星追い、フェイク・イルネス
●死にまつわる噂
いつだってそうだが、死とは生命の行き着く先だ。
末路であると言ってもいい。
どんな富豪であろうと、どんな権力者であろうと、どんな健康なる者であっても、必ず死が訪れる。
一つのことを突き詰めた者ですら死から逃れられない。
それが真理である。
だが、死を逃れる方策があれば?
誰だって求めるだろう。
生を求めるのは生物として当然のことだ。生存本能とも言える。
「生きたい……! どうしても生きたい……!」
「生きてあの子に会いたい。死ねない。どうあっても死ねないの!」
「いやだ、死にたくない。怖い。怖い。暗くて、ここは怖いよ……!」
そんな声が響く。
誰だって死は恐ろしい。
いずれ訪れると知っているからこそ、殊更に心が掻きむしられる。
どうしようもないことだ。
けれど、どうしようもないからといって諦められるか。
生命を諦められるか。
人は懸命に生きることが尊いと言う。
なら、藻掻きながらでも生存に手を伸ばしてしまう。そういうものだ――。
●星詠み
それは星写す黒い瞳だった。
亜麻色の髪が揺れて、 星詠みであるレビ・サラプ・ウラエウス(人間災厄「レッド・アンド・ブルー」の不思議おかし屋店主・h00913)は微笑んで集まっている√能力者たちに呼びかける。
「集まってくれてありがとう。君たちは怪談、というものは好きかな? いや、僕はそうでもない。ああいう口承文化というのは、人の想像力の領域だからね。結局、実際の出来事を肉付けし、誇張し、時代によってこね回されて価値観で味付けされるものだから」
だらだらと語っているが、結局怖いだけなのでは? √能力者たちはレビがいつになく饒舌であることに、そう指摘しようとしたが彼は被せ気味に言葉を紡いだ。そんなにか?
「いいかい、つまりは火のないところに煙は立たないのと同じで、噂が独り歩きして怪談になりえる、ということもあるんだよ」
まあ、わかった。
それで、どうだというのだと√能力者たちはレビの様子に呆れ半分で続きを促す。
「……一つ、怪しい噂がある。ある病院なんだけれど、入院患者の死亡率が高い上に、退院した患者が暫くして行方不明になる……そういった噂のあるいわくつきの病院があるんだ」
レビの言葉に√能力者たちが頷く。
そういう噂というのは下手すれば誹謗中傷にさえなり得るだろう。
ヤブ医者と並ぶくらいに、だ。
だが、そうした噂が蔓延るほどに病院側が否定もしなければ声明を発表することもない。
それが余計に噂に拍車を掛けているように思えてならないのだ。
「どうにもきな臭いとは思わないかい」
なるほど、その病院の噂の真偽を確かめた上で、仮にもし噂通りなのならば何らかの事件が起こっているに違いないから解決して欲しい、とレビは言いたいようだった。
√能力者たちは頷く。
「まずは、その病院に潜入しなければならない。もっとも手っ取り早いのは入院患者として入院することだ。まあ、実際に怪我をしていいし、毒を飲んだりしてもいいだろうね。どうせ√能力者だから死んでも蘇生するし。あとは意識の混濁や精神的疾患を装ってもいいだろう。とにかく、病院に担ぎ込まれる、それが重要だ」
病院関係者として潜り込むのは、難しいということだ。
レビはそう告げて、√能力者達に薬包紙めいたものを手渡していく。
まさか毒か?
「嫌だな。これは『偽物ビール』さ。水で溶かすとビールそっくりになる泡立ちがすごい飲み物だよ。ノンアルコールなのは言うまでもないよね? 味はりんご、いちご、ラムネの三種類。どれが当たるかな?」
まったくもって紛らわしいことこの上ない。
「まあ、いいじゃあないか。これから入院しようっていう君たちに対しての僕なりの心配りというやつさ。気に入ったら買ってくれると嬉しいな。さあ、いってらっしゃい」
そう告げレビは√能力者たちを送り出すのだった――。
第1章 日常 『入院患者として入院する』

入院と一口にいっても多くの要因があるだろう。
怪我をしたと言っても入院が必要になるようなものは、相当なものであっただろう。
服毒するにしても、生半可なものでは当日中に帰されることになるはずだ。
精神的疾患であっても、同様だ。
つまり、仮病は相手も医療従事者であるがゆえに見破られる可能性が高い。
であれば、真にしてしまえばいいと言うのは、死後蘇生することができる√能力者ならではの乱暴なやり口であったことであろう。
だが、奇妙な噂が立ち込める病院の真偽を確かめるためには、√能力者たちも本気にならなければならないのだ。
それ故に√能力者たちは意を決するしかない。覚悟を決めるしかないのだ――。
結局のところ、生半可であるということは中途半端であるということなのだとクラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)は理解していた。
そう、やるのならば徹底的にやる。
悪評とも言うべき噂が立てど、それを否定することなく粛々と運営を続ける病院。
ここに潜入するためには、実際に怪我をするのが一番よいとクラウスは己が手にした薬剤に視線を落とす。
『ペインキラー』と呼ばれる鎮痛剤。
本来は戦いのさなかにおいて痛覚を遮断し、一時的に反応速度を増強するためのものだ。無論、それがどんな副作用をもたらすのかなど言うまでもない。
「……」
無言のままクラウスは艶消しの黒塗りの刀身を持つナイフを握りしめた。
誰かを害するつもりではない。
逆手にもったナイフの切っ先が向かうのは己の腹部だ。
息を吸う。
吐き出す。
思った以上に己の呼気が大きく路地裏に響く。
力を込めた瞬間、クラウスは己の腹部に突き立てる。太い血管を避けられたのは鎮痛剤によって反応速度が増強されていたからであり、また痛覚が遮断されたことによって腹部から鮮血が飛ぶ。
「え……何、なになに、アレ何!?」
クラウスは路地裏からよろめくようにして大通りに歩みだす。
抑えた腹部から血が滴るのを通行人が認めたのを確認し、口を開こうとして、戦慄くように震えるばかりだ。
「ち、血!? え、血がでてる!」
悲鳴が上がる。
「い、いきなり……切りつけられ、て……た、すけ……」
クラウスはそう訴えるように手を伸ばす。
通行人たちの幾人かはパニックになりながらも手にしたスマートフォンで即座に救急車両を要請し、さらには医療の心得があるものたちがクラウスに駆けつけてくる。
混濁する意識。
失血もあるが、当然鎮痛剤の硬化もあるのだろう。
救命者として集まった人々声を遠く聞きながら、クラウスはサイレンの音を聞いた。
近づいてくる。
当然、件の噂のある病院の付近で倒れ込んだのだから、最も近しい病院に運び込まれるのは当然だ。
クラウスはすぐさまストレッチャーに載せられ、目論見通り病院へと運び込まれる。
「……」
すぐさま緊急の手術が行われることになり、クラウスは腹部の裂傷を縫合される。
一命をとりとめたことが、失血が多いということもあり、輸血パックに繋がれたまま集中治療室に運び込まれることになるだろう。
クラウスはわずかに瞳を開け、病院内を観察する。
変わったところはない。
いや、これから変わっていくのか。
どちらにせよ、動き出すのは深夜を過ぎたあたりからだろうと判断し、クラウスは今度こそ本当に薬剤の副作用で意識を手放すのだった――。
シュワシュワと音を立てて泡立つ紙コップを眺めて 伊和・依緒(その身に神を封ずる者・h00215)は、これもまた景気づけだな、と思った。
端から見ればビールのような飲みものは『偽物ビール』と呼ばれる駄菓子の類であった。
一袋もらって試しに作ってみたのだが、思った以上にビールであった。
なかなか面白い商品である。
子供らが好みそうな、大人に憧れる背伸びを支えてくれるような、そんな駄菓子。
「景気づけってね」
ごく、と一気に煽る。
喉越しを味わうのがビールであるとよく聞くが僅かな炭酸が喉をひりつかせる。
「りんご味かぁ……うん、よし」
ぱし、と依緒は自らの頬を叩く。
気合をいれる。
これから件の病院に入院しなければならない。
普通に潜入することができないと教えられている。事件の可能性があるがゆえに、ことは密やかに行わなければならないのだ。
それ故に入院という手段を用いなければならない。
そして、仮病では恐らく入院はできない。
となれば、取れる選択は多くはない。
「実際に怪我しなければならないんてね……それにしても入院患者の死亡率が高い上に消えていくってのは、怪談としてもあまり良くないし、事実なら大問題だよ」
噂が立っても、病院は当たり前のように運営されているのだ。
真偽を確かめるために怪我をしなければ、と依緒は少しだけげんなりした。
痛いのは嫌だ。
√能力者だから死んでも死後蘇生できるからと言われても、できれば、そういうのは遠慮したい。
病気だって好んでしたいとも思わない。
ああ、でも。
「まだ怪我のほうがいいよね」
ぱし、ともう一度頬を叩く。
どうせ怪我するのなら、と彼女は口元にトーストを咥えた。
『偽物ビール』のアテとしてはちょっとおかしな組み合わせであったことだろう。
「ベタなお約束だよね!」
それ、と気合を入れて依緒はトースト咥えた女学生よろしく全力で大通りの道路へと飛び出す。
信号無視である。
当然、危険極まりない行為。
案の定というか必然というか。彼女の体はスピードを出していたトラックに激突し、空中を舞う。
まるでスローモーションである。
「……あ、これ、異世界転生しないよね?」
余裕があった。
痛いのは痛いが。しかし、彼女は刹那にそう思いながら、異世界転生していないことをアスファルトの上に転がる痛みで自覚させられていた。
衝撃に転がる体。
瞳を閉じる。トラック運転手の「やっちまった!!」という悲鳴が聞こえる。
潜入のためとは言え、悪いことをしたなぁ、と思う。
ほどなくしてサイレンの音が響く。
「……」
依緒はやってきた救急車に載せられて件の病院へと搬送される。
意識はあるが、全身のあちこちが痛い。
骨が折れているかもしれない。いや、折れているだろう。受け身を取ってはいたが、それでもトラックとの激突の衝撃は凄まじいものだった。
ほどなくして依緒はベッドの上に処置をされたうえで寝かされ、病棟が静まり返る深夜までまち続けるのだった――。
「人形に呪われてンだ……信じてくれよ、先生」
それは青ざめた顔をした秋津洲・釦(血塗れトンボ・h02208)の必死の訴えだった。
腕を抑えて釦は切羽詰まったように診察を受け持った医者にすがりついているのだ。
「落ち着いて。腕が痛い、ということでしたが……まずは患部を見ないことには」
なんとも判断しがたいという医者の言い分は尤もだった。
けれど、釦は構わず医者の白衣を掴む。
無論、それは演技であった。
そう、彼らは病院に潜入するために、こうして件の噂のたった病院に初診として訪れていた。
問診に書き込んだ文言は支離滅裂だった。
いったいいつからなのか。
どんな症状なのか。
患部を示す図解にはあちこちに丸が描かれている。まるでシャツのボタンが配されるように問診票には丸が描かれ続けていたのだ。
