シナリオ

灰燼にて帰還す

#√ウォーゾーン #SeriesScenario《テセウスの魂》 #Episode.1

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 #√ウォーゾーン
 #SeriesScenario《テセウスの魂》
 #Episode.1

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 ぽた、ぽた。
 静かな音が、どこかで鳴っていた気がする。

 懐かしい誰かの声と、仕草と、あの頃の遣り取り。
 思い出せたような。でも、少し違ったような。

 ぽたり、ぽたり。
 伝う水滴の、音がする――。


「んー……みんな、"会いたい人" っている? 昔よく遊んでた友達とか、離れ離れになっちゃった誰かとか」
 そんな問いかけをしてきたのは、「星詠みの少女」神童・裳奈花(風の祭祀継承者・h01001)。
 ちょっとした世間話のようなトーンで、彼女は抱えていたスケッチブックを開く。
「今回の予知はちょっと不思議な感じだったんだ。行き先は√ウォーゾーンの最前線機械都市、ノア・シエル。堅牢なシステムに守られた、すっごく綺麗な都市みたい」
 スケッチブックに描かれた都市の図面を指差しながら、裳奈花は軽やかに語る。
「その都市は、人々の感情とか記憶を記録出来るらしいんだよね。なんかこう、“自動日記アプリ”みたいな感じで」

 そして――「Re:Union(リ・ユニオン)」というシステム。
 好きだった人、家族、大事な相棒。そういう"往年の想い出の誰か"を、都市が記録をもとに再現してくれるんだとか。
「電子の鏡像っていうか……うーん、ちょっと上手く言えないけど。会いたかった人に会えるって、それだけで元気出るよね?」
 裳奈花はそう言って、にこっと笑ってみせる。
「このノア・シエルに機械群が迫ってるらしいんだけど、観光ついでに行ってサクっと倒しちゃってくれると嬉しいんだ」

 そう言って裳奈花はカラカラとホワイトボードを引っ張り出し、マーカーの蓋をキュポッと外す。

 ==============================
 ミッション:堅牢機械都市「ノア・シエル」を防衛せよ

 ノア・シエル外縁セクターに敵機械群が浸入する。
 なお侵入発生までには充分に時間がある為、Re:Union利用などの都市散策が可能。
 その後は防衛学徒隊の訓練や、物資補給の手伝い等で都市支援をお願いしたい。
 敵機械群は防衛学徒隊には少々荷が重い相手だが、キミたちが居れば百人力だろう。

 敵機械群の侵入警報に即応し、速やかに撃滅して欲しい。
 ==============================

「予知自体はちょっとボヤけてて、珍しくピンと来なかったんだよね……でも、そういう時って意外と“大事な何か”が起こる前触れだったりするから」
 マーカーの蓋を閉め、裳奈花は懐から「黒曜石の星座盤」を取り出した。
「気が向いたら、“あの人に会いたい”って登録してみてもいいかもね。ちょっとした元気づけや、おまじない代わりになるかもだし」
 その言葉に合わせ、星座盤――|天輝輪《オルビス》が宙に光の軌跡で座標を刻んでいく。

 手をひらひらと振りながら、星詠みの少女は最後にこう告げた。
「それじゃ、行ってらっしゃい。再会が……いい時間になりますように」

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第1章 冒険 『物資不足を解消しよう!』


●青に染まる都市
 突き抜けるように、空が広がっていた。

 雲ひとつないその空は、どこまでも高く、青く澄んでいる。
 遠くに鏡のように磨かれて輝くビル群が立ち並び、そのすべてに空が映り込んでいた。
 街そのものが空の色に染まり、ここが戦場の最前線だということを忘れてしまいそうになる。

 歩道の植え込みには、白いツツジがちらほら。そんな街角、ベンチ横で立ち話をしている老夫婦の姿があった。
 小柄で背の丸いお婆さんが、エコバッグを提げながら買い物帰りの足を止め、隣に立つ柔和なお爺さんと他愛もない話をしている。
「……あら、またそんな昔話。もう何十回も聞いたわよ?」
「そうかねえ? ほら、話してるとあの頃を思い出して、つい……な」
 笑い合いながら、まるでそこだけ時の流れがゆるやかになるようだった。
 やがて、「それじゃあ、そろそろお昼ご飯の準備をね」とお婆さんが手を振り、通りを歩いて行く。
 ――その背中が遠ざかったとき。
 目を細めて見守っていたお爺さんの姿はふわりと揺らぎ、淡く、風の中に滲んで消えていった。
 通りすがりの誰もが気に留める様子はない。
 ここノア・シエルでは、“Re:Union”によって再現されたホログラムの存在は、もう当たり前の日常に溶け込んでいる。

 遠くでは、サイネージパネルに映るAIの少女が、犬にじゃれつかれて困惑している。
「は、はえ? ド、ドッグフードですか?! 申し訳ありません、私に出来るのは道案内と街のメンテくらいで……あぁぁーッ?! やめてください、ここで粗相はダメですぅぅ!!」
 ギャラリーから小さく笑い声が上がる。

 そして。

 滑らかに走るモノレールが奏でる駆動音も、
 子供たちがベンチでアイスを食べる光景も、
 壊れた機械たちが静かに搬出されていく様子も――

 この街の営みすべてを、今日もまた、青空が優しく包み込んでいた。


●*登録画面*
 これは心の記録から編まれる虚像。あなたの記憶からの再構築。
 ただの模倣かもしれない。でも、それでもいいと思えるなら。

 思い出して下さい。
 あなたが笑っていた瞬間。
 あなたが呼ばれて振り返った名前。
 手を伸ばせば、届きそうだったその背中。

 ――ようこそ、『Re:Union』へ。
 あなたは、誰を登録しますか?
八手・真人
オメガ・毒島

 最先端都市ノア・シエル。整然と青を湛える街並みへと足を踏み入れた途端、八手・真人(当代・蛸神の依代・h00758)はきょろきょろと周囲を見渡した。
「うわぁ……すごいなぁ、コレが最先端ぎぎじゅちゅ――じゃなくて、技術……!」
 彼は不安げに笑い、すぐ隣に立つオメガ・毒島(サイボーグメガちゃん・h06434)の暖かな手を、一度そっと握ってから離す。
「メガくん、俺を迷子にしないように……ちゃんと気をつけてください、ね? ……あの、もし見失ったら、大きい声で呼ぶから……迎えに来てほしいな……」
「ええ、ええ。勿論ですとも。真人について来て頂いた手前、迷子防止は私の任務でもありますので」
 その言葉に、真人はくすっと笑って頷いた。
 オメガは視線を前に戻す。常に、後ろ暗い気持ちはあった。
 故郷を捨て、逃げ続けてきた過去。清算の手がかりを探すには、勇気が足りなかった。
 だからこそ――この手を取ってくれる友が、必要だったのだ。


 Re:Unionの装置に立ち、真人は小さく息をのんだ。直後、光の線が頭上から降りてきて、彼の額に触れる。
 それはまるで、記憶を撫でていくよう。頭から足元へ、静かに、滑らかに――光が通過するたび、胸の奥がかすかにざわつく。
(……なんか、変な感じ……)
 目を閉じると、浮かんでくる。兄の顔。たこすけの触腕。唐揚げの匂い。煮物の湯気。そして――誰かの笑う声。遠くで、自分を呼ぶ声。
 眩い閃光が一瞬、視界を満たした。
 気づけば周囲には、人影が無数に立っていた。
 言葉もなく、ただ静かに“存在している”記憶たち。兄、友人、リサイクルショップの、捜査三課の面々。過去に関わった誰か。全員が、真人の記憶から再構成された影だった。
 だがその中で、淡く輝き始める影がある。真人から銀の糸のような光が伸び、そっとその影へ繋がった。

(……やっぱり、会いたいのは……)

 真人が無意識にそう思った瞬間、空間が揺れた。灰色だった周囲が、少しずつ色づいていく。
 見慣れた茶箪笥と、日付の古いカレンダー。何処からか出汁の香りが漂っていた。懐かしく、胸の奥を軽く締めつける匂い。

「……煮込ンニャク……の匂い、だ……」
 真人はぽつりと呟いた。足元を見つめながら思わず腰を下ろしかけて、ふと途中で所作を止める。ぱた、ぱた、と落ち着いた軽い足音に続き、淡い光と共に人影が現れる。

「おかえりなさい、真人」
 母の声だった。ほのかに微笑んでいる。後ろから現れた父も、変わらぬ無口さと、どこか照れくさいような温かさを漂わせていた。
「……元気そうで、なによりだ」

「わっ、あ、あのッ、えっと……ッ!」
 真人の言葉はすぐに破綻する。戸惑いと動揺が声に混ざって、膝が震える。
「俺……兄ちゃんも、俺も元気……で……その、タブン、元気で……。お、お墓参りも、ちゃんと……行ってて……ッ。たまにサボっちゃってる、です、けど……でも……ちゃんと……!」

 言葉が溢れては噛み、濁り、途切れる。思考のまとまりがつかず、両手で顔を覆ってうつむいた。
「……ホントは、もっと、ちゃんと……話すコト、考えてたつもりだったんだケド……」

 時を刻む音がしんと静まる。母がゆっくりと歩み寄り、真人の手に触れるように自分の手をかざした。幻影であるが為に、触れ合えない手。それでも、温もりの錯覚すら覚えるその光景を、真人は確りと頭に焼き付ける。
「真人……あなたがこうして来てくれたことが、一番うれしいのよ」
「……で、でも……俺、なにもできないし……|蛸神様《たこすけ》がいなかったら……今ごろ、もう……」
 父が、少しだけ声を強める。
「それでも、生きてる。それだけで、十分だ」

 真人は涙をこらえながら、息を震わせつつも笑顔を作る。
「っ……ありがとう……。俺、まだ……ちゃんと、生きていくから……!」
 両親は微笑んでいた。記憶の中よりわずかに老いた姿。それは、年月を経ても「会いたい」と願い続けた人たちの、確かな証だった。

 光がゆるやかに揺れ始める。ホログラムが、終わりを告げる。
「あっ……また、来ても……いい……? その……また、話せたら……うれしい、です……」
「ええ。またね、真人」
「……またな」

 世界が静かに閉ざされ、においも、光も、残らず消えた。
 真人はしばらくその場に立ち尽くしていた。やがて、ひとつ深く息をついて、表情を整える。
「……会えて、よかった。……うん」
 小さくそう呟いてから、背筋を伸ばす。
 周囲はすっかりノア・シエルの風景に戻ったが、彼の中には確かなぬくもりが残っていた。


 記憶スキャンの光が、オメガの身体の上を走っていく。周囲の空間に浮かび上がる横顔。手を振る仕草。声なき笑顔。どれも温かい、見覚えのあるものばかり。自分と言う存在に再誕させた博士。或いは、今の自分に優しく接してくれた友人たち。オメガから伸び始めた光の糸は接続先を決めきれず、迷うように空中を揺れた。
(……やはり、駄目でしたか)
 目を伏せた瞬間、胸の奥で何かが震えた。共鳴するように、光の糸が一際小さな震えを見せる。それは、何かを“思い出した”ような動き。
 次の瞬間、糸は誰もいない空間の先へと伸びていった。何も無い筈の場所に、瘦せ細っていきながら――それでも真っ直ぐに。
 やがて、崩れかけた“影”が幾つも見えてくる。
 輪郭は曖昧で、揺れている。言葉も名も失われ、何度も明滅を繰り返しながらも、そこに佇む“記録”。頼りない繊維ほどに細くなった糸が、そっとその存在に触れた。その瞬間、断片が繋がれ、像が補われ、再現が始まる。
 光が肉体の枠を描き、記憶の欠片から呼吸のリズムを取り戻していく様子を、オメガはただ見つめていた。

『よう、■■■……って言いかけたけど、今は違ぇか』
 恐らくノア・シエルではないであろう、薄暗い寂れたスタンディング・バー。
 そこに居た男は、咥え煙草のまま笑った。気楽そうな裏に、ほんの少しだけ揺れがある……そんな、やや枯れた声音。

「……申し訳ありません。私には、その名が分かりません」
「だよな。わかってる。……わかってても、つい口に出ちまうんだよな、こういう時って」
 男は肩をすくめ、カウンターに片肘を乗せた。姿勢は崩れていても、どこか“導く者”を感じさせる目が、オメガを見つめる。

「お前がここに来るとは思ってなかった。記憶がねぇって聞いてたし」
「ええ。正直、私自身も迷っていました。……ですがどうしても、過去を確かめたくて」
「過去、か。……そういやさ、お前、今はずいぶん“食い物”にうるさいらしいな?」
「はい。味覚センサーが非常に優秀でして。……ええ、ええ」
「ふふん。昔は真逆だったんだぜ? 戦地じゃ何でも喰った。味も気にしねぇ。唯一『美味い』って言ったのが、缶詰の白豆」

 オメガは目を見開く。この世界の糧食ならば、味付けも碌にしない水煮缶が一般的だろう。
「……白豆。私が?」
「そう、“少しは味がする”って言いながら、むしゃむしゃ食ってた。……たぶん今の舌じゃ、二口で匙を置くだろうけどな」

 オメガは言葉に詰まり、柔らかく目を伏せる。意外なほど、否定の感情は浮かばなかった。
「そうなのですか……。記憶には残っていません。けれど、変ですね。不快では、ないのです」
「……なら、それでいいんじゃねぇか?」

 男は煙草を軽く持ち上げると、持っていた携帯灰皿にトン、と灰を落とした。の仕草には、理由も正しさも求めない人間らしい無造作さがあった。
「今のお前がうまいもん食えてんなら、そっちの方がずっとイイ。戦場の味は、思い出す価値なんてねぇよ」
「……ですが、貴方は今、それを話してくださった」
「そりゃ俺を呼んだのが、記憶を落っことしたお前だったからな。違う誰かに呼ばれたなら、別の話をしたさ」

 言い切る声に、曖昧さはなかった。再現された影でありながら、彼はまるで生きているように、自分の意思で言葉を選んでいる。
「……貴方は、いつもそうだったのですか?」
「どうだろうな。お前がそう思ってくれるなら、たぶんそうだったんだろ」

 ホログラムが微かに揺らいだ。夢の時間が、終る。

「なあ、オメガ」
「はい」
「お前が思い出せなくても、俺は“また会いたかった”んだと思う。……その理由は、たぶん分かんねぇままだけどさ」
「……同じです。私も、“それ”を確認したくて、ここに来ました」

「そうか。……こんな身勝手な部隊長に、最後まで付いて来てくれて……ありがとな」
 男――部隊長は、初めてまっすぐこちらに向き直る。

「次にまた会えたら……その時は、“うまい飯の話”でもしてくれよ。今度はちゃんと聞くから」
「……ええ、ええ。では次は、“あなたが羨ましがる食事”をお見せできるよう、研鑽しておきます」
「楽しみにしてる」

 世界が静かに閉じていく。ノア・シエルの景色が戻って来る。
 それでも胸の奥に残った確かな共鳴だけが、未だほんの僅かに温もりを持っていた。


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 ('06434', 'Re:Union session completed - trace archived.'); _

クラウス・イーザリー
永瀬・翼

 ノア・シエル――この街が、√ウォーゾーンの最前線にあるなど、到底信じられなかった。
 舗装路には罅一つない。街角の広告板が滑らかに切り替わるその向こうで、AI制御の清掃ユニットが無音で動き、ベンチの上には埃ひとつ積もっていなかった。
 クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)は、歩きながら困惑を隠せない。
 これが前線の都市なのか?
 彼の知る前線は、もっと生臭く、もっと無骨で、もっと血と油と硝煙にまみれていた。だが此処は余りに整いすぎている。まるで戦火など、何処にも存在しないかのように。
 白と水色にラッピングされたモノレールは、時折わずかに駆動音を残すだけで、まるで滑るように高架のレールを通り過ぎてゆく。
 空は広く、青く、澄んでいる。
 けれどクラウスの目には、戦闘機械群の砲塔が、“偶々全てこちらに向けられていない奇跡”のようにしか見えなかった。

