シナリオ

冬忘れのセレナーデ

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 とあるダンジョンのフロア。
 そこでは色鮮やかな花びらたちが咲き誇る。
 暖かくて柔らかな風に、花の香りを揺らめかせながら。
 なんて美しいのだろう。
 吐息を零せば、淡く光を帯びる蝶がその流れに乗ってふわりと羽ばたく。
 なんて愛おしいのだろう。
 どうしてか、そんな感情を抱いてしまう。
 此処は花の楽園。
 今が冬を忘れ、地下であることも忘却し、ただ幸せに咲く夢の花園。
 季節など捨ててしまった。
 本当の太陽と月にも背を向けた。
 その代わり、永久に咲き乱れる花びらたち。
 時間の移ろいから逃れ、不思議な光が昼と夜を繰り返す。
 何故だか、心が柔らかくなる。優しくなる。
 それが花びらのもたらす魔力だと気づいた頃には、既に微睡みの中。
――さあ、あなたも花となりましょう。
 永久に狂い咲くならば、きっと夢のように幸せだから。
 そう微笑む女は黒い翼をゆっくりと羽ばたかせる。
 綺麗に堕落していく夢を広げて。
 全てを花へと落とす呪いを囁いて。




●星詠み



「お集まり頂いて有り難う御座います、皆さん」
 ふわりとした柔らかな声色で告げるのは、星詠みである弓槻・結希(天空より咲いた花風・h00240)だ。
 きらりと輝くような亜麻色の長髪を指で梳き上げると、緩やかに語りかける。
「この度、皆さんにお願いしたいのはとあるダンジョンの、ひとつのエリアです」
 言うまでも無く、今は冬。
 二月となれば寒さが厳しく身に染みて、美しくも冷たい白雪が舞う頃。
「けれど、そこでは時と季節を忘れたように、色とりどりの花が咲き誇っているそうです」
 赤、橙、黄色に青。
 優しげに、柔らかく、可憐にも美しく咲く花たち。
 薔薇があれば百合もある。菖蒲が佇めば、牡丹がふわりと花びらを日ろ゛ている。
 季節を問わない。
 四季のあらゆる花が咲く、まるで幻想のような場所。
 清らかな水音を波立たせる小川も通っており、まるでうららかな春の様子だ。
「ただ、それが自然である筈はありません」
 それがもしも、ひとの手が触れて、抱きしめられる場所だったらいいのにと。
 少しだけ悲しそうに浅葱色の瞳を揺らし、弓槻は続ける。
「どうやら天上界の遺産、そして、そこにいる簒奪者の力の影響であるようです。美しい花たちは、夢に誘う」
 √能力者であれば長時間いなければ問題はない。
 常人であれば、花に囲まれて数分と持たずに眠りにつくという。
 そうして、長き眠りにおちた者がまた新しい花へと変わる。
 美しき呪いであった。
 暖かくて色鮮やかでありながら、雪よりなお恐ろしい。
「どうしてそんな花の呪いがあるのかは解りません。この花園の主ならば、何かを知っているかもしれませんが」
 ただそれも解らないこと。
 花の色の喪われる冬を嫌って、まるでダンジョンという世界に逃げ込んだかのような。
 或いは、自らの想って広げる夢に落ちてしまったような。
 ふるりと首を振るい、話を続ける弓槻。
「抵抗力のある√能力者である皆さんなら、何ら問題はないでしょうね。むしろ、その花の香りがリラックスさせてくれるかもしれません」
 だから冬を忘れて、ただ花を愛でてもいい。
 冬の寒さを、厳しさを。
 ただ忘れて、優しいひとときを。
――それが、この花園の主の最初の願いだったとしても。
「ただ、先に進まなければなりません。どうあっても季節を違えた狂い咲き。ひとに仇為す花は、散らさなければなりませんから」
 視線と表情を正す弓槻。
 ひとに害を及ぼすなら、どんなに美しくても悪夢なのだ。
「花園を進めば、光の精霊たちが迎撃にと現れます」
 ダンジョンでも適切な光を届ける為の存在だろう。
 外敵と見做した者を排除しようとする者達を退けなければならない。
「そうして進んだ先に、この花園の主がいます」
 彼女を討てばこの花たちも、次第に枯れていくという。
 美しいものが終わるのは悲しいことかもしけれない。
「けれど、時の移ろいはとても大切です。美しい停滞より、ゆっくりと先へ進み続けること。変わること。その方が、きっと大切ですから」
 或いは、花たちも永久に咲き続ける呪いから解放されるとも言えるだろう。
「それでは皆さん、どうか宜しくお願い致しますね。正しい時と、過つことのない風と、いずれ巡る幸せの為に」
 そうして、巡り巡る季節こそ美しい。
 終わり、散るからこそ、愛おしさを覚えるのだから。
 永遠にあるものを――誰が大事に思えるのだろう。




●花に落ちた女の嘆き



 永遠に失ったからこそ――愛しくて、愛しすぎた。
 そう女は嘯き、過去を思い出す。
 愛しいヒト、と言ってくれた誰か。
 花のように愛しい、と囁かれた過去。
 ああ、記憶とは余りに脆い。儚い。
 冬の寒さに耐えかねた花のように散ってしまうから、脳裏に繋ぎとめることも出来ない。
 だからただ、花のように愛しいといってくれたひとがいたから。
 その思いだけで願う。祈る。
 呪いとなって花を群がらせ、周囲に色彩を数多と広げる。
 もはや、自分は堕落しているのだろう。
 そんな自覚はありながら、けれど止めることなど出来はしない。
「清らかなものが、甘い花の香りに蕩けて、落ちますように」
 私の懐に抱かれ、眠りますように。
 もしかしたら、星より多くの花が集えば、彼とまた出逢えるかもしれないから。
 花のように愛しいといったのなら、彼はきっと花が好きな筈。
「嫌だというのなら、その身を花としてくださいな」
 鋭く払われた鎌刃が、周囲の花びらを刈り取る。
 だが直後、刈り取られた以上の花が咲き誇り、女の周囲を埋め尽くす。
 もう女は、呪われた花から逃げられないというように。
 くすくすと冷たい微笑みが響き渡り、黒く染まった翼がはためく。
 そうして呪われた処刑鎌を、美しき花と共に抱きしめるのだった。

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第1章 日常 『花溢れる園』


クラウス・イーザリー

 冬を忘れるような暖かな抱擁が身を包む。
 うららかな日差しと、柔らかな風。
 そして溢れんばかりの優しい花の香り。
 安らぎと心地よさの余り、すぅ、と瞼が勝手に落ちてしまう。
(暖かい……)
 此処で眠るのは、きっと幸せなのだろう。
 クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)の表情がすこしだけ柔らかくなり、青い瞳をそっと揺らす。
 掴む銃の指先とて、力が抜けた。
 けれど、それをどうして咎められようか。
 花を愛おしみ、花に囲まれて安らぐのはひとの心。
 なら、それを忘れていなかったという証拠なのだから。
 数え切れない程の花がそれぞれの色彩をもって咲き誇るこの場所は、まるで幸せな楽園のようにも思えても当然のこと。
むしろクラウスの戦い抜いて生きる世界でも、心が途切れていない証拠なのだから。
「どれだけの花が咲いているんだろう」
 手を伸ばして触れた菖蒲の花びらの柔らかさに、クラウスは少しだけ驚いた。
 自然にはこんなにも脆くて繊細なものがあるのだと。
 それが数え切れないほどに咲き誇るという景色に吐息を零す。
 機械化された√ウォーゾーンでこんなに沢山の花を目にする機会はまずない。
 効率と合理性の元に排されて場所では、こんな花園なんてないのだ。
 花が根付く豊かな土壌とて少ないだろう。コンクリートで覆われ、鉄板で囲われ、小さな花が芽吹くことさえ許されない。
 だからクラウスは物珍しそうに周囲を見渡し、花園に溢れる色彩を見つめながら歩んでいく。
 ふと、視線に止まったのは一輪の赤い花だった。
 その名前をクラウスは知らない。
 けれど、ふと浮かぶのだ。
――あいつの瞳は、あんな色だったな。
 戦いの中で命を落とした親友の瞳の色は、こんな赤い色をしていた。
 そうしてクラウスは瞳の色から戦友の顔を思いだし、姿と形をも記憶から呼び起こしていく。
 だが、その声が響くことはない。
 もうクラウスの名を呼ぶこともない。
――此処にあいつが居たら、どんな表情で、どんなことを言っただろうか。
 こういう平和で暖かな世界に生まれていたのなら。
――俺はあいつを喪うことも無かったんだろうか。
 いいや、そういう世界なら巡り逢うこともなかったかもしれない。
 たとえ出逢えても、友達にすらなれなかったかもしれない。
 偶然と必然は区別する事が出来ず、過去と運命とは切り離せないものだ。
 今という瞬間に全ては繋がっている。
 生き残る。その為に、あらゆるを尽くしてきたのだから。
 もしもの話なんて、詮無きこと。
 そんな夢を幾つも浮かべて、現実を忘れては生きていけない。
 花が誘う通りに眠りへと落ちても、何も変わらないように。
 わかっている。わかっている筈だった。
 それでもクラウスの胸に、きゅっと冷たい悲しみが浮かび上がった。
 合理。論理性。ああ、全てはそのように流れるのだと解っていても、やりきれない気持ちがあるのだ。
「……美しい停滞を希気持ちも理解できる気がするな」
 どう転ぶか判らない未来よりも、今ここにある幸せに浸っていたい。
 永遠に変わらない幸福に微睡み、痛みのない夢の世界へと埋もれてしまいたい。
 希望を喪失したクラウスでも、その思いは理解できてしまう。
――ここにあいつがいたら、俺もそう思ったかもしれない。
 それを許してくれない、悲しい胸の痛み。
 心の喪失が、もはや取り戻せない存在が、それでもとクラウスに前を見つめさせる。
 甘い逃避への誘惑を断ち切るように。
 決して、これから先の現実に在るものを見捨てないように。
 そうだ。これから進む道と人生には、助けを待っている人だっているのだから。
 そんな未来を捨てない為にも。
 誰かを救う戦いを、当たり前として続けていく為にも。
 悲しさと思考に呑まれないように、振り切るようにクラウスは歩む。
 一歩、一歩と花園に足跡を刻みながら。
 きっと誰かへと手を伸ばせる場所へと辿り着く為に、クラウスは止まらない。
 優しげな花の香気が、心の痛みを慰めてくれるかのようだった。

結城・凍夜
土岐野・仁美
結城・氷華

 花は誰の為に咲くのだろう。
 巡る太陽と月に、瞬く星たち。
 彼ら、彼女たちが誰の為の光と色を零すかは判らない。
 ただひとは、誰かの為に微笑むのだ。
 それがもっとも美しくて、尊いものだと誰もが心の底で知っている。
 このダンジョン。溢れかえるような花園でも、それは同じこと。
 軽やかに笑い声と共に、踊るような少女の足音が響いた。
「ねぇ、仁美、見て! すごくきれいよ!」
まるで歌うように澄み渡る声は、結城・氷華(結城・凍夜のAnker~従兄の子でローカルアイドル~・h05653)のもの。
 ステップの音色を響かせ、花を渡るように進む姿は純粋無垢な少女のよう。
 或いは、花と風に愛された歌姫か。
 茶色の髪が暖かなふわりと靡かせ、明るい笑顔で振り向く。
「もう、氷華ちゃん、そんなに急がなくても、お花は逃げないわよ」
 少しだけゆったりとした微笑みを浮かべるのは土岐野・仁美(結城・凍夜のAnkerの定食屋「ときの」看板娘・h02426)。
 アイドルである氷華のような華やかさはないが、仁実には見る者を安心させる柔らかさがある。
 ひょこりとウマ耳が動いて周囲の音を拾い、危険な様子はないと仁実はゆったりとした声色で続けた。
「ほんとうに。この綺麗な景色は、逃げたりしないんだもの」
 この場所の噂をネットで見つけたのは氷華だ。
 親友である仁実を誘い、このダンジョンの花園へと飛び出したのだ。
 美しい花たちの間を跳ね回る氷華は、ほんとうに楽しそうだった。
 見ている仁実の心のほうが、ほっこりと柔らかくて暖かくなる。
 笑顔とは、きっと何より美しい花なのだろう。
 けれど、此処はダンジョン。どんな危険があるかもわからない。
 こっそりと冒険者である結城・凍夜(|雪の牙《スノーファング》・h00127)にも連絡はしたものの……。
「……速く来てくれないかしら?」
 ひょこひょことウマの耳を動かして周囲の音を拾う仁実は、少しだけ不安そうな表情を見せた。
 心を弾ませるばかりの氷華を落ちつかせ、一応は時間稼ぎの多呂にお弁当を作る時間は持って貰ったのだけれど。
「すごく綺麗なお花畑ね!」
 楽しげに笑顔と姿を弾ませる氷華には、むしろ楽しみが増えただけかもしれなない。
「あの小高いところで仁美のお弁当とか食べたら、サイコーじゃない?!」
 何より、物音で周囲を探ってくれる仁実がいるからこそ、氷華は天真爛漫な姿を振る舞えるのかもしれない。
 明るく、可愛らしく。
 周囲の花たちにも負けない笑顔を浮かべて、仁実の前を歩いて、跳ねて、花の間をすり抜けていく。
 そして小さくも響き渡るのは、明るい歌だった。
 花のように誰かを笑顔にする、優しい氷華の歌声が春の日差しの中で続いていた。
「もう」
 困ったように、それでいて楽しそうに笑う仁実。
 物音や気配なら仁実が音として拾えるし、信頼を寄せる凍夜が遅くなるということもないだろう。
 危険や脅威は物音で捉えられるだけではない。
 何時も凍夜が間に合う訳ではない。
 そう判っていても、その不安を払うほどの信頼が此処にはあった。
 氷華と仁実と、凍夜。Anchorと√能力者と評するだけでは足りない絆が。
「あんまり急ぎすぎないでね。転んだら大変だもの。急がずに、近くの花をしっかりと見て。見逃さないように」
 だから今を楽しもうと、仁実もふわりと微笑んだ。
 綺麗な艶を帯びる黒髪を手で梳き上げ、おっとりと紫の瞳を揺らす。
 ランチボックスと水筒をいれたバスケットを両手に、ゆっくりと仁実は氷華の後を追っていく。
 その先で氷華は楽しげに鼻歌を口ずさんでいた。
 何かのとても楽しげなフレーズが続いている。
 暖かな風に溶け込む、春告げの唄。
「ふふ、なんだかいい香りがするわ♪」
 警戒心も綻びきった、優しくて穏やかな笑顔を花へと近づける氷華。
 それほどに素敵な花の香り。
 周囲に満ちる花の芳香は、色んな花の匂いが混ざっている筈。だというのに不思議なものだった。
 混ぜればノイズめいた匂いとて出来る筈。
 なのにとても心を落ち着け、感情を柔らかくしてくれる。
 何からの余分なものはなく、ただ身と心をほぐして疲れを取るように、軽やかにしてくれる。
 さあ、身を任せてと。
 抱きしめられて、眠りなさいと。 
 春のような、夢と幸せの花園。
 外の寒い冬と現実を忘れた、神秘的な場所。
 決して誰かを傷つけるような気配のない、柔らかな優しさの漂うな花たち。
 だからと氷華は更に顔を咲き誇る花へと近づけていく。
 ね、もっとあなたたちの囁きを、匂いを教えてというように。
「ほら、甘くていい香り……」
 芳醇でありながら、何処か陶酔めいた甘さを覚えさせる花の香気。
 けれど、これは眠りへと誘う華だった。
「ふ、ふわぁ~」
「あれ? 氷華ちゃん、どうしたの? なんだか眠そうな顔して……」
 氷華に少しだけ欠伸が出る。
 手で口を覆い隠すが、まだまだと溢れる欠伸と眠気。
「あれ? 何だかちょっと、眠くなってきちゃった……」
 そこに脅威を感じられないからこそ、この花たちは恐ろしいのだろう。
 眠らせて、自分たちと同じ花にする。
 美しいものだけが残ればいいという、恐ろしい呪い。
「あ、これがダンジョンのトラップ?」
 仁実は慌ててハンカチで口元を抑え、これ以上は匂いを嗅がないようにするけれど、それも限界がある。
「早く来て、凍夜~」
うとうととし始めた氷華を抱き寄せながら、仁実が声をあげる。
 そして浅い夢を見始めた氷華は、何処か遠くから凍夜の声を聞くのだった。







 星詠みから話を聞いていた処から急行した凍夜。
 まさか話に出ていたダンジョンにふたりが向かっていたとは思わなかったのだ。
 精霊が現れる前に駆け付けなければいけないし、広い花園で眠って倒れられていては見つけるのも大変。
 なら迅速さこそが大事。
 何かが起きる前にはと、凍夜も全速力でダンジョンへと。
 飛行箒であるガンナーズブルーム“Kalevala”に乗って、急いで翔る凍夜。花の美しさは見えたけれど、それを楽しむ時間なんてない。
 そうやって急いだからこそ何かが起きてしまう前に、うとうとと眠り初めてしまった氷華と、困った顔をしている仁実を見つけることが出来た。
「仁実さん、氷華!」
「あ、凍夜さんっ」
 仁実が手を振って此処ですと示す花園へと、凍夜は降りていく。
 氷華は眠ってしまっている様子だったが、何かしらの異常はない。
 精霊もまだ出てきておらず、ふたりの無事を確認してほっと安心の息をつく凍て凍て凍夜。
「このまま帰りましょう。先導と、氷華は任せてください」
「ええ。お願いしますね」
 礼儀正しそうな声で告げる凍夜が氷華を背負って入り口へと歩き始めると、そのあとをゆっくりと続いていく仁実。
 そうやって入り口まで戻れば、ふたりの無事と安全を確保できたと、凍夜も紫の瞳に安堵を浮かばせた。
「此処までくれば大丈夫でしょう。氷華の事はお願いしますね」
「ええ。もう、氷華ちゃんったら……」
 少し困ったように。
 それでも、無事を喜ぶように。
 凍夜と仁実が柔らかく笑って、近くの梢に氷華の背を預けた。
 氷華はどれだけ気持ちよく、そして幸せな夢を見ているのだろうか。
 ふたりには判らないから、安らかに眠る氷華の可愛らしい顔に微笑むばかり。
 ただ、氷華の唇からは誰にも聞き取れない囁きが零れていた。
(……あれ? 凍夜の声が聞こえる。……なんで、こんな処で……)
 花園と香りから離れたせいで、眠りも浅くなったのだろう。
 凍夜の声を確かに聞いて、けれどまだまだ安眠から抜け出ずにいる。
(夢でも見ているのかな?)
 夢と、現と。その優しい狭間で微睡む氷華。
(まぁ、いいや。夢でも三人で一緒に出かけられるなんて、素敵だわ)
 そう思って氷華がとても楽しげに微笑めば、見つめる凍夜と仁実もまた微笑む。
 それほどに幸福に浸れるならと。
 凍夜は紫の瞳をダンジョンの奥へと向け、思い浮かんだように口にする。
「ああ、でも。花園の主を討った後で、この花々が枯れる前にまた三人でみましょうか」
 どれほどに寒い冬を忘れても、一瞬で散ることななんてないだろう。
 その優しい猶予の間に、美しい思い出を。
 今度こそ三人でと、凍夜が柔らかな貌をして告げた。
「きっと、氷華も喜ぶでしょうから」
「ええ。だからわたし、お弁当も凍夜さんのぶんも含めて、三人ぶん作ってきたんですよ。……無事に帰ってきてくださいね」
 仁実の信頼の眼差しを背に受けて、凍夜はダンジョンへと戻っていく。
 氷華を介抱しながら、待ち続ける仁実の為に。
 そして、ちゃんと眼をみて氷華に危険なことはダメだと言う為に。
――心配するほど、ふたりが大事なのだと。
 そうして笑い合うだろう、ほんの少し先の未来を。
 本当に幸せな夢を、しっかりと握り絞めるために。
 眠りに誘う甘い匂いを払い、大事なひとたちのぬくもりを思い出しながら。
 冬忘れの花園を、三人の愛しい記憶のひとかけらとするために。





 或いは。
 全ての元凶を断てば、雪と戯れる花たちがそこにあるかもしれない。
 儚い白の中で、僅かな時間だけ見つめることが出来る花園。
 ああ、きっと。
 それは美しいだろうから、三人で見たいと凍夜は願うのだった。
 花を撫でる風が、優しい曲を奏でるようだった。
 眠っている筈の氷華もその風の旋律に合わせて口ずさむ。
 気づけば、それは夜にひとを想うような穏やかで切ない曲調となっていた。
 セレナーデが眠る氷華の唇から紡がれていく。
 本当に届くべき想いを、花を彩るべき願いの色を届けるように。

アドリアン・ラモート

 冬という現実を忘却して、花は咲き誇る。
 どうしてなのか。
 いったい何時から在るものなのか。
 もはや語る者も、覚えている者いないダンジョン。
 綺麗な花びらが色彩を広げて、永遠にと咲き続けている。
 誰の為の場所だったのだろうか。
 これほどの花が、ひとの思う美しさの儘に咲く事などないだろうに。
 そんな思いを抱いて、微かに赤い瞳を揺らしたはアドリアン・ラモート(ひきこもりの吸血鬼・h02500)。
 花園を歩き、夢のような場所なのだと呟いた。
「不思議なダンジョンだね」
 ゆっくりとした口調には、少しだけの眠たげな気配がした。
 春の日差しめいた暖かさは、確かに心に安らぎをもたせす。
 ただ、やはり何処までいっても現実ではなかった。
「地下で太陽の光もなく季節感もなく様々な花が咲き誇る場所」
 夢のように美しく、星の煌めきのように広がる場所。
 数多の色彩は、それこそひとが織り成す情動のよう。
 けれど。
「……呪いがなければ素敵な場所なのに」
 此処はどうしようもなく呪われている。
 生きる存在を認めず、抱きしめない。
 安らかな花の香気を漂わせて、眠りなさいと囁く場所。
 呪いさえなければ、昼寝が好きなアドリアンは花の香りに囲まれて、安らかに一眠りとしたい処だった。
 これほどに美しい花に囲まれれば、きっと素敵な夢も見られるだろう。
 けれど、一度眠ればもう目覚めない。周囲の花たちとひとつになるのだ。
 美しい終わりではあるだろう。
 だが、誰もそんな物語の結末なんて求めないだろう。
 アドリアンは花園を歩きながら、まるで歌劇の舞台のだうなと思った。
 ある意味、とても幻想的な場所。
 こんな花園であれば、ロマンチックなデートにももってこいだろう。
 恋人を忘れて微睡むものなんていないのだろうから。
「まあ、そんな相手は居ないんだけれど……」
 伴う相手のいない寂しさ。
 だが、その胸の隙間を埋めるような花の芳香を吸い込んで、アドリアンは柔らかく笑った。
「僕としてはこの美しき呪いは嫌いじゃないけれど、かといって放置できるものでもないんだよなぁ」
 誰も傷つけないのなら、いいのもかもしれない。
 永久の氷雪に包まれた怪物。
 或いは、煌めく水晶に抱かれたもの。
 それらがひとを傷つけないというのなら、ああ、きっとそれもいいだろう。在る、という事を咎めることなんて誰も出来ない。
「もしも、君たちが傷つけることがないのなら」
 そう囁きながら、アドリアンが指先で摘むのは赤い薔薇だ。
 棘に気を付けながら、麗しき深紅の色をそっと愛でる。
 まるでひとの情愛のように、深くて、深い、その色彩を。
「花は散り際が一番美しいとも云うし」
 ある意味ではこの花たちもきっと呪われ、呪縛されているのだろう。
 ならと薔薇の花びらを抓み、一枚、一枚と指先で愛でるように散らしていく。
 ひらり、ひらりと赤い花びらが風に乗って何処かへ消えていく。
「やっぱり永久に咲き続ける呪いから解放してあげようか」
 そうしてアドリアンの声が、風と花の向かった先へと響いていく。
 ダンジョンの奥で待つのは何だろうか。
 美しき呪いと花を散らすべく、眠りを尊ぶ吸血鬼は歩いて行く。
 花の続く限り。
 その香りの源を辿るように。

