フィロソフィアの紡毛
●アマルガムの開花
眩暈がした――私は、いつの間にか、私ではなくなっていたのだ。私だけではない。私の家族や友人も、違うものになってしまったのだ。しかも、如何してなのだろうか。私は、私をしっかりと維持していると謂うのに、家族や友人はその欠片すらも宿していなかった。嗚呼、こわい。私は、おそろしい。私だけが残ってしまったのだ。私も、いっそ、其方側に――正気ではない側に――身投げが出来ると謂うのなら、今からでも、神にお願いをしたいくらいだ。はしる。はしる。それでも、逃げる。私の所為だ。私が、私である事を放棄していれば、きっと皆はこんなことにはならなかったのだ。
善なる無私の心の持ち主のみが、天使となる。
そう、知る事すらも赦されない彼女は――アマルガムと共に、のたうち回る。
●蠢動する魔術の塔
「ほう――天使化ねぇ。我輩にはまったく、関係のない病ではあるのだが。いや、まさか、√汎神解剖機関で、まだ、清い心が絶滅していなかったとは驚きだ。アッハッハ!」
星詠みである暗明・一五六の嗤笑が、哄笑が、能力者達の鼓膜を震わせた。スン、と、人間災厄「黙示録」が鎮まったのならば、緊張感が蔓延する。
「君達にはヨーロッパのとある村に向かってもらう。其処に、所謂『天使化』を患った村人が大勢いるのだよ。もっとも、ほとんどの人間がなり損ない、オルガノン・セラフィム、化け物になっているそうだ。で、これに目を付けたのが『羅紗の魔術塔』の魔術士、アマランス・フューリーさ。彼女はオルガノン・セラフィムを怪異奴隷とし、完全に天使化した者を追っているらしい。まあ、つまり、だ。これは魔術結社との『新物質争奪戦』に近しい……相手も本気だ。全力で挑まなければならない」
「さて……取り敢えず。現地で『セラフィムに追われている天使の保護』をし給え。その後の展開は不明だが……君達ならば、やれるだろうぜ。アッハッハ!」
第1章 冒険 『あべこべでさかさまで不安定』

世界が――地球が――自転と公転を、している。
そんな当たり前を、地動説を、嘲笑うかのように、
天動説を唱えると謂うのか。
いいや、違う。地動説も天動説も、最早此処では無意味なのであろう。
ナンセンスなのであろう。
つまり、簡単に描写をしてしまうのであれば、
|人動説《じんどうせつ》なのだ。
回っているのはオマエだけ、狂っているのはオマエだけ、
あとの何もかもは微動だにせず、只、オマエを視ているだけ。
この状態から抜け出すのは困難であろう。
右と左はもちろん、後ろも前も、上も下も、わからない有り様。
――はやく、進まなければならない。
たとえ、己を見失ったとしても、天使だけは保護しなければならない。
――|哲学《フィロソフィア》めいたものだろう。
アマルガムの行軍、水銀への渇き、餓えた理性なき獣の数字。
毛布に包まれて――世界の中心で――混沌とした悪夢を見つけてしまった。純粋な精神が、美徳の不幸が、いざ、目の前に存在しているとなれば、これを助けなければ勿体ない。少し前までの、過去の、己の成していた所業について、なんとなくでは有るのだが思い出す。オマエは壁をやっていたのではなかったか。オマエは身投げを快く思ってはいなかったか。怪物が潜んでいると謂うのなら、神意が秘められていると謂うのなら、この撹拌も悪くはない。……残ってしまった悲しみは、わからないけど……でも……。誰かを救いたい、貴女を救いたい、この気持ちだけは本物だ。本物でなければ、いけないのだ。地動説も天動説も人動説も、完全には信じられない。信じられるのは唯一、自身を動かす、衝動の類である。……言葉は、ドイツ語なら……少し、わかるけど……少しだけなので……どうしたら……。何を心配しているのかと思えばバベルの崩壊、そこまで悩ましく、頭を抱える必要はないのではないか。いっそ、庇って、身代わりになるのも……。即ち、オマエこそが|被造物《オルガノン》、この身、この心は――誰の為の肉であろうか、血であろうか、餌であろうか。
麺麭を酷使する事に慣れてしまった。|葡萄酒《リンパ液》を混ぜる事に躊躇がなくなった。|半身《レギオン》を――大勢を――いつかの、蝸牛探しのように、展開させていく。移動しながらの索敵、或いは、保護対象の特定。まったく超感覚を虐めるのに郷愁を覚えてしまったのか。……違い、ます……が……しかし……。なり損ないだ。なり損ないどもが、グロテスクが蟻のように群れている。その群れから遠くの方、成程、お目当てはちゃんと生きているようだ。……やっぱり、慣れてはいますけども、気分は、あまり……目が……。めまいを押し殺すようにして、世界を縮める。進め、進め、あらゆる不覚を置き去りにせよ。
……貴女が、天使でしょうか……。少女は翼のような液体金属を壁のようにしていた。私の所為だ、私の所為で、こんなことになってしまったんだ。言葉の壁は確かに存在している。存在してはいるのだが、成程、善良の窮極系、オマエの顔を見て『助け』なのだと理解した。……一緒に、行きましょう。こくり、天使は頷いた。
無私など、それこそ、絶滅していたのではなかったか。
誰かの抱擁が、なでなでが、全てを物語っていた。
猫神に憑かれたもの――オマエの場合は蛸神であるのだが――と、天使。其処に違いは有るのだろうか。何方にしても元々は人だ。人間が羽化したのか、殻に籠ったのか、せいぜい、そのくらいの違いしかない。なら……きっと、家族がいたんだ。家族がいたなら、友達もいたんだ。そう、兄ちゃんと俺みたいに……。そうやって考えてしまったのだから、そうやって思ってしまったのだから、お終いになんてさせられない。じゃあ、無事に帰してあげないと。たとえ家族が理性のない獣の数字だったとしても。それこそ、引っ張ってでも。折り紙で作られたのは蛙であろうか、或いは、鶴であろうか。何にせよ全ては己の精神性に掛かっている。もう幼少期はとっくに過ぎているのだ。ならば、歩むしかない。
