奇妙建築殺人事件
●犯罪界の――
最悪だ――嗚呼、最悪だ。俺は……俺は、アイツに許可なく、してしまった。アイツはそのまま、自らの運命を受け入れるだとか、なんだとか、宣ってはいるが、莫迦な奴だ。俺たちにそんな金なんざ、欠片として残っちゃいねえって謂うのに……。いや、しかし、そうだ。俺は、俺にしかない、天からの贈り物と謂うものを、発散する好機なのではないだろうか。そうだ。俺は、一度、殺人と謂うものを……してみたかったんだ。殺人と謂うものをして、この、心の中にある性癖と呼ばれるものを、満たしてやりたかったんだ。しかも、それを、二回同時にできるだなんて、中々に、夢のような今なのではないか。されど……俺のような凡人が、殺人を犯したって、捕まって、人生を台無しにするだけなのではないか……?
――やあ、そこの君。なんだか、愉しそうではないか。
――私の封印を解いてくれたら、|完全犯罪《パーフェクト・クライム》と謂うものを教えてあげても構わない。さあ、如何かな?
藁にも縋る思いだ。猫の手も借りたいのだ。
あ、アンタ……助けてくれるのか?
俺ァ……アイツと、アイツの中身を、如何にかやってしまいたいんだ。
●お手並み拝見
「アッハッハ! √妖怪百鬼夜行は今日も今日とて騒がしいねぇ! 嗚呼、君達。丁度良かった。君達は推理小説を読んだ事はあるかね? 我輩? 我輩は、そういうのとは、あんまり関係がなくてねぇ! いや、もしかしたら、有るのかもしれないが!」
星詠みである暗明・一五六はパラパラと|魔導書《あたま》を捲っていく。
「君達には申し訳ないけども、既に、殺人は起きている。君達にしてほしいのは被害者が如何やって死んだのか、それと、犯人の特定ってやつさ。残念ながら、如何やら、相手も星詠みらしくてねぇ。完全に見る事は出来なかったってわけさ。ま、頑張ってくれ給え。せいぜい、探偵が殺されないよう、気を付けるんだねぇ!」
第1章 冒険 『|推理回廊《ミステリーサーキット》』

濡れた烏の汚れた具合、苦悶の表情に、一粒の悲しみ。
何かを守ろうとするかのように、何かを庇おうとするかのように。
奇妙建築においては――出鱈目な空間においては――知っての通り、密室を作り出す事くらいは容易いのだ。あらゆる次元、あらゆる空間に繋がっている、この建築は、成程、妖怪探偵泣かせの『殺人ポイント』と謂うワケだ。兎にも角にも君達にはまず『被害者』の今を視てもらわなければならない。
被害者は女性だ。種族は人間。年齢はおそらく……10代半ば~後半。死因は……頚椎骨折。いや、骨折なんて生温いものではない。首がぐるんと、前後ろ逆になっている。それと、犯人が何を思ってやったのか不明だが――女性の下腹部あたりから下が『無い』のだ。持ち去ったと考えるべきだろうが、生憎と、血痕の類は残されていない。丁寧に丁寧に拭ったか、或いは、奇妙建築の所為で何処かに飛ばされたのか。
君達は此処から犯人を特定しなければならない。
犯人を特定し、捜し出さなければならない。
頭蓋骨をぱっかりとやる。素直な心に言の葉を垂らす。
子供だからこそのやり方だ。
強烈な柘榴の臭気――罪を犯した者にとっては馥郁――そんな、凄惨な現場に紛れ込んだ童。もしも此処に私立探偵や警官がいたならば、秒とも経たずに追い出されていたに違いない。されど、嗚呼、今回の殺人事件とやらは奇妙建築の内部で起きている。只の探偵や警官には『調べようとする』事さえ赦されないのだ。そうとも√能力者、君が、君達がこの物語の主役なのである。……酷い事をするの。普通の殺人事件ならお巡りさんや探偵さんにお任せするけど、これはあたし達が解決しないといけない怪異事件……奇怪事件なの。少女探偵の出動なのよ。安楽している場合ではない。椅子に座している暇はない。やはり、手足を動かさなければ、同時に、脳味噌を回転させなければ始まらないか。頭を回転させるって、なんだか、ちょっと前のあれを思い出すの。堂々巡りを突破せよ、絶対的なまでに。
捜査の基本は聞き込みだ。アンパンと牛乳は生憎、用意されていないが仕方がない。ここで何があったのか、何か、痕跡のようなものがないのか、お訊ねしてやると宜しい。ところで……この建物に、奇妙建築に、人は住んでるのかな。チャイムを押したならば誰かさんが出てくるまでの辛抱だ。ぎい、と、戸口が開いてくれた。あ……あの、はじめまして。あたし、事件について追っている少女探偵なの。子供のおそろしさと謂うものは、その『好奇心』にある。大人では絶対にお訊ねできないだろう事柄も、童であればいとも容易く成せるのだ。ねえ、あたし、知りたいことがあるの。あの女の人、どうして、下半身がないのかな。戸口を開けた住民は汗っかきだ。え……あ、いや、その……た、たぶん、妊娠してたんじゃないかな……? あどけなさにやられたのか、無邪気の花園に中てられたのか、住民とやらはアッサリと思考を曝け出した。それくらいしか思いつかないよ。でも、昨日の夜は……やけに騒がしかったね。なんというか……犬でも吠えていたんじゃないかな……。
ありがとうなの。他に、何か知っていることがあったら、教えてほしいの。
何でも話そう。ないしょになんてしないで、楽しくおしゃべりしてもりあがろうよ。
……他に? 他に……?
……その女性、ここらの人間じゃないよ。
観察する事こそが重要だ。観る行為こそが次へと繋がる。
霊媒師はなんと謂った?
弾丸が貫いたのは脳髄か、或いは、魂の類であったのか。何方にしても現状、それを完全に解き明かす事は不可能である。転がっている死体の隣で、ふらふら、視線を彷徨わせようと試みても、嗚呼、目の玉、只の一箇所に集中して仕方がない。……なんか、ウィンチェスターハウス……の逆版、みたい……です。たとえば方向感覚、右を向こうと考えたところで、さて、此方は左ではないのかと疑問が浮かぶ。方位磁針を改めようとしたとしても、きっと、彼はバットの真似事をしているか。……気にしたら、ダメですね……ともかく……女性を殺して、しかも……腹部から下がない……。わかる。わかってしまう。犯人が狙っていたのはおそらく、女性ではない。女性の中にいた、胎児だ。惨たらしく女性を殺したのは……女性が、堕ろすのを……。疑問は多い。謎は多いが、犯人の『動機』は想像できる。想像してしまった。現実逃避をしたばかりの脳髄には刺激が過ぎているのかもしれない。
|半身《レギオン》の召喚、展開くらいは錯乱気味の頭でも出来てしまう。超感覚による|探索《センサー》で最初に見つけ出したのは『何』だろうか。……窓の外に電柱……? ……でも、この距離では、跳躍してもしがみつけない……? いや、もちろん、殺人犯が人間ではない可能性も考えられる。考えられるが、その場合、わざわざ胎児を持ち去る意味がなくなってしまう。なんとも奇怪な糸の絡まりではないか。まるで、何者かの意図が仕組まれているかのような。……この人の、女性の、インビジブルが居れば……。訪ねる事が出来たならば朝飯前な事件だ。……でも、僕には、その術はないから……。いいや、オマエにはひとつ、素敵な手段がある筈。まったく、やりたくはないが、絶対的に解決する手段が……。
……融合して追体験とか……したくないですし……。したくない? 正確には、他人に『されたくない』なのではないか。……そう、ですね……周りに視た|子《インビジブル》が居るなら、融合して……。ぬるりと、耳朶と脳髄を通っていくお魚さん。見たよ! 見たよ! ぼくは見たんだ! 何か、小さな影が、去っていくのを!