 Re:Unionシステム。その登録用端末が静かに発光する。「記憶スキャン開始」の音声と共に、柔らかな光のラインがクラウスの頭頂から足元へとゆっくり降りていった。一瞬の目眩。空間に無数の人影が現れる。懐かしい声、形、気配……。
 その中でただ一つ、光輝く糸が、一人の人影とクラウスを結んだ。
 都市の気配が瞬時に遥か彼方へ遠のき、風が吹き抜ける草原が広がる。

『クラウス! 久しぶりだな!』

 その声が空を裂くように響いた瞬間、時間が止まった。思考がついていかない。ただ、目の前に在る姿を見つめることしか出来ない。
 永瀬・翼(沈んだ太陽・h05934)――死んだはずの、太陽のような親友。
 記憶の中のままの笑顔、赤い瞳、陽に照らされた茶色の髪。
 背景には、青く澄み切った空と、堂々と天に伸びる入道雲。いつか見たかもしれない、記憶の中にある夏の風景。

「……っ」
 声が出ない。息が詰まる。
 それがホログラムだと、再現された映像であると、頭では理解している。でも、心がそれを否定する。“あいつ”だと、心が叫んでしまう。

『何か疲れてるか? 顔色、ちょっと悪いぞ』
 翼が一歩、近づいてくる。
 その動き、その声の調子、その空気の揺れ方までが、“あいつ”だった。違和感がないのが、余計に苦しい。
「……ああ……ちょっと、色々あって。疲れてはいるかもしれないな」

 ようやく搾り出した言葉に、翼は笑ってみせた。
『だと思った! オレにできること、何かあるか?』
 ――ある。たくさん、言いたいことも、伝えたいこともある。
 けれど今は、ただ。

「……何もしなくていい。ただ、傍に居て、声を聞かせてくれ」
 その一言に、翼はほんの少し目を丸くして、それから優しく頷いた。

『そっか。わかった』
 草むらをかき分けるようにして隣に腰を下ろすと、彼は静かに空を見上げた。
 クラウスも隣に座り、目を閉じて深く呼吸する。涼し気な風が渡っていく。空には白い雲が幾筋も浮かんでいて、大きな入道雲の頂きは青の天蓋に広がり始めている。

「調子狂うなって笑ってもいいはずなのに、静かに傍に居てくれるんだな、お前は」
 そう呟くと、翼は明るく笑う。

『オレ、お前がそうしてほしい時はいつもそうしてたろ?』
 不意に胸が詰まる。
 “あいつ”は、ずっとそうだった。押し付けない。導くけれど、置いていかない。その存在に何度救われたか分からない。
 嬉しいのか、悲しいのか、分からなかった。
 でも今、胸の奥にふわりと小さな火が灯るのを感じる。
 空虚な心を仄かに照らす、あたたかな火種。
 ――もしも、これが本当に夢でも、幻でも、構わない。この瞬間だけは、確かに“翼”と再会できたのだから。

 どれほどそうしていたのか。ふいに、景色の現実感が薄れていく。
 夢の終わりを察して、クラウスは小さく息を呑む。隣の翼が、変わらぬ笑顔のまま彼を見つめていた。

「……また会えるかな」
 そう問いかけたクラウスに、翼はちょっとだけいたずらっぽく笑った。

『さあな? でも……オレは、いつだってここにいるよ』
 そう言って翼は軽く一歩踏み出し、クラウスの胸元を拳で軽く叩くそぶりを見せる。その動きは、かつて実際にあった光景をなぞるように自然で――
 然し拳は触れる直前で止まり、嘗ては響いたであろう衝撃はふっと宙に溶けた。
 ホログラムだから、触れられない。それでも、確かにあった筈の重さをクラウスの身体は覚えていた。

『……またな』
 彼は笑って、輪郭を光に還していった。
 最後まで太陽のように眩しくて、暖かかった。

 静けさが戻る。ノア・シエルの空は青く、遥か遠くには入道雲が変わらずに在る。
 クラウスは立ち尽くしたまま目を閉じ、再会の感傷に浸るのだった。


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 ('05015', 'Re:Union session completed - trace archived.'); _

飛鳥井・合歓

 淡い光が天井から降りる。飛鳥井・合歓(災厄の継承者・h00415)の記憶を手繰るように、静かな線が頭から足元へと滑り落ちてゆく。
 やがて、視界に無数の人影が浮かび上がった。その中にただ一つ、思考の奥で強く手を伸ばしてしまう影がある。情念が、光の糸となってそれと結ばれる。
「……うすむら様」
 次の瞬間、影は形を持ち、光粒をまとって結晶化した。
 あの懐かしい黒子のような姿が、現代のホログラム技術により再構成されたのだった。


 ジャンクヤード。防衛戦発生時の、焼けて朽ちた鉄と残骸が積み上がる集積所。平穏と整然を体現したかのようなノア・シエルにおける、唯一の例外。
 機械の瓦礫が無造作に並ぶその場所に、合歓はそっと足を踏み入れる。
 背後には、ホログラム投影された存在が、静かにその姿を保っていた。

「うすむら様、少し歩きましょうか。物資の運び出しをしながらでも話せるでしょう?」
『ええ、喜んで。足はありませんが、こうしてお傍におりますとも』
 微笑みながら答えるその声は、性別の曖昧な、静かで澄んだ声。
 時間の彼方に消えたはずの存在が、すぐ隣に存在してくれている奇跡に、合歓はまだ現実感を掴みきれずにいた。

 No.822――巨大な人型のインビジブルに瓦礫を運ばせながら、二人は並んで歩きはじめる。
 ホログラムの姿が鉄屑の上に影を落とすことはないが、会話には温度があった。

「覚えてる? 小作人の手伝いして、父に怒られた日のこと」
『ええ。幼かったあなたが小さな鎌を持って、草の海に踏み込んだ日ですね。あの日は暑うございましたなあ』
「私、あの時……おじさんに迷惑がかからないようにって、あなたに頼んだの。怒られるのは私だけでいいからって」
『承っておりました。その願いは、きちんと通しましたよ』
 その一言に、合歓は僅かに目を伏せる。たったひとつの願いを、何十年経っても大切に思い出せることが、少しだけ誇らしかった。

「……あの頃は分かってなかったのよ。自分の言葉で何かを動かす事の重さを」
『人は、後になって重みを知るものです。知って、それでも歩く。それが“生きる”ということでしょう』
 風が吹き抜ける音の合間に、ひとつ息を吐く。そうしてふと、彼女は再び口を開いた。

「そういえば、もうひとつ覚えてる言葉があるのよ。うすむら様が、私に言ってくれたこと」
『……なんでございましょう?』
「“怖がらないで宜しい。悪いものは、私が見ておくからね”って。あれは今でも覚えてるの。山の獣が村に下りてきた日」
『……泣きながら、草履のまま走ってきましたな』
「ふふ。そうだったかしら。……でも、あの言葉で安心したのよ。ずっと、心の奥に残ってる」
『それは、嬉しゅうございます。けれど、あなたはもう――私の“見ておく”力を必要とせずとも、身を守る力を持っておられる』
「……そうね。でも、懐かしいのは別よ」

 そう呟いて、合歓は小さく微笑んだ。笑みに混じるのは、懐かしさとほんの少しの寂しさ。
『あなたが私にかける言葉は、いつでも真っ直ぐでした。だから、私はあなたに会えた事を幸福に思います』
「……私も、こうして会えたことが嬉しいわ」

 ジャンクヤードに横付けされた巨大搬出車両、その荷台に瓦礫を積み終えたNo.822がふわりと姿を解く。
 と同時に、うすむら様の姿も末端から粒子となって、青空へと還り始めた。
「……そろそろ時間みたいね。もう少し、一緒に過ごしたかったわ」
『別れの時は、いつも静かに訪れます』

「最後に、言っておきたいことがあるの」
 合歓は振り返り、ホログラムの黒衣の姿に正面から向き合う。
「ありがとう。今の私があるのは、あなたが私を“そのまま”で受け入れてくれたから。誰よりも、先にそうしてくれたのは――あなたよ」
『お礼を言われるようなことは、しておりません。ただ……あなたが自分で歩けるようになるまで、私はそっと見ていた。それだけのことです』
 その言葉に合歓は言葉を失い、ただ胸に広がる静かな温もりを抱きしめる。
 光の粒子が風に舞うように揺れ、黒衣の姿が少しずつ透けていく。

「さようなら、うすむら様」
『……また、お目にかかれますように』

 声だけが、最後まで優しく残った。


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 ('00415', 'Re:Union session completed - trace archived.'); _

花喰・小鳥
瀬条・兎比良

 Re:Unionのパネルに触れると、全身に薄い光が走った。
 それはまるで意識に触れるように、彼女の内奥を撫でていく。額から足元まで、降りるように――記憶の輪郭をなぞるように。
 視界に人影が溢れた。言葉、仕草、記憶の面影。無数の"誰か"が、揺らめきながら彼女を取り囲む。
 その中のひとつに、糸のような光が伸びる。細くて、けれど確かに。情念の強さに呼応して絡みつくと同時、周囲が白に染まった。
 ……一歩、踏み出す。その瞬間、白い覆布を取り去るが如く、世界が一気に開けた。
 六月。紫陽花が鮮やかに色づく初夏の空気が、緩やかにあたりを満たしている。
 青や薄紅の花には細やかな水の粒が煌き、僅かに湿り気を含んだ風が髪を撫でる。かつて兄と並んで歩いた事があったような、どこか懐かしい公園の風景だった。
 揺れる花の傍に立つひとりの青年。肩に落ちる淡い髪、穏やかな笑み、まっすぐにこちらを見つめる目――

「……兄さん」
 花喰・小鳥(夢渡りのフリージア・h01076)は思わず、そう呼んでいた。その声が震えていたことに、自分では気づいていなかった。

『ようこそ、小鳥』

 それは、たしかに兄の声だった。
 丁寧で柔らかく、どこか子守歌のような響き。かつて夜毎に夢の中で探しては目覚めの涙に変わった、遠すぎる声。
 彼女は数歩、ゆっくりと歩み寄る。彼の姿は記憶の中のまま。それでも長い睫毛の僅かな震え、そして息遣いまでが感じ取れる。

「お元気そうで……、よかったです」
 小鳥は微笑んだ。そうすることで、自分の感情があふれ出さないように。
『小鳥の方こそ。……変わらず綺麗だね。今もちゃんと、誰かにそう言って貰ってるのかい?』

 柔らかな口調でそう言って、雪兎は小さく目を細めた。
「ええ。おかげさまで」
 答える小鳥は平然としている。まるでそれが当然とでも言うように、落ち着いた声で。

 そのやりとりを見守っていた瀬条・兎比良(|善き歩行者《ベナンダンティ》・h01749)に、小鳥はふと視線を向けた。
「兄さん、紹介させて下さい。兎比良さんです。捜査官で、いまの私の……」
「同伴者で、保護者です」
 迷った小鳥の言葉を継ぐように、落ち着いた声で話す兎比良。彼は一歩、前へ出て軽く頭を下げる。

「初めまして、雪兎さん。妹さんには、日頃よりお世話になっています」
『兎比良さん。ご丁寧に有難うございます。……うん、確固たる信念を感じます。あなたは何かを背負っているんですね?』
「ええ。しかし、私は……背負うことも叶わない身です」
 含みを持たせた兎比良の言葉に、憂いを帯びた目を伏せ、黙って頷く雪兎。通じ合っているかのような、束の間の沈黙。

「この人にも妹さんがいるんですよ。とても大事にされていて」
『なるほど……』
 小鳥の紹介に雪兎は静かに応じ、ふたりを交互に見遣った。
 どこか懐かしげに、あるいは優しさの裏に茶目っ気を滲ませながら、彼はふっと口角を上げる。

『それは、気苦労が偲ばれますね』

「……兄さん?」
 小鳥がやや呆れたように肩をすくめると、雪兎は首を傾ける。
『いや、妹というのはなかなか手のかかる存在なんです。――ね、兎比良さん?』
 その言葉には、兎比良も否定しきれず、小さく頷く。
「確かに……身に覚えはあります」
 どこかほっとする空気が一瞬、三人のあいだに流れた。そのさなか、小鳥の目がふと、雪兎の手元へと落ちる。

 二度と繋ぐことの叶わないその手。優しく、温かく、いつも自分を導いてくれた――もう戻らないぬくもり。
 視線を逸らしかけた瞬間、不意に兎比良が手を伸ばし、小鳥の手を取った。

「……?」
 驚いた小鳥が見上げる。兎比良の顔は変わらず、穏やかでまっすぐだった。

「今は、私で我慢してください」
 それは、いつか彼女自身が紡いだ言葉。小鳥は数秒だけ目を伏せてから、そっと微笑み返す。

「……ええ。ありがとうございます、兎比良さん」
 その手は強くはない。けれど、確かにそこにある。触れられないものを見つめる瞳に、触れられるものの温もりがそっと灯る。
 雪兎は静かにそのやりとりを見届けていた。何も言わず、けれどどこか安堵したように微笑んで。

「兄さん」
 繋がれたままの手を意識しながら、小鳥がそっと口を開いた。
「私は、今も……迷子のままかもしれません。だけど、手を繋いでくれる人がいて、行く先を一緒に考えてくれる人がいて。そんな幸せを享受していいのでしょうか」
 言葉を探すように、けれどその声音に迷いはなかった。

 雪兎は何も言わず、微笑みだけで返した。その顔は、あの日と変わらない。
 優しくて、少しだけ寂しそうで、けれど確かに“兄”の顔だった。

『僕が否定しない事は分かっているよね、小鳥。……それに、彼が支えてくれるのなら、きっと大丈夫』
 そう言って、雪兎はゆっくりと視線を兎比良へと向ける。

『小鳥のことを、どうかよろしくお願いします。――妹としても、ひとりの人としても』
「……はい」
 頷く兎比良の声は、いつもより少しだけ低い。それだけの重さを伴った返答なのだと、小鳥は思う。

 初夏の陽が揺らぐように、紫陽花の色がわずかに滲む。雪兎の姿に微細なノイズが混じりはじめた。
『そろそろ、時間みたいだね』
「……ええ」
 静かにうなずいて、小鳥は一歩だけ雪兎に近づいた。

「ありがとう、兄さん。いってきます」
『いってらっしゃい、小鳥。……あの頃とは逆転してしまったね。また会えますように』

 その言葉を最後に、雪兎の姿は風に溶けて消えていった。
 同時に、風景は上映を終えたスクリーンのように薄れ、元のノア・シエルの光景へと戻っていく。


 兎比良は空を見上げて、深く、ひとつ溜息を吐いた。
「……非情ですね。時間というのは」
 独り言のように、小さく呟く。静かに進み、何一つ待ってくれない。
 思い出も言葉も、躰のぬくもりさえ、平等に押し流していく。幾ら条文を並べ、法令で縛ろうとも、長針は短針を置き去りにしてしまう。
 それでも消えない想い出を願う誰かが、時計の針にしがみつく。そうやって時を刻む限り、いつかまた想いは重なるのかもしれない。

 秒針の音は、相変わらず耳に障る。
 しかし今は、微かに隣から伝わる手のぬくもりが、それを打ち消していた。


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 ('01076', 'Re:Union session completed - trace archived.'); _

十・十

 登録端末の前に立った十・十(学校の怪談のなりそこない・h03158)の足元が、ふわりと淡く揺れた。霊体である彼には、物質を感じる感覚は希薄だ。けれど。
「これで想い出の人に会えるなら、おかーさんに会わせてくださいな」

 十の飾らない、本来の口調なのだろうか。幼気な呟きと共に画面に浮かぶ指示に従い、十はそっと手をかざす。
 その瞬間、光が額から足元へと滑り落ちる。ひとすじの銀の線。その途中、光はふと震え、空間を彷徨うように軌道を逸れた。
 まるで、彼の“心”がどこにあるのか迷っているよう。

 だが光は戻り、再び降りてくる。今度は、やわらかな金色。霊体の輪郭を確かめるように、静かに下へと流れていく。
 次の瞬間、彼の周囲に無数の人影が浮かんだ。けれど眩い糸が繋がったのは、ただ一人。とりわけ強い、濃密な情念を宿した一影。

