満月夜の蜜と煌めき
「梅雨も明けそうで、夜風が心地よくなる季節――皆様、夜遊びはいかがですか?」
そう言って如月・縁(不眠的酒精女神・h06356)は、カクテル・サイドカーを片手に微笑んだ。琥珀色の液体がグラスの中で月光を受けてきらめく。爽やかな酸味とブランデーの香りが、彼女の言葉に仄かな艶を添える。
今回の舞台は、√ドラゴンファンタジー世界のある地方。その地では昔から【満月の夜に想いを告げる恋は実る】という風習があり、現在では年に一度、満月の夜に開催される祭りへと形を変えて続いている。
「他の地域でも似た伝承があるようですね。月と恋は斬っても切れぬ関係、ということでしょうか。」
だが、彼女が見た未来は美しいものではなかった。
「お祭りの広場に、『鹿曜《ロクヨウ》』が現れて惨事になる――そんな光景が見えたのです。」
鹿曜は夜を彷徨う幻獣である。祭りのにぎわいに惹かれたのか、それとも――。
「……誰かの強い願いが、彼を呼び寄せてしまったのかもしれませんね。」
縁はそう言ってカクテルを一口含み、グラスを卓に置いた。
「皆様には、この満月祭に潜入し、現れる敵の排除をお願いしたいのです。」
ちなみに、と彼女は少し声の調子を弾ませた。
「このお祭りでは、“満月蜜”という月夜にしか咲かない花から採れる蜜が名産でして……。その甘さと香りは格別です。名物は、満月蜜をかけた手のひらサイズのピザ、星型クッキー、ソフトクリーム、そしてしゅわしゅわのサイダー。どれも絶品ですよ。」
さらに良質な満月蜜は腐敗せず、酸化しない。その性質から「変わらぬ気持ち」「永遠」の象徴とされ、蜜を封じたクリスタル製アクセサリーが若者の間で人気だという。なかでも「満月蜜のペンデュラム」を模したピアスやネックレス、ストラップなどは飛ぶように売れているとか。
縁は少し目を細め、ゆっくりと言葉を続けた。
「うだるような暑さに気が滅入りそうな時期ですが――月夜の恋と甘い香りに包まれて、少しだけ夢を見てはいかがでしょうか?」
そして最後に、カクテルのグラスを高く掲げる。
「……ついでに討伐も、よろしくお願いしますね。」
月光の下、グラスが鳴る小さな音を背に、能力者たちはそれぞれの想いを胸に、祭りの灯が揺れる街へと歩み出していく――。
第1章 日常 『月とあなたに花束を』
●
それは、年に一度の甘い奇跡。
月明かりが街を照らす晩、石畳の通りには満月の形を模した提灯が並び、宵の空に金色の光を揺らしている。どこからか流れる笛の音と、鈴の音がやさしく重なり、心をほどく音色を奏でていた。
この夜だけに咲く「月咲花」から採れる“満月蜜”は、街の名産品であり、恋の象徴でもある。露店にはその蜜を使った菓子や飲み物が所狭しと並び、行き交う人々の笑顔が絶えない。
蜜をかけた焼きたてのピザは手のひらサイズ。外は香ばしく中はもちもちで、ほんのり甘くてくせになる味わい。満月蜜サイダーは、しゅわっと弾ける泡のなかに微かな花の香りが広がる。人気の星型クッキーはお土産にぴったりで、試食用に温めたものもその場で提供されている。
スイーツだけではない。蜜を塗った焼きとうもろこし、蜜漬けの果物を串に刺した「満月串」、蜜を練り込んだ焼き菓子の屋台も行列ができている。さらに、蜜入りのカクテルやノンアルコールドリンクも充実しており、大人も子どもも楽しめる。
アクセサリーの露店では、満月蜜を封じ込めたクリスタルガラスのペンダントやピアス、指輪がずらりと並ぶ。「永遠」や「変わらぬ想い」をテーマにしたものが多く、恋人同士で贈り合う姿も珍しくない。流行の「満月蜜のペンデュラム」型アクセサリーは、揺れるたびに金の粒が淡く光り、誰かを引き寄せると言われている。
満月の下、香りと光と笑い声が満ちる夜。
願いを込めて蜜を味わうもよし、誰かと手をつないで賑わいを歩くもよし。
このひとときは、ただ幸せだけを紡ぐ時間である。
満月の光が祭りの空を銀に染め上げる夜。
