暴蛇天衝
『|Rrrrrrr《ルールルルルル》....』
眠れるマガツヘビは、自らと同じ姿の怪物が歌う声で目を覚ました。自分よりも遥かに小さいそれを掴み、丸呑みすると、長い長い喉の中を、歌声が移動していく。
その歌が気に障ったのだろうか。怪物は恐ろしく粗野な口ぶりで、寝覚めの悪さを物語ることにした。
「嗚呼ッ!! またクソッタレでご機嫌な朝だぜ! |餓亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜《GAAAAAAAAAAAAAA》ッッッ!!!!!! ……そうだ、今、何日目だ? ひい、ふう、みい……あ? どこまで数えたんだ? あああっ!!! 読めねえんだよおおおおおおッ!! クソッ!!!!!!」
怪物は、自ら岩盤に刻んでいた線の乱れに激怒し、腕を振り上げると、岩盤を粉々に叩き崩した。
それから、さぞ忌々しいであろう封印をもたらす鳥居の列を睨みつけると、吠え声を上げてそれを打ち崩さんとした。全身に結わえられた金の縛鎖が怪物を阻み、凄まじい金属音を立てる。
金の鎖は、当時の妖怪たちがすべての技術を注いだ拘束具であり、無限の妖力を持つマガツヘビにすら、|縛《いまし》めを受け容れた苦悶の日々を強いる傑作の出来だった。だがいかなる存在も、時の流れに抗う事はできないのだろう。
鎖のどこかに、一つのヒビが生じた。
自らを耐えがたく抑えつけてきたそれの異状を、瞬間的に怪物は察する。
そして、不気味にも沈黙した。
「……」
じっと黙したまま、怪物は鎖を引き千切ると、頭上の空間を捻じ曲げて『|孔《あな》』を生んだ。その先には、計り知れぬほどの時間をかけ、怪物が望んだすべてがる。
極上の玩具たる人間が、群れて栄える世界がある。
束の間の平和を楽しむ妖怪どもの、憎々しい社会がある。
ぶち壊しがいのある、無尽の戦闘機械どもの巣窟がある。
邪悪なインビジブルに満ち溢れながら、無防備に曝け出された√エデンがある。
ずっとずっとずっとずっと。欲するがままに縛り付けられ、そして思いがけず解放されて全ての欲望が叶うその瞬間。
怪物の精神は、あまりの悦楽にショートしたのだ。その口元に、微弱ずつ獰猛な笑みが浮かび始める。
あらゆる他者を寄せ付けぬほどの愚鈍と暴虐。
その化身が、歓喜の雄叫びと共に姿を消す。
☆☆☆
壁に幾つもの絵が記された、異様な廃墟に√能力者たちは集まっていた。
「――どうやら緊急事態のようだ」
真っ白な洋服に身を包む星詠み、|三東《みあずま》・|玲一《れいいち》(h01887)は、インビジブルで作られた絵筆を動かし、空中に絵画を描いていく。
桜咲く山を背景として、黒く禍々しい、人と蛇を混ぜ合わせたような怪物がそびえ立っている。そしてその怪物は、山と同じほどの巨躯を有していた。
「マガツヘビ。かつて封印された恐ろしい妖怪だ。ゾディアックサインのうち、最たる凶兆には……これが√エデンを支配する未来も存在した。
一人一人では立ち向かうことはできないだろう。戦線を維持する妖怪たちと合流し、協力して事に当たってほしい」
星詠みが絵筆を一閃すると、そこに√の裂け目が生じる。
裂け目は√妖怪百鬼夜行に通じていたが、その先の光景は、いつもの賑やかなものとまるで違う。
彼方。霧の中で五重塔を引き抜き、笑う、マガツヘビ。
それと同じ姿をした、小型の怪物が市街を跋扈し――銀髪の半妖が軍勢を率い、それに抗する。
銃撃。爆音。怒声。Rrrrrrrr....そんな歌声。
「まずは市街地の小型マガツヘビを駆逐してくれ。最終目標はマガツヘビの討伐。あの巨体に通用する策を見出すしかないな……そして、出来れば人と妖怪の街を、護ってほしい」
拡がった裂け目へと、√能力者たちは踏み出していく。
第1章 ボス戦 『八尾白組長八百夜・天狐』

|家綿《うちわた》・|樹雷《じゅらい》(綿狸探偵・h00148)が裂け目を抜けると、そこは空の上だった。
わたわた、とバランスを取る樹雷のすぐ傍を、猛スピードで飛空する天狗が横切り、地表へと風の刃を放つ。鋭利な風は街路から広場に吹き込むと、蠢く小マガツヘビらの中心で、荒れ狂う竜巻に変じた。
瓦が飛び、長屋の提灯がどこかに飛んでいく。
市街戦――ここはその上空であった。
着地の準備をしながら、樹雷は戦局に目を向ける。
遠くから小マガツヘビを包囲した黒服部隊が、機関銃による弾幕を張る。
妖怪たちは方々から鬼火を飛ばし、妖力を帯びたバス停や卒塔婆が、放物線を描いて小マガツヘビへ直撃する。
だが。小さな怪物たちはそれを意に介さず、周囲の瓦礫に腕を突っ込み、手当たり次第に何かを漁っていた。
「|Rrrrrrr《ルールルルルル》……ああ、クソ、どこにもねえぞ……Rrrrrrr」
取り囲む妖怪たちに、緊張の色が走った。確かに、あれでは完全に無敵だ……もはや不自然なほどに。何か裏がありそうだ、と樹雷は直感する。
綿マフラーを風防代わりに巻きつけて、樹雷は集音マイクを地表に向けた。
音を拾う先は、マガツヘビの包囲陣。中でも南から北側へとせり出した、最前線に当たる一角だ。
|一文字《いちもんじ》・|伽藍《がらん》(|Q《クイックシルバー》・h01774)の溌溂な声が、樹雷のイヤホンに届いた。
「オッスオッス。狐さん元気~? 強敵を相手に共闘するとか、まさに胸熱な展開ですなぁ」
「なんだこいつ!?」
「おい! どっから来やがった!?」
側近らしき黒服が跳びかかるのを、話しかけられた妖狐が遮る。
「おい待て。……その物言い、どうやら|石蕗《つわぶき》が募った能力者だな? 正直、本当に来るとは思わなかったが」
妖狐は、指に挟んだ煙草を悠然とふかしていた。
「お、お頭。信用できるんですかい、人間の能力者なんて」
「そ、そうですよ。元はと言えば敵同士で……」
お頭と呼ばれた妖狐――|八尾白組長《やおはくくみちょう》|八百夜《はっぴゃくや》・|天狐《てんこ》は、薄く吐いた紫煙の中で応えた。
「分かり切ったことだろう。今は人間だろうが古妖だろうが、協力すると言われりゃ信じるんだよ。それで背中を刺されるんなら、『日頃の行い』で諦めろ。どのみち、やらなきゃ世界が滅びる」
「そうそう!いいじゃん、昨日の敵は今日の友ってね。
また明日には敵かもだけど、少なくとも!今日!この時は!アタシたちはフレンズなのである!!
あとで記念写真撮ろーぜ。狐さん逆ピースね」
「逆? なんだそれは」
その時。
天狐と伽藍の前に、綿マフラーをクッションにした樹雷が、ブーツの底でふわりと着地した。
乱れた葉っぱを直し、樹雷は耳を立てて名乗りを上げる。
「妖怪探偵、家綿・樹雷推参だ。どうも天狐さん、伽藍さん。お互い思う所はあるだろうけど、Ankerを守るため共闘させてもらおう」
「オッスオッス。狸さん」
「ああ、話が早いな。賑やかになってきたもんだ」
「――お、お頭! 一匹こっちに来やがります!」
三人の能力者が、同時に北を見やった。一匹の小マガツヘビが群れを離れ、その足で道路を踏み壊しながら突き進んでくる。
天狐は煙草を放り、速やかに指示を下す。
「進路上の|埋伏花火弾《ファイアワークス・マイン》を起動しろ。俺とこいつら以外は退避だ。他部隊に伝達。追撃無用、陣形を維持しろ」
「了解!」
黒服が散ると同時に、天狐は半壊した旅館を駆け昇り、目標へと銃を連射する。黒服を追おうとした小マガツヘビが、その銃撃で再びこちらに進路を定めた。
樹雷は催眠拳銃を抜き出し、天狐の背に呼びかける。
「支援するから、怨霊の挽歌をお願いしたい。ただ可能な限り一般人への誤射は避けてほしい。万が一こちらのAnkerを攻撃されると、共闘が崩れてお互い困るからね」
「ああ、安心しろ。たった今、市民の避難が済んだそうだ。それに、万が一逃げ遅れがいたとしても問題はない」
天狐のマントが翻り、その内で無数の瞳が光を放った。大量の怨霊が、黒霧と共に解き放たれる。
【怨霊の挽歌】
【天狐乱射撃】
「この『目』がある限りはな」
怨霊の念弾と、インビジブルによる無限の銃撃は――天狐の『千里眼』により、発射と同時に姿を消す。
直後。銃弾の雨は空間を超え、小マガツヘビと薄皮一枚を隔てた距離に、突如として出現した。
「あ? げっ――|愚唖唖唖唖唖唖唖唖唖《GUAAAAAAAAAAAAAAAAAA》ッッ!!!!??」
怪物が当惑し、振り回した尾で、一歩先の地表を薙いだ。その地中で起動していた|埋伏花火弾《ファイアワークス・マイン》が爆裂し、小マガツヘビを焼き焦がしながら、猫型の花火が次々と真昼の空に上がる。
「ク、ソがっ! 雑魚どもの分際でッ!!」
猛攻にたじろぎながらも、小マガツヘビは球状に凝固した妖力を天狐に目がけ放出する。
――聞く者を奮わせる伽藍の声音が、戦場に反響した。
「皆々様、お耳を拝借!!」
【|羊の数え歌《カウンティング・シープ》】
途方もなく、卓越した歌声が響く。人々を鼓舞する、明るい歌が。
それは張り詰めた戦場に似つかわしくはなく、だがそれ故に、取り戻す日常を彷彿とさせる歌だ。
護霊『クイックシルバー』がそれに共鳴した。分散した個体が、攻撃の軌道に割って入ると、一瞬の輝きと共に全エネルギーを放出。妖力球の狙いを逸らし、消滅する。
「狐さーん。狸さーん。飛んでくる攻撃反射させとくからドカンドカン撃っちゃってー!
Hey、クイックシルバー。
今日は√妖怪百鬼夜行なわけだし、雰囲気合わせて和ロックなんてどう?
テンション上げてけ!!」
伽藍の絶唱。怪物の叫び。
相争う音の調べの中で、天狐と樹雷は、互いにそれと気づかぬまま同時に呟いた。
「――妙だ」
包囲攻撃を含め、もはや飽和するほどのダメージをこの個体には浴びせている。
確かにマガツヘビは強大なのだろう。だがその片鱗すら、この量の攻撃で屠れないというのか?