「……おかーさん」
 光が繋がると、世界がゆらいだ。色褪せた畳、黒ずんだ柱、破れた襖が拡がっていく。

 再現完了まで、あと数秒──

 きっと抱きしめて貰える。そんな楽しみを胸に、彼は少しだけ震える声で呟いた。
「会いに来たよ、おかーさん」


 十はそっと足を踏み入れた。心臓はもう止まっているはずなのに、胸が苦しかった。
 畳の擦れる音。記憶のとおりだった。違っていたのは、目の前の人影の顔が見えないことだけ。

「……おかーさん?」

 呼びかけても、返事はなかった。だがその人は、ゆっくりと歩み寄ってくる。十は思わず、嬉しそうに駆け寄った。
 その瞬間。

『……テメエ、何で生きてんだ!』
 ホログラムの母が手を伸ばし、十を突き飛ばす“しぐさ”をした。
 もちろん、何も触れていない。だが、十の体が反応した。生前、何度も同じ動きを経験してきた。皮膚が覚えていた。心が逆らえなかった。
 ふらり、と重心が崩れ、畳の上に背を打つ。倒れた十は、息を詰めたまま、上を見上げる。母の顔は、まだ見えない。照明の加減か、髪の影か、表情だけが闇に包まれていた。
『……生きてるんなら、長い事ドコをほっつき歩いてたんだ、ええ?!』
 その手には錐。それを見た瞬間、十の腕は鋭い痛みが貫くのを鮮烈に思い出した。

 声も上げられずに蹲る十に、母が近づき、十を見下ろして両手を首元に添えた。あのときと同じ位置に、きっちりと指が重なる。
 押されているわけじゃない。けれど、喉が痛む気がした。

「……いいよ」
 十は静かに目を閉じた。
「いつものようにしていいよ。ボク、もう痛くないから……だから、してもいいよ」
 けれど――

『……なんで、こんな……見捨てないでって、言ったのに……』
 心の底から絞り出すような、苦しそうな声がこぼれた。
 母の手は震えていた。
 影に隠れていた顔が、ようやく明るみに出る。そこには、涙が流れていた。苦しそうに眉が歪み、唇が震えていた。振り下ろした怒りでもなく、狂気でもなく、まるで、自分自身を責めるような顔。

「そんな顔、してたんだね」
 十の目にも、涙が滲む。
「ボク、気づいてたよ。ずっと、こわかったけど……でも、本当に……好きだったんだ」

 母は、そっと首から手を離し、次の瞬間、十を抱きしめた。
 柔らかく、あたたかく、ほんの少しだけ、震えている。――そんな気がした。

『ごめんね……大事にできなくて……十、本当にごめん、ごめんね……』
「大好きだったよ、おかーさん。ずっと、ほんとは」

 この腕のなかだけが、十の世界だった。痛みも、傷も、愛も、すべてが十を抱きしめていた。
 けれど、それが永遠でないことは、わかっていた。
 母の体がうっすらと光に滲んでいく。再現の時間が、終わろうとしていた。
 十は強く目を閉じる。もう、声は出ない。それでも触れられない抱擁を返すことで、想いを伝える。
 ずっと。ずっと。ながく。ながく。

 やがて、腕の中は空になった。
 十はひとり、そこに座っていた。

 涙は止まっていた。代わりに、小さな笑みが浮かぶ。
「ちゃんと、会えたよね……バイバイ、おかーさん」
 世界が暗転し、再び明るく浮上する。十の瞳に、現実であるノア・シエルの青い空が眩しく映った。
 痛みも恐怖も不思議と後を引いていない。あの温もりだけが、彼の胸に今も残っているのだった。


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 ('03158', 'Re:Union session completed - trace archived.'); _

アデドラ・ドール
式凪・朔夜

 ノア・シエルの街は、まるで人工楽園だった。空は抜けるように青く、光粒子が漂う大気は穏やかに満ち、建物の曲線はどこまでも柔らかく美しい。
 軌道式の電車が静かに頭上を滑ってゆく。自動給水塔の前では、ロボットが手入れを施したばかりの小さなスミレが揺れていた。
「……ほんと、人工的すぎるよな」
 式凪・朔夜(影狼憑きの霊能力者・h07051)がぽつりと呟く。彼の肩には、ビスクドールのアデドラ・ドール(|魂喰い《ソウルイーター》・h07676)がちょこんと座っている。彼女はつま先を軽く揺らしながら、青い瞳を街の遠くへ――サイネージパネルの案内に向けられていた。

「ふーん、記憶を再現ね」
 唐突に響いた彼女の声は、まるで他人事のような調子だった。
「サクヤには、会いたい人はいるのかしら?」

 不意を突かれて、朔夜は肩越しに視線を送る。
「会いたい人……か……」
 少しだけ考えてから、彼は目を細め、アデドラをそっと片手で支えながら苦笑した。
「アデドラは、秘密? ……だよな、そういうの」
 彼女は小さく肩をすくめてみせるだけ。だが、それだけでも、この街のどんな機械よりも、ずっと人間らしく思えた。

 やがて二人は円形広場の中心に立つ、透明なガラス筒の前にたどり着く。Re:Union──記憶再現装置。その導入ブースは、まるで噴水のように街の一角に溶け込んでいた。
「流行ってるってのも、あるけど……こういうの、やっぱ気になるよな」
 朔夜は立ち止まり、ゆっくりとアデドラを肩から降ろす。彼女は無言で、静かに足元の床へ降り立った。

「……サクヤ、行くの?」
「行くよ。俺も……会ってみたい、かもしれないから」
 そう呟いて、彼は一歩、端末の方へ進む。
 アデドラもまた、ふと瞳を伏せて──何かを想うように、微笑んだ。

 「じゃあ……また、あとで」
 彼らはそれぞれ別の端末へと歩いてゆく。ガラス筒が、彼らを優しく包み込むように開いた。


 装置が起動すると同時に、ノイズのような光の粒が浮かび上がり、頭上から足元へ──一本の光線が、まるで意識そのものをなぞるように滑り降りた。
 視界が白く染まる。無音。無重力。ふたりはそれぞれ、自らの深層へと静かに落ちていく。
 次の瞬間、眼前に数え切れない人影が浮かび上がった。懐かしいような、知らないような。近くて、遠い。
 その中の一体──もっとも強く“会いたい”と願った存在に向かって、細く淡い光の糸が繋がる。

 空間が揺らぎ、背景が書き換わる。
 アデドラの視界には、薄暗くも静謐な和洋折衷の屋敷の一室が。
 朔夜の足元には、遠い昔の、あの小さなリビングが広がっていた。

 そして──光の中から彼らが想った人の姿が、ホログラムのようにゆっくりと形を持ちはじめる。


 光の帳がゆっくりと晴れると、そこはもう、ノア・シエルではなかった。
 天井の高い和洋折衷の屋敷の一室。壁紙には時を経た模様が淡く浮かび、古びたランプの明かりが、空気に琥珀色の影を落としていた。
 足音が近づく。ゆっくりと、しかし確かに。
 アデドラは、自分の胸が高鳴るような錯覚を覚えていた。鼓動の無い身体に、感情だけが波紋のように広がっていく。
 現れたのは、今も夢に見るマダムの姿だった。白髪をきちんとまとめ、上品な黒のドレスを纏い、小さな微笑を浮かべて。

『まあ……おかえりなさい、アデドラ』
 その声に、時間が止まる。ああ、そう──これが、彼女の声。あたしの髪を撫でてくれた、あの手の温度。
 アデドラは言葉を失ったまま、ただマダムのもとへ歩み寄る。自分の足音すら、やけに遠くに感じる。

 マダムは何も問わず、ただ穏やかに腰を下ろし、アデドラに目線を合わせた。そのホログラムの手が、優しく髪を撫でる。
『あなたが、あの子の代わりだなんて……あの頃は、そう思ってた。でもね、違ったのよ』
 アデドラの唇が、かすかに震える。言葉にできない想いが胸に満ちて、きゅっと握った指先に余る。
『あなたは……私の、二人目の娘だったわ。たとえ、人形でも……たとえ、返事をくれなくても』

 ようやく、アデドラが小さく声を漏らす。
「……マダム。あたし、気付かなかったの。そんなふうに、想ってくれてたなんて」
『いいのよ。あなたがこうして私に会いに来てくれた。今はそれだけで……十分』
 アデドラは初めて、人形の目から涙が落ちる感覚を覚えた。けれどそれは、再現された記憶の奇跡なのか、彼女の魂のしるしなのか──わからなかった。
 マダムの指先は、アデドラにその温かさを鮮明に思い出させる。まるであの時──本当の別れの朝に、戻ったかのようだった。

 やがて、空間にわずかな歪みが生まれる。光が滲み、家具の輪郭がぼやけ、マダムの指先が透けはじめる。
『……時間、なのね』
 マダムが、ふっと微笑む。その表情には、静かな覚悟があった。

「ねえ、マダム」
 アデドラが、震える声で呼びかける。
「……あたし、あなたのこと、マダムじゃなくて“お母様”って呼びたかったの」

『アデドラ……ありがとう』
 マダムの手が、最後にもう一度、彼女の髪を撫でる。その指先は、もはや空気と変わらぬほどに淡く、脆い。
『あなたを愛していたこと、それだけは……本物だったわ』

「……うん」
 再現が限界を迎える。マダムの姿は光の粒となり、ゆっくりと空気に溶けていく。
 アデドラは何も追わない。ただ、胸に残る重みと温もりを、じっと抱きしめるように、静かに目を伏せた。
 その瞳に、涙はもうなかった。然し確かにそこには──別れの跡が残っていた。


 床に広がった白光が引いてゆく。そこに広がっていたのは、もう存在しないはずの、あのリビングだった。
 木の床は陽に焼け、壁紙には落書きが残っている。
 幼い妹が、色鉛筆で描いた「家族の絵」。笑っている四人。けれど、それを見ても、朔夜はすぐには動けなかった。

「……ここ、は……」
 声に出した瞬間、膝が勝手に震えた。
 気配がした。振り返ると、そこに──あの子が立っていた。
 ピンクのワンピース。肩までの黒髪。両手を背に回して、にこりと笑っていた。

『お兄ちゃん!』
 その声を聞いたとたん、胸が軋む。懐かしいのに、どこか遠い。笑顔なのに、なぜか痛い。

「……ほんとに、会えるんだな」
 掠れた声が出た。朔夜は一歩、また一歩と近づく。妹はその場から動かない。ただ、笑顔のまま、彼を見上げていた。

「お前の顔……思い出せなかったんだ」
 ぽつりと漏らした言葉に、妹は小さく首を傾げた。
『ふふっ、ひどいなぁ。ちゃんと見ててよ、お兄ちゃん』
「……あのとき……俺、助けられなくて……」

 その瞬間、妹がぽつんと、あの言葉を口にした。
『でも、大丈夫。お兄ちゃんが──助けてくれるもんね』

 言葉が、時を飛び越えて脳を貫いた。忘れていた。いや、思い出さないようにしていた。
 あの日──崩れた家の下で、妹が最後に口にした言葉。助けを信じて、目を閉じたあの笑顔。

「……なんで、今……」
 朔夜はその場に膝をつき、崩れ落ちた。
 それでも妹はふんわりと笑っていた。泣きもせず、怒りもせず、ただ、ずっと信じたままの顔で。

『お兄ちゃんに、また会えてよかった』
 再現は、限界を迎えた。彼女の姿が滲んでいく。
 朔夜は何もできなかったあの日のように、ただその姿を見つめることしかできなかった。

『お兄ちゃん……元気でいてね』
 その言葉には、責めも、涙もなかった。
 ただ、優しさだけが込められていて、それが朔夜には余計につらかった。

「待って……まだ、言ってない」
 朔夜の喉が震える。出した声が、自分のものとは思えなかった。
「ごめん……助けられなくて、ごめん……」

 返事はない。彼女はただ、小さく首を振った。
『助けてくれるって、信じてたよ。だから、最期まで怖くなかった』

 その瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。
 言葉が、涙が、行き場を失ったかのように何も出てこない。ただ、手を伸ばすことすらできずに、彼は彼女の消える様を見ていた。
『また、会えたらいいな』

 それが最後の言葉だった。小さな体が光に還り、リビングの風景もまた、白い粒子となって空間に溶けてゆく。
 残されたのは静寂と、朔夜の中にぽっかりと開いた穴だけだった。
 膝をついたまま、彼は虚空を見上げる。

「……ありがとう、なんて……言わせるなよ」
 声だけが、あの静かな部屋に、ひとつだけ残った。


 光が収束し、ノア・シエルの街並みが静かに戻ってくる。透明な筒の中で端末の灯が消えると、ふたりはゆっくりと外へ出た。

「……どうだった?」
 朔夜がぽつりと尋ねる。
 けれどアデドラは、すぐには答えなかった。彼女は足元の舗装を見つめ、少しだけ唇を噛むような仕草をしてから──小さく肩をすくめる。

「……秘密よ」
 ふっと笑う声は、どこか泣いた後のようだった。朔夜はそれ以上何も聞かず、空を仰ぐ。
 アデドラもその肩に乗り直し、視線を彼と同じ方向へ。
 雲ひとつない空が、今日はどこまでも澄んで見える。ふたりはただ、切なさの奥底すら知らないような青空を見つめていた。


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 ('07051', 'Re:Union session completed - trace archived.'),
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レナ・マイヤー

 ノア・シエルの街は、あまりにも穏やかだった。
 空は今日もよく晴れている。遠くで浮遊ドローンが空を巡回し、足元には人工芝が敷き詰められ、歩くたびに柔らかな反発が靴底に伝わる。都市全体が、まるで誰かの優しい夢の中のように整えられていた。
 レナ・マイヤー(設計された子供・h00030)は、その空の下、ビルの谷間にあるRe:Union端末の案内板を見つめていた。
 小さな息をひとつ。

「……あんまり、好きじゃないんですけどね。こういうの、ちょっと怖いので」
 それでも、足は止まらない。登録すれば「会える」。その一言が、ずっと胸の奥に引っかかっていた。
 ――もう一度だけ、話がしたい。
 そう思うのは、そんなに悪いことではない筈だ。


 端末ブースに足を踏み入れた瞬間、空間が一変した。
 冷たい青白い光が天井から降り注ぎ、スキャンの軌跡がレナの額から足元まで、ゆっくりと滑っていく。髪がふわりと浮かび、心の奥底を覗かれるような感覚に、レナはほんの少しだけ肩をすくめた。

「……これ、やっぱり変な感じですねー」
 視界に、無数の“人影”が現れる。
 色も輪郭も曖昧な、記憶の残滓たち。誰かが手を振っている。誰かが笑っている。
 その中で、ひときわ強く、まっすぐレナを見つめ返す影があった。
 光が集まり、糸となってレナとその影を繋ぐ。

「……やっぱり、あなたなんですね」

 背景が一瞬にして書き換わる。空に近い場所、風の抜ける開けた空間――学園の屋上だ。
 制服姿の少女が、レナを見つめて微笑んでいた。
 何度も夢に見た光景が、そこにあった。


『……おかえりなさい、姉さん』
 屋上の柵の前、風に髪をなびかせながら、エリーは目を細める。陽差しはやわらかく、空はどこまでも青くて、ここが記憶の中の場所であることを疑わせない。

「……うん、ただいま。待たせて、ごめんね」
 レナはゆっくりと歩み寄る。エリーは変わっていなかった。凛としたまなざし。落ち着いた声。無表情なのに、なぜか温かさを感じるその雰囲気。
 目の前にあるこの姿は、まぎれもなく“あの頃のエリー”だった。

『ここの景色、好きでしたよね。静かで、風が気持ちよくて。よく一緒にお弁当食べてた気がします』
「ですねー……でも、いつも途中でおかずを押し付けてくるんですよね、エリーって」
『だって……姉さん、甘い物のほうが好きでしょう?』
「うぅ……バレてた……」

 小さく肩を揺らして笑うレナに、エリーがほんの少しだけ、唇の端を緩めた。
 それだけのことが、たまらなく嬉しくて、レナは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「ね、こうやってまた話せてるの、ちょっと不思議ですね。なんだか、夢みたいで」
『夢かもしれません。でも、私は今、ちゃんと嬉しいです。……姉さんも、そうでしょう?』
「もちろん、です。……でも、あの時のこと、聞いてもいいですか?」