兄ちゃんのお守りがあれば、兄ちゃんの、ぬくもりがあれば、大丈夫。たとえ、此処が眩暈の発生地だとしても、あべこべの聖地だとしても、この蝸牛は揺らがない。そう、俺は大丈夫。絶対に、おかしくならない。いや、仮に、おかしくなっていたとしても、お守りを握り締めていれば目的地だけは『わかる』のだ。大丈夫、大丈夫。何もかもを片付けたら、何もかもを終わらせたら、兄ちゃんが褒めてくれる。お土産のお菓子を買って帰って、ふたりで、笑いながら食べよう。歩を進めよ、まっすぐ、まっすぐ。まっすぐじゃなくても、傾いていても、まっすぐだ。ぐらり、世界の代わりにぐるぐる回されたって、たこすけが支えてくれている。引きずられたって構わない。前へ前へ、喇叭に導かれるかのように。
天使だ。ちゃんと、天使は存在していた。液体金属をどろどろと、吐き出しながら、遁走の二文字に狂っている。たこすけ……おねがい。ずるりと、一本の触腕が天使を捕まえた。ジタバタ、ジタバタ、滂沱をしながら声を上げるか。えっと……あの……その、俺は、助けに……。ぴたりと、天使の藻掻きが止まった。しゅるしゅると、触腕に巻かれた儘、能力者を見つめるのか。……? 如何してなのだろうか。救世主様はまったく、顔を見てくれない。
あんまり、視ない。出来る限り視線を逸らす。思っちゃうから。兄ちゃんがこうなったら、嫌だって、思っちゃうから。見ても見なくても想うならばオマエ、見てやってはくれないか。……こんなことを思うくらいだから、俺はきっと大丈夫。
――天使になんか、なれない。
期待するな、そういうものだ。
抱いた冷静さこそを善意の意図だと、糸だとするならば、それはまったくの思い違いではないのか。噛み付こうとする、与えようとする蛇の如くに、林檎の酸っぱさを演出しているかのような有様なのではないか。無様を嗤笑する、嘲笑する人畜めいて、|禁忌《タブー》を冒していくかのような羽憑きのすゝめ――善なる無私の心――望む事さえ無く、それが当然のように。気味が悪いとも、病をいい気味とも、思う事はない『身』ですが……。雑念だ。脳髄に溜まっている、埃のようなものだ。決して、誇って良いものではないと、己の皺くちゃがくちゃくちゃ、宣っている。ええ、わかっています。たとえ、僕が紛い物であろうとも……これは、演じなくてはいけない、ものです。煩わしいと思っているのは人動説の類だろうか、それとも、この、RPを続けなければいけない、煉獄のような居場所であろうか。
まだ与しやすい、突破し易い、部類でしょうか。世界が、狂気が、あべこべを、混沌を押し付けてくると謂うのであれば、此方も、押し付けてしまえば良い。べたべたと貼り付けた、塗り込んだ|理想《イデア》の沙汰は――助け合う心をシールとして遣わせ、使わせる。任せてください……僕が、僕を失う事だけは、見失う事だけは、おそらく、赦されていないので……。義侠心と気合で武装し破壊の炎を導としたならば……気迫を頼りとしたならば、あとは宙へと往くと好い。簡単な事だ。そう、誰の真似だ。
天上天下唯我独尊。
天使が蹲っていた。どろどろ、足元へと、金蔵とやらを滂沱としながら。ふと、天使はぬくもりを知る。いや、これは本当にぬくもりなのだろうか。信じる者は救われるとも謂うけれど――いや、疑心はない。その欠片すらも天使は持っていない。手放す必要もないほどには盲目なのであった。……あの、貴方は……?
……貴女の苦しみを憂い、貴女の痛みを愁い、命を懸けてでも助けたいと望む者がいます。どうか、応えて、手を取って、頂ければ……。ぎゅ、と、天使はオマエの手を掴んだ。藁に縋る思いで――天使は悪魔を認めていない、そんな様子で。
……我ながら、損しかない、不審な挙動ですね。
善性の解釈としては、美徳の不幸としては、これで、
誤りはない筈なのですが……。
猫なのだ。鍋の中の猫なのだ。翼に抱擁されたシュレディンガーの類であれば、暴かれる心配すらも無いと謂えよう。アッハッハ。迷子だ迷子! わたくしも、あなたがたも! 朦朧と、盲目と、メルクリウスのバチバチに指向性を支配されるかの如く、情けも容赦もない|大渦巻き《メイルシュトローム》である。ぐるり、ぐるり。流転、流転、流れ、永らえ……! 何を求めればよいか。まるで酔っ払いの戯言だ。自らに対しての水掛け論とは、随分と、余裕がたっぷりなのではないか。うむ……頭がぐらつくな。わたくし、目玉が|見えない《●●●●》と謂うのに、このめまい感! 髄液が増えたような感覚……。まあ? 今更……? 精神的に抗えたところでおんなじ沙汰。己の脳の心配よりも、翼の数の心配よりも、天使とやらの心配だ。たとえば魔女の微笑み、磔刑にされるよりも前に無実を証明せよ。
探せ探せ――たとえ、ドロドロの水溜まりとして生きる羽目になろうとも、おもしろの一言。コトコトとヤカマシイ戦闘音よりかは、幾らか正気である。迷子なりに迷子をしよう。化け物なりに怪物をしよう。おっと、わたくし、其処まで上手に猫をできなくてね。其処だけは申し訳なく思う。まったく思ってもいない事を! 人工意識を生やして従え、アマルガムの開花を促すか。ほうら、これは44ほどの『ルテニウム』、希少性が違うのだよ。ともかく翼だ。ともかく散だ。散弾のように術を取り――わたくしではない翼を探せ。いや、何。悪く思うなよ、これが|本業《わたくし》だ。怯えさせても構わんぞ……。
|戦闘員《ルテニウム》どもが哄笑した。囲うようにして、逃走経路をひとつに絞らせて、天使を追い込んでいく。これも、全部、私がマトモなせい。私も、皆と一緒にいたかった。私も、皆と一緒にお肉を食べたかった。いよいよ悪心、呼吸すらも難くなったところで怪人サマとのご対面か。安心したまえ、英雄ではないが、わたくしは味方だとも。
ごくりと、ほんの少しだけ、天使は疑いそうになったが、秒とも経たずに信頼をした。……わたくしが謂うのもアレだが、あなた、それでは生き残れないと思うのだが……。いや、だからこそ『天使』。おもしろ……。ところでそれ、生えるときに痒くなかったか。なあに、翼あるものとして、わたくし、気になっただけだ。
かゆい。今更ながら、思い出した。痒い。ああ、かゆい。
毟っても毟っても、掻いても掻いても、治まらない。
気が狂いそう――!
