スタンピード
●ダグヌ或いはダガヌ
それは――対処不能災厄「ネームレス・スワン」は――あらゆる窓より、覗き込む。それを認識してしまった者は、嗚呼、最早、まっとうな人生など送れやしないだろう。たとえ、姿を見なくとも『それ』の声を聴いてしまったのであれば同じこと。忘れようとする力が働いたとしても――何らかの影響は出てしまう。そう、対処不能とはつまりシュレディンガーの猫のような有り様で、尚且つ、怪異の中でも『最悪』の部類に入るからだ。√汎神解剖機関でも手に負えないと謂うのに、それが√EDENに出現したならば、如何だ。考えるだけで、思うだけで、眩暈がする。√EDENの人間など一瞬にして壊れる筈だ。
ああ……窓に! 窓に!
何かに縋ろうとしたところで、何かに依存しようとしたところで、無意味に砕け散るだけ。対処不能災厄「ネームレス・スワン」は潜んでいるのではない。存在しているのだ。
●星辰が揃う時
「揃わなくとも――そう。彼等は、怪異と謂うものは出現するのだがね。それも、弱体化もクソもない状態で、だ。そして彼等は何処にでも存在ができる。あとはわかる筈だぜ? これは世界の危機だ。それも、√EDENの危機だ。まあ、楽園は常に狙われているから、日常と謂えば日常だがねぇ。アッハッハ!」
星詠みたる暗明・一五六は基本的に愉快な心霊テロリストだ。しかし、如何やら今回の『予知』に関しては比較的『まじめ』に取り込んでいるらしい。
「君達には少々、酷かもしれないが……これは、死ぬ可能性と謂うものを孕んでいる。いや、もちろん、本当に死ぬ事はないがね。それくらい相手が強大だと謂うワケさ。怪異が隠れ潜んでいる……? いや、違うね。たぶん、君達が接触を図りたいと思えば、可能なんじゃあないかな。それくらいやばいってことさ。アッハッハ!」
「じゃあ、頑張ってくれ給えよ。君達が正気で戻れるよう祈ってやるぜ」
第1章 日常 『天体観測』

恐怖――興奮――精神の異常を齎すのは何も『怪異の姿』だけではない。
怪異の姿は勿論、怪異の臭い、怪異の音、怪異の痕跡だって立派な『正気』に対しての凶器である。そうして狂気に陥った人間は――人類は――極めて稀に筆舌に尽くしがたい状況すらも造り出す。おお、天を視よ。星々を視よ。|不可視《インビジブル》の浮遊に付き従うかの如くに、人々が存在しているのではないか。如何して、空に、宙に彼等彼女等が存在しているのか、それは不明である。しかし、嗚呼――何処かの窓辺から、身を投げるかの如くに何者かが星へと吸い込まれていく。そのまま、消えるのだろうか。いいや、違う。人々は呵々大笑を散らかしながら――万歳を三唱しながら――流れ星の如くに地へと逝くのだ。
君は彼等、彼女等を助けようとしてもいい。
だが、嗚呼、最早、人とは星なのではないか。
キラキラ、キラキラ、煌めいている、星なのではないか。
ところで、もし、君が能力者でないなら、
この異常に気付かなくてもいいし、気づいてもいい。
お手洗い、男女のマークを彷彿とさせる。
恐怖の大王が眉唾だったように、簒奪者の到来が虚構だったように、忘れようとする力は絶対的なまでに強大だ。EDENが人類の楽園である所以は、おそらく、未知を完全に未知の儘に出来ているが故とも解せよう。カフェインを摂取するだけで酩酊する蟲のような、そういう脆弱性こそを愛さなければならない。……スタートレイルが好きです。だから、星は……星辰という言の葉は……そこそこ……好きなのです。不意に這入り込んだ星辰の二文字にすらも気づかない有り様か。カンカンと笑っている月の姿、さて、今日は本当に満月の時だったか、否か。星見日和なら……是非、スタートレイルの撮影がやりたい、です。嗚呼、まったく良い時代になったものだと、良いものに囲まれていると、なんとなしに思う。片手か両手かで世界をひとつ、切り抜く事すらも容易な今現在からの誘い。……良いモノ……撮れる、かな。ところで怪異が出現すると謂う話ではなかったか。いいや、怪異が既に存在していると謂う沙汰ではなかったか。……何時なんだろう?
索敵の為に展開した|半身《レギオン》にも反応はない。反応がない事を確認したならば休暇を愉しむかのように、暗い、暗い場所へと歩を進める。人工的な明かりのない、容赦のない暗闇へと身投げをする。いや、真に身投げをしているのは、遁走を試みているのは、あの星空そのものではないか。……何時間でもいい。一晩だっていい。僕は時間が許す限り撮影を続けたい。機器の設置もバッテリーも十分だ。珈琲の豆を踊らせるかの如くに、じっくり、じっくり……。何度目の確認だろうか。EDENの空には、宙には、インビジブルが大量に――? ……待って? EDENの都市で、こんなにも星空が綺麗……?
不可視が写り込むなんてそれこそ矛盾だ。きっと、そんな可笑しな事は起こらない。今回の撮影は成功してますように。……え?
カメラ越しではない。
肉眼で見えている。肉眼で星の軌道が見えている。
ぐるぐる、ぐるぐる、渦を描き、引き延ばされている……。
ひと、ひと、ひと。
適当な雑魚であれば、邪悪なインビジブル程度であれば、義妹パワーで如何にか出来る。されど、今回は相手が相手だ。たとえ義妹ちゃんが強くても、死ぬ可能性がミリ単位でもあれば避ける他にない。流れ星のように去ってくれる事を願うばかりだ。
昨日――帰ってきたお|義姉《ねえ》ちゃんはいつもより顔色が優れていなかった。その理由を訊いても、あんまり、詳しくは教えてくれなかったので|洗脳《おねがい》をしてみた。そうしたら、なんと、ぐるぐるバットをしてきたと謂うではないか。想像するだけでなんともシュールなお仕事だが、そんな|無様《こと》になっていたならば私もじっくりと見ていたかった云々――むぅ、お義姉ちゃんはまたお出かけですか。きっと仕事なのだろう。頻繁に出かけているのはそれだけ簒奪者? とかいうのが現れてるのだろうけど。完全には把握できないが、全てを理解する事はできないが、断片的に『知る』事くらいはオマエにも可能と謂えた。たまにはゆっくり構ってほしいなぁ……帰ってきたらお部屋で遊ぼうって誘ってみようかな。バットは……どっちでもいいとして、色々玩具も用意しないとね。ふと、思いついたのは鬼さんこちらだ。手を鳴らすのか、鳴らさないのかは気分次第とする。
寂しさが夜の冷たさと共に来訪してきた。
鴉のようにノックして、夜鷹のように魂をつつく。
ぼんやりと、えげつない事を思いながら窓の外とやらを改める。空へ、宙へ、視線をやったならば自然とは想えないほどの星空。今日は怖いくらいお星様とお月様、綺麗だね。折角だからと取り出したスマートフォン、かしゃりと、心地の良い音が響いた。其処には――月と星、正位置たる彼等が写り込んでいる。ちょっと写真でも上げてみようか。お義姉ちゃんも見てくれるかな……? 異常に鈍いわけではない。超自然に疎いわけでもない。ただ、オマエの守護霊とやらが――狂気の沙汰から――遠くにやっているに過ぎない。
……今度はもっと、強めに|洗脳《おねがい》してみようかな。