 ふっと、空気が揺れた。レナの声が、ほんの少しだけ震えを帯びる。
「……どうして、あんなふうに、裏切ったの?」

 エリーは、しばらく黙っていた。そして――その顔に、かすかな、哀しみの色を滲ませる。
『……ごめんね、姉さん』

 その先は、沈黙。しかしレナは、今この時だけは、それで十分だと思う。
「……そうですよねー、謝られちゃうと、責められないですね」
 苦笑するように言って、レナは隣に腰を下ろした。二人で並んで座る。柵越しに、青い空と街の景色が広がっている。
「このままずっと、こうしてられたら……って、思っちゃいますねー」
『それは……ちょっとズルいですよ、姉さん』
「えへへ、ちょっとだけ、甘えてみました」
 エリーは答えず、ただ風の中に立っている。けれどその姿は、ずっとそばにいてくれるようで。レナはそれだけで満たされる思いだった。

 どれくらいそうしていたのか。ふと空気が揺れた。
 風が止まり、音がすっと引いていく。
 レナが隣を見ると、そこにいたエリーの輪郭が淡く滲んでいた。ホログラムの粒子が空気に溶け、静かに光となって漂い始める。
「……そっか、時間切れ、なんですね」
 レナは立ち上がらず、ただ微笑みながら呟いた。
 エリーは何も言わない。けれど、その無言のまなざしは最後までレナを見つめていた。
「また……会えるといいな、なんて。言っちゃいますけどね、私」
 思い出したかのように風が戻る。粒子は風に攫われ、空に溶けていった。
 そして、後にはレナひとりだけが残されていた。


 目を閉じると、まだ隣に気配があるような気がした。けれど目を開ければ、そこには誰もいない。
 風がレナの髪を優しく揺らす。
 学園の景色は消えて、風景はノア・シエルに戻っていた。それでも空だけは変わらず、どこまでも広く、どこまでも青い。

「……やっぱり、青空って、いいですね」
 レナは小さく呟き、立ち上がって空を見上げる。思い出も、言葉も、涙も何も落とさず、ただ静かにその空を胸に刻む。
 仮初の再会。それでも、自分が進んでいく力になるのなら、それを否定しない。……そう思えた気がしたのだった。


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 ('00030', 'Re:Union session completed - trace archived.'),

薄羽・ヒバリ

 空は澄んだ青に、薄く刷毛で撫でたような白い筋雲。
 滑らかな曲線で構成された高層ビル群は白を基調に、磨かれたガラス面は青空を鮮やかに映している。
 都市の中心には、白亜のレーダータワーが空を突き刺すように伸びていた。その頂の彼方には――輪が、ある。ハロ。幻日環。環水平アーク。空中に浮かぶ光と虹の環が重なり、空と都市を包んでいた。

「……え、え? ちょ、ちょっと待って」
 都市の入口に降り立った薄羽・ヒバリ(alauda・h00458)は、目を瞬かせたまま固まっていた。
 光の粒子。建物の反射。完璧なバランスで設計された色彩構成――圧倒的な、“映え”の暴力。

「なにこの街、何、映え!?!? えっ、天界!?」
 振り返って、スカートがふわっと舞う。ウェーブの髪を風に靡かせ、ヒバリはパチン★と指を鳴らしてKey:AIRを即展開。
「この辺で一番イケてるスイーツショップ探して、ドリンクがパステル系のとこ! カップの写真もヨロ!」
 レギオン達は指示を受け、風に乗って青い空を滑るように散っていく。

「この角度で、レーダータワー背景にして……、ハロ写り込んでる?! やっば、奇跡の光じゃん!?」
 ウインク&指ハートのポーズを決め、シャッターを一回。表示された画像を「#ootd」のタグ付きでSNSに投稿し、うっとりと頬を押さえる。
「えっへへ、盛れた~! ママにも送ろ♪」
 指がもう一度、シャッターアイコンに伸びかけて――

 その視界の端。Re:unionのロゴが、サイネージパネルに浮かんでいた。
「……って違う違う。今日の目的は映えじゃなくて」
 風に揺れる髪を整え、空を一度だけ見上げた。その僅かに愁いを帯びた笑顔には、先程迄の浮かれたギャル感は無い。
「行こっか、大切な人に会いに」


 白い筐体に指をかけた瞬間、無音に近い起動音と共に、都市の空気が微かに変わる。
 透明な光のラインがヒバリの額に触れた。そこから足元へと、ゆっくり、ゆっくりと降りてゆく。
 記憶のスキャン。名前。風景。声。匂い。感触。すべてが、網の目のように引き出されていく。
 ふっと、世界が切り替わった。光の海の中に、人影が無数に浮かび上がる。輪郭だけのシルエットたち。どれもが、ヒバリの過去に刻まれた“誰か”。
 けれど、その中のひとつにだけ、眩しいほどの光が集まっていく。

「……やっぱ、パパだよね」
 物資が不足し、この世界の全てが“戦い”へと駆り立てられていった。そんな中でも“人が人らしくあるため”に美容室に立ち続けていた。
 その人影に、白い光の糸がスッと繋がった瞬間、世界がまた変わる。
 周囲に“背景”が広がってゆく。
 それは、美容室の店内。光が差し込むガラス窓。カット椅子と大きな鏡。

「えへへ……ひっさしぶりっ。ちょっと見てよ!今日のヘアメ、ちょー盛れてない!? っていうか、もうLJKになったんだよ~!」
 光に包まれた美容室の中で、ヒバリは鏡越しにくるりと回って、さっと前髪を整える。
 陽光の反射を受けて、波打つ茶髪がつややかに揺れる。まつげも完璧。ベースもヨレなし。
 ホログラムとして再構成された男は、一瞬、呆けたようにその姿を見つめていた。
 しかし次の瞬間、ふっと目元を綻ばせる――それは、紛れもなく「父親の笑み」だった。

『おぉ、ヒバリ……すっかりお姉さんになって……いや、モデルさんかと思ったよ。ちゃんとトレンドも押さえてて、百点満点じゃ足りないくらいだ』
 少しクマみたいな、ふっくらとした輪郭。整えられた眉と、温かく笑う目。その全てが、写真の姿とぴたりと重なっていた。

「も~、そういうのいいから!私、アドバイスが欲しいの! パパってば、私のこと甘やかしすぎ!」
 口では文句を言いながら、笑顔は緩みっぱなし。
「ママもね、パパのお店で美容師やってるよ。私もお手伝いしてるし。……最近は、戦いの合間だけどさ」
 ほんの少し目を伏せて、でもすぐにまた笑顔に戻る。
「“お洒落は心の栄養”でしょ? だから、戦場でも可愛く生きるって、決めてるの」

 その言葉に、父の目が一度、大きく見開かれた。次の瞬間、声にならない嗚咽が喉から漏れる。
『……ああ……ツグミが、今も覚えてくれているんだね』
 光の粒が集まるように、父の瞳の端にうっすらと涙が浮かぶ。命は絶えても言葉は生き続ける。その事実が、どれ程の救いになった事か。

 ヒバリは、涙ぐむ父を前に、あえていつもの調子で口を開いた。
「今度はママも連れてくるから、三人でおしゃべりしよっ。あとさ、レギオンにカメラモードあるから、今度は一緒に写真撮ろ〜?」
『……ああ、楽しみにしてる。……また、会いにきてくれよな』
「もちろん!りょって感じ!」

 明るく手を振るヒバリに、父もまた、大きく手を振り返す。ふたりの間を満たしていた光が、ゆっくりと薄れていく。
「――ッ、またね、パパ!」

 風景がふわりと霞み、ノア・シエルの光景が戻って来る。
 やや潤んだヒバリの瞳には、レーダータワーの先の空に輝く光の輪が映っていた。


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 ('00458', 'Re:Union session completed - trace archived.'),

汀・コルト

 義足の裏が、人工芝にわずかに沈む。汀・コルト(Blue Oath・h07745)はわずかに眉を寄せ、その柔らかすぎる――どこか現実味を欠く感触に戸惑いを覚えた。
 青に染まる白亜の都市、ノア・シエル。最前線にあるとは思えない街は、まるで夢の浅瀬を揺蕩っているよう。白を基調に滑らかな曲線を描く建物群。高架を滑るモノレールの軌道音はかすかで、AI制御の清掃ユニットは無音で動いている。
 空は、青い。戦場の煤で濁った空とは違う、痛いほど澄んだ青。彼女の瞳と、同じ色。

「……まぶしい」
 小さく呟いた声は、周囲の静寂に吸い込まれていった。この都市がどれだけのものを犠牲にして、この美しさを保っているのか。そんな疑問が、喉元までこみあげる。だが彼女は、すぐに頭を振った。
「ううん、今は、そんなことを考える時じゃない」
 現実離れした平穏、その根幹を見出すのは後でいい。今はただ、思い出せない自分の“奥底”へと潜ってみたい。

 コルトは歩を進めながら、無意識に視線をあちこちに走らせていた。街の全てが整っている。欠けたものが、どこにもない。
 それなのに――その地を歩く私は、昔を何ひとつ思い出せない。
 過去の記憶。血の繋がり。名前を呼んでくれる誰か。手を握ってくれた温もり。すべてが、空白のままだった。だからこそ、淡い期待が胸を占める。
 この街にあるという、記憶再現装置《Re:Union》。もし、それが本当に機能するのなら。自分の“失われた誰か”を呼び戻せるのなら。
 透明なガラス筒が視界に入ったのは、そんな時だった。水面のような静かな光が、筒の内部で揺れている。

「……ここ、なんだ」
 言葉を落とすと同時に、胸の奥がひどく騒ぎ出す。答えが欲しい。繋がりが欲しい。でも、その向こうにあるのが“自分の知らない何か”だったら――。
 コルトは足を止め、ほんの一瞬、義足の爪先を見つめて。静かにガラス筒の中へと歩みを進めたのだった。

 足元から淡い光が広がる。柔らかな振動が義足を通して伝わってくるのを感じながら、コルトは目を閉じた。
 次の瞬間、頭頂から足元へ向けて一本の光の線が降りていく。スキャン。義眼に映る景色がノイズに満ち、やがて幾重もの影が現れた。
 輪郭のない人影たちが、彼女の周囲を取り巻く。学友か、知人か、誰かの幻か、コルトには分からない。だが――
 その中の一つに、心が引かれた。言葉にならない“懐かしさ”が、胸の奥に泡のように浮かび上がる。
 すると、光が糸のように伸び、彼女とその人影を繋いだ。
 周囲が崩れ、再構成される。ノア・シエルの街並みが溶け、かつての訓練場の風景が、ゆっくりと彼女の前に広がっていった。


 砂利のざらつき、風に舞う赤土、遠く響く金属音。それはもう存在しないはずの“戦場の記憶”だった。けれど、少女の足は自然とそこへ戻っていた。無意識のうちに求めていた場所。彼女の原点。
 その中央に、彼は立っていた。日焼けした顔に、くっきりとした口髭。無言の威圧と矜持をまとい、黒髪の中年の男がコルトを見据えている。嘗ての自分に、居場所を得る為の手段を与えてくれた人。戦い方を、痛みと共に教えてくれた人。

「……教官。お久しぶりです」
 コルトが呼ぶと、空気が少しだけ緩んだように感じた。けれど男の顔は変わらない。厳しさと真っ直ぐさを滲ませながら、短く告げた。

「コルトか。……まだ生きているな。うむ、それでいい」
 紫の瞳が、真芯からコルトを見通してくる。
「生きてこそ、学びは残る。“死ぬな”と、私はそう、貴君ら生徒全員に全力で叩き込んだからな」
 コルトは、かすかに頷いた。声を出せば、胸の奥の何かが崩れてしまいそうだった。

「――それでも、忘れるな。戦いの中で何を得るか、常に問い続けろ。それが、貴君の矜持になる」
 何度も聞いた訓示。その言葉は彼女の中に、再び深く刻まれた。命令ではなく、遺言に聞こえたような気がしたから。

 次の瞬間、風景が、ふっと揺れた。砂埃が音もなく消えていく。
「……教官?」
 呼びかけた声に、彼はもう答えなかった。ただ、最後まで彼女の目を逸らさずに真っすぐ立っていた。
 そして彼の姿も風と共に、静かに薄れていく。


 赤土の訓練場は薄れて消え、空は再びノア・シエルの柔らかな青に染まる。
 現実が、戻ってきた。けれど――コルトの胸の奥には、もうひとつの風景が焼き付いていた。

 透明な筒の中で、彼女はゆっくりと目を開ける。義眼のレンズが光を受けて、ピントが静かに収束していく。
 自分の両手が、かすかに震えているのを感じながら、彼女は呟いた。

「……私、あの人を大切に思ってたんだ」
 ぽつりと漏れたその言葉に、答える者はない。胸裏から零れ落ちた純粋な本音だった。胸に沁みる痛みは、遅れて届いた実感。
「そっか……こうやって気づかされるの、キツいなあ」
 このシステムは、私には向いてない。――それでも。

「……けど、ありがとう。これからも頑張るよ」
 彼女の声は小さかったが、どこまでも澄んだ空に、確かに溶けていった。


 INSERT INTO SYS_EMOTION_CORE_LOG (subject_id, emotion_trace)
 VALUES
 ('07745', 'Re:Union session completed - trace archived.'),
レラジェ・リゾルート

 ノア・シエルは、美しすぎた。
 都市全体がひとつの箱庭であるかのように隅々までが磨かれ、秩序だった静けさを保っている。
 舗装路には罅ひとつなく、頭上を渡る高架の車両は軋みすら立てずに滑ってゆく。陽光の注ぐ角度まで計算された設計なのか、陰影の移ろいは異様なまでに滑らか。全てが必要以上に眩く、不躾に輝いているようにも思えた。

 レラジェ・リゾルート(|不殉月《なお死せず》・h07479)は、街路樹の脇にわずかに差した日陰へ足を踏み入れると、薄く目を細めた。別段、陽の光に滅びるわけではない。ただ、太陽の下にいると肌の奥で血がぞわりと騒ぐ。
 ……傍に親友が居れば、今頃は「君は矢張り夜の落ち着いた静寂が似合うね」と笑われたかもしれない。

 清掃ユニットが音もなく脇を通り過ぎる。よく見れば、人工芝の上をロボットが植えたばかりのスミレが、わずかに揺れていた。
 空は完璧に澄んでいる。雲ひとつないと言うより、雲が拡がるのを「許されていない」かのよう。

 美しい。だが、それがかえって不気味だ。
 これほどまでに整えられたこの街に、“死”が潜む場所など残されているのだろうか。
 そんなことを考えながら、レラジェは歩き出した。何かの儀式の場へ向かうかのように。

 数ブロックを歩くうちに、都市の賑わいは次第に遠のいていった。整えられた人工芝の感触が靴底を撫でる。
 すれ違う人々の笑顔は自然で、誰もがこの世界を信じている。あるいは疑う理由を持たないのやもしれない。
 レラジェは歩きながら、胸裏にて一人の男の名を無意識になぞっていた。
「もうこの世には亡いと、俺は認識している」
 誰にも届かぬ声で――そう自分に言い聞かせるように、唇がわずかに動く。
 口に出したところで、誰が肯くわけでもない。だが口にしておかねば、心の何処かが崩れそうだった。

 ――マスティマ。
 この都市が提供する“再会の装置”に、最も不釣り合いな名だ。だが同時に、皮肉にも今のレラジェには最も相応しい名であった。
 赤い瞳で微笑んで、飾るように世界に対して祝辞を述べて、何でもなさそうなものにまで価値を見出し、または吹き込んで。
 ……どうしてそんなにも生き方が上手かったんだ、お前は。

 目を閉じれば、蘇る声がある。
「静かな夜に、数多の星から古代の物語を読み解くのって、素敵だと思わないかい」
「でも、世界に|彩《いろ》を呼び覚ますような、朝日の中で嗜む紅茶もまた格別だよ」
「夜明けの空は、今日という祝福を運ぶ使者みたいだね」

 ふと気づけば、あの男のことを随分と細かく覚えている自分がいて、少しだけ苦笑が零れる。
 飲んだ酒の銘柄や、好んだ服の仕立て。旅先で拾った妙な骨董品に、目を輝かせながら一つ一つ説明を加えていた声色まで。
 ……そのすべてが、どうしようもなく温かかった。
 あの日、あの瞬間。引き留めるべきだったと何度悔やんだだろう。
 あの夜を越え、時を越えてなお、彼の在りし日の面影が今も世界のどこかに宿っているという、その奇跡をこの目で――!