賑わう通りを、ひとりの少女が静かに歩いていた。月の光に溶け込むような白い髪。透き通るような肌。瞳は淡いピンクの宝石のように潤み、光を映してやさしくきらめいている。
彼女、|神代《かじろ》ちよ(Aster Garden・h05126)の姿を見た者は、誰もが思わず息を呑むだろう。まるで月の精が歩いているような、幻想のひとひら。
「まあ、お祭りを楽しめるのですね」
柔らかな声が、夜風にそっと溶けていく。
戦いが待っていることは理解している。だが今このときは、ただ穏やかに――月の夜と、甘やかな空気を味わいたい。
「夏の暑さには、やはりしゅわしゅわのサイダーが合うと思うのですよ」
満月蜜入りのサイダーを手に取る。瓶の中では泡が踊り、蜜が月光を抱いて揺れる。それを一口、唇に運ぶと――
「ふふ、とても……かぐわしいお味なのです」
ほのかに笑んだちよの頬が、月よりも白く、そして淡く紅を差す。
おともだちへの贈り物に、星型クッキーも選ぶ。蜜の香りをまとった焼き菓子を丁寧に包んでもらいながら、ふと、視線が引き寄せられる。――クリスタルガラスのアクセサリーの店先へ。
「……そんな言い伝えがあるのですね。『変わらぬ気持ち』……」
ささやきは、まるで歌の一節のように美しく、耳にした人の心をそっと揺らす。
「ちよにも、想う方がいるのですよ。たとえ、関係が変わってしまったとしても……」
それでも、この想いだけは変わらずに在ってほしい。
淡く祈るように、彼女は満月蜜のペンダントをひとつ手に取る。金色の粒が揺れて、どこか儚げに光った。
白い指先がそれを包み、彼女はもう一度空を仰ぐ。
――願いよ、どうか。
その胸に宿る想いが、月の記憶に刻まれることを信じて。
月光が銀糸のように降り注ぎ、祭の熱気と甘い香りが町を包む夜。
その中を、白銀の長髪を揺らしながら歩く長身の男がいた。
ゴーグルに隠された眼差しの奥、その足取りには、戦の余韻が漂う。
ウィズ・ザー(闇蜥蜴・h01379)。王権決死戦でも活躍を見せたその男は、今宵、人型の姿で賑やかな満月蜜夜祭を訪れていた。
「“満月蜜”…良い響きだぜ」
屋台で手に取ったのは、満月蜜を混ぜたサイダー。瓶を軽く振り、喉に流し込めば、しゅわりと弾ける泡とともに、ほのかに花香る甘みが広がる。
「……ぉ、美味ェ」
言葉は短くとも、じっくり味わうような仕草に満足がにじむ。
隣の串焼き屋台では、蜜をまとった焼き果実の試食を一口。熱と甘みがとろりと舌に絡む。さらに蜜塗り焼きとうもろこしを豪快に頬張れば、焦げ目の香ばしさと蜜のこっくりした甘さが互いを引き立て、まるで炙り蜜菓子のような風味に。片っ端から試食を重ね、味と香りと食感を丁寧に舌で確かめていく。何気ない仕草の中に、グルメとしての目利きが光る。
「この蜜、火を入れても味が飛ばなさそうだな……」
通り沿いにずらりと並ぶ瓶詰めの満月蜜を、一つ残らず購入していく姿は、店主も驚くほどだ。
「これだけ上質なら、そりゃ買いだろ」
ずっしりと重量感のある戦利品を片手に店を巡る。目は見えずとも、香りと音、温度、食感――そのすべてで味を捉える。戦場では決して得られぬ、この平穏な贅沢を彼は一噛み一噛みに込めていた。
すぐ横の屋台では、恋人たちが満月蜜のペンダントを選んでいる。言い伝え、願い、揺れる笑い声。
ふと口元が綻ぶ。尖った歯がのぞき、奥に淡い青炎がちらと光ったように見えた。
「今度は、あいつらも連れて来るか」
浮かぶのは、共に戦った仲間たちか、それとも。誰がどれに食いつき、どんな顔をするか――想像するだけで、胸が少し軽くなる。
月は満ち、香りは満ち、心は少し、ほぐれていく。
満月が空に咲いた夜、祭の通りをくるくると歩く小さな風がひとつ。
青色の髪を揺らしながら、エアリィ・ウィンディア(精霊の娘・h00277)は楽しげに露店を巡っていた。
「へー、お花の蜜なんだ。月夜に採れるって、なんだかロマンチック」
聞くだけで胸がくすぐったくなるような話。ならば、と彼女は胸を張る。
