|大人の嗜み《アルコール》と冒険と
「お酒が飲めるダンジョンが発見されました。開拓をお願いします。」
依頼の話をしているというのに、如月・縁(不眠的酒精女神・h06356)は目を輝かせている。目の前にいる能力者たちを見つめる視線には、邪な熱意が宿っている。
「探索していただきたいのは、観光地の大鍾乳洞のようなダンジョンです。」
「湧き出るのは水ではなくお酒。それもただの酒ではありません。百枚皿を用意すれば、すべて異なる味のお酒が注がれ、洞窟内のつらら石や石柱からもお酒が流れ落ちているそうです。」
ビール、ワイン、日本酒、ウイスキー、焼酎、梅酒に各種リキュール…。どうしてかダンジョンに入る者がこの好む酒が出てくるそうだ。そう語る縁の声には、酔いにも似た高揚感が漂っていた。彼女は頬に手を当て、陶酔するような微笑みを浮かべている。冒険の説明というより、酔いどれとしての興奮が隠しきれない様子だ。
「さらに、洞窟の奥にはお誂え向きのグラスが用意されています。心配せずとも適した酒器が揃っていますよ。」
一見すると夢のようなダンジョンだが、もちろん楽しいだけでは終わらない。如月はやや声を引き締めながら、ダンジョンの危険性についても語り始めた。
「ダンジョンに入れば、少なからず酒精を口にすることになるでしょう。弱い者は酔ってしまうかもしれません。飲む量にはお気を付けください……まあ、酔っていても勝てば官軍です。細かいことはいいません。」
彼女は「万が一のために」とウコンとグルタチオン(酔いに効くサプリ)を能力者に配布し、一呼吸置いてから、特に注意すべき存在について説明した。
「ダンジョン最奥で待ち構えているのは『堕落者《ジュリエット》』です。」
欲望に溺れて堕落したセレスティアルであるジュリエットは、その美貌と妖しい微笑みで冒険者たちを誘う。彼女の目的は他者を堕落させること。その魔性の力に抗えなければ、冒険者たちは元の自分を失い、永遠にダンジョンに囚われてしまうという。
「任務のために真面目に突入した能力者の皆様が、ジュリエットに酔わされてしまう様子……考えただけで恐ろしいですね。酒に酔っても溺れてはいけません。どうかご注意ください。」
如月の言葉は厳しさを帯びていたが、その声色には微かな愉悦が隠されていた。
「とはいえ折角の珍しいダンジョンです。お気に入りの酒器を持参して、未知のお酒を堪能するのもいいでしょう。湧き上がる泉の酒を混ぜて、不思議なカクテルを作るのも面白いかもしれませんね。」
「適度な飲酒はリラックス効果をもたらしますが、戦いに影響が出ない程度にしてくださいね。」言葉の最後に冗談めかした調子で笑った。
そして、最後にふと思い出したように声を上げた。
「あ、ちなみに20歳未満は立ち入り禁止です。」
その理由について尋ねようとする冒険者に向け、彼女は軽く肩をすくめる仕草を見せた。
「謎パワーで追い出されるそうですので、あしからず。」
第1章 冒険 『酒ダンジョン』

●酒酒肉!酒酒焼肉!
「ここが噂の酒ダンジョンってわけね~! 最高じゃん!!」
まるで飲み会に来ましたってテンションで叫びながら、サン・アスペラはダッシュでダンジョンへ駆けつけてきた。天井から滴る琥珀色の雫、壁のつらら石を伝う透き通った液体――それらすべてがお酒だと知るや否や、彼女の目がさらに輝きを増す。
「とりま一杯目はビールでしょ~。うっひゃあ、うまっ! キンッキンに冷えてやがる的な!?」
キンキンじゃないビールなんてただの苦水です。喉が凍るような冷たさのそれを一気にあおり、口の端に残った泡を拭いながら二杯目を選ぶ。一応真面目に攻略する意気込みはあるものの、ヒトの経費で飲むお酒は大変美味しいのである。次は芋焼酎、次はハイボール。果実酒は梅だけでなく杏や桃まで、とろりとした黄金色の酒精に浸かっていて、もう見てるだけで酔いそうだ。アスペラの緑の瞳がきらめき、一口ごとに「うっま!」を連発。口元には笑み、手にはグラス、取り出したのは――どこでも肉焼きセット。
え、待って、焼肉セット?
