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ハードラック・オブ・デザイア

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●|不幸《ふく》の|禍味《かみ》
 人の幸福とは何か? それは満たされることだ。願いが叶う、と言い換えても良い。
 欲したものを手に入れる。愛しい者と結ばれる。他にも有り余る富、麗しい容姿、抜きんでた才覚、健康な心身、誰にも負けぬ強さ、安らぎの衣食住に、自分以外の誰かの幸せ……場合によっては、断罪さえ。
 人によって満たされる条件は違えども、満たせば幸福である点は同じ。

 だから満たしましょう。溢れる程の幸運で、その身に余る強運を。努力せずして棚から牡丹餅、頑張る時間なんて無駄なのです。浮いた時間で|幸福《しあわせ》に浸りましょう。
 何も心配することはありません。今のあなたは運勢は、人生で最高潮なのだから。
 願いが思い当たらない? ならば決断の迷いも、浪費した金銭も、過ぎ去った若さも、思い出せない過去も、喪った愛も、全てをその身に還しましょう。
 対価など頂きません。私は『縁起物』、福の神ですので元よりそういう|性質《たち》なのです。けれども|欲を掻く《・・・・》のであれば、私もあなたが満たされた瞬間に立ち会って、至福の味を舐めて飲み込みたい。丸呑みではお腹がはちきれるほどを期待します。

 幸福の絶頂で生を終え、あの世で”満たされた人生だった”と自慢して下さい。
 私はほんの少し、その手助けをするだけです――。

●反転縁起にご用心
 随分と年季の入った手鏡を弄びつつ、星詠みの少女は話を切り出した。
「福の神、と聞くと七福神とかいますよね」
 手入れが行き届いているのか、背面に入ったヒビは美しい螺鈿模様で補修されている。美術品というには使い古された、けれど骨董品で眠らせておくのは勿体ない、そんな代物。饗庭・ベアトリーチェ・紫苑(|或いは仮に天國也《パラレル・パライソ》・h05190)は鏡を見ながら話を続ける。
「√妖怪百鬼夜行で、福の神が現れます。蛙、縁起物だそうで。それだけなら良いのですが、この神様がとても厄介で……過剰に幸福を与えて、満たされた瞬間を狙い襲ってくるんです。人は幸せだと油断しますしね」
 ちらと鏡から視線があがり、目配せられたあなた達はこの古妖退治に己が適任だと理解した。√能力者は決して埋まらぬ欠落を持つ者、故に『絶対に満たされることはない』。つまり相手からすると、この上なくやりづらい相手ということ。
「退治に行かれるのでしたら、まずは古妖から注がれる|幸運《・・》から身を護るお守りや、武器を探してきてください。丁度よく蚤の市が開催されますから、そこで売られている品なんていいですね」
 蚤の市で売られる品々は、経緯はどうあれ全て持ち主が手放す気でいるもの。

 管理しきれない本の山。引出物で貰い仕舞ったままのお皿。もう誰も着なくなった着物。遺品整理に出された人形。古い雑誌の付録。特定の色だけ減った絵具箱。銘が潰された小刀。雅な柄の懐中時計。油に育てられた大きな鉄鍋。大量に待針のある裁縫道具。ひとつだけ宝石の欠けた簪……数え出したらキリがない。

 愛され惜しまれ手放されていくものも、曰くつきで早く引き取り手を探しているものも、ここには愛憎が詰まっている。付喪神でなくとも、物が受けた感情は消えたりしない。
「ここで売られる品々は、誰かに使われて終えることを望んでいます。もしかするとあなたを守って壊れてしまうかもしれません。……でも、それで買い取った品が”幸せに満ちる”なら、古妖の目論見は大きく狂うはずです」
 勿論お買い物だけでも楽しめると思います、と付け加え、少女はまた手鏡に視線を落とした。鏡が見てきた歴史は長くとも、映すのは今この時のみ。
「欲しいものを探すでも、ピンときたものを買うのも、どちらも縁ですから。縁起が良すぎる話には、こちらも縁で対抗しましょう」
 それではいってらっしゃいと、星詠みに代わって鏡が煌めいた。

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第1章 日常 『蚤の市をブラブラと』


リリンドラ・ガルガレルドヴァリス


 ざわざわ、がやがやと賑わう蚤の市。掘り出し物を探しに来た古美術商から、趣味に合う物品を手に取って吟味する趣味人、値段交渉に粘りをみせる者……人それぞれ、わざわざ蚤の市に冷やかしに来る人は少ない。
 売り手と物品ともに様々な情念が渦巻くこの場を、唯の古道具市とは評したくなかった。リリンドラ・ガルガレルドヴァリス(ドラゴンプロトコルの屠竜戦乙女《ドラゴンヴァルキリー》・h03436)が例えるなら『時をくぐり抜けた逸品たちの休息所』といったところ。見処は飽きる程あって、ジャンルを絞らず一日で回りきるのは難しい。
 となればまず一歩引き全体を見て雰囲気を掴む。それから何が人気でどんな商品が多いか確認。人の流れに沿って小物をじっくりと観察していく。普段は衝動買いばかりで宵越しの金など持たない身、好き放題購入しているが今回はあくまでも戦いに赴く為の武具探し。適当に買って使えない、で困るのは自分なのだから見極め必須だ。
 喫茶店を改装した画廊で磨いた芸術眼|(仮)《自称》を活かし、”心が動いたかどうか”で物を選ぼうとぶらぶら……第六感を信じつつ、気の向くまま惹かれるまま、足が向かう方向へ従う。

 選ぶなら少し欠けているような品、過去が染み込んだ手応えがあるものがいい。欠けていても惹かれるもの、完全ではないドラゴンプロトコルの自分と同じ。
 同じものが相乗効果でより強くなるか、相反してそれぞれの力を発揮するのかは分からない。現在の姿形がどうあれ、完全でなくとも良いものは良いと永い歴史が物語っている。かの|腕《かいな》なき|彫像《ヴィーナス》だって、欠けていてもあれだけの魅力があるのだから。

 歩きながら、ああでもないこうでもないって悩むのもまた一つの戦い。魅力的な品々が『私を連れて行って!』と叫んでいるように感じる。寄ってらっしゃい見てらっしゃいと声をかける店主に逸話を聞いても響かなければ遠慮して、多くの人が素通りする店にも立ち寄ってみたり。露店をきょろきょろと見渡し……その中でひとつ、特にリリンドラの目を惹いたのは|紅玉《ルビー》を擁したペンダントトップ。チェーンは無く、丸く浮き上がった半円の紅玉には大きくヒビが入り、台座の額は恐らく炎を表す別の石が嵌っていたのだろうが、装飾から全て抜け落ち火の粉が散ったよう。
「いいじゃない、こういうのを求めてたの」
 選ぶことは、責任を持つということだと覚悟を決め購入。ああ、お財布にも響くお値段。己が髪と同じ色をした|縁《ゆかり》をポケットに仕舞う。今回の戦いに勝ったかどうかはこれから分かること。正義は我が手に、幸運より身を護って砕けても。
「もう誰の元にも行かせない。あなたはわたしの持ち物として終えるのよ」
 勝気な笑みを満足気な笑みに変え、リリンドラは再び|逸品《・・》たちを眺め歩き出す――。

野分・風音


 |愛犬《イナサ》とのお散歩も楽しいけれど、万が一不運に見舞われたら大変。いつも一緒の一人と一匹も、今日は|野分《のわき》・|風音《ふうな》(暴風少女ストームガール・h00543)一人でお買い物にやってきた。
「ここが蚤の市かぁ。要するにフリーマーケットみたいなのだよね?」
 右を見れば色鮮やかなトンボ玉のアクセサリー、左を見れば古びているものの美しい細工の小箪笥。色んなものがあって、見てるだけでも楽しい。衝立のないウィンドウショッピングはいつでも手に取って具合を確かめられる。
 素敵なもの、綺麗なもの、丁寧に使われたのだと分かるもの……そして勿論、ただのガラクタ寸前まで使われたものも。いいなと思う物は多々あれど、ピンと来るものにはまだ出会えない。うろうろ、悩みながら歩く。

 ――お守りになるものなら、適当に選んで買うのもなんか違うよなぁ。
 ――ピンとくる、ってどんな感じなのかな? 懐に仕舞っておきたい、一緒に連れ歩きたいって思うもの?
 ――でも壊れちゃう可能性もあるんだよね……。あんまり愛着が沸くとそれはそれで困りそう。

 そんな事を考えながら、カニの様に露店並びを横歩きしていれば。ふと目に入った犬張子。きゅるんとまんまるな目をして、紅白で目出度い服に着飾られている。
「ふふ、可愛いね」
 撫でてみれば服の下に擦れたような傷と煤けた痕があった。この傷が原因なのか、それとも他の事情で奉納のタイミングを逃したのかは分からない。ただ、この蚤の市に並んでいるという事はそれなりに事情があったのだろう。けれど今はその擦り傷すらごわついた毛並みに感じて、余計に犬っぽいなと風音はより気に入った。
 そういえば犬張子は厄除けの縁起物でもあるんだっけ、と思い出し、ナデナデしながらこの子にしようと決定! これが『ピンと来る』ということ。要は好みにあうかどうかが9割を占めている。
「すいませーん、この犬張子ください!」
「あいよ。購入どうもね。こいつぁね、赤んぼを守って傷ついた勇敢な犬なんだ。お前さんのことも守ってくれるといいんだが」
「そうなんですか? ならどうして神社にお返ししないでこんなところに?」
 店主はくつくつ笑って、この犬張子が売りに出される経緯を風音に話す。七五三で奉納される日、神社が火事になった。消火活動で奉納どころではなくなり、まず奉納先も無くなったもんだから、赤んぼが老いて死ぬまでずーっと傍にいることになったのだと。犬張子で遊んでいた子供は身に覚えのない傷と焦げ目がついていることに気付いて、親は出火を知ったとか。
「これがうちの爺さんの話。嘘か誠か、もう分からんけどな」
「はわ……厄除けの力には期待できそうです! ありがとうございました!」
 逸話を聞き、こんなに可愛い姿でも実力は折り紙つきだと風音は犬張子を抱きしめた。折角新しい|飼い主《持ち主》の元へ来たのだから、名前をつけてあげよう。さわやかにそよぐ5月の薫風から取って、『薫』あたりぴったりでは?
「よろしくね、薫!」
 わん! と返事はなくとも、今日を一緒に過ごす仲間はどこか誇らしげな表情に見えた――。

春待月・望


 ずらり並んだ露店でひしめく大通り。ぶらぶら眺めて歩くだけでも見慣れた街並みが違う景色に見える。誘えば同居人達も一緒に行くと言いそうな気がしたが、|春待月《はるまちづき》・|望《ぼう》(春待猫・h02801)は今回あえて一人で訪れた。
 理由は色々……あれやこれやと煌びやかなものに飛びつかれるのも、お財布事情を心配されるのも面倒だったからかもしれないし、単純に『武器』を探すという行為を見られたくなかったからかもしれない。自己の存在があやふやな今、下手に主人格のイメージを損なうのも憚られる。
 星詠みの話を聞いて望が欲したのは裁ち鋏。余計なもの・煩わしいものを切り捨てるもの。因果を断ち、悪い流れも一度リセットできるだろうと考えて。

 ――折角買うなら鋭利な鋏が良い。いつまでも目覚めない|主人格《君》が抱え込んでいるらしい何か……事故の絶望か、それ以前の話か。君を悩ませるもの全てをバッサリを切れる程の切れ味を。
 ――「| 《君》」が目覚める代わりに僕が消えても、今を生きる役目を果たせていればそれでいい。

「……しかし見つからんもんだな」
 此処は多くは中古が出回る蚤の市、何があるか事前に予想など出来やしない。百貨店のように欲しいものが必ず置いてあるわけでなく、あくまでも巡り合わせの部分が大きい。探せども望みに反し一向に鋏が見つかる様子はない。”望”だなんて皮肉な名前だと、思わず自嘲を含んだ溜息が出た。
 無いものはないと諦めるのも大事で、代わりになりそうなものを探す。鋏であれば物理的に武器として古妖と戦えるかとも考えたが、やれ説明を思い出す限り縁起には縁で対抗だと。ともすれば何も鋭利である必要でなくて、むしろ良縁を思い描くなら……。
「……ふぅん?」
 じぃと目についたクレパスを見つめる望に、出品者の妖怪は「|欠けています《・・・・・・》けど、どうぞ手に取ってみて下さいな」と差し出した。カバーを開けると白と水色が無く、他の色もやや減っている。少し埃っぽくて、使い古されてそれきりだったのだなと手にしたまま目を細めてきちんとカバーを元に戻した。張られた値札票代わりの付箋を見ればとてもお手頃価格、あとで二色足しても十分安い。
「猫が喜びそうか」
「おや、猫を飼っているんですか? でしたらもっと色数が減るかもしれませんね」
「……気を付ける」
 ともすればもう一人の同居人も巻き込まれて遊ぶことになりそうだと想像を巡らせ、あまりに容易に想像できてしまう事に現実味が増す。柔らかく細められた視線は満更でもないな? と妖怪は予想し、その通り望は購入を決めたらサクっと支払いを済ませた。

 元持ち主はクレパスで何を描いていたのか。水色と白なら空か、海か、川か……妖怪のものならば|霊魂《青い炎》もありえる。
 これから望が描く未来は、僕のものか、「| 《君》」のものか、同居人のものか。どちらにしても。
「お前も色の欠落者というわけだ」
 つい|素の自分《・・・・》が出てしまうくらい機嫌良く、いい買い物をした――。

アリス・グラブズ


「おっまもり♪おっまもり♪あっるかな~っ!」
 ホップステップ。ジャンプはせずとも心は跳ねる。何でもありそうで何にもピンと来ない! 簪、小刀、本……うーん、どれも気分じゃないかなっ! |アリス・グラブズ《繧ウ繝溘Η繝九こ繝シ繧キ繝ァ繝ウ繝?ヰ繧、繧ケ $B%"%j%9(B》(平凡な自称妖怪(自己改変中)・h03259)は外来種、どこにも属さないヒミツ多めの妖怪! な~んて、今は日本にいるから固有種かも! 蚤の市だって初めて! ……ここの蚤の市は初めてなので嘘ではない、嘘では。
 見るもの全部目新しく、されど売り物全部中古品。あるけどない、新鮮と古いが混ざったフシギ多めの市場をずるずる這って、心当たりのないお目当てを探して回る。あれもこれも食べられない、美味しそうに見えない。ずりずり、ぐるぐる。巡り廻って、市の隅っこでぴたんこ停止! 「わぁっ! ”これ”だ~!」とアリスが手に取ったのは√妖怪百鬼夜行の一角の地図。但し、記されているのは飲食店ばかりで駐在所ひとつ書かれていない。代わりに〇で囲まれた部分や一言感想の書込みもされている。
「このグルメマップ、ぜーんぶ“美味しいとこ”だっ!」
 喜びにスカートからはみ出たアリスの|人外めいた部分《触腕》が蠢き、一瞬ぎょっとした売り手の妖怪もウキウキと全身で嬉しさを表現されれば嫌な気はせず。
「お嬢さん、これを手に取るとはお目が高い! 少々古い地図ですがね、載ってんのはどれも名店さ」
「やっぱりそうなのね! これだけは“ぐううっ”と感じたの! 色とか線とか……“むかしの誰か”が見たモノにそっくりっ!」
「おっとぉ、残留思念が残ってたかい?」
「わかんない♪ ……前の持ち主、どんなヒトだったのかなっ? 恋人? 親子? ……群れとはぐれたのかな? ……あなたも|一緒《群れ》にくる? ごはんの旅、きっと楽しいよっ!」
 地図は何も答えないが、不意に吹き抜けた風が地図をひらひら棚引かせ返事をしているように見えた。お金と地図を交換し、触腕でぎゅるんと巻き大事に抱える。きっと前の持ち主も、このグルメマップを手に該当区画を歩き回ったのだろう。昔の足跡に新しくアリスの一言も足しても楽しそう。
「お仕事が終わったら、ワタシも行きたいなっ♪」
 レトロに見えて意外と近代的なこの|世界《√》、便利事前に調べることもできるけど、やっぱりお店でしっかり見て吸って味わいたい。
 それにそれに……調べたらそのことで頭がいっぱいになりそうだものっ! ああ大変、急がないとお腹もすいてきちゃうっ! まずは福の神をなんとかして、運動後の栄養補給をしないとねっ!
 ぐぅ~と|腹の虫が鳴る《擬態が解ける》前に、酸いも甘いも食べ尽くそう――!

東風・飛梅


 梅の季節は花が過ぎ、これから実が膨らんでくる季節。ここ√妖怪百鬼夜行は和の色が濃く、今は夏に向け新芽と若葉がすくすく成長する盛り。子供たちも端午の節句を過ぎれば徐々に新年度にも慣れてくる。
 学び舎を駆け回る学友や、敬愛するあるじ様と過ごす時間は楽しくはあるけれど、なのに完全に幸福ではないのだ。衣食住があり、憎しみを知らぬ|東風《こち》・|飛梅《とびうめ》(あるじを想う霊木・h00141)は客観的にも主観的にも不幸ではないはずで、今を悔いてはいなのに√能力者とは例外なく欠落者。幸福を感じていてもどこか欠けている。何故欠けているのかも分からぬまま、それが悪いとも言い切れない歯がゆさを抱えながら生きる者たち。
 ならば『幸せに満たされる』とはどんな場合なのか? 軽く握った拳を口元に持っていき、飛梅は蚤の市の歩きながら考えた。自分よりも大切な人が幸福になること? 欲しいものが手に入ること? 失った記憶を取り戻すこと? 否、それら全て皆がみな当てはまるものでない。誰もが幸せに満ちる方法など思い浮かばないが……もし真にそんなものがあるなら、飛梅は自分よりも|他者《誰か》に使ってあげたいと想う。

 で。疑問と思いやりを半々に混ぜつつうろつく飛梅の目を射止めたのは、可愛らしい花をつけた梅の枝を模した簪。それはあくまでも作り物であり、まして簪の模様に目などないのだが、やはり梅の木の人妖としては意識せずともそれを捉えられたようだ。なんだかほっとけなくて店主に一度声を掛け、手に取ってみる。
 梅の枝は硬い。材質的に本体部分は本物だとすぐわかった。花部分はちりめん細工で作られ、布の部分を触ってみるとふっくらした中に型崩れ防止の固い芯がある。想像以上にしっかりした作りだと内心高評価を与えていれば、本人が思う以上に真剣な眼差しをしていたのだろう。店主に「買うかい?」と問われる。お下がりの簪にしては高値の部類だけれど、飛梅の中ではもう頷く以外の選択肢はなかった。
 飛梅自身は梅花のリボンを着けているし、|あるじ様《Anker》も教鞭を取る学び舎の梅並木に倣ってか梅の髪飾りを着けている。どれも梅に|縁《ゆかり》のある者。この|簪《子》はどんな人につけられていたのか。そして此処にいる以上、どういった事情で手放されることになったのか。
「いつか教えてくれる?」
 簪を空に翳すように眺め回し、辿った運命に想いを馳せる。ふわっと梅の香りに椿油の薫りが混じり漂ったような気がした。普通に考えれば通行人のものだろう。でも飛梅には、この簪が纏めた髪の残り香なのだと語られぬ年季を指先から感じとった。物言わぬ簪との答え合わせは、今はまだ――。

日野・煌星


 活気に満ちた場所にわくわくと足取り軽く、「いらっしゃい見て行って!」や「もうちょっとまけてよ」など様々な人の声で賑わい溢れていた。売りたい側は特にそれぞれ事情があるから、より多くの人に手に取ってもらえるようにアピールも欠かさない。購入側もより安く一般流通に乗らないモノを求め、双方熱意の籠った場である。
 友達と言ったフリマと同じようで、けれどもここは√妖怪百鬼夜行。普通のものだけが売られているとは限らない。こと縁の深いものを見つけて来いと言う星詠みから話を聞いて|日野《ひの》・|煌星《こうせい》(Tic tac・h05012)が真っ先に思ったのは「すげーヤなカエルだな」という至極真っ当な感想だった。
 過ぎた幸福とは何なのか。真の意味で満たされることのない√能力者は想像するしかできないが、満たされた瞬間とはどんな気分なんだろう。気が緩んだ瞬間を狙ってくる古妖なら、少なくとも呆けるくらいには驚きか感動で動けなくなるのか? 仮に欠落が埋まれば煌星の”大切”も戻って――それ以上は首を振って意識して考えを止めた。無意味な幻想だ。

 モノを長く使うことはいい事だと思う。物持ちがいい、それ即ち丁寧に使っているということの証明。使えば減ってゆく消耗品は別として、経年劣化を修繕しながら使うのも趣きがあって良いしこれからもよろしくねと言外の意思表示。それに、煌星自身もあまり自分の物を増やしたくなかった。縁あって彼の手元にきたものを大事にしたいと心から思う。

 流し見しながらすいすい歩き、ふと足を止めた。その店は皮やコットンなどで作られたカラフルな紐がずらりと並べらていて、どれもこれも|手作り《ハンドメイド》らしく全く同一のものは一つもない。古い糸で作っていると店主から説明を受けたそれらは、既に生産が終了し二度と蘇る予定もないが捨てるよりは使い切ってしまおうという魂胆からきている。その為長さも不揃いで、逆にそれが√妖怪百鬼夜行的に言えば|お洒落《ハイカラ》だった。
「もう見ない色が多いと思ったら……あ、この色いいな」
 手にしたのは白とサックスブルーで編まれた平紐。適度な伸縮性と頑丈さ。これは靴紐にぴったりだとすぐに財布を出す。丁度靴紐が欲しかったのだ。配色が同じでも色の配分から作られる模様は左右でバラバラで、そんなものを二つもだなんてと店主は喜びちょっぴりまけてくれた。量産された靴紐よりずっと安い値段に煌星の方こそ吃驚した。
 紐の長さは辛うじてほぼ同じ。どちらを利き足側に使おうか、その時が楽しみになってはやく走りたくなった。既製品には安全性が担保されているけど、唯一品のような特別感はない。切れて惜しいとも考えたことはなかったが、こういうのも縁だと思えばいつかは切れる|靴紐なんか《・・・・・》にがっかりする日がくるかもしれない。
 行き先を失い、仲間ももういない平紐となった糸は、これから新たに縁を結ぶ手助けに――。

華応・彩果


 幸運を与えるという古妖の話を聞き、|華応《かおう》・|彩果《さいか》(ほんのちょっぴり(当社比で)不運な運び屋・h06390)はすぐさま運び屋稼業に休日を捻じ込み、蚤の市へ向かった。この場に臨んだのには理由がある。
 彩果はあまり運が良くなかった。決して無能ではないどころか、要領はいい方だし優秀でもある。面倒見もよく、彼女と関わった多くは彩果を善性の人間と評するだろう。けれども善行を重ねたからといって運勢や星の巡りは関係ないようで、何かと貧乏くじばかり引いていた。明確に誰かが悪いならまだ納得できるのに、ただ運が悪いとしか言えない事態に見舞われるとどうにも八つ当たりする気も起きない。
 不運は連鎖し、何かに”憑かれる”わ、やれお届け先のお宅で修羅場が発生して巻き込まれただとか、老朽化した水道管が破裂し彩果を直撃してひとり水浸しになったり、散歩していただけなのに高校球児渾身の暴投にぶち当たったり。とにかく語りつくせぬ不運を背負ってきた。何かしら、今回の古妖に関わればそれを克服できるかなぁと思い至り、売られているものをしっかり細見。
 何時もなら製造側として華応堂として色々出品する側になるところを、今は|色々あって《・・・・・》用意がない。アテもなくぶらり、露店を見て回ることにした。歩行者天国ゆえ、|相棒《バイク》はきちんと駐車場に止めてある。見て歩以上、歩みはいつも以上にゆっくりと。

 目についた露店を回ってはお守りになりそうなものを探す。何でもいいならこの前壊れたオーブントースターでも探そうかと考え、いやこれから戦いに挑むのであれば|相棒《バイク》の後部座席に縛り付けられている状態で……? 光景を想像するとシュールなのでやめておいた。ついでに壊しそうだし。
 ふと視界の端にちらと入ったのは、煌びやかでも目立つでもない飾り紐。他が光って見えたから、逆に場から浮いて見えたのか。シックな色をした飾り紐は懐中時計を繋ぎ止め、同時に引き立て役に徹している。

 なんだか既視感、とずれ落ちんとしているジャケットから形見の懐中時計を取り出し、貰った時に想いを馳せた。確かに両親はこの懐中時計を『御守』と言っていたのだ。けれど思い出されるのは今まで起きた|色々《不運》の数々。もしこれで本当に御守なのだとしたら、これがなかったらとうの昔に死んでいたのかもと苦笑する。そんなことはないと言い切れないのもまた恐ろしく、古ぼけて数々の困難を共にした品でありながら、故障もせず針は正確に時を刻み続けるだけの胆力があることは間違いない。
 折角の縁だと、彼女は店主と値段交渉。時計本体は文字通りの桁違いの値段だった為、目に入った飾り紐だけを購入する。ちくたく、チクタク、懐中時計の秒針の音がいつもよりハッキリ耳に届く。|形見《親目線》もまた|未亡人《中古品》が彩果に相応しいか見定めているのかもしれない――。

ハスミン・スウェルティ


 福の神。幸福を齎す神様的な存在はよく聞く話。どの国にもある神話や民間伝承にも、運命に干渉してくるものがある。ケセランパセランにココペリの人形、或る意味では蟲毒だってそう。どうして福の神が|こんな《真逆の》ことをする様になったのか想像もできないが……もしかすると神様であっても、運に左右されたり影響を受けるのかも。
 考えても答えが出るのは今じゃない。何はともあれお守りを求め、ハスミン・スウェルティ(黄昏刑務所・h00354)は掘り出し物を探しに蚤の市を練り歩く。人間災厄――人類社会を崩壊せしめる可能性を秘めた、怪異に傾く存在であっても守ってくれるものだといいけれど……私の方が危ない認定されないようにしないと、と気が向いたら注意しとこうくらいの加減でぼんやりぽやぽや。どうせ戦いになれば担当は|私《・》じゃないし……。

 服も陶器も美術品も綺麗だとは思えど、置いておく|自宅《ばしょ》が無い。壊れずに持ち帰ることになったら貸し倉庫で一生お蔵入りするかまた売りに出すかしないと勿体ない。商品たちもそれは本意ではないだろう。
 戦う時に邪魔にならない物となると……小さな装飾品あたりが定番か。身体につけるものでも、服を飾るものでも、持ち物に添えるものでも、普段と変わらず戦えるように。髪飾りなどは|人格《・・》によって嫌がりそうだし、服も一応専用防具。下手に弄って余計に解放されては一大事。あれこれ考え、ストラップあたりが良いかもしれないと着眼点を絞り再び探し出す。

 けれども実際に|気になった《ピンときた》ものは小道具のような何か。平たい棒状で少し厚みがある。笏にしては文字が書かれてるでもなし。
「……何だろう、この棒……」
 ぼや~っと棒を見つめるハスミンに、店主は別の棒を手に取り「こうやって開くんだよ」と実演してみせた。その通り捩じって開くと半円に少し足りないくらいの大きさに広がる。彼女の色で例えるなら3色分くらいの角度。”扇子”というそれは店主を真似て仰いでみれば風が届いて涼しい気分。棒の中に折り畳まれていた部分もようよう細かい柄が入り、気軽に持ち歩ける大きさが気に入った。普段は|真の姿《扇型》を隠しているという点もちょっと面白い。持ち帰ることになってもこの先迎える夏に向けて普段使いも出来る。
 流石に武器にはならなそうだが、ひとつ買うことに決めた。閉じたり開いたり、手慰みに遊びながらまだもう少し市場を彷徨う。果たして本当に武器にならないのだろうか? ハスミンは多少常識に欠けているので知らないが……普通の扇子はこんなに固く、重くないのだ。風量は|透けない《・・・・》分、一般的なものより強いに決まってる――。

千桜・コノハ
浄見・創夜命


 記:5月 ■■日
 伴:同業者
 
 ――蚤の市にて、不思議な出会い。偶然か奇縁か。真昼の夜と、常春の宵。陽に浮き上がり舞う因果の噺をひとつ。

 星詠みの話を聞いて向かうは√妖怪百鬼夜行。此処は何時でも野暮ったく、それでいて現代的な技術も入り交じる混沌とした世界。他√とも交わり、文明開化が進んでも変わらぬ|懐かしさ《ノスタルジア》に満ちている。過行く時に取り残されているのでなく、敢えて留まる者達にとって過ごしやすい場所。大正時代を過ごした者も、生まれた時代が違う者も、ここは全てを等しく受け入れる。人も妖も、善も悪も、愛憎も信念も……心を持つ者よ、|皆《みな》おいでと時代の風が手招くように吹き抜けた。
 して、この場で邂逅した人妖と災厄。ふと互いに目があって、瞬時に相手が|√能力者《お仲間》だと理解する。理由は外見でも気配でもない。人種の坩堝たるここでその程度は些事に過ぎず、理屈的には二人とも目をつけているものが一般客とは違っていたから。
「おや、君も能力者?」
「ン、失礼。もしやと思ったが、其の口ぶり。『も』とは君もか」
 桜差す黒の少年、|千桜《ちざくら》・コノハ(|宵桜《よざくら》・h00358)は夜を背負う宵色の女に声をかけ、肯定の頷きを返す|浄見《きよみ》・|創夜命《つくよみ》(せかいのはんぶん・h01637)。同じ店でかち合った二人は見ている品こそ違えど、出店者と並べられた品々からなにか惹かれるものを感じ取っていた。多くの人はその|圧《オーラ》に負けて素通りしていく中、能力者であれば光るものを見つけるのはこういう少し変わった店の方が良いと踏んで。黒を纏う二人が立ち並ぶと華奢なコノハは創夜命の妹にも見える。……勿論、見えるだけで二人の共通点など能力者全体で見れば山ほどいるのだろうが。|見た目を裏切るギャップを持つ《しっかり男だし、自称がやけに可愛かったりする》点も含めると似た者同士であるとも言える。実際に目をつけた店も同じで、趣味も似ているか。
「此度の天啓は福を齎す神を討てと。罰当たり極まる字面だな」
「まぁね。随分|いい性格《・・・・》してる神様がいたものだよ。幸福に満たされた瞬間を狙うとは、油断も隙もありゃしない」
「|夜《よ》もそれには同意しよう、少年。神屠る獲物は縁に|由《よる》と聞いたが、|夜《よ》は獲物とは別に供をな、探していたのだ。君、名は。|夜《よ》は創夜命、夜の国を治める主である。気軽にヨミヨミちゃんと呼んでくれ」
「僕はコノハ、|見ての通り《・・・・・》の迦楼羅だよ。ヨミヨミちゃん……本気?」
「|夜《よ》は無意味な冗句は好まないが? 相伴にあずかるには力不足ならば無理にとは言わぬよ」
「え、あ、そっち? ふーん……いいよ、付き合ってあげる。君なら足手纏いにならなそうだし。なんてね、今のはつまらない冗句だよ」
 くすりと人懐こい声で創夜命を揶揄うコノハに、にんまり夜空の三日月のように笑んで再び商品に視線を落とす。二人のやり取りに店主は黙したまま、聞いているのか寝てるのか石の如く不動であった。
 一瞥、からの凝視。コノハの背では鳥瞰には誇張がすぎるか、全体を見渡してふと気になり手にしたのは春宵色に桜が舞う被衣。身を護るにも目眩ましにもなりそうで、戦場で舞うには丁度いい。広げて柄を確認するコノハの心は決まったようで、その様子を隣で見下ろす創夜命は口元を緩めた。ひらりはらりと、優雅なものだと。
「似合いだな。これほどともなると神は弁慶を演らねばなるまい」
「欺くとしたら篠笛でも吹こうか。横笛の心得ならあるからね……僕はこれをいただくよ」
「これはまたぴったりの選抜か。|夜《よ》も|好《よ》きモノがあればいいのだが、はて月の無い|夜《よる》は危うき世界――これがいいか」
 そう褒め称して、対する創夜命は一瞥しただけで故も聞かずに包丁を手に取る。
「店主、これを」
 札を二枚渡して交換。コノハも一緒に購入し、こちらは札3枚と端数を少し。包丁は剥き出しのまま持ち歩くのも自他ともに危険な為、簡単な布に包んで渡された。
「へぇ、君は包丁か。わかりやすくていいんじゃない?」
「ヒトガタで人に非ずが、包丁なのに包丁を果たせずを迎える。良き巡り合いと思わぬか」
「幸福に満たす手口を福の神は持っているとして……君のそれに貫かれたら幸福の底に穴が空くか。技が通じずに斃れる瞬間の顔が見れたら……ふふ、それは面白そうだな」
「|甕《かめ》に注がれるのが幸福でも不運でも同じこと。|宵《よい》ぞ。この道行き……縄の裏が、より昏くなりそうだ」
「旅は道連れって言うしね。愉しみだな、ヨミヨミちゃんの夜と僕の宵の混じり……|風雅《フーガ》よりも|突牙型《トッカータ》が似合うかな」
 高談闊歩に冗談を織り交ぜ、静かに賑やかな二人が奏でるとすれば……眠りを誘う小夜曲だけはないだろう――。

ヨシマサ・リヴィングストン


 飄々とした態度とは裏腹に、責任感ゆえの|重労働《ハードワーク》を無意識に行いがちな青年が一人。今日も蚤の市に仕事道具を求めやってきた。こんな日くらい仕事のことは忘れても良いのに、ヨシマサ・リヴィングストン(朝焼けと珈琲と、修理工・h01057)と工兵は切っても切れない関係性。「職想う、故に我あり」とは誰が言ったか。
 工具をメインに取り扱う列を重点的に見て行くと、慣れ親しんだスパナやドライバーセット、数世代前の半田鏝ややたらに分厚いキーボード、色褪せたフロッピーディスクまである。サイズ的からして容量はKB単位……科学技術の発展した√ウォーゾーン出身者からすると「極限まで減らした情報に使うくらいだなぁ」と独り言を洩らしてしまいそうになる。危ない、これを売りに出しているなら、まだ使えるもの……ジャンク品ではないはずだ。
 溶接に使う|保護面《フェイスシールド》や手甲を取り扱う店の前で足を止め、目をやったのは作業用のグローブ。縫製もしっかりしているし、触った感じ素材も悪くない。
「いい感じっすね。ちょっと試着してみていいですか?」
「おう、職人愛用だったモンだ。きっと気に入るぜ」
 快諾に遠慮なくグローブに手を入れる。流石√妖怪百鬼夜行の品、少し緩いかと思いきやヨシマサが指先まで嵌めるとシュっとサイズを使用者に合わせ、ぴったりのフィット感に変形する。ぐいぐいと動かしても問題なく動いて、布地に覆われた指先の感覚まで分かるような着け心地。

 なんだか急に懐かしい気持ちが蘇る。工場で働き始めた頃、父が自分へ最初に買ってくれたものが作業用グローブだったこと。たった1年でダメにしてしまったこと。「仕事道具は命くらい大切なものだから、ちゃんとしたものを買え」と父がよく言っていたこと。自分の身も、仲間の命も預かる仕事人は細部まで気を抜いてはいけないのだと。
 ……その|作業用グローブ《はじめてのプレゼント》が本来5年は持つものだと知ったのは後のこと。あの頃は父に追いつきたくて、寝食を忘れて機械弄りに没頭していた。5年分を1年で消耗してしまうくらい、ひたすら励んだ。不思議と、グローブの生地が薄まり油と煤に汚れていくたびに自信がついていったのを覚えている。努力と研鑽の証に寿命を縮めたあのグローブが、今の自分と少し重なった。