覗き込んだのは双眼鏡だろうか、もしくは、カレイド・スコープだろうか。キラキラと、ギラギラと、此方を覗き込んでくる星や花のコンフュージョン。深淵からのお誘いこそが、蛸壺からの招待こそが、正体を失くす為のひとつの方法とも思えた。兄ちゃんは……そう。夜空を見るのが好きだった。付け加えるなら、俺と夜空を見るのが好きだった。お星様が綺麗だね、お月様だって、負けていないよ。って、手を繋ぎながら、笑ってくれた。でも俺は……正直、兄ちゃんには言えなかったけれど。怖かった。真っ暗な夜空に、兄ちゃんも俺も、何もかも、吸い込まれちゃうような気がして……。恐怖が、狂気が、走馬灯の如くに過去を弄る。されど、過去が恐怖や狂気を和らげるなんてのは幻想だ。幼児の拙い妄想が、幼児の乱雑な悪夢が、やや異なる現実となって、目の前――彼方――宇宙より。
ガクガク、膝がいう事を聞かない。ブルブル、寒気がなかなか治まらない。いっそ、目を回していた方がマシだったと思うほどに、引き延ばされている、何かしら。ヒッ……ヒッ……人が……ひとが……降って……落ち、て……? 恐慌状態だ。まるでスタンピードみたいに、人の群れが天から地へと駆けていく。放っておいたら死んじゃう。助けないと……! あわあわ、おろおろ、右往左往。気持ちだけが先走って自分では如何しようもない事にようやく気付けた。全員は、無理。じゃあ、選ぶのも――無理、俺には、できない。兄ちゃんなら……兄ちゃんなら、どうする。わからない。なにも、わからない。俺は、兄ちゃんみたいにすごくないし、俺は……俺なんかじゃ……。今にも正気を手放してしまいそうだ。歯の根も合わなくなってきた。その瞬間だ。世界が真っ暗いものに殺されたのは……。
蛸神様からの蜘蛛の糸。オマエの……依代の、目の玉とやらを完全に覆う。そうしてヴェールの内側、灯火のように、イソギンチャクのように、幼い記憶が蘇る。
「兄ちゃんは真人が一番大事だよ」
俺も兄ちゃんが、一番。選ぶのは兄ちゃんだけ。あそこに、兄ちゃんはいない。音が聞こえる。音だけが聞こえる。何かの鳴き声、何かの砕ける音、何かの「どうして」。
痛みはなかった。
黙り込む癖があるのに、如何して、伝えられよう。
死人に口なし――木乃伊取りの真似事だけは、避けねばならない。
√汎神解剖機関――怪異によって、災厄によって、陰鬱さが目立つ世界からやってきたオマエ、その気配を察知する事に関しては『人一倍』強いと謂えよう。ああ、いっそ、盲目であったのならば、聾していたのならば、気づかずに、そのまま願いを叶えてくれていたのかもしれない。……冗談だろ? 夢ならば、覚めてくれ、と。悪夢ならば、消えてくれ、と。現実逃避をしたくもなる、そのくらいの異常現象。垂れた冷や汗を拭う事すらも出来ずに、空、宙、見上げる。人だ。老若男女と問わずに、浮いている。浮いて、宙の彼方で引き延ばされている。ありえない。そう、ありえないのだ。……ここ、別の√だよな……? 怪異殺し、退魔士なんざやってた俺からすりゃ、この異変の原因は直ぐに見当がつく。……対処不能災厄「ネームレス・スワン」……。凍り付いたのは背筋だけではない。脳髄も、だ。しかし溶かしている暇はない。急いで――まずは――あのマンションだ。
マンションの最上階、おそらく、最も『あれ』が出現しそうな一室。鍵の有無など知るものかと突き破っての邂逅とする。おい……おい、アンタ!? 外気と共に流れ込んできた『音』。その絶叫に苛まれて、誘われて――ひとりの女が身投げをしようと試みている。アハハ……アハ……アハアハアハアハ……! 狂気ではない。これは狂喜だ。人類が出せる筈のない笑い声。ちくしょう……これじゃあ……完全には元には戻せねぇか……? ぎゅう、と、女の腕が赤くなるほどに握ってやる。ダメだ。俺じゃあ全員を助けるなんざ、不可能だ。いや、違う。それどころか――今回の依頼は一際ヤバい。俺まで……能力者まで死にうる可能性がある。ぐい、と、無理やり女を引きずり込み窓を閉める。鍵は――掛けれねぇけど……掛けたとしても、無駄だろうけど……仕方ない。転がっていたテキトウな棒切れをつっかえとしインスタントな処置とした。お、おいアンタ、しっかり……?
窓の外、不意を打つかのように、予定していたかのように。
星が落ちる。向こう側の家の屋根に『ある』それは赤く、黒ずんだ。
あれは――星ではない――せり上がってきた酸味を臓腑へと戻す。冗談じゃねぇぜ。恨みつらみも言いたくなる。弱音だって吐きたくなる。死ぬのが嫌で、命を賭けたくなくて、逃げ出して、何で――俺はこんな場所に、|地獄《EDEN》に居るんだ。理解できない。理解したくない。数十分前の自分に教えてやりたい。悲惨な現状を。
……死にたくねぇ。
死んでたまるかよ。
死んでやらねぇ。
――絶対に!
お家の中にはたくさんの人、お空に向かって身投げして、
怪奇なことに喰われるのか。
煉瓦造りから――プリンの馥郁から――ぬるりと、何者かが這い出てきた。いや、勿論、這い出てきたというのは比喩であり、実際には歩んでいるのであろうが、兎も角。まぁ! 綺麗なお星さま! それに、なんてたくさんの流れ星! カタツムリさんは如何やらまったくブレないご様子だ。ブレのないほどの享楽に、甘受に、じゅくじゅくとチョコレートが嗤っている。まぁ! 随分と今日は甘いのね! カタツムリさんだって胸焼けくらいはするわよ! 胸のあたりに這入っているのは、存在しているのは果たしてハートなのだろうか。宝石をあしらったお飾りみたいに、平気なまでに、どくどくと跳ねている。伯父様と一緒に来ればよかったわ。あのひととってもロマンチストだから喜ぶに違いないもの。しかし、オマエよりかは盲神なのだろう。ひくりと、鼻腔を衝く醜い気配。あ、でも……あら? これ……ひと? そう、人だ。人間サマだ。人間サマがたくさん星の真似をしている。嫌よ、地面に落ちたら散らばって汚らしくなってしまうじゃない。わたし、今日のドレスは白いのだから勘弁してくれないかしら! 勘弁してほしいと思っているのは彼等彼女等の方だろう。せめて、偽善の欠片でもいいから抱いてくれ。心の底から願ってみせた。
ええ、もちろん、わたしはとっても優しいカタツムリさんだから、伯父様だってそうするだろうから、わたしも、やってみるわ。落ちているのか、引き延ばされているのか、不明な儘の彼等彼女等を『念』入りに元に戻していく。くねくね、こねこね、カタチを整えたのならばそっと地面とやらに降ろしてやる。なんだか、お菓子を作っている気分だわ! 何だったかしら……えっと……ジンジャーブレッドマンよ! そう、そうだわ。ジンジャーブレッドマン、食べたいわ。帰って伯父様に話したら、ご褒美においしいジンジャーブレッドマンをご馳走してもらうのよ! で……そこの|美味しそうな人《ジンジャーブレッドマン》、大丈夫かしら? まったく大丈夫ではない。呼吸はしているが、目の玉がカタツムリをしている。嗚呼、生きているのなら良いわ。どうぞ、お元気で。
……わたしがカタツムリさんよ!