気分がよろしくない。
真相を掴んだ気もするが、深層へと、突き飛ばされた感覚か。
筆が止まらない。言の葉が止まない。走らせて、走らせて、思わず『正解』の隣に辿り着いてしまうのか。成程……これは、俺が出るべき事件なのかもしれない。これは、俺の専門分野なのかもしれない。使い込まれた手帳が悲鳴をあげる。
――気分的には最悪であった。
ぼんやりと――何も考えず――空を、宙を見上げていた所為か。自分が何処か、まったく知らない場所に迷い込んでいる事にすらも気付けていなかった。気付いた頃には、予想が出来ていた通りに、如何やら手遅れなところに足首を突っ込んでいたようだ。運が悪かったな……。運が悪かったのはきっと自分だけではない。この現場に居合わせている『ひと』達全員だ。殺人事件……? 専門外なんだが、解決の役に立てるよう、できる限りの事をしよう。被害者の身体を観るのは、現場を観るのは、手を合わせたからだ。死者を冒涜してはいけないし、何より、これをしないと、おさまりが悪い。まずは、取り敢えず。周囲を写真で記録しておくこと。これで、捜査に協力している全員に情報を渡すことができる。おっと……。フィルムカメラが鳴く前にレンズを逸らした。……彼女を辱めるわけにはいかない。
……若い女性か。それも、十代……。眼鏡に映った、双眸に映った柘榴は果たして何を知るのか。殺されてから、下腹部を切断されたのか? 犯人の目的は……? 猥褻だろうか。いや……それなら、リスクを冒して切り落とす必要はないし、加えて、上半身の服が残されている……。下腹部を持ち去る理由……まさか、妊娠していたのだろうか。その可能性は高い。考えれば考えるほど、その可能性しか思いつかない。胎児を奪ったという非道……そうではないと祈りたいが、祈ったところで推理が脳髄にこびりつく。……犯人は父親になるが……? ……待てよ。この、切断面……切断したと謂うには、雑に見える……。
……引き千切られた……?
過去、冒険者をしていた己、こういうホトケサマとは度々出会っていた。
そうか、つまり犯人は……。
ロッカーに詰め込まれているのか、いないのか。
おまわりさん――違う――お巡りさんの出番ではないのか。或いは、ぬりたくり――それも、違う――探偵さんの出番ではないのか。いいや、只の警官や只の探偵では雰囲気に呑まれて堕ちてしまうのが『オチ』だろう。故に、オマエのような能力者が、第三の選択肢がお呼ばれされたのだ。犯人にとっては招かれざる客、むしろ、招かれたような気がしてならない。密室猟奇殺人事件ねぇ……。謎解きとかは管轄外なわけだから、頭痛がするかもしれないから、違う方向からのアプローチでさっさと解決するわよ。やはり持つべきものは√能力者のお友達か。こういう、埒外的な行いが跋扈するからこそ、探偵も犯人もグッタリなのである。……で、何か、遺ってるものはないかしら。たとえば、ほら、頭蓋骨とか、脳味噌とか。随分と染まってきているではないかアーシャ・ヴァリアント。慣れていない能力者に見られでもしたら、嗚呼、仰天されるか。……まさか、アタシが冒涜的なことをするなんてね。まあ、|義妹《サーシャ》とは関係ないことだし、ちゃっちゃと片付けるのが正解……?
何を召喚したのか、何を降ろしたのか。見ての通り、無理やりに堕ろされた若い女である。犯人を教えてもらえば早いでしょ。ボコボコにぶちのめして、できるだけ要望にそって、恨みを晴らしてやるから。アタシに、アタシたちに、全部話してくれるわよね? ……こくり。若い女の記憶が……十代の女の記憶が、重大な部分を囁き始める。
それにしても……下半身持っていったのはどうしてなのかしら。死因が頚椎骨折ってことは、あれよね? 首をゴキンってされた時点で死んでたんでしょう? 私は……私は、妊娠していたのです。私は、彼と、子供と共に生きる覚悟をしていました。彼も、最終的には頷いてくれました。ええ、彼は頷いてくれたのです。そして……私を殺して、私の赤ちゃんを攫っていったのは――「彼ではありませんでした」
出来ちゃったってことね。でも、アンタの恋人は殺人犯じゃない……?
種も仕掛けもないと犯人はわらう。
人物像はまったく見えないが、果たして。
名無しの怪異に、白翼の存在に、正気を脅かされたのはいつ頃だったか。精神面の治療は不要ではあったのだが、成程、怪我については一般的な人間レベルで喰らっていた。その時の諸々がようやく治ったというのに――このザマだ。最悪……最悪だ。不運の類に憑かれでもしたのか、そういう、怪異の一種に好かれでもしたのか。今度は何だ……大正時代……? より、正確に謂うならば大正と令和のごった煮だ。煮詰めて煮詰めて、煮尽くして、その結果生じた景色……世界である。……めまいがする。冗談じゃない。こっちはほとんど寝てないんだ……帰らせてもらう……と、いうか、そもそも、此処は何処だ……? 奇妙建築の中に入ってしまったのだ。右も左も前も後ろもわからない。……なんだって? 殺人? ふと、耳にしたのは物騒な言の葉である。聞いてしまったのならば、助け舟を出さずにはいられない。……シュウヤさん、自分を大切にしたらどうですか? 部下の呆れた顔が、声が、ひどい寝不足の頭を叩いてきた。……わかってる。わかってるから、今は、黙ってろ。
事件現場は――成程――室内であった。床に転がっているホトケサマは若い女性。もっと謂うならば十代の半ば~後半。……女性の遺体の下腹部から下がない……? まさか……。腹に、肚に、胎児がいたのではないのだろうか。一瞬、どこぞの女神の顔が思い浮かんだが、それは脳味噌の真ん中あたりにしまい込んでおく。……この事件、血痕の類が残されていない点も気になるな。たぶん……何かしらの隙間を……犯人にしか扱えない何かを利用したのかもしれないな。出鱈目なカラクリを、滅茶苦茶なトリックを扱い切れる者は、思いつく者は限られてくる。なら……余計なお世話かもしれないが……。
建築家か、或いは、カラクリに詳しい者に訊ねてみるとよろしい。
……建築家? カラクリに詳しい奴? そんなの、ここらにはいねぇよ?
何……? いないだって……?
綺麗に拭き取ったとでもいうのか……?
衣服にしみついた煙草の臭気よりも――血肉にしみこんだ柘榴の馥郁よりも――他人のものが喧しい。此処に存在しているのが己なのだと、そう、言い聞かせてくる誰かさんの無気味さ。いや、それよりも……如何にも無残な有様だ。扉をノックする事もなく、戸口から覗き込む慎重さもなく、ずかずかと、何者かの仕業に文句を垂れるのか。素人が殺しなんて、思いついたが吉日などと、ひとっつも鮮やかでなくて、莫迦らしい……。酢醤油に潜らせもせず、サッパリといただこうともしない腹立たしさだ。いや、俺は欠片として苛立ってなどいない……。どうした、きょーま。殺しについて、殺し方について、随分と物を申す。腕がなるのか。はたまた――美学に反するのか。ひくりと、男の身体が言の葉に反応する。肉体だけだ。肉体だけが肯定らしき蠢きをしてくれている。そうとも、精神は別なのだ。殺しに美学なんぞあるもんか。何故この殺し方なのか、よく、これで満足できたなと……そう、気になっているだけだ。からから、頁を捲るようにして幽霊が嗤う。はは……冗談はさておき。聞かせてもらおうかの。|暗殺者《ひとごろし》の見解を。いや、きょーま。今、お主、これで満足できたなと、そう、謂うたのか……? つまり、この殺しは意図的であると、そう勘づいておるのか……? 見ての通りだろう。殺しを仕事としていなくても、わかりそうだ。
不本意だが、俺には、わかる。わかってしまう。暗殺については、殺しについては、成程、知識は『ある』方なのだろう。遺体は……若い女性で、下腹部から下がない。犯人はおそらく……大柄な男だろうか。死因は頚椎骨折……首をあらぬ方向に捻じ曲げるほどの怪力……。此処までは絞れた。犯人は大柄な男で、なおかつ、尋常ではないほどの怪力の持ち主だ。しかし、絞れはしたのだが……肝心の、証拠品などがない。ああ、そうだ。被害者にとってはひどくおそろしい事かもしれないが……交渉するのは如何だろうか。まともに話せればいいんだが……この惨さじゃ、所有者の記憶すら錯乱してるかもしれない。ちら、と、お隣さん。頼りになる幽霊に頼み込んでみるのもひとつの手か。詩匣屋、なんかいい交渉方法ないか? おいおい、きょーま。わしは只の語り部じゃよ。生憎、語ることしかできぬでな。それも、怪談話だ。んふふ……。お約束だ。ご丁寧なまでのホラー展開だ。殺された者が犯人を脅かす。素敵な素敵な|古典《●●》なのではないか。悪意には悪意で返してやらねばなるまい。殺意には殺意で返してやらねばなるまい。そのためには……。
煙が立てば自ずと火は灯るものだ。
酒を飲めば酔っぱらうのと、同じくらいには必然だ。
死者との同調こそが、魂濁こそが、怪談を語る上でのひとつの鍵。お主の怨みはわしが連れてゆこう。お主を悪鬼に仕立ててやろう。さあ、話してくれるな? ことのあらましを……? お主……なぜ、そんな顔をしておる。殺されたのであろう……?