「ほら、こうやって酒と酒の合間に肉を挟むとね~、無限に飲める! ていうかこれ、修行じゃない? ねぇ、これ筋トレになるよね?」
誰に聞いているのかわからない独り言を撒き散らしながら、洞窟の奥へとずんずん進む。|肉の焼ける《ビールが欲しくなる》香りが洞窟内を満たし、まさに宴会といった雰囲気だ。気分がよくなったアスペラの頬は、酒精を含んだ空気にほんのり染められ、ピンクの髪をゆらゆら揺らしていた。
「簒奪者なんて私が全部ぶっとぁしてやる!」
「酒酒肉、酒酒肉」のリズムでハイペースに飲んでいくが、なぜか足取りは軽い。だが呂律は怪しい。声はさらに大きくなっていく。まあ多分大丈夫でしょう。
「こんな楽しいダンジョン、探索しないとかあり得ないでしょ!? 私、このまま壁の酒ぜんぶ舐めて回る勢いだよーッ!!」
そんな彼女の笑い声は、アルコールの香りと共に、幻想的な酒精の洞窟に響き渡っていた。
●箱庭の酒宴
ぽた、ぽた――。静かな音とともに、酒がしたたる。
「……やっぱり、絶対自分で来たかったですよね」
鍾乳石から滴る透明な酒を見上げながら、|見下・七三子《みした なみこ》(使い捨ての戦闘員・h00338)はそっと微笑む。お酒が湧き出す幻想のダンジョン、星詠みの酒好きぶりを知る者なら察するかもしれない。それなら、代わりにしっかり楽しんで、堪能――じゃなくて、調査して、ちゃんと報告しないとですね。
鍾乳洞の壁面には淡く光る苔が生い茂り、照らされる酒流は虹のように揺らめいている。岩の割れ目から湧き出すのは、蜜のようにとろりと甘く、琥珀色に輝くリキュール。天井から滴る雫は透き通っているのに、唇を湿らせれば柑橘と白檀が混ざったような繊細な香りが広がった。
「唯一さん、飲みすぎちゃわないようにしないとですね。……ほろ酔いまではセーフ、です」
酒吞童子の流れを組む魔術師|一・唯一《にのまえ ありあ》(狂酔・h00345)は鍾乳洞を興味深げに眺めつつ、にやりと微笑む。
「ほんまや。七三子が酔いつぶれたら、抱えて帰るのは私やしな。ここは爆発する大福はないみたいやけど。」
「ここでもあったら大変ですよ!?うう……|それ《抱えて帰る》はちょっと、恥ずかしいかも」
ふたりがたどり着いた一角では、洞窟の壁がくり抜かれ、削られた岩がちょうどふたり分のベンチになっていた。傍らにはお誂え向きの丸い木の盆が置かれていて、そこに並べられた酒器が、どこからか差し込む自然光を受けてキラキラと輝いていた。
翡翠色の切子ガラス、ほのかに乳白色の磁器、軽やかな木製の盃、そして七三子の手元にある虹色のグラス。どれも異なる個性を持ち、まるで飲み手を迎えるためにここへ運ばれたかのようだった。
「あ。このグラス、透明なんですけど、淡い光に透かすと、優しい虹がかかったみたいで……」
「綺麗な虹のラインが入っとる。最初の一杯は、これにするわ。乾杯!」
「じゃあ、私もいただきます。乾杯!」
石のベンチに腰を下ろし、二人がグラスを軽く合わせると、切子と虹グラスが奏でた音は、鈴のように澄んでいた。日本酒、ロゼワイン、また日本酒、からの梅酒。唯一は度数を見極めながら、彩り豊かな果実酒を手に七三子を手招きする。普段は甘いのを飲むと言っていた彼女には無理はさせないながらも、ちょっとした冒険もいいだろう。
「甘いの、試してみたいです!」
「んじゃ一緒に呑も。白ワインに苺漬けたやつあるで。次は蜂蜜酒と梅酒のブレンド、最後はベリーで彩り足して……見た目も味も映えや!」
「わぁ、ほんとに宝石みたい……」
「持って帰れへんのが惜しいな……って無理か、酒精の洞窟やしなぁ」
どの一口にも個性があり、たとえば透明な液体が舌に触れた瞬間、奥からラムレーズンのような重厚な甘さが広がったり、細かな泡が立ちのぼるスパークリングがベリーの酸味と弾け合ったり。味わいは、まるでダンジョン自体が呑み手の好みに応えているかのようだった。
華やかな味わいに酒器を傾けるペースも早くなる。日本酒には和らぎ水、これ鉄則。唯一はすっと湧き出る透明の水をくんで喉を潤す。
「……これお水やない、日本酒やった」
「えっ、ちょ、待っててください!ちゃんとお水、探してきますから!」