「……この弾丸は弱点を暴く!」
インビジブルを込めた特殊弾頭を、樹雷は狙いを定めて発射した。
【|自白の催眠榴弾《コンフェション・スリープグレネード》】
飛翔と共に巨大化した榴弾は、その爆発半径に敵味方を巻き込む形で起爆する。それは、敵に『弱点を狙われる幻』を、味方に『弱点を看破する力』と『自己暗示』を与える魔弾である。
樹雷たちは、その力で奇妙な直感を得た。
すなわち『この個体はもう、既に死んでいる』と。
「あ? バレた気がするぜ……チッ……まあどっちみち時間切れか。仕方ねえなあああああっっっ!!!!」
小マガツヘビが大口を開いた。
その喉の奥に、どす黒い、光を飲み込むほどに圧縮された妖力の塊が湧き上がるのが見える。
途端、感じた熱。
めらめらと揺れる|陽炎《かげろう》。
それは、純粋なる妖力が生み出した、混沌の『火』である。
「消し飛べ」
黒き熱線が、邪悪にうねる尾の如く振るわれた。
【マガツサバキ】
音が消える。
光を飲み込む致死の線を、暗示により強化された数体のクイックシルバーが僅かに逸らし、瞬間、天狐が二人の能力者を担いで、全速力で退避した。
その射程は、決して長大なものではない――小型の図体から放たれるものにしては、だが。
死の線が通り過ぎた跡には、何も残されてはいなかった。つい朝方まで開かれていた屋台も、旅館も、流行り物ばかり仕入れたがる安直な商店も。すべて。すべてが無に帰していた。
ガス灯が切れるように熱線の照射が終わり、やがて小マガツヘビは、苦悶に叫びながらその場に倒れる。遅れて、その全身に無数の傷が浮かび上がってきた。
――その攻撃は、力を引き絞る間のみ、すべてのダメージを遅延する√能力。
天狐は二人を担ぎ下ろしながら、破壊痕を見て吐き捨てる。
「『無限の妖力に矮小なる頭脳』か、言い得て妙だ。なんとまあ、馬鹿げた力だよ」
頷きながら、樹雷が苦々しい顔で問いかける。
「……敵が狙ってる王劍『天叢雲』について話せる情報はある?」
「ああ。それは後で纏めて話そう。俺は他の協力者と合流し、まずあの小型どもを片付ける。その後で、全員を集めて会議だ。これを持って、少し待っていろ」
天狐は二人に、『古びた石で出来た鳥居のペンダント』を渡すと、マントを翻し、風のように戦場へ取って返した。
小マガツヘビの死体と通りすがる瞬間、彼は腕を伸ばし、死体から何かを取ったように見えたが、それは気のせいだったかもしれない。
ビルの屋上。誰もヘリを見たことのないヘリポートに、赤雷を|迸《ほとばし》らせたセイラ・ノートルダム(雷火は吼えているか・h01755)が出現した。セイラ・ノートルダムは改造人間である。電気で動く、頑丈な躯体のサイボーグだ。
セイラは屋上の縁まで歩み寄ると、その鉄腕でフェンスを引き曲げ、眼下に蠢く小マガツヘビと、南に放たれた熱線の跡を垣間見る。
――なるほど、これは止めねばならんなぁ。
「善良なる人と妖の街を守り、ひいては√EDENを守る。
やることはいつもと変わりないなぁ」
そう、これはいつもと変わりのない『仕事』だ。敵がどれほど強大で、世界の命運が懸かっていようと。
ふと。澄んだ朝に小鐘を打つような音が聞こえて、セイラは空を仰ぎ見た。一匹の薄青い鷹が、セイラの頭上を旋回している。翼からは太陽と青空が透けており、まるで動く氷像のようだった。
「綺麗な鳥だなぁ。こんな時にどこから来たのか」
「よっ、ほっ……そこの人、無事かしら?」
凍結させた空気を足場に、何者かが外壁を駆け上がってくる。美しいブロンドの髪に白狐の面を乗せた霊剣士、|矢神《やかみ》・|霊菜《れいな》(氷華・h00124)である。
「あれ? あなた、避難し損ねた人……ではないのかしら」
「ではないぞぉ。して、これはお主の鳥か?」
「ええ、透き通っててカッコいいでしょ。名前は|氷鷹《ひおう》……あ、もう行ってよし、氷鷹!」
凛とした声で一つ鳴き、視覚を共有した一羽の鷹が飛び立つ。同様の氷鷹を方々に飛ばしながら、霊菜は主戦場ではなく周囲の打ち漏らし、あるいは一般人を探していた。
「しかし、中々手際の良い妖怪たちね。市民はキレイに遠ざけられてる……いがみ合ってた古妖たちと共闘っていうのも不思議な感じね」
「確かになぁ。石蕗中将とやらの提案には、よくもまあ都合よく扱ってくれるなぁと思ったが……断る理由にはならん。天狐殿のことも、この場においては仕事仲間として尊重しよう」
「そうか、それなら安心だ」
マントに風を受けながら、ヘリポートに銀色の妖狐が降りてくる。
「野暮用で遅くなったが……ここの陣頭指揮を執る天狐だ。これからあの蛇どもを駆逐する。協力してもらえるなら、これを受け取ってくれ」
天狐は懐から、『古びた石で出来た鳥居のペンダント』を一つずつ取り出した。
二人は顔を見合わせ、いずれにしろ協力するほかないことを確かめて、それを受け取る。
「えーっと、天狐さん……でいいのかしら?よろしくね」
「よろしく頼むぞぉ天狐殿。だが、具体的にどういう作戦になるのだ?」
「やる事はシンプルだ。お前たちは俺の部隊と共に、あの群れをなるべく一カ所に押し留める。恐らく60秒か……長くて数分だろう。俺はその間に、奴らの中心に突入する」
二人は困惑し、再び顔を見合わせる。
「えー……と?それって結局どうなるの?」
「上手くいけば、奴らを纏めて殲滅できる。いかなければ俺が死ぬが、何度か死ぬのは織り込み済みだ。次の作戦を考えればいい」
「ははは、|潔《いさぎよ》いなぁ」
「そういう問題かしら……?」
「今は時間が惜しい。任せたぞ――全部隊に通達、五秒後に状況開始」
インカムに喋りかけながら、天狐はセイラが引き曲げたフェンスの先へ、あっさりと一歩を踏み出した。
「お主、その先は……ありゃ」
落下していく天狐の毛並みが、銀光を帯びながら大きく膨らむ。
半妖として、人の面影を残していた天狐は、一瞬にして美しい二足の獣に変貌していた。右腕に、黒い火のようなオーラが噴出する。
【天狐顕現】
「|餓唖《GAA》ッ!!」
落下しながらビル壁を蹴り飛ばした天狐が、一匹のマガツヘビの首筋を襲う。
「人遣い荒いわね……『氷鷹よ来たれ』」
【|氷鷹の使い《ヒオウノツカイ》】
霊菜は散開させていた氷鷹を、戦場を取り囲むように呼び戻し、群れから|逸《はぐ》れた個体を探知する。そして、
「――見つけた」
勢いよく、屋上から飛び出していった。同時に、烏天狗が風圧を放ち、呪符を持った獣妖が駆け巡って、群れを封鎖する結界を敷く。
そして天狐は、最初に襲い掛かったマガツヘビを右腕でねじ伏せると、そのまま地面を引きずり回し、群れの中心へと投げつけた。
マガツヘビが驚愕に吼える。
「この小僧ッ……! なんだそりゃ、どういう力だ!?」
残されたセイラは一人、自らの躯体を駆け巡る『赤雷』を、右の鉄腕へと込め上げた。
「装填、|拡散《ディフュージョン》」
詠唱とともに――五指を備えた右腕は、大口径きわまる銃の砲身へと変形する。狙いは、結界の中心へ。砲撃の寸前、強烈な電磁力にセイラの躯体は浮上した。
【|拡散《ディフュージョン》】
赤に輝く球状閃電が、群れ全体の動きを止め、天狐の生命エネルギーを賦活させる。
「四十秒」
【天狐乱射撃】
天狐の全身から、霧雨にも似た無数の妖力弾が放たれ、自ら投げつけた個体へと降り注いでいく。
「さあ、次はどう出る? 愚鈍な蛇が」
「ハッ……舐めるなクソ餓鬼! もう容赦しねぇぞ!!」
痛めつけられた個体が、その大口を開いた。露わとなった喉の奥に、熱線と化す寸前の「火」が生じる。
――『千里眼』により瞬時に、天狐がその背後へと移動した。
「んあ?」
「総員撤退。作戦は成功した。このエリアは俺たちが勝ち取る」
首筋に降り立った天狐の両腕が、小マガツヘビの頭部を締め上げる。
「テメエッ、何しやがる!? おい、お前らも助けやがれ!!」
呼びかけに応じる者はいない。周囲のマガツヘビは、セイラの電撃により動きを封じられているからだ。
その影響がないのは、天狐の凄まじい攻撃に晒され、【マガツサバキ】によるダメージ遅延を選んだ、たった一体のマガツヘビのみである。
「マジか!?」
そして、|あらゆるもの《・・・・・・》を無に帰す死の熱線が、その喉笛から溢れ始める。
「ぐ、おおっ……!」
「それほどまでに圧縮した妖力は……もうお前にすら体内で留めてはおけないんだろう? だから、時間の制約がある訳だ。お前が馬鹿で良かったよ」
「こ、このッ……!!」
「『消し飛べ』」
――【マガツサバキ】
虚空へと吐き出された黒き火は、
天狐の腕力により強制的に四囲を薙ぎ。
動きを封じられていたすべての群れを、一撃のもとに死滅させた。
断末魔すら上げず、マガツヘビが塵と化して消えていく。
「ク、ソが……ッ」
熱線を吐き終えた個体も、負債したダメージに力尽きた。
しばしの無音。沸き起こる歓声。しかし天狐を含め、駆け付けた√能力者たちは未だに、恐るべき蛇どもの気配を感じていた。
――群れは、これで全てではない。
電波塔に急造された通信基地で、マイクを奪った霊菜が告げる。
「あー、天狐さん? 氷鷹たちから、あまり嬉しくない情報よ。西の方角――マガツヘビ本体の足跡から、新しい群れが出現しているみたい」
「……そうだろうな。これで終わるほど甘くはない。……情報を感謝する。安全な場所で待機してくれ」
返事を待たず、天狐は通信を八尾白組のものに切り替え、低く唸った。
「俺だ。至急合流しろ。死体を、片付けるぞ」
「お頭……本当にやるんですかい」
若衆の人妖は、厳めしい牛鬼の顔に困惑を浮かべて念を押した。
獣化を終え、人の姿を取り戻した天狐だが……マガツヘビと闘うたび、決定的に『何か』が変わってきている。
「やるしかねえだろう。何が問題だ? 初めからお前たちは、『それ』を求めて組に入ったんだ」
「いや、何がとは言えやしませんが……これは少し、変ですぜ……」