「本当なんだって! 呪われてる! 呪われてるとしか思えねンだよ!!」
「落ち着いて、落ち着いてください!」
「見てくれよ! これを!!」
熱の入った演技は、言動の怪しい患者として医者には映っただろう。
切羽詰まったような表情は真に迫っていたようにも思えた。
袖をまくり上げた釦の前腕部には、ボタンのような形をした腫瘍がイボのように並んでいるのだ。
一種の規則性すらあるように一列に、腫瘍が並んでいる光景に医者は目を見開く。
「こ、これは……」
「だから、呪われてるんだって!!」
「ま、まずはレントゲンを……」
「なんでもいいから、早くしてくれよォ!!」
暴れる釦をなんとか宥めて医者はレントゲンを撮り、そこに映し出されていた光景に絶句する。
そう、皮膚の下にボタンの影がはっきりと写しだされているのだ。
こんなもの、見たことない。
「痛ェ、痛ェよ……なんとかしてくれよ、先生ィ……!」
「……」
どうなったらこうなるのか。まるでわからない。
痛みを訴える以上と、ボタンが皮膚の下に収まっているという異常に医者は混乱しながらも切開を試みる。
実際に切開するとボタンが摘出される。
「腕だけじゃねェんだよ……足にも! あるんだ!」
絶句するしかなかっただろう。
いや、そもそも全身にくまなく出現するというのならば、一度入院してもらって経過を観察するしかない。
入院を、と告げられ釦は一度抵抗したが、その演技にむしろ強く入院を進められて病室に通される。
目論見は上手くいったと言えるだろう。
だが、これはあくまで演技なのだ。
「……うまくいったな……しかしやり過ぎだよ……|ルルちゃん《ルルチャン》……手加減をしらねぇな……」
そう、己の√能力によって釦は皮膚の下にボタンを実際に潜り込ませていたのだ。
切開された腕が痛む。
だが、上手く入院できたことは結果オーライだと言えるだろう。
「さて、本番は深夜、だろうなァ……」
一体どうなるか。
釦はベッドの上に上体を投げ出し、その時まで一眠りするかと欠伸の間の抜けた声を上げるのだった――。
病院への潜入に入院を果たさなければならない。
それは厄介な事案であるけれど、やらねばならないのが√能力者の辛い所でもあった。
しかも、生半可なことでは病院側は入院を認めないだろう。
発熱程度では自宅療養で、となるに違いなかった。
であれば、迫真の演技でもって嘘を真にするしかない。いや、違う。
真によって入院にこぎつけなければならないのだ。
「とは言ってもなぁ……」
二階堂・利家(ブートレッグ・h00253)はどうしたものかと頭を悩ませていた。
√能力者であれば死後蘇生ができる。
であれば、死に瀕するような事故に遭っても問題はない。徐々に傷は癒えていくだろうから。
とは言え、ぱっと思いつくものがなく。
「これを飲めばいいってことなのか」
手にしたのは『偽物ビール』。
言うまでもないが無害な駄菓子である。
幼い子供らが大人の真似事を楽しむ、謂わば一種の小道具。
粉末をコップに入れて水を注ぐだけであら不思議。見た目だけならビールの完成である。
泡立つシュワシュワ。
うーん、どこからどうみてもビールである。
「ほいっと」
利家はコップを一煽りする。
うん、いちご味。
見た目ビールなのにいちご味しているなんて一体全体どういう魔法を使えばこうなるのか。
「がぼがぼゔぉゔぉゔぉ」
一気に煽るものだから利家は泡立つ『偽物ビール』に思いっきりむせた。
むせて、むせて、むせる。
喉がひりつく。
鼻腔まで『偽物ビール』が込み上げてきて不快感が自律神経を走り抜け、上昇した血圧で世界が回る。
やばい。
これなんかやばい。
いや、実際にはやばくない。だが、『偽物ビール』を飲んだことにより、利家は所謂酩酊状態に近しい状態になっていた。
慌てるように病院に駆け込む利家。
問診などまるで意に介さぬ駆け込みによって利家はすぐさま診察室の扉を開け放つ。
「ばーん!」
「えっ!? だ、誰!?」
「世界がぐるぐるまわってる喉の奥から泡を吹く誰かが俺を見張ってるシャワーを浴びていると気配がする寝ているのにおきている死んでいたのに血を流す桜の木の下で俺がしんでちあ吐いたら死体が化けて出て夜なのに夜なのに夜なのにお医者さん!」
「な、何だ君は! おい、誰か!」
「お、落ち着いてください! 落ち着いて!」
「人! もっと人を呼んでこい!」
「お医者さん助けてくれぇ! 殺される殺される殺される殺される殺される!! 追ってくるんだ! どこまでも追ってくるんだ!! 匿ってくれええええ! 死にたくないいいいいいいいいいい」
利家のそれは錯乱であった。
まさしく精神錯乱。
見事なまでの暴れっぷり。
止めに入った医療スタッフをぶん投げ、振り回し、その怪力で持って暴れに暴れまわっていたのだ。
院内は当然騒然となるだろう。
「あ、あ、あ、あ、あああああああ!!!」
利家はプラシーボ状態であった。
所謂思い込み。
『偽物ビール』を飲んでそうなった、ということは将来は酒乱の気があるということである。いや、もう成人しているわけであるから、むしろ、そうなっているのかもしれない。
どちらにせよ、これは利家にとっては夢みたいなものであり、幻であり、また現実である。同時に嘘でもある。
「取り乱しました。大丈夫。僕は大丈夫」
急にシラフに戻った利家。
いや、絶対大丈夫じゃない! と医者たちは利家が落ち着いたのを見計らって彼の体を抑え込み、病院内の一室のベッドに抑え込むのだった――。
病院への潜入を試みるために入院しなければならない。
噂がたつ病院に医療関係者として潜り込むことはできない上に仮病を見破られる可能性があるというのならば、真でもって正面から入院を試みなければならないのだという。
例えば、真に怪我をするであるとか、服毒を持って搬送されるであるとか、はたまた心の病として入院を促されるか。
いずれにしたって無茶振りであることに違いない、とケヴィン・ランツ・アブレイズ(“総て碧”の・h00283)は思ったことだろう。
いくら√能力者が死後蘇生で生き返る存在であり、死が遠いのだとしても、無茶は無茶である。
「とは言え、そこまでのことをしなけりゃならねェ事情ってのがその病院にあるわけかい」
入院患者の異常な死亡率。
退院を果たしたとて、その後は消息不明になってしまう。
そんな不穏な噂が立つ病院に事件性がないと思うほうがどうかしている。
「……オーケイ。腹を括ろうじゃねェか」
とは言え、ケヴィンの体は健康体そのものである。怪我をしようとして怪我がデキrうわけでもないのは言うまでもない。
となれば、頑強な体躯を蝕む可能性があるのはなにか。
「……これ、か」
手には明らかに毒々しいキノコ。
これを? と思わずケヴィンは顔をしかめる。
そう、ケヴィンが狙ったのは食中毒による搬送であった。
素人判断で山中の毒キノコを誤って食してしまった、というのはありきたりであるが、よくある話でもある。
それが猛毒の類であれば、搬送された後に一日でも入院して、という流れになるのは想像に固くない。
別√から入手した毒キノコ。
「しゃーねェ!」
まるまる一本豪快にケヴィンはキノコを飲み込む。
味はいい。
毒があるほどにキノコはうまいのだという通説をケヴィンは信じる事ができるほどの味わいであった。
だが、即座に視界がぐらつく。
こみ上げる不快感。
胃がぐるんと宙返りするような感覚。
手足がしびれ、腹痛が激痛に代わって襲い来る。
「ぐっ……うっ……」
肉体の毒耐性が働いている。
だが、それゆえに肉体は異物を胃から放出しようと蠕動し毒キノコを排出する。けれど、毒性はケヴィンの体の中を駆け巡り、ぐるりぐるりと視界を回す。
震える手で緊急ダイヤルをタップする。
のっぴきならない事情があったさいに押すボタン。それによってケヴィンから通報のは言った救急隊が駆けつけ、ケヴィンの容態を確認すれば、即座に病院に搬送しなければならない事態だと吐瀉物からも判断できるだろう。
「あ、キノコ、を……」
ケヴィンは朦朧としながらそう告げる。どこまで事情が伝わったかわからないが、後は治療されるにまかせるしかない。
死ぬようなことはない、と己で確信が持てる。
だが、それでも毒は毒だ。
ぐるりぐるりと回る視界の中で、ケヴィンは意識が暗転し、次に覚醒した時、己が病院のベッドに横たわっていることを理解したのだった――。
「なんだ、俺にぴったりな仕事じゃねえか」
なんて言ったって、とノーバディ・ノウズ(WHO AM I?・h00867)はイエローカラーのフルフェイスメットを首から取り外した。
フルフェイスメットから下にあるはずの顔がない。
首から上が存在していないのだ。
「頭がねえからどーみても大怪我の即入院――にはならねぇよなぁ。どう見たって御陀仏なんだよな首のねえ体ってのは」
入院より、葬儀場に直行ではないか。
もしくは不審死として警察署にご厄介になるところである。
これは困ったな、とノーバディは首をひねる。いや、ないが。
「ま、こりゃ一芝居打たねえとならないってわけだ」
いよし、とノーバディはツテを使って手に入れた特殊メイクを施した人間のダミー頭部を存在しな首から上にはめ込む。
ぐりぐりとダミー頭部をなじませるように左右に振って天頂部から掌で抑え込む。
ぐに、と頭部が潰れて、バネのように伸び上がって漸く落ち着く。
「ふぅ、こんなもんかね。うんうん、√能力を使えば、限りなく本物っぽいな。あーあーあーあーなんつって。発声練習の真似事ってな」
くびを軽く鳴らす。
うん、どっからどう見ても成人男性だ。
「さって、ここからが本番だぜ」
フルフェイスメットを被り直してノーバディはバイク形態へと変貌した『コシュタ』にまたがる。
エンジンが回転する音が響き、エキゾーストパイプから排気音が嘶きのように響き渡る。
「ほんじゃま、サクっと事故にあったふりーっと!!」
アクセル全開。
後輪が空転するほどの回転数でもってアスファルトを切りつけながらノーバディは路上を疾駆する。
目指すは十字交差点。
見通しが悪く、また混雑するそこへノーバディは『コシュタ』と共に飛び込む。
信号無視、速度超過、脇見運転。
まあ、なんていうか役満というやつだ。
そんなことをすればどうなるかなんて、今日日小学生だってわかる。
そう、交通事故である。
金属がひしゃげる音とともにノーバディの体が宙を舞う。
フルフェイスメットのあごひもはしていなかった。さらに倍増である。舞うメット、舞う体。
一体どちらが先に地面に叩きつけられただろうか。同時に落ちた二つは、衆人環視の元、壮大な事故を引き起こし悲鳴と共にノーバディの迫真の演技が始まる。
「いや……つーか、捨て身で事故って割と真面目に……」
痛い。
いや、本当に痛い。
あだだだ……程度ですんだのはノーバディが√能力者だからだ。そうでなければ、即死である。
それほどの重大な事故が起こり、その渦中にあったとなれば、当然何をしないでも即入院である。
むしろ、生命がある事自体が奇跡のような有り様でノーバディはまんまと件の病院へ潜入を果たし、患者が寝静まる深夜までなんとも退屈な時間を過ごすことになるのだった――。