七三子は立ち上がり、周囲の岩棚や泉のような場所をきょろきょろと見渡し始める。ほどなくして、控えめに波打つ銀色の盃に口をつけ、「これは……はい、お水です!」と満面の笑みで唯一の前へ差し出す。
「助かるわ~。七三子って、ほんま気ぃ利くよなぁ」
「お水、大事ですから。私たち、まだまだ飲みますし!」
ふたりで笑い合いながら、お冷でひと息つく。その時間さえ、どこかやわらかくて、心地よい。
「ふふ、しっかり楽しんでますね、私たち」
「うん。まるで住みたなるくらい、最高やなここ」
七三子のほんのり赤らんだ頬に、微笑が灯る。酒精の香りに満たされた天然のバーで、ふたりのグラスにはまだ、たくさんの味とぬくもりが残っていた。
●黙して、滲ませず
静寂。音のない空間に、ただぽたり、と酒が滴る。
|和紋・蜚廉《わもん はいれん》(現世の遺骸・h07277)は、洞窟の奥、粗く削られた岩に静かに腰を下ろしていた。周囲に人影はない。声もない。あるのは、湿り気を帯びた空気と、微かに香る酒精の薫りだけ。
掌を差し出せば、天井から落ちた雫がそこに乗る。透き通ったそれを舌に含む。ふわりと広がるのは白桃の香。軽やかで、柔らかく、ひやで映える澄み酒だ。
「……白桃の香。軽やかな呑み口。冷やで映えるな」
穏やかな香りの奥に、かすかな熟成の影。静かに佇む岩の上、天井から一滴が手のひらに落ちる。ふっと目を細め、指先に残った雫を口へ含んだ。
「……熟成焼酎。樽香が混じる、球磨の流儀か。滴る温度が絶妙だ」
小振りの杯を取り、糸のように流れ落ちる滝の下で静かに満たす。ゆっくりと口をつけ、ひと口――。
「……吟醸香にわずかな酸。山廃か……否、生酛だな。酒母の骨格が強い」
さらに進んだ先、氷柱の先から滴る一滴を目で追う。凍てついた空気の中、その液は粘度を湛え、岩肌に触れる前に杯で受け止めた。口に運べば、香りが舌へ、喉へ、脳裏へと昇っていく。
「……香りが昇る。寒冷が引き出した粘りと旨味……嗚呼、良い」
杯を伏せ、ゆるりと目を閉じた。
呟きは息とともに漏れ、静かに洞窟の岩肌に吸われていく。
酒を飲むとは、己を満たすための行為ではない。香りと温度、呑むまでの“間”。それを五感で味わい、濁らせぬ心で映すこと。それこそが嗜みというもの。
蜚廉は杯を伏せ、ひと息ついた。
「……我が身は、生き抜いた末に。今、こうして、酒を制する齢をえたのか」
それで、充分だった。
●静かなる献杯
静けさに包まれた酒精の洞窟。その片隅で、|白・琥珀《つくも こはく》(一に焦がれ一を求めず・h00174)は膝をついた。天井から細く差し込む淡い光が、酒を湛えた岩棚をかすかに照らしている。空気はしっとりと冷たく、どこか清められたような感触があった。
手にしたのは、小ぶりな木箱。蓋を開けば、漆塗りの杯が三つ――大・中・小、慎ましく並んでいる。「酒ダンジョン、誰か一緒に行くか?」と店で声をかけた折、反応をくれた者たちを思って選んだものだった。
箱の蓋を膳のように伏せ置き、杯を丁寧に並べる。翡翠色の杯には、ほのかに光を弾く細工が施され、乳白の器は柔らかく光を包む。黒漆の小さな盃には、わずかな傷が年月の重みを刻んでいた。
壁から滴る酒を静かにすくって注げば、澄んだ色合いと、ふんわり立ちのぼる米の香りが、空気に滲んでいく。酒の温度はひんやりと優しく、杯の縁をたゆたう光が、まるで息づいているかのように揺れた。
最後に、自分用のぐい呑みにも同じ酒を注ぐ。これは、かつて儀式に使われていたと伝わる器だ。固めの杯として用いられたらしいが、他の道具はすでに失われ、いまでは詳しく知る者もいない。もしも同じ大きさの杯が揃っていれば、誰かに酒を振る舞う道もあったかもしれない。
三々九度も今や形骸化し、結婚式の中で行われるとは限らない。時代が変わることは自然なことだが、その変化に伴って失われていく役目があることは、やはり少しばかり寂しい。
「……意味が変わっても、無くなったわけではない、か」
ひと口。酒が喉を下りていく。香りは穏やかで、米の甘みとわずかな渋みが、胸の奥をやさしく満たしていく。洞窟の岩肌に、かすかに杯が触れ合う音が響いた。
三つの杯は、そのまま。誰も手に取ることはないが、それでもよい。注がれた酒は、確かに誰かを想って差し出されたものである。それでも杯は久方ぶりの酒に満たされ、どこか満足気にも見えた。
「そちらも、一杯。良い夢を見てくれると嬉しい」
