人魚のため息は真珠色
●ため息
いとしい、いとしいと想いは募るけれど。
言葉は喉の奥でつっかえて、せっかく吐き出しても泡になって溶けてしまうばかり。
だから彼女は花を植えた。
誰にも内緒の水底に、隠れてかき集めた花の苗へ、言えなかった願いを込めて。
一人きり、潮が満ちるまで、懸命に。
──あの人が、ずうっと幸せでいられますように。
そうして人間に恋をした人魚は人知れず海へと消えた。
しかし今でも、その洞窟の奥では人魚の植えた白い花が咲き続けているのだという。
●白い花を束ねて
「なんだか切なくてロマンチックだよね!」
出会ったあなたへ、童話を読み上げるようにとある人魚にまつわる伝承を聞かせると、花牟礼・まほろ(春とまぼろし・h01075)は共感を求めるように顔を覗いた。ぱっと朗らかに笑いかける。
「でね、この人魚の伝承を元にしたマルシェがあるんだって。せっかくだから、あなたも遊びに行こうよ!」
√ドラゴンファンタジーに在る、とある海近くの町で行われる「白い花のマルシェ」。そこでは町に伝わる人魚伝説にちなんで、白い花ばかり集められるのだという。
「たとえば百合、それから鈴蘭。マーガレットも白いし……サギソウも可愛いよね!」
指折り数えて白色の花を挙げていく少女。これらだけでなく、たくさんの種類が市場に集まる上、普段は白く咲くことはない花も、特別に魔法をかけて白く染めているらしい。
「花の苗だけじゃなくて、お土産用の花束やアクセサリーもいっぱいあるよ」
選んだ花をお好みの色のリボンで纏めて作る花束の他、ドライフラワーで作った髪留めや、曇り硝子で花を模したピアスやネックレス。生花のコサージュなんかもプレゼントとして人気なのだそうだ。白い小物は身に着けた人に爽やかで明るい印象を齎してくれるだろう。
「あとはおやつに花束みたいなアイスブーケも好評なんだって。花の形のアイスって、ぜったい可愛いよね!」
ワッフルコーンにふんだんに花の形のアイスクリームを乗せたアイスブーケも、やっぱり白い花ばかり。ミルク味やヨーグルト味はもちろんのこと、港町らしくソルト味も人気らしい。梅雨ではあるが、同時に汗ばむことも増えてきたこの季節だ。休憩に冷たい花のアイスを口にすれば、気分もすっきりして更に買い物を楽しむことが出来るだろう。
わくわくするような市場の様子を語り、ひと息つくと、少女は大げさに眉をひそめた。
「それで、苗を買ったら噂の洞窟に行ってみんなで花畑を作っていたんだって。残念ながら、少し前に奥に行くまでの道がダンジョンになっちゃったらしいんだけど……」
でも、とまほろはきらりと表情を輝かせた。
「能力者のみんななら、ダンジョン攻略、出来るよね? それで一足先にみんなで花畑を作っちゃおうよ!」
少女が予知したところ、洞窟の奥に行くまでの道は水中ダンジョンになってしまっているようだ。恐らく、遺産が花と混ざったことで一部が変質し、自身を守る為にダンジョンを形成したのだろうと推測を述べた。
「泳ぎが苦手な子も、水中用の魔法具があるから大丈夫! 海と繋がってるらしいから、綺麗な光景が見られるかも!」
見惚れて迷子にならないようにね、と笑いながら注意を付け足して、話を続ける。
「ちょっと可哀想なんだけど、奥に着いたら、原因の花は摘んじゃって。花に操られている番人の子がいるみたいだけど、花が無くなれば正気を取り戻して帰ってくれるはず!」
遺産の影響を受けた花をすべて除去すれば、それが遺産の封印にも繋がるだろうというのが彼女の見立てだ。このまま放置しておけば、ダンジョンは周囲の住民をモンスターに変えてしまう。町の平和を守る為にもぜひ協力してほしいと真剣な顔でまほろは語った。
「せっかくだし、すかすかになっちゃったところにまた花を植えよう。ダンジョンがなくなったら、町の人たちもまた遊びに来れると思うから、その時に見られるようにね」
多種多様の白い花が、洞窟の奥でひっそり花畑を作ったら、どんなに綺麗な光景だろう。少女はうっとりと語り、それからそっと声を潜める。
「ちょっと思ったんだけど……この洞窟、誰が最初に花を植えはじめたんだろうね? 人魚さんの花畑が本当に誰にも見つかってなかったら、こんな風に伝承が町の噂にならないんじゃないかなって思うんだ」
だから、人魚さんとあの人は幸せになったんだと思う。それでみんなにこの話をこっそり教えてあげたんだよ、と少女はハッピーエンドを信じ切った顔であなたに笑いかけた。
「花を植える時は、みんなも内緒のお願いをしてみたら? きっと叶うと思うよ」
第1章 日常 『ファンタジーマーケット』

晴天の下、淡く光るような白い花々が市場を彩る。本当に白い花ばっかり、と千桜・コノハ(宵桜・h00358)は小さく感嘆の息を吐く。少年がふと側にいる花岡・泉純(櫻泉の花守・h00383)に視線を向ければ、彼女もまた白ばかりの花たちを見つめ、淡桃色の瞳をやわらげていた。その横顔を見て、コノハの表情も自然とやわらぐ。消えゆくような儚さを内包した彼女の横顔は、ここの花々と同じく、否、それすら装飾品としてしまう程に可憐だ。
「泉純といえば桜だけど、白も似合うよね」
「ふふ、似合う? うれしい」
泉純はスキップするように店先に近づき、ふと目についた花の一つを手に取ると、顔の近くにまで寄せてみる。サクラソウの一種なのだと教えられた、手毬のようにころんとした球を作る小さな花々は、ひとつひとつが桜によく似た形をしていた。
「桜だと、染井吉野なんかは白っぽくて綺麗だよね」
「確かにね。残念ながらこの辺りにはないみたいだけど」
「そうだね……でもこの花も綺麗」
季節が過ぎたばかりだからか、今日の市場では桜はすこし珍しいのかもしれない。雪の名残を残したかのような儚い白色を思い出しながら、少女はサクラソウを置いた。せっかく好きな色に囲まれているのだから、もう少しじっくり見て回るのも良いだろう。
「苗を見に行く前になんか食べない?」
「うん、そうしよう」
コノハの提案に二つ返事で頷いた泉純が、先に見えた看板に首をかしげる。
「あれ、何だろう?」
「アイスブーケだって。花束みたいでかわいいね」
「アイスブーケ?」
聞き慣れない言葉に興味を惹かれて近くまで見に行くと、店員が可愛らしい二人のお出かけに表情をやわらげながら詳しい説明をしてくれる。花の形で作られたアイスクリーム。全部が真っ白。──けれどその中で最も泉純が心に惹かれた言葉は、
「ミルクのフレーバー……!」
少女の瞳がきらりと輝いた気がして、コノハは思わずくすりと笑みを浮かべた。
「ミルク味、好きなんだ?」
「うん……っ。あ、でもソルト味もちょっと気になる……」
「わかった。じゃあこれにしようよ」
当然、異論の余地などない。完成したアイスブーケに飾られているのは味の違う桜の花束。大好きな花の形に大好きなフレーバーとなれば、泉純の心は自然と浮足立つ。
「こっち、味見してみる?」
「ひと口貰って、いいの?」
勿論、と頷いたコノハは自らの桜をひとひら掬うと、スプーンを少女の口元へ差し出した。
「はい、あーん」
「あーん」
口の中に広がるほのかな塩気とまろやかな甘さに、少女の頬はたちまち緩む。
「おいしい?」
「うん、おいしい……!」
小さな口を開きながら、ぱくりぱくりとアイスを食べ進めていく少女の表情は、無邪気な子どものようだ。白い頬が幸福色に淡く染まるのを眺めながらコノハも自分のアイスを楽しんでいると、ふと泉純の頬に忘れものがくっついているのを見つける。そうなればつい少年の胸の内に湧くのは、小さな悪戯心だ。
「あっ、ふふ……。ここ、ついてるよ?」
「ん、ついてる? どこ…?」
ちょん、と少年が示す場所を拭おうと泉純が手を伸ばすより先に、コノハの指が少女の頬を撫でるようにアイスを掬う。そのままぺろりと自分の唇に運んで。
「へぇ、ミルク味もおいしいね」
にやりと口元に笑みを浮かべながら、蠱惑的な桜色の瞳があやしく細められる。コノハに自覚があるのかないのか。整った顔立ちで滲ませる蠱惑的な態度に、泉純の頬の桜色が更に深みを帯びた。
「……その不敵な笑みは、ずるい」
桜色の唇を小さく尖らせたのは一瞬。でもありがとう、と泉純はすぐに微笑んだ。花がそっと綻ぶような淡い微笑を向けられれば、コノハは軽く頷きを返して、視線を逸らした。
口の中のアイスはすぐに溶けてしまった。普通に食べるよりも甘く感じるのは、恐らく気のせいではない。
甘いひと時を食べ終えて花の苗を探しに歩き始めれば、自然と耳に届くのはこのマルシェの由来でもある、切ない人魚の恋物語だ。
「どうして、人魚に纏わる話って悲恋が多いんだろうね」
コノハは柳眉を下げて、これまで聞いてきた伝承を思い返しながら口を開いた。ここの人魚はどうか幸せであってほしいよと零す少年の声は慈しみが滲んでいた。泉純もそうだね、と頷きを返す。
「わたしには人魚と人間の血が流れてるから……わたしがいるということは、幸せになった人魚がいるって信じたい」
「そっか、そうだったね」
少女の足元を彩る真珠色の鱗を思い出しながら、コノハは頷いた。ここにいる少女は、人魚と人間が共に幸福を得たことの象徴とも言える。──なら、泉純自身は? 風に髪をそよがせて遊ばせている少女の横顔をじっと見つめて、コノハは考えた。
君にもどうか幸せでいてほしいと、そんな言葉を口に出来ないのは自らの性分故だろうか。
「泉純も、いつか──」
少女は淡桃色のまなざしを遠くに向けて呟く。ふと続きの言葉がないことに気付いて少年を覗けば、二人の視線がぱちりと交わった。
「……コノハ、どうしたの?」
「あ、ああ。ううん、なんでもないよ」
明らかにはぐらかしているコノハにそう?と首を傾げつつ、泉純はほのかな笑みを咲かせた。それは春に人知れず咲く花のように淡く儚くも、見惚れるほどに美しいものだった。
「──あなたもどうか、幸せで」
少女のささやかな祈りが届いたかはわからないけれど。二人は微笑み合い、祈りを交わす。ふわりと香る花の匂いは幸福の訪れによく似ていた。
「どれも素敵な物ばかり。目移りするね」
青空に羽を広げる鳥の様に並ぶ白い花々を淡い水鏡のようなまなざしに映し、時結・ラチア(星屑の魔法使い・h01622)は表情を緩めた。同じく隣で眺めていた時結・セチア(セレスティアルの古代語魔術師・h01621)も微笑んで頷く。
「人魚の伝承を元にしたマルシェらしいけれど……二人でこーゆう所に来るのは久しぶりかもね」
思い返せば両親も合わせて家族全員で出掛ける機会はあったものの、自分たちだけで出掛ける機会は無かったように思う。けれどこれもまた新しい日々の中で見つけた意外な発見。二人で羽ばたいた世界に芽生えた新たな喜びに、セチアは琥珀色の瞳を細めた。
「色んな種類の白い花があるんだね。目移りしてしまうな」
「うん。選べないな……」
二人は微笑み囁き合いながら商品を見ていく。白百合のコサージュ、スズランのブローチ。どの装飾品もその可憐な美しさを損なわないように、職人たちが丁重にこしらえているのだろうというのが窺えた。質だけでなく数も上等で、白い花と呼ばれる物なら何でも集まっているんじゃないかと思うほどに膨大である。お土産をひとつ選ぶだけでも一苦労だ。
「色々気になるものは多いけれど……ラチアはどう? 気になるものは見つかった?」
「……」
「あれ、ラチア?」
何気なく話しかけても返ってこない返答に、首をかしげてセチアが隣を見ると、ラチアの瞳はすっかり白い花たちに釘付けになっていた。それもそうだよね、とセチアは納得して片割れを温かく見守る。美しさの数だけ等しく花を愛でる彼からしてみれば、そのどれもが愛らしく美しい花々の中からひとつを選ぶのは大きな課題だ。けれども、特に彼の興味を強く惹いたのは──
「セチア、これにしようよ!」
ようやく見つけた一番は、白薔薇のアロマキャンドル。泡沫ごと閉じ込めた透明な湖の中に沈むのは、まだ咲きかけの白い薔薇だ。発見の喜びを声音に滲ませて、喜びのままにそれを取り上げようとしたラチアは──触れる直前でその指を止める。
弟の挙動に、ぱちりと瞬くセチアの目の前で、ラチアは悩まし気に瞳を伏せた。
「ねえ、セチア。恋って素晴らしい物なのかな」
小さな水中に時ごと閉じ込めてしまったような美しい白薔薇を眺めて、ラチアは小さく息を吐く。触れられない、と思ったのは、不用意に触れてしまえば、この薔薇を傷つけてしまうんじゃないかと、おそろしく思えたからだ。──だって、オレは恋をしたことがない。
「自分の存在が消えるのと代償に誰かの幸せを願うなんて、今じゃあ到底考えられないからさ」
「……うぅん。恋、かぁ」
弟の問いに、セチアは暫し考える。彼にとって一番身近な「恋」をした存在と言えば、自分たちを生んで育ててくれた両親だ。記憶の中にいる両親はいつも幸せそうで、その象徴である自分たちのことも、ずっと大切にしてくれていたように思う。
「……存在を消してでも願う程の恋は、流石に僕もまだわからないかな。……ただ、お父さんもお母さんもその果てに共にあるから、素晴らしくは有るとは思うんだよね」
セチアは悩んだ末にそう言うと、悩める片割れの横からひょいとアロマキャンドルを取り上げて、ラチアに差し出した。金と銀、天の恵みを共に分け合った視線が交わる。
「こんなに素敵な物なんだから、せっかくだし買おうよ。ラチアに似合う」
「……そう?」
何気ない様に見える提案から片割れの慈しみが伝わってきた気がした。ラチアは微笑み、差し出された白薔薇を受け取った。ありがとう、と口にすれば、セチアもまた穏やかに笑みを返す。
改めて手に取ってみた硝子の容器から、案外しっかりとした重さが伝わってくる。それは青年の掌の中で、陽の光を受けて淡いきらめきを放っていた。
「えへへ、兎羽様とお出かけなの〜♪」
青空の下、弾むような少女のハミングが続く。よほど今日のお出かけが楽しみだったのだろう。満面の笑みを咲かせるチロル・トワイライト(黄昏の魔術師・h07446)を見て、竜雅・兎羽(歌うたいの桃色兎・h00514)もにこりと笑みを浮かべた。
「ご機嫌ですね、チロルさん♪」
今日のお出かけが楽しみなのは、自分も同じこと。その気持ちを表す様に少女の鼻歌に自身の歌声を上から重ねれば、驚きと喜びでチロルのつぶらな瞳がまあるくなった。そのことに少し得意げな気持ちになりながら、兎羽は自分よりも小さな歩幅に合わせて、煉瓦道を歩き出す。もちろん、迷子防止に手もしっかりと繋いで。
いっそう青空が鮮やかに見えるのは、市場を賑やかす白色が理由だろうか。決して華やかな色ではないが、こうも揃って集められれば豪華なものだ。
「お花がいっぱいですごいの……」
感嘆の息を吐きながらチロルはマルシェの盛り上がりに飲み込まれないように、兎羽の手をぎゅっと握る。
「はい、本当に。どこを見ても真っ白で綺麗です♪」
はぐれないでくださいね、と微笑む兎羽にこくんと頷いて、チロルは辺りをきょろきょろと見回す。そのつぶらな瞳に映ったのは、数多の花の中でも少女にとってはより身近で、より貴重に感じられる、アイスクリームの花束だ。
「兎羽様見て! これ、食べられるお花なの……」
「あら、本当ですね。食べられるお花……」
その物珍しさに、二人で並んでショーケースを覗く。中でも特にチロルの興味を惹いたのは、白い薔薇のアイスブーケ。憧れの兎羽が身に飾る花と同じだ。これはと思い、いそいそとお財布を開いてみるも、甘いものに寄り道するには手持ちのお小遣いがちょっと心もとない。
「ちょっとお高めなのね……」
きらきらしたり、じーっと見たり、むむ……と悩んだり。隣の少女の表情がころころと変わっていく様子につい、くすくすと兎羽は笑いが零れてしまう。そのまま店員に声を掛けた。
「こちら、ソルト味を2つくださいな」
「……えっ!」
その言葉に、ぱっと表情を驚きにあふれさせたのはチロルだ。見上げる少女に向かって、兎羽はにこにこと朗らかに笑いながら、受け取ったアイスの片方を差し出す。
「はい、どうぞ♪」
「……食べてもいいの? 兎羽様、ありがとう!」
「ふふ、喜んでもらえて良かったです」
少女は最後に花のような笑顔を咲かせるので、兎羽も喜びを分かち合うように笑顔を交わす。今日は自分が保護者なのだから、このくらいのプレゼントも許されるだろう。
「我、お花食べるの初めて……」
アイスクリームだと聞いたけれど、花弁1枚1枚丁寧に乗せたのだろうと思われる繊細さは本物の花にも似ていて。つい食べることも忘れて、うっとりと見つめてしまう。
「あらあらチロルさん、そのままじゃ溶けてなくなっちゃいますよ?」
「……はっ、無くなっちゃう! それはもったいないの!」
兎羽の声かけに慌てて溶けかけた部分からあむりと大きくアイスを頬張れば、口の中にミルクのコク深い甘さが広がり、溶けた後に塩が後を引く。豊かな味わいに、少女の瞳は零れ落ちてしまうのではないかと言うほどに大きく見開かれた。堪らず、とろけ落ちそうになる頬っぺたを手で抑えて、うっとりと飲み込んだ。
「んー♪ とっても美味しいの♪」
チロルの様子を隣で見ながら、可愛らしい食レポに耳を傾けていた兎羽も、自分の分のアイスをぱくり。暑さを忘れそうな甘く爽やかな味わいに、こくこくと頷きを返す。
「そうですね、とても美味しい♪」
二人で顔を見合わせて、笑顔を咲かせれば、何気ないお出かけの時間もかけがえのない思い出に変わる。兎羽はチロルの笑顔を見ながら、そっと、失った記憶に思いを馳せた。
なくしてしまった過去はまだ戻らない。でも、二人で過ごした今日という1日を、新たなアルバムのページに飾ろう。それはきっと、白紙のこれからを歩むための確かな1歩に繋がるはずだから。
花はよく人に想いを託される。ずっと命を繰り返して、其処に在り続けるからなのか。
店先に並ぶ花々ひとつひとつを眺めながら、結・惟人(桜竜・h06870)は僅かに表情を緩めた。今、花に託したいほどの想いはないけれど、季節の巡りの中で懸命に咲く白い花はどれも美しい。だからこそ、誰かが花に願いを託すのなら、その気持ちに寄り添いたいと思ったのだ。花を植えるための心得はあったし、手伝いは一人でも多い方が良いだろうから。
「それにしても、すごい規模だ」
惟人は感嘆の息を漏らしながら市場を巡る。カスミソウやマーガレットと言った、白い花と言えばで定番の花はもちろんのこと、普段は青色が有名なネモフィラや色鮮やかな熱帯の花々でさえ、ここにあるのは珍しい白ばかり。それも一言に白色と言っても、淡いグリーンが掛かっていたり、透明感がある純白であったり、花ごとによって微弱な違いがある。花を愛する者としては、ひとつひとつ眺めているだけでも心が踊るようだ。
「だが、ちゃんと厳選しないとな……」
あれもこれも選んで持ち込みたい所だが、途中にはダンジョンがあるし、極端な量を持っていけば他の人を困らせてしまう。腕を組みながら歩く惟人の悩みは続く。店員の紹介などにも耳を傾けながら、ゆっくりとマルシェを巡った。
白い花と言えば、百合はやはり存在感があって美しい。上品な香りを漂わせながら、憂い気に首をかしげて咲く様子は想像するだけで神秘的な美しさを漂わせている。かと思えば、他で見かけたペチュニアの花びらはフリルのような形をしていて愛らしさがあり、花畑に植えれば可憐に咲いてくれるだろう。
「ま、迷う……」
白とはなんと奥深く不思議な色だろう。それひとつでは目立つ色ではない筈なのに、どれも心が惹かれてしまい、惟人の悩みは尽きない。
散々迷ってうろうろ歩き回り、最後にようやく惟人がこれだと定めたのはサギソウの苗だった。朗らかな笑みを浮かべ苗を差し出す店員にありがとう、と礼を告げ、惟人は買いたての苗をしっかりと抱く。青年の手元で、名前の通り、白い鳥が翼を大きく広げたような形の花びらが、市場を吹く風にそよそよ揺れた。
「うん。あなたに頼もう」
この花なら、きっと誰かの願いも包み込んでくれるだろう。そう考えた惟人がサギソウを見ると、花がまるで彼の声に応える様にしてふわふわと揺れた。その可憐さに表情を和らげて、惟人はゆっくりと歩き出した。洞窟でも立派に咲きますようにと、願いを込めながら。
「わあ……すごく綺麗なのよ、探偵さん! 助手さん!」
はじめて見る√ドラゴンファンタジーのマルシェは活気に満ちている。眩しい陽の光に照らされているせいもあってか、ひとつひとつが輝くようだ。海の底では見れなかった景色に、物集・にあ(わたつみのおとしもの・h01103)の鮮やかな青い瞳もきらきら輝く。
「いや~、人魚伝説に因んだマルシェですか! 素晴らしいですね、町おこしの才能を感じます!」
一方、独特の視点から市場の賑わいに感心する行方・暖(常世見物・h00896)も、サングラス越しに瞳を輝かせていた。つい遠くまで視線を向けようとした所、日避けの傘からはみ出てしまい、気を付けてと傍らの従者にすぐ窘められる。そんな朧木・柊(死火・h07354)にしてみても、物珍しさに浮き足立つセンセと後輩を見守るのは悪くない気分だ。普段はどうにもこの様に華やかな場に縁がないから、気後れしがちではあるが。
そんな二人の様子を見上げて、もしかして、と期待を込めてにあは唇を開く。
「ふたりもこういう場所に来るのははじめてなの?」
「ええ、こういった催しは初めてです」
「俺も。センセの付き添いで縁があれば行くんだけどね」
保護者代わりの男2人の返答に、そうなんだ、と喜色を隠さず少女は頷いた。ひと回り幼い分、何かと2人を追いかけることが多いにあだが、今日はみんなでおんなじはじめてだ。
「じゃあ今日はみんな初めてで楽しみましょうね!」
青空にも負けない晴れやかな笑顔を浮かべて、少女は期待いっぱい歩き出す。
「……って、ちょっと物集さん。一人でどこかに行こうとしないで。アイス食べたいって言ったのきみでしょ」
「あ。そうだったわ、ごめんなさい」
「では、まずは人魚伝説についてご説明いたしましょう、柊くん! まず人魚とは人間の上半身と魚類の下半身を持つ妖怪でして。興味深いことに、人魚伝説は細かい点に違いはあるものの、古くから海を隔てて多くの国で語られているのですよ。それも、大抵、魔性に魅入られた者に不幸が訪れるという共通項がありましてね! 比較神話学でも身近なテーマとして……」
「うんうん。センセ、語りたいことが沢山あってよかったですね。お店はこっちみたいですよー」
放浪癖が身に染みているにあがひらひらと興味のままに歩き出そうとするのを袖を引いて誘導し、人魚伝説から発展し現代の神話学の云々まで話が延びている暖が周囲の迷惑にならない様、上手く人波を分けてやる。あっちへこっちへと目まぐるしい動きだが、柊の二人への扱いは慣れたものだ。有能な従者の働きの結果、3人は無事に目的の店の前まで到着する。
「ここがアイスブーケのお店?」
「うん、そうみたい。物集さん、前まで見ておいで。俺はセンセの話聞いとくから」
「うん!」
柊に促されるまま、にあはショーケースをひょっこりと前まで覗きに行く。少女の目に映ったのは、白一色でも気にならない程に華やかな、甘くて冷たいお花たち。薔薇に向日葵、紫陽花と種類も豊富で、ショーケースから溢れそうな程の花々に、青い瞳はきょろきょろさ迷う。
そうしてしばらく──体感1分、実時間5分程──悩んで、少女はそっとショーケースから離れた。戻ってきたにあの表情が芳しくないことに気が付き、柊は首をかしげる。
「……」
「あれ、物集さん。良いのがなかった?」
「……ううん、ちがうの」
「違う? じゃあどうして」
「どれも美味しそうで綺麗で、ぜんぜん決められなかったのよ……!」
助けて、と視線で訴える少女を見かねて、柊も暖を引っ張ってショーケースの前まで見に行くことにした。近くで見ればなるほど、どれも少女好みで可愛らしいデザインばかりだ。
「へえ、可愛いね。決めかねてるなら物集さんが食べたいと思うものを俺達と分けて食べ──」
「ほんとう? じゃあ──」
「なるほど! お困りの様ですねにあくん!!」
急に覚醒した暖の大声にセリフを遮られ、柊とにあが同時に振り返る。
「ふむふむ、ここのアイスクリームは大変可愛らしく、美味しそうだ! 大方、どのアイスクリームも甲乙つけがたいが、全部食べるにはお金も胃の要領も足らない。どれか一つに絞り切れなくて悩んでしまったのでしょう!?」
はたして、これまでの話を聞いていたのかいないのか。迷探偵よろしく大仰な身振りで推理を並べ上げ、一人で深く頷いてみせる暖に、彼の唐突さに慣れてしまった柊の口は自然と結ばれた。にあも突然の大声に目を白黒させつつ頷きを返す。
「──それならば仕方ありません」
一人芝居よろしく盛り上がる暖の瞳が、一瞬、きらりと輝いた。
「それなら、すべて買いましょう! ──大将! ここからここまで、全部!」
「──え、センセ? だ、ダメだってセンセ! 全部は無理!」
なんでそのカードを取り出すかな!と慌てて止めに入った柊を、己の行動を一切疑わない暖は曇りない目で見つめ返した。指の間に挟まれたクレジットカードが、印籠よろしく黒いボディに艶めいた光を放つ。
「え、でもにあくんが困ってますし」
「今度はお店の人が困るでしょう!」
「……かーど?」
大人たちが繰り広げる寸劇についていけず、きょとんと首をかしげたにあへ簡単に柊が黒いカードの効能を説明する。素直に説明を聞いた後、少女はほうと惚けて息を吐いた。──なんでも買えるカードを使える探偵さんは、まるで魔法使いみたいだけれど。