√EDENの街並みを見やる。
それは√ウォーゾーンからすれば得難いものであったことだろう。
差し迫った滅亡の危機があるわけではない。
楽園とも約束の場所とも評される√EDENは、それでも狂気にさらされている。いや、人は狂気に容易く堕ちるのだと 深雪・モルゲンシュテルン(明星、白く燃えて・h02863)は思ったかも知れない。
「判ってはいましたが、喜ばしい事実ではありません」
できれば否定してほしかった。
否定される方が好ましかった。
だが、現実として、この√EDENは常に狙われる位置にある。
約束の場所だからか、楽園だからか。
いずれにしても、簒奪者が引き起こす事件の影に噂が立ち上るのならば、それを標として立ち向かわねばならない。
その意志だけが深雪の足を支えていたのかも知れない。
「何はともあれ、病院に回収されなければなりません」
とは言え、彼女は電脳化義体サイボーグ。
本来ならば、入院など必要ない。しかし、彼女の体は生体部位が残っている。これを上手く活用すれば、病院に潜り込めるのではないかと思ったのだ。
そもそも彼女は√能力者。
死より最も遠い存在である。
演技をしようと思えばできなくもない。だが、より手早い方法があるのならば、その選択肢に手を伸ばすのもまた必然であった。
「……頭部電脳領域接続」
自らの電脳をハッキングする。
なんとも奇妙な感覚だった。生体部位の名残かもしれない。言ってしまえば、自らの脳に電極をぶっ刺して操作するようなものだ。
義体のメンテナンス時に使用するシステムにふれる。
当然、それは本来ならばありえない用法であったし、用途だった。
「休眠モード、強制実行」
バチン! と音がするようだった。
目の前が暗転する。
真っ暗になった、という認識すら深雪はできない。
当然、自身の義体、体が揺れ力を失って糸が切れたように硬いアスファルトへと倒れ込むのも自覚はできなかっただろう。
センサーにまるで反応がない。
無論、彼女が突如雑踏の中で倒れ込んだのを道行く人々は、その身に何が起こったのかさえ判然としなかったはずだ。
だが、現実として彼女の体は倒れ込み、呼びかけにもお応じない。
額を倒れ込んだ際にアスファルトで切ってしまっている。
ただ事ではないと彼女を救命すべく、人々は動き始めた。救急車を呼ぶもの、呼びかけ続けるもの、バイタルをチェックするもの。
多くの救命者たちがいたからこそ、深雪は病院に搬送されることになる。
それは一種の賭けであったことだろう。
ここ、√EDENだからこそ人々が彼女を見捨てることもなければ、捨て置くこともなかったのだ。
それを彼女は一定時間後に休眠モードを解除するように設定したことを思い出すと同時に意識レベルが復旧して初めて理解しただろう。
「……ここは病室。どうやら、うまく事が運んだようですね」
病室は静まり返っている。
時刻は深夜帯。
であれば、ここからが自らの本分だ。
軋むベッドの音が嫌に響くのを感じながら、深雪は奇妙な噂が立ち込める病院、その病棟に足を踏み出す。
どんな事象が起こるのだとしても、必ず原因がある。
「因果関係を詳らかに」
そうつぶやき、深雪は己の義体の性能を開放するのだった――。
第2章 集団戦 『EGO』

「生きたい……! どうしても生きたい……!」
「生きてあの子に会いたい。死ねない。どうあっても死ねないの!」
「いやだ、死にたくない。怖い。怖い。暗くて、ここは怖いよ……!」
深夜の病棟に、啜り泣くような、縋るような声が響く。がちん。
それは怨嗟でもなければ、哀愁のようなものを感じさせる声色であった。がちん。
歯を打ち鳴らすような音。がちん。
それは徐々に深夜の薄暗い病棟の中で次第に音を大きくし、また数を増やしていった。がちん。
病院に上手く潜り込んだ√能力者たちは、その音を聞いただろう。
「殺さなければ。僕らは、失敗作……殺して、奪えば、成功する。死にたくない。生きたい。だから奪わないと」
「生きてあの子に会いたい。あの子を一人きりにできない。だから奪わないと」
「死にたくない。怖い。怖い。暗い。だから、灯りを灯さないと。明るいものを奪わないと」
それは深夜の病棟に無数に浮かぶ奇妙な物体。
巨大な卵に翼が無数に生えた、鳥になり損なったかのような異形。
ぞろりと生え揃った歯列、その口腔の奥に除くのは一つの眼球。
声は、その異形から響いていた。
「失敗は誰かの成功であがなえばいい。いる、いる、いるいるいるいる!!!」
「√能力者……殺して奪えば、あの子にまた会える! 殺す殺す殺す殺す殺す!!!」
「怖いのは嫌だ怖いのは嫌だ。でも、怖くなくなるためには、力があれば! だから、奪う奪う奪うんだ!!!」
異形たる怪物『EGO』は、その羽を羽ばたかせ、深夜病棟に集った√能力者たちに襲いかかる。
それは妄執にすぎない。
だが、『EGO』にとっては真だったのだ――。
声が聞こえる。
それは悲嘆に暮れるような声であったし、悲しさしか反響しないものだった。
ただ只管に悲しい。
それだけは、クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)にも感じ取れるものだった。
自ら腹部を刺し、この病院に入院という名の潜入を果たしたことは正解だったようだ。
「動き始めたみたいだね」
貧血で頭がぐらぐらする。
上体を起こすだけでこれだ。だが、意識をはっきりさせなければならない。
ふらつくようにベッドからお降り、クラウスは病室の扉を開く。
扉に隙間が生まれた瞬間、病棟に響く声が耳にはっきりと届いた。
「死にたくない。どんなことをしても死にたくない。もう一度、あの子に会いたい……あの子を抱きしめてあげたい。もっと、もっと、好きだよと、愛してるって伝えたい。死ねない、死ねない体が欲しい」
響く声は怨嗟にも似ていた。
廊下に飛び出す。
そこには奇妙な物体が羽撃いていた。
まるで鳥の出来損ない。
孵化しきれないなにかのような存在。
『EGO』と呼ばれる異形が、その卵に翼生えたような奇妙さのまま病棟の廊下に飛んでいるのだ。
「く……」
万全じゃない。だが、かまっていられない。あの異形が被害を出す前に倒さなければと思う。
それに、とクラウスは、あの『EGO』が入院患者の成れの果てのように思えてならなかった。
ぐるん、とクラウスを認め『EGO』の瞳が見開かれる。
「√能力者! √能力者! その力を! その力をよこして! 私のモノにできれば、私はあの子の元に行ける!!!」
叫びが響いた瞬間、その身から無数の『EGO』が生み出され、エンジェルウェイヴが一斉にクラウスをへと襲いかかる。
身を打ち据える衝撃に己の刺した腹の傷が開くようだった。
「受けては駄目だ……!」
「逃さない! その力を、ちょうだい! √能力があればあああああ!!!」
それは妄執の如き執着だった。
転がりながらクラウスは走る。
突貫するように迫る『EGO』を右掌……即ち、ルートブレイカーで打ち消しながら、警棒で打ち据える。
痛い。
体が痛い。腹部から血が滲む。エンジェルウェイヴの衝撃も骨身を打ち据え、苦しい。
だが、それ以上に。
心が苦しい。
欠落抱える己にとって、それは当然の痛みだった。
けれど、『EGO』の悲痛な叫びにクラウスはお思う。
他人から見て妄執だとしても、『EGO』にとっては切実な思いなのだろう、と。
だからこそ、クラウスは、その言葉に何の意味もないと知りながら、呟くように告げるしかできなかった。
「ごめんね」
己の力を欲する『EGO』が大口を開けて己に迫る。
戦いはやめられない。
彼らの生命を奪うことになるのだとしても、緩められない。
その妄執が、必ず己以外の誰にかも襲いかかることを理解したからこそ。
「君たちの妄執を、叶えさせる訳にはいかないから」
振り下ろした警棒が、『EGO』をかち割るように叩きつけられ、クラウスは苦々しい気持ちに一層心と体を痛めつけながら、戦い続けるのだった――。
深夜の病棟。
浮かぶは異形。
まるで鳥になりそこなった卵だ。
「なんだいあれは……」
少なくとも、秋津洲・釦(血塗れトンボ・h02208)にはそう見えてならなかった。
「奪わなければ。力を。力を奪いさえすれば、僕らは生きられる。何も不幸せなことなんてない幸福な明日が得られるはずなんだ。奪わないと。奪わないと……」
異形『EGO』は、そう呟くように妄執に取り憑かれたままに深夜の病棟内を飛んでいる。
話が通じるのならば、色々と聞き出したいところだが、どうにもあれは駄目そうだと釦は思った。
だが、同時にこうも思った。
あれは病院側が意図的に『飼って』いる存在なのではないか、と。
であれば、この病院の関係者の様子を伺いたいと思ったのだ。
せっかく痛い思いをしてまで潜入したのだ。
これでお終いにするには惜しいとさえ彼は思っていた。
「もう少し患者のふりをしようかなぁ……」
思わず口角が釣り上がるのを自覚して釦は頭を振って己のつり上がった口角を掌で抑えた。
楽しくなってるんじゃあない。
そう内心呟いて、ボタンは病棟の中を歩き回る。
誰かに見咎められたのならば、夜中に水を求めて起きた入院患者と装えばいい。何も問題はない。
薄暗い廊下。
非常階段を示す灯がある以外は、真っ暗だ。
ナースステーションだって同様だった。
同時に病棟の上階で物音がする。
「おっと、どうやらすでにドンパチやりはじめてるのがいるな……? ご同業、か? いや、そうだよな。こういう音をさせるってのは」
戦いの音。
だというのに、この病棟には病院関係者の姿が見えない。
こういった異変があれば、いの一番に駆けつけるはずだ。
なのに、それがない、ということならば。
「√能力者。力がある存在。その力……」
ガチン、と背後から音が聞こえる。
まるで歯と歯とを打ち合わせたような、音。ガチン、ガチン。その音に釦は振り返る。
恐る恐る、と言った風ではない。
ためらいは、一瞬で生命を奪うものだと知っていたからこそ、その音が近づく前に駆け出しながら振り返る。
するとそこにあったのは、無数の『EGO』であった。
「おいおいおい、さっきより数が増えてるじゃあないかよ! さっき一体だったじゃあないか!」
「√能力者! その力を、生命をくれ! 僕はもう怖い思いをしたくないんだ!!」
口角泡を飛ばす勢いで迫る『EGO』。
衝撃波であるエンジェルウェイヴが釦の体を打ち据える。
「ぐっ……! ち、近寄るな……化け物……」
「いやだ、その力を奪う。奪わないと!!」
「近づいたらオマエたちにも呪が感染るぞ……」
「呪いなんてどうでもい!!」
叫びと共に『EGO』が無数に分裂して釦に襲いかかる。
だが、その眼前に突き出されたのは、『遺留品・ルルちゃん』と呼ばれる人形だった。
隻眼であり、本来目が存在している場所に、大きな赤いボタンが縫い付けられている。
ふんわりと縦ロールの金髪。
緑のお洋服に赤い靴とリボン。
薔薇のコサージュ。
それを『EGO』が認めた瞬間、その異形に無数の赤いボタンが出現する。
「これは何!? ボタン!? なんで!?」
「だから言ったろ、呪いが感染るぞ……って」