ルナ・ディア・トリフォルア
レスティア・ヴァーユ

 咲き誇る花びらの元で、求め合う魂は巡りあう。
 幸せを求めるから、決して別れることはなく。
 信じるからこそ、愛しき存在を忘却することもない。
 例え世界を違えても、それを越えてこの翼はあなたの元へと辿り着く。
「女神よ。この美しい花たちの中を歩こうか。……さあ、手を」
「ああ、すまぬの。我も少しばかり、この暖かな風と日差しの中で浮かれておる。……無垢に笑うことを許せよ。何しろ愛し子の前じゃ」
 冬を忘れたのはこの花園だけではない。
 独りの厳しさを、孤独の冷たさを。
 このふたりは渡りきり、巡り逢ったのだから。
 ルナ・ディア・トリフォルア(三叉路の|紅い月《ルーナ》・h03226)は満月のように輝く金髪を靡かせ、女神として手を差し出す。
 レスティア・ヴァーユ(歌を捨てた流浪の・h03581)は恭しく、さながら女王の手を導く使徒であるかのように、そっと手を握った。
 何もかもが変わり果てても、お互いだけは変わらない。
 ふたりは優雅に微笑んで、花の道を歩き始めた。
 レスティアが思うには、此処は夢のように居心地の良い景色だ。
 冬の寒さを、その真白さを愛するものとていよう。
 が、心のぬくもりと安らぎを届ける花園はまるで揺り籠。
 美しい花に囲まれ、ただその綺麗な姿に心を揺らす。
 ただ事情を聞けば、決して心穏やかでいられるものでもないのだろう。
 周囲の花も、ともすれば全てはひとだったのかもしれない。
 いや、大地に根付く草花は総じて何かしらの遺体の上に咲くものではあるが。
――まるで、スノードロップのようだ。
 死体に咲いた花という童話を残すものだ。
 慰めと、希望と、死を願うという花言葉を持つ白くて可憐な花。
 どのように取るかで、全ては変わる。
 まさにこの花園の姿だった。
 或いは、女神に尽くそうと全てを擲った天の御使いである。
 雪が色がないからと嘆くから、スノードロップが自らの色を分け与えたように、レスティアもまたルナに自らの想いを注ぐ。
 そんな情念の浮かぶ景色だった。
 しかし、その外見は鮮やかなる花たちである。
 何処までいっても美しいものたちなのだ。
 悲劇の恋もまた美しい恋物語だろう。でなければ、誰もが語り継ぐことはない。
 例え呪いであっても、そして、このようなまやかしであったとしても。
 心が安堵するのであれば、それは真実、美しき花である。
 ひとは十字架を美しいという。
 つまり、見る者の心と感情次第なのである。
 この花たちのひとつひとつには、さながらロザリオのように祈りが込められていたのだから。
「さてはて、季節を忘れた花園とな。まぁ美しいものではあるが」
 青い双眸を微かに揺らし、周囲の風景を眺めるルナ。
 百花繚乱。数多と溢れる色彩の美しさは、宝石や星の輝きにも劣らないだろう。
 艶やかな色は、まるでひとの情念のようだった。
 募りに、募る、思いのいろだった。
 ゆっくりと歩きながら、馨しき花の香気へと吐息を零すルナ。
「すまぬかったの」
 何時もの傲慢で高飛車な声色に、少しばかりの憂いの色がある。
 レスティアも青い眸で見つめる中、ぽつりとルナが言葉を続けていく。
「本当に、この身体に囚われる事なければ、今少し早く同じ世界で見つけ出せたのだが……」
 そうやって、悲しげな貌を見せるのも愛し子であるレスティアが傍にいるからだろうか。
 彼の目の前だからこそ、心を許して、ひとに似た柔らかな情を零すのだろうか。
 さながら春のひとときに、花びらを開かせる山吹のように。
金色の光と色を纏い、優美と気品さを伴ってルナは微笑む。
「何というか、この体少々厄介でな、以前の様に気ままに生きること叶わぬわ」
 レスティアの美貌に、少しの悲しげな翳りがあったから。
だから微笑む。何ということはない。少しだけ不便があるだけだ。
「――愛し子であるそなたの手を借りられれば、何ということはない」
「勿論だ。ひとりで生きるには道は硬く、人生は危うい。例え女神であっても苦難を覚える。だからこそ、傍にいよう。迷うことが、お互いにないように」
 真っ直ぐに、ひとつも揺れることも躊躇うこともなく告げるレスティア。
 嘘偽りなく、心に浮かんだ言葉と思いをそのまま告げた美しい声色に、そっとルナも嬉しげに頷いた。
「そうじゃな」
 しかし、と青い眸を険しくするルナ。
 普段は隠している白い翼を見せるレスティアへと視線を注ぎ、その身にあった事を透かして見ようとする。
「無事で良かった、そなた覚悟を決めると頑固なところがある故の。我の知らぬ所で果てること許さぬぞ」
 知らない処でルナを探し、無謀と思えるような進みを続けたかもしれない。
 果敢なるは美しい。
 だが、傷ついた姿を、翼を見るのは悲しい。
 ルナの心でも確かにそれを感じるからこそ、青い双眸をゆらりと揺らす。
「再び会い得る事が叶って僥倖だ、私の女神」
 或いは、ふたりの行動と思いからすれば必然だとしても。
 この出会いは花である。
 偶然であれ必然であれ、関係はない。
姿は恋人という花が寄り添うもの。
 それは美しいものなのだ。
 幻めいたものであれ、例え絶対に巡り合う運命だったとしても。
 それを遂げられた幸せを、レスティアは心の底から噛みしめよう。
 無駄なことなんてひとつもないのなら、今までの全てがこの幸福の再開に繋がっている筈だと思えるから。
 そうして、更に先へと進む思いの強さになるのだから。
「未だにここにも慣れないが、突然ひとり√ウォーゾーンに飛び込んだ時には、流石にあの機械世界で死ぬしかないと覚悟を決めたものであるから」
 この世界は、あまりにも危険だ。
 思い返すレスティアも流石に苦笑が浮かぶ。
 高貴なる血筋を継ぐレスティアからすれば、食べるものに飢え、眠る処は不要とさえされる場所は馴染めないものだろう。
 ただ戦う為に。ただ生き残る為に。
 花という存在を忘れた、あの恐ろしき戦と鋼鉄の世界。
「そう思えば、こうして世界は違えど、貴女と並び、このような光景を見られるのは、幸い以外の何物でもない」
 それでも情緒と心の一切を磨り減らさず、此処に辿り着けたのはルナという女神の輝きを覚えているから。
 だからと手を取り、愛しくも恭しくとレスティアはルナを導いていく。
 もう離さない。もう別れない。
 例え如何なる運命の刃がふたりの間に突き立とうとも、この絆を斬り裂くことなど出来る筈もないのだから。
 レスティアはルナへと微笑み、ルナも静かに頷いてみせた。
 言葉はなくとも、心と思いは静かに伝わる。
 如何に金糸、銀細工を凝らせどもあなたという女神への美しさには届かない。
 故に畏敬と愛を捧げて、この指と歩みを導こう。
 いや、満月と数多の星を集めても、愛し子の纏う光と歌声には至らない。
 ならばこそ、この手を離さぬことこそがもっとも大切なる運命だと指先を絡ませる。
 慕情とは今や唇で語るものではなかった。
 花の如く咲かせ、共に佇むものであった。
 ああ、やはり|花《こころ》とは美しいものなのだ。
 愛しき花を見つめて触れ、抱きしめれば感じる甘美なる音色。
 鼓動は静かに、けれど絶えることなく続いている。
 まやかしであろうか。ただの夢物語だろうか。
 いいや、そんな筈はない。
 これが自分の想う真実だと、その美貌に想いを示し、花を見つめて無言で誓う。
 天に地に、花に星に。
 あらゆる色彩と、あらゆるひとに纏わるものへと。
――生きていれば未来がある。
 その未来を、必ずやこの女神と。
 ならばその未来を閉ざして刈り取る、この花園の主は倒さなければならない。
 どれほどに美しくても、永劫の不変など有り得てはならないのだから。
 そんな覚悟を定めたレスティアの美貌に、ルナもころころと笑う。
 この愛し子は死に急ぐ処がある。
 殉教めいた思いへの真っ直ぐさ。
 一度定めれば、決して違えぬ感情の強さ。
 それは弦を爪弾くが如く美しい音色を周囲に響かせるが、やはり危うい。
 なら、しっかりと捕まえておかなければならないだろう。
 この手を導こうとしてくれるレスティアを、ルナは祝福して掴み続けなければならない。
――まるで初恋に浮かれる娘のようじゃが。
 そう自覚するも、甘い慕情は心地よい。
 心の奥で揺蕩う花の香りめいた甘やかさに、柔らかな微笑みを浮かべるルナ。
 せめて何かの記念にと花の一つでも摘んで、レスティアへと差し出したいと思うが。
 けれど、この花もまた昔はひとであったかもしれないのだ。
 もしかすると、横で咲く花が恋人であるかもしれない。
 そう思うとせめて、ということさえ憚られた。ひとの情を抱き始めたルナは、ただ穏やかに花たちを見つめる。
「せめて、今は二人でゆっくり愛でよう」
 いずれは散りゆく儚き花を。
 ふたりがこのダンジョンの主を討てば終わる、夢の如き花園を。
 記憶のひとひらとして抱き、愛でて、囁こう。
 美しいと。
 あなたと見るから、これほどに綺麗なのだと。
 |花《あい》の姿に安堵して、その美しさに瞬きを重ねた。
 そして――慕情は深まる。花びらでは抱けないほどの色を重ねて、心を満たして溢れていく。

クレス・ギルバート

 花は冬を忘れて夢に眠る。
 幸福なる暖かさと光に満ちる此処は、さながら楽園。
 鮮やかな色彩が風に揺れながら溢れて、甘やかな花の香りが漂う。
 安らかに。
 ゆるりと心と吐息を落ちつかせて。
 眠りへと誘う花たちは、きっと無辜なる姿。
 幸せな夢へと誘うものたちに過ぎない。
 だが、それも深い眠りに囚われたヒトの成れ果てに過ぎないのだ。
「悲しいな」
 美しいが、悲しい。
 もはやその綺麗さを口にする事が出来ないほどに、深く悲しみを抱く。
 生きていれば、もっと幸せなものと、美しいものと出逢えただろうから。
「閉ざされ、忘れられた人生と現実に。そこに居ただろう大切なひとも忘却した事実を、悲しいと思う」
 柔らかな風に、皚々たる白雪の髪を揺らしてクレス・ギルバート(晧霄・h01091)が口ずさむ。
 艶やかな菫色の双眸でそっと花たちを見つめるクレス。
 悲しげで、寂しげな情の色の浮かぶその眸。
 救われる為には、散るしかない。
 散らす為にと無垢なる刃を鞘に携え、足跡を刻んでいく。
 花が、風が、光がもたらすのは常春の如きうららかさ。
 抱擁めいた心地よさはクレスにさえ微睡みの気配を脳裏に宿らせる。
 風と戯れる花と共のように、夢に揺蕩いましょうと切なげなセレナーデが聞こえてきそうな程だった。
 いいやだからこそ、拒むようにと早く歩を進めていく。
 美しいと云う事の出来ない、悲しい姿を。
 安らかな眠りと安堵の底にある呪いを振り切るように。
 それでも心がある。思いがある。
 忘れたかもしれずとも、記憶の痕跡がふと蘇る。
 それが夢というのだから。
「――――」
 ふ、とクレスの足先が緩む。
 春風に揺れるは青いアネモネの花。
 その色彩に、その姿に、泡沫めいた淡い追憶と、胸の底に募る寂寞に脚が鈍り、息が止まる。
 どう思っても、何を抱いても。
 これを無視して、忘れてはいけないと誰かが囁くのだ。
 胸を飾る固き誓言の青き花一華に、長い指先で触れる。
 己にも――嘗て竜であった頃。
 唯一の存在が居たのだろうか。
 気配がある。存在の名残がある。
 だが、それはあまりに繊細で、そして複雑に砕け散った記憶だった。
 余りにも儚い泡の如き追憶は触れることも、掬い出すこともできない。見つけたと思った瞬間、弾けて消え去ってしまう。
 言葉に詰まり、クレスの美しい唇が何度も動いては閉じる。
 何といえばいいのだろう。
 誰の名を口にすればいいのだろう。
 もう、そんな大切なことを忘れてしまったのかと、寂しさがクレスの冷たく胸に広がっていく。
 精密なほどに絡み合うから感情と記憶だからこそ、一度壊れては戻らない。それほどに大切で、尊い何かであった。
 それだけが今のクレスには判る。 
 あとはもう何も判らない。
 尤も、たとえ識ったとしても、其の聲を聴くことも、温もりに触れることも。
 もはや決して、決して叶わない。
 何故かそう思えた。
 切ないほどに強く疼く胸だというのに、涙の気配はない。
 その全ては、もはや零し尽くしたかというように。
「いいや」
 そのような夢の名残に揺れて、どうするというのだろう。
 大切なものはある。胸に抱いて、その名を呼べる。
 今も残る存在を、その手を引いて未来へと進む為にクレスは緩く頭を振り、胸の裡で燻り続ける昏い熱を消し去っていく。
 これは一度浮かべば、そう簡単に消し去れるのではない。
 かつての情念の深さがクレスを蝕むように、過去がその手と指先を絡ませるように心に触れるけれど。
「大丈夫だ」
 可憐な花の一輪に、柔らかな微笑みの貌を思いだした。
 ぽやぽやとした陽だまりの気配に、寂しさが過ぎ去っていく。
 だからまた足を踏み出せた。
――ああ、此処は時間が凍て付いているのだ。
 だから、過去もまた追いついて浅き夢の中に浮かんでしまう。
 そんな微睡みと寂寞を心から払い、クレスはこの冬忘れという凍れる時の眠りを解く為に、花園の奥を目指して足を速める。
 夜を越えて暁と巡り逢うように。
 白と黒が溶けて混じり合った先の群青色の空に、明日の太陽が浮かぶように。
 冱てる冬の先には柔らかな春が孵る。
 巡り、移ろい、揺らいでいく季節。
 そんな世界の中でこそ、儚き命を世界は幸うのだから。
 けっして止まってはいけない。
 進み続ける中でこそ、花は咲き誇る。
 思いと共に、幸せとへと花開く。
 夢と過去の裡からは何も取り出せないのだから。
 あの高くも美しき青空へと、クレスは未来を掴むように手を伸ばした。
 

リュシル・フロスティア
ノア・アストラ

 冬を忘れた花園に、美しき雪の貌が訪れる。
 数多と花の色彩はあれど、真白き色はありはしない。
 柔らかく、優しく、無垢なまでの純白さ。
 ああ、確かに。
 冬忘れの園に、この綺麗な冬の情景のいろはありはしない。
 けれど、今やここに。
 柔らかな雪色の髪をふわりと靡かせて微笑む少女の姿があった。
「わぁ」
 喜びのような、嬉しさのような。
 そんな感嘆の息と共に、淡いアイスブルーの眸を揺らすのはリュシル・フロスティア(雪の王国の小さなかみさま・h01398)。
 浮かべる表情も、ふんわりと柔らかな微笑み。
 とことこと、花の傍を歩き回るのはさながら雪の妖精であるかのよう。
「とっても綺麗……」
 ふるりと瞼を震わせて、そしてくすくすと喉を震わせて。
「お城を抜け出して、ノア君とお忍びデートにぴったりだね!」
 可憐な声色を紡ぐリュシルに、白雪と凍星の騎士たる青年は首を振るう。
「いや、デートではないよ」
 否定はするけれど、とても柔らかく。
 とても大事な雪花を包むように、優しい視線を送る美貌の青年。
 ノア・アストラ(凍星・h01268)だ。主であり、手の掛かる妹のような存在であるリュシルの楽しげな姿に、緩やかに頬を緩ませていた。
 ノアの瞼が瞬けば星彩を零すような眸の煌めきが零れる。
 まるで艶やかな色を帯びた水晶のような綺麗なノアの双眸を見て、リュシルは笑っていた。
 女性が十人いれば十人がノアの眸と貌に目を奪われるだろう。
 だが、無垢なる少女であるリュシルは違う。美しき姿の奥にある、心をしっかりと見つめていた。
「ふふ、違った?」
 でも大丈夫だよと、花たちに囲まれてリュシルは続ける。
「えへへ。ちょっぴりノアくんの冒険についてきたよ」
 見る者の心をほっこりと暖かくする、リュシルの笑み。
 これを見てはノアも柔かな表情を浮かべてしまう。
 その後に、氷雪で紡がれたような貌にどうしようかと悩みを浮かべるだけ。
 王国の中心たる城から殆ど出ることのできないリュシル。
 年頃の少女が巡りたいだろう場所に触れることもできない。
 ならせめて花の美しさを見せたいとノアはリュシルを連れて来たけれど、ダンジョンに足を踏み入れさせるのは流石に拙かっただろうか。
 過保護か、それとも深い情ゆえの心配か。
 珍しくノアが悩んで視線を揺らす姿に、リュシルはふふふと喉を震わせた。
「大丈夫、途中でちゃんと帰るからね。それまでなら、ノア君がいるから大丈夫だよね」
「勿論、リュシルのことは守るよ」
「うん、ノアくんの言うことを守っているかぎり、ノアくんの近くは大丈夫。世界でいちばん安全」
「…………」
「だからわたし、わがままは言わないよ。大丈夫。ノアくんがくれる大丈夫なんだから、大丈夫」
 にっこりと笑う雪の少女の姿に、冷たき白雪の青年もまた微笑み返す。
 そうして、リュシルはノアの視界の中で駆け出すのだ。
「……わぁ、お花がいっぱい!」
 年頃の少女のように。
 いいや、まるで夢の国へと訪れたかのように。
 ふわふわと幸せそうに跳ねて、花たちの鮮やかな色彩に触れていく。
「いつもまっしろな銀世界しか見ていないから」
 それもまた、とても美しいものだろう。
 でも、誰だってまだ見たことのないものに憧れる。
 手の届かない星空の輝きへと、指を伸ばすように。
「お花畑ってあこがれだったんだ」
「そうだね」
 ただただ、普通のお花畑。
 なのに、まるで星の海に辿り着いたかのように、嬉しそうにはしゃぎ回るリュシル。
 それほどに、リュシルにとっては特別なことなのだろう。
 少しだけノアの心に切なさが疼いた。
 年相応に世界に触れさせてあげられればと。
 だからこそ連れてきて良かったとノアの唇から安堵の息が零れた。
 そうしてリュシルを追いかけながら、広がる春の景色にノアは足を止める。
 ひとまず周囲に危険はないようだった。
 だから暖かくて柔らかな風に身を任せながら、リュシルの様子を見守っていく。
 赤に黄色、橙に青。
 紫とピンクの花もまた、風に揺れている。
 あの花の名前は何ていうのか。
 そうはしゃぐリュシルは、春の情景の優しさに心を奪われているようだった。
 けれど、ふと思いだしたように振り返り、小首を傾げて囁く。
「ううん、いつまでも変わらない。わたしたちの国もキライじゃないんだけれどね」
「ああ。僕たちにとって大事な場所だからね」
 不変たる白銀の美で飾られし雪の国。
 ノアは思い出しながらも、世界は静かなる雪景色だけではないという事に思いを馳せる。
「外の世界を、もっと……」
 ノアがリュシルに教えて、見せて、訪れさせることが出来たら。
 そう考えながらもノアの囁きの聲は雪の吐息となって、誰にも届かない囁きとなって春の暖かさに熔けていく。
 ノアとリュシル。
 ふたりの白雪の長髪もまた、柔らかな春風の中で揺れていた。
 まだ、此処にいていいのだと抱きしめられるように。
 だからふと、瞼をゆっくりと下ろすノア。
 その傍でリュシルも花を眺めていた。
 雪のようにふわりと自由で軽やかな心と姿を、このひとときにリュシルとノアは見せていた。
 リュシルが気に入った花は、赤や黄色、橙といった温かな色合いのものたちだ。雪国では目に見ることも叶わない、暖かな色に惹かれていく。
「少し摘んで帰ったりできないかな?」
 そういってリュシルが手を伸ばすけれど。
「ああ、この花は幻みたいだね」
 星の光にようにリュシルの指先をすり抜ける花に、ノアはそっと声を寄せる。
「触れることも、摘むことも出来ない」
 まるで永遠の記憶として、残されるように。
 或いは、残したいのだという祈りがあるように。
「まるで、ゆめまぼろしのような……」
 そこにあるけれど、儚きもの。
 流れ落ちた星への願いめいたものを感じて、ノアが僅かに思いに耽っていると、リュシルがふわぁと大きな吐息をついた。
「う~ん……なんだか、ぼんやり心地よいかんじ」
 花の香りに誘われてしまったのか、瞼を擦るリュシルがいた。
「ふわふわ温かくて、やわらかい」
 零れそうな欠伸を必死に堪える。
「これが春の香り?」
 春花の香りであり、永久を願う誰かの名残。
「……リュシル?」
 異変に気づいたノアが優しく、リュシルを白と黒の色彩を合わせ持つコートの中へと包み込む。
 防寒だけではなく地形耐性のあるコートだ。
 これに抱きしめられている限りはきっと大丈夫。
 解ける雪の白、凍てつく夜の黒。ふたりの美しい国を思い出させる、その色彩。ノアという存在の現れ。
 そんなノアの安心に包まれるからこそ、リュシルは穏やかに囁くのだ。
「まぼろしでも何でもいいよ」
 ぽやぽやとした様子で、夢へと誘われながら少女の小さな願いを零す。
「こんなお花畑、お城の庭でもいつか見られたらいいな」
 そうして微睡みに包まれた中で見る夢は、現実よりさらに美しい。
 雪の降りしきる純白の庭。
 けれど、色鮮やかな花たちが咲き誇る。
 けっして、白と黒の色彩がふたりきりで寂しくないようにと、たくさんの色が寄り添うあう。
 そんな優しい夢の姿の中へとリュシルは潜っていく。
「眠ってしまったかな」
 ノアは自らの腕の中ですやすやと眠るリュシルを見つめると、大切そうに抱きかかえて、安全な入り口まで一端戻っていく。
恭しくも丁寧に。
 兄としての親愛の柔らかさと、騎士のような誓いをその姿と腕に込めて。
 リュシルの譫言が聞こえてくる。
 舞う雪と、踊る花びらが地と空に溢れている。
 冷たい風もその厳しさを忘れて、みんなを慈しむようにと流れていく。
 何かもが変わらない銀世界が、さらに美しくと春花たちを迎え入れてくれたのだと。
 喜ぶリュシルの小さな声が、ノアの胸に優しく染み渡る。
「……そうだね。いつか、そんな後継をみせてあげられたら」
 きっと素敵なのだろう。
 きっと、きっと。
 それを願って生きられるぐらいに、幸せなのだろう。
 夢の姿を追い、流れる星の光に導かれて、ひとは進み続けるのだから。
 このひとときの夢と花の物語を胸に抱きしめて、ふたりはまた明日へと歩んでいく。
 自分自身と、傍にいる大切なひとの為に。
 そうして雪の国の優しき真白き彩はいずれきっと――数多の色と幸福を抱きしめるのだろう。 

