ごめんね、セリヌンティウス
●メロスは理不尽に憤激する
|瑪路《めろ》|羊太《ようた》は激怒した。
羊太は急いでいた。己を信じ、待ち続ける相手の元へ走らねばならなかった。無情にも太陽は昇る速度を緩めず、約束の刻限は目前に迫っていた。それでも、あと僅かで辿り着けるはずであった。
「そんな……」
突如、進む道が遮られた。羊太の前に横たわった巨大な障壁は、言うなれば荒れ狂う大河であった。迂回などしていては、到底、時間には間に合うまい。
羊太は茫然と天に祈り、やがて怒髪を突くと天を呪った。
果たして、通じたのはどちらであっただろう。
──ひらり。
何処からか。彼の手へ舞い落ちたのは、一対の奇妙なカードであった。
●星詠みは悲哀に沈む
「中学生の男の子が初デートに遅刻してシデレウス化するんだ」
哀れみと呆れの混じった遠い瞳で、星読みの瑠璃・イクスピリエンスは告げた。
少年の名前は|瑪路《めろ》|羊太《ようた》。夢見盛りの中学二年生で、ゲームと漫画が好きなインドア系男子。同じ図書委員会に所属する『|石川《いしかわ》|星理奈《せりな》』という同級生に恋心を抱いている。
長い間、星理奈を誘う口実を探していた羊太に、絶好の機会が訪れた。お互いに好きなとある漫画作品が、めでたく映画化されることとなったのだ。
た、たまたま兄貴が前売り券をくれてさ。石川さん良かったら一緒に──などとぎこちなく誘えば、はにかみながら星理奈は了承した。
「青春だよね! アオハルだよね!」
だがデート当日。すなわち本日。悲劇は起こった。
「羊太くんは緊張で寝付けなくて寝坊して。大急ぎで家を出たけど自転車が途中でパンクして。乗り捨てて必死に走ったけど、最後に渡るはずだった大通りが、市民マラソンのコースになってて……封鎖されてたんだ」
応援の群衆を掻き分けて進めど、当然係員に止められる。示された迂回路は遠かった。待ち合わせ時間どころか、映画の開演にも間に合わない。
だめだ。終わった。フラれる。羊太は絶望した。
嗚呼、こんな大会さえやってなければ──!!
というところに登場したのがシデレウスカード。『牡羊座』と『英雄メロス』という、おあつらえ向きのそれに、彼は取り込まれてしまった。
「シデレウス怪人……アリエスメロス・シデレウスになった羊太くんは、怒りで我を忘れたまま、マラソンコースに羊の群れを放ってランナーさんたちを追い払っちゃう」
劇的な逆恨みである。
「急いで向かっても、ちょうど羊の群れが現れた辺りかな……ごめんね、ボクの星詠みが遅くて」
まずは、周囲を埋め尽くす羊の波を乗り越え、羊太に接近するのが目標となる。
「羊は基本的にメェメェ言いながらうろついてるだけだから、一般の人は充分避難できるはずさ」
とはいえそこは怪羊。怒らせるとウールから電撃(静電気)を放ったり、跳ねて眠気を誘ったりもするらしい。
ある程度ダメージを与えれば消滅するようだが、アリエスメロス・シデレウスがいる限りいくらでももこもこ湧き出る。なるべく早く本体を叩くべきだろう。
「上手く近づけたら、アリエスメロスを倒して、羊太くんを正気に戻してあげて欲しいんだ」
それでも、まあ、待ち合わせ時刻なんてのは。
「とっくに……過ぎてるけどね!」
ボクの星詠みが遅くてごめん、と。瑠璃は繰り返し、しょんぼり肩を落とした。
●セリヌンティウスは健気に祈る
「瑪路くん、まだかな……」
ざわめく映画館の中でぽつんと一人。星理奈はパステルカラーの腕時計と、館内の様子を交互に見やる。
前売り券があると言っていたから、チケットの心配は不要だろうが、他に何か準備はいるだろうか。
「……一人で映画なんて来たことないし」
彼女は家庭の方針で、まだスマホを持っていなかった。だから念を入れてとても早く来たし、羊太を信じて待つしかなかったのだ。
もし、もしも彼が来なかったら……。
真面目な少女はぷるぷると首を振り、暗い想像を振り払う。大丈夫、大丈夫。
「瑪路くんは必ず、間に合うもの!」
間に合わないんだな、これが。
第1章 冒険 『道を塞がれた!!』

●アオハルくれば羊も踊る
件の大通りは、ビル街の谷間にあった。
普段は多くの車が、そして人が走っていたはずのそこは今、羊の大河と化していた。
|冬凪《ふゆなぎ》・|雪正《ゆきまさ》(フューリー・アイス・h00307)の近くに子羊がやってきて、沿道の草を食む。
「わあ、可愛い羊だね!」
とたん、周囲の羊たちがぐるんと振り向き、平たい瞳孔を一斉に雪正へ向ける。
(……いや、これだけ群れてるとさすがに恐怖が勝つかも)
思わず息を殺す雪正に、やがて興味を失ったのか、毛玉たちは各々の思考に戻っていった。若干上がった心拍をなだめていると、隣に立った|天霧《あまぎり》・|碧流《あおる》(忘却の狂奏者・h00550)の呟きが聞こえた。
「白、白、白。……白ってのは塗りつぶすためにあるんだよ」
──真っ赤に。あるいは真っ黒に。
碧流の左手に黒い刃が一瞬揺らめき、消えた。羊たちの注目などどこ吹く風で、碧流はもこ波の奥を見据えて嗤う。紛れているはずの|瑪路《めろ》|羊太《ようた》——今は怪人『アリエスメロス・シデレウス』と化した少年へ向けて。
「ハハハ! 人間は誰でも自分が一番可愛いよなあ! だから怒りの矛先を他人にむける! いいじゃないか! ほらほら、罪のない奴らが困ってるぜ!」
ちらりと振り向けば、路地に避難したマラソンランナーたちが戦々恐々と様子を伺っているのが見える。ひつじさんだーと喜んでいる子どももいるが。
「ドロッサス・タウラスも悪くない人選だ。カードのせいなのか? 元々の性格なのか? ああ!」
それを見にいこうじゃねえか、と。
締めに碧流は目配せひとつ。雪正は少し呆気にとられたものの、すぐに力強く頷く。
「うん。このまま放っておくと誰も幸せにならないし、早くなんとかしないとね」
羊太にも同情すべき点はあるが、マラソン大会を邪魔したのは完全なやつあたりだ。今日を楽しみにしていたのはランナーたちも、待ち合わせ相手の|星理奈《せりな》だって、同じなのだから。
「俺も映画が好きだから、気持ちが分かるところもあるけど」
雪正が映画好きになったのは、ある友人——幼馴染の映画マニアの影響だった。一緒に映画へ行くのはもはや日常だから、羊太のようなドキドキはないけれど。
(でも……ワクワクは分かるよ)
封切り日を確認し、見に行く作品を決めて。楽しみにしていると明るく微笑まれて。
そんな些細な約束が、人によっては、生きる糧にもなり得るのだから。
「なんだぁ? お前もアオハルってやつなのか?」
きょとんとした碧流のツッコミに、雪正はひとしきりむせた。
●羊毛凍れば羊も怒る
「まあ、俺は赤と黒の方が好みだな」
味方に思わぬ不意打ちを浴びせたのち、碧流は琥珀の瞳を爛々と光らせ宙を見た。とたんに彼の姿は掻き消えて、羊の群れの上に湧き出でる。代わりに沿道へと残ったのは、焦げ跡のような不気味な影だった。
|影移し《シフトシャドウ》。視界に映ったインビジブルと、己の位置を入れ替えて、呪われた影を遺す。攻撃と移動を兼ねた力。
「あちこちクッションがあって助かるぜ!」
大通りを見回しつつ落下した碧流が、もふもふの背に着地する。無論、踏まれた羊は抗議の雄叫びをあげ、ぱちぱち静電気が弾け出すも、碧流は再度の『影移し』で逃れ済み。
犯人を見失った羊は、訝し気に首を巡らせて。
「ベェェ……メェ?」
羊毛を靴型にへこませたまま、しょんぼりと座り込む。仲間がメェメェ慰め始めたのを尻目に、碧流は首を傾げてまた移動。
「なんだ、つまんねえな」
やはりアリエスメロス本体の方が楽しそうだ……ふむ、どこにいるのか。
——案外映画館へ向かおうとしているのか。
宙を舞う影は、方向を確かめ——進路を定める。
ふわふわもこもこウールウール。
行く道を塞ぐ羊毛の海は、穏やかに流れていた。
だが、所々で電撃が飛び交ったり、跳ねた羊が頭上の謎の影にぶつかって消滅したりもしている。やはり普通の羊ではないのだ。
「羊さんを攻撃するのは心苦しいけど、仕方ない」
雪正は『氷鎧の拳』を開放し、己の拳と心をクールに固めた。
両拳の氷は厚みを増して、あっという間に巨大な氷塊へ成長してゆく。そのまま前方へ叩きつければ──大きな破砕音が二回響いた。雪正の放った|氷塊撃《アイス・ハンマー》に、範囲内の羊たちはメェ~と吹き飛んで消滅する。
開けたコンクリートの上に氷片が煌く。隙を逃さず、雪正は足に力を込めて駆ける。
メェメェ! ベェェエ!!
ワンテンポ遅れて追ってくるのは、個性豊かな鳴き声と、重い蹄が連なる音。
(怒ってる。羊さんたち怒ってる!)
羊を引き付けるのも作戦通りではあるが、いざ、怒った動物の群に追われてみると、なかなかの迫力だ。
電撃混じりの頭突きを、氷の鎧を纏った両腕で防いで受け流し、次の一頭の突撃は躱す。闘牛ならぬ闘羊士のごとく華麗に立ち回りつつ、氷塊撃にて前方に更なるスペースを生み出す。
と、不意にぴょんこぴょんこ跳ねる羊が横切った。
数は大したことない。一匹、二匹……。
「あっ。反射的に数えちゃった」
すぐに目を逸らしたものの、理屈不明の暴力的な眠気が雪正を襲う。
跳ねる羊たちは、横長の瞳孔を細めてニヤリと笑った──ように見えた瞬間。飛来した黒い『ナニか』に次々と刺し抜かれ、「メェェ」と悲しげに消滅した。
眠気が薄れた瞬間、必死に重い瞼を持ち上げて。雪正は己の首筋へ、氷を纏った手のひらを押し付けた。
「冷たい! 目が覚める!」
──大丈夫! と、自分を励ます声が力強い。劇的ネッククーラーの力で立ち直った雪正は、傍に現れた影へ微笑んだ。
「ありがとう、助かったよ」
羊たちを貫いたのは、碧流の投擲武器──影毒鏢だった。
「別に助けた訳じゃない、羊が鬱陶しかっただけだ」
──俺は寝顔も死に顔も、他人に見られたくないんだよ。
碧流は他所を向き、ぽつりと何か言った後で。
「そんなことより、それっぽいやつ見つけたぜ。羊飼いの格好した、デケェ角の怪人が先にいてよ」
「っ! きっと羊太くんだ。早く助けないと、だね!」
素早く情報を交わし、二人で進み始めると、ほどなく──。
「もうどうせフラれるんだ! 終わりだ! 世界なんて滅べばいいんだァァ!」
メェメェ途切れぬ鳴き声の中、悲しき怒号が轟いた。
間違いなく、アリエスメロス・シデレウス——即ち、瑪路羊太のものであった。
「……本当に……早く助けないとだね」
切なげに眉を下げる雪正に対して、碧流はケラケラと笑い続けるだけだったりした。
●レプリノイドは怪羊の夢を見るかも
(平和な能力で良かったと言うべきかな……)
事件の現場である大通りは、ビル街に挟まれていた。しかもマラソン大会が行われていたのだから、集まった一般人の数は相当のものになる。
(もしも、大規模な破壊を齎すような能力だったら、惨劇が起きていたかもしれない)
起こりえた最悪の『|if《もしも》』が、クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)の表情を険しくさせる。例えば、現れたのが羊よりもずっと凶暴な生物だったら? いや、もっと直接的に羊太本人が他者を害する能力だったら?