アッハッハ! せめて、微笑くらいはしたまえ。
重力に負けた天使の末路とは何か。
でろりとした物質である。
いつまでも、いつまでも、かわいいお義姉ちゃんで居てくれたなら、きっと義妹も大満足か。何処までも、何処までも、愚かで無様なお義姉ちゃんで居てくれたなら、きっと義妹も満足か。或いは格好よく、美しく、困難とやらを撥ね退けて――二足を維持するお義姉ちゃんも大好きか。ともかく、そんな義妹の|欲望《おもい》など欠片も知らず、義姉はこの場に立っていた。……まぁ、人間災厄が無私の精神とか持ってるわけないわよね。とか言うアタシも、記憶がすっからかんなアタシも、そんなもの持っていないけれども。この身、この心、宿っているのは義妹の為の只ひとつ。サーシャのためならなんだってしてあげるけど……。それも無私とは違う気がするし。それはまったく『その』通り、この感情は真にオマエの『もの』ではないのだから。で? 天使を保護すれば良いんだっけ? さっさとやって、終わらせて、アタシの|義妹《てんし》のところに帰らなくちゃね。
星詠みの予知で判明しているのは天使の存在と、天使の精神状態である。それの一部がわかっていると謂う事は、つまり、メンタルのケアも比較的容易だと、そういう沙汰か。いやぁ、アンタがアンタであることをやめても、全員化け物になっただけなのよねぇ……。ま、名前からして化け物っていうか道具なんだけど。本人の前で赤裸々と、真実とやらを突きつけるのは果たして正解なのか否か。どっちにしても神秘を突破しなければならない。突破するには、そう、この人動説を拒絶するのが最適解――なんだかおかしなことになってるし。眼球どころか脳味噌がかき混ぜられそうだわ。まるで情念のハイブリッド。渦巻きと頭蓋が同時にやってきて臓腑を刺激してくるかの如くに。
ぐるぐる回るのはぐるぐるバットだけで……おまわりさんだけで十分なんだけど……。吐きそうだ。吐きそうになった。つまり、吐かなかったのだ。うぇ、と、鳴いただけで、その後の事は耐えきった。これは即ち、竜としての想起である。
ふんっ……。そもそも人じゃないアタシが、ドラゴンプロトコルなアタシが、この程度のめまいでどうにかなるわけないでしょ、さっさと進むわよ。
誰かさんが想うのは歓喜か不安か、何にしても姉、威厳は保たれた。
笑顔は人を元気にする。
より上質なものへと異形は向かうのか。
頭痛の種と謂うものは暗黒ではなく暗渠よりやってくる。隣人よりも近しい関係性なのだ、それが、情け容赦のなさを孕んでしまったのだろう。彼は今頃、頭を抱えている筈だ。彼は今頃、始末の方法を考えるのでいっぱいいっぱいだ。つまりは実の妹からのお願い、虎穴に入らずんば虎子を得ず……。エミちゃんがついて行きたいって言うから、頑固だったから、許可をもらって向かう事にしたけど……。まさか、地這い獣を連れて行くとは思わなかった。人間災厄もこれにはびっくり。ただの可愛い職員が、ただの可愛い人間が、怪異と仲良しであるが為に、このような死地に赴くだなんて。シュウヤさんもそうくるとは思ってなかったみたいで……まあ……目頭押さえるのも、仕方ないよね。ギャハハ! おい、リツ! あいつの血が美味かったんだ。妹の血液だって美味いに決まってるよな! なぁ! でも、まぁ……天使もエミちゃんも全力で守りますって伝えたし、苦虫を噛み潰したかのような顔だったけど、「たのむ」って絞りだしてくれたし……。なあ、おい! 聞いてんのかよ! おい!!! 反対されなくてよか……。おい!!!!! ギャッ!!? 無視からのレモン汁だ。無私は如何やら此処にはいないらしい。いや、一人いた。
なんだか楽しそうだけど、あとで私も混ぜてくれないかな? ニコニコ、ルンルン気分な妹ちゃん。今日も今日とて可愛らしい。それにしても、シュウ兄、すっごく反対してたけど、どうして渋々だけど、赦してくれたのかな? エミちゃん、それはたぶん、エミちゃんの熱意が伝わったからだと思うな。だよね! 何が起きているのか自分の目で確かめなくちゃ、職員としても、管理人としても、失格だもん! それに……最近仲良くなってくれたワッフル君もきてくれたし、リツ君もいるから、鬼に金棒だよね! 金棒代わりのワッフル君に跨ってレッツ・ゴーだ。天使の行方は如何にと、世界へ問いかける。
二人が入り込んでしまったのは――迷い込んでしまったのは――女神様も吃驚な人動説である。星が回っているのでもなく、地が回っているのでもなく、目が回ってくるのだ。……僕は、すでにおかしな光景を見ているから、このくらい、大したことないけど……。なんでぇ……なんで、こんなに、ぐるぐるするのぉ……? エミちゃん、大丈夫? ちょっと休憩してから探しに行く? うぅ……でも、これって、天使の子も同じ目にあってるってことだよね。だったら……ここで挫けたらダメだぞ私。うん、リツ君、ぐるぐるバットした時より、頑張れるよ……! そっか。じゃあ、早く見つけてあげないとね。あ、ギョロ君も、辛いと思うけどもうちょっと……? 目が! 目がイテェ! ……あ、うん、ごめんね?
待ってて、絶対助けるからね……!
想いとやらが届いたのか、奇跡に愛されてしまったのか、天使との邂逅は容易かった。抜け落ちた羽と血塗れな彼女、もう、正気を失いかけているのか。助けに来たよ! 私、エミ! 貴女の名前は……? その前に手当だろうか。簡易的だが、止血だけでも。
ふう……ようやっと痛みが治ま……ッ……おい、なんだこれ、きもちわる……!
あ、ギョロ君、見えるようになったんだね。
じゃあ、索敵お願いするね。
……鬼かテメェ!?
第2章 ボス戦 『怪異蒐集家マレーネ・ヴァルハイト』

クラーカッシュ=トン、蟾蜍の声を真似るのか。
羅紗の魔術塔――その目的は不明だが、組織内の『個人』となれば話は別である。魔術士『アマランス・フューリー』は|新物質《ニューパワー》を得る為に天使を捕獲しようと試みているが、さて、目の前に現れた――怪異のような魔女は如何に。
私はマレーネ。マレーネ・ヴァルハイト。世界の秩序を守る事を目的としている『羅紗の魔術塔』に属する魔術師。皆さんも知っていると思いますが、汎神解剖機関の皆さんも、連邦怪異収容局の皆さんも、わかっているとは思いますが。世界の秩序の為には犠牲は『憑き物』です。ええ、ですので、その天使には――新物質には――私の研究材料、或いは、蒐集物になってもらいます。ああ、私は個人で動いておりますので。
私が天使を蒐集した場合、あの女には出来る限り、渡したくはないですね。
では――奪い合いにはなりますが、
皆さんは――|七つの呪い《Seven Geashes》をご存じで?