酒精の香りに満たされた空間に、ささやかな献杯の音が鳴り、静かに溶けていった。
第2章 冒険 『凍結床を進め』

●凍れる盃路《はいろ》
揺らめく光の奥へと足を進めれば、空気が急激に冷たくなる。
次のエリア――そこはまるで、洞窟全体が氷の杯となったかのような凍結地帯だった。
床も壁も、天井までもが薄氷に覆われ、滑らかな表面は歩を進める者の足を容赦なく滑らせる。気を抜けば転び、転べば酒精に濡れ、体温すら奪われていく。
戦闘の気配はない。ただ、ひんやりと澄んだ静寂と、足音が反響する幻想の空間。同行者と言葉を交わすには、これ以上ない穏やかな時間かもしれない。
氷の路をどう進むか。語り合いながら、笑い合いながら、滑って転んで助け合って――。
杯片手の旅路は、まだ続く。
◇補足◇
このダンジョンも酒です。なんと氷自体が酒精です。
口に含む方が望むお酒となります。暑い時期に嬉しいひんやりダンジョン。
その場に立ち止まることができればゆっくりと飲めますので、引き続き|大人の嗜み《アルコール》をお楽しみください。
●氷上のぶらり限界の旅
「簒奪者めー! 出てこーい!」
凍てついた洞窟にサン・アスペラ(ぶらり殴り旅・h07235)の元気な声が響き渡る――が、その直後。
「うわっ!? すべ――っ!」
見事なスライディングで氷の床を滑り、顔面から突っ込むという豪快な着氷。転がった先で、ぺたんと大の字に。
「うぅ……痛いんだけど……うん? この氷……酒の匂い……!?」
迷いなど微塵もない。床をぺろりと舐めて、目を輝かせる。氷結した酒精はそこまで強い香りを放たないはずだが、アスペラの鼻と舌は誤魔化せない。
「酒じゃん! この氷、酒じゃん! すげー!」
寒さで頬が冷えても、テンションは最高潮だ。とはいえこのあとの戦いも控えているわけで。動きが鈍らないよう冷え対策を……
「寒さ対策といえば……ウォッカでしょ!」
気持ちがいいくらいの|寒さ対策《酔いどれぷり》。いつの間にか手にしていたウォッカをストレートでぐいっと煽った。キリッとした喉越しが、身体の芯に炎を灯す。
「……って、えっ!? なにこれっ!?」
足元の氷の裂け目から、ふわりと現れたのは一杯のカクテル。
淡い黄緑の液体は日本酒とも見えるが、ウォッカの華やかな香りが鼻孔をくすぐる。グラスの縁には雪のようにまぶされた砂糖。レモンピールが揺れて、なんとも美しい。
カクテル『雪国』。
「今、誰か作った!? このへん、私しかいないのに!」
このダンジョンはご都合バンザイですから、きっとどこかの妖精さんが作ってくれたのだと思います。香り高く、清涼感と甘さの中に、ウォッカの力強さが潜む――まさに、幻想と酔いの狭間の一杯。
「うっ……なんか、既に飲みすぎな気がするけど……」
ふらりとしながらも、笑みはこぼれた。
「迎え酒だ! 限界を超えろ私! 技能:限界突破、発動ーっ!!」
氷の回廊に響く高笑いと、グラスが鳴る音。それすらも、まるで祝福のようだった。
●凍れる盃路、三人行
ひんやりとした空気が肌を刺す。酒の香りを孕んだ霧が漂う先、そこは一面の氷床だった。淡い光が反射し、まるで銀の盃の内側に迷い込んだような世界。酒精の冷気が静かに身体を包み込む。
「……って、寒っ!? え、一面氷! ここを進むんですか?」
驚きの声を上げる見下・七三子は、慌てて壁に手をつく。
「唯一さん、しかも下駄では!? ……こ、これ、すごく滑ります……!」
滑らぬよう、|見下・七三子《みした・なみこ》(使い捨ての戦闘員・h00338)は両手で壁を支え、へっぴり腰でじりじりと前に進む。その隣では|一・唯一《にのまえ・ありあ》(狂酔・h00345)が苦笑しながら足元を見やる。
「下駄で歩く場所ちゃうなあ……せやけど、氷や思たら、これも酒か……」
足元の氷に鼻を近づけると、ふわりと広がる熟成香。唯一は笑みを浮かべて、「酒のかき氷、作れそうやな……」と軽口をこぼすが、すぐに重心を崩しかけて踏みとどまる。
「おや、お二人さんも来てたんだねぇ」
後ろから聞こえる声に振り返ると、|白・琥珀《つくも・こはく》(一に焦がれ一を求めず・h00174)がいつの間にか背後にいた。その名を思わせる淡い瞳をまたたかせて、
「あれ? もう呑める歳だったか? まだ二十前だと思ってたが?」