「なら今すぐ帰れ。ここから先に必要なのは能書きじゃねえ、単純な力だ」
天狐は鉤爪を尖らせ、小マガツヘビの残骸を引き裂いた。そして抜き出した暴蛇の肉片を、太陽に透かし見る。それは黒く、|昏《くら》く、この世のものとも思えぬエネルギーに満ちていた。
八百夜・天狐は、古妖ではない。彼は白狐の血を継いだ半人半妖であり、その妖力を高めるため、古妖の血肉を喰らう存在である。
「俺たちは、この戦いに勝つ。その先の未来でも、勝ち続ける。ならお|誂《あつら》え向きだ。奴を喰らい、俺は、俺たちは――この√を支配する」
ぽつり、ぽつりと。
掲げられた肉片から、|暗澹《あんたん》たる鮮血が流れ、天狐の白い頬を濡らしていく。ぞっとするほどの恐ろしさと美に、若衆が|慄《おのの》き、言葉を失くした。
天狐の唇が、|陶酔《とうすい》したように開き、黒き血を啜る――その刹那に。止める者のいない蛮行を、唯一止められる者が現れた。
「おーす、未来の妖怪大将」
「――!!」
灼けた鉄を当てられたように、天狐は即座に我に返った。肉片を棄て、牙を剥き出し、マントを広げて身構える。最大限の警戒を露わに、ブワリとその尾が隆起した。
「野郎……どの面下げて出てきやがった!? 今さら何のつもりだ?!」
若衆が慌てて周囲を見渡すと、崩れた駄菓子屋の影から、何の敵意も害意もなさそうな警官が、あくび混じりに現れる。
そのまま口笛でも吹きそうな無防備さに、人妖たちは困惑し――ただ天狐だけが、|漲《みなぎ》る殺気を強めていた。
「テメエ……」
その憎悪の根幹は、この二人だけが理解していた。なぜならば彼は、因縁浅からぬ天狐の実兄――|八百夜《はっぴゃくや》・|刑部《ぎょうぶ》(半人半妖(化け狸)の汚職警官・h00547)、その人であるからだ。
「おっと、キレんなキレんな。これでも心配でやって来たんだぜ」
その言葉に。兄弟にしか分からぬ微差で、天狐の殺気が薄れる。
「ハッ……。そりゃ世界が潰れるとなっちゃ心配か。行きつけの花街が潰れりゃ困るだろうな」
「ん。あー……それもあるな。ただまあ、助けに来た…というよりは監視だな。
お前の部下一回ぶん殴ってるから、お前の目的も知ってんだよ。流石にコレは悪食極まると思うぞ」
『コレ』と示された小マガツヘビの死体が、おぞましく日光に溶け始めていた。
「そいつはありがたい忠告だ。説教垂れて止めるつもりか? やってみろよ」
「…ムキになんなよ。お前はな、オレと違って組を背負ってんだ。組抜けてボンクラ警官になったオレが兄ぶるつもりはないが……ここで死なれちゃ夢見が悪いってな」
「――っ」
天狐が、口を開きかける。
その傍らで、地表が割れた。
黒々とした筋肉の塊が、亀裂から這い出す。
「|峨旺旺旺旺旺旺旺雄雄雄怨《GAOOOOOOOOOOOOOONNNN》!!!!! ハーハハハハハ!! 驚いたかよ!? チビ共!!」
「よぉ狐のガキ! テメエだろう!? 俺たちを殺って回ってんのは?!」
地中を潜行してきた小マガツヘビ――それが二体。
「俺たちゃ賢いからよォ! もう熱線は撃たねえぜ!」
「あ?――ああ、そういやそうだぜ! ブチのめしてからブチのめす!!」
「……間の悪い奴らだ」
「うっせぇ、ヘビ公!久々の兄弟の会話邪魔すんじゃねぇ!」
【|特務刑事課応援要請《トクムケイジカオウエンヨウセイ》】
「こちら特務刑事課、対古妖もしくはそれに準ずる大規模テロ事件発生。至急応援求む!」
要請に応じ、どこからともなく複数の|空飛ぶサメ《スカイシャーク》高速機動隊と、それに騎乗した|鎌鼬《かまいたち》スナイパー部隊が駆けつける。
来るが早いか、鎌鼬らはマガツヘビの頭部へと狙撃を打ち込み、注意を空に引いた。
そして天狐と若衆、刑部の前に、無人の鞍を載せたスカイシャークたちが舞い降りる。
「一旦乗れ! これ以上、ここいらに被害は出させねぇぞ!」
「……チッ」
全員を載せ、それぞれのスカイシャークが空を駆ける。
兄弟がそれぞれの銃を抜き、旋回しながらの銃撃で、二体のマガツヘビから鱗を削ぎ落としていく。
「話は終わってねえ……今さら来るぐらいなら、なんで組を抜けやがった」
「さーな。大した理由じゃない。それにさっきも言ったろ、これはただの監視だよ」
「……アンタは、いつもそうだ。重荷から目を背けりゃ、やりたいことだけやれると思っていやがる……俺はそいつが、心底気に食わねえ」
天狐の銃が、刑部に向けられる。
「知ってるよ。だが殺り合うのは今じゃねえだろ?」
――鎌鼬が、警戒の音を鳴らした。
二体のマガツヘビが、妖力を込めた拳を振り回し、スカイシャークを殴り落とそうと試み始める。
速度を重視したスカイシャークに、それを防御する術はない。直撃し、落下すれば、それだけで絶望的な状況に追い込まれるだろう。
いがみ合う暇などまるでなかった。
「クソ……まずはこの馬鹿を一掃する。ノコノコ来やがった以上、その程度の手伝いはするんだろうな」
「了解だ大将。まあ、もうやってるんだが」
スカイシャークを巧みに操りながら、天狐はマントを羽ばたかせ、地上に黒霧を生み落としていく。鉄砲玉の怨霊が生じ、片方のマガツヘビの脚に絡みついた。
「あん?――おい、なんだこのッ、黒チビどもッ!」
「おい、いいから上を見ろよ! 銃がチクチク痛えんだよ、馬鹿野郎!」
「馬鹿だぁ!? この、ボケがッ! お前がなんとかしやがれ!」
「んだ、この餓鬼! 俺より遅く生まれたクセに!」
稚拙な争いを始めたマガツヘビを眼下に、刑部は呆れながら|再装填《リロード》を終える。
「随分仲の悪い兄弟だな、どっかで見たか?」
「黙れ。怨霊はそろそろ打ち止めだ。残り一体は、このまま仕留めろ――牛鬼、弟分の指示を任せる」
「へい! お頭!」
「おー、張り切ってるな。それじゃあぼちぼち、オレらも行くか?」
刑部はスカイシャークに発破を掛け、猛スピードでマガツヘビの注意を引く。
若衆が、おっかなびっくりそれに追従し、滞空した鎌鼬部隊が、マガツヘビの急所を的確に射抜いていった。
振るわれる拳を、刑部は紙一重で回避していく。
「く、クソ……こんなサメ乗りが上手い奴がいてたまるか! おい!お前も助け――?」
轟音。
怨霊により行動力を奪い尽くされた片方のマガツヘビが斃れ、消滅死亡する。
「チクショウ! 卑怯な雑魚どもめ! 殴り合わせろ!」
「そりゃ、無理だろ。オレたちは雑魚なんだから」
度重なる攻撃で、幾重もの鱗が剥げた箇所。その一つに、刑部のスカイシャークが喰らい付いた。
「ただな、マガツヘビ。どうやらお手手を繋いだ雑魚の方が、強い場合もあるらしいぜ」
「――今だテメエら! |吶喊《とっかん》しろ!」
牛鬼の一声で、若衆たちのスカイシャークが、複数の損傷個所に突撃した。
「それを今から……見せてくれるかもな? ウチの、大将がよ」
振り払おうと足掻くマガツヘビに、次々と狙撃が命中する。絶命の寸前、怪物は最後の標的を、刑部へと定めた。
「ぶっ潰、す……!」
――タァン。
軽やかな銃声が一度だけ鳴り、マガツヘビは、その音とともに活動を終えた。
天狐の駆るスカイシャークが、マガツヘビの前に滞空している。機銃の先から、一筋の煙が|棚引《たなび》いていた。
「一つ貸しだ」
「おー、借りとくぜ。いつ返すかはわからんが」
「……」
刑部に『古びた石で出来た鳥居のペンダント』を投げつけると、天狐はスカイシャークに騎乗したまま、西の方角に飛び去った。
「おい!パクるんじゃねえ!……行っちまった。ま、もうヘビ公を喰う感じでもねぇか」
ふと。刑部は受け取ったペンダントを揺らし、眺めた。いつ、どこで作られたのかも分からない代物だ。
アイツは、何故こんなものを渡してきた?
刑部は、なんとなく鳥居に目を近づけて、向こう側の景色を覗き込む。
そしてその姿が、一瞬にしてどこかに消えた。
ぽちゃん。
膝ほどの高さがある、長大な釣り堀。その傍らで、スツールに座った人妖が釣り糸を垂らしている。もう随分と待っているのだが、足元のバケツは空っぽだ。
人妖――早乙女・伽羅(元警察官の画廊店主・h00414)が天井を見上げると、主人を失くした提灯お化けが侘しく浮いて、トンネル状の空間を朱に染めていた。
「ふーむ……」
今から十数分前。何の因果か、彼は一人だけ戦地を離れた西の座標へと転移されていた。そして急ぎ駆け付ける途中、戦場に赤い電撃と熱線が吹き荒れ、小マガツヘビが一掃されてしまったのだ。
途方に暮れた|最中《さなか》、突如現れた小マガツヘビから提灯お化けを助け、その礼に、この奇妙建築の釣り堀に案内されたのだ。
こんな事をしていてよいのか。そんな事を思っていると、一尾、美味そうな魚が水面を跳ねる。
まあ、腹が減っては戦も出来ぬ。それにいずれ、マガツヘビ本体のいる西側に皆は集まるだろう。
しかし、釣れぬ。釣れぬので、一度糸を巻き取って遠くに投げようとしたところ、背中から声が掛かった。
「そこの人妖――マスクで分からないが、狼か、狸か?」
「……俺は猫又だ。メインクーンのな。何か用か」
思うところはあるが――マズルマスクが有用だということにしておこう。
釣りに本腰を入れようとしたことを悟られぬよう、伽羅はゆっくりと、糸を『籠手:寒江独釣』の内に収めながら振り向いた。
眼鏡の奥で、かつての鋭さを帯びた伽羅の瞳に、話に聞く半妖、八百夜・天狐が映り込む。
「……失礼した。|表《おもて》で小型のマガツヘビが死んでいたが。あれは?」
『斬った』と。伽羅は視線を合わせたまま、サーベルの柄を指先で二度叩いて伝える。
天狐はしげしげと伽羅の全身を眺めた。
「一人で、か? それにそのサーベルと制服……型落ちの警察衣装のようだが。何者だ?」
伽羅は少し考えた。
確かに、これは昔の貸与品をそのまま所持しているに過ぎない。どうやら天狐は警察に少し詳しいようだ。もしかするとバレるだろうか?