ちょんちょん、と暖の袖をゆるく引いて、にあは眩し気に目を細めながら視線を上げる。
「ふふ、探偵さん。助手さんも店主さんも困ってるみたいだし……わたしはひとつでお腹いっぱいになっちゃうから、3つにしてみんなでそれぞれ食べましょう?」
「えっ、食べきれない? そうですねぇ……それもそうです」
にあ本人による説得は流石の暖にも効いたらしい。では今回は3つだけにしましょう、とようやく店にも自分たちにも妥当な判断が返ってきて、柊もやれやれと安堵の息を吐いた。
「せっかくですから、味はそれぞれ違うものを選びましょうね!」
今度の暖の提案にはもちろん異論なく。無事、3つのアイスを購入し、3人は仲良く分け合うことにした。ゆっくり食べようね、と保護者が呼びかければ返事はなぜか2人分。また呆れ、けれど愉快なやりとりを繰り返しながら、3人は並んで晴れた空の下を歩み始める。
甘くて冷たいアイスを花束にして作った、見た目も味も美味しいアイスブーケ。そんな噂を聞いたなら、美食家として食べに行かずにはいられない! そんな使命感半分、好奇心半分で鮮やかなレモンイエローの瞳に闘志を漲らせ、茶治・レモン(魔女代行・h00071)は意気揚々と√ドラゴンファンタジーの大地を踏みしめた。
到着地点は白い花のマルシェがおこなわれるという港町。食道楽センサーをビビッと張り巡らせ、知らない街でもひと息ついて過ごせそうな場所を探しに行けば、すぐに目的のお店は見つかった。天幕を張っただけの簡易な店先に置かれたショーケースには既に多くの客が集まっていて、その誰もが笑顔でアイスブーケを頬張っている。その表情を見れば、期待はますます高まるというもの。
いい子で並んでいれば、テンポよく自分の順番がやってきた。視界いっぱいに広がる白い花畑に、レモンは小さく感嘆の息を零す。
「わあ、美味しそう……! でもどれにしようか悩みますね……」
この店は花によって味が違うようで、花で選ぶか味で選ぶかが悩ましい。今後を決める難問に、思わずショーケースを見つめる視線にも熱が入る。レモンのそんな真剣さを微笑ましく思ったのだろう。見守っていた店員がくすりと小さく笑い声を零したけれど、それだって彼の耳には入らないくらいだ。
「……よし。じゃあ僕は、レモンの花と、白バラのアイスにします!」
しばらく悩んだ結果、少年は気になる花で選ぶことに決めた。長い苦戦の果て、ようやく辿り着いた答えに店員もウンウンと感慨深そうに頷いて、とっておきの一品を作り上げてくれる。
「はい、どうぞ。落とさないようにね」
「はい、ありがとうございます!」
ぺこりと礼儀正しく頭を下げて、店員から完成したアイスブーケを受け取る。大輪の白薔薇を4つ乗せた後、間を埋めるように咲くレモンの花。他の人より少し花の数が多い気がするのは、真剣にアイスと向き合っていた少年へ店員からのちょっとしたサービスだ。
まだしんと冷たい花束を、レモンはまじまじと見つめる。
レモンの花は自らが冠する名前でもあるくらいだから、これはマスト!と最初から決めていた。一方の白薔薇を選んだ理由は、数少ない花への知識の内、ちゃんと知っている名前を店員に伝えた。それだけだ。
うん、と一瞬胸の内を過ぎりかけた暗い影は意識的に無視して、真剣に目の前のスイーツと向き合う。花びらの一枚一枚に手間をかけて作り上げられたアイスブーケはそれ自体が一種の芸術品のようだ。食事は味だけでなく見た目から凝るのはよくあることだけれど、出店でそれをおこなうのはお店側の高い矜持を感じさせる。
「それにしても、食べるのが勿体ない……!」
本当に芯まで凍っているなら、ずっと残しておけるのに。でもこのままにして溶けてしまったら本末転倒だ。そこまで思い至り、少年は慌てて空けた片方の手でスマホを取り出す。ぱしゃぱしゃと満足いくまで写真を残して、いざ実食。
「……濃厚なミルクだ、美味しい」
あむ、と口に入れた途端に広がるのは優しい甘み。どうやら今回は王道のミルク味だったらしい。コクのある甘みに固い表情も少し緩まるような気がする。
となれば当然、食道楽としては他の味も気になるもの。お店の名前を脳内でしっかりマークしておき、また一口頬張って、一瞬で溶けていく儚い甘さを食べ尽くしていく。
思うがままにスイーツを堪能したら、気分もスッキリ。さあ、次は花の苗木を選びに行こう。
人魚の祈りが今も伝わる場所。遠い日の彼女と同じ様に、幸福を願っているのは花を育てた人々だけでなくそこに集められた道具たちも同様で。活気に満ちた人の声に混じって、期待を込めて囁き合う友たちの声に耳を傾けながら、ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)は静かに微笑んだ。
「色んな子が出会いを待ってる素敵な場所だわ」
「はいっ! とってもやさしい場所だと思います」
賑わう声に大きな耳をぴくぴく動かし、わくわくしながら市場を眺めていた廻屋・りり(綴・h01760)も、ベルナデッタの言葉に元気よく頷いた。今日はどんな素敵な道具に出会えるだろうか。想像しただけでも、喜びの笑顔が止まらない。
「それでは探しに行きましょうか」
「はい! いきましょうベルちゃん!」
煉瓦道に軽やかに靴音響かせて、二人はマルシェを巡る。白い花の、と冠するだけあって、市場を彩るのは青空に浮く綿雲の様な晴れ晴れとした白色の花たち。メインである花の苗や花束だけでなく、それらをイメージして職人たちが丁寧に手がけたと思われる装飾品がそこかしこに品よく並べられ、まだ見ぬ人の幸福を願いながら佇んでいた。
ひとつひとつ、じっくりとお気に入りを探すりりとベルナデッタ。その中で、ふと、小さな声が自分を呼んだような気がして、ベルナデッタは導かれる様にひとつのリボンを手に取っていた。
「ベルちゃんどうしました?」
「ふふ。御機嫌よう、ここで会ったのもご縁かしら」
見て、この子が呼んだ気がするの。そう言って白い陶器の手が少女に差し出したのは、純白のレースリボン。合間に銀糸を織り込んでいるのか、日に透かすときらきらときらめくようだ。
「わぁっ、かわいい……! よく見ると薔薇の模様になっているみたい?」
「本当ね、とっても可愛い」
レースが描く繊細な可愛らしさに二人で感嘆しながら眺めていると、ベルナデッタにふとひとつのアイデアが浮かんでくる。淡い薔薇色の瞳が、青色の瞳を覗いた。
「……ね、りり。この子で髪型をお揃いにしていかない? ワタシ達も、幸せを願うお花にあやかってみましょ」
「……! すてきです。おそろいの髪型、ぜひしたいです!」
想像しただけでも素敵な提案に少女の瞳がきらめく。早速購入しよう、と喜び勇んでベルナデッタと顔を見合わせたりりの視界の端に、ひとつの白が映った。
「……あ! まってください、お花の髪飾りがありますよ。これもかわいいです!」
そう言ってりりが溢れる花々から見つけ出したのは、小さなカランコエの花を寄せ集めた花飾りをカスミソウとレースのリボンで縁取った物。ピンが付いており、髪の好きな所に差して使えるデザインのようだ。
「本物のお花で作ってあるのはじめて見ました! これもおそろいで着けませんか?」
魔法を掛けて、生花でも壊れにくくしているらしい。ちょうど2個残っていた髪飾りに運命を感じてりりが提案すれば、ベルナデッタも笑顔で頷いた。
さっそくお買い上げの品を身に着けようと、二人は近くのベンチまで向かう。ブラシでりりのふわふわとした黒い髪を梳いてやれば、出会った頃をふと思い出して、ベルナデッタの目は自然と細まった。まだ小さく守られるばかりだった幼い少女もこうして目線を合わせてお話できる様になった。これからたくさんの思い出を重ねて、少女は更に美しい女性へと成長するのだろう。指先に慈しみを込めて、ベルナデッタはりりの髪を結っていく。
「はい、出来上がり」
「わあ……! どうですか? かわいいですか?」
尻尾を揺らしてぴょんと立ち上がったりりの耳元で、髪を纏めた2本のレースリボンがふわりと揺れる。ハーフツインの片方に飾られたお揃いの髪飾りもしっかりと存在を主張していた。
「ええ、可愛いわ」
「ベルちゃんもにあってます! おそろいうれしいなぁ」
ちょんちょん、と自分の髪飾りを触って鏡合わせの場所に飾ったベルナデッタの髪飾りを示す。小さい時はお隣のお姉さんにお世話になるばかりだった自分だけれど、今は一緒のお揃いだって存分に楽しめるようになった。ふと小さな頃の思い出を思い出し、りりはきゅっと青い目を細めて笑った。
「むかしはよく髪を結んでもらいましたね、なつかしいです」
「そうね……こういうの久しぶりだわ」
感慨深そうに小さく息を吐くベルナデッタの表情に、りりはいつの間にか彼女も同じことを考えていたことに気が付いた。そんな発見もまた心に喜びを与えてくれる。ベルナデッタはいつだって、やさしく包み込んでくれるような笑顔を自分に向けてくれていた。その幸福を改めて感じて、胸がほんわりと温かくなってくる。
「……また今度おねがいしちゃおうかな?」
「もちろん。いいのよ、いつでもやらせてくれて」
まだこうして甘えてくれる妹分の可愛らしさにベルナデッタも微笑み頷けば、軽くスカートの裾を手で払って立ち上がった。こうして華やかな白を飾れば、今日のドレスコードにはもう十分。マルシェはまだ始まったばかりだ。
「さ、行きましょうか。色々食べて見たいって顔に書いてあるわよ、りり」
「えへへ、ばれちゃいました。実はかわいいアイスが気になってまして。……味も決めてます、ヨーグルトっ」
「華やかなアイスと聞いたわ。楽しみね」
評判のアイスブーケはどんな味だろう? 見た目や味にわいわい想像を巡らせながら、二人は同じ歩幅で歩きだす。
「私はミルクにしましょ」
「あっ、ミルクもおいしそうっ……。ベルちゃん、はんぶんこを希望します!」
「ええ、もちろん」
青空の下、くすくす笑い合う少女たち。お揃いの髪飾りはこれからも積み重ねていく小さな幸福を祈るように、陽の光を受けて咲き誇っていた。
「白い花のマルシェだって、素敵だね!」
黄昏時に移り変わる空の様な色彩に白色を映し、アンジュ・ペティーユ(ないものねだり・h07189)は瞳を輝かせる。目に映る物はどれも目新しいものばかり。自由な野良猫のように放っておいたら興味を引かれるままあっという間に人波へ飛び込んでいきそうな少女の様子を見ながら、ネム・レム(うつろぎ・h02004)はにこやかに口を開いた。
「うんうん、どれも素敵やね。アンジュちゃんは何買いたいん?」
「あ、そうそう。花の苗。白い花の苗が買いたいと思っていたんだ。ネムちゃん、お付き合いをしてもらえる?」
「もちろん。アンジュちゃんが気に入るんはどの子やろなぁ」
ええ子を探して一緒に見て回ろ。頷き合い、二人は共に白い花の海へと飛び込んでいく。
「白い花と言っても……種類はたくさんあるね……」
「あらま、ほんまやねぇ。白いお花てこないにあるんやねぇ」
白色と一言で言っても、形や種類どころか白と呼ばれる色にだって、数えきれないほどの量がある。その花を一斉に集めている上に、自然には存在しない花でも白色に染めたと言うのだから、市場の規模は中々な物だ。あっちを見てもこっちを見ても、溢れそうな白色にアンジュも楽しみ半分、悩ましさ半分。うんうん唸りながらマーガレットとつつじの苗を選んでみたものの、どちらも素敵で甲乙つけがたい。
「ネムちゃんはどっちがいいと思う?」
しかし、そんな時こそ助けになるのがお友達。意見を聞かれたネムもここぞとばかりに真剣な顔で少女の手の中の2つの花を見比べる。
「せやねぇ、どっちかやったら……つつじやろうか」
数秒悩んだ後、ネムはつつじの方を指してゆったりと笑った。
「ちょいと離れて見たら……ふわっとした花が、雪みたいやない?」
「! なるほど」
素敵な理由にアンジュは瞳を光らせた。そわりと動いた彼女に、持ったげよか、と笑顔で提案してくれたネムにアンジュはありがたく苗を託す。ささっと離れて目を凝らせば、彼の手元はなるほど、やわらかな初雪が陽の光を受けている様な眩いばかりの白に染まっていた。
「確かにそう見えた……! ネムちゃんの考え方は素敵だね」
「せやろ?」
納得の一本が見つかって喜ぶアンジュに、ネムも満足げに目を細める。
「ネムちゃんは何か気になる苗はあった?」
「せやなあ。ネムちゃんはサギソウと鈴蘭がかわいらしいて気になるんやけど……」
そうなれば、お次はご意見番を交代。いそいそとネムがアンジュに差し出した2つの苗は、白い鳥のような形のサギソウと、小振りの花が可愛らしい鈴蘭だ。どちらも控えめな可愛らしさがあり、アンジュは堪らず感嘆の息を漏らす。
「アンジュちゃんはどっちがええ思う?」
「そうだなあ……あたしは鈴蘭がいいかな」
その心は、と問われたアンジュは丸みを帯びた独特な花の形を示して、にこりと笑みを浮かべてみせる。
「小さな花が、祝福の鐘に見えて来たんだ」
「なるほどなぁ……」
アンジュの言葉に感心しながらネムは手元の花をじいっと見つめた。
「なんや小さい幸せわけてもらえそうな気ぃしてきた!」
「でしょでしょ」
「ふふ、ええ事あったらアンジュちゃんにもお裾分けせなね」
自分一人では見つからないことも見つかるのが、友達と一緒に出掛ける楽しさだ。心が決まれば手早く購入を終えて、満足いく買い物結果に、二人はほくほく顔で並んで歩く。
「庭に植えるのが楽しみだね」
「うん。ええ子が見つかったねぇ」
青空の下で育てる花の可愛らしさに頬を緩めていると、ふとアンジュが立ち止まる。ん?と視線を向けるネムに、アンジュは笑いかけた。
「色々見ていると小腹が空いてきたかも」
「たしかに、言われてみれば空いてきた気も……」
そうだよね、と少女は嬉しそうにうなずく。
「折角だからお花のアイスを食べて休憩しようか!」
「おっ、ええね~。甘いお花も楽しんでこ!」
まだまだ、アンジュとネムの楽しい時間は続くようだ。
提灯が導くままに一歩を踏み出せば、踵はとんと固い煉瓦を叩いた。やけに眩しい陽の光が目に入ってきて、反射的に手でひさしを作る。辺りを見回せば、絵本で見るような洋風造りの建物が見えた。今日はお祭りでもやっているのか、あちらこちらで人の声がわいわいと聞こえてくる。目・草(目・魄のAnkerの義子供・h00776)はつぶらな黒い瞳を常より丸くして、首を傾げた。
「見慣れない場所。……どこだろう?」
とは言え、とにかく歩いてみなくちゃはじまらない。帰り道は分からないけれど、この提灯を握っていれば大丈夫な筈だ。草は提灯を手放さないように小さな手でしっかりと握り、心が赴くままに知らない場所を歩いてみることにした。
どこを見ても、白い花。この街では白い花しか売っていないんだろうか? 通りがかりに聞こえてきた話では、人魚がなんとかなんて言ってた気がするけれど、セールストークが早口すぎて草にはよく分からなかった。白ばっかりの花はたしかに綺麗だけれど、それより子どもの興味を強く惹いたのは、どこからか匂ってきた甘いお菓子の香り。それを追いかけて草がたどり着いたのは、他より随分と小さな花ばかりを売ってるお店だ。
「食べられる……お花?」
「ええ、そうですよ。小さなお客さん、おひとり?」
幼い子どもが物珍し気にショーケースを眺めているのが気になったのか、店員が人のよさそうな笑みを浮かべながら話しかけてくる。うん、と草はこくりと素直に頷いた。
「どれも綺麗だし美味しそうだね」
「そうでしょう。アイスブーケって言って、コーンに色んなお花のアイスを乗せて食べるんですよ」
「そうなんだ、食べてみたいな……あっ」
頷いた拍子に草の腹の虫が存在を主張する様にきゅ、と鳴いた。さっと反射的にお腹を手で隠そうとする草の可愛らしい様子に店員は小さく笑うと、おひとついかがと勧めてくれる。せっかくだからと少しだけおまけしてもらって、金魚がま口からお金を「どーぞ」してアイスと交換する。
「そういえば、お客さん。迷子だったら大人の人を探してあげるけど……って、あれ?」
さっきまで居たはずの少年がいつの間にかいなくなっていて、店員は不思議そうに首を捻った。
白い紫陽花を集めたアイスブーケは舐めると甘くてほんのり塩の味がした。買い食いはいけないことかもしれないけれど、美味しいんだから仕方ない。甘い花束を思うがままに口にしながら、草は再び気ままに市場を巡る。ふと視界に入ってきたのは、白い花の形のイヤリング。宝石で出来ているのか、透明な花びらが青空を透かす。
綺麗だなあ、と何気なく取った草の脳裏に浮かぶのはあの人のこと。せっかくだからこれもお土産にしよう、と少年は迷わずがま口を開く。無事お小遣いと交換したイヤリングを、壊さないようにそっとその中へ仕舞った。
「うーん、それにしてもここどこなんだろうね」
一応それっぽいところは探しているものの、さっきから出口や知ってる場所はちっとも見えてこない。まあいいか、と草は気ままな逍遥を続ける。
迷子になっても大丈夫。だってあたたかな光を放ち続ける提灯が、彼の帰り道をいつでも教えてくれるから。だからもう少し、心の赴くが儘に。
一緒にいることが叶わないかもしれないけど、それでも大切な人の幸せをひたむきに願う。それは言葉ほど簡単なことではない。しかし、伝承にて語られる人魚の少女は、それを果たしたのだと言う。
「強くて素敵な人魚さんね」
青い瞳を細め、小明見・結(もう一度その手を掴むまで・h00177)は小さく息を吐く。先の見えない明日を、ひとりで歩き続けることは本当に難しい。だからこそ伝承の少女に勇気を貰えたらいいなと、結は人助けがてらマルシェを巡る。
市場を彩る白い花々はやさしく風に揺れ、ふわりと甘い芳香が風に乗って流れてくる。心が洗われるような明るい光景に、少女も自然と笑みが浮かんだ。
百合や紫陽花と言った、結でも知っている様な有名な花はもちろんのこと、ヒマワリの様に白色のイメージが全く付かないような花も、魔法で白く染められているらしい。√ドラゴンファンタジーならではの不思議な光景に、花の苗探しが理由でなくとも、少女の心は期待で弾む。
「そう言えば……人魚の伝承についてもう少し詳しく聞いてみたいのだけれど」
「ああ、お客さん。『人魚さん』に興味があるのかい?」
せっかくだからと花売りの一人に何気なく伝承について尋ねてみれば、彼は随分と親し気に人魚を呼ぶではないか。結は少し驚いて目を丸くする。
「ここの人にとって、あのお話は身近なものなのね」
「ああ、何てったってこの街を大いに盛り上げてくれる存在だからな。うちのじいさんなんかは昔は本当に人魚がいたんだって言ってたけどよ」
「へえ……」
「まぁ、今は洞窟にも入れないんだけどな。嬢ちゃんも危ないから不用意に行くなよ?」
まだ結が能力者──冒険者と知らない花売りは、可憐な少女が好奇心でダンジョンに足を踏み入れないか心配だったのだろう。大丈夫よ、と穏やかに返事をして、結は感謝の気持ちを伝える。
何人かに話を聞いたものの、概ね内容は同じようなものだ。実際にハッキリ人魚を見た者はいないが、皆、人魚の存在に親しみを覚え、このマルシェの開催自体を楽しんでいるらしい。ダンジョンを制覇し、洞窟まで再び行けるようになったら、きっと街の人々の中にますます笑顔が広がるだろう。その為にも、しっかり仕事をやり遂げなければ。
胸にひそかに決意を込めていた結の視界に、不意に一つの花が目に入る。
「あら……これ、良いわね」
その花の苗を持ち上げて、少女は眦を下げた。清楚な白い鈴の花。少女ももちろん知っている、鈴蘭の花だ。その花言葉は──再び幸せが訪れる。
人魚の伝承にぴったりだと、結は一目でこの苗を洞窟に植えることに決める。きっと花は込められた想いを受けて、綺麗に咲くことだろう。
想像の中に咲く白い花に、少女は表情を綻ばせた。
話を聞き終えた後、少女達はいつの間にか詰めていた息を小さく吐く。何気ない行動だが、そっくり同じ様な反応に、セレネ・デルフィ(泡沫の空・h03434)とマリー・エルデフェイ(静穏の祈り手・h03135)は互いに顔を見合わせ、そしてどちらからともなく、くすりと笑い合った。
「凄く切ない伝承だなと思って」
「わかります……! とても儚く、少し悲しいですが……ロマンチックですね」
2人が聞いていたのはこの街に伝わる人魚の伝承だ。マリーの感想にこくこくと何度も頷くセレネのあどけない様子を微笑ましく見ながら、マリーも「ですよね」と頷きを返した。
「ダンジョンになる前の本来の洞窟の姿はどんなものだったのでしょう?」
「うーん……。でも市場がこんな風に白いお花で溢れていて綺麗ですから、洞窟の奥もとても幻想的な景色が広がっていそうな気がします」
「見に行くのが楽しみです」
二人はまだ見ぬ童話の景色に想いを巡らせながら、市場を見て回る。
セレネの言う通り、市場にはやわらかな彩りが溢れている。小さな花、大きな花、サイズや形だけでなく色合いも絶妙に異なる白色はひとつひとつ見比べていくだけでも楽しい。
「マリーさんは好きなお花はありますか?」
「私の好きなお花ですか? そうですね……」
セレネの質問に、見てきた花々を思い浮かべながらマリーは口を開いた。
「鈴蘭が好きです。名前の通り、鈴が連なったような姿が可愛いんですよね」
「鈴蘭……! とても可愛らしいお花ですね」
ベルを鳴らすように手を軽く振って真似ながら、マリーが微笑む。その可愛らしさに、セレネは表情を緩めた。
「セレネさんは、どんなお花がお好きですか?」
「私は……紫陽花、でしょうか。特に白色が可愛くて好きなんです」
青や紫の印象が強いけれど、白い紫陽花はより清楚な印象を与えてくれる。それが目の前の少女から漂う神秘的な印象によく合っているように思えた。なるほど、と頷きを返すマリーの前で、セレネが名案を思い浮かんだとばかりにぱちりと両手を合わせた。
「せっかくなので……お土産用のお店でお気に入りを探しませんか?」
「それは素敵です。早速見に行きましょう」
アクセサリーだけを並べてあると言う一角も、本物の花と負けず劣らず華やかな場所だった。職人たちが丁寧に仕上げたのだろう精巧な小物たちを前に、セレネの瞳も宝石のように輝く。
「すごい……白いお花に因んだものだけでこんなに種類が」
「白い花ばかりで作ってるはずなのに、白ひとつとってもこんなに種類があるんですね」
マリーの視線は既に小物たちに釘付けであった。感心したように息を吐きながら、視線はひとつの花を探し──見つけた、とその指先がひとつの小物を取り上げる。
「私はこの、鈴蘭の髪飾りにしようかな?」
マリーが見つけたのは、本物の鈴蘭の花を使ったバレッタだ。繊細な可愛らしさにセレネは小さく歓声を上げる。
「わあ、きっとよく似合うと思います……!」
「ありがとうございます。セレネさんは良い物見つかりましたか?」
「私は……この、紫陽花のネックレスにしようかなと思います」
小さな紫陽花の花を白銀のチェーンで繋いだネックレスを掲げ、セレネはやわらかく目を細めた。それを見て、マリーも素敵ですねと笑顔を浮かべる。
白い花を身に纏い、楚々と咲く花々のような二人の笑顔が青空に咲いた。洞窟に向かうまではまだ時間がありそうだ。ゆっくりとマルシェを巡り、更なるお気に入りを見つけに行こう。
「へえ……これだけ白い花が集まってると壮観だね」
「イサ、見なさい。どの花も綺麗な白だわ」
溢れるような白は幸福の色。陽の光を受けて淡く輝くような白色に包まれて、ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)はふっと深紅の瞳を細めて笑った。花よりも透き通るような白い少女の髪が風に遊ばれてふわりと揺れる。声を掛けられた詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)が少女に視線を向ければ、その光景はあまりにも眩しい。
「……うん。いいんじゃない」
君も花のようだと、思う気持ちは言葉に出来ず、ただ同意を返すだけ。しかし、ララにしてみればどこか突き放すような少年の物言いも聞き慣れたもの。意に介さず、同意を得られたことに満足げに少女は笑った。
「ふふ。人魚の涙は真珠となるというけれど、きっと幸せの涙だったのね」
「そうだといいね。こんなに綺麗なんだし」
もしも彼女の悲しい思いから生まれた花なら、花は晴空の下でこんなにも晴れやかに咲くことはないだろう。どうせなら好きな色の花に纏わる物語はハッピーエンドの方が良い。踊るような少女の足取りはその心の内を表す様に軽やかだ。
「ちょっと、聖女サマ。一人でちょこまかしないでね」
平穏な街とは言え、まだ幼い雛鳥を自由にさせて、戻ってこれなくなったら従者の面目は丸潰れ。そんな理由を付けてイサがララの手を逃がさないように握れば、ララは自由を奪われたというのに、なぜか楽し気に笑ってみせた。
「あら、ふふ。気を付けるわね」
「本当に。ほら、花の苗、見て回るんだろ」
ぶっきらぼうに促され、ララはええ、と嬉しそうに頷いた。手を繋いで歩く二人は、どこからどう見ても仲の良いかぞくそのものである。
百合にマーガレットにかすみ草。種類も豊富な白い花々は、ただ眺め歩くだけでも違いがあって面白い。少女の住まう楽園にも花咲く場所はあるけれど、こんなにたくさんの白を一度に見る機会はそうそうなかった。自然と翼も少女の心の動きを表す様にぴこぴこ揺れている。
「ララはどんな花がいい?」
「ララ? そうね、」