「せっかくだから、美味しく頂こうっ♪」
まずは星型のクッキー。蜜の風味がじんわり広がるやさしい甘さに、思わず目を細める。ソフトクリームもとろりと舌に溶けて、冷たさのあとに残るのは、ふわっとした幸福感。サイダーは炭酸の弾ける音さえ楽しくて、飲むたびに気持ちまできらきらと弾けた。
「えーとえーと、クッキーとソフトクリーム、サイダーもくださいなっ♪」
お店の人にそう告げる声も明るく、通りがかった子どもたちが思わず笑顔を返す。
「一杯食べて英気を養って、だねっ♪」
両手いっぱいに甘い幸せを抱えて、エアリィはふと空を見上げる。まんまるの月が、静かに照らしてくれる夜。
「月と恋って、どこにでもあるんだぁ」
誰かが話していた言い伝え。恋を願うと満月が応えてくれるとか、蜜のペンダントが気持ちを永遠にしてくれるとか――
「恋……んー、まだわかんないけど、でも、なんとなくほわほわーってした印象はあるかなぁ」
その輪郭はまだぼんやりとしたまま。でも、想像することはできる。
「もし叶うなら、お父さんみたいな人がいいなぁ。頼りになって、優しい人」
お母さんが語るお父さんの話――いつだって、嬉しそうだった。
それはきっと、恋が叶って幸せになったということ。
甘い恋は、いつしか蜜のようにとろりと愛になり、変わらずにいるものなのかもしれない。
魔法では叶えられない奇跡に思いを馳せる。
「だから、そんな人と巡り合えたら、とっても素敵なんだろうなぁ~」
願いはまだ曖昧で、だけどほんのり甘くて、どこか満月蜜の味がした。
第2章 冒険 『水中ダンジョン』
●
「ねえねえ、あれ何?」
祭の喧騒の中、誰かの声が聞こえた。
満月蜜の香りと賑わいに誘われるように、露店の隙間をすり抜けて歩いていたのは、夜を彷徨う幻獣――『鹿曜《ロクヨウ》』。
その気配に気づいた能力者が目を向けた瞬間、ロクヨウはふっと視線を返し、踵を返す。
逃げるように、静かに。
導かれるように後を追う。
辿り着いたのは、月を映す湖のほとり。人の気配の消えたその場所に、静かに石の祠が現れる。
ロクヨウはそこへと身を滑り込ませ、能力者たちもその背を追った。
扉の向こうは、水の中だった。
静謐な回廊が沈んでおり、水の帳がすべての音を吸い込んでいく。敵の気配はない。ただ、幻獣の影だけが遠ざかる。
不思議なことに、水中での活動に支障はなかった。
それどころか――満月蜜を使ったクッキーやアクセサリーを携えていれば、蜜が仄かな光を灯してくれる。
柔らかな金の輝きが、闇に沈んだ廊に確かな道を指し示す。
●
水の中ダンジョンにしてみました。非戦闘です。
|なにか不思議な力《ごつごう》で水中でも歩けますし濡れません、話せます。
皆様には進んでいただければOKです。
ご一緒した方とRPしてもよし、お祭りの品を食べたり感想を心情描写するもよし、
ロクヨウについて考察しながら歩くもよし、です。
第1章で祭の品を購入された方は、その柔らかい明かりで視界が確保できます。
未購入でも進みはできますのでご安心ください。
石の祠をくぐる、その刹那。
ウィズ・ザー(闇蜥蜴・h01379)の姿は、人型から滑らかに、大蜥蜴へと変じた。
腹の中へ袋ごと呑み込んだ土産を仕舞い、蠢く影のように、水底の闇へとその身を沈めていく。
そこは、沈黙の洞窟だった。
水中であるはずなのに濡れる感覚はなく、息苦しさもない。ただ、全てを吸い込むような濃密な暗黒が、どこまでも広がっていた。
天井も床もなく、壁すら曖昧。視界の輪郭がぼやけ、音も匂いも沈んでいく。存在という感覚さえ薄れていく世界。
「……やべェな……」
ウィズは低く呟く。
このままでは、自分の輪郭まで溶けてしまいそうだ。居心地が良すぎることが、かえって危うい。
そのとき、腹の奥で――ぼう、と光が灯った。
祭で手に入れた満月蜜のクッキーやアクセサリーが、仄かに揺れる黄金の輝きを放つ。
静寂の底に、一筋の道が照らされた。まるで「進め」と囁かれるように。
