第七・第八肋骨を骨折、先端肺に刺突。戦闘継続は可能。
ウィズの顕現させた闇顎の群れにより、片腕を喪失。
霊菜の融成流転の刺突により、内蔵の一部に凍傷を負う。
はどま&合歓により、防御の要となる怪異「|Bracchia Nocturne《ブラキア・ノクチュルヌ》《闇夜の腕》」を焼失。
日向の怪異殺しにより、攻撃手段の内の一つ「|Fauces Obscurae《ファウケス・オブスクラエ》《暗き喉》」を喪失。
陽介&ひなのにより、「|Tenebris Oculi《テネブリス・オクリー》《闇の瞳》」を斬り刻まれる。
陽介&ひなのにより、「|Serpens Aeternus《セルペンス・アエテルヌス》《永劫の蛇》」を斬り刻まれる。
窮地を打開する為、「|Malum Tenebrarum《マルム・テネブラルム》《闇の果実》」を自ら消費(消滅)。
これまでに負った負傷を怪異で埋める為、|Nyx Bestia《ニュクス・ベスティア》《夜闇の獣》を顕現(現在も生存中)。
薄羽・ヒバリ
目立った被害なし。√能力は完全に温存中であり、問題なく放てる。
矢神・霊菜
軽微な疲労。√能力は使用済みだが、戦闘継続は可能。
●
『全リソースを動員し暗号化データの解析中……解析率80を突破』
「――ボーダーを超えた、戦闘開始可能」
「すごいね、|今のところ順調だ《・・・・・・・・》。それじゃ、僕らも行きますか」
●
リムジンが吐きだす黒煙と炎が夜の闇を切り裂き、未完成の高速道路の端が不気味に揺らめく。風が吹き抜けるたびに、炎が唸りを上げ、周囲の重機の影が奇怪に揺らいだ。
「さテ。これで何人目のお客様ダッタかな」
ヒバリ・霊菜が一時撤退し、入れ替わりに現れた新たな気配にリンドーは凶悪な笑みを浮かべる。その背後には|Nyx Bestia《ニュクス・ベスティア》《夜闇の獣》――八対の瞳孔がゆらりと瞬きを繰り返し、辺りの闇が凝縮するように濃くなっていく。
「リンドー氏、お行儀が悪いのは君の方だよ?」
北條・春幸(人間(√汎神解剖機関)の怪異解剖士・h01096)は崩れかけた重機の陰に身を潜め、シリンジシューターの弾倉を回した。淡々とした手付きで、弾を装填する。が、指先には僅かに興奮が滲んでいた。彼の表情に躊躇はない。恐怖心が欠落している彼にとって、こんな戦場はただの|仕事場《地下室》の延長に過ぎなかった。
リンドーが動いた。怪異化し肥大した腕を高速で振るい、空間を抉る衝撃が二度走る。重機が音を立てて|拉《ひしゃ》げるが、春幸にはギリギリ届かない。
「排除開始――」
轟音と共に、夜空から砲撃が降り注いだ。機神・鴉鉄(|全身義体の独立傭兵《ロストレイヴン》・h04477)が駆る|戦闘拡張機械化鎧《パワードスーツ》『|W.E.G.A.《ウェーガ》』が旋回し、レールガンの発射音が空気を裂いた。次々と着弾する砲撃に、リンドーの怪異がたじろぐ。
その隙に、春幸がシリンジシューターを発砲。発射された弾丸は一直線に向かっていたかのように見えたが、ガンッ! と金属に当たり跳ね返る。角度を計算した狙撃、跳弾した弾丸が奇妙な弧を描きながら、リンドーの脇腹へ突き刺さる。
「ッ……!」
リンドーが目を細め、視線を向ける。シューターに仕込まれた対怪異毒が彼の体内へと回り込む。
「フフ、少しは "知的な戦い" を楽しめそうダ」
愉しそうな声と同時、彼の足元の闇が蠢く。闇の中から無数の影が湧き出し――刹那、鋭い軌跡を描いて『|W.E.G.A.《ウェーガ》』に殺到する!