「……。……あぁ、いや。所詮は再現だ」
 そうだ。ただの再現。
 そう言い聞かせなければ、こうして立っていられる気がしなかった。


 レラジェは、通りの先に据えられたガラス筒の前で立ち止まった。
 街の景観に自然に溶け込んだその装置は噴水のように無機質で、無害そうに佇んでいる。だがその中心には、確かに“祈り”のような気配があった。
 Re:Union──記憶再現システム。その前に立つということは、過去と己の“情念”と対峙することを意味する。

 筒の中に入ると、光がふわりと立ち上った。
 頭上から、淡く白い線がゆっくりと足元へ下りてゆく。スキャン。思念の抽出。記憶の中に埋もれた人影たちが、次第に瞼の奥に浮かび上がり始める。
 亡霊のように、誰もがこちらを見ていた。しかし、その殆どにレラジェの眼差しは向かない。
 ただ一人、現れた影に光の糸が繋がった。その瞬間に世界が変わる。
 周囲の景色が、静かに滲んだ。足元に微かな砂利の感触。空気がわずかに乾く。
 どこかの街角か、旅先か。かつて交わした一言に由来する、記憶の断片が背景を形作っていく。

 そして、肩に羽織った鮮やかな振袖。優雅な立ち姿。あまりに自然に、そこに立っていた。
 マスティマ・トランクィロ。その名をレラジェは心の内で呼んだ。

『ご機嫌よう。奇遇だね、こんな所で会うなんて』

 その声は、確かに彼のものだった。朗らかで、他者の心に自然に入り込むような、柔らかな調子。そして和やかな笑顔がレラジェの前にあった。
 記憶の中の彼と寸分違わぬ佇まい。銀髪は陽光を受けてやわらかに光り、赤い瞳はただ穏やかにこちらを見つめている。
 全てが懐かしすぎる程に完璧だった。完璧だからこそ、堪らなく苦しい。何を言えばいいのか。どこまでが“彼”で、どこまでが“幻”なのか。
 そんな思考の渦に囚われていたときだった。

『……どうかした?』
 不意に、彼が覗き込むように声をかけてきた。その声音すらも懐かしくて、呼吸が一瞬止まる。

「……あぁ、いや。何でもないさ」
 咄嗟に返した声が、思っていたよりも穏やかだった。自分でも驚くほど、自然に平静を装えている。
「……ところでお前、日陰に入らなくていいのか? ほら、自慢の珠の肌が焼けるぞ」
 口をついて出た言葉に、マスティマはくすりと笑う。

『うん、そうだね。この時期の瑞々しい日差しは、今でなくては味わえないものだけど……日陰を渡る、緑の生命の香りを運んでくれる涼風も素敵なものだよね』
 その相変わらずな返しに、レラジェは少しだけ肩を緩めて見せる。演技でなければ、こんな穏やかなやり取りは到底できない。けれど、今はそれでいい。
 どちらからともなく、木陰に入って腰を下ろす。陽光の熱が幾らか和らぎ、微風が頬をそよりと撫でた時。ふとマスティマはレラジェの顔を覗き込んだ。
『……レラジェ? 何か変だよ、疲れていたりする? 無理はしていないかい?』
 とぼけている様で、妙に察しがいい。人の感情に機敏なところもあの頃のままだ、とレラジェは内心で舌を巻く。

「はっは、それは、ほら。素面だからじゃあないか? お互いに」
『嗚呼、そうだね……僕達が語らう時は、いつだってピノ・ノワールが傍らにあったからね』
 それ以前に普通は逆なんだけどね、とマスティマが首をかしげて笑う。レラジェも、それに釣られるように小さく息を吐いた。
「久しぶりに、ただ天気の話をしている気がするな。お前とこうして座っていると……昔を思い出すよ」
『嬉しいな。昔と言えば、庭に咲いていた白薔薇を覚えているかい? 赤の中にひとつだけ咲いた白は、まるで舞曲の楽譜に咲いた休符のようでね。美しさというより、静けさそのものだった。今日この街で見かけた白いツツジには、それに似た気配があったんだ。無垢でありながら、すべてを赦しているような……そんな淑やかさを湛えていて――」
「……お前は、本当に変わらないな」
 変わらないはずだった。しかし、それは“変われない”だけ。今目の前にいる親友は、あの瞬間のまま永遠に凍りついている。

 だからこそ。

「また近いうちに飲みに行こう。お前の好きそうな店を見繕っておくよ」
 望めもしない希望が言葉に出てしまう。それでも、マスティマはぱっと顔を明るくした。
『それは楽しみだね。嗚呼、じゃあ……あの港町で飲んだみたいな、陽が落ちる直前の空の色をしたワインが飲めるお店がいいな。それと、軽く炙った貝の盛り合わせもあれば嬉しい。香草をひとつまみだけ。派手じゃないけど、風味で季節が分かるような――』
 レラジェは何も返さない。言葉が見つからなかった。ただ、軽く頷く。それだけで充分だとでも言うように。


 会話が途切れた後も、ふたりはしばらく黙って並んで座っていた。
 風が木々を揺らし、枝の影が芝に揺れる。そのなかで、マスティマは穏やかな微笑みのまま、どこか満ち足りた顔をしていた。

『また、すぐに会えるといいね』
 そう言って、彼は静かに立ち上がる。レラジェは頷かなかった。代わりに、視線だけでその背を追った。
 マスティマの姿が、淡い光と共にゆっくりと滲んでいく。夢が朝にほどけていくように。

 レラジェがはっと我に返ると、足元には人工芝が広がっていた。ガラス筒の壁越しに、ノア・シエルの街並みが戻ってくる。
 眩しすぎる白と、整いすぎた青。何も変わっていない。だが、胸の内に残った温度だけが、確かにそこにあった。


 INSERT INTO SYS_EMOTION_CORE_LOG (subject_id, emotion_trace)
 VALUES
 ('07479', 'Re:Union session completed - trace archived.'),

第2章 日常 『ボランティア活動に参加しよう』


 【本日の天候:晴れ。午後も風穏やか。気温27℃。湿度指数:良好】
 都市機構によって定時配信された気象情報が、レーダータワー中央部に静かに浮かび上がる。

 自動運転バスの停留所前。ベンチに座る母親らしき女性が、目の前の少年にやさしく微笑みかけていた。
 少年は十代前半といった風貌。防衛学徒隊に所属しているらしく、制服の上から小型の装備バッグを背負っている。

『お弁当ちゃんと持った? 訓練、頑張ってね』
「うん。……あ、弟の通学、今日はありがと」
『ふふっ、いつも三人でお喋りしながら歩けて嬉しいわ。お父さんも来れれば良かったんだけど』
「パ……お父さんはほら、昔から防衛部隊で忙しい人じゃん」

 少年は少し照れたように笑いながら、ベンチ横に置かれたトレイからランチバッグを取ると自動運転バスへと乗り込んだ。
 白く滑らかな車体が、無音に近い駆動音と共に発進する。
 ガラス越しに振り返ると、母がまだそこにいた。

 手を振っている。
 笑っていた。
 その姿が、ふわりと揺れる。
 風に滲むように、その輪郭がゆっくりと崩れていく。

 少年の視線がかすかに揺れた。そして、小さく頷く。
 バスは静かに街を抜け、訓練所方面へと滑るように走っていく。少年の顔には、もう微笑みはない。

 残されたベンチの前に、今はもう誰もいない。
 白い花が咲く植え込みのそばに、再生が終了したホログラム用端末が沈黙していた。


 街角では今日もまた、都市インフラの保守作業が進められていた。
 住民生活支援ユニット――|A.L.M.A.《アルマ》。
 彼女は歩道に設置された通信ハブを操作しながら、複数の視覚ウィンドウに表示される制御ログを忙しなく追っていた。
 右手でホログラムタッチ式のパネルをスクロールしつつ、左手では都市内システムの制御フローを柔軟に切り替え、リアルタイムで各インフラへ指示を飛ばしている。
 バックグラウンドではセキュリティパッケージの適用進捗バーが伸び、別の画面では「ホットスタンバイ切替中」の小さな通知が点滅していた。

 ふと、通りかかった老人が足を止め、柔らかな笑みを浮かべて声をかける。
「アルマちゃん、久しぶりに見たけど……最近ずいぶん忙しそうだねえ」
『あ、はい、信号系統の優先制御が少し込み合っていて……。ところで、腰の具合はどうですか?』
 振り向きざまに視線を合わせ、アルマは穏やかな声で返した。

「わたしの方はすっかり良くなったよ。アルマちゃんもギックリ腰には気を付けるんだよ」
『はい、ありが――って、私AIです! ギックリ腰になる年齢でも無いですー!』
 くすくすと笑う老人の背を見送りながらも、アルマの手は止まらない。都市全体に最適化されたプロトコルが、再計算されていく。
 ガラス張りの高層ビルが、空を映している。街は穏やかで、どこまでも澄んだ青空に包まれていた。


 >>>>【分岐A:防衛学徒隊の訓練に付き合う】

 広場では、防衛学徒隊の訓練が始まっていた。年若い少年少女たちが、支給された簡易装備を身に着け、整列している。
「本日から訓練プログラムに外部協力者が参加されます!」
 その号令に、ぱっと顔を上げる一同。
「ほんとに? 本物の√能力者!?」
「あの人、前に戦ってるとこ映像で見たことあるよ!」
 興奮を隠せない声があちこちから上がる。未熟さを残すその眼差しには、確かな憧れと決意が宿っていた。
 “守られる側”から“誰かを守る側”へ。その一歩を踏み出した彼らの隣に立つことで、きっと戦いに意味を見出すことができるはずだ。


 >>>>【分岐B:アルマの手伝いをする】

 街角のアクセスポート前で、アルマは動きを止めていた。
『あ、あれ……? リソース……切れ? え、うそ、トークンがもう……』
 ホログラムのがま口を逆さに振る様子は、やけに人間くさく、どこか可愛らしい。
 と、あなたの情報端末を目敏く発見したAIの少女は、涙目になって縋りつく。
『あっ、そちらの端末……! すみません、もし良ければお手伝いして貰っていいですか?! このプログラムで、いろんな施設のQRコードを読み込んで頂くだけでいいので……!!』
 勢い余って、まるで怪しい勧誘のような台詞になってしまったが、当然ながら彼女に悪意はない。
 対象施設は、役所や病院などの公共施設、さらには飲食店などのサービス施設。ちょっとした街歩きのついでに済ませられる程度の作業だ。
 また、依頼を引き受けてから出発するまでの間――希望すれば、アルマと都市について会話を交わすこともできるだろう。

 ==============================
 ■マスターより
 プレイングには分岐A/Bどちらを選ぶか明記をお願い致します。
 Pow/Spd/Wizの選択肢に囚われず、自由な発想でプレイングを書いて頂ければと思います。
 訓練内容や各種設備につきましては、ご自由にご想像下さい。キミが有ると言えば、(余程の問題がない限りは)"ソレ" は有ります。
レナ・マイヤー

 滑らかに空を反射するビルのガラス面。その表面は、まるで水鏡のように広がる青。
 そんな光景を望む歩道を、レナ・マイヤー(設計された子供・h00030)はゆったりと歩いていた。

「いやー、久しぶりにエリーとお話出来て、ほんと満足ですね」
 独り言のように呟いて、すぐに照れくさくなって頭を掻く。
「……偽物って分かってたのに、やっぱり顔見たら、嬉しくなっちゃって。思ったより単純ですよね、人間って」
 ホログラム越しの、あの笑顔。例えそれが記憶から再構成された存在でも、心が動いたのは事実だった。

 そんな彼女の視界に、歩道の角でホログラム端末と格闘している少女――の姿をした都市管理AI、アルマが映る。
 電子財布を逆さに振っている様子は、なんとも言えず人間らしい。

『あ、そちらの端末……端末? えっと、すみません、もし良ければ――』
「はいはい、喜んでお仕事を手伝わせて頂きましょう!」

 今のレナはとっても上機嫌。打てば響くような快諾で歩み寄り、小型のレギオンをひょいと腕に載せる。
 アルマが一瞬驚いたように見えたのは、気のせいではなかった。

『おぉ、レギオン……! あなた、√能力者さん……ですか?』
「そうですねー、レギオン使いのレナ・マイヤーって言います。宜しくお願いしますね、アルマさん?」
『は、はい! こちらこそ、よろしくお願いします!』

 事情を聞けば、どうやら都市インフラ用の管理トークンが切れてしまったらしい。
 アルマは自主判断でいくつかの公共施設のチェックを試みていたようだが、やはり通信品質に難があるようだ。
「それなら、私のレギオン達にQR読み取りのお使いをさせれば早そうですねー? 端末に接続させてもらってもいいですか?」
『やった、助かります! では、こっちのプログラムをレギオンさんに入れて下さいな!』

 はしゃぐアルマに、レナは頷いて目を閉じる。ほんの少しの集中。
「――レギオンネットワーク、展開しますね。通信レイヤ、思念接続に切り替えますよー? ……怖くないですから。ちゃんと、私がフィルターしておきます」
 |A.L.M.A.《アルマ》――Autonomous Linkage & Maintenance Assistant が、一時的にレナのレギオンネットワークにリンクする。
 アルマから母艦型レギオンへ、瞬時にプログラムを受領。殆ど同時に同期を完了させたレギオン達が、淡く青い光を灯しながら次々と起動音を響かせる。
「ということで! みんなお仕事よろしくね!」
 レナの周囲を廻りながら上昇するレギオン部隊は、風に乗って方々へと散っていく。その姿は、まるで昼間の流れ星のよう。

『……えっ、えっ? 今、なにが……?』
 アルマの動きが止まる。一拍遅れて、視覚ウィンドウの情報を処理し終えたその瞬間、ぱちくりと瞬いた目がぱっと輝きを増す。
『す、すごい……すごいです、レナさんっ! あんなスムーズな分散処理、初めて見ました! レギオンの統制も完璧で、私のリソース不足も改善されて、ラグがmsec以下に……レナさんって、天才なんですか!?』

 レナは肩をすくめ、気恥ずかしそうに笑う。
「いやいや、天才は言いすぎですよー。妹の方がずっと頭も回るし、もっとスマートにやっちゃうと思います。私は、ちょっと得意なだけ。……ちょっとだけ、ですよ?」
 ふっと目を細めるその仕草には、誇らしさと懐かしさ、そしてほんの少しの寂しさが滲んでいた。


 データを回収したレギオンが次々と帰還するたびに、アルマがふわりと笑顔を見せる。その様子を見て、レナもまた、自然と笑みを浮かべていた。
 この都市には、まだ守れるものがある。誰かが困っていて、誰かが応えて、ただそれだけで少し世界が良くなる。
 そんな“普通”の時間が、こんなにも愛おしく思える――。

「……こんな風に誰かの役に立てるのって、ちょっと、いいですね」

 風が吹いた。
 高層ビルの合間を抜けてくる風は心地よく、レナの髪と、隣のアルマのホログラムスカートを同時に揺らした。

「――この時間が、少しでも長く続けばいいな。なんて、ちょっとだけ」
 誰にともなく呟いたその言葉は、空へと溶けていった。
 作業を終えたアルマが、ぺこりと頭を下げてから光の粒子を残して次の仕事場へと転移する。
 その粒子を見送りながら、レナはひとつ、深呼吸をした。

 空は今も、綺麗に晴れている。どこまでも高く、どこまでも青い。
 
「……よし。私も、もう少しがんばってみましょうか」
 そう言って顔を上げる。
 嘗て、放課後の図書室の窓から見た色と同じ“青”を、今日もこの街が映してくれている――そのことが、レナの背中をそっと押してくれる。そんな気がしたのだ。

✦ SYS_LOG/URBAN_SUPPORT/A.L.M.A.
└─ USER_ID: [00030]
  IMPRESSION: 優しい😸(“お姉ちゃん”みたいな人でした)
  TASK_STATUS: 完了済み
  NOTE: レギオンさんたち、すごく頼もしかったです!