影業にて突き出された『遺留品・ルルちゃん』は、釦の√能力。
増殖する縫肉釦。
それが|彼女《ルルちゃん》の呪い。
異形の体に縫い付けれていく無数のボタンは体躯を覆い尽くしていく。例え、エンジェルウェイヴによってボタンを不飛ばそうとして、それより早く全身を覆い尽くすように増殖していくのだ。
「怪異対呪い……勝つのは」
どっちだ、などと釦は思うまでもない。
見ればわかる。
如何に異形とて、『遺留品・ルルちゃん』の呪いはインビジブルより引き出されたエネルギーによって変換されている。
増殖したボタンが全てを物語っていた。
「だから言ったんだよ。近づくなって」
ボタンまみれになった『EGO』たちが廊下に落ちて乾いた音を立てる。
残されたのは、大小無数のボタンの山。
そこにはもう何も、なかった――。
どうにも騒々しい。
ノーバディ・ノウズ(WHO AM I?・h00867)はダミーヘッドの頭部を少し煩わしそうに動かして深夜の病棟に響く音を聞いた。
戦いの音だ、と即座に理解する。
「おォ。どーも動きがあったみてーだな?」
それにしたって此処は病院だ。
「ぎゃーぎゃー喧しいな! 病院では静かにってママに教わらなかったか?」
ノーバディは病室から抜け出して、病棟の薄暗い廊下に歩みだす。
非常灯が灯る廊下は、奇妙な雰囲気があった。
いや、それだけではない。
非常灯の光に照らされているのは、奇妙な物体。
翼と脚の生えた卵。
ぎょろりと単眼が歯列生え揃った口腔からノーバディを見つめていた。
「あァ? なんだありゃあ?」
奇妙な姿に驚いたのではない。いや、奇妙さでいうのならば己も大概である。人のことを言えた義理ではないが、とノーバディはダミーヘッドを軽く揺らす。
どう見ても異形。
この深夜の病棟に似つかわしくない存在である。
「まったく騒々しいのは、こいつらが原因かよ。テメェらのママに代わってマナーってもんを教えてやるよ」
ダミーヘッドを小突くと、ごろりと頭部が足元に落ちる。
ややもすれば、それは一種の怪談めいた光景であっただろう。だが、ノーバディはもとより首がない。
そして。
「病院ってのはフツーだとなかなか手に入らないものもあってありがてェぜ、俺みてえなやつには特によ!」
手にしていたのは、拝借していた麻酔薬と注射器。
√能力の行使を示すようにノーバディの周囲のインビジブルが揺らめき、エネルギーが引き出されて発露するのは、|Chaos Head《カオスヘッド》。
麻酔薬と注射器が融合して、大きなシリンジ型の頭部が形成される。
「はぁー、痛くないですからねェ!」
頭部を振りかぶって、ノーバディは卵のごとき異形『EGO』へと迫る。
まるで槍のようにシリンジの針を『EGO』へと叩きつけんと跳躍したのだ。
「√能力者! ああ、やっぱり√能力者!」
「あァ? だったらなんだってんだよ。痛くねぇ……あいや、嘘。痛えけど我慢しとけェ!!」
放たれた一閃が『EGO』の体躯へと突き刺さり、シリンジの中身を注入する。
むろん、麻酔薬である。
ぶるぶると震える『EGO』の体躯。
抵抗するようであったし、それが無駄であることをノーバディは知っていただろう。
「朝までぐっすりってな。そんじゃあ|おやすみ《グッナイ》!」
まるで瞼を閉じるように『EGO』の口腔が閉じ、異形の体が病棟の廊下に転がる。
「はぁ、やれやれ。五月蝿え患者どもだったぜ」
ノーバディはシリンジ型の頭部の首を鳴らして未だ戦いの音が響く病棟を往くのだった――。
「……やれやれ、こちとらまだ体の痺れが抜けきらねェってのに、なんとも気の早い連中だぜ」
ケヴィン・ランツ・アブレイズ(“総て碧”の・h00283)は病室のベッドから身を起こす。
時は深夜。
本来なら静寂の中に寝息が混じる頃合いであろう。
であるはずが、この病棟には今やけたたましいほどの戦いの音が響いている。
おそらく、病院に入院という形で潜入した他の√能力者たちが戦っているのだろう。
きな臭い噂のたつ病院。
それが真であったことの証明であった。
「一応、入院患者が病棟内で暴れるってのは、ちょいと気が引けるが……しゃァねェ。これも噂の真相究明のためだ。いっちょやるか」
拳を打ち付けてケヴィンは病室から廊下に出る。
まだ本調子ではないな、と己の体の具合を確かめながらケヴィンは仄暗い病棟の廊下を見やる。
「奪わないと、えられない。力が、えられない。奪えば、得られる。力が、完全な力が、そうすれば、生きられる。今日も明日も、明後日も、ずっとずっとずっと!!!」
声が聞こえた。
悲痛ささえ感じさせる声。
その声の主は異形だった。
まるで出来損ないの鳥。
卵の如き体躯から生えるは翼と脚。そして、殻を割るようにして口裂に並ぶは歯列。その口腔から除くは単眼のぎょろりとした瞳。
それがケヴィンを捉えていたのだ。
「その力、欲しい! ちょうだいちょうだいちょうだいいいいいっ!!!!」
翼が極彩色に煌き、凄まじい速度で異形『EGO』がケヴィンに迫る。
打ち合わせた拳を構え、ケヴィンは突進を受け止める。
「ぐっ! 重たい……! しかも、手数もあるのかよ!」
圧倒的な速度で病棟の廊下を飛翔する『EGO』。翻弄されるようにしながらケヴィンは突進を受け流し、√能力の発露たるインビジブルの孤影を瞳に浮かべ、エネルギーを引き出す。
拳に宿るは穢を薙ぎ払う力。
「なら、まとめて広範囲を薙ぎ払うのみ! 覚悟しやがれ!」
振るう拳は、|颶風撃・穢薙禍祓《テンペスト・キャリバーンディフィート》。
己が拳をもって災禍を祓う。
振るわれる拳の連打が『EGO』を捉え、その体躯を吹き飛ばす。
吹き飛ばされた体が廊下を転がり、もう一度蹴って飛翔しようとするのをケヴィンは許さなかった。
踏み込み、振り降ろされる拳の一撃は鉄槌のように『EGO』へと放たれ、その体をひしゃげさせる。
砕けた体から拳を離してケヴィンは息を吐き出す。
未だ体のキレが戻っていないのだ。
「まったく、厄介なことになっちまったぜ……」
だが、まだ戦いの音は響いている。
であれば、立ち止まってはいられないのだ――。
全身を強く打っての入院。
本来ならば動くこともできず、絶対安静の身。
されど 伊和・依緒(その身に神を封ずる者・h00215)は√能力者だ。
死より最も遠い存在。
だからこそ、彼女は既にベッドから身を起こしていた。
「あー、もう体痛い!」
まるで筋肉痛に苦しむ程度。その程度の様子で彼女はベッドから降りて、戦いの音が響く深夜の病棟に踏み出した。
お約束とは言え、無茶をしすぎた、という自覚はある。
だが、こうでもしないとこの病院に搬送もされず、また入院も許されなかっただろう。であれば、結果オーライである。いや、オールライト、というわけではないのだが、それはもう無視したほうがいいな、と依緒は思い直していた。
「生きたい、生きたい、生きたい。死にたくない。明日が欲しい、明後日も、ずっと、ずっと」
声が聞こえる。
悲痛ささえ感じさせる声。
その声の主たる異形を非常灯が照らしていた。
仄暗い中にあってなお、そのシルエットは怪物的であることを依緒は知っただろう。
「生きたい、か。まぁ解る。わたしもさっき死にかけたしね」
「なら、欲しいものがある。お前の力を、くれ。そうすれば、失敗は成功になる。そうすれば、僕は、生きられる!! また友達に会える!!」
極彩色に煌めくは、異形の翼。
卵に鳥の翼と脚を持ち、口裂から除くは単眼。
その異形たる『EGO』が依緒に凄まじい速度で迫っているのだ。
「会いたい人がいるからって……それも解るよ。納得だってできる。でもね、失敗を他人の成功で贖ってもらおうっていうのは頂けないかな」
依緒はオープンフィンガーグローブに包まれた手を握りしめた。
「誰に騙されているのかしらないけど、|√能力者《わたしたち》を殺しても、何も奪えないし、会いたい人にも会えないよ」
「ちがうちがうちがうちがう、嘘を言っているのはおまえたちだ、きっとおまえたちが、力惜しさにそう言っているだけに違いない、そうだ、ぜったいにそうだ!!」
突進を受け止め、押し込まれる依緒。
妄執。
まさしく、それだ。
目の前の異形たちは、妄執にかられて己たちを襲っているのだ。
「違うよ。悪いけど、その|形《なり》で会ってどうするの? 逃げられるだけなんじゃない?」
「だまれだまれだまれ!!!」
ガチガチと歯列が開閉し、依緒を喰らわんと『EGO』が迫る。
けれど、事実だ、と彼女は『EGO』を弾き飛ばす。
空中で身を昼う返した『EGO』の単眼が一層ぎょろりと妄執の色を宿し、再度極彩色の翼を羽ばたかせて迫る。
「状況がもっとひどくなる前に、おとなしく消えたほうがいいと思うよ……ていっても聞く耳もってはくれないんだろうね。知ってた」
仕方ない、と依緒は息を吐き出す。
「あなたたちをこんなにした奴からケジメは取るから」
だから、と鋼糸が仄暗い病棟の非常灯の光に煌き、走る。
それは、|攻破旋陣《コウハセンンジン》。
気を纏った鋼糸が迫る『EGO』に走り、その体躯を寸断する。
まるで、粉砕されたように細かく切り刻まれた『EGO』の体躯は、まるで端からそこに存在してなかったかのように散り、霧散していく。
依緒はもう一度息を吐き出した。
仕方ない、と――。
澄月・澪(楽園の魔剣執行者・h00262)は、家族に心配をかけたくはなかった。
入院するともなる病気や怪我をすれば、当然家族に心配をかけるのは当たり前のことだった。
なにせ、彼女はまだ未成年だ。
子供であるし、保護者も必要だ。そうすれば、当然面倒事が増える。それ以上にただただ澪は家族や親しいものたちに心配をかけたくなったのだ。
それだけのこと。
だから、今まさに深夜であるに関わらず家から抜け出し、きな臭い噂のたつ病院に忍び込んでいた。
「みんなが突き止めてくれた噂の病院……私も頑張るっ!」
少し怖いかも知れない。
夜の静まり返った病院。
僅かな物音だって響くだろう。手にした魔剣『オブリビオン』によって魔剣執行者の姿となっても、やはり怖いものは怖い。
けれど、ためらってはいられない。
柵を軽々と乗り越え、関係者入口の鍵を剣を差し込んで破壊して病棟を走る。
「戦いの音、聞こえる……!」
すでに他の√能力者たちが戦っているのだろう。
であれば、やはり当たり。この病院の噂は真なのだ。
「じゃあやっぱり……!?」
澪は仄暗い病棟の廊下、非常灯に照らしだされて蠢くものを見た。
それは奇妙なものだった。
まるで卵。それも大きな、人間の頭ほどもあろうかという大きさの卵。もっと奇妙だったのは、それに翼と鳥の脚が生えているということ。
まるで鳥の出来損ないだ。
だが、澪が息を呑んだのは、その振り返った体躯を裂くようにして歯列が並び、その奥に単眼がぎょろりと此方を認めたからだった。
「√能力者? √能力者だ! きっとそうだ、力、力があるはず! その力を!! よこせぇぇぇ!!」
けたたましい声を上げながら異形『EGO』が澪に襲いかかる。
「こんなにたくさん……!?」
「力ッ! 力! ちからぁ!!!」
妄執の色宿す単眼の瞳を澪は認めただろう。そして極彩色の翼を羽ばたかせながら、己を喰らわんとするように歯列が音を立てて打ち鳴らされている。