たぶん、素人の殺しなんだ。何をどうしたかわかったとして、その思想は……狂人の、考えることは……? ……詩匣屋。俺達、ひとつ、大切な事を忘れてねぇか? ここは√妖怪百鬼夜行なんだよな……? ほう? きょーま。つまりはあれかのう。
これは『人が人を殺したのではない』と、そういう、話か。
孵化寸前の卵の中身、啜るようにしていただくと宜しい。
滋養たっぷりなものだ。
大正ロマンの裏側に潜む――ヴェールを纏って嘲笑う――尋常ならざる事件と謂うものは日常的なまでに起こり得るものだ。横たわっている……捻じ曲げられている、彼女の顔とやらをオマエは覗き込んでみせた。なんだか……悲しそうだ。恐怖の表情に隠されていた悲哀の一滴、それをなんとなくで暴いて魅せたのはオマエの、妖としての力の一片だろうか。犯人は通り魔ではなく、おそらく被害者の関係者だね……恋人とか? 脳裡にへばりついたのは、精神に粘りついたのは、ひとつの、最悪な推理、最悪を極めた想像。……つまり、犯人は被害者を妊娠させてしまって、被害者の下半身ごと胎児を持ち去ったと……。最悪にも程がある。何が最悪なのかと問われれば、そう、被害者は最後の最期まで加害者を愛していたと謂う点だ。……吐きそうだ。けど、僕は事件解決のためなら……誰かのためなら、ちゃんと、真実に向き合うって決めてるんだ。そうなのよね。そういうふうに、言ってのけるから、度し難いのよね。少女のような|幻聴《こえ》が響く。……僕は、決めてるんだ。
妄想らしき『それ』を拭いとったならば、改めて『現場』を見ておくとしよう。被害者の持ち物は……。破れている服に触れる事くらいは容易い。覗き込む、覗き込む、この行為がどれほどの冒涜なのかは知らないが、いや、知ってはいるが、何もかもが被害者の為であれ。……僕は真実を知りたいんだ。知って、止めなきゃいけない。犯人に罪を重ねさせないためにも、あなたの、愛する人のためにも……。悲しい思いはしている。何せ、胎児を堕ろされたのだ。無理やり、それこそ、玩具みたいに。……教えて。犯人はどんな人? 今どんな場所にいそう? ……私は、私は、あの人に殺されたわけではありません。
あの人は……彼は、一緒に、家族三人で生きていくことを、受け入れてくれました。ですので、私は……彼の手の中で、息絶えたわけではないのです。たとえ、彼の「わかった」が嘘だったとしても、私は確信しています。
私を殺したのは彼ではありません。
本当だ。記憶はまったく嘘を吐いていない。
瑞々しいお嬢さんだ。世間知らずで、頭の中がお花畑な、生き急いでいた人間さんだ。いいや、生き急いでいるのではない。生き急いでいるのが過ぎて、ちゃっかり亡くなっているのではないか。若い仏さまだ。可哀想。なんともアッサリとした反応だが、オマエにとってはよく見る光景なのかもしれない。雲のように雨のように、蜘蛛のように牛のように、のんびりと獲物を待っているのかと、思えるほどの雰囲気か。ぼく、推理とか苦手なもので。無難に情報収集……よくよく見てお話聞きに行きましょうか。やはり足だ。やっぱり脚だ。脚で情報を稼ぐ事こそが最大の見せ場と謂えよう。それに……数だって多いのだから有利と謂えた。まずはご挨拶だ。ご臨終なさった彼女にご挨拶だ。ところで、どっちが前でどっちが後ろなのだろう。前が後ろで後ろが前で……首すげ~……。
後ろから声を掛けたのだろうか。それとも、恥ずかしがり屋さんだったのだろうか。こっち見てくださいって言われたのだろうか。ごめんなさいって勢いをつけすぎたのだろうか。兎も角ご活躍。海辺で拾った女だか蛇だか不明なものを放ってやるとよろしい。痕跡やら何やらあったら、僕に教えてくれないかな。泥濘を唇に塗ったかのようなグロテスクさ。それは水姫のすっぴん顔。ああ、血痕の類はないらしい。
……おや、まあ。妊婦さん。ずいぶんと若い妊婦さん。お母さんよりお子さんに執着があったのかな。綺麗に切断されていたなら、丁寧に処理していたのなら、そのつもりは無かったんでしょうか。……急いでちぎっちゃったのかな。はやく欲しかったのかな。せっかちさん。もう、十分現場は『見た』。最後にダメ押しのような聞き込みをしておくと宜しい。
ぼくは怪しくないので、妖しくはあるけど、教えてください。ね、教えてくれたら|恫喝《いやなこと》しません。悪いようにはしませんので、良いようにもしませんが。……そこの彼女、誰なんですか? し、しらねぇよ。たぶん、最近引っ越してきたばかりだったんじゃねぇか? 人間はすぐに死ぬから、わからねぇ……。
それとも、胎児だけ食べるのでも流行ってるんですか。
何やら、外が騒がしい。
第2章 集団戦 『面妖・申』

やけに騒々しいと思ったら――ひどく喧しいと思ったら、君達は何かが『群れている』のを発見した。真っ黒い、もふもふとした塊のうちの『ひとつ』が小さなものを抱えている。真っ黒なものが抱えているものを懸命に、無我夢中に、顔を落としているようにも見えた。
ずず……じゅるる……ずず……ずずずず……。
べちゃ……ぐちゃ……じゅるるん……ごきゅ、ごきゅ。
……くっちゃ……くっちゃ。
成程、被害者の記憶やら何やら、その悉くは正しかった。犯人は『彼』ではない。彼ではないなら、では、いったい何者は犯したのか。……人ではない。人ではない。あれは――猿だ。いいや、申だ。素晴らしい! 申であるならば、電柱を移動する事くらい朝飯前! 事実、朝飯前だったのだ。おいしそうに|桃《●》を貪っている!