イサに尋ねられ、ララは首をかしげて花たちを見つめる。どの白も好きだけれど、少年の言葉に導かれるように胸の内に自然と浮かんだのはたったひとつだけ。
「白いアネモネがいいわ。ママがくれたララの花だもの」
「白いアネモネか……」
少女の声色に少しだけ、寂しさが滲んだ気がしたのは気のせいだろうか。イサはあえてそこに触れないようにして何気なく同じ白色を見つめながら、想像する。ララの花、と彼女が呼ぶのなら。
「きっと白夜みたいに真っ白なアネモネ。それが、ララっぽくていいと思う」
「ふふ、ステキね。見つかるかしら、探しましょう」
大好きなママが選んでくれた花を、イサは決して否定しない。そのことが嬉しく、誇らしく、ララは綻ぶ様にして笑みを浮かべた。淡い春の色合いの少年をふと見上げる。
「イサは? どんな花がいいの?」
「俺? 俺は……白薔薇、かな?」
「ふふ……白薔薇なんてお前っぽいわね」
静謐な美しさを保つ横顔を見つめ、ララは微笑む。不用意に触れるものを拒絶する、気高き白い花。まるで彼そのものを表すような花だ。
「お前には黒より白が似合うわ」
「そうかな。ほら、苗を探しに行こう」
ええ、とララは頷き、二人はしっかりと手を繋ぎ直した。
道中、アイスブーケを見つけたララの目が光り、溢れる程の量の花のアイスを食べることになるというささやかなハプニングがあったものの、二人は無事に目的の苗を見つけることが出来た。お腹も心もしっかり満たすことが出来た少女はご満悦だ。
「聖女サマ、ほら、これ」
「? どうしたの」
何も応えず、イサはララの淡く光るような白髪に薔薇を飾る。白いリボンで結んだ白薔薇が一輪、満開の花笑みを向けていた。
人魚は心の水底に沈めた想いを花に託して、咲かせたらしい。──倣ってみようかと少女に内緒で購入した髪飾りだったけれど。
「はは! いいね。なかなか似合うんじゃない?」
少女の傍らで、それは柔らかく微笑んでいる。イサは淡い桜色の目を細めた。
「綺麗ね、イサ。嬉しいわ」
生花で出来たそれが壊れないように丁重に触れながら、ララもまた、目を細めて笑う。彼がどんな想いでこの白薔薇を飾ったのか、ララには分からない。けれど。
「ララに相応しく、咲き誇っているわね」
これがあなたの花なら、似合わない筈がない。その確信だけはララの中で確かだった。
市場はせっかくの晴空だと言うのに、冬の彩りを宿す少年──神花・天藍(徒恋・h07001)が背負う空気は、どんより雨模様の曇り空のごとく重たいものだった。
「真宵、力になってやれず申し訳ない」
それもその筈。彼は同行者──物部・真宵(憂宵・h02423)が探していた、真珠の如き燦めきを放つ紫陽花を見つけてあげることがとうとう出来なかったのだ。天藍の表情はいつも通りの固いものであったが、纏う雰囲気が彼が真剣に自身の力不足を憂いていることを雄弁に語ってくれている。その健気さや優しさが微笑ましいやらで、真宵は口許を小さくほころばせた。
「天藍様、そんなに落ち込まないでくださいな」
「だが、散々探し回ったと言うのに……」
「ほら、このイヤリングだって、とっても素敵ですもの」
真宵が指先で示したのは、曇りガラスで出来たお花のイヤリングだ。白い耳元をあえかに彩るその花は、清楚で上品な真宵にもよく似合っている。
「それに天藍様とあちこち巡れてとても楽しいですから、ね?」
どこか機嫌を損ねた幼子をあやすような穏やかな真宵の物言いに、天藍は自分が思ったより落ち込んでいたことを自覚する。見た目ほど、その心は幼くはないと言うのに。
「そうか……。うむ、気に入るものが見つかったようで何よりだ」
表情を見れば、彼女は本当にその耳飾りを気に入っているのだと言うことが天藍にもよく伝わった。なら、いつまでも自分が落ち込んでいても仕方がない。頭上のどんより雲を振り払い、次に真宵の為に出来そうなことを考える。
「歩き疲れてはいないか。かふぇとやらに入って一休みをしようか」
「お気遣いありがとうございます。では、お言葉に甘えまして……」
天藍の精いっぱいのリードを嬉しく思いながら、真宵は辺りを見回す。ちょうど目に映ったのは、ガーデンテラスが併設されているカフェ。このマルシェを象徴する様々な種類の白い花が植えられており、特に緑がかった白色のアナベルが庭のメインのようだ。小さな花の集まりが、一席一席を上品に彩っている。
「あちらのカフェに行ってみましょうか」
「うむ。だが我は現代の文字は慣れず辿々しくしか読めぬゆえ、真宵に頼もう」
「ええ、お任せください!」
難題の注文も真宵の導きで無事に終えることが出来た。ひと息ついた二人の前にそれぞれ飲み物が差し出される。透明なグラスの中、ぱちりと気泡が弾けた。──それは、
「そーだ」
天藍は重々しくその名を告げた。二つの異なる青が真剣に真宵の顔を見つめ、真宵もまた、雰囲気に合わせて佇まいをきりりと正した。そして微笑ましく少年を見守る。
「これはとってもしゅわぱちと痛くなるがゆえ、真宵も気をつけるのだ」
「はい、天藍様」
「しゅわぱちは痛い……眉間がきゅーっとなるぞ」
天藍様によるありがたい経験談。しゅわぱちと言う表現の愛らしさに、頬が緩んでしまうのはご愛敬。
「ふふふ、そうなのですね。これは気合いを入れて飲まなくては」
「うむ」
天藍が選んだのは身に纏う彩りのごとく雪のように白いホワイトソーダだ。先達を務める少年はいただきますと両手を合わせた後、真剣な表情で一口。
「……。やはりか。またきゅーが来たぞ」
「天藍様……! 大丈夫ですか?」
顔をきゅっと顰めた天藍に、真宵は労し気に声を掛ける。
「構わぬ。刺激物というのは食べれば慣れるというもの鍛錬あるのみだ」
「天藍様……」
先達の偉大なる雄姿、そして教えを受け、真宵も真剣に目の前の難敵に向き合う。夏の日差しを受けてきらめくような青い色をしたソーダは、こちらもまた元気に泡を弾ませていた。いただきます、と礼儀正しく挨拶をして、一口。こくりと喉を伝った瞬間、ルールブルーの瞳は小さく見開かれた。
「……あら! 炭酸ってこんなにぱちぱちするんですねぇ」
まるで小さな泡が口の中で踊っているようだ。少し楽しい気分になって綻んだ真宵の表情を眺め、難敵を乗り越えたか、と天藍も深く頷きを返す。
もう一つ、共に提供されていたシフォンケーキにフォークを刺して一口頬張れば、優しい甘さが少年の口の中に広がった。
「ふむ、此方の甘味は悪くない」
しっとりふかふかを堪能する少年を、いつの間にか真宵の御付きがじーっと見つめていた。ふと視線に気付いた天藍は、少し小さめに切ってやると、フォークの先を管狐に向かって差し出してやる。
「クダ、欲しいのか? わけてやろう」
管狐はきゅうと鳴いて、天藍の恵みを嬉しそうに頬張り始めた。穏やかな1人と1匹のやりとりに、真宵は緩やかに微笑む。
「良かったわね、クダ」
そうだ、と自らの皿を天藍に差し出して。
「よかったらこちらの苺のミルフィーユをおひとつどうぞ」
「うむ、ありがたい」
お言葉に甘えて一口頬張れば、さくさくとしたパイ生地の間に挟まれたカスタードクリームの甘みと熟れた苺の酸味が豊かな味わいを生む。心ゆくまで甘味を味わえば、すっかり二人の心も晴れやかなものだ。
「真珠の紫陽花は見つからなかったが……ふむ、この甘味屋は収穫であったな」
「ええ、本当に! ご一緒出来て光栄です」
満足いく時間に心模様もすっかり晴れて、青い空の下、二人は笑い合う。そんな二人を眺めながら、庭先のアナベルも、誇らしげに花弁を広げていた。
白い陽光が眩しく照りつけてどこにも逃げ場はない。大きな人の声が頭上で行き交っている。おろおろと辺りを見回せど、人々はどの露店でも売られている白い花に夢中で、小さなうさぎの子なんてちっとも目に入らないようだ。
「うう、ひとがいっぱい……」
アテのない旅路の中、偶然訪れてしまった知らない街。まるで世界に置いてけぼりにされてしまったような心地で、ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)はぽつんと立ち尽くしていた。
「とにかく、歩かないと……」
どことも知らないどこかへ。ラデュレは小さく息を吐き、人の流れの中、おっかなびっくり、小さな足を動かす。うろうろ、ぴくぴく。まるで肉食獣の群れに囲まれているかのような緊張感と不安の中、幼い少女のまなざしは落ち着くことなく周囲を探っていた。
──だからこそ、気付けなかった。いつの間にか前方に迫っていた「彼女」自慢のふわふわ尻尾に。
「──わっ、と。すみませ……」
とん、と尻尾に伝わる軽い感触に、ラナ・ラングドシャ(猫舌甘味・h02157)はすばやい身のこなしで背後を振り返った。だがそこに人はいない。あれ、と思ったラナの耳に届いたのは、か細い少女の声。
「わっ、わ! ごめんなさい……!」
それを手がかりに視線を下げれば、ふわふわと日に透ける様な色の髪を持った可憐なうさぎの子が、長いたれ耳も紫の瞳もぷるぷると震わせ慄いた表情でこちらを見上げている。大型猫であるラナはヒトの形を模しても大柄だ──それが時々人を怖がらせてしまうことを、彼女は知っている。きっと少女も驚いてしまったのだろう、とすばやく思考を巡らせ、ラナは朗らかで明るい笑みを浮かべた。
「びっくりさせちゃってごめんね! キミもお祭りを楽しみに来たの?」
「ぴえっ……あ、あの、わたくしは」
「ゆっくりで大丈夫だよ! 全然痛くなかったから、こわがらないで」
ごめんなさい、と咄嗟に小声で囁くラデュレにふるふると首を横に振り、ラナは道を歩く人の邪魔にならないようさりげなく少女と道の端に移動する。
ラデュレがそっと見上げたピンク色の瞳はきらきらと輝いていた。目の前の女性はこちらの不注意だと言うのに、彼女が落ち着いて話せるまで、笑顔で見守りながら待ってくれている。その温かさに励まされるように、ラデュレは心臓の部分に手を当ててふかく息を吸い、吐き出した。
「ありがとうございます……驚かせてしまってごめんなさい」
「ううん、ボクは大丈夫! ボクはラナ! ねえ君は?」
「ラナ様……」
小さく唇に音を乗せるラデュレに、ラナは楽し気に笑った。
「ふふっ、ラナでいいよ?」
「ラナさ……ラナ、ラナ……」
まるで猫の手でやわらかく撫でられているように胸がふわふわする。慣れないが、どこかくすぐったい呼び捨てにラデュレが小さくはにかむと、ラナは満足そうに笑みを深め二つの尻尾を揺らした。ラデュレは自分も名乗らなくては、と改めて姿勢を正す。
「ラーレ──わたくしは、ラデュレと申します」
「キミは……らりゅれ。……らでゅえ……?」
オウム返しに呼ぼうとしたせっかくの名前なのに、にゃごにゃごともつれて舌が回らない。ままならない猫舌と少しばかり奮闘して、ラナは諦めて小さく両手を上げた。
「……。何かいい呼び方無いかなぁ」
ラナの言葉に、ラデュレは口許に手を当てて小さく笑った。
「ふふ、でしたら……どうぞ、ラーレとお呼びくださいませ」
ラデュレの提案に、ラナはぱあっと表情を明るくする。
「! ラーレ……! うん、それなら呼べそう!」
自己紹介を終えれば、自然と二人の間に笑顔が咲く。少し前までの緊張もいつの間にかすっかり抜けていた。
ラデュレがここは何をやっているのかを尋ねると、ラナは事前に掴んでいた白い花のマルシェについて詳しく教えてあげる。ふんふん、と生真面目な顔で頷く少女のつむじを眺めながら、ラナはそうだ、と己に浮かんだ名案に手を叩いた。
「──ね、ラーレはひとり? 良かったら一緒にマルシェ行かない?」
「わたくしと……?」
「うん。アイスブーケ食べようよ! すごくオシャレで美味しそうなんだ!」
実は、ラナがこのマルシェに来た目的こそがアイスブーケ。話題のスイーツ、特にミルク味は外せない!と心に誓って街を訪れたものの、思わぬ出会いに縁を感じて、気付けば目の前の少女にそんな風に声を掛けていた。
「アイスブーケ……アイスの花束、なのでしょうか」
一方のラデュレは、聞き慣れない名称に耳をぴくぴくとさせながらも、そのアメジストの瞳にはいつのまにか好奇心の光が灯っている。どんな形か考えていたものの、窺うようなラナの視線に気付き、慌てて首を縦に振った。
「は、はい、ぜひ、ご一緒させてくださいませ……!」
「やったあ! じゃあ早速行こう!」
色よい返事にぱっと表情を輝かせると、ラナは幼い手を取り、駆け出した。小さなラデュレからすると、体格も身のこなしも大いに異なるラナの駆け足は、まるで春一番に吹き抜ける勢いの強い風のようだ。ついていくのに精いっぱいで、小さな心臓はどくどくと鼓動を繰り返す。けれど、この胸の鼓動はきっとそれだけが理由ではない。
──はじめての場所、はじめてのひと、なのに不思議。
「誰かと遊ぶの、久々でわくわくしちゃう!」
晴れやかな空にも負けないラナの明るい声に、逸る心臓のまま、ラデュレもはい、と囁いた。
ショーケースに溢れる白い花々はそれだけで立派な花束のようだ。到着したアイスブーケの屋台にて、ラナとラデュレは興味深そうにガラスの中を覗き込む。
「わ~、綺麗で美味しそう!」
「白いお花のお祭りだから、なのでしょうか。アイスも真っ白なのですね」
「きっとそういうことだよね!」
そんな風におしゃべりしながら、選んだアイスブーケを受け取る。ラナは最初から心に決めていた通りのミルク味。ラデュレは少し悩んでからソルト味に決めた。それぞれ可愛らしい花束に、期待で尻尾もぴんと立ってしまう。
二人で並んで腰かけた花模様のベンチ。いただきます、と挨拶してから一口頬張れば、二人の頬はとろけていくように緩んでいった。街を駆けて火照った頬に、きんと冷たい甘さが心地よい。
「にゃは~! この甘さが堪らない!」
「うふふ、あまじょっぱいです。ラナさ……ラナは、いかがでしょうか?」
まだ慣れない呼び捨てはご愛敬。はにかんでラデュレが問えば、ラナは元気よく頷く。
「うん! ラーレのも美味しい? よかった!! 一緒に食べると美味しさ2倍だね!」
「ふふ……はい。2倍なのです」
ゆっくりとアイスを味わいながら、改めて二人は他愛ない話で盛り上がっていく。はじめて出会った二人だけれど、同じ時間を分け合えば、あっという間に笑顔が広がっていった。
ワッフルコーンの最後のひとくちをさくりと飲み込んで、ラナはラデュレの顔を覗く。
「ラーレはこの後お花植えにいく? よかったら一緒に行こうよ」
「……! お花植え、ご一緒させてくださいませ……!」
願ってもないラナの提案に、ラデュレの瞳はきらりと輝いた。だって、このひと時を、まだ終わらせたくはない。はじめてのドキドキで、心臓は高鳴りっぱなしだ。
そして、終わらせたくない気持ちはきっとラナも同じだった。一生懸命なラデュレの表情を見てにこっと朗らかに笑うと、手を差し出す。
「もし行くなら苗も買いに行かなきゃね!」
そして繋がる手と、交わる視線。
ラナとラデュレの出会いの物語は、まだ始まったばかりだった。
清々しい青空に浮かぶ白雲のような花々が、街の至る所でふわふわと揺れている。瑞月・苺々子(苺の花詞・h06008)は名の通り月を抱いた水面の瞳に白い花びらの光を浮かべて、辺りを見回した。
「どこを見ても白くてチャーミングなお花がいっぱい!」
おまけに良い香りもする! すんすんと嗅いだ花の匂いを胸いっぱいに受け止め、苺々子は満面の笑顔を浮かべた。天神・リゼ(Pualani・h02997)も小さく笑って頷きを返す。
「ふふ、そうね。色んなところに白いお花があって綺麗」
緑が深まる頃の初夏のような色をした瞳を細め、リゼも少女と並んで市場を見回す。人一倍花と近しい彼女ですら、これだけふんだんに集められた白い花だけの市場となると圧巻だ。ひとつひとつの花をゆっくりと見つめるリゼの隣で、苺々子がワクワクを隠しきれないとばかりに口を開く。
「ねえ、リゼさん、どんなお花を探しに行こう?」
「そうねぇ……どんなお花も白にして頂けるなら……」
苺々子の言葉に立ち止まって暫し考える。ここに漂う花の清廉な匂いが理由だろうか。やがて自然と浮かんだのは、甘やかな香りを抱くあの花だった。
「私の好きな金木犀も、白になったものがあるのかしら? あれば、その苗を頂こうと思うわ」
「……白い金木犀! ステキね。どんなお花も白く染まっているのなら、きっとあると思う!」
まだ年若い少女だが、探偵事務所を営む苺々子だ。探しものなら任せて!と得意分野に苺々子が自信満々のウィンクをすれば、リゼも表情を緩めた。
「苺々子さんは何を探すの?」
「私は鈴蘭のアクセサリーかな? 『父の日』も近いし……ととお父さんのプレゼントにしたいなって」
「あら、お父さん想いなのは良い事ね」
リゼに小さく褒められて苺々子は明るく頷く。でもね、とその視線はすぐに小さく泳いだ。リゼは穏やかに続きを待つ。
「まだ具体的な物まで考えてなくて……思い付くのはピアス、首飾り……後なんだろう?」
「そうね……」
男性が着けやすいアクセサリーの数々を思い浮かべながら、リゼも一緒になって首をかしげる。鈴蘭は見ているだけで癒されるような清楚な可愛らしさが特徴だ。あまり目立ちすぎず、けれど装いをそれひとつで瀟洒に引き立ててくれるような、控えめで上品な一品が良いだろう。耳飾り、コサージュ、ブローチ──そんな風に並べていった所で、リゼの中にひとつの像が浮かんだ。
「お父さんへなら……ネクタイピンとか?」
それなら男性でも飾りやすいかも、とリゼが付け足せば、苺々子の表情もぱっと華やぐ。
「ネクタイピン! お洋服に飾れる物もイイわね。最近スーツを着るようになったから、丁度良いと思う!」
目標も定まってひと安心。二人は頷き合うと、善は急げとばかりに早速お土産品を並べている一角へと向かった。
天幕を広げただけの露店だが、濃い色の天鵞絨の敷かれた机に並べられたお土産用の品々はどれを見ても丁寧に扱われているのが分かる。ここの白い花も本物と負けず劣らず、生き生きと誇るように花を咲かせていた。父にぴったりのデザインを探して、苺々子は調査の時にも負けない真剣な表情でアクセサリーを見比べていく。
「そうだ、リゼさんは何を探すの?」
「私は、そうね……」
父親に贈るプレゼントを探す苺々子。彼女の横顔を眺めながら浮かんだのは、リゼもまた普段から面倒を見てもらっている人々の顔だった。
「いつもお世話になってる人達に贈り物でもしようかな……。でも、装飾品を作ってる側だから悩んでしまうけれど」
控えめに懸念点を語るリゼに、苺々子はふるふると笑顔で首を横に振った。
「ううん。作ってる側だからこそ、プレゼントって嬉しいと思うわ?」
「そう? ふふ、よかった」
「どんな人なの?」
「それがね、男友達なの。あげるとしたら何がいいと思う……?」
今度は苺々子が相談を受ける番。素敵なプレゼントを考えてくれたお礼に、苺々子は一生懸命どんな物が良いかを考える。リゼさんの好きな花は金木犀。その可愛らしさと、甘やかな香りを存分に生かせるプレゼントと言えば──
「確か、金木犀ってジャムもあったわよね。白い金木犀のジャムなんて珍しいし食べものなら男性でも喜ばれそう!」
苺々子の言葉に、リゼはイメージを広げていく。そうだ、ちょうどあの人達は甘いものが好きだった筈。それに、美味しいお菓子をお裾分けしてもらったこともある。瓶にいっぱい詰まった花のジャムを、好きな形でアレンジしてもらえたら──友人から降ってきたぴったりのアイディアが自分の中で具体的な形になっていくのが分かった。次第に、リゼの表情も少しずつ明るくなっていく。
「……うん。良いアイディア!」
「ふふ。リゼさんの探し物も纏まったみたいで良かった!」
「ええ。一緒に考えてくれて、ありがとう。苺々子さん」
二人の少女は顔を見合わせて笑い合う。一人でプレゼントを探すのも楽しいが、こんな風にアイディアを出し合って誰かに贈るプレゼントを探していくのは、隣の友人のことをより知る良い機会になる。花が結んだ縁に、また新しい花の思い出が結びついて、一層心の距離が近づいたような気がした。
目的の品を見つけて両手に抱え、ふと見上げればすっかり太陽も頭のてっぺんで輝いている。ふう、とひと息つくと、時計を眺めた。到着から随分と時間が経っていて、お土産探しにすっかり夢中になっていたらしい。
「ちょっと休憩にしよ? 歩いてる途中見かけて気になってたの、アイスブーケ!」
苺々子の提案に、リゼも朗らかに笑みを浮かべた。
「ええ、実は私も気になっていたのよ、アイスブーケ!」
やっぱり?と互いに頷いてくすくすと笑う。年頃の少女なら、かわいくておいしい食べものはどんな時でも見逃せないものだ。
「結構暑くなってきたし……ソルト味が魅力的に見えちゃうな。どんな味するんだろう?」
「塩バニラみたいな感じなのかしら……? 食べるのがとっても楽しみ!」
調べてみれば、店はここから少し離れたところにあるらしい。リゼはそうだ、と呟き、白い手をまっすぐ苺々子に差し出した。小さく首をかしげて、ほんのり笑みを浮かべて。
「人も多いし……手を繋いでゆきましょうか?」
素敵なお誘いに、苺々子の表情はたちまち輝いた。迷うことなく、リゼの手を取る。
「うん、繋ご! 迷子になったら危ないもんね」
二人は笑い合い、再び賑わいの中へと混ざっていく。
結びついた縁のように、二人の手はしっかりと握られて、繋がったまま。
青と青のまんなかで、青年は呼吸する。遠くから微かに波の音が聞こえている。さらさらと頬を撫でる風は潮のせいで少しべたついていた。
でも、その感覚すら今はいとおしい。すべての感覚が青色に透き通っていくような心地の中で、身体の内側で心臓がどくんどくんと鼓動を刻む。まるで青い夜の空にひとり浮かぶ星が、自分はここにいるよってチカチカ瞬くみたいに。
──そうしてゆっくりと、祭那・ラムネ(アフター・ザ・レイン・h06527)は閉じていた瞳を開く。
賑わう人々の声。どこを見ても咲きこぼれるような白色の花。どれも、眺めているだけで気分が明るくなるような光景だ。青空を映したような澄んだ水色の瞳にひとつひとつの光景を丁寧に映しながら、街の中を歩いてゆく。
行き交う人々の表情は誰もが朗らかで幸せそうだった。普段、花屋でバイトをしているラムネも、何度も見てきた表情。自分のために、誰かのために。そんな風に考えながら店へ入ってくるお客さんの、期待を込めた幸せそうな表情だ。世界が変わっても変わらないものがあるのだな、と、そんなことでラムネも嬉しくなってしまう。そうでなくたって花は好きだ。どんな花を咲かせようか考えながら見て回るだけでも楽しい。
人知れず咲く白い花──洞窟に何を植えようかと情景を心に浮かべながら歩けば、ふと思考の泡がぱちんと弾ける。それは、この街に伝わる人魚の伝承について。
まるで童話のような、本当にあったのかもわからない物語。でも、その話を聞いた時、目の前に人魚の姿が見えたような気がして、ラムネの心はきゅうと締め付けられるような思いがしたのだ。独りぼっちで花を植え続けた彼女がきっと流したであろう涙を、自分は拭ってあげることができないから。
──しかし、それと同時に感じたのは。
(……わかる、なんて傲慢だけど)
ラムネは心の内側で呟く。この感情は共感の方が近いのかもしれない。それでも、その時、彼はわかる、と思ってしまったのだ。自分の気持ちは報われなくとも自分の愛した人がずうっと幸せでありますように、そう願う心のことを。
それはきっと自分も同じ在り様を選んでしまう人間だからなのだろう。しんしんと胸の中で降り積もっていくような悲しみや切なさ、そういう類の白い心ごと、やわらかなリボンで束ねて大切に抱いてしまうような。──きっと、そんな花だっていとおしい。そうは思うけれど。
(でも、ここの人たちはそうじゃないみたいだ)
ラムネはそんな風に考えながら、改めて市場を見渡す。誰も彼も、期待と喜びで瞳を輝かせている。この市場では売る人も買う人もみな明るい表情で花を選んでいた。その表情から、この街の人々が当たり前のように童話の人魚のハッピーエンドを信じていることが伝わってくる。
そんなことが、ラムネはまるで自分のことの様に嬉しかった。──ああ、よかった。胸が温かな気持ちでいっぱいになって、またとくんと音を立てた。
そうして巡っていく内に、心は自然とひとつの花の形を描いている。青年は砂浜に埋もれた白い貝殻を拾い上げるように、見つけた苗を手に取っていた。
「よし、決めた」
淡い黄緑色の芯を囲むたくさんの花びら。見ているだけで気分が明るくなりそうな華やかな白色に、まるで小さな太陽のような形。
その花の名はガーベラ。中でも白色のガーベラが指し示す言葉は「希望」だ。色に限らず、「前向き」という言葉もあることを、ラムネは知っている。それは、青年がこの物語の終わりに願う理想の形。大事な苗を手放さないよう、自然と力が入った。
その気持ちごと大事に腕の中に包んで、ラムネは願う。
(……どうか、どうか)
物語がハッピーエンドでありますように。ふたりがずっと、幸せでありますように。
花は言葉なく潮風に揺れている。その白は青色の中で、いっそう眩く光るように映った。
第2章 冒険 『水中ダンジョン』

●青い海のそこへ
あなたが噂の洞窟へ──そしてダンジョンへ向かいたいのだと話すと、街の人々は大いに驚く。更に冒険者だと知れば、ようやく来てくれたか、とすっかり大歓迎ムードで、人々はあなた達への支援を快く引き受けてくれるだろう。
海に潜る必要があると伝えれば、港町らしく潜水用の魔法具には事欠かないようで、冒険者の助けになろうと様々な魔法具を貸し出してくれる。