「さすがに十七は、ちょっとさばを読みすぎなので……」
「……普段の琥珀の方が幼く見えるやろ……ボクもう大人やぞ?」
麗しい二人が苦笑交じりに言葉を返すが、その足元がずるりと滑り、冷や汗をにじませる。
琥珀はそっとストールに包んだ杯を懐にしまい、ふたりを見守るように壁沿いに進み出す。せっかくついてきてくれた杯たちだ。怪我をしたらいい思い出も台無しだろう。
「琥珀さん、転んだら欠けちゃったりしません、しませんよね?!」
「なに、転ぶ時に下敷きにさえしなければ壊れはせんさ。」
と、答えてから「はて、『欠け』とはどのことか」と一瞬思案する。
「……欠け? 大丈夫だとも。そもそも本体とこの身体は別物でね。私はこの勾玉に宿った付喪神で、本体は服の中にしまってあるこの石の方さ。だから、この体が転んで多少かけてもね」
滑りやすい氷の路は三人の体勢を容赦なく崩していく。七三子は何度も足を取られそうになり、唯一もそのたびに体重を逃しながら、なんとか支え合って進んでいた。
「……ん、ここ、ちょっと削れそうやな」
唯一が手を伸ばし、氷の壁の一角を器用に削り取る。透明な氷片が器に盛られ、冷気を帯びた即席のかき氷となる。
「せっかくやし、さっきの甘めの酒、かけてみよか」
「わぁ……きれい」
七三子が目を輝かせる。琥珀も覗き込み、
「これはこれは、なんとも贅沢な……」
甘口の果実酒をとろりとかけて、三人でスプーン代わりの木片ですくって味わう。
「つめた……でも、おいしい……!」
「しゃりしゃり感、たまらんなあ……冷えはするけど、心があったまるわ」
「味が層になってる……氷が繊細だから、お酒の香りが引き立ちますね」
しばし、氷の世界での即席の小宴。寒さを忘れるひとときだった。氷の器にもうひとさじ、ふたりが新しいお酒を選び、琥珀が控えめに頷く。それぞれの手元に異なる味と色彩が灯り、まるで花が咲いたような彩りを生む。
「……こうしてゆっくり味わえるの、嬉しいですね」
七三子がふとこぼした言葉に、琥珀が目を細めた。
「そうだねえ。こういう時があるから、長く生きるのも悪くないと思えるのさ」
それは呟きにも似た言葉。凍てついた世界に、ほんのりと温もりが差した。
やがて再び歩みを進める三人。だが凍結した路はあまりに不安定で、踏み出せばすぐ滑る。重心を移すだけでふらりと体が揺れ、進むごとに疲れがたまっていく。
「これ、いっそ……滑った方が楽なんやないか?」
唯一がぼそりと呟き、影に手を伸ばす。そこから、闇に溶けたような黒い輪郭が這い出す。
ぬらり、と現れたのは巨大な影蛇。鱗は艶やかに凍気を弾き、その身体は氷上でも滑ることなく自在にうねる。
「……冬眠はせんで、よかった」
「わあ……」
「おやまあ、これは頼もしいねぇ」
唯一が影蛇にまたがると、七三子の手を取り、琥珀の肩を支えながら背に乗せる。
蛇の背は不思議とあたたかく、ぬくもりが凍えた身体に染みわたっていく。
「乗り心地、意外といいですね……」
「昔はもうちょっとざらついてた気がするけどね、影も成長するんだろうか」
「影のくせに優しい手触りやなあ……なんや照れるわ」
三人の会話が弾む中、影蛇は音もなく氷上を滑るように進んでいく。壁面には氷に包まれた酒器が静かに並び、誰かが置いていったような痕跡もちらほらと残されていた。途中、氷に閉ざされた樽が見つかり、その中にわずかに残った酒を、再び削った氷に垂らして楽しむ場面もあった。
凍てついた空間に、ささやかな笑い声が混ざる。
やがて、長い回廊の先に光が差す。
氷の香りは薄れ、空気がわずかに温んできた。光の中に浮かぶ出口は、三人の酒旅のひと区切りを示していた。
音もなく滑るように進む影蛇。その背に乗った三人は、凍てつく酒精の迷宮を超え、次の酒の景色へと向かっていった。
●静謐なる氷酒の宴
……氷の香に、酒の気配。
和紋・蜚廉は音もなく這う。滑る氷床も節足で進めば揺るがない。冷気に満ちた床を這い、壁の一角を爪でひと削り。氷の薄片を唇に運び、ゆるやかに目を細めた。
「……山柚子の香。凍らせることで酸が立つか。良い仕事だ」
肩に落ちた雫を掌で受ける。米焼酎。伏流水のような清らかさが舌の上に広がり、すぐに静かに消える。