ガ、ガガガガッ、ガン!!
如何なパワードスーツと言えど、その隙間から内部の人間をズタズタにされてしまえば一溜りもないだろう。
――されど、戦闘拡張機械化鎧は崩れない。
「What the hell...?」
怪訝の声に苛立ちを隠しきれないリンドーが見たものは。
「うん、思った以上にまぁまぁ痛いね」
鋭い影を鷲掴みにし、全てを自らの身体で食い止めた春幸の姿。然し異常なことに、彼の体は貫通は疎か、出血どころか切り傷の一つもついていない!
足元には割れたシリンジと――
「そ。クヴァリフ抽出液と、リムジン君の触手の体液」
注射された怪異の混合液が、その防御力を撥ね上げている。まともに受ければ即戦闘不能の一撃すら、「喧嘩の強いヤツに殴られた」程度のダメージに収めていた。
「という訳で、鴉鉄君……だったよね。遠慮せずにやっちゃっていいよ」
「――了解。敵性目標、排除開始」
『|W.E.G.A.《ウェーガ》』が即座に動く。アサルトライフルとショットガンによる牽制射撃。リンドーの動きを封じるように、短い連続射撃が繰り出される。
畳み掛けるようなマスドライバーとレールガンによる制圧射撃。爆音と共に、大気が震える。轟音が響き渡り、リンドーの影を打ち砕かんとする弾丸が次々と放たれた。
対するリンドーも動く。姿がブレるほどの速度、肉薄し強襲。|武装化攻性怪異《恐竜めいた脚での脚撃》、怪異による総攻撃を浴びせる。
その攻撃を笑顔でいなし、受け止め、食い止め、弾く春幸。『|W.E.G.A.《ウェーガ》』の防御を執る彼に死の恐怖という影は無い――!
それでも庇い切れない飽和物量攻撃が、攻撃に集中する『|W.E.G.A.《ウェーガ》』の装甲を次々と抉っていく。
『|装甲許容量《AP》、残り30%』オールマインドの警告が響く。
「戦闘継続」
氷雨から引き継いだ|逆転の布石《・・・・・》は、彼女の手中にあった。
故に――
「……退かない」
不退転。彼女は己がこの戦場に於いて何を為すべきか、的確に把握していた。
-火を点けろ
-炙り出せ
-未だ潜伏を続ける全てを――
「暗号解析率を照会」
『92――94――98――……解析完了』
『|EXECUTED《全敵性存在、捕捉しました》.』
『|HMD《モニタ》に|TGT《敵性存在》を表示します』
―― ブンッ ――
【TGT】
【TGT】 【TGT】
【TGT】 【TGT】
【TGT】 【TGT】 【TGT】
【TGT】
【TGT】 【TGT】
【TGT】 【TGT】
【TGT】 【TGT】
何たる数か。彼女の赤い瞳に無数のターゲットマーカーが映る。
これぞリンドー・スミスを不敗・不死身たらしめる、|固有名所有級《ネームド・クラス》の怪異群……!!