彼に殺意があったとしても、これはもう罰せられない。
すべては申の食欲の仕業なのだから。
胎児を喰うのが流行っている、その程度の沙汰なのだ。
縦横無尽に――忙しないカフェーでの日々を彷彿とさせる――翻弄の具合と解せた。蜘蛛の糸は既に千切れており、二足歩行をする彼等に最早、救いはない。
――胎盤を貪るほどに卑しいのだ、腹立たしい事に。
自らを贄と呼称する――生贄と認識している――オマエ、目の前の真っ黒い塊に対して、群れに対して、如何様な視線を向けると謂うのか。……窓……電柱……小さい生き物が走っていった。正確には走っていたのではない。雀躍としていたのだ。嬉々として、キャキャと鳴いて柘榴の汁気にありつけたと謂う、その程度の沙汰なのだ。……乱暴な手口で半身を裂き、胎児を奪い、冒涜をする……。首があんなふうになったのも、フクロウみたいにされたのも、成程、あの膂力であれば納得か。納得……納得など、オマエに出来るものか。申なら、何もかも、辻褄があってしまうと、呑み込めるものか。この事件の裏にはきっと途轍もない黒幕が存在している。存在していなければならない。存在していないのなら、仇討ちとやらも出来なくなるか。誰が糸を引いている。意図を以て、地獄の絵図を描いている……? 兎に角、今はこの外道達を……。きゃ? とぼけても無駄だ。それこそ、ナンセンスだ。
もしかしたら、の、話だ。被害者の恋人――彼が『堕ろす』事に執着していたのなら――それに相応しい古妖の封を紐解いているに違いない。もしかしたら、が、真実なのだとしたら、この悲劇の元凶と謂うものは、アハアハ、嗤っているのだろう。手遅れだ。手遅れだけれども……僕は、能力者として、人間モドキとして、遂行しなくちゃいけない。嗾けるべきは怪物だ。|見えない怪物《インビジブル》の群れだ。たとえ病が蔓延していようとも――インビジブルには関係がない。うきゃ……? 命乞いだろうか。それとも、理解出来ていないのだろうか。人間の知性なんぞ欠片としてわかっていないのか。いいや、わかっている。わかっているからこその、桃の丸齧りなのだ。……黒幕、知ってるんでしょう。申知恵を与えた人が、きっと、いるはずです……ですが……僕は、聞き出すよりも前に、やってしまうと思います。許せない。許せないのだ。たとえ相手が獣でも、獣の姿をしているだけの『悪意』なのだから――鞭で叩くかの如く、調教するかの如く。一匹たりとも逃しはしない。
目玉を回すよりかは楽だろうか。
誰の為の怒りだろうか。
大正ロマンの華やかさに隠れて、闇夜を往く、獣のような知性であれば幾つか『視た』記憶もあった。生き急いでいる誰かさんからの言の葉の結果、オマエは、そのような泥沼から『華やかな』側へと引っ張り出されていたに違いない。これは、その反動のようなものだ。いや、違う。これは……たとえ、闇夜を往く生命で在ったとしても、耐えられる者は極めて少数と思われた。吸われている。齧られて、啜られている。産声すらも忘れてしまった、小さな小さな桃がひとつ――あ――無理だ。限界だ。如何にか堪えていた『もの』が予兆もなくやってくる。胃袋……食道……口腔をぬらす、滂沱よりも本能的な、焼けるような酸味。びちゃ、びちゃ、びちゃ。慣れてなんかいない。……コート、汚れちゃったね。後で洗わなきゃ。何処かの少女のような感触が……足元を滑り易くするかのような。あなたたちは食欲に従っただけだろうね。あなたたちは何者かに教唆されただけだろうね。でも……僕には、たとえあなたたちが只の獣だったとしても、許すことができそうにない! やっている事はオマエ、あの時のオマエと同じなのではないか。だから、嘔気にやられたのではないか。……見ている場合ではない。耳を傾けている余裕すらもない。
足掻こうと、藻掻こうと、咀嚼し、胃袋の中におさめてしまった時点で争いは避けられない。油断をしていた申、そのひとつの額にぽっかりと穴が開くのか。否。額を狙ってなどいない。オマエが穿ったのは目玉だ。ふたつのキャンディを、無数のキャンディを的確に打ち抜き――申の脳味噌を蹂躙していく。どこかの国では珍味だって聞いたけど……僕は、食べる気はないし、あなたたちと同じ道は辿らないよ。運よく生き残っていた複数が病の蔓延とやらを試みる。命中した。命中はしたのだが、されど、対策くらいはしてきている。痛くない。苦しくもない。千切られた妊婦や、喰われた胎児、ふたりのことを思えば……。
おいで、磯撫で……!
僕は食べないけれども、磯撫では別だよ。自主的に、積極的に『影』が駆ける。尾鰭で触れた申をすりおろし、そのまま、牙を使わず鯨飲とする。容赦がない? そりゃそうだよ。僕、今すっごく怒ってるから。「彼女も、子も、幸せになれたはずなんだよ」
……僕は、今、なんて……?
羊水に濡れた掌を懸命に拭っていく。拭う為のタオルは何処にもなく、自らの腕を酷使するのみ。カラカラの木乃伊にされた、いつかの一幕を思い出した。
――頭ではなく股の方だ。ヤルダバオートも興味を失くす。
丸焼きの為に道具を用意してくれた。伸縮自在な棒状だ。
踊っているのか、踊らされているのか、何方にしても獣性、彼等の臓腑こそブラックホールに等しい。たとえ異物が混入していようとも、むしろ、異物こそを珍味として受け入れるのだから始末が悪い。……殺害犯は化け物猿ってわけか、普通の猿も人を襲って食べ物を強奪したりするけど、人そのものを食べちゃうとはねぇ。これには吃驚とするしかない。いや、オマエの表情からは欠片として驚愕、見て取れないのだが。それにしても、わざわざ、人体を破壊してまで中身が……胎児が喰いたいとは……そこまで美味しかったのかしら。きっと美味に違いない。人間だって鶏の卵や雑魚を食すのだ。何にせよ……人の味を覚えた熊が駆除されるように、人の味を占めた怪異が解剖されるように、アンタたちも生かしておくわけにはいかないわ。びりり、申の群れに緊張が走る。まさか、これは……肉食獣によって齎される、殺気のようなものか。大丈夫、大丈夫。ちゃんと上手に焼いて調理してあげる。上手に焼けましたーってね。冗談の類ではない。誇張な表現でもない。何故ならば――オマエこそが『辰』なのだから。申と辰の対決――真の怪物は何方なのか、と。
大怪獣と怪獣の決戦とでも描写すべきだろうか。己の力を解放した|幻想《ドラゴン》、これに立ち向かうのは巨大な申。おお、猿回し。滑稽なまでに省みないではないか。襲い掛かってきた個体を打ち倒し、踏み潰し、首元に食らいついての――阿鼻地獄。いいや、良い具合に焼けている。まったく旨そうな哺乳類ではないか、チンパンジーの毛もちりちりとしていた。暴れてお腹空いたし食べちゃいましょ。食べていいのは食べられる覚悟のある奴だけってね。その場合、オマエを食むのは何者となるのか。
|義妹《サーシャ》以外は許さないわ。
人が大切に、大切に育んだ、一種の樹木。身勝手な連中はスイスイと登り、実っていたものを根こそぎ貪るか。たとえ、その実りが渋かったとしても彼等にとっては問題などない。重要なのは味ではない。重要なのは汁気ではない。流行とやらに跳びついて人間の真似事をするのが大好きなのだ。……当てちゃった。ぼくミーハーだったのかも。自他と知らない一側面だ。己すらも解せない裏の顔だ。知れて良かったのか悪かったのか、なんとなしに痴れている、彼等のうちのひとつに訊ねてみる。……きゃ? 意思疎通が困難と見えた。やれやれ、これじゃあ、話し合いをするのは難しそうだねぃ……でも、とめとこ。ダメでしょ。熟してないもの食べちゃ。桃? ほんとに桃? 見せて。最早原形のない桃の香り、柘榴の馥郁、胎児の死臭――嘘つきじゃ~ん! 見ざる聞かざる言わざるしててもやっちゃいけないことあるでしょ。もう! 猿も木から落ちる。だから、手頃な肉とやらを暴いたのだ。……猿に倫理ない? そっか。ぺこりとお辞儀をしてやれ、頭に付いているのは角か、糸か。
