|別離《わかれ》の夜櫻は希う
彼岸と此岸――決して交わることのない世界に別たれたと理解はしているつもりだった。
それでも、逢いたい人がいた。
或る妻が戦地へ赴く夫を見送った。
「必ず還ってくる」と言い残した男は空の骨壺として無言の帰還を果たした。
或る少年が引っ越す少女に手紙を託して指切りをかわした。
再び相見えることはなく甘く切なくほろ苦い初恋として幕を下ろした。
ある男が、桜のもとで愛しい女に指輪を差し出した。
永遠を愛を誓った男女は彼岸と此岸に永遠に別たれ決してひとつになることはなかった。
いつしか別離の桜と呼ばれた老樹は咲くことも忘れこのまま朽木と成り果てる運命だった。
でもいつしか、或る噂が流れた。
――春の宵の気まぐれのように『別離の桜』が咲きしとき、逢いたいと希う人と相見えることが叶うのだと。
流言戯言の類だと笑い飛ばす者が多数を占めていたのだが、それでも願いを持ったものには満開の夜桜が見えるのだという。
斯くして花開く桜を者には逢いたい人に出逢える夢を魅せる。
甘い残酷な春の|陶酔《ゆめ》を。
●
「知ってる? 桜の樹の下には屍体が埋まっているってアレ」
集まった√能力者達に星読みの八代・霖(h01795)は切り出した。
彼の有名なフレーズは有名な文豪の短編小説に由来する。
あんなにも綺麗な桜なんだから屍体の血でも吸って色付いているに違いない、と。
「つまり妄言妄想の類だと僕は思うんだけど、今回はそうとも言えないみたい。本当に人の命を吸い取って咲く桜が現われたんだから」
霖はホワイトボードに数枚の写真を貼り、文字を書き連ねていく。
場所は√EDENの地方都市。この地には地元住民に愛された桜の老樹がある。
かつては街の象徴として数多の人の営みと別離を見守ってきた桜も年を経て咲くことを忘れて久しい。
再開発計画が進むこの街で新たな道路を通すため桜を切り倒すことになった。
「ただ、この桜に怪異が取り憑いた……というか怪異がこの桜を利用しているみたいなんだよね」
怪異の名は『眠る乙女』。生者を眠りに誘う呪いを込めた蒼薔薇を本体とする怪異。
咲くはずのない桜を取り憑いて、幻影の桜を咲かせて陶酔を魅せることで、まるで花が薫香で蝶を誘うように人間を|夢《いばら》の檻に閉じ込めようとする。
今回、憐れにも呪いの餌食になってしまったのは工事現場の下見に訪れていた役所勤めの29歳女性だ。
名は|藤嶋《ふじしま》・|菫《すみれ》。
一年前に交通事故で婚約者を亡くした過去を持ち、其の心の隙間を付け入られてしまったのだろう。
現在は怪異の薔薇に抱かれる形で眠りについている。今のところ命に別状はないようだが、それも時間の問題だろう。
「今回の依頼の目的は藤島・菫の保護と、怪異『眠る乙女』の撃退なんだけど……」
ただ、桜のまわりには”元”被害者達の亡霊が桜を護るように立ちふさがるのだという。
「今までは謎の失踪事件とか衰弱死とかで片付けられていたみたいだけれど、まぁ実際のところはそれなりの人数が犠牲になっていたんだろうね」
いくら√EDENと言えどあまりに大味が過ぎないかと霖は嘆息を漏らした。
問題の怪異は夜にならないと出現しない。今から現地に向かえば日暮れまでには充分すぎる余裕はある。
「元々工事の予定地で民間人の立ち入りはないし目隠しになるフェンスもある。でも『別離の夜櫻』の噂は地元では都市伝説のように広がっているみたい。だから、一応昼から現場に入って警備はしていてほしい」
厳重にフェンスで区切られているから一般人が迷い混むことはないだろうけれども、念には念を入れての対策だ。
「それから……蒼薔薇の標的は、一般人だけではないよ。|√能力者《きみたち》だって例外じゃない。迷いや隙があると容易に付け入られるよ」
そして、その末路は今語った通り。
「――決して忘れないでほしい。どんな者が君達を甘い|陶酔《ゆめ》に誘っても、其処に在るのは実体を持たない|幻影《うそ》に過ぎないんだから」
第1章 日常 『桜の木の下で』

柔らかな春の風が頬を撫で、空は穏やかなパステルブルーを浮かべている。
桜の老樹は最期の命を散らすように僅かな花を咲かせて、君達を出迎える。
これが本来の、街を見守ってきた桜の優しい薄桃色。
これから夕方になるにつれて徐々に命の色を帯びた幻影の桜が花開いてゆくだろう。
勿忘草色の|天空《そら》には、追憶の柔らかな白桜がよく映える。
「老木のお前が懸命に咲かせた、あるがままのお前の春……なんて愛おしい」
ララ・キルシュネーテ(h00189)は想紅花彩の双眸を静かに細めて老樹を眺める。
この余りにも|切なくて優しく愛しい花《ママのいろ》はララも愛してやまない巡る春に咲いて、散って、再び花を咲かせる。
斯くして重ねた年月の分、幾多の出逢いを見守って数多の別れを見送ったのだろう。
ある時は祝いの花吹雪として、或いは、別離の涙雨として花の慰めを降り注げてきた櫻にも"|終焉《さよなら》"の|瞬間《とき》は訪れるのだ。
「今のお前はまるで彼岸此岸の狭間に咲くよう……此度お前が潰えるならララが見送ってあげる」
私を忘れないでと想い託された花は朽ちて次代にその言葉を遺す。
ならば、未来を生きるララがその想いを託されよう。それが愛しい櫻を受け継いで可惜夜の翼を持つ|天の雛女《桜樂》の役目だろうから。
さくらの語源には神の坐す木という意味があると昔大切なひと達が言っていた。
なれば、今はせめてララがお前の根元に座そう。双眸をそっと閉じて、ララは花笛を口元にあてた。
「あまし上手ではないけれど、パパに習った曲よ」
泣かないで、どうか泣かないで――。
白虹の聖女が奏でるは斯くような歌詞が似合う切なくても優しい澄んだ音色。
(どうか、お前にも届くといい)
桜の龍に纏わる笛の音が奏でるのは、幾つもの出逢いと別れを見守ってきた優しい桜にも届くように願いを込めた音色。
斯くして何かを想い奏でていればはララの心にも追憶をもたらしている。
かつて、故郷で見上げた桜もまたお前のように優しい色彩を浮かべていた。
|大切なひと達《パパとママ》と、見上げた桜は、まことに美しかったのだ。
違う世界に咲く別の存在の花なれど、愛おしくて大切な美しい桜を、穢させたくはない。
(――あいたい)
樂園という鳥籠の天は未だ飛べぬ幼き可惜夜の翼では届かない。
あいたいと、何度も叫んだ言の葉は今日も明くる日も桜吹雪の中に攫われてしまうのだろう。
胡蝶の夢という言葉がある。
遠い昔の、他の国の男の話。胡蝶となった夢を見た自分が現実か、それとも今の自分は胡蝶が夢見た世界なのか。
確か、そんな話だったはず。
胡蝶の夢という言葉を知った時、神々廻・ヰヲリはああ、なるほどと思った。
それは、まるでずっと解けなかったなぞなぞ遊びの答えが解った時のような気持ちだとでもいうのだろうか――抱いた感情に適切な言葉をあてはめられるほど、まだヰヲリは知らないことが多かった。
例えば、今こうして見上げている桜が本来どのような色をしているのが正しいのか、ヰヲリはその答えを知らない。
だから、あくまでも想像して夢想をするだけ。
周囲にいる人達が怪異の桜とか妖しい色だという。だからきっと、夕映えに開きはじめている桜は紛い物の色なのだろう。
昏くなり満開に花開いた桜が魅せる姿もきっと紛い物。本来の美しさとは違う、命を吸って色付いた妖花の色彩。
(桜はただ、綺麗なだけじゃなく散り際が特に美しいって、誰かが言ってたっけ。誰だったかな)
軽く思考を巡らせてみたけれど思い出せなかった。
でも、その話を聞いた時『いつか見てみたいなあ』とぼんやりと思ったことだけは覚えている。
この桜は見せてくれないであろう本物の桜が散る光景を想像してみて、思い出したのは似てもにつかぬ光景。
これはヰヲリの胡蝶の夢の話。かつて『とある施設』で起こった惨劇のこと。
虚空を舞う血飛沫がまるで桜の花びらのように飛び散ってヰヲリの視界を覆っていて、騒々しい声と物音が響き渡っていた。
その中心で、ヰヲリ一人だけが立ち尽くして、ぼんやりとその光景を眺めていた。
「あそこであったことは、夢だったのかな」
ぽつりと桜を見上げながらヰヲリが漏らしても、答えをくれる人なんて誰もいない。
夢か現か。それすらもあやふやな境界を揺蕩うようにヰヲリは存在しているのだから。
何もかも知らないし、曖昧な世界に生きているけれど――ひとつだけは、確かだ。
「誰かが死ぬような悪い夢だけは、一刻も早く終わらせたいね」
「桜の木の下には屍体が埋まっている……モグか」
モコ・ブラウン(h00344)は紫煙をくゆらせながら桜の老樹を見上げた。
かつて、同じ話を何処かで聞いた。
あれはそう。随分と昔の子どもの頃の話。
今日のように穏やかに晴れた春の午後。花見にでも行くぞなんて言い出した師匠に連れられて満開の桜が咲く公園に訪れた。
その時のモコは人の形を保てる程度には化けられるようになった程度には化け術にも慣れたが、心はまだまだチビもぐら。
掘り甲斐のある土を見かければもぐらの本能が疼いて仕方がなくなるわけで。
「おいモコ」
掘り甲斐のある土に手を伸ばそうとしていた自分を師匠が呼びとめた。モグ?と小首を傾げれば師匠は真面目な顔でのたまった。
「桜の木の下には屍体が埋まっているんだ」
「ええっ!? それはこわいモグ!」
「そうだろうモコ、だから花見の時はそのへん掘り返すんじゃねえぞ?」
煙草の火をつけながら師匠が語った言葉に素直に頷いて隣にちょこんと腰掛ける。
モコの低い視界からは師匠の黒髪混じりの銀髪がさらさらと揺らぐのが見える。桜の淡く優しい色彩に無骨な師匠は甚く不似合いだけれど、何故だか目が離せなかった。
「ん? |煙草《これ》か? これはモコにはまだ早いな。子どもはこれでも舐めとけ」
そうして寄越されたのは硝子瓶に入った黄金色の鼈甲飴。光に透かすときらきら美しく燦めいていた。
早速蓋を開けてみようとするけれど随分と蓋が固くて開かない。
苦戦している自分を見かねた師匠が「しかたねぇな」と言いながらあっさり開けてくれた。
そうして、口に放り込んだ鼈甲飴の甘さは今でも鮮明に覚えている。
(今思えば、あれはわんぱくなモグを戒めるための師匠の方便だったモグな)
今となっては遠い日々のやり取りを思い出しながら、喫する煙はひどく苦い。
厳しくて、不器用で、優しい師匠。モコに名を与え、生き方を教え"絆"を与えてくれた人。
(今回はモグが代わりをやってやるのモグ)
誰に対しても手を差し伸べていた|師匠《彼》のように。
トレンチコートの裾が春風に踊っていた。
手に握る缶コーヒー半端に冷めていた。口をつけてみればぬるい缶コーヒーは絶妙においしくなかった。
色城・ナツメ(h00816)は桜をぼんやりと眺めていた。桜の老樹は残り少ない生で寿命を削る如く僅かに花を開かせている。
樹木に明るくない者が見ても『ああ、|寿命《さき》は長くないのだな』と察せるであろう状態の桜を長めながらパンを囓った。
適当にコンビニで買ったパンはこちらも微妙にパサついており、あまりおいしいとは言えなかった。
(……ある意味、これも花見になるのか?)
花見というには些か無骨すぎる花見弁当のような気がしないでもないが、まぁいいか。
パサつく微妙にまずいパンをぬるくなって絶妙にまずいコーヒーで流し込んだ。
都市にある老樹。人間と樹木では刻む時の速度が違うといえど、樹木もいずれは終わりが来る。
景観のために植えられていたであろう桜の老樹。花付きが悪くなり役目を果たすことができなくなっても、今日まで手入れをされて育てられていたのは、この桜がそれだけの人々に愛されていた証左だろう。
だからこそ、考えてしまう。
此度の事件は非常に理不尽なものだろう。
ナツメは桜ではないし桜になることもできない。本心など推し知ることもできないけれど。
切り倒される桜の老樹の恨みならともかく、これだけ愛された桜であるならきっと桜も人間のことを愛していたと思うのだ。
(終わりを待つだけだったのに、怪異から無理やり咲かされ……人の命を奪っていたなんて笑えねぇ)
ああ、いつだって。
――怪異は人を救わない。
「……あー、クソ、駄目だ」
一人だとどうしても色々考えてしまう。ナツメは空を仰ぎみながら深く息を吐く。漏れたのは自嘲か苛立ちか憂鬱か。
気晴らしに宴会でもやっている人間のところを覗いてみようか。そう考えて周囲を見渡した視線の先で、紫煙をくゆらせる見慣れたオレンジ色の後ろ姿を見つけた。
彼女と話せば“いつもの調子”を取り戻せるだろうか。ナツメは立ち上がり、軽くコートに付いた土を払い彼女の元へと歩を進めた。
頬を撫でる春の風は柔らかく、欠伸と眠気がアドリアン・ラモート(h02500)の手を優しくひいて、まるで|昼寝《ゆめ》の世界に誘うようだった。
(人の命を吸い取って咲く桜、それはもう鮮やかに咲き誇ってくれそうだね)
所詮は幻影の桜だけれど。
星詠みの言葉を脳裏に浮かべつつアドリアンは、持参したレジャーシートを敷いた。
その上にブランケットを丸めて枕代わりにしたものもセット。完璧だ。
何をしてるのかと問われればそれはもう見ての通り寝転がるに決まっている。当たり前だろう。
(青薔薇が本体のくせに桜に取り憑くんじゃないよ、全く)
心のなかでごちりながら、アドリアンが見上げた空はパステルブルーの麗らかに晴れた春の空。流れる雲はまるで眠りと夢の世界を行き交う白羊。
依頼さえなければ絶好の睡眠日和だろう。否、依頼などがなければきっと外に出ることすらなかったけれど。
そのままごろんと寝返りをうち、視線を桜へ向けた。
此程にも暖かな春の陽気に包まれているというのに、桜が咲かせているというには少し寂しい花付き具合。
いずれ終わりは訪れる。速度に違いがあれど、生物である以上一部の例外を除いては時の流れに抗って不変でいられるものなど存在しえない。
それはかつてこの街の象徴と親しまれてきた桜だって変わらない。
(再開発っていう時の流れだとはいえ、切り倒されてしまうなんて余りにも寂しいよなぁ)
柄にもなく感傷的なことを思ったのは決してボッチできていて寂しいわけではないはずだ。多分。
周囲の弁当を広げたり、缶コーヒーを一緒に飲み合っている能力者達から目を逸らすように瞳を閉じた。
「はー、夜まで時間あるしお昼寝しようかな」
大きな欠伸をかみ殺すこともせずに、アドリアンは堂々とお気に入りの枕を抱き締める。
(今のうちに寝とかないと睡眠欲っていう迷いと隙に付け込まれちゃうしね)
今逢いたい恋人は布団だ。可能であれば、干し立てふかふかの羽毛布団がいい。
さぁ夢の世界へと旅立とう。彼らが見た夢を想いながら。
「おやすみ」
兎沢・深琴(h00008)は読んでいた本をそっと閉じて、僅かに綻びはじめた桜を見上げる。
穏やかな淡い春の空色に桜の薄桃色が映える。街と其処に住む人々を見守ってきた桜の本来の花は本来優しい色を浮かべていたはずだ。
その果てがこのような形で終わるなど、あまりに悲しすぎるのではないだろうか。
桜に罪はないのだから、どうか惜しまれながら穏やかな最期を迎えてほしい――そう願うのは、きっと自分だけではないと信じている。
「桜の樹の下には……ね」
その言葉が今になっても残っているのは、それだけに人を惹きつける美しさがあったからだろう。
現代を生きる深琴が彼の有名なフレーズをはじめて知ったのは小学校に上がったばかりの年齢の頃だっただろうか。
年の離れた姉が読んでいた本に興味を持って勝手に読もうとしたが、漢字や難しい表現が多く殆ど理解できなかった。
高校から帰ってきた姉にしつこく「教えてくれ」とねだり引き下がらなかった。姉は困ったようにしながらも「桜の樹の下にはおばけがいるのよ」と教えてくれた。
幼い頃の自分にはおばけという単語だけでも恐ろしかった。
だが、その数年後に本来の『屍体』を知り驚きはその何倍にものぼったから、当時の自分が知ったらもっと衝撃を受けていただろうことは簡単に想像がつく。
だから、きっと姉は『幽霊』と濁してくれたのだろう。
そうした姉の優しい気遣いにいつも守られていた。
桜がそよぐ春風に揺れている。
|藤嶋・菫《彼女》もこの桜を見上げて想い願ったのだろうか。
自分も大切な|姉《ひと》を亡くした身だ。恐らく同じ気持ちを抱いているからこそ理解はできていると信じたい。
――逢えるのならば、逢いたい。
またあの優しい声で名前を呼んでほしい。柔らかい微笑みで話を聞いてほしい。
仕方ないわね。頑張ったわね――そう、あの暖かな手で背中を撫でてもらえたのなら。
(永遠に覚めない幸せな夢が続けば、どんなにいいのでしょうね)
だけれど、そんなに都合の良い話はないことを知っている。
「だからこそ、気持ちと折り合いをつけて生きていくしかないのよね」
《深琴?》
いつの間にか呟きが膝の上で昼寝をしていた黒猫の星が不思議そうに深琴を見上げていた。
なんでもないと星の背を撫でながら、深琴は赤薔薇色の瞳を閉じた。
桜の樹の下には屍体が埋まっている――なんて言葉があるようだけれど実際には養分とかになれるんだろうか。
緇・カナト(h02325)は歪に咲く桜を見上げて想いを馳せる。
警備という名目に訪れたとしては随分と穏やかな時間だった。春ののどかな気配の中、カナトはただぼんやりと咲く桜を眺めていた。
あの話は桜のあの美しさは地に屍体でも埋まっていて血で妖しく色づいているに違いない。
(この話を聞かされた"普通の人"はどう思うのだろうか)
無理矢理引き千切った首輪の代償に傷付き膿んだままの傷を抱えるカナトの思考はもしかしたら"普通の人"とは違うのかもしれない。
ただ、野晒しとになって雨風にうちつけられて何も成せずに朽ち果てるよりも、うつくしい花のひとひらとなって見る者に心の彩りを与えられる存在になれた方が"存在の意味"があるのではないかと思う。
でも、同時に其れは《囚われる》他にないのではとも思う。
死人に口無しとはよく云ったもので死して語れる言葉はなく、彼岸と此岸に別たれたもの同士想いを交わせない以上、桜の彩りとなれたのが|屍体《本人》のさいわいであるか確かめる術はないのだから。
(どちらがイイかなんて選べる自由さがある間こそ幸運なのだろうな)
すくなくても、何が正解か欠けたカナトの思考では判断ができない。
だけれど、斯くの如く想いを馳せることができる現在はカナトだって《自由》であることにはかわりはないと思う。
現実を歩み続けるのも、幻想を想い浮かべるのも――どちらの道を選ぶことができるのは、遺される側の生者ばかり。
生という自由を振りかざして時間を貪るように生を謳歌できる者の、ある種傲慢とも言える考えなのだろうから。
(……さて。それじゃあ、そろそろ仕事を始める準備でもしておこうかな)
黒妖の面に手を伸ばしてふれる。手に馴染む感触が心の温度を下げていくように感じた。
今日は穏やかに澄んだ春の晴れ空。夜もこのまま晴れが続く見込み。
――今宵はうつくしい月が見られるだろうか。
星越・イサ(h06387)のボールペンを持つ手は震えていた。
「う、うぅ……」
紙の上でペン先が不可解な踊りをみせて白紙の手帳に奇怪な紋様を描いて行く。
ああ、情けない。なんともみっともないし頼りもない。
「はぁ……」
大きく溜息をついてイサは鞄に手帳とボールペンを仕舞い込んだ。
一先ず能力を使わずとも目視や感じられたことだけでも情報を纏めようとした。しかし、緊張で手が震えてこのざまだ。
情報を纏めるのは諦めて、イサは桜の根元に近付いて幹に手を当てると|運命の不協和《デスティニー・ディソナンス》を使用し、過去の記憶を探る。
√能力を伝ってイサの脳内に流れ込んできたのは桜が見守ってきた数多くの別れの物語と、咲かなくなった桜を心配する街の人々の姿。
植物に人間のような感情があるとも思えないが、もしあったとしたら『せめて最期に街の人々を楽しませたい』という想いを蒼薔薇に付け入られてしまったのかもしれない。
「迷い、隙……」
脳裏に浮かぶのは星詠みの言葉。
――蒼薔薇の標的は√能力者も例外ではない。迷いや隙があると簡単に付け入られる、なんて。
「ないわけ、ないじゃないですかぁ……」
情けない声で呟いて力なくうなだれる。
心霊現象の解決なら自分にも向いているのではないかと考えてこの依頼を受けることに決めたが『ああ、やはり自分には荷が重かったのではないか』と後悔の感情が胸の中でぐるぐると渦を巻いていた。
だって、自信も頼りがいもないくせに迷いや隙だけは一人前にあるんだから。何度も今更やめた方がよかったのではないかという考えが脳裏を過ぎるが後の祭りだ。
「せめて、他の人に、迷惑を、かけないように、しないと、いけません、ね……」
自分の不甲斐なさが他人の迷惑になってしまうかもしれない。
チームの急所となって他の人を巻き込んでしまわないように対策を講じようと再度手帳とボールペンを出したところで再びイサは溜息を吐いた。
――自分にできるのは、せめて祈ることだけなのかもしれない。
桜の老樹は命の終わりに僅かばかりに花を咲かせて寿命を削るように最期に見るものの心を和ませる。
人によってはあまりに健気で憐れと感想を漏らす薄幸の木だった。
(……別離の桜ねえ)
月白の髪をふわりと靡かせながら夢野・きらら(h00004)は別離の桜を見上げる。
(それ自体は迷信の類だと思うけれど、怪異のせいで実体になってしまうのは避けたいね)
きららは樹の下にブルーシートを敷いて寝っ転がってハッキングツールを立ち上げた。
端末をあちらこちらと弄くれば目的の情報は専門的な知識を使うまでもなくあっさりと見つかった。
現代社会はネット社会と言われるけれども、随分とネットリテラシーのない者が多いようだ。
突如理由もわからないまま衰弱死をした親友を悼む書き込み。
行方不明になった妹の情報提供を求める投稿。
噂に縋り別離の桜の情報を集めている本人のブログ。
一方、はたまた随分と大仰なタイトルとサムネイルで再生数を稼ごうとする|動画投稿者《部外者》。
ひとつひとつは大したことはないだろうが、小川が集い大河となるように噂が集えば大きな問題となり得る。
きららはそれらにさりげなく《改変》を加えつつ|真実を知る者《√能力者》には正しい情報が伝わるような表現を織り交ぜた。
(会いたい人かぁ……)
端末をはじく手をとめて、思い出したのは星詠みの言葉を思い出す。
きららにも会いたい人がいた。だけれど、その人の顔も名前も知らない。
知っているのはただその人の《作品》だ。顔も名前も知らなくとも想いと魂が込められた《作品》こそに本質を見いだす姿勢は本の虫たるきららの性なのだろう。
あの作品達を書き上げた|著者《人間》達に逢えるという夢を本当に眠る乙女が魅せてくれるのならば騙されたい気持ちは無くはなかった。
だけれど、残念ながら、そうじゃない。
(こういうのも迷いになるんだっけ?)