 手袋を嵌めたままぼんやりと手元を眺めるヨシマサに、「兄ちゃん、どしたい固まっちまって」と店主から声がかかり意識が現在に戻ってきた。
「あ、すみません。思い出に浸ってました~。お会計お願いします」
「あいよっ毎度あり。なんだったかな、息子がよく言う……そう。”ここで装備していくかい?”」
「ふふ、”買った武具は装備しないと意味がないぞ”って続くやつですね。外す理由もありませんし、そうさせて下さい」
 店主は笑ってタグを切り、ヨシマサは質感に満足してグローブを身に着けたまま店を後にする。
 このグローブが守り手になるとして、それはヨシマサだけの話とは限らない――。

姜・雪麗


 嘗め回すように、|睨《ね》め付けるように。真贋と値踏みを織り交ぜ、白妙の妖は儚げな|出立《いでた》ちに見合わぬ堂々とした風格で蚤の市を練り歩いていた。いやぁ、好きなんだよねぇ蚤の市と声には出さぬが気分は上がる。職業柄か、|姜《きょう》・|雪麗《しゅえりー》(絢淡花・h01491)は無意識に『酒』に関するものを特に手にとっては吟味した。何処ぞの蔵に眠っていた掘り出し物の陶器やら、使い古された味のある徳利やら猪口やらの酒器も良い。店で使うにも遜色ない美しさを保っているものもある。
 見てよし触れてよし、備えた噺を聞いてもよし。三方揃って兎に角良しと来たもんで、となれば|四《死》を飛ばし、行き先は五穀豊穣の大黒天像が振りかぶった槌の先に幸ありと、縁結びと縁をこじつけ気紛れに進む。あれば儲けもの、なければ次への期待が膨らむ損をしない選び方。

 ――しかし、これだけのモノが揃ってると見て回るだけでも福が貯まっちまいそうだね。
 ――おんなじくらい怨恨もありそうだってのに、客の浮かれ気分に気圧されてるのかとんとそんな気配はない。
 ――ま、売り物の顔は猫被りで所有者が移れば本性を現すってのもようある噺か。

 あれやこれやと目移りを繰り返し、雪麗が特に念入りに振れるはひとつの茶碗。ふと目に留まったそれは|縁《ふち》に多少の欠けがあれども、まだまだ現役と訴える風貌をしている。泊まったのではない、惹かれ射止められたのだ。
 描かれている瓢箪柄をひのふのみと数え、全部で6つ。末広がりの瓢箪が六つ揃って無|瓢《・》息災ってところかねぇ。実に縁起がいい、洒落た絵付けにまさしく一目惚れだ。遍歴なんかも聞けば愛着が湧くかねぇ。
「店主よ、こいつを貰おう。いくらだい」
「|三十文《750円》さ」
「もう一声いかないかねぇ。ほうら、柄を見てみなよ」
 ひぃふぅみぃと先程と同じく、今度は瓢箪の数を声に出して数える。店主は「こりゃ一本取られたな」と嫌気もなくまけてくれた。
「|二十六文《650円》でどうだい。これ以上は商売あがったりだ」
「言ってみるもんだねぇ、そら。なんぞこいつにゃ逸話のひとつも無いのかい?」
「おうおう、聞いて行くかいお嬢ちゃん。その茶碗に盛った汁は食っても飲んでも減り目が見えない、底なし沼だか打ち出の小槌だか、湧いて出てんじゃねぇかってよ。実際は嫁さんが旦那が飯食ってる間にわんこそばしてたんだが、そんな生活続けてりゃどうなったと思う?」
「謎かけかい? んー、つまらんネタじゃあ塩分取りすぎ高血圧ってかい? 無病息災とは縁遠いか」
「なぁに! 英気に満ちた旦那は丸々太って、立派な相撲取りになったってオチさ! 銭も儲かって縁起のいい経歴持ちだろ?」
「そりゃあいいねぇ。落語の入りに使えそうな噺だ。客人に使う時がありゃ紹介してやるか。どうもな、店主」
 日焼けした新聞紙に包まれた茶碗を手にすると、雪麗は急に喉が渇いてきたような気がした。
 噫、酒が飲みたい。たんと酒を煽った翌日の蜆汁の適任を見つけた――。

品問・吟


 屋台から風に乗って漂ってくる食欲をそそるご飯の香りに後ろ髪を引かれつつ、渋々……非常に名残惜しいが、今回の目的はそちらではない。仕方ないと諦めて、二度三度と振り向いてやっと蚤の市の売通りに視線を定めた。今は市場で幸運過多に対する準備を優先しなければ。きゅうっと胃袋が動く感覚に、|品問《しなと》・|吟《ぎん》(|見習い尼僧兵《期待のルーキー》・h06868)は「うう、腹の虫おさまれ~」と腹部をさする。それが逆に刺激になってしまったのか、盛大にぐううううと腹が鳴った。通りすがりの人から一瞬視線を感じたのは気のせいではない。
 結局我慢できずに買った団子串と饅頭をぺろりと平らげ、甘いものの中和にと肉串を食べ歩きながら市場を回る。寺住まいの吟ではあるが、|先生《Anker》は彼女に御仏の教えを説きはしても強制はしてこない。精進料理に縛られない吟は自由な|人妖《尼僧》だった。髪だって自由に伸ばし、√EDENの日常に溶け込む私服を着てもいい。こんな日常に不満はないのに、しかし満たされてはいないのだと。仮にこの世の美味を食らいつくしてしまったら、その後の楽しみがなくなりそうだしなぁ……と二つ目の口も唇についた油分を舌で舐めとった。

 |串《クシ》からの縁か、吟が見つけた”武器”もまた|櫛《クシ》だった。美しく艶めく黒い櫛。懐かしい、昔先生に買い与えられた櫛に少し似ている。人妖であろうとも年頃の娘、先生は「化粧や髪の手入れに興味を持ってもいいのですよ」と遠慮しなくていいとよく気遣った。結局吟は修行や武術ばかりで、あんまり使わなかったのだが、あの櫛は今どこに仕舞っていたか。壊した覚えはないし、大方箪笥の肥やしになっているのだろう。
「……先生にはちょっと悪いことしちゃったかな」
 後悔か申し訳なさか。先生に言えば「気に病まずとも良いのですよ」と返してくれそうで、意図せず好意を無下にしてしまったのではと不安になる。売りに出されたこの櫛には、一体どんな曰くがあるんだろうかと気になった。自分の様に使われぬまま|再利用《リサイクル》として次の持ち主を求めているのか、それとも女の命とも言われる髪に纏わる因縁でもあるのか。
「すみません、この櫛はどうしてここに?」
「うん? ああ……こいつぁ……」
 口籠る店主の様子に、いい方面ではないだろうなと察して「是非教えて下さい。どんな情でも籠っている程いいですよ」と続きを促す。後頭部をぼりぼりと掻いて、店主は話し出す。

 櫛の持ち主は誰もが羨む美しい黒髪を誇る別嬪であった。それを妬んだ女から呪詛を受け、長く病に臥すことになる。日に日に細くなる身体、艶やかな黒髪は次第に潤いを失い、白いものが混じりだした。毎日使っていた櫛の通りも悪くなり、世話人はつい「|櫛《苦死》なんて縁起でもない。手放しては如何ですか」と進言する。女は激怒し、櫛を取り上げられないよう懐に大事に仕舞って過ごした。
 病状は進行し、遂に命が尽きた日。彼女の胸元に挟まっていたのは愛用の櫛だった。模様も形も同じだけれど、漆塗りの|朱《あか》は女の黒髪が乗り移ったかのように黒く染まっていたという。

「女の恨みか未練が残ってんじゃないかって、ずっと仕舞われてたモンなんだ。あんたはどう思う? それでも買うかい」
「……その女性は、苦しみの果てに召されたんですか?」
「いや。最期の数日は毒気が抜けたように穏やかだったそうだぜ。櫛に命を移してたんじゃねぇかって噂まで立ったくらいだ」
「ふむ……いいですね、気に入りました。きっと役立つでしょう」
「今時ブラシもあるってのに物好きだねぇ」
「これから赴く戦いには、そのくらい想いがあったほうがいいんです。では」
 金を渡し、手にした櫛は吟のものとなり存分に眺める。久々に浴びた太陽光に喜んでいるのか、黒に沈んだ模様がきらきらと反射して美しく煌めく――。

聖夜・前々夜
彩音・タクト


 波風のない日常。突っ込んでくるトラックから子供を守ることも、空から隕石が降ってきて学校と職場を破壊することもない。それを平穏といえばそうだし、無機的と捉える者もいる。特別なにか起こらなければ幸運でも不運でもない……と言っていられる内は『幸福』だと、|彩音《あやね》・タクト(指揮折々・h00435)は識っていた。彼自身は今、とても凪いでいる。
「僕はそうそう|刺激的《・・・》なことに当たりませんし、所謂『幸福』そのものなんでしょうけれど……当たり前の日々って、連続するとその尊さを忘れちゃうんですよね。わざわざ”幸福だ~!”なんて感じませんからね」
 自分は幸福だ、なんて思える幸せとはどんなものなのでしょうね? と実に真剣な問いかけをしたつもりだが、返ってきたのは途轍もなく浮かれた声。アクティブ・ポジティブ・アトラクティブを体現したような笑みと共に、|聖夜《せいや》・|前々夜《いぶいぶ》(クリスマスの魔女・h01244)はウインクひとつ。
「あら~、哲学なこと言うのね、タクトちゃん! さすが研究者ってところかしら? ふふふ♡」
「哲学……そうですね、幸福論は多くの哲学者の話題になりました」
「んもう! そんな難しいことを考えなくても、幸福は今、あなたの目の前にいるわ」
 はて、と視線がかち合えば、前々夜は胸を張り両手を合わせて誇らしげに満面の笑みを浮かべる。こういう時、大体突拍子もないことを言い出すのが彼女の|当たり前《常々》だが、つい「今回は何を言い出すのか」と毎回耳を傾けてしまう。知識欲が良い方に傾くかはまた別の話にはなるが……何事も見る・聞く・試したくなるのが研究者の|性質《さが》というもの。
「そう! ズバリ、私のことよ! 幸福の象徴の1つとして、辞書に私の名が刻まれる日も近いわね」
「ふふ、伝説の魔女とご一緒できるくらいの幸福? それは確かに名誉なことでしょうとも。って、いぶたんさん、誰かしら|一緒にい《見張って》ないとまた迷子になるでしょう」
 何も誇らしくない。普通に迷子の前々夜は長いこと店を空けっぱなし。ネギを買いに出かけたが最後、あっちこっちと世界を渡り歩き、笑顔を振りまいている。店は弟子が何とかするだろうと楽観的に、迷子を楽しめるあたり魔法に加え迷子の才能もあるといっても良い。
「あら~? ならタクトちゃん、エスコートはお任せするわ。紳士にね♡」
「……ああ、もう結構です。それ以上は喋らないで下さい。ここで幸せがカンストしたら古妖の罠に嵌まれません」
 魔女の言うことを咀嚼するのにやや時間がかかった。辞書に載るとしたら”転じて別の意味”のような注釈がはいるのでは? やら、脳内で『幸せとは何か』を思い出し……冷静に彼女の前に手を差し出す。まだ古妖を相手にしていないのに既に疲れてきた。悪いとは言わない、言わないが何とも言えぬ感情が湧く。照れか、呆れか、一周まわって面白くなったのか。明後日の方角に向かい出す前に裾を掴んだ。
「いぶたんさん……蚤の市はあちらです。逸・れ・な・い・で・く・だ・さ・い・ね」
「もっと紳士的に♡」
「案内しますからお手をどうぞ」
「はぁ~い」
 蚤の市に入る前から謎の疲労感を感じるタクトはまだ知らない。これがほんの序の口であることを。

 何があるか分からないのが蚤の市の魅力。一応区画分けがされているが、|一緒くたに《ノンジャンルで》販売する露店も少なくない。謎の石造と一緒にネオン眩しいレトロな看板が置かれていたりするわけで……選択肢が多すぎて選ぶのも一苦労。
 巡り廻ってようやくタクトが手にしたのは読めない魔導書。言語は問題なく読める。きちんと表紙に『精霊魔術応用学・実践術』と書いてるから魔導書だと分かった。この本が読めない理由は単純に”開かない”のだ。表紙から全頁が糊付けされたかのように固い。
「タクトちゃんのそれは……魔導書? ドキドキが詰まってる予感♡ いいわね~何が封印されてるのかしら!」
「良くない力で封印されてます? すごく固い……ハリボテではないと思います。確実に何か詰まってますよ」
「開封できたら見させてちょうだい、ワクワクを共有したいの!」
 ねぇ良いでしょ? と興味津々の前々夜に、タクトも購入を決める。
「そうですね、いぶたんさんなら魔術関連を共有しても大丈夫でしょう。いつか自分で封印を解いてやりますので待っててください」
「ええ、待ってるわ! 時間はたーっぷりあるんだから」
「そういういぶたんさんはどうなんですか? |めぼしい《ピンときた》物はありましたか」
「私? 私は、そうね~~この鉄鍋にしようかしら」
 でかい鍋を差し、タクトが何か言う前に爆速で購入した前々夜。いい買い物ねとほくほくしている。
「え、あの、鍋……!?」
「ほら~イメージしてみて! 魔女に鍋は鉄板、でしょう?」
「いえ、文句はないですが……イメージとも相違ないです、けど……持って歩くのですよね……鉄鍋を」
 ずっしり重い鍋。こちらは魔導書のように謎の力で固いのでなく、製品の成分的に物理的に重い上に嵩張る。それを前々夜のような細腕の女が持って歩く姿まで延長線的にイメージすると、中々シュールな図だ。普通そういうのは工房に備え付けているものじゃあないのかとはもうツッコミが追い付かないのでやめておく。
「大丈夫、魔法で運べば良いんだから♡ 杖より重たいものは持ちませ~ん!」
「……その杖、実は1|t《㌧》あったりします?」
「だめよ~タクトちゃん♡ 乙女に重さの話題は禁物!!」
 杖は体重に含めるのか。タクトは素朴で当たり前の疑問をそっと胸の裡に仕舞った。なんだか疲労がすごい。対して前々夜はこの鍋で何を煮詰めようか想像で胸がいっぱいだった。
 彼女が家に辿り着くまで鍋は無事なのか!? それは誰にも分からない――。

門音・寿々子


 温故知新、不易流行なんて言葉があるように。新しい物だけでは世界は回らない。古い物があってこそ比較ができ、歴史が繰り返されるなら|懐古《レトロ》もまた人々に愛される流行の最先端となる。
 古きを再び呼び起こす市場に立ち寄った|門音《かどね》・|寿々子《すずこ》(シニゾコナイ・h02587)が見た限り、この雰囲気は”フリーマーケット”でなく”蚤の市”という言葉がピッタリだと感じた。まだ付喪神未満でも、売られているのは年月を重ねたことがわかる品々ばかり。
 これといって購入するものを決めてきたわけではないが、考えてみれば欲しいと思ったものが必ず出品されているとは限らないのが面白いところ。逆に偶然にも同じものを求め、互いに値段を吊り上げあったりする人と妖怪の姿も見える。あれはきっと狐狸の方が勝つんだろうなとぷらぷら。眺めているだけでも楽しい蚤の市。
 戦時中の新聞を敷物にして上に並べられたものを手に取ってみる。古い書物は寿々子には難しく、読めずに諦め隣の刀を鞘から抜いてギラリと光る迫力に驚いてみたり。呉服屋の延長か、衣紋掛けに飾られた花柄と蝶の模様が美しい着物にうっとりしたり、鎧兜の甲冑に残った傷痕に感じるところあり……。
「ねぇキミ、これなんてどう?」
「ひぇっ! あ、えと……」
「自由に見てってね~! ここは大体どこも早い者勝ちだよ!」
「……、……」
 店員に声を掛けられると人見知りが発動し、うまく言葉が出ない。しどろもどろになる寿々子にも笑顔で対応するところを見ると、こういう反応をする客も少なくないようだ。あしらい方と客引き方が慣れている。恥ずかしさにいたたまれなくなり、寿々子はサっと別の店に移動した。

 ――ああもう、これじゃあ私変な子だよ……。
 ――私、浮いてないかな……心配になってきた……。

 自己肯定感の低さ故に、寿々子は自分が知らない間にここで粗相をしてないか心配になってきた。楽しいけれど、妙な緊張がある世界。すれ違う人も、売る人も、みんながすごくイキイキして見える。逆に堂々としていればいいと思っても、それが出来れば世の中苦労しない。
 先程より少し足早に、店員に声をかけられる前に逃げるように去るを繰り返す。そんな中、対の小さな招き猫が目に入った。赤い猫と、白い猫。挙げてる手も左右対称で、寿々子の記憶によればどっちの手を挙げてるかで招いているものが違うとかで……それ以上深くは分からなかった。13歳の少女の記憶の片隅にある知識はどこかで聞きかじったことくらい。なのに急にそれを思い出したのは……きっと二匹からの「連れてって」が聞こえたから。
「あの、すみません。この招き猫さん下さい」
「は~い。どっちの色?」
「両方で……」
「まぁ、気前がいい! お前たち、大事にされておいで」
 勇気を振り絞って手に入れた招き猫達。紙の手提げ袋に入れられて、新たな|持ち主《主人》と新たな旅へ。お金も人も強欲に招いてやろうと、寿々子の見えないところで猫たちは笑みを浮かべた――。

望月・翼


 物珍しさに足運びはつい軽く、回りきるには早足に。なんて作戦を立てていたのは最初だけ。横目に入った気になる品に引き返すこと数回。丁寧に見て行くくらいで丁度いいかと、今度は普段よりもゆっくりと歩く。店主に声を掛けられれば話を聞いて、その度に色々欲しくなるのをグっと堪える。お財布の中身は有限なのだ。
 いつ聞いたか、|√妖怪百鬼夜行《この世界》ではこういった催しは結構開催されているという話を思い出し、|望月《もちづき》・|翼《たすく》(希望の翼・h03077)は本日蚤の市にやってきた。√EDENのフリーマーケットや、|主人格《あちら》の生きる世界の祭典とも異なる雰囲気。蚤の市の由来やフリマとの違いを事前に調べたりしてみたが、実際に来てみると言葉で言い表すのが難しい空気感だった。捨てるよりはマシだから売るといった利益や損得勘定以上に、人情味のある世界。古き時代を愛し続ける人々の気持ちが少し分かる。

 ――蜻蛉玉はスイちゃんが好きそう。何色が好きかな? 瞳の青もいいし、屋号に因んで桜色もいい。
 ――このマグカップは望くんぽい。口が広いのも使いやすそうで……って。

 ふと我に返る。今回はお土産を探しに来たのではない、あくまでも自分用を買いに来たのだ。放っておけない同居人たちつい意識が向いてしまうが、割り切って今度こそピンとくる物を探して別の店へ。何店か回ってみて、銀食器を扱う店へ。カトラリーはどれもしっかりした作りで、一見して普通に使えそうなものばかり。よく見れば擦れた傷や微妙に曲がっているあたり、新古品とも違う。店主に話を聞けば先日旅館業を畳んだばかりで、これらはその際に従業員に配った余りなのだと。
 客商売で使われていたものなら武器にもなるかと考えていれば……別の品が目に入った。「あ」と声が出て、店主は翼の視線の先の写真立てを取り手渡す。
「綺麗でしょう? 部屋に飾っていたんです」
「……うん、とても」
 片手でジャケットの上から内ポケットに手を触れる。無理に持ってきた内ポケットの中身は、お守りのように持ち歩つ写真。だいぶ痛んだ家族写真は翼のものではない。壊れないよう補強はしてあるが、最低限にとどめてあるせいでいつ破れるとも分からない。いつか何かに入れておきたいと思っていた矢先、丁度いい出会いだ。
 そっとポケットから写真を引き抜いて、枠のサイズと合致するか確かめる。大きすぎず、小さすぎず。定型の写真は特に問題なく収まり、そのまま購入し代金を支払う。壊さないようにと震える翼の手を見遣り、店主は商品を少し退かし「外れないようにしっかり入れていって下さい」と、旅館業の頃のサービス精神が抜けきらない対応をしてくれた。
 無事写真立てに収まった家族写真。表には驚きと喜びに溢れた一家の思い出を巡る航路のワンショット。固定用ボードの下に隠された写真裏には丁寧に記された日付と『新たに宿る幸せを抱きしめて』の文字。その|月日《思い出》を全て護ろうと、翼はぎゅっと胸元に抱きしめた――。

クーベルメ・レーヴェ


 選び放題見放題、買っても買わなくても楽しい蚤の市。早い者勝ちとは言うけれど、残り物には福がある。というわけで、|クーベルメ《Kuhblume》・|レーヴェ《Loewe》(余燼の魔女・h05998)はのんびりゆっくり見て回ることにした。沢山買ってもいいけれど、それよりもひとつひとつを大事にしたい。大量生産の既製品でなく、思い出の詰まった品なら尚更に。
 それらは元を辿れば既製品だったのかもしれない。けれど、それが年月を積み重ねて思い出が詰まっていけば、自分にとって世界にひとつだけの品になる。これはとても人間らしい考え方だと、クーベルメは考える。己は量産型の|少女人形《レプリノイド》、記憶を共有し代替の利くモノ。自分が消えたあと、全く同じ素体で全く同じ記憶を引き継いだ”新品”を造り出せる。テセウスの船ではないけれど、どこまでいっても|少女人形《レプリノイド》は大本のデータがある限り個はない。単一に見える今のクーベルメさえ、完成した以上バックアップはある。通常、それは便利な事であるはずなのに、どこか無機質であたたかみを感じないのだ。

 ――なんて、私が壊れたら次に作られるのはもう少しポテンシャル発揮の|効率がいい《条件が緩い》子じゃないかしら。
 ――甘いお菓子、ゲームする余暇、充分な休息。何より|友好関係《仲間たち》は”今の私”に必要なもの! 次の子には渡せないわ。

 |感傷的《センチメンタル》な気分になったかと思えば、やっぱりそこはクーベルメ。自信家は反省しても後悔なんかしてられない。積み重ねた思い出が戦闘記録だろうと世間話だろうと、得たのは彼女自身なのだから。
 先の戦、マガツヘビ退治の際に√妖怪百鬼夜行に来た事があった。あの時触れ合った狸……名を隠神刑部といったか。目つきは悪いが気のいい狸爺、それが深く印象に残っている。それ以来、狸が気になるようになった。いや、役牌千点安手の流局は雀士として本当に最低最悪だし自分が親だったらブチギレてもいい重罪なのだが逆にそれで深く印象に残ったのかもしれない。お茶目で可愛くて、憎めない狸。
 今回もつい狸っぽいものを探してぶらり。信楽焼の狸は何個か見かけたが、でかい。司令部の入り口に置くなら良いが、持ち歩くには流石に邪魔だ。
 持ち主が直接売っている店の他、亡くなった親族の代わりに出店していたり、訳あって外に出られない誰かの代理人だったり……クーベルメは多くの出品者と話した。どうせ受け取るなら、品物と共に思い出ごと連れ帰れたら素敵だからと、手にしたのは狸の尻尾柄のキーホルダー的な何か。実物大よりも大きめ?
「これ、死んだひい爺ちゃんが最初に討ち取った化け狸の魚拓代わりなんだ。いい毛並みでしょ! もう使わないから売り中!」
「……どう使うのかしら?」
「どうって……ベルトに引っかけて、尻尾風にするんだ。妖怪退治に効果抜群だよ! この大きさの化狸を!? って大抵の妖怪は恐れ慄くね」
「面白い使い方ね。でも気に入ったし、いただくわ」
 衣服に付けるであろう留め具を荷物に装備させると、|妖力《出力》があがったような気が――。

東雲・夜一
ステラ・ラパン
渡瀬・香月
九段坂・いずも


 年齢性別、種族も仕事も違う4人。こんな真昼間から揃って遊びに出掛けるのは初めてだった。彼らの共通点と言えば|紫銀の看板が目印の店《小ぢんまりとした酒場》に出入りする仲といった程度。互いのことは深く知らない、興味がある顔見知り。機会がなければ作れば良いと、|渡瀬《わたせ》・|香月《かづき》(ギメル・h01183)の誘いに乗り、普段は夜しか会わない面子で昼日中の買い物と相成った。集う場所が同じということは趣味嗜好も似通うもの。眠りについた物たちを再び呼び覚ます蚤の市は、夜更かし達の目を開かせるに丁度いい。
 流れが停滞しない程度の足取りで、ゆっくりまったり。他の客だって店の前で立ち止まったり、買い漁った荷物に圧し潰されそうになりながら歩いていた。自由で混沌とした、けれど何故か暖かい気持ちになる通りをぶらり。
 市場に足を踏み入れた時から視線をあちこち彷徨わせ、東雲・夜一(残り香・h05719)は染みついた隈の目元を忙しなく働かせる。どれもこれも魅力的、稀に理解に苦しむ物がありつつも、そういった類の物こそ此処でしか出会えないなら誰かの縁になるに違いない。
「本当に色んなもんがあるよな。どれにするか迷うっつーか」
「選択肢が多すぎると逆に決めかねるのが人の常です。特にこのような――|玉《ぎょく》も石も一堂に会するとなれば、選ぶのも一苦労ですね。わたくしも久々に来ましたから審美眼を叩き起こしませんと」
 先の幸運を|覗き見《予言》することも出来るのに、あえて好みを優先するなんて浪漫がある。太陽の似合わない夜一に、同じく夜を思わせる|九段坂《くだんざか》・いずも(洒々落々・h04626)は冗談交じりに笑った。大人同士、酒の入っていない席で交わす会話はそれだけで新鮮に感じる。まだ酒精には浸れぬステラ・ラパン(星の兎・h03246)とて過ごす刻を楽しむ気持ちは同じく、ふんわり兎の長耳を揺らし店先の商品が抱える|思い《経歴》に想いを馳せながら会話に加わった。
「ふふ、かわいい子達が沢山だ。気になる子全員に|話《経歴》を|聞いて《読み取って》たら、あっという間に日が暮れてしまうな」
「いつも夜にしか会わないし、お天道様の下で皆の顔見たのって初めて? すごい新鮮。みんな夜の民って感じだけど」
「おや、『|一番星《僕の店》』は昼でも歓迎だよ?」
 入り組んだ路地を七回曲がれば辿り着く、ステラの店。店に集まる人もモノもは昼夜問わず駆け込まれることもある。カウンターで送り出すモノ達に心の中で「いってらっしゃい」なんて告げる日々、道具は使われてこそ。その果てに壊れるなら、忘れ去られて人知れず朽ちるよりずっといい。
「骨董屋さんに並んでいるものとは随分と|方向性《ジャンル》が違いそうですね。目利きは誰が一番優れているんでしょう?」
「目利きかー。俺は”これは絶対値打ちがある!”って言える自信はないけど、”これアイツに似合いそう”ってつい選んじゃうことならある。みんなはそういうこと無い?」
「香月は人付き合いがうまいな……オレは|煙草《こいつ》一筋、他は必要に応じて。活動時間も夜ばかりだしな」
 肉体があった頃からか、それとも死を経験してからか。夜一は『名は体を表す』の通り夜一番。日が落ちてからがしっくりくる。路地裏五丁目、五番街。五目並べの五階建て。五のつく日は|妙《たえ》の絶えない不思議な店は、ステラの店とはまた違った品が集まる。世界が寝静まる夜こそ冴えて作業も捗る。
「夜一は夜が好きかい? 僕も夜の空気、好きだよ。星の瞬く静謐な時間は贅沢品だとも」
「お、分かってるなぁステラ。夜を楽しむ才能ある」
「夜更かしは美容の大敵ですけれど、ステラさんにその心配はありませんね」
「付喪神でも年齢適応されるんだもんな……人の形をとれるようになってから、とか? いつかステラとも酒飲みたいわ」
「そうなんだよ。まだ飲めないが興味はあるんだ、好みを聞かせてよ。いずもはお酒、好き? 初めての酒におすすめの一杯を知ってるかい?」
 兎杖は12歳ということになっている。付喪神である以上、通常なら最低でも1世紀を過ごしたはずだが……人間歴12年? とりあえず世界の規則には則っているが、基準は曖昧だった。のらりくらり、100年と比べたらあと数年くらいは|気長《・・》に待てる。その間に情報収集できると思えば、いざ飲む時の楽しみも増すだろう。ステラの疑問に答えるいずもの口元が弧を描き、真昼の三日月を湛えた。
「そうですねえ、味は色々ありますが。強さも種類も千差万別、結局誰かと飲むのが1番美味しい、でしょうか。噫でも、いきなり泡盛やらテキーラショットなんてのは勧めませんよ」
「それはオレも参考にするか。なんつーか、酒の席ばっかだと逆に酒を持ってねぇ方が新鮮だな?」
「ウフフ。どうされますか? 実はわたくし、日頃より酔っておりましてと言い出したら」
「ハハ、冗談。酔ってソレなら素面も気になるだろ」
「……香月。酒というのはそんなに変わるものなのかい」
 煽るでも貶すでもなく、軽口を叩き合う二人が纏う雰囲気は独特だった。大人の中でも一際、人外同士であることも含めて気安いのか。昼から酒を浴びる祭りもあるが、今回は団体行動。当たり前だが素面。面白おかしく話す夜の化身のような大人を見て、ステラはこの中では唯一の人間である香月に疑問をぶつけてみた。悪酔い、泣き上戸といった言葉もあるけれど、香月を含めこの三人が我を忘れているところなど想像もできなくて。
「俺から言えるのは個人差が大きい、だな。弱いだけで美味しく飲める人も、体質的に気持ち悪くなる人もいるから無理するものでもないと言うか。大人でもノンアルの人は結構いる」
「なるほど。ならあの二人は|雰囲気に酔ってるの《浮かれてるだけ》かな? だったら僕も一緒だよ。皆の話を聞けるのは嬉しい」
「うまい事言うなぁ。俺も一緒、誘って良かった」
 独り言で「アレいいね」や「気になる」というのは簡単で、しかし受け身な者ばかりでは話はお流れというのもよくある話。香月はその点行動力があったし、声をかけたのも共に過ごしたいと思える面子。どうせなら送り合おう、というアイデアも一人では成り立たない。
「ひとに何か選ぶとなると緊張しますね。利便性で選ぶか、美しさで選ぶか」
「自分の好きなものをプレゼンする機会でもあるけど、やっぱり相手の喜ぶところが見たいな」
「だな。あれも欲しいこれも欲しい、これは使い勝手良さそうでこっちは似合うってなっちまって悩みどころだ。ステラは目移りとかする方?」
「ふふ、勿論するさ。今だって――おや」
 機嫌の良く揺れては跳ねるステラの耳がピンと立つ。足を止めて手にしたのは宵色のロールペンケース。紫とも青とも黒ともいえぬ、短き宵を染め残したかのような色。縦幅もそこそこありポケットも多い。誰が使っても似合いそうだが、ステラが渡す相手こそ|職業《なりわい》的に一番使いこなしそうな気がして迎え入れる。
「良き縁を見つけましたか。わたくしも何か……そうですね、このスプーンにしましょうか。使わない人なんていないでしょうしね」
 四葉のクローバーがついた銀の匙を手に、いずもは相手の顔を見て微笑む。幸運の象徴同士、何かしら縁があるといい。合縁奇縁を良縁に、導くのはどちらかと想像するのもまた楽しい。
 女二人がさっさと決める横で、男の方はいい物がありすぎて決め打ちしかねていた。本当に、自由であることはなんと難しいか。女の買い物が長くて男は|飽き《ダレ》るなんて本当か疑わしくなる。
「二人とも見つけるの早いなー。ひょっとして見慣れてる?」
「オレたちも目移りしてらんないな」
 蜂の装飾が施された懐中時計を選び、香月は蓋を開け中のデザインも確認。薄いハニカム柄の|文字盤《ダイアル》はシンプルで見やすく、|時字《インデックス》も少し崩した書体が読みやすいのに洒落た印象を与えた。
 最後まで目移りを決め込んでいた夜一が漸く選んだひとつはピアス。藍色の小さな宝石が嵌っていて、普段から着用しているなら日替わりでつける事もあると考えて……考えて、一応聞く。
「香月、そのピアスって付け替える事ある?」
「日によって変えてるかな。服との相性もあるし、畏まった場なら外さないとだ」
「よし、ならこれだ」
 全員が買い揃えたところで広場に向かう。ベンチや木陰では蚤の市で購入したものを整理する者や、屋台の食べ物をもりもり食べる者がちらほら。並木の影、日差しから一度避難して夜一から香月へ先程選んだピアスを贈る。皆にも見えるよう、直接手渡し。
「香月、どうだ? お眼鏡にかないそうか」
「ありがと。うわ、めっちゃいい。夜一は物を選ぶセンスいいよな。今着けようかな」
「気に入ったなら良かった。ああいや、今つけてるそれ失くすかもしれないし別の機会にでもな」
「貰ったら贈るの順番でいくなら次は俺の番か。女王蜂は華やかないずもにピッタリだと思う」
 人からの印象が形になって届く贈り合い。選ぶのも選んでもらうのも楽しく、己の印象を知れるし、自分が思う相手への印象も伝えられる。何があるか分からない蚤の市なら、予想をつけるのだって難しくて楽しみは倍増だ。
 布の包みをめくり、夜一に倣っていずもへと皆に見えるよう渡す。中身を見ていずもは目を輝かせた。
「これは……自分では選ばない模様です。わたくしの方こそ華やかさに見劣りしないように引き締めないといけませんね。ウフフ、とっても嬉しいです。ありがとう、渡瀬さん」
 では次はわたくしから、といずもは細長い紙袋からスプーンを取り出しステラへ。木の葉の間から漏れる光が四つ葉にきらきらと反射し、自ら光り輝いているよう。
「へへ、有難う。選んでもらえるのは嬉しいね。いずもの選んでくれた子、とびきりかわいいよ」
「兎と四つ葉、どちらも運気上昇に挙げられます。ようくお似合いだと思いませんか?」
「|狂人の宴《マッドパーティ》の予定は今のところないから独り占めだ。紅茶と珈琲、どっちが好きかこの子に聞いてみるよ」
 一巡し最後はステラから夜一へ。くるくると巻かれたペンケースを渡し、「開けてみて」と促し紐を解けば巻物のように広がる宵の波。両端を持ってしっかり魅入る。
「お。良いな、ありがとうステラ。色が特に気に入った」
「こうやって交わし合う子達も時間もあたたかだ。良縁に感謝だね」
 こんなに満たされた空気であっても、まだ足りない。まだ満たされない。『幸福』の答えには届かない。幸せの一端は、運気の器を満たすほんの一滴。幸福とは一体何なのだろう。蚤の市で所有者が変わった品々は、彼らの幸運に何の作用を齎すのか皆目見当もつかない。
「過剰な幸福ってなんだろうな。オレなんか死んでるし、仮に今更生き返えらされてもな」
 煙草の箱を取り出し、夜一はちょいちょいと指で弄んだ。ヤニ命でも禁煙場所では吸わない。「命はもう失ってんだ」と冗談を交え、人によって違う幸福の定義を聞いてみる。
「幸福、か。人と縁交わし紡げる『今』かな、僕は。大事に仕舞い込まれるより、こうして言葉を交わせて時に使って貰えるのがいい。飾られる為に作られたモノなら兎も角、使われる為に作られた道具としての存在意義とも言えるね」
「俺はやっぱ、自分の作った料理を食べて美味しいって言ってもらえんのが一番かな。そもそも食ってもらえるってのが信頼の証だし。生死与奪が手の内にあって、それを乗り越えての信頼だから結構すげぇかも」
「幸せだなんて、なんだか哲学的ですね。わたくしは生きているだけで十分です、ウフフ」
「いずも、欲がないね。幸せは生きてることが前提の……前提……」
 続きを言おうとしてステラは黙った。幽霊、兎杖と面子の半分は”生きている”と定義していいのか怪しい部類。察した夜一は静かに笑って話を戻す。
「森羅万象生きてるってことにしておくか。人生、苦いのは|煙草《コレ》だけで十分だ」
「夜一がカッコイイこと言った……!」
「|煙に巻いた《・・・・・》だけですよ、きっと」
 暖かな、思いやりの欠片たち。誰かを想って選んだそれは、自分で選ばなかったからこそ価値がある――。