大変失礼致しました。|申《もう》することすら伝わらないとは、|牛《もぅ》、配慮すべきでした。これはぼくが悪いですね。ええ、これはぼくの失態です。ところで……話せる? ウキャー! まったくダメそうだ。痴れているとも考えられたが、いや、これは、やはり聞かざるの群れであった。猿語じゃないと無理かな。あ、ごめん。やっぱ聞かざるだったんじゃん。では……本日は丑の日ということで。ここはひとつご納得いただければ。いただくべきは牛肉だと、たっぷりと汁気を蓄えた蜘蛛だと、タランチュラだと申、うるさい。
申が巨大化するよりも先に――前に――合掌、|曲刀《カルタリ》は地面を抉っていた。切り付けられた虚空が|霊気《エネルギー》を充満させ、猿滑りを起こしていく。足元がお留守になってしまったお猿さん、致命的なまでにバナナを踏んだのか。猿って珍味でしたっけ? お腹開いたら何が出てくるかな。
臓物だ。臓物と、それと、桃の残骸だ。
――煩悩を切断するよりも、身体を切断した方が手っ取り早い。
替えのない左腕、色白なそれを真っ赤に染めてたまるものか。
何かしらを口遊みながら、目玉も脳髄も肚も、つみれ汁の具としてしまえ。
――団子だった獣の団子だ。味付けは塩でよろしい、悦ばしい。
喰らいつくかのように――縋りつくかのように――柘榴が、死体が、名前とやらを告げている。いいや、告げているのではない。継がせてくるのだ。継いで継いで継いで、繋いで繋いで繋いで、ようやくの、次。誰かしらの鎖として、楔として、絆として――己らしさと謂うものを外気に求める。はーあ……。目の前の惨劇は、繰り広げられている野生は、超自然は、何者かの意図によって引き起こされているのだと、なんとなくで理解出来てしまった。女子供に来させるようなとこじゃねェし、それに、野生のフリをすんじゃねェよ。勿論、皆々様の推理のおかげで此処まで辿り着けたのだ。まったく見事なもんでェ、俺はやっぱり荒事の方を担いましょうかねェ。えぐいものから渋いものまで選り取り見取り。されど……流石に。何せ死体からできた身だ。屍肉を喰う趣味はねェだろ、おさるさんよォ。少なくとも、女や胎児のが新鮮で美味いだろうからな……。どうやら個体差も『ある』らしい。腐りかけも腐りかけ、腐った肉ほど旨味が増すとシルバーバックは宣う。
そうかよ……でもよォ、生じゃ身体に悪いだろ? これでも料理が趣味でなァ……何? 衛生面? おさるさんが気にすることじゃあねェな。とにかく、喰うなら美味い方がいいだろ? な? こくこくと、キャッキャと、人食い申どもが喚き散らかす。ご馳走を期待していた彼等が喰らったのは――鉛玉であった。
死体であるが故の、デッドマンで在るが故の、怪力だ。絞めて、横たえたならば――寄せ集めの石でぶっ叩くとよろしい。肉は叩くと柔らかくなるんだ。ざわつく申の群れ。ある個体は耐えられなくなって、けろけろと|鳴《吐》いた。
ん? なんで料理されるのが自分じゃないと思ったんだ?
ハハッ……。
重要なのは意思ではない。やりすぎなまでの存在意義だ。
おっきなお友達がちっさい誰かを嬲っている。
それに反応して、おっきい方を罰するのだ。
オコサマ故の眩暈ではない。人間だからこその眩暈だ。いつかの依頼では楽しめていたが、燥げてはいたが、これは、度し難いほどの獣の臭いと謂えよう。いいや、鼻腔を擽ってきたのは、脳味噌を穿ってきたのは死臭である。加えて、目の玉、飛び込んできた真実に臓腑が反応する。犯人は人間じゃなかったのね。お猿さんが真犯人……え……? 何を食べているのか。何をうまそうに啜っているのか。滋養がたっぷりな人間の赤子……桃……カタチが辛うじて残っている、胎児――この残酷に、この冒涜に、耐えられる者こそ狂気の友か。故に、屈している、膝から崩れているオマエは……素敵なまでに正気と謂えよう。何かがせり上がってくる。何かがこぼれそうになる。ぐっと、口元を押さえて、こらえる、耐える。がまん、がまん、するの……。流石にこれは無理なのよ。どっかの男子たちも目を回す衝撃だ。動けない。まるで、カートゥーンがスプラッタへとジャンル変更したかの如く。
呼んでいないし、そもそも、呼ぼうとする気力だってない。されど、オマエを守ってくれているお人形さん、|護霊《キクジドウ》は壁となるのか。子供を無事に帰すこと、子供と一緒に遊ぶこと、その為であれば――たとえ、自らが痛めつけられたとしても――いたいのいたいの飛んでいけと唱えるのだ。護法童子は殴られた。如意棒によって滅多打ちにされた。ふわふわ、受け止めてやったお猿さんの癇癪に――お返しとして睨むとよろしい。憑いているオマエの為だ。殺されてしまった胎児の為だ。大きな、大きな、目の玉をぐるりと見開く。ああ、光った。瞬いた。そうしてお猿さんの一匹が毛のひとつも残さず、滅された。
獣性どもの混乱、たのしいいじめが出来なくなった。
もう、止まらない。胎児を喰らった、子供を虐めた『獣』に容赦など要らない。たとえ『あたし』が声を掛けたとしても、止まってとお願いしたとしても、後はない。おかげで学校にもいけないけど……こういう時は頼もしいね。
怪奇的なまでに――怪異的なほどに――連中は、見慣れた地獄もいとも容易く造ってくれた。確かに、文字通りの猿真似では在るのだが、フリをしてしまえば同罪と睨める他には知らない。引き千切られた断面……攫われた胎児……獣にやられたものだったな。せめて、肉や骨の一片でも……人らしい一片でも……回収して、弔えればいいんだが。ぼんやりと見つめていたオマエ。まじまじと観察していたオマエ。もう、能力者ではないのだから、首を突っ込まなければ良かったと謂うのに。猿は嗤う。大笑いだ。まるで、来年の事に悩んでいる者を指差す『鬼』の如く。……のんびりしていては喰い尽くされるな。両手、握り締めた得物の『血』を啜らせた数については――申の牙や舌よりも凄まじい。
怪奇だ。だが、怪異ではない。そう、完全に理解したオマエは……汎神解剖機関の職員は……シンプルな連中に吐き気を覚えた。あれが妖怪か……あれが、人を喰らう化け物か。と、謂う事は……ここは|彼奴《リツ》の報告にあった√妖怪百鬼夜行で間違いなさそうだな。√能力者でなくとも『忘れない』者は存在していると、そういう沙汰だ。抵抗する人間の『意思』の強さこそを武器とせねばならない。しかし、ああいう光景を見ていると……。死体、死体、死体の渦の底、臭気に囲まれていた|妹《エミ》を思い出す。……くそ。徹夜していた筈なのに、寝不足で頭痛がしていたと謂うのに、それすらも、失せてしまうほどか。
……斧を持った男性も、能力者か、その関係者だろうか。
走れ――奔れ――あのような狂態を、あのような惨劇を、赦してやるほど人間、狂気ではない。……何をするつもりだ。申の頭部を西瓜とするよりも前、連中の一匹が『呼吸』を意識した。成程……猿叫というやつだろう。斧による致命よりも『音』の方が早そうだ。鳴き声が厄介なのは怪異も妖怪も同じらしい。申の咽喉を引っかき、横やりをしたのはメスである。能力者の解剖ほどではないが――いや、違う。能力者の解剖よりも『上手』であった。そうして、そのまま『メス』は軌道を変え――足首その他を舐っていく。