残念ながら、この場所に留めてはくれないらしい。
重みを帯びた腹を軽く振るわせ、尾を一閃。水大蜥蜴の体は、ゆるやかに進み出す。
その先に――鹿曜《ロクヨウ》の影があった。
夜を彷徨う幻獣。
賑わいと甘い香りに惹かれて、気まぐれに満月夜の祭へと現れた存在。
だが、そこで目にしたのは歓声でも煌めきでもなく――誰かの「想い」だったのかもしれない。
それがあまりに温かく、強すぎて、思わず背を向けてしまったのかもしれない。
それだけ、人が人を想う気持ちは強いのだ。
祠の奥、静謐なる闇へと逃れるように身を沈めたその背に、ウィズの視線が追う。
その姿は、静かに遠ざかっていく。
ウィズはその背を追いながら、仄暗く幻想的なこの空間を、もう少しだけ楽しむつもりでいた。
静寂の帳が垂れ込める水中の回廊。
そこにふわりと灯るのは、金と白の揺らめき。
神代ちよ(現世の遺骸・h05126)の首にかけられた、満月蜜のペンダントが仄かに輝き、
その傍らを歩くエアリィ・ウィンディア(精霊の娘・h00277)の手元でも、蜜の甘やかな香りがほのかに満ちていた。
「クッキーもソフトクリームもサイダーもおいしかったー。なんだか柔らかい優しい味って感じだね」
サイダーの弾ける音、ソフトクリームのとろける口どけ
それらの余韻を胸に残しながら、エアリィはまだ袋にしまったままのクッキーを見つめる。
「まぁ、これを食べるのはもうちょっと後かな?」
ふと前を見れば、ちよがふよふよと水中を歩いていた。
白い髪と透きとおるような肌。淡くピンクの瞳に、泡や魚、揺れる光が映り込む。
その姿はまるで、絵本の中のちいさな人魚のようだった。
「ロクヨウさん……どうして、こちらへいらっしゃったのでしょうね」
ちよの声は、水のゆりかごに乗って静かに漂う。
泡が、魚が、水面越しの光が夢のように揺らぎ、ちよの頬にキラキラと星を描いていた。
「ふふっ、とってもふよふよして、不思議なのですよ……」
くるりと一回転。けれど、水の抵抗は想像以上に強く――
「きゃっ、あうっ……!」
バランスを崩して倒れかけた彼女を、そっと支えたのはエアリィだった。
「わっ、大丈夫っ!?」
慌てて駆け寄り、優しく腕を伸ばす。ふたりの距離が、水の柔らかな膜の中でさらに縮まっていく。
「ふよふよなので、つまずいてもいたくはないのですけれど……助けていただけると、やっぱり安心なのです。えへへ」
はにかんで笑うちよに、エアリィも嬉しそうに微笑み返した。
「んー、でもちよちゃん、泳げないなら、ちゃんと一緒に進まないとね? 迷子になっちゃったら困るよ」
ふたりは寄り添うように、水中の回廊を歩んでいく。
その足元には、満月蜜のペンダントやクッキーが優しく光を灯し、
仄暗い世界に、あたたかく穏やかな道を指し示していた。
「でも、ロクヨウさん……やっぱり、寂しかったのかな?」
ぽつりと、エアリィが呟く。
お祭りの喧騒に現れたあの幻獣は、どこか寂しげに見えた。
その姿に、エアリィはなぜだか胸がきゅっと締めつけられる思いがした。
「混じりたかったのかなぁ、お祭りに。楽しそうだったから……。
お母さんだったら、どう思うかなあ……」
静かに思い浮かべたのは、母であり師でもあるシル・ウィンディアの顔。
『その子の気持ちを、ちゃんと受け止めてあげなさい』
――そんな声が聞こえる気がした。
「……だから、追いついたら聞いてみたいな。どうして来たの? って」
「はいっ。ちよも、ロクヨウさんに聞いてみたいのです」
お祭りで見かけたあの幻獣には、悪意は感じられなかった。
むしろ、人知れず誰かの想いに惹かれて、迷い込んでしまったような……
そんな、寂しがりやの夜の迷い子のように見えたのだ。
この闇を進む先に、答えはあるのだろうか。
それとも、ただそっと寄り添ってほしかっただけなのだろうか。
光と想いを胸に、少女たちは仄暗い水底を、ゆっくりと歩いていった。
第3章 ボス戦 『ジャンパー・イン・ザ・ダーク『ロクヨウ』』
●