きららは端末の画面をスクロールさせながら、集めた推定"元"被害者達の写真に問いかけを投げてみた。
画面の中の写真達は黙したまま何も語らない。
薄暗い研究室と青白いモニターのブルーライト。
それらが普段白片・湊斗(h05667)があびている環境だからか、春の穏やかな陽気だろうと酷く眩しく感じた。
「これが例の怪異の桜だな」
白片・湊斗(h05667)は目を細めて桜を見上げる。
否、正確に言えば別離の桜の周囲を游ぎ漂う水怪達を見ている。
いつの頃だったか、湊斗の視界を|半透明な影《水怪》が囚われたのは。
出たがりなのか研究室に根を生やしそうな宿主を連れ出したいのか――研究室から出た日は楽しげに游いでいる。
(他の生物――桜を利用するなんて、賢い真似をするものだな)
蜜を乞う蝶を誘う花の香気のように、人間の目を惹く桜を利用するのは中々合理的なのかもしれない。
(時間が来るまで情報の整理でもしていようか)
星詠みの話では別離の桜は|都市伝説《うわさ》として地元住民の間で広がりつつあるとのことだった。
しかし、湊斗が見つけたデータはどれもこれもが巧妙に《改変》されておりネットで情報を集めようとした一般人が辿り着けないように|情報操作《ハッキング》が行われている。
「これは誰かの工作だろうか。有難いことで」
しかも、ご丁寧なことに|事情を知るもの《√能力者》には、真実の情報に辿り着けるような細工がされている。
何にせよ有難いことだ。
湊斗はスマートフォンのアプリを切り替えながら情報の整理をはじめて幾分かの時間が過ぎた頃、大人しくしていたはずの水塊達が仕事の妨害をしはじめた。
海月はゆらゆらと視界の中を泳ぎ回り、小蛸はスマホを遮るように画面上に留まっている。
「ああ、邪魔だからどいてくれよ」
湊斗が水怪達に言って知らんぷり。
まるで『花見に来てまで仕事?』とでも言いたげに健気の視線を捉えては、湊斗の仕事の妨害に勤しんでいる。
「元々、仕事が先だから」
言い聞かせるように改めて言っても自分の視界を捕らえて放さない水怪達が素直に聞いてくれるわけがない。
「仕方ないな……」
短く溜息を吐くように言う。彼らが厭きるまでは休憩でもしておこう。
湊斗は鞄から缶コーヒーを取り出すと封を開けた。
「別離の桜、かぁ」
桜の老樹を見上げながら花岡・泉純(h00383)は囁くように呟いた。
地面に腰を下ろして桜の樹の幹に身体の重心を預ける。背中越しに感じるのはゴツゴツとした桜の老木の感触。不思議と嫌な気持ちなんて全くなくて、まるで大切な人に優しく抱かれているような優しい気持ちに包まれる。
背に桜を感じながら、泉純は桜色の双眸をとじて寄せるは春への追想。
(春は出逢いと別れの季節だよね)
出逢いの分だけ喜びがあって、別れの分だけ寂しさや悲しさは募る。
輪廻がめぐるように、四季がひととせをまわるように、重ねた年月の分だけ割り切れない思いが増えてゆく。
(出逢いの分だけ、別れがある。でも、別れた分だけめた出逢いがあるってわたしはそう信じてる)
思い出したのは泉純の人生の中でも大きな《別離》のひとつとなった日のこと。
あれは確か16の齢を数えた頃、√能力を目覚めさせた泉純は|わたしが生まれ育った場所《花園》を離れることになった。
まるで揺り籠のような――否、泉純にとっては心地よい"揺り籠"そのもののような生まれ故郷。
「生まれた頃からずっと一緒に居たみんなとあばいばいするなんてこと、考えたことなかったな」
あの時の《別れ》は一生忘れられない程大きな寂しさをもたらしたけれど後悔はない。
だって、別れの代わりに訪れた出逢いは素晴らしいものだったのだから。
通った高校で素敵な出逢いがあった。
泉純の歌を聴いて、受け止めてくれる誰かもいた。
大切な仲間たちとも巡り会えた。
それらの出逢いはすべて"糸"となって泉純を繋いでいる。
たくさんの"糸"に支えられるように、結ばれながら今の花岡・泉純は存在している。
勿論《花園》のみんなのことも、一瞬たりとて忘れたことはない。
だって、全部、|泉純《わたし》の大切な|思い出や絆《糸》なんだから。
「|あの時《別れの日》も、綺麗な桜が咲いていたよ」
泉純は白桜の髪を春風に游がせて別離の桜を見上げる。
――ねぇ、あなたが魅せてくれる桜も、あの日の桜のように美しいのかな。
穏やかに澄む春の空の色彩と同じ蒼穹の双眸に別離の桜をとらえてツェイ・ユン・ルシャーガ(h00224)はゆるりと微笑みを浮かべる。
「二度と相まみえぬ人、夢にまで見る再会。それが叶うというなれば、望む者を責めるなど出来ぬのう」
「そう、ですね」
ツェイに短く途切れがちに応えたスス・アクタ(h00710)の表情は黒狐の半面に守られている。
逢いたいと願う人は居るか。心の隙とも呼べる大きな物はいるか。
ああ、いるに決まっている。
|父さん母さん――兄さんや姉さん、弟《大切で愛おしい家族》たち。遠くなった幻影を追い求めるのは詮無いことと理解しながらもススは思う。
(――きっとおれも願ってしまうだろうな)
胸を焦がすほどに熱く、狂いそうになる程に切ない。
これ以上強く思い出してしまえばきっと、咽喉の奥が熱くなる。ススは開きかけた記憶の戸に無理矢理鍵をするようにひとつかぶりを振った。
見やるのは別離の桜を瞳に映す半人半妖の男だ。
「あなたに、ツェイにもいるんですか」
「何かのう」
「会いたい人」
とらえようとすれば桜の花びらの如くゆるりと解けて逃げてしまう。そんな掴み所のない男。
どうせ教えてくれないだろうけれど――そう思っていたのに、帰ってきたのは意外な言葉だった。
「そうだのう、過去など振り返らぬさと言いたい処だが……嗚呼、居るとも」
「え、ツェイにも?」
思わず驚いたような|感情《いろ》を声にのせてしまったススは慌てて誤魔化すように黒狐の面に触れて直すふりをしながら誤魔化した。
「居るさ。大勢のう……見送った|人間《ひと》ら、それから姿かたちも知らぬ父、早うに逝った母も――逢いたいと願うものは、大勢」
ゆるりと謳うように言葉を紡いだツェイは視線をススに向ける。
何もかもを見透かすような、澄んだ蒼穹色の瞳。思わず、ススはごくりと唾をのんだ。
「ふふ、躱されると思うたか、スー」
「…………」
飽くまでもこの男の姿は余裕綽々の態度。むくれる頬はどうやら隠せそうにない。
でもここまで見透かされてしまっているのなら、もうそれ以上意地を張る必要はない。
「逢えたらいいのにな。逢えたら、どんな話をしますか」
「ふふ、そうだのう。郷を去って、旅をした事。手厳しい老師に師事した事」
つらつらと思い出を並べて、一度言葉をとめたツェイ。浮かべる微笑みをより深くしてススを見る。
「――そして、愛らしい子狐を拾うた事かの」
伸ばされたツェイの手はススの頭を柔らかい耳まで撫でると、ススの狐耳がぴくっと動いた。
「撫でるのは無しって言ったでしょう」
「す、すまぬ、そう怒ってくれるな。で、ススよ。先程の問いの応えを聞いておらぬぞ」
黒狐の半面越しにもススが年相応にむくれて拗ねているのが伝わったからツェイは素直に謝罪の言葉を述べる。
「おれ……いや私はお節介で人の話を聞いてくれない半妖の事ですかね」
「はて誰の事やら――ふふ。そ奴は屹度、懲りぬであろうなあ」
口元を袖でかくしながら、ツェイは愉快そうに笑う。
そうして、出逢えるならきっと、笑ってくれる想像の想像のなかの家族の笑顔を願うだろう。
――何故だかそれが隣の笑顔と重なってススは顔を逸らした。
ふたりが現場に到着したのは日が傾いて、パステルブルーの春空にほんの少しの茜色が混じった頃だった。
既に現場にはそれなりの人数が集まっているようだが、どうやら皆|√能力者《同業者》のようで、各々が自由な過ごし方で夜を待っている。
(一般人が紛れ込む様に、とのことだったが……この様子だとひとまずは大丈夫そうだな)
アダン・ベルゼビュート(h02258)は周囲の状況をひとしきり確認してから桜の枝を見上げた。
夜の気配が忍び寄る時刻に徐々に花を開かせる桜は五分咲きといったところだろうか。
「ふむ、これが例の桜とやらか」
「ああ、そのようだな」
相棒のつぶやきに静寂・恭兵(h00274)は頷いて、同じように仄かな燐光を放つ別離の桜を見上げて想う。
(『別離の桜』か……人が好みそうな話だ)
桜はただ咲いているだけだというのに人はそれに意味をつけたがる。勝手に言葉や想いを託そうとする。
まぁ、それは|黒百合《相反の花》に言葉をのせた自分が言えた義理ではないかもしれないが。
「まだ怪異が現われるには時間があるようだな、花見を楽しむのも悪くない」
「あぁ、しばらくは花見といこう」
アダンは缶コーヒーを2本買って、うち1本を恭兵へと投げ渡した。
「此の後のことを考えれば、酒は飲まぬだろう?」
「ああ、そうだな」
アダンから受け取った缶コーヒーに口をつける。
いつもの銘柄の、いつもの缶コーヒー。慣れ親しんだ少しチープな味わいも相棒とふたりで飲めば乙なもの。
ゆっくりと雰囲気を楽しみながら飲み進める恭兵とは逆にアダンは早々と飲み終えて写真撮影をはじめていた。
「お前は律儀に白椿の為に写真を撮ってくれるな」
「ああ」
一眼レフを手に振り返り視線を寄越したアダンの灰燼の双眸にはいつもよりも柔らかな光が映っている。
依代に手習いを受けているようで、アダンは何かしらの光景に出逢う度、白椿のためシャッターを切る。
『依代ほどは上手くは撮れない』と以前ぼやきを漏らしていたが、恭兵はどの写真よりも相棒が白椿を思い撮った写真の方が美しく感じる。
きっと、彼の柔らかな光を宿す|双眸《ファインダー》がとらえる世界はうつくしいのだろう。最初妹と偽っていた《白椿》の正体を告げても変わらずにいてくれたのだから。
「兎に角、真白の椿への土産にはなろうからな。この美しき桜の光景は」
「ああ、白椿が囚われる前は毎年のように静寂の屋敷に咲く桜をみていた」
さり気なく変わった呼称に口角をゆるめながら想い馳せるのは、ふたり静かに花を愛でた何気ない日々だ。
「今となっては、夢のような時間だったな」
桜も紫陽花も向日葵も――そして、椿も。季節の花をこれからも当たり前に見て日々を綴れるものだと信じて疑わなかった頃はもう遠い。
目を細めて過去を想う恭兵。恋慕の情に疎いアダンは彼がおかれている残酷な現状と心の痛みのすべてを理解することはできないだろう。
「なあ、恭兵。いつか、そう遠くない未来には……4人で花見を楽しもうではないか」
「……そうだないつか『4人』で花見しよう」
アダンの灰燼の瞳と恭兵の青海原の瞳が交差する。
――それはあまりにも優しくて、切ない『絆』の話。
日が傾きかけた空には名残の茜色を湛えている。
「全くもう、あんなに怒らなくてもいいじゃないですか」
「まあ、霖にとっては授業参観に来られたようなもんだろうしね」
頬をぷくーと膨らませる八代・和茶(h00888)に星詠みの性格を知る千桜・コノハ(h00358)は静かに答えた。
ちょっと親戚の初仕事を応援しに行っただけのつもりだったのに何故か物凄く怒られた。
実際は恐らくただの照れ隠しなのだが、思春期とは斯くように複雑なお年頃なのである。
「ふーん、ここの桜も悪くないね。せっかくだからお花見しようか」
白昼夢でも見ているようだ――コノハは常春の双眸で別離の桜を見つめる。
夕映えに彩られた別離の桜は五分咲きといったところだろうか。
「ええ、満開にはまだ結構時間がかかりそうですからね。お花見しちゃいましょう。コノハさんは何か用意されましたか?」
「僕は手鞠寿司を作ってきたよ」
漆塗りの重箱をひらけば其処にあるのは花束と見紛うような手鞠寿司。
ころんとまるく見た目も華やかなコノハの手鞠寿司に和茶は『わぁ』と感嘆の声をあげる。
だが、今回ばかりは和茶も自信作。いつもコノハに良いように弄ばれているが料理だけは自信がある。誇らしげに風呂敷を解いて持参した重箱の蓋をあける。
「ふっふふー、ばっちり作ってきましたよ、お花見弁当!」
「和茶、すごい張り切って作ってきたじゃん」
五目稲荷にハムチーズの春巻き、チューリップ唐揚げに花蓮根。
コノハの手鞠寿司もふくめれば随分と圧巻の光景で。
「……ちょっと作りすぎましたかね?」
「いや、その……君の料理は嫌いじゃないし、まあ、お腹空いてるからこれくらいでちょうどいいよ」
恐々と訊ねる和茶に何処か言い訳をするようにコノハは応えて五目稲荷に箸をのばす。
五目稲荷の素朴な甘さを口で感じながら、視線は別離の夜桜の方へと向く。
――逢いたいと願う人を夢魅させる怪異の桜。
「和茶は逢いたい人とかいないの?」
「え、私ですか?」
コノハに急に訊ねられた和茶は何故かコノハの顔を見てしまった。
(いくら何でも目の前にいる人は……いえいえ、何でも!)
慌てて視線を逸らしたけれど見逃してくれるような相手であれば此処まで対処に悩まないのであって。
「……へぇ。寂しがり屋な君のために夢の中でも逢いに行けばいいのかな?」
「ゆ、夢の中はやめてください! 眠れなくなるので!」
ほんのりと色付く頬はきっと夕映えのせいだろう。改めて考えて、彼以外に浮かんだ姿はひとつだった。
「やっぱり姉さんかなぁ」
「ああ、君と違って優秀なお姉さんね」
そうもハッキリ言われてしまうと傷付くが事実なのでどうしようもない。
稀代の神子と謳われた和茶の姉。だが、彼女が辿った末路は――。
「そうですね、自慢の姉……でした」
それ以上の言葉は今は口にはできない。だからだろうか、家族の話を終えた和茶にコノハが一瞬見せた表情が気になったのは。
「僕も……」
一瞬言葉にしようとしてコノハは止めた。
両親のことを想い浮かべてすぐに蓋を閉じる。
今は兄さんがいてくれるから充分だ。
傾きかけた太陽は淡いパステルブルーの空に朱のグラデーションを作り出す。
やわらかな夕映えの色彩に染められた桜は夜にかけて幽玄の桜を少しずつ咲かせていこうとしているところのようだった。
「やあ」
「やっほー! こっちこっちー」
ゆるりと時計のように規則正しい歩幅を刻む書生服姿の青年――刻・懐古(h00369)を彩音・レント(h00166)は軽く手をふって出迎える。
「なんかいいね、こういうの。桜の下で待ち合わせってちょっとエモいじゃん?」
「エモ、い……ってなんだい?」
不思議そうに小さく首を傾げた懐古にレントは顎に手を当ててうーんと考え込む。
エモいはエモい。意味を改めて説明しなければならないとなると中々の難問だ。
「なんだろうな。グッとハートに来るっていうか、そう、凄く良いってことだよ」
「なるほど?」
よくわからないけれど、何とかなく理解できたような気もする。
つまり言葉にできないほど、凄く良いと思った感情をエモいと呼ぶのだろう。恐らくは。
ゆるりと頷きながら懐古は持参してきた弁当の風呂敷を解き、中身をレントに見せる。
「ではえもい桜をみながら花見団子と桜餅、一緒にどうだい?」
「え、こんなに用意してくれたんだ」
漆黒の重に美しく並べられた和菓子。試しにまるいつぶつぶとした桜色に大きな葉が巻かれた和菓子を手に取り口へと運ぶ。中にあんこが入っており甘いと思いきや仄かな塩味にレントは目を丸くした。
「ん、甘くてしょっぱい……それにこの葉っぱ食べられるんだ」
「うん。それは本物の桜の新葉を塩漬けにして作られたものだよ。確か大島桜だったかな」
「ふーん、この桜とは多分別だよね」
「ああ、この桜はソメイヨシノだろうからね。あ、でも江戸彼岸と大島桜を交配させて作られたのがソメイヨシノだからこの桜の親のようなものになるのかな」
桜餅を片手に懐古の話に耳を傾けていれば鳶色の穏やかな双眸がまっすぐレントへと向けられる。
「そういえば、レントくんは何か持ってきたのかい?」
「んー……」
此程に立派なお菓子を持ってこられてしまえば自分が持参した菓子など塵芥のようなものだろう。あまりにも差がありすぎて気後れしてしまう。
でも隠していても奇術のように突然駄菓子屋のチョコが高級ショコラティエの特製チョコレートに変わるわけではないし、観念したように袋から出したのは駄菓子のチョコセットだ。
「こんなものしかありませんが……」
「へぇ、何故傘の形なのだろう、面白いねえ」
並べた小判や金貨等の中から懐古はパラソル型のチョコレートをつまんでじっと見る。自分が知る其れとは違う可愛らしく物珍しいチョコレイトは口に運べば何処か懐かしい味がする。どうやらお気に召したようだ。
和菓子とチョコレート。桜を眺めながら想うのは桜と、そして自分達が見てきた別れのことで。
「人との出会いは桜餅みたいで関わった刻が長いほど甘くてしょっぱいなあ……」
「でも、彼らの|物語《じんせい》に関われたことはうれしく思うよ」
「うん、僕も同じかな。それは」
長寿ゆえ重ねた時の分だけ出逢い、これからも重ねる日々の分だけ別離を繰り返す。
でも、どれだけ別れをかさねても彼らの人生に惹かれ、恋しく想うのはきっと変わらないだろう。
助手達を引き連れて別離の桜のもとへと訪れた鴛海・ラズリ(h00299)は、お気に入りのネモフィラ柄のピクニックシートを地面へと広げた。
未だ怪異が現われるであろう時間まで余裕があるからそれまではのんびりと過ごそうと想っていたのだけれど――。
ふわりと桜の花びらが白ポメラニアンの『白玉』の鼻先を通り抜けて、三角の耳がぴこっと跳ねる。
逃げる者を追うのが忠実なご主人の猟犬たるポメラニアンのつとめ。
「|わん! わわわわん!!《とりあえず突撃だー!》」
斯くして|ご主人《ラズリ》の制止も聞かずに白玉はポメアタックを見事披露してみせたのだ。
花は咲き満開の盛りを過ぎれば命を散らすのみ。
廻る四季とともに幾度も花を咲かせては別離を見守る果てに待つのは朽ち果てる宿命。生物の終わりを迎えれば残ることすら許されない。
(加えて怪異の餌食じゃ散々じゃねえか)
夜縹・雨菟(h04441)は少し不機嫌そうな眼で僅かな生を咲かせて命を散らすかのような桜の老樹を見遣っていた時に、何かが勢いよく足元にぶつかってきた。
「……あ? なんだ、こいつ」
「わん!」
雨菟の足にぶつかってきた謎の白い毛玉を猫の頸を掴むが如く持ち上げて雨菟は持ち上げた白い物体を凝視し考える。
「……犬、か?」
わたあめのような外見に、よくみれば夜空色の瞳と何が楽しいのか解らないがハッハッハと荒い息を漏らしながら全力で笑顔のような何かを浮かべている。
興奮したようにパタパタと手足をばたつかせて、尻尾もはちきれんばかりにぶんぶんと振っている。本当に何が楽しいのか理解に苦しむ。
「す、すいません……! 大丈夫ですか?」
「……兎、お前んとこの犬っころか。毛玉すぎて痛くもなんともねーよ」
やや遅れてきた犬の飼い主らしき少女に投げ渡そうとしたら何故か犬は雨菟の尻尾にしがみついた。
なんとか引きはがそうと尻尾を振ってみるが離れない。
「……兎、こいつ取ってくれ」
「気に入ったの? だめよ。ごめんなさい、白くてふわふわだから、お兄さんのこと仲間だと思ったのかも」
ラズリは白玉抱き留めて引きはがす。しかし、白玉は不満なようなのか身をよじらせて逃げようとしたり手足をばたつかせたりと無駄に足掻いている。
追いかけてきた白黒兎達がダンっと足を踏鳴らしてようやく大人しくしたようで一安心。
そんな白玉と格闘する腕に|針山《ピンクッション》のリストバンドがつけられていることに雨菟は気付いた。
「……お前、もしかして何か創れんのか?」
「ええ、駆け出しですが仕立て屋をしております」
「へェ、仕立て屋。そりゃ頼もしい」
ラズリの言葉に雨菟は愉快げに口角を上げて手渡すのは手書きのチラシ。
書かれた住所はおそらく街外れ。取り扱うのは手作りの品や委託物が中心のようだ。
「雑貨屋さん……! 素敵なの……!」
「ま、此処で会ったのも何かの縁だろ、機会ありゃご贔屓に」
ひとしきり見終えたあと、ラズリはチラシは大切に折りたたみ鞄に仕舞った。
(桜が別離の前に出逢いを運んできてくれたのね)
別れがあるからこそまた出逢いもある。廻る星が地に隠れても新たに昇る星もあるし、いずれは必ずふたたび必ず逢える。
そうは理解していても、やはり最期はつらくなるもの。
新たな出逢いに感謝しながらも、ラズリは命の欠片が零れるみたいにひらり舞う薄紅を忘れないように瞳に灼きつけた。
何も羽織らないのは肌寒くて、上着をきるには少し暑い。今日みたいな春の日には緋色のストールがちょうどいい。
先日|異世界《√ドラゴンファンタジー》で購入した柘榴のような鮮やかな緋色のストールは思いの外早く活躍の機会を与えられたようだ。
腕にはコンビニの小さな手提げのビニール袋。中身は定番の梅おにぎりに期間限定の海苔塩とり天むすび。飲み物には新発売らしいペットボトルの緑茶を選んだけれど、パッケージは可愛らしいものの中が何が違うのかはよくわからない。
でも同じく新発売と銘打たれたさくらの形をした薄皮饅頭は見た目も華やかで可愛らしく美味しそうだ。
人よりもずっとと長い年月を重ねてきた白・琥珀(h00174)にとっては毎週何かしらの新商品が並ぶコンビニは目新しくめまぐるしい。
コンビニで買った海苔塩とり天むすびを頬張りながら琥珀は別離の桜を見上げる。