(そうなったら、アオハル中の少年の心も傷付いてしまいそうだし)
既に大勢の命が失われていた可能性だってあったのだ。そんな悲劇を、いくつも見てきた。
だから、素直に喜ぶべきなのだろう。メェ。誰の命も失われていない幸運をメェ。
まだ守れるものが多くあることを。
メェ〜。
「……でも、このもふもふだらけの光景はなんだか気が抜けるなあ」
シリアスな思考を遮る呑気な声と、視界を埋め尽くす毛玉の群に、クラウスは屈した。眉間の皺がほどけ、安堵と苦笑の混じったため息がゆるく空気に溶ける。
「みんなは羊さんなんだから、一緒におひつじ座流星群を見るんだよ……」
|少女人形《レプリノイド》のミア・セパルトゥラ(M7-|Sepultura《埋葬》・h02990)が、羊を抱きしめてなんかやってるから尚更だ。
「まず目を閉じて、ゆっくり呼吸して……」
「メェ……」
ミアの腕を首に回されて、羊は心地よさそうに座り込んでいる。驚くべきは周囲の……具体的には半径22メートル内くらいの羊さんが、みんな同じようにミアに抱かれて夢見心地でいることだった。星詠みから「羊が寝かせてくる」とは聞いていたが、仲間が羊を寝かせるのは想定外だ。
「ふふ。これが私の力……『|オフトゥンになったねこ《オバケニナッテトンデクルネコ》』だよ」
うつらうつらする羊に|憚《はばか》った囁き声で、ミアはクラウスに微笑んだ。自らの分身を作り出し、複数の対象を夢の世界へと誘って癒すという。回復の力でありながら、使いようによってはこのように、多くの相手を行動不能にする恐るべき術。
「おひつじ座流星群っていうのは……?」
クラウスも羊を起こさないように、小声で疑問を呈す。一応見上げると、太陽は中天で眩しく輝き、空はどこまでも青い。
「こころの目で見るの……」
難しい話だった。目を瞬いていると、ミアはうっとりと続けた。
「この子たち、すごいよ……モコモコなんだよ……」
クラウスもちょっと撫でた。とても良かった。
●兵士は迷える羊に手を伸ばすかも
謎の幸せ空間から離れ、クラウスの姿は高みにあった。ビルの壁面に取り付けられた看板を足場に、周辺の様子を伺う。
「良かった。避難は問題なさそうだ」
まずは避難状況を把握。一般人が路地から順調に脱出しているのを確認した。放っていた小型のドローンたちを全て大通りへ呼び戻し、ゴーグルの遠視機能を調整して、本格的に羊太を探す。
合間にちらりと覗けば、分身したミアたちが、眠った羊さんたちを左右に除けながら道を切り開いていた。つられて自主的にお昼寝する羊も現れて、実に平和的に羊ロードが開通している。
彼女の活躍に心中で声援を送りつつ、クラウスは次のビルへと空中を移動した。
モフモフの大海は果てしなく続く。ちらほらと、ご機嫌斜めの羊が帯電しているのも見えるが、基本的には長閑だった。
(流れもゆっくりだし、ドローンが落とされる気配もない。順調に探せそうだ)
クラウスは胸を撫で下ろす。彼も、羊はなるべく攻撃しないつもりだった。
(そんなに大きな被害が出るような状況じゃないし、無限に出てくるみたいだし……)
──何より。
(もふもふを傷付けるのは気が引ける)
そう、もふもふに罪はない。怪人憎んでもふもふ憎まずだ。
更に言えば元凶はドロッサス・タウラスであり、羊太だって普通の少年のはず。
ほんの少し、結構とても……青春のエネルギーを拗らせただけの。
──ああ、もっふもふ。
「動物さんで、遠慮せずに抱きつけるから、ちょっとお得感かも……」
眠った羊を運びながら、ミアはウールに顔を埋める。生まれたて(?)なおかげか、彼らの毛並みはとても綺麗で、ちょっと香ばしい。
生き物ゆえの温かさも、とても心地良くて……。
「はっ、危ない。とてもナチュラルなタイムロス」
流星群を追って飛びかけた意識を引き戻したのは、依頼を受けて来たという使命感だ。
(今はとりあえず、早くアリエスメロスを元に戻さないとだよね)
決意を新たにしたところで、ふと|過《よぎ》った影に頭上を仰ぐ。飛来したのは、クラウスが操る小型ドローンだった。
「もしかして、アリエスメロスが見つかった?」
──知らせに来てくれたんだね、ありがと。
まあるいドローンの上部を撫でると、意思を持たぬはずのそれが、心なしか嬉しげに揺れた。
ドローンが先行して案内してくれるようだ。ここから先は、ミアも空中を移動することにした。念動力を使って足場を作ろうと、ちょうど良い物を探し……寝てる羊さんに目が留まった。
運んでる時に気付いたが、幻の存在なせいか見た目より軽いのだ。
「すごい、雲みたい」
必要に迫られたのと、遊び心が融合して浮かべてみれば、ふわふわの足場ができた。
よじよじ登って、静かに渡る。辿り着いた先で、どうするのが最善かは分からない。けれどどうか、上手く解決すると良いなと、祈りながら歩みを進めてゆけば。
涙目で地団駄踏みながら、羊飼いの杖を振り上げる、羊角の怪人がいた。
どう考えてもあれがアリエスメロスで羊太だった。
「おーい、君。ちょっと落ち着けるかな」
立てこもり犯を説得するように、クラウスが声をかけている。手を伸ばし、|対象《インビジブル》と位置を入れ替える術——|氷の跳躍《フリーズリープ》を駆使して距離を測りながら、優しく語り掛けているの、だが。
「うるさい! 僕はもうどうせフラれるんだ! 終わりだ! 世界なんて滅べばいいんだァァ!」
すっかり拗らせた少年は、触れると切れるナイフのようだ。
——こ、このままだと、信じてまちぼうけしてる|星理奈《せりな》ちゃんがかわいそう。
思わず同意を求めて傍らを伺えば、小型ドローンも困った様子で傾いて、主の元へと戻っていった。
●羊国
どこかで一歩、|蹄《ひづめ》が歩めば、隣の蹄もつられて動く。
真昼の陽光を浴びて膨らみ穏やかに、さざめきゆらめく白い波。
「——現場の大通りを訪れると其処には、もこもこ羊の群れが埋め尽していた……」
メェェ。
ガードレールの支柱に頬杖ついて。トゥルエノ・トニトルス(coup de foudre・h06535)が詠じた一説に、長閑な鳴き声が応えた。……牧歌的な光景だなぁ。幼くも整った容貌をふにゃりと緩めてから、「ではなくて」と、気を取り直す。
「トンネルを抜けるとそこは……かしらね」
別の名作の一節を重ねたのは、|小明見《こあすみ》・|結《ゆい》(もう一度その手を掴むまで・h00177)だった。実際抜けてきたのは√の境目であり、移動手段は徒歩であったが。大きな通りを埋め尽くす白いもこもこは、積もった雪に見えなくもない。
文学少年少女に並び、ガラフ・ラハ・ラグターク(波濤のガラフ・h04593)も想いに耽る。このもこ波、もしくはもこ雪の彼方にいるはずの、怪人となった少年への想いだ。
「我を忘れさえしなければ、怪人の身体能力を使って正攻法でも何とかなっただろうに」
そうなのだ。
マラソン大会を邪魔している場合ではない。大通りを制したのなら、そのまま映画館に向かえば、開演ぐらいには間に合ったかも知れない。無論、怪人の力を放置してはならないのは、ガラフも承知だけれども。
肝心なところで理性を失った少年に、少々の同情は禁じ得ない。
「哀れメロス……」
メロ……? トゥルエノは軽く首を傾げて。
「走れナントカって本があるらしいのは耳にした事はあるのだが」
現代日本では、知らぬ者がいないほど著名な作品だ。人間の文化には少々疎いトゥルエノとて、概要くらいは知っている。
「アレは諦めず最後まで走り切るという友情の話だったような……?」
──メェェ~。
またタイミング良く、相槌が挟まれる。
今回の事件のあらましには、熱い友情とか、諦めない心とか、そういう感動はなさそうだった。そもそも、元の|主人公《メロス》は、盗賊や洪水といった不幸な苦難に道を阻まれたのだけれど。
「|瑪路《めろ》さんの場合、マラソンとか自転車のパンクは不運だとして」
大通りの周り——両側はビル街になっている──を見回して、結は腕を組んだ。大会は中止になるのだろう、路地に逃げ込んだランナーや観客は、すっかり肩を落としている。
「そもそもの原因の寝坊は自業自得じゃない……」
とんでもなくごもっともだった。この場にいない少年の代わりに、何故かトゥルエノとガラフが額を押さえて瞑目する。結の困惑と怒りがそのまま、待ちぼうけを食らっている|星理奈《せりな》に重なって見えたからかも知れない。
「まあ、中学生の子にあれこれ言うつもりもないけれど」
──街の人たちに迷惑をかけるのは彼の本意でもないだろうし、止めないとね。
腕組みを解いた結が振り向けば、男子二人も素直にコクコク頷いて。
「うむ、怪人の力を借りるなど褒められたことでは無いが。青春……とやらのためだ。多少はな」
「我も青少年のアオハルは成就してほしい派なのでな。ひと肌脱ぐとしようではないか」
逆恨みは良くないゾ……というトゥルエノの言葉を合図に、それぞれ|戦支度《ウォーミングアップ》を開始する。|羊太《ようた》へ教育的指導と救済を施すために。
●罪と羊
「早く瑪路さんの方に行きたいけれど……、こう大量に羊さんがいるんじゃ居場所もわからないわね」
羊たちはとにかく数が多すぎた。当てもなく飛び込めば、すぐにもこもこに呑まれてしまうだろう。
「こちらも、風の精霊さんに頼みましょう」
——稲穂ゆらし。
数には数で対抗、ということで。ビルの彼方に広がる青空へと手を伸ばせば、爽やかな風が舞い降りてくる。風は淡い緑光を帯びて、愛らしい羽をもつ精霊の姿を現した。いつも力を貸してくれる、頼もしい相棒たちへ、結はお礼の言葉と事情を伝えて。
「空から瑪路さんを探してくれるかしら?」
額を寄せてお願いすれば、任せろとばかりに精霊たちはクルクル回る。そのまま旋風となって空へ戻った後、前後に分かれて飛んでいった。
「これは心強い。わたしも案内して貰うことにするかな」
「ああ。上から探すのは最も有効な手段であろうな」
帽子のつばを軽く押さえて風精を見送り、トゥルエノは目を細めた。ガラフも、何度か共に戦った結の力は重々承知している。
無論、トゥルエノが本性たる雷獣の力を使えば、羊を散らすことはできるし、ガラフも同様だったが、一旦、彼女の成果を待った方が良いと判断した。方角が分かるだけでもとても助かるし、武力行使はなるべく最終手段としておきたかったからだ。
「怪羊たちに罪は……まあ其処まではないと思うからな」
「ええ、普通の羊さんじゃないんだろうけど……」
見ている限りでは、彼らは精霊を止めるでもなくメェメェ鳴き交わすだけ。悪気はなさそう、というか何を考えているかさっぱり分からない。多分、何も考えてないのかも知れない。
陽差しを心地よく浴びながら羊たちを眺めていると、「平和だなあ」という錯覚すら覚えそうになる。
「しかし、何と言うか」
格闘者たるガラフすら、少しばかりのんびりとした口調で呟いた。
「我を忘れている割には、召喚された羊も大した被害をもたらさない辺り……羊太の素質というか、人柄が見え隠れしている気がするな」
——端的に言って。
「……悪に向いていないな、と」
結とトゥルエノはきょとんと目を瞬いてから、深くふかぁく頷き合った。
そういう意味では恐らく、ドロッサス・タウラスは人選を間違えたのだろう。
●羊畑で捕まえて
ほどなく、精霊たちが戻ってきた。報告を聞いた結は仲間たちに向けて、若干言葉を選びながら語る。
「ええと。あちらの方向に、羊のような角がある羊飼い姿の怪人がいたそうよ。それで、様子が……」
荒れていると言うか、嘆いていると言うか?