あの男性……思っていたよりも、強い。しかも、俺の動きまで完全に読んでくれている。必死となった猿の腕がオマエに伸びてくる。伸びてきたのならば薙ぎ払い、その速度の儘――回転を利用しての――断頭台。無理やり体勢を整えて屈みこみ……胎児の『欠片』を拾う。このハンカチは今から胎児のものだ。踊る事すらも出来なかった、胎児のものとなった。
……預かった。託された。託された彼、もしくは彼女を出来る限り『安全』な場所へ。しっかりと距離を取ったのならば、あとは、あの男性に任せておくのがよろしい。……出来ることなら|妊婦《彼女》と共に眠らせたい。言葉は不要である。
二人ともの思いであったのだ。
悪食が過ぎるな……。全力だ。体重を乗せた、殺意をこめた一撃だ。申の群れを蹂躙するその姿はまさしく『師』の背中と謂えよう。……この申が犯人なら、殺人事件というよりも事故だな。偶然迷い込んだなら運が悪かった、に、なるが……誰かに放り込まれたのだろうか。終わったか……いや、助かった。ありがとう。胎児の欠片を抱えている初対面さんとの合流。放り込まれた……? ……これは、|私《●》の勝手な想像ですが。
――人間災厄を彷彿とさせる、やり口に思えるのです。
骨が折れる。
火のない所に煙は立たぬ――煙がなければ火もないか――焼く必要などないとグルメな連中、嘲笑う。無残な有様――と思ってはいたが、なるほど、申の食い意地とあっては、情念ですらなければ、仕様がないか。下手な殺しよりも食欲の方が、酢醤油でさっぱりの方が、まだ、理解ができる。今、オマエはなめらかなふうに何を口にしてしまったのか。踊り食いも活け造りも体験していなければ頷けはしない。その子は、その桃は、たんと美味かったろう。満足したろう。ぐるりと、申の群れを睥睨したところで連中、如何やら満たされてなどいないらしい。いや、わかる。赤子ひとつ、胎児ひとつ、母体の半分で満腹できるほど、彼等は無欲ではないのだ。……それじゃあ地獄で閻魔様がお待ちかねだ。死者の手帳を黒塗にする、そのようなオツムもないのだから。
きょーま、おい、きょーま。お主、どうして酢醤油のことを口にしたのかのう。いや、わしは別に、きょーまが人食いだなんてひとっつも思っておらんのだが。兎も角――成程、成程、すべては申の仕業であったか。これでは確かに、怨むことも憎むことも、叶わぬな。悪意もなければ理性もあらず。あるのは本能。生物の慾……しかし、のう。わしにはどうも、その申が人並程度の知性を有しておるかのように思えてならぬ。それに……推理小説の犯人にするには些か難がある。もっとも、怪奇譚としては佳いネタじゃ。マッチひとつが何を齎すのかを、殺意ひとつが何を齎すのかを――応報を、教育しなければならない。
人でなしであろうとも、白痴であろうとも、悪さをすれば痛い目は見るものだ。たとえば、タヌキの所業。たとえば、オオカミの所業。昔話に倣うのもよかろう。生成された『拍子木』が笑いだす。笑って、嗤って、何を語ろうと試みたのか。児を喰らう申胎児の始まり、始まり――病に罹ろうと、毒気に中てられようと、幽霊なのだから煙にも巻けた。
打ち鳴らせ――討ち鳴らせ――申どもの跳び掛かりを往なしてやれば、あとは赤子の手をひねってやるとよろしい。集団相手の戦術もお茶の子さいさい。裁縫をするかの如くに、残像を残す――大層痛かろう! 痛くなければ、罰にもならぬ! 申の脳天に直撃した一本、頭蓋がばっくりと砕け、どろどろ、どろどろどろ……。
食欲なら――捕食行為なら、人の命の冒涜とは思わねえ――と、謂うとでも思ったか? 若干だ。ほんの若干納得しかけた事に、己に、苛立ちを覚えた。癪に障る。自分の脳味噌ではなく、申の頭蓋の楽器で我に返るとは、余計に、むかつく。腕一本……? お構いなく。無数のナイフで傷つけてその|弱点《ポイント》に叩きつける! 最後の刃物と腕一本、何もかもを繰り出して……申の原形すらも失くしていく。これが、アンタらのやっていたことだぜ。違うな。アンタらは弱者を嬲っていたんだ。
詩匣屋! 腕が使いもんにならなくなったからさ。固定すんの手伝ってくれ。
きょーま、お主……ひどい有様じゃ。見てる此方が痛くなる。
加減など知らない。誰に対しても、知らなかった。
第3章 ボス戦 『犯罪鬼妖教授『モリアーティ』』

私のプランは完璧でね――しかし、古典的がすぎて、面白くなかった。
申し訳ない――。
胎児の|死体《欠片》を回収した君達、これにて一件落着かと思われていたが、如何やら、犯人は現場に戻ってくるらしい。いや、違う。目の前の男が宿している『もの』は一般的な人間の――妖怪の――ソレではなかった。圧倒的なまでの妖気。病的なまでの混濁。その全てが霞むほどの――おそろしいほどの、精神性。
君達も『推理小説』のひとつやふたつ、嗜んでいるとは思う。本来、私は名乗るべきではないのだが、どうせ星詠みをされるのだ。此処で名乗ったとしても、私にはなんの『影響』もない。はじめまして、探偵諸君。私は――モリアーティ。
ひどく有名ではないか。
有名がすぎて、鬼気と迫ってくる。
詠まれているのだ。此方も、詠んだのだ。だから、この戦闘は避けられないと謂うわけだね。私としては、これこそ面白くないのだが……。これだけは謂っておこうか。「恋人が犯人」なのだよ。少なくとも、彼は、私の封印を解いたのだからね。もっとも――彼が捕まる事はないだろう。罪を償う必要もない。今頃、彼女を殺そうと、頭を悩ませている頃だろう。
|完全犯罪《パーフェクト・クライム》と謂うわけだ。
掌の上で踊ってくれ。
まるでシーラカンスだ。古代より――古典より――飛び出してきた、悪役の中の悪役だ。そんなものを名乗っているのだから、そんなものを身に纏っているのだから、目の前の男は……ナポレオンのような鬼は……眩暈と謂うものを引っ提げてくる。……誰も救われない。救いのない……そんな事は、有っては、いけません。ほう……何を口にするのかと思えば、そのような偽善。私にとっては犯罪に手を染める彼等、彼女等の方が人間らしいと思うのだが。吐き気がする。まるで、悪が服を着て我が物顔、表を歩んでいるかのようだ。誰が、何と謂おうと、貴方様が真犯人です。その根拠は……? まさか、教唆したからと、正論を叩きつけるつもりではないのだろう。……その通り、です。封印を解いたから、解かせたから……こんな惨劇が生まれた。誘導したから、起こりえた。死ぬ必要のない『もの』の死。これを遊戯感覚で観察しているのだから――悪徳をしているのだから――。ええ、僕は確かに、価値がないのかもしれません。ですが、彼女には、彼女の子供には……。やれやれ、随分とマイナス感情に支配されているようだ。何処かの探偵のようにやってはいないかね? 何を口にしている。この、犯罪界の化け物は――臓腑を擽ろうとしているのか。
深海の生きた化石――ラブカ――の可愛らしさについては、オマエも知っての通りだ。深海ではなく空間を泳いで往く『それ』はモリアーティの頭蓋を噛み砕こうと試みたか。厄介な能力だ……君、私の攻撃を避ける為に『距離を取る』つもりだね。タロットが踊る。踊らされた隠者の滑稽さに初歩の初歩を教えるかの如く。……僕を護ってくれる優しい良い子。良い子の為にも、僕だって……? 悪人が悪人たる所以を描いてみせよう。あの、空想兵器は――もしや――オマエの|大好物《●●●》ではないか。
……思考の混濁って、そういう、意味ですか……?
さて、君はどこまで耐えられるかな?