もう存在をするのがやっとのようなか弱さを感じさせる老木。命のきらめきを最期にかがやかせるように咲き誇る花々の数は少ない。
コンビニで買ったおにぎりや薄皮饅頭を食べ終えてから、しっかり『いったん捨てに外にでようか』と考えたけれどやはりやめて一旦ゴミを自分の鞄にいれた。
「若い桜が華々しく咲くのも良いが、老木が咲かせる小手毬のような花々も乙なもので見応えがあるな」
だがしかし、少し春風がふけばこでまりのように纏めて咲いた桜はいつも容易く散らされてしまうのではないかとひとり考えふけた琥珀はそのまま桜のもとに歩み寄って樹皮に軽く触れた。
(やはり、しっかりとした手触りがあるな。年月を重ねてきた老木の皮は人の老婆のようにごつごつしていて、暖かみのあるように感じるな)
若い桜は光沢のあるつるりとした手触りをしている。
それだけ長い間人々に愛され親しまれてきた桜が開発で切り倒されてしまうのは非常に残念なことだと思う。
だが、ずっと人々を見守ってきた桜にとって被害者を生み続ける現状は不本意に違いないはずだ。
だからこそ、桜やそれを愛した人々の為にも闘わなければならない。
琥珀は惜しむように最期となる桜をしばし愛で、瞳をそっと閉じた。
ソメイヨシノの寿命は約60年だと云う。
今や桜の代表品種と云っても過言ではないソメイヨシノは大島桜と江戸彼岸を掛け合わせて江戸時代後期に生まれたという比較的新しい品種だ。
美しく凛とした花付きの代わりに寿命を代償とするように平均の500年以上の年を重ねることができる江戸彼岸よりも圧倒的な短命だ。
「嗚呼、愛されておるのう……」
それでも、この桜は地元住民の端正な手入れもあり、100に届きそうな程に生きている。
だけれど、生きとし生ける者はやがて訪れる時の流れからは逃れえぬさだめ。
それでも、命の終わり最期まで花を開かせようとする姿は美しくいじらしかった。
この花が咲く頃は、出逢いと別れの季節。この言葉を覚えたのも、この桜が此処に存在するよりも昔の話だ。
恋し想いは唯のガラスペンに過ぎぬ存在だった玉梓・言葉(h03308)の自我を目覚めさせた。
ガラスペンであった頃は、その身に洋墨を纏い桜を詠む言葉を綴った。美しい筆運びで感じた桜。桜の下で見た実際の桜。
ただの道具でしかなかた自分でも美しいと感じたから、今は亡き主は筆にのせなかった――否、乗せきれなかった想いはどのようなものだったのだろう。
(今は亡き主が愛した花が、儂はいっとう好きじゃ)
ひらりひらりと舞い踊る花弁をちらりと見ていれば、普段よりも大人しい【彼ノ人】が纏わりついてきた。
「お主も好きであったな」
言葉が浮かべた笑みはとても穏やかで慈しむような優しいものだった。想いを馳せたのは女の幼き頃。
付喪神として幾多の刻を重ねてきた言葉は主を変えてきた言葉は、重ねた刻の数だけ数多の物語をその筆で綴ってきた。
それは決して幸せな結末ではない。むしろ、救いようのない悲惨な末路だったことも数あった。
その筆頭であったのがこの最後の主だろう――恋に狂い人を呪い身を滅ぼした、そんな物語を抱えた存在。
せめて静謐なる祈りで一時的にでも呪いが収まるように願い、未だ悲しみを知ることもなかった幼い主の姿と手を繋ぎ、暫し涙雨のように降りしきる桜を眺めていた。
ひらりはらりと降りしきる桜は置いて逝かれる者の涙に何処か似ている。
深紅の双眸を細めて桜の老樹を見上げるアダルヘルム・エーレンライヒ(h05820)の口には言葉はなく、語る相手もいない。
花見に興じる周囲達の喧噪は何処か遠くに聞こえる。
不思議と誰かを誘う気にはならなかった。否、なれなかったのだろうか。
幾多の出逢いを眺め、数多の別離を見送った桜の老樹――まるで、未来の自分の姿を見ているかのようだった。
「ん……」
ふきつける春風に揺らぐ黒髪をかきあげて、触れる耳は尖っている。
その耳こそが、アダルヘルムが|人とは違う時間を生きる者《エルフ》の証。
今は充実している日々を送れている。
友人に囲まれ過ごす騒がしくも暖かく楽しい日々を過ごせていても生命には必ず終焉がある。
いつかは終焉を見届け、見送る側となる。
そして、最後は独りになる――この老樹と同じように。
アダルヘルムは瞳を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは今まで出逢い、別れてきた人々だ。
幾多の出逢いがあって、いくつかの別離があった。
時を幾とせも重ねれば、きっと更なる別離の苦しみが胸を裂くのだろう。
√能力者は病気や老衰で死なない。そうでなくても悠久の刻を生きるエルフだ。
見送る立場に飽いても、きっとこの桜のような最期を迎えられる日は来ない。
では、その果てはと思考を巡らせる。
喩えば、肉体の老いよりも心の限界に達した時――生きる理由も忘れて、悠久の時を彷徨い果てるだけの亡霊となってしまうのだろうか。
かつては騎士団員の一員として数多くの死を見てきた。
いつも雄々しく誰よりも勇敢だった男は死の間際に泣きながら死にたくないと懇願をしていた。
いつも冷静に物事を判断し冷血漢と称されていた男は死の間際にはひたすらに家族の心配をしていた。
彼らからすれば自分は羨ましいのかもしれないだろう。だが、アダルヘルムはどうしてもそうとは思えない。
親しい者は死ぬ。死なぬとしても記憶喪失になった親友や消息不明の彼の妹のように、大切な存在は指の間からすり抜けてゆくのだ。
ならば、大切や特別な存在など一切作らなければ胸が引き裂かれるような痛みを感じずに済むのに――どうして、希ってしまうのか。
「お花見するわよ!」
慎重さを欠いたような直情的な妹リュドミーラ・ドラグノフ(h02800)に無理矢理引っ張り出されるような形でルスラン・ドラグノフ(h05808)は直射日光のもとへと出たのだけれど。
「うわっ外が明るすぎる! あと紫外線が痛い! ……気がする」
吸血鬼に太陽は大敵だというのは物語の鉄板だろう。
何を考えて吸血鬼を直射日光に曝しているのだと妹を青石英色の瞳でじとりと眺めるけれど、彼女とは双子の兄妹なわけで吸血鬼なのは変わらなかった。そういえば。
何にせよ夜を生きるルスランには太陽はあまりにも眩しすぎる。顔をしかめてフードを深く被りマスクを装着するとリュドミーラが柘榴石の瞳でじーっと見つめてくる。
「兄さま! なんで仮装しているの?」
「は? 仮装じゃないぞ。紫外線と……あと花粉対策なんだよ」
別に花粉症ではないのだが。適当な言葉で言い繕って妹の気を逸らそうとしたけれど、こういう時に限ってリュドミーラの手綱はうまく握れない。
否、今まで一度でも妹を制御できたことがあっただろうか――いや、ない。即答だ。
「そういうパーティーじゃないんだから取りなさいな!」
「やめろー取るなー! 太陽に溶かされるー!」
一応抵抗のポーズはとってはみる。
まぁ、為す術もなく剥ぎ取られ夜型吸血鬼には厳しい直射日光のもとでお花見に強制参加させられることとなったのだった。
「さぁ、あたしが描いたみんな! 手伝って! 任務だからね、警戒も怠らないわよ!」
リュドミーラは西洋の怪物の群れを呼び出す。
一ツ目の蝙蝠は警戒に、ア・バオア・クーは場所取りに、ちっちゃいドラゴンは抱き枕。
「よし完璧ね!」
「……蝙蝠以外任務に関係なくないか?」
一応ルスランはツッコんでみたものの聞くような妹であれば此処に連れてこられていない。
リュドミーラは鞄から飲み物や紙コップをやたら手際よく出していく。
「お花見といえばジンジャーエールよ! 兄様ほらほら、コップもちゃんと用意したから持って!」
ほぼ強制的に紙コップを握らされるとリュドミーラは得意げに紙コップにジンジャーエールを注ぐ。
「ではかんぱーい!」
「はいはい乾杯乾杯」
リュドミーラのペースで始まったお花見の展開もリュドミーラのリードのままだ。
「かっらーい?! 何これ?辛すぎだわ!」
「……は? お前なんでジンジャーエールにしたの?」
飲めると思ったからジンジャーエールにしたのではないのか。思わず呟くがリュドミーラの話題の切り替わりの方が早く、ツッコミが追いつかない。
リュドミーラはずずずいとジンジャーエールが入った紙コップをルスランの方へと差し出した。
「残りは兄さまにあげるわね! あたしは口直しにトマトジュースをいただくわ!」
「まぁ……それはいいけど、お前なんでこんなにテンション高いんだ。このままだと夜までにバテてしまう気がするぞ」
「大丈夫! あたしは元気いっぱいだからまだまだいけるわよ!」
「いや、僕がだよ!」
今度のツッコミはなんとか間に合って一安心。
騒々しくも楽しい兄弟の花見は続いていく。
美しい色を湛えた桜の根元には何が埋まっているのだろうか。
まぁ、いいか。どうせ厄介なものに決まっているのだから。
ああ、なんてままならないのだろう。
春風の中で桜の花びらを纏い佇む君は目から灼きついて離れないほどに美しいのに、決して手が届かない。
いや、手が届かないからこそか。幼い頃に焦がれ手をのばした冬の星座のように、手の届かないものは美しくて心を掴んで離さない。
「寒くないか?」
「ありがとう、平気。春って感じで、あったかいもの」
「……そうか」
白浜・轟(h04264)が問いかければ、鈴を転がすように透明で柔らかな声で終日・めづる(h04266)が返す。
短く言葉を交わし合てから、少しだけ歩く。言葉はないけれど、決して気まずいわけでもない。
決して短くない時をふたりで過ごしてきたからこそ出来た“距離感”だ。
「このあたりに、しようか」
「ああ」
めづるの言葉に轟は短く頷いて小さなピクニックシートを草原に敷くと二人並んで腰掛ける。
広げたお弁当はめづるの手製の弁当。彼が大好きなものつくると喜んでもらえるから、今朝は少し早めに起きて頑張った。
轟が箸を伸ばすのをめづるは少し緊張をしながらみていた。まずは卵焼き。素朴な卵の味わいの中に、ふくよかな磯の風味が口いっぱいに広がる。
「……うまいな」
「おいしい? ……よかった。今日の玉子焼きは、あおさを入れたの」
「ああ、なるほど。うん、すごくうまい」
塩からあげに、あおさの卵焼き。
タンブラーにいれてきたほうれん草と卵のスープには仄かな生姜の風味が効いていて心身を優しく暖めてくれる。
甘辛いおかかと香ばしいゴマが入ったおにぎりは実はひとくちサイズではなかったのだけれど、轟がつまむと可愛らしいひとくちおにぎりのように見えてしまうから不思議なものだ。
でも、おいしそうに食べてもらえるのはめづるとしても嬉しい。ひとしきり、轟との食事を楽しんでからめづるは桃色の双眸を別離の桜へと向ける。
「桜がとっても綺麗。もうすぐ切り倒されちゃうのは、さみしいね」
こんなにも綺麗なのにね。めづるはひらひらと舞い踊る桜の花びらを手にうけようとかざす。
ともすれば花嵐に拐かされてしまいそうな程儚く美しい姿に恋心がまたも燻り心に火傷跡をつくる。
轟は彼女に『再開発の関係でもうすぐ切り倒されてしまう桜がある』としか離していなかった。
恐ろしい噂のことも、この後の仕事のことも、何も彼女には知らせていないから彼女は何も知らない。知らなくていい。
願わくは、いつだって悪い出来事すべてを自分のせいだと罰する彼女が少しでも心から笑えるように。
今はただ、純粋に花見を楽しんでくれればそれでいい。
「ゴウくん、雨、ふらなかったね」
「言っただろ、今日は晴れるって。……だから、オレの勝ち」
「負けちゃった……あ、ゴウくん、ちょっと動かないでね」
めづるに急にそのようなことを言われて轟は不思議そうな表情を浮かべながらも素直に従う。
立ち上がっためづるは彼の白色の髪についた花びらを取る。
「雨は降らなかったけれど、桜の花びらの雨は降ったみたい。ふふ、桜のピンク色、ゴウくんに似合うね」
「こういうのはめづるのほうが似合うだろ」
「そうかな」
めづるは少し曖昧に笑ってみせた。
(本当は、きっと私だけじゃなくて、家族皆で来られたらゴウくんはもっと楽しかっただろうな)
なんて思う気持ちは心にしまって、めづるは桜の花びらをそっと手のうちに包み込んだ。
追いかけた先の春が魅せる光景は柔らかな桜色に透き通るような空の色。
(桜の淡い色合いってかわいいですよね)
桜の老樹のまわりをゆっくりとした歩調でまわって廻里・りり(h01760)は|視界《ファインダー》いっぱいにやきつけるように見てまわる。
角度を変えることで見える世界の僅かな違いがりりの心を和ませて、どの光景だって逃がしたくはない。
昔も今も毎日のようにお散歩や写真撮影に繰り出しては、昼夜関係なくその優しく淡い色彩を楽しんできた。
桜はりりにとっても思い入れのある花だった。
(この桜を、みんなが見たらどう感じるのかな)
思い出すのはほんの少しだけ昔の、具体的に言えば数年くらい前のこと。
未だ両親があの街にいた頃は桜の蕾が綻ぶ頃からいつお花見に行こうかとそわそわと心を躍らせて、花が開けばお気に入りのピクニックバスケットにサンドイッチを詰め込んだ。
用意するのはいつも4人分。両親と自分とそれからベルちゃんの分。
みんなが好きなものはちょこっとずつ違う。だから、りりは毎回みんなの反応を見ながらちょっとずつ味を変えていった。
桜にも負けないくらい満開に咲いた笑顔が嬉しかったことをよく覚えている。
(……今は、世界のどの辺にいるんでしょう)
旅先の両親からは定期的に写真入りの手紙が届いている。
でも、もう此処を離れるからという内容が書いてあることも多いから、返事を出せたとしてもりりの伝えたいことの100分の1だって伝えきれていない。
「今年こそ、帰ってくるかな?」
桜を見上げながらぽつりとひとこと漏らす。
もっと、話したいことがある。
頑張ってひとりで旅に出たよって、ベルちゃんとお菓子を作ったし、森で迷子になりそうだった時は青い花が道を照らしてくれた。
(あ、そうだ……!)
りりは鞄をこそこそと探って、取り出したのは愛用のフィルムカメラ。
慎重に構図を決めてからシャッターを切る。
中々逢えない大切な人達への新たなお土産話は、たくさんの人の出逢いと別れを見守ってきたやさしい桜を見てきたお話。
そうして|思い出《アルバム》をいっぱいに広げて、沢山のお土産話をしよう。
りりの|視界《ファインダー》に映した、沢山の愛しい|写真《せかい》のことを。
第2章 集団戦 『被害者』

日が沈めば仇華は花開き、怪異へと成り果てる。
仄かな光を放ち濃紺色の夜空に映える幽玄の花は美しく見えるかもしれない。
だが、あれは命を吸い美しく色付いた妖花なのだ。
別離の夜櫻が放つ燐光に誘われる羽虫のように集う亡霊達が|√能力者《きみ達》を泥のような双眸で恨めしげに睨んだ。
せっかくあえたのに、どうして邪魔をするの?
壊そうとするのは敵。
守らなくちゃ――私達の、夢を。
別離の夜櫻は血を吸って色付いて命によって輝く。
氷薙月・静琉(h04167)は濃紺の夜空にはらはらと舞い散る桜を掌に受け止めようとするが、ひらりと逃げてしまう。
――思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを。
かすれて色褪せた記憶の中でも色づき残る詠が脳裏に過ぎる。
あれを詠われたのは幾年前になるだろうか。正確な年月は朧に隠れて思い出せずとも詠うあの聲だけは憶えている。
かつては夢の中の存在として『詠わせた側』の存在であった。
しかし、今こうして|現世《うつしよ》に居る意味は未だ納得できる答えを出せてはいない。
だけれど、今はこの詠の意味がよく理解できてしまう。
喩えるならば絶望。
泥沼をもがく様な終わりの無い闇。
報われはしないと自覚をしているというのに、それでも想うことはやめられない。
行きすぎた思いは容易に善悪の境界を跨ぐ。
斯くように穢れきった感情に名前をつけるならば、執着であろうか。
《|虚構《うそ》の世界》というまやかしの蜘蛛の糸でも垂らされればきっとそれを掴んでしまう。
(……ああ、俺もだ)
亡者達の痛哭の嘆きを耳で受け止めながら静流は心の中で頷いた。
夢でも良いから逢いたい。もう一度、声が聞きたい。
触れられなくてもいい、せめて、夢で相見えたら――その慟哭は静流にもよく理解ができる。
優しい夢路の果てで相見えられるのであれば、其れを壊す道理など持ち合わせていない
「だが、これ以上……同じ存在を増やすわけにはいかないんだ」
叫びも痛みも彼らの生の証左。送る側としてはせめて受け止めてやりたい。
夜の闇に静流は紛れながら亡者の死角へとまわりこむ。
ただ嘆き桜を護ろうとする彼らは元は徒人に過ぎぬ存在。あっけない程に消えてゆく。
「せめて、彼岸の世があるのだとしたら、そこで逢えるといいな」
優しい彼の人もよく祈っていた。自分の祈りは叶わぬのだろうが静流はそっと双眸をとじた。
「……どうか、安らかに」
亡霊たちは霧散して夜にとけるように消えてゆく姿を想いながら、祈りを捧げた。
春宵の濃藍に幽玄櫻が血により妖しく色づいて、咲き映える薄桃の花は命をもって仄かに燐光を放ち輝く。
集う亡霊は口々に『逢いたい』『私達の夢を壊さないで』と慟哭の嘆きを口走り破壊しようと武器を構えた√能力者達に怨嗟の念を向けている。
いくら泥のような怨恨の眼差しを向けられようと、哀哭の絶叫をぶつけられようと覇王たるアダンがなすべきことに迷いはない。
「 ……恭兵、そろそろ一服は終わるか?」
アダン・ベルゼビュート(h02258)はかたわらで紫煙をくゆらせる相棒に声をかける。
相棒の宵闇色のロングコートが春風に翻る。首からぶら下げた数珠が静寂・恭兵(h00274)の動きにあわせてじゃらりと音が鳴った。
「ああ」
相棒に軽く返事をしてからから恭兵は改めて青藍の双眸で櫻を見やる。
別離の桜ははらりはらりと零れるように夜の闇を彩っていた。
「なぁ、恭兵よ。お前の目に、この櫻はどう映る」
「どういう意図だ?」
アダンの急な問いに恭兵は瞳に少し不思議そうな色彩を混ぜた。
素直な感想を求めているのだろうが、それにしても急な問いは些か不自然にも感じる。
「俺様はどうしてもあれに美しさを感じられぬ。恭兵の目には、此の妖花は美しく映るのか。如何様に見えるのか聞いてみたかった」
「そうだな……美しいと思わざるを得ないだろうな。だが――」
恭兵は相棒の瞳を柔らかな色彩を混ぜて見やる。
「そう感じるのも、またアダンの好ましいところだと思う。アダンはあの桜の奥に命を視ているのだろう」
その感覚はとても好ましいものだと思う。恭兵は視線にその想いを混ぜてから改めて亡霊達を見やった。
「さて、終わらせてやろう」
煙草の紫煙を全身に纏わせて身を構えた恭兵は気配のひとつも感じさせずに宝刀を引き抜く。
スッと敵の眼前まで肉薄し静寂のままに切り伏せる。そのまま纏う紫煙で夜闇に紛れる。
眼前まで迫っていたはずの恭兵を見失った亡霊は動揺した様子で必死に彼の気配を追わんとする。
「何処を見ている、亡霊どもよ! 貴様達の相手は覇王たる俺様だ!」
随分と大仰に殺気を露わにして立ち回る姿は|物語の悪役《ヴィラン》。
魔焔の宴の中で大仰に立ち振る舞い敵の注意をひけば、目論み通りアダンに向けて『来るな!』という叫びが向けられる。
続けて他の亡霊達が次々と怨念により飛ばす危険物をアダンに向けて飛ばそうとするが――アダンは不敵な笑みを浮かべていた。
「――この勝負、俺様達がいただいた」
亡霊達の背後に、相棒の気配を感じたから。隠密状態の彼の存在は見えぬが何となく『解る』のだ。
アダンの読み通りのタイミングで恭兵は亡霊達を次々と切り伏せていった。
「アダン」
「なんだ、相棒」
「燃やしてやってくれ」
恭兵の短い言葉でアダンは彼の意図を察した。消え逝く彼らに手向けるように魔焔を放つ。
火葬。それは追善の儀式。
物語の結末だけでも多少の救いがあってもいいだろう。
「――せめて、迷わず逝けるように」
アダンは立ち昇る煙りを灰燼の双眸でおさめて、そっと目を細めた。
夜半の煙。せめて月に届き彼岸で愛おしいものと再び出逢えるよう、祈ることくらいは赦されるだろうか。
濃紺の夜空に咲き映える幽玄の桜は其処にあるだけであれば純粋に美しいと感じただろう。
だが、その根元に悍ましく蠢く無数の亡霊達に八代・和茶(h00888)の顔色が変わった。
「な、何て数の霊なんですか……!」
「おやまあ随分とぞろぞろ出てきたね」
色素の薄いかんばせに焦りの色をうかべせる和茶と対照的に千桜・コノハ(h00358)は涼しげな様子で亡霊達を見やる。
「コノハさん、私これ程までに沢山の方が犠牲になってたなんて思ってなくて……」
「犠牲ね……本人達は犠牲になったなんて感じてすらいないんじゃないかな」
本人達は随分とこの桜を信奉し依存している様子に見受けられた。
己がこの桜の贄となっていることも気付かないのであろう。その愚鈍さは幸福か不幸かはわからないけれど。
「それほどまでに魅力的な誘いだったんだろうけど、そんな簡単に都合の良い夢に囚われちゃうなんてさ。人間って弱いね~」
コノハの冷笑には若干の自嘲の色彩が秘められている。気付かないふりをして身の丈ほどある大太刀の墨染の刃を抜いて炎を纏わせる。