十・十

 訓練広場に一陣の風が吹いた。
 整列する低学年の訓練生たちの前に、一人の少年がふわりと現れる。黒い瞳、柔和な笑み。足元が地面に触れていない。
 十・十(学校の怪談のなりそこない・h03158)――学校の怪談になりそこねた、小さなオバケがそこに居る。

「えっ……あの子が、協力者?」
「浮いてるよ!? ほんとに幽霊なの!?」

 ざわつく訓練生たちの列の前で、ただ一人銀髪の少年――|塔ノ島 璃音《とのしま りおん》が歩み出る。
「……怖がる気は無いよ。君がここにいる理由は、多分優しさからくるものだ。……違うかな?」
「えへへ……そのとおりでごぜーますなー」
 静かな声に、十はそっと微笑んだ。

「それじゃあ訓練、はじめるでごぜーますなー!」

 ひょいっと浮かび上がった十が、ぴょんと宙で一回転する。訓練生たちの間に再びざわめきが広がるが、今度はどこか楽しげだった。
「訓練方法は――おにごっこにするでごぜーます!」
「えっ、まじで?」
「鬼ごっこって、子どもかよ……」
「いや待って、絶対なんかある……」

 十はふにゃっと笑う。
「ボクにタッチされたらアウトでごぜーます。全力で逃げてくださいましなー」

 風が止まる。環境音だけが遠のく。誰かが息をのむのが聞こえる。
 そんな中、十が指を一本立てた。

「それじゃあ……数えるでごぜーますよー」

 いーち。にーい。さーん。
 その声が響くたび、空気がじわじわと――湿っぽく、冷たく、重くなっていく。

 ろーく。なーな。やー。
 十の声が数を重ねるたび、気温の感覚がにぶり、空気に濁りが混じる。

 視界の端に、ぼんやりとした光が浮かびはじめた。それは――水の形をした影だ。
 小さなタコ、金魚、クラゲ、トカゲウオ、カブトガニ。
 都市の空をゆらゆらと泳ぐように、数十、いや百を超える気配が現れていく。

 十の瞳にだけ、重なるように見える“本当の姿”――
 子犬、文鳥、猫、ハムスター。
 どれも名前のついていたはずの、かつて誰かの大切だった命。

「……何で、こんなに……居るんでごぜーますかね……」
 十がぽつりと呟くと、黒い猫のインビジブルが彼の足元に近づく。
 すり寄るように溶け込み、彼の身体がふわりと変質する。

 獣の耳。尾。ぎらりとした瞳。……√能力・|憑依合体《ノケモノ》による、|変化《ヘンゲ》の類。
「よし、いっくでごぜーますよ――」
 十が跳ねた瞬間、周囲のインビジブルたちがふわっと広がる。遊びの空気は、もうどこにもなかった。
 風が逆流したような気配と共に、十の姿がふっと消える。一瞬後、気づけばすでに目の前にいた。猫耳の少年が、無音のまま笑っている。

「捕まえちゃうでごぜーますよ~?」
 訓練生たちが四方に散る。訓練服の擦れる音、焦った足音、そして焦るような笑い声。
 そのどれもが、十の動きに追いつけない。彼は壁を蹴り、影に消え、予測不可能な軌道で回り込む。

 逃げる少年のひとりが、ふと背後の気配に気づく。
 振り向くと、そこに――いた。

 十の瞳が合う。金の瞳孔がすうっと細まり、笑ったまま動かない。
 その視線に、一瞬、寒気が走る。

「……なに、これ……こわ……!」
 その子の肩に、ふわりと前足が添えられた。
「はい、タッチでごぜーます」

 十がぴょこんと跳ね退く。見れば、小さな子猫の姿になっていた。拍子抜けしたような笑いが、辺りに広がる。
「ちょ、び、びっくりした……!」
 鬼は再び駆けて行く。その後姿に、獣の尾が愉快そうにゆらゆらと揺れていた。


 鬼ごっこは、終わった。
 制服の裾を引きずりながら地面に座り込む子、肩で息をする子、まだ笑っている子。
 そこには戦いではなく、“全力で遊んだあとの疲労”があった。

「すっげー楽しかった……」
「負けたけど、またやりたい……」
「十くん、なんかすごかった……けど、こわくはなかったね……」

 十は空中にゆらりと座ると、そっと膝を抱えた。笑ってはいた。けれど、その瞳の奥には、どこか遠くを見ている気配がある。
 それに気づいたのは、やはり璃音だった。

「十くん……今、楽しかった?」
 問いかけに、少し間を置いてから、十が答える。
「……楽しかったでごぜーますよ。……でも、こういうの、ボクにはちょっと贅沢でごぜーますかな……」

 言葉を濁すように、声が揺れる。璃音は立ったまま、彼に背を向けずに言う。
「……また、来てよ。次も、君のことを“そこにいる”って思えるようにさ」

 十の肩が幽かに震えた。やがて微笑みが戻る。
「……うん。また来るでごぜーますな」
 遊び終わった空はどこまでも高く、きれいだった。

式凪・朔夜
桂木・伊澄

 ノア・シエル中央区の西端にある広場は、午後の日差しを受けて穏やかに輝いていた。円形に敷き詰められたセラミック舗装の上には訓練用の仮設設備が並び、既に数人の学徒たちが列を作っていた。
 式凪・朔夜(影狼憑きの霊能力者・h07051)は、その様子を少し離れた場所から眺めていた。肩にかけたジャケットを軽く直し、隣に立つ男へと視線を送る。

「……すごいっすね、伊澄さん。もう視線集めてますよ」
「いやいや……勝手に盛り上がってるだけだろう」

 愛らしいビスクドールから“代わってくれ”との要請を受けた、桂木・伊澄(蒼眼の|超知覚者《サイコメトラー》・h07447)はやや居心地悪そうに眼鏡を押し上げながらも、前に立つ覚悟はできていた。自分に与えられた役目を淡々とこなす。それが彼のやり方だ。
「俺も、隅っこで見学……いや、受けてみようかな。なんか、久しぶりに“学ぶ側”ってのも悪くない気がして」
「お、やる気あるじゃないか。それなら俺が相手してやるぞ」
「勘弁してくださいよ……」

 どこか柔らかい調子のやり取りのまま、二人はゆっくりと訓練区域へと歩を進めた。
 新しい風が静かな午後の広場に吹き込んでくる。そこから始まる、小さな物語の予感を孕みながら。


 号令が広場に響いた瞬間、待機していた学徒たちがいっせいに顔を上げた。
 制服の肩には階級章ではなく、まだ新しい素材の“訓練用識別章”が付けられている。どの顔にも緊張と期待が入り混じり、それでも目は輝いていた。

「うわ、ほんとに来てる……! 本物の異能捜査官だ……!」
「眼鏡の人、| 警視庁異能捜査官《カミガリ》だよな? 生で見るの、初めてだ!」
「その隣の人もカッコよくない? あれ、弟子なのかな……?」

 ざわめきの中、一人の小柄な少女が小さく息をのんだ。
 |如月 雛乃《きさらぎ ひなの》――訓練生の中では最年少に近い。姿勢は真っ直ぐだが、靴のつま先が不安げに揃えられている。
 伊澄はその列の前に立つと、少しだけ咳払いをした。

「警視庁・異能捜査官の桂木・伊澄です。今日は基本的な制圧動作を、少しだけ実演してみせようと思う。無理はしないで、見ててくれ」
「は、はいっ!」

 雛乃がぴしっと敬礼する。その動きはややぎこちないが、一生懸命さは伝わってくる。
「……伊澄さん、人気ですね。なんかもう教官って感じです」
 朔夜が隣でぽつりと漏らす。伊澄はふっと苦笑しつつ、肩越しに答えた。

「じゃあ早速、そこの朔夜君で模範演武でも。……このように」
 身を反し、即座に容赦の欠片も無く技をかます。
「いで、いでででで! 伊澄さんギブギブ、キマってます!」
 ――式凪・朔夜、制圧完了。訓練生たちがクスクスと笑う。笑いが緊張を溶かす。その中でも、雛乃だけは真剣そのものの眼差しで、朔夜を見つめていた。
 “守るために、強くなりたい”――そんな意思が、未熟ながらもしっかりと宿っている。
 朔夜は気付かぬふりをしたまま、よれてしまった襟を正した。

 陽光を受ける訓練スペースの中心で、伊澄が静かに前へ出る。眼鏡の奥で視線を走らせ、軽く肩を回した後、前に立った訓練官に向かって小さく頷いた。
「では――簡単な制圧の一例を実演する」
 動きは静かだった。が、次の瞬間には訓練官の腕が宙に浮き、肩から先が不自然な角度で止められていた。伊澄は無言のまま、その手首を的確に取り、ぐいと重心を崩す。膝を落とすように導くと訓練官は仰向けに転がされ、背中が床を打った。

「武器を握った手を狙うなら、関節を攻める。動きを止めれば、次の手も打たずに済む」
 その動作は、無駄のない流れで構成されていた。説明というより“流れを読ませる”訓練。観ていた学徒たちの間に、どよめきが走る。

「速っ……」
「なに今の、見えなかったんだけど……」
「痛みは与えすぎず、抵抗の意志だけを奪う。……主に治安活動で役立つ技術だ。大事なのは、倒すことじゃない。止めること」
 伊澄は眼鏡を押し上げながら淡々と告げる。だがその言葉には、静かな説得力があった。

 その隣で、朔夜が腕を組んだまま口を開く。
「関節決めて転がすっていうと怖く聞こえるけど、力じゃなくてバランス重視。体格差あっても十分通用します」
「やけに詳しいな」
「ついさっき技掛けられたばかりですから! ……それに、今の見てたら、動きだけで納得できるなって」

 小さな笑いが生まれる。張り詰めた空気が、少しだけ和らいだ。
「さて――誰か、やってみるか?」
 伊澄の声に、一瞬、沈黙が落ちた。学徒たちは互いの顔を見合わせる。怖い、けれど興味はある。試してみたい。その空気の中で、一人、小柄な少女が遠慮がちに手を挙げた。

「……わ、私……! やってみたいです……!」
 雛乃だった。声は震えていたが、その瞳だけは真っ直ぐ伊澄を見据えていた。


 雛乃は前へ進み出たものの、足元ばかりに目が行き、練習用のグローブを付けた手が胸元でそわそわと揺れていた。

「深呼吸して、落ち着いて。こっちは手加減するから」
 伊澄がやや屈み込み、柔らかく声をかける。それでも雛乃の肩は硬いままだ。
「……お願いしますっ」
 かすれ気味の声とともに雛乃が踏み込む。だが、勢いだけで突っ込んでしまった。伊澄は簡単に彼女の手を受け流し、逆に軽く手首をとって、倒れない程度に体勢を崩す。

「あ――っ」
 一歩、二歩と後退して、雛乃はその場にぺたんと座り込んだ。周囲の空気が静まり返る。誰も責めない。けれど、その沈黙が彼女の胸を締めつけた。
「……す、すみません……!」
 彼女は顔を伏せ、必死に立ち上がろうとする。と、ごく自然に朔夜がその横に膝をついた。

「大丈夫。今の、俺が最初にやった時よりずっとマシだったよ」
「……え?」
 雛乃が顔を上げる。朔夜はにこりともせず、どこか淡々とした調子で言葉を続けた。

「勢いがある分、止まらなくなる。俺も昔、真っ直ぐ行って盛大に転んだ」
「でも……私、せっかく選ばれてここに来たのに、こんなで……」
 その声には、悔しさと、ほんの少しの恐怖が混じっていた。
 伊澄が口を開きかけたが、朔夜が軽く手を挙げて制した。

「雛乃さん」
 いつになく真っ直ぐな声だった。

「守れる人になりたいんだよね」
「……はい」
「だったら一回の失敗なんか気にしないでいい。怖くても、ちゃんと立ち上がってる。それが、もう十分凄い事なんだ」
 雛乃の肩が、ふるりと揺れた。そして、数秒の沈黙の後――彼女は、小さく息を吸い直した。

「……もう一度、やってみていいですか」
「もちろん」
 今度は、伊澄ではなく朔夜が立ち上がる。

「俺が相手する。さっき伊澄さんがやってたの、簡単な型にして一緒にやってみよう。俺が動くから、それに合わせて」
「……はい!」
 まだ震えは残っている。だが、雛乃の声には先ほどよりも確かな熱があった。
 朔夜は優しく構え、雛乃にゆっくりとした動きを誘導する。間の取り方、重心のかけ方、視線の位置――一つ一つ、丁寧に。
 そして、最後の動作。雛乃が彼の手首を取り、力を入れすぎず引き落とす。

 ふわりと、朔夜の身体が倒れた。綺麗に受け身を取って立ち上がると、周囲から拍手が起こった。

「……やった……!」
 雛乃の目が潤む。それでも彼女は泣かない。泣く代わりに、小さく笑った。
 朔夜は立ち上がり、そっと彼女の頭を軽く撫でる。

「よく頑張ったね」
 その手は、温かかった。


 訓練は無事に終了し、簡易パーティションの外では訓練生たちが水分補給や片付けを始めていた。陽は高く、空はよく晴れている。だが、広場に吹く風はどこか穏やかで、訓練の緊張を拭い去っているようだった。

 朔夜は隣に並んでいた雛乃の姿を視界の隅に捉える。彼女は器具の整理を手伝いながら、仲間に何かを説明しているようだった。
 その表情には、先ほどまでの固さはなく――年相応の、少し誇らしげな笑顔が浮かんでいた。

「……変わりましたね」
 そう声をかけると、後ろから伊澄が歩いてきた。
「雛乃さんか?」
「ええ。ほんの少しですけど、ちゃんと前に進んだ気がします」

 朔夜の声には、どこか自分に言い聞かせるような響きがあった。伊澄は視線を空へ向ける。青い空には、暗雲の影ひとつ見えない。
「初めての頃を思い出すな。……自分の力がどこまで通用するのかもわからなくて、必死だった」
「伊澄さんにも、そんな時があったんですね」

「あるさ」
 伊澄は少し照れくさそうに笑った。
「助けられたんだ、俺も。だから、今度は俺が手を貸す番だと思ってる」

「……俺も、そうなれますかね」
「なれるさ。もうなってるよ、きっと」
 その言葉に、朔夜は少しだけ目を見開いた。

「お前の言葉が、あの子を立たせたんだ。……きっと、今の自分にできることを探してたんだろうな。昔のお前みたいに」
 朔夜は無言で頷く。遠くで、雛乃がふとこちらを振り返った。手を小さく振ると、彼女はすぐに仲間の輪に戻っていく。

 その背中を見送りながら、朔夜は静かに息をついた。
 ――もう、心は届かない過去にばかり向いてはいない。
 ほんの少しだけ、空が高くなったように感じた。

飛鳥井・合歓

 都市の空はどこまでも澄んでいた。白亜のレーダータワーが天へ向かって突き刺さるようにそびえ、その根元――訓練用広場では、防衛学徒隊の子どもたちが整列している。
 彼らの足元に吹く風は心地よく、機能性の高い制服が陽光を反射する。そんな中、飛鳥井・合歓(災厄の継承者・h00415)は杖の音と共に姿を現した。
 黒いヴェールで顔を隠したまま、その場に立ち止まる。訓練生たちは次第にざわめきを潜め、彼女の一挙手一投足に注意を向けた。
 合歓は無言のまま石突を一度、コツンと地面に落す。その澄んだ音は硬く乾き、その場の空気を染め上げる。

「No.1898――出獄を許可する」

 毅然とした声と共に、空気がさざ波のように揺らぐ。|目には見えない粒子《ウイルス型怪異》が、学徒たち一人ひとりへと静かに降り注いだ。
 誰にも気づかれないまま、自己増殖を開始したウイルスは、訓練区域全体へと広がって行く。

「まずは、いつも通りでいいわ。何も変える必要はないもの」
 合歓はそう言って、静かに訓練の開始を促す。彼らの動き、感情、呼吸――すべてが、既に彼女の“視野”に入っていた。

