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天使がいた村
●天使と犬
「どうしてこんなことに……」
ピンクを基調とした、かわいらしい|私室《へや》。窓際に置かれたベッドの上で、10歳ほどの少女―――ゲルダは布団を被ってうずくまっていた。
今日は朝から熱を出してしまい、珍しく学校を休んでいる。女手一つで育ててくれている|母《ママ》は「誰だって風邪くらいひくものよ。おとなしく寝てなさい」と、薬を買いに行ってくれたが……。
「コレが、私のカラダなの?」
ゲルダはギュッと己の身体を|抱《いだ》いた。
髪は白金、涙に潤む瞳は|黄金《こがね》、そして、細く小さな手足は白磁……。
ひと眠りして目覚めたら、身体が「|出来の悪い人間の偽物《未知の神秘金属》」に変わってしまっていた。
「こんな姿じゃ、みんな、|私《ゲルダ》だって気づいてくれないよ!」
ゲルダがそう叫んだ瞬間、クゥンとベッドサイドで鳴き声が上がった。
布団の隙間から、少女は声のした方へと視線を向ける。すると、そこには雄犬が座っていた。
「……サミー?」
それは、サミーと名付けられた、黒いジャーマン・シェパード・ドッグ。ゲルダが幼い頃からずっと一緒に暮らしてきた犬だった。
「だ、ダメよ、サミー。こっちに来ないで! 私を見ないで!」
もし、家族である|サミー《イヌ》に拒絶されたら、「お前なんて|ゲルダ《かぞく》じゃない」という態度を取られたら、きっと絶望してしまう。
「私、どうすればいいの? 誰か、助けて……」
一体何が起こったのか、そして、どうすればいいのか。
何も知らない少女は、ただ震えることしかできないのであった。
●星詠みが得たゾディアック・サイン
「誰が言ったかは忘れたが……人生ってモンは、まさに地獄よりも地獄的だよな」
五百住・遊悟(沈黙の掟・h03324)は、箱から煙草を1本引き抜いた。
「予兆を見たなら知ってると思うが……√汎神解剖機関のヨーロッパ各地で、善良な人々が『天使化』するっていう事件が発生してる」
指に挟んだ煙草を揺らしつつ、遊悟は星詠みの力で予知した内容を語り出す。
―――『天使化』とは、「善なる無私の心の持ち主のみ」が感染するとされるヨーロッパの風土病。
感染者の|殆《ほとん》どは、理性や善の心を失った『オルガノン・セラフィム』という怪物に変貌してしまい、本能的に天使を襲撃・捕食しようとする。
だが、理性も善の心も失わず、肉体だけが異質な存在に変貌し『天使』となる者がまれに現れる。
「|『羅紗の魔術塔』《敵対組織》の魔術士が、その天使たちを奴隷化して連れ去ろうとしている。
だから、その「天使になっちまったヤツ」を救出して欲しいんだ」
遊悟は一瞬遠い目をしたが、すぐに√能力者たちの方へと視線を戻した。
「今回、みんなに向かってもらいたいのは、ヨーロッパの田舎にある山村―――住人の大半が『天使化』しちまった村だ」
オルガノン・セラフィムがうろつく山村に、天使が取り残されている。遊悟はそう語った。
「まずは、村の中にいる|オルガノン・セラフィム《コイツら》を……その、排除、してほしい。
コイツらは、天使を喰おうと探し回ってるから……」
|オルガノン・セラフィム《身も心も怪物》になってしまった元住人たちも、元を正せば善良な人々。
だから、倒すしかない。彼らが望みもしなかった|殺人《つみ》を犯し、「人間としての尊厳」まで失ってしまう前に。
「次に、村の中央付近に建ってる一軒家に向かってくれ。そこに、天使が飼い犬と共にいるはずだ。
見つけたら、速やかに村の外まで連れ出してやってくれ」
他にも取り残された天使がいるかまでは|詠めなかった《予知できなかった》から、臨機応変に対応してくれ、と遊悟はすまなそうに肩をすくめる。
「ここに留まる危険を説けば、ある程度は自発的に|行動《脱出》してくれるはずだ。
ああ、敵の横やりが入らないよう、逃げ道に罠を張っておくのもいいかもしれないな。
場合によっては、天使を抱えて|突破《ダッシュ》するのもアリか。
……どんな手段を取るかは、みんなに任せる」
外で待っているのは、天使にとっては残酷な現実。
それでも、|村の外《げんじつ》へと連れ出さなくてはならない。
もはや|家の中《かこ》に留まることはできないのだから。
「ただ、天使を村外へと連れ出しても、それで終わりじゃない。
すぐに|『羅紗の魔術塔』の魔術士《天使を狙うもの》が追ってくるだろう」
―――ヨーロッパの秘密組織『羅紗の魔術塔』に属する、強大な羅紗魔術士『アマランス・フューリー』。
彼女は貴重な天使を奴隷化すべく、|√能力者《われわれ》からの強奪を試みるだろう。
「もしスムーズに|脱出《コト》が進んでいれば、『アマランス・フューリー』が直々にお出ましになるはずだ。
彼女は|天使《ターゲット》を奪われてなるものかと焦ってる。だから、まずはみんなの排除をもくろむだろう」