人ならぬ精霊をしてすら、「早く何とかしてやらねば」と焦燥感を覚えるほどだという。
「精霊が焦っているのであれば相当だなぁ」
トゥルエノは眉をひそめ、ガラフも表情を引き締める。
「思ったよりも切迫した状況なのだな、承知した」
では俺は先行しよう──と、結が示した方向へ眼差しを向けると、一呼吸置いて跳躍。道路の真ん中に躍り出て、更に空中を蹴り、一歩、二歩と駆けてゆく。
空中ダッシュが途絶えれば、落ちる勢いをむしろ利用し、『化身拳』の技と覇気を乗せ──。
「メッ?」
着地がてら、真下にいた羊に、強烈な蹴りを突き刺した。
自慢のもふもふごと剛脚に貫かれ、羊は反撃どころか悲鳴も残せず消滅する。
「羊は確かに愛らしいが、無限に湧き出るのを相手する時間が惜しいのでな」
メェェ……!? と、周りの羊さんも驚いて振り向いたが、呆気に取られるもふもふたちを置き去りに、ガラフは再び飛んでいた。
「全く、凄い身体能力だな」
まるで、船から船へと飛び渡った武者のようだ。いや、格闘者か。
トゥルエノは感嘆の声を漏らして、
「流石に真似はできないが、此方も行くとしようか」
やはり目を丸くしていた結を見上げれば、少年の足元から、ふわりと冷気が立ち上る。
──煌めく冠、御照覧あれ。
始めは涼しい程度だったが、風の温度は急激に下がり、白く煌めく結晶が内に舞った。術者は、咲いた霜の花を満足げに見やると、羊たちに向かって|霜花齎すオーラ《アンテトニトルス》を放つ。
「どれ、追い立ててみる事にしよう」
六月の陽気を蹂躙する冷気に、日向ぼっこしていた羊たちはイヤイヤをして避け始めた。トゥルエノが本気で攻撃をしているわけではないのを察して、結はホッと息を吐き、再び精霊たちに呼びかける。
稲穂を揺らす風が、吹いて。
冷気のオーラを巻きこみ、霜花を広く運んでゆく。
──援護、感謝する。
そう言って、少年はニヤリと嬉し気に、口の端を上げた。
「ヒトの少ない方向に誘導できれば御の字だな」
「ええ、あまり刺激しないように、羊さんをどかしましょう」
──なるべく乱暴はしたくないから。
結もまた微笑んで、風の向きを操れば、トゥルエノは冷気の威力を調整してゆく。霜を帯びた旋風は、まるで銀の毛並みの牧羊犬のようだった。メェメェ慌てる毛玉たちを追いかけ、上手く沿道へ寄せてゆく。
とはいえ元々の数が数だ。どうしても避けきれなかったり、身を寄せ合って動かなくなってしまった一団もいた。
そういう場合はトゥルエノ曰く、「この世は無情、弱肉強食である」とのことで。レイン砲台のレーザー射撃で散らしたりもしつつ、二人は概ね穏便に羊の海を渡って行った。
そして、目にするよりも早く。
「僕はもうどうせフラれるんだ! 終わりだ! 世界なんて滅べばいいんだァァ!」
などという慟哭が耳に飛び込んできて、結とトゥルエノは顔を見合わせた。
——これはええと、随分と……。
——拗らせているようだな……。
最後のひと群れを散らして進めば、羊飼いの杖を振り上げて喚き散らす怪人の姿。
対峙するガラフの姿もあったが、その背はとても珍しく、困ったように揺れていた。
「青春とは……難しいものだな」
流石にちょっと、特殊なケースかも知れない。
第2章 冒険 『シデレウスカードの所有者を追え』

●羊のこころ
|瑪路《めろ》|羊太《ようた》は恋愛が分からぬ。彼はまだ齢十四の少年である。男友達とばかり遊んで暮してきた。
故に、女子を二人きりでの外出に誘うなど、生涯初めての出来事だった。首尾よく|石川《いしかわ》|星理奈《せりな》との約束を取り付けることに成功しただけで、有頂天であったのだ。
もう少し目端の利く男であれば、彼女が確たる連絡手段を持たぬと知った時点で、更に慎重に策を練ったであろうが……。
そこまでの利発さがなかった結果が──。
「ひどいよ! なんで僕の邪魔をするんだよ! みんな大っ嫌いだぁ──!」
大通りを羊さんで埋め尽くした、この惨状であった。
一応、本能的な何か? で、映画館の方にじわじわ進んではいたようだが、少し歩くと立ち止まり、落ち込んでは叫ぶの繰り返し。
シデレウスカードの影響で怒りを発散せずにいられないのかも知れないが。
どちらかというと、多分。
「石川さんきっと怒ってる……もう顔を合わせられないよ……全部終わりだお終いだ」
大遅刻確定の今、待ち合わせ場所に向かって、星理奈に拒絶させるのが怖いのだろう。故に、やつあたりと現実逃避に全力を尽くしているのだ。
——無論、いつまでもそうさせてやるわけにはいかない。
幸い、民間人の避難は済んでいるので、アリエスメロスこと、羊太とのやり取りに集中できる。
甘えてばかりの彼の心身を、戦闘で叩き直してやるも良し。
もしくは、彼の心に響く言葉で説得することで、シデレウスカードの力を削げるかもしれない。
彼のアオハルに、まだ救いはあるのか否か。
その行く末は、能力者たちにかかっている──。
──……かも知れないし、どうしようもないことかも知れない。
===================
【アリエスメロス・シデレウスについて】
少年の顔かたちはそのままに、頭から羊のような螺旋状の角を生やした怪人。
キトンと呼ばれる古代ギリシャ風の衣服にサンダル姿で、羊飼いの杖を持つ。
言葉は荒れてるし、応戦もしますが、戦闘にはやや消極的です。
心の底では自分が悪いと分かっているのかも知れません……。
主な攻撃方法
P:羊合体…羊を合体させ、巨大羊による肉弾戦を行います。合体は1分で解けます。
S:羊ビーム…羊の静電気を集めてなんやかんやで太いビームとして放ちます。
W:羊ウォール…羊を積み上げた羊ウォールの影に隠れて攻撃を無効化します。
杖で羊を操りますが、一度に操れる数が少ないため、大半の羊はのんびりしています。
===================
●羊立ちぬ
果てしなく続くモコモコの波を渡り。ようやく目的の相手──シデレウス怪人と化した|瑪路《めろ》|羊太《ようた》の元までたどり着いた能力者たち。だがそこで、新たな壁が立ち塞がった。
「瑪路さん、話をしましょう。瑪路さん、聞こえる?」
|小明見《こあすみ》・|結《ゆい》(もう一度その手を掴むまで・h00177)が、壁の向こうにいるはずの瑪路羊太へ、繰り返し呼びかける。
「「「メェ~」」」
しかしその声は羊の合唱に阻まれてしまった。
「ちょ、ちょっと今は黙っていて貰えると助かるんだけど」
そう。今、彼我の間を隔てているのは、天高く聳え立つ羊重ねのモコモコウォール。保温性は抜群で、都合の悪い言葉は鳴いてシャットアウトしてくれるワガママ防音付き。
回り込んで羊太に会おうと試みれば、そこにも羊さんが積み上がる。いつしか『籠れメロス』とばかりに、羊太の周りは閉ざされてしまった。
「もう! 羊さんに隠れている場合じゃないでしょう!」
頬を膨らませる結と、羊の岩戸に引き籠る少年。そして状況を理解してるのかいないのか、超然とした羊さん。返事は「メェ」の一点張り。
小説より奇な現実を前に、クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)は、思わずにいられない。
──何というか。
(平和だな……)
無意識に漏れた苦笑を空咳に変えて。クラウスは羊の壁を仰ぎ見る。
(勿論、人々を混乱させたのは良くないんだけど)
上の方の羊さんと目が合った。メェと呑気に返されて、耐えられずに吹いてしまった。
もう駄目だ。結にも何事かと振り向かれ、軽く手をあげて観念した。
「いや、つい。何だか和んでしまって」
|故郷《ウォーゾーン》での戦闘経験だけでなく、√能力者として数多くの依頼を受けてきた彼は知っている。
シデレウスカードの力に溺れ、殺戮に走る者もいたという事実を。
「……このまま、平和的に解決したいな」
だから、好ましかった。羊太という少年の心根も、必死に説得を試みる結のことも。
そんなクラウスの想いを、どこまで汲み取ったかは分からないけれど。締めの言葉には、結もしっかり頷いた。
「ええ。瑪路さんのためにも、絶対にそうしましょう」
●風と共に羊去りぬ
ということで強硬手段を採ることにした。
「「「メェ~!?」」」
「精霊さん、お願い。羊さんをみんなどかして欲しいの」
結の召喚に応え、風の精霊が渦を巻く。風は旋風のレベルを超えて成長し、竜巻となって天を突いた。壁となった羊さんはあっけなく巻き込まれて舞い上がり、そのままキラリと消滅した。魔法使いの国に行ったかもしれない。
「ひえ! な、何だよ! 僕を怒りに来たのか!?」
羊太こと怪人アリエスメロスは、突然開けた視界に怯えながら、羊飼いの杖を支えに立ち上がる。どうやら羊の奥で体育座りをしていたらしい。よく見ると目も赤い。
「羊太君、だよね? ちょっと落ち着けるかな」
クラウスが穏やかに声をかける。敵意がないことを証明するため、武器は持たない。
一歩近づこうとしたところ、羊が一匹飛んできた。羊太が叫ぶ。
「来るな! これでも喰らえ!」
見切るまでもない緩やかな軌道だった。クラウスがスッと躱すと、羊は綺麗に着地して、そのままポテポテ歩いて行った。
「…………」
「…………」
何とも言えない空気が流れた。
「ま、まだだ!」
羊太はめげずに杖を振り、続けざまに数匹羊を飛ばしてくる。申し訳ないがエネルギーバリアを張って、ぽこぽこと左右へ弾いた。みんな自由に歩いて行った。
愉快な力ではあるが、このままでは羊がまた増えてしまう。クラウスは諸手を上げて更に無抵抗を示した。