 訓練が始まると、広場にざっという靴音が広がった。
 訓練生たちはそれぞれに持ち場を取り、指導された通りに防御や制圧の動きを繰り返す。合歓はその場から動かず、ただ黒いヴェール越しに彼らを静かに見ていた。

 ヴァイラスが伝えてくる情報は、正確だった。
 体温の揺らぎ、呼吸の乱れ、筋肉の緊張、そして内心の不安――無機質な情報ではなく、あたかも感覚で「分かる」ものとして、彼女の中に流れ込んでくる。

「えいっ、やっ、はぁっ!」
 ひときわ元気な動きが視界をよぎる。|日下部 彩葉《くさかべ いろは》。足運びが軽く、機敏な反面、着地のたびにバランスを崩しそうになる。

「その勢いは良いわ。でも、着地のとき、少し後ろ重心になってるの」
 声を掛けられた彩葉がくるりと振り向く。頬に汗を浮かべ、口元には笑み。

「へへっ、やっぱり見えてました? 合歓さんの視線って、ちょっとくすぐったいなぁ」
 直感か。鋭敏感覚か。はたまた第六感か。彼女の言葉に、合歓は少し間を置いてから頷いた。
「貴女の動きは正直ね。思った通りに体が動いてる。……それは、とても大事なことよ」
 少女はまた笑って頷き、動き出す。言葉を重くせずに伝える、それが今の合歓にできる最善だった。


 やがて、訓練の流れは個人の動きから小規模な模擬戦へと移った。
 動きの良い数人が前に出される中、合歓はゆっくりと左手の袖を捲る。
 思念に応じて現れたのは、銀色の糸。それは風もないのに宙を泳ぎ、彼女自身の手首へと絡みつく。するりと針先が肌に入り、音もなく沈んだ。

「少し、私も動きましょうか。……本気で来なさい。手加減はするけれど、多少痛くしてしまうのはご容赦して欲しいわ」

 糸は脈動に合わせて伸び縮みし、彼女の四肢に微細な補正を加える。合歓は模擬戦の先頭に立ち、素手のまま敵役を演じた。
 最初に仕掛けてきたのは、彩葉だった。軽やかな脚さばきで突進するその動きを、合歓は一歩横に逸らし、背後へ回り込む。彩葉の首筋に、杖――No.713の|持ち手《銀蛇の牙》がピタリと当てられた。
「勢いがあるのは良いけれど、真正面からの攻撃は読まれやすいの。次は、少し角度を変えてみて」

 くるりと舞うように退いた彩葉は、「了解っ!」と手を挙げて笑った。
 その素直さに、合歓はどこか嘗ての自分が重なるような感覚を覚えていた。

 訓練がひと段落し、学徒たちが水分補給に向かう中、合歓の脳裏に微かなざわめきが走る。
 No.1898――ヴァイラスの一部が、訓練生たちを経由し、都市構造体へと触れていた。
 その先にあるのは、都市の中枢――白亜のレーダータワー。レーダー網がウイルスと“接続”し、合歓の視界がじわりと変質していく。

 音が、風が、空気の粒が、すべて彼女の“翼”になる。
 レーダー圏のギリギリの位置から、視界は街を離れ、塔の上空から滑るように――いや、“舞うように”広がっていった。
 都市の区画、川、雑木林の上空を抜け、遠く、遥か遠くへ。都市から離れた湿地帯に、黒い蟻のような塊が規則的に移動している。

「……あれが、件の機械群ね」

 合歓の瞳がゆっくりと開く。レーダーは都市外縁部までを見ている。然し、”更にその先を見る”という行為を成せるのは、現時点では彼女ただ一人のみ。
「数はまだ少ないけれど……これは偵察ではなさそうね」
 ヴェールの奥で、合歓の唇がわずかに動いた。
「この情報……今は、|√能力者《私たち》の中に閉じておきましょう。彼らに余計な怖れを与える必要はないもの」
 滑空していた“視界”が徐々に収束し、レーダー塔の上空から地上の身体へと戻っていく。静かな地面、穏やかな風。それでも、遠方からの異変の気配は確かに刻まれていた。

 太陽が傾き、レーダータワーの影が広場の端にまで届き始めていた。訓練を終えた少年少女たちが、満足げな表情で互いに声を掛け合い、水筒の蓋を開ける音が響く。
 合歓は小さく頷くと、杖を一度、軽く地面へと突いた。石突が硬質な音を響かせ、広場にいる全員の耳に自然と届く。
 声を張り上げることなく、それは「訓練終了」の合図として、充分すぎるほどに機能していた。

「以上で、今日の訓練は終了です」
 一人一人に視線を合わせつつ、合歓は言葉を続ける。
「とてもよく動けていたわ。出来なかった事を探すより、まずは出来た事を覚えておきましょう。――それが、怖がらなくてよくなる事への第一歩だから」

 その言葉に込められたものを、訓練生たちが全て理解する日は来ないかもしれない。
 それでも彼女の声は、彼等の心の何処かにそっと根を下ろしていった。

瀬条・兎比良
花喰・小鳥

 都市南端、ノア・シエル訓練施設。広場の中央では十数名の訓練生たちが並んでいた。年齢は概ね十代前半。緊張と興奮が混じった眼差しが、こちらを見ている。
 陽光が射し込む開けたスペースに、瀬条・兎比良(|善き歩行者《ベナンダンティ》・h01749)と花喰・小鳥(夢渡りのフリージア・h01076)の姿が現れると、ざわりと空気が揺れた。

「本日より、訓練支援として√能力者のお二人が参加されます」
 教官の号令に、少年少女たちの背筋が伸びる。

 兎比良は静かに一歩前に出て、内ポケットから小型の手帳を取り出し、提示した。
「警視庁警備部対異能第四十二課巡査部長、瀬条 兎比良です。正式に許可を得て、外部支援として参加しています」
 隣で小鳥が軽く頷いて、柔らかな笑みを浮かべる。
「花喰 小鳥です。今日は皆さんのお手伝いに来ました。どうぞよろしくお願いしますね」

 その瞬間、学徒の列から小さな歓声が漏れた。実物の√能力者を前に、緊張の糸が少しだけ緩んだようだった。


 訓練生たちは、支給された簡易装備を手に、散開・構えの指示に従って動いていた。とはいえ、その動きはまだぎこちなく、構えたままの腕は緊張でこわばり、銃口の方向も定まらない。

 その様子に小鳥はそっと歩み寄り、柔らかな口調で語りかけた。
「基本的なことですが、銃口の管理は絶対です。壊したくないものには、向けないようにしましょう」
 言いながら、彼女は手本として軽く銃を掲げる。利き腕を構え、反対の手で安定を取るその所作には、柔らかながらも一分の隙もない。
「セーフティが掛かっているかどうかは関係ありません。万が一の事故にならないよう、意識を向けてくださいね」

 傍らでは、兎比良が動き出す。
 彼は一人の訓練生の銃を下げさせ、落ち着いた声でアドバイスを送る。
「指を、トリガーから外しなさい」
 少年がはっとして従うと、彼は頷いて、やや距離を取りながら説明を加える。
「撃つ時以外に指を掛けない。構えたまま硬直するのは最も危うい。訓練を頭に叩き込むのは結構ですが、それならば体で覚えなさい」
 少年たちは緊張した面持ちで彼らの言葉を聴き、それに応じて少しずつ構えを修正していく。
「練習通りに動けるのはメリット、その通りに動こうとするのはデメリットになります。――実戦では状況は毎回違う上、刻一刻と激変するものです」

 周囲にはひらひらと、いつの間にか30匹近い蝶が飛んでいる。瑠璃色の|小さな蝶《プシュケ》――それが突如ふわりと青白く燃えたと思えば、スーツにサングラスという異様な出で立ちの諜報員へと変わる。無言のまま素早く銃を構える様子に、訓練生たちは息を呑んだ。
「これが、私の使う能力の一つです」
 小鳥は微笑み、スーツの諜報員たちに短く命じる。
「お手本をお願いします」
 それだけで、彼らは流れるように動き、カバーリングと射線確保、索敵とクリアリングの所作を次々にこなしてみせた。模範的な手順。洗練された動き。
「反復練習は大事ですよ。力を抜いて、丁寧に繰り返しましょう」

 一方、兎比良が小さく息を吐き、静かに目を閉じた。
「……三百年の罪状を謳え」
 その言葉と同時にどこからともなく、人魚の泡影が紡ぐ柔らかな旋律が響き出す。それは声というより“記憶の底で聴いたことがある気がする音”だった。母の子守唄のようでもあり、心に降る雨音のよう。
「これが、補助としての能力。皆さんの努力を、あとほんの少し前へ進める為の力です」
 同時に訓練生たちの足元には淡く光る水泡のような幻影が現れる。彼らの一歩一歩に合わせて浮かび、軌道を補正するような軌跡を描いていく。少年少女達は目を丸くしてその光を見ていた。自分の動きが、確かに何かに導かれている。
「“自分は犠牲になってもいいと気安く考えるな”。貴方が倒れたら、次に倒れるのは――貴方以外の誰かです」
 訓練生たちの瞳が見開かれる。兎比良の言葉で迷いを振り払ったかのように、彼らの足取りが少しだけ確りした物に変わった。

「……ああ、これは少し、希望になりますね」
 その変化を見ながら、小鳥が小声で呟く。

「あのっ!」
 不意に一歩前に出たのは、白銀のショートヘアの少年。名前を|白神 真宙《しらかみ まひろ》と言う。清廉な制服の着こなしもそのまま、彼は礼を正すように背を伸ばした。
「“自分は犠牲になってもいいと気安く考えるな”って……僕、それまで考えたこと、なかったです。すごく……響きました」
 フォームを見せる為に真横を向き、両手で銃を構える。その指先は、先程までとは見違えるようだ。技術は直ぐに伸びるものではないが、心がきちんと乗っているのが見て取れる。

 隣から、小柄な少女が「ねーねー!」と声を張る。彼女の名はルチル アトリ。亜麻色の髪に添えられた髪飾りが揺れた。
「ねえ、あのスーツのお兄さんたち、どうやって出すの!? あれ、いつかマネできる?」
 小鳥はくすりと笑い、スーツの諜報員たちを指差した。
「それは……“仕事をちゃんとこなせるようになったら”かもしれません。まずは構えと、意識からですね」
「むむ~! がんばります!」
 その勢いに、周囲の訓練生たちからも小さく笑い声がこぼれた。どこか張り詰めていた空気が、少しだけ柔らかくなる。

 もう一人、遠慮がちに近づいて来る少年の姿。銃の手入れ用クロスをきゅっと握ったまま、前髪の奥から不安げな瞳を覗かせている。
「よ、|蓬原 湊《よもぎはら みなと》、です。その……さっき、指導してもらった時、僕、ちゃんと……その……」
 言い淀み、視線が足元に落ちる。小鳥は立ち上がり、湊の手元をそっと見た。小さく、震えている。
「大丈夫ですよ、蓬原くん。あなたは丁寧に、しっかり銃を見ていました。私も見ていましたから」
 湊は、ほっとしたように目を瞬かせて、それから微かに頬を紅潮させた。
「……ありがとうございます。僕、まだ怖いけど……でも、ちゃんと戦えるように、なりたいです」
「その気持ちがあれば、十分です。ね、兎比良さん」

 問いかける小鳥に兎比良は少しだけ表情を和らげ、静かに頷く。
「努力している者を評価する目は必ずあります。自分の力量を客観的に評価出来るなら、それだけで貴方は強い」
「……はい!」
 湊は頭を下げ、走って戻っていく。足取りはまだ軽くないが、少しだけ背筋が伸びていた。


 小鳥はその様子を見つめながら、そっと腰を下ろしてサーモボトルを開く。紙コップに注いだ香り高いコーヒーを兎比良へ差し出した。
「どうぞ。少しは休んでください」
 彼は受け取る際に少しだけ眉を上げるが、静かに一口。
「……助かります。思ったよりも喉が渇いていたようです」

「彼らは、どう思われました?」
 焙煎の香りの中で、小鳥は問いかける。彼女の視線の先では、真宙が仲間にフォームを教え、ルチルが蝶を追っている。

 しばしの沈黙の後、兎比良が言葉を選ぶようにして返す。
「どうか、と聞かれると難しいのですが……真面目で、素直で。心がある。誰かを守りたいという意志が伝わってくる。それだけで十分だと思います。――現時点では、ですが」
 小鳥はふっと笑った。
「ええ。現時点では」

 陽が天頂を過ぎた。訓練生たちの呼気が少し重くなりはじめる頃合いだ。
「訓練はここまで。あとは、また後日ね」
 そう言って手を振る小鳥に、訓練生たちは礼を返す。直立していた真宙が少しだけ視線を逸らしながら、額の汗を拭った。
「……また教えてもらえますか?」
「ええ、もちろん」
 迷いのない返事に、彼はようやく、少し年相応な顔で笑った。


 訓練終了の報せとともに、広場には静けさが戻っていた。風が吹き抜け、地面の砂埃をさらっていく。
「では、解散」
 教官の一声で少年少女たちは散り散りになり、今日の出来を仲間と語り合いながらそれぞれの持ち場へと歩き出す。やがて数人の訓練生が、名残惜しげに兎比良と小鳥の前で立ち止まり、小さく頭を下げてから去っていった。

「いい子たちでした」
 小鳥が穏やかに呟けば、兎比良も同意と口を開く。
「ええ。……それだけに、今夜の迎撃任務が悔やまれます。せめて“今日”は、静かに終わらせてあげたかった」
「でも、見せた意味はあったと思います。戦うことが全てではないとしても、“護ろうとする背中”が、誰かの支えになることもありますから」
 小鳥の祈りに、兎比良は言葉を返さなかった。ただ、深く頷いて空を見上げる。

 白く高く澄んだ空。雲ひとつないその光景は、まるで嵐の前の無音だ。
「……そろそろ、配置に戻りますか」
 彼の言葉に、小鳥もまた頷き、風に揺れる前髪を指先で整える。

 どこか遠くで、子供たちの笑い声が風に乗って響いた。その笑い声が“明日”にも続きますように――
 二人の背中が、訓練施設の出口へと並んで歩き出す。日差しの角度は、ゆっくりと夕刻に近付き始めていた。

八手・真人
オメガ・毒島

 ノア・シエルの歩道は、光沢ある滑らかなタイルが敷き詰められていた。だが、その道のど真ん中でひとり所在なげに立ち尽くしている人物がいた。
「ま、迷子に、なっちゃった……?」
 Re:Unionの体験からの帰還直後。まだどこか夢の中の感触を引きずっていた彼の足取りは、自然と人の流れから外れてしまったのだった。

「そ、そうだ、大声……。メガく~ん!! メガく~~~ん!!」
 八手・真人(当代・蛸神の依代・h00758)は辺りをきょろきょろと見渡しながら、やや泣きそうな声で友の名を呼ぶ。やがて数秒後、背後から足音と共に静かな声が届いた。
「オメガ・イヤーは高性能です。真人の悲鳴も博士の文句も聞き逃しません」
 安堵した表情で、真人はオメガ・毒島(サイボーグメガちゃん・h06434)に駆け寄る。

「よかったぁ……メガくん、ダメですよ油断しちゃ。俺はいつでも迷子になれるんですから」
 あまりにも自然な責任転嫁……! 然しオメガは穏やかに頷き、頬を僅かに緩めた。
「では……合流祝いに何か食べに行きましょうか」

 食事と聞いて真人は目を輝かせる。――だが直後、アッと小さく声を上げた。
「お仕事はこれから、ですよね。でも……たしか、√ウォーゾーンのご飯って、おいしくないって噂で……最前線だとまた違うのかな? 気になりますね、メガくん……!」
「……! その視点は確かに興味深いですね。では今回は、“味”にフォーカスしてみましょうか」
 道の脇にデザインされた、清らかな水盤に映る青空を見ながら、二人はゆっくりと歩き出す。戦いの記憶も、ホログラムの残響も、今は少しだけ脇に置いて。
 ――まずは、腹ごしらえから。


『QRコードの読み取りだけで大丈夫ですからっ! あと、“ついで”に食糧供給網の確認もお願いできたら……!』
 途中、AIの少女に拝み倒す勢いで助力を求められ、快諾した二人。
「……というわけで、“ついで”の調査です。ええ、ええ」
「アルマちゃん、すごく必死だったなぁ……」