ララ・キルシュネーテ


 蚤の市を見て回りながら、迦楼羅の雛女は『福』について考えていた。福は我が手に、けれど多くの人にとってそうとも限らないのが現実。|ララ・キルシュネーテ《꒰ঌ❀❁.。.:*:.。.咲樂.。.:*:.。桜樂.。.:*:.。.✽.。❀໒꒱》(白虹迦楼羅・h00189)の思考はぐるぐると、福の神が何たるか想像し、空想夢想の果てに無に消ゆ虚妄。
 
 ――誰もが倖を望むけれど倖も不幸も、紙一重。
 ――誰かにとっての倖は他の誰かの不幸だと、体験しなければ分からぬ程愚者でもなしに。

 物言わぬ品々が犇めいては次の持ち主を待つ蚤の市。此処はまるで時という物語が披露されている美術館のよう。尤も、本日の展示を喩えるなら『天日干し』なのだが。古びて黴っぽい人形に、ほつれたままのぬいぐるみ。錆びて鞘から抜けない小刀、時を刻むのを辞めた時計……以前の持ち主の元で、どんな風に生きてきたのか。ララはひとつひとつの品とじっと向き合う。

 ――倖せ/不幸だった? 倖せにしてあげた? 不幸を齎した?
 ――それとも、ただ見ていただけ? 何も言えない、できない事を恥じなくてもいいのよ。

 そんな風に宝物を探し、あちらこちらを物逍遥。耿と翳が渦巻く大通り、どれも魅力を感じるけれど”それだけ”では駄目。もっと深く、|心《艹》に訴えかけるような物を求め続ければ……それは急に飛び込んで来た。胸を打つ程の高揚感に思わず「あら」と零し、引き寄せられるよう手を伸ばす。
「みつけた」
 いっとうにララの目を惹く、美しくも儚さを抱く手鏡。繊細なアネモネの花が彫刻され、型だけ見ればそれで終わり。鏡面は曇りかけ、ヒビも入っているそれはララの華に響いたのか。慈しむように刻まれたアネモネは色褪せ、全盛期はさぞ持ち主を華やかに彩ったのだろう。但し、その状態の手鏡がララの気を引くとは考えにくい。
 曇った鏡面と視線を合わせる。変わらぬ笑顔がいつもより明るく見えた。ララはニッと口角をあげ、満足気に頷く。
 手鏡は所有者の身分を引き立てるのを辞めた。静かに美しく褪せた刻を重ね、自ら輝きを放つよりももっと素敵なことがあると識ったから。色鮮やかな自己主張はもう十分やったから、今度は映す相手を鮮やかに彩ろう。白虹の桜だなんて、なんとも引き立て甲斐がある! 輝く白は銀に、艶めく白は空の色、踊る毛先には春を詰め込んで。
「うん、わるくない」
 |悪運《幸運》のお守りを大事に仕舞う。
 ヒビの入った鏡が映したララの貌はどれもちがった|彩《かがやき》で、咲かせた花のうちどれを気に入ったのか……それは手にした者にしか分からない。日差しの下、陽光は夢宵に馴染んでいく――。

日宮・芥多


 ひとは己が持たぬものに焦がれる。隣の芝生は青く見え、無いもの強請りには事欠かず。全く同じものなのに、相手が食べている方が美味しそうに見えたり。いつか迎える終わりに向けて、少しでも多くの幸福を重ねたいと思うのは自然なこと。
 そんな人の儚さを妖は愛した。種族を超えて交わった世界は殺伐とした空気から長閑に、今となっては随分と賑やかになった。人に妖に混血に、サイボーグや災厄に異星人だって最新鋭の機械が流入してくる以上みな分け隔てなく受け入れる。細かいことは気にしない。気にしないからほうら、ただ歩いてるだけで声が掛かる。
「そこのお兄さん! 探しモンかい?」
「おっと見破られましたか。お土産を探していましてね、蚤の市ならではの物があればと」
「土産モンだったら屋台はナシだわな。相手の好みくらい知らねぇのか」
「それに関しては問題なく! 本を買おうと思っています。古本の区画もあるとかないとかこれから出るとか」
「本! 土産にしちゃ随分渋いな。ま、初版に絶版に発禁本あたりの掘り出しモンを探すにはうってつけか。そこの十字路曲がって左手側サ、いいもん見つけなよ」
「ありがとうございます、親切な妖怪さん」
 商品を買わずとも気前良く送り出され、|日宮《ひのみや》・|芥多《あくた》(塵芥に帰す・h00070)は言われた通り蚤の市を進む。探し物のお土産は奥さん宛て。仕事で出掛けた際は買って帰るのが芥多の習慣。その地に根付いた土産なら最高だし、そうでないなら|土産話《・・・》を添えて、愛する妻の反応を想像し楽しむ。本当は直接感想を聞ければ良いけれど、彼女はもう――。
「えーと……ううむ、これはちょっと、かなり!? 予想以上に数が多いですね!! 知ってました!」
 妻の事となると意識が向こうに飛びかける。良くない傾向だ。愛はいつだって暴走特急。けれども今から各駅停車に路線変更、この中から掘り出し物を探すとなると砂漠のダイヤよりは易いが1000ピースのミルクパズルくらいの難度はある。
 本本本、本の山! 本の海! 視界に入るだけでこれなのだから、これ等は|ほんの《・・・》一部だとすぐ分かる。パラパラと目を通しただけでは好きそうな話かどうか判別できないし、かといって店先でガッツリ熟読するのは宜しくない事だと流石の芥多も分かっている。正気はなくとも常識はある大人として、一般人に迷惑をかける心算はない。
 本棚に背表紙が綺麗に揃えて納められたシリーズもの、籠の中に立てて入れられたノンジャンルの売れ残り教本、床に平積みされた懐かしの雑誌に、個人の趣味がよく分かる画集、美しい装丁が目を惹く表紙のディスプレイ……などに混じって、何故か磔にされていたり、暴れてる本(!?)まで。本当に何でもある。気になる本は多々あれど、お土産にするなら読み応えがある方が長く楽しめるか。いやいや、目でも楽しめる絵本だって捨てがたい。

 ――どれも面白い本なのでしょうが、何を買うか悩ましいですね。
 ――ひとつに絞る必要はありませんが……どの本も誰かが求めているのなら独占するのも申し訳ない……あ、でも転売目的ならシメてもいいですね。

 迷路染みた本棚の合間を縫い、店先に並ぶ本の表紙とタイトルから中身を想像しては通り過ぎ。ううんと悩めば悩むほど候補は増える。数多の本が芥多を待ち受け、強敵難敵を下してきた男がもの言わぬ本相手に唸っている姿は知人が見れば面白い図かもしれない。本人はこんなに悩んでいるのに!
 露店の中には本だけでなく、関連した物も一緒に売っているところがちらほら。買ったきり使わなかった真白のノート、作家のサイン本や色紙。本に限らなくてもいいかと思いはじめて、視野を広げれば読書には欠かせない栞が目に飛び込む。
「おや? 栞も売っているのですか」
「いらっしゃい。ええ、古いものですけど……今時の本はどれも|栞紐《スピン》がついてて、需要が無いんですよね」
「これはこれは、企業努力が裏目に。手に取って見ても構いませんか?」
「ご自由に」
 厚紙で出来たシンプルな栞たち。無地から柄物まで揃って、角が少し折れ曲がったりクセがついているところも年月を感じる。しっかり使われ、今は役目をお休み中。
「へぇ、どれもレトロなデザインで可愛らしいですね! ……ああ、これ。これが欲しいです、この百合の栞。これを下さい」
「はい、1枚10円からあとはお気持ちで。……ユリ、好きなんですか」
「そうですねぇ。好きなんて言葉じゃ言い表せないくらいには。良縁に感謝します」
 ちゃりりんと代金入れの小箱に100円玉を2枚。店主は「こんなに頂き過ぎです」と恐縮したが、芥多にしてはあまりに安い買い物だった。丁寧にチケットケースサイズのOPP袋に入れられた栞を受け取り店を後にする。
 思いがけず素晴らしい逸品を見つけてしまった。きっと妻も喜んでくれるに違いない。唯一にして最大の問題があるとすれば、この先の戦いの中で壊れる可能性があるということ。なんせ不運に好かれた男、星の巡り合わせは大体悪い。
「どれだけ丁重に守っても、どうせ見事に壊れてしまうんでしょうねぇ」
 読み返せばまた思い出せる|歴史書《アルバム》も、破られた|頁《真実》は戻らない。栞を挟む箇所は一体どこになるのだろう――。

汀羽・白露
御埜森・華夜


 風靡き、人は流れ、移ろう時代は世界の理。その輪から離脱し、再び使われ動き出す刻を待つモノが犇く。ここは蚤の市、一度眠りについた物が日を目を見ることを期待する場所。行こうと言い出したのはどちらからか、付喪神と古書店長の組み合わせとなれば何となく”今は使われていないもの”に惹かれたのかもしれない。とっておきのお気に入りはもう互いに|持っている《渡し合った》けれど、新しく見繕うのもまた樂し。
 華やかなれど汀のように、寄せては返す人並みと新しい主人の元へ流れつく市場。|郷愁《ノスタルジック》な雰囲気を感じつつ、露店を見ながら|汀羽《みぎわ》・|白露《はくろ》(きみだけの御伽噺・h05354)は同じ歩調で真横に立つ|御埜森《みのもり》・|華夜《はるや》(雲海を歩む影・h02371)と相談という名の吟味。吟味という名のぶらり遊覧に精を出す。
「過ぎた幸運から身を守るとは奇妙な話だな」
「そだねぇ、どうしよ。呪本あたりで対抗してみるー?」
「……店にあるのか」
「ふふ、どこかの棚にあるかな、ないかも」
 買い取ったきり見てないから脱走してたら大変だねー、と全くその気の無い声で笑う華夜に白露の心は安堵と心配が半々、やや心配に軍配が上がる。けれども『月の海』にあるなら華夜がきちんと買い取ったものだから無下には扱えない。お守りと言っても効能は様々、|守護力《それ》を信じられるかが一番重要だというのならもう持っている。
「ここでお守りを買う手もあるが……俺にはかやから貰った|栞《これ》があるからな」
「え、新しいの買いなよぉ……何か良いのあるかもよ?」
「君から貰うもの以上に優れたお守りなんて、あるわけないだろう?」
「えぇー嬉しい。毎日何かあげよーかな」
「……傍にいてくれればいい。かやのことは俺が守るから安心しろ」
「んもー。俺だって……ん? あっ、見てみて白ちゃん!」
 流し見から立ち止まり、華夜が指さすは店先にちょこんと置かれた懐中時計。目利きの勘が「この時計はいいやつだ」と告げている。手に取り蓋を開けてみれば漆黒に沈む金の美しい蒔絵が視界に飛び込む。随分と高級そうな品、沈んだ金も磨けば綺麗に当時の姿を取り戻すだろう。
「いいね、お前うちの子になりなよ」
「…………」
「あーとーはー……ほら、あの簪も!」
 数粒花の欠けた藤の七宝が揺れる簪。しゃらり奏でる音も美しく、見目以上の価値がある。どれも|欠けている《満ちてない》から使われてきた歴史を感じた。店主に品を返し、次はと視線を彷徨わせる横顔の楽し気なこと。
 はしゃぐ華夜に白露小さく溜息を零し、前のめりの彼の袖を引き釘を刺す。静観していた白露だって、時計も簪も華夜に似合うのは見れば分かる。だた、そう、選びながらふくふくと嬉しそうな姿に少し悋気が湧いただけ。
「……気に入りを増やすのは良いが、|愛着しすぎる《浮気する》なよ?」
「うんうん、へへ……へ?! う、浮気じゃないし! ばかばか! 冤罪ー!」
 ぽかぽかと痛くも痒くもない|殴り《パンチ》を繰り出し抗議する華夜の姿が可愛くて、白露は満更でもない微笑を浮かべる。「白ちゃん誤解だよおー」と眉を下げる華夜に「分かってる」と短く返し喧嘩未満で仲直り、今度は共に選ぼうとゆったり人波を漂う。
「ねーねー白ちゃん、このタイピンなんてどう? 夫婦鶴、白ちゃんに似合いそう!」
「俺に?」
「そ! |赤漆が禿げて《色が落ちて》白鳥みたい。すごく綺麗だから白ちゃんにつけて欲しいなー。このデザインならフォーマルな場でもいけるでしょ?」
「ま……まぁ、君がそう言うなら……着けてやらないこともない」
「やったー」
 胸元にタイピンを持ってきてご満悦の華夜を見れば、ネクタイを選ぶ面倒さよりも選んでもらったタイピンを付けられる喜びが勝る。即決で購入し、懐に仕舞う。そうなると白露は「俺だけがいつも華夜を身につけることになるな……」と気付いた。いい機会だ、こういう時こそ少し大胆に攻めてみよう。
「折角だ。何か揃いのものを買わないか? 茶碗でも湯飲みでも……」
「えへへ、いいの? 嬉しいなー。お揃いはー、んー……日用品でも身につけるものでも、」
「ああ、指輪は無しだ。それは新品で君だけのものを誂える」
「は、え、ゆ、指輪?! 何でそれだけ新しいのかな……」
「かやの指に嵌める日が楽しみだから」
 すこぶる真面目に答える白露に固い意思を感じ、華夜はそれ以上追及しなかった。指輪はだめかー、と親指と人差し指をぐにぐに、話題から手元を弄びつつ再考タイム。確かに湯飲みならお揃いモノとして定番だし、よくセットになっているのを見かける。茶碗は夫婦茶碗という言葉があるけどサイズが違うからお揃いという感じはしないし……。
 華夜の眼差しがじーっと、白露の足の先から顔に向かってあがっていき遂に視線が交わる。ツンと澄ました白露ににんまり笑いかけた。
「ねぇ、ピアスとか—……だめ? 白ちゃんに決めて欲しいな、って。それで、付け替えたいし新しい穴は白ちゃんが開けて?」
 甘くとろける声でお願いする華夜。もうひと押しと小首を傾げ、上目遣いに柔い瞬き。
「また増やすのか。君が望むならそうしよう」
「うん! でさ、お揃いの石のカフスボタン、俺が毎回白ちゃんに付けるの!」
「ピアスとカフスボタンか……」
「いまいち?」
「いや、構わない」
「わーい」
 窺うような華夜の視線、甘い声は蜜のように染み込んで心を擽る。許可が下りただけでぱぁっと表情明るく、笑顔の華が咲いた。無表情のまま白露は溢れそうになる感情を|噯《おくび》にも出さず、くしゃりと白い髪を撫でる。|儚さを纏う《お守りで虚を埋める》存在を確かめて、そのまま掌から指先で耳に触れた。物理的にくすぐったくて、華夜はくすくす笑う。嫌がるどころか楽し気に、からころ声は歓混じり。
「ひゃは。もー白ちゃん!」
「……ここに合う色……なら、この石はどうだ」
 見つけたのは淡緑の|橄欖石《ペリドット》。白露の瞳と同じ色したシンプルなピアス。長らく眠っていたそれを耳元に添えれば、白い身体に美しき緑が芽吹く。
「――ねぇ白ちゃん、これ毎日俺につけてよ。……ね、お願い」
「しょうがないな、かやは。じゃあ俺のも毎日、な」
 可愛いお強請りに悪い気はせず、嘆息に仄かな喜び滲む。けれど負い目など感じさせぬよう白露からも付け加え。
「俺も毎日?」
「かやの此処に毎日つけるんだから、いいだろう?」
「えへへ……うん、任せて。おあいこで、お揃いだね」
 僅かな欲を覗かせた白露からの頼みに、華夜の微笑みは一層濃くなった。この瞬間を幸福と言わずになんと表現すればいいのだろう? 声音はやはり甘えるように、華夜は指先を白露に絡めた。握り返される指は優しく、柔らかく。
 |白露《しらつゆ》の如く満ちては広がる|輝き《ひかり》を抱き、指輪の約束に想いを馳せる。それまでは毎日、ふたりで着けあうのだ。耳元と袖口の距離は、きっと普段より近くなる――。

黛・巳理
泉・海瑠


 薬も過ぎれば毒になる。医療に携わる者であれば誰でも知っているし、そうでなくとも過ぎたるは猶及ばざるが如しと言ったもの。身に覚えが多々あるからこそ現代まで伝わる諺はただの迷信なんかじゃない。|黛《まゆずみ》・|巳理《みこと》(深潭・h02486)もようくそれを理解していて、今回の患者は中々……否、かなり|度が過ぎて《・・・・・》いるとつい口元に手をやった。巳理の様子に考え中の癖が出てるなぁと|泉《いずみ》・|海瑠《かいる》(妖精丘の狂犬・h02485)から声を掛ける。
「巳理さん、難しいこと考え中? 古妖のお悩み相談も受け付ける予定?」
「うん? ああ……今回の治療法をな。満たされることを“旨み”と勘違いする……ある種の麻薬的な認識の違いと近しい。幸運を反転とは、”他人の不幸は蜜の味”と言われた方がまだ心理的には理解できる。ラッキーのオーバードーズ、有効策は幾つかあるとしてどこまで通用するか」
「大は小を兼ねたり、何事もあるに越したことはない、が効かないとなると厄介だよね。誰かから貰うものでもないと思うし……そんな安易に手に入れた“幸運”が、長続きするわけないのに……」
「神もまた、病んだ患者か……困ったものだな、まったく」
「そう言っても来るんだから巳理さんも相当お人好しだよ」
「患者は等しく救うものだ」
 彼らは医療従事者。悩める者も病む者も、心と身体の痛みを和らげる仕事人。クリニックを訪れる患者とは毛色の違う相手、来ないなら此方から赴くまで。訪問診療は高くつく、運のお釣りは如何ほどか。
「あの星詠みの話から察するに、当該事案の神は『個』にして細かな対応ができるほどの器用さは持ち合わせてはいないだろう。それに関しては幸いと考えても良いか」
「あー……『大体皆こういうのが嬉しい・楽しい・大満足』セット? オレなら嫌だけどなぁ……汎用パッケージじゃなくて、フルオーダーの“幸せ”が欲しいってもんじゃない?」
「その様子だと泉くんのオーダー内容は決まってるようだ」
「…………うー……」
「泉くん?」
「秘密!」
 分かってて聞いてるよね、と追及するのを海瑠はグっと堪えた。本当に見透かされていても全く的外れでも、どちらにしても恥ずかしい。立場で言えば雇用主と従業員、医師とその助手。それだけの関係の奥、目に見えない感情が二人の中には確かにある。ここで言葉にしなくても良い。ふっと静かに微笑むへび先生、患者に見せないプライベートの門戸を巳理は助手だけに開けている。その表情を見られるだけでも十分幸運なのだけど、当の|海瑠《本人》は自覚がない。
「私の推察はここまでにして。泉くん、何か気になるものはあるか。日頃、君の働きに私は救われている。少しばかり礼をさせてくれないか」
「え!? や、お礼するのは寧ろオレのほうだよ……!」
「私からの礼が嫌なら引き下がるが」
「や、えぇ……嫌ってわけじゃ、全然ないけど……じゃ、じゃあ……お言葉に甘えて……」
「では早速」
「あああ待って、オレも! オレも巳理さんに贈り物するから! 受け取ってね!」
 互いに支え合っているのならお礼も当然お互いに。一方的な感謝も恩も、|過ぎれば《・・・・》重荷の貸しになってしまう。値打ちでなく気持ちの問題、言葉を尽くそうと感謝してもしきれないなら少しでも伝える努力は惜しまない!
 妙に意気込む姿に癒され、巳理は手袋越しの手で海瑠の頭を撫でた。もし今の海瑠に尻尾があればぶんぶんと振っていただろうから。|good boy.《いい子》……|boy《子》? その辺は些末なことで、海瑠は驚きつつもどきどきと胸が高鳴り振り払うことはしなかった。それどころではなかった、が正しいか。

 蚤の市を見て回り、この場に並ぶ欠けた全ては我々のようだと巳理は想う。誰しもどこか欠けていて、神ですら完全無欠でないのに。けれど巳理から見れば海瑠はもっと完璧に近いと――……まぁ、今言うことでもないかとそれは|無表情《ポーカーフェイス》の下に隠した。真横できょろきょろと珍しい品々を眺める海瑠の傍を離れず、牛歩の如くじっくりと。その分目は光らせて、ふと際立って見えたブローチを前に立ち止まる。
「なんか気になったのあった? 巳理さん」
「君の色を入れたいなと」
「えっ!?」
「……端折りすぎたな。ここにエメラルドをいれたらきっと君に似合うと考えた」
 サファイアの花を咥えた鳩のブローチ。翼と嘴を形作るシェル素材は未だ虹色に光り輝くが、鳩は盲目、瞳に嵌っていたであろう宝石を欠落していた。
「ひゃっ……あっ、えと……い、いいの……?」
 驚き、困惑、面映ゆさに海瑠の心は乱されてばかり。青い石は巳理の眼と同じ色。それに己の眼の色を合わせるなんて、まるで恋人のような……。そこまで考えて海瑠は頭を振って平静を保つ。いやいやそれはない! 流石にね!? 考えすぎだ……落ち着けオレ……! いつものことだ。絶対無自覚に決まってる。無自覚だから心臓に悪い。息を吐くのと同じ調子でそんな事しないでよと叫びたくなる。どこまで考えすぎなのか分からなくなってきた。
「勿論構わない。私から言い出したんだ」
「……でも……あっ、じゃ、じゃあ……対になってるこっちのブローチ! これ、オレから……プレゼント、したい……な……」
「うん? 君から、私に?」
「そう! 宝石もお揃いにしてさ。……どう、かな……?」
 犬耳があったらきっと今頃ぺたんこになっている。エメラルド色した瞳で遠慮がちに頼みこまれ、巳理は無表情を貫いてしばし考えた。対のブローチは向かい合って、視線の先は花ではなく互いのようにも見える。考えすぎか?
「……君はそれでいい、のか? なら、喜んで」
 照れたようにふわりと目元を綻ばせた巳理に、海瑠は数度瞬いては笑んだ。満面の、サファイアで出来た花より澄んだ晴れやかな笑顔。
「えへへ……よかった!」
「大切にしよう」
 宝飾品はそれなりのお値段で売られていたが、セットで購入ということで少しばかり値引きしてもらえた。比翼に点睛を嵌め込めば、羽搏く姿は霓裳の如く。平和の象徴たる鳩が運ぶは幸運か。それとも災いを持ち去ってくれているのか。
 願わくば、片一方だけ墜つことなんてないように――。

第2章 冒険 『古妖の呪い』


●ハードラック・オン・デザイア
 人間にとって幸福の定義は違うことは理解しています。しかし何時の世でも人は幸運でありたいと思うもの。ええ、当たり前です。不運よりも幸運を。幸運とは幸せです。
 私は縁起物ですから、多くの同胞は幸運の為に呼ばれていました。蛙はカエル、帰るに買える、孵るに返る、還るもの。

 戦の時は無事帰るよう、お金で解決できても制限があるなら買えるように。
 勝負事ではほんの一瞬が命取り、現状から覆るだけの幸運を求めて。
 飢饉がまだ当たり前だった時分ですと、|子供達《オタマジャクシ》が一斉に孵る姿を豊作に見立てることもありました。
 他にも場面にあわせ、私は縁起のいいものとして扱われてきたのです。

 だからこそ、私は幸福の味というものをよく知っています。何度でも味わいたいと思うくらいに甘美な味です。
 満たされた人間は時に「今死んでもいいくらいだ!」と叫ぶことも、「死ぬなら今がいい」と言うことも。そんな時に私は――縁があれば|その通り《・・・・》にして差し上げました。
 そういう時、多くは『運が釣り合ったんだ』と勝手に納得していくのです。
 さぁ、今こそあなたに”最高の幸運”を! 心配いりません、享受するだけで大丈夫!

 ……と思っていたのですが、はてさて状況は少し違うようですね。
 彼らは餓えてもいない、金に困っているわけでもない。ついでに|欠落《喪失》まで持っている。運の盃にいくらと幸福を注いでもするする零れていく。
 となると、噫、あの手がありますね。

 現代人が最も欲するもの。承認欲求、自己顕示欲! あなたがあなたであると、あなたで良かったと認めるのがいいですね。誰しも褒められ、喜ばれ、感謝されて嫌な気はしないでしょう?
 あなた方にとびきりの|満足感《幸福》を与えます!

 ◇

 ――斯くして能力者達は古妖と相対する前に、とびきりの|不運《厄介ごと》を相手にすることとなる。

 ああっ!! トラックに轢かれそうな子供や野良猫が! 眼前で酔いつぶれた妖怪がぶっ倒れた! 三億円が剥き出しで落ちてる!? 謎の絵画を売りつけられている若者ーッ! 落とした眼鏡を探し地面に這いつくばる人が蹴られそう!! お金を振り込む前に先に手数料を振り込むよう指示されているお婆さんも! 他にも列挙したらキリがない!!

 運が悪いを通り越した者がわらわらと能力者の前に現れる。誰を、何を助けるか。それとも放置するかはあなた次第だが……まぁ、助ければ感謝はされるだろう。彼らは善良な一般人と一般妖怪である。
 一応補足しておくと、お守りを購入済みか持ち込んでいれば福の神が無理矢理付与してくる幸運値が増えることはない。
 『お守り』は刹那を護るに非ず。蚤の市で購入したものなら特に、マイナスがやっとプラスに傾くくらいだ。


 ※プレイングにて不運な誰かを助けるか、スルーするかをお書き下さい。内容はPC様の性格に合わせて自由に設定して構いません。大体なんでも何とかします。
 |不運な誰か《罠では?》をスルーしてもデメリットはありません。
姜・雪麗


 食うか食われるか、弱肉強食が妖怪の不文律だったのも今は昔。ヒトの儚さを愛したが故に発展した|√妖怪百鬼夜行《この世界》、科学と妖術が入り交じり、ごった煮で押しくらまんじゅうしていたら幸運も不運も椀から零れる。|そうなると《ションベンじゃあ》半か丁かの土俵にもあがれない。
 生きるも死ぬも当人の実力次第、運がどうだとか言い出すとは何とも人間臭い考え方だ……などと思いつつ、先程買った茶碗はすこぶる縁起が良さそうで。となればこの勝負、自分が親なら勝てるかもなぁとせせら笑う。勝つか負けるか運次第なら、運を味方につけるのだって強者の証。
 全く可笑しなもんで、よくよく|娑婆《俗世》に染まったもんだと自分を褒めてやりたいと雪麗は茶碗を弄んだ。弱肉強食も神頼み、悪運に勝つにはより強い強運か、悪運同士相殺か、どっちが効くのか試しても面白い……ってな訳で、人間らしく人助けってのをやってやろうじゃないかと人混みの中へ分け入れば、早速見つけた困り人。
 板状の何かを両手に持ち、視線を近づけては遠ざけ、触れてから振ったりと忙しない老婆。何をしているのかと雪麗は声をかけてみる。
「よう婆さん、何と格闘してんだい」
「まぁお嬢ちゃん……あのねぇ、孫にメッセージを送りたいのよ。でも新しく買ってもらった電話、使い方が難しくて……」
「そりゃあ|魂消《たまげ》た。婆さん、使えないモンもらったのかい」
「息子が奮発してくれてね。操作も簡単だって言ってたのに、この通りちっとも」
 先程から画面を凝視していたのは単に老眼。ガラケーでも十分そうなのに明らかなオーバースペックハイエンドモデルのスマホを与えられている。厄介なことに解説書は老眼鏡をかけても文字が小さく、しょぼくれて読めなかったそうだ。おまけに詳しい説明書はweb記載。|紙資源削減《ペーパーレス》に慣れた現代人なら多少の面倒くささを感じても問題なくできるが、相手はよぼよぼの老人。荷が重い。
「参ったねぇ……機械には疎いが、ようし任された。大船に乗ったつもりで貸してみな。まず何がわかんねぇんだ?」
「うぅん……これを見て、画面が『スワイプしてロックを解除』ってまま変わらないでしょう」
「あー……」
 想像以上に初歩的なところで躓いていた。幾ら機械に疎くてもこのくらいは分かる。が、確かにスマホ以外で”スワイプ”なんて言葉はほぼ使わないだろうから知らずとも無理はない。そのくらい息子は教えていかなかったのか。
 触ってみれば初見でも案外簡単なもので、濁世に揉まれた我が身も役立つもんだと口角があがる。ちゃちゃっと手順を教え、何度か実際に本人の手でやらせてみると老婆の表情も段々と明るくなっていく。
「ボタンを押した感覚がないのって変な気分ねぇ……ふぅ、送信! センターお預かりって今表示されないのね……助かったわぁ。ありがとねぇ、お嬢ちゃん。何かお礼させて?」
「なぁに礼をされる程のもんじゃないよ」
 老婆の曲がった腰に視界を合わせ、雪麗はニィっと|妖《あやかし》の笑みを返し立ち去った。ありがとね~と響く声に振り向きもせず歩く。

 ――ありがとうなんて言葉じゃ、腹は膨れないからねぇ。
 ――言葉が心を満たしても、酔い浮かれるにゃあ刺激が足らねぇさ。

聖夜・前々夜
彩音・タクト


 町中に溢れる不運な人々。彼らはみな運気を吸い取られ、幸運と不運の間を小さく行き来していた目盛りは不運側に大きく傾いた。
「見てみてタクトちゃん、可哀想な人がいっぱい!」
「……嬉しそうですね?」
「そんな事ないわ! でもねタクトちゃん、考えてみて。可哀想な人はこれから幾らでも幸せになれるの。今が悲しみのどん底なら、あとはもう大抵のことは幸せに思えるわ!」
「比較対象が自分という点が既に悲しいのでは……いえ、その考え方自体は素晴らしいと思います」
 きっと人助けをするだろうなと思っていたが、そういった思想から来ているとは。タクトはじっと前々夜を見て、それでも人助けは悪い事ではないしと彼女についていく。
「どの人から助けようかしら~。まずはあのオタクっぽい人に声をかけましょ!」
「決断早いですね!?」
 言ってる側から前々夜|の目に留まった《に目をつけられた》のは、スマホを手においおいと泣く男。よれたチェックのYシャツ、インナーには全面キャラプリントのTシャツ、頭にはバンダナ、ボトムはサイズのあってないジーンズ、薄汚れたスニーカー、リュックサックには大量の缶バッジをつけている……。今時珍しい古典的オタク!! こんな絶滅危惧種が存在していたとは。√妖怪百鬼夜行とはいえもう少し時代の波に乗った方がいいのでは? タクトは冷静にオタクを観察した。
 余程の不幸があったのだろう、顔面を涙と鼻水で濡らし、ポケットからなにやらカードのようなものがバラバラっと落ちた。二人ともあまり見覚えのないそれはプリペイドカードである。
「HEY! オタクちゃん~どうしたの?」
「えほっ。ちょっといぶたんさん、流石にその聞き方は失礼なのでは……」
「ティウンティウン……草も生えないワロチ……愛しの彼女に、|漏れ《オレ》はフられちゃったンゴね……」
「えっ……彼女に振られた!? ――オタクくんに彼女……? 妙ね……?」
「いぶたんさん、泣いてますよ彼」
 頭の中を整理する。服装だけでなく現実でもそういった用語――前時代的な界隈語を話す人がまだいるんですねとしみじみ。タクトは研究者なので或る意味こういった『まだ細く長く残っている文化』に興味がある。一方の前々夜はオタクを前に、半ば確信めいて|会心の一撃《クリティカル》な問いを投げかけた。
「うん、待って、一応確認するわ。三次元の話?」
「三次元の女に興味はないお! |漏れ《オレ》の嫁はユメカたそだけだお!! こんなに貢いでるのに|漏れ《オレ》の事は愛してくれないなんて……泣いちゃうンゴねぇ……おぉぉ」
「きゃーっ! タクトちゃん~、聞いた!? 彼女に振られたんですって!! 同じ男同士、タクトちゃんが励ましてあげたらどぉかしら?」
「こ、こら! 振られたなんてそんな大きな声で……! あ、えーと……そうですね……」
 声を掛けたのは前々夜なのに全て丸投げされ、かといって放置することも出来ずタクトは渋々考えた。気まずさで思わず真顔になる。前々夜はその間オタクに「彼女だって忙しい時もあるわ!」などと言っていたが、問題はそこではない。
 恐らくTシャツにプリントされている胸の大きい童顔の女性キャラクターが『ユメカたそ』。だとしてもここで「それ、ただの絵でしょう。あなた以外にも同じ事喋ってるんですよ」というのはあまりに禁句。となれば実在しているものとして扱った方がオタクの心には優しいだろう。
「統計的に、片思いから結婚に至る可能性は16%らしいです。なので……今回は残念ですが、次の出会いに期待しましょう」
「んなっ! お前ッ!? 次だとぅ!?」
「さすがタクトちゃん、良い話だわー! でもダメね、ダメダメよ」
 ちっちっちと人差し指を振り、謎に理解者顔の前々夜。オタクも喚いているし、まだ励ましには足りないのか?
「いぶたんさんまで……」
「イケメンの言う事なんて、オタクが受け入れるはずないじゃない」
「そうだお。お前に|漏れ《オレ》の気持ちなんか分かるわけないお。顔がいいだけで|順風満帆《モテまくり》な生活送ってきたお前にっ! イケメン死すべし……お~いおいおい……」
 頭を抱えたくなる状況とはまさに今では? 頭痛がする。古妖に会う前から不運に苛まれているのは僕なのではとタクト自身思い始めてきた。専門外の恋愛相談、必死に言葉を捻り出したというのにあまりに理不尽な扱い! オタクの僻みがすごい。
「元気出してオタク! これからの交際費や援助費は、全部ガチャに回せば良いのよ! 手に入れた嫁は、きっとあなたを裏切らない……!」
「家賃以上、逝ってもいいと思うンゴ!? くっ、確かに今月でこの|PU《ピックアップ》は終了してしまうンゴ。コラボ系に復刻は期待薄ナリね……」
「現実逃避をけしかけるのはどうなのかと思いますが、傷心を癒すのは趣味かもしれませんね。一応聞いておきますけど、排出率は?」
「0.04%だお! 今回のガチャに天井はないお! なんでか嫁だけ来ないンゴねぇ~!」
 説明しよう! 0.04%とは1000回回しても32%までしか確率上昇しない数値である! 誰だこの排出率設定した奴。桁間違ってないか!? 10人PUを同じガチャ筐体にいれるな~!!
「んー、0.04%ってことは……うん、体感で60%くらいね! 行ける行ける! 回せ回せ~!!」
「その体感の根拠はどこから……いえ、もう良いです……」
「んぉぉおお! |漏れ《オレ》のクレカ、止まるんじゃねぇぞ……!」
 幸運と幸福の魔女が隣で応援し続けた結果か、それとも単に出るまで回し続けたおかげか。ユメカたそはオタクに微笑んだ。オタクも|彼女《嫁》に微笑んだ。
 人助けに成功し、前々夜も微笑んで……一連の流れを、タクトだけが|虚無顔《チベットスナギツネ》で眺めていた――。