「俺は怒ってないし、君の邪魔をしないから。この騒ぎが止まればそれでいいんだ」
「そうよ瑪路さん、話をしましょう。一応私たちも、ある程度の事情は把握してるつもりよ」
ちゃんと向き合って話がしたいのだ、と。結も距離を測りつつ、羊太の目を真摯に見つめる。
「は、話って、なんだよ」
なんか流れるように目を逸らされた。
羊角の下から覗く耳がほんのり赤い。女性との会話に慣れていない可能性がある。
「デートに遅れて、落ち込む気持ちもわかるけれどね。こんな所で立ち止まって、それでいいの?」
うっ。横を向いた羊太の目が、明らかに泳いだ。
「大切な人をほったらかしにして、そこで嘆いてるだけでいいの?」
ううっ! 大げさに胸を抑えて、羊太はよろめいた。
「こんなことをするくらいに、あなたは今日に懸けていたのよね。彼女だってきっとそう、大切な人と特別な時間を過ごしたいと願って家を出たのよ」
結が畳みかけると、羊太は耳どころか顔中を真っ赤に染めた。心なしか湯気まで噴いて、高速で首を横に振る。
「たた、大切っ! 石川さんが僕を! そんな訳ないないない!」
「どうしてそこだけ思い切りがいいのよ……」
カクリと首を落とす結に、羊太も俯き、指折り自分の欠点を並べる。
だってだって。見た目もイケてないし。運動も苦手だし。遅刻するし。その上に。
「こんな──こと……」
羊まみれの周囲を盗み見て、羊太は言葉を濁した。その、細く途切れた言葉尻を拾うように。
「羊太くん……本当は、今悪いことをしているって自覚があるよね?」
クラウスが優しく告げれば、びくりと少年の肩が震えた。
黙ったままの主の代わりに、「メェ」と傍らの羊が鳴いたので、小さく笑い返す。
「あんまり積極的に戦わないことも、羊たちがのんびりしていることも。君の罪悪感や、優しさの顕れなんじゃないかな」
ならば、と、クラウスは続けた。
──まだ間に合う。まだ戻れるはずだ、と。
彼の口から、無責任な|希望《ことば》は出ない。これまでの経験と、羊太と直接会って得た、ほぼ確信に近い予測だ。
「今までの君に、戻ろう」
「……彼女はきっと、今でもあなたを待っている」
重ねるように。結もゆっくりと言葉を紡ぎ、羊太に問いかけた。
「もう一度聞くわ。瑪路さん、こんな所で立ち止まってていいの?」
太陽は真上から、少しだけ傾き始めていた。きっと、映画はとっくに始まっている。けれど。
──今日はまだ、終わってないのよ?
大切な人の元に向かうことなら、きっと間に合う筈だと、結は微笑んだ。
●羊の王様
|瑪路《めろ》|羊太《ようた》は、能力者たちの到着と声掛けを受け、暫し動きを止めていた。
しかし──少年の自制心に、シデレウスカードの呪縛が勝った。やわらいでいた少年の瞳が、不意に尖る。
「ダメだ、怒りが収まらないんだ。僕を邪魔した、理不尽な世界が許せない!」
──出でよ! 合体魔獣、キングウーール!
羊さんが集まりだした。メェ~の大合唱と共に爆発のような閃光が走り、一匹の巨大羊さんが顕現する。後足で立ち上がった巨躯を見上げ、能力者たちは叫んだ。
「キングウール! キングシープじゃなくて?」
「二足歩行とは恐れ入ったな」
爆風に|煽《あお》られて。黒の瞳を細めながらツッコんだのは、現役学生の|冬凪《ふゆなぎ》・|雪正《ゆきまさ》(フューリー・アイス・h00307)。黒の前髪を直して唸るのは、少年姿の精霊、トゥルエノ・トニトルス(coup de foudre・h06535)。
キングウールが野太い声でブメェ~と吠えると、肩に乗った羊太も吼えた。
全部壊れちゃえ──!
巨大な前足が地へ叩きつけられる。周辺の羊さんが逃げ惑い、アスファルトに巨大なチョキ型のヒビが穿たれる。
雪正は咄嗟に氷鎧の拳を発動し、飛んできた破片を振り払った。
「バカモノ……! 自ら進むべき道を閉ざし、これからも友たちと過ごすだろう明日や未来まで滅ぼそうとしてどうするんだ!」
羊太を叱り飛ばすトゥルエノの腕を、雪正が素早く引いた。直後に蹄が落とされて、二人は一旦、距離を取る。
「追ってくる様子はないね。無軌道に暴れているだけみたい」
「怪人化の影響か。当人の意志を半ば無視して、暴走していると」
トゥルエノは苦虫を噛み潰したような面持ちで、破壊跡を確認──すると、何故か。陥没した道路が修復されつつあった。
街に刻まれた傷を、『忘れようとする力』が癒し始めていたのだ。
「羊太くんが戻った時に、壊れていたら気にするだろうから」
思わず振り仰げば、雪正は少し照れたように笑っていて。
それから口に両手を添えて、大声で呼びかけた。
「──羊太くん! 俺は羊太くんと戦いに来たんじゃなくて、話に来たんだ!」
確かに君の状況は不運だった、でも!
「今は不幸を嘆くより、しないといけないことがあると思う!」
どかんばこんと巨体が暴れる騒音を貫いて、雪正の言葉は確かに羊太の耳を叩く。
「そうだ、おぬしには未だやるべき事があるだろう!」
もはや遅刻は確定だ、刻限には間に合わないと、トゥルエノが容赦なく続ける。
キングウールの肩の上で、少年が膝から綺麗に崩れ落ちる。でも。それでも。
「待ちぼうけさせてしまっている相手の元へ、這ってでも向かうのだ!」
イヤイヤするように、少年の羊角が揺れた。キングウールも振り向いて、鼻息荒く蹄を鳴らす。雪正は咄嗟に、氷鎧を備えた腕を構えて。
──蝶の天窓、描くは幻想、其の身がソラ目指すほど気高く在るように。
トゥルエノの詠唱に導かれ、眩いばかりの花弁が踊った。極光の羽をそよがせて、蝶々たちも舞っている。その様は百花繚乱にして千紫万紅。羊たちすら歩みを止めて見惚れるような万華鏡の世界。
キングウールも動きを止め……そこで活動限界が来たのだろう。巨体は揺らぎ、光となって溶けた。
残されたのはたくさんの羊と──仰向けに落ちてくる羊太。
「待っている相手に其の顔を見せて安心させてやれ」
|呆《ほう》けた顔の少年が、ぼふりと羊の上に落下した。
●世界の終わりと半熟卵のワンダーランド
「ダメだ! 無理だよ! 今更行けない!」
「あっ、コラ! この期に及んで!」
だが、落ちるや否や、羊太は羊さんを盾にして逃げ始めた。叱るトゥルエノに背を向けて、出入り口のないモフモフの『かまくら』を完成させて引き籠る。
ぐるっと確認すると、通気口と思しき小さな隙間があった。そこから雪正が囁きかける。
……石川さんがどう思ってるにしろ、君を待ってるよ、と。
そう、驚くほど当然のことだけれど、羊太がいくら暴れようと、遅刻をなかったことにはできない。そして、待たされている石川|星理奈《せりな》の気持ちは、本人にしか分からない。
「怒ってる可能性だってもちろんあるけど、待ちぼうけで困ってるのは確実なんだ。だから一刻も早く石川さんのところに行って、まず話をしないと」
穴の奥から、モゴモゴと応えがあった。なんて? と、二人で耳を寄せれば、「何を話せばいいか分からない」といった具合だ。
「今日という日を心待ちにしすぎて寝坊したことを説明して、遅刻してしまってゴメンナサイと素直に謝れ」
トゥルエノがぴしゃりと言えば、雪正も頷いた。
だって、当たり前のことだ。
──世界を滅ぼすより余程簡単ではないか。
思わずぼやけば、ううぅ~と情けない声が羊の中から漏れてくる。
「二度と……許して貰えなかったらどうするんだよ」
──僕にとってそれは、世界の終わりと同じなんだ。
羊太は十四歳だ。まだ、このかまくらのように小さい世界の中にいて、視野も狭いから。
……なんて言ってしまえば、それまでだろうけど。
「君にとって石川さんって、それだけ気にかける人なんだよね」
雪正だって、√能力者であると同時に、まだ十六歳の学生だった。
小さく温かな世界の中で、『その人』が笑っていることが、どれほど大切なのか。
分かりすぎるほどに、分かるから。
「それならなおさら、石川さんが傷付いたり悲しくなるような状況は終わらせないと」
彼女は心細くて落ち込んでいるかもしれない。来ない羊太を心配しているかもしれない。
行けば、笑顔になってくれるかもしれない。
「どうなるか分からないなら、少しでも前向きな方に行ってみようよ」
年若い仲間の、柔らかな心に触れて微笑みながら。長く生きた先達として、トゥルエノは釘も刺しておく。
「無論、許される前提で行ってはならんぞ。明日以降も共に過ごしたいなら、相手の顔をきちんと見て、怒られるのも必要だ」
今日がダメでも、星理奈は消えたりしないし、映画だって公開はまだ続く。
「次のチャンスをくれと願うのも、またひとつの日常というものだろうに」
笑って、怒って、泣いて、笑い合って。
良くも悪くも|千紫万紅《ファルファッラ》の感情を、日々の彩りとして。
大切な相手がいる日常を謳歌しろ──と、|角端《かくたん》の精霊は、若者たちに説くのだった。
●冷静と暴走と羊のあいだ
|瑪路《めろ》|羊太《ようた》の激怒は、間違いなく鎮まりつつあった。
彼の元に辿り着いた能力者たちが示してくれた、確かな思いやりによって。
しかし──、
『怒れ。理不尽を課す世界に怒り、破壊しろ』
シデレウスカードが彼を煽る。強制的に理性を抑え、怪人へと引き戻す。
「そうだ、僕は悪くない。全部みんなが……世界が悪い」
罪悪感を転化した逆恨み。増幅され歪められ、極論になってはいるけれど、羊太の中にも確かにあったであろう他責思考。
それが、|天霧《あまぎり》・|碧流《あおる》(忘却の狂奏者・h00550)には面白くて堪らない。
「現実から目を逸らして、自分は被害者ヅラ」
──まるで今のお前のようじゃないか。なぁ、碧流?