例えば、噂と同じく「人魚」に変身できる魔法具だとか。
潜水艦よろしく巨大な「泡」の中に入って遊覧を楽しむことができる魔法具だとか。
もちろん、自らの足で泳いでいくのも良い。海中でも呼吸が長続きするための補助具もある。
洞窟までの道は「光る魚」の形の魔法具が道案内してくれる。これがあれば、普段なら攻略に時間が掛かるダンジョンも遊び感覚で楽しむことができるだろう。
せっかくの機会に、海の様子を見て回るのも良い。比較的温暖な海と繋がっているらしく、透明度の高いコバルトブルーの海にカラフルな熱帯魚の群れやイソギンチャクがたゆたう海の底は白い花とはまた違う華やかさを持った海の花畑だ。
運が良ければカメやマンタと言った大型の生き物を見ることが出来るかもしれない。深追いは危険だが、涼やかな時間を少し楽しむくらいは許されるはずだ。白い花の苗は手放さないように気を付けよう。
目的地までは街の人が船を出してくれる。
──さあ、深呼吸。用意が出来たら、次は青色の中へ。
かの人魚が住んでいたかもしれない世界を、あなたも覗いてみよう。
●マスターからの補足
魔法具の使用は1例ですので、洞窟への向かい方はご自由にどうぞ。ただし、今章はダンジョンの攻略を重視するというより、自由にダイビング&海の中のきれいな景色を楽しもう!といった内容になっています。
皆さんにそれぞれ手渡された光る魚に付いていけば、間違いなく目的地へたどり着けるのでご安心ください。泡型魔法具も中にいる人の意志に従って自動で進んでくれます。
また、花の苗を1章で購入なさっていない方も、あえて用意しなかった場合でなければプレイングに書いておらずとも用意してあるものとして先に進めますのでご安心ください。(この章から参加される方も同様です)
潮風がじゃれつくみたいに女の艶やかな髪を舞い上げていく。その様子に小さく笑みを浮かべながら、懐音・るい(明葬筺・h07383)は改めて掌中にある二つの魔法具を見比べていた。
ひとつ、巻貝状の魔法具は使用者の肉体を変質させて疑似的な人魚として水中を自由に移動する能力を与えるというもの。もうひとつ、遊色きらめく硝子の小瓶は蓋を開けると自動的に人間大の泡を形成し、短時間の水中遊覧を可能とするというもの。
「これ、個人的にすごく欲しいかも……」
二つの魔法具をまじまじと見つめて、るいは小さく呟く。海に潜ると言えば、基本は素潜りかダイビングスタイルだ。そんな常識を覆してみせる、正しく魔法のアイテムが存在するなんて。思わぬ宝物に好奇心を覗かせる女の表情に、船を動かしていた船員の一人はからりと笑う。
「まあ、扱いが容易な分、諸々の消耗は早いんだけどな」
「そっか。でも私でも買える?」
「冒険者さんが無事ダンジョンを攻略すりゃ、みんな喜んで用意してくれるだろうさ」
それは嬉しい、とるいが小さく微笑めば、男はよろしく頼むぜと明るく笑って海へと送り出してくれる。
せっかくの機会だ。直に見て海中散歩を楽しみたいということで、るいが選んだ魔法具は人魚になれる巻貝。ぱきりと砕けば、内包された魔法がるいの脚部を、瞳の色に似た淡い菫色の魚の尾へと変質させる。洞窟に植える為の花の苗もしっかり携えたことを確認して、とぷんとコバルトブルーの中へ身体を浸らせていった。まだ少し冷たい水が、これから入る世界が未知の境界の向こうにあることを彼女に教えてくれる。
──そうして全身を水の中へと譲り渡せば、瞬きのような泡飛沫の後、目の前に広がる青の世界。
(……とは言え、慣れないものを動かすのは難しいなぁ)
るいは内心呟く。人魚の尾は水中だと軽いが、両脚がぴたりと張り付いたような感覚は人の肉体に慣れているとどうにも操作が難しい。呼吸に問題がないのをいいことに、これもせっかくの機会だからと身体を動かす練習をしてみる。
鰭を上下に動かし前進、身体をぐいと突き出して一回転。どうやらある程度、勢いを付けて動いてしまうくらいの方が、海の中では動きやすい様だ。
るいが少しずつ動きに慣れていくと、ふと、ひらひら舞うレースのような尾の先に興味が惹かれたのか、気付けば色鮮やかな小魚が数匹近づいてきていたのが視界に入った。
おや、と思い見つめていれば、小魚たちは恐れる様子もなくるいの尾先で遊んでいる。無邪気な様子に、自然と口元には微笑みが浮かんだ。ちょちょいと尾で小魚と遊んだ後で更に先へと進めば、色鮮やかな魚たちが目と鼻の先で自由に暮らしているのが分かった。
分厚いガラス越しでは絶対に味わえない光景に、るいの心も静かに躍る。
──そうして泳ぎに慣れてきて、自由に海の中を楽しめるようになった頃。
ふと上を見上げれば、海中に白い光が差し込んでいた。研磨されたサファイアの中身みたいに、コバルトブルーはきらきらと光を放っている。写真でしか見たことのない光景を映して、るいの淡い菫色の瞳もまた、きらきら光っていた。
(伝承の人魚もこんな光景をみてたのかな)
そんな風に想像を巡らせながら、るいは満足するまで海上の光を見つめていた。人魚はその光景に、どんな思いを考えていたのだろう。もっと海の世界に親しむことが出来れば、その心にも、もう少し近付けるのかもしれない。
水中を気ままに泳ぐ色鮮やかな魚の群れ。優雅な彼らの遊泳を横目に、青く息づくように明滅を繰り返す光に導かれて、3人は底へ底へと向かってゆく。
「まるで竜宮城への道ですね」
元来、吸血鬼は流水を渡ることが出来ないという。そのルールが人間との混血である自分に当てはまるかは分からないが──おかげで、水泳という行為に対して、そこはかとない抵抗感を感じていた。しかし、今回は泳ぐ必要もなく、便利な泡の中に居れば目的地に着くのだという。事前に従者によくよく言い含められていたこともあり、海中ばかりは大人しく泡の中に収まりながら、行方・暖(常世見物・h00896)は未知の世界をしげしげと眺めていた。
「ほらセンセ、後ろから押してあげるから。見たい所があったら言っていいよ」
一方の従者であるところの朧木・柊(死火・h07354)はそんな主人が収まる泡を後ろから押してやりながら、自らの脚で水中を泳いでいた。いい年齢の男性である自分が人魚というのはどうにもガラではない。最低限の呼吸用の魔法具さえ借りれば、泳ぐのは得意な方だし、そう難しいことではなかった。
「ありがとうございます! ではあちらの岩陰に向かってもらえるでしょうか。一瞬影が見えた気がして……恐らくかつて魔の海域にて数々の船を沈めてきたと言う人食いイカの脚かと!」
「うーんセンセ、溺れたくなかったら今回は近づかないようにしようね」
吸血鬼は不自由で大変そうだからと気遣ったのが裏目に出た。調子の変わらない主人にやれやれと柊は肩を竦める。
そんな二人のやりとりを眺めながら、先導の物集・にあ(わたつみのおとしもの・h01103)は魚の尾に変じた自らの脚を海中に揺蕩わせ、くすくすと笑った。海だけはこの少女が大人たち2人の先輩だ。それは地上よりずっと呼吸しやすいくらいで──地に縛られた身体から解き放たれ、ひらひらと青い尾も自由に揺れる。先んじて見つけた小魚の群れにひらりと手を振って、にあの唇が泡沫を紡げば、それを見た小魚たちも小さくエラを振って少女へ応える。
「さすが物集さん、泳ぐのが上手だね」
柊が褒め言葉を口にすれば、にあは深海色の瞳を細めた。気付けば逸れてしまっていた先導に気付いて、二人の元へふわり舞い戻ると、気まずそうにはにかむ。
「あ、ごめんなさい。はしゃぎすぎました」
「いや、大丈夫だよ。着物の袖が水の中でヒラヒラしてて、人魚姫みたいだった」
「そう? 海のお姫さまになれたかしら?」
「ええ、柊くんの言う通り。堂に入った海の妖怪ぶりですよ! 実は正体を隠していたのですか?」
ちょっとズレた暖の言葉も彼なりの高評価だ。にあはくすぐったそうに笑みを浮かべる。
「ふふ、どうかしら」
笑ってはぐらかしながら、にあもまたお客様たちにお力添えをしようと柊の隣まですいと泳いでいく。その様子を何気なく眺めながら、そういえばと柊は口を開いた。薄い水面の瞳は、今は濃い青にとけていた。
「今度は君の故郷の事を教えてよ」
「わたしの故郷? ──そう、ね」
対して小さく見開かれた少女の瞳の色は、あまりにも馴染んでいるせいで、海の中でもそう変わらない。
「ふふ、……この海域よりももっともっと深い場所にあって、とても静かなところよ」
海の上からの声が微かに届くくらい。そう囁いて、にあは何気なく海上を見上げた。その動きに釣られる様に、暖と柊も顔を上げる。気付けば随分と深いところまで潜ってきていたのか、海面の光もずっと遠くで僅かにきらめくばかり。しんと静まった海の中は、忘れていた肌の冷たさを思い出させる。
「地上の声も届くくらい……君達はとても静かな一族なんだね」
「ほほう……それは実に興味深いですね。深海に行ったことはないですが、きっとこの景色のように美しいのでしょう」
何だかんだ上手く騒がしくやってきた二人には、少女の世界は未知のもの。柊と暖の言葉は二人の性格を示す様に対照的に異なっていたが、どちらもどこか寂しい自分へ心を寄せてくれてくれてることが分かった。にあは努めて海上から視線を外し、やんわりと大人たちに微笑みかける。
「おふたりを連れていけるかわからないけど……機会があれば、いつかご招待するわ」
「それはありがたいですね! その時もこの泡が使えると良いのですが……」
はっと鮮やかなピンクの瞳を見開き、思い出したように暖がこんこんと泡の底を軽く小突く。溺れたらどうなるか分かっているのかいないのか。柊が表情を僅かに引き攣らせた。
「そういえば……これも妖怪の道具なんでしょうか?」
「止めてねセンセ。っていうかさっき説明聞いてなかったの? その泡、この世界の魔法具らしいよ」
「おお、なんと! これが魔道具なのですか? 私でもこんな簡単に海に入れるようになるなんて……実に夢があります!」
大げさに驚いている暖に、柊はいつもの呆れ顔で応える。
「もう、センセ。自分の世界に入ると周りの話が耳に入らないんだから……」
「ふふ。探偵さん、お気づきになられてなかったのね」
少し話が逸れれば、あっという間に愉快な暖と柊のペースに空気が変わる。そんな陽気なやりとりを見ていれば、深海に沈むように胸の底へ積もった物思いも、いつの間にかとけていくようだ。小さく笑ったにあも、そういえば、と二人へ好奇の瞳を向ける。
「ねえ、おふたりの苗を教えて?」
「ああ、私はカサブランカを選びました。華やかで実に絵になるでしょう?」
後方の二人に見えるように、暖は誇らしげに苗を掲げる。柊もまた、傍らに抱えていた花の苗を二人へ見せるように抱き直した。
「俺はスノードロップにしたよ。えーっと、花言葉はなんだっけ……」
センセなら知っているかな。意味ありげに寄越された柊の視線を受けて、暖は更に誇らしげに表情を輝かせた。説明しましょう、と大げさな態度で人さし指をぴんと立てる。
「スノードロップの花言葉は──希望や慰め。中には『あなたの死を望む』なんてものもあるようですが」
得意の解説をお披露目できてドヤ顔を隠さない暖に、聴衆ふたりはほうと息を吐いた。
「かわいいお花の裏に物騒なもの隠してるのね」
「え、そんなのまで花言葉になるんだ。怖い言葉を貰って喜ぶ人なんているのかな」
せっかく鈴蘭にも似て、小さくて可愛いと思ったのに。何だか少し拍子抜けして、柊は自分の苗を見つめる。その様子を眺めながら、暖は大いに頷いてみせた。
「ですが花に託す思いはその時、その人次第ですからね! 今は良い意味だけ使わせていただきましょうか」
「うん……それもそうだね」
「ええ。わたしもアザレアにしたの。愛されて幸せって意味なんですって。みなさんで良い言葉を込めたら、きっと素敵な花畑になるわ」
かくして話は纏まり、3人は満足げに頷く。
「ああ、二人とも。魚に夢中で苗を落とさないように。……そうだ、お願い事はもう考えた?」
しっかりと苗を抱き、頷く暖とにあは柊の何気ない質問に顔を見合わせる。そして、小さく笑った。
「ふふ。わたしはまだ秘密よ。ね?」
「ふふん、そうですよ柊くん。それは水底についてからのお楽しみ、です!」
子どもさながら、悪戯っぽい顔を浮かべる二人が何だか楽しそうだから。やれやれ、柊は小さく肩を竦めた。
「秘密? そうか……叶うといいね」
誰かがいれば海の底もそう寂しい場所じゃない。寂しかったはずの沈黙は楽しさの予感に変えて、3人は共に深い海の底へと向かっていく。
海上にきらめく陽に巻貝を透かし、ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)は眩しそうに深紅の瞳を細めた。
「イサ、人魚になる魔法ですって」
掌にころんと転がした白い巻貝は、ここだけの魔法が込められた一品。物珍しそうにつんつんと指先で突いてみせるララを見ながら、詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)は小さく肩を竦めた。
「俺には必要ないよ。水中に入れば人魚になれるし……それはララだけ使えばいい」
「あら、お前は……確かに。そうだったわね」
海戦用の少年人形なのだから、当然海の中は彼の独壇場だ。そんな青年の権能を思い出し、頷いてみせると、ララは心の中で人魚のかたちをなぞってみる。──少女の知る、いちばん身近な人魚と言えば、やっぱりあの人の姿。
「ララはどんな人魚になるかしら? ママみたいなハーバリウムの尾鰭なら素敵ね」
「……ララならベタみたいな綺麗な人魚になるんじゃないか?」
「ふふ、それも素敵」
そんな風に夢見ながら、ララは巻貝を手の中で砕く。内包された魔力がきらきらと少女の身体を幻想的な光で包んで、そうして卵の殻が割れるみたいに、中から現れたのは──
「──あれ?」
「……むきゅ?」
少女の脚部を包むのはふわふわな白色。やけにやわらかそうな、生まれたての生き物の産毛が生えた鱗のない尾が、ぴたんぴたんと船床をはたいた。
「ララの尾鰭、ふわふわよ? 魚じゃないみたい」
そう。それは、人魚というより、むしろ。
「あざらし?」
「はは! それ、あざらしだ! 赤ちゃんあざらし人魚!」
まだ状況が掴み切れずきょとんと首をかしげるララの様子を眺めて、イサは笑いを堪え切れない。一度吹き出すと、弾けるように笑いだす。
「いいじゃん! 白いエビフライみたいで可愛いよ」
「むぅ! ララはエビフライじゃないわ」
「はいはい。花の苗を落とさないようにな」
唇を小さく尖らせたララの頭にぽんと手を乗せて、イサは海へ飛び込む。海水に触れた身体はたちまち変化を遂げ、脚部は優雅な貴婦人のドレスのような、美しい黒の魚の尾へと変じる。そうして、海面から誘う様にララへと手を差し出した。
「……。仕方ないわ、不敬は許してあげる」
その姿が、童話の挿絵のように美しい光景だったから。ララは少年の手を取った。
片手に花、もう片手には少年の手。誘われて飛び込んだ海の世界は、鎖された少女のまだ知らない世界。
「ララの手を引きなさい。あざらしは動きなれないの」
主人の命に、従者は小さく笑って頷いた。
「もちろん、喜んで」
案内役を務める魚が、導きの光をぽわぽわ零す。その軌跡を辿って、イサとララは深い海の世界をゆく。あざらしさんは扱い慣れない身体に悪戦苦闘しつつも、漆黒の人魚が隣で導いてくれるから、案内役に追いつく分には困らなかった。
やがて泳ぐことに慣れていった二人の傍を、極彩色の魚の群れが悠々と泳いでいく。まるで花吹雪のようね、とララが零せば、少女を言祝ぐように魚達は二人の周りを囲んで舞ってみせた。
「ふふ、あっちにも行ってみましょう。下に咲いているのはお花なのかしら?」
「あれはイソギンチャク。魚が共生してるんだよ」
イサの手が導いて底の方まで泳げば、桜色にも似たイソギンチャクが波にその手足をゆらしながら、広大な花畑を形成していた。その合間を泳ぐ小魚は、客人の姿に驚くとぴゃっと底まで隠れてしまった。そんな反応も物珍しく、ララはくすくすと笑う。
そんなララを見ながら、イサは再び誘うように少女の手をやわらかく引いた。
「ほら、ララ。そろそろ泳ぎ慣れたんじゃない? もう少し遊んでみようよ」
そう言って、少年がひと息ふうと海上に向かって吹けば、それは泡になって大きな輪を作る。わかったわ、と頷いたララは少年の手を放し、ぐんと強く尾で水を押した。
泡が溶けてしまう前に、輪の中をぐうんと泳いで潜り、再び少年の元へ舞い戻る。ララの顔に浮かぶのは、どこか自信に溢れた笑顔だ。
「どう? 上手でしょう」
「うん。これならあざらし合格だね」
わざとらしい憎まれ口も、喜びの裏返し。今こうして少女と共に海の世界で過ごせることが嬉しくて、イサは僅かに頬を緩めた。
「あ、ララ! 見ろよ、マンタがいる」
「あら、ほんとう。見に行ってみましょう」
泳ぎに慣れたのを良いことに、ぴょいと泳いでいってしまおうとするララに、あ、と慌ててイサも漆黒の尾をはためかせた。
「こら!勢いよく近づいたら危ないって」
「ふふ、ごめんなさい」
すぐに隣に並んだイサを見て、ララはくすくすと笑う。どんな世界もイサが一緒に着いてきてくれる。だから少女は、どこへ行くのもちっとも怖くはない。
それに、海の中はこんなにも綺麗なのだから。
もう、とため息を吐いたイサの表情も、気付けば綻んでいる。ララと共に海の世界を泳いでいける、その喜びはもちろんだけれど。
──争いのない穏やかな海の世界はいいな。
二人を包む、あたたかな海を眺めながら微笑む。
その幸福な時間を、いとおしく思わずにはいられないから。
「魔法具なんてあるんだね、すごい」
青空の下、船上にて冒険者の幾人が巻貝を砕き人魚へと身を変じて海へと飛び込んでいく。そんなどこか幻想的な光景を、花岡・泉純(櫻泉の花守・h00383)は桜色の瞳に好奇心を映しながらぼんやりと眺めていた。
とは言え泉純の身に流れる血の半分は人魚そのもの。道具を使わずとも海は彼女のもうひとつの世界ではある──となれば、好奇心の矛先は自然と隣の少年へと向けられる。
「コノハは、ならないの?」
人魚に。ぽつりと、小さく首をかしげながら尋ねる泉純に、千桜・コノハ(宵桜・h00358)は涼しい顔でひらひらと手を横に振った。
「ならないよ。僕は鳥迦楼羅だから」
「……なぁんだ、ざんねん」
宵色の髪に桜の彩。ただしく神の子として人を超えた美しさを内包するコノハが魚の尾を持ったら、どんな色になるのか。ほんの少しの戯れ言だけれど、断られたらほんのり寂しい気持ちになるのも乙女心。そんな気持ちが声に乗ったのか、コノハは眉をひそめて少女を見つめた。
「人魚は君がいれば十分でしょ。……僕にとってはね」
「え?」
「……もういいでしょ、行こうよ」
ぽつりと告げられた本音はすぐに波の音に消える。不思議そうに首をかしげる泉純に話はこれでおしまいとコノハが気恥ずかしさを誤魔化すように手を差し出した。少女も深く考えることは一旦止めて、花の苗をしっかりと抱え直し、手を取る。サクラソウの小さな白い花弁が、少年の照れ隠しなんて知らん顔でそよそよ揺れていた。
人の脚は花筏の淡く透けるような鱗を持った尾へと変わり、鰭は薄い紗のように深い海の色を透かす。深淵へと誘う物語に出てくるそれのように、美しい人魚へと姿を変えた泉純は、今は広い海を導くために少年の手を引いた。一方のコノハは、泳げるようになったのは最近で、呼吸に補助はあっても一人きりの潜水にはまだ幾分かの不安が残る。たゆたうような水の流れと人魚の導きに身を委ねながら、青の世界をゆるりと見回した。
「ここが海の中か。浮遊感は空の上と似てるかも」
「海の中はふわふわするよね。……空もこんな感じなんだ」
空を知る者と海を知る者。二人の知る青はそれぞれ異なるが、似た所もあるらしい。
「こんなに生き物はいないけどね」
「そっか。でもこれほど鮮やかな海はわたしもはじめてだよ」
物珍しそうに魚達の営みを眺めるコノハの視線を辿り、泉純も表情を綻ばせた。コノハの鼻先で、見知らぬお客さんのまなざしに気付いたらしい熱帯魚が、イソギンチャクからぴょこんと姿を現わす。
「そうなんだ。泉純の馴染みの海も気になるけど……」
戯れに少年が白い指先で頭をちょんと小突けば、小魚はぴゅるりと安全な巣の中へ逃げていく。しかしそのまま眺めていれば、小魚は脅威を忘れてしまったのか、また客人の前へ姿を現し──何度か繰り返しのやりとりに、コノハの頬も自然と緩んだ。
「ふふ、かわいいね」
「うん。かわいい、ね」
多数の命が息づく鮮やかな青の世界。その穏やかさは、泉純にとっても物珍しく映る。
可愛らしい熱帯魚との戯れをひとまず終え、泡が溶けてしまう前に洞窟へと向かう。深い青色の中、ひかり淡く浮かび上がるような泉純の真珠の尾に、なんだか懐かしい光景を思い出してコノハは目を細めた。
「君と初めて出逢ったときもその姿だったよね」
「あの春の夜──なんだか懐かしいな」
「泳いでるところは初めて見た」
改めて彼女の姿を一瞥すれば、尾がふわりと踊る。鱗にきらりと月虹が奔った。その美しさは、まさしく夢見草。思わず手を伸ばしたくなりそうな、けれど触れたら壊れてしまいそうな儚い美しさに、コノハの唇も惚けたように小さく開かれる。
「綺麗だな。景色も……君もね」
──だから、緩んだ唇から本音が零れ出ても仕方のないこと。やわらかに細められた双眸が少女の眸と交わり、今度は泉純の唇が小さな泡を零した。
「──もう、さらっとそういうこと言っちゃうんだから」
「ふふ、だって本当のことだし」
コノハが悪戯っぽく笑うのを眺めて、泉純は自分の胸にそっと触れて、息を吐く。少女の透けるように白い肌はすぐに色付いたことが分かってしまうから、ここが青く冷たい水の中なのが幸いだった。少女のそんな様子を微笑ましく見つめて、コノハは唇を開く。
「……さながら人魚姫だね。王子の気持ちがよくわかる」
きっと物語の人魚姫も、こんな風に魅惑的な生き物だったのだろう。王子は夢うつつの中、海へと戻っていく人魚の姿に、何を思ったのだろうか?
──そんなことに思いを馳せてしまうほどに、目の前の少女は。
「たとえあなたが波に呑まれたときは、わたしが助けにいくよ」
コノハの内心を知ってか知らずか、そっと泉純は彼の手を固く握った。だからね、と桜色の唇は、祈るように小さく言葉を零す。その眸が、もう一度少年を見つめて細められた。
「……隣国のお姫さまじゃなくて、ちゃんと泉純を見つけ出して、ね?」
そんな泉純の言葉に、コノハも小さく笑う。自身の手を握る白い手に、もう一つ、自分の手を重ねた。──その時は、またこうして手を取って。
「僕が君のこと間違えるわけないよ」
だって、君はこんなにも無垢で、海の中でも光る星のように綺麗なのだから。
知らない魔法を知ったら、まずは試してみたくなるもの。はじめてに好奇心をむくむくと刺激されるまま、結・惟人(桜竜・h06870)は手元の小瓶を海上に向かって傾けた。ぷかぷか海上に浮かんだ巨大なシャボン玉に、琥珀色の眸がきらりと煌めく。
「これで海の中を進むのか。濡れなくて済むのは楽だな」
これなら塩水で花が傷むこともない。惟人はサギソウの苗を守るようにしっかりと手で携えて、遊色きらめく泡の中に足を踏み入れた。
小さな泡の潜水艦は乗客を乗せると、とぷんと海の中へ沈んでいく。視界を遮る程の白い気泡を見送れば、次に視界いっぱいに広がるのは透明なコバルトブルー。その光景に、小さく開かれた唇から思わず感嘆の息が零れる。
「それで……」
操縦桿もない中、きょろきょろと辺りを見回せば、いつの間にか共に飛び込んでいたらしい魔法具の魚がちかちかと自身の光を明滅させているのが目に入った。
「なるほど、あちらに行けばいいのか?」
惟人の声が聞こえているのか、いないのか。魚は明滅を繰り返し、するりと深いところへ泳いでいく。きっと誘われているのだろう。うん、と頷いて、惟人も後を追いかけていく。
「あっ花……ではない、イソギンチャクが綺麗だ」
海の世界は地上とも異なる色彩で溢れている。岩陰に根付くオレンジやピンクの花々に、ひとしく花を愛でる惟人の興味が惹かれるのは、もはや必然だ。
「少し見ていってもいいだろうか」
泡が止まれば、光る魚も動きを止める。もう仕方ないなぁと声があれば魔法具は言っただろうが、惟人の耳には届かない。魔法具の動きを同意と捉え、惟人はイソギンチャクの群れへと近づいていく。よくよく観察すれば、ふわふわと長い手足に隠れるようにして、鮮やかな色合いを持つクマノミの親子が身を休めているのが見えた。微笑ましい光景に「かわいいな」と自然と声が出ていた。魚を驚かさないよう距離を守りつつ、惟人も気が向くままに泡の中で寝転がってみる。
静かな満ち引きに泡はゆらゆらと揺れて、まるで自然のロッキングチェアだ。上からきらきらと零れる日差しは木漏れ日にも似て、耳に届く波の音は風が木の葉を揺らす音のようにどこまでも安らかに響く。
「……この漂う感じ、気持ち良い……」
自然と眠ってしまいそうになりながら、惟人は海上を見上げる。
光り輝く海面はずっと遠く、しかし彼の元まで確かにきらめきは降り注いでいる。その美しい光景を眺めながら、惟人は物語の人魚へと思いを馳せていた。
──滅多に海へ入らない私が、綺麗なもので溢れている海の中に興味が湧くように。人魚も、地上が輝いて見えたかもしれない。
だとすれば、人魚が人に恋をした物語は必然だったのだろうか?