無私を手にしているのだ、文字の通りに。
潜伏しているウィルスの類か――脈動している呪詛の類か――目の前の魔女は、実に、己のような雰囲気を孕んでいた。オマエとの決定的な差はおそらく、恣意の有無だ。きっとあの魔女は――怪異の蒐集家は悪意の友として十分、発揮をしているのであろう。……今の名は……ディラン・ヴァルフリートと申します。なんだ、随分と紳士的な男ではないか。紳士的なついでに、私に、それを譲ってくれたのなら、嬉しいのだけれども。レディファーストなど、ヴィランファーストなど、この世には欠片として存在していない。……義理はまったく、此方には無いのですが。何方でもよいなら、名乗りを返す事くらいは、それらしくやってしまいましょう。ですが……失礼。血まみれの天使を左腕で抱えながら『否』の意思を、意志を宣告する。……僕は、あなたのような、わかりやすい人に、心を許すつもりはありません。ギチギチと、ジクジクと、決裂と共に何かしらがやってくる。橋を作るかのように、橋を渡るかのように、世界の滅びへと歩まんとする――巨大な|怪異《クモ》。私は彼女みたいに面倒臭がりではないのです。ですので、その強固な気配、見事、砕いてみせましょう。糸が放たれるよりも前に――蜘蛛が捕食行動に移る前に――先に動いてやるといい。奪い合いと謂うなら……七つの呪いなど、些か悠長が過ぎるのでは? 聖なる哉、聖なる哉、星と目玉を描くようにして、汁気たっぷりな怪異へと|剣《浄光》が往く。
ハイパーボリアの広大さは置いておいて、魔女、蜘蛛に『同化』の命を下した。悠長だと? 私を、鈍間だと謂いたいのですか。まあ、間違いではないですね。私は――回り道も楽しめる、女ですので。自在に繰られていた刃の数々、宙を領域とする『それ』を魅せられたなら――抛り投げられた|大剣《えもの》も『そう』だと錯覚するのか。覆すほどでもありませんね。まるで新たに出現した悪役か。英雄の攻撃を嘲笑う、強敵の匂わせか。
巨大で――異質な――伸長とする――右手。
蜘蛛を握り潰してしまえば――始末は容易い。
……あなたは、あなた自身が想っているよりも、群れている方が良いのでしょう。
竜すらも屠るのだ。怪異の飼い主、その肉など、ちり紙に等しい。
呼び声の合戦だ。応えてくれた数こそが勝利の証で在れ。
擽り程度で、微弱程度で、易々と死ぬつもりはない。
献身こそが、犠牲こそが、世界の真理なのであれば、今直ぐにでもヴェールで隠してしまうと宜しい。仕舞い込んで、それを終いとして日常へと帰っていく事こそが人間に赦された安息とも考えられよう。……僕には、蒐集の為なんて理由の方に、材料と見做しているだけの方に……絶対に、|彼女様《天使様》を渡す気は……ありません。まるで子供のようだ。玩具を取られそうになっている子供だ。自我が芽生え、視てしまった故、追いかけられているのか、追いかけているのか。成程……私が想像していたよりも、能力者と謂うのも、怪異と同じように蒐集に値するのかもしれない。……それは、如何いう、意味でしょうか。簡単な事ですよ。きっと、あなたは、あなたが考えている以上に、怪異の性質に近しい。……正気ですか? いえ……正気でしたら、こんなふうに、衝突する事も、なかったでしょう。それに……僕の言葉を、心を、信じてくださった|彼女様《天使様》の為にも……貴女様のような存在を、赦すわけにはいかないのです。呪い……? そんな、ちょっとしたお呪いで、僕が狂うなんてこと、ないのです。ならば有言実行をして魅せよ。紐解かれた書物の頁、其処に記されているのは――仔産みの女神の祝福であろうか。
天が泣いているのか、海が啼いているのか。落ちてきた白鯨を受け止めようと女神様の触手が蠢く。何処に逃げても、赦しませんし、仮に、受け止めたとしても、変わりません。貴女様には逃げ場など、差し上げませんし、勝ち目のひとつも、ありません。……では、私の蒐集した怪異の全てを、ぶつけてあげましょうか。巨大な巨大なインビジブルの群れ、それに抗っているクヴァリフその他の触腕。……偶然ですかね? 投げられた切り札の名は魔術師――暗示をするとしたならば、嗚呼、逆位置、混迷の沙汰。
……私を莫迦にしているのですか?
莫迦め、と、私を殺すつもりなのですか?
深海の捕食者は何を砕く。深海の捕食者は何を貪る。
是非、打ち合いましょう。負けません! ……いえ、もう、勝ちました。
抉れた地面の訴え――容赦のない跳躍する|影《くじら》。
括りつけられた藁人形、釘の代わりに松明を知った。
今にもひっくり返りそうな天使、他の能力者に任せておけ。
聖なる蟾蜍は満腹だったのか。
眩暈がしそうだと、目が回りそうだと、溜息を吐くかのように、口癖、やかましいのか。また胡散臭そうなのが……面倒臭そうなのが、現れたわね。水掛け論の類は、誑かしの類はお腹いっぱいなのだと、真正面から叩きつけてやると宜しい。世界の秩序だとか、世界の平和だとか、ありきたりなことを謂いながら、個人でやってますとか、私怨丸出しじゃない。頭を隠して尻を隠していない、その程度の方が遥かにマシだと、精神性赤裸々な魔女サマに教えてやると好い。……それは、あなたも、私の事を謂えないのではなくて? 良い? アタシとアンタの決定的に違うところはね、素直か、素直じゃないか、よ。単純にソイツが欲しいから寄こせって正直に謂えばいいでしょうが、渡さないけど。……はしたない女、こっちの頭が痛くなるくらいに。それはお互い様だろうと、ドラゴンプロトコル、笑ってやれ。はん、それこそ、世界のためとか謂うなら、秩序がどうこう謂うなら、アンタが無私の精神見せたら……? 度し難い女め……私に対して、そのような、安い挑発を……! 七つの呪いに掛けられた男の末路は如何に。まるで虚空だ。まるで、崖下への一直線だ。……あいにく、学校の七不思議くらいしか知らないわね。ま、ちょっとは、擽ったいかもしれないけど。
獣の数字からの呼び声、死を覆さんとする騒がしさ。
クヴァリフの触腕が――ネームレス・スワンの囁きが――その他の名状し難さが、波の如くに押し寄せてきた。私は、あなたみたいな、従っているだけの女に、狂わされているだけの女に、負けるつもりは――? 怪異蒐集家が正気って時点でおかしいのよ、わかる? アンタが何をしたって、何であれ、みんな焼き払っちゃえば一緒でしょ。肺臓――焦がれたかの如くに|吐息《ブレス》が放たれる。タコ焼きも良いけれど、手羽先も悪くないわ。全部、跡形もなく、燃やしてやるから。宣言通りの有り様だ。灰は灰に、塵は塵に。
ウィッカー・マンでは阻めない。
混入したのは異物だろうか。或いは、純粋なまでに甘ったるいもの。