音もなく天井へと張りつき、逆さの姿勢で氷の回廊を見下ろす。ここは冷たいが、美しい。酒精の香気と光の反射が交わるこの地は、まるで巨大な盃の内側だ。
蜚廉にとって、それは心落ち着く空間だった。誰にも干渉されず、ただ味と香に身を委ねられるという贅沢。己が長く生きてきたことが、この静寂の一杯を許してくれるのだとさえ思う。
ふと、視界の先を巨大な黒い蛇が滑る。三人を背に乗せ、影から召喚されたそれは、凍てつく酒精の道を滑らかに進んでいく。
「……冬眠せぬか。良き式神だな」
その後方、ひときわ騒がしい声が響く。
「迎え酒だ! 限界を超えろ私! 技能:限界突破、発動ーっ!!」
サン・アスペラが酒精に染まった歓声とともに氷床を駆け抜けていく。蜚廉はその姿を静かに目で追う。
――彼にはああいった熱はない。けれど、熱気に触れるのは嫌いではなかった。過去の何かを思い出すでもなく、ただ今の賑わいを一つの風景として受け入れていた。
だが彼は追わない。ただ、その場にとどまり、ひとつ盃を取り出す。
(しばし静かに盃を傾け)
揺らぎのなかで、香りを吸い、味を写し取る。酔うこともない。酔わずとも、酒と在れることこそ至福。
「……我が身は、酔わぬ。味と香を写し取り、ただ在るのみ」
響きすら遠く、静謐に包まれた盃路。誰もいないこの天井が、彼にとっての特等席だった。
「……この静けさこそ、真の“宴”だな」
第3章 ボス戦 『堕落者『ジュリエット』』

●
最奥の広間は、まるで劇場のように設えられていた。冷たい石の床には薔薇色の光が流れ、天蓋の奥からは香気を含んだ酒精の霧が揺らめく。
そこに立つのは、美貌の簒奪者――堕落者《ジュリエット》。艶やかな唇に笑みを浮かべ、眩いほどの誘惑とともに、冒険者たちを迎え入れる。
「ふふふ、たっぷりの酒精はいかがでしたか?」
酒に呑まれ、足取りのおぼつかぬ者たちを、彼女はまるで子猫を見るように見下ろす。
「さあさあ♪ かかってきてくださいな。思考は低下し、呂律は回らない、果ては千鳥足……酩酊状態の√能力者たちをいたぶるなんて、簡単なんですから」
美しい指先が、挑発するようにくい、と手招く。
「今宵は、とびきり甘い敗北を用意して差し上げますわ――ふふ、どうぞ、楽しみにしていてくださいな」
●|酔いどれ八仙、千鳥足《ドランクエルフ》、見参
「うるへー! わらひ酔ってないんれすけろーっ!!」
ダンジョン最奥に、怒声というより酔っ払いの遠吠えが響き渡った。
サン・アスペラ(ぶらり殴り旅・h07235)、堂々登場。足元はぐらつき、視線は定まらず、呂律は完全に迷子。
「さんらつしゃがよー! あんま、√のうろくひゃをなめるらろー!」
ジュリエットの美貌を前に、一瞬で顔がさらに赤くなったのは酒のせいか、それとも彼女の妖艶さか。たぶん酒。
「明日には記憶飛んでると思うけど! 使命だけは肝臓が覚えてるから!」
そう叫びながら拳を構えるも、ジュリエットが三人に見える。
「なんか分裂してる!? やっぱりボス級は違うね!?」
勝手にボス級扱いされるジュリエット。違います。酔ってるだけです。当てずっぽうで殴るも全部空振り。よろけて壁にゴン!と頭がぶつかる始末。そしてぶつかったのは本当に壁…?
「くそー! 攻撃があたりゃない! 卑怯らろー!!」
いや何もしてないし、とジュリエットが言い返そうとしたそのとき、彼女の肺がアルコールで飽和した。
──|酔いどれ八仙、千鳥足《ドランクエルフ》!
「わらひは……無敵れす!!(物理的に)」
ふらっふらと酔拳特有のステップを踏み、謎のタイミングで片足立ち。ジュリエットが「これは隙……?」と踏み込んだ瞬間、
「くらえっ! 正義の酔っぱらいカウンター!!」
無防備に見せかけたその拳は、アルコールと拳筋で構成された究極の一撃! ジュリエットの顔面にクリーンヒットする。しかし代償も大きい。今ので体内アルコールが急落、酔いが醒めかけていく。
「……あ、まずい。正義が醒めちゃう……」
ということで懐からボトルを取り出し、何の迷いもなく口にする。戦闘中だろうと酒が必要ならボトルを傾ける、さすが欠落:危機感のエルフさん。
「よっし! 追い酒! これでまた無敵!」
堂々と再酔いして構えを取る彼女に、ジュリエットも一瞬だけ素に戻った。というか冷静になった。
「えっ……なにこの人……怖……」
そして再び拳を掲げるアスペラ!