若いのだから、元気そうだから、そんな勝手な理由で押し付けてくる。
日常だ。かけがえのない日常だ。そういうものだ。
脳天に落ちてきたタライ、そのままの勢いとやらを食らったかのような疲労感だ。身体が重たいのは勿論、より、重たいのは頭の方である。ずりずりと、ずりずりと、錘を引き摺るかの如くに帰路へとつく。ハァ……疲れた……。女の顔に笑顔はない。お客の笑顔すらも見られなかったのだから、成程、この色の失さは仕方がないか。時計を確認したならば丑三つ時、雇われ店長をしているライブハウスに自分の部屋がある。いや、遠くはないのだ。遠く離れているほどではないが、ああ、それでも、長い道則に思える。……たまには、|出る側《出演者側》がいいな……。そうとも、売れないのには原因がある。自分のやり方がいけない事くらい、わかりきっている。それを改善できていないからこその、クルーのアルバイト。出演者さんたちの顔だってあまり覚えていない。何故なら、朝から晩まで馬車馬の如くにこき使われていたからだ。強烈なまでの気分の落ち具合……いつかのぐるぐるが一種のスポット・ライトに見えてくる――見えてくる? いったい、何が見えている?
結局のところは気紛れだ。偶然だったかもしれないし、必然だったのかもしれない。重たくてたまらない頭部をぐりんと回転させて、上、ぴたりと止める事となった。普段だったら視線は下だ。スマートフォンの青々しさに夢中だ。見上げてみるだなんて、観察するだなんて、まさか、タライなんて落ちてこないと謂うのに――私、ほんとうに、疲れているみたいね。星が綺麗だ。星が、大笑いしているお客さんに見える。大笑いをしながら、此方に落ちてくる、お客さん、お客さん、お客さん……。は……? 目と鼻の先で笑った、ひとの身体。拍手の代わりにはじけた、ひとの身体。|不可視《インビジブル》がヤケに多い。|魚群《インビジブル》が巨大化している。……はは……疲れるな……。くたびれたジャージ、現実感のないモザイク絨毯。
巻き込まれた。如何やら世の中は笑えない事ばかりらしい。
冷静さを失くしてはならない。
此処は手術台だ。手術台で、連中は肉だ。
猫と鼠の関係性については説明する必要もなく、されど、説得すべき沙汰と謂うものは往々にしてあるものだ。こつこつと、こつこつと、跫音を響かせながら、歌わせながら、ひくりと身体を止める。……最悪だ。男は――一ノ瀬・シュウヤは――現状の把握とやらを素早く終わらせた。部下たちに今日こそ家に帰って休むように釘を刺されて、誰よりも早くタイムカードを切ったと謂うのに、ああ、明らかに見覚えのない街中にいる。これは……おそらく。この前『エミ』に起こったかのような、ある種の神隠し、俗にいうならば異世界に迷い込んだという事なのだろう。もちろん、己の勘は、咀嚼は間違っていない。間違っているのだとしたら――それは、この奇妙な感覚だ。此処に来てからずっと、迷い込んでからずっと、自分の世界にいる……汎神解剖機関で扱っている……怪異や災厄と同じ空気を感じる。もしかしたら……奴等も世界を渡っているのかもしれない。この世界も、奴等に侵されているのかもしれない。可能性は可能性だ。今は、まあ、いい。リツにメッセージを送るだけ送って、調べてみるとしよう……。
異変は――地獄は――既に幕を開けていた。くそ……これじゃあ、世界が崩壊したっておかしくないレベルじゃないか……! 星だと思っていた『ひと』が狂気に導かれるが儘、流れていく。流れていく先に存在しているのは、無慈悲なまでのコンクリートか。あの人なら間に合うか……? 走る。只管に、走る。たとえ肺臓が破れそうになろうとも、走る。落ちてくる位置を何度も何度も確認して――急停止し――乱れた呼吸など無視して――なんとか受け止める。クッションの代わりになった結果がこの痛みだ。もしかしたら、骨折しているかもしれない。いや、何もかもは「かもしれない」だ。痛くない、痛みなど、ない。これは打ち身だ。
次は落ちてしまった『ひと』の救助だ。ほとんどが原形すらも残せていなかったが、奇跡的に生きている者もいた。大丈夫か? あなたの名前と年齢は……? 服を破いて止血の準備だ。それが終わったのならば119を……。
……救急です。場所は――。
虚空へと落ちたのか、頭を開いたのか、何方にしても、
仰々しいという『こと』はない。
ひとは強い。その証明としての仁刻で在れ。
海月のように――傲慢のように――感じる事も、思う事も、考える事もなく……唯、飛ぶには。今宵は不向きのようですね。何せオマエは勇者なのだ。勇者なのであれば、自由と秩序、正義と平和の為に、一心不乱さとやらを装わなければならない。見上げれば夜空、宇宙より到来したのは怪物ではなく、ひと、ひと、ひとの雨……。減らせる犠牲は減らすのが望ましいでしょう。救えるものは救ってやるのが正義なのでしょう。順序通りに――色の通りに――進めていきます。まるで医者だ。災害時に腕を揮う彼等彼女等だ。命に『番号』を付けるかのような所業。ええ……出来るなら、全員です。ですが、それは最早、不可能でしょう。僕は信じていますよ……生命の本質とは、善であると。
病的なまでの正義感だ。執拗なまでの狂気だ。喜びに満ち溢れている人々は忘れようともしなくなった。では……此方から動くとしましょうか。溶け込んだのは鎧である。融けて一体化したオマエは一歩、真実とやらに近づけたのだろうか。近づけたのか、遠のいたのか、重要なのは『それ』ではありませんね。センサーの代わりとして揮ったのは『風』である。破壊の属性を孕んでいるのであれば、それこそ、逆転する事だって可能なのではないか。あとは救出すべき対象に接近し――直接、抱きかかえる。たとえ正気を失くしていて、ジタバタ、癇癪を起されたとしても能力者にとっては活きの良い魚に等しい。
ひとりだった。ひとつだったものが、徐々に徐々に数を増やしていく。雨の如くに晒された肉の袋が――哄笑を重ねて――熱狂を生む。こうなれば仕方がない。傷つける事になろうとも、最低限『生きている』なら――再生する事も用意だろう。飛翔している剣による回収。概念障壁による墜落死への干渉、緩衝。ああ、この無為な忙しなさは……。
嘗て、見たものに似ているかもしれませんね。
ぬくもりにあふれた抱擁――慈悲深き光の真骨頂。
……感慨のひとつでも抱ければ収穫だったのでしょうが。
第2章 集団戦 『暴走インビジブルの群れ』

邪悪なインビジブル――暴走するインビジブル――その群れ。
怪異の力によって宙へと招かれ、そのまま、墜落死した者の末路。
それは――喰い尽くされる以外に、ない。
地に広がっていたモザイクの絨毯は、成程、綺麗サッパリだ。
しかし、インビジブルどもの暴走は……暴食は……止まらない。
今度はかろうじて生き残った人々に集り始める。
もちろん、人々はインビジブルを視認できない。
仮に、視認できていたとしても――正気を失くしている為、逃げ出そうともしない。いや、むしろ彼等、彼女等は――群れの中へと駆け込もうとしている。スタンピードだ。発狂によるスタンピードだ。あの|門《くち》こそが救済なんだ。
君達は錯乱している人々を守りながら、インビジブルを倒さなければならない。
真っ赤な汚染に抗え、などと、酷な事は謂わない。
異常を異常としているから、ダメなのか。
飛沫――柘榴の嗤い声――幾度となく耳にしてきた、幾度となく目にしてきた、正気とは思えないほどの現実。ピアスの穴を開けるかのように、頭蓋の中身を明け渡すかのように、只管に、積み重なってきたストレス。最初はひどく狼狽えた。狼狽えていたが、徐々に徐々にと慣れてきた。いや、違う、慣れてきたのではない。見て見ぬフリがお上手になっていたのだ。そうして、ようやく訪れた爆発的な機会。もう、見たくない。見たくもないし、聞きたくもない。首を振ったって頭を揺らしたって逃してくれやしないのだ。嗚呼、ならば――受け入れない為にも新たな方法とやらに縋る他ない。……受け入れる。ただし、受け入れるのは『僕』ではない。そうとも脳味噌を増やせば良いのだ。脳味噌と呼ばれるお部屋をはんぶんこすれば良いのだ。面倒なあいつの要望を応えるなら――『俺』が出るしかない訳だ。
吐き出した。吐き出して、吐き出して、吐き出して、最後、甕の底に残ったのは希望である。希望がぐるりと|小世界《いま》を改めたのならば選択の時か。インビジブルを止めるか、錯乱している人間を止めるか。ぐばりと、|門《くち》を開けている怪物の群れ。まるでクジラの如くにプランクトンを掻き集めるのか。よし……出口へ向かう|莫迦《人間》どもを止めよう。たとえば沈黙した都市、海上に貌を出す事など、最早ない。
スタンピードを喰い止めるのに最も適している方法は『檻』だ。それも、陸上の生物では決して突破できない、深海の『檻』だ。ああ、しかし、只の人間が|水圧《ちから》に耐えられるのだろうか。耐えられるとしておけ。何故ならば、毎秒治されているのだから……! 呼吸? それを心配する必要はない。鰓呼吸だろうと肺呼吸だろうと平等だった。水槽には泡がたっぷりと用意されている、そうだろう?