ククク。喉を鳴らして|碧流《・・》は嗤う。影で模造した左手を心臓に添えて呼んだのは、確かに彼自身の名前だった。ただし、到底自嘲とは思えない、愉悦を含んだ声だった。
同行者に怪訝な目を向けつつ、ガラフ・ラハ・ラグターク(波濤のガラフ・h04593)も頭を振る。
「無論それが羊太の全てだとは思わんがな。とはいえ、保身の度が過ぎているのも事実」
ぱきりぽきりと聞こえた謎の音に、今度は碧流が怪訝な顔をした。怪人アリエスメロスこと、羊太から視線を剥がして音源を探せば、ガラフがとてもイイ笑顔で拳を鳴らしている。
「説得だけでは時間がかかりそうだ。|怪人化《シデレウスカード》の力を削ぐ為にも」
──……喝を入れてやろう。
『化身拳』の使い手たる|格闘者《エアガイツ》が獰猛に歯を見せれば、碧流の背も少々冷えた。
陽炎に似た覇気を身に纏い、ガラフが一歩前へ出る。辺りにいる一般通過羊さんすら、「メェ……」と殊勝に道を譲った。
「頼もしいねえ。お前も喝を入れて貰ったらどうだ、碧流」
大股で羊太に向かう背を見送り、碧流はこそりと独りごちる。己の内に潜む|主人格《あおる》へと、|裏人格《あおる》は軽口を叩き……どんな応えがあったのか。珍しく、困ったように眉間へ皺を寄せた。
「いや、流石に冗談だ。ブン殴られるのは俺だからな」
痛みを感じぬシャドウペルソナとて、やたらと殴られたい訳ではないのだった。
●陽気な羊が話を回す
「僕は悪くない、僕は……」
「いつまで甘えたことを言っている」
譫言のように繰り返す羊太の背を、覇気が炙った。反射的に振り向けば、ガラフが仁王立ちしていて息を呑む。
「約束を破るのは確かに良くないが、破ったままなのはそれ以上にまずいぞ、羊太」
腕を組んだまま更ににじり寄るガラフへと、羊太は羊飼いの杖を振り上げて……みたが、振り下ろす根性はないようだ。そのまま後ろへ退くと、僅かに開いた空間へ、すかさず羊を積み上げる。羊で作った心の壁、メーメーフィールド。
しかしその行動は、格闘者の闘志を煽っただけで。
「羊毛で俺の拳は阻めんぞ!」
動かぬ壁など格好の的とばかりに、残像伴う猛烈な拳打が、三百回ほど叩き込まれた。
メェェ、メェェ、メェェェ……と、残響残して防壁は崩れ去った。へたり込む羊太の所へ、碧流も軽くやって来る。
「やれやれ、どうも戦闘に消極的のようだな」
……ドロッサス・タウラスの人選は甘かったということか。
つまらなそうに緑髪を掻く碧流に、羊太はますます縮こまる。それでも、シデレウスカードに煽られた怒りを支えに──もはや風前の灯だったが──どうにか喰ってかかってみせた。
「ぼ、僕にどうしろって言うんだ……」
バサリとガラフは切り捨てる。
「既に破ってしまった約束だ、今更どうにもならん」
──だが、それならば。
「大人しく首を差し出しに行くのが、せめてもの誠意というものではないのか?」
「く、首ぃ!?」
羊太は羊を抱いて小刻みに震え出した。当のガラフが「普通では?」的にきょとんとしているのが、一層恐怖を煽ったようだ。腑には落ちないが、一旦引くことにして仕切り直す。
「……とにかくだ、こうなってしまった以上、我が身可愛さは捨てる事だな」
羊太は応えず、沈黙が落ち、碧流は聞えよがしな溜息を吐く。
「おい。周りをよく見ろ。これ、お前がやったんだぜ?」
あっちもメェ、こっちもメェのメェメェ尽くし。この道を使いたかった人々は、大層困っているだろう。
碧流は羊太に顔を寄せる。羊角の生えた耳元へ囁きかける。羊太が一番聞きたくない、考えたくないことを。
「想像してみろよ。愛しの彼女がこれを見てお前を拒絶したらどうする?」
──殺すのか?
びくり、と、少年の肩が震えた。
「世界を滅ぼすなら、当然だよなぁ? お前に都合の良い相手しか、要らないんだもんなぁ?」
不意に碧流が飛び退いた。直後、弾丸のように飛び込んで来たのは、メェメェ怒った羊たちだ。羊太も赤く滲んだ目で、羊飼いの杖を振り上げた。羊が次々集まって、入道雲のようにモコモコ合体してゆくのを見上げて、碧流はふっと笑う。
「フフ。俺はそれを見てみたいんだが……」
|馴染みの星詠み《るりちゃん》からのご依頼だ。まあなんとかしてやろう。
合体を終えた羊は、ビルにも届かんばかりの巨軀と化していた。同時に碧流の『|溢れる想像力《オーバーフロー・イマジネーション》』が解き放たれ──そっくりそのまま、巨獣の写し身が現れる。
「自分がやってることを正面から見せてやるよ」
認めるんだな、自分の罪を。碧流の宣告と共に、二頭の巨大な羊がぶつかり合った。
「ブメェ〜!」
「ボメェ〜!」
横向きの眸で睨み合い、後足で立ってがっぷり四つに組む。互角だったので一息ついて、チョキの蹄でボカボカボカ。メェメェメェメェ。ボカボカボカ。
「…………」
暫し無言で見守っていたガラフが言った。
「やはり羊とは……愛らしいものだな……」
「デカいだけじゃねーか。牧歌的すぎる。なんだこのぬるい攻撃方法は。やる気あんのか?」
碧流は碧流で、激詰めしながら羊太を締め上げていた。まあまあ、と、今度はガラフが宥めにかかる。
「先の言葉だけでも、羊太は充分|堪《こた》えただろうさ」
囁いた内容が聞こえていたのだろう。地獄耳だなと碧流は|嘯《うそぶ》き、羊太を放してそっぽを向いた。放り出されて尻もちをつく少年に、まだ喝が必要か様子を見て──幾分柔らかく、ガラフは告げた。
「素直に謝れないようなら、最初から長続きなどしないだろう。しっかりと清算してこい、若者」
●正体は猫である
──フラれても 仕方ないかも アリエスメロス
ミア・セパルトゥラ(M7-|Sepultura《埋葬》・h02990)、心の俳句(字余り)
怪人アリエスメロスこと|瑪路《めろ》|羊太《ようた》は疲弊していた。能力者たちの説得に応えようと、良心と理性が顔を出しかけては、シデレウスカードが邪魔をするのを繰り返していたからだ。
彼の精神がもう少し成熟していれば、或いは自力で呪縛を破り、正気を取り戻せたかも知れない。だが、まだそこまで至れないようだった。
「うう、こんな事はもうやめなきゃ……いや、やっぱり全部壊すべき……?」
ということで。少年は羊角が重そうな頭を抱え、一人でうずくまって懊悩しているのだった。
そこら辺を呑気に歩く羊さんを撫でながら、ミアは静かに見ていたけれど。不意にその緑瞳を細めると、吐息を零すように言った。
「そうかもね。全部全部をおわりにできたら、それもいいのかもね……」
だって、彼女の|故郷《ウォーゾーン》には、たくさんいた。大切なものを失い、嘆き苦しみ、自ら『おわり』を望む人間が。
心は人の数だけあるものだ。彼らの絶望に比べ、羊太のそれが浅いなどと、誰に断言できるだろう。
──周りからは些細に見えても大事なことってあるし。
「フラれるかどうかは分からないけど……羊太くんの言葉は否定しないよ」
腕の中の羊さんを解き放ち、ミアは羊太へ歩み寄った。ミアが発した寄り添うような言葉に──もしくは、儚げな少女の外見に──気を惹かれたのか、羊太は攻撃せずに待っていた。
合間に挟まってくる一般通過羊さんを押しのけて、少年の傍らに自らも屈む。白く小さな手のひらが、羊飼いの肩に優しく乗せられて、柔らかな唇がゆっくりと開く。
「フラれる以前に、自分から『居なくなっちゃえば良い』って言ってるのに、でも自分がフラれるのはイヤだとか都合が良すぎるもんね……」
厳しいお言葉だった。
「ウッ!」
「みんないなくなればいい……ただし僕の大好きな彼女は除く……とか」
「ウウッ!!」
「しかも僕はもう傷付いてるから優しくして欲しい……とか、都合が良いどころじゃないよね……」
「ウウウッッッ!!?」
ガラ空きのボディに抉り込むような舌鋒を叩きこまれ、羊太は身悶えして白目になった。ボクシングの試合だったら、タオルが宙を舞っているところだ。
倒れかけた主人を、通りすがりの羊さんがその背でぽふりと受け止める。
「ふかふかで気持ちいいよね……」
ふふふ……|少女人形《レプリノイド》の儚げな笑みが、却って恐ろしく見えた。羊太が戦慄して後退ると、ミアは素早く間を詰めてゆく。羊の間を縫う、しなやかな動きはまるで熟練の牧羊犬──。
「ねこだよ」
猫だった。
「うん、ねこが教えてあげるね。世界を終わらせるよりずっと簡単な方法を」
ミアはにゃーんと両手を丸め、猫ポーズを決めた。合わせて羊太は身を震わせる。
「もしかしたらだとか……気休めの慰めよりも、いまのあなたに必要なのは……睡眠だよっ!」
メェェ。同意するような羊さんの鳴き声に続いて、ミアの√能力が発動する。
「ねないこ、だーれだ?」
●眠れる羊のビジョン
世界というのは愛おしくも厄介で、守ろうとすると脆くって、壊そうとすれば|強《したた》かだ。
悲しくて苦しくて、もう目を開ける意味が分からなくても。泥のような夜が明ければ、昨日とあまり変わらない今日がある。
──終わりだと思っても、どうしようもなく続いちゃったりする。
終わらせる方が楽か、続ける方が苦しいか。
──他人に決められることじゃない、けど。
確かなのは、続ければ明日があるということ。あるいは辛くて、来ない方が良いかも知れず、けれど明るく、想像より優しいかも知れない明日が。
辺り一面の羊さんが、ミアたちに抱かれてスヤスヤと穏やかな寝息を立てていた。
ハグしたい、癒やしてあげたい、休ませたい!というミアの欲求から生まれた分身たちが野に放たれ、羊さんたちを眠らせたのだ。
「そんなにこわがらなくても、だいじょうぶ……」
しかし、肝心のアリエスメロス──羊太は、すっかり怯えてしまっている。自分を狙う|分身《ミア》に抵抗し、逃げ続けていた。
こうなれば、本体が行くしかない。ねこ──ミアはじわりとにじり寄る。逃げ惑う子羊に、穏やかな眠りを施すために。
「こ、こないで!」
逃げる子羊が杖を振るえば、呼ばれた羊がぴょぴょんと連なって、追手を阻む壁となる。
だが、ミアは壁に沿って目線を上に向け、やがて広がる青空を瞳に映すと、呟いた。
「そこには壁は、もうないの」
|遍在する私とあなた《イツカウミヘトカエルモノ》。
追加の能力を発動させて、ミアは姿を消した。上空にいたインビジブルと位置を入れ替えることでワープし、次の瞬間にはもふもふの壁の上に立っていた。
「ひええっ!?」