交戦する際は|彼女《アマランス》の撃破だけを考えればいい、と遊悟は説明した。
「もし時間がかかった場合は、彼女ではなく、彼女の仲間―――赤羅紗の魔術師『レッド・ウーレン』が出てくるだろう。
ソイツは、みんなと戦うことよりも、天使を奪取することを優先してくる」
少々難しい戦いになるかもしれないが、みんななら問題なく対処できるさ、と遊悟は言う。
「事情も分からないまま|肉体《じぶん》が変わっちまった。それだけで、相当な|精神的負荷《ストレス》のはず。
その上、|怪物《バケモノ》になっちまった|村の仲間《しりあい》から命を狙われるなんて……」
現実ってのはとても残酷で地獄的だな、と遊悟はつぶやいた。
「だから、天使を|苦境《じごく》から救い出してほしい。どうか、よろしく頼む」
遊悟は姿勢を正すと、√能力者たちに向かって奇麗に頭を下げたのだった。
これまでのお話
第1章 集団戦 『オルガノン・セラフィム』

ヨーロッパの山岳地帯にある、小さな山村。
慎ましくも美しかったであろう村は、オルガノン・セラフィムと化した村人たちの手によって、今や地獄と化していた。
|建物《いえ》が破壊され、家畜も無残に殺され、|道路《みち》は泥か|体液《ち》か判別のつかない不明瞭な液体によって汚れていた。
「ギァァ……」
質の悪い|音声合成《AI音声》のような声をあげ、彼らは村の生き残りを探している。
それは、本能的な行為だった。|哀れな怪物《オルガノン・セラフィム》にはならず、真に『天使化』した―――肉体こそ変貌しているが、理性と善の心を失っていない―――者を捕食したいという。
本来持っていたはずの理性や善なる心は、彼らの中からとうに失われていた。
そうでなければ、昨日までの|隣人《同胞》を襲い、食らおうとなどしないだろう。
彼らが人間に戻ることはない。ゆえに、この場で葬るしかない。
元々は善良であった彼らの「人間としての尊厳」を守るためにも……。
赤黒く染まった村の石畳を踏みしめ、クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)は状況を素早く確認する。
「ここが|件《くだん》の……」
今や見る影もないほど破壊された家屋の数々。散らばったレンガや石の年季の入りようから、先祖代々継がれてきた|家屋《もの》だったことがうかがえる。
無残に切り裂かれて絶命した家畜たち。その体格や毛並みから、これまで大切に育てられてきたことが手に取るように分かった。
だからこそ、余計に悲しく見える。これらの惨状が、その|主《あるじ》たる村人たちの手によって引き起こされてしまったことが。
「ほんっとに嫌な事件ですね! 昨日までの良き隣人に追われるとか」
クラウスの隣に立ち、見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)はため息をこぼす。
「しかも、襲われるほうも襲う方も善人だなんて」
善き人々だけが感染するという、『天使化』という名の風土病。
同じ|土地《むら》に住むがゆえに、村人たちは同じ風土病に罹患した。
けれど、その大半は『オルガノン・セラフィム』という名の|捕食者《かいぶつ》に、そして、たったひと握りの者だけが『天使』という名の|被食者《ひと》に変容した。
昨日まで笑顔を交わしあっていたであろう者たちが、今や喰う者と喰われる者に変わってしまった。
「……何より、彼女のお母さんも……」
それはきっと、自分たちが救出を頼まれた少女と、その母親にも当てはまるのだろう。
七三子の|呟《つぶや》きに、クラウスも同調した。
「ああ。……やり切れないな」
「そうですね」
|村人たち《かれら》はただ|風土病《やまい》に罹患してしまっただけ。
誰が悪いわけでもない。だからこそ、余計に空しく、悲しい。
「……でも、感傷に浸っても、状況は待ってくれませんよね。
今できることをやりましょう!!」
七三子は愛用の仮面を被って気合いを入れ直す。
クラウスも|粒子状のレーザー発生装置《レイン砲台》を起動させた。
「そうだね。
―――オルガノン・セラフィムは俺が引きつける」
クラウスは√能力の【決戦気象兵器「レイン」】を発動させる。
|彼ら《クラウスたち》の近くにいたオルガノン・セラフィムたちが、|頭上《そら》から降り注ぐレーザーの雨に貫かれ、その体勢を崩していく。
「了解です。では、私は各個撃破のお手伝いを!」
|オルガノン・セラフィム《てき》に生まれた隙を見逃さず、七三子は利き足で地を蹴って身体を捻った。
「私ただの下っ端戦闘員なので!」
七三子の√能力、【ヒット&アウェイ】が発動した。
敵が七三子の姿を視認するよりも先に、鉄板入の革靴による後ろ回し蹴りが金属の|胴体《ボディ》に炸裂する。
「ごめんなさい」
レーザーを喰らい弱っていた|部位《ところ》に、殴打による強烈な負荷をかけられたことで、敵のボディはふたつに分かたれた。
「……私はゲルダさんを助けたいので。
私のために、あなたたちを攻撃しますね」