一方の和茶は己が目の前にある無数の亡霊達に気を取られてコノハの様子になど気付く良しもなかった。
「ど、どうしよう……私こんなに多くの霊は相手にしたことなくて」
「どうしようもこうしようも、僕らがすることはひとつでしょ」
コノハの冷静な言葉は和茶の焦燥を醒ましてゆく。
いくら焦ろうと嘆こうと現実は変わらない。喪われた命は戻らない。ならば。
和茶の木製の指輪――《鳴弦》藤花仙に触れる指が緊張の色を宿らせる。
「やるしかない、ですよね」
「ふふ、箱入りお嬢様の初陣かな?」
「え、援護しますから前衛はお願いできますか……?」
前を見据えながらも和茶の声は震えている。
「不安そうだね、でも君は一人じゃないでしょ」
「……分かりました。コノハさんを、信じます」
和茶を守るように前に立つコノハの背を眺めれば自然と勇気が沸いた。
右目を隠して藤の八代の血脈に受け継がれる天啓眼にて"視る"。
「……ああ、……見えました。――隙だらけですよ。|あの人達《亡霊》」
「そうか。元は一般人だというからね」
夢に溺れる彼らは徒人だ。なれば、苦しめずに逝かせてやるのがせめてもの救いというもの。
「このまま囚われてたら逢いたい人にも逢えない――だから、終わりにしましょう。道案内は、私達が務めますので」
「どんな夢でも終わりがあるものだし、そろそろ目を覚ましてもらおうか」
別離の桜が舞う中に、コノハの桜の花片――否、浄化の炎が混じる。
「そこです!」
墨染めの刃を握るコノハを、導くのは和茶の凛とした聲。
迷いなく一気に亡霊達の中心に舞い出でたコノハは墨染の刀を周囲に弧を描くように振るい、桜の森の修羅の如き一撃は亡霊達を霧散させる。
まるで夢のように消えてゆく亡霊達を見送りながら、和茶は祈るように手をあわせて赤椿色の双眸を閉じた。
「――どうか安らかに。あなた達が逢いたい人に、逢えますように」
和茶の静かな祈りは夜桜の花片とともに夜空に解けていった。
頬を撫でる春風はやがて冷たさと不穏な気配へと変わる。
怪異の桜が魅せるもうひとつの"表情"を敏感に感じ取ったアドリアン・ラモート(h02500)はゆるりと深紅の双眸を開いた。
「ふぁーあ、やっとお仕事の時間かな?」
大きなあくびを隠そうともせずに堂々と背を伸ばす。
睡眠が一番心地が良い。恐らくその次は気持ちよく睡眠を貪った後に思いっきり背を伸ばすこの瞬間が好きなのかもしれない。
思う存分夢の名残を楽しんだアドリアンは、広げていたレジャーシートやブランケットをやけに手慣れた手付きで手早く畳む。
周囲の人間が気付いた瞬間には既に其処に昼寝用道具の跡形もない。
先程まであった枕類は何処に仕舞われたかは謎だが、きっと昼寝の極意に至ったものだけが身につけられる究極の収納術なのだろう。
「命を吸ってるだけあって綺麗に咲いてるねぇ」
寝具を畳み終えたアドリアンは怪異の桜が見事に色付き花開いているのをまるで観光客のようにスマホで写真を撮った。
あらかた写真を撮り終えたら、スマホを仕舞い影から創造した|魂を刈り取る大鎌《Noirgeist》へと持つものを変える。
アドリアンの意思のまま手に馴染む大鎌に刈り取る者を灼き尽くす程に鋭く強い灼熱の炎を滾らせる。
「さてと、おふざけはほどほどにして、哀れな亡霊たちをここから解き放ってあげるとしようか」
夜闇にとけるように静寂で気配も感じさせぬ踏み込み。
亡霊達の眼前へと飛び出したアドリアンは灼熱の炎を纏った漆黒の大鎌で亡霊達をなぎ払う。
「日本は土葬文化じゃなくて火葬文化だからね、燃やし尽くしてあげる!」
多少は亡霊を憐れだと思う気持ちはある。だが、憐れに思ったとて彼らが真の意味で救われることはない。
ならば、自分が出来ることは――終わらせることだけだ。
「君たちの仇は取るから、安らかに眠ってね」
アドリアンが彼らに手向けた言葉には哀悼の念がこめられていた。
√能力者は誰しも必ず欠落を抱えているものである。
大切な人や、思い出という存在から肢体の欠損等の見た目で解るもの。はたまた感情などという曖昧な定義によるものだったりする。
星越・イサ (h06387)の抱える欠落は恐らく他人に伝えにくい類のものである。
その欠落を埋めるために、イサが縋るのは《混沌》であった。
または、変化。
あるいは、無秩序。
もしくは、不確定。
ないしは、不調和。
それとも、偶然や解放といったものであろうか。
思考をぐるぐるとかき混ぜる。理解不能で、表現不能で、予測不能なものに満ちている。
「現実は過去と未来の間に一瞬浮かび、再び時空の波涛に飲まれて消える泡なんですよね……」
ぐるぐるとかき回して導き出した答えを誰かに共有しようとしても、知った人達はなんだか不安になるらしい。
自分にとっての《安心》は、人を。人の安心は自分には理解できない。
その感じ方の違いはまるで世界の見え方に色眼鏡のレンズを一枚通したような見え方の違いにも似ていて。
感じとれることも聞こえるものもすべてはあべこべ。
だからこそだろうか。イサは顔をあげて別離の夜櫻を見やる。
あれは命を吸って色付く悍ましいモノ。だけれど、同時に零れるように散る桜のはなびらを手で受け止めて想う。
――『桜は散りゆくからこそ美しい』。
出逢いの祝福を祝うように、別離を惜別する涙のように散りゆく姿が美しい。
そう思える感覚はイサが他人と共有できる数少なく共通点でもあった。
だからこそ、桜は不変であってはいけないし桜に集うものも流れゆかなければならない。
「かつて桜を見た皆さん。 死してなお滞留するのはいけません。 それは大河に巨石を投じ、流れを乱し、澱みを作る行いです」
呼びかけながらイサは呼び声で彼らに語りかける。
「守らなければいけなくなったものは、もう夢ではないです、よ」
消失の今の際まで恋しく想う者への感情を叫びを感じながら、イサは亡霊達の逝く末を観測していた。
怪異の桜は美しく花開き見るものを魅了する。
だが、夜桜の根元で醜く蠢く亡霊達の怨嗟の聲は留まることなく白・琥珀(h00174) 達に向けて呪詛の言葉を吐くように低く繰り返されている。
―― 守らなくちゃ……私達の、夢を。
「わかってるんじゃねぇか。所詮は夢でしかないって事を」
しがみつくような亡霊達の言葉を琥珀はばっさりと切り捨てた。
人とは違う時間をまさに悠久という言葉が似つかわしい程長く生きる琥珀にとっては馴染みのないものだ。
(―― それでもそれにしがみつきたくなるほどのものなんだろうなぁ)
彼らの生前を知らなければ、逢いたい人も知らない。
どのような夢を見ていたのかも解らなければ、なぜ其処まで必死になるのかもわからない。
来るな。近付くなと嗟怨の聲をやませることのない亡霊達が他の能力者に気を取られている。
そのうちに、琥珀はやや小柄気味の体躯を活かし戦場を潜り抜けて亡者の背後を取った。
「『来るな』というのならこちらに来てもらおうか」
月をその身に降ろした琥珀は月神の力を宿した|須佐《刀剣型退魔道具》を亡霊のうち1体に向けて放ち己のもとに引き寄せる。
琥珀に背後を取られたままの形でそのまま引き寄せられた亡者は必死の抵抗を見せるが為す術もないようだった。
他の亡者が放つ金縛りも亡者で視界を遮ってしまえば怖くはない。
「なに、背を向けたままだからいくらでも叫んでも構わんぞ」
来るなといくら叫ぼうとも視界にさえ入らなければ動きを縛られることはない。
――まぁ、その聲をかき鳴らす首も言葉を発する前に切り落としてしまうけれど。
「こういう事をしてる俺はとても非道に見えるのだろうな」
零れ落ちたのは自嘲の笑みか怜悧な言葉か。
儚い夢にしがみつくのは亡者の特権であろうけれど。
(――でも生者にまで強いるのはいただけないな)
もう逢えぬ人という"過去"にしがみつき"未来"を棄てた者達が、これからも"未来"を歩む生者達の道を阻むことは決して許してはならない。
月白彩の装束が夜空舞う桜の花びらとともに夜風に踊った。
夢は夢のまま。逢えぬ現実はなにひとつとて変わらない。
亡霊達の怨嗟の聲を耳で受け止めながら、兎沢・深琴(h00008)は薔薇色の双眸でしっかりと亡霊達を見つめた。
「貴方達の事は責められない、それだけ想いが強かったのでしょうね――でもね」
握る深琴の手に力が籠もる。
想うことがないと言えば嘘になる。憐れな|亡霊《彼ら》には憐憫と同情の念を感じることは否定しない。
「このまま立ち塞がるなら抵抗させてもらう事になる――お願い、星」
《ああ、勿論さ。深琴。さて、僕は何をすればいいのかな》
深琴の呼びかけに夜空の色彩を持つ猫が姿を現す。
少年のような声で答えれば、軽やかに春夜の草原に着地をすれば手足から星のような燦めきを溢す。
「星、前衛をお願いできる? 援護をするわ」
《我が愛しき赤薔薇の仰せのままに》
言うが刹那、星の深淵は漆黒の爪を亡霊達へと突き立てる。
一体、また一体と狩りとる護霊に亡霊達が若干の動揺を見せる亡霊達のうち、一体が怨念を込めたポルターガイスト現象で工事用ブロックを星に飛ばそうとするのを深琴は察知し流星の弧を描くナイフで亡霊を仕留めた。
「悪いけれど、あなた達を倒さなければいけないの――道を開けてもらうわ」
恨みの籠もった目でみつめられても立ち止まることなどできない。
彼らの気持ちは深琴にだって痛い程に理解できる。
だが、深琴には大切であった姉から託された幼い姪がいるのだから――過去に縋るよりも現在と未来を視ていかなければならないのだ。
これから未来を生きてゆく姪のためにも、彼女を脅かす可能性があるものはひとつとて見過ごすわけにはいかない。
ひたすらに戦いつづけてゆく中で、亡霊達は確実に数を減らしていっていった。
怨嗟の眼差しを浮かべたままの亡霊をひとり、またひとりと消えて逝くのを深琴は眺めていた。
逢いたい。夢をみさせて。守りたかったと嘆きの聲は深琴の耳に残響したまま消えない。
彼らは徒人で、被害者であったのだ。
できることはせめて、苦しまぬように逝かせること。
そして、大切な思い出と共に安らかな眠りを迎えられるように祈ることだけだ。
水怪達に邪魔をされながらも情報を纏めているうちに日が暮れた。
怪異の桜はいつの間にか満開に花を開かせていて、春宵の濃紺に命で紅く色付き燐光を放つ桜は皮肉にも悍ましい程に美しかった。
「あれが、桜の元被害者の……」
水怪達に侵蝕された視界で白片・湊斗(h05667)が亡霊をとらえれば、亡霊達も同じように湊斗を怨嗟に塗れたまなこで睨み還してくる。
(ああ、あれはもしかして……)
怨嗟の視線を向けてくる亡霊達の中のいくつかには集めた被害者リストの写真で見覚えのある顔が混じっている。
ただの亡霊に過ぎぬ。湊斗にとって見ず知らずの相手であるし、相手が死している以上はこれからも交わることのない相手だ。
だがしかし、彼らの残した痕跡に僅かばかりでも触れていた湊斗の心には多少の想うところが生まれていた。
彼らは徒人で善良な市民に過ぎなかった。ただ亡き人を想う気持ちに思い悩み、付け入られてしまっただけの憐れな被害者だ。
なれば、やれることはひとつのみ。
「来い」
手をちょいちょいと数回折り畳んで周囲を漂い游ぐ|硝子箱の海月《シーワスプ》と|豹模様の蛸《ブルーリング》を呼ぶ。
「お前らが手伝ってくんねぇと仕事にならないのは知ってるだろ――今回も頼むわ」
水怪達は湊斗の言葉に素直に従い水怪達はシリンジシューターに毒を注ぎ入れる。
視界を好き勝手游ぐ|水怪達《こいつら》に困らされることも多いが、武器が小さく済むのは僥倖だろう。
「お前らの夢とやらはまやかしだ。俺達が破壊してやる」
亡霊達を挑発するためにわざと好戦的な言葉を口にすると、亡霊達のうちの何名かは湊斗の方へと集団で向かってくる。
――掛かった。
湊斗は静かに硝子の銃口を向けて、ひとつ息を吐く。
「夢に溺れる時間はもうお終いだ。再び溺れる時間も与えねぇよ。沈んでろ」
引鉄をひけば、水怪の毒の銃弾が亡霊達を撃ち祓ってゆく。そのまま一体、また一体と機械的に撃ち抜いていく。
(逢いたい人、ね)
機械的に打抜く指は止めないまま湊斗が想ったのはかつての別離だ。
心あたりがある別離は友人とのもの。しかも、あれは友人に恨まれても仕方がなかった。
今更幻で逢えたとしても、どうすればよいのだろうか。
生と死の間で揺蕩い揺れる幽玄桜は仄かに燐光を放ち、濃紺の夜空に残酷な程色鮮やかに咲き誇っていた。
「満開だ、綺麗だね」
花岡・泉純 (h00383)は素直な感想を漏らす。あれの正体が何であれ、綺麗なことににかわりはないのだから。
だけれど、あれは人の血を吸い色付き、命によって輝くもの。
構えた|精霊銃《Reincarnation》の桜真珠が夜風に揺らぐ。
避けられぬ|運命《死》がせめて安らかであるように。
「 ……ちゃんと安らかに眠れるように、|葬送《おく》ってあげないと」
泉純の白桜の瞳はしっかりと亡霊達を捕え、狙いを定めると引鉄をひく。
着弾した地点に、花畑が形成され、亡霊達に凋落の呪いが降り掛かると同時に前方で彼らを相手にしていた味方に花明かりの祝福をもたらす。
泉純の祝福を受けたひとりである流水彩の双眸の男は援護射撃を受けて素早く亡霊達を火焔の檻に閉じ込めた。
身体の自由を奪われ、喉を灼かれ聲を失くし、それでもなお何かを訴えかけるような視線で周囲の√能力者を恨めしそうに視ていた。
「……ごめんね」
そのうちのひとつの視線とぶつかって、零れ落ちたのは小さな謝罪のつぶやき。
逢いたい。護りたい。壊さないで――もう、奪わないで。
喉元まで灼かれた亡霊達の怨嗟の聲はもう聞こえるはずもないのに、泉純の脳裏にこびり付いたように痛哭の聲が離れない。
桜に魅入られ囚われて命を落とした彼らはどんな夢を見ていたのだろう。
その夢路の果てで逢えて彼らは嬉しかったのだろうか。
(わたしにだって、逢いたい人はいる……でも、幻じゃなくて本物に逢いたい)
たとえ、現世で逢えなくても輪廻が巡った先でまた出逢えたら。
それこそ夢物語であるけれど、泉純にとっての幸福の形だった。
|花葬の湊《エリュシオン》は花畑を形成し淡く光る桜と蝶の群れとなり凋落と新生をもたらす。
「……大丈夫、こわくないよ」
輪廻転生の旅路の果てであなたたちも逢いたい人に逢えるように――。
甘い死の気配を漂わせる少女が手向けるのは、そんな優しい祈りだった。
濃紺の夜空にひらりと桜の花びらがひとつ舞い踊った。
掴もうとしたとて容易に掴めるはずもないはなびら。
それに手を伸ばしたツェイ・ユン・ルシャーガ (h00224)はやはり掴めない花びらを早々に諦めてゆるりと視線を亡霊達の方へと向ける。
「一時の救いを求めるものを否定はせぬが……得てして世は、生きる者へ都合が悪く出来ておる」
そう、結局はまやかしなのだ。掴もうとしても掴めない。
それでも愚かに手を伸ばして花片を追いかけようとしてみれば、そのまま足元の穴にも気付かずに堕ちてしまうだろう。
「わけもなく寄越される甘い蜜は、捕えて喰らうための其れよの」
喩えるのであれば誘蛾灯。仄光る櫻に誘われた羽虫のように、惹かれ寄った先は命を奪うような甘い罠。
こぼれた水がもとには戻らぬように甘い罠と知らずに命を落とし、魂ごと櫻に捕えられた彼らを救う手立てはもう、ない。
「花は花――季がくれば咲き、終えれば散り、戻らずとも、巡る」
望んだところで何時までも待ってはくれぬ。
時は逆巻くことはなく、人の意思など干渉できるはずもなくただひたすらに先へと進むのだから。
詠うように口ずさんで、夜色の羽衣を空色の尾とともにくるりと翻す。
「 ひとの夢もまた然り――お主らも定めに帰るがよい」
背後から『ごめんね』という甘い少女の声とともに放たれた弾丸が亡霊達の周辺で炸裂し亡霊達に凋落の呪いをもたらす。
同時にツェイの身に迸る加護の力を感じる。好都合。勢いのままひらりと舞い出でて亡霊達の眼前にて彼らを遊びにでも誘うような軽やかな口調でこう告げる。
「そう、早うせねば全て燃して壊してしまうぞ」
おいで、こちらでおいで。誘う手のままに亡霊達はツェイへと集まる。
頃合いを判断したツェイはそのまま咒戯廻天で遠くの亡霊と己が位置を入れ替えて彼らを纏めて火焔の檻へと閉じ込める。
( 咽喉までも焼けてしまえば叫べまい)
振り返れば、亡霊達が狭い焔の檻の中で藻掻き苦しんでいる。
(いかに幸福であれ、目覚めあってのまぼろし)
灼かれゆく亡霊を視界におさめて、そっと口元を袖で隠した。
「――と、みなが思える程には、ひとは強うはないからのう 」
桜の下に何が埋まっているかなんて、掘り返してみないことには実際はわからない。
だけれど、命をもって桜は美しく色付くって聞いた。
だから、きっとあの人達は桜の下に埋められた人達なのかな。
(でも、やっぱりちょっとあの人達、怖いかも)
神々廻・ヰヲリ(h02573)はぼんやりと考える。
「逢いたい人はこの世にいない。だけど、現実を信じたくないから死んだ後も夢に縋って、自分だけの世界に閉じ籠もっているんだよね」
だって、あの怖い人達は|桜を壊そうとする者《いおりたち》をすごく怖い目で見てくるけれど、なんだか違うものを見ているような気がしたから。
寂しいのかな。怖いのかな――それは、きっと可哀想だな、とは思うけれど。
「いおりだけじゃ何もしてあげられない。だから、オトモダチの力を貸してもらうね」
心の中で《あの子》の存在を呼ぶと淡い光に揺らめく|護霊フィリア《天使》がヰヲリの前へと姿を現す。
ヰヲリは春風に揺らぐ夜桜色の髪を抑えながら琥珀色の瞳でフィリアの姿を見る。
昔々の物語。
或る施設で暮らしていたヰヲリは、よく一緒に過ごしていた子がいた。
その子はいつもヰヲリに優しくて暖かく面倒見の良い子だった。
例えば、ヰヲリが転んだ時には真っ先に助け起こしてくれたし、一緒に本を読んでくれていたりもした。
『桜はちりぎわがキレイなんだよ』と、クレヨンで画用紙に沢山の桜のはなびらを描いてくれた。
優しくてあたたかい日々だったと思う。
だけど、気付いたらその子はいなくなってしまっていた。
だから、この天使が目の前に姿を現した時にもしかしたらその子なのかなと思った。
もしかしたら『そうであってほしい』と願った結果のヰヲリの勝手な思い込みなのかもしれないけれど。
「あの時いおりがしてもらったように、被害者の人を抱き締めてあげて」
ヰヲリがフィリアにそう願えば、淡い光に揺らめく天使は慈悲がこめられた|融合する《抱き締める》。
性別も顔も朧気だけれど《あの子》と過ごした日々は暖かかったような気がする。
融合することで、憎しみも哀しみも全部受け止めてあげるから。
「最後くらいは安らかに、今度はあの世で逢えるといいね」
ヰヲリは|灰葬《グリム・コード》に呑まれていく亡霊達を、ぼんやりと見つめていた。
人生は餡子のように甘くて、でも桜の葉のようにちょっとだけしょっぱい。
だけれど最後にはチョコレートのような幸福の後味をのこして大切な思い出の1ページとなる。
「おや、もうすっかり夜になったね」
「うんうん、お花見楽しかったねぇ」
刻・懐古(h00369)がすっかりと藍色に染まった空をさす。
懐古の言葉に顎に手をあててうんうんと 彩音・レント (h00166)は頷きながら、赤色の瞳でじっと目の前を見た。
眼前には泥のような怨嗟の眼差しで慟哭の嘆きを叫び続ける亡霊の姿がある。
「でも楽しいままでは終われないみたい。あー……これ全員、この桜の犠牲者?」
「なるほど、あの霊魂達は別離の桜に誘われているのかい」
思ったよりも数が多い。
これだけの数の人間が知らぬ間に犠牲となっていたことに多少の驚きはありつつも懐古は至って冷静だった。
「植物は存外、賢いからねえ。生存戦略然り、なかなか侮れないものだ。ああ……でも今回は怪異の仕業だったか」
「まったく、ごもっともだよ。傷付いた想いにつけ込むのはいやーなやり方! ちょっといただけないよねー」
並んだふたりはすっと立ち上がって軽く衣服についた砂を手で払う。
「さあ、花見はここまでか」
「うん、そうだねー。さ、お仕事お仕事ーっと」
まるで途中で雨が降ってきたねとでも言わんばかりの軽やかな口調で語れば、浮かべるのは少し残念そうな笑み。
次の瞬間にはその表情に真剣な色を浮かべて、ふたりはそれぞれの|武器《想い》を手に亡霊達を見据えた。
「可哀想だけど、この亡霊さんたちにはあるべき場所に還ってもらおうね」
「うん、行こう――さ、少々季節外れだが、もうひとつ美しい花を魅せてあげよう」
レントの言葉に懐古は頷く。
すっと一呼吸をおいて懐中時計を掌にのせる。
「溢れんばかりの色と香りを、きみたちに魅せてあげよう」
懐古の懐中時計より舞い出でた幻影の金木犀の花々が亡霊達を包み込んでいく。
春桜の薄紅と金木犀の秋の夕暮れのような黄金色が混じり合い、織りなされてゆくのは幻想的な景色。
「おー!」
桜の対となるような懐古の花に魅入られて思わず感嘆の声をあげながらも、ただ眺めているだけではいけないとレントはかぶりをふった。
春風になびかせるのは、血によって色付いた薄紅よりもずっと鮮やかで美しいネオンピンクの長髪。
双銃構え奏でるのは、少し懐かしくなるような故郷を思う|曲《バラード》。