正義と正義が衝突した場合、意志と意志が激突した場合、理解の二文字は完全に消失する。たとえ、広義的な意味での神様が『ふたつとも』を諭しても、耳を傾ける事など無いだろう。鬱々とした気配に中てられて、狂気的なまでの執拗に晒されて、オマエのような人類はいったい如何様な反応をするのか。……天使の、収集、個人的に……。拒絶でも肯定でもなく、ただ、わからない。変な人だとしか思えず、歩み寄ろうとも考えられない。……よくわかんないから、聞かなくてもいいかな。ぐるりと、魔女の目の玉が、怪異蒐集家の視線が、オマエの『うしろ』を捉える。私に対してそのような、無関心にも近しいものを、向けてくるとは……しかし、あなたの中に宿っているソレは、たいへん興味深い。たこすけ……? たこすけのこと……? 俺も、へんじゃない自信はないから……へんなのかもしれない。だけど、今は――誰かを助けてるから、きっと大丈夫。たこすけがどう思ってるのかは置いておいて、兄ちゃんが褒めてくれるうちは、大丈夫。……まさか、これは、あまり意思疎通が出来ていないのでしょうか。……へんなヒトに、謂われたく、ない……。
正しい事をする。それを、続ける。続けて、続けて、何もかもを祈りと定めたのであれば『原初』を起こす切っ掛けともなるのか。正しい神様も助けてくれるよね。俺の代わりに、たこすけの代わりに、あの人の相手をしてあげて。頼ってあげるから、望んであげるから、負けないで……ね。この黄金色は――慈しみを思わせる、眼光は――いや、ありえない。只の人間が、怪異に憑かれているだけの人間が、このような……? まさか、名を変えて信仰を連ねていたとでも謂うのですか――! ……えっと。神様は、神様、です。やっぱり、よくわからない、へんなヒト……。神の怒りに触れたのだ、最早、七つの呪いは実らない。
天使さん……ヨーロッパのお土産、何がいいと思いますか。その、兄ちゃん、甘いものが好きで……。ぎゅっと、ぎゅっと、掴んだ儘だ。……あの、すみません。えっ……あ。はちみつ……? あの蛸さんみたいに綺麗な、キラキラとした、馥郁。
イカロスのような落下こそ、お呪いの沙汰ではなかったのか。
痴れているからこそ、知られているからこそ、魔女と呼ばれる生き物は貪欲であった。魂の欠片までもが慾で溢れているので在れば、その餓えこそが、渇きこそが欠落と解せるのか。研究した後に蒐集、ではないのかね、あなた。それとも、研究もせずに、蒐集したものを雑に扱うのではないかね、あなた。アッハッハ。残念ながらわたくし、こちらの『翼憑き』ども――己が蒐集品として認識している。……成程、嘘だとしても、真だとしても、あなたのような存在は|羅紗の魔術塔《われわれ》にとっても……いや……どの組織にとっても有害であり、垂涎と見ました。ワハハ。渡すわけにはいかないのだけれども、いや、交渉次第と吹っ掛けるつもりではあったのだけれども、これでは、冗談を謂う暇も有りはしないか。お戯れの類はお開きだ。お開きついでに開いてやれよオマエの獣性。あいにく、わたくしは天使ではなく『鳥』でね。どのような『由来』があろうと、どのような『意志』があろうと『興味がない』。その割には色々と、探りを入れてくるのではないか、このアホウドリ……。アッハッハ。それは、面白くない科白だな。兎も角、喰らえば、穿てば、攘えばよろしい。
蝶々を包んで、中身を啜る化け物。仮に蝶々が『世界』だったとしても、鳥にはまったく関係がない。ゆえに真正面から、ぶつけてやろうか。ばさりと、わさりと、箱の中身は『さえずり』とやらを吐き散らかす。|三翼《トリスメギストス》よ! 呪え、治癒を祈れ。どちらにしても、融合にしても、喰らい、穿ち、滅ぼすとも――。これは暴力だ。暴力が肉を纏った、羽を生やした結果とも謂えよう。蜘蛛の子を散らしてやったのだ、この羽箒こそ、冒されぬ象徴だろうか。それは、それは。ハハハ。蹂躙されるのは其方だと謂うのに、まったく、何処までも愚かしいものだ……。
……私よりも魔女をしていませんか?
魔女? わたくしが、魔女?
わたくしが魔女であるならば、世に火刑は存在しないだろうね!
だが、わたくし。七つの呪いとやら『識らぬ』なあ。
ご教授、願いたく。
掬いあげた腑の一部分、このように啜ってしまえば、理解も出来るのか。
小さな、小さな、|変な声《ぴぃ》。
様子がおかしかったのだ。
ちらちら、ちらちら、覗き見をされている気配を覚えながらも、炎の蝶々を踊らせたのか。踊らされるだけの運命であった少女も――善良を極めていた天使も、嗚呼、ようやく選択肢とやらに恵まれたのか。ギャハハ! おい、リツ、好き勝手に謂われているじゃねぇか! ゆらりと、怪異の濃厚な呪いを身に纏った女、本質を突いたかのような表情で嗤笑を孕む。奪い合いって言われても……そっちが一方的に簒奪をしようとしてるだけじゃ……。正解だ。大正解だ。されど、魔女は魔女らしい言の葉の紡ぎ方とやらを知っている。ほう……私を前にして、それを謂うのか。汎神解剖機関と連邦怪異収容局、そして、羅紗の魔術塔、その三つに如何様な『違い』があると謂うのか。……ねえ、本気で言ってるの? 二人の中に入ってきたのは人間である。人間が、職員が、口を出したこの現実、肚の底からのおそれを押し殺してまで何を想うのか。そんなこと聞いたら天使の女の子はどう思うかな。私達の事も、利用するために来ただけって思うんじゃ……。怪異蒐集家の狙いは『それ』だった。そう『だった』のだ。天使は『無私の心』を有している。まったく、疑う事などしないのではないか……。ううん、違う。私達は天使達が酷い目に遭わないように助けに来たんだよ。天使の女の子は……彼女は……私達が守る! え、エミちゃん……危ないから、下がってて。それで? 漫才はおしまいでしょうか。私は、神の類ではありませんので、最初から最後まで卑怯だろうと、何だろうと、使いますよ……。発動したのは七つの呪いの幾つかだ。高僧の妄言とやらを真実とし、悉くを顕現させよ……。
蜘蛛だ。それも、ただの蜘蛛ではない。巨大な蜘蛛だ。されど、怪物的な蜘蛛では終わらない。あれは『信仰』を集めている、所謂、神のような存在だ。く……蜘蛛が、出てきた。ペラペラと、脳内にあった頁とやらを捲っていく。七つの呪いって言ってたから……生贄に対しての『呪い』じゃなかったっけ……? 最後は、底なしか何かに落ちちゃった記憶があるけど……リツ君、防御を忘れたらダメだよ。たぶん、面倒臭がりな神様だから……。鎖を編むようにして対面せよ、空腹の具合も改めておけ。
攻略のヒントは与えられた。ありがとう、エミちゃん……それにしても。嫌な呪いだ。呪われて、たらい回しにされた挙げ句、墜落死だなんて報われない。ならば、その意図を、その糸を浄化してやると良い。肉薄してくるのであれば、嗚呼、その一撃を舞うように防いでやると良い。……ええい、腹立たしい。そこまでして、抗う所以が何処にあるのですか。異形の腕が――ギョロ君が――蜘蛛神の、人を模倣したであろう部位を、ぶん殴る。
ギャハハ! 神っつったって簒奪者の奴隷じゃねぇかよ!