動かなくなった敵を一瞥し、七三子はそう呟いた。
―――|決戦気象兵器「レイン」《レーザー光線》による|大規模《範囲》攻撃によって、近場にいる|オルガノン・セラフィムたち《敵》の|体力《タフネス》を削りつつ、遠方にいる敵の意識をクラウスに向かせて。
敵の意識が|こちら《クラウス》に向いている間に、七三子が闇に紛れて敵の背後に忍び寄り、鋭い一撃を叩き込み、確実に撃破していく。
「―――七三子」
何度目かの|砲撃《レーザー攻撃》の後、クラウスは眉をわずかに|顰《ひそ》めた。
「5時に、|生存者《ひと》」
「!」
|簡素な言葉《クロックポジション》。その意図を正確にくみ取り、七三子は|クラウスが示した《5時の》方向へと走り出す。
「ギ……!」
「君たちの相手は俺」
七三子の後を追おうとしたオルガノン・セラフィムの前に立ち塞がり、クラウスはスタンロッドを振るった。
「ギィャアア!」
|レーザー《レイン》による熱傷、|打撃《ロッド》による挫滅、そして、|過電流《スタン》による|生体機械の故障《システムダウン》。
積み重なったダメージに耐えきれず、オルガノン・セラフィムはその場に崩れ落ちる。
(「もう苦しむだけの理性も残されてないのかな……」)
合成音にも似たオルガノン・セラフィムの声から、つぎはぎだらけの顔から、意志や感情を読み取ることはできなかった。
だから、クラウスは自分で判断するしかなかった。何が一番、彼らのためになるのかを。
(「せめて、少しでも苦しまないように、安らかに眠れるように……」)
苦痛を感じる間もなく逝けるよう、速攻で|決着《カタ》をつける。
スタンロッドを構え直すクラウスの後ろで、レイン砲台がオルガノン・セラフィムへと砲口を向ける。
「ゲルダを手にかけるなんて、きっと嫌だろう?
だから―――もう、|休んだ方がいい《おやすみ》」
クラウスは決意と共に、再び|決戦気象兵器「レイン」《レーザー光線》を|使用した《放った》のであった。
「だ、大丈夫ですか!?」
崩壊した|建物《薬局》の前。七三子は膝をつき、瓦礫の下から伸びている「もの」を掴んでいた。
それは、白い腕だった。手の大きさや腕の感じから推測するに、成人女性のものだろう。
きっと、オルガノン・セラフィムから逃げている際に、建物の崩落に巻き込まれてしまったのだ。
「だ……れ?」
「名乗るほどの者では……って、それよりも、いま、助け……っ」
瓦礫の中から聞こえてきたのは、くぐもった女性の声。
反射的に答えようとして、しかし七三子はそのまま言葉を飲み込んだ。
(「これ、は」)
七三子が掴んだ腕。|人間《ヒト》特有の柔らかくあたたかいその手は、しかし、徐々に金属的な物質へと変化しはじめていた。
(「天使化……」)
この瓦礫の下にいる人は、『天使化』しはじめている。
病が全身を支配して、|怪物《オルガノン・セラフィム》となるのが先か。
それとも、瓦礫の下敷きになったことで、人間として圧死してしまうのが先だろうか?
「親切な方、お願い……どう、か、私の娘、ゲルダ、を!」
白い手が、万力のように強い力で、七三子の手を握り返してきた。
「ですが、それではあなたが!」
「私はもう……。だから、ゲルダを、助けて……っ!」
こんな怪物たちに襲撃されたら、幼い娘はひとたまりもない。私のことはいい、代わりに娘を助けてあげて。
お願いしますお願いします、と壊れたレコーダーのように、瓦礫の下にいる|女性《ひと》―――きっとゲルダの母親であろう―――は繰り返す。
「……大丈夫、です」
ギュッと一瞬だけ強く唇を噛みしめて。
相手を安心させるように、七三子はできるだけ落ち着いた声で語りかけた。
「ゲルダさんは、無事です」
「ほ、んとう、に?」
七三子を掴む手の力がさらに強くなる。
「本当だ。俺が保障する」
ふいに頭上からクラウスの声が振ってきた。
「終わったんですか?」
「残りは、そんなに多くなかったから」
驚きの声をあげる七三子の隣に、クラウスはしゃがみこんだ。
そして、七三子を掴む女性の手を、ゆっくりと外していく。ぬくもりが失せはじめ、固くなりはじめているその手を……。
「私たちは、ゲルダさんを助けるため、ここへやってきました。だから」
―――あなたは十分に頑張りました。だからもう、|休んで《眠って》いいのですよ。
そう口にする代わりに、七三子は優しく女性の手を撫でた。
「ああ、ゲルダ、よかっ……」
安堵したような吐息が聞こえ―――そして、彼女の手から力が抜けた。人としての形を、辛うじて残したまま。
「……行こう」
|俯《うつむ》いてしまった七三子の肩を、クラウスは軽く叩いた。
人のまま逝けただけ、看取る誰かがいただけ、この女性は幸福だったはずだ、と。
「頼まれごとを叶えるためにも」
「そう、ですね」
七三子は立ち上がった。|彼女《はは》に|ゲルダ《むすめ》のことを託された以上、ここで立ち止まっているわけにはいかない。
「ゲルダさんを早く保護しないと、ですよね」