だがどちらにしろ、警察にパイプ有りと匂わせるには足るだろう。
伽羅は懐から警察手帳を取り出すと、圧を掛けるようにチラつかせた。
「早乙女・伽羅。戦力は君が見た通りだ。もし君に"誠意"があるのならば、俺は約定をきっちりと果たし、顔の利く場所に話を通すこともできるだろう」
「……親父からそんな名前を聞いたような……まあいい、誠意とは? 何で示せばいい」
やれやれ、と首を振る。組長にしては純心すぎるのではないか。渡世人であれば、察してくれると思ったが。
伽羅は手のひらを上に向けて、ずい、と右手を差し出す。
「……おい。まさか金か? 冗談は……いや、この辺りの警察は……」
天狐は失望したような顔をする。警察になにか因縁でもあるのか。
しかし、それはそれである。人や妖の心をさんざ弄んでおいて、頭の一つも下げず「ルールだから」と迫ってくるようでは、およそ筋が通らない。
「さきほども言った通りだ。君たちのご所望には十二分にお応えできると約束しよう。それでも高いと、駄々を捏ねるかね?」
天狐はしばし目を伏せた後、諦めたように視線を戻した。
「……金を払うのが嫌な訳じゃない。が、まあアンタには関係のない事だ。いいさ、未来を買えるのなら。好きなだけくれてやる」
――バシャン、と釣り堀全体が大きく揺れて、魚と|飛沫《しぶき》が床に散る。
ふいの衝撃に体勢を崩した二人は、室内に入ってきた一条の日差しを認識した。
薄く、ドアが開いている。
その向こうに、小マガツヘビの真っ赤な瞳が覗いていた。
「|烏羅唖唖唖唖唖唖唖唖《ウラアアアアアアアアアアアア》ッッッ!!!!!! 」
提灯お化けが慌てて裏手に引っ込むと、轟音に耳を伏せた伽羅は、魚を掘りに戻して、サーベルを握り込んだ姿勢で僅かに前傾した。
「君が動け、俺が合わせる」
「言うだけのことはありそうだ」
【怨霊の挽歌】
解き放たれた怨霊が、怨念を弾と化してドアに乱射を始める。
「おおっと、危ねぇ危ねぇ。鱗のねぇとこは痛ぇ~からな」
マガツヘビはドアから目を離すと、両の拳を祈るように握り込んだ。振り上げた拳が釣り堀を叩き壊す寸前。いつの間にか怪物の首に引っ掛けていた釣り糸を、伽羅の籠手が手繰り寄せている。
「――油断したな?」
【贈賄コンビネーション】×【|昼行燈《カミソリ》】
ドアの内側から、上体を捻る姿勢で伽羅が飛び出す。
虚を突かれたマガツヘビの、無防備に|曝《さら》された首筋――伽羅はすれ違いざま、そこを鋭く|刎《は》ねた。
「ぐ、えっ……!」
マガツヘビは悶えたが、高密度の筋線維、そして多層の鱗により、これでも致命傷ではない。
伽羅は、勢いのまま向かいの屋根を蹴り上がり、宙を|錐《きり》もみに回転する。その真下を、振り抜かれた拳が通り過ぎた。
「チョロチョロ動いてんじゃねえッ!!」
空中。インバネスコートを翼のようにはためかせながら、伽羅は地上を見た。
ドアから這い出た怨霊たちが、霞のように集っている。
その射撃は鱗に阻まれ、マガツヘビの注意すら引いていないが、もう少しすれば剥離する箇所も生じるだろう。
そして何よりも――伽羅が有効に使える点がある。
糸を手繰り、首をもう一度斬りつけながら着地する。そして伽羅の黒衣は、漂う怨霊の|闇黒《あんこく》へと同化した。
「クソ……見えづれえっ! 面倒だな!」
正直に申告するマガツヘビの足元で、金の瞳が残像を描く。
だが、その強靭な足腰を数度斬りつける間に、マガツヘビは妖力を溜めた拳を振り上げていた。
伽羅は駆けながらそれを見上げ――なるほど、と思う。|阿呆《あほう》の怪物にしてはよく考えた。
それは、拳の形をした爆発的な力の塊だ。たとえ直撃せずとも、打撃した周囲に影響を及ぼせるほどに。
対処は幾つかあるだろうが、間一髪、既に画は描き終えてある。着弾の前に潰す。
「愚直ゆえに厄介な奴だ――俺を本気にさせたな?」
サーベルを天高く投じ、空いた両手で空中を"掴む"。僅かな光の加減で――そこに、蜘蛛の巣のように張り巡らされた糸が見えた。怨霊に紛れて行き交いながら、電柱や建物、マガツヘビの足腰に巻きつけておいた釣り糸である。
ミシリ。
高められた両の腕力で、一息にそれを腰まで引く。
「うおォっ!?」
電柱が傾き、住居が軋む。怪物の重心がぶれて、膝を突いた。
伽羅は落ちてきたサーベルを掴み、怨霊が生んだ傷口を斬りつけながら、マガツヘビの体表を駆け上がる。地と平行になった怪物の太ももを蹴りつけ、跳躍する。
――再び、目の前に怪物の喉元が曝け出された。
真上へと半月状に振るわれたサーベルが、今度こそ致命的な一撃を届かせる。
「クソッ……猫、風情に……」
どす黒い妖力を煙のように噴き出して、マガツヘビの拳から力が失せた。その体が、力なく路地に倒れる。
「|如何《いか》にも。俺は猫又だ。メインクーンのな」
サーベルを振るい、伽羅はどこか誇らしげに納刀した。と同時に直感する。小マガツヘビの群れは、これでひとまず退けた。
怨霊を呼び戻した天狐が歩いてくる。
「どうやら腕前は本物だ。それに、今ので最後だな。まだデカいのが残っているが、追加の報酬は必要か?」
「いいや。まだ威張るほどの働きはしていないだろう。約束したはずだ、十二分に応えると」
「……そうか。では、今から本隊と合流する。受け取ってくれ」
「これは?」
手渡されたのは、『古びた石で出来た鳥居のペンダント』である。手のひらに乗せると、何か妙な力が感じられる。
「遙か昔、マガツヘビの封印に使われた遺物の一つらしい。名前は|岩室鳥居《いわむろとりい》……極めて小さいが、内部に巨大な空間を持つ奇妙建築だ。そしてまったく同一の鳥居が複数存在し、すべての鳥居が一つの岩室に通じている。かつて、マガツヘビを閉じ込めたのもこの内部らしい」
「なるほど? では、その空間を介して合流するという訳か。使い方は?」
「覗き込むだけだ」
「ふむ」
ペンダントごと、二人の姿が虚空に消える。提灯お化けは、不思議そうにそれを眺めていた。
第2章 集団戦 『洗い熊』

『鳥居のペンダント』――もとい『|岩室鳥居《いわむろとりい》』を覗き込んだ√能力者たちは、継ぎ目のない岩盤で出来た、巨大な立方空間へと招き寄せられる。
そして同時に、溢れんばかりの活気に面食らった。
辺りには、祭りのようにズラリと鬼火提灯が並んでいる。
出店のように照らされた鉄火場では、鍛冶屋の妖怪たちがカンカンと音を鳴らし、向かいの炊事場では、幾つもの大鍋からせっせと膳が配られていた。
雑多に置かれた木箱をイスにも机にも使って、学者たちは古い巻物を前に議論し、骨董屋の店主は不思議道具の市を開く。
その頭上では、ビラ配りの飛行船を改造し、展望台とジェットエンジンを取り付けたものが十数機、ロープで係留されて浮いていた。
そしてゴミゴミした通りの中に何匹か、拾った鳥居を洗おうとして紛れ込んだ『洗い熊』もチラホラいる。どうにか捕まえておこう。
〇
しばらくして、若衆を率いた天狐が姿を現した。来るなり、天狐は頭を下げる。
「すまないが、改めて世話になる。可能な限りの礼で返すつもりだ」
そして指揮官らしく、ハッキリと要綱を伝えた。
「間もなく、俺たちは総力を挙げた電撃戦を行う。まだ奴が油断している隙に、決着をつける算段だ。
目標は、マガツヘビに深刻なダメージを与え、封印可能なほどに弱体化する事。
注意点は、ヤツの足元で生まれ続けている小型マガツヘビの存在だ。これにより、地上からの攻撃は至難だが……ヤツらを利用することも可能かもしれない。
現状、奴は|王劍『天叢雲』《おうけんあめのむらくも》を探すことに執心し、積極的な攻撃をしてこないでいる。
だが、王劍は奴を封印した際に失われ、今は絵巻に残るのみらしい。これが知られればヤツは暴走し、他√へと移動するかもしれない。めいめい、注意してくれ」
次に天狐は、広間の果てでそびえる唯一の建造物――巨大な岩の鳥居を指した。
「あの鳥居が、この奇妙建築のたった一つの出口だ。妙なことに、歩いても走っても五分で辿り着く。鳥居を抜けた際、出る場所は毎回変わるようだが、特定の地点を思い描けば、制御が可能だ。
俺たちは地上の小型を抑える部隊と、空中からの急襲部隊を出撃させる。お前たちは、自分の裁量で使ってくれ」
√能力者たちが了解すると、駆けつけてきた黒服が声を上げた。
「お頭、|石蕗《つわぶき》中将の部隊が到着。最前線を張らせろとのことです」
「フン……勝手な真似を。案内しろ。
――ああ、説明は以上だ。ともかく、使えるものはすべて使ってくれ。大変な作戦だが、無事に終えるぞ」
天狐が去る。
そして√能力者たちは、(洗い熊に構いながら)それぞれの準備を行うのだった。
「こちらこそ改めて協力感謝だよ」
天狐に礼を返すと、樹雷は人通りを歩きはじめる。
【|百鬼夜行《デモクラシィ》】
樹雷の後を追って――人混みの中から続々と、付き従う小さな妖怪たちが姿を現してくる。
樹雷はその先頭で、静やかに推理へ没頭していた。
(王劍『天叢雲』……もし、それが神話に|謳《うた》われる剣と同じものなら――それは|八岐大蛇《やまたのおろち》の尾から見つけ出された、遺物ということになる)
考えることは多い。
マガツヘビとは何者なのか?
|王権執行者《レガリアグレイド》とはどういう存在なのか?
樹雷にとって簒奪者とは、ただ敵の呼び名ではなく、大いなる不思議だった。
例えば『レガリア』という言葉。それは元来、王が権威を主張するための器物を意味する。
古代日本でいえば、三種の神器『|八咫鏡《やたのかがみ》』『|八尺瓊勾玉《やさかにのまがたま》』そして『草薙剣』――またの名を天叢雲剣。
それを探し求める『|禍つ蛇《マガツヘビ》』という敵の名に、樹雷は八岐大蛇との関連を睨んだのだ。
(もし。マガツヘビが八岐大蛇と関連するなら…奴の死骸、特に尻尾の調査は必須だ。無限妖力の力源があるなら古妖に渡したくない)
樹雷は手ごろな木箱を見つけると、そこに腰を落ち着けた。
配下の妖怪たちが、屋台や露店から集めてきた様々な物資を手渡してくる。
食事。戦場地図。マガツヘビの文献。そして一匹が指差す方向には、こちらをジッと見つめる洗い熊がいた。
(…この洗い熊は監視役?)