……絶対に、赦さない……っ……。
頻繁に体験している。体験をしているからこそ、慣れている。この程度の、粗末な大好物では理性を溶かすほどには至らない。……残念ですが、僕は、手遅れなので……。咽喉に噛み付いたラブカ。その、刹那のような隙を逃すほど、能力者は狂っていない。
次は、もっと強力なものを用意しておくよ、君。
あらゆる事柄を想定して動かなければならない。あらゆる死の可能性を頭に入れて、動かなければならない。死しても尚、動かなければならない。
――ならない。いいや、生っているのだ。
脇腹を擽った鉛の味わい、じっくりとさする。
調理をされたお猿の味わいについて、目の前の男に訊ねたところでコメントなど返ってこない。犯罪界のナポレオンを……古妖界のプロフェッサーを……名乗る輩にしては随分と俗っぽくも見えた。モリアーティ、モリアーティねェ……わっかんねェなァ。理解する必要などない。たとえ相手が理解を強いてきたとしても、それに乗っかる所以などない。俺はデッドマンなもんで、こないだまで千々に分かれた死体だったからよォ、生きている人間の文化は……娯楽はお勉強中なのサ。つまり、君は私の存在を娯楽だと、そう定義したいのかね。なんだか、賢そうな事を宣っているが。化け物には化け物らしい本性が有るべきだ。それは死体と同じであり――金銭を盗もうとする主人公に匹敵する。
して? 完全犯罪? あんたがどれだけご高名な方か存じ上げないが、罪には罰がつきもんだ。それを知らない悪役など殆どいない。それを解せていて、尚、罪に走るのが現状だ。現も夢も覆す事など出来ない、と、石を積み上げたところで変わらない。「罪と罰」の著者はドストエフスキーだっけ? 知らんが。私としてはエドガー・アラン・ポーの方が好みなのだがね。折角だ、読み聞かせをしてあげよう。勘弁してくれ……。
法だけが裁きじゃないサ。ここには通りすがりに殺人事件を解決しようとしてしまう、まったく有能な探偵方がわんさといる。あんたに言われるまでもなく、あんたが自白するまでもなく、恋人が犯人と看破した御仁も……。君、お喋りだってよく謂われないか? 勿論、私もけっこう、お喋りをするのは好き……。
リボルバーが嗤った。
てめえが舐めるべきは俺たちじゃなくて辛酸サ。
……成程、能力者よりも、君達の方が厄介かもしれないね。
誰が心中を図ると謂うのか。誰が道連れを図ると謂うのか。
死ぬのは一人だけで良い。
じっと――じっくりと――舐め回すかのように、モリアーティは隅々までオマエを観察していた。観察していたからこそ、オマエの怒りや悲しみが直に伝わってくる。それが、冷静さを失くしているものの『証明』なのだと勘違いをしてしまうほどに。……ああ、もう、本当に嫌になる。あなたを殺すべきという、あなたを封印すべきという、結論しか導けない僕自身が。それで、私を殺す為に君は『なに』をするつもりなのかな。お話をしている暇はない。相手のペースに呑まれるなど以ての外だ。先程の獣と同じように……猿を、見ざるとしたかのように――ピストルを構えて、撃つ。まったく、君という奴は。私に『それ』が通用すると、本気で思っているのかい。殺意をのらりくらりと躱していく。違う。殺意を『失敗』させたのだ。鉛の味わいは虚空に掻っ攫われ、プロフェッサーの頭脳の証明となった。
……うそ。嘘ではない。オマエの攻撃は、銃撃は、呆気ないほどに『殺された』のだ。ヤケにでも陥ったのか、混迷に落とされたのか。何度も何度も、虚空へと発泡を続ける。相手が何もしていないと謂うのに、仕掛けてすらいないのに、尻餅までついてしまった。……偶には犯人側も勝たなくては、面白くないと、世間様は宣っていたと謂うわけだ。モリアーティが選択したのは拳である。鬼本来の膂力を以て、蹂躙すると――。
ねえ、今あなた、僕を攻撃しようって、そう思ったね?
勝利、その確信こそが致命を孕む。先程までのは能力ではない。
モリアーティが……鬼が、砕こうとした『其処』には真っ白いものだけが存在していた。……君はどうやら、とんでもない嘘つきみたいだ。演技だ。それも、確実な一撃を決める為の演技だ。一刀両断すべきは謎ではなく『肉』である。ぶちりと、モリアーティの『腕』が地面に転がった。モリアーティさん。最後に勝つのは、探偵なんだよ。
……侮っていたようだ、君は強い。
まるでショーだ。悲劇や惨劇の類を世間様に見せつける、炎上系だ。
何かしらを思い出せそうで、しかし、頭痛がすべてをぬりたくる。
舌打ちをした。
結局のところ――シンプルな考えこそが、わかりやすい展開こそが、大衆を涌かせるコツなのだ。骨身に染みていくかのような、脳味噌を痛めつけてくるかのような、筆舌に尽くし難いものなど、誰もが望んでいるワケではない。また有名どころなお名前出てきたわねぇ、アタシ、名探偵でも、刑事でもないのだけど。それは知っているさ、君。私は只の探偵や、只の刑事を相手にするつもりはないのだよ。それはともかく……旦那は殺人幇助とかになるのかしら。さてね、まあ、さっきも説明したとおり、彼が捕まるなんて事は絶対にないさ。そうね、証拠もないし。普通の警察……能力者ではない者じゃ、確かに、そうかもね。……まぁ、そんな事は別にどうでも良いのよ。約束は約束なのだ。契約をして終ったのだから、たとえ、それがどのような結末を迎えようともやるしかない。アタシが結んだのは殺人の主犯をぶちのめすってこと。つまり、アンタを捕まえるんじゃなくて、ボッコボコのギッタギタにするってわけ。ほう……あまり、考えない相手と謂うのも、面倒だね。おわかりいただけるわよね、教授。と、いうわけで……一回……一回と謂わずに千回、死んできて。
交渉は成立していた。成立していたのだから、其処に『しかける』方法はない。遺品が|竜王破断剣《えもの》として顕現し、出現し――ドラゴンプロトコルの掌にしっくりと嵌まった。良い? アタシは、アンタみたいな、卑屈な野郎が嫌いなのよ。理由はわからないけど、心の底から、嫌いなのよ。それは、あれかな。私のような奴に悪い事をされたと、そういう過去の話……失礼。空を薙いだ。計画していたのは知っている。こういう能力だと『アタシ』は把握している。故に――次は確実に、中てる。
攻撃は重なるかの如く、二度、やってきた。絞首刑も電気椅子も生憎と用意できていない。インスタントな火刑で在るならば問題なく執行できた。くっさいわね、アンタ。
重要なのは人気である。人気を積み重ねれば、積み重ねるほど、その登場人物の不死性と謂うものは増していく。それが果たして登場人物にとって、本人にとって『よろしい』結末なのか否かは最早、訊ねてみる以外にはわからない。モリアーティ……昔の推理小説にでてくる悪い人だね。図書館で何冊か読んだの。……へえ。つまり、私の『原典』を読んでくれた、素敵な子供と謂うわけだね。それにしても、大人から子供まで、あの名探偵は随分と人たらしなようだ。あたし知ってるの。名探偵と一緒に滝壺に落ちて、二人とも死んじゃってたの。多分あれが最終回なの。ほう……君はそこを最終回にしている口かね? きっとそれまでに何度も名探偵と戦ってきたライバルなんだね。ライバルと書いて友とは呼ばない、ガチなまでの宿縁だ。そんな強敵が相手なら、跪いてなんか、目を回してなんかいられないの。……健気な子だ。あの光景を見て震えていたというのに、まるで主人公だ。ふるえていた足とお腹を押さえて、ゆっくりと、立ち上がり……鬼を見た。
着ぐるみには夢がつまっていた。綺麗なものや可愛いもの、子供達が喜びそうなものが、たっぷりとつまっていた。しかし、子供を傷つける存在が相手となれば、形容し難さが勝ってしまうか。開かれたジッパー、其処から這い出てきたのは光である。やっちゃおう、キクジドウ。あの悪者さんを、やっつけちゃおう。白銀色のそれは輪郭を追わせない。姿形すらも解せない――されど、子を護るお母さんのような、鬼気迫る感じ。なら……そうだね。君を相手にするなら、こういうのが良いだろう。教授の手には鞭があった。教鞭か。いいや、違う。あれは……虐待をする為の道具だ。