「永久機関完成しちゃった~!! さあ、もう一杯やりながら戦おうぜジュリエットォーーー!!」
●優雅なる後方支援と雷の火花
「ぐえっ!? な、なんか壁にぶつかったんれすけろ……?」
それは壁ではない。正確には、魔術師イヴォシル・フロイデ(|鷹追い《たかおい》・h06554)の背中だった。千鳥足で最奥に突っ込んできた酔拳エルフ・アスペラが、盛大に激突したのである。
「……私だよ、酔っぱらい嬢さん」
イヴォシルが苦笑混じりに振り返る。赤くなった鼻先を指でつつきながら、アスペラは「ごめんね!」とだけ言い残してまたふらふらと戦場へ。
「やれやれ……どうしてこう、彼女は情報量ゼロのSOSを送ってくるのかな……」
『助けてくださいーっ』と珍しく送られてきたSOSにやってきたわけだが。道中の誘惑に多少負けたものの、何とか間に合ったようだ。ダンジョン奥に広がる酒精の香に目を細めつつ、イヴォシルは詠唱を開始した。
その一方、戦場にとことこと入り込んできたもう一つの存在。球体の仮面に蝋燭の冠をもつ者――災厄、イェルハルド・イレイェン・イーゼンベルグ・ヴェンツェル(Gute Nacht・h05995)である。
最近知り合った酔いどれ星詠みの報せに好奇心を胸にやってきてくれていた。道中の岩から、氷から溢れる酒を、味を覚え帰還した際は眠れない客達の前ででも再現できるよう堪能したけども、氷の道は結構堪えた。明日は筋肉痛かもしれない。
「…おや、ミスターも酒目当てに? 未熟者ゆえ、独りが不安でございまして。ぜひお供させてください」
イヴォシルは、軽く片手を挙げて応じた。そして、笑みを浮かべながらこう返す。
「なんとも芳しいダンジョンだね、ここは。誘惑に負けず、独りで奥まで進むのは難しいと思っていたんだ。宜しければ、ご一緒願えるかな」
敗北のような苦々しい風味は遠慮したい。
静かに告げるその声とは裏腹に、球体の外殻からは歯車が歪に回転し、魔力が凝縮されていく。内部機構から放たれたのは、雷の奔流。
「雷霆万鈞――」
着弾とともに広がる爆発の光は、敵の足元を脅かし、味方には帯電の加護をもたらす。だが彼の声音はあくまで穏やかで、静謐に満ちていた。
「ふむ、小生の雷など痛くも痒くもないでしょうが……その分、煩わしくして差し上げます」
実際、明滅する視界にジュリエットの攻撃がそれているのが分かる。その隙を他の能力者たちが見逃すはずがない。その光景を横目に、イヴォシルはふっと目を細める。
「うん、イェルハルド殿、張り切ってるなあ……」
攻撃ではなく、意識を逸らすこと。それが、今回の彼の画策だった。横目でアスペラの無敵乱舞を観察し、かすかに帽子の蝋燭が揺れる。
「ウィザード・フレイム、第一層展開」
イヴォシルは詠唱とともに、魔力の炎をひとつ、またひとつと浮かべていく。移動せずに魔力を蓄えるその立ち位置は、すでに淡い光の陣地と化していた。
「はっはっは、まあ私は見ての通り弱いのでね! 無茶はしないとも。」
朗らかに笑いながら、慣れた様子で味方の後ろに陣取った。背後から飛来した酒瓶を冷静に弾きながら、イヴォシルはにこやかに言い放つ。
「君たちに降りかかる攻撃は、多少だが反射して防ごう。さあ、頑張りたまえ!」
「酩酊させ甚振るなど淑女の振る舞いではない。|倒れろ、小娘《さようなら レディ》」
●毒液と影と戦闘員
「さあ、七三子。もうひと踏ん張りや」
影の中から蛇を戻し、装備を整える一・唯一(狂酔・h00345)の声には、慈しみと凛然が混ざっていた。冷気を残す肩を軽く回し、彼女はすでに戦闘の間合いへと視線を向けている。
その隣、見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)はふふっと笑って応じた。
「唯一さん、薄着ですし心配でしたよ。……でも、蛇さんにも乗せていただきましたし、ありがとうございました。お疲れさま、またねって伝えてください」
唯一は静かに頷く。
彼女は大丈夫、しっかりしていて強い子だから。それでも念のため……シリンジシューターを構え、影の中から静かに踏み出した。
銃口から射出されるのは、鋭利な毒液の雨。距離を詰めすぎず、鋭く正確にジュリエットの綻びを狙い撃つ。細く速い射撃音が空を裂き、戦場の緊張を切り裂いた。
その一方、七三子が影を裂いて踊り出た。
「こっちですよー!」
その笑みは挑発であり、罠だった。柔らかさの奥に、確かな殺意がある。跳躍の軌道はまるで夜を走る流星。特殊な素材で作られた革靴の爪先が、ジュリエットの足元を狙って閃光のように弾ける。
──|ヒット&アウェイ《ワタシカヨワイノデ》!