玉梓・言葉

 冬を忘れて咲き誇るは、花か心か。
 四季を問わずして織り成す色彩は、さながら幻想の彼方。
 何処までも続き、広がるのか。
 どうして咲いて、枯れ果てないのか。
 うららかな風に揺れ、ひとの心に囁く花びらたち。
 硝子の筆に情念のインクを滲ませれば、美しさに誘われて詩を綴るだろう。
 やわく、もあまく、あわい言の葉を紡ぎて繋ぐ。
 情動が震えることを、生きる心は止められない。
 そんな夢幻の如く繊細なる情景に、ふと息が零れる。
「美しいのう……」
 水縹色の眸をするりと細めて呟くは、玉梓・言葉(|紙上の観察者《だいさんしゃ》・h03308)。
 儚げな青年の姿をしているが、楽しげに喉を鳴らして笑うのは好々爺そのもの。
 ああ、確かに長い時を生きたかもしれない。
 そのぶんだけ、愛おしいものを見て来たのだと、モノクルの奥の眸がゆっくりと流れた。
 見渡す限りを彩るは色鮮やかなる花々。
 椿、薔薇、芍薬に桔梗。菖蒲に杜若、百合と梔子。
 名のない花などない、という言葉通り、その名前を読み上げれば、幾ら時があっても足りはしない。
 だからこそ美しいとだけ心に留め、玉梓は感情の揺れて流れるに任せ、ゆるりと辺りを歩き続けた。
 あらゆる花がある。
 足りない色彩などありはしない。
 が、その中でも玉梓が心を惹かれたのは優婉なる桜たちである。
 はらはらと、薄紅の花びらを舞わせている。
 時の移ろいをはっきりと浮かび上がらせる桜並木。
 麗らかな風が吹けば詠うかのように花吹雪をざわめかせ、玉梓の心の隙間に、すぅと入り込む。
「なんと、美しいのかのぅ……」
いっとう好きな花よ。
 百年と生きるは樹木も、潔く散る花びらも、まるで短きひとの命。
 桜よと何故に咲くのかとついつい足を止め、見上げてしまう玉梓であった。
――何故、ひとは恋をするのか。
 玉梓の最初の主が恋に落ちたのは、こんな桜の下であった。
 そして、恋を実らせたのも桜の元でであった。
 その時、ただの道具、ただのガラスペンであった玉梓も、また桜花に祝福されるように、自我を目覚めさせたのである。
 つまり玉梓が最初に眺めた美しき風景とは、この桜色の舞う世界であった。
――もしも永遠に時間を止める時が来るならば、桜の下に埋めて欲しい。
 そう想ってはいる。
 産まれた場所で、共に目覚めたものと。
 まるで懐に抱かれるように終わることが出来ればと思うものの。
「まだ、そちらには行かんよ」
 ふっと薄く笑って袖を翻し、囁くような花びらを払う。
 情に溢れた微笑みであった。
 優しく、慈しみ、そして悲しむものの美貌であった。
 いっとう美しき想いを捧ぐ者の姿である。
――お主を呪いから介抱するまで、共にいると約束したからな。
 そうして指先で慰撫するのは、使役する死霊《彼ノ人》――かつての主。
 自我に目覚めたのは最初の主たる男の恋の芽吹きである。
 が、最後の主である女が恋で破滅したという影によって、玉梓はひとの形を手に入れてしまった付喪神。
 なら、この躰を返す際には救いをもたらそう。
 全ては桜に埋もれるのだと、ガラスの筆先で美しき物語として綴りて呪い閉じよう。
 途中の悲しさも、苦しみも、破滅も呪いも、いずれは花と散るものでしかないのだと。
 結末に咲く花の名は、しあわせだけでいい。
 その為にと玉梓は時を刻む。
 まだまだだと首を振るい、慈愛の如く降り注ぐ桜花の中へと死霊《彼ノ人》を舞わせる。
「花々がその身を満たす痛みを癒やしてくれるといいのじゃが……」
 今は少しの辛抱を。
 必ず、必ずや遂げてみせるからと玉梓は瞼を閉じた。
 美しき桜の花に誓おう。
 この呪いという悪夢を払うのだと。
 強い風が吹いた。
 時の流れを告げるような花嵐が乱れ、玉梓の白い髪をさらさらと靡かせる。
「ああ。わしも歩いていこうのう……。約束がある限り、何処までもな」
 いずれは終わるが故に。
 この手で終わらせるが為に。
 今は優美なる桜の風景の中へと言葉の姿はとけていく。

六・磊
壬生・縁
刻・懐古

 花よ。あなたは何故に咲くのか。
 情愛に溢れるが如き姿を、祈りめいた色彩をただ一時の為に。
 いずれ終わるというのに、どうして咲き誇ることを選ぶのか。
 名を知らぬ者も、数多といると知りながら。
 星海の麗しさよりなお鮮やかに、その花びらを綻ばせ、風に乗せて遠くへと届けていくばかりだった。
「意思があると思う程に」
 ここは冬を忘れた幻想の園。
 時の流れが途絶えたが如き、永劫なる春夢である。
 が、そのような事など花は知らないだろう。
 まるで心があるように咲く花の美しさは、何処であっても変わらない。
 ならば、そう。
「そう。ひとの心と意志があるかのように、美しい花ですね」
 六・磊(垂る墨・h03605)が金の双眸を細めて囁く。
 まるで心を持つも、身体を持つには至らない頃の|付喪神《ぼくたち》のよう。
 物腰柔らかな六磊が語れば現実味を帯びてしまう。
 あらゆる夢を、童話を、戀の喩えも。
 六磊という美しき風姿の男が語れば、するりと心に響くのだ。
 その声はかつて、命を奪い合う刃金の音色だったからか。決して大きな声ではないというのに、胸の奥まで届いてしまう。
「季節の移り代わりで儚く散ってしまう存在なのに」
 魂に触れるような、澄んだ六磊の声色。
「花というのは、人の情の産まれ変わりのようです」 
 だというのなら、続く声もまた同じものである。
 ただし、彼の声は安堵を届けるような声質であった。
「花々も昔から人に寄り添い、物語を紡ぐ名脇役になることも多い」
 ちく、たくと。
 誰かの心に寄り添うような、精密な旋律で言葉を紡ぐのは刻・懐古(旨い物は宵のうち・h00369)。
 近寄りがたいと思う程に整った、儚げな美貌の男である。
 だが寄ればその黄昏の色を宿す橙の眸には、人懐っこい温もりと優しさが宿っていた。
「美しく咲き乱れる姿は、感情にも影響を及ぼす――不思議な存在だね」
 書生服に身を包んだ懐古は懐中時計の付喪神。
 羽織をはためかせながら、ゆるりと進む姿は見る者の心に安心を与える。
 一時とて狂うことなく、時間と流れを示す針のように。
 ならその傍らで優美に微笑むも、やはり浮世離れした存在であった。
 儚くも、美しく。
 桜の花びらが移ろうが如き貌。
 純然たる一等星のように輝く銀の眸は、ひとから外れた身であることを告げている。
「物語を紡ぐ名脇役。その通りね」
 白櫻が如き佇まいを見せるは壬生・縁(契・h00194)。
 が、その長い黒髪は夜帳の如く艶やかである。白と黒のコントラストが心に眩しく、鮮やかな色彩こそ無くとも磨かれた宝石を思わせる風貌だった。
 いっとう尊き契りの指輪の付喪神である壬生は、柔らかな風に攫われた花びらへと指先を伸ばしながら続ける。
「……花は感情を動かすもの」
 壬生の繊指が、微かに花びらに触れた。
 ほんの微かな触れあい。それだけで、壬生の心にふわりと暖かなものが浮かぶ。
 そしてふたりとは違う性質の付喪神である六磊も、ゆっくりと続けた。
「大切な記憶を呼び起こし、思い出の傍らに残り続ける」
 何も花びらの美しさだけではない。
 その色が、香りが、魂に染みこむほどの記憶となるのだ。
 六磊は妖刀の付喪神。斬り合うことを歓びの熱としたモノ。
 いや、それはかつての事か。今はもはや、穏やかなる日々を過ごし、人の世を学ぶもの。好奇心で風のように軽やかに歩を進め、あらゆる情緒の美しさを知っていく。
 刀であったのは過去のこと。だが、そんな六磊の昔の道行きの中であっても、花には思いの名残があるらしい。
 ゆるりと、金の眸と聲を揺らす。
「まさしく懐古さんの仰る通り、名脇役といったところでしょうか」
 あくまで生きて、自ら道を進む者達が主役である。
 座して待つばかりのモノは、自らの運命を勝ち得ることなどできないのだから。
 剣呑な戦場の人生から、今は恩義を返すべく心音を響かす六磊であればこそ風情を誘う言葉であった。
 変わり、移ろうということ。
 そこに美を見出し、自らもまた歩む。
 三者はそれぞれに深き処は違えど、同じ見解と情を持っていた。
 故にと懐古と六磊に頷き乍ら、壬生もまた春風と彩溢れる園へと花逍遥。
 尽きることのない花の世界。
 終わることのない、夢の花。
 永遠を生きる三柱の付喪神が、その中を揺蕩うように歩いて行く。
 僅かな微睡みを感じるが、それは麗らかな光と柔らかな風のせいだろう。温もりを感じながら、三人は幻想の花園の深くへと訪れる。
 見れば桜が咲いている。
 白梅の楚々たる美しさもあれば、桃花の柔らかな色彩が零れ落ちようとしていた。
 艶やかな深紅は、ああ、きっと椿の中でも名の響く鈴鹿山。
 四季の移ろいは定かではない。
 いいや、だからこその夢幻のごとき儚き風景に、懐古は頬を緩めた。
「花見酒に興じたい気持ちもあるが、流石に気づけば花となっていそうだ」
 つい、酒の好きな懐古が声を滑らせば、楽しげに六磊が言葉を広う。
「夢に微睡み、花に包まれ、それでもひととして。いいではないですか、この花も心を持つかのよう。僕たちなら悪いようにはなりません」
「おや、そうかな」
「花も夢を見る為に酒を求めているでしょうとも」
 ついついという悪戯心で乗り気を示す六磊と、善き酒ならとばと少しばかり本気で悩み始めた懐古だった。
 くすくすと嫋やかに微笑み、ふたりを制するのは壬生の姿。
「花見酒、楽しみたかったけれど。次の機会にお預けね」
 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
 一輪の花の如く背筋を伸ばす壬生が窘めるように口にすれば、悪戯が見つかったのように六磊と懐古が苦く笑う。
 それでも楽しげな三人だった。
 気づけばくすくすと、三人で笑っていた。
 花に笑みを飾り、この日という記憶に香気を纏わせる。
「そう。花見酒というのなら、月も浮かべたいわ」
 壬生はふわりと蕾が綻ぶように表情を変えた。
「六磊さん。懐古さん。お二人は思い入れのある花はおありかしら?」
 純白の疑問――或いは、永い時の裡で|色《きおく》を喪った問い。
 いいや、だからこそか。その真っ白な頁の上に思い出を広げるように、懐古は穏やかに語る。
「僕は金木犀かな」
 三香木のひとつであり、甘やかな香りを漂わせる秋の花。
「花は一時なのに、あの香りがとても記憶に残る」
 どれほどに香気を溢れさせても、一度雨が降りしきり、花びらが落ちれば潔く消え去る。
 初恋という言葉に寄り添う花であった。
 時の流れを示すような、小さな花びらでもある。
 だが、その真実は判らない。懐古は思い出を語らず、ただ花の名と香りを告げるだけ。
 壬生もゆっくりと頷くと、しっとりと情に濡れた声色で紡いだ。
「私は百合と霞草」
 美しい花である。
 心で抱きしめたい花たちである。
「主人の、幸福と別れに手向けられた花よ」
 壬生の美貌に悲しみ翳りはなく、むしろ溢れんばかりの情があるだけだった。
 ふふふ、と唇が笑みの音色を奏でる。
 哀しく思う時期はとうに過ぎ去ってしまったのかしら。
 今は思い出を忘れぬようにと、大切に抱えるだけ。
 懐古も深くは述べず、伺わず、僅かに眉尻をさげた。
「大切な花だねえ」
 長くを生きる付喪神であれば――大切なモノも、花も、記憶も増える。
 そして喪ったモノも、増えていく。
 離別は避けられない。なら、後悔のないように大切に今を抱きしめ続けるだけだ。
 腕から唐突に消えてしまう儚いものであっても、抱きしめ続けることに意味はある。
 だからこそ懐古も壬生も、何も語らずに瞼を伏せて思い出に耽る六磊に問いの言葉を向けない。ただ、優しく紡がれる時を待つだけ。
 ようやくと六磊が粒由衣田。
「……名は知らないのですが」
 微かに刃金の澄み渡る音色がした。
 しゃらん、しゃらんと鞘より滑る気配。
 此の|身《刀》を手に、戦いを駆けた嘗ての主の面影が浮かぶ。
 ああと、六磊の唇から切なげな吐息が零れ落ちる。
 百鬼夜行にて作られた妖刀は、そも尋常なる戦場を潜り抜けていないのだろう。だが、その奥にあった幽艶なる美しさを思いだしていた。
 刃が美しいのか。
 双眸が美しいのか。
 それとも、願う心こそが身を昂ぶらせたのか。
 今は追憶をなぞるように、柔らかな声で六磊は語る。
「赤く、鮮やかな紅色の花でした」
 しん、と静かな気配であった。
 が、それは冷たいものではない。暖かなものであった。大切な、愛おしいものをそれぞれに思いだし、心の中で触れるものであった。
 記憶を共有は出来ない。
 でも今のこの穏やかさ共に出来るのだ。
 六磊が見た懐古と壬生の花を見る双眸も、自分と同じく懐かしむものだと感じて微笑む。
「金木犀に紅色の花。どちらも一等綺麗だったのでしょうね」
 まるで|宝石《我が子》のような存在を眺めるように壬生が頷く。
「六磊さんもいつか分かるといいね、花の名」
 名前で呼んで貰えることが、とても嬉しいことだから。
 モノの付喪神である懐古らしく語り、口元を緩めた。
 この花園も、きっと数多の思いが眠っているのだろう。
 そっと周囲の彩りを見渡す懐古。
 数え切れないほどの思いが、暖かな風に揺れている。
 けれど、眠りはいずれ終わるもの。
 花はいずれ、散る定めであるように。
「終わりがあるから美しい」
 けれど、そう壬生が断じてしまうのは、彼女が永遠を手にしてしまったからなのだろうか。
 刹那を生きるひとの心は判らない。
 それでも壬生が囁くのは、祈りめいた声色だった。
「思い出は思い出のまま、時が美しくするものもあるのだから」
 定命なる者の心と情の流れは判らない。
 けれど、けれど。ああ、その通りと。ひと共に刹那に火花を散らした|身《刀》が微笑む。
「永遠が幸せとは限らない。僕も、そう思います」
 不変なる世は、きっと息が出来ないから。
 変わらないというのなら、心に愛しさを重ねていくことも出来ない。
 息と指先を絡め、暖かな情を育むことも。
「思い出は思い出のまま、しまっておきましょう」
 変わらない過去だから、そっと胸の奥に抱こう。
 あらゆるものが朽ち果てても、自分たちは覚えているのだと心の奥で囁きながら。
 この幻想の花園も、すぐに消え果ててしまうかもしれない。
 狂い咲く徒花として、散らされる定めなのだ。
 けれど、覚えていよう。忘れないでいよう。
「さあ。本当に花が咲き誇ったら、三人で花見酒だ」
 誰かの心と共に生きていく。
 それは永遠の命を持った付喪神にも咲かせることのできる、さいわいと云う花の色なのだから。
 花は風に揺れ、心と情に咲いていく。
 季節は移ろい、いまは散っても、いずれまた。
 巡りて巡る世界の美しさと、心を、三人は見つめ続けるのだった。

集真藍・命璃
月夜見・洸惺

 儚き花もこの花園では美しく咲き誇る。
 永久に。変わることなく。
 暖かな光と風に包まれて、寒い冬のことなんて忘れ果てて。
 けれど、それがひとの夢なのだ。
 幸せなことを、楽しいことを、ひとつずつ繋ぎ合わせていく世界。
 だから、この場所をただ否定することはなかった。
 ただ美しくて、綺麗な姿に、心を揺らせばそれでよかった。
 あらゆる花たちは、記憶の中で咲き続けるのだから。
「わ、ここって本当にダンジョンの中なのかな……!?」
 そうして、心の中に花を抱きにきたのは月夜見・洸惺(|北極星《Navigatoria》・h00065)。
 眸を幾度か瞬かせて洸惺は息を零す。
「天国に来ちゃったかも」
 そう思うくらいに綺麗な花園がずっと先まで続いていた。
 さながら星の海のように、果てが見えないほど。
 けれど艶やかな色彩は触れられる程に近くにあるのだ。
 手を伸ばせば柔らかな花びらへと指先が触れて、甘い香りを放ちながら揺れていく。
 きらきらと輝くことはないけれど。
 それでもとても美しい色彩が溢れていた。
「わあ、一面のお花畑」
 明るい声と笑顔をみせたのは集真藍・命璃(|生命《いのち》の|理《ことわり》・h04610)だ。
 紫の色の双眸にきらりと喜びの光を宿して、花の間を渡るようにステップを刻んでいく。
 声も詠うように軽やかだった。
「夢みたいな景色だね」
「う、うん」
 明るい命璃の声に、こくこくと洸惺も頷いてみせていた。
 花に包まれる。
 それは命璃にとっても、洸惺にとっても、普通のヒトよりもとても特別な意味をもっていた。
 命璃の足下に咲いて散りゆくは|不凋花《アスフォデル》。
 ひとりの少女の花葬の為にと、咲き乱れる可憐な花たち。
 見つめて、知りながらも、今は笑みを浮かべるんだと洸惺も穏やかに笑った。
 くすくすと命璃が笑うのだから。
 だから正しい。だから楽しい。
 少しでもその魂に祝福と幸いあれと、洸惺も今は心配を忘れてくすくすと笑う。
 そうだ。折角の永久の花園なのだ。
 もしも本当の姿で思いっきり走れたら、きっと楽しそう。
 そう思いながらも教えの通りに自分を抑えようとする洸惺。
 けれど命璃という少女の元気さは、ただ普通に花と戯れるだけでは終わらない。
「のんびりピクニックも良いけれど、洸惺くんとしかできないことがしたいなぁ」
「命璃お姉ちゃんは僕の背中で何してるの……?」
 甘えるような声色で命璃が言いながら、洸惺の背へとよじ登っていく。
 洸惺は夜のような黒い姿と、悪魔の翼を持つ八本足の|天馬《スレイプニル》。
 まだ子供ではあっても、全力で走れば普通の馬と比べものにならないほどに早く駆ける。
 普通はそんなに早く走れる、安全な場所なんてない。
 けれど、此処は何処までも続くような広い花園だから。
 なにひとつとて危険のない、夢のような場所だから。
「だからね、さっそくレッツゴー!」
洸惺の背中に登れば、遙か遠くを指さして声をあげる。
「な、何をすればいいの? 命璃お姉ちゃん」
「何って早駆けだよ」
「早駆け?」
 美しい馬に乗って、一度はしてみたい事だもんと命璃はくすくすと笑う。
 この笑みを散らしたくないと、洸惺に思わせるような明るくて、けれど何処か透き通る少女の表情。
 手を離したくないと思ってしまう。
「洸惺くんって足も8本あるし翼も生えているから」
 まるで夢のような花園で。
 まるで星のように流れる天馬と共に、走り抜けてみたいのだ。
 柔らかくて、暖かな風を追い越してみたい。
 それでどうなるのだろう。
 どんな風に楽しいのだろうと、始まる前から命璃の心が躍る。
「ねね、お願い! ちょっとだけで良いの!」
 そう命璃に頼まれたら、洸惺には断り切れない。
 もっと笑って欲しいと、思うから。
「少しだけだからね……!」
 きっと早く走れる筈だという命璃の願いに応えるように。
 けれど、命璃が危なくならない程度の速度で洸惺は走り抜け始めた。
「わ、わ、わあっ」
 命璃が喜んで笑う声がする。
 八本の足は花から花へと渡り、風を越えて真っ直ぐに走り抜けていく。
 きっと早く走れるハズと思った命璃の願い通り。
 いいや、それ以上の速度と、何より特別な景色と心地を与えていく。
 走り出した洸惺の速度の儘に、通り過ぎて変わりゆく花園の景色。
 波のように並ぶ赤い花を越えて、次は橙色。
 黄色から青、青から紫と変わっていく景色と色彩の波は、そうまるで……。
「花だけじゃなくて、虹の橋を渡っているみたい」
 はしゃぐように笑う命璃。
 もっと笑ってと、優しさで走る洸惺。
 風を越えるのも気持ちよかった。
 あらゆる全てから解き放たれ、自由になったかのような心地に包まれる。
――洸惺くんも、もっと自由に、何時も走ったらいいのに。
 でも、そんな事出来ないのかなと命璃が首を傾げる。
 危ないから。
 他のひとと違うから。
 色んな理由が命璃の中に浮かぶ。
 けれど、今だけはやっぱりどれも当て嵌まらないはず。
 背の高い花たちの間を駆け抜けて。
 涼やかな音色を奏でる小川は、一息に飛び越えてみて。
 ああ、ふたりならきっといけない処はない筈だと、純粋な心にふたりして思い、信じる。
 まるで天馬と駆ける冒険なのだから。
 無数の美しい花たちが、いつでも見守ってくれるという安心の中での。
「ね。洸惺くん、もっと楽しく走ろうよ」
「うんっ。命璃お姉ちゃんが喜んでくれるなら」
 その為なら、この本当の姿で走っても良いはず。
 ひとと違う姿を、洸惺はこれほどに嬉しいと思ったことは少ないだろう。
 誰かの為に、この八本の足はある。
 悪魔のような黒い翼だけれで、今は命璃の心の為にある。
 そう思うと、少しだけ誇らしかった。
――命璃お姉ちゃんを、今、僕はちゃんと幸せに出来ている。
 幼い心に無垢な誇りを抱き、洸惺は青い眸をきらきらと輝かせていた。
 そして、青から紫へと花の色が移り変わる境界で命璃が声を張り上げた。
「あ、紫陽花!」
 命璃の好きな花だった。
 命璃の大好きな父が、好きな花だったから。
 だから少しだけ摘んでいきたいなと、洸惺の馬の首に寄り添い、耳元でささやく。
「とまって、洸惺くん。紫陽花だよ、紫陽花! とっても綺麗なの!」
「急には止まれないんだけど……」
 それでも命璃のお願いならと、緩やかに速度を落としつつ、弧を描くようにして通り過ぎてしまった紫陽花たちの咲き誇る場所へと近付いていく。
 だが、天真爛漫な命璃は最後の最後まで待つことができなかった。
 洸惺がいいよという前に、止まった背中から思いっきりダイブするように紫陽花へと飛びつく。
 危ないと洸惺が云う暇もなかった。
 けれど、ふわふわと浮かぶ命璃の姿。
「幽霊だから浮くんだった!」
 重力なんてないように浮遊して、紫陽花の傍に辿り着く命璃。
 本当は着地と共にふわっと花が舞い散るようにしたかったのだけれど。
「難しいね、慣れないことって。でも、洸惺くんとだから楽しい」
そんな失敗もくすくすと笑ってしまう、幼心の少女。
 心配した洸惺は普通に降りてとお願いするけれど、それが聞き届けられる時は来るのだろうか。
 でも。
――もう一度、命璃お姉ちゃんを乗せて走りたいかも。
 いずれ、もう一度。
 紫陽花の花を摘んでいく命璃の姿を眺めながら、もっと自由にと願う洸惺だった。
 この花たちは綺麗だけれど。
――僕はゆっぱり普通に咲いている花が好きかも。
 だから今度は普通のお花畑で、命璃お姉ちゃんと走りたい、遊びたいと思う洸惺。
 次が楽しみだった。
 明日が続くという当たり前に、心が温かくなった。
「ね。洸惺くんっ」
 両手に抱えるほどに紫陽花を摘んで。
 それでもまだ足りない。だって大好きだからと柔らかく、幸せそうに笑う命璃。
「紫陽花を摘んだら次は何をしよう?」
 花よりも、星よりも。
 風より、光より。
 温かくて大切なものを感じて、ふたりはくすくすと笑う。
 花たちは、幼きふたりを慈しむように抱きしめていた。
 無垢なる心に、優しき願いが終わることのないように。
 冬の寒さをひととき忘れて、命璃と洸惺は花と共に遊び続ける。
 暖かいねと笑う少女の貌は、天馬たる少年が見守る瞳は、花よりも美しくて可愛らしかった。
 