「視えた? じゃあ手筈通りに――」
夜闇の空気を割るように響く、春幸が手を打ち鳴らす音。冷気漂う闇より朽ち果てた屋敷の幻影が、突然にして浮かび上がった。
「――番町皿屋敷」
春幸が囁くように語ると、彼の周囲にゆらめく霧が広がり、必中の空間が生み出される。
ただ、今は全て敵性存在を把握しているのは鴉鉄のみ。この戦場に居る全員が視認する為には――
「|全周自動追尾照準良し《マルチロック・ファランクス》――発射します」
その瞬間、無数の焼夷弾ミサイルが解き放たれる。
空間全体が赤く染まり、怪異たちは次々と炎に包まれる。鴉鉄が標的を認識している限り、彼女のミサイルの軌跡は "必中" の概念に歪められ、如何なる遮蔽も意味を成さない。
リンドーのコートの内側、そして足元の闇からも、怪異が次々と燃え上がりながら地面へ這い出てのたうち回る。
「これ以上無いくらいに、焦っているんじゃない?」
全身の痛みを露ほども感じさせず、春幸が笑みを浮かべる。リンドーの口元も笑っている――だが、その目は冷え切っている。
「ハッハ、良い顔ダ……その余裕、今のうちに楽しんデおくトいい」
果たしてリンドーの口から出た言葉は余裕か、それとも。
==== Tactical Briefing: Situation Update ====
リンドー・スミス
合歓の蜂毒により、判断能力に陰りが発生。
はどまの怪異腹腹時計により、深層心理に『疑心暗鬼』を刻まれた。
日向&橙弥により、第七・第八肋骨を骨折、先端肺に刺突。戦闘継続は可能。
ウィズの顕現させた闇顎の群れにより、片腕を喪失。
霊菜の融成流転の刺突により、内蔵の一部に凍傷を負う。
はどま&合歓により、防御の要となる怪異「|Bracchia Nocturne《ブラキア・ノクチュルヌ》《闇夜の腕》」を焼失。
日向の怪異殺しにより、攻撃手段の内の一つ「|Fauces Obscurae《ファウケス・オブスクラエ》《暗き喉》」を喪失。
陽介&ひなのにより、「|Tenebris Oculi《テネブリス・オクリー》《闇の瞳》」を斬り刻まれる。
陽介&ひなのにより、「|Serpens Aeternus《セルペンス・アエテルヌス》《永劫の蛇》」を斬り刻まれる。
窮地を打開する為、「|Malum Tenebrarum《マルム・テネブラルム》《闇の果実》」を自ら消費(消滅)。
これまでに負った負傷を怪異で埋める為、|Nyx Bestia《ニュクス・ベスティア》《夜闇の獣》を顕現(現在も生存中)。
鴉鉄&春幸により、残るネームド・クラスの怪異が全て炎上し、リンドーの傍を離れている。
機神・鴉鉄
『|W.E.G.A.《ウェーガ》』の装甲許容量を70%喪失。心許ない残弾数、然し√能力を行使する分は有る――
北條・春幸
体力消耗、全身に打撲多数。クヴァリフ抽出液の効果は切れている。
●
「よーし、|学習は終わりっと《適応成長進化完了》。あ、目の前でヤンチャするけどさ、暴行罪は勘弁してくれよ?」
「無論です。あの男は制圧対象、"法に基づき守るべき市民" ではありませんから」
●
「クク……ハッハ、滑稽ダな。君タチに此処まデされるトはね」
炎の揺らめく中、リンドーは酷く笑ってみせる。だが、その頬には僅かな疲労が滲み、口元の笑みは皮肉めいて歪んでいる。
「これは "共闘の妙" かね? それトも "群れの習性" か?」
「いや、違うな。これは "焦燥" ダ。私に何度も "渾身の一撃" を加えテ尚、"仕留めきれない" 焦り……」
そこで、リンドーは一歩前へ。地面を踏み締める。
「惜しいな、君タチは "サルトしテは優秀" ダ。ダが、それダけデは "勝テない"」
「何故か? ――"人は、群れる程に鈍るから" さ」
その一歩は、ただの一歩に過ぎない。それでも、まるで"圧"が増したかのような感覚が戦場に広がった。
威圧感漂う演説の中、一人の男が静かに思案していた。
「……破損した道路状況の報告書。それにバイクの整備費用も申請が必要か」
つと、その男が眼鏡のブリッジを押し上げ、眦を上げる。
「嗚呼失礼、話は終わりましたか?相変わらず話の長い男ですね」
ホルスターから抜くのは小型リボルバー。|略式允許拳銃《らくいん》――そのセーフティを解除する。
「いまさら供述調書を作るつもりもありませんので、投降するのか死ぬのか手早くお願い致します」
照準を合わせたその向こう、.50ハンドガンを構えるリンドーと男――瀬条・兎比良(|善き歩行者《ベナンダンティ》・h01749)の視線がぶつかり合う。
双方の銃口、正確無比に標的の額を捉え――刹那、号砲が響く!