ぷかぷか浮かぶ物思いのさなか、ゆらゆらと海の揺り籠はおだやかに静寂を保ち続けていた。
「おまたせ」
しばらくした後、惟人は再び元の体勢に戻って光る魚に向かって声を掛ける。魔法具に声があるならきっとぷんすか文句を述べていた筈だ。でもやっぱり、惟人には届かない。
「大丈夫、寝ていなかったぞ……多分」
のんびりと海の時間を堪能した惟人に、光る魚はくるんと素早く泳ぎを再開することでしか、抗議の意を示せない。
それでも彼は人魚の洞窟までしっかりと仕事をやり遂げてくれるだろう。
掌の上の巻貝も小瓶も、特別な魔法が込められた魔法具と呼ぶにはあまりにも軽い。おもちゃと言われて渡されても、気付かないくらいの小さな道具だった。それらを眺めながら、時結・セチア(セレスティアルの古代語魔術師・h01621)は金色の瞳を細める。
「へぇ、魔法具……色々とあるんだね。後学の為にも、ぜひとも作り方、或いは仕入れなども知りたいところだけど……」
魔術師として、未知の魔法に触れる機会は貴重なものだ。興味を惹かれて魔法具を見つめていると、セチアの横から伸びた細長い手が巻貝をさらう。
「父さんも母さんも人魚になって海を泳いだって言ってたね」
ゆらゆらと魔法具を陽にかざしながら、時結・ラチア(星屑の魔法使い・h01622)が銀色の瞳を細めて小さく笑った。
「せっかくならオレは人魚になってみたい。……セチアはどう? 父さんと母さんばかり人魚の気分を味わえていたなんてズルいと思わない?」
「……ふふ、確かにお父さんにお母さんも成ったというなら、僕らが成っても良いだろうしね」
どこかいたずらっ子のような片割れの表情に、セチアも表情を緩めた。
「OK。なら、人魚になって泳いでしまおう」
「――じゃあ、決まり」
二人は顔を見合わせて笑うと、一緒に巻貝を砕く。その最後の光の粒が空気にとけるより先に、青い海へと息を合わせて飛び込んだ。
光る魚を導にして、海の中を2人の人魚が泳いでいく。広がる青はどこまでも深い。海上から差し込む陽がゆらゆらと揺れて、幻想的な景色を生み出していた。その煌めきは夜空の星とも違う。身を委ねていつまでも眺めていたくなるような不思議な光のヴェールを折り重ね、小さな生命が合間を自由に泳いでいくのが目端に映った。
「……美しいね」
ため息混じりに零れたラチアの言葉に、セチアもただ頷きを返す。
「……うん、凄い光景だ」
底の方では波の流れに揺られながら、イソギンチャクやサンゴが色鮮やかな花を咲かせている。その中を、熱帯魚の群れがすいすいと泳いでいく。そんな光景のひとつひとつに海面からの光が降り注ぎ、より鮮やかな景色として目に映った。
二人の人魚は影と実体のように常に同じ距離を保ち、ぴたりと寄り添いながら青の世界を渡る。色鮮やかな世界に、いつしか言葉すら忘れて──そうして海中を泳ぎ続けていけば、広い海に二人だけが取り残されてしまったような心地がした。
静寂が溢れて、辺りが青一色になった頃、ふと、ラチアが片割れの顔を覗き込んで、唇を開く。
「ねえ、セチア。もし、オレとセチアだけ取り残された──そんな世界線があったらどうする?」
「僕とラチア二人だけ、か」
思案するセチアの長い髪が波に乗ってふんわり揺れる。誰もいない、深い深い静寂の中、こんな風に、たった二人ぼっちになってしまったら──
「オレは、少しだけ寂しいかも」
ラチアはぽつりと呟いて微笑む。セチアはそんな片割れの顔を見つめながら、小さく頷いた。
「どうするかなぁ、寂しくない様に色々するだろうけれど……寂しさは募りそうかも」
そう言いながらも、彼がやることはいつもと変わらない。確信を秘めて、セチアはラチアへ手を伸ばす。金色の眸に、相反する銀色の眸を映して微笑んだ。
「……でも、手を離す事はないって、断言する事はできるよ」
「流石オレの兄セチア」
パーフェクトな回答だ。そう囁いて、セチアの手に自らの手を重ねた。存在を確かめるように触れる。
どんな時でも二人が分かたれることはない。その永遠の証明を、何度もなぞるように。
コバルトブルーの海の中は、まるで小さな命が息づく楽園のよう。透明度の高い水の中では太陽の光が差し込み、ゆらめく光のカーテンを作り上げている。そこに広がるのは、色彩豊かなイソギンチャクやサンゴが作る花畑と、そこに住む小さな熱帯魚たち。
それら全てをルール・ブルーの瞳に余すことなく映して、物部・真宵(憂宵・h02423)は感嘆の声を上げる。
「あたたかい海には熱帯魚や珊瑚があると本で読んだことがあったのですが、まさかこの目で見られるなんて!」
「うむ。海の中には何もないと思っておったが、斯く様に彩りに溢れる美しき世界であったとはな」
真宵の喜びに溢れた言葉に頷いて、神花・天藍(徒恋・h07001)も凍てつく冬の双眸に暖かな海の営みを映し、僅かに目を細める。
「そうか、真宵は本で読んだことがあるのだな。知識として知っていても実際に見るのは違うだろう」
折角の機会、楽しませて貰おう。そんな天藍の言葉に、真宵はいつもより弾んだ調子で首を縦に振った。青の世界をゆるり泳いでゆく魚の姿を見つけて、また心が踊る。
二人の前方では、魔法具の魚がゆらゆらと光を零して道筋を伝えてくれる。ゆっくりと進んでいく泡の内部は不思議と頑丈で、深いところまで進んでいってる筈なのに、一度も揺らぐことはない。次第に離れていく海面の光を見上げながら、真宵はふと唇を開いた。
「わたし、海に入るのは初めてなんです。水辺は危ないからと幼い頃から避けるように言われていて」
「確かに水は危うい、幼子の命など簡単に流されてしまうだろう。言い付け育てられた真宵は慈愛に護られていたのだろうな」
「ふふ、そうなのでしょうね」
天藍の言葉に頷きながら、真宵のまなざしはどこか遠くを見るように細められる。そうして見上げていると、在りし日の幼子が好奇心たっぷりに目を丸くして、海面からこちらを覗き込んでいた。青と青が交わる。
小さな頃では思いもよらない程、この世界はどこまでも広くて深くて。
「でも……こんなに美しい景色が見られるなら、少し勿体ないことをしてしまったように思えてしますね」
囁くような女の声はどこか寂しさが滲んでいる。その間、天藍は黙って耳を傾けていた。
「確かに残念かも知れぬ」
「……はい」
「だが知らぬからこそ受け取れる感動もあるというもの」
気付けば、心ごと透かしてしまいそうな二つの青い双眸が、遠くを見つめる彼女の横顔を捉えている。
「今を楽しめているのであればそれでよいだろう」
真宵が振り向けば、天藍と視線が交わる。彼の表情や声色はほとんどいつもと変わらない。
──けれど、真宵は確かにあの日の幼い自分ごと、おだやかに認めてもらえたような気がして、表情を緩やかに綻ばせた。彼女の表情が柔らかくなったのを見て、天藍は小さく肩を竦めてみせる。
「斯く言う我も海に入るのは初めてだ。それなりに長くは生きておるが、我は山間の生まれでな、海自体が物珍しいよ」
「そうだったのですね」
天藍の物言いに、真宵はくすりと笑う。彼の姿を一瞥すれば、心に浮かんだ光景は涼やかで美しい光景ばかり。それはきっと、彼がどこか触れがたい静謐さを纏っているからだろうけれど。
「山間は夜明けの淡いに棚引く雲海や、今にも落ちてきそうな星空があって美しいから大好きですよ」
その美しさを、真宵は確かに知っている。そして、それはただ遠く壮大なばかりではなく、記憶の中で、今ここで、自分を励ましてくれることも。
「天藍様が居て下さらなかったら、この泡に飛び込むことすら出来なかったかもしれません」
──本当に、とっても心強いです。感慨を込めて囁く真宵の言葉に、天藍はパチリと瞬きを返した。
「む、我は何もしておらぬぞ。飛び込む決意をしたのは真宵自身だ、己が心を讃えるがよい」
「ふふ。ありがとうございます天藍様」
言葉ひとつひとつに誠実に向き合ってくれる、天藍のその姿勢こそが得難いもの。
心にあたたかなものが溢れてきて、真宵は自然と表情を綻ばせた。
コバルトブルーの海面に太陽の光が白くきらめく様は眩く美しい。それはとっておきの写真集の1ページのような、すてきな光景のはずなのに。
「あれ?なんだか体が震えて……なんででしょう?」
廻里・りり(綴・h01760)は首をかしげる。潮の匂いがぴりりと鼻について、海面に近づくほどに身体が竦んだ。ハッキリとした理由はちっとも浮かんでこないけれど、心と身体の動きがすっかりちぐはぐになってしまって、糸がこんがらがった操り人形になってしまったかのようだ。
「りり、大丈夫?」
「ぬれるのがにがてだから? 泳げないからかな……?」
ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)の気遣わしげなまなざしを受けながら、自問自答を繰り返し、りりはふるふると首を横に振った。
「ありがとうございます、ベルちゃん。きっと手をつないでもらえたらだいじょうぶです!」
「……ええ、そうね。海の中へは、2人で入れる泡の形のものを探しましょうか」
ベルナデッタはただ柔らかく微笑み、りりの手を取った。無垢な心がバラバラになってしまわないよう、人知れず守ってみせるのがお人形のお仕事。
「ね、大丈夫よ、手を離さないわ」
誓うように囁いてみせて。少女の手を固く握ると、ベルナデッタは小瓶の蓋を開く。注がれた液体が海水に触れれば、ぷわりと膨らんで巨大なしゃぼんの泡に変わった。
ちょうどふたりでぴったり入ってちょうどいい位の大きさに、これなら安心、とりりもほっと表情を緩める。
「よかった、2人で入れそうですね!」
「ええ。さあ、乗ってみましょ」
ベルナデッタも笑顔で頷く。空いた手にはしっかりお互い花の苗を抱えて、二人をつなぐ指先は決して放さないように。
「……あら、これは2人の息を合わせないと操作が難しいのね」
中で様子を確かめていたベルナデッタはそう呟くと、りりと視線を合わせる。
「じゃあワタシにぴったり、ということだわ」
「はい。ふたり、ならこわくないですっ」
少女の手はまだ震えていたけれど、滑らかな人形の掌が包み込んでくれるから。広く暗い海の中だって、こうして一緒にいればきっと怖くない。
白い気泡が二人の泡を包み込み、視界いっぱいにコバルトブルーが広がる。
「濡れずにもぐれるのすてきですね」
一見ただのしゃぼん玉だというのに、海の中でも割れる様子はない。表情を強張らせて辺りを窺っていたりりも、ちっとも揺るがない泡の様子にほっとひと安心。共に飛び込んでいた魔法具の魚が光を放ち、暗い未知の先を導いてくれるから迷う様子も無さそうだ。
「……すごい、初めて見るものばかりだわ」
「わぁっいろんな色のお魚さん!」
少しずつりりの体の震えも収まってきて、辺りを見回す余裕も出てきた。透明度の高い青色の中を、レースカーテンが揺らめくように白い光が降り注ぐ。その合間を泳ぐのは、南国の花のように色鮮やかな熱帯魚達だ。
「見てください、ベルちゃん。見たことない子ばかりです」
「海の中に入る魔法は一度も試したことがなかったけれど……ええ、こんなに綺麗な景色をみれるものなのね」
海に入るまで、ワタシも実は少しドキドキしていたのよ。そんな風にベルナデッタが淡薔薇色の瞳を細めて微笑めば、不安だって一人きりじゃないことを知ってりりの表情も緩んだ。その指先が、いつの間にか近くへ来ていた魚の一匹を指す。
「見てください、近くまで来てくれてますよ! 泡に入ってるからでしょうか?」
水族館の分厚いガラス越しとは違い、無警戒に近くまで来てくれる魚たちの鱗の模様までよく見える。喜びが滲む少女の声に、ベルナデッタも口許を小さく綻ばせた。
「海の中がカラフルなものだと思わなかったわ」
光る魚が、光の届かない海中まで照らしてくれるおかげもあるのだろう。ふとベルナデッタが周りを見れば、ちょうど魔法具の魚が水底の方を泳いでいるのが目に見えた。
「見て、りり。あの辺はサンゴかしら? 花束みたい」
ベルナデッタが指さす方にりりが眼差しを向ければ、両手いっぱいに花束を抱えたような、色とりどりのサンゴの群れが岩底に咲いていた。地上の花にも負けない華やかな光景に、りりの青色の瞳もぱあっと輝く。
「本当だ! 花束みたいでかわいいです! お魚さんがひょこひょこ見え隠れしてます!」
「小さな生き物の憩いの場なのね。そっと様子を見せてもらいましょ」
そっと、の言葉にそうでした!とりりはぴゃっと耳を立たせて。
「はっ…そうっとゆっくり行きましょう。びっくりさせちゃったらたいへんですもんね」
神妙な顔で、声を小さくさせる。そんなあどけない様子も、今のベルナデッタには微笑ましい。すっかりいつもの明るい少女へと戻ったりりに、ベルナデッタは柔らかな笑みを返した。
──新たな思い出が、心の隙間をやさしく包み込んでくれますように。海はただ静かに全てを受け入れて、ゆらゆら漂い続けている。
色とりどりの巻貝に小瓶。一見ただの綺麗なアクセサリーや小物のようだけれど、そのどれもが魔法具だと聞いて、セレネ・デルフィ(泡沫の空・h03434)とマリー・エルデフェイ(静穏の祈り手・h03135)はまじまじと顔を見合わせた。
「海に潜る魔法具……マリーさんはどれにしますか?」
「うーん、私は何にしようかな……」
セレネが選んだのは人魚になるための白い巻貝。空色の瞳が見守る中、マリーも何度か指先を彷徨わせた後に、お揃いの巻貝を選び取る。
「私も人魚になるやつにします! セレネさんと一緒に泳げますしね!」
「ふふ。お揃いですね」
無事に魔法具も決まった所で、笑い合うと、二人はそれぞれの巻貝を砕く。内包された魔力が妖精の粉のように頭上から降り注げば、脚部は瞬く間に美しい鱗を持った魚の尾へと変わる。
「……! 足が本当に魚に……!」
√ドラゴンファンタジーに魔法は数あれど、自らの身体が直接変化すると言うのは何とも不思議な心地だ。驚きに目を見開くセレネの隣で、マリーは何度か尾の動かし方を確かめると、意気揚々と海面へ視線を向けた。
「すごい魔法ですね。よし、行きましょう!」
「はい……!」
──そうして勢いよく海へと飛び込めば、世界は瞬く間に鮮やかな青に染まる。
まずは泳ぎ方の確認。水を押し出すように尾を動かして前へ。それからぐんと身体を丸めれば、セレネはくるりと白い輪を描く。水中だと言うのに身体は地上よりうんと軽く、少し力加減しなければ、いつまでも泳いで行けそうな程だ。
「すごい……人魚さんって、こんなに自由に海で動けるのですね……!」
感嘆で瞳を輝かせるセレネの隣で、マリーも素早く尾を翻しすいすいと海水を割き、あっというまに船の先まで泳いでいく。
「すごいすごい! スイスイと泳げますよ!」
「あ、待ってください、マリーさん……!」
「わっと、ごめんなさい。つい」
慌てて追いかけるセレネを待ってから、二人で一緒に光きらめくブルーの世界をゆるやかに泳いでゆく。
「とても綺麗な海ですね……カラフルな熱帯魚も可愛らしいですし」
感慨深く辺りを見回すマリーの言葉に、セレネも頷いた。人魚の姿になっていると魚たちもあまり怖がらないのか、鮮やかな熱帯魚たちも二人の目と鼻の先で優雅に泳いでいる。スピードを緩めればその様子がすぐ近くに見えて、セレネの表情も堪らず綻んだ。
「マリーさん、綺麗なお魚さんたちです……! 色鮮やかでかわいらしいですね」
淡い色彩を纏う少女が鮮やかな魚たちに囲まれて微笑んでいる。その様子はさながら絵画のようで、つい、マリーの表情も綻んだ。
「ふふっ、お魚さん達も確かに可愛らしいですが、はしゃいでるセレネさんもとても可愛いですよ」
思いがけないマリーの言葉に、セレネはぱちりと瞳を丸くして。
「かわいらしい……ですか?」
「ええ、本当の人魚みたいです」
「そんな……」
なんだか少し恥ずかしい。両頬に手を当てて恥じらいつつ、別の話題を探そうとセレネは口を開く。
「そうですね、マリーさんは好きなお魚さん、海の生き物さんはいますか……?」
こんな機会だし、探しに行くのもいいかもしれない。セレネの質問に、マリーは首をかしげて考える。
「海はあまり来た事が無いので、特段これといったものは無いんですが……イルカさんが好きです。人懐っこい子だとキュイキュイいいながら近寄ってきてくれるんですよ!」
「イルカさん……! 近づいてくれる子がいるのですか?」
想像するだけで可愛らしい光景に、セレネは瞳を輝かせる。マリーも以前見た光景を思い出しながら、元気よく頷いた。
「すごく可愛かったですよ!」
「わ、そんな子に会ってみたいです……!」
この海にもイルカはいるだろうか。ダンジョンの攻略も大事だけれど、自由に海を泳げる機会は早々ない。思い切ってセレネは提案を口にする。
「せっかくですし、もう少し散策しませんか……?」
セレネの提案に、すぐにマリーもぱっと表情を輝かせた。
「そうですね、この機会を存分に楽しみましょう! せっかくですし、手を繋いで泳ぎませんか?」
そう言って差し出された手を、セレネはまじまじと見つめて。
「手を……? はい、是非……!」
二人は手を取り合い、どちらからともなく笑い合う。
この海にイルカはいるだろうか。見つかるかは分からないけれど、二人で泳ぐ海はどこまでも広くて、きっと楽しい。
「青くて広い海! あと磯の香り!」
きらめく日差しを受けて、少年のレモンイエローの瞳はますます輝く。
「これが水中ダンジョン……! 絶景ですね!」
全身で喜びを受け止めて、茶治・レモン(魔女代行・h00071)は船上から遙かな海を見渡した。けれど、はた、と思い出す。彼の出身は√ウォーゾーン。ただ生き延びることだけを続けてきた人類が、ちょっとした余暇や遊びを楽しむ余裕は当然、思考に存在すらしない。自然と視線は、白に包まれた両腕に落ちる。
「僕……海って初めてなんですよね」
それどころか、泳いだことすらない。この両腕は魔女のとっておき、魔法で出来た逸品だから、錆びる心配はない筈だけど。──少年の脳裏に浮かぶ、一瞬の懸念。
「泳げないことには……溺れるのでは?」
そんな少年の独り言に、くす、と小さな笑い声が返ってくる。レモンが素早く声の方向に視線を向ければ、青い瞳の少女がこちらを見ているのが分かった。
「ごめんなさい、思わず」
「いえ、すみません! ちょっと独り言が大きくて……!」
手を横に振って真面目に頭を下げる少年に、失礼だったわね、と小明見・結(もう一度その手を掴むまで・h00177)は微笑みながら謝罪を口にする。
「大丈夫よ。さっき聞いたんだけど、色々と魔法具が借りれるみたい。人魚に変身できる魔法具とか、泡に乗って移動できる魔法具とかあるみたいよ」
「えっ、人魚に変身できる魔法具……!?」
「ええ、よかったらどうぞ。私は別の魔法具を使うから」
「わぁ、ありがとうございます!」
結が巻貝状の魔法具を差し出せば、レモンはぺこりと頭を下げて両手で魔法具を受け取る。使い方も簡単、砕いて変身するだけと聞いて、なんて便利なんだと少年は感心しながら巻貝を見つめた。
「これなら泳げそうです。最悪泳げなかった場合、溺れる人魚としてこの地に名を残しますね!」
「それは……困ったわね。海中で見かけたら助けに行くわ」
少年のどこまでも真面目な発言に、結も思わず苦笑い。お互いの無事を祈りながら手を振り別れて、改めてレモンは白い光を跳ねさせきらめく海面と向き合う。
「よし、と」
言われた通りに巻貝を手で砕けば、きらきらと粉状の魔力が少年の身体を包み、瞬く間に脚部は人魚の尾へと変わる。純白の鱗が、陽の光を受けて眩いほどに輝いた。
「──いざ、海へ!」
まっすぐに、青を割くような勢いで、白い人魚が海へと飛び込んだ。
白い人魚が残した飛沫を横目に、結も小瓶を海面に傾ける。とぷとぷと注がれた液体が海水に反応してふわりと大きなしゃぼんの泡を作り、結はそれを壊さないようにそっと足を踏み入れた。
中に入ったと思えば泡はゆっくりと水の中に沈んでいく。そのまま沈むのではないか、という心配は一瞬で、海の中へ入り切った後は、結の思うが儘に動いてくれるようだ。
「海の中をこんな風に移動できるなんて……なんだかおとぎ話みたい」
ダイビング自体が初めての結には稀有な体験だ。ゆっくりと海の世界を眺めていられる貴重な機会に、瞳に更なる青を重ねながら、少女はのんびりと海中を見て回る。
普段なら水族館の分厚いガラスに隔たれてしまう魚たちも、今ならずっと近くにいて、何より自由だ。誰もが喜びの中、広い海の世界を生きている。珍しい体験に結の心も自然と明るくなってゆく。
一方のレモンと言えば、溺れる人魚としての不名誉な称号を抱くことに──なんてことにはならず。普段から魔力が体を巡る感覚に馴染みがあるおかげか、魔力で変じた肉体を動かすことにも多少適性があったらしい。戸惑ったのは最初の内だけで、数回動かせば元から自分の肉体のように魚の尾を動かすことが出来た。
はじめての海は少年を穏やかに包み込む。岩底に花開くサンゴやイソギンチャク、鮮やかな熱帯魚たち。さまざまな生命が溢れる海は色彩豊かに少年の心を驚きと喜びで満たした。
「わぁ、綺麗ですね」
すいすいと泳ぎながら見て回っていく内に、ふと近くに大きな生き物がいるのが見えた。──それはウミガメだ。悠々と三日月状のヒレを動かしながら、まろんと眠たげな瞳が少年を見つめている。
「もしかして、誘ってくれてます?」
少年の言葉を理解したのかどうか。分からないけれど、ウミガメはその言葉にすいっとヒレを揺らして少年の前を行く。
「おお、競争ですね。負けませんよ!」
少年はすっかり泳ぎ慣れた身体で、ぐんと速度を上げた。
それはまさしく白い人魚──ジュゴンの様であったと、見かけた人の噂になったのは別のお話。
──目に映る青はどこまでも澄んでいて美しい。そこまで海に詳しい訳ではないが、街からそう離れていないところにある海でこれほどまでに美しいと言うのは珍しいのではないだろうか。
結は街で聞いた話を思い出し、感心しながら海面を見上げる。
「きっと街の人も、海を汚さないように色々と努力してきたんじゃないかしら……」
自然と彼女の脳裏に浮かぶのは、人魚の物語を語る街の人々のどこか誇らしげな笑顔だ。
「彼らの思いを無駄になんて出来ないわ。ダンジョン攻略、頑張らないと」
だれかのためを思えば、どこまでもがんばれるのが結という少女。決意を新たに、更に海の奥へ奥へと向かっていく。
そんな少女を歓迎し、手招くように海は満ち引きを繰り返す。ゆらゆらと揺れる泡の中、少女は青い瞳に決意の灯火をきらめかせていた。
ふと潮の匂いが鼻腔をくすぐり、目・草(目・魄のAnkerの義子供・h00776)はぱちりと瞬きをして、ワッフルコーンの最後のひとくちを口に放り込んだ。迷子の逍遥は、いつの間にか花咲く街を抜けて違う場所まで続いていたらしい。黒真珠の瞳に映るのは、ずうっと遠くまで広がるコバルトブルー。空とおんなじ色の水面にきらきらと陽光の粒子が零れて光っている。
水面を渡る風がすうっと吹き抜けて、少年の髪をすり抜けていった。まじまじと眺めて──どうやら今度はここが「次の場所」なのだと直感的に察する。
「きらきらしてる……お水、綺麗だな」
歩いているだけだとつまらない。綺麗なものなら、うんと近くで見たくなるのが子ども心。波打ち際まで近づき、白いあぶくに触れてみると思いのほか冷たくて、草はひゃっと呟いて手を引っ込めた。危険はないようだけれど、触ってみるのは少しおっかない。危ない場所にいかないようにと保護者に言われていたのを思い出して、近くで見ているだけにした。誰かがいる傍でなら、少し眺めているくらいなら大丈夫だろう。
波は行ったり来たり、月の重力が生み出す不可思議な動きは繊細な泡のレースを紡ぐ。透明な水がちゃぷちゃぷ砂を濡らして、それだって1度も同じ動きはないのだから、いつまで見ていても飽きることはない。そうして子どもはまじまじと、しゃがんだ着物の裾が濡れるのも気にしないで見つめていたが、ふと、周りの大人たちが海へ飛び込んでいるのが目に入った。
「あれ? お水の中、ぼくも行けるのかな?」
近くにいる大人に尋ねれば、にっこりと笑って。これがあれば大丈夫だよ、と不思議な白い巻貝を少年の手に乗せた。掌の中の貝殻をまじまじと見つめる少年の目の前で、見てて、と声を掛けた冒険者は魔法具を砕くと人魚へと身体を変えて海へと飛び込んでいった。
「すごい! 人魚にもなれるの?」
お魚さんみたいになれるなんて──なんだかすっごく楽しそう!