樹雷は『どろん煙幕』を薄く焚き、自らを洗い熊に変身させると、煙にくぐらせた葉で幻影を描いた。
ゆらゆらと揺れる葉は洗い熊を催眠にかけ、やがてそこに好物――活きのいいザリガニを幻視させる。無我夢中で駆けてきた洗い熊を、変身を解いた樹雷の腕が抱え込んだ。
「――捕まえた。何か企んでいるんだよね?」
「!!」
にわかにおとなしくなった洗い熊を配下に預けると、樹雷は串肉を頬張りながら計画を練る。
小型マガツヘビは、単体でも十分な脅威だ。だからこそ|化術《変身》で翻弄し、本体へと誤射を行わせれば、確固とした戦力になるだろう。
これは一人では難しいかもしれない。しかし配下を含め、周りには数多くの妖怪が居る。目ぼしい妖怪たちに戦術を共有して、樹雷は戦線に臨む算段を立て終えた。
そしてまた、推理に没頭する。
あいにく、樹雷に名探偵と呼べるほどの頭脳はない。合理的なつもりで、超論理を展開しがちである。
だが――時に飛躍する論理、あるいは直感が、真実を掴むこともあろうか。
遠く、参謀本部にて。
「アライ|壱《ワン》、対象に捕獲されました」
「なんでバレた……いや流石は探偵か。
まあいい、|小型通信機《マイクロインカム》は壊れていない。チャンネルは繋いだまま。ヤツの言っていた作戦を補助しろ」
「了解です、お頭!」
---
家綿・樹雷、準備完了。
「むっ……」
岩室鳥居に招かれたセイラは、空間が捻じ曲がる感覚に目を回しかけた。
奇妙建築ならではの不整合には、毎度悩まされるものだ。
頭を振り、いつの間にか手にぶら下がっていたペンダントを眺め、また広間に目を戻す。
市街戦の雰囲気から一転、あらゆる立場の妖怪たちが、ここぞとばかりに声を張り、笑いながら飲み食いし、額を寄せて談義するのは、これから起こる総力戦への士気の高さとも言えようか。
マガツヘビは、強大だ。命を落とす者もいるかもしれない。そして√能力がなければ、そこで本当の死を迎えるのだ。
だが、そんな不安を感じさせない、祭りさながらの賑わいに、セイラは自らの心を鼓舞された。
『世話になる』『無事に終えるぞ』と、天狐は言った。裏家業の組長にしては、随分な殺し文句だ。
次に会うときは知らないが……今は一旦、貸し借りや損得は脇に置いても良いだろう。
――屋台前のベンチから、こんな雑談が聞こえる。
「見てくれ、このヤバげなナイフ! 汎神解剖機関からパクってきたのさ」
「ガハハ! お前、すごいことすんなぁ。どう使うんだ?」
「フフ、アタシゃ【怪異解剖執刀術】を使えるのさ。これでマガツヘビを斬って、食ってやる!」
「おい、ありゃ珍味なんかじゃすまねえぞ。危ねえことすんな」
いきなり現れた警官にナイフをひったくられ、妖怪たちが情けなく非難を上げる。
その汚職警官――八百夜・刑部は、押収したナイフを服に仕舞うと、何の気なしに二人の間に座り、汁物と飯を注文した。
「料金? こんな時でもしっかり取るのな……そりゃ立派だ。じゃあこいつらの分も領収書切ってくれ、宛名は『特務刑事課』だ」
「えっ、良いのかい?」
「ガハハ! じゃ、もう少し頼もうぜ!」
――ふと、彼らの足元を、キョロキョロと忙しなく横断する影があった。
「あっ、洗い熊」
セイラのつぶやきを理解したのか、洗い熊は立ち止まってこちらを見ている。首には鳥居のペンダント。右掌には、√能力によるインビジブルが集まっていた。
鳥居の妖力を洗われては、何が起こるか分からない。
セイラは手近な露店で、『ご自由にど~ぞ』と書かれた箱に入っていたガラクタを探った。ペンダントと同じくらいの大きさの……おお、これにしよう。
セイラは、ボタンの付いたラッパのおもちゃ(ボタンを押しても音は鳴らない)を手に取り、屈みながら洗い熊に近寄った。
「おぉい、そこの洗い熊。その鳥居、これと交換してくれんか」
洗い熊はしげしげとガラクタを眺め、また瞬きをしてからセイラを見ると、首のペンダントを左前足で取り、スッと差し出した。
交渉は成立したようだ。鉄腕に集めつつあった赤雷を元に戻して、セイラはペンダントを受け取る。
ガラクタを持った洗い熊は、テコテコとどこかに去った。
――そしてふと、二つになったペンダントを眺め、思う。
広間の入り口がペンダント。出口があの大鳥居。その図式で言えば……未だにペンダントが手元にあるというのは、なんだか妙だ。
『広間の入り口の中に、広間の入り口がある』ことになってしまうではないか。
今、ここで、これを覗き込んだら?
フラッ、と目が眩む感じがして、いかんいかんと気を取り直す。相手は奇妙建築だ。道理は通じない。
セイラは鉄腕の調子を確かめてから、万全の面持ちで大鳥居を見据えた。そろそろ、仕事の時間だ。
☆
全身に短剣を帯びた妖兎と、鋼のような肉体を持つ妖亀の間で、刑部はベンチに座って味噌汁の椀を傾けた。
――うまい。
ヘビ公のマズそうな肉を見た後では、まともな飯にありつけるだけで一息ついた心地がした。
そういえば先ほど、
『まー、流石本家若頭、指揮が上手い』
などと天狐をからかってみたが、一瞥して歩き去ってしまった。何か……言いたげな様子だったなと思う。ヘビ公が邪魔した、あの会話の時からだ。
――そろそろ、隠さず真面目にやるか。
刑部は飯をかき込みながら覚悟を決める。
「じゃあな。盗品のナイフは署で預かっておく。欲しけりゃまた来い」
「チェ……」
「ガハハ! まあ、もう腹一杯だしいいじゃねえか。あんなの食わなくたって」
賑わう通りを歩く。化け猫の鍛冶屋から、整備してもらったサーベルとリボルバーを受け取ると、鍛冶屋は指で銃の形を作り、『バーン!』と刑部の心臓を撃ち抜くフリをした。ついでに、魅力的なウインク。
「おー、なんつーキュートな。参ったな……ん?」
トテテテ、と目の前で鍛冶屋の屋根を渡っていくのは、一匹の洗い熊だ。
「あ、おい、こらっ」
【大狸のぶん回し】
刑部は自らの尾と腕を、巨大な狸のものに変化させる。
逃げる洗い熊を尾で制してから、後ろから、もふっ、と掴み取った。
観念した様子で、洗い熊は手足を投げ出して捕獲される。
「ダメだぞ、この先はどこ行くか分かんねーんだし。
帰ろうとして異国に飛ぶなんて笑えないからな。いいか? 帰り方はあの鳥居を……」
洗い熊は分かったような分かってないような顔で頷くと、スタコラとどこかに去っていった。一応、ペンダントも回収しておく。
「さて、と……しかし共闘か。こんな事、もう無いと思ってたからなぁ」
ほとんど絶縁状態にあった天狐との、奇妙な縁。今後どう転ぶにしても、悪くない思い出が出来たか?
歩きながら、刑部は銃弾を入れたポケットをまさぐり、リボルバーの|弾倉《シリンダー》を開いた。
「……ん?」
一発だけ、見覚えのない黄金の銃弾が装填されている。取り出してみると、側面に『|八塩折《ヤシオリ》-Snake eater-』と刻まれているのが読み取れた。
慌ててサーベルを抜くと、見た目こそ相違はないのだが、なぜか黄金の光を|湛《たた》えており、刀身に『|天羽々斬《アメノハバキリ》』と銘が刻んである。
「お、おい、これは|警察《ウチ》の貸与品だぞ!」
振り向くも、あったはずの鍛冶屋がそこにない。あの化け猫……屋台の幻でも見せていたのか?