「ああ、急ごう」
そうして、ふたりは再び走り出した。|ゲルダ《天使》のいる家に向かって……。
「善なる無私の心の持ち主のみ」が感染するとされる、『天使化』という名のヨーロッパの風土病。
感染者の殆ほとんどは、理性や善の心を失った『オルガノン・セラフィム』という怪物に変貌してしまい、本能の赴くままに『天使』を襲撃し、捕食しようとする。
その症例が今、マリエ・エーデルワイス(終末時計・h02051)の眼前に広がっていた。
「……ひどい有様だ」
マリエは|村と山の境《村の出入り口》に立ち、住人の大半が『天使化』した村の様子を|確認《観察》している。
どの家に天使が隠れているのか、オルガノン・セラフィムたちは分からないらしい。ご丁寧に一軒一軒破壊して、家の中を確認していっているようだった。
(「自らが暮らしていた地を、こうも荒らすとは」)
瓦礫の山と化した村を見て、マリエは眉を顰める。
理性や良心というものが残っているのならば、きっとこのようなことはしないだろう。
つまりこの惨状は、この村に暮らしていた人々が既に身も心も怪物になってしまったということの証明に他ならない。
「善なる|存在《にんげん》が、ひとつの病でこうも変わってしまうとはな」
「天使化とか、不思議なことが起こってるらしいね」
小さくため息を漏らすマリエの横で、藤丸・標(カレーの人・h00546)はカツカレーを食べている。
いつ食べてもカレーは美味しい。サクサク揚げたてのトンカツが乗っていればなおのこと。
「こんな時でも食欲は減らないとは。……戦の前の腹ごしらえというやつか?」
「そうよ。ほら、カレーが食べられれば、大体なんとかなるのよ」
トンカツは脂がのっているが、カレーのスパイシーさがしつこさを払拭し、あっさりと食べさせてくれる。
標は味に満足したように頷いた後、マリエに向かってニコリと笑いかける。
「華麗にサクッと、カツカレーのカツのように事件を解決……ってね!」
「そうか」
そのくらい|逞しい《タフな》ほうがよいかもな、とマリエは苦笑気味に|呟《つぶや》く。
「さて……どう|陣取る《動く》?」
「私が|前に出る《囮になる》わ。|背中《死角》は任せてもいい?」
カレーの最後の一口を飲み込むと、標は不敵な笑みを浮かべた。
「引き受けよう。お前は目の前の敵に集中してかまわぬよ」
「ありがとう。じゃあ、私は先に行くね」
マリエの言葉に標は片手を振って応え、そのまま散歩にでも行くかのように軽やかな足取りで村の中へと入っていった。
「ギィ?」
|侵入者《こづえ》の気配を察知したのか、それとも、カレーの|残香《かおり》を嗅ぎ取ったのか……オルガノン・セラフィムたちが、一斉に標の方を向いた。
「その口じゃあ、きっとカレーを堪能することはできないね」
かわいそうにと標は眉尻を下げる。
こんなに素晴らしい|食べ物《もの》を食べれない身体になってしまうなんて、と。
「でも、だからって|天使《ひと》を食べようとしてはダメ。
そもそも、彼女は君たちの|仲間《隣人》だったはず」
「……」
念のためと語りかけてみても、|オルガノン・セラフィム《村人》たちはこれといった反応を返さない。
ただ、標との間合いを計り、いつ踏み込むかと機会をうかがっているだけだった。
(「やっぱり、もう意思疎通は無理なのね。ならば」)
標の真正面にいたオルガノン・セラフィムが金属質な腕を伸ばし、鋭い鉤爪で標に襲いかかった。
喉元目がけて繰り出された|爪《それ》を、標は|不思議な不思議なグレイビーボート《不思議道具》で受け止める。
「私の中に滾る熱いカレーが迸る!」
標がそう唱えた瞬間、√能力の【荒れ狂うカレーの舞】が発動する。
「カレーに塗れて死ぬがよい!」
寸前まで空っぽだったグレイビーボートから、ビッとカレーが―――否、カレービームが発射された。
「!?」
熱くて|辛い《痛い》カレービームに貫かれ、オルガノン・セラフィムはドッとその場に倒れ伏した。
「……始まったな」
標が戦いの火蓋を切ったのを確認し、マリエは|精霊銃《Edelweiss》を抜いた。
「汝らも被害者だ、救えなかったことは詫びねばなるまい」
誰に聞かせるでもなくそう呟きながら、ブーツの先で足下をトントンと叩く。
「踊り明かそう、|哀れな子羊《オルガノン・セラフィム》の命が尽きるまで」
√能力の【人形へのセレナーデ】が発動する。
マリエの足下に広がる影がグニャリと歪み、そこから|彼女と同じ姿の少女《分身体》が12体ほど出現した。
「さあ、|もう戻れない《怪物と化した》彼らに、葬送曲と鎮魂の踊りを贈ろうではないか」
マリエが|精霊銃《Edelweiss》を構えると、分身体も同じように照準を絞る。
「せめて、これ以上の罪を犯す前に終わらせてやろう」
時間を司る精霊の加護を受けた|弾丸《魔弾》が放たれる。
13発の魔弾が向かう先は、背後から標に飛びかかろうとしているオルガノン・セラフィム。