水の回廊を抜けた先、静謐な空間が広がっていた。
洞窟とは思えぬほど澄んだ水底の広場。その中央に、鹿曜《ロクヨウ》はひとり佇んでいた。
幻想のごとく揺らめく白銀の毛並み。蒼い瞳は伏せられ、手にした長い角が水に影を落とす。
その手元――柔らかな満月の光がぼんやりと滲んでいた。
「……あれは」
√能力者たちが目を凝らすと、ロクヨウの掌には一つのペンダントが握られていた。
満月蜜を封じた、あの夜祭で売られていた煌めきの品だ。
盗んだのか、それとも、ただ欲しかっただけなのか。
何かを語るでもなく、何かを訴えるでもなく。
ただ、寂しげに――誰かを、何かを、待つように立ち尽くしていた。
●
どうやらロクヨウはお祭りの賑わいにつられ、満月のペンデュラムを手にしてしまったようです。
言葉は発しませんが、人間の言葉はわかる様子。
戦闘で討伐するもよし、説得するもよしです。相手は突然の追跡者におびえていますが攻撃する様子はありません。もとろん攻撃されれば防衛のため反撃はします。
「うわっ……すご……」
凌ヶ原・クユリ(|異端魔術士《ストレンジ・アート》・h02411)は、淡く輝く水の回廊に立っていた。満月蜜のペンデュラムを軽く振り、そこから漏れる光の屈折を興味深げに観察していたところだった。
この光、魔術媒介に使えるんじゃないか? そんな好奇心から足を踏み入れた水中空間。だが、目を奪ったのは思わぬ存在だった。
――鹿曜《ロクヨウ》。
水底にひとり佇むその姿は、まるで神話から抜け出た絵画のよう。鹿の脚、ゆらぐ尾、白銀の体毛が水の揺らぎに溶ける。手にしたペンデュラムからは、満月のような光が柔らかく漏れ、ひときわ幻想的な気配を放っていた。
「あれはなかなかレアな怪異ッスね」
クユリは瞬きを忘れたまま、夢のような光景に見入っていた。ペンデュラムだけの予定が想定外の怪異との遭遇だ。魔力だの媒介だの、この出会いの前には霞んでしまう。好奇心の芯が、音を立てて弾けた気がした。
さてこの怪異に手をかけるべきか。しかしアレが手にしているのも同じペンデュラムではないか?まさか人の祭に仲良く参加したわけでもない。色々と思考を思い巡らすうち、背後から人の気配がした。
水の迷宮。その最奥には、濃い闇の帳がたゆたい、満月蜜の光だけが静かに灯っていた。
そこにいたのは、鹿曜《ロクヨウ》。
下半身が鹿のような神秘の存在。白銀の毛並みがゆらぎ、水中の光を静かに撥ね返していた。その瞳には人の色がない。ただ、静かに――寂しさを湛えて、ひとり佇んでいた。
その手には、煌めくペンダント。満月蜜を封じ込めたそれは、彼の胸元でほのかな黄金色を揺らしている。
神代・ちよ(現世の遺骸・h05126)が、そっと歩み寄る。
満月蜜のペンダントを胸元から取り出し、ロクヨウの手にあるそれと見比べるように見つめていた。
「あなたが、ロクヨウさん……こんばんは、なのですよ。……あっ、敵意はないのですっ! だいじょうぶなのです!」
そう言ってにっこり微笑む。ロクヨウの視線が、少しだけ逸れる。
「そのペンダント、欲しかったのですか……? でしたら、お代はちよにお任せなのです」
軽やかに胸を張って言い切るちよ。その声に微かに水がきらめいた。
「願いごとが、あったのですか……? 逢いたい人がいたとか、行きたい場所があったとか……?」
「ちよも、ね。願いごとがあるのは一緒、なのですよ」
彼女はペンダントを胸に抱いて、少し照れたように笑った。
「よければ……一緒におほしさまを見ませんか? おしゃべり、できなくても……ちよのお話、聞いてくださいな」
水面のないこの空間には星は見えない。けれど、少女の声がその代わりとなって柔らかに満ちていく。
「……そっか。あなたたちもお祭り、楽しみたかったんだね?」
隣で口を開いたのは、エアリィ・ウィンディア(精霊の娘・h00277)だった。
敵意はないと伝えるように、ゆっくり歩み寄りながら――祭で買ったクッキーを一枚、そっと差し出す。