「この人達は、ここで亡くなった……? うぅん、今は突破しないと!」
澪は魔剣を構え、その瞳に√能力の発露示す光を放つ。
|魔剣執行・剣嵐《マケンシッコウ・ケンラン》。
その斬撃は迫りくる『EGO』の群れを斬撃の嵐でもって取り込む。暴風のような斬撃は、すぐさまに『EGO』たちの記憶を忘却させながら、切り刻むよに渦を巻くのだ。
「もっと、力があればっ、明日も生きられる。今日生きられたことを、続けられるっ、明日も、生きたい、生きたい、生きたい……!」
喚くような声が斬撃の嵐の中に飲み込まれていく。
澪はその妄執の声を聞きながら斬撃に消えゆく『EGO』たちを退け、さらに病棟の中へと踏み込んでいく。
「この病院で何かが起きてる……きっとこの先に、その何かがある!」
澪は確信を強めながら病棟を走る。
急がなければならない。
知らなければならない。
あの妄執に満ちた瞳は、何を訴えていたのか。それを知らなければ。そして、己が感じた何かの正体を得るため、澪はためらわず病棟の奥へと迫るのだった――。
無数の異形、『EGO』が非常灯に照らされた廊下に影を落としていた。
それは奇妙な姿であったし、また化け物と呼ぶに相応しい姿であった。
極彩色の翼を広げ、羽ばたく姿。
どう見ても平常ではない。異常だ。
「病院に運び込まれた皆さんが、あの怪物に変えられたのでしょうか」
深雪・モルゲンシュテルン(明星、白く燃えて・h02863)は、これが憶測でしかないことを知っていた。
仮にそうだとして、と深雪は思う。
あの姿はもう肉体も精神も変質しきっているのではないか、と。
救うことはできない、と彼女は判断した。
忸怩たる思いがあっただろうか。
けれど、彼女は決断したのだ。であれば、その決断を誰が責められるだろうか。何も決めない者が、何かを決断したものを責める謂れなど何処にもない。
「……撃破しましょう」
起動するのは、|複数目標追尾システム《マルチプル・ターゲット・トラッキング・システム》。
深雪の周囲に神経接続型浮遊砲台が浮かび、機械化された眼球が『EGO』を薄暗い廊下であろうと捉えていた。
「√能力者の力、奪えば、俺のものになる! 俺のものにすれば、俺は完全になる。生きられる。生きることができる。死に怯えなくていい! もうあんな思いはしたくない! だから、お前の力を寄越せッ!!!」
それは妄執の叫びだった。
『EGO』は単眼が覗く口腔から体液を撒き散らしながら深雪に迫る。
極彩色の翼が煌き、その圧倒的な速度で深雪を噛み殺さんとするのだ。だが、その恐ろしい光景を目の前にしても深雪はたじろぐことはしなかった。
暗視機能によって『EGO』の動きは暗がりにあっても把握できている。
無数に迫る敵。
そう、敵だ。
あれは敵なのだと深雪は判断している。計算し、浮遊砲台の放つ弾丸の弾道を計算する余裕すらあった。
病院内部への被害は発生させない。
正確無比たる計算によって浮遊砲台から放たれるのは、インビジブルより引き出したエネルギーを変換した光弾。
その銃撃は狙い過つことなく、口腔の奥にある眼球へと叩き込まれる。
「……ッ!!!」
声にならぬ声が上がる。
それは『EGO』の悲鳴だった。例え、人であったものだとしても、深雪は動揺しいなかった。
問題はない。
慣れている。
何に、とは言わない。誰にも理解し得ないことだっただろうし、判り得ないことだったからだ。
それでも『EGO』たちは深雪めがけて飛ぶ。
何も諦めていないのだ。どれだけ彼女の浮遊砲台が隙なく光弾を打ち出し続けているのだとしても。
それほどまでに己たち√能力者に執着している。
「……どこにいるのです」
深雪は戦いながら病院内のコンピュータや監視カメラをハッキングしていた。
不審な通信や病院内部に隠し部屋がないかを探っていたのだ。
そう、必ず首魁がいる。
この悪辣なる噂立ち込める病院のどこかに。必ず。
深雪は迫りくる『EGO』の群れを撃退しながら、必ず存在すると確信する首魁の姿を求めるのだった――。
「生きたい、生きるためには力が必要なんだ、だから奪わないと!」
「死にたくない、怖い、生きたい、死にたくない、死にたくない、死にたくない!」
そんな声が深夜の病棟に響く。
妄執の声。
「ほむほむ。大した合奏会だな。怨~怨怨怨~恨み節~♪」
二階堂・利家(ブートレッグ・h00253)は病棟の薄暗い廊下にて蠢く異形『EGO』たちの声を聞いて、恨み節だと言った。
まるで合奏会と言ったのは『EGO』たちが全て妄執に取り憑かれているからだ。
ぎょろり、と単眼が此方を見ている。
利家は肩をすくめた。
「ああ、合わせる気ないんだ。煩わしいばっかりじゃないか」
利家はまったくと息を吐き出す。
これは確かにちょっとしたブラクラグロ画像というやつだな、と思ったのだ。
異形の如き姿。
鳥の出来損ないのような姿。
卵の殻を思わせる体躯に口裂走り、そこから単眼が覗いている。
それが蠢いているのだから、恐ろしげな光景であると思うのはある種当然だった。
「俺は『今』が楽しければそれでいいよ。それだけで良いんだ」
「私はあの子を抱く明日が欲しい。苦しみばかりの今なんて要らない。あしたが欲しい。だから、あなたの力を頂戴! その力があればああああ!!!」
『EGO』たちが一斉に利家に襲いかかる。
生み出された無数の『EGO』。
放たれるはエンジェルウェイヴ。
衝撃波、震動波とも言うべき一撃が利家の体を襲う。
痛みが走る。
だが、それでも利家は踏み出し『EGO』の体躯に掴みかかる。
「お前たちはとりあえず、此処で終わりだよ」
ぎりぎりと軋む音が響く。
その瞳には√能力の発露。
インビジブルの孤影がゆらめき、エネルギーが引き出され、利家は己の拳を『EGO』に叩き込む。
さらに己の体重を乗せた一撃を『EGO』の単眼へと叩き込む。
握り拳が鉄槌のように重ねて叩き込まれ、馬乗りのように利家は『EGO』を抑え、さらに拳を叩き込む。
返り血が頬を濡らす。
構わない。
トキシックパウダーが噴出されても払い除け、エンジェルウェイヴの震動が身を苛むのだとしても、構わず叩き込む。
細切れにする。
存在を刻み込む。
滅ぼす。目の前の異形を滅ぼす。
ただそれだけの一心不乱。利家は『EGO』がひしゃげ、その姿が見る影もなくなると立ち上がる。
ゆらりと非常灯に利家の体が照らされる。
その表情は影になって見えなかった。
今が楽しければいい。
なら、明日は明日のことなのだ。今の己が考えることではない。今懸命に生きられない者に明日なんてやってこない。
「手っ取り早いことなんてない。三段跳びで怪談飛ばしができたって、体勢は崩れるし無理が出る。そういうものなんだよ」
いつだってそうだ。
正しいのは、いつだって遠回りに見える厳しく険しい道なのだ――。
第3章 ボス戦 『『脱獄囚三十三号』宇佐美・皆乃』

「あちゃ~何事かと思ったら、しっかり邪魔者が来てるじゃないですか♪」
それは大凡、病院という場所において似つかわしい姿をしていた。
頭に揺れるのは兎耳。
二つ結びにしたビビットピンクの髪が軽やかに揺れて天を仰ぎ見る瞳。
手にしたスマートフォンの画面に照らされた顔は可憐な少女。
「え~なんでバレちゃんたんでしょ~? 不思議不思議♪」
そう言いながら彼女が視線を落としたひび割れた液晶画面には、無数の『EGO』を打倒した√能力者たちの姿があった。
「おっと、もしかしてもしかしなくてもぉ、これハッキングされちゃてます?」
ぐる、と首を傾げてバニースーツに包まれた体を天井の四隅に設置された監視カメラを見やる。
その顔は確信を得ていたようだった。
「なら、仕方ないですよね♪ 患者相手もちょっと飽き飽きしてたところなんです♪ ちょっとつまみ食いしたっていいですよね? うん、いいですね♪」
スマートフォンを手にした手をだらりとさげて、可憐な少女の姿をした簒奪者、『脱獄囚三十三号』宇佐美・皆乃は、にっこりと微笑んだ。
もしも、彼女を知る者がいたのならば、彼女が東京都連続斬首事件の犯人であると理解しただろう。
死刑判決が出たにもかかわらず、彼女は脱獄を果たしている。
そんな彼女が何故、この病院にいるのか。
何故、と問いかけても答えることはないだろう。
だが、彼女の凶暴性は今まさに√能力者達に向けられている。
「入院生活って~フラストレーションたまりますよね♪ 善良な一般人のフリをするのも結構大変なんです。だから、私、もう我慢の限界なんですよ♪」
にこり、と彼女は仄暗い病棟の廊下で可憐な笑顔を浮かべ、場にそぐわぬ声色でまったくもって可愛げのない言葉を告げる。
「皆さんの首、斬らせてくださいね――♪」
薄暗い廊下に現れたのは、簒奪者『囚人番号三十三号』宇佐美・皆乃であった。
可憐な美少女とも言うべき彼女の姿は、病院にあまりにも似つかわしいものであった。病院にドレスコードというものがあったのならば、どう考えても場違いだった。
バニースーツに身を包んだ彼女は小首を傾げて笑む。
「というわけで、その首、いただきまぁす♪」
「はあ? どちら様だよ、お前は」
二階堂・利家(ブートレッグ・h00253)は、突然現れた簒奪者の姿に警戒を強めていた。
「急にでてきて何が何なの」
「あれぇ? わかりません? わからないのに此処まで来ちゃいましたぁ?」
「はぁ、なんつーの、急に√EDENの病院で同じような事件がそこかしこで起こるって明らかに普通じゃないからね」
「うん? そもそも普通ってなんですかぁ? インビジブルがそこかしこに漂っているのと同じでぇ、こんなの日常茶飯事ですよぉ♪ どこでも、そこかしこでも、おんなじようなことは起こってるんですよぉ。あなたが気がついてないだけで♪」
「あっそ! な~んとなく察しがついてるけど!」
スモークグレネードを爆破し、ブラスターライフルを構えた利家は、宇佐美・皆乃へと攻撃を放つ。
瞬間、彼女の体は跳躍し利家の背後に回り込んでいた。
いつのまに、と思った瞬間、喉に違和感を覚える。
何も見えない。
だが、おぞましいほどの殺気が彼を襲ったのだ。
「……――!!」
「あん♪ 惜っし♪ もうちょっとだったのに」
とっさに首元にガントレットを差し込むようにして首をガードしたおかげで、宇佐美・皆乃のワイヤーから首を守ることができた。
だが、首元に血の線が走る。
食い込んだのだが、ガントレットのおかげでそれ以上は食い込むことはなかった。
初撃をなんとか凌げれど、敵は攻撃の度にこちらを強襲することができる。
しかも、だ。
「どこだよ! 潰れたトマトになるのはお前の方だっつーの!」
「アハハ♪」
笑い声が聞こえる。
だが、スモークグレネードの煙幕の中に影が走る。
瞬間、跳ねるように利家は影との距離を詰める。煙が晴れた瞬間、彼の目に飛び込んできたのは、宇佐美・皆乃とは程遠い一般入院患者らしき人間の姿だった。
だが、利家は構わなかった。
「こんな病院に今更! いるかよ!」
振るうは屠竜大剣。
もう構わない。施設が壊れようがなんだろうが、√能力、忘れようとする力でどうとでもなる!