当事者が居ない以上、文句をつけるならここを率いる指揮官にだろう。
「……あー、アイツとの決着の為に当分死ねねえなこりゃ」
納刀し、弾倉に弾を込め終えると、刑部は大鳥居を目指して一人歩き出した。
---
セイラ・ノートルダム
八百夜・刑部
準備完了。
霊菜は時計塔の屋根に座りながら、間もなく夕刻を迎える太陽の方角を見つめていた。膝の上では、鳥居を出る際に捕まえた洗い熊が、呑気に日を浴びている。
――桜散る山を背景に、それと同等の|巨躯《きょく》を持つ怪物が、遠く、逆光に晒されていた。
その足の一踏みごとに、街が崩れ、王劍を探る手が、建造物をなぎ倒す。
数羽の氷鷹が、その足元を縫って翔んでいた。
【氷鷹の使い】
マガツヘビ本体の直下は、さながら地獄のようだ。
砕かれた街の悲惨さも|然《さ》ることながら、本体から剥がれ落ちる鱗一つ一つが、まるで生き物のように蠢き、結合し、小マガツヘビとなって活動を開始する。
水道や水脈は至る所で破裂し、踏み砕かれた地表へと浸水を起こしていた。
マガツヘビは、山に向かって微速な前進を続ける。そして、唐突に吼えた。
「|愚我亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜亜《グガアアアアアアアアアアアアア》!!!! どこに……どこにありやがる!? 俺が、俺がお前の主に相応しいハズだ!! お前がいりゃ、俺はもう|絶対《ぜってぇ》に、あの岩部屋に封じられはしねえ!! そして、全ての√を、俺が破壊してやる!!」
叫ぶついでに振るわれる尾が、一羽の氷鷹を巻き込みながら、地区一つを木っ端微塵にふきとばす。
これでまだ、王劍を探す為に加減をしているつもりなのだ。
「……ハァ、本当にすごい声ね。聴覚を共有していなくてよかった」
霊菜は耳を塞いでいた手を下ろし、洗い熊を撫でながら、山の向こうからやってくる黒い雨雲を見つめた。
敵は圧倒的な強さだが、有利な条件も整ってきてはいる。
「うーん、やれるかしら?」
洗い熊はフンフンと鼻を鳴らし、まるで肯定するようだった。その手に、いつの間にか握っていたクリーニング用具から、シャボン玉が一つ飛んでいく。
---
矢神・霊菜、準備完了。
第3章 ボス戦 『マガツヘビ』

大鳥居へと向かい、ひしめくのは、妖怪たちと飛行船の群れ――紛う事なき|百鬼夜行《デモクラシィ》。かつてそれを指揮した者は、『妖怪大将』と呼ばれた。
いま、八百夜・天狐が、その先陣を歩いている。
天狐は、ただ沈黙の中に紫煙を|棚引《たなび》かせていた。真後ろを歩く|石蕗《つわぶき》の|軍靴《ぐんか》と、一定の速度で近づいてくる鳥居の狭間で。
準備は万全ではない。
戦力も十分ではない。
だからこそ、すべてを賭けるしかない。
「あと一分で鳥居に到着する」
声を張り上げる必要はなかった。間際に迫る闘い、その無謀さに、誰もが口を閉ざしていたからだ。
天を衝く暴蛇へと挑むには、握る|掌《てのひら》はあまりに小さく。それでも、歩みは止められない。
「外は夕暮れを迎える。山からやってくる積乱雲が、間もなく雨を降らせるはずだ。これが有利に働くかは、現状不明。
戦局を握るのは、主に√能力者になる。空中部隊と地上部隊は、彼らの通信をよく聞いておけ。
空中部隊は、高速飛行船からの急襲、あるいは物資・兵の輸送を担う。
地上部隊は、小マガツヘビを抑え、攻撃を誘発させての同士討ちを狙え。
いずれにせよ、柔軟に対応しろ。そしてもっとも重要なのは、むやみに命を落とさないことだ」
最後の靴音が響き、行軍が止まる。
「俺と石蕗の部隊が、地上部隊の前線を張る。そしてヤツが十分に弱りきれば――俺が封印を施す」
毛並みを逆立たせ、天狐は鳥居に足を踏み入れた。
「色々言ったが、基本的には出たとこ勝負だ。後は任せる」
鳥居の向こうへと天狐、石蕗、その部下たちが消えていく。そして続々と、妖怪たちは奇妙建築を抜け出すのだった。
暮れる|陽《ひ》。|魔幻刻《マジックアワー》。
常であれば、夜のない街として知られる山麓の街に、灯る明かりはどこにもない。
紺の|帳《とばり》に覆われた飛行船が、同色の空を滑るように巨妖へと向かう。
頭上にそれを仰ぎながら、地上部隊も黒の外套を羽織り、山に隠れる間際の、斜陽の中を進んでいた。
進軍の途中、天狐はときおり部隊を分散させ、また、敵の行動を通知する観測手を置いた。
マガツヘビの背後を弧状に囲む陣が完成したその時。
投げかけられていた夕陽は途絶え、ただ、降り始めた豪雨の中に、マガツヘビの古傷から零れる、赤い妖力だけが光っていた。
「――夜に雨かよ、|視《み》づれぇな」
気だるげにマガツヘビが漏らした直後、
『作戦行動を開始せよ』
通信回線が、天狐の令を全軍に伝えた。
滞空していた飛行船から、七色の鬼火、風の刃、無反動花火砲が放たれ、マガツヘビの背へと殺到する。蒸発した雨が白煙を上げた。
「ああ……? なんだ、餓鬼共か?」
まるで攻撃とも思わぬように、マガツヘビは軽く後ろを振り向いた。そして地響きのような声で唸る。
「おい、テメエら如きに楯突かれるのは死ぬほどクソムカつくが……俺は今、死ぬほど忙しいんだ。その辺でやめにすりゃ、十回殺すだけで済ませてやるよ」
なんと、おぞましい声音なのか。そして総攻撃を不意に食らい、まるで動じない異様な|体力《タフネス》。
――空中部隊の砲撃が、止む。怖気づいたのだろうか? 当然そのように受け取れる反応に、マガツヘビは笑う。
「へっ……話が分かるじゃねえか」
首を戻したマガツヘビは、まるで気づかなかった。今の総攻撃が、たった一人の√能力者を接近させるための、目くらましに過ぎぬことなど。
その頭上。
渦巻く黒雲を裂き、二体一対の神霊、氷翼漣璃が霊菜を連れて姿を現す。
「協力ありがとう。おかげでガラ空きね」
「――待て、なんだ?!」
マガツヘビが霊菜に気づいたのは、氷翼漣璃の放つ氷雪に、視界を覆い尽くされてからのことだった。
【凍壊の一撃】
極低温の氷雪は、マガツヘビの体表を落ちる雨を伝い、限界を超えて上半身までを|被覆《ひふく》する。それに触れた雨粒が連鎖的に凍結し、マガツヘビは瞬く間に氷のオブジェと化し、動きを止めた。
霊菜は凍り付いた頭部に着地し、マガツヘビを見据える。
「雨が降ればと思ったけど、本当に雨雲が来るとはね」
「う、動けねえ……?! テメエ|何者《ナニモン》だ!? 飛んでくる雪女なんて聞いたことねえぞ!!」
「ああ、そういう認識になるのね……無理もないかしら」
苦し紛れに振るわれる尾。それだけでも被害は余りある。全力の凍気を込め、霊菜はその脳天に一撃を叩きつけた。
「凍てつき砕けろ!」
走る亀裂。
一瞬の内に巻き起こる凍結破砕が、マガツヘビの頭部に大きな傷を生んだ。
砕け散った氷片が、足元の小マガツヘビを巻き込みながら、浸水した地上を凍結させる。
ぐらりと揺れた頭部から、氷翼漣璃を掴んで撤退しながら、霊菜は攻撃の成果に頷いた。
「ヘビって|変温動物《・・・・》でしょ。だったら、雨と凍結はさぞ堪えるんじゃない?」
「……ああ?! 誰が|平安貴族《・・・・》だ!」
マガツヘビの眼光が灯り、急速に霊菜へと掴みかかる。
第六感で辛うじて予期した霊菜だったが、巻き起こる風圧は回避しきれず、体勢を大きく崩す。
「まっず――!」
「消えとけ、雪女!!」
指先が氷翼漣璃の翼にかかる、その寸前――マガツヘビの眼前に、岩の鳥居が出現する。
突如、宙に生じた電撃と|閃光《スパーク》。
目を焼かれたマガツヘビの狙いは逸れ、霊菜は雲間へと逃げ延びる。
そして一時的に視覚を失った巨妖は、赤雷を漲らせる|暗殺者《セイラ》の姿を捉えられない。
【|放電《ディスチャージ》】
「探し物は見つかったかぁ?」
「んだとぉ……?! あの、クソ忌々しい鳥居が……!! 今度こそ絶対にぶっ壊す!!」
霜の張った地面を、躯体の重みで破砕しながら戦地に降り立つ。セイラの義眼は、夕闇の中でもよく戦局を映し取った。
地上の小マガツヘビらは、頭上で起きた立て続けの攻撃に翻弄されており、そして足元の凍結で満足に動けていない。
天狐と石蕗の近接部隊が、その隙を刈りながら進軍していく――
順調に思えた状況下で、観測手の警告が通信を鳴らした。
『総員に警告。マガツヘビ本体が拳に妖力を集中! 回避されたし!』
「|唖唖唖唖唖唖《アアアアアア》……見えねえんなら全部、ぶち壊してやるよ!! 王劍は瓦礫から探しゃいいだろうが!!」
【マガツカイナ】
マガツヘビが、自らの足元に妖力を叩きつける。
多くの小マガツヘビが犠牲になり、断末魔を叫ぶものの、巨妖が気に留める様子はない。
衝撃波が市街を突き抜け、爆心地では建造物や電柱が舞い、マガツヘビの目の高さまで瓦礫が吹き上がった。
天地をひっくり返したように宙に舞い散る|礫片《れきへん》。たった一度の殴打で生み出される、絶望の光景。負傷者が喘ぎ、マガツヘビは笑う。
だが――直後。マガツヘビの周囲に舞った礫片の全てが、因果不明の大爆発を巻き起こし、マガツヘビの全身を焼き尽くした。
「これは……何だ?」
天狐が呟く。
√能力者が仕込んでいた作戦は、すべて洗い熊に伝達され、戦略に織り込んである。だがこの爆発は、そのいずれでもない。そもそも、爆薬を仕掛ける暇などあるはずがない――
「えーん! またなにもしてないのにこわれちゃった!」
|妖《あやかし》。|人間災厄《イレギュラー》。「何もしてないのに壊れる悲しい生き物」
|身鴨川《みかもがわ》・|すてみ《捨て身》(デスマキシマム・天中殺・h00885)
『世界の歪み』を纏っていた彼女の存在は、マガツヘビも、妖怪たちも、事前に感知することはできず。
ましてや荒れ狂う市街地の中心で、『今回はこういうタイプの|デスゲーム《おしごと》なのだ』という認識で、参加者を待ち、マガツヘビの足元に潜伏し続けていたことなど。
誰にも想定できるわけがなかった。
泣いてこそいるが、爆心地で、平然と|人間災厄《すてみ》は叫ぶ。
「今日の会場も壊滅しちゃったよー。もー無理! 田島さん、助けてー! 一生のお願い!」
【|頑張れ保護者 田島陽郎《ガンバローゼ ノイローゼ》】
悪路を走破する軽トラが、すてみを掻っ攫って通りを走り去る。
「お、おい! なんだこの馬鹿デカい化け物! どこほっつき歩いてんだよ!」「えぇ?! だって会場、ここじゃなかった?」「全然違ぇだろ!」
静まり返った爆心地で、口から黒煙を吐いたマガツヘビが天を仰いだ。
「……何が、起きやがった?」
相手が人間災厄である以上、原因の究明に意味はなく、そこにはただ結果だけが残る。マガツヘビは自ら、周囲の小マガツヘビを一掃し、さらに深刻なダメージを負ったのだ。
「――地上部隊、動ける者は突撃を仕掛ける。空中部隊は追撃を開始しろ。石蕗、行けるな!」
「無論!」
突撃までのタイムラグを、空中からの砲火が埋める。
凍結、それに次ぐ爆発――強大な妖と言えど、ヘビの形を取って生まれたマガツヘビは、温度変化による影響を無視できない。
「チクショウ……この俺が……」
動きの鈍った腕を構え、妖力を展開し、マガツヘビは、砲火に対して防御の姿勢を取った。
千載一遇の好機。
それを遮る唯一の懸念は……拳の衝突とともに撒き散らされた、マガツヘビの妖力である。それは体内を浸食し、活力を蝕む毒だ。
重い体を動かし、部隊は前線を突き進む。もはや次が訪れるとは限らないこの機に。全てを終わらせるために。