これだけ集まっているんだ、わざわざ、狙う必要なんてないだろ? 下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる、なんて諺も『ある』ほどだ。√能力の発動、その片手間でタロットを投げつけてやれば容易い。けっきょく、俺が出るほどの脅威じゃない。脅威ではないが、驚異ではあったんだろうよ……。隠者の逆位置、めくれ、めくれ。
力任せで神頼みだ。心の底から崇拝してやれ。
依存先を増やす――逃げ道を増やす――か弱いか弱い人間にとって、知的生命体にとって、必要不可欠な事柄だろうか。さんざん逃げてきたのに、逃れようともしなかったのに、今頃になって身体が暗闇を求めている。ぺたぺた、ぺたぺた、何者かに縋るかの如く、藁にも縋るかの如く、依代は――大袈裟なまでに呼んでいる。兄ちゃん……兄ちゃん、俺の大好きな、俺だけの兄ちゃん……これで何回目だろうか。にぎにぎと、お手々を繋ごうと試みている。まったくしょうがない依代だ。一本くらいは貸してやろう。
兎も角――雑魚の群れに用はない。雑魚の群れの方は『依代』に用事がある様子だが、知性が残されているとは思えない。あの本能だけで突っ走る愚かな連中め、スタンピードに誘き寄せられた、ただのケダモノめ。そうとも、この依代は『蛸神』のものだ。蛸神様の『もの』なのだから、如何して、冒す事が赦されよう。他の何にもやるものか。このビタビタは威嚇ではない。このウネウネは警告ではない。布告だ。怒りに身を焼かれた蛸神様からの蹂躙の予告と謂うやつだ。兄ちゃん……兄ちゃん……。
憤懣と布告の狭間に這入り込んできた限度知れずの「兄ちゃん」コール。ナデナデの続行をせざるを得ないか。ああ、何もかもは真似事である。かつての依代の中から眺めていた、兄弟というものの戯れ、狂っていると描写できそうな、愛の蛸壺。あとは――ちんまい――心身を飲み込むようにして抱いてやれば――完璧だ。
俎板の上で踊るのは連中だ、鯉と認識してしまえ。
飛んで火にいる夏の虫……いや、夏ではないのだが、それほどの勢いでインビジブルどもが吶喊してきた。ヒトは餌には値しないが、しかし、あの雑魚どもがオイシイ思いをするのは気に入らない。あの女のように、あの、蛸神様の真似をしているやつみたいに、気に入らない。ならば、此方がおいしくいただいてしまうのが宜しいのではないか。掴んだならば切る、切ったならば運ぶ、運んだならば――お口の中へ。いざ、踊り食い。酢醤油に潜らせる必要もなく、雑魚、赤い醤油に浸かっている。
赫々とした双眸に――赫々とした視野に――映り込んでいるのはプランクトンだ。プランクトンのように盲目な、ちっぽけなEDENの民衆だ。クジラの真似事をしている連中に釣竿の威力とやらを教えてやれ――釣られるのも悪くはない。無茶ぶりされるのも嫌いではない。それにしても、随分と、カメラの数が少なくはないか。
――NGだ。深夜番組にも使えやしない。
大学卒業を祝うかのように――現世からの卒業を――お呪いとする。正気と狂気の狭間で柘榴、絨毯となった彼等彼女等は比較的マシな最期だったのかもしれない。落ちてきたタライを受け止める事すらも出来なかったオマエ、ああ、頭を抱えたくて仕方がない。うっわ、マジか……。素面である。いや、芸人として活動していた時も冷静さを忘れてはいなかったが、だとしても、こんなにも目の死んだ表情、晒す事なんて赦されなかった。呟きと共に香ってくる、臭ってくるモザイクの群れの『死』。まったくショッキングな映像ではないか。カウントダウンを終えた瞬間、集り始めたお魚ども。眩暈――|芸人としての正解行動《リアクション》する気力も無いか。ちら、と、視線を人々にやる。おお、スタンピード。この暴走列車は何処かの炎上芸サマに似ている。……達磨さんが転んだ! 早押しクイズでの解答、わざと間違えるような。
いつかの企画で鬼をやった覚えがある。ぐりんと、首を回した際、最初に動いたのは相方だった、だろうか。薄らボンヤリとした脳味噌を無理やり『混沌』へと落としていく。麻痺しているのは己の現実味であろうか、或いは、人の群れであろうか――はぁ、また、赤いシミが増えるのか……。売れやしない。売れやしない。あんな血塗れの魚を捌いたって、こんな血塗れの手を翳したって……売れやしない。殴った。何度も、何度も、殴った。抵抗できていないのはお互い様だ。人間よりも魚類の方が柔らかい、そう、思わないか。それで……あと何回、これをしなきゃいけないの? 窓を全部割ってくれ。
痛みも、痒さも、この鬱々とした心にとっては刺激にもならない。
何方が鬼なのか、もちろん、義妹の方である。
義妹を殿堂入りとした場合は如何に。
きっと、義姉たるオマエが選ばれる。
日常を切り取った一枚、その中心にデカデカと、土足で這入り込んだのはトマトの残骸であった。現代の技術を行使しようと、たとえ、数十年後の最先端とやらを酷使しようと、怪異の二文字には敵わないか。うわぁ……これは酷いわね。酷いとは思っているし、気分が悪くもなっている。だけれども、この惨状はオマエにとって他人事でしかないのだ。まぁ、死んじゃったらしょうがないか。それに……|義妹《サーシャ》には大人しくするよう言い含めておいたから大丈夫でしょ。あと、|義妹《サーシャ》の前でぐるぐるバットする約束もしたし……。まったくナチュラルに|洗脳《こねこね》されている。それは兎も角として目の前の魚群だ。迸れ竜漿――行き渡れ黄金――アーシャ・ヴァリアントの力は未曾有ですらも超越するのか。ま、やることはいつもと変わんないし、さっさと片づけるわよ。
守護霊が溜息を吐いている。如何してこうも、お姉ちゃんは……。
漁夫の利を狙うのは二流である。一流は――犠牲者が出る前に『敵』を殲滅するものだ。地面を踏みつけた数秒後、お魚一匹を踏み殺していた。ま、消化試合ってやつね。消化する肉なんて欠片も与えないけど。鋭利さも速度も逸般的な能力者以上、異常なまでの神業でインビジブルを刺身とするか。で……発狂した連中はねぇ……雑に扱っても問題ないでしょ。死にはしないわ、死には。こつんと顎を叩いてやるか、肩こりを直してやれ。がくんと、眠るように倒れた彼等彼女等は――あとは――医者にでも任せましょ、元に戻る力で、忘れようとする力で、なんとかなるんじゃない? 知らないけど。興味もクソもないご様子だ。そんなことより……スポーツショップ、ないかしらね。
季節外れのスイカ割りだ、既に、幾つか赤色ではある。