「スクラップ&スクラップだ!」
「あれぇ? それってぇ、どっちかっていうと頭の方じゃありませぇん?」
振るわれる斬撃をワイヤーで受け止めながら、宇佐美・皆乃は吹き飛ばされる。
仕留めきれていない。
己の負傷を√能力で塞ぎながら、利家は歯噛みする。
だが、ここからだ。
「宣言したとおりに潰れたトマトにしてやるよ――」
「アハハ♪ 女の子にひどぉ~い♪ こぉんなに可愛い子に乱暴するなんてぇ、極刑ものじゃあないですかぁ? なのでぇ、ちょっぴり首をチョン、パッ、てさせてくださぁい♪」
簒奪者『囚人番号三十三号』宇佐美・皆乃は笑顔のまま戦場となった病棟の廊下の非常灯に照らされて、怪しい笑みを浮かべていた。
巫山戯た恰好をしているのに、侮れない、とクラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)は思っただろう。
「……お断りだよ」
「え~? つれないぁい♪ おにーさん、ノリ悪くないですか~♪ それにぃ、顔色悪くありませぇん?」
「……だとしても、お前のような殺人鬼が患者に紛れている状況を看過することはできない」
見透かされた通り、クラウスは今、限界が近い。
それでも躊躇わずに踏み出したのは、なんのためか。
言うまでもない。
己の内には『■■』なくとも、怒りがある。
無為に奪っていく簒奪者への怒りがある。それがクラウスの限界近い体を支えていたのだ。
「なかなか、ごーじょーなおにーさんですねぇ♪ でも、そういうの嫌いじゃあないでぇす♪」
瞬間、暗がりに翻る光があった。
「……!!」
ワイヤー。
そう悟った瞬間、首を狙って放たれた単分子ワイヤーがクラウスに迫る。
グローブでとっさに首をかばうも、グローブに食い込み腕に裂傷が走る。
「あらぁ、また外れちゃったぁ♪」
「く……っ!」
クラウスは息を飲む。
更に迫る単分子ワイヤーの斬撃。それだけではない。
「その姿は!」
目の前が怒りに染まる。
彼が見たのは、宇佐美・皆乃の姿ではない。そこにあったのは、クラウスの親友のs鵜方だった。
違う。
あれは、違う。
あれは偽物だ。
動悸が走る。胸に痛みが走る。
「おにーさん、私がどう見えてます? 大切な人に見えてますよねぇ? そんな大切な人を攻撃できますかぁ? できませんよねぇ♪」
だから、死ぬのだというように宇佐美・皆乃は単分子ワイヤーを振るう。
身に食い込むワイヤー。
痛みはあれど、しかしクラウスは怯まなかった。
「反撃しないんですかぁ? それともできない? ……いや、違いますよねぇ。どっちも違います。何か狙ってますよねぇ?」
看過されている。
だが、構わない。投げ放つカードが親友の姿をした宇佐美・皆乃の顔面に走る。ためらいはなかった。
怯む理由はなかった。少しだけ心が辛かった。
偽物だってわかっているから。
「覚えてる筈のあいつの笑顔と、お前の浮かべる顔はぜんぜん違う。だから、辛くなんてない」
心が苦しい。
それでも立ち向かわねばならない。
払われたカードの影にクラウスは踏み込んでいた。
これまで待っていたのは、消えざる魂の炎を身にチャージしていたからだ。
瞬間体に膨れ上がるは、クラウスの拳。
「あ、ヤバ」
「受けろ」
これが、奪われ続けた人類の怒りの一撃。
チャージした炎が噴出し、宇佐美・皆乃へと叩き込まれる。苛烈なる一撃は彼女の手にした単分子ワイヤーを燃やし、衝撃を彼女の身に叩き込む。
吹き飛ばされた体躯。
その感触から浅かった、とクラウスは理解する。
「……ぐっ」
朦朧とする意識。だが、一矢報いたことは確実だ。
痛みが体に襲い来る。
崩れそうな膝。けれど、クラウスは立っている。まだ、生きている。なら、一秒でも長く。
それが誰かを護らねばと誓った己の矜持なのだから――。
スモークグレネードの煙幕の中に消えた簒奪者『脱獄囚三十三号』宇佐美・皆乃の姿を追って、ノーバディ・ノウズ(WHO AM I?・h00867)は躊躇わず踏み込んだ。
「おう、こら待ちやがれ生意気バニーガールがよお!! けったいな事件起こしやがってお仕置きしてやるよ、月に代わってえ!!」
「アハハ♪ それってぇ、私の方が適役じゃあないですかぁ?」
「うっせぇ! でてこいや!」
大ぶりの腕が煙幕を払う。
だが、その煙の向こう側にあったのは、ノーバディのよく知る者の姿だった。
「な、何ィーッ!!?」
そう、そこにあったのは、この病院には似つかわしいほどに大変に大変な恰好をしたグラビアアイドルの姿だった。
なんとも扇状的な姿故にグラビアページにて話題を掻っ攫ったコスプレ姿!
あのこまっしゃくれた宇佐美・皆乃のバニースーツとは一線を画す姿。
あえて言わせていただこうか。
「あ、アンタは|俺の大切な存在《推しグラドル》!!? どォしてこんな真夜中の病院に!? し、しかも……ワ――オ、こいつは……ぎゃ、逆……リバースバニースーツ、だとォ!?」
「やーん、お兄さんのえっち♪ なんて恰好させるんですかぁ♪」
「いや、ちが! だって、あのグラビアで……いや、そんなことより! さ、サインとかってもらえたりするんですかね! いや、ください! サインをォ!!」
ノーバディはノールックな上にスムースな動きで懐からサイン色紙を取り出そうとしていた。
なんでそんなもん常備してんだよ、と思わないでもない。
が、ノーバディは仕事のできる男。シゴデキ男なのである。こんなこともあろうかと、で造作もなくできてしまえるのだ。
瞬間、ノーバディのシリンジ型の頭部が宙を舞う。
ごとり、と重たい音を立てて落ちた頭部は言うまでもないが宇佐美・皆乃の放った単分子ワイヤーによって切断されていた。
ノーバディは心で鳴いた。
男泣きした。
そう、わかってた。
わかってていたのだ。こんなところに憧れの推しグラドルがいる訳がねえってことくらい。
大体こういうときは敵だってわかっていたし、√能力でどうにかしてんだろうなぁ、とかそんなことくらい想像ができた。
そんでもってこういうときは首を狙われる。お約束ってやつだ。
わかっていた。
けれど!
「てめェは俺の心を裏切りやがった! 許せねぇ! 全く俺じゃなけりゃァ即死だぜ!!!」
「え!?」
「テメェ、この! 俺を騙した罪はくっっっそ重てェぞ!」
瞬時に金剛石の頭部に挿げ替えたノーバディは、その頭部より√能力の発露を示す煌きを放っていた。
「うわ、まぶし♪」
「テメェはやっちゃらねーことをした! 首チョンパは、まあいいけど!」
ノーバディはそもそも首をすげ替える。
故に首が飛んだ程度では死なない。
が、心は死ぬのだ。例え、押しグラドルだと思っていたら、化けた簒奪者だったりした時とか。
その怒りを力に変える。
「人呼んで|Mr. Diamond《ミスター・ダイヤモンド》! 怒りのグーパン喰らえやオラァ!!」
ノーバディはダイヤモンド化した体躯で宇佐美・皆乃へと飛び込む。
振るう拳は言うまでもなく頑強なる金剛石の硬さを持っている。
振るわれた一撃は、男としての怒り。
裏切りを知るからこそ、許せないのだ。
「やーん、怒っちゃやぁー♪」
「うっせェ! 俺のトキメキ返せよォ!!」
怒りの鉄槌が交差した鎖に激突し、宇佐美・皆乃ごと衝撃が吹き荒れ、彼女を病棟の壁面に叩きつけるのだった――。
秋津洲・釦(血塗れトンボ・h02208)は、我が目を疑うようだった。
夜の病棟にバニーガールがいたからだ。
何処からどう見てもバニーガールだ。目の錯覚や幻覚では決してない。
本当に目の前にバニーガールがいるのだ。
「ええ……」
ごしごしと目深に被った帽子のつばの奥で釦は何度か擦って、もう一度見やる。
やっぱりバニーガールである。
「あのぅ……もう面会時間は終わってますよ……?」
「あはは♪ 気にしないでくださーい♪」
「いや、それはどっちかっていうと無理っていうか……」
どう考えても無理な話であった。
いや、それよりも。
理解した。
「……ああ、なるほどそっか……」
「気がついちゃいましたぁ? そうでーす♪」
互いに決定的な言葉を吐き出さない。
ともすれば、他人でいたかった。だが、そうは行かないらしい。なるほど、と釦は頷く。
目の前のバニーガールは、簒奪者だ。
『脱獄囚三十三号』宇佐美・皆乃。
東京都連続斬首事件。
その犯人であり、死刑囚であり、脱獄囚である存在。何故、こんなところに、と釦は思わないでもない。
だが、問題はそこではないのだ。
「じゃあ……いつも通りでいいかぁ……」
こいつが黒幕だ、と釦は直感的に理解していた。もう一般患者のフリはいらない。
手繰り寄せるはインビジブルの孤影。
揺らめく姿を瞳に映して釦はエネルギーを引き出し、√能力を発露する。
己が影に触れて現れるは『同胞』。
ぶよぶよとしたゼリー状のクラゲの如き触腕めいた、いや、牛の内蔵がまろ日で多様な触手の化け物が触手を走らせる。
迸るような一撃を宇佐美・皆乃は軽やかに躱した瞬間、『同胞』の触手が細切れのように寸断されていくのだ。
「……あ?」
「おっしい~♪ 根本から斬って差し上げるつもりだったのに、速かったですね~♪ 引っ込められちゃいました♪」
その言葉に釦は『同胞』の触手の先が寸断されて失われた姿を見やる。
只事ではない。
只事ではない、が。あれを避けるとまた拙いことになるのだと理解した。
距離は詰められない。だからこそ、攻め込まねばならない。
「ひひひ……入院生活には飽きたんだろぅ……?」
「そうですね~♪ あなたたちみたいな邪魔者も来たみたいですし~♪ ちょっと潮時かなって♪」
「それじゃぁ僕と一緒に退院手続きしようかァ……」
触手が走る。
戦場となった病棟の廊下に斬撃と触手が奔る。
それは凄まじい攻防だった。
それだけではない、釦の手にした遺留品……鞭のようにしなる髪をも単分子ワイヤーと打ち合っては弾かれていく。
一進一退。
それは徐々に出力で勝る簒奪者の√能力に圧されはじめるのは時間の問題だった。
だが、距離は詰められない。詰められたとて、距離を離すしかない。
あの単分子ワイヤーは脅威なのだ。
「あはは、それもいいですが見送られるのって苦手なんです♪ 一人で大丈夫で~す♪」
「……そうかい。ならァ……」
一人ででていきな、と|ステワ・ルゥ《カゾク》たる『同胞』の痛打でもって宇佐美・皆乃の体を弾き飛ばし、釦は言う。
「勝手に帰りなよ……他の連中がのがしてくれれば、の話だがねェ――」
深夜の病棟にあって、灯りは乏しい。
非常灯さえも戦いの余波によって明滅している。互いの表情は暗闇と光の間で入れ替わり、また√能力者と簒奪者との間に横たわる溝を示すようだった。
簒奪者、『脱獄囚三十三号』宇佐美・皆乃は軽く飛び跳ねる。
まるで準備運動が終わったかのように、場違いなほどに明るく笑った。