カヤ・ウィスタリア

 麗しき雪の降り注ぐ冬の季節。
 色を忘れ、白に染まり、寒さに小さな花芽吹くだけの現。
 されど、あらゆる四季の花が咲き誇る景色は、さながら幽世の姿であった。
 春を渡り、夏と絡み、秋の色付きと、冬の艶やかさに織り成す。
 草花は冬を――季節を忘れ、ただ幽玄なる美を飾る。
「ほう」
 そんな冬忘れの花園を薄い紫の双眸が見つめる。
 儚げな色彩である。だが、彼女の声は柔らかな風を越えるほどに大きかった。
「四季折々の花々が一堂に会そうとは中々に美麗な光景ではないか」
 詠うように朗々と笑い、カヤ・ウィスタリア(誘い惹く香り木・h02501)はゆったりと花と花の隙間を渡っていく。
 美しい肢体であった。
 長い脚がするりと伸びて、僅かな隙間へと足先を滑らせる。
 甘い匂いの染みついた衣。その深いスリットから覗く、瑞々しい肌と脚を惜しげも無く風に触れさせ、悠々と歩いていた。
 白銀の髪も、うららかな光の中で艶やかに輝く。
 が、ともすればカヤは陽の裡にあるものではない。
 まるで月光だ。玲瓏とした光に濡れ、透き通るような儚さと美しさの共存する佇まい。
 時の流れに囚われぬエルフという、神秘の美であった。
 ならばこそ、この幻想的な冬忘れの花園に相応しい姿でもある。
 螺鈿細工の施された美しい煙管、香り煙羅を指先で玩びながら、くすくすと微笑んでみせる。
 見るものに気品さえ感じさせた。
 甘やかな夢を見させる花の鮮やかさでさえ、カヤの前では霞むようであった。
 が、カヤは此処に生きている。
 優美な足取りで進み、自らの思いで先へと進む。
 月の妖精でもなければ、銀花の精でもない。
 カヤは心を誘う美しき調香師である。魔性を帯びるように見えても、何処までも時間の中を歩むものであった。
ただそんな神秘なカヤに一点の弱点があれば、その声の大きさだろうか 
 すう、とカヤが息を吸えば、甘やかな花の香気が胸に、心にと溶け込む。
「四季を問わぬ花たち。それらの香りが複雑に溶け合い、鼻孔を擽るこの香気…、外では味わえぬ甘美さよ」
 ふるりと花の香気の甘やかに身を震わせたカヤ。
 ともすれば、その仕草だけで夢のようだと思わせる事もあるかもしれない。
 だが、声があまりにも大きすぎる。
 リアリティを奪う風姿で秘やかなる匂いを纏い、声にて現実を思い出させる。
 そう――現実を忘れてはならないのだと。
「されどこの花々、全ては呪いの産物」
 いったい誰の、どうしてなど問わない。
 魔をも成分とする香を扱うカヤが、相手と直面せずに正しさと是非を問うことは難しい。
 だが、カヤは少しばかりの翳りを美貌へと乗せる。
 好かぬと。
 これは今と未来を生きる心が燻らせる香りにあらず。
 魔香も広くあれど、これはさながら死者の為の花香である。
 故に好めぬとカヤは断言し、首を振るう。 
「解けぬ呪を以て命を意志無き花へと落としたとあらば、如何に馨しきとて此れは骸の香りに他ならぬ」
 例えば、反魂香なるものをカヤは認められるだろうか。
 いいや違うだろう。否定こそしないものの、自らの傍にあってはならぬものとして見る。
 現にカヤは夢へと誘い、花へと落とす香気へと眉を顰めてみせていた。
「好む者も在ろうし、私とて死に近き香りを香の素材に用いはするが、愛でる気にはなれぬな」
 されど。
 ああ、されど――反魂香が正しいと思って使うものなどいまい。
 骸を素材とする恐ろしさ、悍ましさ。
 倫理を踏み潰し、正義なるものを壊して、道理を蹂躙する。
 だが、それは願いなのだ。悲痛なまでの祈りをもって、正しきを捨てた香りである。
「好む者も在ろうし、私とて死に近き香りを香の素材に用いはするが、愛でる気にはなれぬな」
 故にと、愛でる気にはならない。
 傍におくつもりはないとカヤは結論づけながら、紫の眸を揺らす。
「なれど、或いは呪いにて尋常の理を外れたとあらば其処にて感じるものも在ろう」
 カヤは美しき肢体に染みこんだ、花よりもなお甘美なる香気を纏って歩き出す。
「花と変じ、故に、花の香りも楽しめぬでは余りに哀れというものよ」
 せめてもの慰めに。
 花へと変わってしまったモノへの心へと、届くように。
 もはや指先は、美しきカヤの肌を撫でることも出来ない。
 それでも届くならば、心が花の根に残るならば、風に乗って届くがよいと舞うが如き動きで自らの香りを周囲へと放つ。
カヤの周囲を中心として、夢と眠りへと誘う花香が止まる。
 代わりにカヤの馨しき芳香が溢れ、甘やかな覚醒を促す。夢のように心地よくも、精神は何処までも高揚する――そう、現実で夢を追いかける為の香薬であった。
 身と肌に、瑞々しい肢体に染み込んだ香りを更に広げ、花園の奥へと渡りながらカヤは微笑む。
 ふふ、と。
 あらゆる花に、鮮やかな色と、美しき香りに。
「案ずるな、身の清潔は保っているとも」
 ゆるりと眸を揺らして微笑む。
 優雅なる足先は花を踏み散らすことなく、この冬忘れの園の深くへと至らせる。
 誰がいたのか。
 どうして始まったのか。
 美しき花たちを解放し、現の時の流れを戻す為に。
 自らは時の流れを越えて、自由に舞うカヤが艶やかに微笑む。
 さながら遙かなる時の流れの向こうで佇む月影の如く。
 皓々と艶と香を示すのだった。

第2章 集団戦 『光晶の精霊』


●断章 ~光は冬を拒み、時を止める~


 光が煌めいた。
 うららかな日差しが続くと思われた中、それは唐突に。
 眩い白光を伴い、流星が地に墜ちるかのようにそれらは現れた。
 姿はまさに光の精霊である。
 まるで光を裡に封じた水晶のように輝きながら、それは動く。
 目の前に現れた異変――花を散らすだろう侵入者を止める為に。
「止まってください。帰ってください。さあ、眠ってください」
 セレスティアルのような姿をした精霊たちは、光の眩さと共に声を紡ぐ。
 白い光の翼をはためかせながら、自らの身体を構築する光を剣とし、或いは魔法で操る光晶の精霊たち。
「――この花たちは、愛されているのです」
 故に散らす冬は不要。
 流れる時もまた不要であると、暖かくて眩い光が云うけれど。
 もはや眠りと夢の時は過ぎ去ったのである。
 この先で花の呪いを広げてしまうモノに出逢う為に。
「この花たちは、愛されているのですから――もう喪わせないで」
 悲しげな声で囁く精霊たちを退けるのだ。

 
――悲しげな小夜曲の歌が、この精霊たちの背から聞こえてくるのだから。




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●解説

 第二章、集団戦です。
 此処から参加の方も歓迎ですので、どうぞ宜しくお願いしますね。


 プレイング受付は2/13日(木曜日)の08:31分から、2/15日(土曜日)の夜23時頃までの予定です。


 多数を同時に相手とっても、一体に集中して速やかに倒しても構いません。
 精霊ですから、完全に存在を断つほどの事をしても、いずれは復活するでしょう。一切の加減や遠慮は不要です。
 光の身体ですが普通の、純然とした物理でもダメージは問題なく通りますので、その辺りはお気になさらずに。

 また、√能力以外にも光晶の精霊たちは敵対する相手の戦闘スタイルに合わせるようです。
 つまり、刀剣を持って近接戦闘を使うものならば光を剣や槍として、銃や弓ならばこちらも光を集めて弓にして。
 魔法で戦うというのならただ純粋に光の魔法を操ります。
 こちらはキャラクター様たちの得意分野、その領域で充分に戦って頂ければというものですので、気にしないのでしたらそれでも構いません。


 それでは、第二章。どうぞ宜しくお願い致しますね。
 
 
クラウス・イーザリー

 慈しむように光を届け、花を育む精霊たち。
 だからこそ、訪れた者が花びらを散らすを許せない。
 此処は愛に満ちている。
 厳しくて冷たい冬を忘れられたのだ。
 だから来ないで。
 もう喪わせないで。
 白い光を瞬かせる精霊たちの詠うような声は、切なく胸に響くけれど。
「……駄目だよ」
 クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)は青い双眸に、微かな光を灯して口にする。
これは呪いである。
 何処までいっても美しい呪詛でしかない。
 冬を忘れて、悲しみを忘却する為にと、暖かく綺麗となったとしても、その真実は変わらない。
 そうして、これは広がっていく。
 誰かの手に、誰かの幸せにと。
 そうやって呪いと悲劇を広げる花を放置することはできないのだ。
 この花園を終わらせることが、また新しい悲しみを紡ぐ事となっても。
「先に進んで、終わらせないといけないんだ」
 指先をしなやかに踊らせ、スナイパーライフルの遊底を引くクラウス。
 がしゃん、という美しい花園には似合わない鋼の音がした。
 それが合図だった。
 光晶の精霊たちが眩い閃光を放つ。
目を奪い、視界を潰す真白き輝き。クラウスが咄嗟に使い古した戦闘用ゴーグルを下ろして、眩さから瞳を守らなければ危なかっただろう。
 光の溢れる余り、何も見えない純白。
 そこで待つのは死神の鎌刃しかないのだから。
「そうだ」
 クラウスが生きた√ウォーゾーンでも、この花園でも何も変わらない。
 無慈悲な光が、生きる者を灼くばかり。
 強き者が、弱き者の心を染め抜いて踏み躙るように悲しみを広げていくだけ。
 だから負けられない。
 希望を喪失しても、悲しみの終わる未来を見つめるクラウスは後方へとダッシュしながら、自らの銃を火炎弾発射形態へと変形させる。
 特殊な電流で脚力を強化する靴の効力もあって、一息にと後方へと跳び退くクラウス。
 ざわりと、その身には赤い花風を纏っていた。
 走り抜けた勢いで散った鮮やかな花びらを伴わせているのだ。
 そして片膝を付いての狙撃姿勢。
 精密に弾道を計算した上での狙撃が光晶の精霊を捉え、薔薇よりも鮮やかな深紅の炎でその身体を包み込む。
 まずは一体。
 けれど、まだ一体。
 射撃の直後に横手へと全力で駆け抜けて位置を変え、踊るように翼をはためかせる精霊たちに囲まれないよう距離を取っていく。 
 そして、また銃声が響く。 
 一撃、一撃と光晶の精霊を穿ち、燃やし尽くすは戦場が生んだ炎の弾丸。
 美しいばかりの光と花など、焼き払う熾烈なる戦そのもの。
 いいや。綺麗な姿の奥にある、毒のような呪いをこそ燃やし尽くすのだ。
「また、次……」
 ああ、けれど。
 燃え尽きながらも、精霊は悲しげな声を紡いでいた。
 湧き上がる、何かの感情で胸が痛い。
 悲しみでもあり、苦しさでもあった。
 だがクラウスはその美貌にうつる淡い表情を、ふるりとも揺らすことはない。
 けれど、止まることなんて出来ない。
 戦場で何かしらの懊悩を抱えていられるほど、命とは強靱なものではないのだから。
 脆くて、儚い命を抱えて射撃と共に走り抜けるクラウス。
 決意を弾丸に込めるように次弾を装填し、銃口を精霊たちへと向ける。
 精霊たちも光の弓矢で応射するが、戦場で培った眼で見切り、ひらりと躱してみせる。
 無数の矢が迫るのを囮として、光鎖が捕縛しようと迫る。立て続けの矢の連携による回避した直後、地面の着地の瞬間を狙ったこれは避けられない。
 が、クラウスの手が握るのは柄だけの武器――いいや、トリガーを引けば眩い光の刀身を展開する光刃剣。
 光を断つは、やはり光。
 クラウスが居合の如く放てば、魔力で紡がれた光鎖が光刃の元で霧散し、その身を捉える前に斬り払われる。
 ならば、続く光線による強撃もひらりと躱してみせるだけ。
 変わりに炎の銃弾を撃ち込み、またひとつ、またひとつと精霊の姿を消していく。
 そうやって戦うクラウス。けれど、やはり精霊たちの声も、奥から微かに聞こえる歌声も悲しげだった。
 戦うクラウスでさえ、胸が苦しくなる。
 切なく、苦く、そして愛と後悔に満ちた悲恋の歌だった。
 いいや、だからこそ。
「悲しみを広げ続ける呪いを、この歌声を、終わらせないといけない」
 冬を忘れて、散ることなく。
 延々と悲しさを広げて、かつての幸せに溺れる花の夢たち。
 そこに囚われた光晶の精霊たちへ。
 ようやく訪れる終わりと解放を告げるように、クラウスの銃声が響き渡る。
 花が舞い散り、炎に焼かれた。
 けれど姿を喪った想いは風に乗り、辿り着くべき場所へと流れていく。
 きっと在るべき場所へと、悲しみの消え去る本当の楽園へと、辿り着くのだ。
 もう悲しみ続けることはないと、クラウスの青い眸が静かに告げる。

アドリアン・ラモート

 吸血鬼の緩やかな赤い眸は、冬忘れの園の神秘を見る。
 数多と溢れる花の色彩を飾るは、光晶の精霊たち。
 何処か悲しげな声を震わせながら、柔らかな風に揺れる花たちを守護しようとしている。
 祈るように、願うように。
 けれど、ともあればこの身を賭すことも厭わぬ覚悟を見せて。
「花園に光の精霊?」
 ああ、分かっている。感じているとも。
 けれど、アドリアン・ラモート(ひきこもりの吸血鬼・h02500)は穏やかな貌で告げるのだ。
「僕はこの先にだけ用があるんだけど、通してくれない?」
 ふるりと首を左右に振る精霊たち。
「ダメ?」
 重ねるアドリアンの声に、光を束ねて剣の形を作る精霊。
「だめかー」
 穏やかに笑って、けれど次の瞬間にはアドリアンの影がひとりでに踊る。
 影の名はNoirgeist。
 様々な武器へと実体化し、主の命令や感情に反応して、無音のままに敵を襲うもの。
「じゃあ倒して先に進むしかないか」
 光が強ければ自ずと影も強くなるというもの。
 ならば今のNoirgeistの強さは如何に。
 十本の刀剣を生み出し、戦闘態勢を取るアドリアン。
 両手には影より紡いだナイフを持って構え、残る八本は自らの周囲を漂うように射出し、周囲を牽制させる。
精霊たちの光の翼がはばたく。
 愛しい花を踏んで散らさないようにと低空での高速飛翔。
 それを見たアドリアンはやっぱりかと囁いた。
「花を散らされたくないみたいだし」
 正面左右と同時に迫る光晶の精霊を迎え討つ影の刃たち。
 光と斬り結ぶ影。静かに、けれど花と命を散らすだけの鋭さをもって、白と黒が踊る。
 だが、その本当の目的は倒すことではない。
「僕も今咲いてる花をわざわざ散らす趣味もないからね」
 同時に連携攻撃を受けることを避け、一体、一体と確実にアドリアンが接近戦へと持ち込む為の牽制と誘導だ。
 そうだと分かっていても、光晶の精霊たちは思いに突き動かされ、ただ光の剣を振るう。
 眩い閃光の一閃が迫れば、静謐なる影の刃がそれを弾く。
 僅かに崩れる精霊の体勢。見えた隙。
 逃すことなくアドリアンがもう片方の手で握る黒いナイフが躍り、精霊の喉を斬り裂いていく。
 溢れる声は、断末魔は、やはり悲しげだった。
 もう喪わせないでと懇願し、光の翼を散らして、周囲へと溶かしていく。
 気の抜けた笑顔を浮かべるアドリアンが一言づける。
「君たちの叫びを聴いていると、なんだか僕が悪者みたいだね」
 が、実際には悲しみと呪いを広げているのがこの精霊、そしてダンジョンの主だ。
 悲劇に狂い、災いの花を芽吹かせたもの。
 それがまだこの奥から、切なくて悲しい歌を続けている。
 次の精霊が放つ刺突を躱し、急所を斬り裂くアドリアン。更にと迫る一体には、むしろこちらからと機先を奪って胸部を十字に斬り裂く。
 飛び散るのはあくまで白くて美しい光ばかり。
 血はない。涙もない。
 代わりに、悲しみを散らすようにと光が零れていく。
――悲しみに囚われていたのかな? 悲しみに狂い、歪んでしまったのかな?
 少なくとも、アドリアンが悪者であるということはないだろう。
 悲しみに陶酔し、過去に逃避し、あらゆる現実を夢で溺れさせて過去と花で埋もれさせようとしている。
 なら一時とて猶予はなく。
 ただ終わりという慈悲を届けるだけ。
 精霊たちが光の弾丸を射出し、プリズムめいた乱反射を起こしてアドリアンの身を灼いていく。
 更には味方同士に光の波動による戦闘力強化の祝福を与え、一斉にと飛び掛かっていた。
 だが、眩い光は影を濃くするばかり。
『その黒き力の前にすべてが沈黙する――Zwillingssturm Noir!』
 一気に迫ってきた精霊たちを迎え討つのは、漆黒の刃嵐だった。
 静寂のままに風を、光を、精霊を斬り裂く黒の狂奔。
 渦を巻いて精霊を斬り裂く八本の影剣と、アドリアンが構えて急所へと放つ双つの影のナイフ。
 一度、二度と巻き起これば、二十を超える斬撃の跡が光晶の精霊たちの身体に刻まれ、影に蝕まれるようにとその白い姿を消していく。
「おやすみだね」
 告げたアドリアンが、また一歩とダンジョンの奥へと歩き出す。
 花を踏まないように。散らさないように。
 そして、もうこれ以上の悲しい花が咲かないように。