好奇心の赴くままに草は巻貝を砕く。中の魔力がきらきら降り注いで、瞬く間に小さな脚は人魚の尾へと変わった。
「わあ……すごい!」
よし、行ってみよう、と意気込むと胸いっぱいに潮風を大きく吸って吐く。一度瞳いっぱいに青を捉えて、少年は海へと勢いよく飛び込んだ。
海を海とも知らないまま、飛び込んだ水の中は子どもひとりの想像以上に広くて深くて。どこへ向かおうか、先に飛び込んだ筈の大人たちを探して視線をきょろきょろと巡らせば、どこからかぴょいっと光る魚が少年の傍まで泳いできた。言葉こそないけれど、目の前で視線を合わせてくれる。
「もしかして……案内してくれるの?」
草の言葉に、魚は返事代わりに海中で器用に跳ねると、ぴろぴろと尾を揺らし泳いでいった。その暖かな光は、草がよく知る提灯の光によく似ている。この光は、きっと彼をどこか素敵なところへ導いてくれるのだ──そう理解して、少年は表情を緩めた。
「うん、一緒に行こうね」
もう一人じゃないから怖くない。草は暖かな光に誘われて元気に進む。光に照らされる海の中、よくよく目を凝らせば、ここはただ青いだけの場所ではないようで。
「あれは何だろう──白い花? ちがうけどお花畑みたい」
お魚さんも一緒に行こうと誘いながら、少し底まで泳いでみれば、ふわふわと綿毛のような触手を伸ばすイソギンチャクの群れを見つける。海面からの光を受けて淡く光るような海の花々を草がうっとり見つめていると、突如として視界が暗くなった。
「あれ?」
夜が来たのかな、なんて何気なく見上げてみれば、それは巨大な魚の影だった。座布団を広げたみたいな大きな魚が悠々と泳ぎ去っていく。
「ほわああ! おおきないきものさん、あれなんだろう!」
少年の瞳が輝いたのは、再び光が差してきたからだけではなく。そのまま追いかけていってしまいそうな少年の気を惹きながら、光る魚は何とかして目的地へ向かう。
暗いところへ行ったり、奥へと泳いでみたり──子どもにしてみればその航路はなかなか険しいものだったけれど、光る魚が傍にいたのもあって、少年はちっとも退屈せずに向かうことができた。
「ありがとう、お魚さん」
ダンジョンってこんなに素敵な場所なんだな。胸いっぱいの満足感を抱えながら、少年は新たな目的地へと向かう。
海底へ向かう為の選択肢はさまざま。泳ぎが不安なら水に触れなくていい魔法具だってあると教えられた。どれも魅力的で童話に出てくるロマンチックな物ばかりだったけれど、祭那・ラムネ(アフター・ザ・レイン・h06527)が選んだのはあえて「自分で泳ぐ」という方法。大丈夫かい、と親切な街の人は、慣れてないんじゃないかと冒険者の青年を心配したけれど、ラムネは朗らかに笑ってその旨を告げた。
理由は単純──俺は、海が好きだから。
船に揺られながら、さっきよりもずっと近くに在る青色のあわいでラムネは微笑む。潮風に短い髪を揺らして、思い返すのは施設での日々。それは客観的に見れば「つらいもの」として捉えられてしまうような傷だらけの日々かもしれない。けれど、だからこそ、幼い弟妹たちに読み聞かせる物語の中で、教科書に出てくる写真の中で、海の色はいっそう鮮やかに心に刻まれていた。
どれだけ広いのか、どんな景色なのか。想像しながらページを捲った、その指先だって、少し伸ばせば──ほら、もうそこへ届いてしまう。
だから、この身体で、そこへ触れたくて仕方がなかったのだ。
目的の海上で船が止まる。そうして一目散に、待っていましたとばかりに──ラムネは白い花を胸に抱いて、いとおしい青色へと飛び込んだ。
視界を眩暈のような白い気泡が埋め尽くし、そして静まった頃にはすべてが青に染まった。海上で見るのとは全然違う、透明で純粋なコバルトブルー。どこまでもずっと──それこそ、終わりなんかないんじゃないかと思えるくらい広く深い、永遠の青色だ。
言葉で例えようのない美しさに瞳を輝かせながら、ラムネは高鳴り続ける心臓をぎゅっと片手で抑えた。ゆらりと満ち引きを繰り返す海の中では留まるにも泳ぐ力が必要だったけれど、泳ぎの経験は在学時代のプールくらいしかないにも関わらず、ラムネは不自由なく泳ぐことが出来た。本当の故郷は海の中なのかもしれないなんて冗談が思いつくほどに、その動きはしなやかなものだ。
(……海の中、すげえ)
目に映るすべての光景を見逃したくないと、瞬きすら忘れつつ海の世界を見ていく。
ああ、すぐにでもこの喜びを親友に共有できたなら! そんな衝動も何とか堪えて、目印の魚を追いながら体を動かす。魔法具の灯りにぼんやりと照らされるイソギンチャクやサンゴの色彩豊かな光景もまた、読み聞かせた絵本の世界をそのまま移したかのような華やかさで、ラムネの心を更に高鳴らせた。
もしこの目がカメラか何かだったら、そっくり丸ごとこの世界を映して、色んな人に見せてあげられたのに。ゆっくりと見て回りながら、そんなことを考えて、思わず、ラムネはひとり微笑んだ。仕事で来ていることはもちろん忘れてはいないけれど──さっきからちょこちょこ魚から逸れてしまっているのは、勘弁してほしい。
そんな拍子に、小さく口を開いたら、笑い声が泡になって零れた。その動きを目で追いながら、ラムネは足を止めて海面を見上げて──また息を吐く。
きらきらとゆらめく白い光が差し込んで、眩いほどに光っている。海中から見上げる世界の美しさに、ため息が零れるばかり。同じ青色の瞳の中で、泡沫はぱちんと最後の光をきらめかせて弾けた。──どれもこれも、夢に見たような光景だ。ずっと。
(お土産話が出来たな)
ラムネは揺蕩うようにその光景を眺めながら、小さく微笑む。
胸に刻んだこの光景を話す時、彼はどんな風に話を聞いてくれるだろう。そんな想像が出来るのも、きっと、とても、幸せなことだ。
青い空に白い雲が浮かんでいる。眩いばかりの白色に先ほどまで食べていたアイスブーケの花の色を思い出して、ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)は小さく微笑んだ。
「アイス、とても美味しかったのです」
「美味しかったよね~!! ボク、ほっぺた落としてないか心配になっちゃったよ!」
「ふふ、大丈夫なのです。ちゃんとくっついているのですよ」
冗談を交えて快活に笑うラナ・ラングドシャ(猫舌甘味・h02157)。そんな彼女に微笑みを返して、ラデュレは花の苗をしっかりと抱き直した。その様子を見て、よかった!とラナも元気よく頷く。
「アイスも食べたし苗も買えた! という訳で次は~~?」
喜びが溢れて二股尻尾をブンブンと揺らす。その瞳に宿るきらめきは、頭上で燦々と輝く太陽にも負けない強いきらめきだ。
「海だーーーっ!!!」
青空を突き抜ける程の元気のよい大声。拳を元気よく青空に向かって突き出すラナに、ラデュレは神妙な顔で頷きを返した。
「次は海の洞窟へといくのですね……!」
「ラーレはお水平気? ボクは全然平気なタイプ!」
泳ぎだってお手の物!と自信たっぷり意気揚々と胸を張るラナの一方、ラデュレはしゅんと眉を下げた。水の中の冒険だってもちろん大歓迎、そう言えたらよかったのだけれど。
「おおきな泡に入って遊覧しませんか……? 水のなか……どきどきとしてしまうのです」
「泡?」
はじめての一歩を踏み出すのは、まだ一人だと心細いもの。少女がたどたどしくお願いを口にすると、ラナは少し目を丸くした後、にこっと笑いかけた。
「にゃはっ、いいね! それなら濡れないし、水の中でもバッチリ目を開けられる!」
なんでも前向きに捉えてくれるラナの笑顔は、まさしく太陽のよう。思いがけず返ってきた明るい返事に、ラデュレもほっとしたように息を吐いて表情をふわんとやわらげた。
「ありがとうございます、ラナ」
「ううん、こっちこそありがとう! 大きい泡にふたり一緒に入れてもらおっか!」
街の人から泡の入った魔法の小瓶を貰い、船へ乗り込む。海上を滑るように白い風が吹き抜けて、潮の匂いが鼻腔をくすぐる。ちゃぷちゃぷとささやかに波を立てる海面を並んで覗き込んでいると、こんな海の底に美しい人魚が暮らしていたかもしれないだなんて、なんとも不思議な心地だ。これから覗く世界に、ラデュレは小さく高鳴り続けている胸を抑えた。
「人魚の物語を読んで、ちょっぴり憧れていたのです」
「海の中? それともお話?」
きっとそのどちらにも。ラナの質問にラデュレはこくんと頷いた。
「やさしくて、かなしくて、きれいなお話……ラナはご存知ですか?」
「うん、しってる!」
ラナは元気よく頷いた後、視線を海面に向ける。叶わない恋をし、最後は相手の幸福を祈って泡になって消えた儚い別離の物語。その終わりを思い起こして、ラナは視線を伏せた。睫の影が瞳にそっと落ちる。
「彼女は……優しすぎるよね。もっと自分のことを大切にするべきだよ」
囁くような声は波の音にそっと溶ける。その終わりを思って胸がきゅっと締め付けられるようになるのは、自分も同じ立場なら同じ選択を選んでしまいそうだなんて共感があるからだろうか。
つい物思いに更けてしまいそうな心を吹き飛ばす様に、ラナはふるふると勢いよく頭を振った。突然のラナの行動にぴゃっと目を丸くするラデュレに向かって、ラナは明るく笑いかけると、手の中の小瓶を見せびらかす様に軽く振ってみせる。
「ごめん、さ、そろそろシャボン玉を作ろっか!」
「は、はいなのです……!」
小瓶の中身を海へと注げば、たちまち膨れ上がって大きなシャボン玉を作る。本物の魔法の道具にわあ、と二人は揃って感嘆のため息を吐いた。
そうして、あとは乗り込むだけ──なのだけれど。ふとラデュレの方に視線を向けたラナは、少女の手が小さく震えているのが見えた。
「……ラーレ、大丈夫?」
「は、はい……平気、なのです」
さっきの話の時も彼女は怖がっていたように思えたから。ラナが気遣わしげに表情を覗けば、ラデュレはこれ以上心配を掛けないようにと何度も首を縦に振る。けれど、元来こわがりで臆病な子ウサギは、声の震えまで隠せない。
そんな少女の様子を見て、ラナはさっと自身の手と尻尾を1本ずつ差し出した。
突然の行為にラデュレが瞬いていると、ラナは朗らかに笑う。
「怖かったら尻尾に捕まっててもいいし、手を握っててもいいよ!」
「……! ラナ、いいのですか……?」
もちろん、と朗らかに応えるラナの笑顔を見ながら、ラデュレはおずおずとその手を取った。彼女のやさしさに甘えて握った掌は、彼女の笑顔と同じくらいに温かい。
「……これで、怖くない、のです」
自然とラデュレの表情も綻び、ラナもしっかりと手を握り返した。一人じゃないから、海の中も怖くない。ラナの明るさに励まされるように、ラデュレも一歩を踏み出す。
細かな気泡がしゅわしゅわと泡の壁越しに弾けていく。二人が乗り込んだと同時にゆっくりと沈んでいくシャボン玉に、怖気づいたのはほんの一瞬のこと。
目の前に広がる海の世界に、感動で心が塗り替わる。まるで青いゼリーの中に丸ごと閉じ込められてしまったかのような海の底には、花弁のように腕を広げるサンゴやイソギンチャクの群れが広がっていた。
「──わぁ! みてみてラーレ! すごい綺麗!」
「──わあ、……!とっても、きれい……!」
二人してその美しさに歓喜の声を上げて瞳を輝かせる。海面から差し込む白い光はまばらなスポットライトのようにところどころを照らしていた。時々光の当たった幸運な泡沫が真珠のように光って、そのまま海上へと昇っていく。その光景をラデュレは一生懸命に見上げていた。その少女の肩をちょんちょんと突いて、ラナは眼下に広がる海底の花畑を指す。
「あ、ラーレ! あのゆらゆらしてるのもお花畑みたいで綺麗だよ!」
「! 本当です。熱帯魚の群れも、まるで宝石みたいなのです……!」
目に映るどれもがただ海面からの光に照らされているだけでなく、本当にそれ自身が輝いてすらいるように思えた。想像以上の色鮮やかな海の様相に二人できゃっきゃとお互いに見つけたものを教え合う。
そんな中、こちらに近づいてくる大きな影を見つけて、ラデュレはぱちりと瞬いた。
「あの生きものは……マンタ、でしょうか」
「! マンタ……って、会えたら運がいいって言われてた子だよね?!」
ラデュレが示した方向に目を向ければ、悠々と鰭を羽ばたかせて海面近くを滑らかに泳ぐマンタの姿が目に映る。すごい、と瞳を輝かせるラナの尾がゆらゆら揺れた。
「ゆっくりのんびりなのにすごい迫力!」
「優雅な泳ぎに見とれてしまいそうです」
頭上をゆったりと通過して、小さくなっていく姿を目で追いながら、二人は息を吐く。
憧れで未知の世界は、それ以上に生と色で溢れていた。目に見えるものに圧倒されつつも、その鮮やかさからちっとも目が離せない。
「普段は陸で過ごしてるから知らなかったけど、海の中ってこんなに綺麗なんだ……!」
「はい。はじめての海のなかは、素敵なものでいっぱいですね」
先ほどから口が開きっぱなしのラナに頷いて、ラデュレも微笑む。すっかり最初の不安はなくなっていて、今は次々と飛び込んでくる未知の色を見つけるのに心が忙しいくらいだ。
そんな中、あ、とラナが小さく声を上げる。また何か発見があったのだろうか? 問いたげなラデュレの視線に、ラナは悪戯っぽく微笑んで。
「せっかくならお供のお菓子や飲み物でも持ってくればよかったね」
気分はすっかり遠足か物見遊山。ぺろりと舌を出したラナの言葉に、ラデュレも頬を緩めた。
「お菓子があれば、海のなかの贅沢なお茶会でしたね」
それはそれで素敵な時間になっただろうけど、今回のところは景色だけでお預け。
だけれど少しも飽きることはない。洞窟に辿り着くその時まで、ラナとラデュレは美しい海の世界を目に映し続けていた。
第3章 ボス戦 『オレンジ・ペコ・ダージリン』

●花は声なく、ただ香る
水がぱつんと断ち切れる。潮の匂いに混じって、しっとりとした空気から、濃い甘い匂いを感じた。
海水から投げ出されるようにして湿った地面に足を付けたあなたは、そこが水中ダンジョンの終わりであり、街の人が言う人魚の伝承の洞窟だと知るだろう。
芳香に誘われるままに奥までまっすぐ歩を進めれば、程なくして広い空間に出る。
──本来なら光の届かない水底の洞窟。しかし、その空間は不思議と地面から仄かに照らされて、その全貌をあなたの前へ現した。
目を凝らせば、淡い明かりは小さく可憐な花の形をしている。
どれも白いが、形は様々で、かつてこの洞窟を訪れた者が植えていったのだろうと分かる。人魚の祝福でもあるのか、驚くべきことに、この地に長く植えられた白い花は不思議な燐光を放つらしい。
その合間に点々と穴が空いてしまったように見えるのは、墨でも塗られたかのように黒ずんで光を失っている花だった。恐らく、これが件の遺産の影響を受けている花なのだろう。
この花を取り除き、新しい白い花で埋めるのが冒険者達の仕事だ。幸運にも辺りには守護者の姿も見えない──であれば、今の内に除草を済ませてしまうのが良いだろう。
そして、それが終わった後は。
かつて花を植えた人魚のように、そしてその伝承をいつくしみ花を植えてきた人々のように。
あなたもまた、花に願いを託してみてもいいかもしれない。
●マスターからの補足
絶対に必ずやりたい!と言う場合を除き、ボス敵への対応は不要です。
黒い花はさほど数が多くないため、参加者の皆さんが1人1本でも抜けば充分でしょう。また、特に対応なさらなくても、抜いた後で適切な処分をしたことにします。
願いごとに関しては特にルールがあるものではありませんが、せっかくなのでどういう思いや記憶の下に願いをかけるか、エピソードなども添えていただけると嬉しいかもしれません。
それでは、よい時間になりますように。
陽の光すら届かないはずの水底をほんのりと照らすのは白い花の光。心のやわらかいところまで照らしてくれそうな光の群れが地上から洞窟の天辺まで淡く照らすのを見上げながら、結・惟人(桜竜・h06870)は惚けたように細く息を吐いた。
「なんて綺麗なのだろう」
好ましいものをただ静かに目に映す。そうして居るだけで、あっという間に時間が過ぎてしまいそうだった。今回の目的を思い出し、ふるりと首を横に振って気を取り直す。そのまま視線を落とせば、白い花の合間合間に、光を失って項垂れる黒い花の姿が見えた。あれが、件の遺産の影響を受けてしまったという花だろう。他の花を踏まないよう慎重に近づくと膝をつき、根本に手を伸ばす。
「……すまない」
花に罪はない。ぷつんと地面から切り離す指先が少し震えていたのは、惟人が盛りの花の剪定すら惜しむような気質だからだろうか。しかし、此度の遺産の影響は花すら蝕む病のようなもの。そして花が誰かの願いや笑顔を曇らせてしまうのも本意ではない。せめて必要以上に傷つかないよう、細い根の先まで丁寧に、在りのままの形で花を取り上げた。ぽっかりと空いた穴の中心には、代わりに持ってきた苗──サギソウを置く。ビニールを外し、軽く根を解してから再び土を被せる。一連の動きは手慣れていて、惟人は指先に泥が付こうが、構わず作業に耽った。
(此処で素敵な花を咲かせてくれ)
丁寧な作業であればある程、込めた願いが花に伝わることを、彼はよく知っている。
そうして作業がひと段落した頃、惟人はふと伝承のことを思い出す。
「願い……」
口がその言葉を形にすれば、思いはすぐに浮かんできた。
──この花畑が長く長く続きますように。ここを訪れた人々が、美しい光景に心を慰められるように。そして、最初に植え始めた人の想いもまた、未来まで繋がっていくように。
(本当に、人魚が植えたのかもしれないな)
幻想的な光景を金の瞳に写しながら、惟人は、ふとそんなことを考えた。込められた想いが今の瞬間まで繋がっている、その証明こそがこの光景なのかもしれない。だとしたら、今自分が植えた花も、願いを繋ぐ糸のひとつなのだろう。
最後の土をかけ終えたサギソウが、どこからか吹く空気に揺られている。この花もいつかここで成長しきれば、他の花と同じ様に淡い光を伴い咲き始めるのだろうか。
──けれど、そこに惟人は自身の願いを託そうとは思わなかった。
それは心を苛む小さなトゲのせいか、その慎ましやかな性格のせいか。
それでも今、彼の胸の中は確かな満足感で満たされている。惟人は作業を終えた手を清めながら花畑を見つめた。花は彼のちょっとした傷なんて、何も知らない。何も語らず同じ場所に留まり続け、健気に咲き続ける。
(……そんな花が大好きだ)
慈しみを込めたまなざしの中、花はただそこに美しく在った。
新たに加わったサギソウもまた、仲間たちと同じ様にただここに咲き続けるだろう。その未来を思い、惟人はまなじりを優しく下げて、尾を揺らす。
そしていつまでも、静かに花畑を見つめていた。
洞窟の地面を覆う花々はよく見れば種類も様々だ。花畑と言えば一面同じ種類の花が地面を埋め尽くす様を想像していたけれど、同じ色の花で揃っているのもやはり見事なものだ。懐音・るい(明葬筺・h07383)は幻想的な光景に小さく感心しながら、ここまで欠かさずに抱いていた花の苗を持ち上げる。
「とりあえず、手早くやっちゃおうかな」
淡く輝く花の合間から、そうでないものを見つけるのは容易い。ぷつんと取り除き、新しい苗の上に土をやわらかく被せていく。
「この花も次の誰かが来るときは、今光っている花たちのようになるのかな?」
植えたばかりの花は不思議そうな菫色の視線を受けても黙ってそこに佇んでいた。土壌にどんな効能があるのか分からないけれど、植えられた瞬間にすぐ光り出すというものではないらしい。けれどみなと同じところに足を降ろした花はどことなくしゃんと胸を張っている様で、るいは静かに微笑む。時間が経てば、きっとこの花も他と同じ様に輝きだすだろう。
──そういえば、人魚は花に願い事をしたんだよね。
ふっと浮かんだのは、そんな伝承の一幕。なら自分もやってみようかと、るいは暫し花に託せそうな願いごとを考える。しばし目を閉じて、心と向き合えば、ふわりと泡のように浮かび上がってくる願いごと。
「そうだなあ……」
──あの人にもう一度会いたい。
もう二度と会うことは叶わない、兄のように慕っていた人。その輪郭をなぞりながら、るいは胸の中で小さく願いを唱えた。
言いたいことも思っていることもたくさんある。それは別れから月日を重ねれば重ねる程に、砂時計の砂のようにるいの心の中に静かに降り積もって体積を増していく。それでも、会えないことだって初めから分かっている。どうしようもなく、分かっているのだけれど。
「直接は無理でも……夢の中にくらいなら出てきてくれたりしないかなぁ」
ね、なんて指先で花弁をくすぐりながら、るいは幽かに笑った。
花は受け入れるだけ受け入れて何も応えない。けれどどこか懐かしいような爽やかな芳香に包まれて、暫しるいは祈るように瞼を閉じた。
「ここが、人魚が白い花を植えたと言う洞窟……」
茶治・レモン(魔女代行・h00071)は地面いっぱいに広がる白い花々を見ながらほうと息を吐いた。ここまで泳いできたこともあって、その息は少し冷たい。元から水底近くに在ったのだろう、人魚の洞窟はどこかひんやりとして淀んだ空気の中にあったが、花々は素知らぬ顔で淡い光を零す。その光は呼吸に合わせてときどき微かな明滅を繰り返していた。この光は魔術が息づく土壌が反応して生まれているのだろうか。人工的な光とも違う、ひょっとしたら目を離した隙に消えてしまってるかも分からない、儚い輝きだった。
「これは美しい……」
ひとつひとつ白い光を目に映していたレモンは、その合間に点々と光を失った花があるのが分かった。これが例の、遺産の影響を受けた花なのだろう。生まれた頃から染みひとつなかったであろう真白の花弁は、今や土足で踏みにじられた雪原かのように端から黒い斑点に蝕まれ、物悲しく項垂れている。
「あっ……なるほど。確かに黒くなった花が」
少年は早速その場に跪くと、失礼します、と囁いてから、花の周りの土を取り払っていく。根を傷つけないように少し広く深めに掘っていく内に、しっとりと湿った黒い土が露わになっていた。ぽっかりと空いた穴を埋めようと、新しい白をその中心に据えていく。
「折角ですし、願いごと、願いごと……うーん」
白い手袋が汚れるのも厭わず、土を再び苗に被せていきながら、レモンは暫し思案を巡らせた。花に託せるような願いごとがあっただろうか。
「せ、世界平和、とか?」
なんて。咄嗟に浮かんだありきたりすぎる四文字に、思わず一人で突っ込んでしまった。
「あまりにも無難すぎるかな、結構本気なんですけどね」
生きるために、白い手を汚さなければいけなかった人がいること。生きたいという、本来だれでも叶えられるような願いでも届かなかった人がいること。世界にはまだ苦しみと悲しみの声が挙がっていることを、少年はよくよく知っていたから。
「そうだな、じゃあ……」
考えごとに耽るレモンの瞳に白い花が映る。やわらかな光を零しながら懸命に咲く花々を見つめ、僅かに目を細めた。
「ここがまた、白い花々で満たされます様に──そして誰かの幸せを祈る方々のもとへも、幸せが訪れます様に!」
「……うん、これならいいんじゃないでしょうか?」
花に託すなら、とっておきの願いだろう。レモンはちゃんとした願いを言えた自分に満足げに頷いて、立ち上がる。
そして植え替えた苗の傍らに横たわっていた斑模様の花をやさしく掬い上げた。この花がこうなってしまった原因は遺産だという。ならば、花に罪はない。
(元の白さには、戻せてあげられないかもだけど、もしかしたら、違う場所で輝く価値を見出せるかも)
この洞窟から離れた花は他の花のようにはもう輝かないのかもしれない。それでも今、レモンの目には太陽の光の下、透けるような花弁を広げてきらきらと咲く白い花の姿がありありと映っていた。
それはこの洞窟の花にも負けない、生の喜びに溢れている。
「──海の外へ、一緒に帰ろう」
囁く少年と花のこれからを言祝ぐように、洞窟の花はあたたかな光を零していた。
視界いっぱいに広がる白い花畑に、小明見・結(もう一度その手を掴むまで・h00177)はうっとりと息を吐いた。市場で見たような太陽の下で溌剌と咲く白い花も美しい。でも、光の届かない水底でひっそりと光を零し、静かに息づく白い花の光景も実に幻想的なものだ。どちらも甲乙つけがたい美しい光景を前に、いつまでも見ていたい気持ちもあったけれど、仕事を思い出して少女はそっと視線を下げる。
点々と、黒点のように白い花畑の表面に空いて見えるのは、問題の黒い花だ。
「可哀そうな気もするけれど、このままにはしておけないし」
ごめんね、と小さく伝えてから、結は花へと手を伸ばす。ぷつんと断たれた花の最期を惜しむように、やさしく地面に寝かせた。
こんな時でも、結が考えるのはやがてここを訪れる街の人のこと。道中の海は心躍るような景色だったけれど、その平穏は冒険者だけの特権だ。無事にここを遺産から解放して、すべての人が笑ってこの景色を眺められるといいと祈りながら作業を続けていく。
「よし、と。これでこのダンジョンも元通りになるかしら」
しばらく集中している内に、目に見える所の黒い花は大体除去できたらしい。額に浮かんだ汗を拭い、胸を仄かに満たす温もりは充足感だ。──けれど、まだまだ作業は終わらない。結はここまで運んできた花の苗を手に取る。鈴の形の花が、ようやくの出番に誇らしげに身を揺らした。
(人魚さんは花に願い事をしていたのよね)
花に託す願いごと。結の心に浮かんだのは、たったひとつだ。自然と、花を抱く手にも力が篭る。
「……あの子を見つけられますように」
脳裏に描くのは太陽にも負けない晴れやかな笑顔。今も鮮やかに蘇る笑い声。どちらかといえば控えめな自分の手を引いて、いろんな所へ連れ出して。時々嫌になるくらい自由に動き回って。でも、あの子と見る景色はどんな写真で切り取るよりずっと鮮やかで。
(──美羽)
瞳を閉じて、その輪郭をなぞるように大事な名前をそっと囁く。突然いなくなってしまった、大切な幼馴染。あの子が今、どこで何をしているかは分からない。けれどあの子を探して、暗い夜道も、遠い世界も──花に溢れた庭園や、気付けばこんな海の底まで、いろんな景色を結はひとりで歩み、その目に映してきた。
(今度は私があの子を連れてきたい)
まるでプレゼントの交換みたいに。昔見せてもらった景色の代わりに、自分が見てきたすばらしい世界を見せてあげられたら、あの子はどんな顔で喜んでくれるだろう。年を重ねたであろう少女が昔と変わらない笑顔で笑ってくれるところを想像して、結はくすりと笑った。しゃがんで、苗に土をかけていく。
「ここにもう一度、あの子と一緒に来ましょう」
願いは新たな誓いと共に。決意に満ちた青い瞳に、ふと鈴蘭の白色が映った。