アリス・グラブズ


 不運も不幸も、つきつめれば人災であることは多々あって。交通事故などその最たる例。ころころと転がるボールを追いかけて、トラックの前に飛び出した少年はトラックを前に「逃げないと!」と思っても恐怖で動けない。クラクションがけたたましく響く中、トラックのブレーキは遅すぎる!
 |走る凶器《車体》と固まった少年が衝突する前、『ナニカ』が少年に絡みついてふわりと浮いた。かと思えば、それは凄まじい勢いで歩道側に少年を引き寄せる。目を白黒させる少年は何が起きたか理解不能なまま、ただ「助かった。助けて貰った」という事実に目を向け、絡みついたものの正体・腕の主を見上げた。
 頭上にはそっと微笑む金髪の――お人形のように可愛らしく、瞳に温度を感じない少女。自分と同い年か、ひょっとしてそれより幼く見えるこの子が助けてくれたのかと少し疑問に思ったが、少年は笑顔を浮かべ少女に礼を述べた。
「えっと、ありがとう! よかった~怪我なくて。ママに怒られちゃうとこだったよ」
「“運良く”助かったこと、嬉しかった?」
「? う、うん」
「“幸せ”だと思った?」
「幸せ……多分。どうして?」
「そうなの。でも、あんまりそっちへ行くと――“還されちゃう”かもよ?」
「そっち? かえされちゃうって、なんの話?」
 会話が繋がっているようで一方通行。少年は”幸運”にも助けられたが、先に”不運”があったからだ。ぐにゃっと伸びた異形の腕を衣服の中にひた隠し、アリスはにこにこと笑みを絶やさない。少年は先程のトラックを前にした時感じた「死ぬかも!?」という物理的な恐怖とは別の、悍ましい感覚を感じ取った。けれどもその正体を、少年はまだ知らない。
「ねえ、あなた……ほんとに、それで嬉しいの?」
「嬉しかったよ! なんでそんなこと聞くの」
 当然の問いにアリスは答えない。視線と声で少年の心を揺さぶり、幸福の味を|観測《味見》する。にじんだ|不幸《甘味》は|誘《いざな》われたもの。仄かな|恐怖心《酸味》は結果的に生まれた熟れた味。どちらも深みがあり、咀嚼するほど良い味わいが|脳《口》に広がる。記録構造に沈め、ふやけるほど浸して、思い出したら、きっとおやつに丁度いい。
 どうしよう、助けてくれたなら悪い人ではなさそうだけど……と少年は視線をきょろきょろ迷わせる。笑みを崩さない少女に、なぜこのような得も言われぬ感情を抱くのか。少年の小さな心臓が早鐘を打つ様を、アリスは見逃さなかった。
「その“幸福”、どこまで本物かな? ――ちょっとだけ、確かめさせて」
「え?」
 返事と共に少年の顔が歪む。|巨大な木陰《・・・・・》にでも覆われたように少年の表情は見えなくなり、影が去ったのち、ただ一人少女はスキップで歩道を歩いていった。他にもとっても|不幸《甘味》の予感がする! 全部ぜーんぶ、味わってみたい!
『ワタシの中にちょっとだけ、残しておくね? ……あとで、みんなで分けるからっ』
 少女の中に無数に存在する”アリス”達が笑う。とびきりのお茶と、『ワタシたちも持っていくね』という返事に、アリスの足取りは更に軽くなった――。

東風・飛梅


 人の心は簡単に動き、感謝はすぐに忘れるくせに恨みはいつまでも残り続ける。恐怖も怒りも、結局人を突き動かす|衝動《感情》はマイナス面からの影響が強い。尤も、飛梅にその感覚は理解できない。憎しみを欠落しているのも理由のひとつではあるが……敬愛する|先生《Anker》、あるじ様に叱られてしまう。
 思い出すのはしっとりと落ち着いた声音で、教え子たちに言い聞かせるあるじ様の言葉。

 ――誰かのために犠牲になる必要はありません。
 ――あなたたちが自分自身を大切にし、己を愛することもまた必要なんですよ。

 あるじ様はそう言うが、|彼女《あるじ様》自身はいつだって子供たちのために身を粉にしていた。放課後遅くまで教材を作り、学び舎に集う人も妖怪に分け隔てなく接しては、個々の感情と知識量に合わせて学問を教える。時には世界の常識や規則から教えることもあり、どう見ても自分よりも|他人《教え子》を優先していた。
 その背を見てきた飛梅だから、いくらあるじ様の教えでも今回ばかりは背くことにする。不運に見舞われた人がいたならば、迷わず手を差し伸べよう……たとえ、その人を助けることに困難が伴おうとも。
 不安はない。|先生《あるじ様》の言葉を引用するなら『五常の仁』だ。相手を思い遣る心こそ最も尊く、全てに通じる善の在り方だと。人が至るには短すぎる人生。とても難しいことだと言っていた……でも、飛梅は人妖。人より長く、朽ちるにはまだ遠く。憎悪を知らずとも、哀しみや絶望には寄り添える心を持っている。
「そこのあなた、そわそわしてどうしたの?」
「あわわ……家の鍵締めたか心配で。……ああでも寝室の窓、今朝開けたからそっちも閉め忘れてるような気がして。一旦帰ってたら約束に遅れちゃうし、どうしよう……!」
「そういう時って大体は考えすぎだと思うけど。うーん。約束、具体的には?」
「えっ! か、彼の家で……家デート……きゃっ!」
 頬を染める妙齢の女性に、それならと飛梅はアドバイス。
「デート場所をあなたの家に変更するのは?」
「だめっ、散らかってるの! ああもう、お終いよ……泥棒に入られてもっと荒されるんだわ」
 随分と悲観的な考えに染まっている。元々の性格なのだとしてもこれでは大変だろう。ただ、実際に泥棒が出現しないとも言えない。特に|今の状況《・・・・》からして。
「その”彼”って、遅刻は絶対許せない人?」
「そんなことないけど……私のせいで待たせるなんて申し訳ないし……」
「一度彼に連絡して、確認をとらない? あなたがデート中ずっとそわそわしてる方が彼も気になると思うわよ」
 飛梅のアドバイス通り、覚悟を決め”彼”に連絡を入れる女性。通話中ずっとぺこぺこしていたが、最終的に笑顔で切り両手を組んで胸の前に置く。まるで飛梅を神に見立て、祈りを捧げる信者のよう。
「彼、”ゆっくりおいで、こっちもお菓子用意しとく”って! てなわけで|帰る《・・》わ! ありがとう、梅香る人!!」
 走り去る女性の後ろ姿を見送り、梅の香りを残して飛梅もその場を後にする。蚤の市で買った簪は、飛梅を護ってくれたのだろうか?
 今はまだ、その効果は分からない――。

野分・風音


 道行く彼らは知らない、この不運が古妖によって齎された禍いだと。なんとなく周囲の者達も肩を落として表情も暗いし、きっと今日は全体的に|そういう日《・・・・・》なんだと皆諦めムード。今日の星座占いは1位だったのよと叫ぶ女性はタイツが破け、ムダ毛処理をサボった脛が剥き出しに。きびきび動く会社員はお辞儀をした瞬間カツラが落ちた。
 この辺は命に直接的なダメージはないので(社会的なダメージはありそうだが)一旦おいておき、風音はもっと人助け……自分が手を貸さなければ助けられない人を探す。福の神はどの辺に現れるんだろう、実はこの中に紛れているのかもと少し慎重に。蚤の市で購入したばかりの犬張子『薫』を道着の懐に入れ「みんな大変なことになってるね」と内心話しかけながら歩いてると、呼応したかのように道着の襟を引っ張られたように感じた。
 違和感に一度立ち止まると、危うくスルーしかけた困り人を発見! 高い木から落っこちそうになっている子供がいるではないか! 泣きべそをかきながら枝が揺れ引き返すこともできず、動いたら枝の根元が更にしなり折れる寸前。
 考えるよりも先に風音の身体は動いた。ダッシュで駆け寄り、木によじ登って幹側から手を伸ばす。
「大丈夫、今助けてあげるから! こっちに手を伸ばせる?」
「こ、こわい……お姉ちゃん……」
「心配しないで。落っこちそうになっても絶対引っ張りあげる!」
 力強く言い切る風音。子供はその自信に満ち溢れた姿に安心したのか、そろりと手を伸ばす。ミシミシと子供の乗る枝から嫌な音がして、風音は思い切って身を乗り出し子供を抱き寄せた。枝の根元は意図的に引き剝がされたように樹皮を剥き出しにして折れた。
「わぁぁ! オイラ、助かった……?」
「うん! このまま降りるからしっかり掴まってて」
 するすると子供を抱いたまま木から降り、ホッと一息。子供はようやく地面に足をつけられたことに大喜びで、風音から離れたあとまた抱き着いた!
「お姉ちゃんありがとう! オイラ、いいおまじない知ってるからやってあげる!」
「怪我する前でよかったー! おまじない?」
「うん。てぃやー!!」
 √EDENでも一時期流行った、魔除けのポーズ。それを掛けてくれたらしい。全く実感は湧かないが、その気遣いに「ありがとう」と子供に礼をして、「これでおあいこ! じゃあね~!」とついさっきまで震えていた子供は走り去った。
「ふぅ、良かったぁ間に合って。薫が教えてくれたお陰だね。お手柄だよ! ありがとう」
 道着の中の薫にも礼をして、目前の不幸な誰かを助けるだけの力が自分にもあるんだと少しいい気分。ひょっとしたらあの子供もこの高揚感も、福の神の罠だったのかなぁ? なんて考えるけれど……だとしても、あの子供が怪我せずに済んだならそれで十分だ。何より。
「アタシには薫がついてるもんね! さっきのおまじないも嬉しかったな」
 わう! と犬の鳴き声が聞こえた。自分の中から。
「……え? 薫、喋れるの!?」
 わうわう、うー……と数回声を発し、犬の鳴き声は止んだ。おまじない……薫は魔で口封じでもされていた? 取り出してじっと張子と見つめ合う。もう鳴き声はしないけど、なんだか誇らし気な表情をしているような――?

ヨシマサ・リヴィングストン


 阿鼻叫喚とまではいかないが、ひぃこらと人々の呻き声がどこに行っても聞こえる。|√WZ《ウォーゾーン》の生死を分ける痛みや苦しみによる叫びではない。これら全て、嘆きの声だ。遠方までずらり、ヨシマサの前に立ち並ぶようにして人々は大変な状況に置かれている。
 え、草履が壊れた? 手鏡が壊れた? 何もしてないのにパソコンが壊れた? ゲーム機からソフトが取り出せない? がま口財布が固すぎ? 大小様々・個人から企業単位まで、不運の連鎖が積まれる予感に武者震いがする。みな一様に「誰でもいいから助けてー!」と右往左往するばかり。
「ふふ~、そうですか。お任せ下さい、そのお願いごと、断る理由がありませんね~」
「! あんたは!?」
「通りすがりの修理工です。どれ、壊れたものを見せてください」
 基本、ヨシマサの日頃の修理相手は機械類だ。木製や布製のものを修理する機会は少なく、その分あまり経験がない。今回の件を機にちょっとばかり試行回数を増やそうという魂胆も含みつつ、買ったばかりの中古作業用グローブの試運転も兼ねる。
 なに、機械も半田ごてでくっつけてるのだ。それが糸や糊に代わるだけ……本当にそうか? だいぶ、かなり、相当材質違わないか? 間違ってたらごめんなさ~いと笑いつつ、なんとかなるまでなんとかした。最終的にうまくいけば修理は成功と言って良い(諸説あり)。
「ねぇこれもお願いできる?」
「は~い。ふふ~これは中々の曲者。腕がなるっすね~」
 それはシミの飛んだ服! すぐそこの屋台の串焼き肉から滴る肉汁が原因のようで、いい匂いに「ああ~美味しそうだなぁ」と思えばヨシマサの脳は空腹を感じ取った。集中するとつい飲食を忘れがちでいけない。
 古妖戦前に体力を使い切っても困るし、そろそろ引き上げよ……とポンポンと溶剤でシミを連打。きっちりシミは落ちて、けれど溶剤にも全く傷む気配のない作業用グローブは中々いい買い物をした。作業が捗りすぎますね~と額にうっすら浮かんだ汗を拭いひと休み――している暇はない!
 ギャーッという叫びに振り向けば、串焼き屋のガスバーナーが暴走し火柱が上がっている! おお、ちょっとお高い地元の肉よ……と嘆く店主は必死でスイッチをOFFに連打、タンクに繋がるホースを引き抜こうとしても固くて微動だにせず。このままでは火事になると判断し、ヨシマサは屋台の裏手に回りガスタンクの栓を締め、冷静にホースを固定するパーツを分解。火種が抜けたコンロは鎮火した。詰まった煤を掃除すれば火力も元通り。暖簾は一部焼け落ちたが、無事営業再開できそうだ。
「兄ちゃんありがとな、助かったぜ! 肉食うか、肉! うめぇぞ~。礼だと思って、な!!」
「や~、このくらいは朝飯前というか本業なんで余裕っす。いただきます」
 肉に齧りつく。美味い……脳に栄養が行き渡る……人助けも悪くないなぁと二本目の串に手を出したところではたと気付いた。めっちゃ並んでる。屋台ではなく、ヨシマサの横に。
「おにーちゃん! この子、|中身《わた》でたーなおして~!」
「すいません、このVHSだけ急に再生中異音が……」
「オールマイティ修理屋さんがいると聞いて」
 何でもとは言ってないと否定しかけ、やめた。空腹は屋台のおじさんにタダ肉を貰い続け、溜まる一方の疲労を自覚するまでヨシマサは作業を続けた――。

ララ・キルシュネーテ
詠櫻・イサ


 悲鳴、感謝、動揺、緊張、落胆……蚤の市で聴いた歓びを含んだ賑やかさとは真逆の状況にララは置かれている。先程からあちらこちら、羽搏く前の雛鳥のように休みなく駆け回っていた。そこに助けを求める声があるのに、手を差し伸べない理由があろうか? 聖なる幼姫は|孰《いず》れ宙に舞い上がる。なら、多少の人助けなど軽い助走程度のこと。民を思いやれぬ者に王の宝冠は似合わない。
 落とし物の三億円を交番に届け、横領を企む汚職警官を通報し逮捕、油切れで喉が渇いたろくろ首にサラダ油を買ってきて、奇妙建築の間に挟まれた子供を引っこ抜く。噫、忙し忙し。不運の舞いは美しくないけれど、助けた者達から溢れる感謝の喜びと敬意は実に浄く耀きを放っていて満更でもない。
「わあぁ、誰か……! 僕の、眼鏡、踏まないで……!」
「あら、また? 仕方ないわね。行くわよイサ」
「はぁ……ララ。そんな奴ら、スルーしたほうがいいって。キリがないぞ?」
 付き添う|詠櫻《🫧ヨヒラ》・|イサ《 🫧》から零れるのは先程から溜息ばかり。次から次へ、朝な夕な関係なく不幸は幾らでも湧いて出る。全員|救済して《たすけて》いたら逢魔が時を超え曙の天を拝むことになるだろう。
 忠言を意に介さず、すたたっと駆け寄ったララの先には這い蹲る男。聖女様は|また《・・》いいものを見つけたらしい。その場から動かず両手両足を無様に彷徨わせる男のかなり先――踏まれて割れたレンズと蔓の曲がった眼鏡が一本。小さな手が眼鏡を拾い上げ、祝詞を紡ぎふぅっと息を吹きかければ、たちまち粉砕骨折状態から元通り。いつものありふれた、聖女による|救済《すくい》の|場面《ワンシーン》。
「おまえ、探していたのはこれね?」
「うわーっ! ありがとうございます!! これが無いと何も見えなくて……助かりました!」
「次は気をつけなさい」
「はい!! 本当にありがとうございました。いい人っているんだなぁ」
 あの状態の眼鏡を渡していたら感想は随分と違うものが出たはずだ。けど、ララは態々それを告げたりしない。誇示する程のことでもなし、純粋にそうすべきだと思って為すべきを為したのみ。
 護衛の身からすると何にでも首を突っ込むのは止めてほしいところだが、実のところイサの本心は真にララの|身《器》を心配するのみに非ず。家族に対する過保護のような……或いは懐旧と追慕混じりの柔い絆。言葉にするのは少し難しい。
「……ララ、これは敵の策だろ? いちいち乗っかって、このまま夜明けを迎えるつもり?」
「イサったら……ララは当たり前のことをしているだけよ。いい? この世はララのものなのよ? ララのものが傷つけられたら腹が立つでしょう?」
「そんな事言ってると悪い虫も寄ってくる。ララは華の自覚が足りてない」
「悪い虫を啄む趣味はララにはないわね。その為の|護衛《シュヴァリエ》でしょう、イサ」
「俺にもその趣味はないな……」
「まぁいいわ。一度休憩を挟みましょう。探さなくてもここには|不幸《ふく》だらけ。助ける相手はすぐに見つかるわ」
 日当たりの良いベンチ……はペンキ塗りたてだったのでやめて、花壇を囲む縁石に座る。ララは懐から鏡を取り出し、身嗜みを|確認《チェック》。常より美しく凛と、霓の絹糸に蔭りがあってはならぬと前髪の分け目を整える。
「うん、いいわね」
「何、その鏡。ヒビ入ってるし、色褪せてるし……それに少し曇ってない?」
「そうよ、|綺麗《・・》でしょう。さっきの市で買ったのよ」
 花を踏まないよう土に足をかけ、イサは背中で絡まり游ぶララの髪を梳かしてやる。冥海で泳ぐ骨魚を真似た櫛でさらさらと、透き通る髪は七色を反射する水面のよう。背後から覗きこんだ手鏡は、やっぱり濁っていた。
「……アネモネは、良いか……ララにこういう趣味があったんだ。|完璧でないもの《・・・・・・・》に惹かれる|性質《たち》だったりする?」
「――イサ」
「なに」
「ララはね、こんなに|可憐な花《・・・・》を咲かせたお守りを買ったの。そしてお前に見せたいと思った。この意味が分かる?」
「簡単に説明して」
「|科戸《しなと》の|靄《あい》を戴いた鏡……この|紅花一華《アネモネ》はきっとお前にも微笑むわ。ララがそうであるようにね」
 蠱惑と欺瞞の笑みを鏡に焼き付け、ララは手鏡を背後に向けた。当然、ところ変われば景色も変わる。鏡はイサを寫すけど、どこか彩やかな名残を感じ取った。不思議だが邪気はない――ララが|選んだ《喜んでる》ならいいけどと、再び髪を梳かす。さらさら、さぁさぁ。催花雨のようにやさしく、念入りに。
「それにしてもお前たち」
 髪を梳かされながら、ララはその場の誰でもない――自分たち以外の全てに話しかける。地に這いつくばる誰か、高木から降りられなくなった子供、涙で化粧が溶け流れる女。ぼうっと眺めてみただけでこれだけの数の不運が落ちていた。
「禍津神にでも微笑まれてしまったの? さっきから転んだりぶつけたり、大切なものを落としたり……|憑《ツ》いているわね」
 直接名指しされずとも自分の事だと悟り、人々は思わず肩を手で払う。何も見えない一般人がそんなことをしても何の意味もない。
「福の神の仕業なら、なんてかわいらしいことをするのかしら。愉快だわ」
 瞳の奥、真紅は深紅に朔いては嗤う。噫可笑し、一体何様の心算なのと手鏡で口元を隠した。愉快なんて生温い、ララ達に|幸福《めんどう》を与えてお前は満足かしら? ねぇ、と問うても鏡の中のララは答えない。代わりにイサが雛姫へ言葉を返す。
「ララがそう言うなら俺も手伝ってやる。聖女サマの善意を無駄にしない為だからな!」
「|不幸《ふく》の神……どんな|味《いろ》をしてるのかしら。|三毒《慾》を喰らえるのが楽しみね」
「ああ。こうやって誰かの幸せにして満たす為に為に誰かを不幸にするってのはいただけない」
 何より。聖女サマの救済を無駄に振りまくのは|いい気がしない《気に食わない》――。

リリンドラ・ガルガレルドヴァリス


 きぃんと一度耳鳴りめいて、すぐに意識の向こうから別の音が聞こえる。人々の声だ。これは|並行世界のリリンドラ《わたしでないわたし》が為した記憶。薄ぼんやりした輪郭がしっかりと浮かびあがっては蘇る。この先、前方注意。暴走三輪車あり。その次は蛇口が壊れて噴水状態と――不幸な人々と、それを助ける己の姿が重なった。
 購入したてのペンダントを手に、溢るる不幸を探しに行く。迷うことは無い、既に|平行世界《別のわたし》で経験済みだ。暴走三輪車が多少おでん屋台に変化していたり、蛇口でなくスプリンクラーの暴走でビルヂィング内が大雨状態だったとしても、数多の|世界《√》で考えれば誤差のうち。
 街中にこれでもかという程転がる不運の断末魔。これは一種の試練だとリリンドラの決意はより固くなる。彼らを無視すれば厄介ごとに巻き込まれることはない、見え透いた罠かもしれない。だけど、それを放っておくことは正義として正しいのか? 答えは最初から決まっている。

 ――わたしが正義を掲げる者として、何を選び、誰を救うのかを試されているってことね。
 ――だったら、わたしは迷いなくわたしの手の届く限りの全部を助ける!
 ――誰かを見捨てるなんて、わたしの正義が許さないのよ。

 √能力者はみなどこか欠落していて、中には”幸運”を欠落した人もいるだろう。リリンドラに欠けた悪意は良き方に傾けば全て|正義《善》となる可能性を秘めている。彼女の言い分に「悪気はなかった」なんて似合わない。通常の『正義』の中に潜む|僅かな悪意《したごころ》など一切合切、蚊帳の外。潔さと豪胆さを掲げ真っ先に、可及的速やかに助けようと|並行世界の自分が悔やむ《やり直せるなら優先したい》相手の元へ!
「ひぇぇ……あの、私急いでて……! 本当にすみません!」
「申し訳ないと思ってんなら俺達と遊ぼうよ~。それが誠意を示すってことっしょ」
「そっちがぶつかってきたんだし。てか女に学なんかいる? オレらと愛嬌育てようや」
「……っ」
 大事な試験の為に毎晩遅くまで勉強を続けてきた女性、いざ試験会場に向かう途中で|面倒な輩《チンピラ》二人にダル絡みをされていた。頭が|大正《前時代》時代で止まった男たちは分厚い参考書やノートの入った鞄と飾り気のない女性を見て嘲笑う。女性は男二人に挟み撃ち状態、走って逃げるには厳しい立ち位置。今こそ|正義を為す者《リリンドラ》の出番!
「ちょっとあんた達! 話は聞いたわ! 人が嫌がってるのも分からないなんて見る目ないわね」
「ンだぁ? 俺らこっちのオネーサンと話してんだけど。それとも混ざりたい感じ~?」
「問答無用! 喰らいなさい、正義アタック!」
 話が通じないとみるや、すかさず男の一人を殴り飛ばす! もう一方の男はその様子にビビり散らかし尻尾を巻いて逃げていった。唖然とする女性を前にリリンドラも説明を省いて一言。
「まだ間に合うわ。走って!」
「あ、ありがとうございます!!」
 落とし物が無いことは|事前に《・・・》分かっている。結果こそ分からないけれど、不運を抜けた先は努力が輝く世界。欲しいのは押し付けられた幸福じゃない、自分で選んで掴み取った意味のある選択。見送った先で女性が|望んだ未来《・・・・・》を掴み取れると信じ、リリンドラは順序を変えた次の不運な誰かを助けに行く――。

品問・吟
クーベルメ・レーヴェ


 虫の知らせ、とでも言うのだろうか。|蚤《・》の市の後に|虫《・》と来たら、否が応でも色んな意味で悪い予感がする。周囲のざわつき、妙な空気感。厭な気配をひしひしと感じる。だが、これらが例え罠だろうと目の前の困りごとは見過ごせない。
 では具体的に、何をどうしたらいいか即座に行動へ移したりアイデアがぽんぽん出るほど吟は成熟していない。己の未熟さは誰よりも分かっている。せめて|物理面《フィジカル》で解決できる内容の不運から助け出そうと考えた矢先。
 不運の濁流に逆らう僥倖! それとも必然の巡り合わせか。よく見知った顔がいるではないか!
「えぇぇ、クーちゃん!? 何故このようなところにいらしてるんですか!?」
「あらお吟ちゃん、ご機嫌よう。|偶然《・・》ね、勿論お買い物よ」
「あっ、そうですよね……蚤の市してましたもんね……いやいや待ってください、ここの空気感おかしくないですか!? 嵐の前の静けさが終わって、もう降り始めてる大雨のような……」
「詩的ね、お吟ちゃん。蛙が古池に飛び込んでるんじゃない? ペトリコールはまだしないわね」
「この状況で冗談言えるのすごいですね……」
 吟とクーベルメ、和やかに話す二人の背後では痴話喧嘩・転倒書類ばらまき・ガチャ爆死・唄口紛失やらが引っ切り無しに起こり続けている。全員相手にしていたらキリがない。
「クーちゃん、いつの間に尻尾が生えたんですか? 可愛いですね」
「蚤の市で買ったのよ。尻鞘みたいよね、コレ。妖怪退治に効果抜群って触れ込みだったし、実際身に着けてからすごく出力あがった気がするわ」
「出力というと」
「|気分《運気》が|上昇す《アガ》る。イイ流れが来てるわ」
「……はっ、クーちゃん戻ってきてください! もう決着はつきました。ツモの流れはオカルトです!」
「? こんなに沢山困ってる人がいるところに私達が来たのよ。イイ流れよね?」
「そう……だといいんですが」
 あの|長く悔しい戦い《雀狸との共闘》は終わったのだ――今の相手は、不運と不幸に揉まれる人々。クーベルメも元より助けを求める声に応じる心算だったし、合流する流れと相成った。誰から助けるべきかと相談を持ち掛けようとしたまさにその時、吟とクーベルメの真横から青年の悲痛な叫びが聞こえた。振りむけば手にはメンコ。√妖怪百鬼夜行で衰えぬ人気を誇るアレ。
「何でしょう、話だけでも聞いてみますか」
「ええ。ねぇあなた、何か悲しいことでもあった?」
「ウゥッ……これを見てくれっ!」
 青年が差し出したのは先程から握りすぎてくしゃくしゃになったメンコである。が、表面に違和感がある……これは剥れたような掠れ……? 青年の足元を見るとシールが落ちていた。丁度メンコと同じ大きさをしている。
「|〆ゑ力レ)《フリマアプリ》で買ったんだっ! 傷ありにつき定価の半額っ!! 即決したさ! でも袋から出したら……」
「このシールが剥がれたと。普通に詐欺行為ですね」
「あらら……実物を見れば光沢の不再現度が判るのに……」
「クーちゃん詳しいんですね。その反応を見るに結構お値段したんですか?」
「24」
「? 24円でそんな……」
「24万だよ!! 24万円ッ!! 言っておくけどさぁ、これ普通に買ったら……うぅっ、50万以下なんてこと滅多にないし。あってもすぐ取られるし……」
「そんなものよくフリマで買おうと思ったわね。こういう事があるから個人間じゃなくて、ちゃんとしたショップで取り引きしたほうがいいのよ……!」
 詳しい。これが人生経験の差か……クーベルメの隣で吟は目を輝かせていた。やはり一人では救える人に限界がある。吟は決意した。|頭脳面《ロジカル》はクーちゃんに任せようと。
「1回落ち着いて。返品したらお金は戻ってくるはず……あ、そうだわ。私が何かメンコ買ってくるから、あなたの不要なメンコと交換しましょう」
「あのっ! でしたら私、全然詳しくありませんからクーちゃんの代わりに買ってきます! その間に返金のやり方? をお願いしていいですか」
「じゃあお任せするわね。で、いい? まず運営に問い合わせて……」
 クーベルメが青年に返金手続きと取引履歴の証拠云々の手解きをする間、吟は駄菓子屋に全力疾走。何種類かパッケージの違うメンコが売られているが、当然中身は分からない。というか、どの|弾《バージョン》がいいのかも分からない。とりあえず店頭に並んでいた6種類、1パックずつ買った。税込み176円を6つ、1000円札に小銭をちょっと、お釣りは募金箱に入れて現場に戻る。
「お待たせしました! すみません、どれがいいのか分からなかったので売られているのを1個ずつ……」
「お疲れ様、お吟ちゃん。じゃあ開封しましょ。それともお兄さんが|開封する《剥く》?」
「いいよ……俺いつもカートン買いだし……」
 しょぼくれる青年を脇に置いて二人で開封することに。お金を出したのは吟なので、気合いで開封しようとすればクーベルメに待ったをかけられた。大抵、こういうものはハサミで上を切るのだと。無いものは仕方がないが……って早ッ!? クーベルメ、まさかの|開封作業を解体に見立てている《クラフト・アンド・デストロイの使いどころ》。爆速で開封を終え、中身も確認せず青年に6パック手渡した。1パックにつき5枚入っているらしい。ということは30枚、メンコに興味のない二人は見て楽しめる。気落ちした青年は何の気もなしに最初の1パック目を逆さにして中身を出した。表面は全くキラキラしていない。まぁ大抵1枚目はレアリティが低いものだとして、クーベルメと青年はその段階で気付いた。小口から漏れる輝きは、まさか……! 急ぎ4枚目を捲ると……。
「うわぁぁああ!?」
「わぁ、眩しい。凹凸も凝ってて綺麗です」
「え、嘘じゃないよな? 夢?」
「お兄さん、これはいいメンコなの?」
「すご、え? これ封入率12カートンに1枚とかいうレアリティだよ?」
「封入率……?」
「お吟ちゃん、説明は後でするわ。今は彼と一緒に喜びを分かち合いましょう」
「ヤバ、まじ? ホログラフィックレリーフのレジェンド……!? すげぇ……君たちすげぇよ、ありがとう……」
「あと5パックあるからそっちも見せてよ」
 そう、もう1パック目で最高クラスのレアリティが出たのだ。青年とてこれ以上欲張らない。なんならシングル買い、こっちの方が高い。からの~? 全パックなんか出た!! 青年は喜びの余り気絶した為、吟がやさし~く叩き起こしてやる。
「夢じゃ……ない……?」
「現実よ。あなた、それを売ったら元手がとれそうね。気絶してる間に運営からメッセージ着てたわよ。悪質業者につき返金ですって」
「売るだなんてとんでもない! 君たちとの出会いに感謝してうちの神棚に末代まで飾るよ! ありがとう、ありがとう……」
 青年は喜びの涙に濡れ、袋に戻したメンコを大事に胸元に仕舞い去っていった。嵐のような青年を見送り、価値を知らない吟から当たり前の一言。
「……飾ってたらメンコできないんじゃ?」
「大丈夫よ、|決闘者《デュエリスト》はデッキを幾つも持ってるものなんだから」
「はぁ」
 なんやかんやで青年を助けることが出来た。清々しい。たとえこの気持ちが|承認欲求《エゴイズム》から来るものだと誰かが影で嗤おうとも、きっとそれだけじゃない。先程の青年の涙を浮かべ笑う姿を見て、吟はとても暖かい気持ちになった。
 クーベルメだって承認欲求なんかどうでもいいわけで、既に一定の評価を得ている彼女からすれば、これは誇りの為の戦い。|誇り《それ》も当て嵌ったって何だというのか。
 ああでも、ひとつだけ心残り。
「お吟ちゃん、やっぱり私もひとつ買ってみたくなったわ。この|流れ《ビッグウェーブ》に乗ってね」
「お供します。はぁ、クーちゃんがいて本当に良かったです……!」
 かつて”先生”は吟に手を差し伸べた。
 あの時と同じように、吟も今なら|    《献身》を信じられる――。

渡瀬・香月


 季節は暖かいから暑いに変わりつつある頃。月も朧に白魚の……と言うにはもう春過ぎて初夏。年月は留まることを知らぬ一方通行。たまの|逆走《寒暖差》も四季のうち。ツいてる日もあれば|尽《ツ》きてる|月《とき》もある。|強盗し《パクっ》た金がたまたまスゲェ大金だったと喜ぶ会話が飛び交うのは中々に物騒だが、そういう日もあろう。
 人の幸せなんて本当に人それぞれ違って、結局のところ他人にどうこう出来るもんじゃないと香月は思う。けれど日々繰り返し行う動作……例えば食事なら|飽き《マンネリ》が来ないようレパートリーを増やしたり、固定して|日課《ルーティン》にするといった工夫を”楽しみ”に変えることは出来る。

 ――苦手な人が多い食材を好む人も、嫌いなものでしか生きられない人もいる。
 ――っていうと、俺の幸せも人によっては余計なお世話になるのかな。

 究極、手料理を振舞うというのは他人との”信頼”の上に成り立っている。自分の作った料理を人に美味しいと食べてもらうのが一番幸せ! と思うだけなら簡単でも料理人としての責任……などが要らぬ例外がここに。
 多分、ずっとぶっ倒れていたところに香月がやってきた。目の下に濃いクマをつけたスーツ姿の会社員が大の字で天を仰いでいる。
「おーい、大丈夫か?」
「……ご、ん……」
「ゴン?」
「おなか……すいた……」
「おおっと、ツイてるね。丁度食べ物が、って待った。その体勢で食べたら噎せるよ」
 相手を起こし壁に凭れ掻け、先に水を飲ませ乍ら香月は自分用の『おにぎらず』を取り出した。腹が空いたら食べようと想定していたがこういう使い道になろうとは。
「ほら、これ食べなよ」
「!! いただ、いや、すいませ……おれこんな、お金……」
「良いからいいから。自分用だしあんまり見ば」
「いただきますっ!」
「……噎せるなよー」
 おにぎりより平たく、具がいっぱい入る優れもの。ぐるっと海苔で巻いた米とおかずはもはや圧縮された弁当に近い。今日の中身は自家製のとろけるチャーシューと半熟卵。普段は洋食作ることが多い中、今回は少し趣向を変えて中華風。
 ほんのり混ぜたラー油の旨辛さが滲みたお米の一粒ひと粒が香ばしく、チャーシューの肉っ気が胃袋に満足感を与える。一気に食べ終えた会社員は香月に向かい深々と頭を下げた。
「っはぁー、ご馳走様でした! すごく美味しかったです。謝礼をしたいんですが、さっき給料袋をスられて……」
「……結構大金だった?」
「そうですね、残業代120時間分も入ってたので……きっと死ぬ前はこの味を思い出します。これが”美味しい”という感覚……」
「どういう食生活してんの?」
 食べ終えてしまった味を思い出してはぺこぺこする会社員。栄養が行き渡ったのか、心なしか活き活きとしている。腕時計を確認しすんなり立てるまでは回復したらしい。
「んじゃボクは生き返ったので……仕事行ってきます! さようなら、命の恩人さん!」
「えっ」
 ダッシュで立ち去る会社員。一人取り残された香月は想った……しっかり食べてよく寝たほうがいいと。謝礼だなんて、食べている時のあの幸せ溢れる表情こそが何物にも代えがたい”香月の幸せ”だ――。