太陽の光を浴び、銀の髪を風になびかせ。壁上に佇む姿は神々しくすらあって、哀れな羊飼いは圧倒されてしまった。へたり込んでしまった羊太を見下ろし、ミアは何を思ったか、胸に手を当てて。
「この……モフリエル……」
厳かに初出の名を名乗った。
「大天使……クマルリエルからのお告げで、助けに来たの……」
見上げた青空に、クマ耳の星詠みの顔が浮かんだ気がした。眉を八の字にして、明らかに困惑していた。
「安心して、その身を委ねるといいんだよ……」
「いや不安だよ! なんか怖いし、増えるし、急に謎の設定が出てきたし!」
とうとう恐怖より『訳が分からない』の感情が勝ったのか、羊太からツッコミが入った。しかし、世に安寧をもたらす大天使モフリエルは動じない。
「中二前後の扱いは大体こんな感じでOKって……マイケルが言ってたよ」
見上げた青空に、マイケルの爽やかなアルカイックスマイルが浮かんだ気がした。いや多分これは知らない人です。
「マイケルってだ」
「あなたは、緊張と寝不足でちょっぴりハイになってて、連続パンチまでもらってパニックになっちゃっただけ」
少年に皆まで言わせず、モフリエルは畳み掛ける。
「でも、それだけ今日のこと大事に思ってたんだよね……だから、だいじょうぶなんだよ」
そして、両手を広げて。呆気に取られている少年へ、真っ直ぐに瞳を向けて──瞬いた。
──きっと、明日はそんなに怖くないから。
気がつくと、羊太はミアの腕の中にいた。インビジブルを介してワープしてきたのだと理解できるはずもなく、羊太はあっという間にまどろみへ誘われる。
夢うつつの狭間に落ちて、ようやく、彼を縛っていた様々な感情が解けてゆく。まぶたを殆ど閉じたまま、最後にぽつりとこぼれる言葉がひとつ。
「ごめんなさい……」
すると何故か羊さんたちも寄ってきて、主人を包むようにモコモコし始めた。一緒に包まれたミアも、羊毛の温もりに頬を緩めながら、少年の頭をぽんぽんと撫でた。
「その言葉は、|星理奈《せりな》ちゃんに言ってあげてね。私たちは大丈夫なんだよ」
微かに頷いたような気配があったかと思うと、すぐにすやすやと寝息が聞こえ始めた。ゆっくりと怪人化が解けてゆく。
「実際、人身被害はほぼ出てないんだし……ある意味で未然に防いだって解釈もできるよね」
人間の姿に戻った少年の寝顔へ、ミアは小さく囁いた。もしも、暴力を躊躇わない相手にこのカードが渡っていたら、事件はこんなものでは済まなかっただろう。
だから、きっと。
羊太は人の命を守ったとも言えるはずだ。
「それにあなたはまだ子どもだから。こういう時は、大きなモノのせいにしちゃったりしても良いから……例えば羊さんを犠牲に……」
メェェメェェと周囲から抗議が聞こえ、もこもこの頭にどつかれた。そういえば羊さん方は、怪人がいなくなったのに残っている。
とりあえず、ミアは慌てて手を振って。
「じゃなくて──牛さんに悪役を引き受けてもらえばいいんじゃないかな」
このあときっと現れるはずの、黒幕の姿を思った。
第3章 ボス戦 『『ドロッサス・タウラス』』

●そして全員集まった
通りに並ぶビルの上から、羊の海を見下ろして。ドロッサス・タウラスは激怒した。
「なんという体たらく! 戦いにすらならぬとは!?」
確かにあの少年は、期待薄めな素材ではあった。しかし、人類の力を侮ったゆえに辛酸を嘗めた経験が、己の先入観を|諫《いさ》めたのだ。普段と毛色の違う者を選んでみれば、新たな可能性が見られるやもと知れぬ、と。
そんなこんなシデレウスカードを渡した結果がコレである。
「力を得ても弱者は弱者。心根が軟弱であれば、強き怪人と化す道理もなしか」
ドロッサス・タウラスは牛頭を振り、次いで、巨大な金棒を抱え直した。せめて、邪魔をした者たちの首でも土産にせねば、この憤激は収まらぬ。
同時刻。|石川《いしかわ》|星理奈《せりな》は混乱していた。
羊の海の只中で。
「き、来ちゃって良かったの……かな?」
不安気に問えば、メェメェと応えが返る。
少し前まで、彼女は確かに映画館にいた。だが、待ち合わせ相手の|瑪路《めろ》|羊太《ようた》は待てど暮らせど現れず、映画もとっくに始まった。
怒りや悲しみよりも、大きかったのは困惑で。ロビーのソファでぼんやりしていたら、人々の噂が耳に飛び込んできた。
曰く。近くの大通りで事故があり、大規模な通行止めが発生しているそうな──。
未だ来たらぬ待ち人と、『事故』という不穏な単語。二つが頭の中で結びついた瞬間、星理奈は映画館を飛び出していた。
そんなこんな大通りに向かった結果がコレである。
「羊さんたち、まるでどこかへ案内してくれるみたいなんだけど……」
不思議の国に迷い込んだ|少女《アリス》の心持ちで、ふわふわと星理奈は進む。
●儚い羊たちの大団円
羊は──……羊である。
羊とは個にして全、全にして個。観察によって群れの中の一個体を見出すことはできるが、マクロな視点においては群れそのものが羊であった。
全体としての彼らは薄らと理解していた。羊たちをこの世界に生み出した力は消え去り、消滅の時が迫っていると。
とはいえそれは彼らにとって何ら重要なことではない。次の瞬間に羊でなくなることを恐れるより、今この瞬間に羊である幸福を噛みしめるべきだからだ。
──彼らにとって重要なことは、他にあった。
そう、この世に生まれ落ちた瞬間から、|彼女《・・》だけは特別な存在だった。守り抜き、導かねばならぬ。羊が羊でなくなるその瞬間まで。
「有象無象共が、よくも邪魔立てをしてくれたものだ──」
怪人化が解けて倒れた瑪路羊太と、彼を見守る能力者たちの前方へ、
「我を相手取る覚悟はできておろうな!」
怒りの咆哮と共に、ドロッサス・タウラスがビルから降り立った。
巨大な地響きが周囲を襲うと同時。今度は能力者たちの後方で、
「きゃ!! なに!? 怪人!? やだ! |瑪路《めろ》くん倒れてる──!?」
羊の群れがサアッと退いて、少女が一人現れた。とたんに羊太が意識を取り戻して、「石川さん!?」と慌てだす。
足がすくんだ少女……石川星理奈を、羊たちがメェメェと寄り集まって持ち上げて。
無事に羊太の元へと送り届けると──『あとはまかせた』とばかりに、横長の瞳孔が揃って、能力者たちを見つめた。
前方には倒すべき敵。傍らには守るべき少年少女。そして周囲を囲う羊たち。
唐突にそして強引に、舞台はどうやら整って。
残る全ては、能力者たちに|丸投げ《たく》された。
●羊をめぐる責任
被害者にして加害者たる少年、|瑪路《めろ》|羊太《ようた》がシデレウスカードの呪縛から解き放たれた瞬間、黒幕たるドロッサス・タウラスが姿を現し、ヒロイン的立場の|石川《いしかわ》|星理奈《せりな》までも姿を見せた。
小説であれば『ページの都合』と揶揄されそうな急展開だ。
羊太を介抱していた|小明見《こあすみ》・|結《ゆい》(もう一度その手を掴むまで・h00177)も、青の瞳を忙しく瞬き、どうにか状況把握に努める。
「二人が会えたのは良いけれど、この状況は不安ね」
深呼吸を一つして、落ち着きを取り戻すと、羊太と星理奈へ振り返る。冷静であらねば。彼らは中学生で、自分は高校生なのだから。
「瑪路さん、石川さんを連れて離れていてくれるかしら。この辺り、危なくなるかもしれないから」
……彼女を守ってちょうだい。
真剣な眼差しで告げれば、ようやく現状の危うさに気付いたのか。少女は不安気にハッとして、少年は「僕が!?」と裏返った声を上げる。
「そうよ。あなたの大切な人でしょう」
少年の頼りなさに眉根を寄せて、結は珍しく、厳しい面持ちで念を押す。とはいえ、想い人に聞こえないよう、声をひそめる配慮は忘れずに。
「それで、全部終わったら……しっかり彼女と話しなさい。一人で考えるだけじゃなくて、ちゃんと伝えるのよ」
真っ直ぐな言葉を受けて。羊太はやっと、照れも慌てもせずに頷いた。
「石川さんも、こんな状況だけど、彼の話を聞いてもらえると嬉しいわ」
──お願いね。
眦を和らげ、星理奈へと微笑む。少女も反射的に頷き返したものの、青ざめた様子で震えている。視線の先にいるのは勿論、足音荒く迫る、ドロッサス・タウラスの巨体だ。
「あの化け物は……お姉さんたちはどうするんですか!?」
「大丈夫、あっちは俺たちが何とかするよ」
心強く応えたのは、落ち着いた男性の声。同じく高校生たる|冬凪《ふゆなぎ》・|雪正《ゆきまさ》(フューリー・アイス・h00307)だ。
ザっと靴底を鳴らし、タウラスとの間に割って入った彼の背中は、不思議と常より大きく見えた。
「羊さん……! 君達の意志は確かに受け取った」
羊さんのおかげで。
あとは任せて! 力強く宣言すれば、舞い飛ぶ氷雪が鎧となって腕に宿り、決意は炎となって瞳に灯る。
「羊太くんはしっかり石川さんを守るんだよ!」
心も体も傷つけないように、と。肩越しに投げかけ、託せば、少年の瞳にも勇気が灯る。
雪正は満足げに頷くと、氷鎧の拳を諸悪の根源へ突きつけた。己の覚悟を示すために。
「ドロッサス、この大騒ぎの責任は取ってもらうよ!」
とたん、怪人の額に青筋が浮かんだ。
「……確かに小僧にカードを渡したのは我だが。この騒ぎの責任を取るのは不本意だッ!」
羊たちがメェ~と鳴いた。とても長閑で、無責任な響きだった。
●進撃の牛
泰然とした羊たちはさておき。空気はまさに一触即発。戦いの火蓋が切られるその瞬間。
「待って……これ以上、戦う必要もないんじゃないかしら!」
結の叫びと呼びかけに応え、柔らかな風が吹き降りてくる。──『守り風』の術によって招かれた、風の精霊達だ。
守られていると察した雪正は、結の言葉を聞くために足を留めた。
「何のつもりだ、小娘。我を前にして怖気づいたか!」
「違うわ。ただ、傷付け合わなくて済むなら、叶う限りそうしたいだけ」
決然と、巨体を見上げて宣言する。怒りのオーラに負けぬよう、精霊の風を背に受けて。
「詳しくは知らないけれど、あなたの目的は瑪路さんを怪人にすることなんでしょう? だったら、その計画はもう破綻しているし」
雪正もふむと顎に手を当て、言い添えた。
「そもそも、羊太くんが怪人に向いてなかったよね。これだけの騒ぎなら、俺たちじゃなくても、いずれ誰かが止めたと思うけど」
ここでふと、聡明な学生たちは思い至る。
つまり元々、上手くいく目のない計画だったのでは?