雨粒の如くに――通り雨の如くに――地を濡らした、血の池のような有り様。可能な限りの人間を、一般市民を助ける事には成功したが、如何やら『それ以上』の異常が起きているらしい。らしい、と謂うのは不可視である故だ。狂喜乱舞の兆候くらいは察する事、容易い。これだけでは終わらないと、終わる筈がないと、覚悟していたが……今度は何だ? 嫌な予感と謂うものは、無気味に対する直感は、成程、この世界でもしっかりと働くと視えた。ああ、そうかよ。怪異だな? いや、奇怪とでも言い換えるべきか? 俺の目にも映らないなんてどんな現象だよ、くそったれ……。駆けだそうとする連中を、人の群れを、跫音を、ドローンで足止めする。二人三脚めいてのすっ転びだ。視認できない以上、俺だけでは対処が……! 二人三脚なのだ。他の足を完全に留める事など出来やしない。悶々としているところにやってきたのは赤い髪の男――人間災厄「ルベル」たる、誰かさんとの仲良し。おお、良いタイミングだ。あいつがいるなら、この騒ぎも如何にか……? 彼方も何やら騒がしい。騒がしさに騒がしさが重なって、太鼓を叩く憑き物のイメージ。
シュウヤさん……大丈夫かな。数分前、赫夜・リツの思考は『一ノ瀬』に支配されていた。おそらくだが、いや、確実に、√を超えて、迷って、何かしらに巻き込まれている。あの人に限って『最悪』はないとは思いたいが、内容的にも、かなり危うい事態になっていそうだ。徒歩で世界を跨いだ瞬間、EDENに這入り込んだ瞬間、ぎょろりと腕を異ならせる。そうして、目の玉を開いてやったのなら――大丈夫とは思えないほどの惨劇、ザクロジュースと果肉の芳香――うわ……! シュウヤさん、血まみれじゃないか。怪我なのか返り血なのかわかんないし、それに……様子のおかしい人たちが群れに向かおうとしてるし……。状況とやらは把握した。把握して、咀嚼したならば行動せねばならない。握り締めた異形の膂力――今こそ汚染に、魚肉に、揮ってやると宜しい。
声が聞こえる。狂った人間の笑い声ではない。見えない何かしらの喜びの声でもない。これは、耳に馴染むほどの、緊張感のない『もの』であった。……ギョロのせいだと思うが……非常に喧しいし、調子が狂う。ちょっとだけ、自分に正直になったのか。或いは、疑り深さにやられたのか。脳味噌があつくて、あつくて、たまらない。……冷静になれ、俺。別に、いつも通りに対処すれば問題……?
あ、あの、シュウヤさん。血が出てますけど大丈夫ですか? 一区切りついたのだろう。妹のひっつき虫が、心配しているふうに声をかけてきた。違う、これは手当の時についたもので、俺の血ではない。あ……それならよかっ……。良いのだろうか。きっと、動けるのなら問題はないのだが、上司の機嫌は麗しくなく。それよりも……さっきからギョロが喧しいぞ。ギャハハ! ギャハハハハ! は、腹いてぇや! 腹なんかねぇけどよ! 誰か殺っちまったのかと思ったってのに違うのかよォ! ……えっと。聞き捨てならない言葉だ。この腕はやはり、即刻、処分すべきではないだろうか。……今すぐ黙らせろ。黙らせないなら、わかってるよな……? はい、分かりましたから、圧かけないでください。
ギャハハ! 人殺しより殺してそうだぜ!
……ギョロ君?
たとえ刺身の演技をしても、生魚の演技をしても、剣の天は容赦をしない。
金剛だろうと幽体だろうと区別なく、只、斬撃が翔けるのみ。
――嫉妬と羨望の眼が、ギラギラ、謳うように。
聳え立つ壁の巨大さ――広大無辺さ――こうした困難に遭遇してこそ、正義は輝くもの。そう、認めているオマエは、識り尽くしているオマエは『滾る』の意味を辞書で調べたのか。冷静さを、己らしさを、欠く事は、それこそ欠片としてありませんが……。成程、魂に込められた気合と義侠心については嘘偽りなどなく、この憤怒の灯火は犠牲者への弔いが如くに。出力は上々だ。十分に……昂らせる事に成功している。しかし……私が、干渉をするとしたなら、やはり、空を切るのが正解なのでしょう。ぐわりと、嗤う獣の如く、引き付ける|運勢《カード》の如く――無秩序を極めた現状を拓くとしたのだ。
刹那の内の巨大化であった。叛逆するように、復讐するように、反芻、竜の爪の一撃が|地面《せかい》を抉る。これは故意だ。故意によって発生した掌握の二文字だ。暴走しているお魚どもは文字通り、口をパクパクさせている。ほしい。ほしい。空気がほしい。空気が欲しくば――目の前の竜に跪かなければならない。元は、簒奪者のリソースとなる邪悪なインビジブルを奪い取る為の運用ですが……。今回、重要なのは失態の強制だ。運命の神にサイコロを振らせるカタチにはなるのだが、易々と、人は自分を殺せはしない。
掌握済みの連中を刺身として、血肉として活用してしまえ。次の戦闘の為の|超常《エネルギー》として、竜漿として飲み下すと宜しい。連中のパクパクを受け流しながら――そのまま――怪物的な所業を見舞うべきだ。敵も民間人も速度重視で……確実に……制圧……いいえ、蹂躙しましょう。気を失った誰かさんに被さったインビジブルの切り身、これが本当のナントカ盛りと見做すが吉。見向きもしないか。次……ですね。
如何にも骨が折れそうです。
……脊髄でも狙ってみましょうか。
燃えるような空――赫々とした宙――その所以は、成程、煉獄めいた地を映したが故だ。埋め尽くすほどの大群が、大渦巻きを孕むほどの邪悪が、暴れ狂うほどの死へと集る。魚に牙があると謂うならば、死霊に牙があると謂うのならば、嗚呼、抜け殻に抗う術などない。肉の剥がれる音に混じって響く、ゴリゴリとした骨への冒涜。啜られた脳髄は悲鳴を上げる事もなく、只管、養分となる事を享受する他ない。いや、あの魚どもは、インビジブルどもはマシな部類だ。この光景を、この地獄を目の当たりにしながらも――狂気の儘に、狂喜の儘に、抱かれようとしている人々の方が問題だ。クソッタレ――! 生贄になるにしても相手は選ぶべきだ。否。生贄になろうと考えている時点でご立派な錯乱だ。見捨てる事が出来たなら、放置する事が出来たなら、顰めた面を晒す己など無かった。退魔士と呼ばれる呪縛に、鎖に……莫迦みたいに……振り回されている。このお人好しめ。いつか、自分で自分の足を踏んだとしても、知らないからな。もう踏んでいる。踏んでいるからこその、底抜け、落とし穴への投身――人間性の基本と謂うものは善意であった。