ハスミン・スウェルティ


 ぱたん、ひらひら。ぱたん、ぺちぺち……。買ったばかりの扇を開けてはひらり、閉じては掌へ軽く叩き、季節柄手に持っていても違和感のない品だ。やや重みを感じる以外は和の|雰囲気《テイスト》と合わさって√妖怪百鬼夜行の古い街並みによく合っている。
 あまりこの|世界《√》を見て回ったこともないし、折角だからとハスミンは物見遊山を兼ねた散策に歩き出した。|蚤の市《露天商通り》を抜ければまた別の世界が広がっているのだろうと期待してみたは良いものの、実際に広がっていた光景はというと――。
「うわ、揉め事……」
 罠っぽさ溢れる揉め事困り事、一喜百憂。思わず一瞬退いてしまった。最低限の護身術ならハスミンも心得ている。とはいえそういった荒事は大体|収容する人格《色持ちの囚人》に任せているし、今回はスルーしようかなと恐喝現場を見てみぬフリ……できるほどまだハスミンの心は無色透明でない。ほんの僅かでもある良心の呵責に、くるりと引き返す。
 ガラの悪い狐狸が人間にしては随分と小さい――尾がある。恐らく人化けを覚えたばかりの半妖――を相手にイキり散らかしていた。
「お前最近よく見かけるけど何? 調子乗ってんのかぁ」
「ここは俺様たちの縄張りだぞ~ちゃんと通行料払ってくれね~となぁ」
「遡って利子幾ら?」
「ンー、トイチ計算で~」
「すみません、知らなかったんです。もうここ通りませんから……」
「ごめんですんだら|汚職警官《お巡りさん》はいらないんだよねぇ~」
 あんまりにも理屈の通らない言葉をさも当然とばかりに高圧的に吐きつける狐狸。この場は穏便に済ませようと、ぷるぷると小さな身体は財布を出すべく鞄に手を伸ばす。にたにたと悪い笑みを隠そうともしない二匹と半妖の間に突如なにかが割り込んできた! 長い黒髪の女、背には髪と同じ色の翼を持っている……そこまでなら人妖か獣妖だが、特異な点がひとつ。仁王立ちした尾羽の下に隠れ、鳥の足が一本。|三本足の烏《ヤタガラス》を知らぬ妖怪などいないだろう。
「やめた方がいい……かも?」
 より強者に化けたハスミン。姿かたちは違えども、声はそのままに扇子を開け閉め。じぃと狐狸を睨みつける。真っ黒な視線に固まる二匹も、負けじと言い返す。この|カモ《・・》を逃してたまるかと必死だ。
「な、なんだよ! こいつが先にオレ達の|縄張り《シマ》に入ってきたんだぞ! 注意してやったんだ」
「……通行料、許可いるなんて……書いてない」
「うるさいなぁっ。周知の事実なんですぅ~!」
「はぁ……」
 まだ粘る。こちらの技量も見計れない相手は無視するのが一番だが、半妖は今にも泣きそうだ。相手も化けることに長けているだろうが……通行料を請求されるなら仕方ない。
「じゃあね」
「は!?」
 半妖の首根っこを引っ掴んで飛び上がる。「うわぁ浮いてる~っ」と落っこちないよう、半妖は八咫烏に化けたハスミンに引っ付いた。そのままぴゅーっんと狐狸が見えなくなるまで飛び去る。背後から「飛ぶのは卑怯だろぉ~!」なんて叫びが聞こえたが卑怯はどっちなんだか。相手に届くかは分からないが「逃げるんだよーっ!」と返してやった。
 着地と同時に変身を解いたハスミンに半妖はまた驚いて、黒から白に変わる術は魔法のよう。こんな風にうまく|変身《どろん化け》したい!! 感謝と憧れの言葉に静かに頷くのみで、ハスミンはいつも通り穏やかに|颯爽と《COOLに》立ち去った――。

日宮・芥多


「ちょっとチミィ、そんなでっかい鞄に何隠し持ってんの? ここら辺も最近物騒だしさぁ、一応中身見せてくれる? てかこの辺で見ない顔だよねぇ。なーんか怪しいなぁ~? どこから来たの? 身分証明できるものある?」
「普通のギターケースですよ……? 自分、ライブで遠征に来てるのでこの土地は初見です」
「あのさぁ、そんな言い訳通用すると思ってる? いいから出すモン出せや」
「はぁ。どうぞ」
 高圧的な職務質問に困惑しつつも、土地勘のないバンドマンらしき青年は怯むことなく財布から運転免許証を抜き警官に差し出した。善良な一般市民の行動として素晴らしい。が、警官側が善良でない場合も|√妖怪百鬼夜行《この世界》では日常茶飯事。
「……っはぁ~、チミねぇ、分かってねぇなぁ~!」
「はい?」
「あ・の・さぁ! こういう事言いたいんじゃないんだよ、わっかんねぇかなぁ!? あーもうそのギターケースも怪しいし調べるわ。早く開けて見せて。あーっと、先に名前も記録してっと……」
 説明もなしに個人情報を取られた挙句、ギターケースを開けるように指示されては青年も流石に狼狽え抗議の声を上げた。横暴にも程があるし、|出すもの《身分証明証》は出したのに!
「ちょっと! 何なんですか一体」
「察しが悪いなぁ、|コレ《・・》で見逃してやってもいいって言ってんの」
 警官は親指と人差し指で輪を作り青年に散らつかせる。それが意味するものとは……。

 ……以上、一連の職質風景を眺めていた芥多から飛び出た感想は「いいですねぇ、俺も職質されてみたい」だった。普通に生きていればほぼ発生しない人生の|不運要素《厄介イベント》、|真っ当《テキトー》に生きてきた芥多は不運に愛され|乍《なが》らも職質を受けたことは一度もない。胡散臭すぎて逆に相手にされないのか、「されたいのにしてもらえない」点で不運なのか。
 その経験が今後何に活かされるかなど決まってる! 新たな経験を積むことそのものが大事なのだ。実体験は増やすもの、無知は減らすもの。さすれば更に磨きが掛かり良い男度も増々UP! そうなれば奥さんも大喜び、ついでに絡まれた人も助けたとなれば格好いいヒーローっぷりに「惚れ直した」とn回目の愛の告白も!? 一度想像してしまった以上やるっきゃない。青年も助けられてwin-winだ。
 すすすと気配を消して、汚職警官の元に歩み寄りドガっと勢いよく肩を組む。警官は急な|背後からの組み付き《バックアタック》につんのめる。
「こんにちは、お巡りさん!」
 無から突如現れた芥多に一瞬バランスを崩しかけた汚職警官も、長らくこの|職質スタイル《イチャモン》で食ってきたのだ。驚きを怒りに変えて叱責を飛ばす。
「うぉっ!? てンめぇ……何モンだぁ?」
「あれ? すみません、人違いでした。いやぁ、知人と後ろ姿が似ていたのでつい何時ものノリで……」
 シッシッと組んでない方の腕で手を振り、青年に口パクで「今のうち」と伝えればギターケースを担ぎ足早に立ち去った。追いかけようとも肩が抜けず警官はその場から動けない。
 チッ! とわざとらしく聞こえる舌打ちを一発吐いてから、汚職警官の警棒が芥多の脇腹目掛けめり込む……前にするりと離れホールドアップ。危害を加える気など一切御座いませんのポーズでにこにこへらへら。その半笑いが余計に警官の癇に障り、職質の矛先は完全に芥多に向いた。
「チミも見ない顔だよねぇ! 本当に知り合いにお巡りさんなんかいるの? 逮捕歴の方の知り合い? なぁ~んか怪しいねぇ、怪しいなぁ。ちょっと何持ってるか取り調べさせてくれる? 大体ねぇ、|犬《ペット》に荷物持たせるとか動物虐待だよ? 疚しくないならできるよねぇ、はい御開帳~」
 斯くして拒否する隙を与えないよう捲し立てる汚職警官 VS 体験してみたい芥多の職質バトルが始まった。大丈夫、今は調べられて困るものはないはず。
「検査ですか! はい是非とも喜んで!」
 |白い柴犬《えだまめ》が背負う鞄からいの一番に出てきたのは赤い液体の入った密閉袋。開け口は無く、袋の下に細い筋があるのみ。透明度の低い、どろりと独特のとろみがかった液体。この手の警察ならよく見慣れたアレ。
「チミ、これが何か説明してもらえる?」
「ああ、それは血液パックです。俺の常備品です!」
「ほほぉ~? 吸血鬼にゃあ見えないのにねぇ、こんな真昼間に出歩いて……病院からの盗品?」
「はははまさかそんな。何でもいいじゃないですか! それに聞いて下さいよ、なんとこの血液……コレステロール値が適正域なんです」
 血液の出所はとても言えたもんじゃあないが、中身は普通に血液パックだ。嘘は言ってない。
「値なんか聞いてねーンだよこっちは! 大体お前の知り合いのお巡りさんってどこの署勤めの誰だよ? ちょいそのスマホ見せてみい、どうせヤバい取引履歴でもあんだろ? 隠しても遅ェからな。名前も確認するから笑ってられるのも今のうちだぞ」
「ええ、結構ですよ。どうぞ~」
 差し出したのは普通のスマホだ。電子マネー支払いに便利なので持ち歩いている。上限額から少し減ったほぼ満額が入ってるので|押収《ネコババ》すればこれだけでも中々の大金だ。業種は言えないが稼いでいるのでがっぽりたっぷり。ぽちぽちと弄っても何も疚しいモノは出てこず、痺れを切らした汚職警官は本気を出し始める。
「チミ何の仕事してるん? 若者のスマホの中身がこんなスッカラカンな訳ねーだろが?」
「え? 残高結構残ってたと思うんですけど~」
「|普段使い《いつも》のスマホ出しな。連絡類も全部広告だし、こんなんじゃ話になんねーの。わかる?」
「それはその~、いやぁ俺友達とかいないんで! 悲しいですよね~グスン」
「うーん、着信履歴ゼロだねぇ~? 無職がこんなに大金持ってンのおかしいよなぁ!?」
「え~とそれは~……ええ、はい! はっ、そんなズケズケとプライベートまで覗くんですか!? きゃっ、えっち!」
 なぁなぁでやり過ごし、おちょくり続ける芥多に汚職警官もついにキレた――!
「ちょっと署まで来てもらおっか。ムカつくし留置所直行で良いか。う~ん罪状はね~、業務執行妨害にしとこ!! 現行犯逮捕ね!」
「あ、そういうのは結構です。いやぁいい体験でした! ありがとうございました!」
 行くよと|助手兼運搬庫《えだまめ》に視線をやり、汚職警官渾身の羽交い締めをするりと躱し退散。またひとつ増えた体験談と土産話、職質って思っていたより強引なんだなぁとくつくつ笑い、そう言えば|あっちのスマホ《電子マネー決済用》を取り返し損ねた事に気付いた。
 まぁいいでしょう、|あんなもの《非実在通貨》に騙される|方が《機械もヒトも》悪いんですよ――。

浄見・創夜命
千桜・コノハ


 記:5月 ■■日
 伴:鵺鳴

 ――奇縁の先に燈る灯の、華々しくも愛らしき。兎も烏も月見て跳ねる、金烏玉兎の舞装束。嘆きの聲に導かれ、真昼の月面飛行と往こう。

 旅は道連れ夜遊びと、まだ陽も高い内からざわめく街。地域一帯に広がる不運は無差別に降り注ぎ、能力者に助けられた者もいれば時既に遅き者まで。十人十色の不運は見ているだけで気が滅入ってくる。
「うわ! 面倒くさいことになってる……」
「詠まれた事ゆえ驚くこともないが。ふむ、流石に多いな」
「ロクでもない事ばかりだし、正直なところ関わりたくないかな~……」
「然りとて古妖が現れる迄この痛哭を樂しむ趣味もなかろう」
 その通り。|不幸《ふく》の禍神はいつ現れるか分からないのだ。蚤の市で準備する時間こそあったものの、古妖の正確な出現時間は予知の範囲外。ふらっと目を離した間に全てが台無しになるとも限らない。ならばこの場で穏便に、簡単な人助けでもして時間を潰すのが不幸な誰かと二人、双方にとって最も良い選択。
 それは理解できるが、コノハは妙な予感を感じていた。黒羽根が一枚抜け落ちる程度の、根拠なき予兆のような……。この場の空気に当てられただけなら良いけどと一度翼を振るい、不運通りを練り歩く。よくよく声は掛かるが全部を助けちゃいられない。
 もっと寄るべき案件が在るのでは探してみれば、|耳についた《・・・・・》のは盛大な青息吐息。公園のベンチで休む若い女性からだ。珈琲と栄養剤の缶を交互に|飲んで《キメて》いる。人妖か半妖、もしくは階梯伍の獣人か、女性の頭には兎の耳。ロップイヤー種かと見間違う程ぺっそりとしていたが、スマホのアラームに「げっ」と直立! 再びこぼした溜息には深い疲労の色が滲んでいる。
「はぁ……あし、疲れたぁー……」
 足をばたつかせ「そろそろみんな倒れるってぇ」とぶちぶち弱音を吐き、立ち上がる様子は一向にない。でろりとベンチに寄りかかる姿は|記憶の固執《溶けた時計》の如く。寝転がる寸でで女性は創夜命と目が合った。隣のコノハにも目をやれば、兎人は凄まじい勢いで駆け寄る。先程までの怠さは何処へやら、長耳を跳ねさせ紅の瞳は爛々と輝いている。
「そこのお二人さん! 今お暇そうですね!?」
「うむ、余暇の愉しみを探しておる」
「君は随分お疲れみたいだね」
「そうなんですっ! お暇ならうちの喫茶店で臨時バイトしませんか? 今日やたらと体調不良や事故で休みの子が多くて……とにかく人手が足りなくて。私、お二人には『才能』を感じました!!」
「えっ? 喫茶店?」
「はい! 厨房じゃないので料理の腕前不問です」
 喫茶店、人手不足……この組み合わせは|個人的に嫌な予感がするので《メイドカフェを手伝わされたことを思い出し》心苦しいが断りを入れようとするコノハより先に創夜命の頷き。
「それは|宵《よい》な。力を温存しつつ休息と人助け。実に合理的、二人ならば凶事も半分」
「ねぇ僕のこと頭数に入れてるよね? 喫茶店の才能って何?」
「こうしてはおれぬ、|あわよくば奢ってもらい《宵待ちまでゆったりし》にゆくぞっ」
「やったぁ、ありがとうございます! きっと|似合います《・・・・・》よ!」
「仕方ないな……君が乗り気なら一緒に手伝うよ。ヨミは放っておくと何か為出かす側に見えるからね」
「さて。身に覚えが多くての、皆目見当もつかぬ」
 やはり笑いのセンスはないように思う。コノハは嫌な予感に蓋をして、|喫茶店《・・・》へ足を運んだ――。

 店内に流れるボサノヴァミュージック。ウッドデッキ調の内装と観葉植物が相まって、清々しくも癒しの空間を漂わせる喫茶店。特徴的なのは店員の頭上にぴょこぴょこ揺れ動く兎耳が生えていること。尻尾には大きなリボンをつけ、歩くたびにふわふわひらひら。
 ここは由緒正しきバニー喫茶『|Hellunatic《ヘルナティック》』! 人員常に募集中!
「おい! 嫌な予感当たらなくていいだろ!?」
「フッ、そういうことか……」
「何に納得してるのさ! あーもう、まさか|あんなもの《メイドカフェ》の上をいく胡乱なものがあるとは思わなかった……」
「兎の人妖たちが給仕なのだろう?」
「あーソウダネ。それだけだといいね」
 嫌な予感につい雑な返しをしてしまうコノハ。創夜命は「知るが故の余裕かの」と勘違いをしたまま、二人は裏口から|控室《バックヤード》に通された。
「お二人とも兎人じゃないので、このカチューシャを付けてください。制服は……あっ、丁度クリーニング返りが。お姉さんはこちらをどうぞ」
「任されよ。華麗な着熟しをご覧に入れよう」
 仕切りの向こうで鏡と格闘すること数分。シャっとカーテンを開け放ち、ヨミヨミちゃんバニーガールEditionが姿を現した! 色々と際どいが|夜《よる》の女王は”ここの制服”として受け入れている。
「どうだコノハ、ウサちゃんだぞ。似合っているだろうか……?」
「あ~ヨミはよく似合ってると思うよ~? 月のうさぎさんかな、嵌り役」
「うむっ、妖兎あらば月兎あり。称賛に相応しい働きを見せようぞ」
 やる気十分な創夜命に対し、コノハはバニースーツを着ようとしない。女子の服だという前提も含むが、想起するは数々の|面倒事《トラブル》。正直裏方でいたい。
「僕も着るの……? そも、僕は兎じゃなくて迦楼羅……」
「|夜《よ》のみでは心許ないのう……」
「あーわかったよ! でも流石に君と同じのは着ないからね!?」
 まあ、これなら……と妥協に妥協を重ね手にしたのはベストとショートパンツのバニー服。何で丁度良くサイズが合うんだと文句を言いたくなるのを耐えた。麗しくも嵌る選択に創夜命は満足気。
「そちらは摩虎羅か。これならば呪物の塞翁が馬も悪くない」
「今だけはいっそ落馬したいよ」
 店員から『お客様に合わせて柔軟に』と曖昧な指導を受け、早速ホールへ出向く。
「……ところでコノハよ。|夜《よ》に接客の経験はない。お主の姿を見て学ばせて貰おうと思うのだが|宵《よい》か」
「ん~、僕の接客態度は見習わないほうがいいと思うけどね~。ま、1回見てみたら?」
 こくりと頷く創夜命はコノハの背後で暫く見学。彼の元へ客が来るなり目も合わせず一言。
「ざぁ~こ。罵倒されて喜ぶとか気持ち悪いなぁ」
「はいっ雑魚です! もっとお叱り下さい!」
 創夜命は混乱した。接、客……? |夜《よ》の受けてきた|接客《サービス》とは違うような……。
「雑魚にしちゃ頭が高いね、なに僕と同じ視線に立ってるわけ? 正座」
「はい! あ、痛っこれ強いやつ!! ひい!」
「こ、コノハッ。何故客人を足蹴にするのだ。雑魚とは……」
 床に正座した客の太腿を思い切り踏みつけるコノハに創夜命は声をあげる。しかしコノハも店員も客も、誰一人この状況を止めない。それが何よりの答え。
「僕はお客様が一番喜ぶサービスを提供しているだけだよ。ね、雑魚」
「はい! この雑魚めにお時間を割いていただきありがとうございます兎さん!」
 戦慄、わたわた、揺れるウサミミ。これがこの|世界《√》の常識だとでもいうのか!? こういう|世界《業界》もあるが極一部。一般常識ではない。
「そちらのおっきな兎さんもお願いします!」
「|夜《よ》もだと!? コノハよ、主ら|夜《よ》を揶揄ってはおるまいな?」
「いやー? 客も幸せそうだよ? これも仕事の一環だし、仕方なくね。本当に仕方なくさ」
 言いながらコノハは延々蹴っている。美しき|貌《かんばせ》から共に飛び出す罵詈雑言の数々。ダメ人間・馬鹿なの?・気持ち悪い……トドメの舌打ち。繁盛している以上、確かに需要はあるのだ。悍ましい。
「夜は|木花《彼》ほど軽くないのだが……ええいままよ」
「! ぅ……」
「すまぬ、やりすぎたか」
「甘いよヨミ。もっと連続で、本気で! 服の下に痕がつく勢いで!」
「お願いします! 兎さんに踏まれるのが生き甲斐なんです!」
 ヨミはまた客を蹴っては踏んだ。どうなっても知らんぞと、どしどしと何度も。こっそり分霊を呼び出しては回復させつつ、世界は広いの……と見聞を深める。知らなくていい世界のような気もするが。

「最高――でした……最後にお二人とチェキいいですか」
「ちぇき?」
「はぁ!? こ、この姿を写真に残すの!?」
 店員がカメラを手にすかさず準備。すぐ現像できる写真だと説明されれば創夜命はすんなり了承しコノハの手を引いた。
「その程度構わぬよ。よしコノハ、こちらへ」
「やだやだやだやだ絶対やだ!!」
「心配せずとも魂が抜けるのは中央の者よ。そら、|夜《よ》は乗り気だぞ。手伝ってくれるな?」
「何の心配!? う~~……もう! 仕方ないなぁ! これは貸し1個だよ!」
「相分かった。鼈甲飴で|宵《よい》かの、ふふ」
「ち~が~う~!」
「はい行きますよー! いち・にの・バニー!」
 ぱしゃっ。無茶苦茶に不機嫌なコノハと、微笑む創夜命。対照的な二人に思い切り背中と太腿を踏まれる客の顔は大層幸せそうだったという……。

 ここは昼日中から営業する至って健全な喫茶店。食べ物は可愛いうさちゃん型のケーキやパイ、飲み物は林檎を剥きウサミミに見立てグラスの縁に刺したソフトドリンクのみ。つまり全員素面。その事実が一番狂気じみていると二人は思った。彼らは正気で|これ《・・》をやっている。
 地獄の天満月に酔っているのは客か店か、或いはどちらも――。

華応・彩果


 酷い目にあった――。
 その一言で先程までの彩果の体験は締めくくられる。全体的に、ではない。”全部ひっくるめて”だ……。

 蚤の市で購入した飾り紐を弄び、やはりこのシックな色使いが気に入ったとまた市場をぶらぶら。休憩所も兼ねた屋台も並ぶ広場に向かう途中、何もない場所で躓く。この程度は慣れっこで、ただ今日は咄嗟に落としそうになった飾り紐を優先した結果、注意が逸れていたのかもしれない。|たまたま《・・・・》そこだけ蓋が開いていた側溝に見事に片足が嵌った。急な高低差に普通なら足を取られそうなものだが、悲しき経験者はガクッ! おお危なかった、で済む。嵌った方の足は泥っぽく濡れた感覚に包まれ、気分は急降下。温度的には生ぬるくて気持ち悪い。

 ――何でここだけ外してるの、罠?
 ――この感じ……不運の連鎖の予感がする……。

 ツッコミたくなるのを我慢し、とりあえず飾り紐は無事だったので今回はまだセーフとしよう。ずるっと重い水流と泥に負けぬよう勢いよく足を引き抜けば想像以上に軽く、余った気合いは空回り。そのまま顔面衝突! 熱烈な|接吻《キス》の相手は硬い|地面《アスファルト》、唇が擦れたし鼻も痛い。ただ転ぶより結果的に強打、人体の上と下が同時にじ~んと痺れる。酷い。
 さっさと飾り紐は仕舞おうとして――ポケットに手を入れて気付いた。携帯電話どこ行った? ここに入れておいたはず。鞄の中を探してみても見当たらない。飾り紐は一度括り付けてしっかり固定し、うろうろと見て回れば少し歩いた木の下に落ちている。彩果はホっと胸を撫でおろした。こういう時、大抵は画面がバキバキに割れているか人様の盆栽を破壊していたりするものだから。それが無いだけで今日はいつもより幸運なのかも……|等《など》と甘い考えを打ち消すよう彩果の頭上で聞こえる嫌な音。
 ヴヴヴ……ブブ、ヴヴヴ……。ブゥーン……。
 振動音だ。携帯電話の無機物な音とは違う、|生物《いきもの》特有の警戒音。これも聞き馴染がある。視界の端を横切る黄色と黒の模様が毒々しい虫は……蜂だー! 木に作られた巨大な蜂の巣、一部陥没した痕がついている。何故だろう、原因が自分にあるような気がしてならない。段々と大きくなる音にいよいよ本格的な敵視を感じとり、彩果は意を決し携帯電話を手に木の下へ! 素早く|手にした破壊物《巣を壊した原因》を蜂の群れが追いかける!! 一心不乱に彩果だけを狙い、本人は一目散に全力疾走!
 アニメやゲームでも中々お目にかかれない、臨場感溢れるどころか生死に関わる逃走劇の開幕だ。彩果くらいになると業者でもないのにアレがスズメバチだとすぐ|理解《わか》る。慣れもとい経験って恐ろしい! 走り回っている間、自分以外にも色々な不運に巻き込まれている人がいるのを見過ごしてしまった。ああ、今じゃなかったら手を貸せるのにと、恐らく現代日本で徒競走に出場すればメダルくらい取れる速度で逃げ回ったおかげで泥に濡れた足はいつの間にかカピカピに乾いた。あれだけ風を切れば仕方ない。しかし無駄に走ったので当然のように汗を掻き、背中も額も汗だくになった。
 とんだ災難にあい、一気に疲れた。握り締めすぎて痛い携帯電話で時刻を確認すれば、そろそろ駐車場の時刻が20分延長される。丁度いいしもう出ようと|バイク《相棒》の元に向かえば何か貼られている。この見覚えのある黄色い張り紙は……駐禁!! 恐らく汚職警官|の小銭稼ぎの一環《とグルな地主の仕業》だろう、彩果は全力で紙を引っぺがし、粉微塵になるまで引き裂いた。

 これが飾り紐を買ってから僅か1時間半程度で発生した出来事である。密度が濃い。真の不運に過剰摂取なんてものはない。際限なく同じ不運に慣れても嫌なものは嫌だと、身に染みて知っている。
 思わず溜息をつくも、彩果はすぐに気持ちを切り替えた。

 ――そうよ、私にとってこれは|日常茶飯事《いつものこと》。
 ――ここには不運に|見舞われた《慣れていない》人々が居る。

 よく履き慣れた靴に見えるくたびれたスニーカーを赤く滲ませで「ごめ~ん、靴擦れやばい! 靴下との相性悪かったかなぁ」やら。
 |ボンネット叩き《猫バンバン》で助けた恩返しに猫からすり寄られまくり動けない高級車の持ち主の嬉しい悲鳴……「こんなに飼えないよ~!」やら。
 時間で演出の変わる噴水に閉じ込められ、揃って水浸しになったカップル。瓢箪から腕が抜けなくなった飲兵衛……幸せは歩いてこないが不運は追い払っても寄ってくる。しかし|彩果《こちら》にはそれを凌ぐ経験がある! こんなこともあろうかと、日頃から色々と用意しておいた。これほど役立ち過ぎる日も早々ない。無くて良い。タオル、着替え、工具、非常食、生理用品、|その他諸々《エトセトラetc.》……荷台の中は今日とても軽くなりそうな気がする!
 張り紙のせいで微妙に時刻超過した駐車場の料金を支払い、今度はきちんとした駐車場に|バイク《相棒》を移動。二度は騙されないわよと注意深く、他の車やバイクの動きを見てから移動。荷台からバックパックを下ろし、助けを求める声の元へ歩き出す。
 猫たちには大人気菓子『おやちゅ~ゐ』をあげ運転手を解放し、愛護団体への連絡先を教えておいた。びしょ濡れカップルには彩果の着替えと大きめのタオルを。靴擦れした市場の客には絆創膏と靴の間に挟む用ポケットティッシュを幾つか。片腕が瓢箪と一体化した酔っ払いの腕には洗剤をたらし、ギチギチ捩じって引っこ抜く。吞兵衛は洗剤を酒と間違えて飲みそうだったのでそのまま|穏便に寝かしつけ《・・・・・・・・》ておいた。

 備えあれば患い無しとよく言うが、大多数はこう返す。「でも、備えておくと何も起こらないよね」と。本来そっちの――徒労に終わる方が良いに決まってる。何事も平穏が一番。彩果の場合は念入りに念入りを幾重にも連ねてやっと普通の範疇に入るのだから、手助けした相手一人ひとりに注意を残してゆく。
「使う機会がないのなら、それだけ幸運って事ですよ」
 片足に泥をつけ、鼻の頭は擦れて赤く腫れ気味、本人は気付いてないが盛大に袖が破けたジャケットを羽織り、結髪に葉のついたままの小枝が|無造作《ボサボサ》に刺ささった女が言うと”説得力”が違うなと、彩果に助けられた人々は思った――。

春待月・望
望月・翼


 しくしくと啜り泣く声も、驚きのあまり飛び出た悲鳴も、あっちがこっちがと絶えない口論も、纏めてしまえば『厄介ごと』。不運は|原因《理由》が無くたって起こるもの、意図的に引き起こされたものなら猶更に大変に違いない。だから。

 ――僕は誰も助けない。助かる時は助かるし、そうでなければそれまでの運命。
 ――見過ごせない。困っている人助けなきゃと思うのが主人格の影響だとしても。

 芯から真逆の二人は邂逅する。家を出たのは違うタイミングだったはずだが、さても奇妙な巡り合わせ。もしくは最初から定められていたのか。ただ確実に、最初から共に行動していなくて良かったと言えた。

 望はあらゆる厄介ごとをスルーし続ける。罠かどうかなんて知った事じゃない、唯々巻き込まれたくないし、助けたところでその後の責任を取ることもできない。望が手を貸して、その後ずっと相手の面倒を見られるのか? これから幾多も起こると容易に予想できる次もまた同じように助け続けるのか? 義理も義務もない相手を見過ごしたところで誰が望を責められよう。
 見たところ不運な目にあっているのは一定以上の意志を持つ者に限られている。”不運”に対し”不幸だ!”と感じるだけの知性が古妖の|標的《ターゲット》として最低ラインというところか。絡まれるのも面倒だと、どろんと白猫に姿を変え不運に苛まれる人々の間をすり抜けてゆく。どこか安全な場所で日向ぼっこか、物陰で静かに寝て過ごすか、春過ぎの季節は暖かくどちらも望を迎え入れるだろうが……とてとて、普段と違う視線の高さで四足歩行していても|見過ごせない《・・・・・・》ものを見つけてしまった。
 ああ、|翼《コイツ》も来てたのかと小さく息を吐く。無視しようかと思ったが、ふと思い立ち、声はかけずに後をつけることにした。つけた先で見る|翼の行動《光景》は大体望の予測通り。
「お婆さん、大丈夫だった!? 転ばない様に気をつけて、ゆっくり歩いてね」
「迷子!? |母猫又《おや》と逸れたのか……わかった、1回蚤の市の総合案内まで行こう」
「こらーっ!! 4対1でいじめなんて卑怯だと思わないの!? それ以上続けるなら、僕は亀さんに加勢する!」
 誰もかれもと目にした困り人に片っ端から手を貸している。コイツは馬鹿なのだろうか? 助けても助けても沸いて出てくる彼らにずっと構って先に自分が倒れたんじゃ意味がないだろうに。ほうら、疲れて休憩か? しゃがむより腰掛けたほうが疲れは取れるっていうのに。

 翼は溢れ出した不運の濁流を前にしてすぐ、別の意思が己の中に流れ込んでくるのを感じた。流れに身を任せ、意識の赴くまま困っている人々に声をかけてはやれることをやった。転びそうな老人を助け、ずびずび泣く迷子の猫又を管理局まで届けたら、次は亀の妖怪が人間に叩かれている間に割って入り追い払う。揃って運も悪いし同時多発的に起こりすぎて目が回りそうだ。
 感謝の言葉が欲しくて人助けをしてるんじゃない、元がそうだから自然と身体が動いてしまう。自分は|それに倣っている《それっぽく振舞う》だけ。ありがとう、うれしい、よかったぁと、感謝の言葉を沢山貰った。翼も役立てて嬉しいと思った。けれど、どうしてだろう。全然”幸せな気持ち”になれない。彼らの謝辞に嘘はない、心から翼に感謝をしていた。別れ際はきちんと笑顔を浮かべていた。なのに翼自身は――きちんと笑えていたか、自信がない。
 ふとしゃがみ込んで、一度落ち着こうと心のどこか、ぽかりと開いた|隙間《すみっこ》で想う。既に個として存在する|望月・翼《僕》のことは、誰が助けてくれるんだろうと。|偽りの人格《シャドウペルソナ》、|主人格を護る仮面《スケープゴート》……なんと言われようと|主人格《彼》に関わる人達を護り助けたいと決めたのは翼の意思。そうなるように最初から仕向けられていたとしても、翼が|自身の意思《・・・・・》で選んだこと。
 それでも時々寂しくなって、決断に後悔する。後悔からの自己嫌悪、そんな資格が自分にあるのか? もう戻れない、帰れない、|あの人達《彼ら》の|認識《つながり》の中に今の『|翼《僕》』はいない――|存在否定《居てははいけない》。
「……はぁ。何弱気になってるんだろ。|僕らしく《・・・・》ない」
 溢れた弱音に首を振り、翼は軽く両頬を叩いた。大丈夫、まだ僕は|翼《僕》だと自己肯定。誰に認められなくても、翼に限らず――誰もが自分を肯定する権利がある。してやるべきだ。意気込み新たに前を向けば、翼と同じようにしゃがみ込み小さく肩を震わせ泣く子供の姿。
「……あ」
 困っているんだ、きっと。なら僕は。
「助けなきゃ……」
「お前はやりすぎだ、翼」
「え?」
 どこか聞き慣れた、呆れたような溜息の雨が翼に降りかかる。真上を見上れば見知った顔。いつの間に。大体|こうなった《・・・・・》時からといったところか、屈んだ姿にさも野生の猫ですと素知らぬ顔で近付き、望はしばらく見ていたから。
 心配と呆れ。少しの不満。まだ他人に手を貸そうという翼に、望の心は呆れの比重が突き抜けた。猫から人に姿形を戻し、道を塞ぐように回り込み翼の前に立ち塞がる。
「――望くん、なんで」
「人を助けて自分が潰れたら意味ないだろ」
 生まれ持った|性質《性根》を根本から変えるなんて、大きな切っ掛けがなければ難しいと翼も分かっている。自分の主人格だって似たような傾向があったと不意に思い出し、内心舌打ちした。どいつもこいつも、面倒なことにばかり一生懸命になりやがって。そうして結局、誰かの為に自分を犠牲にする。それで救われた相手の事を考えたことがあるのだろうか。
 自分の所為で誰かが傷ついたとか。自分が相手を困らせてしまったとか。自分のせいで相手には取り返しのつかない事が起これば良心の呵責に耐えられなくなる者もいるだろうに。
 |「 」《囚われの君》の一側面である翼から見ても、結局”他者を助ける”ことは自分の為なんじゃないかと思ってしまう。こういうのを何といったか、『情けは人の為ならず』?
 ――本当に下らない。顔をあげただけの翼の手を引き、望は多少の強引さでもって立ち上がらせた。ぱちぱちと瞬き何か言いたげな翼の言葉も遮る。
「いくぞ。ここからは全部スルーだ、いいな」
「え、スルーって……」
「見過ごせないなら、目でも瞑っておけ。手くらい引いてやる」
「いや、僕普通に歩けるよ。それよりさっきの子……あれ」
「ほらな」
 助けようとした子供は別の誰かに助けられていた。あれは能力者か、それとも同じく困っている者同士なのか、翼以上にお人好しなのか。正体はわからないが、子供はもう泣き止んでいた。
「全部お前がやらなくたっていい。どうにでもなるしお前ごと潰れた方が面倒だろ」
「……そっか。うん、そうだね」
 手を引かれ乍ら、翼の心はほんの少しだけ軽くなった気がした。自分でも知らない間に圧し掛かっていた”主人格への遠慮”が、別の意味に変わっていく。
 何も「彼」を模倣しなくてもいい。翼は|体は同じでも独立した別人格《シャドウペルソナ》。けど、彼らを護るために己の存在を隠すのと、翼自身の感情を押し殺すのは違う。大体、翼が|犠牲になった《いなくなった》ら誰があの幸せな家族を護れるのか。誰かを護るにはまず自分がしっかりと立っていなければならないと……ほんの少し、分かった。実行に移せるかはまた別問題だとして。
「望くん、ありがとう」
「それは何に対しての感謝?」
「何だろうね、わかんない」
「はぁ?」
 笑いを含んだ疑問に望は振り返った。翼はなんでか困ったように笑って、けれどそれが困りからではなくまだ名前のない感情からくるものだとは分からない。お互い良く分からないまま、その礼を受け取って良いのか迷った望はぶっきらぼうに「どういたしまして」とだけ返した。

 結局、あまりにも不運な人が多すぎて見ているとそわそわして完全スルーは難しいと訴える翼の小さな要望に応え、望は共に座って喋り時が過ぎるのを待つことにした。話題はどれも他愛ないこと。
 いつでも出来る話が、どれも”いま会話すること”に意味があるように思えた――。