「さすがに人里に戻るわけにはいかないけど……それなら、ここで一緒に楽しんじゃおうっ!」
ロクヨウはエアリィの手元を見つめていた。瞳の奥に、ほんの少し――戸惑いのような、揺れ。
「ね、一緒に食べよ?」
ふわりと笑ったエアリィは、自分でも一口。
甘さと、祭の記憶が口いっぱいに広がる。
クッキーを差し出すと、ロクヨウは一瞬戸惑い、しかしそれを静かに受け取った。
「うんうんっ、よくできましたっ♪」
クッキーを片手に、彼女は静かに高速詠唱を唱えた。
「精霊交信、発動っ!」
音も水の揺らぎもない空間に、小さな光が生まれる。
浮かび上がったのは精霊たち。水の中でふわふわと揺れながら、ひとときの宴の輪に加わる。
「ね、精霊さんたち。この場所について、何か知ってることがあったら教えてくれる?」
祭の続きを紡ぐように。闇に溶けるような優しい声だった。
そこへ、静かに泳ぎ寄る影がひとつ。
ぬらりと水を割って現れたのは、ウィズ・ザー(闇蜥蜴・h01379)。
闇を泳いでゆったりと近づいてきたその姿は、黄金の光をまとった大蜥蜴。
さすがにロクヨウも一歩、後ろ足を引いたように見える。
どちらが怪異かわからない状況な気もするが、大蜥蜴本人は気にした様子もない。
「よーゥ、そこの子。珍しいぢゃねェか、害もなく人里に近寄るなんざ。……誰かと待ち合わせでもしてたのか?」
冗談めかした口ぶりではあるが、その声音に威圧はない。
闇をまといながらも、どこか穏やかな気配をまとったまま、ロクヨウと距離を詰めていく。
「怖がるな怖がるな。取って喰いやしねェよ……今はな」
冗談に含ませた真意をにじませつつ、ウィズはロクヨウの手元に視線を落とす。
「そりゃあお前のものか? それとも……違う奴の願いが込められたものか?」
ロクヨウは微かに首を振った。
否定。欲しかっただけなのだと、何かを伝えるような仕草。
ウィズはふっと笑った。
「なら、まぁ害がねェんなら攻撃はしねェ。……協力してやれることは、してやるぜ?」
ロクヨウは、しばし沈黙し、やがてふわりと尾を揺らした。
精霊たちが代弁するように、声が届く。
『……あまりにも多くの、人間の祈りが、わたしのすみか、結界を侵していた。だから私は、確かめに行った。壊すべきか、守るべきか』
そして、人間の営みを目にしたのだという。
楽しげな笑い声、光、香り、甘い味わい……それらは、壊すには惜しすぎたのだと。
「そりゃあ……祭りってのは、いいもんだったろ?」
「ロクヨウさん……あなたの願いは、壊さないでほしい、そっとしてほしいってことなのですね」
神代ちよもまたそばにいた。柔らかな瞳が、ロクヨウを見つめる。
「大丈夫なのです。ちよたちは、あなたに危害を加えることなんてしないのですよ」
ちよは自分の胸元のペンダントを取り出して見せた。
ロクヨウの持つものと同じ、満月蜜の灯りがふわりと共鳴する。
「この光も、祈りも……悪いものじゃない。けれど、届きすぎてしまったのなら、それは……ごめんなさいなのです」
ちよは手を胸に当てて深く頷く。
ウィズも腕を組み、肩を竦めた。
「まァ、俺も住みてぇくらいの場所だし……棲家を壊されて良い気がするやつはいねェわな」
月に祈るのは別に人に限ったことではない。彼もまた平穏を願っているのだ。
エアリィが改めて、手を掲げる。
「だから、大丈夫だよ。私たちは、ロクヨウさんのすみかを壊したりしない」
「ちよも、約束するのです」
ロクヨウは戸惑った様子で2人の言葉を聞いていたが、やがてゆっくりと、頷いた。
じゃ、帰るかと言い出したのはウィズだった。
ぬるりと大きな体を水に溶け込ませる。まるで闇に溶け落ちるような挙動。
腹の光だけが彼の行く先を示していた。
「じゃあね、ロクヨウさん! 今度は勝手に人間のものを持ってきちゃダメだからね?」
ロクヨウは――再び、ゆっくりと頷いた。
再び、光が消え、静寂が満ちる。
けれどそこには、寂しさではなく――あたたかな祈りの名残が漂っていた。