頭、腕、腹、脚……全身に弾を受けたオルガノン・セラフィムの体内に流れる|時間《とき》が、急速に加速しだした。
「ギ、ガ……」
奇妙な光沢感のある|神秘金属《からだ》が、急速に錆びていき、ボロリボロリと崩壊していく。
「我が救ってみせよう。天使も、そしてお前たちも」
やがてオルガノン・セラフィムは金属の砂山と化し、風に吹かれて消えていく。
「|人の子《村人》よ、安らかに眠るといい。そして次こそ幸せになってくれ」
村人たちは、|風土病《『天使化』》のことなど知るすべもなく。
訳も分からぬまま|理性と良心を失った怪物《オルガノン・セラフィム》に|なって《されて》しまった。
その悲しい魂が救われること、次の人生が良きものとなるように祈りながら、マリエは次の弾を装填したのであった。
「……終わったか」
オルガノン・セラフィムが新たに姿を現すことがなくなり、マリエは|精霊銃《Edelweiss》を下ろした。
「少なくとも、この辺はね」
同意するように、標も頷いてみせた。
村境付近にいたオルガノン・セラフィムは倒した。ならば、あとは前進あるのみ。
「じゃあ、|迎え《助け》にいこうか」
「ああ。きっと怖い思いをしているだろうからな」
標とマリエは肩を並べて走り出した。天使がいるという、村中央付近にある家に向かって。
第2章 冒険 『強行突破せよ』

天使を探し出すために村を破壊していた『オルガノン・セラフィム』を排除しながら、√能力者たちは村の中央付近にある一軒家へと辿り着いた。
「嫌だってば!」
玄関先には、ひとりの少女と、一頭の犬がいた。
少女は頭から布団をかぶって顔を隠し、その場に踏みとどまろうとしている。
しかし、彼女がどれほど己が身を隠そうとしても、布団を押さえる手や、|服《ズボン》の裾から覗く脚から、その身体が白磁にも似た|神秘《謎の》金属で構成されていることは明白だった。
『オルガノン・セラフィム』が探していた天使―――ゲルダとは、彼女のことなのだろう。
「こら、サミー! やめて!」
一方、彼女の|飼い犬《かぞく》である犬は、彼女の服を噛み、必死に引っ張っている。本能的に危険を察知したのか、|彼女《ゲルダ》を外へと連れ出そうとしているようだ。
「ダメよ、サミー。ママが帰ってくるまでおとなしくしてなきゃ……」
玄関先からチラリと外を見ただけでも、|オルガノン・セラフィム《なにものか》が村を荒らしているのは分かる。だから、ゲルダとて、「村で何かが起きている」「自宅に留まっては危険だ」と感じ取っているはずだ。
それでも家から一歩踏み出せずにいるのは、「自身の身体に起きた|異変《天使化》のせい」でもあるだろう。
しかし、それ以上に、「自分のために外出した母親の身を案じている」に違いない。|自分《ゲルダ》がここに留まらねば、母はきっと危険地帯と化した村の中を探し回ってしまう、と。
捕食しようとしてくる『オルガノン・セラフィム』から、そして、奴隷にしようと考えている『羅紗の魔術塔』から、天使を守り抜く。
そのためにも、この天使を村から連れ出さなくてはなくては……。
「サミー、ダメよ。良い子だから、私の言うことを聞いて」
「クゥン!」
家に留まろうとする|ゲルダ《天使》と、彼女を外へ連れ出そうとする|サミー《犬》。
ひとりと一頭の攻防が玄関先から聞こえてくる。
クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)は「俺が先行するよ」と|√能力者《なかま》に目で合図をする。
皆が頷いたのを確認してから、玄関のドアをノックした。
「えっ!? あ、あの……」
「お邪魔するよ」
ノブを回せば、意外なほどあっさりとドアは開いた。
いつ誰が来るかも分からないのに不用心だと思う半面、それほど住人同士が信頼しあっていたということなのかもしれないとも思う。
「えっ、あ、あの」
「君がゲルダだね」
|見知らぬ人々《√能力者たち》を見て、|少女《ゲルダ》は慌てて布団を目深に被り直した。
その様を見て、見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)は仮面の下の眉根を寄せる。
(「……無理もないですよねえ。
自分の体が変異して、家の外には化け物が闊歩して、人の声は聞こえない」)
眠りから覚めたら、自分は|異質な存在《天使》に変化してしまった。それだけでも混乱するというのに、|家の外《むら》からは人の姿が消え、代わりに化け物―――『オルガノン・セラフィム』が闊歩している。
悪い夢なら早く覚めてくれ。そう思って当然の状況だと七三子は思う。
(「でも……」)
それでも、自分たちはゲルダを連れ出さなくてはならない。
(「お母さんから託されたから。その約束、ちゃんと守らないと」)
ゲルダの母親は、自分が助かることよりも、娘の身の安全を願った。その最期の願いを叶えてあげたい。
(「……何とか安心して欲しいです」)
七三子は仮面を外して、ゲルダに近づいた。
「こんにちは。初めまして。お嬢さん、犬さん。