「おや、良い音色だね」
レントの音色に懐古は微笑んだ後、何かを思いついたように少し得意げな笑みを浮かべた。
「ふふ……これは“超エモい”、だねえ」
「そう! 金木犀の漂う甘い香りも相まって超エモいってやつだよ!」
しっかり見事にエモいという言葉を使いこなしている懐古。
いいね、良い調子だよ!とレントがニィっと笑みを浮かべれば迎えるのは鎮魂の|最終章《グランドフィナーレ》。
「君たちの大切な場所は多分ここじゃない。思い出せたかな? 」
郷愁の鎮魂歌に甘い金木犀の香りと、優しい黄金の色が舞う。
願う旅路は安息の地。
どうか、旅路の果てに幸いあれと願いながら懐古は彼らの姿を眺めていた。
濃藍の夜空に悍ましい程美しい薄桃の櫻の花が不気味な程に映えている。
色城・ナツメ(h00816)は春のぬくもりの名残を残す夜風を頬で感じながら櫻を見上げる。
(桜は綺麗だが……)
胸の中で惨憺と渦巻く感情が落ち着かないのは、夜風に混じる不穏な気配を感じたからだろうか。
(こりゃ賑やかな夜になりそうだな。一旦、タバコでも吸うか)
取り出した煙草に火をつけるためライターを取りだそうとした時――。
「あ、火いるモグ?」
「うぉ!?」
いきなり背後から不意打ちのようにかけられた声に思わず動揺しナツメは思わず煙草を取り落とした。
振り返れば見慣れた同僚のモコ・ブラウン(h00344)がいつもと変わらない飄々とした様子で立っている。
先程まで考え事をしていた所為だろうか、全く気がつかなかった。予想外のタイミングでかけられた声に思わず呆気に取られてしまう。
「あーすまないモグ、お詫びにモグのタバコを一本やるモグ」
「あ、ああ……」
なんとなくモコに流されてナツメは煙草を受け取り火を付けてもらう。
普段ナツメが愛用しているバニラの香りの煙草と同じくらいモコの煙草は甘く、火照った心を鎮める。
そうして桜が放つ燐光に誘われるように現れた亡霊を眼前にした時にはナツメの心はすっかりと平静を取り戻していた。
「さて、仕事の時間モグね。これ以上苦しまないように『終わらせてあげる』モグよ」
先程とは一転して冷静な色を宿したモコの言葉に短く頷いて抜刀したナツメは鎌鼬を身に纏い肉薄、退魔刀を勢いのまま横に薙ぎ亡霊を切り伏せる。
《せっかくあえたのに、どうして邪魔をするの》
亡霊の悲痛な嘆きが鼓膜と心を揺さぶるが心を奮い立てるようにナツメは刀を指に力が籠めた。
「こんなとこに留まってたら、本物には永遠に会えやしない」
過去に縋り付き囚われた彼らにもう|生者《ナツメ》の声は届かないのかもしれない。
だが、問いかけることはやめられなかった。彼らの抱く感情に覚えがあるからこそ、声を張り上げる。
「会いたいやつとの思い出の場所は、本当にこんな所だったのか? 思い出の時は、春の夜だけだったのか?」
《来ないで!》
ナツメの言葉を拒否するような絶叫がナツメの足を縫い止める。
動きを止めたナツメに他の亡霊が襲い掛かろうとするが阻んだのはモコが放った銀の弾丸。
「苦しかったモグよね……辛かったモグよね……」
こぼれるモコの言葉は悲壮に彩られている。こうなってしまえば、もう救うことはできない。
だから、できるのは――銃口を彼らに向けることだけだ。
戦い続けて、慟哭が消え失せたのを確認してからモコは煙草に火をつけた。
被害者達の命を吸い咲いた桜は何事もなかったように無情に咲き映えているのを空夜の双眸で静かに眺める。
「……慣れないモグな」
どうすればいいか――問われたとしても迷いなくモコは銃口を彼らに向けて引鉄をひくことができるだろう。
だって、今までも幾度となくこの手合いは相手にしてきたのだから。
それぞれに苦悩があり、悲哀があり、絶望があった。
ギリギリ手が届きそうで、力が及ばずに救えなかった命もあった。
何度経験したとて、慣れることは出来ないだろう。
(――せめて、安らかに)
くゆらせた紫煙は立ち昇り空に届くよりもはやく春朧にほどけて消えていった。
夜の帳が降りるのと同じように緇・カナト(h02325)は黒妖の面で表情をかくして亡霊達の眼前に立ちふさがる。
ただ逢いたいと嘆く彼らの夢を刈り取ろうとしている姿は、傍からみればさながら|物語の悪役《ヴィラン》なのかもしれない。
だが憐れな彼らの人生という物語の最終章を彩る舞台装置として|悪役《やくがら》が求められているというのなら、それくらいは甘んじて受け入れよう。
「そうなんだよなァ……」
誰しも見ていた夢想をそのままに溺れひたれていたのなら、それはとてもさいわいな楽園なのだろう。
だが、あいにく現実はそうでもない。
世界とは大体|理不尽《そんなふう》にできている。
現実は物語ほど好都合にはできていないのだ。
飛ぶブロック、舞うフェンス。何かがぶつかる鈍い音。何かが割れる音。
慟哭に怨嗟。怨念とともに様々なものが戦場の中を飛び交う。
(アレでいいか……)
怨念とともに放たれる物品を躱すなかに見つけた硝子片に手を伸ばし掴み取る。
掴みとった硝子の破片がカナトの掌を傷つけ黒い血がたれおちる。
しかし、カナトは躊躇する様子もなく硝子片をあらためて構え直して、勢いよく自らの腕を斬り裂いた。
「手向けの花でも描いてあげようか」
カナトの腕から滴る血は怪人由来の漆黒の血液。洋墨にも似た液体で描くのは黒いペチュニア。
濃紺の夜よりもなお黒く、闇夜に紛れるように暗いペチュニアが亡霊達の身に降り注ぐと、彼らの身体に花模様を描き、死への躊躇いを奪う。
これは弔花。カナトが彼らに捧ぐ死化粧。
かわらずに嘆きの声をあげる彼らの身に黒死の花が咲いたことを確認したカナトはあらためて懐から精霊銃を引き抜いた。
雷の精霊はカナトが呼びかけるまでもなく、些か雷属性の主張が強い精霊銃に力を貸してくれるのを感じた。
「眠れ。死の旅路へ。送り届けてやろう」
音も無くカナトは銃口を彼らへと向けて、引き金を弾く。倒れる。弾く。霧散する。
ひとり、ふたりと淡々と確実に死の旅路へと導く。
(――「安らぎ」なんて言葉を添えたところで、実際に叶いそうなのは来世でも辺りか)
山ほど亡者をはべらせて咲く花は、桜も黒も大して変わらない。
世界とは、所詮そんなものだ。
「 ふふ、仇華が咲いた」
くすりと仄かに咲かせるのは幼女のおもてに似合わぬ妖美な微笑。
ララ・キルシュネーテ (h00189)はふわりと春の夜風に百虹の髪を游がせて妖花の中でたおやかに笑んでみせた。
「何と三毒の沁みた美味しそうな花なの。イサ、お前もそう思うわよね?」
「美味しそうというか哀れというか……」
ララに問われた詠櫻・イサ(h00730)はすっと夜桜にも似た色彩の双眸を細めながら亡霊だらけだな、と眼前の光景を見やりながら思う。
桜の下に埋められていた数多の情念は哀れだと思うが『おいしい』という感覚は生憎残念なことに共有できそうにないようだ。
「イサ、お前は来てくれると思っていたわ」
「嗚呼、きたよ」
「可愛いお前にはララを守る栄誉をあげる」
「……聖女サマを守る栄誉、有難く頂きますよ」
染みついたようにすっかりと慣れた言葉の応酬は美しい旋律のように軽やかで心地が良い。
可愛い|聖女《ララ》の|護衛《シュバリエ》は軽く礼をしてから、ひらりと軽い身のこなしでララの前へと躍り出れば泡沫のバリアでララを亡霊の慟哭から守った。
「甘い夢からは目覚めたくないものね」
哀哭の叫びをあげつづける亡霊にララは静かに呼びかける。
「会いたいひとに逢えて、望むままに過ごせる……醒めたくなんてないわよね?」
「そうなんだろうか。逢いたい人にあえる……て、現も命も捨ててでも叶えたいものなのかな」
紡ぐララにイサは率直に思ったことを口にする。
イサには現や命を捨てても叶えたい願いや心中するように添い遂げたいと願う存在はいない。
だからこそ、解らないだけで"ヒト"はそう想うものなのだろうか。
だとしたら、それこそが"本物"なのだろう。
(――甘い夢に浸れるお前らが少し羨ましい)
偽物に縋る姿は本当の記憶や存在に失礼なのではないかとも思うけれど。
亡霊達の攻撃をいなしながらイサがぼんやり頭の片隅で考えていれば「さあ?」とララの甘い言葉が鼓膜を揺さぶる。
「選んでしまったのはおまえらだもの。ララにはおまえたちのきもちなどわからないわ。でも、これだけはたしかかね」
赤色想華の双眸をすっとほそめて、するりと身に纏うのは別離の夜桜が放つ幽玄の光よりもずっと強く眩しい焔の桜。
「気をつけろよ」
ララの背を送り出すイサの言葉には"どちらの意味"が込められていたのだろうか。
それはもはやどうでも良い。最期に|慈悲《ゆめ》を与えるのであれば彼らが愛した|夢幻《さくら》の中で。
「そんな叫ばなくてもいい。苦しい事も哀しいことも、お前を苛む煩悩も何もかも――お終い」
詠うように言葉をつむげば破魔宿した窕の刃と迦楼羅焔纏う銀災が亡霊達を飲み込んでいく。
聖女の行く手を阻むものがあれば、護衛の冥海の触手が阻み花道を守った。
喰らい、燃やして一切を灰燼と帰してゆく。
「聖女サマに焚かれるんだ。 有難く想い出と一緒に眠りなよ」
光焔は聖女の無慈悲な慈悲な様相にイサが思わず笑いながらそう告げた時には夢のあとかたもなかった。
ララは|食器《獲物》を片付けながらそっと夜空に手をかざす。
「最期はせめて優しく、黄泉路に桜を添えておくってあげる」
小さな真白の小さな手から新たに生まれいずる光焔の桜がほどけるように春宵の空に舞い踊った。
夢はいずれ必ず醒めるというものだから夢というのだ。
結局は醒めるまでの現実逃避にしか過ぎない。
アダルヘルム・エーレンライヒ(h05820)の赤色の双眸に別離の夜桜の放つ仄かな燐光が映る。
(――いっそのこと、俺も夢に身投げできる程の愚者で在れば良かったのにな)
生憎|現実逃避《ゆめ》に身投げできるほど弱くも愚かでもなくて、|現実《未来》のみを迷わず突き進めるほど強くも正しくもなかった。
過去と未来の狭間の|現在《いま》。大海で揺らぐ小舟のように薄弱な心を奮い立たせるようにアダルヘルムは声を張り上げる。
「掛かってこい。被害者面した亡霊どもめ――迷いも未練も断ち切ってやる」
低い声は春宵の何処か浮き世離れしたような空気を揺らす。
亡霊達にもしっかりとその聲が届いたのであろう。
逢いたいという慟哭が来るなという絶叫に変わる気配をアダルヘルムは敏感に感じ取った。
(させるか!)
アダルヘルムは無骨な大剣を軽々しくと振るい、荒々しい一撃で薙ぎ払っていく。
慟哭も絶叫も身を縛る呪いすらも迷いを振り払うように、ひたすらに大剣を振りかぶり続ける。
多少の怪我がなんだ。この身の"頑丈さ"だけには皮肉なことに自信があるのだから今更だ。何を厭うことがある。
どちらが先に疲労に根をあげるかの我慢くらべ。それならばアダルヘルムが負けるはずもなかった。
襲い掛かる亡霊達を順に屠り続けて、気が付けば周囲から慟哭の聲は消えていた。
消え逝く亡霊達を赤色の瞳でアダムへルムはじっと眺めていた。
いつも見送って、今日もこうして見届けるしかない。
正直、亡霊を心のどこかで羨ましく思う気持ちはあった。
自分は決して冷静なのではない――ただ、臆病なだけだ。
幻影と心中する勇気すらないのだから。
いつまでも悔やんだ過去を抱えたまま、戻ることも進むこともできずに、ただ佇んでいる。
死に逝く命を見送って、届かなかった命を諦める。
大切な奴らを護れなかった後悔を抱いて、 アダルヘルムはこれからも生き続けるのだろう。
癒えることのない悔悟を抱えるかぎり。
きっと、その|旅路《ものがたり》に|終焉《エンディング》は訪れないのだろうから。
春は名残をつれて訪れる――そのようなことを詠ったのは誰の唇だったか。
玉梓・言葉(h03308)はくるりくるりと|彼誰《おもかげ》を廻して夜の桜を硝子色の双眸で見やった。
番傘が廻るように運命も巡る。生きとし生けるもの全て、命を繋ぐために何かを喰い、いつかは喰らわれる。
咲いては散って、散っては芽吹き、芽吹きは咲いて――季節がいくとせも巡りつづけるような流転する運命。
その|摂理《かたち》があるからこそ世界は無常な程に美しいのだ。
「とはいえ、儂は人の子が好きでの。肩入れするとすれば怪異より人の子と決めておる」
紡ぐ言葉には少々の申し訳なさと僅かな後悔が降り混ざっている。
言葉は人が好きだ。主達が好きだ。人の子が紡ぐ|言葉《想い》が大好きだ。
まぁとはいえ――その愛情が必ず報われるとは限らない。報われていたとしたら言葉は今此処にはいなかったし、きっと彼らも其処にはいないだろう。
(亡き主たちにも申し訳が立たぬしな)
篠突く雨のように降りしきる桜の花片を番傘でいなして呪詛を逆に取り込み力に変える。
《逢いたい》《一緒にいたい》《ずっと、ずっと――》
切実な亡霊達の嘆きを言葉は逃げることなく正面から受け止める。
「この身はしるべを描く硝子筆よ――おぬしらの行く末の澪標、儂が描いてやろうではないか」
紡ぐ|花向け《おくることば》は硝子のように曇りなく透き通る桜の花と言葉の雨が降り注ぎ――次第にそれは"|言葉《おもい》"の形を持って亡霊達を飲み込んでゆく。
「お主らの会いたい相手はソレで間違いはないか」
暖かな想いは。忘れえぬ気持ちは。大切に胸に抱く思い出が――《|幻影《うそ》》や《|陶酔《ゆめ》》であってたまるものか。
硝子の桜と動揺に透き通る言葉の双眸に破魔の色彩が宿り、語りかける想いが亡霊に重くのしかかってゆく。
「よう、思い出してみよ」
うつくしい硝子の清らかな色彩は亡霊達の心に僅かばかりの静けさを取り戻してゆく。
(――ああ、そうだ。そうであるはずがないだろう。お主らが会いたいものがまことにそれなどあってはならぬ)
言葉はくいっと舞わせる桜の勢いを増していかせる。
「この花が――お主らの会いたいものの場所まで導いてゆくだろう」
詠うような言葉は硝子桜とともに夜の闇へと消えていった。
スマートフォンのブルーライトがやけに明るく感じて夢野・きらら(h00004)は顔をあげた。
(――ああ、もう時間か)
夜の帳はすっかりとおちて空は濃い藍色に染まっている。
暗色の世界の中に浮かび上がるように燐光を放つものがある。一際存在を主張するように咲き映える幽玄櫻。うつくしいという言葉が似合うのだろうけれど。
(ただ、綺麗すぎるね。此処にあってはいけない不自然さだよ)
悍ましい程に美しい桜花は人の命を吸い上げて色付いたもの。
仄かに燐光を放つ桜に誘われて現れる亡霊達をきららはじっと見つめれば、きららの存在に気が付いた亡霊のうちひとりが「来るな!」という叫び声をあげる。
「危ないな」
事もなげに平然とした声色でいってみせたきららはエナジーバリアで攻撃を受け流す。
「元『被害者』たちもこうなってしまっては加害者だよね」
情報収集している時にみつけた彼らの生の片鱗を見つけても、所詮はどうすることもできない
(ぼくが本当の魔法少女で、ハッピーエンドだけを選べたならとは思うよ)
でも現実はそうではない。化けの皮として魔法少女を選んで生まれた紛い物。
奇跡もつかえなければ|ご都合主義の結末《ハッピーエンド》へ導くこともできない。
「ぼくは君達にハッピーエンドを与えてあげられないから――こうするしかないんだよね」
天に手を掲げて呼びたるは光の魔術。周囲の亡霊達を次々と薙ぎ払い、消し飛ばしていくことしかきららにはできない。
無慈悲に薙ぎ払い、最後に目の前に残ったのはぬいぐるみを抱えた幼い少女の亡霊だった。
そのぬいぐるみには見覚えがある――確か、3年程前に放映していた魔法少女アニメのマスコットキャラクターだったはずだ。
「化けて出るくらいなんだ、相応に強い想いがあるんだろ?」
きららにそう問われた少女亡霊は戸惑うような視線を向けた。
「どうしても誰かに伝えたいことがあるなら今言いなよ――代わりにその言葉を届けるのはできるかもしれないからさ」
《パパとママがいなくなって、さみしかったの。あいたかった……おいていかないでほしかったの》
「そうか。わかったよ、いつか君の言葉を伝えるべき相手にぼくがであうことがあったら、その言葉伝えるよ」
――だから、おやすみ。きららは光の魔術で亡霊を払った。
「やっとおでましか……」
ルスラン・ドラグノフ(h05808)は青石英色の瞳をすっと細めて亡霊を見やる。
その表情は何故か安堵に彩られている。様相に刻まれているのは若干の呆れと疲れだろうか。
「あれからずっと妹が騒がしくて君達が来てくれるのがとても待ち遠しかったよ」
いつものことだが――思わず口から出そうになった言葉をなんとか飲み込み我慢したルスランの隣でリュドミーラ・ドラグノフ(h02800)はやる気満々の様子で声をあげる。
「まあ! 被害者ですって! かわいそうね!」
「まったくそう思っているとは思えないな、お前のやかましさは」
「嘘いってないわ! 可哀想だと本当に思ってるもの! でも邪魔をするなら片付けなくちゃね! 整理整頓は基本だわ!」
ふんすとリュドミーラは拳をぐっと握り意気込み充分。大きく息を吐いた後に決めポーズを取るが如く人差し指を勢いよく相手に向ける。
「あなた方! 一応降伏勧告しておくわ! こちらは吸血鬼二人組よ! 低級霊はお呼びじゃないの!」
「いくら楽そうな相手だからって煽るんじゃないよ」
ルスランが言うにも間に合わず、亡霊達がどろりとした視線でふたりを見た。
「あーほら、言わんこっちゃない」
面倒なことになったなぁと溜息を溢すルスランの隣でリュドミーラは意気揚々と五寸釘をばらまいていた。きちんと丁寧に霊体用に整えた特製品である。
「夢? そんなものぶち壊してあげるわ! 兄さま! 行くわよ!」
「ああ、こいつらは前座だし……さっさと片付けてしまおう」
「ええ、兄さま! さぁ打つわよ! ごっすん! ごっすん!」
リズミカルに詠うように言葉を刻みながら、リュドミーラは視線で操った五寸釘を亡霊達に打ち込んでいく。
(吸血鬼が釘かぁ……いや、打たれるのは杭か)
他人事のように思いながら、亡霊達達が妹に気を取られているならば好機。
ルスランは幽霊の外套を身に纏い、一気に幽霊の眼前まで肉薄すると小刀で亡霊を切りつける。
「悪く思わないでね」
静寂のままに現れ仲間を切り伏せたルスランの存在に気付いた仲間が金切り声をあげる。
「うわ……金切り声で耳がキンキンする」
「あはは! 金切り声がむしろ心地よいわね!」
「これが心地良いだなんてリューダはちょっとズレてるね」
妹よりも喧しい存在は中々お目に掛かれないのではないか等とそれとなく失礼なことを考えながら横目でちらりとリュドミーラの方へと視線をやる。
彼女は笑っていた。何が楽しいのかよくわからないが、とにかく何か楽しげに笑っている。
そんな妹の感性が時折わからなく――いや、時折か? まぁいい。細かいことを気にしていたら精神がもたない。
聞き苦しい金切り声と雑念に蓋をするようにルスランはヘッドフォンを被った。
「ちょっとヘッドホンかけても良い?」
「兄さま!ヘッドホンは戦闘が終わってからにしてくださいな!」
妹の声は無視をしてちゃっかりしっかり事後承諾。所詮は似たもの兄妹なのかもしれない。まぁ、いい。敵はまだいるのだから余計なことは考えずに切り伏せるまでだ。
「兄さまはいつも冷静ね! たまに真面目に動いているととてもかっこいいわ! 」
「たまには余計だ」
軽口を叩き合いながらもふたりは亡霊を薙ぎ倒していく。
吸血姫の楽しげな声と吸血鬼の静かなツッコミの声が今暫く続くのであった。
昼間のやさしい薄桃色とくらべたら何と醜く妖しい薄紅なのだろうか。白浜・轟(h04264)は眉をひそめて拳を握る。
夢は夢。現実にならぬから夢なのだ。醒めぬ夢などただの陶酔に過ぎず、夢が現実を塗り替えてしまうようなことなどあってはならない。
「亡者の夢は、終わらなきゃいけない」
轟が放つのは空を游ぐブリキ製のメダカの群れ。亡霊達の意識を一瞬でも逸らせれば僥倖。
「お前らの痛かった恨み言、全部なかったことにしてやる。そうしたら、きちんとさよならできるだろ」
すべてを灰も遺さず灼き尽くすようなこの右手で、すべてを無にしてやる。
轟の破壊の炎を宿した拳は亡霊達の慟哭をも貫いて愚直なほど真っ直ぐに亡霊の頬に届く。殴り飛ばされた亡霊はすぐに春の塵となって消え失せる。
儚い程にあっけない。だけれど、戦いはすぐには終わらない。
何処からともなく沸いて出でてくるような亡霊はきりがないように思える。だが、どんな戦局であろうと轟のすることはただひとつ。
とにかく、殴る。拳を振るって、燃やして、亡霊の夢を打ち砕く。
《こないで、かえして、わたしたちのゆめを》
亡霊達は憎悪に満ちた瞳で亡霊は轟を睨む。
だが、それしきのことで轟が揺らぐことはない。轟の右手は彼らの|陶酔《ゆめ》を打ち砕き、燃やし尽くした。
「恨みたきゃ、恨めばいい――オレはそれを、忘れてやるから」
怨嗟の声も慟哭の嘆きも耳にこびり付いて離れない。
だがそれが轟が背負うべき業だろうから、せめてもの手向けに忘れてやるくらいはしてやろう。
「夢は所詮夢なんだ。いずれ、朝がきたら目覚めなければならない」
たとえ、それがどんな現実だとしても――いくら儘ならぬと無力感も抱えて生きても、遺された|現実《いま》を生きてゆかねばならないのだ。