交錯する弾丸。
擦れ違いざま火花散らして抉り合い、互いに致命の弾道を反らせて弾け飛ぶ!
「ああ、やっと始めたか。其の侭語らってたらどうしようかと思った、ぜ――!!」
戦気に満ちた声と同時、轟く銃声。|対怪異用の大口径拳銃《ハンティングホラー》による不意打ちに、リンドーは回避が|僅か《ワン・テンポ》遅れる。
リンドーの背に展開していた闇の塊、その中に浮かぶ縦長の瞳孔を弾丸が射貫く。突如、怪異の瞳が硝子めいて罅割れる……!
「躾けてみろよ、おっさん――やれるもんなら、な」
ニャグァァアアアアッ!!
猫ともつかぬ不気味な断末魔を上げ、1対の瞳が消滅。リンドーは即座、銃声の方向に怪異の腕を向けた。掌の一本線、ソレが開く。瞬間、闇が蠢き牙が剥き出し。叫び声すら発することなく、周囲の空間そのものを噛み砕くような圧倒的な捕食の力が放たれた。
銃撃の主、一百野・盈智花(|真理の断片《フラグメント》・h02213)はニヤリと笑う。金色の瞳が燃える炎に照らされ、ツインテールが跳ねた。
「その程度で私サマを喰えると思ってんのか?」
巨大な口を開け、真上から飛び掛かる闇色の怪異。盈智花を嚙砕かんと路面ごと喰らう。
怪異の牙は盈智花に届かない。否、"たそがれ" に認識を狂わされ、路面と彼女の違いが分からない。
――|災匣励起《コードパンドラ》。|匣を封じる拘束帯、その三本が弾け飛ぶ《第一第二第三拘束術式解放―》。
現れると同時、牙に突き刺さる十二体の影兵士。怪異の口の中で分裂、分裂、更に分裂を繰り返し――
堪らず怪異が爆ぜる。バラバラと宙に舞う怪異の欠片の只中、盈智花の前には九十六に及ぶ影兵士の大部隊が展開、銃口を一斉にリンドーへ向ける!
裂帛の弾幕、その地鳴りめいた銃声が夜闇を切り裂き、リンドーを蹂躙せんと駆ける。
しかし次の瞬間、路上でのたうちながら燃え続ける怪異共がその姿を崩し。
「届かんよ、君タチの弾丸なド……!!」
リンドーが吼えるより早く、バリケードめいて怪異の壁が展開する。
吸い込むように銃弾を呑み込む怪異の壁、その後ろでは炎上し続ける怪異共がリンドーに再合流しようと蠢き――
「ならば届くようにすればいいだけです」
準備は整った――そう語るように、兎比良の静かな声が響き渡る。
(届くように)
|閉じてなお、世界は揺蕩う《週に二ペンス、一日おきにジャム》。
|開けてなお、世界は儚い《卓上のグラスに糖蜜を満たせ》。
(……俺が、あの時)
苦い後悔が兎比良の心を焦がす。
それなら、せめても……と、此の空間に付与されるは『必中』。
嘗て届かなかった手を、届かせるかのように。
|夢は現を呑み込み、《どうか頭〈キオク>を切り落とされぬよう》。
|現の理は盤上にて砕ける《もし目の前のモノが分からなくなったら――》。
この夢の領域に、主役となる少女は居ない。
そう、だからこそ
「ならば問おう、|監獄の囚人は《夢を見ているのは》誰か?」
今、|この場にいる全員《・・・・・・・・》が主役を勤めるのだ。
現実が夢に沈む。地面がマス目で区切られ、その外周には観戦するかの如く巨大なチェス駒が立ち並ぶ。
「始めましょうか、終わりの夢を」
兎比良の酷く冷めた声に応じるかのように、戦闘拡張機械化鎧から声が響く。
『|識別信号を確認《I.F.F.シグナル・コンファームド》――全敵影捕足、排除開始』
機体に備わる|格納庫《ハッチ》を全て開き、銃火器が、榴弾砲が、|誘導飛翔体《ミサイル》が降り注ぐ。
その熾烈さは鴉鉄の誇る大火力が一つ、|鋼鉄の暴風《メタルストーム》の銘に偽りなし――怪異全てを吹き飛ばして尚有り余る!