──その意味は、再び幸せが訪れる。
ここを訪れる人々にも、真摯に願う少女の元にも、きっと。
「きれい……」
洞窟を淡く照らす白い光に、物部・真宵(憂宵・h02423)の唇からため息が零れる。服に皺が付かないように丁寧に抑えながら屈み、伸ばした指先には淡い光の粒が乗った。けれど降ったばかりの雪のように儚い光は、真宵の目の前ですっと溶けてしまう。指を持ち上げて近くで見ても、燐光に跡は残らない。彼らが痕跡すら残さないのは、恋心をここへ沈めて消えてしまった人魚の健気さに似たのか。
「でもこの光は想いが叶わなかった人魚の涙なのだと思うと……なんだかすこし切ない気もしますね」
憂いを帯びた影を瞳に落として囁く真宵ごと花畑を眺めながら、神花・天藍(徒恋・h07001)も相槌を打つ。いつの世も、人であろうと人魚とやらであろうと、恋ふる想いは同じことのよう。──だが。
「確かに切なかろうが真宵のように想いを寄せる者がおれば、人魚にとっての救いにもなろう」
残した物語をなぞって零れた誰かのため息に、人魚の心は少しずつ慰められてきただろうから。まるで目の前にそんな人魚の微笑が浮かんでいるかのように、少年の姿の古き者は僅かに目を細めた。
「救い……そうであれば、嬉しいです」
天藍の声色はほんのり冷たい。けれど、彼が語る言葉にはいつも穏やかな慈しみを感じられるような気がして、真宵はまなじりを下げる。
「件の花は摘み取らねばならぬのだろう。探すぞ、真宵」
「はい、天藍様」
真宵は立ち上がり、天藍と二人で端から順に花畑を見ていく。白い花の合間に不自然に空いた穴のように見える地面に視線を向ければ、すぐに問題の花は見つかった。しかし、そこに美しい白の名残は無い。身のほとんどが黒く染まった花は、悲しみに伏す女のように項垂れ、萎れた花弁をきゅっと縮こまらせていた。
「これが遺産の影響を受けた花でしょうか? こんなに真っ黒になってしまって……」
哀れな花の姿に真宵の柳眉も自然と下がる。ここの花は街の人達が想いを込めて手ずから植えてきたもの。その想いも枯らしてしまったようで悲しくなってしまう。天藍をちらりと窺えば、彼は瞳を僅かに細めるばかりだ。
「季節が廻れば花は枯れる。時が過ぎれば命も絶える──」
まるで詩を諳んじるかのような、朗々とした天藍の声に、真宵は頷いた。老師の言葉を傾聴する生徒のように居住まいを正す。
「不変のものなど存在しないが故この世界は美しく在り続けるのだ。花は黒く変容してしまったが、それもまた自然の摂理」
「……! 桜も散る姿も美しいですものね」
ぱっと表情を明るくした真宵に、天藍もこくんと頷く。
「うむ。かつて植えた者の想いを継いで今度は真宵が花を植えればよい」
「ええ、ありがとうございます。先人の皆さまの想いを紡いでいきましょう」
四季のひとつを彩に抱く天藍がそう言うのであれば。迷いは解かれ、真宵は黒い花と向き合う。天藍もまた近くに黒い花を見つけ、二人は共に周りの土を取り払っていった。
穴の真ん中には、共に用意した新しい苗をそれぞれ中心に据える。気付けば、つい集中して黙々と作業に取り組んでしまっていた。そういえば、と真宵は天藍に声を掛ける。
「花を植える際にお願いごとを、ということでしたが……天藍様は何かお願い事、されます?」
真宵としては、作業の合間に何気なく話しかけたつもりなのだろう。こちらを見つめる瞳に曇りはなく、だからこそ、天藍はつい、視線を僅かに下げてしまう。
「我の願いは……」
天藍の視線の動き。ためらいがちな唇。それらの意味するところに、彼女は眉を下げてやわらかく笑みを浮かべた。
「あ、いえ。内緒のお願い、でしたね」
「すまぬ」
そう、願いごとは秘めるもの。声に出しては、ここの光と同じように溶けてしまうかもしれないから。そういう風に理由を付けて、二人はそっと互いの心を守り合う。
「大丈夫ですよ、天藍様。さあ、最後に土を被せましょう」
真宵の言葉に天藍は小さく頷いて、再び二人の間には、祈りのための沈黙が落ちる。彼が深く落ち込んだりしている様子ではなさそうなのを確認してから、真宵は自分の花の苗と向き合った。──花に託す願いごと。改めて向き合うとなると、すこし難しいけれど。
(わたしは……大切な人が見つかったときにその方を護れるように)
強くなりたい、と思うのはあまりに月並みだろうか。こっそりと、けれど真摯に願いを込めて、最後の土を被せていく。
せっせと植え替えに取り組む真宵の姿を見守りながら、天藍は小さく息を吐く。
(……真宵には、言えぬ)
世の摂理を語った己こそが、不変など存在せぬ世に存在する不変であること。抱く彩は自然の巡りの為に在るのではなく、過ちを犯した己に架せられた咎であること。その身は冷たく、現世にとっての天藍は異物そのものでしかない。
──けれど、そんな自分にも願うことが許されるのであれば。
(かつての友がせめて幸せであるように。そして我の後に続くような者が現れぬように)
冬の手が花の苗にやわらかく土を被せる。どうかこの冷気が伝わらないように、あたたかな土の中で、自然の巡りと共に花を咲かせることを祈った。
2つの花はこの地で根付き、やがて美しい白色をそれぞれ咲かせるのだろう。瞼に描いた光景が嘘にならないように、やさしく、慈しむように。
「ここが人魚の洞窟! とてもいい香りがしますね」
地面を覆い尽くす程の花が咲いているおかげだろうか。海が近いというのに洞窟に潮の匂いはほとんどなく、ひっそりとした空気にどこか静謐な甘い香りが満ちている。マリー・エルデフェイ(静穏の祈り手・h03135)が喜びを藍色の眸いっぱいに輝かせながら笑いかけると、セレネ・デルフィ(泡沫の空・h03434)も胸いっぱいにその香りを吸い込みながら、やわらかく微笑んだ。
「はい。ここが、お話に出てきていた洞窟なのですね」
薄暗い洞窟を仄明るく照らしているのは、地面の白い花々が零す淡い鱗光だ。幻想的な光景をまじまじと眺めて、セレネは惚けた息を吐く。
「綺麗なお花……! 伝承で語られた場所にいるというのは不思議な気分です」
「伝承に語られる場所は色々ありますが、ここもとても雰囲気のある素敵な場所ですね」
共に頷き合い、黒い花が見つかるまでの間、少しだけ散策を楽しむ。花の合間を抜ける少女達の足取りは軽く、まるで舞台上を踊るバレリーナのような美しさだ。ともすれば絵画の一枚にでもなっていそうな光景になっていることなど夢にも思わないまま、二人は白い花の合間に不意に現れた黒点に視線を向けた。
「あっ、白く輝く花々の中に浮かぶ黒い花。これが話に聞いた原因のお花ですね」
「はい。摘んだ方が良いお花、ですよね」
顔を見合わせて確かめる。まだ咲いている花を抜くのは心苦しいものの、萎れた花をいつまでも惜しんでいるのはもっとどうしようもないことだ。これが仕事ということもあり、マリーとセレネは目に付いた黒い花をぷちぷちと抜いていく。
寂しくなってしまった地面には、代わりに新しい白色を。
「伝承では……願い事をしながら植えたんですよね」
街での話を思い返しながら、セレネは花の苗に触れる。
「マリーさんは、何か願い事は……」
そこでぱちりと瞬き。瞳を丸くしながら言葉を止めた少女に、マリーは首をかしげて見つめ返す。
「……あ、いえ。お話では内緒のお願い事をしていたなあ、って思って」
「ああ、そうでしたね!」
「ここはお互い内緒の方が、叶うかもしれません、ね」
どこかとっておきの作戦を思いついた幼子のように、悪戯っぽく微笑むセレネに、マリーは素直に言うつもりでしたと朗らかに口にする。
「でも、そうですね。内緒にするほどの願いはないのですが、今回はお互い内緒ということで」
けれど、と誘うような微笑みを返してみせた。
「どうしても気になるようでしたら、後でこっそり教えてあげますね」
「まあ……」
それでは内緒が内緒ではなくなってしまうけれど、願いが気になるのは確かに気になる。空色の眸をゆっくりと瞬かせながら、セレネはやがて浮かんできた名案に笑みを咲かせた。
「ふふ、では、少しでも叶えられたらまたお出かけして聞かせてほしいです。どうでしょうか?」
それはこのお出かけでできた素敵な友達とまた遊ぶための、とっておきの口実でもある。会心の提案に、マリーも表情を綻ばせた。
「ええ、喜んで!」
いつか訪れるだろう未来に、互いに隠した願いごとを知ったら、二人の間にはどんな笑顔が咲くだろう。
一人はささやかな幸福を、彼女が知る小さな世界にいる人々に笑顔が咲きますようにと願って。
もう一人はあまねく幸福を、はじまりから抱き続けてきた、少しでも傷つく人がいなくなることを願って。
優しさに溢れる二つの願いを乗せて、白い花はこの水底で静かに光を零し続けるだろう。
「まあ、見事な花畑」
ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)は淡い薔薇色の眸をやわらかく細めて広がる花畑を見つめた。白い花々は自らの呼気に合わせてささやかに揺れながら淡い光を零す。太陽の光も届かないはずの水底を淡く照らす白い光。その理由が足元に咲く花だと知って、廻里・りり(綴・h01760)は青い瞳を丸くさせた。
「陽の光かな?って思ったんですけど、お花が光っているんですね」
白い花は太陽の下を離れたというのに、水底でも瑞々しく花弁を広げている。この1本1本に植えた人の願いが込められているのだと思うと、少女の頬は自然と緩んだ。
「お願いごとが込められたお花畑…とってもすてきですっ」
「植えられた花の数だけ誰かの願いがあるのね。素敵なことだわ」
これまで訪れてきた人々と花達に思いを寄せながら、早速植え替えを始めようと視線を巡らせた。白色の合間にぽつんぽつんと空いた黒点が目に入る。あれが件の花だろう。
半身を白から黒へと変え、力なく項垂れる花の傍にしゃがんだ。そのまま様子を観察していたりりはあることに気が付く。
「掘るのは……手?」
固い土を掘るには随分たよりなさそうな自分の手を見つめ、むむと悩み顔。そんなりりを見ながら、ベルナデッタはふわりと表情を緩めた。すっと立てられた人さし指が宙を指す。
道具がない? そんな時こそ役に立つ──とっておきのもの。
「取り除くのは……そうね、魔術のお勉強としましょうか」
──答えは魔法だ。ベルナデッタの言葉にりりはその手がありました!と、表情を輝かせる。少女の目の前で、白い陶器の指先が、宙をくるくると踊った。そして、その指先は「Cuillère de germis」と流暢な文字列を描く。力ある言葉と魔力に反応し、空気が僅かに震えたかと思うと、ベルナデッタの掌にはいつのまにかスコップが握られていた。
「このような感じね」
「わあ……ベルちゃん、すごいですっ!」
「なんて事ないわ、ささやかな古代魔術生活の知恵よ。長くは持たないけれど花の植え替えくらいなら間に合うと思うわ」
りり、ペンは持っていて? ベルナデッタの優雅な微笑みに、りりはこくこくと何度も頷きを返す。
「あっ、ペンは持っているので……挑戦してみます!」
懐からごそごそと取り出したのは、少女お気に入りの星空色のガラスペン。少女は得意げにペン先に魔法のインクを浸して、早速ベルナデッタの真似をして文字を描こうとしたけれど。
「文字を……文字……」
その手は虚空で無為を描いて止まる。さっきはよく宙に描かれた文字を見ていたはずなのに。りりは慌てて、こちらを温かく、または楽し気に見守るベルナデッタと視線を合わせた。
「先生! お手本をくださいっ」
「しかたないわね、こうやってやるのよ。りり」
かわいらしい生徒のお願いに、先生も胸を張って応えていく。
何度か例を見せてもらいながら、ガラスペンで宙に文字を描き続け、ようやくりりの手の中にスコップが落ちてきた。
「ええっと…こう!できました!」
「ええ、合格」
「よかったー!」
無事授業が終わった所で、今度こそ本命の植え替えの時間。選んだ花は髪飾りと同じカランコエ。特に白いものは「たくさんの小さな思い出」を意味する、可愛らしい鐘状の小さな花の集まりだ。人魚の伝承に倣って、二人も願い事を込めながら土を被せる。
「よし、お願いごとは『お父さんとお母さんが元気に帰って来られますように』で!」
「叶うといいわね」
やわらかなベルナデッタの微笑みにりりも明るい笑顔を返す。
「あ!」
「どうしたの?」
「……ベルちゃんに、いっぱいすてきなことが届きますようにってお願いごとも追加できますか?」
花に込める願いごとは一つだっただろうか。しゅんと耳を下げて申し訳なさそうに尋ねるりりに、ベルナデッタはしばし考えてから、くすりと笑みを浮かべた。
「あなたのは優しいお願いごとね、りり。だから、きっと大丈夫よ」
誰かを思う健気な願いを、少女がひとつ増やしたとして、誰が聞き遂げられないと言うのだろう? 安堵の表情を浮かべるりりを見つめながら、ベルナデッタは頷いて花に触れる。
「ええ、じゃあ。ワタシがりりの幸福を願うわ」
幸福を告げる鐘に相応しい、やさしい願いを込めて。
「できました! どうですか? まがってないですか?」
「綺麗にできているわ、りり」
「ベルちゃんもかんぺきです!」
「ふふ、お互い完璧ね」
ぴんと真っ直ぐ天井に向かって伸びる2本の苗はどことなく誇らしげに映る。満足いく出来上がりに、りりとベルナデッタは互いに顔を見合わせて笑みを咲かせた。
きっとこの幸福の鐘も、願いを託されながらこの地に根付き、やがて光を咲かせるのだろう。そんな光景を描きながら、二人は帰路へとつく。
「まずは貴方の幸福のために、今日のデザートはソルトアイスクリームなんてどうかしら?」
「わぁっ ソルトアイスクリーム?食べましょうっ」
そんな楽し気な声を響かせながら。
「おお、なんと美しい!」
水底の静寂に、人一倍賑やかな声が輪を描きながら響く。探偵、行方・暖(常世見物・h00896)の大声だ。
「これが、かの人魚が人間の幸せを願って植えたという花々なのですね」
「わぁ……」
こくこくと暖の言葉に頷きながらも、物集・にあ(わたつみのおとしもの・h01103)のまなざしは白い花畑に注がれている。ぱちりぱちりと何度瞬いてもその美しさは変わらない。ここが海底の楽園と言われても信じてしまいそうなほどの、どこか夢のような美しい景色だ。
「うわぁ、すごい。だってこれ、全部本物の花なんでしょ?」
二人の隣で軽く支度を整えていた朧木・柊(死火・h07354)も、圧巻の光景に瞳をしばたたかせた。
「ええ、花は地上から持ち込まれたもので間違いないでしょう。この光は妖怪の仕業──もとい、何らかの妖力が働いているものと思われます。しかし、想いを込めて咲く花は、やはり格別です!」
微妙に合っているか合っていないのか判断に迷う推察を述べながら、暖は大げさに腕を組む。探偵のお墨付きに、にあの表情はぱっと明るくなった。
「ぜんぶ本物! とても綺麗。……でも、きっともっと美しくなるのよね」
手元の苗を慈しむように抱き、少女は瞳を細める。そうだね、と頷きながら、柊も辺りを見回す。白い花の合間には、やはり点々と光を失った箇所が見えた。そこにある黒い花を取り除き、すべてを白に染めた暁には、この楽園も本来の姿を取り戻すのだろう。
「他の人がやってなさそうな辺りを探そうか」
柊の言葉に暖とにあはもちろんと承諾を返し、三人の植え替えが始まる。
「あっ、あそこ! 誰もいなさそうなのよ」
少女の指さした先は、ちょうど人気のなさそうな一角。ちょうどいいねと歩き始めた暖と柊の動きが、不意につんと止まる。振り返ればにあが二人の服の裾をちょんとつまんだまま、こちらを見上げていた。
「物集さん、どうしたの?」
代表して柊が質問をすれば、とっておきの提案があるのよとにあは二人に微笑む。
「ねえ、探偵さん、助手さん──」
白い指が指さした一角。
「僭越ながらこの一角を探偵社のお花畑にしてしまいましょう」
誇らしげなにあの宣言。まさか今度は悪の幹部モノに影響を受けてしまったのだろうか。悪戯っぽく、けれど楽し気に海色の眸をぴかぴか光らせるにあの提案に、柊も思わず苦笑い。
けれど少女以上に厄介で無邪気なのが、柊の主人だ。子どもの提案にまさかね、と視線を向けた先で、暖の表情が目に見えて明るくなったのを見て──あーあ、と柊は早々にすべてを放棄することを決めた。結果はもう見ないでも分かった。
「探偵社のお花畑にしてしまうのですか? 素晴らしい!」
高らかに声を張り上げての暖の大絶賛に、にあも誇らしげに小さな胸を張った。
「そうでしょう、そうでしょう。せっかくだもの。何度でも遊びに来てもゆるされる場所が必要だと思ったのよ」
「となれば、私たちがとびきり華やかにしなくては!」
そう、それは街で見た賑わいにも負けない程に。意気込み、理想の花畑に話を飛躍させ始めた二人を置き(それはとても現実的とは思えないプランだ)、柊は、残念ながら勝手に探偵社の花畑にされてしまった一角にしゃがむ。
とはいえ、ここがどういう扱いになったとしても、黒い花を抜いていくのはすべての白い花にとって必要なこと。賑やかな人たちでごめんなさい、と申し訳ない気持ちで周りの人々に小さく頭を下げつつも、手際よく除草を行なっていく。
「ああっ、柊くん。一人でどんどん始めないでください!」
「そうよ、助手さん。みんなでやらないと疲れちゃうわ」
「勝手に盛り上がってたのは、センセと物集さんの方でしょ……」
それでも三人の黒い花に触れる手は労わりに満ちている。どうかお目溢しを。
何だかんだで除草を終えた土の上に、新たな苗を植えていく。
ちょっと物騒な花言葉だけど、と零されながらも柊によって植えられたスノードロップは慎ましやかで上品な白色。願い事は胸にそうっと隠しながら祈っておいた。
対する暖が植えたカサブランカは華やかな大ぶりのドレスを広げて土の上に佇んでいる。
「さてさて、お願いごとは──」
突然、ぱんぱん、と勢いよく打たれた柏手に柊とにあが瞬きするのも構わず、暖は瞳を閉じ、大きく息を吸った。
「家内安全、無病息災! ついでに探偵社に依頼がたくさん舞い込みますよーうに!」
「ふふ、探偵さん。全部口に出しているわ」
何卒何卒!と大きく願いを口にする暖の姿に、にあは思わず表情を緩めた。
少女が植えた花は重ねたフリルが愛らしいアザレアの花。海はひとしく生命を包み込み、生と死はいつも巡り続ける。咲き続けることができなかった黒い花の死も海は飲み込んで、巡り巡ったそれはやがて生まれ変わり、これらの無垢な花と共に希望として咲くだろう。
──そんな風に、水底で咲く花に託した願いごとは、秘密がお約束。胸の中で願いを囁いて、少女は祈るように手を組んだ。
様子を見ていればなんだかちっとも願いを話してくれなさそうな雰囲気を醸し出す二人に、暖は前のめりで口を開く。
「え~っ、二人のお願い事も教えてくださいよ~!」
「えー…まあ、叶った時にでもね?」
「本当? 叶ったらパーティ開きましょう!」
少し話せば横道に逸れてしまうような3人だけれど、無事に植え替えも終えることが出来た。すっかり白一色に染まった地面を見ながら、柊はひと仕事を終えた充足感にぐっと体を伸ばした。
「さて、帰りに何かお土産でも買ってかえ──あ、ダメだ」
「どうして?」
にあの問いに、ちらりと暖を見ながら柊は息を吐く。
「アイスの件があったから分かるでしょ。センセに散財の隙を与えたら大変なことになるんだから……」
「え、お土産ですか!? もちろん買って帰りましょうとも!」
「なしなし、今の提案なし」
こんな時だけ耳ざとい暖がたちまちやる気に満ち溢れたのを見て、柊は慌てて手を横に振った。しかし当然、一度走り始めたらそれ以降は全く聞いていないのが、行方・暖という男だ。
「旅の思い出は、形があって困ることなどありませんからね!」
「いや、だから……」
「大丈夫よ、助手さん。探偵さんには魔法のカードがあるもの。素敵な思い出のかたちを残しましょう」
「物集さん……あれは別に魔法のカードなんかじゃなくて、翌月にきちんと請求されるんだって」
「ええ、魔法のカードの力を見せて差し上げましょう!」
「ああ、もうこれ聞いちゃいないな……」
ただのアクセルでしかない少女の言葉にますます暖の調子がうなぎ登りになっていく。楽しそうな買い物の予感に、にあもニコニコ能天気に笑うばかりだ。柊はなんだか最後まで締まらないやりとりに、遠い目をしながら溜息を吐いた。二人の耳に入らないところで、小さく呟く。
「……さっきのお願い事の内容変えようかな」
──センセの浪費癖が治りますように、とか。
「ついたわ」
「ついたか。ここが人魚の洞窟」
少女の言葉に頷きを返す。ひやりと湿っぽい空気をじかに肌で感じながら、詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)は主人の無事を確認すべく振り返った。そんな主人──ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)は元に戻った二本の脚でしゃんと地に立ちながらも、表情はどこかすぐれない。まさか少女の身に何かあったのかと、イサは眉をひそめる。
「ララ……大丈夫か?」
「むきゅ……あざらし、楽しすぎてへとへとよ」
素敵な巻貝の魔法も、海を渡る体力までは渡してくれないらしい。どこかくたびれた空気を纏うララに、海戦人形としてこのくらいの海遊はなれっこ、疲れ知らずのイサが肩を竦める。どうやら大したことは無いようだと、安堵は上手に態度で隠しながら。
「赤ちゃんあざらしも楽しかっただろ。……それにどうみてもピンピンしてるけど」
「ちがうわ」
少女は小さな手でお腹を擦った。
「お腹がすいたってこと」
「あ、そっち?」
「切実な問題よ」
拍子抜けな解答にイサは目を瞠る。けれど人一倍の食いしん坊、はらぺこララにとって空腹は切実な問題だ。小鳥のくちばしみたいに唇を尖らせるララに、イサはしかたないなあと小さく笑う。
「じゃあ、地上に帰ったら何か食わせてあげるから。それまで我慢して」
「……! ええ、絶対ね」
少女は水をやった植物のように表情を輝かせる。食についてはあまりにも明快な単純さに若干救われつつも、二人は先に進んだ。
洞窟の最奥は陽の光も届かない水底。本来暗がりのようなそこに光を届けているのは、可憐な白い花々だ。ララが纏う桜の光焔ほどの強い輝きはないが、満ちる光はどれも穢れを知らない真っ白な彩をしていた。
「綺麗な白い花、健気でいい子達だわ」
「ララ、ちゃんと苗持ってる?」
花畑を興味津々見回しているところに降ってきたイサの質問に、ララはいそいそと手に持っていたアネモネの苗を取り出す。
「ええ、苗はここに」
じゃじゃんとイサに向かって苗を差し出すララの表情はどこか誇らしげだ。イサも無邪気なララの様子に僅かに瞳を細める。
「よし。早速植えようか」
「わかったわ」
「こんだけ白いと壮観だな……この辺に植える?」
イサの提案に、もちろんララの異論はない。手ごろなスペースを見つけて、青年は少女を導く。主人の手に汚れひとつ付くことがないよう、黒い花を取り除いていくのは当然イサの役割だ。目に付いた花を取り除いていくイサを横目に、ララは地面の上に出来上がっていく黒い花束をじいっと見つめる。
「黒くなってる子は頑張りすぎた子ね」
半身を黒に染め、力なく項垂れる花にララは手を差し伸べた。
「お疲れ様」
指先から伝わる焔は瞬く間に花を焼き尽くす。それは淡い光の中で一際熱く、眩く弾けた。ひらひらと舞う白焔の花びらの中、ララは静かに笑みを浮かべて花を見送る。
──その姿があまりにも聖女そのもので、美しくて。
気付けばイサの手が止まっていたのも仕方がないことだろう。ふとララが振り返れば、二人の視線がぱちりと交わる。
「むきゅ? どうしたの、イサ」
「い、いや。迦楼羅って慈悲深いんだなって思ってさ」
咄嗟に出た誤魔化しは少し拙いけれど、少女は小首をかしげるだけで深くは問わない。少女の──神らしいおおらかさに少しだけ感謝しながら、イサは苗を差し出した。
「ほら、花を植えよう」
「ええ」
──やがて、白いアネモネの隣には、ぴたりと寄り添うようにして白い薔薇が咲く。満足いく出来上がりにララは頬を緩めた。
「ララはイサの白薔薇の横。寄り添って仲良しよ」
「まあ……寄り添うのは悪くないね」
形は違えど隣に寄り添い合う花に、イサの表情もやわらかく緩んだ。ひそやかな笑みの先で、ララは大きく育つのよと祝福代わりに二つの花をやさしく慈しみを込めて撫でてやる。
物言わず、ただ静かに祝福を享受する花たちへ、ララも瞳を閉じて願いを込める。
「ララの愛する人たちが明日も明後日も千歳の時が経とうとも、愛する人と一緒に咲っていられますように」
静謐さの漂う、その神秘的な姿はまさしく神としての風格が窺える。イサはそんな少女の姿を目に映しながら、小さく肩を竦めた。
「ララの願いは壮大でまさに聖女だな。沢山ご馳走食べれるようにとかじゃないんだ」
「だってその方が絶対に美味しくて楽しいわ」
もちろんお前も、と瞳を開いたララが、その真赤を青年へと向ける。
「お前の願いは何?」
「俺? 俺は、誰かの笑顔を願うララが笑っていられるように」
本当に、ごく当たり前のように応えてみせるイサの言葉に、ララはぱちりぱちりと瞬く。
「何か?」
「いいえ。──ねえ、イサ」
大事な名前を呼んで、少女は憂い気に視線を伏せた。脳裏に描くのは美しい楽園の光景、それからもっともっと前の、大事な家族の姿。
「ララはそんな世界が好きよ……やっぱり家族や大好きな人と離れ離れになるのは哀しいもの」
それは、少し思い出しただけでも、腹ぺこのおなかと同じくらい、切なくて堪らなくなって胸がきゅうっと苦しくなる。思うがままに大事な家族に会えないというのに、泣き声をあげないだけ、幼い少女にしてみれば立派なものだ。
ララは天を仰ぐ。花の光も届かない天井は暗く、星のない夜空にも似た深い闇に満ちていた。
「ララも、いつかまた……パパ達に……」
漣を超え時を越え世界をこえて、駆ける風のように届きますように。もう一度瞳を閉じ、厳かに祈る少女の傍らで、少年人形もまた瞳を閉じた。少女を想い、花に願いを掛ける。
──天を目指して花弁を広げ咲き誇る花を潤し支える水のように、そばにいたいから。
二人の願いは花々の合間を吹き抜けさやさやと花弁を揺らす。真摯な願いはやがて、水底を照らす美しい光に変わるだろう。
雪あかりのような光だった。花から零れる光が、辺りをまっ白に染めている。静寂に満ちたやわらかな光の粒が髪にかかってふわりと溶ける。それに軽く指で触れながら、花岡・泉純(櫻泉の花守・h00383)は小さく唇を開いた。
「海の向こうにこんな洞窟があるなんて……すごく綺麗」