インビジブルどもが――魚群が――死肉の代わりに吐き出したのは『赤』である。吐物はひどい汚染を孕んでおり、万が一、爆発をしてしまった場合、オマエも人の群れの仲間入りか。そう簡単に狂わされて、殺されてたまるかよ……! 爆発する前に導火線を失くしてやれ。居合の構えからの――解体だ。切断した『赤』は意味をこぼし、金魚のフンよりも無意味な、ただの色とされた。おい……アンタ! そっちは危ねぇからこっちに……! 甘い水を求めていた何者かの腕を引く。引き寄せると同時にやってきたインビジブル一匹。しゃあねえ。ちょっと痛いかもだが、我慢しろよな……! 狂喜にやられた一般人サマをぶん投げてやれ、肩を掴んで騒いでくれたあの人も、きっと、正気に戻れば死にたくないと喚くだろう。俺と同じだ。俺と同じなんだ。俺と……? 牙による一撃、見切った筈だった。されど、この、頬を濡らした熱っぽさは……。|舌打ち《チッ》……! |痛みはない《欠落》。
痛みは確かになかったが、それでも、冷静さを保つのは一苦労だ。鞘に納めるまでの動作が――ひとつひとつの動きが――蠢きに邪魔をされて、毛穴がわらう。深呼吸をするかの如くに『音』に集中せよ。鞘に納める澄んだ音。耳が、身体が、精神が――己が、無事であると伝えてくるのは幸運か、否か。
五月雨――静まり返った現実――見上げるべきは空――宙。
星は無い。人は無い。ああ、きっと、天とは巨大な窓なのだ。
存在してはならぬ異形の降臨――眼球を潰してしまいたくなるほどの――災厄。
第3章 ボス戦 『対処不能災厄『ネームレス・スワン』』

人間の群れは――錯乱していた彼等、彼女等は――天からの異形に、|天《窓》からの絶叫に、いよいよ、手遅れなほどにされた。脳髄の芯までも狂わされた彼等彼女等は、最早、記憶を失くさない限りは元に戻る事などないだろう。いや、彼等彼女等の精神の無事を考えている暇などない。何故ならば、君達も|発狂の危機《それ》に巻き込まれているのだ。
対処不能災厄『ネームレス・スワン』――無数の翼、無数の頭部、無数の脊髄で構成された、未曾有の悪夢。あらゆる『窓の隙間』に出現するとされている『それ』は圧倒的なまでの存在感を以て精神を汚染していく。ああ、悲鳴だ。悲鳴が、EDENの|窓《すべて》に届けられる。死を覚悟しなければ対処不能災厄は止められない。死んでも死なないのであれば、その命を賭けてでも、やるしかない。そう、これは自らの為で在り、大切な何かの為でもある。君は――この楽園を、失楽園にしてはいけないのだ。
神よ……あの翼は何だ……。
窓に! 窓に!
空より――宙より――天の使いは――喇叭代わりの声帯を以て、異質を以て、世界、或いは精神の崩壊とやらを響かせた。人類を――知的生命体を――あまねく沙汰を狂気と見做し、只、窓の隙間より出現する災厄は『神』すらも対象としたか。……死ぬとて、なんだ。死んだ程度で、殺された程度で、狂わされた程度で、逃がすものか、解放してやるものか。囀っているのは神気取りか、囁いているのは天使紛いか。兎も角、此処は神として、怪異として、蛸壺の内側より……海の底より、真実とやらを暴く為に、蠢き出でねばならない。足りていないのは頭か、それとも脳味噌の皺。ぐちゅぐちゅ、くちゅくちゅ、この、依代の中と謂うものは――心地が良くて仕方がない。勝手な事をされる前に、取り乱して終う前に、掻き乱してやったならば……すっぽりだ。すっぽり、帽子の中に隠してやると宜しい。飲み込んで、裏返して、此方が本当だと嗤うように――蛸神様の貌が視えてきた。
対処不能災厄が対処不能たる所以は『ひと』に特化しているところだ。人の精神は、只の知的生命体の精神は、脆くて柔らかい。ならば、もはや、正気も何もない『神』の類が、無邪気さそのものが相手だとしたら如何に。叫ぼうと喚こうと嗤おうと――馬の耳への念仏よりも、まったく、聞いてくれないのではないか。守り神は『八手』の仔を抱く。ああ、こうなってしまったならば単純な殴り合いだ。いや、殴り合いでも、もしかしたら蛸神様の方が不利なのかもしれない。圧された。潰された。煎餅のようにのされた。されど……何度殺されようと、神は易々とは死なないし、死ねない。望まれるが儘に、信仰の在るが儘に。気に入らない。何が気に入らないって、勿論、その、上から目線だ……。
神の権能を揮った、とでも描写すべきだろうか。お高いところで騒がしい、あの真っ白に泥の汚さと謂うものを教育してやれ。空間はいよいよ意味を成さず、間の抜けたような『災厄』の面を複数、拝んでやる。落っことした。落っこちたならば、あとは冒涜するだけか。その尊厳を、その存在を、踏み躙ってやろう。どのような、高尚な化け物であれ『蛸神様』にとっては敵でしかない。べちべち、びたびた、中身がこぼれてもやめない。ビンタ、ビンタ、ビンタ……。怒りだ。この憤懣を、この罪を、こいつに押し付けてくれる……。
ウイスキーとビールを混ぜた爆弾、その威力にやられて終いたい。
まるで会社員のような扱いだ。まるで、ブラックな企業で働いている、只の奴隷だ。タライが落ちてくる事なく、このような始末、タライで回されているかのような気分の悪さだ。宙、神のように、天使のように、降りてくる『それ』を眺めながら――ぼんやりと、現実と非現実の狭間で、何をこぼす。あー……もう、どうでもいいかなぁ……。笑みの裏に隠していたものが、ヴェールを剥がすようにして晒される。もしも、此処が√汎神解剖機関であったならば、最初に解剖されるべきは己であれ。いなくなりたい。何回想像したことか。何回羨望したことか。大切だった人を、相方を失い――こうして芽も出ず、バイトを反芻する日々。いや、もしかしたら、反芻だって出来ていないのかもしれない。反芻出来るほどに、臓腑が、脳髄が、消化能力とやらを有しているのかも不安定だ。人前では明るく振る舞っても、芸人の魂とやらを押し出しても、心には……真には……ドス黒い願望だけが漂う。そうだ。あの化け物に、災厄に、願ってしまえば良いのではないか。行方不明にしてくれるなら、誰も不幸にならないのなら――私は、この身を、この心を、何もかもを……。
耳朶を擽る音、脳髄を揺さぶる声、タライよりも響き易いのか。いや、勿論、先程のマイナスだって心からの願いだ。されど、身体は別のものを求めていたのかもしれない。可能性だ。塵のような可能性が積もって、山を創るかの如くに――降霊の祈りでもしたのか。死者の「生きたい」だけが再び、面の皮を厚くしてくれた。離れない。離れられない。神に隠してもらおうったって、そう、お上手に世界は出来ていない。
……チッ。
これが義務だ。生きている者の義務だ。血まみれのバットを構え『災厄』と対峙する。ネームレス・スワンは悲しそうに、嫉ましそうに、羨ましそうに、絶叫した。殴りかかる。殴れ、殴れ、殴れ殴れ殴れ……。いつかのオマエを身に宿すかの如く。
――ふと、見えた。インビジブルの生前の姿。
――大切な、大切な、あなたの|顔《かんばせ》。
今度は、此方が追う番だ。