それで失敗したからと怒り狂うのは、ただの八つ当たりでは……?
図星を突かれたのか、タウラスは無言になってしまっている。
「ええと……退いてもらえるとありがたいのだけれど」
おずおずと申し出た結の語尾をかき消す勢いで、羊さんたちが一斉に鳴き始めた。これはまさしく、『カ・エ・レ! カ・エ・レ!』のシュプレヒコールだ。
──ドロッサス・タウラスは、激怒した。
「貴様らッ! 纏めてジンギスカンにしてくれる!!」
本当のことを指摘されると、時に人は(怪人も)怒るのである。もはや問答無用と、金棒を突き出し突進して来る。
接近戦。ならば己が受けて立つべきだ。
拳に力を込めて、雪正は一歩踏み出した。二歩目で勢いに乗り、速度を増して間合いを詰める。
捉えた、と思うのは相手も同じこと。
金棒が|轟《ごう》と唸って加速して──雪正の腹部へ突き刺さった。
「ッ!!」
声にならない苦鳴が漏れる。結が青ざめ、タウラスが口角を上げて歯を見せる。
だが、歯はすぐに食いしばられた。
タウラス自身、反動で腕が痛むほどの一撃だった。人間の小僧程度、吹き飛ぶ筈。なのに。
金棒に喰らいつくような形で……雪正は踏み留まっていた。
「まさか、今のが効いて」
「……ない、わけないだろ。すごい、痛いよ」
かすれた声で笑うと、雪正は金棒の脇をすり抜ける。動揺しているタウラスへ、精一杯、氷雪煌めく拳を伸ばす。
「こっちだって……一か八かだった、けど」
見れば。金棒に突き破られたシャツの腹部から、拳と同じ煌めきが溢れていた。
元々、一撃喰らうつもりで備えておいた、腹部の『氷鎧』。一瞬に賭け、高めたオーラ防御。
「あと──精霊さんの加護もあった、から、ね」
優しい精霊使いへの感謝を口の端に上らせて。前傾姿勢を取ったタウラスの頬に、凍れる拳を突き刺した。
瞬間。決死の反撃技、『|氷鏡の鎧《ミラージュ・アイス》』が発動し、全ての痛みが掻き消える。
雪正は機会を逃さず、軽くなった体で怒涛の連打を見舞う。一撃一撃に、理不尽に打ち据えられた者たちの心を乗せて。
「これは羊太くんと! 石川さんの分!」
締めは伸びあがるように、巨体が宙へ浮くほど強烈な、アッパーを突き上げた。
「そして、これは──羊さんの分だ!」
「羊さんの分もちゃんとあるのね……!」
結はちょっとびっくりしたし、ドロッサス・タウラスはものすごく釈然としない顔で膝を折ったのだった。
●ひつじふる
「よし、元凶のウシ怪人が出てきたな……!」
黒幕たるドロッサス・タウラスが現れて、トゥルエノ・トニトルス(coup de foudre・h06535)は、氷晶のごとき瞳に力を込めた。
「あの悪の親玉さえ片付けてしまえば──」
羊たちをめぐる奇妙な冒険は終わり、安心して青少年達のアオハルを見守るだけになる。
迎えた最終局面に、否が応にも場のボルテージは高まっていた。無駄に帯電する羊まで現れる始末だ。
このまま一気に決着へ向かう、かと思いきや。
「おい、何をやってるんだ?」
能力者の一人、|天霧《あまぎり》・|碧流《あおる》(忘却の狂奏者・h00550)は腕を組んだまま、羊たちを|睥睨《へいげい》していた。
「む? 何か異論があるのか?」
「あの牛をぶちのめすのは大歓迎だ。だけどな」
振り返ったトゥルエノへ、碧流は口を尖らせて、
「なにを『あとはまかせた』って顔している。急に傍観者を気取るな! お前らもやるんだよ!」
もう他人事も他人事。ジョッキ煽りながら野球観戦的なノリで、戦いを見守るつもりだった羊たちへ、青天の霹靂を落とした。
急にマウンドに上げられても困ります!
などと不平を述べる暇もなく。球場ならぬ戦場に、低い音色が流れ出した。碧流の口から零れる旋律。そこへ何処かから溢れた怨嗟の響きが重なって、混沌とした不協和音を生み出してゆく。
「ぐ、ぬ……なんだこの不快な音は!」
ドロッサス・タウラスは、巨大な角の下を両手で押さえて苦悶した。そこら辺が耳らしい。
音色は等しく届くのに、苦しんでいるのはタウラスだけだった。碧流の奏でる『ディスコードスフィア』──狂奏の呪いは、狙った獲物のみを襲う。
トゥルエノは、感心したように呟いた。
「これは強力な呪詛だな。だが……」
羊は一体何の関係が??
きょとんと首を傾げると、狂奏にも負けぬ碧流の哄笑が音高く響いて。
──メェ~!?
揃わぬ和音へ、度を越して外れた異音が混ざり出す。
ディスコードスフィアのもう一つの効果、『周辺にある最も殺傷力の高い物体で攻撃する力』によって、怪羊たちが宙を舞ったのだ。
各々の音程で悲鳴を上げながら、羊の砲弾がタウラスに激突してゆく。
なんかすごい。すごいが。
「いや、もっと強い物があるのではないか!? あのビルの看板とか痛そうだぞ!」
「ハッ。柔らかいってなめんじゃねぇぞ? こいつらはそこのアオハル中の二人を守るためなら、火の中水の中、雄牛の中! その羊毛ですら鋼鉄と化すんだよ!」
トゥルエノの真っ当なツッコミを、碧流が根性論でぶち抜いてゆく。実際どれくらい痛いのかは牛のみぞ知るが、飛び来るモコモコで視界も遮られ、かなり嫌そうだ。
「おい、メェメェ泣くな! 歯くいしばれ!」
マウンドへ上がるにしても、ボールだとは思わなかったのだろう。鬼監督の檄が飛べど、悲しげな声は止まらなかった。
●ひつじカンタービレ
痺れを切らしたタウラスが吼えた。とたん、巨体から光が迸ると、群がる羊を吹き飛ばしながら、黄金に輝く牡牛と変貌した。
──星界の力を解放した我は無敵!
口の端から、荒々しい息と共に星炎のブレスを零し、四肢を駆って突撃して来る。
「フフフ……そうか! |お前も《・・・》痛みを感じないってわけだな!!」
いつの間にか金属バットを構えた碧流は、口の端を吊り上げた。
「じゃあいくら食らってもいいわけだ! なおさら殴り放題だ!!」
黄金の牛の突進を、フルスイングで迎え撃つ。金属同士が衝突して火花が散り、爽快な打音が跳ねた。
手が痺れ、衝撃で皮が破れようと、|肉体の持ち主ではない《シャドウペルソナの》碧流に痛みはない。とはいえ無敵でない彼が、いずれ押し負けるは必定。
「──駆けよ迅雷、黄昏れこえて射貫けよ神の槍」
涼やかな詠唱が、金属音に割って入った。
仲間が気を引くその隙に、空中へと浮遊して。戦場見下ろすトゥルエノの周りに、展開するのは無数の投槍。雷を宿した槍の名は、神の武器と同じ|雷霆万鈞《グングニル》。
攻撃の気配を感じ取った牡牛が、宙へ向けて星炎のブレスを放つ。
多少厄介だが──地上と違い、遮る羊のいない空。軽く移動し回避して、残る残滓をオーラの防御で凌ぐ。
「その形態、如何にも消耗が激しそうだ。元に戻れば、金棒での近接攻撃が得意な闘牛なのだろう?」
であれば対処は単純明快。
「近付かなければ良いのだ!」
雷鳴が轟き、稲妻が降り注ぐ。数多の槍は仲間も羊もすり抜けて、牡牛だけを射抜いてゆく。
牡牛は雷に縫い留められて、やがてその場で元の姿に戻ると、金棒を支えに肩を上下する。
「狂奏の呪いも戻ってきたみたいだなァ!」
バットをメスに持ち替えて、碧流が更なる接近を狙えば。
「此方の呪詛も上乗せしておいたぞ!」
トゥルエノが仕込んでいたのは、神々に終焉を告げる黄昏の呪詛。神を名乗る牛には堪えたようで、赤い瞳が憎悪に|滾《たぎ》る。
「打ち合うこともできぬ弱者らが、小賢しい真似を!」
「ん? バットの方をご希望か? 悪いなぁ、俺はメスも好きなんだよ」
「なぁに、好きに戦えば良い。我も槍使いという訳でもない」
トゥルエノがレイン砲台で、雨を降らせて傷を穿ち、朱華という名の──碧流のメスが、同じ個所に紅い花を咲かせた。
二人の息は、今や完璧に合っていた。
巨大な金棒は、空に逃れた|相手《トゥルエノ》には届かず。無理に近付こうとすれば、もう一人の|相手《あおる》が足元に滑り込んでくる。追い払っても打ち据えても、嗤って、何度も執拗に同じ傷を狙う狂気に怖気が走る。
「羊にヒトにと、弱きモノだと侮っているのだろうけれど」
そして再び、神の槍が展開した。
──ヒトの姿をした幻獣が、神なる牛へと審判を下す。
「最後まで立ち続ける者にこそ、諦めぬ信念というものがあるのだよ」
なぁ。
呼びかければ、地上の碧流は小さく肩を|竦《すく》めた。さあねぇ、|主人公《メロス》たちにはあるのかも知れないが──と。その先は、降り注ぐ轟雷の音で掻き消された。
物語の幕を降ろさんと、トゥルエノが術を解き放つ。
「日曜朝の時間は終いだ!」
その気勢を浴びた羊たちは、何故かクレイアニメ顔でスッと立ち上がり、二足歩行で拍手した。
●アウェイの牛
気付けば、場の勢力は三つに別れていた。見えざる神の手によって合流を果たした少年少女と、彼らを守る能力者。次に、諸悪の根源ドロッサス・タウラス。そして、羊である。
集った能力者の一人、クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)は歴戦の傭兵だ。何度だって言う。戦場ではどんな事態も起こり得るものだし、今回だって誓って、油断なんてしていなかった。しかし。
(情報量が多い……)
ゴーグルの跡を微かに残す額を押さえ、彼は瞑目した。
冷静になれ。整理しよう。作戦は順調に進んでいる。|羊太《ようた》が落ち着いて良かったし。羊太と|星理奈《せりな》が会えて良かったし。何より被害が少なかったのは僥倖だ。
(良かったことは色々あるけど)
どうも心のどこかに『???』がずっと浮かんでいて、素直に喜べないのだ。いったい全体何故だろう。
瞼の裏の暗闇に響く、メェメェと呑気な声は無視をして、思考をフル回転させて。
やがて彼は、一つの結論に至った。
──タウラスが邪魔だな……。
まさに天啓、『|エウレカ《わかった》』の閃きであった。そう、何をするにもタウラスがめっちゃ邪魔!