玉梓・言葉

 
 全ては流れて移ろうもの。
 花もやがて散りて風に乗り、知らない世界へと旅立つ。
 流れる川も絶えずして、されど同じ水ではありはしない。
 光も影も姿形を変え、月は同じ輪郭で昇り続けることはない。
「光の精霊というのなら、わかっておる筈よのう」
 まるで流水のような柔らかな声色で告げるのは、玉梓・言葉(|紙上の観測者《だいさんしゃ》・h03308)。
 儚げな美貌の男である。
 それでいて、春風めいた穏やかさと柔らかさがある。
 が、その右目にはまるで亀裂のような傷跡が示されていた。
 ひとを見つめ続けて来た、ガラスのペンの付喪神である玉梓が囁く。
「”愛”とは可変的な物じゃよ」
 季節と等しく、ひとつの処には留まらぬものである。
 春には優婉なる桜花が咲き誇るが、夏が始まる頃にはただ桜も葉の緑の瑞々しさを抱くばかり。
 秋となれば紅葉の色を抱く草木たち。
 そうして冬も、寒さに負けない艶やかさを帯びる花がある。
 それらの花々のどれがいっとう尊く、いっとう美しいなど決められまい。
 いいやだからこそと、緩やかに頷いて先を続ける玉梓。
「春から冬までそれぞれの愛があるとは思わんか」
『――――』
 悲しげな声を続けていた精霊たちも、その言葉にぴたりと止まった。
 それぞれの愛。
 幼いもの、美しいもの。
 捻れてしまったが故に深きものもあれば、ただ切実に求め合うものもある。
 だが、そのどれがよいとは云えない。
 だって、愛情とは心のままに変わるのだから。
 悲しい恋が、そのまま悲しさで終わるとは限らないのだから。
 それがひとの心にもたらされた、救いであるのだろう。
「不変の愛とは。そんなものあれば、いつか根腐れを起こしてしまうじゃろうのぅ……凍えていはおらぬが故の情じゃよ。温もりをもって流れるが心じゃよ」
 光の精霊たちは分かるだろうか。
 いいや、彼らなら理解してくれるだろうと玉梓は花たちに語りかけるように目を伏せて、ふっと薄く笑う。
「それに、お主達もずっと咲き誇り続けるのは疲れてしまうのう」
 水縹色を浮かばせる双眸をゆるゆると揺らす玉梓。
 優しく慈しむような情に溢れた眼差しだった。
 その貌には、雪融けの水のような澄んだ美しさがあった。
 ただそこにある。それだけのものを愛おしむものの姿であった。
「身の内に力を蓄える事も出来ず」
 蕾として、思いや願いを秘めることもできず。
「常に全力の美を誇る」
 もしも、この花たちがひとであるのなら。
「まるでずっと背伸びをしているようじゃ」
 何時でも休んでいいのだ。
 長い、長い旅をひとは続けるのだから。
 ひとの命は花のように儚いものかもしれない。
 でも、絶えることのない川の水のように、それは受け継がれていくものだから。
 たとえ春のひとときに咲く、儚い花であっても。
 十全にその人生を花開かせる為に、冬の蕾であることや、夏に枝葉を伸ばすことも大事なのだから。
 花を慈しみ、枯らすことも散らすこともないという精霊もまた、どれほどの長い時間、心を張り詰めさせていたのか。
 察するに――精霊も悲しみのままに、ただ続けていたのじゃろう。
 どうすればいいのか。どう進めばいいのか。
 分からないから夢を見て、停滞と不変の世界へと閉じこもった。
 悲しみを終わらせる術を自ら忘れてしまったのだ。
 冬という終わりを喪った花園に、玉梓は言の葉の雨を降らせる。
「眠れ」
 柔らかく、穏やかな声であった。
 続く玉梓の声色は流れる川のせせらぎのように、耳朶に届いて心に触れて染み渡る。
 そして舞い散るは美しき桜の花びら。
 心を魅了するような優美なるいろが揺れ、冬忘れの花さえも眠りへと誘うような声と花びらが揺蕩う。
 ひとときの声に、言葉に。
 さながら慈雨のような旋律に、心が揺れて……。
「そっと目を伏せよ」
 そうだ。玉梓が戦う必要なんてありはしない。
 ただ奥へと行きたいだけ。
 この冬忘れの迷宮の、悲しみの源である主と出逢いたいだけ。
 精霊も花も、倒して散らす必要などありはしない。
 だから眠れ、眠れ。
 甘やかに眠り、揺るかな夢に抱かれよ。
 それはすぐに醒めてしまう、浅き夢でしかなくとも。
「また翌年見事な花を咲かせればよい」
 意固地な少女を宥めるようにと、くすりと微笑む玉梓である。
 何を心配し、憂うことがあるというのじゃと。
 今はわしが傍におろうと柔和な微笑みを浮かべて、詠うように囁く。
「大丈夫じゃ、お主らは散る姿も美しい」
 そして喉の奥へと言葉を呑み込む。
 贈る言葉というのなら云わねばならない。
 が、それはきっと眠りを妨げよう。そして、云わずとももはや分かるもの。
 いいや、云われれば逆に心が反発して目覚めてしまうだろうもの。
 痛いのだ。この花も、精霊も、その心の部分が。
 だから慰撫するようにと吐息ばかりを玉梓は零す。
――喪わねば、より美しい花を咲かせる芽はこの世に生まれぬ。
 終わりは、始まり。
 冬が終われば春となるように。
 春が閉じて、夏の輝きが届くように。
 四季は巡りて、愛は変わって、朽ちることなく続くのだから。
 いいや、それで喪えと言われて納得できるような愛などこの世にはないという悲しみを、心の奥底で玉梓は揺らして思う。
 愛とはなんと狂おしいものであるのかと。
 理性と頭で理解して、なおもひと続けるからこそ悲恋の物語は尽きないのだ。
 だからこそ美しいのだと、ひとの心を奪うのだと、玉梓も瞼を伏せて一歩を踏み出す。
 今はただ、その悲しさを終わらせよと。
「ゆるりと休むが良い」
 花も精霊も、全てが桜の花びらに抱かれ、眠る場所をあとにして。
 更に深い場所を巡るように。
 どうしようもなく悲しい傷跡に触れるように。
 この花園の深部へと、玉梓は至っていく。

結城・凍夜

 花の鮮やかさを惹きたる春の日差し。
 それが集まり、白くて眩い姿を紡いでいく。
 何処までも光は優しく。
 けれど、囁く声は悲しげだった。
 咲き誇る花を散らさない為、冬を忘れたいと願うもの。
 自然の摂理を狂わせてもなお、そう祈ってしまう心。
 だが、それもひとつの狂い咲き。
 四季を狂わせ、美しい巡りを留める災いの芽吹きだった。
「あれが、この花畑に現れるという精霊ですか……?」
 どれほどに綺麗であっても、どれだけ切実であって。
 時間が止まる事など許されないのだと、結城・凍夜(|雪の牙《スノーファング》・h00127)は紫の双眸で光晶の精霊たちを捉える。
 うごめく光は、あらゆる冬を阻むものだった。
 眼鏡越しに見つめる凍夜の眼には、それが自然より外れてしまったものに見えた。
 自然の流れにあって、異なるものを排除しようとする。
 そんなこと本来の精霊が行うはずもない。
 悲しみによって狂い、捻じれ、異なるモノへと変貌しかけている。
 そう感じるからこそ、凍夜は精霊銃”スノーホワイト”を構えた。
「先制させてもらいますよ!」
 飾られる青い宝玉に雪の精の宿る白銀のスナイパーライフル。
 スノーホワイトの名に相応しい美しさ。
 だが、それは光晶の精霊たちの認めない冬の色彩であった。
『――――』
 ざわりと空気が鳴る。
 その先に存在するのは雪狼の獣人たる凍夜。
 真白き姿に青を帯びる姿は、ひやりとした麗しさ。
 されど、花を散らす冬の色だった。
『花を散らさないで』
 ただその一念で光の矢を放とうとする精霊たち。
 けれど、攻撃の意志を感じ取って発動されるのは凍夜の精霊光学迷彩だ。
(さぁ、|狙い撃たせてもらいます《ターゲット・ロック、シュート》!)
 機先を奪う跳躍によって狙撃の間合いを確保し、一息の間もなく氷雪属性の弾丸を放つ。
 鮮やかな花びらが周囲に舞い散る。
 その中を走るのは、きらきらと輝く白雪の如き弾丸。
 触れた者を凍て付かせる神秘の弾丸は、光の精霊を撃ち抜いてその場で凍り付かせる。
 直後、氷の砕ける儚い音を残して精霊の姿は掻き消えていく。
 するりと、冷たい風だけが残った。
 たとえ光の精霊であったとしても、そこに|存在している《ある》なら、凍り付かせてみせるだけ。
 どれほどに四季の巡りを、冬を阻もうとも、確かに世界は息づき、巡り続けているのだから。
「残念ながら、冬を拒むことはできません。それは自然の摂理に反しています」
 自然界の力の現れと流れ。
 移ろうが故に美しく、一所に留まらないから喜びとは溢れるもの。
「精霊であるならば、分かるでしょう?」
 凍夜が正しき論を口にするが、誰かに言われて心を変えられるなら、これほどの|花《思い》は溢れない。
 花を散らさないで。
 これ以上は喪わせないで。
 精霊たちは悲しい声色と光の矢を紡ぎ、凍夜へと放っていく。
 いいや、自分たちこそ冬を喪わせ、未来を散らしているというのに。
 感情に対して正論は無力だ。
 募りすぎた情念は、現実を歪めてしまう。
 ああ、ならばとあらゆる言葉を呑み込み、ただ冷たい息と共に次々と氷雪の弾丸を放つ凍夜。
 凍り付いた精霊の像が花園に現れるが、光の暖かさのせいですぐに罅割れ、砕け散っていく。
 精霊たちの放つ閃光と光の矢も、空を切るばかり。
 光を屈折させて姿を隠して回避している凍夜。光の精霊たちの攻勢が過ぎ去れば、また弾丸を放っていく。
 外の正しき世界に溢れる、冬の色と情景を取り戻すように。
 確かに花を散らしながらも、正しき自然の流れに溢れるように。
 冷たい空気とて、澄み渡るが故に美しい。
 星の光がもっとも綺麗に見えるのは、冬の空気の中なのだから、
 微睡むような優しさはないけれど。
「光の精霊であるなら――本来は冬をも慈しむはず。四季のどれかを、仲間外れになどしないはず。そうでしょう?」
 そうでなければ、この花園では冬だけが喪われている。
 冬だからこその尊さと素晴らしさがあるというのに。
 それこそ、今の姿は冬が奪われ、そして、冬こそがひとり悲しむようなもの。
「違いますか?」
 穏やかに、けれど、何処までも真っ直ぐに。
 雪の色彩を纏う凍夜は、静かに精霊たちに告げる。
 そうして、最後に残るは氷だった。
 咲き誇る花の中で、きらきらと輝く氷の像たち。
 忘れられた冬の冷たさと美しさを表していた。
 凍夜は冷え始めた空気に、そっと唇から白い吐息を零す。

クレス・ギルバート

 忘却と微睡みの中で、とこしえの夢を。
 花は咲き誇り、風は柔らかく、暖かな日差しが降り注ぐ。
 甘やかな花の香りと、鮮やかなる色が溢れる場所で、どうして悲しみがあろうか。
 だから悲しみという冬を訪れさせないで。
 これ以上、奪わずに私たちと優しい眠りの中にいて。
 そう願う光晶の精霊たち。
 切実さは過去の悲劇が故か。
 それ以外を認められないのは、捻れてしまったのからか。
 ただ、この声と暖かな光を受けながら、真白き姿が歩み出る。
 花溢れる地を渡り、皚々たる白雪の如き髪を揺らすのはクレス・ギルバート(晧霄・h01091)。
「残念だけど、その願いは叶えられないな」
 紛う事なき、美しき冬の情景を帯びた儚き美貌である。
 雪のように白い髪と肌。宵に滲むことなき純白の外套。
 目と心を奪う無垢なる晧を、鮮やかな花たちの裡で浮かべるクレス。
 鮮烈な光は冬の白さを溶かすかのようであっても。
 精霊たちの悲しげな光と声に、軽やかに笑って応えてみせた。
「散らず常しえに咲く花に成って」
 花と、花の間を静かに渡り歩き。
 無為に散らすことはなくとも、確かに異を唱える姿。
「愛でられるだけの命なんて御免だぜ」
 さながら無垢なる刃である。
 自らの想いと信念にのみ従い、進む鋭くも綺麗な雪風の貌である。
 クレスの儚げな風姿も、心より溢れる微笑みにより、何処か刃金の如き艶やかな艶を帯びていた。
「ヒトはな、時を重ねて生きてこそ、だろ」
 情を知るから。
 思いを抱くから。
 互いに大切と感じて、尊びながら生きていく時間の大切さをクレスは知っているから。
 薄い紫の双眸を僅かに揺らし、唇より吐息を零す。
 胸に咲かせたアネモアの青い花びらが、クレスの呼吸に合わせて小さく揺れる。
 言葉は終わり。
 心と思いの大切を知るからこそ、互いにこの場は譲れない。
 ならばこの冬忘れの涯を裂いて、咲き誇る無垢なる白刃が定めるのみと、クレスのしなやかな指先が晧の柄を握る。
――散るのは、いずれか。 
 刹那、眩い光が舞い散る。
 翼をはたかめせて光晶の精霊が接近し、クレスへと光刃を振り下ろしたのだ。
 いいや、光は精霊の刃のみならず。
 鞘より鋭く抜き打たれた晧の一刃が迎え討ち、音よりも早く光刃を捌き返す。
 光よりなお白きクレスの無垢なる剣閃。
 花浮かべる風より流麗に切っ先を翻せば、袈裟にと精霊の胴を薙いで一息の凪が訪れる。
 直後、湧き上がるのは鮮やかなる花嵐たち。
 一拍遅れて奔る太刀風は、苛烈なる冬の氷嵐の如くと吹き荒れる。
 無数の風刃はさながら煌めく氷雪を懐くが如し。
 花を散らし、風を渦巻かせ、光をも断つ澄んだ刃金の音色が零れ落ちる。
 一体でも多くを巻き込み、一瞬でも速やかに安らかなる眠りを届ける為に、冬の冷たき慈悲の白さをクレスの刃は示していた。
 ならばこそ、返す刃はさらに峻烈なる吹雪に似る。
 それでもと剣風の吹く中を越えて、光の翼を斬り裂かれながらもクレスの前へと躍り出る精霊たち。
 光を収束させた一刀を放つが、ひらりと雪が踊るように柔らかく身を翻したクレスには届かない。いいや、その外套の裾にすら刃は触れえない。
 逆に精霊の太刀筋が甘いと見れば、しなやかに受け流して切っ先を狂わせ、出来た隙へと白の一閃を瞬かせる。
 血を流すことのできない精霊たち。
 故に朱の彩たる葩は散ずる軌跡を刻まず。
 されど、まるで雪のような真白き色が、はらはらと幾重らも零れ落ちる。
――ああ、お前たちが冬を抱えていたのか。
――決して愛おしい花に、冬の冷たい光と色が触れないように。
 クレスの唇が声とはならない静かな囁きを紡ぎ、そのまますると静寂の剣閃で光を散らす。
 儚さはまるで花である。
 無垢なる皎刃の剣閃は春に留まるばかりの光を斬り裂き、花を舞い散らせる。
 方や自らの想いと共に振るうクレスの晧の剣刃が止まることはない。
 クレスとて愛しきものを枯らして散らす、冷たく無慈悲なものを遠ざけたいのは分かる。
 だが、これでは先などないのだ。
 思いとは募るものが故に、時間を留めてしまえばもう先はない。
 まるで本の物語のようだ。
 幸せに暮らしました、と終わりを結ばれればそれ以上の幸福は紡がれないように。
「偽りの夢の果てを絶ち斬り――先を求めさせて貰うぜ」
 クレスが振るう刃は、さながら夜帳より零れる幽玄なる月灯り。
 夜を、涯を、不変を裂いて未来を求める美しき光だった。
 そうして精霊たちを斬り捨てて花園の奥へと足を向ければ、微かな唄が聞こえてくる。
 夢の底、夢の更に深き底へと沈んでいく音だった。
 だからこそ、クレスは曇りなき刃で光を散らし、その先へと進んでいく。
 このセレナーデの主へと。
 悲しみに冬を忘れ、時を重ねる事を拒んだ迷宮の主へと終曲を告げて往く為に。
「望む儘に夢に堕とせると思ったら、大間違いだぜ」
 儚い風貌なれど、星彩の如き白光を纏うクレス。
 災いを払い、悲しみを断ち、そして世界を移ろわせる為に。
 ああ、揺れる姿こそ美しいのは、景色も心も同じことなのだから。
 変わりゆく思いこそを、美しくて愛おしいと幸いを願う。
 儚く、繊細に揺れる|花《あなた》。
 現とは余りにも脆いものだと感じさせてくれるから。
 ひとつとて、ひとときとて無駄には出来ないのだと。
 固き誓いの元、時を重ねて進み往くことを祈りながらクレスは進むのだ。


 散った|花《かこ》が、無為である筈などないと示す為にも。

ノア・アストラ

 凍星の美しい姿が、眠る雪の精を導いた。
 安全な場所へとその腕で抱きかかえ、冷たくも美しい光で眠る幼き貌をそっと眺めて照らす。
 そうして、また花園の奥へと潜るのだ。
 夢の奥へ。
 冬を忘れた悲しいセレナーデの元へと辿り着く為に。
 そう。冬忘れの花の世界では、ノア・アストラ(凍星・h01268)の姿はあまりにも浮いていた。
 氷雪を思わせる貌は静かに美しい。
 鋭くも繊細な風貌である。
 薄い色彩は、故にこそ神秘性を見るものに思わせた。
 大地で柔らかく、優しく、鮮やかに咲き誇る花たちとは違うモノである。
 星空にて物静かに輝き、そしてゆるりと舞う存在である。
 だからこそ、掛け離れた美としてノアの姿は遠くからでもはっきりと分かった。
 足取りは白雪のようにふわりと舞うようであり、溢れる花たちを散らさないようにと丁寧に間を渡っていく。
 マイペースではあるかもしれない。
 だがそれは自らの心の旋律を知るからであり、微睡みを誘う花の美しさに揺れる筈のない芯の強さである。
 故に自らの歩みを変えることなく、白き竜の青年であるノアは、自らの足で進んでいく。
 長い竜の白尾が花に触れて、揺らすことはあってもそれは微かなもの。
 とても静かに、穏やかに、花園の深くへと潜っていく。
 だがノアの歩みを止めるように温かな春の景色から、眩い光が現れる。
 視界を染め抜くような純白の色は、光を反射する白雪のそれとは違う。
 自ら輝き、誰かへと光を届ける存在だった。
「白い……精霊?」
 今はこの花たちの為に。
 もはや何も喪われず、奪われないように。
 ただこのまま、そっとして欲しいと悲しげな声で囁く。
 それがどれほどに摂理より離れ、自然を狂わせることか分かっている筈なのに。
「この時が止まって欲しいと」
 時間が流れることがなければ、自分たちの手から零れ落ちた過去とこれ以上に離されることもない。
 離れたくない。喪いたくない。
「忘れたく、ないのか」
 時間というものが、緩やかに記憶を磨り減らしていくものだから。
 冬が訪れば、一面の白雪で全てを埋め尽くし、愛おしい色を忘れさせてしまうから。
 忘却は慈悲というけれど、愛との離別でもある。
 だからこそ、愛と共に眠りたいと精霊は春の光で告げていた。
 ああ、でも。
 ダメなのだ。叶えてはならないことなのだと、ふるりとノアは首を左右に振るう。
「それは……無理な話だな」
 自らが纏う冬の色彩を、ノアたちが生きる冬の王国の情景を拒まれたからなどではない。
 ただ自然な世界と、当然の道理の中でノアは告げる。
「流れる時を否定するなら、そこに存在しないのと同じだ」
 時間は遡らない。
 どれほど大切であっても、過ぎたものは去るのみである。
「だからこそ、今この一時を」
 あらゆるものは無常に熔けて消えゆく泡沫である。
 そうだと知り、心の底で理解し、嫌だと叫ぶ感情に違うよと囁いて、もっと素敵な見方をさせるのだとノアは囁く。
「眼の前の光景を慈しむことが出来るんだ」
 過ぎ去るものを、慈しむ。
 目の前にある世界のあらゆる姿を、心の輪郭をも慈しむ。
 ただそれだけでいい。
 消えてしまうと分かるからこそ、より愛おしく、より慈しむことが出来るのだと、ノアは泡雪のように柔らかく微笑む。
 精霊たちから困惑の気配がした。
 だってノアから感じるのは、何処までも深い親愛と情なのだから。
 冬の色彩をしているのに。精霊たちから花と愛しき記憶を取りのぞくのだろうに。
 それでも有り難うと柔らかな美貌を見せる。
「あの子……リュシルに、夢を見せてくれたことには感謝するよ」
 けれど、と悲しみの翳りを見せる表情。
「結局、夢は夢のままなんだ」
 それでも求めるからこそ夢である。
 夢から何かを持ち帰られたひとはいない。
 けれど、夢で見たものを現実で実現する為に頑張れる。
 どれほどに残酷に時が過ぎていくのが、現実の世界だとしても。
「幸せに包まれて眠ってしまえれば、さぞ楽だろうがね」
 あの子もきっと、そんな楽な方には走らない。
 だから支えて、守ってあげたいのだ。
 そう思うノアが、道を譲ることも、帰ることも出来ないから。
「雪よ、氷よ。この場所で忘れられた白き祈りよ」
 詠うように囁けば、雪白いレインの結晶を周囲に展開していく。
そして精霊が放った光の弾丸と乱反射する光線を受け止め、交差させ、空へと舞い上がらせれば、そこに佇むは美しき氷の結晶たち。
「――涙のように降り注げ、氷の雨」
 澄んだ氷はまるで鏡のようにすべての光を弾き返し、精霊たちへと返していく。
 それは君たちが堪えていた悲しみと涙だよと。
 だから、今は悲しむ儘に涙を流すのだと、冷たい氷の雨が降り注ぐ。
 氷の表面で光が跳ねた。
 光の熱で僅かに氷で融けて、まるで木漏れ日を受ける湖畔のように煌めいていた。
 艶やかな光沢を帯びて降りしきる姿は慈雨のようだった。
「素直に通してくれないのなら」
 そっとノアが腕を振るう。
「物理的に道を開けて貰うしかなさそうだな」
 終わりを告げ、道を求めて。
 凍星はどんな暗い夜をも渡り、ただ真っ直ぐに進む。
 誰かを導く光なら、道理と情のふたつを喪うことなく、それでも惑うことなく進むしかないのだから。
 沢山の涙を知り、悲しみを懐き。
 それでもと進むからこそ、誰かの為にその星彩を美しく輝かせることができる。
 導きの凍星として、ノアは終わりへと進む。
 氷の雨の過ぎ去った跡には、滂沱と涙を零したような花びらが残っていた。
 全ての悲しみを、雨の中で流し尽くしたように。