私は七三子、と言います。
お名前を伺ってもいいですか?」
「えっ……あ」
ゲルダは被った布団の隙間からチラリと七三子へと視線を向け、おずおずと口を開いた。
「……ゲルダ、です。こっちは、|ペット《家族》のサミー」
こんな格好で失礼します、とゲルダは身を縮こまらせた。
「いえ、今はそのままで大丈夫です。時間があまりないので、手短に」
視線の高さを合わせるように七三子は片膝をつき、警戒を解いて貰えるよう優しく微笑みかける。
「この辺りで|流行《風土》病が発生しまして……その患者さんを保護するため、私たちは今、各地を回っています」
「病気……?」
「ええ。この病気、外見などに分かりやすい症状が出るんです。
ゲルダさんも同じ病にかかってはいませんか? だから、姿を隠していらっしゃるのでは?」
嘘はつかず、でも、極力怯えさせないように……それでいて、幼い少女にも分かるよう、かみ砕いた表現で七三子は伝える。
「どうかご同行願えませんか、もちろん、サミーくんも」
「クゥン……?」
サミーは|ゲルダ《ご主人様》を背後に庇いつつも、√能力者たちを順に見ている。まるで、√能力者たちが信頼に足るかどうか、確認するように。
「今、この村は厄介な状態になっていて、ここに留まるのは危険なんです」
「でも、ママがまだ帰ってきてないの。ママは買い物に行ってて……」
ママを置いて行けないと、ゲルダは申し訳なさそうにそう応える。
「俺達は、君のお母さんに頼まれて君を助けに来たんだ」
クラウスはサミーを両手でなでる。武器を手にしていない、つまり、敵意はないのだと分かりやすく伝えるために。
「ママから?」
「ああ」
母親の|最期《死》を伝えるか否か。ほんの少しだけ逡巡した後、それでもクラウスは口を開いた。
「落ち着いて聞いて欲しい。……君のお母さんは、もう……」
―――もしここで隠したとしても、外に出れば荒れ果てた村の有様を見ることになる。|『オルガノン・セラフィム』《元村人》と遭遇する可能性だってある。
彼女はまだ幼い。悲惨な現実を突きつけられれば、動揺し、突発的な行動に出る可能性が高い。
賭けにはなるが、母の死について、今ここで話してしまった方がいいだろう。
(「俺は嘘が上手くないし……何より、隠し事は、バレた時に信頼を失う」)
嘘も方便という言葉もあるが、この場合、|嘘をつき通せない《直感で判断する》だろう|相手《サミー》がいる。素直に話してしまった方が良い。
「外で崩落に巻き込まれて、俺たちが辿り着いた時にはもう。
……間に合わなくて、すまない」
「え?」
布団を掴むゲルダの白い手がピクリと震えた。
「君のお母さんは、最期まで君のことを気にしていた。助かって欲しいと願っていた。
俺らの言葉を信じてくれなくてもいい。だが、せめて、一緒に来てはくれないか?
君のお母さんの、最期の願いを叶えてあげるために」
「まま、が? そ、そんなのは嘘……」
ゲルダは首を横に振った。何を言っているのか分からないと言いたげに。
クラウスの真摯な態度から、嘘偽りを言っていないことは誰の目にも明白。
ただ、彼女は認めたくないだけだ。|大切な人《母》がなくなったという事実を。
「見ず知らずの人間より、母を信じたい……その気持ちは察する」
それまで成り行きを見守っていたマリエ・エーデルワイス(終末時計・h02051)は、重い口を開いた。
生に執着を持たないのならば、この場に置いていくしかない。
依頼の内容には反するが、かといって、無理強いをするのも違うだろう、とマリエは思っていた。
(「人間というものは、時として、死による解放を求めるものだからな。ただ……」)
マリエはサミーの前にしゃがみ込むと、視線を合わせる。
(「ゲルダにとって残された最後の家族がサミーならば、その思いを伝えてやらねば」)
ゲルダの気持ちを尊重するのならば、健気に|ゲルダ《ご主人様》を引っ張っていた|サミー《家族》の気持ちもまた、汲んでやらねばならない。マリエはそう思ったのだ。
「なあ、サミー。君はどう思う? どうしたい?」
動物と話す|技能《スキル》を使用して、マリエは|サミー《いぬ》へ問いかける。
「……クゥン」
サミーはひと鳴きすると、再びゲルダの服の裾を引っ張ってみせた。
「それが答えか」
「ワン!」
確認するようにマリエが問うと、サミーは元気よく吠えた。
(「|天使化して《姿が変わって》もちゃんと主人を理解してるし、危険を察知しているからその場にいるのはマズいと分かってる」)
なんて主人思いなワンちゃんなんだ、と藤丸・標(カレーの人・h00546)は思う。
この犬は賢い。|表面的なものが変わって《外見が天使化しようと》も、ゲルダはゲルダだと、本能的に分かっている。
きっと、村中が怪物に荒らされ危険だということにも察しているのだろう。
「……相分かった」
マリエはサミーの頭を撫でると立ち上がり、真っ直ぐにゲルダを見据えた。
「ゲルダよ。君が母と運命を共にしたいのであれば、我々も無理強いすることはできない。