敷かれた絨毯の長さに――広さに――呆然と演ずるほど、人間、まったく出来る筈がない。レア・ステーキを飾っているザクロのソースも、嗚呼、こうも甘ったるくては台無しだろうか。噛み切れそうにない硬さだ。まるごと咀嚼できそうにない大きさだ。加えて――狂った人間なんて、壊れた人間なんて、興味ないな。今や、榴の|希望《ねがい》なんて意味すらもない! 結局のところ、やりたいことを『やれなく』なったら人間、知的生命体、おしまいなのだ。故にオマエは『おしまい』を終いとした。重要なのは――宙の彼方、降臨した災厄への冒涜である。ふふふ……興味深い。興味深いとは、このことだ。是非解体したい! 狂気と絶望、その音が、その絶叫が、脳髄を揺さぶろうと試みた。試みたのだが……果たして。偽物を振盪させたところで、誰が痛がったり、痒がったりするのか。知的好奇心が抑えられない。衝動があふれて、こぼれて、留まらない。なあ、お前の何処でもいいから、俺に……四之宮・榴に……くれよ。いや、違う。一部ではダメだ。何処でもいい、なんて無欲なフリをするのは辞めてしまえ。余すことなく全てが欲しい!!! そういうわけだ。
生きている価値が欲しいと宣うのであれば、存在している理由が欲しいと宣うのであれば、それこそ、提供すべきだ。研究したい! 俺のモノにしたい! いや、生憎、この|四之宮・榴《からだ》は遠距離に特化しているが……。最も優先すべきは効率だ。効率的に解剖する事によって『器官』の損傷をなるべく少なくしてやれ。……なら、自ら、直接行うことが正解だ。孵化したヒヨコを育んで、いい具合になったら絞める、それに近しい。
手ずからでこその獲物だ! その先に待つ実験だ! 研究だ!
これは『運命の輪』で在ろうか、もしくは『吊るされた男』で在ろうか。何方にしても|霊力《ちから》の充填は完了している。タロットカードこそがメスで在れ。切り付け……面倒だ……。投擲せよ! 身体のように、投擲をせよ!
落ちてきたのは頭部である。
情念をぬりたくるように、回収した。
――クククッ。
狂気に狂気をぶつけたって意味などない。
誰の科白だったかは知らねえが、ナンセンスってやつだな。
死よりも恐ろしい事など無数に存在する。
無数の内のひとつに関しては、最早、割腹したくなるほどに恐ろしい。
未知ではない。いや、未知なのだが、想像が容易であるからこそ、
――眩暈がする。
押し付けたのは情報ではない。ならば、肉や骨や血の類なのかと、問われれば少し違うか。空を覆い尽くさんとする、宙を呑み込まんとする、筆舌に尽くし難いほどの未曾有が、只、歌うだけ。いや、むしろ、謳われるべきだと存在を主張しているのだ。人の群れも魚の群れも『災厄』にとっては等しく塵芥である。……また、トンデモないのが現れたわね。嗚呼、随分と冷静ではないか。冷静さがひどくて、これでは、怪異の方が仰天してしまうかもしれない。まぁ、殺るしかないのだけれど、義妹を守るのが……サーシャを守るのが、お姉ちゃんの務めだものね。完全に毒されている。完全無欠なまでに毒されている。如何して猛毒が、致命的なまでの毒に対抗できると謂うのか。失ったらと考えただけで、そっちのほうが正気を失いそうだわ。成程、確かに正気を喪失しそうではある。何方かと謂えばオマエ、正気ではなく狂気の方を手放す沙汰と成るのだろうが。洗い流された脳髄に隙間はない。ああ、義妹。義妹の姿が染みついていて、粘ついていて、離れやしない。
真なる竜に――ドラゴンプロトコルの正体に――傷つく箇所など皆無とせよ。赫々とした輪郭は……赫々とした暴力の化身は……成程、案山子ひとつに対して容赦などしないか。増殖し、伸縮してきた|部位《藁》を文字通りに払ってやれ。がしりと、その巨体を、より強大な巨体で抑え込み――組みつき――地へと落とす。捕食力も貫通力も蹂躙力も、無敵なオマエにとっては標準装備だ。脊髄を喰らい、脳髄を潰し、翼を薪の代わりとする。あとは……そうね。我慢比べよ。アタシが狂気に陥るか、アンタが完膚なきまでに沈黙するか。ええ、これで……アタシの勝ちねっ。
怪獣と怪獣が戦をしているのだ。
よりシンプルな方が――より明快な方が。
覇を唱えるに違いない。
魔法使いの名前は――何だったのか。章諸共に喪失したものは如何したって救えない。何を望んだのか、何を欲したのか、そのくらいで在れば、たとえ魔性で在ろうとも記憶はしている。いいや、これは記憶ではない。これは記録なのだ。読み解く事は容易いが――成程、真に感じ入る事は不可能と謂えた。手が届く範囲の民間人は気絶させた。己が出来る事だけは完遂した。とは、謂え……。おそらくだが、目と鼻の先で聳えている、あの、魔王よりも魔皇らしい、ダイモーン=スルタンとやらは『まて』すらも咀嚼出来ないのだろう。長引けば、長引かずとも、護り抜くのは困難でしょう。ならば……リソースの切り時ですね。勇者にだって魔王にだって、何者にだって、はやく片付けなければならない沙汰はある。一秒でも早い決着を――正義の為の沈黙を。第二形態に第三形態、まさか、次の形態までも、わざわざ隠し持っているワケではあるまい。増えるだけで芸のない如何物だ、面白くもなかった。
臆病な獣に勇気を……或いは、悪知恵を。
僕は特に……善行に、不服を感じるように出来てはいませんが……。爆弾と謂うものは、火薬と謂うものは、莫迦みたいに溜まっていくものだ。封じられていた悪性を、悪性そのものの制限を解除する。蓄積していたフラストレーションが貌を晒したので在れば、さて、有象無象が台無しになってしまうのではないか。影響を塗り潰す? いいや、影響を殺すのだ。殺して殺して、殺して殺して殺して、オマエは此処に君臨をしている。そうして気高さを定義せよ。定義して――何者かの羨望を、心身に宿してやれ。
簒奪者からの簒奪行為こそ、掠奪行為こそ、義賊的な面を孕んだ心地の良さである。先の|竜漿《エネルギー》を大量に消費し、いよいよ、オマエは本物へと手を伸ばした。嗚呼、痛くも痒くもない。これが勇者めいた無敵状態なのであれば――素晴らしいほどのラスト・シーンではないだろうか。消費量をなるべく減らしての飛翔だ。……では、此処からは、僕の番と謂うことで、問題ないですね。鱗よりも鎧の方が頑強である。異形と化せ。
枷を外すかの如くに、強欲を飾りとするかの如くに、圧倒的なまでの膂力で翼を破壊した。翼を破壊する勢いの儘、そうとも、脊髄を引っこ抜いてやれ。……もう、僕の敵では、ありませんね……今から、蹂躙を……違いますね。僕は、彼等、彼女等の為に、力を揮っているのです……。縫い止めてやった。留めてやった。さあ、トドメてやれ……!