「アハハ、なかなかやるじゃあないですか♪」
「ハッ、余裕綽々って面しやがってよォ、だが、互いの手の内はある程度読めたって訳だ」
ノーバディ・ノウズ(WHO AM I?・h00867)の言葉に宇佐美・皆乃は笑うばかりだった。
手にしたひび割れた液晶画面のスマホを軽く振る。
油断はならない。
その無駄に見える所作の一つ一つが攻撃の予備動作かもしれないのだ。故にノーバディは視線を逸らさなかった。
如何に今、己の体が金剛石のような特性を有しているのだとしても、それを容易く踏破してくるのが簒奪者の√能力だ。
圧倒的な出力差は時に思いもよらぬ結果を引き起こすのだということをノーバディは理解していた。だが、同時にそれは相手も同様だろう。
「いえね、おにーさん、カッチカチじゃないですぁ? そういうのってぇ……焦れったくありません?」
「どうかなァ」
ノーバディは思う。
あの困っしゃくれたバニーガールからすれば、己は非常につまらない相手だ。首を落としても死なないなんて、と。
これまで戦ってわかったことがある。
宇佐美・皆乃は首を切断することにこだわっている。だから、これまでどの√能力者と戦ってもまず首を狙っていた。
あの単分子ワイヤーは厄介だ。
攻撃の初動がまったくわからない。加えて言うなら、己の今の頭部では堅牢さはあっても機動力がない。
只管に攻撃を受け止め続けるだけなら千日手だ。
そうなるのは悪手だ。ジリジリと削られて終いだ。いや、それだけじゃあない。
理屈なんてどうだっていい。
ノーバディは男泣きしていた。いや、ダイヤモンドの頭は涙を流さないが、心が、魂が慟哭していたのだ。
この慟哭に贖うことができるのは、ただ一つだ。
「……いや、知らねェよ。そんな焦らしプレイだとかなんだとか、そういう理屈は! この落とし前は、キッチリとノシつけてやらねェと気が済まねえなア!! 俺の心を弄んだ罪、償って貰おうか!!」
己の頬を打ち据える。
気合をいれるためだ。
心が、魂が慟哭するのならば、応えるのは肉体である。
ダイヤモンドの頭部が飛ぶようにして地面に落ちて重たい音を立てた瞬間、狙いすましたように単分子ワイヤーがノーバディの全身を切り刻むようにして裂傷を生み出す。
「アハッ、怒っちゃって♪ おにーさん、そういうのっておもらしっていうんですよぉ♪」
「そんなもん、とっくに卒業してらァ!」
敵はクレバーだ。思った以上に。頭ゆるそうな顔をしていて、ずば抜けた戦闘センスを持っている。
己の能力の起点が頭部だと理解している。だがから、単分子ワイヤーで全身を刻むのと同時に腕を拘束したのだ。
頭部をすげ替えるのには腕が必要だ。
だから、彼女は即座に単分子ワイヤーを放ってノーバディの動きを止めたのだ。
刻みきれなくても、それだけでノーバディの強みを殺すことができる。
「それになァ……!」
「はぁい♪ おにーさんのだぁいすきなぁ、推しグラドルさんの攻め攻めなぁ、コスちゅームプレイですよぉ♪」
「ハッ! 衣装チェンジなんぞでたじろぐ俺かよ!」
いや、実際、ちょっとぐらっとしたかもしれないが、してないって言い張ればしてない。
「幸せで逝ってくださぁい♪」
「普通なら、な――」
瞬間、ノーバディの頭部に飛び乗るのはスライム――『酔いどれ』――|Legless《レッグレス》。
粘体の頭部がたわみ、湿潤を非常灯に照らしながら単分子ワイヤーに一気に伝わせる。
一瞬だった。
それだけで宇佐美・皆乃の体躯を湿らせる。
「ぞわってしましたけどぉ、今♪ やっぱりおもらしじゃ」
「じゃねーよ! つーか、俺の|大切な存在《推しグラドル》の顔で喋んじゃあねェよ! まじで彼シャツ姿に|粘液《俺》がべっとりとか! とか!!」
瞬間、粘体の頭部の色が変わる。
「ありがとうございます! じゃねぇ! 俺の怒りをくらいなァ!!」
それは属性が変わった瞬間だった。
奔るは雷。
連撃による√能力。その属性を切り替える粘体の頭部が雷となって湿潤した宇佐美・皆乃の体に走り抜ける。
伝導する雷は躱すことも逸らすこともできない。
そう、これがノーバディの|雷《怒り》。
全身を焼く怒りに宇佐美・皆乃は堪らず目を見開く。
「へっ、化けの皮が剥がれてくれてよかったぜ。大切な存在の、可哀想な顔なんてみたくねェからな――」
電撃に焼け焦げたバニースーツ。
簒奪者『脱獄囚三十三号』宇佐美・皆乃は油断していたわけではないが、しかしまだ立っていた。いや、健在だったと言うべきだろうか。
漸く、漸く√能力者たちの度重なる攻勢によって彼女を消耗させていると理解できただろう。
伊和・依緒(その身に神を封ずる者・h00215)は、これまでの戦いの推移から見て宇佐美・皆乃が、この病院にまつわる噂の根源であると思っていた。
染み付いて落ちない血の匂い。
明らかに彼女だけが、この病院において異質だった。どれだけ可憐な少女であったとしても、彼女が簒奪者であることを証明しているようなもんどあった。
「首ばっかり狙って……首おいてけ? なに、そのどっかのクレイジーな主人公みたいなの」
「ごめんなさぁい♪ 私ぃ、そういうのに疎くってぇ♪」
ゆらゆらとスマートフォンを握った手を揺らして宇佐美・皆乃は笑っていた。
その姿を注視しながら依緒は、この事件が病院の怪談絡みかと思ってたが、どうやら殺人鬼が暗躍していたのだと認識は改めた。
いや、あの恰好だけを見たら、ある種の怪談とも……言えなくはないのか? と思考が明後日に向かうのを頭を振って追い出す。
「まだ怪談の方がよかった感じね。やっぱり、ほんとに怖いのは人間でしたって、オチ?」
「アハハ、人間怖いですけど、私、好きですよぉ♪ みぃんな簡単に首が落ちますしぃ♪」
瞬間、二人が動く。
同時だった。
ハンドガンの引き金を引くのは依緒。
しかし、その弾丸が宇佐美・皆乃を捉えることはなかった。
銃声だけが響き渡った次の瞬間、彼女の首元にキラリと光るワイヤーが円を描いていた。ぐるりと囲い込むワイヤー。
引き絞るようにワイヤーが彼女の首を切断せんとせまる。だが、その一撃は空間が歪んで弾かれる。
「あら♪」
ハンドガンで倒せるとは思っていなかった。
だが、依緒は宇佐美・皆乃の姿を見失っていた。どこだ、と思うよりも早く薄暗い病棟の中に揺らめく影。
だが、宇佐美・皆乃ではない。
誰だ?
わからない。
敵ではない。いや、違う!
「この、こびりついた血の匂いは!」
依緒は振り返りざま、ためらうことなくハンドガンの銃口を揺らめく影へと突きつける。
銃口を押し付ける。
この距離なら外さない。敵と認識できなくても引き金を引けば銃弾が出るのが銃のよいところだ。
「バレちゃった♪」
「厄災には消えてもらわないとね!」
|滅魂撃《メッコンゲキ》。
その一撃は銃撃をさらなる強化でもって放つ。
銃弾は一般人の幻影纏う宇佐美・皆乃の肩を打ち抜き、その体を見事に弾き飛ばすのだった――。
銃撃によって貫かれた肩を抑えて、簒奪者『脱獄囚三十三号』宇佐美・皆乃はわずかに体を揺らしながら暗がりの中に紛れ込むようにして跳ねた。
「いった~♪ こぉんなに可愛い子にひどいですよぉ♪」
追い込まれている。
だが、彼女は笑っていた。余裕綽々なのか、とケヴィン・ランツ・アブレイズ(“総て碧”の・h00283)は思った。
いや、もとよりそういう性格か性質なのだろう。
どこかこちらを侮る態度を取っているのは、√能力者と簒奪者との間に横たわる出力差と成長限界の差異ゆえであろう。
だからと言って、ケヴィンは動じなかった。
そんなことは常なることであったからだ。
「よォ。今回の一件の元凶はテメェってことでいんだな?」
「そうでーす♪」
「……一応確認だが、テメェわかっててやってただろ?」
ケヴィンは明滅する非常灯の灯りと影に浮かぶ宇佐美・皆乃の顔を見やり、そういった。
「何がですかぁ?」
とぼけるのか、とケヴィンは踏み出した。
瞬間、奔るは僅かな煌き。
単分子ワイヤーがケヴィンの喉元……いや、首元にぐるりと環を描く。
「……ンな狡っ辛い手の内は読めてんだよッ!」
右掌がワイヤーに触れる。
それはルートブレイカー。
√能力であれば、それを無効化する破壊の力。ワイヤーは力を失ってたわむ。
「しかる後に偽装、だろ!」
「アハハ、せいかーい♪ まあ、何度も見せてればわかっちゃいますよねぇ♪」
ケヴィンはさらに踏み出した。
走る。どうやっても先制を取られる。だが、攻撃の初手を防いだのならば隙ができる。その隙を殺すために彼女は一般人に紛れるように幻影で偽装する。
だが、見えているのならば。
己の右手が届くのならば。
「普通の患者相手じゃ飽き足らず、刺激が欲しくなってわざと俺達の目に止まるように騒ぎを起こしたんじゃねェのかい」
「刹那的ですねぇ、その考え♪ でもどのみちおにーさんたちには私を完璧に殺すことなんてできないじゃあないですかぁ♪」
「だからなんだってんだよ。俺はな、仕置をしにきたんだよ、おイタが過ぎた|首斬り兎《ヴォーパルバニー》! 覚悟はできてんだろうな!!」
「や~だぁ♪ こわぁい♪」
「どこまでも人をおちょくりやがって! 巫山戯た恰好、巫山戯たおこない。その全部が自分に返ってくるってわかりやがれ!」
怒りがこみ上げる。
こんな存在に多くの人々の生命が弄ばれた。
それが許せないとケヴィンの心には怒りが灯り、握りしめた拳には力が籠もる。
振りかぶる拳。
その一撃が宇佐美・皆乃の偽装ごと彼女を打ち据えるのだった――。
簒奪者『脱獄囚三十三号』、宇佐美・皆乃は追い込まれていた。
√能力者たちの猛攻。
これによって如何に実力差があろうとも数で圧しされ始めている。ステップを踏むように跳ねる仕草も精彩を欠いていると言う他ないだろう。
よろめくように彼女は肩から流れる血潮を見やる。
足が僅かに振るえている。
体の痛み。あちこちが強く打ち付けられてダメージが蓄積していると見て取れる。
本来なら、√能力者たちと取り合わずに逃げるのが得策だ。
別に√EDENに潜伏するのならば、ここじゃあなくたっていい。
「むがー!!」
そんな彼女の思考を途切れさせるように叫びが聞こえる。
それは二階堂・利家(ブートレッグ・h00253)の怒りに震える声であった。
「こっ、ころ、ころッ……コロス!!」
「なぁんですか、おにーさん♪ もうご帰宅されたのかと思ってましたぁ♪」
「ハァー? 俺はまだ負けてねえぞ糞が!!」
「えー? そうですかぁ? もう試合終了じゃあないです?」
「はい私が勝ちましたアピールやめろ! シネッ! 必ず死なす!!!!」
「やだぁ、こわーい♪」
あくまで誂うような仕草に利家の怒りが頂点に達する。
その怒りを嘲笑うかのように単分子ワイヤーが走り、利家の首を取り囲む。
「また首狙いかよ!」
しつこい。