背後――何かしらの気配を、筆舌に尽くし難いものを感じ取った。何事かと振り返った瞬間、其処に飛来してきたのは衝撃波か。……ギョロ君! 庇うようにして回避したなら、そのまま、目隠しになっていた所為で|怪異蒐集家《マレーネ》に中る。なに……? なにが……? 何が起きたのか、と、呟く事すらも赦されず。魔女は沈黙する破目となった。
あ、あわわ……わわ……。尻餅をついて、目を回しているエミちゃん。その隣には得意げな面をしているワッフル君。あ……リツ君の援護をしようとしたんだね。ありがとう、でも、いきなりすぎるよぉ……。エミちゃん、大丈夫? 傷はなさそうだ。きっとワッフル君のおかげだろう。僕達を助けてくれたんだし、後でお礼を言っておこう。
さて、此処からが鬼門である。
出てくるのは魔術士であろうか、もしくは……。
第3章 ボス戦 『連邦怪異収容局員『リンドー・スミス』』

如何やら――私の方が早かったようだ。
初めまして、いや、久しぶりと『謂った』方が良いのかもしれない。
何、私が出てくるというのは、想定外と謂うワケでもないだろう?
つまりは、簒奪ということだ。これこそ、簒奪なのだよ、君達。
お決まりの科白ではあるが、一応、口にしておく事にしよう。
降伏したまえ。人間同士で争うなど愚かなことだ。
私が、争いの種とやらを、|新物質《ニューパワー》を、蒐集してしまえば、何の問題もないだろう。そうは思わないかね。
連邦怪異収容局、その職員、リンドー・スミス。
彼の狙いは――聞いての通りだ。
食材に対しての感謝を――贖罪そのものを、投棄しなければならないほどの、軋轢の気配。クヴァリフの仔の味わいについては、味わい方については、最早、説明の必要すらもないと謂えよう。アッ……。なんとも間の抜けた音ではないか。オマエらしい邂逅の仕方ではないか。リンドーさんだ……知ってる、人だ……。未曾有との遭遇よりかは、怪異との接触よりかは、比較的マシなのかもしれない。知らない場所で会えると。どんな人でも……簒奪者相手でも、なんか、安心しちゃいますね。まったく、君は、君達は『あの時』から、あまり、変わっていないようだ。ところで、先程の『蛸神様』についてだが、あれは別の個体……いや、時が違うのかな。エット……俺には、よくわかんないです。でも、人間同士で争うのが、よくないってことだけは、わかります。ケンカしちゃダメだよ、って兄ちゃんがよく言ってました。では、君は私と握手をしてくれるのか。それなら、友好の証として其処の新物質を……? 否だ。否を叩きつけよ。攻撃の技術に必要不可欠なのは『それ』である。でも、天使さん渡しちゃったら、兄ちゃんにメッてされるから……あげられない、です。なら、私が君の『兄』を説得してあげよう。これでも私は……人間には優しいのだから。……諦めてください。あなたが、兄ちゃんに危害を加えないことは、なんとなく、わかりますけど。俺が兄ちゃんに、いい子いい子してもらうために……。交渉は決裂だ。決裂していた。深淵の此方側と彼方側、結局のところリンドー・スミスも――敵でしかない。
あと、その……よかったら……オススメのはちみつ屋さんも、教えてください。
蜂蜜……? 嗚呼、近くに『アルデバラン』という店があった筈だが、その前に、お互い、仕事だけは『しておこう』か。融合していた怪異が、武装されている怪異が、活性化している。いつの日かの再来ではなく――新たな『もの』を蠢動させながら。……今度は、たこすけの番。好きにやっていいから、なんとかして。ぺちぺち、蛸神様からの『もっとよこせ』アピールだ。……たこすけ頼み、してあげる。たこすけも早く会いたいんでしょ、兄ちゃんに……。信仰も確かに欲しいが、成程、こっちの方が効果的か。
吐き出された墨――ヴェールを纏うかの如くに――タコの大腕が『男と怪異』を捕まえた。君、使い方が雑ではないか。其処までして、眩暈を味わいたいと、思っているのかね……。迫りくる強烈な触腕――贖罪の暇もなく、必殺がなだれる。
病的なまでに真っ暗な深み。
見事に喰いついたのは何方であったのか。
死が招いたのは――眼光が招いたのは――ある種、腐ったかのような『縁』であった。√能力者の生態は己がよく解っている、√能力者の習性は己がよく判っている。いや、だとしても、それが『良い』理解や判断を孕むかと謂えば半々なのだろう。……何故、貴方様が? クエスチョン・マークを浮かべたとしても、問いを掛けたとしても、答えと謂うものはオマエの精神にこそ存在をしているのではないか。新物質、新物質と……何とかのひとつ憶えですね。まさか、君に憶えられているとは。光栄と謂っても構わないかな。しかし、君も私も如何やら、変わっていない様子……違う……少なくとも君は、何かしらの所為で変わっているようだ。まるで頭の中身を取り出されたかのような不快感。不快? 僕は『なに』に対して不快と感じているのだろう。……何度、貴方様を見れば……見なくなる日が……来るのでしょうか? 私の事が嫌いなのかな。それとも、君自身の事が、嫌になっているのではないのかね。……僕は『貴方』とは本当に相容れないようですから、徹底的に、完膚なきまでに、やりますっ! 大きな声での宣告だ。宣誓だ。捧ぐかのようにして天使を庇う。
新しいもの――珍しいもの――それは『蒐集家』が狂ってしまうほどに、垂涎な響きだ。蠢動し、ゆらりと近寄ってくる怪異を纏った男の姿は『恐怖』の化身とも描けよう。震えている天使の眼を眩ませるかの如くに――オマエが出現させたのは羅鱶か。……どうせ生死なんて貴方様は問わないのでしょうから。いいや、私は生死も重要だとは思う。しかし、君達が邪魔をするのであれば――それは鹵獲になってしまうのだ。……話は終わりです……三度目の正直、と、謂うものはありえません。オマエと羅鱶の連携はまさしく同体、投げ込まれたタロットの『戦車』に従って。私も君も、どうやら負けず嫌いらしい。
攫われた先は竜宮ではない。
――奈落である。
殺意だ。殺意こそが薬であったのだ。
二度あることは三度ある――諺にも『ある』通りだ。で、あれば、オマエ、オマエは脳髄を洗われる行為を『三度以上』は受けなければならない。またアンタなの? 何度も、何度も、しつこい爺さんねぇ。……爺さんだって? 勘弁してくれ、私はこれでも、若いとは言えないけれども、そこらの若者よりかはアクティブなのだよ。男からの返答を、リンドー・スミスからのお言葉を、まるで『なかった』かのように言の葉を紡ぐ。争い合うことが愚かだっていうなら、闘うことが馬鹿らしいっていうなら、そもそも奪い取りにくんなっていうのよ。ハハハ……お嬢さん、君のいう通りだ。だけどもね、ここで、私が横槍を入れなければ、何処かの女に攫われていたのかもしれないよ。あー……? どいつもこいつもご立派なお題目がそんなに必要なわけ? どうせ……どうせ……人類なんて欲しいものは奪う、邪魔する奴は叩き潰す生き物のクセに……。ほう……謂うではないか。私はこれでもおとなしい人類でね。いや、まったく、君の過去というものに興味が涌いたよ……。ふざけんな。いちいち綺麗事抜かしてんじゃないのよ――|下等生物《ニンゲン》が。