黛・巳理
泉・海瑠


 良い買い物をしたと、二人とも蚤の市で購入したブローチを仕舞いこむ。巳理はポケットの奥深く、海瑠はジャケットの内側に。
 ――折角巳理さんが選んでくれた御守……傷でも入ったらショックだし、ここにいてね。
 そう話しかけるよう大事に何度も確認する海瑠の姿に尻尾の幻影が見えたような気がしたが、今は人の姿だし気のせいかと巳理は前を向く。買い物を済ませてから急に発生した不運と不幸の惨状を溜息もなく観察……まぁこういう日もあるよね、の域を超えた光景が広がっている。
 一般人からすればある種の”天災”と同じとはいえ、こうも周囲一帯で不運が巻き起こっていると「自分だけが不運なわけじゃないから我慢しよう」という日本人特有の|同調効果《お国柄》が顕在化する。精神の安息を求める者はみな周囲との孤立を避け、不運すら自分を可哀想な存在だとアピールする武器に変える事を巳理はよく知っていた。
 そういう患者はさして珍しくもなく、悪意なく「可哀想なわたしを助けて下さい」と縋る。裏を返せば『可哀想な自分が頑張っている姿は偉いでしょう』となるのだが患者が気付くことはない。不安定な精神は自己肯定感の無さから来ている。故に彼らに与えるべきは……。
「巳理さーん、医者モードになってる!」
「……すまない。この惨状を見て思うところがあってな」
「それはオレも思う」
 眉間に皴を寄せる巳理の意識が現実に戻って来たのを確認し、海瑠もやっと巳理に|同調《・・》した。こうもあからさまに不運な人だらけだと、さも「さぁ! 可哀想な彼らを助けてあげて!」と言われてるような……圧し付けを感じる。彼らに落ち度はなくとも、これをやる神のなんと厚かましいこと。幸福とは他者の不幸の上に成り立っているとでもいうのか。
 まず大前提として、海瑠の中に”承認欲求”や”自己顕示欲”など殆どない。寧ろ、自己表現・他者から認識されると色々とよろしくない。愉快犯的に誰かを恐怖に貶めたい、混乱させたいというならまだしも、海瑠の裏稼業はひっそりと行うもの。標的の死という事実だけあればよく、犯人の痕跡を残すなど暗殺者失格。
 ……殆どない――少しはある。『巳理さんからの承認や評価』、それだけは欲しい。すごく欲しい。その|唯一といって良い例外《・・・・・・・・・・》以外、正直どうでも良かった。普通。感謝や賛辞を目的に助けるなんてことはないし、あまり気にしたこともなく。関心なし、が近いかもしれない。
「なんだかなー、ちょっとわざとらしすぎない? ここで助けない方が悪者みたいな雰囲気」
「たしかに、泉くんの言う通りだな……こうもはっきりされると……まぁ、見慣れた……あぁいや、ええと、見慣れた光景、なのかもしれないな。うちのクリニックの特性上、仕方ないことではある」
「たまにいるよね、自分の思い通りにならないと「なんで助けてくれないの」って逆ギレしてくる患者……巳理さんは適切な処方してるのにー」
 ぷぅと膨れる海瑠に、巳理も思い当たる節が多く頷くしかない。
「認められるってそんなに大事なこと?」
「承認欲求、自己顕示欲……泉くんは先日うちに初診だった女子高生を覚えているか。彼女はたしかSNSに触れるうち、友人関係を発端にスマホ依存症からその二つが暴走し、今の神が思いついた状況と近しい状態になっていた」
「あぁ、あのずっとスマホ握り締めてた……状況っていうと、不幸を振りまくこと?」
「不幸を見せつけること。……――神もまた、満たされたかったのだろうな。信奉と感謝という承認を求めて、幸福を齎すことで自己顕示欲を満たす。人として……とは語弊があるが、意思と感情持ち合わせるものとして一定量持ち合わせるべきものだ。しかしその配分が狂えば他人も自身も身を崩す。不足も過剰も、正常とは言えない」
「…………」
 海瑠は黙っていた。巳理はそこで一度話を区切って、また解説で置いてけぼりにしてしまったかと海瑠の様子を窺う。結論から言えば巳理の心配は全くの杞憂だった。
「泉くん?」
「巳理さん、流石……! そうか……そう考えると神様のほうがよっぽど人間臭いね……」
「……いま誰と比べたんだ?」
「え」
「神様の方が、と」
 もごもご、口籠る。快活な海瑠がこうなっている時は追及しない方がいいと判断し、この話題の深追いはしなかった。思うところや伝えたい事があれば本人から言うだろう。
「さて、どうする泉くん。救うか? “いつも通り”に」
 いつも通り。その一言に一体どれだけの意味が含まれているのか。巳理が思い浮かべる”いつも”の中で、海瑠は常に一緒にいるのだと感じて嬉しさが溢れる。今とても、幸福を感じている!
「巳理さんが助けたいっていうなら全力で助けるよ! で、巳理さんに喜んでもらいたい! 褒めてもらいたい! いつでも巳理さんの隣で感謝されたい!」
「なら問題ないか。私はいつでも感謝しているよ、君が私に帯同してくれる幸運と幸福に」
「やった! …………って、え!?」
 すっと目を細める巳理は無意識に微笑んで。肯定ににこやかな笑顔を返す海瑠――いや、待った。いま会話が噛み合ったような……海瑠は笑顔のまま固まった。
「?」
「……あの。いやそのオレ、今……口に、出して、ました……?」
「しかと聞いたよ。場数を踏むごとに優秀になる泉くんには助けられてばかりだからね。そう言われたら私も頼り甲斐がある」
「ヒェ……えと、はい……ありがとう……ございます……」
 真っ当に返事をしたつもりの巳理に対し、海瑠は顔を真っ赤にして感謝した。今とても、恥ずかしい! 何が暗殺者失格だよ、普段のオレ戻ってこい! と内心冷や汗が噴き出た。頬を染めて汗を滲ませる海瑠に巳理こそ心配になる。急にどうしたのか……。
「泉くん、熱でもあるのか」
「元気いっぱい胸いっぱいだよ!! はち切れるかも!」
「なら良いが……無理はしないように。では助けられる者から手を貸そう。幸い生死に関わるような緊急性の高いものはなさそうだ。怪我人や病人を優先して」
「はーいっ!」
 以降の処置は迅速的確。ノルマがあるわけでもなし、|金銭《責任》が発生するものでもない。ある意味普段の仕事と同じでも余程簡単だった。泥酔した者には水を飲ませ、轢かれそうな人は妖精犬の瞬発力を活かして海瑠が救出。|面白茸《オモロダケ》で笑いが止まらなくなった者には鎮静剤を投与、木に引っ掛かった高級風船は勢いをつけてジャンプ&キャッチ! 金は放置。怖いし。怪我と心理的なものは出来る範囲で対応、それ以上はこの世界の専門家に任せる。己を過信しない。あくまで専門は内科及び心療内科。不調と不安を和らげるのが仕事。静の巳理と動の海瑠、真逆なればやれることも幅広く。
「本当に助かりました、ありがとうござ」
「いえいえ~お礼を言われるほどのことでも」
 助けた相手には必要以上に関わらず、持ち前のコミュ力を発揮し愛想良く速攻で立ち去る。ふふ、辻ヒーラーっぽい! とほくそ笑む海瑠。これは承認欲求や自己顕示欲というより自己満足の世界な気もするが、結果オーライ。あっちこっちと助けて回り、妖精犬ともなれば種族的にパッシブ速度増加でもついているのかと見紛う|素早さ《Agi=SPD》。救急箱程度で処置できるものは絆創膏や湿布をぺたり。そしてやはり金は放置。困って無さそうなので。
「不運って尽きないね~、幸福と同じで人それぞれ違うんだなぁ」
「そうだな。例えばそこに落ちている3億円。私たちにとっては大金だ。だが仮に私達の月収が100億円だったら、あれをどう思う?」
「桁が大きすぎるけど、相対的な価値は下がるなーって思う」
「その通り。そして貧者もまた急にそこにある3億円を安易に拾ったりしない。この状況下で自分だけがツいてると思えるなら大物だ。ここで燻っていない」
「それもそっか……」
「泉くんは報酬3億でなくともよく働いてくれて助かるよ。みな褒めていたし、私も信頼できる助手で鼻が高い」
 よしよしと海瑠の頭を撫でる巳理こそ、ついやってしまう無意識の仕草。褒める時の癖になっているのか、海瑠が嫌がったこともないので問題ないのだろう。むしろ見えない尻尾をぶんぶん振って喜んでいるように見える。そりゃあ何においても|唯一例外《・・・・》の巳理に褒められ撫でられ頼られたら海瑠が思うのは悪い気どころか嬉しさ満点。喜ばないなんて無理な話。
「えへへ……オレ、よくできてた?」
「勿論。ありがとう泉くん、君のお陰で沢山救われたよ」
「助ける側はサブのつもりだけど……巳理さんの仕事が楽になった、なら……うん……お、オレも嬉しい……!」
 照れ臭そうに笑う海瑠は本心からの笑みだった。朱に染まらぬ頬は堂々と助手としての矜持か、或いはもっと別の意味を含んでいるのか。海瑠自身、まだ自覚のない真っ直ぐで純粋な喜び。ほわほわした笑みにうっすらと巳理の口角もあがる。
 賛辞や承認への興味は巳理も海瑠と同じく薄い。自分が出来ることをできるだけ、決して無理はせず手の届く範囲だけで生きている。しかし可笑しなもので、海瑠が喜べば自分も嬉しいと思う。本当に、全くの無自覚なのだ。海瑠の頭を撫でてやるのと同じくらい、自然と……彼からの賛辞の声や求められることに喜んでいる自分がいることに気付いていない。
 二人とも絶妙に噛み合っていないというか、限りなく近い平行線と言うべきか。この空気感で困るのは大体感情面で振り回される海瑠の方なのだが……自己顕示の向かう先は常に|一方のみ《相手だけ》。それ以外の全方位が”|その他大勢《モブ》”であるなら、無害どころか良いことなのだろう。
「ところで泉くん、あまり愛想を振りまかないように」
「ん!!? え、あの、いつ……なんの話……」
「先程から助けて回っている者達に。一歩間違えると妙な勘違いをされかねない」
「……巳理さん」
 人の事言える立場かなぁ!!!! 巳理さんは!! ……海瑠は心の中で叫ぶ。今回ばかりは口に出さずに堪えた。偉すぎるぞオレ――!

御埜森・華夜
汀羽・白露


 あまりにも絵に描いたような不運の詰め合わせがそこかしこに広がっている。渦中で不運でない者がいるとしたら元々豪運の持ち主か、他に加護を持つか、或いは能力者の内いずれか……最後はそれほどアテにならないか。”運”を欠落した者やその類に好かれる者も中にはいて、白露も華夜も当てはまらないからこそ現実味がない。
 いつも纏う|お守り《アクセサリー》もしゃらりと揺れ遊び、華夜はポケットの中の時計を撫でた。たまになら「ツいてない」で終わる出来事も、一気に連続して押し寄せると|面白くなって《じわじわ》くる。
「……わお。見てみて、やべーよ白ちゃん。とんでも無いんだけど。ふふ」
「かや。人の不運を笑うものじゃない」
「だーってこんな滅茶苦茶な状況、滅多にお目にかかれ……あっ、あの人っ、そろそろ上着なくなりそう!」
 ほつれた糸端が電柱に引っ掛かり、外そうと悪戦苦闘する間に服の形をしていた毛糸はすっかり紐に姿を変えた。諦めて脱げば通りすがりの羊と山羊の抗争に巻き込まれ毛だらけもこもこ、着る前よりも分厚い毛皮に包まれたり。
 荷物箱に穴が空き、手紙がはらりと落ちては食べられていることに気付かぬまま山羊を引率する郵便屋さんの自転車。羊飼いは犬に引き摺られ羊を街に放牧。収集のつかない事態とは正にこのこと、どれから手をつけたらいいのか。どれも放置したところで二人に被害がないので笑っていられる。
「ひぃ~、白ちゃ、助けて、俺頬っぺ痛い……!」
「それ以上笑ってると擽るぞ」
「あーそれ反則ー。はぁーい、反省しましたー」
 笑い声を堪え切れぬ華夜を冗談交じりに窘めれば、きゃっきゃとはしゃいでいた姿も一瞬真顔になる。笑いに笑いを上書きする作戦? それも面白そうだけどグッと我慢。声は収まったが相変わらず楽しそうな様子に「絶対少ししか反省してないな、これは……」と白露は半ば諦めた。最初からそんな予感はしていた。
 具体的には|1/4《25%》くらいは反省して、残り|3/4《75%》は……他に何が起こるのか、わくわくハラハラとシュールさへの好奇心。|空《から》の|色に《しろを》|詰《そ》めるのが綺麗で優しい|物語《エピソード》だけじゃあ詰まらない!
 ぷくーと膨らませた華夜の頬を「|反省の色《・・・・》が見えない」と白露は軽く抓る。伸ばした腕の手首には先程買ったばかりのカフスボタン。すぐに互いへ着けあった。このお守りのおかげで自分たちは不運に見舞われてないのだとしたら効力はかなりか。
 息の抜けた華夜は改めて周囲を見渡すも、何度見ても不運だらけで気が休まらない。
「ぷすー。だーってぇ……面白い時は笑うものでしょ。白ちゃんもはい笑顔~」
「今は面倒な気持ちが勝っている。見てしまった以上、スルーという訳にもいくまい」
「はーい、お仕事ちゃんとするもん!」
「分かってるならなによりだ。じゃあ、どれから行く?」
「んー。俺の得意分野は偽物売られそうなのと、変な宗教勧誘で壺持たされたり押し付けられたりしてる人たちかなぁ。いざっ!」
「あっ、かや、待て……!」
 どういう得意分野だ、それはとツッコミを入れる間も無く飛び出した|幼馴染み《華夜》を見失わないよう白露も追いかける。いつだって目を逸らせない奴だと溜息混じりに、それが本当に嫌なら放っておく。追いかけるならそういう事。他人にかける義理人情以上のなにかが”単なる世話好き”か”|素直になれない《ツンデレ》”かの答え合わせは帰宅してから。

 怪しさ満点の古美術商の|売り方《押し売り》は大体決まっている。道行く若者――ものの真贋などさっぱり分からない、綺麗か好みか程度で良し悪しを決めるような|子供《・・》に向けて一気に捲し立てるのだ。
「お客様はとても運がいい! 実はこちら、かの横山先生晩年の作品として長らく表に出てこなかった秘蔵の一枚! 古美術品とは一期一会・日によって状態も価値も変わるもの、しかしこの作品の価値をお客様が分からないとは思えません! ささ、ローン48回払い、最大72回払いも受け付けておりますよ! もうお客様の手垢がついてしまいましたのでお引き取りしていただかないと!」
「えっいや買うなんて一言も……そんな大金無理です、一回親に電話を」
「ああお客様、そんなお歳にもなって一人で買い物もできないなんて……しかし学生の身では厳しいお値段なのも分かります。ここだけの話、今なら10万ほどお値引きを……」
「うーん、まー……いくら値引きされてもねー……俺ならそゆ偽物いらなーい」
 あたふたする学生の真横につき、商品を前に直球で贋作だと断言する|男《華夜》に古美術商は面食らった。いきなりの横槍、しかし|客《カモ》を逃がしてなるものかと食らいつく。
「なんですかアナタ、うちの商品にケチつける気ですか!? 偽物だという証拠でも!? あっしはこの商売でウン10年やってきてんですよ!」
「え、古美術商なのに見て分かんないの? じゃあこの仕事向いてないなー。まず紙とサインの年代が合ってないよね」
「!!」
 ぎくぅと肩を震わせる古美術商。その通り、後から入れた銘を入れたのだから合うわけがない。他にも筆運びや濃淡など本物でない証拠はいくらでも出てくる。画風を変えた、なんて言い訳は通用しない。「商売の邪魔をしないで下さい!」と大声で誤魔化し威嚇する古美術商に華夜が怯むはずもなく、二人を交互に見てはどうしようとおろおろする学生。追いついた白露は後方から三者三様を見守って――案外ちゃんと対応できているじゃないかと実質華夜しか見ていなかった。
「はーくちゃーん、詐欺師が強情」
「ん!?」
 引っ張られてようやっと白露も商品に目を向ければ、華夜の言いたいことは大体わかった。正直、一番厄介な相手だ。随分な”不運”に目を付けたなと華夜を横目に話の続きを切り出す。
「連れがすまない……だが、人を騙すような行為はいただけないな」
「誰が詐欺師ですか!」
 店頭に並べられた品を手に取れば、じんわりと掛け軸から”情念”が白露の中に流れ込む。モノ言わぬ物品の、精一杯の叫び。
「へぇ、この掛け軸は騙し取ったものか……元の持ち主に返してやってはどうだ?」
「ハッ!? 何のことです!? これは死蔵品をウチが買い取」
「老人に「孫の為に遺産を」と無理矢理に蔵を開けさせて安値で買い付けたそうだな」
 的確に状況まで解説されると言い返せない。|読み取った記憶の剣《サイコメトリック・オーラソード》をチラつかせるといよいよ古美術商は一歩退いた。その姿を見てやっと学生もこれは逃げて良いものだと判断し拒絶を吐く。
「あの、見てただけなので結構です!」
「そーそー、騙されちゃだめだよ。ほら|良い子《いーこ》だからお家帰んなー」
 学生が去ってすぐ、古美術商は露店に並べた商品をコソコソ仕舞い始めたのでさっさと通報……する白露を引っ張り再び華夜は走り出す! 次の相手は邪教のカモちゃん!
「……我らに不運が降りかからぬのは神の加護。貴方もこの壺を買えば加護をいただけるでしょう」
「おぉ、ありがたい!」
「たしかにー! |うちの神様《俺の白ちゃん》が見てるもんねー! おばさんもおじさんもセンスいーねぇ!」
 はぁ? 信者と一般人両名から声があがった。視線は華夜……の隣で無言を貫く白露に向けられる。えっへん、うちの神ですと自慢げにひとり笑顔。ぱちぱち拍手。
「神の名を騙る不届き者ですか? 神は俗世に姿を現しません。我らの崇める神以外は全て偽り、真の幸福とは我らが神が与え、」
 ピキ。青筋でも立てそうな勢いで華夜は笑みを崩さず信者に詰め寄る。
「はぁー!? じゃあ今すぐ俺を幸せにしてよ? アル・アジフの原本頂戴。ヴォイニッチ手稿の翻訳も、レメゲトンの全巻セットも欲しいし、あとはー……あ、抽選落ち続けてるブイッチ2も当てて! 神様なら出来るでしょ、ねーほら今すぐ!!」
「かっ、神はそのような俗物的な幸福を与えたりはしませんっ! 精神の安らぎこそが幸福なのです!」
「そうなんかい? じゃあソッチの神様信じなくてもいいなぁ。ウチの神棚にお参りした方がよさそうだ」
「あっ……」
 カスハラも吃驚のお強請りに信者もドン引き。しかし一般人も「願いを叶えてくれない神様に用はない」とばかりに興味を失い去ってゆく。ショックで手が滑ったのか壺が信者の足に落ち、痛みでしゃがみ込む彼らを無視して二人もその場を後にした。
「ふんだ。俺の神様disとか千年早いっしょ! 満たされてないのに精神が安定するわけないしー」
「……全く、ろくな奴がいないな……見方を変えれば俺達に出会ったのが”不運”なんだろうが……」
 不運を齎しているのか助けているのかよく分からなくなってきたが、理不尽な事から助け出してはいるはず。
「ふぅ。ちょっと休憩。ねー白ちゃん、ちゃんと見てるー? 俺めっちゃ働いてない!?」
「あぁ、良くやった」
「でしょー。んね、褒めて褒めて!」
 褒め待ちの態度に白露は素直に頭を撫でた。よしよし、なでなで。分かりやすくご機嫌になる様子が可愛いくて、耳元に唇を寄せ囁いた。
「……今すぐは無理だが、この事件が解決したら後で“幸せ”にしてやる」
「幸せ? 白ちゃんが?」
「ああ」
「やったー!! 楽しみにしてる!」
 多少なりともときめかせようとした|普段なら言わないような《歯の浮くようなクサい》台詞は見事にスルー。普通にきゃっきゃくふふとはしゃぐ華夜の姿は、白露からするとまだまだお子様に見えた。自己評価が低いのも起因しているだろうが、それはお互い様かと諸々含んだ嘆息ひとつ。先は長そうだ、と苦笑してもう一度撫でた。
「よーし、そうと決まれば! 白ちゃんあっちもいこ! 幸せ乱獲計画ー!」
「!? かや、少し待て……かや!」
 無邪気さに振り回される白露の手を引き、人助けに奔走する華夜。その耳にはカフスボタンと揃いのピアスが煌めいていた――。

第3章 ボス戦 『青蛙神』


●ハードラック・ウィズ・デザイア

 待っていましたとも、この|瞬間《とき》を!
 人々の幸運は私が頂戴しました。人の欲は決して絶えぬ原動力。ひとつ叶えば次を求めるもの。
 どうでしょうか。|不幸な皆さん《・・・・・・》――助けられて、幸福だったでしょう?
 捨てる神あれば拾う神ありと思いませんでしたか? 不幸中の幸い、自分はなんて運がいいんだろうと感じたでしょう。
 噫、なんて素晴らしい! 滴るような出汁のきいた、叫びと悩みの合わせ技! 踊り食いの新鮮さは何にも代え難い美食。人々が幸福に果てる時を今かいまかと待ちわびて……もう少しの辛抱です。
 はやく吸い取ってしまいたいけれど、彼らはまだ不幸のドン底に落ち切れていない。あなた達にはもっともっと”幸運”を注ぎ、浸る余地があります。

 それに引き換えどうでしょう。
 とても残念なことに……まだ幸福になっていない者がこんなにも沢山!
 何故でしょうか、人助けは一番分かりやすく”イイことをした”気になれる行為。大抵の者は感謝して、互いにいい気分になるはずです。私は人々がそうして、『不運』に感謝を添えて『幸運』に変換する営みを知っているのに。
 不運とは、不幸とは、|幸運《幸福》を一層深く味付ける調味料。
 なのに、ねぇ、どうして”しあわせになっていない”のですか?

 これ以上美味しくならないのなら、もう運に漬け込む必要はありません。
 |欠落者《満たされぬ者》たちよ、私の糧になりなさい。
 全ての運は循環し、私に還るのですから――。


 ◇

 蚤の市で購入した品が震える感覚。ついに顕現した|不幸《ふく》の神――青蛙神を前に、自分の役目を果たそうとしている。戦場は――噴水広場。
 あなたが情念の籠った品を身代わりにするのであれば、買い取られた品はあなたを不運から守り幸運を齎すだろう。
 もしそのまま持ち帰ろうというのであれば、いつも通りに戦えば良い。ただし、何が起こるか分からない。

 ぽつぽつと地面に水滴が落ち、小さな丸柄は次第に大地の色を変えてゆく。
 ”運”の名がついた雨が恵みとなるか災厄となるかは、あなた次第だ。


 【プレイングボーナス】蚤の市で購入した商品or自分にとってのお守りを所持している。
 以下のマークのうち、片方をプレイング冒頭に記載して下さい。マークのないプレイングは内容に齟齬が起こる可能性がある為、不採用とします。
 戦場は広く、足場はしっかりとしていますが常時雨が降っています。

 ⭐…商品を犠牲にし、敵の攻撃を一度無効化する。蚤の市で購入した物の場合、確実に破損します。跡形もなく完全に壊れるかは運次第です。使い捨てバリアとしてご利用ください。
 ☔…商品に頼らず、純粋な戦闘を行います。何かしら良い事が起こる可能性を秘めていますが、敵の不運に巻き込まれ大変なことになる可能性もあります。
 (公序良俗に反することは絶対に起こりません。また、特筆すべきNGがあれば明記して下さい。基本的にプレイングとPC様の雰囲気・設定に準拠します)
 例:☔ NG:髪が乱れる など。
野分・風音


 運気の籠った雨が降り続く。浴びれば浴びるほど、風音の背筋にぞわぞわと悪寒が走った。言葉で言い表すには難しい、決して気持ち良くはない感覚。冷たいだけで恐怖や嫌悪を感じるものはないのに、何故か嫌な予感がする。ぶるりと胸元の『薫』が震えるのを感じた。
「薫? ……場所はあっちね!」
 暗雲の出所を探り、薫の導きに従い噴水広場へ走る。そこには禍々しくも美しい神の姿があった。幸運の合羽を被り、不運を掻き分ける水かき。縁起良き蛙の姿が人の形となりて立ちはだかる。
「出てきたね福の神! 随分悪趣味な真似するんだね」
「悪趣味? まさか。終わり良ければ総て良し、幸福のうちに死ぬることは人生で最高の幸運でしょう?」
「運勢は誰かに左右されるものじゃない! これ以上そんな真似はさせないから、覚悟しなさい!」
「そうでしょうか。覚悟するのはあなたの方ですよ」
 べちん! 青蛙神の腰から生えた巨大な蟇蛙の三本目の脚が大地を揺らす。元より風音を狙ったものでなく、|わざと《・・・》外したのだ。神を中心として、周囲が一気に厄災地帯と化す。厄介なことは最初から分かっていた、ただ広がる速度があまりに早い!
 身体が重い、動きが鈍る――目の前で鞭の如くしなる尾にも似た神の三本目の脚が、風音に向かい直進してくるのがスローモーションのように見えた。ヤバい! こうなってはせめて受け身でも取ろうと力を籠めた風音の胸に、咆哮が響く。小さな薫は一瞬、巨大な番犬の影に姿を変え顕現し神の脚を受け止めた!
 ばきっ。身体に来ない衝撃の代わりに何かが割れる音がして目を凝らす。
「……あれ、無事? ……そうか、薫が護ってくれたんだね」
 懐にあった気配が消えていくのが分かる。今は感傷に浸っている暇はない、このチャンスを無駄にしては薫の意思ごと放棄するのと同じ。風音を守るために散った薫の分まで、福の神を蹴り飛ばさなければ気が済まない! |幸い《・・》にも敵は此方の射程範囲。風を纏った拳で思い切り吹き飛ばし、神が浮きあがった数秒のうちに見えない薫をそっと撫でる。もう|情念《こころ》は居なくても、ずっと|物《かたち》は残るから。
 神の力は反転する幸運。自身以外に効果が及ぶものであれば――反転したなら己のみが対象! 動きが鈍る。|不幸《・・》にも着地に失敗した神へダッシュ、起き上がる前に風音の強烈な蹴りが腹にめり込んだ。
「ぐっ……!」
「皆の運を返してもらうよ!」
 遠吠えが聞こえる。薫が応援してくれているのだろうか。
 擦れた傷と焼け跡に加え、耳まで欠けた犬張子。その姿を風音が戦の最中に確認することは出来なかったが、どこか誇らしい|表情《かお》をしていた――。

東風・飛梅


 蚤の市で購入した簪から香る花の匂い。よく知る梅の香りを纏い、周囲に季節外れの梅の花が咲く。雨に濡れた香りは一層深みを増し、紅梅色の幻影がちらちらと雨に混じっていった。まるで|蚊帳《バリア》のように花弁の幻影が不運の領域から飛梅を守る。
 どれほどの幸運が降り注がれようと、梅雨の雨樋を通るが如く滑り落ちる雨に青蛙神は溜息をついた。何が能力者達をそうさせる――幸福の果てに死ぬことを拒絶するのか理解できなかったから。
「あなたは欲しくないのですか。幸運は全て満たします。身も心も、|幸福《しあわせ》に至れるというのに」
「……身に過ぎた果報が身を亡ぼすというのなら、私はそんなものは要らない。今ある幸せで十分だもの」
 |あるじ様《Anker》がいて、|√能力者の《同じ力を持つ》友達もいる。埋まらない欠落はあるかもしれないけれど、過ぎたる幸せだって穴を塞がないのは同じ。偽りと他者から巻き上げた幸運で埋め立てられる程、簡単じゃない。人の姿をとった妖木が持つ欠落は|満たされ《思い出さ》なくてもいい事かもしれないのだ。
 枝の軋む音がする。きっと|簪《この子》は長く持たない。視線を神から逸らさぬまま、簪を握り締める。枝からはぼろぼろと梅飾りが落ちては散っていくのが分かり、|終焉《さよなら》を詠もうとして辞めた。

 ――あなたは必要とされたかった、のかしら。だとしたら……こんな終わりは、寂しかったわよ。
 ――あなたを身に着けて、綺麗って言われてあげたかったわ。
 ――だから、来年の春にまた会いましょう。

 飛梅の問いに簪が応えることはない。代わりにと一層濃くなった視界に浮かび上がる紅梅色はまたとない攻撃の機会だった。梅の加護のもと、青と黄色の神は幸運にもよく目立つ。この状況で外すほうが難しい。ぐっと踏み込んでは梅の花を舞わせ攪乱、そのまま青蛙神の代名詞ともいえる三本目の脚を片足で抑え込み、額目掛けて回し蹴り! 肉弾戦なら飛梅に分がある!
「この領域で何故――」
「雨に隠れていたつもり? お返しよ」
 鋭い勢いの蹴りが繰り出される度、梅の花が舞い踊る。はらりはらり……桜吹雪よりも力強く、芳しい色をした軽業の梅吹雪。美しき紅梅の雨に打たれているのは神の方だ。
 いつの間にかぽっきりと折れた簪はいつまでも心地よい香りを放っていた――。

姜・雪麗


 感謝の言葉も自尊心も。自己顕示も他者からの承認も、どれもこれも酒の肴にもなりゃしない。過剰な幸運も元を辿れば誰かの”運”。上昇を続ける青蛙神の周囲には目に見えて運気が集まり、オーラとして雪麗も認識した。正直なところ、少しばかり落胆したのは否めない。結局幸福になりたいのは神自身だったのだ。
「腹でも満たしてくれるのを期待してたのにねぇ」
「足りませんか。どうして? あなたには願望がないのですか」
「さてね。ま、与える運ってのもこの椀に収まる程度じゃ仕様がねぇか」
 牛も豚も肥え太らせてから食らうのが定石。もうちょっとうまいものを用意して欲しかったと雪麗は思った。例えば酒の雨とか、なんて一瞬考えるもこの神のことだ。ちゃんぽんにして全部を台無しにしかねない。美味同士を混ぜたからって更に美味しくなるとは限らないのに。
「今更だが――噫、畏れ多くも神に進言してやるが……人には”好き嫌い”ってもんがあるんだよ」
 腹が膨れりゃ何でもいいってわけじゃないとにんまり笑う殃禍の獣。その言葉を神は理解しえなかった。高まり続けた運気は周囲を巻き込み、公園を取り囲む十二支の彫像のうちひとつを武器として雪麗目掛け投げつける!
 禍福は糾える縄の如し、複雑に絡み合った紋様に対抗するならば此方も同じものを返してやろう。汁椀に使う前にってのが癪ではあるけども、買値より高く最期の御勤めを果たしてきなと送り出す。
「畏れに、盈ちよ」
 椀に描かれた末広がりの瓢箪は|無限大《∞》を為し、文字通り無数の魔喰らいの獣面紋へと変貌していく。茶碗が稼いだ分だけ描かれた紋がカチカチと歯を鳴らし、今かいまかと雪麗の合図を待つ。
「そうれ喰いつけ、我が紋よ」
 一斉に紋は彫像と青蛙神を捕食しに襲い掛かる。蛙ってのは食い出がないから、わざわざ自分で喰おうって気にならない。久しく食わせてやらなかった味だ。ごりごりと削れていく音は石で出来た彫像からか、それとも手元の椀からか。多少のお残しは仕方ねぇが、確り噛んでやりなと命じれば更に音は大きくなって……先に椀が砕け散った。
 |能力《術式》の性質上、移動はできない。よく持ったほうだと足元の一番大きな欠片を拾いあげた。丁度瓢箪のくびれが割れている。
 この戦が終わった後で集めておこう。多少足りなくとも呼継に使ってやるとしようか。どうせ元から欠けている、種蒔きと同じく色んなところに散らしても面白い。
 いずれは千成に仕立ててやるのも良いかもね――。

華応・彩果


 彩果はずぶ濡れだった。雨の日に傘もささずにいるからではない、此処にくる途中ですれ違った車から盛大に飛沫を浴びたからだ。
 わざとか? と思う程ピンポイントでぶっかけられた雨水も何のその。水も滴るいい女と気にせず噴水広場に向かう……ちょっとだけ「雨の日は徐行運転しなさい!」と思ったがそっちを追いかけている場合ではない。この不運の元凶となった古妖を退けなければ一般人の皆々様があまりに不憫。
「――あなたは不運に好かれている側ですね? ならば何故この”幸運”を受け取らないのです。不運を愛しているとでも言うのですか、それにしては満たされていないではありませんか」
「満たされるも何も……ただ私にとっては全部纏めて|日常茶飯事《いつものこと》ってだけなんですけどね」
 不毛な質問だ。ジト目で|不幸の禍味《ふくのかみ》を睨み答えてみるも、相手が納得する様子はない。それも当然の話で、彩果自身納得していないのだから説得力としては不足している。開き直り、という言葉が一番しっくりくるか――多少のことでいちいち滅入っていてはやってられない。
 人生は幸運な方が良いに決まっている、でもじゃあ|幸運《ラッキー》な自分を想像できるかと問われればNOだ。極めて不服であるが、不運も不幸も彩果の一部なのだから仕方ない。
 ここではバイクを乗り回すことは出来ないが、まぁ大体、彩果の予想は外れる。こうなった時の為に幾つもプランを練り準備は万全。足元にやや軽くなったバックパックを置き、|懐中時計と飾り紐《おまもり》を取り出して少し眺めては「よし」と気合を入れてポケットへ戻した。買ったばかりの飾り紐が彩果の知らぬ間に懐中時計に馴染んでいる事に驚きつつも、たった一振りで砕ける文字通り『一期一会』の刃を構える。
 仕切り直し、と云わんばかりに先ほどから天より零れる涙はさっきまでに起きた泥や汗や髪の乱れや鼻頭の熱をきれいに押し流していく。さっきの荒い運転にかけられた飛沫もだ。
「さあ、アンタの|不幸《ふく》と私の|前準備《ちからわざ》……どっちが強いか――勝負!」
 一閃、青蛙神の脚を捉えた。人の血とは違う液体が流れ、されど怯むことなく近づいた彩果を尾としても使える脚で絡めとった! 締め付けは強くなり、ギチギチと軋む身体で対抗しようにも一期一会は既にない。「やばい」と思ったその時!

 キキーッ! どごぉ!!!
 けたたましいブレーキ音の直後、激しい打音が鳴り響く。

「むぎゃーっ!」
「ちょっ」
 古妖と能力者を巻き添えに、盛大な交通事故が起こった。まさかのひき逃げ、吹っ飛ぶ二者。車は目もくれず逃走していったので無事なのだろうが……一体この|不運《幸運》はどちらの所為なのか!? |幸運《・・》なことに、暴走車の運転手はその後普通に速度違反と危険運転で捕まり免停となった。
 こうなってはまた最初から仕切り直しといくしかない――!