「うん、まあ。そのつもりで来てるし……」
この間、0.5秒くらいか。強大な悪の撃破が、完全についでになってしまったことに、再び疑問を覚えるものの、
「……ドロッサス・タウラスさん、だね。あなたが……全ての黒幕だったんだね!」
思考していたわずかな隙に、声を上げる者がいた。
|少女人形《レプリノイド》のミア・セパルトゥラ(M7-|Sepultura《埋葬》・h02990)が、細い指をびしりと伸ばし、ドロッサス・タウラスを指し示す。
「ほほう、威勢が良いな小娘。だが」
「あなたが! 罪のない羊太くんを巻き込んだんだね!」
「罪が無いなどぬけぬけと、その小僧は」
「あなたがいなければ! こんな騒ぎは起こらなかったのに……!」
メェー! メェェー!!
怪人に皆まで言わせず、ミアは畳み掛けた。やたらと『あなたが』を強調していてものすごく恣意的だ。同調するように羊も煽る。
ちらりと、翠緑の目の端で窺えば、きょとん顔の星理奈が見えた。よし、聞いている。この調子でアピールしてゆこう。
(羊さんたちの期待に応えるためにもがんばるね。モフモフの恩だよ……)
そう、これぞ『牛さんに悪役を引き受けて貰おう大作戦』。ギリギリ嘘にならないラインを攻めていくのがコツだ。
ドロッサス・タウラスとの邂逅は、皆等しく同時だった。つまり、ミアも先陣であるということで、今の彼女は『|ミアが来た《ネライサダメルミアノターゲット》』発動状態になっている。
ゆえに。心なしキリッとした顔だし、声量も説得力も三倍に上がっているのだ! 多分!
「おいコラ、先程から我の話を」
「有象無象でも石ころでもいいよ。でも、あなたはまたそうやって見下した相手に躓いて、失敗をくり返す……かもなんだよ?」
これは少々、牛の耳にも痛かったと見える。ギリリと黄金の歯が軋む音が聞こえた。
ドロッサス・タウラスは、ツッコミのため前のめりだった身を引いて、静かに金棒を持ち上げる。
「では、此度の結果がどうなるか……試そうではないか」
空気が引き締まったのを感じ、クラウスも剣のグリップに手をかけた。
人のアオハルを邪魔する牛は──、
「ぶちのめしてお帰りいただこう」
きっぱりと告げて。怪人へ正対すれば、両者の視線が火花を散らす。
ただ……目の端に常に羊がいて、いまいち締まらない気がするのは、どうしようもなかった。
●君は夜明けに微笑んで
──まず、羊太君たちへの接近は阻まなければ。
機先を制するため、クラウスは迷わず駆け出した。巨大な金棒を構えたタウラスへと。
接近戦ならば、相手の方が間合いが広い。クラウスが抜き放った剣を振るうより早く、重い風切り音を伴って、巨大な金棒が降ってくる。
だが。剣を抜いて見せたのはフェイントだ。
「さすがに正面からは行かないさ」
そのまま前へ走っていれば己が居ただろう場所へ、金棒は空を切って落ちてゆく。
脇に回り込みながら、高速で詠唱を口ずさむ。魔法剣に溜めた魔力が形を成して、|眩《まばゆ》い魔法弾が飛翔した。
「小癪な真似を!」
迫る光弾を、金棒で強引に叩き落すと、目の|眩《くら》む閃光が奔った。相手が苦しげに目を閉じた隙を付き、クラウスは距離を詰めた。魔法剣を収め、柄だけの剣に持ち替えて、慣れた動作でトリガーを引く。
抜刀のごとく、光刃が現れる。速度を乗せた変則の居合い斬りが、タウラスの胴を強かに捉えた。
(いや。直撃にしては手応えが浅い)
怪人の身体を、異界の力が強化している。怯ませたなどと思ってはいけない。
予想通り、反撃はすぐに来た。金棒を握る右手はそのままに、左の拳が飛んでくる。
肉体の固さを思えば威力は推して知るべし、だが。
──これは受けた方がいい!
勘では無い。数多の戦闘で得た経験則から、クラウスは技の性質を察知したのだ。シールドを備えた腕に力が籠る。
けれど、視界が戻りきらぬまま放たれた反撃は、そもそも彼を捕らえていなかった。
苦し紛れの相手のミスか、それとも。
「外れても構わないと思われた、か」
次の瞬間。弾けた光は、クラウスの魔法ではなかった。タウラスの拳が穿った地面から、鮮烈な輝きが広がって、世界のルールを塗り替えてゆく。青空は強引に夜色へ変わり、|一等星《アルデバラン》が宙で光を放つ。
とたん、力を奪われ、身体が重くなったのが分かった。クラウスは次の手を考えて、
──夜を越えて……明けていく空の色に胸がざわつくのは。
そこで、届いたのはミアの声。
──ふと見上げた朝焼けに、ワケもわからないまま涙がこぼれてしまうのは……どうして?
世界が再び流転する。牡牛座の瞬く夜が、暁の|緋色《あけいろ》に端から染められてゆく。
(だいじょうぶ、援護するよ)
ミアの声が脳裏に届き、振り向かなくとも彼女の微笑みが見えた。
レプリノイドの繋いだ精神感応によるネットワークが、ウォーゾーンの戦士を支援して、削がれた力を補ってゆく。
(そのまま行って。星理奈ちゃんたちも、守るから)
ミアの意図と動きが手に取るように伝わった。交戦する怪人とクラウスの動きに合わせ、エネルギーバリアを展開し、流れ弾や飛び散る瓦礫……あるいはたまに吹き飛んでくる羊さん等々。とにかく、全ての脅威から、少年少女を守らんとしているのだ。
「あなたは、あの子たちをただ弱いとしか思わないのかもだけど……」
発声された言葉は、ドロッサス・タウラスに向けたもの。
「力に振り回されたり、流されるだけよりもずっと強いって私は思うよ」
『|Twilight《ハクメイ》』の世界を支え続けながら。こころなしではなく、しっかり凛とした表情を浮かべて、ミアは想いを紡ぐ。タウラスだけでなく、背後に庇う羊太と星理奈にも向けて。
例え発端は、寝坊での遅刻なんていう、笑っちゃうようなことでも。
彼らは互いに、とても不安で。相手の気持ちが分からなくて。
「怖くて、勇気が無くて、悩んで、葛藤して。でも、ちゃんと前に進もうとしたんだよね」
少年は、力を得ても、むやみな破壊に使わなかった。取り返しがつくうちに、説得をちゃんと受け入れた。
そして少女は、彼を案じて探しに来た。
「がっかりして、怒って帰ることも出来たのに」
これが彼らの強さでなければ、何だというのだろう。
「きっとドロッサスさんとは行きたい場所が、大切なモノが違ってただけ」
「ほざけ! 軟弱者共と、我が違うなど当然の──」
怪人の言葉が途切れた。ミアに目を移した一瞬に、交戦していた相手が……クラウスが消えていた。
そして、ルートブレイカーが発動する。
|高く跳んだ《ジャンプした》クラウスの右手が、一等星に届いた瞬間、偽りの夜空が崩れ落ちる。
間を開けず。再び光刃剣を構えれば、ミアの招いた曙光が力を増して、刃を黄金に照らし出し、
「そろそろ、星は消える時間だ」
クラウスはそのまま、夜明けの刃でドロッサス・タウラスを貫いた。
●頑張れ、メロス
なんか真面目な戦いだったなあ、という謎の感想があった。
「いや、当然なんだけど……」
クラウスは額を押さえて考える。最初から最後まで、どういう気持ちで臨めば良いのか難しい依頼だった。
そろそろ、お別れの時間みてぇだ……的な雰囲気を出しながら、イイ顔で光の粒子になって消えゆく羊たちを見ていると、ますます分からなくなってくる。可愛いことは可愛いが、そんなに惜しむほどでもない。
「羊さんたち、また会えるかな……」
ミアの方はちょっと惜しみながら、己の掌を見つめていた。羊さんを抱きしめた時のモフモフ感を噛み締めているのだろう。
だが、羊さんたちが消え去って少し経つと、気持ちを切り替えたのか。こころなしキリッとした顔に戻って、少年少女へ目線を移す。
「こうして会えた二人のこと、守れてよかった。もう邪魔はさせたくなかったから」
そう。二人で話した方が良いだろうとの配慮で、能力者たちは皆、一旦彼らから離れたのだ。
通りの端に寄った羊太と星理奈は、向かい合って……俯いていた。
「けど、話あんまり弾んでないみたい、かな」
「もしかして、雲行きが怪しいのかも知れないな」
彼らを案じたクラウスとミアは、小声で囁き交わす。
「まあ、何というか……情報量が多かったし」
「何から話せば良いのか分からないのかもだね」
羊太は真っ先に遅刻を謝罪したが、恐らく思考が纏まらないのだろう。その先が続かない。
星理奈の方も、羊太の無事を確認して胸を撫でおろした後、どうすれば良いか分からなくなってしまっている。
もどかしいとはいえ、もう『能力者』の役目は終わった訳で、この先は彼らの個人的な問題なのだ。
だから二人に任せて良いのか、それとも大人として助言をするべきか。恐らく正解はない、ゆえに、却って難しい。
(|あ《・》|い《・》|つ《・》ならこういう時、どうしただろうな……)
いつしか、そう考えている自分に気付き、クラウスは苦笑した。悩んだ時、あいつに……親友に頼る癖は消えてくれない。
けれど。
今、ここで。青い春を迎えたばかりの二人に、何かできるのは自分なのも確かで。
「ごめん。少し、隠してもらえるかな」
「クラウスさん? ……何するの?」
首を傾げながらも、ミアは素直に背を貸した。むんと胸を張って凛々しく立って、精一杯、死角を作る。
頼もしきレプリノイドの後ろに隠れ、クラウスはこっそりと能力を発動した。
「色々なことが起こってしまったけど、彼らがこれから良い関係性を築いていけたらいいなと、俺は思うから」
──|不死鳥《フェニックス》の加護。
手の中に温かな炎が灯り、内から美しい不死鳥が孵る。
生まれたばかりの不死鳥は、穏やかな眼差しで主を見上げ、『願い』を告げられるのを待っていた。
「……『彼らがもっと仲良くなれますように』」
そして──誰も傷つけることのない、優しい想いを聞き届けて。
澄んだ音色で一声鳴くと、ふわりと空へ昇ってゆく。さっき見た夜明けの暁光のような、朱い尾をたなびかせて。
羊太と星理奈も気が付いて、「わあ……」と揃って感嘆の声を零し、天へ消えゆく鳥を見送った。
何だろう。綺麗だね。凄いね。今日はなんだか、凄い日だったね。
興奮して言い合う内に、いつしか二人は目も合って、照れ笑いを零す。
「石川さん、本当にごめん。怒ってるよね。僕、色々失敗して、更にとんでもないこともあって」
「うん、そうだね。私、結構怒ってるみたい。今のままじゃ許せないから、聞かせて、全部」
できたら、どこかゆっくり座れるところで。
真っ赤な顔で何度も謝りながら、星理奈の提案にぶんぶんと頷く羊太を。
能力者たちは今度こそ、微笑ましく見守った。