だから、轟は迷うつもりなど毛頭なかった。
喩えば、この中に|あいつ《きょうだい》がいたとしても轟は迷わず炎をふりあげて壊せていただろう。
喩えば、愛しいあの子に逢いたいって何度言われても、あの大きな春色の双眸が哀しげに揺れても――|決意《我儘》は揺らがないだろう。
でも、はたしてそれは“現実をうけいれた大人”がする行動なのだろうか。
春の宵に自嘲の混じった笑みがひとつ、咲いた。
昼間に優しい思い出を想いながら眺めたやわらかな春の色を浮かべていたはずの桜は今や幽かな燐光を放ち悍ましいほど美しい色彩を見せつけていた。
(そう、あれは……ひとのいのちを奪って得た美しさなんですよね)
廻里・りり(h01760)は想いを廻らせながら桜を眺めた。
綺麗なものは好き。可愛いものも大好き。たくさんきらきらとした素敵なものを|この眼《ファインダー》に映していきたい。
(だけど、これは……綺麗って言いたくない。ひとのいのちを咲いたものをそう思いたくないな)
りりは、この木が咲かせた本当の色彩を知っている。優しくて、あたたかくて、出逢いに祝福の花を咲かせ、別離に涙のような花びらを散らせた。
いつだって人の生活に寄り添ってきた、とてもやさしい子だったはずだから――きっと、こんなことは望んでいないはずだ。
だから、りりは心を奮い立たせて亡霊たちを真っ直ぐみつめた。逸らさずに、しっかりと。
「逢いたいひとに逢えるって、とっても魅力的なお誘いですよね」
語りかける声は優しく、柔らかく、寄り添うように。亡霊達の気持ちもわかる。
その光景を視ていたい、ずっと守りたいと思う気持ちを否定することはできない。けれど。
「ここで逢えたひとは、あなたたちが本当に逢いたかったひと?」
いいえ、きっと違うはず。りりは夕陽色の飴玉を握る。
「都合がいいように塗り替えられた夢とは、さよならしましょう」
心をとらえる茨は、今宵だけは解放の剣閃となる。
りりの夕陽色の飴から放たれた茨は亡霊達を彷徨える夢より解き放つ。
零れおちる桜。涙雨のように降りしきる別離の夜櫻の中でりりは亡霊達が春の朧に消えて逝くのを眺めていた。
桜から解放された彼らはきちんと彼岸の世界へ渡れるだろうか。彼岸の世で本当に逢いたかった人、焦がれた人と巡り逢えるだろうか。
(――どうか、その旅路のはてにしあわせがありますように)
あなた達が彷徨わずに愛しいひと達と巡り逢えますように。
せめてもの導きに両手で包み込むように持った方位磁石をぎゅっと握り締めながら夜空を仰いだりりはそっと祈りを手向けた。
第3章 ボス戦 『眠る乙女』

当たり前に想っていた日常がとてつもなく幸せで尊いものだったのだろう。
いつだって当たり前にあったものの価値が理解できるのは喪ってからだ。
藤嶋・菫がそのことを思い知ったのは丁度一年前のことだった。
その日は至って平凡な日曜日。
昼間は婚約者と結婚式場の見学にいって「あれがいいね」とか「自分達の時はこうしたいね」とか取り留めない会話をして同棲していた家に帰宅した。
夕飯は彼からのリクエストで煮込みハンバーグ。
でも運悪くケチャップを切らしてしまって、どうしようかと思っていたら彼が近くのスーパーまで買いにいってくれると申し出てくれた。
今おもえば、あそこで止めておけばよかったんだと思う。
だって、アパートの扉を開けて出て行く姿が――私が見た最後の彼の姿だったんだから。
ああ、でもきっとあれは悪い夢だったのだろう。
「菫」
だって、あなたが優しい声で私の名前を呼んでくれるんだもの。
●別離の夜櫻は|陶酔《ゆめ》に咲く
亡霊を討ち祓い別離の夜櫻の木の根元に近付いた√能力者達は桜の樹の根元に寄生するように絡み付く青薔薇の茨を見つける。
これが数多の人に|陶酔《ゆめ》を魅せ、代償に幾多の命を奪った元凶なのだ。
絡み付く茨の中に、眞白の顔で眠りに堕ちる女性がいる。
あれが、件の女性なのだろう。
青薔薇も√能力者達の存在を認めると、夢に誘おうとその茨を伸ばした。
――決して忘れないでほしい。どんな者が君達を甘い|陶酔《ゆめ》に誘っても、其処に在るのは実体を持たない|幻影《うそ》に過ぎないんだから。
そんな声が脳裏に過ぎる。
青薔薇の陶酔の先で、彼らが見るものとは――選ぶ、結末とは。
====================
桜に取り憑いた蒼薔薇を討伐していただきます。
今回、強さについてはそこまで強くありませんので倒そうと思えば簡単に倒せます。
ただ、こころに隙がある方はもしかしたら心に思い描く"逢いたい人"や"還りたい風景"等の幻影が見えてしまうかもしれません。
※逢いたい人、光景の生死等は問いません。いつも逢わせるような相手でも強く思うのであれば蒼薔薇は利用しようとしてくるでしょう。
心情メインで描写します。
また藤嶋・菫は怪異を撃破すれば救出できますので藤嶋の保護についてはプレイングに記載しなくても構いません。
三章のみ連撃可能です。
場合によっては再送のお願いをする可能性がございますので、ご協力いただけますと幸いです。
春宵に眞白の髪が踊る。
別離の夜櫻に根付く青薔薇を花岡・泉純(h00383)は何処か他人事のように見つめて静かにサブマシンガンを持ち上げた。
泉純に逢いたい人は居ない。逢えたらとても嬉しいのだろうと想像はつく。
だけれど、それと同時に自分は逢えないことでさえも受け容れてしまえるから《逢いたい》と願うことはしないのだと――そう、想っていた。
(――でも、感じる)
噎せ返るほどに濃い花の香りと視界を埋め尽くす桜の花びらの雨が晴れる。
桜に続き咲くのは藤花とネモフィラ。溢れんばかりの花嵐の向こう側に何かが見える。
泉純はその存在達のことを知っている。
今はその花達を脳裏に想い浮かばせる度に、優しい手の感触が思い起こされるかのようで色濃く焼き付いた存在たち。
いつも花たちは寂しがり屋の泉純を優しく撫でてくれていた。その感触はあたたかくて、やわくて、くすぐったかった。
「あのね――」
口を開こうとして――ふたつの影に気がつく。
(あれは……)
目をこらそうとしたけれど、逆光になっているその姿はよく見えない。
「おとうさんと、おかあさん……?」
泉純の口から自然と声が漏れる。姿がよく見えないのにとても暖かく感じて直感的にそれが彼らなのだと理解ができた。
だからこそ、泉純はほうっと息を吐く。
(──これが現実なら、どれほどよかったか)
だからといって、現実や薔薇を恨むようなことはしない。
ひとえにゆめのまぼろしだとしても、幸せな夢を見せてくれたことには素直にありがとうと言いたい。
でも、夢は所詮夢だからこそ留まってはいけないんだよ。
「わたしはもう、|帰ら《目覚め》なきゃ」
泉純はふんわりとした微笑みを浮かべる。
「……ありがとう」
ずっと青薔薇の香気から泉純を守るように漂っていた|傍らの匂い《桜》に礼を告げて、泉純はすぅっと息を吸った。
送るのは祈望の唄。
(わたしがわたしでいられるのは、みんなのお陰だから)
喩え、逢えないとしてもみんなはわたしの大切なものに変わりがないから。
――愛してる、お元気で。
己の心の隙や迷いなど疾うに識っている。覚悟ができていれば訪れる衝撃など造作もない。
静寂・恭兵 (h00274)ははらひらと舞う桜の花びらの雨の向こう側に淡雪のような白銀の髪を認めて思わず手を伸ばしかけて止める。
彼女が振り向き金糸雀色の双眸をあの日と同じように穏やかに細めて微笑んでみせた。
その表情だけで、仕草のひとつひとつだけで懐かしさと愛しさのあまりに目尻から雫が零れそうになる。
だけれど、恭兵は手を握りしめてその|幻影《ゆめ》を振り払う。
(こんなの、まやかしに過ぎない)
哀しくも現実は自分が一番知っている。
愛しき椿とともに過ごせるはずがない――今は。
(――だからこそ、俺自身がその未来を作らねばならないんだ)
幻想なんかじゃない、現実を己の手で掴み取らねば意味がないのだ。
それでも美しい光景を碧落の双眸に映し込んでから恭兵の身を捕えようと伸ばす茨を認めて振り解いた。
「……アダンの方は大丈夫だろうか」
青薔薇の幻影を解き周囲を見渡した恭兵の瞳は驚きで丸められた。
一方、昏冥の途をアダン・ベルゼビュート(h02258)は進んでいた。
共に居たはずの相棒の姿は傍になく、いつのまにやらはぐれてしまっていたらしい。
|陶酔《ゆめ》や|幻想《うそ》等、如何でもいい。自分はやるべきことがあるのだ。
「何故、何も見えぬ……?」
自分は夜目が利くはずだ。それに先程から歩き続けているというのに、何にもぶつからない。
此処には何もない。
ただ虚無の如く暗闇が無限に続いている。何も見えなければ、何も聞こえない。
聲は聞こえない。届かない。誰にも見えないし、認められない。
腕を伸ばしても、肌に触れても存在するはずの空気抵抗も感じない――ひたすらの、無だ。
(此処は……)
心が理解を拒否する。だけれど、脳が勝手に『終着点』なのだと答えを導き出してしまう。
どんな物語にも必ず結末は訪れる。
物語の主人公が運命を切り開く過程に配置される|舞台装置《ヴィラン》に過ぎない《アダン》の終着点。
『そうあれかしと願ったのは俺様自身であろう?』
何処からか聞こえた声にアダンの表情はくしゃりと歪む。仕方ない。仕方ないことなのだ。
|仮初《フィクション》の存在に|未来《ノンフィクション》を望む権利など、最初からありはしないのだ。
結末を受け入れた身体は少しずつ無へ帰そうとして――誰かに手を捕まれる感覚がした。
「アダンこっちだ戻ってこい! お前の行くべき先はそこじゃない!」
昏冥を切り裂くような聲は"相棒"のものだ。腕から伝わる体温だって確かに彼のものだ。
アダンはそのまま自分を無から引き摺り出す手に身を任せ、気が付けば周囲が明るい光景に包まれていた。
「よかった、アダン。あのまま青薔薇に飲み込まれるかと思った」
「恭、兵? 俺様は……消えた、筈では……?」
肩で息をしながら安堵の声を漏らす恭兵に思わずそのようなことを聞いてしまう。
「消えてなんかない。お前は、俺の目の前にちゃんと存在している」
恭兵はアダンの姿を真っ直ぐに見つめた。
恭兵の碧落の双眸に映る|自分《アダン》は酷く覇王らしからぬ表情をしていたけれど、アダンは暫く己の存在と相棒のぬくもりを確かめるように見つめ返していた。
桜の樹の根元には屍体が埋まっているなどと宣った輩がいるが実際はもっとややこしいものが存在していたようだ。
「此れが元凶か」
緇・カナト(h02325)は眼前に存在する青薔薇を視界に認めて言葉を漏らした。
別離の夜櫻の根元に絡み付く其れは悍ましい程に美しく、至って善良然として存在している。
(……夢に陶酔、あァいいなぁ)
実体を持たない幻影だろうと浸って逢えるのだとしたらそれ以上に幸いなことなどないのではないか。
まるで願いを叶えてあげるよとでも言わんばかりに傲慢な陶酔を春宵霞に映し出す。
其れはありふれた五人家族の肖像だった。
父親に母親。年若く見える青年は恐らく大学生くらいだろうか。それに、少女がひとり。
ありきたりな家族だった。されど、幸福な家族の形だった。
そんな家族の肖像は、誰かさんの所為で欠けてしまった。
――どうしてだろうな。自分の手でふたたび壊さないといけないなんて。
黒妖面で隠されて唯一露わになっている口元に自嘲のような笑みが浮かぶ。
幸いが戻ることはない。千切れた鎖の懐中時計の針が決して逆巻くことがないように、喪われた過去も戻ることはない。
破壊こそが定められし宿命なのだと、まるで突き付けられているようでうんざりする。
疾うの昔に振り解いた首輪の跡が疼いて、引き摺る鎖を悲鳴のようにかき鳴らしたとて――戻れないのだ。
識っている。理解している。|陶酔《ゆめ》に耽る権利もないのだと。
救いなんて、ありはしない。
カナトは|幻影《うそ》を振り払うように手斧を振り回す。
それはまるで洗練された戦士の動きのようであって、泣き喚く子どもの癇癪のようでもあった。
(消えてしまえ、……消えてしまえ)
色も音も亡くした世界に降る灰燼は雪にも似ている。
薙いで、斬って、手折って、殺して、壊して。
ひとり残らず、すべて消してしまえばいい。
だって、茨もヒトも屠ってしまえばみな等しいのだから。
そうして作り上げた道がどのようなものであろうとも、己が進むことを選んだ果ての道を征くしかないのだ。
どんな|洋墨《インク》で想い出を綴ろうと時を経れば色褪せ朽ちる。
どんな用紙に綴ろうと腐り果て朽ちる。
年月とは時に薬であり、逃れえぬ残酷さであり救いであった。
白・琥珀(h00174)にとって記憶とは古びた紙に描かれ朽ち果てた其れと同じだった。
思い浮かべようと記憶という名の書物をめくる指の傍から紙は崩れおちて、その記憶の面影も掴めぬくらい遠い春の朧のように夢幻と消え失せる。
琥珀は眠りに堕ちる女性の姿を見ながら何処か他人事のように考えを巡らせる。
(――過去を振り返ることもなくなった俺は、かなり歳を重ねすぎたのだろうなぁ)
近ければ思い出してその心に当時の感情を色濃く映し出すことができるかもしれない。
少し遠い思い出であれば懐かしい記憶に暖かな感情を抱けるのかもしれない。
だがそれを過ぎ去るくらいに遠い昔の記憶であればもう朧も思い出せなくて、振り返ることさえ出来ない。
だからこそ、琥珀はこの状況を少し他人事のように感じていた。
思い出に浸ることは否定しない。時には傷ついた魂を癒すために必要なことだろうから必要性は理解している。
過去とは現在に至るまでの結果の積み重ねであり未来へと向かう行動指針となる大切な積み重ね。
「だけど浸りすぎて今や未来を疎かにするのはいただけないな」
琥珀は白い外套を翻し退魔の剣《須佐》を引き抜く。
「未来に幸いあれ。それが俺が存在する第一なのだから」
宿すは太古の神霊「古龍」の力。
琥珀を捕えようと迫り来る茨を高めた機動力でひらりはらりと避ける。
一気に青薔薇のもとへと肉薄すると退魔の剣を薙ぎ古龍閃を放つ。
「――あぁ、だけど」
切り裂かれた茨の向こう側に見える女性や先程相対した亡霊達の姿を思い浮かべる。
彼らは結果どうであれ、魅せられた|陶酔《ゆめ》で幸せそうにしていたのだから。
「振りかえりたくなる思い出が、縋りたくなる面影があるのは羨ましいとは思うよ」
年月を重ねすぎて朽ち果てた記憶は、もう元の色を取り戻すことはできないのだから。
悍ましい程に美しい別離の夜櫻のふもとに根付く青薔薇。
眠る乙女の顔色は決して良いとは言えない。
きっと、このまま放っておけばその命枯れ果て先程相対した亡霊と同様の結末を迎えるのは目に見えてわかる。
(夢だって、気付かないのかな)
アドリアンは少し不思議に思いながらぼんやりと女の姿を見る。
ざっくりとした概要だけしか知らないが対象者の事情は知っている。
婚約者を交通事故で亡くしたという女性。彼女にとってはこのまま夢を見続けて死んだ方が幸せだったのかもしれない。
「けどやっぱり、夢は所詮夢なんだよ。夢に逃げても良いけど、いつかは現実とちゃんと向き合わないと駄目なんだよ」
目覚めるからこそ――現実があるからこそ夢は夢であり睡眠は睡眠であり、アドリアン・ラモート(h02500)にとっての天国なのだ。
いや、いつまでも惰眠を貪っていたいという気持ちはわからないでもないが、それとこれとは別だ。
青薔薇がどのような陶酔を魅せるのか興味がないかと問われれば首を縦に振らざるを得ないが先程昼寝に興じた今のアドリアンは無敵だ。
睡眠以上に見たいものなどなく、浸りたい陶酔もない。ゆえに今のアドリアン
「まぁそもそもユメとかウソでもいいから逢いたいなんて相手や風景とかないんだけどねぇ」
のんびりと呟いたアドリアンは手に大鎌を握り締めて迫り来る青薔薇の茨を叩き斬る。
「だから折角のお誘いだけどお断りかな」
青薔薇は少し動揺したのか伸ばす茨を躊躇わせた。今度はアドリアンの方から踏み込んで再び大鎌を振るう。
「ちょっとは興味はないこともなかったけど、でも、俺が見たいのは|睡眠《ゆめ》であって|陶酔《ユメ》ではないからねー」
夜闇を引き裂くように無造作に振り回した大鎌。
其れは無造作に青薔薇の茨達を刈り取っていき、気付いた頃にはアドリアンを狙おうとする茨は消え失せていた。
やっぱり夢は、ふわふわの布団とお気に入りの枕に包まれて見るに限る。
アドリアンはふぁぁと大きなあくびを漏らしたのであった。
悍ましい程に美しい別離の夜櫻の根元に青薔薇が蠢くように存在していた。
その中で眠りに耽る藤嶋・菫の顔色は青白く目に見えて生気がないように見受けられる。
だがしかし、同時に何処か幸せそうな寝顔にも感じられて刻・懐古(h00369)は口を結んだ。
――幸せな夢に囚われる。いつまでも続けばよいと願う。
様々な|人生《ものがたり》を見届けてきた立場として、その懐古にもその感情は理解できないこともない。
だが、残念ながら夢はいつか醒めるもの。現実があってはじめての夢なのだ。其れが他者による|陶酔《ゆめ》であるならば尚更だ。
「生ある者は、現実を生き抜かねばならないんだ。――どれだけ、理不尽でも時は決して逆巻くことはないのだから」
刻は逆巻くことなく、常に未来へ向かって秒針を刻み続ける。
|懐古《かいこ》に耽ることはしても、過去を望んではいけない。
懐中時計を手に握りながら呟く懐古の声を聞きながら彩音・レント(h00166)は眠り続ける藤嶋に想いを馳せていた。
彼女の|婚約者《大切な人》は交通事故で亡くなったのだという。
それ以上の詳しい状況などは解らないが事故や天災等に因る|別離《死》はきっと唐突なものだったのだろう。
覚悟ができている死でも胸が締め付けられる程に苦しく辛いのに、何の前触れもなく訪れたのだとしたらその痛みはどれ程のものになるのだろう。
(また逢いたいと思う気持ちはとてもよくわかるなー……)
藤嶋の気持ちが理解できる。理解してしまった瞬間――レントの目の前に人影が現れる。
「あ……」
レントの口から思わず声が漏れてしまう。其れはもう二度と逢えぬと思っていた人達。
他人とは違う悠久の時間を生きる身の上で大切な存在と絆を結んでもすぐに彼らは生き急ぐように手の届かない場所へ行ってしまう。
その都度自分は「大丈夫だよ、おやすみなさい」とゆるりと染みつかせた笑顔を浮かべて見送って告げたさよならの分だけ心にあいた寂しさという穴に蓋をした。
でも、懐かしい顔は笑ってしまうくらいにどれくらい時間が経っても忘れられなくて目の前にいる人々は誰も彼もが鮮明な姿を保っている。
伸ばされた|手《茨》に思わず手を伸ばした時、己の名を呼ぶ誰かの声と|茨《手》を振り払う姿が見えた。
「大丈夫かい?」
「ああごめん! ぼーっとしてたみたい」
レントの瞳に光が戻り、人懐っこく笑ってみせた。
彼の優しい心に茨は取り憑こうとしたのであろう。脅威は一旦振り払われたとしても懐古の視線はそれでも少し心配げな色彩を宿していた。
「もう逢えないとしても今までの思い出までなくなるわけじゃないからね。 幻影の偽物なんて代わりにはなれないよ」
「そうだね。誰かに用意された其れは、きっと自分の知り得る者ではない」
この様子であればもう大丈夫。懐古はレントに柔らかく笑んでみせた。
(――本物はちゃーんと、僕の中にいるから)
きゅっと拳を握ってからレントは大丈夫だよという感情をのせて懐古にウインクを返す。
迷わない。夢は|過去《ゆめ》であるからこそ、|現実《未来》を選ばなければならないから。
少々酷な選択となるかもしれないが、眠りから覚めてもらおう。ふたりは無言で頷き合い武器を携えて青薔薇へと立ち向かった。
さくら散りしく面影の春を舞う。瞼に浮かぶ懐かしい風景に玉梓・言葉(h03308)はそっと口元を緩ませた。
桜の穏やかな薄紅に草木萌ゆる新緑の色。柔らかに澄む春の碧空に子どものいたいけで楽しげな声が木霊する。
きょうはこんなことがあったと、だれかにことばをつたえたいのだと。
斯くして子らは己を手にとって想いのままを綴るのだ。
その日にあった他愛のない想い出を手記に綴り、大切な誰かに宛てた愛おしい想いを手紙にしたためる。
言葉は己の身を通して垣間見る子らの想いを傍で眺めるのが好きだった。
拙い字と言葉が徐々に洗練されたものへと変わり、成長するにつれて比例するように素直な気持ちで言葉を綴ることができなくなって苦悩する子らを眺めるのも言葉は好きだった。
「この頃は幸せが溢れておったのう」
回想するたびに言葉のこころは暖かく染まる。記録を綴る硝子筆たる言葉が己の身に刻んだ記録は一様に美しく大切なもの。
だからこそ魅せられた光景を否定はしない。だけれども、肯定もしない。
「しかし、過去の想い出は美しいが――今この時も美しい」
水鏡のように澄んだ色彩をした袖を振るい言葉の心を侵蝕しようとする|幻影《うそ》の|陶酔《ゆめ》を振り祓う。
「なに、説教はせんよ」
蠢く青薔薇の茨に――否、その向こう側にいる眠る乙女と果てた亡霊達に向けて言葉を紡ぐ。
言葉とて他人を偉そうに言える立場ではない。だって、|一人の女《彼ノ人》すら解き放てぬ小者。