彩音・タクト
聖夜・前々夜


 雨々降れふれ、もっと降れ。運気を雲に、幸運と不運の雫を等しく皆に注ぎましょう。蛙の鳴き声とは思えぬ麗しい祝詞に呼応し、タクトと前々夜の周囲の器物がカタカタ震え出した。二人を囲う殺気は器物から発されている。|彼ら《アレ》は負の情念を青蛙神によって増幅されたもの、幸福な者達へ嫉妬の炎を燃やしているのだ。
「先程まではリードしてもらいましたが戦闘はお任せ下さい。怪我でもさせてしまったら申し訳が立たないですから」
「きゃ~~! タクトちゃん頼もしい格好いい~~! 分かったわ、私は応援に回るわね!」
 鉄鍋をカンカンカーンと打ち鳴らせば開戦の合図にも似て、|不幸《ふく》の神へ挑むゴングが戦場に響き渡った。重量がある割に結構いい音がするなぁと思った鉄の鍋、だからと言って楽器にするものでもない。今だけはツッコミを後回しにしてタクトは魔導書を取り出した。雨に濡れても弾く表面は何らかの加護を受けているのだろう、|研究者《タクト》の知識欲を満たす一端になり得る逸品で間違いない。けれどご機嫌に鉄鍋でリズムを奏でる彼女の安全と天秤にかければどちらが大切かは自明の理。なのだが。
「行けータクトちゃん! そこだー!!」
 カンカンカン! カーンカーン! カカカカッカーンッ! 前々夜は一切ふざけていない。真面目に楽しんで、いや応援している。しかしその応援方法に些か物申したい。タクトは振り向いて一言。
「いぶたんさん、応援は有難いですが少し静かに……!」
「あぶなーい! タクトちゃん前っ!」
「!?」
 タクトが目を離した一瞬の間に開かなかった本は勝手にばららららとページを捲り、中から現れた精霊が神からの攻撃を防いだ。封印されていたのか引きこもっていたのか分からない精霊はくすくす笑って、タクトたちの前から消える。「残念、折角中身を読むチャンスだったのにね」と少女とも少年ともとれる声が鉄鍋の音に混じって聞こえたような気がした。
「あーっ! き、消えちゃったわ……もう! タクトちゃんな大事な魔導書になにするのよ!!」
「いや今のは勝手に発動し、」
「喰らえっ、鉄鍋アタック!!」
 果敢にも青蛙神に向かい攻撃を仕掛ける前々夜だが、ぴょんっと蛙のステップで躱されてしまう。能力者同士の戦いにはあまりに不利。けれども前々夜だって魔女、浮かせた鉄鍋を思いっきり投げつけた! ぺしっと跳ね返されるたび鉄鍋はベッコベコのボッコボコに凹んでいく。
「……あっ鉄鍋……! 壊れ、そ……てっ、てつなべ~~!!」
「ちょっと、料理器具を鈍器にするんじゃありません! 楽器扱いもですけど! 大切ならもっと丁寧に扱って下さい!?」
「道具は使ってこそよタクトちゃん! 魔導書の仇は必ず取るわ!」
 振りかぶった鉄鍋にぴしりとヒビが入り、ついには砕け散った。鉄鍋ってこういう割れ方するんだなとまたひとつ学びになったのは秘密。散々振り回しておきながら前々夜は相当ショックだったようでタクトの背後にひっつき泣き言を言い始める。
「助けてタクトちゃん!! 蛙っ娘が私を虐めるわ~~!」
「は?」
 今の返事は青蛙神である。口に出さないだけでタクトも思ったが女性の前で流石に言えない。
「いくら私が美魔女だからって! いくら私が圧倒的幸福の美魔女だからって! 虐めるだなんてヒドいわ~!!」
「いいえ、敵はあなたに何もしていません!」
「あなたの幸運は”責任転嫁”で出来ているのですか?」
 ついに青蛙神からツッコまれた。言いがかりもいいところである。青蛙神は古妖、圧倒的幸福に関しては気になるが美魔女については本当に興味が無い。そして命懸けの戦いで虐めも何もあったものでなく。吸い取るには多すぎる幸運の塊に謎の疲労感が|青蛙神《敵》と|タクト《味方》同時に圧し掛かる。何故敵とリンクしてるのか……色々と限界が近い。これ以上続けていたら|精神的疲労《ツッコミ疲れ》で倒れかねない。そうなっては誰が前々夜を守るのか。
「よーし。タクトちゃん、もうやっちゃってどうぞ♡ これが私を悲しませたことによる、タクトちゃんの怒りよ!」
「えっ僕ですか!? 怒りというか、ああもう……はい……」
 タクトは半ば投げやり気味に詠唱を開始した。いつもより|早口《高速》な術式展開は早く終わって欲しい気持ちが如実に表れている。『Muse wand』から放たれた魔術が神を貫き、怯んだタイミングで避難。もはや此処に来てしまったのが運の尽き。
 一方。去り際に見てしまった鉄鍋の破片に想いを馳せ、前々夜は嘆き悲しんだ。ああ、鉄鍋……あんなものやこんなものを煮込もうと思ったのに。でも楽器に改造する案も出来たし、やっぱり運が良かったわと強く頷いた。
「私の鉄鍋が……ぐすん。悲しいわ……あんなお別れだなんて……」
「ぐすんじゃないです。僕も魔導書が消えて悲しいんですよ?! 鉄鍋、中古品でよくあれだけ耐えたものだと逆に感心しました」
「それもそうね? となればタクトちゃ~~ん、新しい鉄鍋買って♡ また新しい出会いが待ってるわ!」
「はいはい、また探しに……奢りませんよ?!」
 結局避難先で新しい鉄鍋を手に入れることは出来なかったが、代わりに『0から作る! オリジナル魔道具~鍋と柄杓編~』なる本を見つけてしまい今後の予定が色々立ってしまった。この出会いを不運か、それとも幸運と感じるかは個人差が大きい――。

アリス・グラブズ


 無邪気な笑みでアリスは神に問う。
「ねえ――この幸せ、ちゃんと“君の”だった?」
 淡々とした声で反転する福の神は答える。
「ええ――”私のもの”になりました」
 雨に濡れた金髪がにやりと揺れる。雨に濡れないように大事に懐に抱えたグルメマップが微かに脈打つのを感じた。“幸福になってアリスになった”人達が、|思考の海《アリス》の中でくすくす笑う。なんて可笑しいの、美味しいの! こんなに沢山の美味に出会えたことは、きっと間違いなく幸運よ! くすくす、くすくす。今笑ったのはだぁれ?
「いっぱい承認されたねっ? よかったねっ?」
「多くの者達が承認されるはずでした。いいえ、承認されたのは……|私《・》?」
「そうっ! みーんながあなたの事を”認識”したわ! 嬉しい? じゃあ、もう還っていいよっ」
 びちゃっ、ぐちゃっ。水と泥をかき混ぜた音を立て、|情報構造体《アリスたらしめるもの》が青神蛙の”しあわせ”を再演する。快楽は還元不能、“おいしい記憶”としてアリスの中に保存することにした。無限に生み出される|幸運《しあわせ》を資源とし、食べても喰べても尽きない味にやみつきになる。
「美味しいでしょう、幸運の味は」
「とーっても美味しいわ!」
「ではその|快楽《しあわせ》――私にも味わわせて下さい」
 福を吸い尽くす神の三本目の脚が大地に響き、アリスの一部となっていく。攪拌、混濁、ぐるぐるぐるぐる目が回る。今のアリスはどのアリス? 誰でもいい、彼女を構成するものはひとつじゃない。多くの美味の中には、特別独特な味があってもたまにはいい。ずーっと同じ味はどんなにやみつきになっても急に飽きてしまうから。
 少しばかり地図が雨に濡れて、チェックされていた場所とは違うものが浮かび上がった。水に濡れて初めて目にできるそれらは、隠匿すべき禁断の美食屋。震えた感覚はアリスが本能的に思う「食べたい」に地図が応えたからだろう。
 もともとこの地図には多く書き込みがあった。それは“誰かの幸せ”の記録。この地図を手にした者は託されたのだ。これまでのグルメをまた辿り、次世代へ繋げることを。けど、唯なぞるだけじゃあつまらない。|幸運《しあわせ》の味を咀嚼しながらアリスは地図を広げた。
「次はワタシが、続きを書き足してあげるっ!」
 神とアリスの味比べ、勝つのはどんなものでも食べられる|悪食《グルメ》に決まっている――!

ヨシマサ・リヴィングストン


 人助けは自分の為、礼をされれば満たされる――そう云う神の言葉に少し引っ掛かりを覚えた。思うに、今までしっかりと意識した事がなかったからだろう。ヨシマサにとって人助けは日課であり、特別なことでも感謝されるまでもない。言われてみてやっと「確かに良いことしたな~」と気付いた。
 忘れていただけ、面倒でもイヤなことでも決してない。これからもきっと続けるだろう。√ウォーゾーンでは助け合わなければ生きていけないのだから当たり前。いっそ|あちら《√WZ》の人間こそ真に心優しい可能性もある。戦場じゃあ逐一「助けましょうか?」なんて聞いてる手間も惜しいわけで、持ち帰れば存分に役立ちそうな作業用手袋をここで消費するには些か勿体ない。
「ということでボクの身ひとつで撃退と行きましょう!」
 |武装変形《モードチェンジ》・|装甲撃砲装置《インフェルノギア》! 爆熱の炎を拡散する強烈な一撃が蛙を黒焼きに……。
「うん? あれっ?」
 カチ、かち。銃爪を引いても弾が出る気配なし。湿気ぐらいで動かなくなるなんてこと無かったはず……。かちかち。変形したまま動かない撃砲に両者緊張の糸が緩む。
「あ、あれ~……?」
「弾詰まりですか。不運ですね」
「や、そんなはずは……」
「ではいただきます」
「早いはやい! あーっ身体から何か抜けてく感覚気持ち悪い!」
 ヨシマサの身体から運気が吸われる。このまま致命傷を喰らって死んでしまうのか……周囲が妙にざわついて「流石√妖怪百鬼夜行だなぁ、インビジブルまで賑やかな見た目なんだぁ」と走馬灯がよぎる。
 ーーいや違うッ!? 彼らは生きた人々、先程までヨシマサが助けていた最後のグループ……コスプレイヤーたち!?
「修理工クン、今度は私達が助ける番だよ!」
「まだお礼してないですから、これをどうぞ!」
「えっ何!?」
 困惑するヨシマサに手渡されたのはレイヤー御用達のコスプレ七ツ道具! 安全ピンに両面テープ、髪をガチガチに固めるスプレーと潤滑油、万能メイクセットにポラロイドカメラ。これで何が出来るんだという話ではあるが渡されたので受け取った。
「この雨で|合わせ《イベント》流れたからさ……修理工クンのお手伝い任せて!」
 どろんチェーンジ! 複数のコスプレイヤーたちがヨシマサの姿に変身する。それぞれ微妙に違うが青蛙神同士とは初見だし見分けがつかないだろう。それに彼女らは『化けること』に特化した存在、この間に本物のヨシマサは撃砲を修理しろという事だ。コスプレ七ツ道具を使う場面があるかはともかく、まぁ詰まりには使えそうなものもあるっちゃある。
「助けた相手がピンチに駆けつけて助け返してくれる……すごい熱い展開……」
 こんなところで|素敵な幸運《おいしいシーン》を消費してしまうのも、きっと不運のうち――。

詠櫻・イサ
ララ・キルシュネーテ


 神と神が対峙した時、勝つのは一体どちらなのだろう。より信仰が強い者か、より永く信じられて来たものか。性質によって様々な権能を持つ神は一括りで纏めることはできない。中には”自信”を力に変換することだってできる者もいる。自信とは言い換えれば『自身の力を信じている』に他ならず、強い信念が力を増幅させたって不思議じゃない。神に理屈は通らない。
「あなたは神の因子を持っているようですが……まだ小さい。その若芽を摘むのもまた美味でしょうか。あなたの運は良いか悪いか、確かめてみたくあります」
「ふん。お前は不幸の神だそうね。不運の連続はなかなか楽しい試みだったわ」
 でもね、とララは続ける。自信に満ち溢れた|貌《かんばせ》に虚勢は見られない、浮かべるは自信に起因する”確信”の笑み。
「|迦楼羅《ララ》も厄祓いができるのよ。いいわ、お前のこともしあわせにしてあげる」
「運がいい悪い、ねぇ……。聖女サマの慈悲を安売りさせた代償はきっちりもらうよ」
 あの後しばらく、青蛙神が現れるまでちょこまかと|人助け《奇蹟》に奔走する|聖女サマ《ララ》の面倒を見たのはイサだったわけで。付き纏いを追い払ったり金儲けに攫われようとするのを阻止したり、他にも力を滅多やたらに使わない方がいいと注意したり助けた相手をさり気なくアフターフォローしたり……何より目を離さずとも駆け出すの彼女を追いかける大変さといったら!
 これ以上付きまとう奴が増えたらどうしてくれるんだとイサが溜息を零すのも当然。騎士の心を知ってか知らずか、ララは忠言か場を和ます|冗談《・・》か微妙に判断に困る|不運《不幸》を予言した。
「イサ、気をつけなさい。お前はお守りを持っていないのよ。どんな不幸があってもおかしくない……お前の服が弾け飛びかねないわ」
「いや、弾け飛ばないだろ。それはもう不幸とかそういうモノじゃなくない? よしんば弾けて誰が|得する《幸福になる》んだよ」
「……ララは見たいけど?」
「だろ、見たい奴なんていな――え? …………」
 期待の眼差しを感じる。確認に隣を見遣るイサの視線と交わったララは至極大真面目な様子。聞き間違いか? うん、|こんな話題は最初からしていない《・・・・・・・・・・・・・・》。何も聞かなかった事にしてイサは|騎士《シュヴァリエ》らしく|聖女《ララ》を守るよう前へ出る。
「花一匁しましょ。取り合うのは『運』でいいわね」
「この私と運勝負ですか。構いませんよ――厄払いのお|雛女《ひめ》様、不運を押し付け合いましょうか」
 降り続く雨に足を取られぬよう、幼き翼を震わせ一気に駆け抜けた。小賢しい雨はイサが張り巡らせたバリアによって守られ濡れる心配はない。振りかぶるは|窕《金の刃》と|銀災《銀の突匙》、三本脚のひとつくらい頂戴よと断ち切る禍害を防ぐのは青蛙神とララの間に割り込んできた彫像だ。噴水公園に飾られていた普段は人々を癒す存在が邪魔をする。
「面倒だね。でも手出しはさせないよ」
 人魚の躯は伸縮自裁の剣、周囲を巻き込んだ薙ぎ払いは寄せて返らぬ衝撃波となり彫像を吹き飛ばす! 冥海の骨魚達は群れを成し、弾幕となって絶えず青蛙神へ攻撃を続けた。大海の汐に雨粒など砂漠のひと掬いと同じ。今が好機と、ララの身体に天輪の華が咲く。
「ひとの不幸は蜜の味……なのはお前のほうだわ。ララに殺されるのだもの、何より幸せ者ね」
 雨すら蒸発させる破魔の迦楼羅焔が燃え上がる! じりじりと焼け爛れる青蛙神の体力は確実に削れているが、この雨は|不幸《ふく》の神にとっては恵みの雨。|運良く《・・・》ぬめった身体で致命傷を避け続けた。焔と雨が渦巻いて、大気が震える。
 正面に立つ青蛙神へ注力していた二人の背後をついた二体目の彫像はララに迫る。が、当たる前にそれは急にバキっと砕けた。思わず振り返るララ、同時にパリンと音を立てて蚤の市で購入した鏡は割れてしまった。花弁のように散った鏡の破片、一片残らず落ちた真実を寫す鏡を失った手鏡は、ただの飾り枠に変わる――お気に入りが割れたことに眉を下げるララに返事をするように、色褪せたアネモネの装飾は雨に濡れ濃く色づいていた。
「あっ、鏡が……!」
「!? そっち側からくるなんて卑怯な……」
「いいのよ、この子はララを守れて本望のはずよ」
「そうか……まぁいいよ、あとは俺に任せ──うわ!?!」
 舞い散った鏡の破片は二人を傷つけることはなかった。無かったが、幸運も不運も同時に齎した。もう青蛙神なんてどうでも良くなるくらい大変な……それどころではあるが気が散るという点において非常にやりづらい状況に陥っている。
 鏡の破片がイサの衣服を破き、白い肌が露出する。|女子《おなご》のララで無かったのは不幸中の幸いかもしれないが、男ならOKというものでもない。半端にはだけた服から覗く素肌は逆に妖艶で、更には気をとられたせいで雨にも濡れた。いい感じに透けたり肌に張り付く衣服だった布。
「イ、イサ! なんて幸福……いや不幸……? に巻き込まれて……予言通りだったわけね」
「納得するところじゃないだろ!? まだセーフ、セーフだろ!?」
「そうね、ララは歓迎よ。戦いはまだ終わってない――そのままやれるわね、イサ?」
 くすくす嗤う青蛙神。人の不幸を糧とする神を焼き尽くすにはまだ時間がかかりそうだ。中からも外からもじっくり火炙りにしてやろう。
「はぁ……この不幸、そのままお前に返してやるよ」
 イサの決意は固かった。ものすごくやる気に満ちた様子に、ララも満足気に再び神と対峙する。
 地面に落ちた鏡の破片が寫すのは、曇天の中優雅に舞う白虹の聖女と冥海の徒の姿――。

汀羽・白露
御埜森・華夜


 最初に|拾った《・・・》のは華夜だった。捨てる神あれば拾う神ありて、|乱丁・落丁本《話の前後が繋がらない本》を幼いながらに熱心に読み込んだ。どれだけ繰り返し読んでも意味が通るわけもないのに、その展開の読めなさが面白かったのかもしれない。いつしか異国の児童書は|名と肉体を得て《白露となって》、会話も出来るようになった。ということはつまり?
「はっ! えっ?! 気付いちゃった……俺、白ちゃんのこと|拾った《読んだ》よ!? ってことは俺も神様ってことー?!」
「……」
 仮にも神の名を冠した不幸の神・青蛙神を前に華夜は怯むどころか閃いたとばかりにはしゃぐ。隣の白露はそれをただジッと見つめるばかりで咎めもせず様子を窺っている。
「えっ、やだすごぉい! えへへ、なんか俺の存在がめちゃくちゃランクアップしてるんですけどー!」
「あなたが神ですか。もしそうならこの世全ての人間が神と為れるでしょうね」
「ふふん、現人神もやぶさかでないかなぁ」
 黙って聞いていた白露の心が乱れる。かき乱される。「|かやが俺と同じ神になれば《その手があったか》……」と此方も気付いてしまって、けれど口にはせずそっと払いかき消した。|物語亡き空っぽの体《D.E.P.A.S.》を満たすのは神の力でなく、白露が齎す結末でありたいから。たった一人に宛てられた、華夜の為だけのエンディング――出来上がるのは当分先の話だろう。けれども起承転結の順序はばらばら、|本《・》人でさえいつ終わりを迎えるか予測できない物語。
 いつにも増して真面目な顔で口を真一文字に結んでいる白露。華夜は心配になって眼前で手を振った。
「うっそうそー。じょーだんだってばぁ……んでもー……ねーぇ、白ちゃん。あの神様、かわいそーだね」
「可哀想?」
 理由が分からず、白露は反射的に聞き返した。可哀想な目に合わせている側だと思っていたが、華夜の考えは違うらしい。
「なんだろ……泣けないのかなぁ、あの子。それとも、苦しいのも寂しいのも、分かってないのかなぁ?」
「かや……」
「そーいうのが分からなきゃさ……嬉しいと楽しいだって、全然味が変わっちゃうよ。それってすごく、かわいそーだと思う」
 話を聞いて一定の理解は得られた。あの神の行動に対して様々考えて行きついた答えなのだとして、その感受性の高さがとても愛おしいと白露は思った。同時に心配でもある。きっといつかこの感受性は華夜の心を傷つけるんじゃないかと。傷ついた身体はすぐに癒せても、心を治すのは時間がかかる。そんな傷が華夜の一部を埋めるなんて|あってはならない《白露は嫌だった》。
「でーもさぁ……俺が守りたいのは俺の|神様《白露》だけ! だって、俺のだもん」
「!? そ、そうか……いや、かやは自分の身もちゃんと守ってくれ……」
「あったりまえ! 俺は空っぽだからねー、ほんとうに大事なもの以外はぜーんぶ、それを守る為の”|お守り《アクセサリー》”でしょ!」
 突然の爆弾発言にどきりと心臓が跳ねる。また頁が乱される。『白露は自分のもの』だと華夜は迷いなしの嘘偽りない本心で思っていて、白露はそんな風に思われていることに気恥しくなる。だのに躊躇いなくお守りを不運と相殺する華夜の様子は、童が癇癪を起した時の自暴自棄にも見えて痛々しい。
 雨を模したガラスのピアス、霊木で作られたバングル、翡翠の腰佩、怪異を詰めた首飾り、鞄につけたホイッスル……全部ただの、空瓶が割れない様に纏ったお守り。中身の詰まっていない瓶は脆くて、すこし力を籠めたら|罅《ヒビ》が入ってしまいそうで必死に覆い隠した。こういう時の為のお守りなんだからと次々に消費する手が不意に掴まれる。咄嗟に細腕を掴んだのは白露だ。怒っているような、悲しそうな――感情がわからない翠と困惑に揺れる真珠色の瞳がかち合う。
「へ? なぁに白ちゃん、どしたの?」
「……俺が」
「? 白ちゃん?」
「……ああ。俺がいる。俺が……君を、幸せで満たしてやる」
 自分でも何を口走っているんだと白露は頭を抱えたくなった。己を|空《から》と自虐する華夜を止めるのに必死すぎだろうと脳裏でぐるぐる、こっ恥ずかしさが後からこみ上げる。それでも手は強く握ったまま離さない。驚いた華夜は一転、笑みを浮かべ瞳は真珠の上に雪をまぶした真白に輝いた。
「ふふ、ほんと? じゃーやくそく。ね? えへへ」
「ああ」
 引っ掴んでしまった手を改めて握り直す。しっかり繋がれた手をご機嫌に握り返す華夜は嬉しさを隠しもせずふふりと子供のように微笑む。分厚い本を夜通し読み耽った完読後の満足感とは違う感情なことは確かだ。何かが少し空瓶に溜まる。あたたかな、優しくてまた思い返したくなる気持ち。
「白ちゃん、俺いまさいきょーの気分かも!」
「運気もじめじめしていたら寄ってこないだろう。このまま|倒す《締める》!」
 短い詠唱に呼応し噴水公園を取り囲む草花の様相が変わり、場は闇茨が跋扈する空間へと変貌した。闇を突き進めるは語り部と仲間たちのみ。意思を持った棘が青蛙神を拘束しようと追いかけまわす。着地点を計算し事前に放った|殺意投影《ルミノグラフ》に付随した|死線残光《ファタル・ゴースト》を浴びた|不幸《ふく》の神はついに茨に脚を取られる! 如何に遠くへ跳躍しようと、運気を上げ続けようと――姿を一方的に捉えられていては成す術もない。噫、降り続く雨粒の中に雨を騙る糸雨が紛れていたのはいつから? もしかしてずっと、雨が美しいと感じた時からか。雨に混じった光は……古妖を炙り出すのに丁度良い!
「くっ――」
「見えてなきゃ使えないだろう? その類の技は」
 反撃もまた茨を壁に見立てて防壁とし、白露と華夜の二人を護る。夢棘の宮廷は誰からも眠りを妨げられない城の本来の|役割《使い方》とも言える。
「捉えた。かや、特大の一撃をお見舞いしてやろう」
 白露の言葉に返事をする代わりに握り返した掌は強く、華夜はもはや|無敵状態《最強メンタル》だった。メンチを切るかの如くジト目で青蛙神を睨みつけ煽りに煽る。
「なんつーかさぁ……俺の|神様《白露》、侮ってない? 俺の白ちゃんナメんなよ?」
「斯様に幼き本の付喪神。人の形を取らねば雨に弱いのでしょう? 不運ですね。私はあれほどまで幸運に浸してあげようとしたのに」
「はーぁ!? てゆか、白ちゃんは俺がいるだけでハッピーだからいいの! よけーなお世話でーす! 出でよ式神、猫の手栞で描きますは——」
 宙に描いたインクの猫が実態化し、雨を弾く毛皮ごと青蛙神へ突撃! 切っていない猫の爪の殺傷能力は考えるだけでも恐ろしい。それでなくとも蛙は猫に弄ばれるもの。相性最悪の敵に一瞬怯んだ隙を見て華夜は叫んだ。
「ね、白ちゃん!! 言ってやって! 俺のかやが可愛いから、俺にはそれがお守りですって!!」
「えっ!? いや、その……それは確かにそう、なんだが……」
 華夜の中で己の評価が高い事に気を取られていた。戦闘中だ、ひそりとでも喜んでいる場合ではない。じゃあこの要求に応えるのも意味があるのかと考えると難しい。真実その通りだとしても、いや……お守りとして申し分ないどころか最強である。それを堂々宣言できるかどうかはまた別問題。
 動揺にもごもごと声が出ているようで出ていない。雨音にかき消されて何も聞こえない。聞こえないが先の白露の「確かにそう」だけは華夜の耳に届いて内心二度見したのは秘密だ。そうなんだ!? へぇー!! 皆聞いたー!? と言いふらしたいがここはやはり本人の口からしっかりと聞きたい。白露は華夜のもので、華夜は白露に可愛いと思われている……。ふぅーーーーん!!? によによ。場の空気が、運気が、幸福に傾いていく。
「白ちゃんー!?」
「……か、かやがかわ……っ~~人前で言わそうとするな!!」
「んもぅ! ちぇー」
 がっくり、期待が高まっていただけに華夜は少ししょぼくれるも白露からすかさず続いた言葉に目を見開いた。
「家でなら何度だって言ってやるから我慢しろ!!」
「えっ、ほんと?! 家なら、“絶対”言ってくれるんだ……? ふーーーーん?? 男に二言はないよね?」
「ああ……えっ、あっ」
 しまったと思ってももう遅い。握られた手は一度解かれ、再度繋がったのは小指同士。がっしり逃がさないと満面の笑みを浮かべる華夜を前にしては白露も観念するしかない。
「絶対だよ? はい、ゆーびきーりげんまん、嘘ついたら—……んー、何してくれる?」
「う……嘘は、つかない、と……善処、しよう……」
「やーった! そうとなったら早く帰ろ! 俺いま、すごーく幸運かも!?」
 大満足の華夜はそれはそれは幸運だろう。対する白露はどうだろうか。帰ったら確実に言わなければいけない……人前で言わせるなとは言葉の綾で、面と向かって二人きりで伝えるのは別の恥ずかしさがある。完全に詰み。
 尤も、眼前でイチャコラなんだか漫才なんだかを見せつけられている青蛙神こそ今一番不幸かもしれない。他人の|幸運《幸福》に嫉妬はしないが、こういう|類《タイプ》の運は吸収の対象外ゆえに――!

日宮・芥多


「うわ、中々いい降りですねぇ」
 豪雨とまではいかなくとも、このまま放置しては全身に運流が染み込んでいくだろう。今日の天気予報に雨はなかったはずだが、これも不運の一環か。傘も買うべきでした、とは後になってみなきゃ知り得ない。後悔は人生の|分岐点《標識》に記されてるものでなく、人によって違う。
 しかし思えば、芥多は大抵不運の道を選んでいた。狂気に誘われているのか、最初から破滅の道しか見えていないか――掌を天に向れば溜まる小さな水たまりを握りつぶし、|不幸《ふく》の神へ向き直る。
 俄かに降り出した段階で|経験上《・・・》「これは長雨になりそうですねぇ」と先に栞を仕舞っておいて良かった。大切な土産の栞、濡らしたくはないし壊すなんて以ての外!
 星詠みの話では購入品はお守りになるそうだが、頼らず戦った方がギャンブル性があって面白そうだと自然に口角が上がる。運に見放された男が最後に勝ち取るのはどっちか、守って戦っても栞が壊れるなんてことも十分ありえて、そうなったら|本日の仕事《・・・・・》を土産話になる。毎度飽きずに聞いてくれる妻を思い浮かべれば悪くない。そのくらい、不運はいつもの事だ。
「……おや、あなた」
「俺?」
「あなたは刺激的な味の気配がします。その不運、いえ悪運はどこで得たのですか?」
「残念ながら心当たりはちっともなくて。こう見えて困ってるんですよねぇ! どうせ食べるなら悪運の方だけにしてほしいところですが……そうもいかなそうですね!」
 |柴犬型運搬庫《えだまめ》の鞄から素早く血液パックを取り出し、怪異兵器へと纏わせた。斧の形をした分厚い刃は獲物を捕らえて離さない蜘蛛にも似て、鮮やかな血潮色の紅に染めあげる。蛙狩りには多少大袈裟な武器も、相手が人型の神なら丁度いい。好き勝手に暴れまわっていればいつの間にか終わっている――簡単なお仕事にぴったりな単純明快な暴力の塊。
 過剰な幸運によってもたらされる不幸とは具体的になんなのか……不運豊かな芥多的には少し経験してみたい気もする。例えばご近所さんから野菜を貰い過ぎて腐らせてしまうとか、とりあえず入って用だけ足そうとした百貨店の入場者数100万人記念に当たって長時間拘束されるとか? 否――その程度では全然、不運とは呼べないか。
 とりあえずあの|運気《呪い》に引き寄せられた物体さえ躱せば傷も不幸も与えられずに済むと仮定し、芥多の暗殺技巧が牙を剥く! 噴水公園に設置された彫像たちが視界内の中では最も火力があるだろう。何度も斬り裂いては粉砕し、器物破損を楽しむ。一歩ずつ確実に青蛙神へ迫り、ついに血斧が水かきの一部を抉った。
「! ――……」
「おやぁ、血は赤くないんですね。神様だからですか?」
 流れ出た体液は名前の通りの青でも、本物の蛙のように赤くもなかった。透明な液体はどろりと粘液めいて、自らを裂いた斧の中へ侵入する。血を流させる為の兵器に入ってくる異物に、道具であるはずの斧は激しい拒否反応を示した。適応外の不純物に|血が破壊されていく《・・・・・・・・・》! 運気やら血液が吸い取られていく感覚に、芥多は斧をぶん回し排除しようと試みるがうまくいかない。なるほど確かに『幸運にも敵に血を流させたが、不運にもそれは必ずしも良いものとは限らなかった』わけだ。
「あー……こうなっては仕方ありませんねぇ」
 芥多は改めて溜息をついて、斧を左手に持ち替えた。痛いのは嫌いだし考えないようにしていたがそうもいかない。不運は芥多を逃がしてはくれないようだ。そのまま躊躇なく自らの腕に斧を振り下ろし、肉を斬り裂く! どくどくと流血する右手で再度斧を握れば、『|塵芥《獲物》』は息を吹き返し血を求め暴れ出した。素晴らしく活き活きと、不運味の血に歓喜を示している。
「私の運を上書きするとは予想外です。未知に出会えた幸運に感謝しないといけませんね」
「さっきから不運だの幸運だの、どうでもいい事をずっとぐちぐちと……神を名乗っている割には随分と浅ましいのですね」
「浅ましい?」
「いくら現代人でも、そもそも人助け程度で幸せになれる訳ないでしょう」
 中にはそういう人もいるけれど。そういう人ばかりではない。情けは人の為ならず、見返りは物品でなく感謝されることそのものに価値を見出す者がいて何が悪い。現代の者に限らず、こんな諺が存在している段階で人は”浅ましい”。
 何より芥多の幸せは|その他大勢《どうでもいい人》からは貰えない。唯一|彼女《・・》だけが、芥多にほんとうの|幸福《しあわせ》を与えてくれるのだから。「頑張ったね、お疲れ様」と労られながら一日を終える、そんな小さな幸せで芥多は十分満たされる。神が与える不運も幸運もどうでもいい。
 丁重に仕舞った栞はすっかり雨と血が滲みて百合の花は生花のように|酸化して《朽ちて》しまった。愛書家の供であった栞は変質し、赤と黒が混じりあう不吉な色へ。
 花言葉の通り、虚栄心と復讐の呪いを宿した栞はこれから芥多に数えきれないほど多くの試練を齎すだろう――。

リリンドラ・ガルガレルドヴァリス


 何となく歩き回った蚤の市。最初は雰囲気を掴んで、人の流れに沿い、もの云わぬ商品たちの声を頼りに歩いてみればぴったりな出会いがリリンドラに微笑んだ。一際目立っていたペンダントトップ、壊れているのに不思議と強烈に惹かれ手にした時の感覚を思い出す。|紅玉《ルビー》が辿った|運命《・・》に想いを馳せれば、どこか己と重なった。

 ――不完全で、壊れかけて、でも確かにそこに生きていた。
 ――欠けていても、自分の形を保って輝いていた。
 ――自分の存在意義を、見失ったりしなかった。

 割れてなお凛々しく輝く姿に共感を覚える。持ち主と場所を変え、元の形より身窄らしくなっても人を惹き付ける紅色。その生き様に恥じぬよう、新たな持ち主としてリリンドラもまた決意を改める。今度はわたしが一緒に輝いてみせると。
 既に|紅玉《ルビー》はぼろぼろの身で、戦いの最中に|壊れ《砕け》る可能性は十分にある。けれど形あるものはいつか必ず壊れる宿命。最も輝く瞬間に|死ぬ《・・》なら幸福だと――かの|不幸《ふく》の神だって言っている。人の数だけ幸福がある以上、同じ考えを持つ者がいても不思議ではない。でも現実はこの有様。
「青蛙神、あなたは本当の幸福を知っているのかしら?」
「私の呈する幸福論では不満ですか。言うからにはあなたこそ知っているとでも?」
「もちろん知ってるわ」
 断言するリリンドラに青蛙神は目を見開いた。こんなに堂々と、神の前で神の言葉を否定し、|剰《あまつさ》え自分こそ”真実”を知っているかのような言種。興味深いと運の神は話を続ける。
「聞かせてもらいましょう。|私《神》をも超える素晴らしい|理想《アイデア》とやらを!」
「二度と忘れられないくらい、その身にしっかりと刻んであげる!」
 竜すら屠る|剣《つるぎ》を構え、一直線に青蛙神に詰め寄った。斬りかかる剣は青蛙神を一刀両断などしない。斬り裂いたのは世界そのもの。最も効果的に神を|話し合いの場《結界内》に呼び込む為の一撃。リリンドラの|とっておき《・・・・・》が発動した瞬間、世界は鏡が割れたように崩壊し”新たな世界”へと変貌する。白味がかった世界は段々と晴れて――先程の現象は幻覚だったのかと思う程、ごく普通の世界が広がっていた。
「此れがあなたにとっての理想? 幸運に喜ぶ人も、不幸に嘆く人もいない世界」
「そうね。あなたにとってはとてもつまらない世界よ」
 世界はまだ張り巡らせた結界の中だ。なのに全く、いつもと変わらない。リリンドラが語ったのは『過度な幸福も不運も起きない世界』。運勢で一喜一憂しても絶望などしない世界だ。全く刺激が無いのとも違い、小さな不運と幸運はちゃんと起きている。靴裏にガムはくっつくし、商店街のクジ引きでは一等よりも嬉しい三等が当たったり……そんな些細な|運《こと》、誰の生死にも影響しない。明日か、一週間もすれば忘れるような事ばかり。
「安心して、あなたの|正義《意見》を否定するつもりはないわ。あなたが信じる正義をわたしにぶつけてくれたらいい。示してみて、あなたの正義を!」
「私の正義は――幸運を注ぎ続けること。幸運の絶頂、幸福に浸った人々を味わい尽くすことです!」
 青蛙神もまた己の|正義《信念》を賭け、運の起伏が少ない世界に向けて三本目の脚を叩きつける! ばきっと世界に再びヒビが入り、隙間から不運が流れ込んではリリンドラの|正義《世界》とぶつかり合っては消え渦巻いた。尚もまだ世界は理想を保っている。神経を研ぎ澄ませば第六感が厄災を隠れ蓑に跳ねる青蛙神を捉え――反撃の凶器はリリンドラに届く前、剣戟に弾かれた勢いで砕けた裏に神の影。
「これがわたしの|正義《こたえ》よ!」
 貫き通した顕正が今度こそ|神護る彫像《運気の塊》ごと青蛙神を切断した! リリンドラの想像した世界に入るのは自由だ。但し、ここでは彼女が主人公。同時にすべての人もまた、この世界では等しく運は傾かない。例えそれが神であっても。
「……あなたの加護は消えましたか。その気概もどこまで持つか見させていただきます」
「かかってきなさい。わたしはこのペンダントの分まで、正義を背負う覚悟がある」

 ――知ってる? わたしの正義は、誰かを守る為にあるの。
 ――偽りの幸運じゃない、本物の救いを届けることが今のわたしに為せる正義。
 ――|過去《記憶》なんかにわたしは負けない。残っている|わたし《ペンダント》は唯の欠片だとしても。

「正義と幸福は|同じ《イコール》じゃない。わたしの正義は、あなたの不運になりそうね!」
 懐で割れたペンダントにリリンドラの勇ましい宣言はもう届かない。それでも道具として|使われて散りたい《情念とも言える意思》を果たした証に、空の台座は鈍いながらも耀いていた――。