硝煙の霧が晴れやらぬ内。
「レイン、発射――!」
砲台から青いレーザーが降り注ぎ、未だ息の残る怪異の息の根を断つ。
同時に夜闇に翻る、十の光点――
「仕損じないで下さいませ――爆撃、どうぞ」
「了解――派手目でいいんだな?」
はどまの声に応え、痛む頭を押さえつつ切り離しの指示を送る氷雨。
隊列を組み、風を裂いて飛来するは、はどまが未だ起爆していない「怪異腹腹時計」を抱えた戦闘ドローン!
その爆撃はリンドーを精確に捉え、閃光十度。刹那に重なる大爆発ッ!!!
「ぐ――ぅッ!!!」
『|W.E.G.A.《ウェーガ》』のフルバーストを受け、レインで念入りに止めを刺されたが故に怪異の援護も今は無い。
更には合歓と春幸に打ち込まれた毒が一際強く脈打ち、対策を講じる余裕さえも奪う。
両腕を交差させ、爆風に飲まれるリンドーに再度、深々と「疑心暗鬼」が刻まれる。
故に、例え素早く接近する気配に気付こうとも――
(ピアノ線の少年か、怪異殺しの青年、もしや疾風のような青年か)
「……なるほど! これは"疑心暗鬼"の……いや、違うな……!」
思考回路の|致命的硬直《デッドロック》、交差するように背後から貫く氷のレイピアと日本刀――霊菜とひなの!
「必中なら必要ないかもしれませんが」
「お肌のゴールデンタイムを逃した私たちの気が晴れないの、そうよね?」
二本の刀剣で縫い留められたリンドーを狙い、蒼いプラズマとスパークが散る。
「ほんっとソレ! 厨二おぢ、情状酌量の余地なし!」
臨界状態の超電磁砲を搭載したレギオンに、Key:AIRから|CODE:Fire《コードファイア》を打ち込むヒバリ。
「派手に――やっっちゃえーー!!」
レールガンが閃光を放つ。闇に沈む高速道路の路面を蒼く照らし上げ、そのエネルギーの奔流はリンドーの肩口を吹き飛ばす!
「この私に、ここまデやるトはな……ッ」
残る怪異の腕、手首から先を即座に変異させるリンドー、より薄く、より鋭く、より巨大に、その威容は斬艦刀の如く!
「流石の君タチも、真ッ二ツにされれば諦めるダろう?」
その巨大な薄い刃が冷たく閃く――と思われた、然し!
「させるわけねェだろうが」
ザ、クン――ッ!!
リンドーの手首を切り裂き落とし、攻撃を止めるは刻爪刃《コクソウジン》!
「ぁァ、そう言や伝え忘れたわ――俺ァ|Gecko《ヤモリ》ぢゃねェぜ。|Monitor《監視者》だ」
刀の姿を失い宙を舞う怪異の手首、バクリと食らい付いて笑うウィズ。
「……君タチは、愚かダ」
その言葉と共に、リンドーの口が怪異のそれに変わり、最後の悪あがきとばかりに衝撃波を繰り出さんと力を溜める。
「ぱんっ!」
マヒの呪縛をリンドーは聞き逃さない、麻痺が来るならばその前に視線を切らねばと思考を巡らせるリンドー。
「なーんちゃって、弾切れだよ」
|詐称、ブラフ、ハッタリ《シンジツニアラズ》。路上に仰向けになったまま、愉快そうに陽介が笑う。
その僅かな隙を、盈智花が活かせぬ訳が無い。
「来い、アダム……!」
盈智花の影が爆ぜるように膨張し、その中から巨影が飛び出す。全長二・五メートルの生体融合型怪異兵器――『|A.D.A.M《アダム》』が、その手の対怪異ブレードを一閃!