記憶にはない。記憶には無いのだが、刺激を受けてしまったのだ。おそらく、オマエが罵っているのは、腹立たしく思っているのは、目の前の男ではない。たとえば、両親の仇。たとえば、オマエの脳味噌を洗ってくれた義妹ちゃん。人間は愚かだ。人類はおぞましい。ああ、おそろしさが勝りそうなほどだが――真の竜は怒りの器であった。ああ、もう、何かムカつくわ、イライラする。死ね! さっさと死ね! 消えて、灰になれ――。怪異など最早肉の塊である。人間など最早風の前の塵に等しく。顎より放たれた、巨大で強大な灼熱が……吐息が……あらゆる『屑』を焼き尽くす。良い? アタシの前で『そういうこと』、二度とするんじゃないわよ。次やったら、√の果てまで追いかけて、死ぬまで殺してやる。
君に殺されるのなら、悪くはない。
死に物狂いの再演に――不穏を極めた再会に――何方が先に、開口をしたと謂うのか。邂逅ではなく遭遇と呼ぶべき沙汰、まるで|悪魔《サタン》を彷彿とさせる落下の具合である。あっ……出た。足元にやってきたのはコックローチではない。足元にやってきたのは蝸牛でもない。だと謂うのにオマエ、まるで毒虫を相手にしているかのような反応ではないか。失礼……。失礼と思っているのかは不明だ。もしも、周囲にマトモな人類がいたので在れば、彼等彼女等は遁走を試みているに違いない。『この手のもの』にあなたが興味を持たぬわけもなく? わたくしも、同じく? やれやれ……私は、君とは違って人間なのだ。強い部類の人間ではあるのだが、怪人相手に大立ち回りとは、なかなか、難しいもので……。アッハッハ、似た者同士と握手をしても? それとも、似たり寄ったりか。或いは……似ているようで違う? だが――わたくしは怪人。譲らんぞ、この可愛い翼憑き! わたくし大変『気に入った』。血を流し過ぎたのか、大声にやられたのか、近くにいた天使がクラクラと落ちる。おっと……わたくしとしたことが、騒がしかったかな。しかし、この反応おもしろ……。ほら下がれ隠れろ、得意だろう? 得意ではない? なら、わたくしはやってみせよう。
然し人間同士など……人類などと……わたくし怪人なので知りませーん。ワハハ! 冒涜的なものだ。冒涜的なものが人類の争いに嘴を突っ込んでいるのだ。人間災厄とのアレコレの方が『リンドー・スミス』にとっては健全か。君……私を困らせて、楽しそうにしてくれる……。愉しいとも! 愉しい! 愉しいがご退場願う。翼が穢れる様が見たいなら、わたくしの翼でも見ていろ。真っ白い、嗚呼、真っ白い、いぬのようで鳥のような、何かしら。で、あなた。数の暴力が得意だ、好きだと教えてやった気がするな。
増えよ、殖えよ、観客は多いほど善い! 流転を孕んだ弾丸が召喚された|戦闘員《にく》どもを増殖させていく。散らかった水銀の輝かしさはリンドー・スミスすらも恐々とさせるのか。やれることは少ないが、しかし、山ほどの|飛肉《皮肉》を有している。まったく、私を蹂躙するつもりか。君は何処で出遭っても、いつ、エンカウントしても、いやらしい事をしてくれる。ああ、あなた。警鐘を聞きたいと思った事はないかね。
お似合いの銀色がある――眼だ。眼が、動いて、捉えた。仔産みの女神に匹敵するほどの『眼』のやかましさか。それで? 私の攻撃を完全に見破ったワケではない……嘘だろう、君。暴れ狂う寸前の怪異どもを『蛇』が嗤う。嗤われたキムラヌートの行方は――足りぬならこの白翼汚してもらっても構わん。さて……ご機嫌な怪異の一撃、二撃。彼奴ら、何体増えるかね。泥々とした試合は、蝸牛めいた地面は、もう飽き飽きだ。おまえたち、わたくしの血肉に還るがいい。隙を見せるなら、腑を晒すなら、同化してやれ。おまえたちの「質量」のひとつに。単純な戦力となるなら、それも良し……。
私の再生能力を、脚の数を……舐めてはいけない……?
蛇だ。蛇が、鞭のように、棍棒のように。
ああ、そうだな。叩き潰すのが、好きなのだ。
わたくし!!!
内乱を煽られ、その世界を護ろうとした主神たちごと、
自滅する前の再現に過ぎませんが……。
罪を得物にして罰を与える、侵蝕の所業、混沌の友……。
閑話休題――。
奈落の底より這い出たのか、奈落の底へと落とされたのか、まさしく|奈落《アバドーン》、忌まわしいほどの人間性にオマエは何を想うのか。怒りはない。それは、今は要らないものだ。悲しみもない。それは、欠片としても持てやしない。天使を庇った状態で先程の延長線、戦の際に不可欠なのは、成程、おそろしいほどの冷静さか。傷など、負わせないのが最善ですが……心の負荷も緩和できるように。天使は強い。正確には、強い精神を宿してはいる。されど、潰れる時は人間、一瞬の内に塵芥とも考えられた。護り手なら気遣いと励ましでも添えるものなのでしょう。……ええ、大丈夫です。あのような小物、僕の敵ではないのですから。実際がどうあれ、唱えるだけなら――安堵をさせるだけなら――容易い事です。私は……その、えっと。あなたの方が、疲れているように……。天使の口を塞いだのか、天使の身を隠したのか。兎も角、重要なのは此処からだ。さて……。
リンドー・スミスの装いは油断の『ゆ』の字もないものだ。何せ、相手は『己を負かした』化け物の類である。……極東で暗躍していたと思えば欧州まで……ご苦労様です。いや、君こそ、君のような化け物が『誰かを護る』だなんて、こんなにも滑稽な沙汰があるのかい。抉ってくる。舐ってくる。脳髄を弄ばれるような心地に於いても、オマエはオマエを崩さないし、崩せない。……あなたの言葉通り……護りながらの戦いなので。初見よりは、顔見知りの方が此方も助かります。こっちは災難だよ、君、私の命が幾つあっても足りはしない。男の底より、底なしより、怪異どもが解放の『とき』を悦んだか。
私が君相手に『躊躇』をする筈がない。これは君を倒す為に……王様を斃す為に、私が直々に『調教』した奴隷怪異どもだ。第六感が働けば、成程、あれらは『未曾有』で出来ている。ならば、いっそ、世界を諸共に――√を諸共に――改変をしてしまえば楽だ。そうとも、ひとつだけ『タイトル』を定めるとした場合……正義は勝つ。
君……正気か? 何方かと謂えば、私の方が『人類の為』をしているのだから、正義なのではないかね。人類の為ですか。それは、此方も同じですし……何方も|正義《任務》に依る戦いなら、より倫理に則る方が勝る……そう判断しますが、如何に?