護霊「キクジドウ」は完膚なきまでに、欠片の糸も残らず、ぶちりとキレた。たとえ相手がナポレオンを思わせるほどの頭脳を湛えていても、この速度は対処しきれない。飛び回る『光』は鞭を掻い潜り――何度も、鬼の血肉を裂いていく。この鉤爪は誰の為だ。子供の為だ。子供を護る為だ。このような悪人を逃すわけにはいかない。
犯人は恋人さんでも、真犯人はこの人なの。
許しちゃいけないのよ。
嗜む程度には――頭に残っている程度には――推理小説を捲っていた。まるで呼吸をするかのように、まるで迷宮を攻略するかのように、犯罪界のナポレオンとやらに視線をやる。ノックスの十戒も驚きだな、これは。最近の人間は頭が柔らかいと思っていたが、まさか、まだ囚われているのかい? 嘲るように、挑発するかのように、鬼は来年の沙汰を覗くかの如くニタニタとした。君がここに放り込み、申を手引きしたのか? いいや、違うとも。彼女が勝手に迷い込んで、申が勝手に食していただけさ。殺したい本人が知らない状態で殺人が起きている。教唆もない。果たしてそれは、彼の完全犯罪と呼べるのだろうか? ……ああ、その点に関しては俺も気になっていたところだ。確か……リツが言っていたな。
古妖は……この世界の化け物は、情念を満たす事を条件に、封印を解かせると。だとしたら今回の事件、少し、おかしいんだ。なあ、恋人が封印を解いたという事はわかった。で、その彼は今頃、彼女を殺そうと頭を悩ませているらしいが……それは「彼の情念はまだ満たされていない」という事ではないか? もし、そうなら……封印は『完全』には解かれていないという事になる。完璧? どこが完璧だ。完璧を好むモリアーティが、あんたが、あんた自身が満たされない儘、幕を引く事に……。
そっちの彼が言った通りだとも。ノックスの十戒など、最早、無意味だ。それに、私は古典的だったと説明した筈だが……。申のように笑う。獣のように嗤う。いや、教授は決して君達を『舐めている』ワケではない。何故なら、既に痛い目に遭っているからだ。良いかい? 別に、私は完全に、復活したいとは思っていないのだ。
やれることを、やる。その困難さについては描写する必要もないだろう。
空色の男が――緑色の双眸が――ロンドンを往く。霧の中より出現したナイフを双斧で受け止め、退路の確保を試みた。……良いだろう。君達はどうやら、私を殺すつもりがないらしい。ならば、好きにするといい。私は忙しいのでね。
お互いに、話はそれだけだ。ハンカチに包まれた『この子』を母親の元へと連れて行く。邪魔をするナイフは最早ない。いや、相手は悪人だ。もしかしたら、不意を打ってくるかもしれない。警戒を解かずに動くのは酷く疲れるが――そんなことを気にしてはいけない。霧が失せた。ロンドンが消えた。奇妙建築が無くなった。
手帳に走られた筆、蚯蚓よりも蚯蚓になってしまったのは無意識からのものだ。この事件は記事にしてはいけない。模倣犯が出る可能性がある。記し終えたのならばあとは身元確認だ。彼女と……この子の弔いの為に、知ることができれば良かったのだが、俺達にはその手段がないからな……連絡すべき場所を知る者はいないか? ……居たとしても、おそらくですが、忘れてしまう事でしょう。……せめて、そう、せめて。
この子を帰してあげましょう。
羊水も枕もない、されど、このぬくもりだけは永遠なのだ。
見えない何者かが「おかえりなさい」と。
モリアーティ。ジェームズ・モリアーティ。プロフェッサー・モリアーティ。かの有名な探偵を『おしまい』にする為に創られた、途轍もない強敵。なんだって……? こいつは驚いた。なあ、|爺さん《詩匣屋》知ってるか? 俺は最近|推理小説《シャーロック・ホームズ》を読んでるんだが、そこで出てくる悪党の名前がさ、ジェームズ・モリアーティって謂うんだよ。……へえ。私の名前の『原典』を愛している人が、こうも存在しているとはね。まったく、光栄な話だよ。犯罪界のナポレオンに出会えるとは光栄だ。いや、生憎と私はナポレオンではなくてね。何方かと謂えば……ふむ……サンジェルマンと謂ったところかな。ところで俺はモラン大佐のファンなのだが、こちらにはお一人で? お、おい、きょーま。なんだか、愉しそうだが、残念ながら、わしは|灰色の脳細胞《別の推理小説》が愛読書でな。教授殿のことはさして知らんよ。それこそ、名前しか知らぬ……が、これほどまでに名の知れた悪党もそうおるまい。ハハハ! 私の名前を聞いて、知っているか、詳しく知っているか、この二択なのは有名税というやつだな。それで、答えは出たのかね? 探偵諸君。
教授殿……恋人が犯人と、夫が犯人と申す。わしらの見立てでは、証拠的には、犯人は申であった。理性も悪意もないくせに、人並程度の知性はあるように思えた――で、だ。恋人は、彼は、未だに人間かね。それとも、獣に堕ちたかね。
……成程、成程。君は如何やら、猟犬のようだ。
……君達は如何やら、名探偵のようだ。
私は|別の推理小説《デュパン》がお気に入りでね……。
まあ、よい。教授殿、真実などいくらでも捻じ曲がる。ひとつだけが真実などと、わしは盲目してないのでな。言葉とは尾鰭をつけて形を変えるもの。此処からは何方が『語り手』に相応しいのかの勝負だ。今は終わりを綴ってやらねばな。わしの脚色ではあるが、わしの筆の勘ではあるが、やはりお主の結末はひとつだろう。抹殺計画? その程度の『話』でわしに挑むとは――まだまだ、若いのう。
ロンドンなのか、アルプスなのか、何方にしても落ちていくのに変わりはない。成程、君達は私を如何しても、落下死させたいようだ。だけどね、そう簡単に、同じ轍を踏むつもりは――? なあ、アンタは論理的ではあるが狂気的ではないだろう。真っ当な考えも、何もかも、アンタの掌の上なんだろう。だから、俺は……! 骨折した『腕』を盾にして真っ向からの勝負だ。いいや、勝負ではない。確実に仕留める為の狂奔だ。痛みを感じないことはご存じだろうが、その、キチンとした脳みそで、何処まで俺を解ってもらえるか楽しみだ。
……まったく、君とは別のカタチで、出会いたかったね。
殴れ、撲ったのなら、ロンドン橋を落とせ……!
隠していたものを暴かれた、隠そうとしていたものがはみ出ていた、まるで子供のような言い訳に誰が耳を傾けると謂うのか。猿不味かったな。やはり牛は草食動物と再認識できました。……君は牛ではない、と、私は思うのだが、私の気の所為かな。惚けているのか、恍けているのか、そうやって教授は――鬼に金棒な――モリアーティは笑いかけてきた。いや、ぼくは牛だよ。反芻しきれなくて吐いちゃうかも。胃もたれの概念にでも苛まれているのか、それとも、冗句を散らかすのが大好きなのか。ともかく……犯人は猿じゃなかった。冤罪だったんですね! 良かった。よくない。彼等、彼女等は能力者によって滅茶苦茶されたのだ。もしも本当に獣が罪深くないのなら、これは能力者の罪ではないのだろうか。いや、害獣は駆除されなくちゃいけないよ。……それにしても。すごく頭良さそう。やはり意思疎通がきちんと出来なければ、お話は大事ですからね。大事にでもしたいのか、モリアーティの哄笑は続いていく。それで? 君は私を、どのように裁きたいのかね。
相も変わらず得物は曲刀だ。素早く行動する事、地を這う『蟲』の如く。やれやれ、問答無用と、そういうわけか。完全犯罪作戦が何か分からない以上、未曾有な異常、前に前にと急いたりはしない。切り付け、撤退を繰り返す。いいや、反芻する。どこかで失態を晒したとしても――何度だって、立ち上がればいい。野生の勘というものか……なかなか、私の鞭も、ナイフも、拳も中らない……。ほんの少しだけ喰らったが、この程度の痛みならば無視できた。こうなってしまえば、あとは、天才的な脳みそを狙う他になし。
……ぼくは欲張りかもしれない、だけど、此処で慾に負けるつもりはないのです。その、踊る為の|片腕《掌》――もう一本を――貰っておきましょう。ざくりと、地面に転がった。……これは……。そう言えば、ぼく話したいことそんなにありませんでした。意思疎通、やめましょうか。背中、這っているのは冷汗ではない。
四本の脚ががっちりと『肉』を捕らえる。
――猿と鬼、何方の味が、良いのかな。
奇妙建築で起きた殺人事件は『解決』しない。
されど、簒奪者は倒された。
斃されたのだから、これで、良い。