ただ……この犬、サミーは賢く忠実なようだ。君を見捨ててひとりで逃げたりはしないだろう。
それはつまり、君がこの場に留まるというのであれば、|サミー《家族》もここに留まり、命を落とすということ」
突如現れた自分たちのことを信用できないのなら、それはそれでいい。
この村と共に終わるのが望みだというのならば、その気持ちを否定しない。
だが、共に生きのびることを願う|家族《サミー》の思いを無視するのは、よくないだろう。
「それでも君は動かないのかね?」
「それ、は……」
マリエの言葉に、ゲルダは俯いてしまう。
「ごめんね。自分は病気になってしまったと分かって、|家族《母》が死んだと知って、本当は今すぐ泣きだしたいくらいに辛いよね」
それはここにいる誰もが分かっているよと、標は話す。
「でもね、時間がないんだ。
そのサミーは理解してるようだけど、この村には危険なモノがいっぱいウロついていて、このままだと君もサミーも殺されてしまう」
「危険なモノ? クマよりも?」
「うん。クマよりもっと危険だね」
キッパリと言い切る標。ゲルダはサミーを見たあと、とつとつと話し始めた。
「このままおうちにいちゃダメだってことは分かりました。
……ママ、のことも」
声を詰まらせ、身体を震わせ、それでも、頭を振って、再び口を開く。
「皆さん、すごく真剣だから……嘘じゃないって、本当に外で大変なことが起きてるって、分かりました。
で、でも私、こんな姿になってしまって。
本当にもう、何をどうしたらいいのか、分からないんです」
悲しい、辛い、怖い、苦しい。
今まで平穏に暮らしてきていただけに、突如降りかかった重い運命を前に、ゲルダの心が悲鳴を上げていた。
「今は目の前のことだけ考えるといい。辛い気持ちを抱えたままでもいいから」
そう言うと、標はひらりと手を振る。ゲルダの気を引くように。
「力と√はこれ表裏一体。
ターメリックはルー転し、シナモンは仄かに香る。
されど人の世に蔓延るもの、おうちカレー! 食べるべし…」
標は√能力の【華霊護穀戦】を発動させて、華霊魔神カルダモンを召喚した。
「これは……精霊か何か? お姉さんは|手品師《マジシャン》?」
目の前に現れた魔神を見て、ゲルダは目を丸くする。
「そのようなものだと、今は思っておいて。本当は精霊じゃなくて魔神だけど。
―――君は自分の変化に驚いているかもしれないけど、こんな風に、世界には色んな|存在《もの》がいる」
標の言葉に同意するように、カルダモンがうんうんと頷いている。
「大丈夫だよ。君は|ひとり《孤独》じゃない」
「ああ、そうだ。俺たちを頼ってくれ」
「私たち、あなたのお母さんと約束したんですから」
標を援護するように、クラウスと七三子も言葉を重ねる。
「……はい!」
ゲルダはスルリと布団を落とし、涙を堪えながらコクリと頷いてみせた。
「決まりだな。早く家を出よう」
チラリと外を見やり、マリエが脱出を促す。|厄介な敵《羅紗の魔術塔》が手筈を整えるよりも早く、と。
「では、斥候は私が」
七三子は仮面を被り直すと、ドアノブに手をかける。
「|高所《うえ》から、安全そうな|逃走経路《ルート》を案内します。みなさんは、後からついてきてください」
「ひとりで大丈夫か?」
クラウスが声をかけると、七三子は軽く首を傾げた。
「ひとりじゃないですよ」
ぐっと拳をあげて、√能力の【団結の力】を発動させる。
「ええっと、えいえいおー……、です」
その場にいる全員と七三子の思念が接続される。
「敵を発見したら思念を飛ばしますので、そちらで対処をお願いしますね」
「お安い御用だ」
七三子の言葉にマリエは頷いた。
「数分だけでいい。寄り道をしたいんだが、いいだろうか?」
「ああ、なるほど」
クラウスのしたいことを察した七三子は「では、そのように」と応えると、先行して家を出て行った。
「|先導《みちあんない》を君たちがやってくれるなら、こっちはゲルダの護衛を担当しようか。……主にカルダモンがね!」
攻撃もできるけど、いざとなったら回復技だって使えるし、と標は笑う。
「サミーのリードは……クラウス、頼めるか」
「構わないが、何故?」
サミーのリードを受け取りながら、クラウスはマリエに問いかける。
「君は|サミーを守りながら戦える《盾を持っている》だろう? 我は|戦闘《こうげき》に専念させてもらうさ」
マリエは先に外へ出て、ゲルダたちを手招きする。
「外は危険だらけだが、我らが君のことを絶対に守り通す。だから、安心して出ておいで」
クラウスがゲルダたちを連れてきたのは、ゲルダの母が亡くなった場所だった。
瓦礫の下から伸びていた白い手には、哀悼の意を捧げるように、ハンカチのようなものがかけられている。そのままは忍びないと、先行した七三子がかけたのだろう。
「あの、ここ、は」
戸惑うゲルダの隣で、クラウスは虚空に向かって呼びかける。
「少し、話をしてもらってもいいかな?」