「進め! ヤツを殺るには、今しかねぇッ!」
「――その意気だ、天狐!」
走り去った軽トラと入れ違い、フルスロットルをかけた青バイが部隊を追い越した。その軌跡に沿って、汚染地帯が次々と無力化されていく。
二つ目の√能力【ルートブレイカー】を発動させたセイラを載せ、刑部のバイクが最前線に躍り出る。
どろんバケラーである刑部は、壮年の警官ではなく、若かりし兄の姿で疾駆していた。
「――おい! その|形《ナリ》は何のつもりだ?!」
「借りを返しに来たんだよ。遺恨もねえ時の兄ちゃんの姿でな!」
【邪眼の発動】
刑部が|思春期《このすがたのとき》に会得したその√能力は――邪眼による威圧、もとい妖力振動波により、対象に震度7相当の震動を与え続ける。
「ぐおっ!?」
防御姿勢を崩され、砲火を受けたマガツヘビが地に両手を突く。
「俺が盾になってやる。ついて来い! 後ろから撃っても構わねえぞ天狐、その時は笑って死んでやる!」
「フン……そいつを拝むのは楽しみだ。地上部隊、全員突っ切れ!」
刑部は、マガツヘビの足首にリボルバーから『八塩折』を撃ち込み、改造された『将校サーベル天羽々斬』で深々と傷をつけた。
「この、俺が、地上に這いつくばるだと? この餓鬼……舐めるんじゃねえぞ!!!」
マガツヘビが振り払う拳が、およそ回避不能の軌道で飛んでくる。
刑部は試しに小マガツヘビの姿に変身してみたが、やはりまったく躊躇なく殴ってくる。
「げっ」
「世話になったな。お主はこのまま進め」
「マジか!?」
「うむ――さらばだ」
セイラが、『赤雷』を纏いながら飛び降りる。|改造人間|《サイボーグ》一人分だけ軽くなった青バイが、勢いよく拳の真下を通過した。
空中。真っ直ぐに飛んでくる拳へと、セイラは過充電した『スペアバッテリー』を放る。
巨大な拳がバッテリーを破壊し、そこから瞬間的に莫大な量の『赤雷』が放出される。マガツヘビの満身がマヒし――慣性で振り抜かれた拳が、回避のできぬセイラを捉えた。
躯体がミシミシと音を立て、胸腹のどこかで部品が砕け散る。
「……ふん、無傷で抑えられるとは思っとらん。だがこの身体、スクラップにでもならん限り動くぞぉ」
服の内から、赤雷を纏う短剣を抜き出し、セイラは動けないマガツヘビの死角を辿り、頭部の傷口へと短剣を突き込む。
「妖怪の掟とやらはわしの知るところではないが……お前の生きる時代でないことは確かだ。寝ておれ、もう起きるなよぉ」
短剣を伝いすべての赤雷を流し込み――
バチリ。
ひときわ強いスパークが胸で弾け、セイラの躯体、その電力が底を突いた。もうスペアはない。
ふらりとマガツヘビの頭部から滑り落ち――地上部隊の獣妖に回収されながら、セイラは意識を失った。
「ここで潰せ!」「ぬうううんッ!!」
天狐の銃撃が傷を生み、石蕗がそこへ太刀を突き刺す。刑部の作り出した傷に総員が斬りかかると、マガツヘビの動かぬ体から、悲鳴が聞こえた気がした。
巨体が、揺らぐ。
『観測班より通達! マガツヘビの妖力、測定可能なレベルへの弱体化を確認!』
「よし――これより封印を開始する。邪魔をするな!」
千里眼により空間を超え、天狐が、微動だにせぬマガツヘビの頭頂へと移動した。
「天狐!」
兄の声に、天狐が視線を向ける。
「あんがとな」
「終わりか? 俺からアンタに言いたいことは、まだ山ほどあるんだよ」
「だろうな。だから――」
「……フン」
「またな」
天狐は岩室鳥居を掲げ、自身とマガツヘビの眼前へと、それを差し出した。
「その時まで。俺か|兄貴《アンタ》が死んでなけりゃな」
――マガツヘビと天狐が、市街から消失する。
「悪いな。本当に」
刑部の青バイが戦場を後にする。
急激に訪れた静寂――邪魔をするなとの言葉に、誰もが岩室に入ることはなく。
期待か、不安か。闇に降りしきる雨に胸をざわめかせながら。妖怪たちはただ、固唾を飲んでいた。
「|餓《GA》……|唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖唖《AAAAAAAAAAAAAAA》ッッッッ!!!!」
「――目が覚めたか?」
未だマヒの残る体を、無理やりに動かしてマガツヘビは咆哮する。
白銀の獣となった天狐が、その頭部から飛び降りた。
「クソ……何本だ?!」
マガツヘビは、岩室の果てに列をなす"十四本"の大鳥居を視認し、安堵ながらに笑んだ。
「ハッ。大した数じゃねえ。テメエ一人ぶっ倒せば、すぐに出られるじゃねえか」
岩室鳥居。それの最も奇妙な点は、『入り口の中に入り口を持ち込める』という特異性にある。
岩室の中で、さらにペンダントを覗き込んだ者はどこに向かうか? 答え――『大鳥居が二つ並んだ岩室』に移動する。
ペンダントを覗くかぎり、鳥居の本数を増しての移動が続き――すべての鳥居をくぐらなければ、脱出はできない。そして一つの鳥居をくぐるには、必ず五分を要するのだ。
かつて、マガツヘビの眼前には、一千億の鳥居が並んでいた。
「まさしく愚鈍だな。今のお前は、俺に勝てないだろう」
「|吐《ぬ》かせッ!!!!!!!」
白銀。黒紅。二種の大妖が激突する。
何もないはずの岩室に、ふわふわと漂いはじめた『小さな綿の塊』。
その下で、大量に生まれた小マガツヘビの中心で戦い続ける、天狐の姿があった。孤軍奮闘――その戦局は劣勢だ。
「馬鹿が。妖力を減らしたところで、俺とテメエじゃそもそもの格が違いすぎる。
一人になったのはお仲間を心配したからか? ブッ……ハハ! いかにも、いかにも雑魚らしいなァ!!」
「黙れ――理由はこれから分かるだろうよ」
天狐の右腕から、黒い火のようなオーラが噴き出し始める。|緒戦《しょせん》、小マガツヘビを単身で圧倒した時と同じ姿だ。
「……! テメエ、そいつは俺の妖力じゃねえか。まさか……」
「そうだよ。『喰った』んだ。アイツに説法垂れられたから、最初の|一欠片《ひとかけ》だけだが……まったく十分だ」
『綿の塊』――|変化《へんげ》した樹雷は思案する。おそらく、最初に倒した小マガツヘビの死体から、天狐が抜き取っていたものは、妖力の詰まった肉片だったのだ。
それを、天狐は摂り入れた。一欠片でもおそらく圧倒的だっただろう妖力を――今まさに、仲間を遠ざけたこの場で解放しようとしている。
何が起きるのか……その推測は容易だ。自己犠牲、それに次ぐ悲劇。
「その選択には、まだ早すぎるだろうね」
【|打綿狸どろんチェンジ《バケモノガワノホンショウ》】
高速飛翔した樹雷が、どろん煙幕を展開しながら小マガツヘビの只中に突入する。
「あぁ?! クソ! まだ居やがるのか!!」
「それを考えてもいなかったのなら……やはり貴方は愚かだ」
敵を探す小マガツヘビたちを撹乱しながら、樹雷は『どろん葉っぱコレクション』の一枚を投擲する。
日々、妖力を注ぎ込んできた葉は、敵の目を奪う格好の|囮《デコイ》ともなる。樹雷は化術により、どろん葉っぱを自らに擬態させた。
「なぜ天叢雲が見つからないか? それは貴方が馬鹿だからさ!」
挑発と、待ちに待った敵の出現に。なんらの統率もない群れの理性は、容易く崩壊した。
大量の妖力弾がどろん葉っぱに向けて放たれ――その方向に立つ本体を直撃する。
「ぐ……!? やめやがれ馬鹿ども!!! クソッッ!!!!」
弱体化したマガツヘビは、その全てを防御しきれない。恐るべき威力の誤射に、マガツヘビの体が傾いていく。
形成が、一変した。
肩で息をする天狐の傍に、樹雷が姿を現す。
「かっこいいね『妖怪大将』。ボクも推して参ろうか」
「おい……邪魔をするなと言った。危険すぎるからだ。なぜ来た?」
「ふふ、ボクは人を驚かせるのが好きだからね。それに……」
マガツヘビが吼え、妖力とともに尾を振るい、自らの似姿たちを殲滅する。その尾の先端を、樹雷は眺めていた。
「解明したい不思議があるんだ」
「……フン、勝手にしろ。死ぬなよ」
「何をゴチャゴチャ喋っているかは知らねえが……」
尾が薙ぎ払った地帯が汚染され、赤黒い霧が立ち込めている。
その向こうで。マガツヘビの口腔から、どす黒い妖力が溢れ始めていた。『熱線』――【マガツサバキ】の予兆である。
「ここなら王劍を消し飛ばす心配もねえよな……始めからこうすりゃよかったぜ。テメエらのちっぽけな足掻きごと、消滅させてやるよ」
すべてを無に帰す、熱線の記憶。思わず背を向けたくなるが――樹雷と天狐は、それが唯一無二の好機であると知っている。
「いまだ!洗い熊は霊的汚染を除去し、道を作れ!」
一匹の洗い熊が、樹雷のマフラーから飛び出す。
【一斉大掃除】
こすり合わせた両掌から飛び出した泡は、『あらゆる付着物・付与効果を抹消する洗浄術』であり、マガツヘビとこちらを隔てる妖力の霧を、完璧に除染した。
「今だ!」
巨大狸に変化した樹雷と、白狐を顕現した天狐とが、猛攻を仕掛ける。
あらゆる妖怪と能力者が刻み、託してきた傷跡に、全力の攻撃を叩き込んでいく。
一方。ダメージを遅延したマガツヘビもまた、二名を屠るために全力を振るった。
周囲の岩盤が砕け、隆起し、聴覚を一時的に損なうほどの破壊音が、空間全体に響き続ける。
刻限、六十秒。
――そろそろ来るぞ、退避!
その声は、誰の耳にも届かない。だが、全身の毛が逆立つ異様な熱によって、二人はそのタイミングを感じ取る。
樹雷は綿に変化し、天狐はマガツヘビの身体を蹴って死角に退避した。
同時にばら撒いた『どろん葉っぱコレクション』が幻影を生み、マガツヘビの意識を散らす。
打てる手は、すべて打った。それでも――掠めるだけで死を|齎《もたら》す熱線を|躱《かわ》せるかどうかは、もはや|運否天賦《うんぷてんぷ》でしかなかった。
【マガツサバキ】
――放たれる死の熱。
荒々しく振るわれる黒き奔流は、|遍《あまね》く空間を消し飛ばさんと|迸《ほとばし》り、岩室すらを崩落させるかに思われた。
静寂。
マガツヘビの周囲が、膨大な|陽炎《かげろう》に揺れ、ドロドロに溶け出した岩盤が灼熱していた。
辛うじて、射程を抜け出していた樹雷と天狐は、目の前に広がる地獄の有様を見つめる。およそ近づくことのできぬ溶岩の海で。全身に妖力を纏い、熱を遮断したマガツヘビが、こちらに目をやった。
「……いよいよ死んだか? いや、そろそろ分かってきたぜ。テメエらはしぶとい。まだ生きているんだろ? だが俺は……俺はもっと、しぶといんだよ!!!」
ここまでの攻撃を|以《もっ》てして、倒し切れぬ怪物。
『無限の妖力と矮小なる頭脳』――その言葉の精度を、今この場に居る者だけが、真に理解していた。
――王劍『天叢雲』。
それは文字通り致命的なリスクと引き換えに、|王権執行者《レガリアグレイド》に絶大の力を授ける√EDEN侵略兵器の一つであった。
その名、その在り処は、古妖達の胸に秘されており、すなわち彼らが頭を下げたマガツヘビ討伐作戦においても、すべての情報が√能力者に開示されていた訳ではなかった。
万物の敵、『マガツヘビ』討伐は表向きの依頼であり。これにより『王劍』の所在を秘匿する――その思惑に、妖怪と√能力者すらを巻き込んだ、古妖達の暗躍が存在していた。
(――狐の組長は半人半妖。であれば、『王劍』の仔細は知らされていまい。彼もまた、古妖に使われた身か)
古巣から得た証拠を脳裏に――伽羅は再び、戦地へと舞い戻った。
天狐と、もう一人の√能力者を相手取るマガツヘビを観察し、その力を推し図る――奴の傷を加味した上で、さらに本気を出したとて、一人では厳しいだろうか?