足払いの一撃から即座に影へと沈み、姿をくらます。その痕跡すら残さずに、戦場から気配ごと消え去るその技は、まさに幻想。敵の視線を奪い、次の動きすら封じる。
ジュリエットが一瞬の間を取るよりも早く、唯一が攻勢を引き継いだ。
闇を纏った蛇型兵器がジュリエットの脚へと飛びかかり、動きを封じる。その隙に、唯一の注射器が次々と打ち込まれていく。毒液の飛沫がきらめき、鋼の意志が突き刺さる。痛覚と神経を蝕むような連撃に、ジュリエットの顔が苦悶に歪む。
「あーすまへんな、よろけて殴ってしもた」
軽口を叩きつつ、大型ガトリングを振るう唯一の姿は、まるで戦場に降り立った疾風のごとく。弾丸の嵐がジュリエットを取り囲み、その中心に鋼の咆哮が鳴り響いた。炸裂音が連続し、銃身が熱を持ち始めるほどの連撃は、まさに圧倒。
そしてその背後、再び七三子が姿を現す。彼女は音もなく移動し、ジュリエットの死角をとるようにして動いていた。
「格好よくて綺麗な唯一さんの雄姿、いっぱい見れた方がお得ですしね!」
軽やかな声が響く。だがその声の裏に、戦場を支配する余裕があった。
唯一は笑みを浮かべ、影へとひと声。
「可愛くて格好良い戦闘員さんへのお触りは禁止やで」
その間にも、ジュリエットの足元がぐらつく。目が泳ぎ、次の一手を見失っている。
それにしても七三子が上手に立ち回ってくれるおかげで戦いやすい。相手に花を持たせる戦い方は、あまりに慣れている。……こんだけお膳立てされて負けるんは格好悪い。唯一の唇が不敵に笑む。
毒と闇、静と動。
それぞれの強みが交差し、重なり合う。
ふたりの共演は、まるでひとつの完成された舞踏だった。
七三子はタイミングを見計らい、再び跳ぶ。華奢な身体から繰り出される蹴撃が、ジュリエットの腰を打つ。反射的に振り向いた敵の眼前には、再装填を終えた唯一の銃口があった。
「美味しい酒精の礼に、|とびっきり美味しいお酒《身を蝕む毒液》、御馳走したろな」
トリガーが引かれ、閃光が走る。そこにはもう、逃げ道はなかった。
音もなく舞うふたりの動きは、まるで刃と煙。
鋭く、美しく、誰にも止められない旋律を刻む。
戦闘員と狂酔者。
その名にふさわしい、完璧な共闘だった。
●静寂と蹂躙の一閃
「ふふふ……たっぷりの酒精、もうお忘れになったの?」
最奥の薔薇色の劇場。その中心に立つ|堕落者《ジュリエット》が、艶めかしい微笑を浮かべて手招いた。
「思考は鈍り、足元はふらつく……今なら、あなたも簡単に堕ちてくれるでしょう?」
甘く、濃密な声。しかし、和紋・蜚廉(現世の遺骸・h07277)はその罠に酔わなかった。
「……香気は濃く、視線も甘い。だが――我は既に、殻を割った」
ふらりと揺れた動きは、酔いではない。彼の“擬殻布”が演じた、酩酊の仮面。その仮面を剥ぎ取るように、蜚廉の体が裂けた。
――|穢殻変態・塵執相《ギガクヘンタイ ジンシュウソウ》
蠢層が爆ぜ、肉体が黒褐色の奔駆体へと変貌する。自壊と再生が狂ったように繰り返され、脚は何十にも分かれて蠢く。爪は鋭く、肉は焼け、血は流れずに殻が張り替わる。
「ふらついて見えたか。演目のうちだ」
疾走。殻の擦過音が空気を裂き、蜚廉は一気にジュリエットの懐へ突貫する。
「……酔ってなど、いないのね。つまらない」
ジュリエットが鎌を振るった。斬撃は正確。演者としての彼女に偽りはない。しかし――それも読み切っていた。
「狙え。その手で我を裂いてみせろ」
蜚廉が自らの殻をわずかに開き、斬撃を誘う。ジュリエットの刃が触れる刹那、殻喰鉤が彼女の腕に巻きついた。棘が喉へ、腹へ、脚へと喰らいついた。殻は砕かれるための器ではない。敵を喰らう罠なのだ。
「汝の刃は確かだ。だが我の殻も、ただ斬られるための器ではない」
「なっ……ああっ、こんな、…らしい……!」
彼女が叫ぶその間にも、蜚廉の脚が地を刻む。殻が砕け、また再生する。暴風のような多脚の襲撃が、彼女の体力も気力も削っていく。
「“酔い潰れる”より、“斬らせた後に潰す”方が性に合う」
トドメの一撃。反転した体躯が螺旋を描き、ジュリエットの胸元へ、渾身の殻撃が炸裂する。
ドレスが裂け、酒と血が入り混じって飛び散る。
その香りの中で、彼女の最後の声が震えた。
「……嗚呼、やっぱり……苦いのは……嫌い……」
沈黙。
蜚廉は静かに歩を止めた。殻が剥げ落ちる。蠢く音が収まり、舞台は終幕を迎える。
「――嗜みとは、見苦しくても最後まで味わうことだ」
その一言と共に、彼は背を向けた。殻を割り、毒を宿し、斬らせてなお勝つ。
誰よりも静かで、誰よりも強い終わりを、蜚廉は演じ切ったのだった。