√破壊級云々の模倣だ。戦隊荷電粒子砲の真似事だ。なんとも愉快な皮と肉の繋がりではないか。兎も角、|威刻《ロア》が滅するのは標的のみ。串刺しにされた天使の釘付け――抜け出そうともせず、それこそ、案山子のように睨めつける。……なんですか、その目は……僕が、僕ではないと、言いたげな、その目は……。竜の眼による影響だ。縛してやったのだから、そう、思えてしまった程度の事だ。
――多頭竜が嗤う。
――悪は滅びた、そういうものだ。
あとは……ええ、最後に生存者のケアを。無事だったのだから、なんとかなる。精神的な傷はいつか、癒える筈だ。その為ならばオマエ、なんだって『する』のだろう。まさか、煩わしく思う事など、ありませんとも……。
異形の腕が――眼球が――文字通り、ギョロりと、回転した。回転中に笑い方を忘れたのか、或いは、その愉悦を削がれたのか、兎にも角にもレモンの汁気を回避する。ギョロ君、いい加減……? 腕の視線は後方だ。オマエと、彼の後方だ。その、後方に、ひどく大きな勇気を揮うかの如く――くるりと、する。あれは……いや……あれが、この騒ぎの元凶……。あれは天使だ。天の使いだ。天の使いで在るが故に、神意に近いほどの災厄を内包している。無数の翼に無数の脊髄、無数の頭部を湛えているアレは、アレこそが、災厄の中の災厄と呼ばれるべきだ。言葉を一瞬失うのも、忘れてしまうのも、無理はない。アレこそが対処不能災厄『ネームレス・スワン』――ああ、かなり、ヤバいのが来たな。こんなの、シュウヤさん達の側に近づけさせたらマズいでしょ。マズい……? その程度の言の葉で、あの、形容し易いものを片付けられるものか。すぐにこの場を離れられるように、そう、√能力者である己が動かなければならない。……なあ、その前に、耳を貸せ、リツ……。
不可視だ。不可視の怪物の気配だ。この、気配と謂うものは臭いだけで理解させられる。リツとギョロが……こいつらが……静かになったのも、その所為だろう。咽喉から、肚から、臓物をブチ撒けてしまいそうなほどの、病的なまでの威圧感。いや、きっと、これは不可視ではない。あえて可視にしているタイプだ。振り向くな。好奇心とやらに敗北したその瞬間、俺は正気とおさらばしてしまう……。此処で発狂したら元も子もない。救急隊へ命じる事はできた。あとは……そう、対処不能だろうとも、対処しなければならない。
いいか、よく聞け。死を覚悟する瞬間があったとしても、たとえ、本当に死ぬ事になっても、抗い抜け。抗って、抗って、抗って、それでも、ダメだとしても、それを考えるな。何としても、叩きのめす事だけを頭に入れろ。以上だ……。
行ってしまった。
怪我をしている、名前も知らない誰かを助ける為に。
行ってしまった。
ハハハ……なんか釘刺されたし。
言われた通り頑張ろうか、ギョロ君。
おい……怪我人の容体はどうだ。なに? ほとんどの人間が精神を汚染されていて、いうことを聞かない? 縛ってでも回収しろ! 俺は、この男を運ぶ、アンタはそっちの女だ! 殴られたって蹴られたって構わない。それは救急隊のメンバーもおんなじである。……あいつらは……派手に暴れているようだな。まったく……。ギョロの喧しい叫びに安堵する時がくるとは……。叫びと叫びの混在、知る由もない願望への拒絶。
歌だ。あらゆる情念を、あらゆる欲望を受け止める、新たなる歌だ。それが、誰も傷つく事がなく、穏やかな旋律だとしても……この状況を、惨状を招いた災厄を放っておくわけにはいかない。異形の腕の咆哮が――裂傷が――如何物の咽喉らしき部位を抉る。たとえ、反撃が来ようとも、たとえ、死が迫ろうとも……それを避ける事だけに集中する。最早『死』の一文字すらも頭になかった。帰ったら、エミちゃんと、日常を謳歌する為にも……。
狂っている暇などない、宙を歪ませるほどの、哄笑。
尻を叩かれた勝ち馬――悲鳴を上げ――病的なまでに、只の、蛇に睨まれた蛙とされたか。蛙は跳ねる気力すらも削がれ、白痴のように、莫迦みたいに、盲目なフリをし続けた。目を逸らしてはいけない。嗚呼、逸らしてはいけないと謂うのに、オマエ、いつかのオマエの影に重なった。……過去に一度、アレとやり合った事がある。その時は……。あまりにも強大であったが故に、アレはしっかりと能力を封じられていた。それでも、死に物狂いをしなければ対処できない程だった。つまり、そう、俺は死にかけている。しかも、一度ではなく、二度ほどだ。それでも……! 最初の頃の己と比べたのなら、少しくらいは強くなっている筈だ。ほんの少しだけ腕を磨いた自負がある筈だ。だってのによ……。いざ、如何物を、対処不能災厄『ネームレス・スワン』を前にしたら、余裕なんざ欠片もありゃしない。名無しの白翼は一切を平等とする。真の平等とはかくもおぞましい姿で在ったのか。
絶叫――悲鳴――正気とやらを確実に、絶対的なまでに喪失させる、ダガヌめいた抱擁。声が、抱擁が、攻撃の一種なのであれば――都合のよろしい事に能力は反応する。先制を取るカタチで宙に浮いたオマエ――果たして、何を狙っての斬撃であろうか。一枚、たった一枚ではあったのだが、それでも、十分な戦果だ。真っ白い翼をひとつ落としての安堵。確かに、戦闘中に息を吐くなど愚の極みだ。されど、愚の骨頂だとしても……恐怖を殺す事こそが先決である。大丈夫だ。俺は、戦えている。あの化け物を相手に、あの、封印されていない対処不能災厄を相手に……戦えている。
戦えて――?
揺らいだ。自信が過剰だった事を思い知らされた。
耳を塞ぐ事すらも出来ない。違う。たとえ、出来たとしても、未曾有の叫びには抗えない。後悔している余裕など欠片すらもないのだが、嗚呼、あの時、咽喉らしき部位を切断できていたのなら……! 身体が、脳が、精神が、へし折れて終いそうな現実。だが……俺は幸せものだ。この激運が本当に幸せに繋がるのかは不明だが……。安物がちゃんと働いてくれている。それに……耳朶からぬるいものが滴ったとしても、痛くない、痛みなどない。
聞こえない。もう、聞こえない。
叫ぼうとしているのか、歌っているのか、最早、わからない。
くたばれ――。
ひどく無理な体勢からの|燕返し《テクニック》、怪異を殺す為に鍛えられた『それ』は通用するのか、否か。無理でも良い。そう、次がある。次がいるのだから、これ以上の攻撃は――? 既に限界だったのだろうか。窓の隙間より、|窓の隙間《√》より、貌を出していた|災厄《もの》は黙したかの如く――消失した。
……俺が……俺が、やったのか?
俺が……アレを、やれたのか?
スタンピードの終幕、喜びよりも疲れが勝った。