ハスミン・スウェルティ


 溢れ出る。湧き上がる。|檻《心》の中から囚人が、色の名に因んだ|能力《ちから》を携えて……かちりと音がする。手枷が解錠された証。ハスミンの中に収容した人格の中でも”喜び”に強く惹かれ、同時に惹きつけるもの。何度か聞いた鍵が外される音は|楽しい時間《戦い》が始まる合図。ぽやぽやぼんやりしていた表情はにんまりと、目を細め唇は弧を描いた。懐に慣れない重みを感じ、場所から想像するに|本体《ハスミン》が買い物でもした後なんだろうと、それも含めての笑み。
 大丈夫、切り替えただけ。元のハスミンは戦い向きではないからして、その場に適した者を呼び出した。等しく罪人たる彼ら彼女らを内包する人間災厄の権能――さぁ殺し合おう、奪い合おうよ! 歓喜に震える声と共に、銀の長髪は黄を宿し青蛙神に向き合った。
「こうして戦闘の機会がある時点で運が良いね! さっそく始めようよっ!」
 相手の言葉を待つ気はどこにも感じられない。武器庫から引き出した斬妖剣と投げナイフを|歓喜する武器《カースドウェポン》に変形させ斬りかかる。戦い無くして己が価値無し、戦いこそが黄色の人格が最も愉悦を感じる行為。相手にもこの”喜び”をあげよう、狩りには獲物が必要だ!
「愚かな。あなたは何故戦うのです? 幸運の拠り所はその肉体が持っているはずです」
「ワタシの幸せは戦いの中にあるんだ。それ以上の理由はいらないよ」
「――、そうですか」
 大地をかき鳴らし、人の脚で跳躍しハスミンの攻撃を避ける。あれに当たってはいけないと本能的に神は恐れた。|不幸《ふく》の神にとって非常にやりづらい相手……それは不幸を恐れぬ者、不幸を求める者、不幸に巡りあった事すら幸運だと思える者。黄の性格を考えればどんな相手でも戦える時点で幸運、一方的な蹂躙をするのもされるのも楽しいこと。但し、愉しい時間は永遠ではない。黄色の人格が表に出ていられるのは戦の時だけ――ということはつまり、黄が出ている時は常に幸運なのかもしれない。それに気付いてまた笑いがこみ上げた。嬉しい、愉しい、もっと戦いたい!
「ねぇ、いまワタシ最高の気分だよ! キミもそうだろッ!?」
 ちょこまか動く青蛙神。一瞬を捉えるのは骨が折れるものの、的が大きければ当然当てやすい。蟇の巨大な三本目の脚へ、|金色《災厄》に輝くナイフを投げつける。刃は踵――先端を斬った。これでいくら叩きつけようと|不幸の厄災地帯は広がらない《満足するまで戦いは続く》!
「あなたの認識は私の求める”運”とは違うようですね。私はあなたを満たせるでしょうか」
「不幸や不運で齎される痛みも、ワタシが戦っている実感を教えてくれる幸運要素だよっ! だからさ、今のワタシはキミにはとーっても美味しいはずだよね!」
 三本目の脚はまだ使えない。青蛙神が行える手段は能力が再び使用可能になるまでの時間稼ぎ。命懸けの追いかけっこ、青に黄色を捻じ込めば雨蛙らしく緑色になるかもね。その辺は|ワタシの管轄じゃない《・・・・・・・・・・》から知らないと、跳ねる度に雨水が撥ねる。走り回り|拘束衣《服》の中で何かずるずると下がっていく感覚。落っこちない様にと改めて手に取ってみたものは……やけに重い扇。無意識にそれが何なのか解析する。武器かそうでないかで扱いを変えないと――途端に黄色の人格内へ扇の使い方が流入してきた! 捻じ込まれたと言っても差し支えないほど強引に、かつ自然に。
 これは武器だ。誰かを傷つけ、何かを壊し、時に死に至らしめても涼しい顔を浮かべる性悪な武器。美しい柄に似合わぬ重さには鉄製以上の怨嗟が込められている。やはり今日は素晴らしく幸運な日だ。武器庫の在庫がまた増えた。ハスミンに感謝しつつ、早速使ってあげようと扇を広げ振りかざす。
 半円に少し足りない形。|黄色《歓喜》を中心として両脇までいっても|橙々《警戒》と|黄緑《敬愛》には届かない。そんなもの全く興味をそそられない。こんなに手に馴染む以上、|鉄扇《これ》の持ち主も相当楽しんでいたはずだ。
「キミってやっぱり本物の神様かもね! この扇でキミを叩きのめしたらどんな音がするのかな、すごく楽しみだよっ!」
 ハスミンの買い物はあくまでもハスミンのもの。だから大事に大切に、壊さないように使う。幸いにも此方は武器の扱いは自由自在。耐久力、攻撃力、射程……戦う為に作られた物たちの全て、手に取る用に分かる。
 扇の一振りで弾き飛ばした青蛙神から、血の代わりに吸収し続けた幸運が|溢れ出した《・・・・・》――。

クーベルメ・レーヴェ


「あなたも幸せに満ちていない……あれだけ感謝されても足りないと。なら一体どうすれば満足するのです?」
「そんなの私のほうが知りたいけど、知りたいなら教えてあげる! 私の幸せはあなたじゃ絶対に満たせない理由」
 何をしても満たされない能力者たち。彼らの欠落はここまで酷いものかと青蛙神は一種の呆れを感じていた。何をしても幸福に至れない者達、神の手を下すまでもなく当然のように不運だとも。クーベルメは青く澄み渡った|蒼玉《サファイア》似の瞳で赤青混色の蛙を睨みつけ、懇々と語り出す。青蛙神も理由があるのなら知りたかった。知ればより多くの者に|幸運《不運》を与えられると踏んで。
「私は独ソ戦時代のVII号戦車を元にした|少女人形《レプリノイド》なんだけど、何故だか自分が体験していないはずのその時代の記憶も持って生まれてるの。見てもいない、聞いたこともない話を身体が覚えてる……」
 鳴り響く空襲警報、市民の悲鳴、軍人の怒号、銃撃と砲弾の爆発音、動物たちの亡骸――思い出そうとしなくても焼き付いて離れない『未体験の記憶』はクーベルメを苛んだ。完成される前は特に、不調の原因としてはそちらの理由が大きかったかもしれない。
「この記憶が敵のものか、味方のものか分からない。多分、関係ないの。どっちの記憶だってスターリングラードやベルリンで凄惨な市街戦が起きたのは事実……収容所もカティンの森も! |記憶の中の《戦車から見えた》景色に平穏な場所なんてなかった……」
 占拠に成功すれば大きな|軍事的優位《アドバンテージ》を取れる場所はそれだけで狙われやすい。拠点基地として利用してもいいし、敵の輸送経路を潰すことも戦争において重要な役目を果たす。民間人がいようと無差別に行われる攻撃に、果たして感情はあったのだろうか。戦車を操縦していた人間は己の正義を疑わなかったのだろうか。それが分からない。思い出せないのか、元々持っていないのかすらクーベルメには判断できない。|戦争《それ》に纏わる欠落があるはずだという”予感”だけは確かなのに、具体的にそれが何なのか全然わからない。焦燥感とも危機感とも違う”不安”がクーベルメにつきまとう。
「あなたは人間ではないのに人に寄り添うのですか。その苦しみから解放されたいと願えば私はいつでも叶えますよ――死をもって」
「……死んで解放されるものならとっくに|己を廃棄し《逃げ》てるわ」
 人間同士の第二次世界大戦に、機械と人の第三次世界大戦。争いの中でしかクーベルメの存在価値は無いのだろうか。二つの地獄がクーベルメを苦しめて、しかしそれは彼女だけの苦しみなら耐えられた。多くの人々がかつて経験し、今も√ウォーゾーンでは続いている。戦う為に生まれ、死んでも継ぎ足し|再利用《リサイクル》される仲間。心休まる基地も油断すればいつ機械群に攻め入られるとも限らぬ緊張感を絶やせない。全ては生きる為、それだけは今も昔も変わらない。
「ちょっと人助けしたくらいじゃ、私の|欠陥《喪失》は全然埋まらないのよ! 不運なんて言葉じゃ片付けられない”理不尽”なの! ……どう、納得できた!?」
「成程、あなたは人の形をしていますがしかし……私が求める味は持っていなさそうです。所詮は|兵器《道具》、そうでしょう? 不運も幸運も、感じる心あってこそ」
「なっ」
「世の理不尽から救われる手段としての運すら放棄するなら、あなたは唯の|人形《・・》です。死とは違いますね……壊してさしあげます」
 周囲から運気が吸い上げられ、青蛙神の元に集ってゆく。その過程でクーベルメに向かい吹っ飛んでくる|道具《もの》の数々を、身に纏った亡者たちの思念が囁き即座に移動。流石は戦いで散った者の思念だ、一手二手先を読んでいる……。反撃のシャベルを用いた格闘術で煙幕を生み出し、一度隠れた。
 道具だとしても。兵器だとしても。人の心は後付けされたものだとしても。何回この|もし《if》を想像したことか。期待はしていないけど、一応聞いてみる。神の運はどこまで干渉できるのか?
「私は欲深いの。過去から未来まで、人類全ての幸せを願うわ。叶えたいって言ったら、あなたは付き合ってくれる……?」
「既に起こった事象は覆りません」
「そうよね。知ってたわ、あなたは神を名乗ってるだけの蛙さんだもの」
 雨の中、突撃兵の如く「|ypaaaaa《ウラー!!》」と雄叫びをあげ軍用シャベルで思い切り|不幸《ふく》の神の頭を叩いた。アクセサリーのようにつけた狸の尻尾が大きく揺れる。いつもより力が加わっているような……確か妖怪特攻だか、そんな話を聞いたっけ。
 ベコンとシャベルが凹む代わりに、狸の尾から毛がばさっと抜け落ちた。うわぁ、狸ってモフ毛がないとめちゃくちゃ細い――!?

品問・吟


 物には人の情念が籠る。心の有り様は多彩で、一括りに良し悪しを決められるものではない。ある者にとっての不幸は別の誰かの幸運であるように、一見呪いに見えることが祝福という可能性もある。吟は手にした櫛の逸話を思い出し、ひとつの答えを導き出した。吟は先生のように思念を読み取る術を持たない、だからこれは勝手な想像。合っているかなど今更確かめようがないから、これは「そうだったら素敵ですね」という”願望”でもある。けれど|幸い《・・》にも不正解である確証もない。真実は永遠に分からず終い。
「あなたは……私の」
 二口女を目にした青蛙神の態度は一変、恍惚の笑みを浮かべた。苦痛、憤怒に混じる歓喜。舌の上を転がる無味を押し退け、唐突に広がった複雑な味わいにうっそりと浸る。この味は己が|宿敵《吟》にしか出せないとっておき。何度でも味わいたいのに、生涯ただ一度しか味わえぬ|不幸《幸運》の禍味。
「こんな|場処《ところ》で会えるとは、なんたる僥倖! 噫、この為にどれだけの不運と幸運を喰らってきたか――」
「ええ、私も探しました。見つけた以上逃がしはしません。決着をつけますよ、青蛙神!」
 頭巾の裾をくいっと持ち上げ、気を引き締める。これ以上誰も犠牲にしない為にも、ここで必ず討ち倒すと覚悟を決めてきた。それは相手も同じで、最高の狩り相手たる吟をみすみす逃す選択肢などありはせず。両者の間に降り続く運気の雨が身体を冷やしていくのに心は燃え盛る。先生が見ていたら怒られるかな、と何故だか吟も少し笑った。この高揚感はどこから来るのだろう? 仕舞いこんだ櫛が声援を送っているのか、はたまた囃し立てているのか。人々は戦を好むが、しかし両者共に|妖《あやかし》、常識を知ってるのと型に嵌るのは全く違う。互いの全力は単なる『古妖と能力者の戦い』の枠に収まらない。どちらかが死に、勝ったものだけが再び『生命の味』を食べる権利を得る戦いだ。
 先に動いたのは吟、蛇めいて蠢き伸びる灼髪を青蛙神目掛け伸ばし絡めとる。まずは相手の動きを抑えてから次の一手を……考える前に、迫りくる噴水公園に設置された彫像! 神の力は伊達ではない。例え本体が封じられていようと己を運気の加護で守り、溢れた不運は敵対者に注ぎ続ける。雨風に吹き飛ばされてしまった|不運《・・》な彫像を吟は寸でのところで卒塔刃でいなした。相手の性質を見極め、知っているから出来た対処。やはり格上の相手だ、一筋縄ではいかないと分かっていたが――青蛙神は吟が倒すべき相手。今更尻尾を巻いて逃げるなんてありえない。いいや、巻くのは舌か? それなら|舌先三寸の相手《運を操ると豪語する神》に勝つ自信大有りだ。
 先生は吟に教養を与えるも強要はせず、御仏の教えは記憶のない少女の中に染み込んだ――この状況下で例えるなら『一味の雨』か。過去の無い吟を潤し満たしたのは過剰なまでの幸運でも、絶望するほどの不運でもない。加護には加護で対抗すべしと、蓮花の霊気を纏い破魔の法術で青蛙神の運気を相殺する。破邪が効く以上、やはり相手は邪悪な存在。この世に居てはならぬもの。
「貴女が奪った未来には、貴女が与えた以上の幸せに包まれる未来もあったはず。可能性は、誰にも否定できません!」
「本当にそうでしょうか。死ぬなら今がいいと思える程のものを、神である私以上に授けられる者などどこにいるのです?」
「そうですね、全ては可能性の話です。けれど貴女は勘違いをしています」
 ギチギチと灼髪に縛りあげられても強気な態度を崩さなかった神の表情が疑問に変わる。理解不能、解釈不一致。この二口女は何が言いたい?
「人の可能性は一度きりじゃありません! ひとつの大失敗、大成功で全てが決まる程つまらない世の中ではないと私は知りました。生きていれば何度だって、幸運に恵まれる機会は存在します! わざわざ貴女に与えられる必要もありません」
「嗚呼――それはとても、人間らしい希望的観測ですね。なら私はその可能性ごとあなたを否定しましょう。永遠に、可能性は運に弄ばれるものだと知ら占めて差し上げます」
「分かってはいましたが……交渉決裂ですね。仕方ありません、可能性を奪い続けるというのなら私も容赦はしませんよ!」
 振りかぶる攻撃、避けるにしても反撃混じり。全体的に大味という自覚はある。己の未熟を自覚すれば向上心に灯が燈り、今の吟が持つ手札を使い切る勢いでぶつかる。全力全開、運を超越する技と決意によって青蛙神の攻撃と吟は対等以上に渡り合っていた。
 諸共と身を盾に距離を詰め、一層激しくなる雨と彫像の暴風雨を縫い進むんだ先。ついに吟の手が青蛙神に直接触れた。掌に顕現した『第二の口』が大きく唇を開け、蛙の肉に齧りつく。|美味しくない《相当な悪食》、けど贅沢は言ってる場合ではない。がじりと喰らい、引き千切った肉をごくりと飲み込む。
「うええ……どうですか。これが、私の! 奥の|手《・》です!」
「まさか、そんな――私が運に見放される事が――? ありえない、認めません」
 ヒュンと悪あがきに三本目の脚が吟に叩きつけられる! 衝撃に身を固めるも予測していた痛みは来ない。代わりに何か割れた感覚がして、確認せずともすぐに櫛だと|理解《わか》った。この子はやっぱり呪いの品じゃない。
 以前の持ち主の最期は穏やかな貌だったというのであれば、それは櫛が苦痛を請け負ったのではないか。持ち主が櫛を愛でた分、最期は彼女の恩に報いたのではないか。”恨みの籠もった品”というお話よりも、その方がきっとずっと救いがある――なんて、先生に話したらどんな反応をするだろう。
 物が真の意味で意思を持つのは百年掛かるが、逸話に時間は関係ない。帰ったらこの櫛を先生に視てもらおうかと一瞬過った考えを自ら振り払った。正解は……曖昧なままでもいい。信じたい|話《路》を往くと吟は決めたのだ。
「私の運命は私が決めます! 幸運や不運に振り回されても……私が選んだことを後悔しません!」
 齧りつかれた蛙は最後まで抗い、幸運で欠損した部位を補おうと大穴のあいた甕に運を詰めて塞ぐ。けれど残念、どんなに吸い集めた幸運も大穴へ辿り着く前に櫛で突かれたような小さい穴から漏れだしていく。運気はすっかり干上がって、青蛙神は呪いを呟いて|頽《くずお》れた。
「……後悔してからでは遅いですよ」
「その時はまたその時に考えます!」
 漆塗りの黒い櫛はいつの間にか吟の赤い髪と同じ朱に戻っていた。蛙は変える、幸運を不運に。されど呪いは反転する幸運の神へ、蛙のように跳ね返ってゆく――。

黛・巳理
泉・海瑠


 運頼み、運任せ、困った時の神頼み? そんな不確実で不安定な戦術を海瑠は習ってこなかった。教わったのは『確実に仕留める技と策』。|義祖母《ばーちゃん》の徹底した教育とそれを続けてきたおかげで今も暗殺業を続けていられる。朗らかで明るい看護師さんの貌の下は、極めて合理的――ギャップがあるようで或る意味納得いく話。存命時間や生死の境を判断する早さのみなら、きっと本業医者たる巳理にも引けを取らない。命を取り扱う場面では何よりも早さが大事なのだ。……|優先順位《トリアージ》には多少役立つかもしれないが。
 そんなわけだから海瑠は自分が傷つく事は極力避けたかった。大怪我でもして巳理に詮索されれば、まだ秘密にしている|暗殺業《裏稼業》がバレる可能性がある。そんなヘマをする気は更々ないとしても、用心に用心を重ねるに越したことはない。

 ――生きて返さないのは大前提。それに……今は|ブローチ《これ》を護りながら戦わないと。
 ――|加護《幸運》に頼っちゃって万が一壊れちゃったら、それこそ最悪の事態だよ。絶対絶対絶ーっ対、そんなの無理!! あ・り・え・な・い!!

 ジャケットの上からぽんぽんと|大事なブローチ《巳理とのお揃い》を触れて己に喝を入れ鼓舞する。負けられない戦いという訳だ。妙に気合の入った海瑠の様子に、巳理は頼もしいような可愛らしいような何とも言えぬ感情が湧き上がる。
 きっちりと仕舞ったままというとこは、彼はブローチを犠牲にする気はないのだと見て――しかし運を転じる|不幸《ふく》の神、無防備で挑むには多少心許ない。巳理だって折角買ってこれから色を入れようと考えていたものを犠牲にしたくはないしと少々考えを巡らし、ふと気付けばいつも持っていたお守りのようなものを思い出した。懇意にしてもらい、多種多様な症例から同じ症例でも性格の異なる患者たちへの個別対応のやり方を教えてくれていた恩師……が、くれた眼鏡。

 ――泉くんが傷つくことは、私の不幸と言えるだろう。そうなっては元も子もない。私の|お守り《恩師の眼鏡》を差し出そう。今の私を作り上げた|思い出《人生の一欠片》だ。
 ――これに詰まった感情も情念も、一晩では語りつくせない。しかし、|過去《そんなもの》に縋って大切なものを失うほど、私も幼くはないのでね。

 視線を交わしアイコンタクト。互いに覚悟は決まった。思うに、神を助けることは|蚤の市を訪れた時《最初》から決めていた。|運煩い《幸運依存》の|過剰摂取《オーバードーズ》、治療方法を幾つか考えてみてもどれも効果は薄いだろう。今更説得が通じるとは一層考えにくく早々に諦めた。神はいつの世も自己中心的で、人の話を聞く方が稀ともよく言われている。
「やはり神は患者であったな。些か荒治療だが、礼節の前に一仕事やるしかあるまい」
「巳理さん、オレが前に出るよ。運を操れる敵は厄介ではあるけど……問題ないと思う!」
 詳しい作戦をわざわざ口にせずとも二人の間で話は通った。その為のアイコンタクト、了承を得る前に走り出した海瑠を迎撃する青蛙神。運気による加護を纏った神は速い! 本物の蛙のように着地して一呼吸なんてものは要らず、常に全力疾走で海瑠に致命傷を与えんと詰め寄る!
「へぇ、動き速いねーーそれならオレも」
 今よりも少しばかり背が低い姿に形を変える。顔立ちは海瑠そのもの。過去の姿、齢18――存在する記憶は√EDENに来た以降の事だけ。小さい分こちらも素早く動けるし、同時に不可視の魔霧で己を包んで身を隠す。辻ヒーラーの次は回避盾というわけだ。成長はAgi中心Int・Res型、相手の注意を引きつけて巳理を守る。内心で「もし巳理さんの前でオレにみっともないことさせたら絶対絶対絶対屠る……」と呪詛めいてるとも知らず、自然と後方支援に収まった|当人《巳理》は援護するように護霊と糸雨を呼び寄せた。
 アンプルをかち割り、放たれたクラゲ型の水銀がふよふよと周囲に漂い常に青蛙神の状態を認識する。如何に神であろうと|生物《・・》なら必ず生体反応がある。海瑠に居場所を共有しながら、不運の雨に糸雨を混ぜ降らせた。平等に降り注ぐ|雨《それ》を見切ることはできない。青蛙神に触れて|王水《強酸》に変化した糸雨が弾力のある皮膚を溶かす。
「熱っ、い……。何をしたのです?」
「|教えない《ひみつ》!」
 過剰な幸運が不運になるのであれば、同じ量の不運|を注げば《で打ち消せば》いい。これは治療行為、悪腫を切除する為には必要なこと。|Dissectra《メス》に染み込ませた|毒《薬》の名は”不運”。相手がどれだけ飛び回ろうとも、|巳理《医者》に|炙り出された《捕らえられた》患者は逃げられない!
「どう? 自分が不運になるって状況は」
「あまり|美味で《おいしく》はありませんね」
「なら|うまく《・・・》いってるか!」
「――そうでしょうか。あなたの|不幸《ふく》の味、見つけましたよ」
 青蛙神は猟犬に追いかけまわされ翻弄されているかのよう。だというのに未だ余裕を浮かべ、その理由はすぐに分かった。狙いを眼前の|妖精犬《海瑠》から変更、遠距離から噴水公園に置かれた彫像を後方に吹き飛ばす! 運気の渦は|不運《・・》にも巳理に向かい、このままでは命中必至!
 海瑠は脇目もふらず巳理の元へ駆け、彫像から巳理を庇う。突飛ばすように倒れこみ、ごろごろと二人で塗れた地面を転がった。
「いったー……くない!?」
「|恩師の眼鏡《お守り》は役目を果たしたようだね」
「こっ、これ巳理さんの大事なヤツじゃない!?」
「大事だから効き目があったんだろう。泉くんが無事なら惜しむ程のものでもない」
 彫像を避ける代わりに自ら吹っ飛んだ二人の横で、恩師の眼鏡は粉々に砕けていた。レンズは割れ、弦も曲がり二度と使えないだろう。それでも巳理は笑って「僕はこう見えて案外と迷うのは嫌いでね」と気にしないよう促した。
 ここで「はい分かりました」と言えるくらいに冷静なら良かったのだが、海瑠の考えは違った。平気、ありがとうと余裕の笑みを湛え、すぐに立ち上がっては再び青蛙神を追いかける。巳理を背にして真顔の怒り心頭ガチ切れモード。巳理はああ言ってくれたが、大事にしていたものを守れなかった。

 ――ああああもう本当に許せない!! あれ、オレの所為で壊れたようなもんだよね!? もっと上手く避けられたら、守れたらちゃんと持ち帰れたかもしれないのに。
 ――これで巳理さんに幻滅されて好感度落ちたらどうしてくれんの!!

「不運でしたね」
「アンタは超えちゃいけない一線を越えた。もう容赦してやんない」
 普段人懐こい笑みの人間から放たれる真顔の圧は半端ない。怒りに任せた俊敏さでより加速し、青蛙神の脚を掴みざくざくとメスで斬り付けては滅多刺しにする勢いで振り上げる。不運を神に返して返して返して、逆転させるくらいに深く。
「アンタは全部の幸運を奪ったつもりかもしれないけど……オレ|の一番で最大の幸運《と巳理さんとの出逢い》は絶対奪えない。それがある限り、オレは絶対負けない」
「ふふ……過去を変えられずとも、これから何が起こるかも知れないのに?」
 遠目で援護しながら見ている巳理に、青蛙神と海瑠の会話は聞こえない。だから最初は悪戯にしては威勢がいいなぁ、存外愛らしいじゃないかとつい笑いそうになるがグっと堪えた。本人は真面目にやってるのだろうし、笑われたくないはずだと我慢。それより悪戯にしては|少々《・・》度が過ぎているような……。
「……い、泉くんやりすぎだ。こら、こちらへ来なさい……」
「えっ、やだなぁ巳理さん、大丈夫だよ大丈夫! こんなのすぐ終わらせるよ!」
「泉くん。……あぁもう、ほら拭くから……」
 青蛙神から手を離し、呼ばれるまま巳理の元へ駆け寄る海瑠。頬に飛んだ血飛沫らしき液体を、巳理は親指中心に掌全体で拭って怪我がないか同時に確かめる。恐らく無事だ。何ともない。「巳理さん距離近ぁい!」と叫ばなかった海瑠もグっと我慢の子であった。
「えへへ……」
「泉くん、あまりやりすぎてはいけないよ。君は優しい子だ、自分を傷つけることのないように……いいね?」
「……うん、分かった」
 ぼそりと巳理には聞こえないよう、海瑠は内心で続きを述べた。言ったら困らせてしまうと思ったし、幻滅の可能性は1%だっていらないけどそれ以上に不幸は受け取り拒否。そんなドキドキ要素は一切お断り。

 ――分かったけど、巳理さんが危ない目にあいそうになったらその限りじゃないよ。

 護霊漂う雨の中、海溝の深水だけが心の声を聴いていた。人魚の涙飴は海瑠の傷を癒し、|病んだ神《患者》の荒療治も手伝いにと大忙しだった。
 恵みの雨も過ぎれば|洪水《不幸》、用法用量を守って正しくお使い下さい――。

千桜・コノハ
浄見・創夜命


 記:5月 ■■日
 伴:鵺鳴

 水縹ほど神秘的でも、瓶覗ほど淡くもない。藍より青い紺碧の雨が|舗装された地面《灰色のキャンバス》に広がれば、墨雑じりの青褐に深まった。宙にいる間は唯の”運”であった雨が、何かに触れると濃く色づく。降り注ぐ雨は人の身には幸運すぎて|とても耐えられそうにない《悪運に変わってしまう》が……能力者ならば話は別。ましてやお守りを携え、数多の人々を幸福にしてきた臨時うさちゃん改めコノハと創夜命だ。今更何が来ても恐るるに足らず。
「おや、雨か。|僕《迦楼羅》がいるんだから恵みの雨に違いないね」
「頼もしいじゃないか。|宵《よい》、髪が重くなる前に決するとしよう」
 被衣を雨除けがてらに被り、ひらりと裾を揺らす姿は|男子《おのこ》にも|女子《おなご》にも見える。性別を超越した神性を纏い、太陽を率いるコノハの隣に立つは夜の化身。|月読命《夜を照らす神》と同じ名を持つ創夜命は普段通り、相も変わらず|異国《世界》を巡る。誰しも平等に、静謐なる安寧に泥ませる夜の女王は射干玉の髪を掻き上げるだけ。ふたり、雨水を振り払い|不幸《ふく》の神と対峙する。
 奇しくも刻は逢魔時。昼と夜の境目は、どちらの力も引き出すのに丁度いい。青蛙神にとってもそれは同じこと、災厄を齎すには最適な時間。双方幸運に恵まれたと言って良いだろう。
「あなた方は満たされましたか? 私の不運は、あなた達を幸運にしましたか? まだ満ち足りないならば、私自ら授けましょう。私はまだあなた方を味わい尽くせていませんので」
「贅沢者め。今日はもう腹八分だぞ。頼れる伴との僥倖なる出会いに、胸躍るひととき――是が幸福でないと何故言えよう」
「ふふ、嬉しいこと言ってくれるじゃん。胸躍るひとときだったかは審議が必要だけどね」
 思い出される臨時お手伝いの仕事。確かに人助けをして感謝もされたし、給金も貰った。けれど何か大切なものを失ったというか、逆に新たな可能性の扉を開いてしまったというか……中々に|不運《ハード》な経験をしたことは確かか。もう二度とあの店に行くことはないと信じたいが、|勧誘者《スカウト》曰く「才能がある」そうなのでまた声が掛かるかもしれない。そうなる前にさっさと原因を始末して此処から撤退するのが賢明だ。
「そもそもあの店手伝うことになったのも元はといえばこいつのせいか」
「うむ。満たすに足る食材ならば丁度良い、蛙の丸焼きで締めとしようではないか」
「蛙の丸焼きとは言い得て妙……いや、そのままかな。僕の炎で灼き尽くしてあげるよ」
 灰すら残らなかったごめんね? 口にするのが早いか、刃を抜くのが早いか。コノハの身体を迦楼羅の炎が包み込み、墨染の刃が闇色に光る。花結は聖なる光焔の天輪へと昇華すれば、少年は雛鳥でありながら一時的に神の力を引き出して。
「結構本気を出せるかな。楽しめそうかい、ヨミ」
「無論。|脂身《こうふく》に偏るなぞ美食ではない。|夜闇《よ》は吉凶の別無く呑んでみせるぞ」
 夜が広がる。時間にしてまだ夕暮れ、だのに世界は創夜命を中心に昏く暗く沈んでいく。地面を染める雨色を更に塗り潰すが如く、|箒星《幸運》さえ喰らう|眩い《・・》漆黒が『夜』を増大させていく。
 太陽と月が同時に昇らないというのは嘘だ。天文学的にもきちんと日中でも月は存在している。ただ見えないだけ。ほうら、ご覧よ。あの燦々と赫く翼を、闇夜にして標たる皓月を!
 被衣をさらさらと流し、沈む太陽を背に踊るコノハは舞っているかのよう。春宵色の桜は目眩ましに一役買って、神の不運に浸された彫像がコノハに向かってくるも肝心の部分をとらえ切れない! ひらり、はらり、|中心《本体》はどこなのか。青蛙神も自ら動き、夜の女王へと三本目の脚を叩きつける!
「ヨミ!? ……っと、無事か」
「――大義であった」
 創夜命は咄嗟に蚤の市で手にした包丁を構えた。強かに打たれた刃は中程で折れ、役目を終えた姿に一拍目を伏せる。誰にも使われなくなった唯の包丁が、|過ぎたる幸運《転じる不運》を一身に受け止め神の一撃を防いだのだ。青蛙神は信じられない事態に一瞬動揺するも、再度加護を纏いだす。それを今度は創夜命自身が阻止し、厳かに地を叩いた右掌が厄災地帯を丸ごと貪り喰らう。|天《ソラ》を打つ竜尾と蛙では格の差は歴然。運気の在庫が減っていくのは不味いと、青蛙神は夜闇を振り払った。気を取られている間、舞い避けるコノハの|蹴り《・・》が|不運《・・》にも青蛙神に直撃し、神は|撥条《バネ》のように跳ね飛んだ。
「……一度くらい捌かせてやりたかったが……」
「|君の包丁《それ》は役目を果たしたようだね。蛙を捌けただけ良しとしようよ」
「うむ、以って瞑しただろう」
 態勢を整え、再度並び立つ陽光と月光。直接的に攻撃する|武器《包丁》は喪ったが窮地に非ず。瞬く間に夜闇が四方を包み、追って種々に紫電が灯る。ごろごろと唸る稲妻の予兆、驟雨に|嵐《テンペスタ》が吹き荒び、生きたまま焼かれる|不幸《ふく》の神の光景を闇に浮かべる。叶えるべき想像を創造し、隣の幻日に現実の焔を託す。
「おや、いい夜になったね。舞台は整ったってことかな」
「すまんがコノハ。灼いてはくれぬか、|夜《よ》の分まで」
「なにを謝る必要があるのさ。為政者なら|僕《神》を上手く使ってごらんよ」
「無論。用兵を以て綺羅星の座へと導こう」
 火は水に弱いなど百も承知、だが焼却の業への守りを消し去ったならばどうか? 瞬く間に失われゆく水――噫、なんて幸運なんだろう! 丁度青蛙神の真上に天の階が見える。一条の光の下、|雨《水》なんてどこにもない。覚醒したコノハの神性に呼応し、後頭部で常より燦々と輝く光輪は焰の形を変え一層光り輝く。|迦楼羅《コノハ》の姿を見やり、創夜命はそっと手を添えた。異なる色の炎が混じり、煌々と勢いを増す焰。例えるなら火柱のような激しさよりも、嵐に舞う火花が近い。きっと遠く天まで、高く燃え上がるに違いない。
「君の臨む儘、翔んでおくれ」
「ふふ、仰せのままに。夜の女王さま」
 いつの間にか楽しい時間になっていた。太陽と月の円舞曲、舞いの供には『夜』を添え身を委ねる。跳ね回る青蛙神の動きを見切り、飛んで、跳ねて、翔ける。集った神々のうち、速さは青蛙神が一歩抜き出ている――致命傷を的確に狙ってくる動きは読めても身体が追い付かない。湿ってきたかと身構える前、間一髪で被衣がその役目を終える。引き裂かれた被衣にコノハは内心で礼をして、そのまま敵の視界を奪うようにばさり投げつけた。|ボロ布《・・・》が青蛙神に絡み、動きを封じる。
「さて、舞も踊り終わったところで幕引きだ。覚悟はいい?」
 表と裏は明白にしなければならない。全てが昼夜のように曖昧ではいけない。|硬貨《コイン》に表裏があるように、信念に正義と悪があるように。愛には憎しみを、幸運には不運を。そして、厄には祓いを。
 夜闇に賑々しく彩りが満ちる。夜を征く者たちの冒険譚、過日振るわれし強化の術は、女王と臣下を支えた癒しの業。朧と現れてはきらきら消え去る幾千夜が、確かな補助をコノハに齎す。なんと心地好いのだろう、夜の国の民でなくとも、|陽《友》にもまた|夜《よる》を授けられるとは。
 灼たかな炎がコノハの身に満ちていく。腹八分目どころか目に見えて溢れる程の光輝、そのすべて刃に集中させ、一気に青蛙神まで|驟《はし》る! 避けようと藻掻く不幸の神へ向け、創夜命操る不知火が明滅し視界も意識も散らせていく。援護にしては十分すぎる閃光に、|恵みの雨《幸運の加護》を干された青蛙神は叫んだ。
「後悔しますよ。不運も幸運もない|世《・》は退屈です」
「案ずるな。これは|飽かせぬ一幕《明けない夜》の礼にすぎぬ」
 煩悩を洗いざらい|浄化し《喰らい》、魂ごと灼き尽くす刃が青蛙神を貫いた。焔に焼かれる神は「ぐっ」と唸り、傷口から漏れ出す液体は血なのか周囲から運気なのかもわからない何か。十人十色の運が光と闇に呑まれていく。
「ねぇ、ねぇ。満たされることなく斃されるってどんな気分? 僕にその顔、よく見せてよ」
「――雛鳥にしては生意気ですね。ええ、最低の気分です」
「ほう。ではその顔、|夜《よ》も覚えておいてやろう。貴様もまた|夜《よ》に刻まれる」
 月の無い日であろうとも、凛と佇み微笑む黒き夜の国の主は世界のひと欠片を|宵天《よぞら》に咲く桜花の迦楼羅と旅した。これはその記録であり、記憶の一幕。
 地面に雨痕は残らない。けれど闇が濃いほど光は輝き、|影法師《シルエット》は忘れ去られない限り永遠に記憶に残り続ける。千代に八千代に、月と太陽が昇らなくなるまで永遠に――。

 ◇

 反転する福の神『青蛙神』は無事、能力者たちの手で撃退された。
 幸運を掴み取るのも実力のうち。不運を誰かの所為にするのは簡単だけれど、大抵の場合自業自得。
 運が良すぎればそのあと反動が来るのではと恐れる者の多いこと。それは心当たりがないからだ。

 あなたの運勢は|循環《サイクル》式? それとも|総量《使い切り》型?
 もし急に”運”が欲しくなっても、蛙の声にだけは耳を傾けてはいけないよ――。

挿絵申請あり!

挿絵申請がありました! 承認/却下を選んでください。

挿絵イラスト