おりしも、慣れた香の匂いが鼻孔をくすぐり、伽羅は肩越しに目をやった。
「――やあ、来てくれたか」
轟音響かせる岩室の中で、ひとひらの雪の如くに音を立てず――職業暗殺者、|目《カナメ》・|魄《ハク》(・h00181)は、友である伽羅の助力に馳せ参じた。
「ここら辺は俺の管轄ではないけど――手が必要であれば話は別だな。それに、これも家業の内だろう」
肩に担いだ小手斧『|鬼斧《きふ》』が物語るは、血に濡れし者としての手腕。円いサングラスの向こうで、『|義眼《左目》』がぎょろりと動いた。
人妖「雪鬼」。不思議八百万屋敷の代人店主にして、古くより悪しき妖怪を屠り、秩序を保ってきた|暗殺《あんや》である。
「あっちの彼に、『顔が広い』と豪語してしまったのでね。加勢は純粋にありがたい――ふふ。友が隣にいる心強さだって、もちろんあるとも」
伽羅の尾が、親しげに魄の背を打ち、魄は手の甲で肩を叩き返す。
「そんな話になっていたのなら都合がいい。|暗殺《あんや》が出張って来たと仄めかせば、嘘にはならないだろう。
――来るぞ」
マガツヘビが、こちらの存在に気づかぬまま【マガツサバキ】を放つ。その熱線は、魄と伽羅の数歩先まで届き、静謐なる岩室の一角を、火口の如き有様に変えた。
「噂に違わぬ相手だね……彼ら、避けられたかい?」
「ああ、上手く躱したようだ。だがあの熱源では攻め手がない。少し、冷まそうか」
【|氷銃弾《アイスバレット》】
不思議道具『|護身用警棒《鉄砲十手》』から放たれる、氷風を帯びた一発の弾丸。それは到達した火口の熱を中和しながら、味方を護する旋風を生んだ。
敵の懐へと踏み込む寸前、伽羅は戦場を見守るもう一つの影……洗い熊の姿を目に留め、軽口を叩く。
「…君。ここに来る前に、あの洗い熊らの毛皮を堪能しておかなくてよかったのかい」
|揶揄《からかい》の視線を投げかけ、薄っすらと笑む。
上等らしいぞ。――俺には適わぬが。
返事を待たず、伽羅は黒き疾風に変じた。
【贈賄コンビネーション】×【|昼行燈《カミソリ》】
「……|愛《いと》いね」
呟いた魄が、その背を追う。
【昼行燈】による|最高速《トップスピード》で斬り抜けながら、伽羅は共闘者の前に降り立った。
マガツヘビを見据えつつも、天狐を鼓舞するように問う。
「覚えているか? 君の"誠意"に応えると言ったことを。名うての仕事人である彼のタダ働き……その大盤振る舞いで、今、約束を果たそう」
【神攻鬼斧】
【贈賄コンビネーション】×【|肢解《シカイ》ノ|極《キワミ》】
自らへの攻撃、その予兆とともに魄が跳躍し、『鬼斧』による先制攻撃を叩き込む。吊り提げた『袖香炉』が煙霧を吐き、その姿を闇に眩ませて――同時に飛び込んだ伽羅が、マガツヘビの腕を切り裂いた。
「――そういえば、賄賂を渡したつもりはないけれど」
「? 君が駆けつけてくれたこと自体が、相応の"贈賄"だろう?」
「……フフ、それでいいのかい? そうだね……仕事終わりに、お酒と合う御摘みをご馳走しよう。来るだろう」
到来する【マガツカイナ】の直撃を|躱《かわ》し、その腕にサーベルを突き立てながら、伽羅は即答した。
「行かぬ道理がない」
爆ぜる妖力と、汚染地帯の出現。魄の所有する付喪神『青い鳥』の【|Blessing《祝福》】が、その浄化を開始する。
【|妖眼《アヤメ》】でマガツヘビの隙を暴き――それを的確に突く伽羅に感心しながら――魄は、血を流し、身を引きずりながら現れた天狐を見やった。
「どうも、組長さん。お噂は兼ねがね。もう少し休んでいても良いんじゃないかい?」
「……有難いが、最後を譲るわけにはいかなくてな。それに、助力を乞うた俺たちが、義を立てる側でもある」
「……そうかい、律儀だね。ならば共に歩もうか。其方は、其方で好きに動けばいい。策があるのだろう」
「あまり上等なものではないが」
「任せるよ」
伽羅の鳴らす呼子を聞くや、魄は煙を残し、マガツヘビの後頭へと回り込む。
「――手の鳴る方へ」
振るわれる『鬼斧』は、吸い込まれるように左目を奪い。
「うん、よく来てくれた」
氷風を背に受けた伽羅が、釣り糸を手繰る勢いで自在に宙を駆け、残る片目を破壊する。
「詰めと行こうか?」「お安い御用さ」
美麗なまでの、息を吐かせぬ連携によって、暴蛇の全身が切り刻まれてゆく。
〇
「……ああ、畜生。また、眠らなきゃいけねえのか?」
両目、両腕、多脚、腹部、背、全身の外皮。
山と|聳《そび》える巨体のすべてを創傷に包まれて、ようやく。
マガツヘビの妖力が、底を突いた。
高層ビルの倒壊じみた震動を巻き起こしながら、巨妖が岩室に倒れ伏す。
もはや、その全身はまるで動くことはなく……愚鈍なる|王権執行者《レガリアグレイ度》は、濁る瞳を虚ろに開いて、歯列の隙間から声を紡いでいた。
「へっ……テメエら餓鬼共が何度俺を倒そうが……王劍が無けりゃ、完全に俺が死ぬことはねえんだよ。
俺は、テメエらの住処を奪い、命を奪い、心の底までを恐怖させてやった。なのにお前らは、俺から何も奪えやしねえ。|愚《GU》、|愚破《GUHA》、|愚破破破《GUHAHAHA》ッ!!」
弱者を蔑む、邪悪なる|哄笑《こうしょう》。
だが天狐は、|憐《あわれ》みすら浮かべた顔で、マガツヘビにゆっくりと歩み寄った。
「少し前まで、俺もそう思っていたよ。だが、実情はやや違うらしい」
「……あ?」
「お前が強大な√能力者といえど……短期間に幾度もの死を迎えれば、いずれ蘇生は止むとのことだ。どういう経緯でそれが発覚したのか、俺は知るべくもないが。
別の世界で……お前はもう、何度も倒されているんだろう? 今度はどうだろうな」
その言葉に、マガツヘビは|狼狽《ろうばい》――いや、恐怖したような声を上げる。
「な、馬鹿が……そんな訳はねえ! 王劍以外に、この俺を消し去る方法なんざ存在するハズはねえだろうが!!」
「本当にそう言えるか? 消滅したことも、原理を理解してもいないお前に? ともかく……今はもう一度、眠ってもらおうか」
天狐は、懐からペンダントを取り出して、戦場に残った者たちに告げた。
「脱出を開始してくれ。この岩室はマガツヘビ封印に際し、やがて閉ざされる。
……俺の早まった作戦で、お前たちの世界を危険に晒すところだった。もはや詫びようもない愚策だったが……すまなかったな。共に来てくれたことに、妖怪を代表して感謝する」
伽羅は、乱れた制帽を正して応じた。
「……俺の帰る場所は√EDENにある。あの場所を危ぶむ行いを、気にするな、とは言えまいが。君は君の裁量でよくやったのだろう。誠意は受け取った」
魄もまた、手袋を引き戻しながら頷いた。
「ああ。また困り事があれば、いつか店に来ると良い。君が人々の敵にならない限りはね」
「フッ。考えておこう……難しいかもしれないが」
天狐は、もはや光を映さぬマガツヘビの瞳にペンダントを突きつけ、そして自らも、岩室の深部へと飛んだ。
「また会おう」
そう言葉を残して。
√能力者たちと、連れられた一匹の洗い熊は、この一件が自らの手を離れた事を確かめる。
そして大鳥居を目指し、静かに歩き去っていった。
〇エピローグ
岩室の最奥。断ち切られた金の縛鎖が散らばる広間にて。
マガツヘビにトドメを刺した天狐は、その間際に行われた会話に思いを馳せた。
――死に体のマガツヘビは唸った。
「何故だ? 前もそうだった……この場所に俺を封じる代わりに、連れて来たヤツも絶対に抜け出すことはできねえ。その役目をわざわざ、|頭領《テメエ》が負う必要はねえハズだ……」
もはやマガツヘビには見えていなかったが。天狐の足元には、朽ちた妖の骸があった。天狐は、その暗い|眼窩《がんか》と目を合わせながら応じる。
「前のヤツのことは知らん。遥か昔の話だからな。
俺の場合、理由は二つだ。
まず、妖力を高めるためにお前の肉片を喰ったこと……手痛い失敗だ。俺とお前の妖力は馴染まず、別個の力として同居している。これがいつ暴走するか分からん。|兄貴《アイツ》がいなけりゃ、今頃は……」
「ケッ! 雑魚め、ビビりやがったな。そのまま呑まれりゃ、ここで無駄死にする事はなかっただろうよ」
「その通りだよ、蛇野郎。お前の力は一片だけでも驚嘆に値した。
そこで俺は考えた。信じられないほどの時間を掛ければ、お前の妖力を完全に調伏し、俺の本懐を果たせるんじゃないかとな。
無駄死に? まっぴらごめんだ。古妖どもはいずれ俺のエサとして喰らい尽くす。俺は名実ともに妖怪大将としてあの世界に君臨する。
その為に、ここでお前を殺し……気の遠くなる時を経てでも、必ず帰還してやる。例えこのミイラのように忘れ去られたとして……テメエの骨でも持って帰りゃ、英雄として迎えられるだろうよ」
その言葉を聞いたマガツヘビは、残る力で許される限りに口角を上げ、全力で嘲笑した。
「……ハッ!? ハハハッ!! テメエ、気は確かか?! 見えてるんだろ? あの鳥居の列が!! ハハハハハッ! こりゃ傑作だ!! 次の目覚めに、野垂れ死んだテメエの死体を踏みつけてやるのが、今から楽しみでしょうがねえ!!!」
「フッ……やってみろよ」
――
絶命したマガツヘビは、ほんの僅かずつその肉体を再生させていく。
その復活がいつになるのか、誰にも知ることはできない。
岩室を構築するインビジブルが、マガツヘビの肉体に吸収されていき、周囲の空間に亀裂が生じた。
「さて……ここから先はどうなるか分からんが。生きて帰らなければ果たせない約束もしたからな」
天狐の肉体の内で、マガツヘビの妖力が鼓動している。奇しくも――大敵のその力は、傷ついた身体に、無限に近しいほどの活力を供給した。
そして、天狐はゆっくりと。見えぬほど連なる大鳥居の一つへと、最初の歩を進めたのだった。
『暴蛇天衝』 完