カヤ・ウィスタリア

 一時を留める願いとは、愛であった。
 過ぎ去る事も、色褪せることも認められない。
 募りに募った思い出で情念を、ただ咲き誇らせたい。
 散ったなんて認めたくなくて、終わったということさえ忘却したい。
 ああ、あの愛しい記憶の中にと微睡むばかり。
 だから奪わないで。
 これ以上、温もりを喪わせないで。
 世界は冬。寒さと冷たさでも、あの愛おしい温もりを褪せさせないで。
 そう願うのは、限りなく純粋で切実な愛であった。
 悲しいまでに現実を認めない、愚かなる願いであった。
「然り、確かに此処に繚乱する花は愛されているのであろうよ」
 それほどまでに、この花たちは記憶と共に愛されている。
 カヤ・ウィスタリア(誘い惹く香り木・h02501)も確かにと認め、しなやかな足を交差させるようにと光晶の精霊たちへと歩いて行く。
 薄い紫の双眸に鮮やかなる花びらの色を懐けば、ゆるりと微笑む。
 満ち溢れる香気は、調香師であるカヤでさえ甘美と讃えるほど。
 これが一切の慕情なく、優しさと慈しみなく咲き誇る筈などありはしない。
 荒野に花は咲くという。
 美しい薔薇は、寒い冬にこそ艶やかな赤を浮かばせるという。
 だが、それもまた愛あっての故だ。
「花園に漂う香は確かに本物であった」
 ましてやこれは匂いというもの。
 ただ表面だけ手入れをすればいいというものではない。
「咲かせたままに任せただ何を与えぬではああはなるまい」
 ひととき、ひとときの草花の姿を見て、適切な水を与え、光を浴びさせる。
 あればいいだろうと光と水と栄養を、溺れるように与えては花の香気は翳りを見せる。
「まことに愛されておった。姿の麗しさのみではない。形の美しさのみではない。瞼を閉じて感じる、それぞれの匂い――心と思いでこそ触れて、愛されていた故の芳香であろう」
 花に心があれば、それを愛されていると囁き返しただろう。
 その証拠として、甘やかに微睡む香りを風に揺蕩わせている。
「されど」
 カヤの双眸が、すぅと鋭さを帯びた。
 甘やかな夢の帳を切り払い、その奥にある真実を見出すように。
「それは『花として』愛しているに過ぎん」
 これは果たして、ただの花であるのか。
 否。呪われた花である。
 かつては人であり、心と魂を抱くものである。
 カヤが慈悲の如く艶やかな肢体より溢れさせた香気に誘われ、悲しげに揺れたことこそその証拠。
 夢に誘う甘やかさも、カヤの周りではぴたりと止まってしまっていた。
 そう。そんなこと、求めても願ってもいないのだと、花たちが持つ魂が泣いている。
 そのようにと、この花園の主はひとの魂と姿を墜としたのだ。
 見た目は麗しく、香りも素晴らしい花へと。
 だが、もはやひととして、誰かを腕で抱きしめ、理想へと歩く脚さえも奪って。
「眠りの裡に花へと落とし、元より在った命の形を喪わせる業を背負った」
 その所業、業である。罪である。
 如何なる言葉を並べた処で、行き着く先などありはしまい。
 むしろ弁論を重ねれば重ねるほど、その罪咎の深さが染み出すというもの。
「ならば、己が喪う事もまた逃げる事は許されぬ」
 己が夢に溺れる為、ひとを狂わせ、ねじ曲げ、現実と化してしまったこと。
 それがどうしようもなく美しくも悪夢めいているということ。
 花となった魂たちが為に向き合い、断罪を受けなければならないのだ。
 まさに花を愛しながら、その花の心を踏み躙るかのような所業であったろうとカヤは囁く。
 心をこそ愛さずに、何が香りと夢を語れるか。
 終わりがあるが故に美しく、愛おしく、そして各々を尊ぶのだという事も。
「不滅の其方らには些か解し辛い話やもしれぬがな」
 カヤが視線を辿らせれば、光晶の精霊たちはまだ悲しげな声を震わせるばかりだった。
 ああ、分からぬか。
 存在として不滅である精霊たちに、限りあるが故の情は分からぬかと。
 が、それは若き日のカヤにも云えたことであろう。エルフという寿命から解放された身である。
 人間という限りある命、短き人生を更に削って進む姿に首を傾げた事とてあるだろう。
 だが、今や調香をもってその願いを叶えている以上、カヤはその限りある命の願いの何たるかを深く理解していた。
 故に、光の精霊たちとは決裂するしか道はない。
「或いは、元はただ切なる愛であったのだろう」
 溜息を零すカヤ。
 美しい貌に僅かな憂いを乗せ、香気の煙をくゆらせる。
「そしてその愛を向ける相手も嘗ては居たのだろうよ」
 花ではなく、香気ではなく、夢でもなく。
 現実で手を取り合い、微笑みあうような相手だったのだろう。
 だが、それが消えてしまった、姿形も煙もない。
 名残の匂いもないからと、花が咲かせる夢に溺れるというのなら。
 いいや、その残滓が為に簒奪の咎を背負ったというのなら。
「その愛の強きが故に簒奪の核と変じたとあらば、私はそれを止めねばならぬ」
 愛は狂気である。
 世界を滅ぼす最大の要因とは、愛である。
 願いが為に魔さえも香薬の材料とするカヤは、それを知っている。
 気づけば恐ろしいものである。
 この花の香気も、周囲に溢れる花の色も。
 かつてはヒト――つまりは、綺麗なだけの骸であるということに。
 それほどの罪の匂いを心で感じる、カヤは眦を決する。
「積み重ねた愛の先に骸の臭気が満ちるを見過ごすとあっては、調香師の名折れというものよ!」
 呵呵と告げ、自らの紡いだ香気を纏う衣をはらりと翻す。
 いや、その艶めいた肢体から背筋をぞわりと甘く震わせる香気を漂わせるのだ。
 繊細なる指先が手繰るは香り煙羅。
 くゆりと紫色の煙を揺蕩わせ、銀の長髪を靡かせながらカヤは肢体を踊らせる。
 深いスリットから美しい脚を覗かせた。肉付きのよい太ももがしなやかに揺れ、細い腰と足先が優婉に踊る。
 さながら天上で咲く蓮華の如き甘やかさ。
 天上であるが故に、触れてはならぬ。欲してはならぬという背徳に溺れそうになる。
 カヤは調香師。ひとに示し、掴ませ、懐と胸の奥に感じされるのはその香気だけだ。
 自らの柔肌の感触など誰にも――愛なき花と愛喪いし精霊になど示す筈もない。
 するりと周囲を満ちたす……いいや空間を支配するカヤの甘美で艶やかな匂い。
 舞うような仕草もまた、香への抵抗力を下げる一手である。
 広がり、広がり、春の柔らかな風さえも染め抜く香気に、もうひとつの香りが重なる。
 匂いとは足し算である。
 そして此処に絡むのは断切香。
 一切の刃を持たずとも鋼を立つ魔香。
 更には、身の奥へと深く浸み込めば、臓腑さえも斬り裂く無慈悲な指先である。
 それが広く漂い、甘やかに揺蕩い、光の精霊さえもひととき甘やかな陶酔に酔い痴れたと思った刹那。
「ここは夢の世界ではない」
 ぱちん、とカヤの指が鳴らされる。
 それを合図として、香に触れたあらゆる精霊が一斉にその身を断たれていく。
 光さえも断つ香は、まさに神秘そのもの。
 自然には在り無い技に精霊たちは驚愕しつつも、身を保ったものがカヤへと殺到する。
「排除したいか。だが、共存こそ自然の調和。花の美しさではないか?」
 故に紅花の麗しさを添えてくれようとカヤの唇が囁けば、香り煙羅より立ち上るは赤い香煙だ。
 まるで椿のような艶やかな深紅である。
 馨しきは確かだが、何処か背徳を憶えさせるのも当然。これは、カヤの血を原料とした焚香。
 多くの竜漿を孕んだ香煙が広く撒布されれば、カヤを守る天蓋の赤い絹の如く広がる。
 艶やかな帳に光は無粋と光を和らげ、それでもと突き進んだ捕縛の光鎖はカヤが直接手にした香裂刃の刀身で切り払う。
 元より濃縮した香気を直接、相手の体内に届ける為の飛翔剣である。触れた光の鎖が断切香の効果によって、はらはらと無数の光となって飛び散る。
「まるで光の飛花ではないか。花の終わりを告げるようで、美しい」
 カヤは優美に微笑んで見せると、連携のトドメと放たれた強き光線も香裂刃にて受け流し、弾き返す。
 はらり、はらりと光が散る。
 桜には早い。
 だが、まるで桜花の如く麗しく、儚く、ひとの目を奪う姿よ。
 光の精霊たちが散る姿は、まさにそのような様。
「命とは輪転し繋ぐもの」
 そして、悲しみに狂った精霊をも退けるほどの自らの香りという存在で。
 くすりと笑って、当然の理であると示してみせる。
 これは何も異なることなどしていない。
 カヤは香りという足し算を、精密に、緻密に仕上げ、織り上げて神秘の如き様を示しただけ。
 故に自らの香気のあとに正しき四季が巡ろうと、艶然と微笑む。
「冬無くしては成り立たぬ」
そうして太ももに巻いたベルトからひとつの小瓶を取り出し、すんと匂いを確かめると蓋をあけた。
 するりと流れるは冷たく澄んだ匂い。
 雪の降り積もった、清らかな朝の匂いだった。
「さて、いこうか。冬を思い出させに」
 そして大きな声を震わせて。
 また花となったモノを慰撫するよう、舞うようにと肢体を揺らして進むカヤ。
 さあ鎮魂の冬の訪れぞと、花の如きカヤの肢体が歌の終わりを匂わせる。

第3章 ボス戦 『堕落者『ジュリエット』』


● 断章 ~花の終わりに寄り添うセレナーデ~



 精霊たちを退けたせいだろうか。
 周囲の景色はいつの間にか仄暗くなっていた。
 それでも花は美しく、夕闇のような中でも色彩を咲き誇らせている。
 春宵の如き静けさの中、セレナーデの歌ばかりが聞こえる。
 歩み続けた先、その歌声とこの花園の主はいた。
 漆黒の翼を持った女だ。
 赤い眸で空の彼方を悲しげに見つめる黒のセレスティアル。
 切望する乙女の姿であった。
 翼を広げ、星より多く花を集め、愛という喪失を埋めようとする。
「清らかなもの、花の甘やかに夢へと墜ちて」
 そう囁く唇は美しく、悲しげに微笑む美貌は儚げである。
 黒き薔薇のようだった。
 そんな女――ジュリエットが黒い翼を広げ、能力者たちへと振り返った。
「あなた達もここに来るのですね。そして、私から記憶の欠片まで消えろと迫る。……まるで冬のように冷たいひとたち」
 くすりと笑いながら、ジュリエットが手に取るのは処刑大鎌。
 恐らく、尋常なる存在ではない。
 禍々しさはぞくりと肌で感じるほど。
 これこそが呪いの元凶であり、これと魂を共鳴させるからこそ、ジュリエットは悲劇と狂気に囚われている。
 闇へと墜ちた、セレスティアル。
「だから清らかなあなた達も、甘やかに微睡む花になって。墜ちて、眠って、私の願いのひとひらに」
 まるで花束を集めるように。
 けれど、花を狩り飛ばす鎌刃が瞬いた直後、ジュリエッタの周囲一帯に一斉に広がり、咲き誇る花たち。
 花の命を啜り続けた禁断の果実は甘やかに実り、蔦や草葉が蠢いてまるで誰かを、何かをと縛るかのよう。
「さあ。……私にあの、愛おしい過去の夢を懐かせて」
 冬を忘れて微笑み続けさせてと、くすりと笑う。
――夢の中でなら、あの愛おしいひとと遭えるのだからと。





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● 解説


 第三章、ボス戦です。
 元はセレスティアルであり、喪われた愛を求める余り、眠りと微睡みに墜ちた略奪者です。
 武器として扱うのは処刑鎌型の遺産『ルート・ハーヴェスター』。
 花を溢れさせる呪われた天上界の遺産であり、これと魂を共鳴させているジュリエットは説得などは不可能です。
 戦闘スタイルは処刑鎌での近接攻撃と、翼を用いた低空での高速飛翔。
 また、花や蔦を操る植物魔法で間接的な攻防を成すよう。
 剣や弾丸が迫れば魔力を帯びた花蔦が防壁となって防ぎ、鎌を補佐するように鋭い花びらが刃の如く舞います。


 プレイング受付は19日(水曜)から、受け付けられる限りと。
 〆切に関しては、少し様子を見て締め切る前日には告知したいと思います(だいたい22日の夜23時頃が目安かなと)


 このシナリオでのそれぞれの√能力の扱いの補足をしますね。


『POW:レガシー・オブ・デス』
 近接攻撃が外れた場合、√能力無効化を持つ花が満ちる空間領域が紡がれます。
 こうして近接攻撃が外れた以外で発生した、既に存在していた花たちに特殊な能力はないのでご安心を(ただし、ジュリェットが草花を操ることはありえます)

『SPD:フォービドゥン・フルーツ』
 もたらす効果は「正直病」に固定です。
 が、これは自分の次の行動を必ず知らせるという正直な病。
 自分の次に取る手が相手に伝わる、先読みされてしまう効果とお考え下さい。

『WIZ:スレイブ・オブ・ジュリエット』
 草花や蔦、或いは舞い散る花びらによって、何かしらの行動が一度だけ必ず失敗します。隷属するのは花たちだけですのでご安心を。
 優先順位はジュリエットが危機を憶えるような行動 > √能力 = それに相応するような行動 > ジュリエットが不利となる状況を作る行動、となります。
 プレイングでどの行動を失敗させるなどの指定は出来ませんが、『こういう風な行動と見せて、失敗させる効果を誘う』などは可能です。技能を合わせたプレイングなどで『どのように誘うか』でも攻略は可能です。
 一つ目の脅威と思える行動、フェイントをみせて失敗させ、二つ目の本命で攻撃する……など。


 また連撃を用いられた場合、複数回√能力を使えるのはキャラクター様だけと致します。
 ジュリエットに関しては、プレイングで対策と触れられたものや、最もキャラクター様の得意とする能力値で一度だけ√能力を使用します。
(連撃は総じて、キャラクター様有利での判定とさせて頂きます)


 それでは、どうぞ宜しくお願い致しますね。
クラウス・イーザリー

 終わる事がないから、次へと始まることがない。
 此処で咲き誇る美しい花たちもそれは同じこと。
 夢から覚めなければ明日の朝が訪れることはないように。
 愛しい記憶に浸り、セレナーデを詠う女には未来もないのかもしれない。
 少しだけ胸が悲しさでざわめく。
 共感出来ない訳ではなく、むしろ痛みとなって覚えるからこそ。
 クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)は青い双眸に決意を宿し、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「夢を見続けても、前には進めないよ」
 花と夢に歌う女――ジュリエットへと、穏やかな口調で続けていく。
「それは過去だから。どんなに愛しくても、やっぱり悲しいものだから」
 だとしても、やはりクラウスも思う。
 喪った家族や親友との夢を見られるなら、ずっと浸っていたくなるかもしれない。
 痛いほどに悲しくて。
 痛いからこそ、離れられない。
 ジュリエットがふふ、と物憂うように笑う。
「愛しくて、悲しくて。だから夢に見るのでしょう。起きていても、忘れられない姿を。寝ても、覚めても、大切なひとの顔ばかりを夢見ている」
「……そうかもしれないね」
 クラウスとて気持ちは分かる。
 いいや、だからこそ止めないといけないのだと、花を揺らす風の中で思った。
 この呪われた花を、広がり続ける夢を、決して野放しは出来ないのだとぎゅっと拳を握り絞める。
 グローブが乾いた音を立てた。
 涙も涸れ果てたかのような音だった。
「それでも生きているから、進みたいんだ」
 クラウスは告げるや否や、花を散らす疾風と化して前へと駆け抜ける。
 ジュリエットの反応より早く、鎌刃が瞬くより早く。
 数多の花びらを舞い散らせてジュリエットの懐へと踏み込み、放つのは拳による猛襲。
 さながら鷹の狩猟めいたクラウスの俊敏さ。
 そして鉤爪の如く撃ち込まれる拳の鋭さだった。
「っ」
 肩を撃ち抜かれれば、処刑鎌を振るおうといたジュリエットの腕が止まる。
 その僅かな隙を逃さず、二連撃を放つクラウス。
 更に再び拳。そして不意を突くような肘撃と繋げ、再び拳とまるで舞うかのような格闘術を繰り広げていく。
 一気呵成。攻め懸かるクラウスは、ジュリエットの反撃を許さない。
 拳で肩、腕、手首と打ち据えて攻撃の挙動を止め、鎧を無視するような衝撃を臓腑へと響かせる浸透撃。
 銃を使えない肉薄戦ならばと実戦で鍛え上げられた殺法を見せ、再び拳の一撃をジュリエットへと撃ち込む。
 まさに嵐の如き猛威だった。
 防御も回避も許さない、研ぎ澄まされたクラウスの技の数々。
 だが、その挙動の裡に在るのは遣る瀬無い想いたち。
 悲しいのは分かるのに。
 愛しい気持ちは、同じなのに。
 それでも呪いと化して広げるのはどうしてと。
 分かる。分かるけれど、生きているから進まないといけない。
 その一念だけで、拳を振るう。
 悲劇の姿を目の前にして、クラウスは自らの苦悩を振り切るようにと猛攻を仕掛けていく。
 間断なく撃ち込まれる一撃、一撃が重く、ジュリエットがよろりと後方へと足を引く。
 此処だとクラウスは鋭く息を吸い込む。
 光刃剣の柄に指先を伸ばし、裂帛の気合いと共に放つは煌めく光芒一閃。
 音さえも置き去りにする、まさしく流星の如き居合だった。
 光刃がジュリエットを、いいやその裡にある悲劇と呪いを斬り裂くかのような鋭き剣閃だった。
 膝を付くジュリエット。
 深く切り裂かれ、黒いドレスから赤い血をとめどくなく流している。
「で、も」
 忘れられないの。
 振り切ることなんて出来ないの。
 そんな哀切の想いを込めて振るわれるは処刑鎌の一閃。
 だが、クラウスは怖れる事なく腕に取り付けたセラミックシールドで受け止める。
「っ」
 悲哀の絡みついた呪いの刃である。
 盾を切断し、クラウスの腕の肉まで到達する鎌刃はまさに呪いそのもの。
 けれど、骨まで到達していない。
 当たったが為に呪花の空間が咲き誇ることもない。
 むしろ痛みが、クラウスの底で揺れる苦悩と悲しみを消し去ってくれるようだった。
 それでも鳥肌が立つ程に嫌な予感を憶えたクラウス。躊躇う事なくその場から後ろへと跳躍すれば、無数の薔薇の棘蔦が先ほどまで立っていた処へと集まっていた。
 あの場にいれば蔦に束縛され、処刑鎌の二撃目を無防備な体勢で受けていただろう。
「あら、惜しい」
「いいや。それなら」
 微睡むような声色で告げるジュリエットに、クラウスが今度はライフルを構えて見せた。
 ジュリエットの負傷とダメージは疑う余地もない。
 近接戦が危険なら、後は銃撃で押し切るのみと遠距離からの狙撃戦へと切り替えていく。
 次々と放たれる銃弾を鎌刃で弾き、或いは花蔦で紡いだ障壁で受け止めていくジュリエット。
 だがそれも全てではない。
 先のダメージで動きが鈍り、ジュリエットの身に少しずつと銃弾が身を掠めていく。
「赦さなくていい」
 柔らかな声色ながら、淡々と事実と想いを紡ぐクラウス。
 夢を追い求め、愛しさに伸ばされる指先を払うのだから。
 悲しみも痛みも、苦しみも分かりながら、それでも先へと進みたいのだとクラウスは声を揺らす。
 赤い花びらは、親友の瞳を思い出させてくれた。
 ああ、あの花は家族のと柔らかく綻ぶ記憶がある。
 もう少しだけ、もう少しだけと、少しずつ浮かび上がる感情たち。
 この夢のような世界で、残骸となってしまった記憶に触れあいたいとも想う。
 だって喪われたとしても、その大切な色は喪われることはない。
 それでも――クラウスには未来が大切だった。
「俺にできるのは、夢を終わらせることだけだから」
 だからクラウスはジュリエットの胸へと、歌の終わりを告げる銃弾を届けてみせる。
 この冬忘れのセレナーデに、ピリオドを。
 たったひとつの終わりを刻んで、クラウスは瞼を閉じた。
 赦されることがなかったとしても、進み続けたいから。
 振り返るのは今じゃなくていい。
 明日を生きる誰かの手を握り、救う為に。
 その誰かは、また別の誰かの大切なひとだろうから。
 喪われたものに別れを告げ、これからの未来が為に銃撃の旋律を奏でる。