「まるで光の花畑だね」
少女の呟きに頷きながら、千桜・コノハ(宵桜・h00358)も瞳に白を映す。このどれもが、元は市場からここまで願いと共に運ばれてきた花なのだという。──それならば。
「僕たちが植える花もこうして光るのかな」
「うん……そうなったら嬉しい、ね」
コノハの言葉に、泉純は淡く微笑み返す。そのままよく目を凝らせば、白い花々の間に墨のように黒く項垂れる花があることに気付く。コノハは身近なひとつにそっと近づくと、膝をついて黒い花をぷつんと抜いた。地面に花を横たわらせると、両手を合わせて暫し目を閉じる。咲き続けることが出来なかった花へ、ささやかな弔いを。そうしたいと感じたのは、きっと誰かの願いが託された花だからだろう。
同じ様に近くの黒い花を抜いていた泉純が何気なく視線を向ければ、そうして彼が静かに花を弔う様が見えたから。見よう見まねで、自分も手を合わせる。作法に明るい訳ではないが、込められた気持ちに寄せる思いは、少女も同じだ。
「花、植えようか」
「うん。新しい苗を植えよう」
しばらく並んで祈った後、それぞれの苗を手に取る。二人が選んだのは、白いサクラソウ。特別に思いを寄せる桜の花によく似た、小さな花弁に表情も和らぐ。
「お願いごと……するんだよね」
泉純の言葉に、コノハは小さく頷いた。
「願いか……」
思案は一瞬。心の底からの願いに、唇は自然とその言葉を紡いでいた。
「――家族と再会できますように」
「その願いは……」
「ああ、君には前に話したよね」
少女の言葉に何気なく頷いたつもりだけれど、そこに寂寞の色は滲まなかっただろうか。コノハは僅かにまなざしを伏せる。
「兄さんとは逢えたんだけどね。やっぱり家族みんな一緒がいいし」
それだって望外の幸福であることをコノハは知っている。けれど、皆で会いたい──まだ齢14の少年がそんな願いを抱いてしまうのはいけないことだろうか? 生きている保証すらも、そこにはないけれど。コノハは根を傷つけないように、やわらかく苗へ土をかけていく。泉純はそんな少年の様子を見ながら、小さく微笑んだ。
「うん……コノハは家族を想う気持ちが強いね」
「そう言うんじゃないけどさ……」
視線を逸らした少年に、浅く首を横に振る。
「ううん、きっと、逢えるよ。想いの力ってすごいんだから」
「……そう、かな」
ぽつりと零した言葉から、僅かな静寂が落ちる。土をかけ終えて、指についた泥を軽く払った。横目に眺めながら、泉純も自分の花に土をかけていく。
「泉純は……──寂しさを覚えるひとが、少しでも心安らぎますように」
「ふふ、君らしい博愛めいた願いだな」
無垢な心で人を慈しむ彼女に合う願いだとコノハは思ったけれど。そうかな、と小さく囁いて花を見つめる桜色の眸には、どうにも寂し気な憂いが落ちた気がした。
「博愛……なんて綺麗な言葉、きっとふさわしくないと思う」
「じゃあ、君自身の願いごとはないの? それとも……君の願いも入ってるのかな」
ぱちりと少女は一度瞬きをして顔を上げた。あどけない表情に、コノハは少しだけ口元を緩める。
「泉純の、願い」
「うん、君の」
何気ない言葉のはずなのに、どうして胸がちりと焦げるような熱を感じたのだろう。その理由も分からないまま、泉純は気付けばこくんと頷いて唇を開いていた。
心臓が音を立てる度に、きゅうと切なく締め付けるような痛みが齎す願い。
「両親のこと、知らなくて。抱き締めてくれていた友達とも離れ離れで。唯一傍にいてくれる|存在《死神》は……熱をもたない」
言葉にしていく内に、溢れてくるものが、海中の泡みたいに唇からこぽこぽ漏れていく。
「寒い海の底にいるみたい……」
泉純の表情に憂いの影が落ちる。目の前で小さく震える少女を見つめながら、コノハは小さく頷きを返した。否、頷くことしかできなかった。
彼女の寂しさを癒してあげたい。けれど、それは軽々しく口にはできない。
(だって僕は彼らの代わりにはなれない。暖かい海へ連れ出す尾鰭もない)
海と空の真ん中で、独り震える少女の何になれるだろう。どこへ導いてあげられるだろう。──少年はまだ、その答えを言えなかったから。
「……っ」
泉純の肩がぴくんと小さく跳ねる。それもその筈だ。突然、コノハが自分にぴとりと身体を寄せてきたのだから。どういうことだろうと困惑を瞳に浮かべる泉純に、コノハはかすかな笑みを返した。
「これが僕なりの精一杯」
せめて、自身の熱を彼女に分け与えられるように。泉純は一度大きく瞳を見開いた。桜色が交わり、白い花が揺れる。そして、くしゃりと少女は表情を歪めた。少年の温もりは、この海底でもはっきりと分かるくらい温かくて。
「──あったかい、な」
ほころんだところから、涙が零れてしまいそうだったから。
白い飛沫がぱしゃんと舞う。
目・草(目・魄のAnkerの義子供・h00776)が水面から勢いよく顔を上げた。すぐに鼻腔をくすぐったのは、これまでの潮っぽい海の香りとは違う、どこかひそやかに香る、甘くて上品な匂い。ぷかぷかと波に運ばれながら近くの岸に手をかければ、それはどうやら奥の方から香ってきているのだと分かった。
「ああ、楽しかった! 今度はどこに来たのかな?」
ぱっと辺りを見回したところ、辺りはひんやりとしていて薄暗い。辺りの大きな人たちの様子を見る限り、危ない場所でもないだろうと判断して、草はふるふると頭を振って水を払い落しながら立ち上がる。例え真っ暗闇の中でも、少年には提灯があるから一人でも安心だ。温かな灯りはどこか誘うように揺れていたから、草は安心して奥へ歩き始める。
──けれど、すぐに提灯の必要はなくなった。
「わあ、すごいすごい!」
少し歩けば、ほんのりと足元が明るくなっていった。そしてその光源もまた、甘い匂いと共に奥の方から来ていると分かって、自然と鼓動が速くなっていく。そわそわ、時々興味津々に辺りを見回しながら──ようやく辿り着いた最奥に、草は大きな瞳と小さな口をまんまるに見開いた。
「ほわあ……! 光るお花畑だ!」
黒真珠色の瞳に映るのは、視界から溢れそうなほどの白い花。よく見ればひとつひとつ形は違うけれど、どの花もほわほわとやわらかく真っ白な光で辺りをいっぱいにしていた。すんと鼻を鳴らせば、さっきから漂っていた甘い香り。どこかで似たような匂いを嗅いだと感じていたけれど、それはさっき花束のアイスを食べに行った街の匂いとよく似ていることにようやく気が付く。外の花と違って、洞窟は空気が籠っている分、甘い匂いが空気に染みて一段とかぐわしいものになっていた。
「すごいなあ……」
唇から出るのはただ、ただ、感嘆の声ばかり。そのまま満足するまで眺めているつもりだったけれど、よくよく見たら花畑のいろんなところでしゃがんで何かをしている人たちが見える。
「何をやっているんだろう?」
となれば、気になったものは近くで見に行くのが子どもの性分。ちょこちょこと近づいていって様子を見ると、どうやら白い花の中に混じっている黒い花を抜いているらしい。
なるほど、とくるり視線を動かせば、確かに白い花の合間に、時々、点々と光っていない場所があるのが分かった。
「これを取ればいいのかな?」
黒くなった花は枯れてしまっているのだろうか、項垂れてしょんぼりしているようにも見える。この花が一体どういう状態で、大人たちが何の為に黒い花を除いているのか、少年にはちっとも分からない。けれど大人たちがやってるということは悪いことではないのだろうし、そもそも何だか楽しそうだったから。草は迷いなく花に触れると、ぷちりと断った。
「黒い花はないないしよう」
これでオッケー、と立ち上がった草の目に、また別の黒い花が映る。なるほど、これを全部取ったら全部真っ白のきれいな花畑になるらしい。ようやく意味を理解して、今度こそ確信を抱いてその花に近づいた。黒い花が全部ないないになったら、きっと素敵な景色が見られるだろう。
「その光景を早く見られますように……」
そうして点々と続く黒い花を毟っていく草の様子はまるで逆転ヘンゼルとグレーテル。子どもらしく夢いっぱいの想像を広げながら作業を続けていくと、時間も忘れて没頭してしまう。
──やがて迷子のお迎えに黒い猫又が現れる、その時まで。今日は沢山の素敵なことがあったと、ひと時の思い出を振り返りながら。
真白の花は淡い光を溢して洞窟を照らしている。まるで深い夜空をさやけき光で照らす月のようだ。その合間に見える黒は月の表面にできた窪みがつくる陰影のよう。月と揃いの銀色の瞳を細め、時結・ラチア(星屑の魔法使い・h01622)は花畑を見回した。
「白い花が咲き乱れる中、黒い花があるとここまで目立つ物なのか」
しんみりとした弟の言葉に、時結・セチア(セレスティアルの古代語魔術師・h01621)が頷く。対の金色のまなざしもまた月の表面の窪み──そこへ咲く黒い花へと向けられていた。
「そうだね。確か、此処の黒い華を抜けばいい……だったよね」
「うん、そうみ」
「此処に居るであろう子もいないのなら、今のうちに済ませておこうか、ラチア」
「ああ、早々と済ませるに越したことはないね。番人の子を助ける為にも早く抜こう」
二人は辺りを見て、花に囚われた番人が今は近くにいないことを確認すると、その場にそっと屈んだ。彼女もまた、遺産から望まない支配を受けた被害者だ。これ以上、ただ望まれた場所で咲くだけの花が誰も傷つけることがないよう、そして誰も傷つかないようにと祈り、目に付いた黒い花を取り除いていく。
月のように静かに佇む白い花は美しい。けれど黒い花だって、今でこそ弱っているけれど、元は健気に咲こうとしていただけの花だ。枯れ逝こうとする花にも鮮やかに咲く花とは異なる美があり、その美しさは決して否定されるべきものではない。ラチアはまだ根付いたまま黒い花の茎を手にかけたまま、じっとそれを見つめていた。
「さて、と。ある程度抜けたかな。……あれ、ラチア?」
近くにあった黒い花を凡そ抜き終えて、ふと顔を上げたセチアが弟に声を掛ける。ラチアはその声にぱちりと瞬きをすると、瞳を細めてやわらかく首をかしげた。
「ううん、ごめん。……花に罪はないのにね」
本当なら、この|花《子》だってすべて持ち帰ってあげたいくらいだ。慈しみを込めて囁くラチアの言葉に、セチアも釣られるようにラチアの手の中にある黒い花へと視線を落とす。
「……だね、花に罪はない」
弟の言葉にセチアは頷いた。けれど、と唇が続きの言葉を紡ぐ。
「此の子たちも素敵な花であるだろうけれど……このままにしておくのは、花としても本位でない結末になってしまいかねないしね」
「……ああ。分かっているよ、セチア。ごめん」
「謝ることじゃないよ、ラチア」
二人は双子。互いの気持ちなんて、息を吸うのと同じくらい自然に伝わる。それでもわざわざ言葉で伝えてくれる兄の気遣いが、かすかに痛む心を慰めてくれた。最後の一本に力を込めれば、花はあっけなくその命を終える。最後の最後まで惜しむように、二人はそれを見つめていた。
「──よし、なら花を埋めていこうか、ラチア」
長い黙とうを終え、セチアはラチアに微笑みかける。うん、とラチアも頷いて、二人は互いの新しい花の苗を手に取った。
「……内緒のお願い事をすれば叶うかも、なんて話はあったけれど……ラチアはどうする? 僕も折角だし願おうかなって思うけれど」
「願い事は勿論するよ」
苗を窪みの中心に置き、やわらかく根を広げていく。一心に続けていくと、どこか童心に帰るような心地だ。
「でも、内緒の願い事だから。セチアには秘密」
「ふふ、じゃあ僕も内緒の願いを」
微笑むセチアにそう言われてしまうと、少し内容が気になってしまうけれど、ここで根掘り葉掘り聞いてしまうのは野暮というものだ。唇を閉じ、黙って作業に集中しながら、ラチアは願い事を考える。
(ここで願うとしたらセチアとオレの関係なんだろうけれど、これはオレ達の力で叶えるもの)
あえて花に託さないのは、兄への深い信頼があるからこそ。だから自然と浮かんできた別の願いを、ラチアは胸の中で零す。
(沢山の人が|幸せな結末《ハッピーエンド》で終わりますように)
──泣いてばかりの人も、怒ってばかりの人も、苦しんでばかりの人も、いつかは笑顔で、良い人生だったと思えますように。
──オレの家族友人知人問わず、人魚とあの人も、番人の子も、皆が皆、笑顔で一生を終えられますように。
長い祈りは万人の幸福を込めて。ラチアの横顔には祈る者特有の静謐さが漂っている。隣でそれを見つめた後、セチアも自身の花に土を被せながら、そっと目を閉じた。どんな願いにしようか少し迷っていたけれど──弟の顔を見ている内に、願いを見つけていた。兄としての願い。
(ラチアの願いが、どうか叶います様に)
何を願ってるかはわからない。それでも、ラチアの願いは皆を幸せにする、素敵な願いの筈だ。この願いがささやかな一押しになってほしいと、セチアは更に祈りを込める。
白い花がさやさやと揺れる中、二人の対の天使はそうして長く、共に祈っていた。祈りはいつか奇跡を生むだろう──そんな風に信じたくなるような、ひどく美しい光景だった。
しっとりとした空気に満ちた花の匂い。肺の底にひたひたと溜まっていくような、淡い雪にも似た匂いを吸い込みながら、祭那・ラムネ(アフター・ザ・レイン・h06527)は願われた通りに黒い花を探す。
さほど時間をかけずとも、黒い花はすぐに見つかった。微かな明滅を繰り返しながら揺れる白い花々の合間に、染みのような黒色が全身に目立つそれは力なく項垂れていた。
ラムネは躊躇いなく、黒い花へと手を伸ばす。
──この花を摘むのは、全然苦じゃない。
ラムネは強がりでも何でもなく、自然にそう思えた。それはきっと、この花もまた、かつて誰かの願いや祈りのために植えられた花だから。
顔も知らない誰かへ、花へと小さく祈りを捧げたかつての誰か。そしてその祈りが届いたから、願いが叶ったから。役目を終えた花から黒く枯れていくのだと、そんな風に信じたいと思ったからだ。
願いを託されたものは、叶えたものから静かに散っていく。誰かの願いを乗せた流れ星は、やがて塵になって闇夜に散らばっていくように。──青年の考え方は、青年自身こそが願いを託され続けた結果、知らず知らずの内に身に付いたものなのかもしれない。いっそ親しみすら感じながら、壊れ物を扱うような心持ちで、そっと黒い花を取り除いていく。
露わになった黒い土の上に花を乗せる。白いガーベラの花は海の長旅にも負けず、小さく細長い花びらを広げて朗らかな笑顔を浮かべ続けていた。
ラムネが花を植える先に選んだのは、花畑のすみっこ。いつだって、さりげない助演男優のように、青年は意識もせずにそんなところにいる。
けれど込める願いは人一倍真摯なものだ。根っこからやさしく土を被せながら、ラムネはひたむきに祈りを込める。
(弟妹たちが、友人たちが、人魚さんが、親友が──ずっとずっと幸せでありますように)
たくさんの幸福があり、自分の望む道を歩み、たとえ途中に雨が降ったとしても。どうか雨は止み、青い空の下で笑えていますように。
けれどその願いの中に、自分はいない。すべての幸福は大事な誰かに降り注ぐもの。眼中にも、頭の片隅にも浮かばない──それは宝石や金をすっかり剥がしてしまった王子様のように、あるいは食事や衣服まで幼子に差し出した少女のように、ごく当たり前のものとして自らすら差し出してしまうラムネにしてみれば、自分の幸福なんて考えるまでもないのだから。
「……っ」
一瞬の眩暈が走った。
耳の奥でぷつんと音がして、くらりと視界が白い闇に閉ざされる。あ、と一瞬声が出そうになるが、そこは動き慣れたラムネのこと。身体の方が勝手に反応し、咄嗟に、片手と膝を地につけて倒れることを防いだ。
そうして暫く待っていれば、少しずつ思考が明快になってきた。ふう、と深呼吸をして、瞳を開く。ガーベラの花はラムネの目の前でしっかり彼を待ってくれていた。
「よかった、花、潰れてないな」
──寝不足か、疲労か、祟ったかなあ。そんな風に思うけれど、原因は分からない。経験則として深く考えても仕方がないと知っていたラムネは、もう一度気持ちを改めて目を閉じる。そんなことより、誰かのために祈る方がずっとずっと大事だったから。
(ただ、どうか。愛する人たちが幸せと共にあってほしい)
ガラスのようにひたむきな祈りと願い。落っことして割れてしまわないように、掌にしっかりと包んで。大切に、大切に、ラムネは祈り続けている。
気付けばしゃぼん玉はぷかぷか海上にたゆたっていた。どこかへ導かれるように、泡は見知らぬ入り江へと流れていく。ラナ・ラングドシャ(猫舌甘味・h02157)とラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)は自然と地上へ押し出される。二人の足が地面に触れた時、役目を終えたとばかりに、泡はぱちんと割れてしまった。
「わっ、と」
「あっ」
弾けた泡につい名残惜しさを感じてラデュレは一瞬、眉をさげる。夢のようなひとときをくれた魔法がまるでほんとの泡沫みたいに消えてしまった。もしこの場にいるのがラデュレひとりなら、そのまま、海の中の散策は誰も知らない夢物語になっていたかもしれない。
──けれど。ラデュレは隣にいるラナの顔を見上げて、アメジスト色の瞳をやわらかく細めた。
「水中游泳、とても楽しかったですね。素敵な光景を見ることが出来ました」
「うん! すっごく楽しかったね!」
今はラナの晴れやかな笑顔が、共に過ごした時間が夢でないことを教えてくれる。だから、名残惜しさはあっても寂しさはそこにない。
そうして迎える新しい物語の幕開け。ひっそりとした空気に鼻をひくひく、目をまんまるに見開いて辺りを見回していたラナはラデュレに手を差し出す。
「洞窟……ちょっと薄暗いね。はぐれないように手、繋いでおこうか」
「はい、ありがとうございます」
二人は手をしっかりと繋ぎ、温もりを頼りに洞窟の奥へと歩き出す。海と直接つながっているためか潮の匂いが濃い。ひたひたと湿った空気はまだ海の中にいるような、不思議な心地だ。辺りをきょろきょろと見ながら、ラデュレはふと、そんな匂いにふんわりと異質なものが混ざるのに気付いた。
「──、……? あまい、香りがしますね」
「あ、ラーレも気づいた?」
ピンク色のまなざしは薄暗がりの中でも光を失うことはない。なにか素敵な予感に尻尾をゆらゆら揺らして顔を覗き込むラナに、ラデュレは小さく頷いた。
「はい、向こうへと向かってみましょうか」
「うん、行ってみよう!」
芳香が濃くなればなるほどに、薄暗い洞窟が足元から仄かに明るくなっていく。この奥にはどんな景色が広がっているのだろう。まだ読み終わっていない童話の頁をどんどん捲りたくなるような、そんな期待感を胸に二人は歩みを進めていく。
拍子に花の苗をよいしょ、と抱え直したところで、ラデュレはふとラナを見上げた。
「そういえば……ラナは、どんな花の苗を選んだのですか?」
「……ん? 僕が選んだ花の苗?」
「ええ、まだ聞いていなかったな、と思ったのです」
こくんと頷くラデュレが見やすいよう、ラナは一度手を離すと反対の手に持っていた花の苗を少女の前に差し出す。先端にぽつぽつと付いているのは、細い花びらをぴょんぴょんと散らした白い花だ。緑色に鮮やかな白色はまだ盛りを迎えていないのか、少し数は少ないが、ここまでの長旅にも負けず活き活きと先端まで上を向いている。
「|雪華草《ダイヤモンドフロスト》だよ! 白くて可愛い小花を沢山咲かせてくれるお花!」
「ふふ、素敵なお名前なのです」
「ラーレは?」
ラナの言葉に、まじまじと苗を見つめていたラデュレはいそいそと自分の花を差し出す。
「わたくしは……ラーレは、フリージアのお花です。親愛や友情のお花だとお聞きしたことがあって」
「へぇ……! 親愛や友情の花、フリージア……! すごくいいお花だね!!」
対するフリージアもまだ頑なな白い蕾。けれどその内側では、咲くのに一番ふさわしい時間を今か今かと待っている。ラデュレは美しく咲く白い花の様子を思い浮かべながら、ラナの言葉に頷いた。花を見れば、これから訪れる素敵な予感に自然と表情は綻ぶ。
そんなラデュレの様子にニコニコと笑っていたラナは、ふと足元がいちだんと明るくなったことに気が付いた。
「あ、そろそろ一番奥みたいだよ。……って、わぁ……!」
「まあ……」
二人の足がぴたりと止まった。一面に広がるのは、生まれたばかりの子猫のような、くすみのない真っ白な色の花。花はひとつひとつが淡い光を零し、ひらひらと光の粒が足元から洞窟中を照らす。先ほどから漂う甘い香りはここからやってきているようで、まるで花束の中にふわりと飛び込んだような心地だ。光を反射して、二人の瞳も本物の宝石のようにきらきらと輝く。
「この光ってるの全部、白いお花なんだ……!」
「なんて、きれいなのでしょう」
「すごく綺麗で目が離せなくなっちゃうよ」
「本当に……」
うっとりとため息が零れてしまうのも、この光景を前にしたら仕方がないこと。ずっと見つめていたい気持ちだったけれど、二人は互いに顔を見合わせて頷き合う。すばらしい景色を守るために、まずやらなくてはならないことがあるのだ。
光の合間に点々と咲く染みのような黒色の花。項垂れ弱ったその姿が、二人にはしっかりと見えている。
「こちらを除いて、植え替えるのですね」
「うん、そうみたい!」
とことこと黒い花の傍まで行くと、ラデュレは小さな手を伸ばして茎に触れる。
「えい、っ……!」
少し力を込めてそのまま引っ張れば、軽い抵抗の後に花は諦めた様にするりと地面から離れた。
「これで、よろしいのでしょうか……?」
せわしく瞬きをしながら抜けた花と顔を見合わせる。そんなラデュレの様子にくすりと笑いながら、ラナはそうだ、と両手をぱちりと合わせた。
「よーし! じゃあボクの可愛いお世話係ちゃんたちにも手伝ってもらおう!」
「ラナのお手伝いさんたち、ですか……?」
きょとんとするラデュレにとびきり表情を輝かせて頷くと、ラナは髪飾りに手を触れた。花にも負けない甘いお菓子の香りで誘って、小さなお手伝いさんに心の声を響かせる。
「──『おいで、勇敢で優しいボクの仔猫ちゃんたち!』」
そしてぽわんと現れるのは、毛並みも個性も十匹十色、カラフルなリボンを首に巻いた仔猫たち。その可愛らしさに、ラデュレも堪らず瞳を丸くした。
「なんて可愛らしいのでしょう……!」
「ふふ、可愛いでしょ? ボクの優しくてつよ~いお世話係ちゃんたち!」
良かったら仲良くしてあげてね♪とどこか自慢げに尻尾を揺らして笑うラナの言葉に、ラデュレは慌てて仔猫に向かって居住まいを正した。
「は、はじめまして……! わたくしはラデュレ。ラーレと申します。どうぞ、よろしくお願いいたしますね」
どきまぎしながらぺこりと頭を下げるラデュレに仔猫たちは好奇心半分、喜び半分でくるくる周りを漂う。気ままで無邪気な仔猫たちの様子に、ラデュレは目を白黒させながら中心で硬直した。
「わ、わあ……! ラナ、これは……?」
「よかった、ラーレ歓迎されてるよ。仲良くなれそうだね!」
戸惑うラデュレにラナは朗らかに笑うと、仔猫たちに「おーい、みんな!」と手を振って呼びかける。
「今はボクの髪の毛のセッティングじゃなくて黒い花を抜くのと、お花を植えるのを手伝って欲しいんだ! よろしくね!」
ご主人様のお願いに、彼ら流の挨拶もそこそこに仔猫たちは黒い花を探しに飛び回る。突然の賑やかな様子に目をぱちぱちしていたラデュレは、それでも、徐々に自らの頬が緩んでいくのが分かった。さっそくラナと仔猫たちと共に、黒い花を探しに駆けていく。
「……よし! こんなもんでいいかな~?」
「はい、とてもスッキリしましたのです」
仔猫たちと共に、大体の黒い花は取り除けたように思う。夢中になって賑やかに作業を終え、ひと息ついたところで、二人は花の苗をそれぞれ手に取った。
「お花、植えよっか」
「はい、植えましょう」
ラナは雪華草の苗を土の上に置く。さっきはラデュレに説明しなかったけれど──この花を選んだのは、その可愛らしさに惹かれただけではない。この花が持つ意味は、自分がひそかに抱き続けている願いにぴったりだったから。
(──|君にまた会いたい《雪華草の花言葉》。……見つけられますように)
いつもの朗らかさも、今だけは静けさの中に沈めて。目を閉じて真摯に祈るラデュレの隣で、ラナもフリージアの苗を隣の土の上に置いた。花に込められた意味は親愛、愛情。冠する意味に願いを託して、少女も目を閉じた。
(この素敵な場所で出逢えたあなたと──ラナと、お友だちになれますように。そして──わたくしの記憶の在り処。その手掛かりを、掴めますように)
「……どうか美しく咲き誇ってくださいませ」
少女の小さな祈りの声に、ラナは閉じていた瞼をふっと開く。
「ラーレ、おねがいごと出来た?」
「ええ、大丈夫なのです」
「うん、じゃあ帰ろうか」
ラナの言葉にラデュレは頷き、二人は再び並んで帰り道を歩き始める。
白い花が揺れる中、ふと落ちる空白。──その理由は何となく分かっている。
「──ラーレ」
ラナの足が止まる。それを予感していたかのように、ラデュレの足も自然と止まった。
二人の視線が交わる。ぴんと立った猫耳からどきどきが伝わって、ラデュレも姿勢を正した。うん、うん、と何度か頷いてから、ラナはゆっくりと唇を開く。
「ボク、今日キミと出会えて本当に良かった……!」
今日会ったばかりのはじめまして。なのにどうして、こんなにもさよならの時間を惜しく思うのだろう。ラナは少女の手をぎゅっと握った。
「だから、えっと、あのね? お友達になって、また一緒に遊びたいな……!」
暖かなラナの手の温もりを感じて、ラデュレは思わず表情を綻ばせた。言葉以上に、その熱が、彼女も自分と同じ気持ちなのだと教えてくれる。そのことが、ただ、ただ嬉しくて。
「御礼をお伝えするのは、わたくしのほうです。とても、とても楽しかった……!」
気持ちが伝わりますようにと思いを込めて、掌をそっと握り返す。返ってきた温もりに華やぐラナの顔をじっと見上げながら、子兎は強く強く、頷きを返した。
「ぜひ、お友だちになりたいです。そうしてまた、遊んでくださいませ!」
二人の間に浮かんだ表情は、花々にも負けない満開の笑顔だ。
少女の一つ目のお願いが叶うのは、思ったよりもずっと早かったらしい。だから他の願いも、新たな友人の願いも。誰かの願いも、それからたくさんの花に託されてきた多くの幸せも、きっと。
今日も誰かの願いや祈りをうけて、白い花は水底で静かに光り、揺れている。
──ぱしゃん、とどこかで水が跳ねた。
ひらりとオーロラ色に光った尾が揺れた気がしたけれど、すぐに見えなくなってしまったから。続きはいつか、新たな童話の、その後で。