執拗に宇佐美・皆乃は敵対者の首を狙ってくる。
理解した。
目の前の簒奪者は、暗殺者でもなければ決闘者でも傭兵でも殺し屋でもない。
ただただ、|『欠落』《嗜虐嗜好》に問題を抱えた邪悪な愉快犯に過ぎない。だから、こんな非効率的なことをする。
狙いがバレバレでも構わないと言うように、己のこだわりを優先するような、ただの邪悪。だからこそ利家はクライングクローを身代わりにしてワイヤーから首を逃す。
だが、その対価は片腕である。
ワイヤーがまとわりつき、その手を切断……いや。
「カニさんみたいですねぇ♪ 自切できるなんてぇ♪」
「うるっせぇよ、減らず口が!!!」
インビジブル化した利家の瞳がギラギラと輝く。
引き出すインビジブルの孤影からのエネルギーは、その身に太古の神霊たる『古龍』を宿し、加速する。
踏み込みの速度は言うまでもなく最速。
先ほどの比ではない。
手にした屠竜大剣が翻るようにして刀身を閃かせた。
「オオオオオオッ!!!」
振るわれる斬撃はいかなる守りであっても貫通する。
叩きつける、打ち付ける。
その工程で己が身が引きちぎれる。だが、それでもインビジブル化した肉体が引き止め、縫い留め、つなぎ合わせる。
血潮が全身から噴出する。
だが、止まらない。
滅多打ちに振るわれる大剣でもって宇佐美・皆乃を廊下から壁面をぶち抜きながら吹き飛ばすのだ。
凄まじい音と共に瓦礫が落ちる。
息が切れる。
「フーッ! フーッ!!」
肉体が限界を越える。
だが、利家は証明したのだ。己が負けていないことを――。
打ち付けられた体が病室に飛び込む。
そこには入院患者はいなかった。ただ空いたベッドだけが並び、それらをなぎ倒すようにして吹き飛ばされた簒奪者『脱獄囚三十三号』宇佐美・皆乃は病室の壁ごと倒れ込んでいた。
「アイタタタ……んもう、まったく加減知らずなんですから♪」
ぴょん、と彼女は跳ねるようにして立ち上がる。
身はボロボロだ。
だが、まだ動ける。それを証明するように彼女は息を吸って、吸って、吐き出した。
深呼吸。
余裕さえ感じさせる所作。
いや、事実彼女は消耗していたはずだ。
「となれば、追い打ちにきますよね♪」
彼女の息が整ったのを待っていたわけではないだろうが病室に飛び込んできたのは、一人の√能力者だった。
「セキュリティ対策が疎かでしたね。発見した以上、逃しません」
√能力の発露を示す輝きに満ちた機械化眼球。
そのカメラアイに宇佐美・皆乃を映し出した 深雪・モルゲンシュテルン(明星、白く燃えて・h02863)は、戦線工兵用鎖鋸を振りかぶっていた。
「チェーンソーユニット、安全装置解除。工作モードから戦闘モードに移行します」
|対WZ用大鎖鋸<滅竜>《アンチウォーゾーンメガチェーンソー・ノートゥング》。
それは視界に収めた宇佐美・皆乃めがけて放たれる斬撃。
唸りを上げるチェーンソー。
けたたましい音は、静寂のはずの病棟に鳴り響き苛烈なる斬撃を宇佐美・皆乃へと叩きつけられることを想起させただろう。
「標的を排除し……」
「アハ♪」
「……ッ! これは」
深雪の瞳は機械化眼球である。
生身のそれと違って脳が処理を行わない。レンズに映し出したものを正しく電脳に伝える役目を持っている。
人間の脳のように都合よく細部、ディティールというものを補正して認識させない。だからこそ、幻覚の類は深雪には通用しない。
なのに、彼女の電脳は敵対者として認識していた宇佐美・皆乃の姿を、己にとって大切な存在と認識させていた。
電脳が一瞬エラーを吐き出す。
刹那の内に標的が変わり果てていたのだから、当然である。
異常を示している。
示してはいるが、それが如何なる要因によって引き起こされた現象であるのかを深雪の電脳は認識できなかったのだ。
息を呑む。
手にした戦線工兵用鎖鋸から力が抜ける。
想定外だ。
これは想定外だ。躊躇っている。躊躇う必要などない。
人間を撃つことにさえ、躊躇わなかったのに。
それなのに、目の前にて笑う宇佐美・皆乃が変じた姿を前にして力が抜けた。息が詰まる。上手く飲み込めない。現実が飲み込めない。
逡巡。
煌めくワイヤー。
深雪の首元に環を描くは、悪辣なる罠。
「私はこっちだよ! 深雪ちゃん!」
その声に瞬時に呼応する。
身を素早くかがめ、深雪は単分子ワイヤーの環をくぐり抜ける。空を切るワイヤーが煌きながら宇佐美・皆乃の手に握られたスマートフォンに戻っていく。
「――澪、さん」
「うん、私はここにいるよ」
「あら、お友達ですかぁ?」
そこにあったのは、二人の澄月・澪(楽園の魔剣執行者・h00262)の姿。
いや、違う。
一人は黒髪、一人は銀髪を思わせる白の魔剣執行者。
「あなた、一体ここで何をしているの。何が目的なの」
澪は宇佐美・皆乃がこの病院で何を目的にしていたんとかを知らない。わからない。けれど、何かがっきっと起き始めているのだと考えていた。
蠢動めいたなにか。
いつも目にする、いつも一緒に戦っている年の近しい友達を翻弄する宇佐美・皆乃に澪は魔剣『オブリビオン』を構えて対峙する。
「何が目的って、はい、これが目的でぇす♪ なんてぇ、言いますかぁ? 言いませんよねぇ? ああ、でもぉ」
にこり、と宇佐美・皆乃は笑った。
そこにあった感情に澪は圧倒されただろう。
悪意。
悪意しかない。
東京都連続斬首事件。
凄惨たる事件として連日報道されていた忌まわしき事件。無差別に首を切断された遺体。それを為したのが宇佐美・皆乃だ。
けれど、その記憶を押しのけるようにして澪は深雪との思い出を口にする。
「一緒に立戦って、お花見に行って、チョコレートパーティに行ったよね。私はここ! ここにいるよ!」
例え、忘却の魔剣の力であっても、きっと忘れられない思い出がある。
その言葉に深雪もまた頷いた。
宇佐美・皆乃が見せた姿は、想定外だった。
あのためらいは己の脆弱性。けれど同時に己がどれだけ澪のことを大切に想っているのかを知らしめるものでもあった。
「……私も覚えています。。あなたと一緒に過ごした時間は、全部」
力強く頷く。
そう、例え機械すら欺く幻術であっても、幾度となく共に戦い、日常を過ごした記憶までも欺くことはできない。
マルチ・サイバー・リンケージ・ワイヤーが深雪から澪に接続される。
それはマルチ・サイバー・リンケージ・システム。
接続された者は、深雪の電脳を介して処理速度が向上し、反応速度が跳ね上がるのだ。
「あの~盛り上がってる所悪いんですけどぉ、いいですかぁ?」
そんな二人を他所に宇佐美・皆乃は危機感のない笑顔を浮かべてスマホを握った手を軽く振っていた。
「大変言い難いんですけどぉ♪ お二人の首、いただいちゃいますね。あ、心配しないでください。チョン、パってした首は仲良く並べて差し上げますから。寂しくないですからね♪」
「いいえ、簒奪者。心が一つに繋がった……もう騙されませんよ」
「でも、あまり舐めないでくださいね♪」
一瞬で宇佐美・皆乃は単分子ワイヤーを放つ。
やはり狙うのは首。
だが、同時に深雪は動いていた。振るう鎖鋸がワイヤーを切断しながら宇佐美・皆乃へと踏み込んでいた。
斬撃がワイヤーに叩き込まれ火花を散らしながら、宇佐美・皆乃の体躯を抑え込む。
「パワーすっごいですね♪ あ、なるほどぉ。人間じゃないんですねぇ♪」
「だったら、何だというのです」
「いえ、便利だなって思っただけです♪」
火花をちらしながら鎖鋸がワイヤーを切断する。既のところでかわされたが、しかし、その間隙を縫うようにして澪が踏み込んでいた。
「魔剣執行。因果を断て、忘却の魔剣『オブリビオン』!」
澪の瞳にインビジブルの孤影が揺らめく。
引き出されたエネルギーと共に彼女は強烈なプレッシャーをまといながら、断ち切られたワイヤーのさらに先、宇佐美・皆乃へと飛び込み、振るい上げた魔剣の斬撃を叩き込む。
上段から振り下ろされた斬撃が袈裟懸けに宇佐美・皆乃の体に傷を刻み込み、鮮血が舞う。
「っ、ぐ……いった~い!」
もしも、万全の宇佐美・皆乃であったのならば、その斬撃はここまで深く刻まれることはなかっただろう。
だが、これまで紡いできた√能力者たちの攻勢が宇佐美・皆乃を消耗させ、傷を深くしていたのだ。
「あなたがニュースになってる殺人犯でも、怖くないよ。大事な友達と一緒だから」
だから、とさらに澪の瞳が煌めく。
唸るようなエネルギーの奔流。
それと同時に身に流れ込む電脳演算の結果。
敵がどう動くのか、どこに攻撃を叩き込めばいいのか。どうすればいいのか。
膨大なシュミレーションの結果のみが澪に流れ込む。
それがマルチ・サイバー・リンケージ・システム。
深雪の電脳から伝わる演算結果を受けて、澪は√能力の連撃を放つ。
「今です」
「今だっ……!」
それは|斬撃の嵐《魔剣執行・剣嵐》。
忘却の刃が宇佐美・皆乃の身に刻まれる度に斬撃を受けたという記憶を抹消し、三百を数える斬撃を身に刻む。
宇佐美・皆乃にとっては一瞬。
その一瞬いて刻まれる斬撃によって全身から血潮を噴出させながら、彼女は後ろによろめくように後退する。
もはや死に体である。ごぼ、と血を吐き出しながら宇佐美・皆乃は血まみれのバニースーツを軽く引き、そして手にしたスマートフォンのひび割れた液晶画面を見下ろした。
こと、ここにに及んで、と二人は思ったかも知れない。
「……は、あ……まぁいいです。今回はあなたたちの勝ちってことで、いいですよ♪ だって、あなた達になら殺されてもいっかなって♪ だって」
くすり、と笑う宇佐美・皆乃。
そう、彼女の言葉通りだ。√能力者は死より最も遠ざかった存在。
√能力者を殺すことができる存在はAnker。
簒奪者たる宇佐美・皆乃に絶対死をもたらす事のできる存在は、ここにはいない。であれば、だ。
「今、死んでも、死にはしませんから。だから、勝ちを差し上げますね♪ うん、これでよかったですね♪ それでは♪」
死後蘇生。
今死ぬのだとしても、必ず復活することができる。だから、これでいいのだと彼女は笑い、宇佐美・皆乃は病室の砕けた窓から仰向けに落ちた。
深雪と澪が窓から身を乗り出すと、階下の地面に夥しい血潮がぶちまけられたようにひしゃげ、これまでの激闘によってちぎれるようにして散った肉片だけが残されていた。
それを認め、深雪は息を吐き出す。
「終わりましたね、澪さん」
「うん、良かった深雪ちゃん」
微笑む澪に深雪は己の電脳に残った人の心を感じる。
これを脆弱性だと己は思った。だが、同時に此度の戦いで知ったのだ。
「……あなたの声を聴いて、力が溢れたんです。意外ですが……人の心は、脆弱性ではないのかも、しれません」
「ぜいじゃくせい?」
「はい」
首を傾げる澪に深雪は変わらぬ表情で頷く。
それをなんと呼ぶのか。
まだわからないけれど――。