アドリアン・ラモート

 悲しげな歌は誰に捧げるものなのだろう。
 美しい花と夢の狭間で揺蕩う歌声は、けれど誰の胸にも届かない。
 だって、届けたいひとはもういないから。
 この世界にいない存在に、歌を届けることは出来ないから。
 あくまで美しい音色だと。
 この言葉が結ばれることはないのだと。
 アドリアン・ラモート(ひきこもりの吸血鬼・h02500)は僅かに瞼を伏せて、喪われた誰かと絆へと祈りを捧げた。
 そうしてゆっくりと声を紡ぐ。
「さっきまでも幻想的だったけれど」
 変わらず咲き誇る綺麗な花たち。
 そして流れる歌声と、柔らかな風。
「BGMまで追加されてますます雰囲気が出てきたね」
 だが此処まで踏み入ってはタダでは済むまい。
 アドリアンの声を聞いたジュリエットが処刑鎌を抱き、花を踏み散らしてふわりと躍り出る。
 漆黒の翼が羽ばたき、鎌刃が凍えるような白さで輝いた。
「美しいお嬢さんと戦うのは気が進まないけれど」
 敵意はないと示すようにアドリアンが後ろに下がるが、そのぶんだけジュリエットは前へと出る。
 処刑鎌を構えて、歌うことをやめて切っ先を向けていた。
「説得して帰ってくれる感じでも無さそうだし戦うしかないかぁ……」
「ええ、そうよ」
 アドリアンとジュリエットの赤い双眸が、互いを捉えた。
「花にならないなら、花の為に散って貰わないと。それとも、花の為に墜ちる覚悟はあるかしら?」
「ないね。それに、無事に見送ってもくれないか」
「そう。――夢に溺れてくれないなら、私の願いに沈んでくれないと」
 そうして花を支える栄養になって欲しいのだと、ジュリエットが艶やかに微笑む。
 悲しげではあるが、故に美しい。
 月光めいた長髪と、漆黒のドレスと翼。
 夜の歌姫、或いは綺麗な死神の姿にアドリアンは身構えてNoirgeistより複数の鎖とナイフを生み出す。
 そして自動で走る影なる刃と鎖が、音もなくジュリエットへと襲い懸かる。
「――――」
 が、処刑鎌を振るうまでもないと花と蔦を操り、影を払うジュリエット。
 影が霞み、花びらの鮮やかな色彩が舞う。
 まるで静寂の舞踏会。
 アドリアンとジュリエットの声と呼吸以外は何も聞こえない。
「微睡み、眠り、夢を見る」
 攻防
 互いに少しずつ間合いを詰めながら。
 アドリアンが語りかける。
「うん、僕の大好きなことだし、夢に逃避するのも否定はしないけど」
 あと一息で間合いという距離で、ShadowFlame Blazeを発動するアドリアン。灼熱と暗闇が広がり、両手のナイフの刃へと纏わせる。
「夢からはいつか目覚めるんだよ?」
「いいえ、夢は何時もでも訪れることができるのよ」
 飛び込むようにと間合いへと踏み込むアドリアン。
 だからと迎え討つジュリエットが誘うは花と蔦たち。
 咲き誇る花びらがナイフに纏わり付いて、何の因果か影も炎をも消し去ってしまう。
「――――」
「ほら、影も炎も眠りたいそうよ。さあ、あなたも」
 空を切るアドリアンの攻撃。失敗を誘発され、隙を晒してしまう。
 そして首を跳ねるべく振るわれる処刑鎌の一閃。
 だが、それもアドリアンの読み通りだった。
 故に再度、踊る影。
 溢れて流れる影はジュリエットの処刑鎌を弾き返し、周囲一帯を斬り刻む黒き荒波となっていた。
 一度と走れば、二度渦巻く。
 無数の黒い刃と鎖が伸びて、近くにあるものを絡め取っていく。
 さながら吸血鬼の略奪の腕だった。
 花を蝕み、蔦を呑み込み、そしてジュリエットの身体さえも影が撫でて、斬り裂いていく。
 あらゆるが散り、花と血の赤さが飛び散る中でアドリアンが呟いた。
「あの処刑鎌、持って帰りたかったな……」
あれは天上界の遺産なのだから。
 けれど、あれは呪われたもの。
 処刑鎌に魂を奪われたいか、心を蝕まれたいかといわれれば、アドリアンであっても首を横に振るうだろう。
 眠って見る夢の悉くが悲しみに染まるのなら。
 いいや、それでもとジュリエットは手を伸ばしたのだろうか。
 影に呑まれても、黒い翼をはためかせて空へと離脱した彼女の姿を、アドリアンは静かに見つめていた。
 いずれ夢からも零れ落ちてしまう、その麗しき黒の歌姫が飛ぶ最期の姿を。
 そうして影は過ぎ去り、アドリアンの傍へと控える。
 夢と眠り、微睡みと安らぎを尊ぶ吸血鬼は、ゆるりと赤い双眸で周囲の花を見渡した。
 そして、安らかな寝床で眠る心地を思い出すように、ふわりと瞼を閉じた。
「微睡み、眠り、夢を見る。そうだよ、僕もそれを続けよう」
 ただし。
「未来へ、明日へと歩くことも忘れずに」
 道端で咲く花との出会いを願うように、冬忘れの園から、時の止まった場所からアドリアンは立ち去っていくのだった。
 手には何も持たずとも、花への思い出を胸に秘めて。

玉梓・言葉

 花は数多とあれど、名の無き花はなく。
 ひとも世に尽きることはなく、全ての魂に名を抱く。
 ただ悲しきはその存在たちに幸せが約束されてはいないということか。
 影に咲いてしまった花がある。
 慈雨の優しさを注がれずに生きた心がある。
 希望の何かを忘れて、悲しみだけに染まった人の子がいる。
――なんと悲しいことか。
 言葉にならない感情を呑み込んで、玉梓・言葉(|紙上の観測者《だいさんしゃ》・h03308)は吐息をついた。
――だが、それでも生きようとしているのだろうの。
 例えば桜と人の姿に似ている。
 儚くも美しく、その想いを色づかせる姿は玉梓の心を打つ。
 だからこそ。
 そう、だからこそと唇より紡ぐは軽やかな詩の旋律。
 悲しさを洗い流し、せめてもの慰めを届ける玉梓の柔らかな水のよう声。
「人の恋は美しい」
 誰もそれを否定出来まい。
 力に溺れていた妖とて、その儚くも綺麗な姿に心奪われた。
 懸命に今を生きようとする。
 そして、刹那に抱く想いに殉じようとする。
「人の子の想いは、さもありなん」
 その一途さ故に悲劇が起こりうるのだと、玉梓が首を振るった。
 長い睫毛がふるりと揺れる。
 切なげに揺れ動く情緒を示すかのようだった。
「さりとて恋は時に残酷で……」
 その先は続ける事はなく。
 はらはらと舞い散る桜の花びらを避けるようにと、玉梓は番傘を広げた。
 隠れし貌には|誰か《いつかの》面影。
 血も雨も、涙も養分にする頑丈なる傘をくるりと廻す。
 名を【彼誰】。愛しき夢を見させる、幻覚を映す心の水面だった。
 ゆらり、ゆらりと傘が廻れば、過去に過去とジュリエットは潜っていく。
 いつか、だれかの面影を見出すほど。愛しいと、この指を話したくないと、幸せの中で囁き合ったあの頃の思い出に。
「――――」
 ジュリエットの唇が、愛しいひとの名を描く。
 けれどそれは揺れる心に浮かぶ淡い虚像。
 ひとときの優しき泡沫であり、悲しみを拭う夢でしかない。
 ただ、それでも気を逸らすには十分なとほだった。
 花たちの間を渡って近付く玉梓の気配に、はっとジュリエットが現実に立ち返りるも、処刑鎌を構える姿は何処か弱々しい。
「やはり……人の子は儚く、そして美しい」
 悲しいほどにと玉梓が云う通り、甘やかな微睡みを味わったジュリエットは、その甘やかな余韻から逃れられない。
 敵意に染まれない。奮い立てない。
 覚悟というのは定まり続けるから強靱なのだ。だが、ふとした優しさに包まれて安らげば、儚く砕け散る硝子のようなもの――それが、ひとのこころ。
 強くて、弱い。
「愛しい心よの」
「っ」
 玉梓の優しい声色にジュリエットの覚悟が、敵意が、想いの全てが揺らぐ。
 だからこそ近付く玉梓の歩みを止めるべく隷属する花蔦たちを動かすが、それは一度きりの切り札だ。
 むしろ止めるならば、今もくるり、くるりと廻って幻覚を浮かばせる【誰彼】だっただろう。
 だが、それの見せてくれる幻からジュリエットの心は抜け出せない。
 本来は優しい子なのだろうか。
 或いは繊細な子だからこそ、此処まで染まってしまったのかもしれない。
 察する玉梓の心の底にも冷たい悲しみが染み渡る。
 だからこそ止めないといけないと、玉梓は悲しげに微笑んだ。
「夢は夢でしかない事を識っておるのじゃろう?」
 聞き分けの悪い子供に、優しく諭すように。
 ああ。そうだ。
 夢は夢。だが、永遠に夢に墜ちたいというのは、それが永遠には続かないという事も分かっていたはず。
 その上で切望した。
 枯れる事のない、冬を忘却した花園へと埋もれていった。
 なら、その美しき花で終わりを飾ろうと玉梓が空中で繊細に指先を泳がせる。
 招くは散る桜の花びらと、言ノ葉の雨。
 しとしと、はらはらと、涙のように心へと、魂へと浸み込むものたち。
 桜花に破魔を纏わせれば、遺産である処刑鎌の呪いも払い、浄めていくばかり。
 慰めと、優しさと。
 美しく、愛しき子へと囁く花びらと玉梓の声。
 見れば玉梓は、まるで迷い子を導くような顔で笑っている。
 そこにいたのかの。
 探したが、ほれ、連れいってやろうか。
 そう幼い子供を見つけて、手を差しのばすかのような美貌だった。
 どれほど罪を重ねても、呪いと灰汁を取り除けば玉梓にとっては、人の子のかいらしい祈りなりだから。
「何処に?」
 思わず涙を零したジュリエットが口にする。
「お主の帰りを待つひとの処にじゃ。きっと安らかな処で、待ち続けている」
 ゆっくりと玉梓が頷き、声をあげて泣くジュリエット。
 だがジュリエットの悲願を、切なる想いを、そして過去と呪いは簡単に取り除けるものではない事は、玉梓とて身に染みている。
 その美貌、右目に走る亀裂のように。
 今も大事に懐く【彼ノ人】のように。
 だと、しても。
「お主の逝く末に優しく受け止めてくれる者がいる事を祈っておるよ」
 はらはらと、はらはらと。
 舞い散る桜と言の葉の雨に打たれて、ジュリエットは涙を流した。
 一時とはいえ処刑鎌をぽとりと手から落として、指で胸を掻きむしる。そこなあった、愛しくて暖かいものを取り戻そうとするように。
 そしてきっと。
 彼女の魂は、いずれ優しく抱きしめられるだろう。
 同じように愛しくと想う、誰かの魂によって。
 花は数多とあれど、名のなき花はなく。
 ならば、彼女の愛した魂の名も確かにあるのだから。
 その名を涙と共に抱きしめるジュリエット。
 桜は彼女を導く為に舞い続けていた。
 薄紅の色は、現と夢の境に揺蕩う魂の彩のようだった。
 

結城・凍夜

 この花園は冬を忘れたのではなかった。
 きっと、帰る場所を忘れて、喪ってしまったのだ。
 だから美しい記憶の儘に花は咲き誇り、悲しい歌が流れ続ける。
 朽ちることはない。
 枯れ果てることなんてありはしない。
 あなたへの愛はと歌うジュリエットの姿に、結城・凍夜(|雪の牙《スノーファング》・h00127)は僅かに瞼を伏せた。
 彼女の歌声は夜空に届くこともなければ、誰かの魂へと渡ることもない。
 だとしたら、どれだけ寂しいことだろうか。
 愛おしい記憶として咲くこの花が美しいぶんだけ、余計に。
 いいや、だからこそ花の美しさを心と記憶に留めようと凍夜は思う。
 全ては終わり、消えてしまうものだけれど。
 せめてもの名残を心に掬い上げるように。
 凍夜の|標《Anker》である彼女たちには、何時までも美しい花であるようにと。
 けれど、そんなひとの心さえ許さない赤い眸があった。
 気づけば歌は終わり、鎌刃の鋭い切っ先が向けられる。
「あなたは」
 凍夜の冬の色彩を纏う姿を見て、ジュリエットは問い掛ける。
「あの冬を届けに来たの?」
「っ!?」
 冒険者である凍夜の背筋が震えるほどの情念が、肌をすり抜けて臓腑を鷲づかみする。
 冷たい。寒い。そして恐ろしい。
 これほどに煮詰まった想いを抱けるのか。
 なんという切望だろうかと凍夜が全力で後退し、銃撃の間合いを取ろうとする。
「嫌よ。私は、冬なんて。花の散ることなんて」
 そうして蔦が実られた禁断の果実を投げつけるジュリエット。
 空中にある間にと凍夜が弾丸が放ち、到着するまでに見事に撃ち抜く。爆発こそは防げないが、距離さえあれば問題はない。
 というのも、やはり甘い考えだった。
「っ!?」
 凍夜の足下にも具現化されていた禁断の果実が爆発し、正直病という呪いを与えるのだった。
「しまった……!!」
 と、心の声がそのまま言葉になる。
 気をつけるべき全方位。何処に実るのかも分からない。
「ふふふ。正直は大好きよ」
 これでジュリエットは大きな有利を得たこととなる。
 だが、考えて見れば考えが読まれているのと同じ。
「で……あれば」
 そして、それ以上の効果は一切ない。
 どれかひとつの効果を、ジュリエットが任意で与えるならまだ恐ろしさはあるけれども。
「それなら、読まれても避けようのない攻撃をするまで」
 膝を付いてスコープを覗き、黒い翼と共に疾走するジュリエットを捉える凍夜が呼びかける。
 凍夜が手にするのは精霊銃”スノーホワイト”。
 白銀の銃身に、青い宝玉の込められた美しき銃だ。
「白き雪の精霊よ!」
 そしてその宝玉の裡に宿るのは雪の精。
 白銀に輝く雪を舞い散らせながら、冷たい風を纏う凍夜が銃撃と共に告げた。
「――力を貸し給え!」
 放たれるは純白に輝く、氷雪の弾丸。
 正直病のせいで銃撃すると先に宣言してしまったが為に、ジュリエットが処刑鎌の一振りで切り払おうとするが、ダイヤモンドダストを舞い広げさせるのは防げない。
 細氷乱舞――黒き乙女の翼も身体も、その麗しき白銀の光で凍て付かせていく。
「っ。つ、めたい」
 悲しげな声で呻くジュリエット。
 きらきら、きらきらと輝く氷雪たちは、触れれば凍傷を引き起こす程の冷気の塊だった。
 だが避けよう身を翻そうとも、不規則に広がる氷雪の舞踏を予測する事は出来ない。
 処刑鎌で切り払うことも出来ず、氷を纏わせた黒い翼で唯一の逃げ道である空へと逃れようとするジュリエット。
「それを狙っていました!」
 が、続けて天を映す鮮やかな青い狙撃銃――狙撃銃”ヘブンリーブルー”を構え、自動照準機能によって凍夜の意志に関係なく、空を舞うジュリエットへと銃撃を重ねていく。
 追尾する銃弾は次第にジュリエットを雪豹の如き俊敏さと鋭さで追い詰め、処刑鎌で幾度となく弾き返されても、なお諦めない。
 ジュリエットへと着弾こそ叶わずとも余裕を奪い、体勢を崩せば凍夜が左右に構えた精霊銃と狙撃銃、そして宙にに浮かべたガンナーブブルームの一斉射撃を放った。
「目標を乱れ撃つ!」
煌めく氷晶の弾丸たちがついに黒き翼の乙女を撃ち抜き、その夢と姿を打ち落とす。
 舞い散る赤い血が凍夜の狙撃の成功を知らせていた。
 それは赤い宝玉のようだった。
 ジュリエットの身を撃ち抜いたのは雪と氷の精霊の力を帯びた弾丸である。
 着弾と同時にジュリエットの血液が凍り付き、まるで空から赤い水晶の欠片を散らすかのように墜ちていく。
「……さて、帰りましょう」
 彼女たちが待っていると凍夜が立ち上がろうとして、ふと名残が湧き上がる。
 最後にちょっとだけと。
 なごりの花を楽しみ、慈しむようにと、凍夜は花へと指先で触れる。
 この指は銃を撃つ為のものだけではなくて。
 何かを大切にする為の指先でもあるのだと奏でるように。
 

クレス・ギルバート

 微睡む花よ、夢へ。
 永久に至る為に、さあ冬という現実を忘れてしまおう。
 儚き愛よ、記憶よ、決して散ることなく佇んで欲しいから。
 決してこれ以上、貴方との距離が離れることがないように。
 そんな切実なるセレナーデを聞き届けて、長い睫毛がふるりと揺れた。
 甘やかな紫の双眸は悲しみに揺れている。
 痛みとして胸に迫るから。
 雪の如き純白の美貌に、冷艶な光を宿すはクレス・ギルバート(晧霄・h01091)。
 唇より紡ぐ声色は、冷たくとも情の柔らかさを帯びていた。
「彼女が唄う愛というものは」
 咲き誇る花を越えて、冬月の色彩が渡り行く。
「移ろう世界の時を凍らせてまで、守りたいものなんだな」
 時間よ止まれ。
 あなたは美しいからと、破滅の呪文を歌いあげたかのように。
 冬を忘れたいといいながら、時の凍結を祈る矛盾。ああ、それこい愛なのかもしれないとクレスが瞼を下ろす。
 だが、それで彼女の心が昏い夢の底に墜ちてしまった。
 切なる祈りのせいで、現実の法則を越える願いのせいで。
「――そして、狂い咲くこの花園か」
 夢へと誘い、先に進むことを許さない花の迷宮。
 美しいが、まさしく悪夢の姿である。
 だからこそ無垢なる光にて斬り裂くのだと、フルートのような澄み渡る音色を奏でて鞘より引き抜かれるは晧の眩い刀身。
 刃紋が散らす冷たくて美しい輝きに目を奪われたように、ジュリエットがふっと歌を止めた。
「あなたも――冬を呼ぶのね」
「違うが、きっと同じことだろう。夢の涯てを求めるのなら」
「ええ。きっと同じことね。花も夢も、永遠を求めるからこそ」
 ふわりと漆黒の翼をはためかせ、踊るようにステップを刻むジュリエット。
 処刑鎌を振るいながら、やはり悲しげに歌い上げる。
「あなたも、愛しくて甘い過去に浸りたいでしょう」
「いいや。仮初めの永遠なんてご免被るね」
 クレスも月灯りを宿すような晧の切っ先を向け、一息に間合いへと踏み込んだ。
 花蔦の魔法は確かに脅威。
 ならば刀の間合いにて制するのだと、真白き疾風と化すクレスの姿。
 漆黒の乙女も応じるようにと鎌刃を振るえば、互いの刃金が激しい音色を鳴り散らす。
 剣風に撒かれて鮮やかな花が散る中で、白と黒が交錯した。
 ジュリエットの鎌の斬撃は、呪いと想いのぶんだけ重かった。受けて弾いた筈のクレスの腕が痺れるほど。
 だが、だからどうした。臆す訳などないと、最速かつ精密なる挙動で放たれる白刃たち。
 空間ごと薙ぎ払い、舞う花びらをも穿つ刺突。
 単調であるが故に研ぎ澄まされた技の数々だ。何処までも早く、決して外さないというクレスの精妙なる太刀捌きが冴え渡る。
 花を踏み散らす足先の動きも鋭く、滑らかだった。
 間合いを決して譲らず、相手に攻めの機会を与えない。
 息を奪うかのように巡り、放たれ続ける剣刃の輝きたち。
 闇を白く燬く剣閃に触れれば漆黒の乙女という葩が散るだろう。
 朱の彩を残し、息を終える。その刹那が浮かぶからこそ、ジュリエットも深紅の眸をゆらりと巡らせる。
 早く、精密に――だが読みやすい程に単調。
「ムードに酔うほどに単純に見えるかしら?」
「誘いがあれば、手を取らないほどに乙女には見えないな」
「だって、それほどに美しい男が目の前にいるんだもの」
 因果律の操作による行動の失敗。
 一度きりのジュリエットの切り札が誘われている。が、それを切らなければ、いずれ身を無垢なる閃が刻むだろう。
 ひゅんと鋭刃が身を掠めて麗しきドレスを裂く。いいや肌を切られ、血の赤さを散らしてジュリエットも覚悟を決めた。
「――アンコールには応えてあげないとね?」
 ふたりの間にはらりと舞うは花びらたち。
 それがクレスの切っ先に触れた途端、まるで弾かれるように晧の刀身が後ろへと跳ぶ。
「っ」
「さあ、詠いましょう。これから、でしょう?」
「勿論。詠うならこの刃を踊らせてやるぜ」
 花びらに刀を弾かれたクレスへと迫る首狩りの一閃。
 だがクレスは怯むことなく、その身に燦たる赫焉の焔を咲かせた。
 赤く、紅く。夜天を灼き祓うほどに赫く染まるクレス。
 その鮮やかな光にジュリエットが目を細めた刹那、閉ざされた春宵を裂き祓う為にクレスという暁天の輝きが走る。
 純粋な加速。いいや、故に最早、残像さえなく紅い光が踊るのみ。
 姿勢を低くすれば鎌刃が頭上を抜け、皚々たる白雪の髪を僅かに掠め取る。
 だが更に低く、地と花たちを擦るように踏み込み、処刑鎌とは逆側へとクレスが抜けた。
「――――」
 息を吐く間も、言葉を紡ぐ隙もない。
 疾走の勢いを乗せて斬り上げられるは凛烈なる剣光。
 無垢なる冬月の彩を乗せた軌跡が過ぎ去り、ジュリエットの身を深く裂いた。
 血潮が飛び散るより迅くと翻される切っ先。
 緩やかな弧を描く斬撃へと繋げ、一刀を以て双閃を紡ぐ。
「キレイ、ね……」
「ああ。けれど、お前の見た花の愛しさは」
「ええ。あの夢は、もっとキレイだもの」
 斬り結ぶ剣刃の軌跡に寄り添うは、淡く色づいた花びら。
 春宵の空に街居るその花びらは、まるで零れ落ちる涙のようで。
 だが決してこの女を許し、認めてはならないとクレスは柄を強く握りしめた。
 夢へとと墜ちる。
 その悲しさは認めても、他人を巻き込むことは許されない。
「優しいだけの春の夢を現に希うなら……」
 玲瓏たる斬刃が流れ、美しい音色を奏でる。
 ただ斬るという冷たき刃には似合わない、慰めのような情のいろを乗せて。
「甘い想い出を敷き詰めた花の褥で眠れ」
 クレスが最後に刻むは美しき刃が見せる光芒一閃。
 ジュリエットの悪夢という冥邈の涯を灼くて裂いて、咲くは、その光が見せる幸いなる夢か。
 それとも、確かな未来か。
「夢の涯ての、その先で」
 確かに斬るべきを斬ったというようにクレスが声を紡ぐ。
 涙のように、はらはらと舞い散る花びらを風と共に伴って、白い外套の袖が揺れる。
 ひとつだけ祈るように、柔らかくクレスが笑った。
「あんたの望む相手と逢えるように」
 クレスが裂くのは闇である。悲しみの涯てである。
 故にこれが、ジュリエットの愛を届けますようにと、刃を鞘に納めて美しい菫の瞳を揺らした。
 愛が報われる場に、冷たき刃はいらないのだから。
 仮初めの永遠という花を散らして魂を本当の楽園へと導くのだと、雪のように白い光が示す。
 