クラウスの√能力の【穏やかな対話】が発動し、ゲルダの側を漂っていたインビジブルがその生前の姿を取り戻した。
『これは……?』
半透明のその姿は、まさしく幽霊というのに相応しい。
30代半ばといった風のその|女性《ゆうれい》を見た瞬間、ゲルダが息を呑んだ。
「お母さん!? あの、お兄さんはどんな魔法……」
母親の霊からクラウスへと視線を戻すゲルダ対し、クラウスは厳しい顔をしてみせる。
「1分だけ。まだ危険が残っていたようだから」
その腕には|小型の盾《セラミックシールド》が取りつけられていた。いつ流れ弾が飛んできても防げるようにと。
『アッ、大丈夫です! 5分は稼げますので!』
七三子の思念が飛んでくる。姿を見せないということは、別地点で応戦しているということの現れでもある。
「なんだ、ひとりで|戦う《裏方》など、水くさい。どれ、我も加勢してこよう」
|護衛《こちら》は任せたぞ、とマリエは|精霊銃《Edelweiss》を手に足早に去って行く。
「任された! いざとなったらカルダモンに運んでもらうから心配しないで!」
標は去って行く背中に声を投げる。
『何から何まで、ありがとうございます』
すべてを察したらしい母親の霊がクラウスたちに向かって頭を下げる。
「俺たちのことはいい」
クラウスはゲルダの背中を押し、母親の霊の前に立たせる。
「ゲルダと話してやってくれ」
「ママ……」
ゲルダは手を伸ばしかけて、ハッとしてその手を引っ込めた。
しかし、母親の霊は気にとめず、優しく微笑みかける。
『ゲルダは生き残れたのね。サミーも一緒に。……本当に良かった』
「!」
半透明の手が伸ばされ、ゲルダの頭に置かれる。
実体を持たぬその肌は、決して触れあうことはない。
それでも、姿が変わっても自分の娘だと認識できたことが、その仕草だけで伝わってくる。
「よ、良くなんてない! だって、ママは!」
ポロリと黄金の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「ママと離れるなんて、会えなくなるなんて、嫌だよ!」
『そうね、ママもゲルダが大きくなるまで側にいてあげたかったけど。
でも、あなたの隣に、サミーがいる。この、優しくて強い方々が、導いてくださる』
ゲルダの瞳からとめどなく零れる涙。それを拭えないことにもどかしそうにしながらも、母親の霊は優しく|娘《ゲルダ》を諭す。
『あなたは、ひとりじゃない。それが分かっただけで、ママは|安心できる《うれしい》の』
|天使《むすめ》を喰らう化け物になる前に、娘の|未来《いのち》を託して、死ねた。
その事実に救われたと、母親の霊は呟いた。
『愛してるわ、ゲルダ。サミーと仲良くね』
一方の手でゲルダを、もう一方の手でサミーをなでると、母親の霊はクラウスと標の方へと向き直った。
『ありがとうございました。もう十分です。
ゲルダとサミーのこと、よろしくお願いします』
「やだ、ママ!」
離れたくないと暴れるゲルダを、カルダモンが抱え上げる。
「お母さんの覚悟を受け入れてあげてくれ」
「ゲルダとサミーが生き延びること、それが一番の孝行だと思うよ」
クラウスと標はゲルダを諭す。ここに留まり続ければ、自分の救助よりもゲルダたちの安全を願った母の覚悟を無駄にしてしまう、と。
「―――、……」
ゲルダは反論しかけて、その言葉を飲み込んだ。
直ぐ脱出した方が圧倒的に楽であっただろうに、それでもこの|回り道《再会》を選んだ。クラウスたちのその気持ちに気づいたのだろう。
「……私もママのこと、大好きだから。産んでくれて、育ててくれて、ありがとう」
さようなら、とゲルダは嗚咽混じりに言った。
『さようなら、私の大切なゲルダとサミー』
最後に優しく微笑んでみせてから、母親の霊は大気に溶け込むように消えていったのであった。
「別れの挨拶はできたか」
クラウスを先頭にしてゲルダたちがやってきたのを見て、マリエは静かに問いかけた。
「……はい。ありがとうございました」
ゲルダは目をこすりながら、それでもしっかりとした口調で話す。
「すいません。私、助けられてばかりで。サミーの方がよっぽどもお利口で……」
「いいんですよ。こういうのは、お互い様ってやつです!」
半壊した家屋の屋根の上から、七三子の声が振ってくる。
「大切な人を失ったんですから、ゲルダさんが冷静でいられないのは当然です。だから、お気になさらず」
「|道《ルート》は大丈夫そう?」
標が問いかけると、マリエは頷いた。
「この辺りにいた敵は、我と七三子で排除しておいた」
村へ突入する際にかなり倒していたこともあり、この|辺り《むら》にいるオルガノン・セラフィムはほぼ排除し終わっていた。
このまま進めば、村からは出られるだろう。
「残すは|魔術士《ボス》のみ、です!」
「了解。さて、鬼が出るか蛇が出るか……」
√能力者たちは気合いを入れ直し、ゲルダを連れて村を出た。
その先に待つ『羅紗の魔術塔』の魔術士との戦いに備えながら……。