破壊が――炎が――気配が、怪異の一部を消し去った。其処に潜り込んだのは『剣』である。……あなたは、最初から最後まで悪役でした。たとえ、僕が悪役だったとしても、あなたには敵いませんよ。|浄光《と》けたところに膂力による断絶、概念さえも錆としたのか。
……もしも……あなたが危険に晒される事があれば、
何度でも、助けに向かいます。ご安心を。
安い口約束だ。薄っぺらい呪いだ。
それでも、天使にとっては救いである。
眩むほどの水かけであった。
今にも、熱っぽくなりそうな、クラクラとする、重圧の中。
猫のように、蛸のように、鍋や壺の中へと這入っていくかのような裏切り行為だ。いや、彼は最初から裏切ってなどいないし、そもそも、敵対をしているのだ。それは、ぐるぐるバットをしてくれた女神様だって同じである。……え。どうして。なんで、おじさまがここに? それに簒奪って……。一ノ瀬・エミは汎神解剖機関の職員であり、収容施設の管理人だ。されど、その前にきっと只一人の女性なのだ。おじさまも、マレーネさんと同じ事をしようとしているの? じっと、じっと、おじさまを……リンドー・スミスを見つめてみる。オマエの眼差しにやられる事はなく、連邦怪異収容局の職員は見つめ返すのみ。……立ち上がらないと。自分の目で見たいって言ったのは私だもの。ちゃんとこの目で、見て、話さないとダメだ……。覚悟だ。覚悟が、この胸の内には存在していた。その強さを察知したのか『男』は『女』の言の葉に耳を傾ける。……お嬢さん、世の中には、知らない方が良い事だってたくさんある。たくさんあるが、お嬢さん、君はとっくの昔に、見てしまったようだね。
連邦怪異収容局も羅紗の魔術塔も、天使達から新物質を得る事を考えているんだね……。怒りではない、哀しみだ。哀しみのような感情がオマエの声色、湛えられる。でも、私の所属している機関は天使を保護する事を考えていて……。それは、本当かい? 君は本当に『汎神解剖機関』を信頼しているのかね。いや、汎神解剖機関も『一枚岩』ではない筈だ。……それは……わかっています。ですが、ちゃんと、保護してくれる人もいますし、私も、その一人です。それに……こんなに優しい子達から一方的に奪うだなんて……私は嫌です。きらきら、きらきら、無私の心に近しい何かしらがこぼれていく。保護をした後、天使達の心も体も癒して、手を取り合っていく未来を考えていきたいです。
そうか……。リンドー・スミスは動きを止めた。攻撃をするなら『今』だが、そんな無粋は『できない』だろう。愚かだと言われても、この思いは揺るぎません。目も背けません。全力で……この子達を守ります……! ワッフル君が吼えている。ワッフル君が震えている。わかった。だが、君、今回は……私が勝った場合、覚悟をしたまえ。
で……君の方は如何かね、人間災厄くん。
……連続で簒奪って言葉を聞くと、嫌になるよ。
溜息の沼に浸かっていたオマエ、彼女と彼の『おはなし』を聞いてはいたのだが、やはり、意見はまったく変わらない。無理ですよ、そんな事言われても。新物質を得ようとしている時点で、はい、そうですかって頷けないですよ……。無抵抗な子の臓腑から、無私の心を持つ彼女達から、新物質を得るのをスミスさんはどう思いますか? つまり、君は『植物』『家畜』の云々は置いておいて、答えてくれ、と……。これは、私の意見なのだが。君は『汎神解剖機関』の何処までを知っているのかな。クヴァリフの仔だって、それこそ、ものによっては少女みたいなものらしい。黄昏を迎えている現状の世界で戯言を……いや、私は『戯れ言』も好きではあるのだ。やらずに済むなら、そうしたい、それが人間の弱さである。
僕も、奪うより、力を合わせていく方が好きなので、エミちゃんに賛成です。
……では、いつも通りだ。出来る限りの抵抗をしてくれたまえ。
解放された術式により、リンドー・スミスの身体が変化していく。蟲を彷彿とさせる怪異が理性を以て押し寄せた。僕達、いつか、仲良くできると良いですね。まったく、汎神解剖機関の能力者は……こうまでして、善を貫き通してくるとは!
ワッフル君の遠吠え……足元を掬うかのように。
異形の腕が吸い付いた。すすれ、すすれ、獣よりも。
我々は強くあるべきだ。君達は、何を狂信している?
あなたは優しい人だと、あなたは強い人だと、何者がお喋りをしている。
手渡した目玉の数は『ふたつ』だ。三つ目の目玉が存在してしまったら、それは、幸福からもかけ離れてしまう。天使化には、あまり、そそられないというか……私は来ないつもりだったの。独白か、虚空にでも語り掛けるかのような。 セルマ・ジェファーソンの嘆息。三つ巴の戦争にでもなったら、世界を巻き込んだ怪異の大戦にでもなったら、「|中立《フリーランス》」という立場が危ういわ。止めたところで、撲ったところで、聞かない人なのも知っている。死神が面と向かって文句を唱えているかのような有様だ。収容しているのか、収容されなかったのか、その程度の沙汰でも大騒ぎである。フューリーも、ムシューも。そこまで言うなら、そこまでわかっているなら、どうして来たかって? そうね……。
私にはなんとなく、君の『やりたい』ことはわかった。君は私ともう一度、ドーナツを嗜みたいのだろう。嗜みながら、|天使の輪《ドーナツ》だと、真っ黒い冗談を言い合いたいのだろう。それこそ、冗談のような話だ。ひどい冗句で、欠片としても面白くない。ムシュー、あなたには失望したわ。いえ、失望はしていないわよ。とにかく……ツバメの教会というところに「しあわせな王子さま」のような、無私の精神を持つ子どもがいるの。その子どもが天使を放っておけないと。成程……君は随分と、お人好しなようだ。それとも、君自身が天使になるかもしれない、と。……じょうだん。ええ、天使病に罹患してもおかしくない善性の子よ。それを巻き込むわけにはいかないじゃない。だから、私が来たの。だから、私が動いたの。ねえ、ムシュー、人間同士で争うなんて、愚かなことでしょう?
オマエは主人公だ。主人公なら、敵意を削ぐ事くらいは容易い。
天使もしあわせな王子も、人間だったのよ。
……まるで狂気の山脈……君、少なくとも、私の役目は終わったようだ。
連邦怪異収容局員『リンドー・スミス』は踵を返した。
能力者達は『天使の保護』に成功したのである。