だが人の想いを直ぐ傍で眺めてきた故に――誤った道の|成れの果て《結末》を識っている。
「ただ、お主たちにはその想いの先を間違えずにいて欲しい」
夜は明けるからこそ美しい、逆もまたしかり。
夢がいくら幸せであろうとも夢は夢。現実があってからこそはじめて尊いものとなる。
「眠りの時間は終いじゃ」
濃紺の夜天を貫き降り注ぐは眩いばかりの払暁の光。目覚めを妨げる青薔薇の茨は暁光で灼き尽くしてやろう。
だからつらくとも|現実《未来》を生きるのだ。
「想い人の所に想いを返しておやり」
薄く笑んだ言葉の表情はやわく優しい色彩に染められていた。
――░░類よ。大いなる░░░░を░░け。
░░░░の始░░には░░░░があり、░░░░こそが░░░░を統べる░░░░なのだ。
全ては░░░░より出でて░░░░の元へと帰す。
――――░░類よ。大いなる░░░░を░░け入れなさい。
「――|混沌《カオス》が見えます……」
何処か恍惚とした声音で星越・イサ(h06387)は呟いた。
眼前にあるのは地球のどこかの"ような"景色。それであって、地球上ではない遙か彼方の景色。
過去の記録、未来の可能性。収束する時間軸。肥大化する傲慢な意識。
その他いろいろ、もろもろ。
すべてが重なりあってはぐちゃぐちゃと悍ましく美しく混ざり合って、イサの視界いっぱいに広がっている。
「あぁ……」
ふたたびイサの口から恍惚の聲が漏れる。
これは間違いなくイサが望んだ世界。すべてがあべこべで正しい秩序的に無秩序な世界。
上下左右すべてひとしく存在して、消え失せてゆく。
突如現れた光景はカラフルに色付いているかと思えばモノクロに色が失われて、サイケデリックに光り輝く。
砂嵐が走るようにノイズが走ったかと思えば、急にに鮮明になって渦巻いて原初の|宇宙《コズミック》の中へと消えてゆく。
ひとつの渦に消える。混ざり合って、ひとつに解けて。
――やがて観測できたのは冒涜的にグロテスクでありながら溜息が溢れるほどに美しい、原初の混沌。
すべてが生まれ、いずれ還るところ。
「ふふ」
笑みを溢してイサは青薔薇を”認識”する。
「あなたも理解できるんですか? それとも、理解できないまま私にこれを魅せてくれたんでしょうか?」
いずれにしても良い。関係ない。だって夙に原初の混沌は傍にあって我々を手招いている。
ああ、でも理解をしようとするのが人間の本能でしょうか。
否、あなたは人間ではありませんが、人の心を捕える怪異であるならば多少はそれなりの心得とやらはあるのでしょうか。
見たものを理解しようとする。それは人間の本能です。
だって、理解できれば|■■《安心》できますから。
だけれど、それはよくないことでもあります。
初めて見るものを既知のストーリーに押し込めてしまったり、理解できないものを視て狂気に陥ったりするのですから。
「――|普遍的であたりまえの常識《そんなもの》は、うつしくないでしょう?」
イサは押し寄せる情報量に圧倒される。
ちっぽけな一介の脳では宇宙の混沌のすべては受け止め切れず、ひどい頭痛と目眩に襲われる。今は、まだ。
それでもそれに耐えながら、イサは己の立ち位置を再確認する。
「私は人類に味方する狂者。混沌を恐れず、嫌悪しない。それでいて、取り込まれない」
――『理解できないものを理解できないまま直視し必要なものを選びとる』。
それがイサのすべきことであり、使命だ。
イサの心は隙だらけだ。だが、同時に隙なく狂気で満たされている。
「――さぁ、武器は十分に集まりました」
幼子にふれるかのような手付きで青薔薇の触手に触れ大量の断片的な情報の屑を送り込み攻撃した。
人は重ねた時の分だけ想い出を積み上げて未来へと生きる糧とする。
決して時が逆巻くようなことはなく、過ぎ去ったあの頃は決して戻れぬことを理解しているからこそ届かぬものへと手を伸ばす。
かつての時間が愛おしければ愛おしい程、大切なものであれば大切なものである程《枷》は幾重にも重たくなる。
「届かぬものほど眩しいものよ――疾うに良う知っておるさ」
詮無いことなのかもしれないが。ツェイ・ユン・ルシャーガ(h00224)は少し自嘲をふくんだ笑みをゆるく浮かべた。
故に、眼前へと現れたその光景は空虚な幻に過ぎぬことをツェイは識っていた。
記憶の中は斜陽の茜色で染められた世界に眩いばかりの黄金色の大木が彩っている。
大木は背の高い銀杏であった。年数を重ねて年老いた銀杏の幹は太く黒くゴツゴツと角張っている。
銀杏の老樹は茂らせる黄金色の葉はそれは見事なものであるのだけれど、その幹に確かな樹齢の片鱗を魅せるのだ。
銀杏の樹の下で手招く女の嫋やかな手と、老いた銀杏の無骨な幹はまるで対照的。
そうして女の傍らには、斜陽をあびて長く濃く伸びている一人分の影がひとつ。
(ふふ――夢まぼろしとて、知らねば逢えぬは道理よの)
その影の持ち主の姿はどれほどに目を凝らそうと見えるようなことはなかった。揺れ動く影の形に覚えもない。
まるで|映写幕《スクリーン》越しに虚像を見せられている感覚にも似ていた。
「――流石に白々しいのう」
口元を袖で隠してツェイはゆるりとした笑みを浮かべる。籠められた色彩は如何程のものか。
「だが、悪うはなかった―― 忘れかけておった貌をひとたび思い出せたしの」
口元に添えていた裾を流れるような所作で青薔薇へと向ける。
これは、細やかな|褒美《お返し》だ。遠慮無く受け取るがよい。
此の眸に、もう幻は映さない。
碧落の双眸に宿らせるのは対象を灼く妖眼視の力。
それでもツェイを捕えようと蠢く青薔薇はなすすべもなく燃えてゆく。
「すべては届かぬ春の|陶酔《ゆめ》よの」
煙が春宵の夜空へと立ち上る。
あまりにも儚いひとときの夢をのせて。
別離の夜櫻がはらひらと音もなく舞っている。
亡霊が消え去ってからというものの水を打ったように静寂に包まれて、かえって不気味に感じる。
いや、静かになったのは傍らにいる妹リュドミーラ・ドラグノフ(h02800)が先程とはまるで違う様子で真面目な表情をしていることもあるのだろう。
「あれが、目標ね」
亡霊達と戦っていた時よりも随分と落ち着いた低いリュドミーラの声音。
ルスラン・ドラグノフ(h05808)は別離の夜櫻に根付く青薔薇の中心で抱き眠る女の顔を見つつ物思う。
絶望の現実を受け止めて、愛しい人のいない世界に戻るのか。
もしくは、大切な人の姿を模した偽者の腕の中で幸せな夢を見るのか。
きっと正解などありはしない。
理想論は現実に戻ることだろうけれど、最初から正しいことだけを選べていたのであればこのような事態にはなっていないだろうから。
「……僕達は当事者じゃないから無責任なことは言えないな」
「もしかして、あいたい相手のこと? そんなもの目の前にいるからそれで十分だわ――あたしは現実派なの」
答えの出ないような問いを思考の中で廻らせていたルスランに対して、リュドミーラはあっさりと言ってのけた。
随分と|言い捨て《あっさりとしてい》るものだ。
「壊れてしまった過去は振り返らないわ。どうせ考えても仕方が無いことだし今は目の前のことに集中するのみよ」
「それもそうか。このまま放置すると他にも囚われる人が出るからね。彼女には悪いけれどそろそろ目覚めて貰うことにしようか」
「では始めましょう」
猫を召喚したルスランの隣でリュドミーラは赤いインクをしたたらせた大きなペンを構えて、宙に大きな絵を描いた。
描かれて墨絵から脇出でてきたような|太古の怪物《ミンナ》とルスランが召喚した猫が難なく茨達を刈り取り進んでゆく。
今までも数多の戦いを重ね、共に過ごす時間も長かった|太陽と月の吸血鬼の双子《リュドミーラとルスラン》にとってはこれしきの相手は露払いにもならない。
故に苦戦することなどはない。だが、リュドミーラの表情には少し翳りの色があった。
桜の樹の下には何かが埋まっている。埋められているのであれば下手に掘り返さずにそのまま沈めて、忘れてしまった方がいい。
そう脳ではわかっているが何故かリュドミーラは何かに取り憑かれたかのように考えを打ち破ることはできない。
疼くように痛む胸。理由はわからない。だけれど、昔きっと何かがあったはずという確信だけがある。
「【月】……」
それは、戦いの最中でぽつりと漏らされたリュドミーラの呟きだった。
意味のない言葉だったのかもしれない。ただ戦いの最中で断片的に聞こえた単語が、どうしてもルスランの気にかかる。
「ん? リューダ……?」
「え? あ、気にしないでちょうだい」
「そうか、ならいいんだ」
妹の様子が気になりつつもルスランはナイフを握る手にふたたび力を込めて茨を断ち切った。
永久に咲き続ける都合の良い花なんてつまらない。
散りぬ時を知りてこそ花は花たりて美しく尊い。
眩いばかりの春の陽射しを遮るのはやわい風に揺らぐ藤波。
噎せ返る程に濃厚な藤花の香りの中で彼女は笑んでいた。
「……やっぱりあなたでしたか、姉さん」
「ええ、和茶。久しぶりですね――逢いたかったですよ」
たおやかに微笑みを浮かべてみせて八代・和茶(h00888)を見つめる姉の八代・藤子の姿は恐ろしい程にあの日のままだ。
白藤色の絹糸のような髪に己とは異なる柔らかな藤色の双眸。まるで神が作り上げたかのような完璧な神子の姿が其処にある。
「ええ、私もとても逢いたかったですよ」
和茶は拳をぎゅっと握りしめる。この姉に抱える愛情、憎悪、劣等感、嫉妬、慕情――様々な感情が心の中で吹き荒び狂いそうになる。
早逝した母の代わりに和茶を慈しみ育てた年の離れた姉。
(……でも、私はあなたが許せない)
八代・藤子は完璧な神子だった。
誰しもが褒め称え嘱望し歴代最強の巫女とまで謳った姉は恋に狂い、愛した人の後を追い命を断った。
巫女としての使命も生贄としての運命も何もかもを和茶に押しつけて勝手に居なくなった。
|藤子《姉》が寄せられていた期待を、重圧を、宿命を背負わされた|和茶《私》がどんな苦労を負わされたか解らないだろう。
(それでも……)
貴女を慕う気持ちは捨てられなかった。
今でも和茶は藤子のことを優しくて大好きで、弱くて憎くて大嫌いだ。
様々なものがごちゃ混ぜになって渦巻く感情を和茶は拳に込める。
「……それじゃあ、歯食いしばってください!」
●
甘い|千本桜《ちもとざくら》の香りが千桜・コノハ(h00358)の鼻孔をくすぐった。
嗅覚は記憶を呼び覚ます。面影も掴めぬ程薄れた記憶でもどうやら|幻影《うそ》を描き出すには十分なようだった。
紫紺の夜空に場違いな程咲き映える桜の見事な彩りが目に灼きつくようにコノハの夜櫻色彩の双眸に映る。
夜桜吹雪の中に人影があった。
(あれは、僕の――)
切なく胸を締め付けられる程に希った光景。
狭い鳥籠の中で繰り返し夢にみた|"桜"《家族》が集う光景は実体をともなって眼前に存在している。
「――|木花《コノハ》」
艶やかな黒髪に桜の色彩を纏わせた女が柔らかな聲でコノハの名を呼ぶ。
「――――……」
己の口が何か勝手に言葉を紡ごうとしている。思わず伸ばしてしまう手をぐっと堪えた。
「ははっ! 随分といい夢見せてくれるじゃん」
コノハは笑う。その表情には諦めと自嘲の色彩が込められている。
解き放たれて自由に空を飛べるようになった|現在《いま》はあまり見なくなった。
だけれど、鳥籠の中で何度も繰り返して見ていた夢だった。何度も希った光景だった。
其れが斯くように残酷な程に優しい色彩を持って描かれたのだとしたら、このまま眠りに堕ちたくなる気持ちだってわかる。
「――でも、僕は夢じゃなくて現実で逢いたいんだ」
この手で家族と触れあいたい。直に温度と想い出を分かち合いたい。
其れは此処にいたら叶わぬ願いだから。
「だから、夢なんて見てる暇はないんだよ」
コノハの言葉は強い意思を持って青薔薇に抗いまやかしの光景を振り祓う。
「コノハさん」
「和茶、待たせたね」
コノハは気が付けば元居た別離の夜櫻の光景の中に居た。
大きな赤椿色の双眸を不安げに揺らした和茶がコノハを見つめている。
「君はいい夢見れた? ……なんて、聴くまでもないか」
「……いいんですよ、一発喰らわせて少しすっきりしたので。ともあれ、あなたが|陶酔《ゆめ》に捕らわれなくてよかったです」
「一発?」
和茶の口から飛び出た予想外の言葉にコノハは思わず目を丸めてしまう。
「ええ。私に全てを押しつけて勝手に逝った姉に一発見舞ってやれたので良いんです」
和茶の表情は晴れ晴れとしており、その言葉に嘘偽りのひとつもないことが解る。
けれど。
「君のお姉さん……その……」
逝ったという一言で彼女の姉が泉下の客となったことを悟る。
そうだと知らずに、コノハは何度も比べるような言葉を和茶にぶつけた。
今更後悔したところでぶつけた言葉を取り消せるわけもないから、今更意味のない謝罪に過ぎないけれど。
「……ごめん」
「いいって言ってるじゃないですか。色々苦労はさせられましたが私は自分が選んだ道を間違いだなんて思っていないので」
和茶の強い言葉にコノハはひとつ頷いて墨染めを抜く。和茶も瞳に力を込めて|青薔薇の方《まえ》を向く。
弄んだ想いの代償は重い。全部斬り祓い――そうして、戦を舞った後には何もなく静寂だけが残る。
「大切な人に逢えない気持ちは私もわかります。……ご家族、いつか逢えるといいですね」
和茶の見通すような言葉に一瞬驚がコノハはすぐにいつもの調子を取り戻して。
「大丈夫。僕の家族はちゃんといるし……何処かで生きているはずだから」
「ええ。大丈夫です、コノハさんの傍にご家族らしき霊は視えませんよ」
「……ふん、君に教えてもらうまでもないけど巫女のお墨付きか」
刀の柄を撫でながらコノハは顔を逸らした。
「まあ、ありがとう。礼は言っておくよ」
いつか、きっと"|道《ルート》"が繋がり交わることがあれば――逢えるから。
「――おかえりなさい」
あの子が花のような大きな瞳をとろかせて笑んだから、白浜・轟(h04264)の心臓は自分の意思とはまったく関係ない場所で大きく揺らぎ波打った。
あの子は花のような笑みで、ひだまりのように柔らかな声で、ひたむきにまっすぐに見てくる。
小首をかるくふれば揺らぐ艶やかな黒髪。触れればいともたやすく折れてしまいそうな身体。
愛らしくなんにも哀しいことなど知らないような表情であの子が無邪気な微笑みを浮かべていた。
「今日ね、ハンバーググラタンにしてみたの」
前に好きだったと言ってくれたから。
そう言いながら甘えるように抱きついてきたけれど、その細い腕では大きな轟の身体を抱き締めることはできない。
ふたり暮らしの部屋は二人分の幸せを詰め込んだ小さな箱庭にも少し似ている。
あの子は部屋に通してくれて、熱々と湯気が立ち上るハンバーググラタンを出してくれた。
二人分の食事が並べられた食卓に、二人分の家具。
何処を見渡しても|余計なもの《家族写真》はなにもない、ふたりだけの世界。
「この前一緒に行ったカフェ、また行きたいな」
「この前のカフェ?」
「えっと……お店の名前なんと言ったかな。忘れちゃった。ラテアートが名物のところで、頼んだライオンのラテアートが泡がちょっと潰れて情けなくなっていたのがなんだかゴウくんみたいで可愛かった」
覚えてる?と華奢に小首を傾げてみせて轟の言葉を待つ彼女。
その仕草すべてに信頼が込められている。頼ってくれて、甘えてくれて、我儘を言ってくれる。
そんな何気ない日常に、幸せを感じてしまった。
(ああ、馬鹿みたいだな)
どんなに望んでも、焦がれても手に入らないものだと解っているから、それが|陶酔《ゆめ》に過ぎないのだと轟は理解してしまった。
噎せ返るような薔薇の香りに轟は眉間に皺を刻む。
彼女が漂わせる花の香りはこんなものじゃない。
幻影を振り払った轟は苛立ちのままに茨を殴りつける。
多くは望まない。望む権利もない。今日も己の中で燻る火に灼かれそうになりながら現実を生きていくしかなくて。
――今欲しいのはあの子の本当のおはようの言葉だけ。
ただ、願わくばあの子の|視界《せかい》の中にいられたら――今は、それでいい。
薔薇の濃密な薫香が脳内に染みこんで広がってゆく。
その感覚は酩酊にも似ていて抗えぬままに陶酔へと堕ちる。
「深琴」
兎沢・深琴(h00008)の鼓膜を優しく揺らしたのは決して忘れえぬ柔らかな声。
俯いていた深琴が顔をあげれば眼前には姉がたおやかに微笑んで深琴を真っ直ぐに見つめていた。
「此処は……」
「旅行先の植物園のローズガーデンよ。どうしたの? 深琴、もしかして――寝ぼけてる?」
戸惑う深琴にくすりと姉が笑った。
姉に言われて深琴の脳裏に経緯が浮かんでくる。
今年小学校に上がった姪の入学祝いの家族旅行。
ちょっと奮発をしてテーマパークにでも行こうかと話し合っていたら、姪本人が『しょくぶつえんがいい』とリクエストをしたのだ。
薔薇を愛する姉は決して広いとは言えない庭で工夫しながら薔薇を育てていた。
その姿を見て育った姪もいつの間にか姉のガーデニングを手伝うようになっており『もっとお庭にりっぱなバラをさかせたい。たくさんのバラもみたい』と思うようになっていたらしい。
いつの間にやら動画サイトを漁って自分で行きたい植物園を見つけてきたのだから現代っ子は大したものである。
「ふたりとも此処に居たのね。ソフトクリームが食べたいみたいだから呼びにきたわ」
「そうそう。ママ達とみんなで食べるんだと言って聞かなくてね」
姉と話していたら老年に差し掛かった年頃の男女が深琴達に声をかけてきた。
どうやら姪が姉と自分とソフトクリームを食べるのだと騒いで義兄と共に待っているらしい。
愛されてるわねぇと穏やかに笑っている男女は両親に間違いがなかった。だから、深琴は『ああ、都合の良い夢なのだ』と理解してしまった。
何処にでもあった幸せな家族の絆はたったひとつの事故が壊した。
事故で義兄と姉が亡くなった。あれ程大好きだった姉にもう二度と出逢えない事実が辛くて幾度も夢であってくれと願った。
それは両親も同様だったようであの事故以来心の底から笑うことはなかった。
いや、笑ってはいたのだろうけどその笑顔が無理をして作られたものだと気付くのにそう時間は掛からなかった。
気が付けば深琴の頬は濡れていた。暖かくも冷たい感触にああ、私は泣いているのかと自覚をする。
両親がかつてと同じ笑顔で手招きをしていた。姉も優しく微笑んでいた。
取り留めもない、ありふれた日常。
戻れない日々は――こんなにも恵まれていたんだって、喪ってからはじめて気付くなんて。
「深琴、行きましょう」
姉が柔らかな声でふたたび深琴の名を呼び誘うように手を差し出す。
もう何も考えられなかった。薔薇の薫香に思考を支配されて堕ちるように姉の手を取ろうとした深琴の右手に鋭い痛みが走る。
痛みは|陶酔《ゆめ》へ堕ちる深琴の意識を現実へと引き戻した。
《深琴、駄目だよ。しっかり意識を保つんだ》
全身の毛を逆立てて険しい表情をして必死に呼びかけていた星に深琴の視界が涙で滲む。
「ダメね……覚悟をしていて臨んでも、結局は強がりに過ぎないなんて」
涙で濡れた酷い表情を隠すように星を抱きしめて、その身体に顔を埋めさせる。
「ごめんね……ありがとう……」
喪ったものは戻らない。夢を見たって所詮は偽物。
だけれど、この手にある存在だけは――本物だ。
水面に小石を投げ入れた時のように揺れ動く感情は中々凪ぐことなく心の裡に存在している。
氷薙月・静琉(h04167)のこころには今も|亡霊達《かれら》への情がさめやらぬことなく支配している。
重ねた歳月の分だけ薄れるものだと願い想っていた感情はむしろ執着を増していくばかり。
なんとも諦めが悪く、そんな自分の醜さをしかと突き付けられているようで暫く揺らぐ感情は収まることはなさそうだ。
だけれど、今はそのようなものに引っ張られている場合ではない。
感傷に浸ることなどはいつでもできる。だから、割り切らねば――そう己に言い聞かせど喚符を構える手にはいつもよりも力が籠もってしまっていた。
「……新月、来い」
呼び出ずるのは雪のように眞白の色彩を宿した狐の護霊。
「茨に触れぬよう気をつけて行くんだ」
静琉の命令に新月は『あい分かった』との感情を込めた視線を返して器用に茨を交わしながら進んで行く。
新月が敵の注意を惹きつけている隙を狙い和弓を構えた――その時、眼前が眞白に染まった。
否、それは眞白ではなく白銀の雪景色であった。
凍て付く季節の寒々しい雪景色の中に彩を宿すように光景が黄泉還る。
「――――、」
彼女の唇が何か言葉を紡ぐように揺れ動く。
白銀の世界の中で一点のみ美しい色彩を零したかのように鮮やかな藍瑠璃色の少女が存在している。
振り返れば藍瑠璃色に揺らぐ髪とともにちりんと澄みながらも寂しげな鈴の音が鳴り響く。
少女はその掌で不香の花を受け止めて藍瑠璃色の双眸で縋るように静琉を見つめていた。
「ゆ………!」
少女の名を呼ぼうとして、喉が引きつる。
ああ、この感情は――後悔だ。
(……俺が、傷つけたのに)
歳月を重ねて徐々に彩りを失くしていく記憶の中でも、彼女への感情だけは色褪せなかった。
脳裏に灼きつき離れない彼女の哀しに歪む顔。怯えて、苦しませた声――なのに、また傷つけるのか?