刃に身体を切り裂かれ、膝をつくリンドーを顎影が喰らいつき固定する。
「――トドメだ。ザミエル、撃てッ!」
短い号令の下、長銃の怪異ザミエルが二丁、鋭く火を噴いた。魔弾が放たれ、リンドーの胸を貫く。
心臓を貫く灼ける様な痛み。リンドーの頭にふと、大きな疑念が過ぎる。彼等の予知をひっくり返し、予断を許さぬ展開で時間を奪い続けた。
それこそ作戦を立てる隙すら与えていない。だというのに、何故、何故――此処まで緻密な連携が?
その疑念を知ってか知らずか。重機に背を預ける合歓が静かに笑う。
「――元々便利だと思っていたけれど。もう少し評価を検討しようかしら、|No.1898《ヴァイラス》」
彼女の√能力の残響により実現した、ウィルスを介した念話での作戦会議。
リンドー・スミスは、リムジンを降りた時点で "既に罠に嵌って" 居たのだ。
「これデ終わッタトデも思うかね??」
胸に開いた銃創から暗い朱を流しつつ、リンドーは離れた位置に静かに佇む兎比良を睨む。
「ええ、なのでさっさと事切れて下さい。サルも暇ではないんですよ、知能の無い蛆と違って」
あくまでも冷徹に言い放つ兎比良に、リンドーはふと怒気を納める。
「……Excellent. そうとも、正解だ」
激戦の形相は鳴りを潜め、声音も穏やかに。
「|I....... I never thought you would be this good......《ああ……これほどまでに出来るとは思わなかったよ、君たちが》」
やがて彼の肉体は怪異同様に崩れ落ち、冷たい夜風と共に掻き消えて行った。
●This is not the end.
炎の名残が揺らめく夜の帳が、戦場の終焉を静かに告げていた。焦げたアスファルトに血と油の香りが混じり、夜風がそれを遠くへ運んでいく。崩れたリムジンの残骸は、闇へと溶けるかのように静まり返っていた。
兎比良はスーツの裾についた煤を払うと、眼鏡の位置を直した。鮮やかな花桃の瞳が、黒く焦げたアタッシュケースを捉える。かつてはリンドー・スミスが掌握していた「クヴァリフの仔」は、まだその場に残されていた。
「……さて」
義肢の指先が静かに鳴る。機械の左腕がケースの取っ手を掴み、持ち上げる。拍子抜けするほど軽い。あれほどの激戦の中心にあった代物が、ただの運搬物のように思えた。
彼は周囲を見回した。戦闘の余韻が漂う中、負傷した仲間たちがそれぞれの処理に追われている。誰もが疲弊していた。だが、目的の一つである「クヴァリフの仔」の回収は果たされた。最低限の職務は果たしたと言える。
兎比良はゆっくりと息を吐く。そして、黒いアタッシュケースを見下ろした。
「職務としても、個人的にも多少、物質には興味がありますね」
呟くように言葉を零す。
何故リンドー・スミスは、あのような目立つ手段で事件を引き起こしたのか? 彼の能力、立場、知能を考えれば、もっと巧妙にやりようはあったはず。
あれほどの怪異を使い捨てにする形で事を運ぶ理由がどこにあったのか。
その真意は、直ぐに知ることは叶わない。
遠くで、夜を裂くようにパトカーのサイレンが響く。遅れてやって来た清算の音だ。
兎比良は無言のまま、ケースを持ち直し、ゆっくりと歩き出した。機関へ帰還し、報告を行い、回収した物質を然るべき手続きに則って提出する。法を守る者として、それが彼のなすべき仕事だった。
だが――
(……まぁ、考えたところで、真意は測れませんかね)
雲間から顔を出した月の光を受けるアタッシュケースが、かすかに鈍く輝いた。
その光は、彼にとって何の意味も持たなかった。ただ、彼はそれを静かに、職務として運ぶのみだった。