ノア・アストラ

 切なくて、遣る瀬ない。
 ひとは幸福を求めながら、どうして悲劇に墜ちるのか。
 夢ならば醒めないで欲しい。
 永遠に続いて欲しい。
 ああ、わかる。わかるよ。
 でも、そんな子供みたいな夢は、ずっと続かない。
 だからこそノア・アストラ(凍星・h01268)は、響くセレナーデの中でも僅かに揺れることはなかった。
 凜として佇み、護る騎士として立つ。
 花風に揺れるはいと美しき白雪の髪。
 冷たい程に整った美貌は、さながら氷で紡がれたかのよう。
 瞳は淡くも美しく、凍星のように光を帯びていた。
 僅かに悲しげではあるが、それは優しき情を抱くが故に。
 白と青。冬空に瞬く星の彩を帯びた身で、冬忘れの花園でノアは手を伸ばした。
 握られているのは星の光を宿すランタン、星燈。
 淡く輝く白い光が、闇夜を導く星明かりのように先を示すのならば。
 この歌に、愛に、花に優しく穏やかな終わりとをと、祈りの光を捧げるかのようだった。
 何しろ、このセレナーデの歌に憎悪や敵意は感じないのだから。
 ただ純粋に愛を求める歌声。
 一途に、切実に、故に狂おしくて闇に墜ちたという姿を、ありありと思い起こさせるもの。
 だからこそ、ノアは夜闇の如き漆黒の乙女――ジュリエットへと星明かりと声を差し出した。
「あなたがこの花園の主か」
「ええ、そうよ。ただこの愛おしい思いを留めたい、花と共に在りたいというだけの……」
 そうしてまた穏やかな風が流れる。
 春宵めいた静けさと、穏やかさと、ぬくもり。
 光は乏しくなれど、花の色に変わりなどありはしないのだから。
「夕闇の中、朧気に咲く花は確かに美しいな」
「――有り難う」
 純然と花を美しいと、そう褒めてくれたのは、さあ誰だっただろう。
 ジュリェットの貌が悩みで揺れ、辿り着けない応えにただ悲しげに笑った。
「有り難う。冬のような貴方」
「…………」
 ノアの姿は冬のようではあっても、あの人も愛した花を褒められるのは、とても嬉しいから。
 ようやく悲しみを払って、ふふふと嬉しそうに笑うジュリエットに、ノアはゆっくりと告げた。
「この光景に僕も少なからず焦がれる想いは確かにあるよ」
「そうね。御伽噺のように永遠に、というのはロマンチックよ」
「叶わないからのロマンだね。夢を追い続ける。でも、それは未来を歩く子供だから許される」
「あら。冬の到来を許さない乙女には、夢を求める資格はないと」
「…………」
「分かっている、分かっているわ」
 くすくすと笑うジュリエットと、ノアの間に横たわる静寂。
 花びらが舞い散り、埋もれていく。
 まるで雪のようにしずしずと、はらはらと。
 音もなく、時の流ればかりを示していく。
「……僕達が此処に来た理由」
 ようやく本題を切り出すのだと、ノアは宵空めいた天井を眺めて口にした。
 そこに導きの星はない。
 だから、ノアが地上の星として彼女を導かなければならないのだ。
「もうあなたは判っているのだろう?」
「花を散らしに。冬を訪れさせて、夢を終わらせに。……そして私を」
 すっと息を呑んでジュリエットが呟いた。
「冬のように凍て付いているわね」
 そう云われてもノアは眉も顰めない。
――事実、そうなのだから。
「貴方の纏う色彩も、この現実というものも。悲恋というものも」
 それでもと、ジュリエットの存在が確かに脈動した。
 強い気配。花の香りと、闇のように深い呪いが、どくん、どくんと鼓動を紡ぐ。
「全て、全て夢に墜ちればいいのに。この鎌に刈り取られて、花になればいいの」
 僅かながら論理性の破綻を見せたジュリエット。
 ノアが彼女の手に抱かれた処刑鎌――天上界の遺産をゆっくりと見つめたる
「ああ、それは物騒な大鎌だね」
 思考を狂わされているのか。
 それとも、耐えられない悲しみという罅から魂に入り込んだのか。
 もやは定かではないが、この鎌の形をした天上界の遺産は恐ろしい。どうあれ、存在してはいけないのだと感じさせる。
 緩慢な死の気配がするのだ。
 ゆっくりと夢の中で、停滞した時間の中で、甘く蕩けて――そして腐り果てるような。
 それこそ冬と雪の世界では訪れないような、真っ黒な雰囲気。
 だが、ノアはこれと打ち合うような術は持っていない。
「あいにく僕自身はそういう得物は持っていないから」
 騎士ではあっても、荒々しく武器を振るう者ではないのだから。
 だから変わりにと、繊細な雪の結晶の描かれた御霊符である氷華を取り出す。
 ノアの手作りの護符だ。
 白く、淡く、とても冷たい。名の通り、氷の花びらそのものだった。
「舞い降りて、その力を示せ」
 純白の六花が冷たく眩い光を放てば、召喚されるのは氷と雪の精、護霊『フレイシャ・ネージュ』。
 大鎌に対峙するは凍てつく氷槍。
 氷雪の存在たる『フレイシャ・ネージュ』は命の雫を凍てつかせたかのような、霊気を帯びる氷の穂先をジュリエットに向けた。
 そうして、幾度となく打ち合う。
 氷晶と刃金が撃ち鳴らされる、冷たく澄んだ音色が響き渡る。
 まるで旋律だった。
 セレナーデの終わりを告げるような、まるで息を切らしても続ける願いの
歌声。
 あなたの姿を見たいと。
 あなたを思い出したいのだと。
 花を咲き誇らせる処刑鎌と、命を零させる氷の槍がぶつかり合う。
 だが、斬り結ぶように当たり続ける限り、√能力を無効化させる花の空間領域は発生しない。
「ふふふ」
 悲しげに、涙さえも枯らしたように。
 ジュリエットが鎌を振るい、漆黒の翼をはためかせて跳躍した。
 このまま攻防を続けても無意味。なら、『フレイシャ・ネージュ』を操るノアを倒すのだと、全てを懸けて鎌刃の一閃を放つ。
 でも悲しい程に――世界は冬のように凍てついている。
 冷気に晒され続けたジュリエットの足は鈍り、身を翻したノアを捉えるには僅か半歩だけ踏み込みが足りない。
 鎌は、まるで喪った恋人を求める指先のように空を切る。
 そして、冷たい死が迎えに来たのだと氷槍がジュリエットの身を捉えた。
 深く、深くと穿ち抜く。
 傷口より花よりも鮮やかな紅い花びらを散らす。
 いいや、それも凍てついて、まるで紅い宝石か星の欠片のように地面へと散らばった。
「花に、私はなれないのね」
 死という甘い眠りに触れたように、ジュリエットの瞼がゆっくりと落ちた。
 だからこそ、ノアは見送るように。
 或いは、枕元で子守歌を囁くように唇を動かす。
 氷のように美しく、冷たい美貌で。
 けれど、ふわりと柔らくて自由な雪のような声色で優しさと慈愛を示すのだ。
「……あなたの愛おしい過去の夢は、どうか夢の中で」
 せめて、せめてと。
 その微睡みが、幸福へと繋がるように。
 あらやるは、冬のように凍てつくものであっても。
「叶わぬ望みならば、永遠に続く夢であるようにと」
 ひとの心はあたたかい。
 花びらより、風よりも暖かい。
 それを思い出して欲しいと願うように、ノアもまた瞼を閉じた。
 護霊『フレイシャ・ネージュ』が雪の花びらを紡ぎ、冬を忘れた花園に、冬の真白き色を添える。
 まだ悲劇に染まっていない、魂の楽園に可能性を告げるように。
 ノアは凍星のような瞳でひとつの花と愛の終わりを見届けた。

カヤ・ウィスタリア

 花よりも甘く、夢より秘やかに。
 織り成す香気は、この冬忘れの園に終わりを告げる。
 全ては、この花となったひとの魂が為に。
 これは偽りの夢であるのだから。
 それぞれの魂がほんとうに夢見て、触れて、辿り着きたいと思える楽園へと辿り着く為に。
 どれほどに美しくとも、これでは囚人でしかないのだから。
「故に、この芳香を届けよう」
 願いを叶えるものとして。
 そして、魂の安らぎを香りにて紡ぐものとして。
 透き通るように美しい紫の双眸を緩やかに細め、カヤ・ウィスタリア(誘い惹く香り木・h02501)は微笑んだ。
 長い指先で遊ばれ、ふわりと香煙を漂わせるは香り煙羅。
 螺鈿細工の美しい煙管が優婉なる香りを紡ぎ、漂わせては広げていく。
 そんなカヤの香気に気づいたように、ジュリエットが歌を止めて紅い瞳で見つめていた。
 カヤの唇より迷いなく、嘘偽りなく紡がれる賞賛の声。
「小夜曲か、見事な歌声よな」
 実に素晴らしい。
 初恋を知らない者であっても、悲恋の何たるかを覚えるだろう。
 悲しみを痛みとして胸に過ぎらせるは、ただの技巧だけではないのだ。
「それを向ける先への想いに強さ無くば、こうも染み入るものとはなるまい」
 胸に響き、心に染み渡る。
 それは生きる感情だからこそだろう。
 香薬という心を癒やすものを扱うカヤだからこそ、よりジュリエットが向けて凝らした想いに思いを馳せる。
 誰かひとりの為に。
 殉じて、狂って、夢へと墜ちるその切実さ。
 愚かさでもあろう。だが、やはり美しさなのだ。
 
 ああ、これは花が散るような当然さで、報われることのない美しさ。

 もっともそんな愛を以て冬を忘れ、枯れ果てるを認めない乙女の世界ではあるのだが。
 だからこそ、ジュリエットは処刑鎌を構え、漆黒の翼を広げてカヤの前に立つ。
「あなたは冬かしら。この花園を終わらせたいのかしら?」
 悲しげな声である。
 悲痛さを抱き、それでも真っ直ぐに響く声色である。 
 だとしてもとカヤは揺らぐことなく、凛と背筋を伸ばして応えるのみ。
「応とも」
 会話の最中でも、その衣や肢体に浸み込んだ香りを周囲へと広げながら。
 悲しいばかり乙女の顔を見て、神秘めいた貌で告げるのだ。
「私は今在る其方の愛を否定し、冬に消えよと迫り、殺しに参った」
「…………」
「如何な言葉で飾り立てたとてそれは変わらぬ」
 故に、どれほどの慰めと優しさを重ねてもそれは嘘。
 最後という美しさに、それはいるまい。これほどの愛を、欺瞞で濁らすまい。
 カヤの凛とした美貌は、まるで冷たい月灯りのようだった。
 闇から何事をも照らし、掬い出す。
 どれほどに残酷で、無慈悲で、理不尽な悲劇だったとしても。
 それでも世の為に、数多と花として眠る魂が為になすのだとカヤは定めていた。
 今更、揺らぐ筈もない。
 同時にカヤは、目の前の歌姫を甘く見てはいなかった。
「されど私以上に其方自身こそ、己が身も、想いも既に堕ちて歪んだたものと存じていよう」
 罪咎として知り、なお重ねたのであろう。
 それが他人に害を為し、幾つもの悲劇を紡いでいた事も知っていよう。
「堕ちろだ眠れだ、殊更に口にしたがるがその証左よ」
 真実を曝け出し、その上で自らの想いを認めよと、カヤは虚飾のない愛と想いを求めるように鋭い眼差しを向けていた。
 ジュリエットも息を零した。
「そうね。罪を重ね、世界を欺き、狂わせた。そうでもしないと、喪ったものからは遠のき続けるもの。時間は残酷なのよ」
 そうして処刑鎌を持ち、一歩、一歩と花と共に近付くジュリエット。
「悠久の時を生きるエルフのあなたには分かるかしら」
 いいえと、漆黒の翼でカヤが燻らせた香気を払い、花の微睡みを誘う甘やかな香りを周囲に溢れさせる。
「――それとも、時の流れの残酷さに心を傷つけられ続けているのかしら」
 カヤは柔らかく頷いた。
 嘘は述べるまい。
 あの美しきセレナーデへの礼にと、カヤは告げる。
「永き時を経て忘れ得ぬモノを忘れ往くは悲しく、寂しく、恐ろしいものよ」
 どれほどに香煙を炊きつめようとも、心の隙間は埋まらない。
 カヤは香薬でひとときの夢でよければ、好きな微睡みを届けられる。
 が、永劫の夢など在りはしない。
 ただ残酷なまでに流れ続ける時の旋律が、心と感情のあらゆるを色褪せさせ、朽ちさせ、そして無惨に終わらせる。
 されど。
「それでも生きるを選ぶとあらばその忘却をも乗り越えねばならぬ」
 喪ったもの以上のものを、生きる最中で抱いていけるはずなのだから。
 夢と可能性とは昔日に在る残骸ではない。
 罪咎を重ねても前に進む先にあるもの。
「進む先を間違えたな。夢ではなく、過去ではなく、その想いで前を向いて、明日へと進められたのなら……いや」
 いいや、それが出来なかったからこうなのだ。
 柔らかな心、繊細な愛。
 それが悲しみで壊れてしまったからの今。
 忘却という痛みに耐えて、進み続けること。
 間違っていること、罪を犯すことをどうして愛する誰かが求めよう。許せよう。今も溢れる花たちは、囚われた犠牲者なのだから。
 誰かを傷つけることなく、正しさに向き合って進むこと。
「それが叶わず、その愛こそが最早戻れぬ業の濫觴と変じたとあらば」
あくまでこれが罪と悲しみの花であり。
 漂う甘い香りも、赦されることなき咎ならば。
 冷たく、鋭く。
 まるで冬に咲いた梅花のような清らかさを漂わせながら、カヤは囁いた。

「……此処にて幕を引くとしようぞ」

梅は百花の魁。
 その麗しき香りを纏い、時と季節の移ろいを告げるカヤ。
 ならばまず解放すべきモノとは何であるのか。
 カヤの紫の双眸は既に定めている。
 元はこの花たちはヒトである。
 全てではなくとも魂。
 ならばこそ香気を捧げ、万象に宿る神霊へとカヤは祈る。
 花が根ざす大地にそれはいる。
 香気を運ぶ柔らかな風にも、春宵の如き薄暗がりの中にさえも。
 目で見えるもの。
 触れることができないもの。
 光に陰に、雨に日向に、あらゆる全てに神は宿る。
 ならばとカヤが祈りを奉じ、神秘的な芳香と共に神へと呼びかければ、見えざる存在が声を鳴らす。
『――――――』
 声、であろうか。
 大気が軋む。目覚めた存在に、雰囲気が染め抜かれる。
 神魂奉祈・八百万によって顕現した神霊の現身が、世界の律が耐えられないほどの質量を以て周囲を揺さぶっていた。
 だが安らぎを届けるカヤの香気によって慰撫され、荒ぶる龍の如き気配がただ揺蕩う。
 拝み屋の心得もあるカヤは、さながら神霊へと願いと祈り、そして香りを捧げるエルフの巫女でもあったのか。
 艶やかな肢体をするりと舞わせ、銀の髪を靡かせる。
 神霊が緩やかに笑った――気がする。
 ならばひとつだけとカヤは願った。
「此処に咲く草花の支配よりの解放を」
 此処の草花は悉くジュリエットに呪われ、隷属している。
 因果を操作してあらゆるを失敗させる所以もそれだ。
 故にその解放をとカヤが願えば、僅かに神霊が惑う気配がした。
 カヤに伝わるのはひとつ。ソレは、ジュリエットを傷つけることではないか。
「いや、問題などない。私が、必ずや」
 そう告げるカヤを信じたのか、周囲に舞うは鮮やかなる花嵐。
 草花の支配を断ちきり、呪いからの解放を告げる清らかな風である。
 同時に神楽を舞うかのように艶やかな肢体を踊らせたカヤが放つ、馨しき匂い。
 周囲に存在する全てへと香薬の香気を高め、更には無臭の魔香薬が溢れかえる。
 カヤの十八番とも云える誘香の舞からの断説香。
 見えざる刃が空気を伝い、相手の肌と臓腑にまで染み渡り、そして鋭く斬り裂く。
「あら。凄い技を持つのね」
 身を翻したジュリエットが鎌刃を振るいながら、横手へと跳んだ。
 カヤの言動、そして香り立つものから匂いこそが脅威と見做すことは出来る。
 故に高速で鎌を振るって風を払うが、カヤの肌から立ち上る甘やかな匂いと断切香は違うものだ。
 故に香りこそ脅威と見做しても、完全に逃れる事は出来ない。
 むしろ香りは払っている筈なのに、衣服と肌が、黒い翼が斬り裂かれていく事にジュリエットの紅い眸が迷いに揺れる。
 この不可視の斬撃の正体とは。
 舞い続けるカヤが呼ぶものか、それともまた別の何かか。
 感じることが出来る芳香があるからこそ、無臭の魔香薬の存在に気づけない。
 ひとつを示すことで、ふたつめの真実を隠す。
 カヤの見事なる技であった。
「それなら」
 ジュリエッタが距離を取るべく、漆黒の翼で空を飛ぶのもまた予想の範疇。
「飛ぶしかあるまいな。双方」
翼で飛ぶジュリエッタに対して、追撃と血火閃鷹に乗って迫るカヤ。
 更に高所からに香を撒布し、あらゆる場所を満たそうとする。
 だが、それが僅かな隙となった。
 翻る黒き乙女。そのまま夜色の迅雷となってカヤに迫り、処刑鎌を振るう。
 黒刃一閃。空を断つ闇色の翼。
 あまりに早い。カヤの目では追いきれないほど。
「っ!?」
 香裂刃の刀身で受け止めるが、防ぎきれずに肌が裂ける。
 更にはジュリエッタが烈風の如く過ぎ去り、反撃の機会もない。
 いいや、互いが高速で飛翔し、渦を巻くから空気と香気が攪拌されて散りゆくばかり。
「やはり香気ね。飛んだ瞬間から見えない刃の攻撃が薄くなったもの」
「流石に見破るか。だが、それでも同じ事よ」
 技を見破られ、それでも不敵に笑うカヤ。
 無臭が故に不可視である事は変わらない。
 空気の流れを利用して躱される事もあるだろう。
 だが、それでもジュリエットは香りの源であるカヤへと迫らずにいられない。断切香という無数の刃の中に、自ら飛び込むしか勝機はないのだ。
「安心せよ。しばしの痛みがあろうとも、安らぎを届けてくれよう」
 ジュリエッタが魔術によって操る花びらが、刃の鋭さを宿してカヤを襲う。
 だが、その悉くがカヤに触れる前に断切香によって両断され、小さな欠片となって墜ちていく。
 そして、時間は流れる。
 時と季節の移ろいを詠うように、少しの逡巡の間にカヤの撒布する香気は溢れていく。
 風によって流さても、消え去る訳ではないのだ。
 少しずつと満ちていく。
 ジュリエットが忘れようとした、冷たい冬のような気配と共に。
 時間が止まる事はない。
 ゆっくりと、ゆっとりとカヤはそれを示していく。
「なら」
 そう、ならばジュリエットは後は一瞬の攻防に託すのみ。
 処刑鎌を構え自らの翼を信じて真っ直ぐに切り込む姿は、さながら黒き迅雷。
 切実に、真っ直ぐに、狂い墜ちたとしても自らの想いに殉じるかのように。
「まさに見事。……振り切ることも、褪せることもなき、愛の痛みよな」
 故に迎え討つカヤも、幽艶に微笑んでみせた。
 微かに悲しげに、けれど優しげに。
 その願いが捻れて狂う前であればと想いながら、自らの断切香を香裂刃に濃縮して一刃へと懸けた。
 広がるが故に薄い香と思いでは、この呪いは断てぬ。
 ならばと銀光瞬かせて、黒き刃の姿へと重ねるのだ。
 それはさながら、凍月が示すような白銀の鋭き弧であった。
 花が舞い散り、柔らかな風が揺れる。
 美しくも鮮やかなる彩の溢れる裡で瞬間、光と影が重なった。
 刀光剣影。その刹那に流れる星が重なり合うかのよう。
 澄んだ剣戟の音が鳴り響く。
 清らかな音色が響き渡り、カヤの香裂刃が遙か彼方へと弾き飛ばされていた。
 カヤの繊腕では呪われた遺産を断てぬ。呪いと悲恋の重さを受けきれぬ。
 儚き身では到底と云うかのように。
 だが――カヤの身から鮮血の花びらが吹き出すことはない。
 今はまだ、カヤが花となって眠る時ではないのだと、甘やかな芳香が揺らぐ。
 弾き飛ばされたのは香裂刃である。
 だが、そこに濃縮された込められた断切香は処刑鎌へと直接叩き込まれ、その呪刃を断ち斬っていたのだ。
 カヤは剣士ではない。
 あくまで|調香師《パフューマー》。
「呪いの根幹がその鎌なれば」
 この香りにて断ち、終わらせるのはまずはその遺産の鎌刃である。
 呪詛を断ち、あらゆる花となった魂を解き放つのだ。
 それはこのジュリエットという悲劇の花も変わりはしないと、カヤは神秘的な美貌に、微かな慈悲を見せた。
 冷たくも美しい、月影のような貌だった。
「其れが折れた今の、このせめての今際には本音を語れよう」
 直後、ジュリエットの身が無数の見えざる刃によって斬り裂かれる。
 既に勝負自体は決していた。
 衣服に、肌に、翼にと充分な断切香は付着していたというように。
 いいや、ジュリエットの吸い込んだ肺に、臓腑をも斬り裂いた証拠として、彼女の唇から血の塊を吐き出させた。
 艶やかに美しい、赤だった。
 涙の代わりにその身から零す、花びらの色だった。
「……ああ。あなた。愛しいあなた。私は……約束を破って」
 黒い羽根を散らしながら、深紅の血の花びらを舞わせながら、地面へと落ちていくジュリエット。
 もうその喉と唇がセレナーデを詠うことはない。
「約束を破って、あなたの元に行きます……」
 後を追って死ぬ事の出来なかった歌姫が、ごめんないと微笑んでいた。
 地面に落ちたその身体を、花たちが受け止めた。
 あらゆる色彩の花が溢れ帰り、ジュリエットの命が潰えたのだと、儚く消えてゆく。
 だが。
「……夢なれば想い人とも会えるとは、何とも羨ましい事よ」
 死しても、必ずや愛するひとと同じ場所に辿り着ける訳ではない。
 楽園への道筋を紡いでくれた者たちがいるのだから、ジュリエットは確かにそこに辿り着けるのかもしれない。
 だが、だとしても必ずではないのだ。
 命と魂の過ぎ去った後を、誰も知らないのだから。
 インビシブルとして漂ったとても、この世界はあまりにも広すぎるのだから。
 だからこそ、夢で逢うことを求め続けたのだろう。
 悲しい現実に涙するよりはと。
 だが、だが。
 カヤも少しだけ、悲しげに瞳を揺らした。
 羨ましいことよと。
 長い時の残酷さを、ジュリエットが花と夢に墜ちることを望んだ理由に、頷いていたのだ。
「私には既に夢ですら縁者の顔を思い出すは叶わぬ故な」
 あらゆる美しい花がいずれ散るように。
 あらゆる愛おしい記憶もまた、風化していくのだ。
 どんな物語もいずれは消え去るように。
 そんな世界で生きる命に、心にせめてもの救いと慰めをと、カヤはひとつの小瓶を取り出すと、香り煙羅にて周囲に漂わせる。
 生きるという痛みに、それでも進むものに。
「せめて。あの小夜曲に込められた愛と、花の美しさは覚えておこう。残酷な時の流れに、その輪郭が削り取られてしまうまではな」
 せめてもの希望と愛情をと、ガーベラの香りをカヤは漂わせた。
 





 冬の訪れ共に、花は夢の泡沫のように散る。
 愛を抱いたとしても、それは同じこと。
 それでも、確かに季節と時は流れ去る。
 喪失の悲しみに心は削れ、でも、それ以上の何かを得ながら。
 移ろうひとときに、愛おしい美しさを見出して心からの歌を紡ぎながら。
 明日は、また訪れるのだ。 
 

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