弦を引く力が躊躇いに歪む。
(わかっている。本物じゃないって……)
なのに、何故身体が動かない。手が震えている。
――俺という存在があいつの害であった事実を忘れるな。
頭の中から声が聞こえる。
ああ、わかっている。わかっているんだ。本物じゃないって。
だけれど、彼女を前にして動けるはずなんてなかった。
自らを縛り付けるように動けない静琉の迷いごと灼き祓うが如く護霊・新月が放つ青焔が青薔薇を灼く。
まるで『しっかりとしろ』と言わんばかりに夜に響いた新月の甲高い鳴き声で、ようやく静琉は呼吸の仕方を思い出したかのように思考力を取り戻してゆく。
「……すまない」
再び弦を構え直し霊矢を放つ。
あれは、彼女ではない。それでも。
「傷つけて、ごめん……」
届かない謝罪になど意味はないのではないか。霊矢の行く先を眺める静琉の口元は自嘲に歪む。
ああ、きっとこれは独りよがりの感情で。
初雪は 千重に降りしけ 恋しくの 多かる我は 見つつ偲はむ
――それでも、どうか、きみを想うことだけは赦しもらえないだろうか。
春の宵。見上げた夜空には朧霞が立ちこめていて星は見えない。
ただ静かな月だけが朧に暈かされてひとつ孤独に存在をしていた。
想い出は苦い薬に似ていて、後悔は致死性の毒に似ている。
白片・湊斗(h05667)は水怪達に邪魔される視界の中で青薔薇を眺めていた。
ましろの血の気の薄い不健康そうな表情で青薔薇に抱かれ眠る藤嶋・菫はいったいどのような夢を見ているのだろうか。その夢の中で彼女は幸せに過ごせているのだろうか。
彼女が幸せな夢を見られているのだとしたら――救われるのだろうか。
彼女がせめて良い夢を見られていることを感情の何処かで願ってしまっている自分がいることに湊斗は少しの驚きを感じつつもすぐに自嘲の溜息を漏らした。
藤嶋の眠り続けるその顔がいつかの誰かに重なる。湊斗は視線を逸らしたくなったけれど身体はそれを拒むようで花茨を眺め続けていた。
恐怖という本能は肉体の制御を支配する。青薔薇への警戒も同じくらいの幻影への恐れもあって、どうしても視線を逃がすことができなかったのだ。
「……幻影、か」
湊斗には魅せられる幻影への心あたりらしい心あたりがあるだけに背筋を走る冷たい感触に心を大きく揺らがせていた。
思い出すのは薄紫色がかった白髪に白衣という純白の出で立ちの中にあって異彩を放つ琥珀色の双眸。
整った要望に纏うミステリアスな雰囲気。だけれど研究欲は旺盛で興味の赴くままに押しが強く一直線。
突き放そうとしても彼女は逃してはくれない。何も面白いことなどないだろうに彼女はその琥珀色の双眸でいつも湊斗の瞳を見つめていた。
ただひたすらに真っ直ぐに馬鹿げた夢想を語る彼女に呆れつつもいつしかその関係性が心地よく|拠り所《Anker》となっていたと気付いたのはいつ頃か。
――今は確実にそう想ってる。だって、頭の片隅でいつも通りに話せる日を希ってしまっているのだから。
「白片君はいつものでいいよね。はい、どうぞ」
気が付けば琥珀色の双眸が湊斗を見ていた。その手にあった2本の缶コーヒーのうち1本を自分に手渡してきた。
まるでかつて休憩時間に繰り返されていた日常と同じ調子の気楽さだ。
彼女はいつも同じ缶コーヒーを買い自分に渡してきていた。
何故いつも同じなのかと聞けば「白片君はこれが好きだろう?」と何故訊ねるのか不思議そうな顔で返した。
ああ、そういえば確かにいつもこのコーヒーを買っていた。
ただ、買っていたの近い自販機で取り扱っていたのがこのコーヒーだけだったからという理由で別に好んでいたからというわけではないのだが。
「今日も話そう。まずは――」
いつも通りに話しだそうとする彼女はあまりにも恨んでいない、いつもの日々の延長線みたいな表情だったから湊斗は思わず笑ってしまった。
(心の隙をつくような幻、本当に賢い真似をするものだな)
水怪達の視線を借りて|幻影《彼女》に銃口を向けて、毒の銃弾を放つ。
「……友人とは、幻としてじゃなく、いつかまた話せたらコーヒー片手に話を聞いてやる」
――優しく善良な人々から傷付き斃れて往くのは何故だろうな。
散々自分の視界を邪魔してくれた水怪達はこの時ばかりは何も応えてはくれなかった。
その|想い出《きずな》は錨であり、楔でもあった。
無理矢理心に打ち付けられた人間一人分の穴は疼くように化膿して痛みをうむのだから。
「こいつが元凶か……」
退魔刀『早暁』を構えて茨を突き進もうとした色城・ナツメ(h00816)は直ぐに眼前に広がった光景に足を止めてしまった。
「おかえり、ナツメ」
ご飯にしようとエプロン姿の母親が穏やかに微笑んで息子を出迎えた。
目の前にあったのは、|両親が弟のことで新興宗教に救いを求める前《まだごく当り前で幸せだった頃》の日常風景だった。
穏やかに笑う母も、ソファに腰掛けてお気に入りの本を読み耽る父も、ぬいぐるみを幼児特有の無邪気さで残酷に振り回す弟も記憶のままで。
確かに、認めたくないが――これはかつての色城家の風景。
集会にいかなくていい。美味しいご飯を食べて、疲れるまで友達と遊ぶ――そんな、とりとめのない日常。
奮発してお寿司を買ってきたと母が言う。
良い焼肉用の肉を買ってきたら母も寿司を買ってきてしまっていたんだと父が照れながら言う。
たまには折角のお祝いだから豪華な食卓もいいよねと両親が笑い合う。
「おにいちゃんもたべよー?」
ナツメの裾をひっぱりながら、悍ましい程に純粋で妙にあまったるい弟の聲が鼓膜を揺さぶる。
「や、めろ……違う、これは現実じゃない」
まるで金縛りにでも遭ったように動けないナツメが絞り出すように言葉を発した。
すると、弟の「いただきまぁす」と|欠損《なく》したはずの左耳から聞こえてきた、気がして。
「ぐ、ぁ……」
膝をつき右手で口を覆う。内臓から口にむけて込み上げてくるものを何とか堪えて抑え込む。
視界が回転し内蔵は出鱈目に掻き混ぜられたようにひたすら気持ち悪い。
眼前に在るのは、還りたかったはずの光景。
だけれど状況を己の肉体全てが拒絶している。
息をするにもようやっとの状態でナツメは蹌踉けながらも鞘におさめたままの早暁をまるで杖のように支えにして何とか立ち上がる。
「違う、違うんだ……!」
ふらつきながらも己の意思を強く持ったナツメの眼には、まるで出鱈目に巻き戻しボタンを押したかのようにふたたび幸せそうな家族の光景が映る。
ああ、でも、これは|陶酔《あくむ》だって今ならはっきり理解できる。
だって、自分が生きる世界はこんなにも優しくないのだから。
なんて残酷な世界なんだ。理不尽な運命なんだ。望んだものはそう大それたものでもないのに――何故、それさえも叶わぬのか。
それでも、惨めったらしく願ってしまうのだ――生きたいと。
「世界に|明日が来《あなたがい》なくとも、今この瞬間、命を燃やせ……っ!」
滾らせるのはただひたすらの"|全力《希望》"。荒々しく迷いを叩き壊すような一撃は青薔薇の茨を薙ぎ払った。
周囲から怪異の気配が消失したことを確認したナツメはどさっとその場に座り込む。
「折れた腕は能力のお陰ですぐに治るだろうが、脳がきついな……」
能力の同時使用は思いのほかに反動が大きいらしい。
だが、そのおかげで目は覚めた。
深く息をしながら空を仰ぎ見れば遠くの夜空は仄かに白みはじめている。
(ああ――夜明けも近いのか)
長い夜だった。それでも世界は巡り現実は廻り――長い夜を経ても必ず|明日《あさ》はやってくる。
「俺が生きるのは今、この現実だ……」
喩えばね、時々こんなことを想うんだ。
――いおりの心にも、逢いたい人はいるのかな、って。
神々廻・ヰヲリ(h02573)の世界はまっしろ無機質で、薄暗かった。
ほとんどベッドに寝たきりだったいおりが知っているのは真っ白で無機質な光景と、あの子が話してくれる優しいお話。
それから『カミサマ』のお話。
大人たちが話す内容は、小さい頃のいおりは最初よくわからなかった。
でも、ベッドの上から得られる情報の欠片をパズルのように組み合わせて導き出したのは――どうやら、みんながいおりのことを『カミサマ』にしたいんだってことだった。
施設の人達も、両親とされていた人達もみんな同じでただの一度もいおりを人として接してくれたことはなかった。
変わらない生活の中、与えられるだけの環境で、押しつけられた宿命をその身に受ける。
だから逢いたい人が誰か問われたら正直わからないとしか応えられなかった。
多分、また逢ってみたいなって想う人はいるけど強く希える程の人は居ないのかなと自分でも思う。
でもそんな中でもたったひとつだけ、不思議な経験があった。
幻なのか夢なのか現実なのかよくわからない場所で、ヰヲリはいおりとそっくりな誰かに出逢った。
朧気な記憶の中でいつも彼女が浮かべていた笑顔だけははっきり覚えている。
いつもその唇をうごかして何かをヰヲリ語りかけていた。でも、伝えようとしてた言葉もわからない。
だけれど、なんとなく――夢か現実か、それを決めるのは自分自身だって伝えようとしてたのかなという直感があった。
常に夢と現実の境界線上を揺蕩うように生きるヰヲリには|陶酔《ゆめ》は訪れなかったらしい。
(いや、もしかしたら見ているのかもしれないけれどいおりが気付いていないだけかも)
ふと脳裏に過ぎった考えだったけれど自分で思い至って妙に納得をした。
胡蝶の夢。夢と現実の狭間――どちらが本当か今のヰヲリにはわからないけれど、今やるべきことだけはわかる。
「夢をみせてあげよっか」
青薔薇に集う蝶が導くその先は、二度と開かない死の柩。
「それじゃあ、さようなら」
廻る幻葬は永遠に、あなたの命が尽きるまで。
気高く眩く見えたあの姿が死地へと向かうものだと知っていたら、俺はこの腕を千切れるほどに伸ばしてでも止めただろう。
アダルヘルム・エーレンライヒ(h05820)の心の大半を占めるのは後悔と自責の念だけだ。
良い人程早く連れていかれてしまうとはよく言ったものだ。
父親としても領主としても最低な男の悪行を暴くと帰郷した親友は、その父に殺められかけた。
そして、ふたたび顔を合わせた時には親友は自分のことがわからなくなっていた。
否、自分のことだけではない。親友は己の名も辿ってきた足跡もすべてを喪失していた。
ああ、これはきっと嘘だ――すべて、悪い夢だったのだ。
幻想に逃げようと己に言い聞かせたこともあったが、無慈悲たる現実がは何ひとつ変わることはない。
ある日誰かが言った。命があっただけでもいい。助かってよかったと――|他人《部外者》は簡単に言ってくれる。
確かにそれは正論なのかもしれない。もう二度と親友に逢えぬ現実を想像するだけでアダルヘルムの心が悲鳴をあげる。
|長命種《エルフ》として幾度も|別離《わかれ》を経験した。その都度に胸を貫かれるような激痛に襲われる。
それならば最初から望まねば良いのに、どうしても諦めきれなくて傷と痛みを増やしていくのだ。
斯くように戻らぬ絆を想っていたゆえか眼前に現れた光景にアダルヘルムは大きく深紅の双眸を見開いた。
夏の眩いほどの陽光をうけて燦めく穏やかな菫色の双眸がアダルヘルムを見ていた。
日向に照らされあたたかな色彩に染まる髪が風に揺らいでいる。
傍らには悪政の犠牲者として消息不明になっているはずの彼の妹もいて、ヒマワリの花束を抱えていた。
誕生花だろう。アンタのためじゃないけど。
口々に懐かしい聲と口調で告げて|正義と公平の象徴《ヒマワリ》を差し出してくる。
――騎士を志すお前にお似合いだ。
何よりも、その言葉が嬉しかった。居ても良いとはじめて認められ赦されたようでとても幸せだったのだ。
アダルヘルムは魔術の才を持つ子を望む両親のもとに才を持たずして生まれた。
弟ふたりが才能に恵まれていたからこそ余計に周囲の失望は大きかっただろう。
才に恵まれず、必要とされず、愛されたこともない存在。
価値もたぬ存在であるなれば――。
「……ふたりの代わりに、俺が犠牲になっていれば」
ついぞぽろりとこぼれ落ちた言葉。
いつだって悔いていた。あの時に着いていけば何かが変わっていたのだろうか、と。
心を深い悔恨の色彩に沈めつつも、アダルヘルムは|陶酔《ゆめ》に呑まれなかった。
だって、ゆめだと最初から理解していたのだから。
日向に行く資格もない。だから今日も家に帰って親友の食事を作り、失踪した妹を探さねばならない。
彼らに抱く心からの友情と親しみを"愛"と呼ぶことが赦されるのなら――。
「飛んで逝け、|不死蝶《エオストレ》」
菫色の光蝶が燐光を放ちながら|大切な人達《いばらのゆめ》へと向けて飛び立つ。
蝶の燐光が幻想を祓い少しずつアダルヘルムが生きなければならない|現実《ルート》が見えてくる。
ひらはらと散りゆく桜の中を舞うように空を游ぐ光蝶はやがて辿り着き、幻影を振り祓った。
――どうか届けてほしい。臆病な俺が伝えられないままの、言葉の代わりに。
愛してるとも、永遠に。
いつか、本当の君達に届けることができたのなら。
そう、愚かしくも希ってしまうのだ。
白い画用紙にならばどんな夢だって描ける。
爛々と無垢な瞳を輝かせた子どもは広げた画用紙にクレヨンでいっぱいの夢想を書き連ねてゆく。
描くは理想の魔法少女。テレビで見た魔法少女よりもずっとステキで可愛くて格好いい最高の|魔法少女《ヒロイン》。
自分のおもう可愛いをすべて詰め込んだ。
髪の毛はママに結ってもらったお気に入りの三つ編みとワンサイドアップ。
服装は親戚のお姉さんの結婚式で見たウエディングドレスがすてきだったからそんな感じの可愛いふりふりの白いワンピース。
自分の理想と夢を画用紙いっぱいに詰め込んで生まれた希望に充ち満ちた魔法少女。
「――なんて、都合よく浸れたらちょっとは楽しめたかもしれないけどね」
夢野・きらら(h00004)は他人事のようにあっさりと吐き捨てて、目の前の光景を傍観するように眺めた。
目の前の子どもはひたすら夢中に画用紙に絵を書き連ね、時折母親と思われる女性に夢物語を語り聞かせている。
画用紙に描かれている"魔法少女"は拙い絵なれども間違いなく夢野・きららの姿を取っていて――ある意味予想通りの"茶番"だ。
「こんなの、くだらない|幻想《うそ》だよ」
きららは己の欠落を自覚している。
欠けた|人間性《もの》を繕うのは眩い程の夢が詰め込まれた魔法少女。
(それでも……往生際悪くぼくを誘おうとしたんだろうけれど)
こんなものは不快でしかない。わざとらしく味付けされた吐き気をもたらすような料理を無理矢理口に詰め込まれているような感覚だ。
|表向き《ガワ》だけを取り繕った|幻想《うそ》などに|意味《たましい》などあるはずがない。
――こんな"駄作"など、ぼくは求めていない。
「《《ぼくの想像通り》》じゃ困るんだよ……!」
滾らせた魔術は青薔薇がもたらす陶酔世界を打ち破る。
眩い程に燦めいていたあの日あの時の想い出はきららが溜め込んだどんな"知識"よりも"傑作"だった。
ゆえに探すためにきららは|正義の味方《やくわり》を演じているんだ。
(青薔薇、君を倒すのに必要な思い出はこの場にたくさんある)
君が他人の想いを利用するのであれば、ぼくはぼくの思い出を利用しよう。
君が表面だけ擬えて本質もわからないままに猿真似た贋作などではなく、真実の物語を。
「だから勝って、現実を歩む糧にする――!」
|改変魔術《ものがたり》の主人公は"|きらら《ぼく》"だ。故に君がストーリーラインから外れることは赦さない。
きららの魔法の杖から放たれたきらきらと七色に燦めく虹が青薔薇を撃ち抜いた。
魔術を放ち終えたきららは周囲を確認する。残る茨も残りわずかとなっているようだ。
このまま問題なく夜明けを迎えられそうだと判断して一先ず安堵の息を漏らした。
そういえば、いくつか亡霊達から遺言を受け取っていたことを思い出す。
本人がもう二度と伝えられなくなってしまった言葉達を、ネットを通して可能な限り届けてあげよう。
気休めにしかならないかもしれない。もしかしたら無駄で無意味な行動なのかもしれない。信じて貰えないかもしれない。
だけれど、きっと必要な人はいるはずだ。
――|希望《ゆめ》を与えるのが|魔法少女《やくわり》だろうからね。
笛の音が聞こえる。
己の聞くに耐えない下手な音とは違って美しい笛の音だった。
空は燃え焦がすような赤い色彩で頬を撫でる風には少し湿った冷たい気配が混じっていた。
いつも夢見る懐かしい光景。目に灼きつくように強烈な逢魔が時の空。
昼と夜。現世と隠世。ゆめまぼろしの狭間にはララ・キルシュネーテ(h00189)のこころは郷愁の念に囚われる。
いつも夢見た懐かしい光景。此処は間違いなく|迦楼羅王《パパ》の世界!
窕の様な光の鳥達が飛んでいて、粉々に砕けた空は花吹雪。
「パパ!」
ララは夢中でその名を呼んで駆け出す。
まだ飛ぶこと叶わぬ|雛女《ひめ》は逆さまに咲く藤花の原っぱを駆けて、愛しき人の腕の中へと飛び込んだ。
「パパ、パパ、パパ……!」
何度も幾度もその名を呼んで甘えるように縋り付くようにぎゅっと抱きつけば、愛しいパパもぎゅっと抱き締めてくれる。
逢魔が時の大きな翼はいつものように立派な姿をしている。
うつくしいその色を瞳にやきつけるようにみてから、ララは彼の顔を見た。
「逢いたかった」
返ってくる声はない。されど止まらぬララの口は感情のままに言葉を紡ぐ。
「独りにしないで、置いていかないで」
やはり返ってくる声はない。どうして応えてくれないの。こたえられない、理由があるのだろうか。
「すぐに迎えに……これない理由がある?」
ならばと核心に触れる問いを彼に投げればようやくその口が何かの音を立てた。
豈阪′蜊ア髯コ
鮴咲視繧呈ョコ縺励※縺薙>
鬥悶r…
耳をこらせどララに聞こえたのはただそれだけ。
されど、それだけで十分だ。
「彼奴がママに何かしたの?」
彼からの応えはない。されど、十分だ。
もう、ララのすべきことはわかったから。
願え、掴み取れ、ただひとつの唯一を。
真実を、真理を。理を飛び越えてその途と至る道筋の糧となるなら真偽など関係ない。
――|花一匁しようか《オンキシハソワカ》。
●
夢を見られるのも陶酔に浸れるのも幻想に希望を持てるのも"持てる人間"のみに赦された権利だ。
逢いたい人、還りたい光景、夢見る理想の世界――そんなものは唯の|人形《もの》である自分に持ち合わせてなどいない。
いくら外見を取り繕って人の姿に近づけようと空虚な本質が余計に露わになるようで詠櫻・イサ(h00730)の思考は哀しみの色彩に染まる。
何にもなれない"或る女神の模造品"。一種の諦観に似た感情は何度も割り切ったと思い込めど呪詛のようについてまわるものだ。
それでも、思いを寄せることができるのは己の中にいる"女神"のことだろうか。
イサは夜桜色彩の双眸を閉じて、思考の海を廻れば何重にもかけられたヴェールを青薔薇の薫香が剥がしてゆく。
遠くから、チリンと清らかで少し憂いを帯びた鈴の音が響き聞こえた。
瞳をひらけば別離の夜櫻とはまた違う色彩のやわらかくあたたかな桜のはなびらが舞っていた。
(何処だろう?)
気が付けばイサはうつくしい桜が咲く寝殿造りの屋敷に佇んでいる。
『――櫻禍爛漫、咲麗。櫻獄樂土へおいでませ』
イサを出迎えたのは淑やかに優しく美しい印象の女であった。
艶やかな|射干玉《ぬばたま》の髪。桜が揺らぐ尾に額より出でた双角。
(……龍?)
イサは思わず息を呑んだ。
目の前のこの女のことを知らない。だけれど"しっている"。
『|桜樂《ララ》がお世話になっておりますね』
聞き覚えのある名にイサは驚くように瞳をまるめた。
目の前の女は愛おしげにイサの髪を撫でそっと桜色の双眸を細めて微笑んでいる。
『……あの子は、産まれるはずのない迦楼羅の子。けれど確かにあの子は存在して――私と彼の愛しい娘である事は確か』
咲いてはならぬ仇華。されど、愛しいあの子が花開く日を待ち望むのは母として当然のことだろう。
眼前の女の瞳に鈴の音と同じ僅かな憂いの色彩が混じる。
『あの子があなたにした事は赦されないこと――けれど……どうか、私の代わりに』
女の憂いを帯びた瞳に真の強い光が宿る。
"しらない"はずなのに、何故か鏡合わせのように感じる女は真っ直ぐとイサの瞳を眺めた。
『桜樂を|とめ《守っ》て』
「……え」
『お願いします。もう一人の、』
甘い|陶酔《ゆめ》の中で女が何かを言いかけるが全てを聞き終える前に声が、桜吹雪が遠ざかってゆく。
(――待ってくれ。今、何を言おうとしたんだ)
否、あちらが遠ざかっているのではない。
まだ此処に居たいと願わせるほどの甘い陶酔。だけれど、イサ自身が"目覚める"ことを選択したから陶酔は遠ざかる。
「ララ!」
桜吹雪を振り祓ったイサはララの小さな身体をしっかりと抱き締めた。
「ふふっお前……ララは平気」
いつもの調子で笑んでみせる尊大に白虹の聖女は今だけはいたいけなただの童女に見えた。
イサのララを抱き締める腕に力が籠もる。
「お前を守るんだ」
口を衝いて出た言葉は護衛としてだけではない色彩が込められている――そう、感じて。
「……お前」
何故か眼前の少年人形にママの面影を見てしまってララは目を擦った。
(ララはまだ、夢を見ているのかしら)
そんなわけがない。ララはかるくかぶりを振って立ち上がり茨の方を見やる。
この現こそがララ達の世界。縛るものも囚うものも不要。
襲い掛かる棘も物ともせずに滾る迦楼羅焔で灼き尽くしながら茨の道を突き進む。
まってて。
かならずすくってみせるから――ママ。
「まったく、後味が悪いったらありゃしないのモグ……」
悪態を吐きながら拳銃のグリップを握るモコ・ブラウン (h00344)の手に少しだけ力が入る。
あまりの後味の悪さに本来であれば割増し料金ないしは罰金という名の特別徴収を巻き上げたいところではあるのだが、請求先が|青薔薇《アレ》では何ともしようがないだろう。
元凶たる青薔薇の茨に抱かれて眠る女性の姿を眺めながらモコは内心で深く息を漏らした。
(……ひどいことするもんモグ)
大切な人を喪った心の隙を突くなど小賢しいにも程がある。全く不愉快極まりない。
誰にだって、幸せだった頃に戻りたいという気持ちはある。
決して逆巻くことのない時間を遡ってでも戻りたいと希ってしまうことだってある。
戻れないからこそ折り合いをつけて諦めて、それでも|現実《みらい》を生きて行くしかないのに。
「それを利用する輩は、モグが刈り取ってやるモグよ!」
モコが呼び出したのは300匹を超えるモグラの軍団――否、もはや大軍と言って差し支えはないだろう。
斯くして彼らを青薔薇へ向かうよう指示しようとしたその時、舞い散る別離の夜櫻のはなびらが白い雪へと変わる。
次に感じたのは冬の凛烈な寒気。突き刺すような冬の乾いた冷たい空気はモコの頬に僅かばかりの痛みを生む。
懐かしい|√妖怪百鬼夜行《ふるさと》の光景と染みついた懐かしい煙草の香りにモコは弾かれたように顔をあげた。
「モコ、よくやったぞ」
ゴツゴツとした手がモコの頭を目掛けて伸ばされる。
(――これは)
これはいつのことだったかと思考を巡らせて思い出す。
ああ、初めてモコがひとりで|犯人《ホシ》を確保できた日のことだったか。
確か、その日もいつものように師匠とふたりで|犯人《ホシ》を追いかけていたのだが、その宛ら|犯人《ホシ》が放った攻撃が足に直撃した師匠はその場に蹲ったのだ。
慌てて大丈夫かと師匠へと駆け寄ろうとするモコを師匠は「構わず追え」と怒鳴りつけた。
モコは師匠を心配に思う気持ちと一人で|犯人《ホシ》に立ち向かわねばならない不安に押し殺されそうになりながらも必死に追いかけた。
実際にはあっという間だったのだが永遠にも感じる追跡劇の末、路地裏に追い詰めたモコは寒さと緊張で震える指先で引き金を弾き威嚇射撃の末無事確保に成功した。
その日師匠はいつもよりも褒めてくれて、夕飯にちょこっとだけいいものが出たのは大切な思い出、だが――。
「……モグの心の中に土足で踏み込むとはいい度胸してるモグ」
低い声で唸るように告げて、銀色の懐中時計を右手で握る。
かちこちと規則正しく刻む秒針の音はモコの火照った思考に冷静さを取り戻すように訴えかけていた。
(モグは負けない、モグ)
懐中時計に嵌め込まれた|四葉水晶《しあわせ》はか弱い糸なれどたしかに結わえた絆の証。
ひだまりの中で見つけた、決して離してはならない|現実《いま》を生きるための道標。
――すなわち、どんな|幻想《ゆめ》にも負けない"本物の思い出"だ。
「幸せは、自分で見つけてやるのモグッ!!」
幸せも夢も己が手で掴み取らねば意味がない。
左手を突き出し真っ直ぐ正面をさせば配下のモグラ大軍は一斉に青薔薇へと飛びかかり蹂躙した。
初夏の突き抜けるように澄んだ青い空はいくら見ていたって飽きはしない。
廻里・りり(h01760)の心は空から降り注ぐ太陽の光のようにわくわくときらきらに満ちている。
若葉の香りを漂わせた心地よい風を胸いっぱいに吸い込んでりりは水辺にしゃがみ込んだ。
お目当てはゆらゆらと風に揺らぐ花菖蒲。早速首からストラップでぶらさげたトイカメラを花菖蒲にむけてみる。
「うーん……ちがうなあ」
いまひとつしっくり来ない気がする。
実際のところは未だ幼いりりには何が”ちがう”のかはわからない。
でも写真好きの両親がよく何かを撮る時にそんな感じで唸っていたから形だけでも真似てみた。
両親のカメラに憧れて買ってもらったトイカメラのファインダーをのぞきながら、近付いたり遠ざかったり。
「きゃあ!」
だけれど、写真を撮るのに夢中で構図を足元の斜面に気付かずそのまま池に転落しかけた時――誰かがりりを抱き留めた。
「あ、おとうさん!」
振り返ればお父さんの優しい笑顔がりりを見ている。
ありがとうっていえば気をつけてねと優しく返してくれた。
(楽しかった、な)
りりはその光景を何処か懐かしいそうに眺めていた。
それは、かつてあったりりと両親が紡いできた思い出の一頁であった。
桜に藤、花菖蒲に紫陽花、向日葵に桔梗、秋桜に椿。
蛍や花火、秋の紅葉に冬の雪景色――廻る四季をファインダーで追いかけて探し見つけることが楽しかった。
今思えば、幸せな日々だったのだと思う。
(なのに、なんで一緒に行こうって誘ってくれなかったのかな)
両親はふたりきりで何処かに旅に出てしまった。寄越す手紙もあちらからは届いてもこちらからは届けられないことも多い。
置いて行かれてしまった。連れていってくれればよかったのに。
「今からでも、連れていってくれないかな」
ぽつりとつい口から溢れ落ちてしまった言葉。
すると誰かによばれた気がしてりりは意識をそちらへと向けると|ネルちゃん《Spinel》と|アステちゃん《⁂》がすぐ傍にいた。
「ちょこっとぼんやりしちゃってました」
くすりと微笑みながら前を向くりりの表情にもう迷いはない。
「いっしょに帰ろうね」
あの懐かしくて大切な思い出が沢山詰まった|場所《おうち》帰るんだ。
そして、お父さんとお母さんに『おかえり』って言ってあげないと。
りりはしっかりとその瞳で青薔薇と藤嶋・菫の姿を眺める。
ひとを呼ぶのはさみしいからかな。
夢をみせるのは、やさしいからかな。
それとも、ただのわがままなのかな。
りりにはわからない。だけれど、夢に囚われた人にだって大切に想ってくれる人達がいるはずで。
だから、やはり勝手に奪ってしまうのは"間違っている"ことだと想う。
「だから、かえしてもらいますね――これからの現実を、自分の足で歩んでほしいから」
なんてのは、わたしのわがままかもしれないけれど――。
りりが放つ青い鳥が朝を連れてくる。
払暁のひかりに消えゆく|陶酔《ゆめ》をみつめながら、りりはそっと微笑んだ。
「――おはようございます!」
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目覚めた藤嶋・菫が最初に見たものは白い天井だった。
かたわらには一定間隔に電子音を刻む何かの医療機器。
確か自分は建設予定地の調査のためにあの桜の元にいたはずだったはず。
だが、どうやら倒れていたところを"通りすがりの親切な人"によって通報されて病院に運ばれたらしい。
「あれ……わたし、なんで、泣いてるんだろ……」
何か、長い夢を見ていた気がする。
その夢はとても幸せなものでずっと見ていたいって想っていたような気がする。
だから今はこんなに寂しくて、虚しくて、心にぽっかりと大きな穴があいてしまったような気がして泣いているのかな。
だけど、さっさと起きなきゃ。こんなに情けない姿をみせていたら、きっと安らかに眠っているはずの彼に心配をかけてしまうから。
朝は来る。
どんな夜にだって朝は否応なく訪れる。
だから、どんなことがあろうとも振り返らずに歩いていかねばならないのだ。
つらく哀しくても、愛おしい――大切な人たちがいた世界を。