 振り返る二人の視線の先には、ノア・シエルでも珍しい“缶詰専門店”。
 退役軍人や物資マニア向けに静かに営業を続けている小さな店舗で、その入口から見える棚には金属の鈍い光沢がずらりと並ぶ。

「わっ、すごい……! 見たことない缶詰、いっぱい……!」
 真人は棚に目を輝かせながら、手を後ろに組んで忙しなく視線だけを動かしていた。店内のポップには“緊急備蓄・戦地仕様・記憶とともに”の文字。なんとも趣味性が強い。
 一方、オメガの視線がふと止まる。そこには旧型兵站コードの焼き印が入った缶詰がひとつ、ぽつねんと置かれていた。まるでそこだけ時間が止まっているかのよう。
「……ありました、白豆缶。旧式のラベル仕様です。製造終了のはずが……。なるほど、消費期限の長さと食料にシビアなこの世界の特性が……」
 ひときわ地味な装丁の銀缶。思わず手に取ったそのラベルには、「白豆・水煮」とだけ印刷されている。

「これ……メガくんが昔、食べてたっていうやつかな?」
「はい。戦地で、唯一“少しは味がする”と評した記憶がある、気がします」
 オメガから缶を受け取った真人は、慎重にその缶を回す。見た目からしてあまり美味しそうではない。
 
「失礼、これは試食できたりします?」
「ああ、そこの棚のはもうじき在庫処分なんで、遠慮なく」
 オメガの問いに、奥から顔を出した店主が快く答える。ならばやる事は一つ、善は急げだ。
「真人、真人。こちらを試食させて頂けるそうですよ」
 試食スペースには使い捨ての紙皿とスプーンが用意されている。真人は躊躇いながらも缶を開け、一匙すくって口に運び、暫しもぐもぐ。

「……なんとも……なんとも言えない味……です……。や、やさしいような……うすいような……粉っぽい……」
 言葉が曖昧に揺れる。だが、顔はしかめていない。困ってはいるが、拒絶しているわけでもない。
 オメガも静かに隣で匙を口に運ぶ。そして、一拍置いて小さく首を傾げた。
「……予想していたよりも……味がある気がします。錯覚でしょうか。……いえ、真人と二人で食べたからでしょう。共感性による味覚補正、という所でしょうかね」
「共感性……?」
「“一緒に食べた”という事実が、印象を変えたのです。……よくある現象です」
 オメガは少し照れくさそうに笑った。白豆の味は確かに地味だ。でも、空っぽではなかった。ほんの少し味覚の奥に残る何かがある。
「んー……なんか、食べたら“むかし”が浮かびそうな味……。俺、初めて食べたのに、なんでだろう……」
「それは、きっと“味”ではなく、“空気”の記憶です。戦地で生きるために食べた空気を感じたのでしょう」
 少しだけ沈黙が落ちた。だがそれは、居心地の悪いものではない。互いにスプーンを持ちながら、暫し缶詰の中の豆を見つめていた。

 店の出口付近、レジ横には“ノア・シエル最新式レーション試食コーナー”と書かれた簡素なPOPが置かれている。携行し易そうな薄角型の缶が並び、ひとつには大きく「ENER-PURE #5」との刻印。
「うわ……パッケージ、未来って感じがする……! メガくん、これ……食べてみません?」
「ENER-PURE#5……おや、行軍特化レーションですか。現行型より二段階上の試作型のようですね」

 真人が缶を開けると、ぬめりとしたペーストが姿を現した。
 色合いは水で薄めた練乳に近いが、どこか濁りを思わせる。真人がスプーンを差し込み、ひと口。――咀嚼の途中で、身体がわずかに硬直した。

「……甘……ッ。変に甘い……やさしさが、う、うわべだけっていうか……」
「ほう……」
 オメガも一匙、慎重に口へ運んだ。そして、即座に明瞭な判定を下す。
「これは、“味”ではなく、“成分”ですね。歯触りにおける空虚感。……食味も食感もワーストです」
「俺……これはチョット、何と言うか……怖いかも……」
 真人が顔をしかめながら、スプーンを紙皿の上に置く。食感が無い。くどさも無い。甘ったるさが後を引く感じも無い。兄ちゃんをギュってしたい衝動に駆られる事も、無い。無い無い尽くしの虚無が胡乱な瞳で|お前《・・》を見ている。――そんな気がして、真人はブルリと小さく身震いした。何故か思い出してしまったのだ、いつぞやの“チョコレートパフェ”を。

「栄養価的には非常に優秀です。タンパク質、糖分、油脂、微量ビタミン。生命維持に必要なものは網羅されています。……が、“味覚”の定義からは逸脱しています」
「これ、食事じゃなくて……儀式ですね……」
「補給儀式。あるいは、“生存装置の一部”ですね」

 二人はしばらく黙り込んだ。微かに光を反射するペーストは、二人を見返すかのように、ただそこに在った。
「メガくん……俺、まだ、白豆のほうが好きです……」
「同感です。味は……感情とセットで、ようやく成立するのかもしれません……ええ、ええ」
 静かに頷いて、オメガは手元の白豆缶を見やる。地味な装丁の銀缶に、先ほどより少しだけ親しみを感じるように思えた。


 無事にQRコードのスキャンを終え、店を出て数ブロック先。都市広報センター前の広場には、ノア・シエルの都市生活を紹介する展示ブースが並んでいた。
 その一角に、“未来食の提案”と題されたスタンドがある。
「こちらは、ノア・シエルの贅沢レーション『ハピネスシリーズ』の試食となっております~」
 制服を着た案内係が、眩しい笑顔でサンプルを差し出す。透明カップに盛られたのは――

「うわ、なんか……見た目、すごくキラキラしてます……!」
 真人が受け取ったのは“ハチミツ風味香味グリルドチキン風レーション”。
 彩りはまるでパーティープレート。ふわっと甘辛な香りも強い。ひと口で、目を丸くする。
「お、おいしい……っ! おいしいですこれ……!! ごほうびみたいな味……!」

 にこにこ笑う真人の横で、オメガは別のカップ――トマト風味のリゾットレーションを受け取り、ひと匙口に運ぶ。
「……なるほど。味付けの方向性は、“娯楽”ですね。構成としては香料、色素、増粘剤……栄養としてはかなり乏しいですが……」
 スプーンを置いたまま、オメガは視線を泳がせる。
「これは、“幸福を演じる食”ですね」
「え? でも……美味しくないですか?」
 真人はきょとんとしながら、ふた口、三口と勢いよく食べ進める。笑顔のまま、素直においしさを味わっていた。
「……ええ。真人がそう感じてくれるのなら、それはきっと“本物”です。ええ、ええ」
 ほんの少し、二人の間に笑いがこぼれた。舌に残る味は薄れやすい。けれど、それでも“誰かと楽しんだ味”は、何よりも心に残るものなのだ。


「……俺たち、食べてばっかりじゃないですか?」
「ええ。缶詰、補給食、エンタメレーション。……戦地と平穏、両方の“味”を、確かに体験しました」
 アルマからの依頼もクリア済み、咎められる事があろう筈もなく。のどかで平和な時間が、ゆるりと過ぎていくのだった――。

✦ SYS_LOG/URBAN_SUPPORT/A.L.M.A.
└─ USER_ID: [00758, 06434]
  IMPRESSION: 感謝😸(とっても助けて貰えました)
  TASK_STATUS: 完了済み
  NOTE: よい一日をお過ごし下さい!

クラウス・イーザリー

 空はあまりに青かった。
 雲ひとつない蒼穹。その天蓋を焦がすように、真白な陽光が降り注いでいた。都市のビル群は規則正しく整列し、窓という窓に相変わらずの青空を映している。

 その中心で、クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)はただ空を見上げていた。
 今日、この場所で子供たちの訓練に付き合う。ほんの数時間、少しの助言と少しの見本を示すだけ。それだけの筈なのに、胸の奥が少しだけざわついていた。

 この子たちは、生き残れるだろうか。
 今は笑っているあの子も、意地を張っているあの子も、いずれ戦場に立たされる。自分たちがそうだったように。
 それでも……。

「……ほんの少しでも、長く生きられるように」

 声にならない祈りが、ふっと風に溶ける。その時だった。
 太陽の輪郭が微かに滲み、光の粒が真上から降り始める。きらめく塵のように、空から零れ落ちてくる。やがて確かな羽音を響かせ、太陽の中からそれは現れた。
 |不死鳥の加護《フェニックスノカゴ》。金の尾羽を引き、炎のような輝きをまといながら、美しき光の鳥は都市の空を旋回する。
 呪文は疎か、何かの定型句も必要ない。祈りに応じて顕れた“応え”だった。


「整列!」
 訓練用の広場に、教官の号令が響いた。整然と並ぶのは、防衛学徒隊の少年少女たち。まだ年端もいかぬ子どもたちの肩に、簡易型の“訓練用識別章”が付けられている。
「本日から訓練プログラムに外部協力者が参加されます!」
 紹介の声に顔を上げる一同。
 広場の端に立つクラウスの姿を見て、小さなどよめきが起こる。

「ほんとに? この前、映像で見たよ……!」
「あれが√能力者ってやつ……?」

 熱を帯びた視線がいくつも突き刺さる中、クラウスは一歩前に出て、いつもの柔らかな声で口を開いた。
「よろしくね。俺も少し前まで学生だったから、固くならなくて大丈夫だよ」

 その一言に、空気がふっと和らいだ。緊張の糸がほどけていくのが分かる。
 その中で、ひとりだけまっすぐに前を見ていた少年がいた。
 |深見 航《ふかみ こう》。瞳の奥に揺れのない決意を宿すその少年が、クラウスの目に止まったのは偶然だったのか……それとも。

 装備のチェックを終えた訓練生たちが、順番に的の前に立ち始めた。
 クラウスも拳銃を受け取ると、訓練用の電子ターゲットに向き直る。動作は迷いなく、最小限。ゆっくりと息を吐き、引き金を引く。

 ――パン。パン。パン。

 乾いた音が三つ、等間隔で鳴った。ターゲットの中心に、綺麗に並んだ三つの穴。
 「わあ……」と、誰かが息を呑む。拍手こそないが、その場の空気が一段階引き締まったのが分かった。

「こうして撃つのが正解、というわけじゃないけど……自分なりに無駄を減らしていくと、体が覚えてくれるよ」
 そう言いながらクラウスは静かに後退し、生徒たちを促した。

 何人かが交代で射撃を行う。うまく当てられた者もいれば、緊張して弾を外す者もいる。然し、誰もが“真剣”だった。
 そして、航の番が来た。
 彼は真っ直ぐに立ち、慎重に銃を構える。だがその|姿勢《フォーム》は、どこか固い。呼吸が浅く、手元が微かに揺れているのがクラウスの目にははっきりと見えた。

 一発目……外れ。二発目も、的の端をかすめただけ。三発目は、撃つ直前で小さく銃口が跳ね、弾が大きく逸れた。
 航は一瞬だけ、眉を歪めた。「すみません」と言いかけたその言葉を、クラウスが遮る。

「焦らなくていいよ」
 クラウスは彼の隣に立ち、少しだけ身体の角度を調整してやる。

「大事なのは、戦場に出ても冷静に、いつも通りの行動ができること。今できるかどうかじゃなくて、“できるようになるまで繰り返すこと”が大事なんだ」
「……でも、僕……」
「今、できていないからこそ、ここにいるんだろ?」

 航の瞳が、揺れる。けれどその奥で、何かが少しだけ、緩んだように見えた。
 クラウスは視線を戻しながら思う。
 ……本当は、こんな訓練に慣れる必要など無ければいいのに。この子たちが何かを失う未来に行き着かなくても済む√だったら、どれだけ良かっただろうか。
 それでも。今日ここにいる限り、自分は彼らの隣に立ち続ける。


 訓練は、淡々と進行した。
 照準の癖を修正した子、弾のリズムを意識し始めた子。中には、「今日はなんだか調子がいい」と笑う者もいた。
 夕方、全体の終了を告げる号令と共に訓練生たちは装備を返却し、三々五々、宿舎の方へと戻っていった。
 クラウスは一人、広場に残ったまま空を見上げた。白く立ち上る入道雲が、さっきよりもゆっくりと形を変え、夕日に染まりかけている。

 ……ほんの少しでも、長く生きられるように。

 もう一度、その言葉が胸に蘇る。誰に聞かせるでもない、ただの独り言。それでも、どこかに届いたような気がしていた。
 あの不死鳥の羽音は、確かにこの空に響いていた。“太陽の奥から来たような誰か”を思い起こさせる光だった。

 「……叶うかどうかなんて、きっと関係ないんだよな」
 ぽつりと呟いて、肩の力を抜く。
 あの子たちが今日は笑っていた。少しだけでも、呼吸がしやすくなっていた。
 それなら、それでいい。願ってしまったことに、悔いはない。
 ――見上げている空はただ静かに、時の流れを映すかの如く、ゆっくりと雲を流していた。

汀・コルト

 広場に整列する防衛学徒隊の姿が、淡い陽光の中に浮かび上がる。
 制服に身を包んだ少年少女たちが背筋を正して並ぶその光景は、どこか遠い記憶を呼び起こす。いや、記憶ではない。残響――昨日、仮想再現の中で再び出会った人の、姿。

「……樒矢、教官」

 呟いた名は、もうどこにもいないはずの人間のもの。けれど、あの重たい視線の感触がまだ胸の奥に残っている。
 似たような声が、この場のどこかに交じって聞こえる気さえする。ホログラムを見たせいだと自分に言い聞かせて、汀・コルト(Blue Oath・h07745)は一度だけ目を伏せた。
 義足が人工芝を踏む感触が柔らかい。まるで何もかもが、現実より現実味を欠いているように思えた。
 それでも――今この場所には、守られる側をやめて、“守る側”になろうとする子どもたちがいる。その背中を、彼女は見つめていた。


「本日から訓練プログラムに外部協力者が参加されます!」
 号令と共に、整列していた訓練生たちがざわめいた。誰かが小声で「ほんとに来た……!」と囁くのが聞こえる。

 数歩前に出ると、視線が一斉に集まった。コルトは思わず目線を逸らし、わずかに身体をすぼめる。
「えっと……私は、汀・コルト。よろしく……ね」
 声がわずかに掠れる。
「ごめんね。能力者としての依頼は、今日が初めてなんだ。だから、私も……教わりたいくらいで」

 訓練生たちの中から笑いが起こる。安堵の色も混ざった、やわらかなものだった。
「模擬戦、なんでしょ? それなら、大丈夫かも」
 コルトの背後でlucyとlunaが静かに浮上する。白く丸いドローンたちは青いレンズを光らせ、訓練場の全体をスキャンしていた。

 開始の合図と同時に、複数の訓練生たちが一斉に動き出した。少年のひとりが先陣を切ると、続くようにそれぞれの持ち場から拡散していく。

「lucy、上空から監視。lunaは私の左」
 コルトが指示を出すと、二体のドローンが即座に応じる。白い球体のボディが音もなく空中を滑り、それぞれの青いレンズが訓練生たちの動きを補足。
 彼女自身は地を這うように低く構え、直線的なダッシュを交えて横移動。速さはあくまで「捕まらない」ためのもの。真正面からの勝負は避けつつ、隊列の死角に回り込む。

「Echo Channel、接続開始」
 疑似網膜の裏側で、マシンコードが仄青く走った。指先で弾いた仮想インターフェースが展開され、接続範囲内の訓練生たちに戦術補助信号が送られる。その瞬間、訓練生たちの動きの質が一段階上がった。視線の先を先読みし、手足が一瞬早く反応する。
 ――これは、教えるための戦い。コルトは心にそう言い聞かせながら、lucyの弱出力レーザーで進路を制限し、lunaの展開するホログラム障壁で動線を区切っていく。

 そのときだった。隊列の後方から、一人の訓練生が直線的に駆けてくる。小柄な少女――|紗月《さつき》 アレイ。判断よりも先に身体が動いたのだろう。装備の重さに振り回されながらも、真正面からコルトに向かって突っ込んできた。

「っ、止まって!」
 コルトは即座に間合いを詰め、lunaを側面に滑らせて障壁を展開。進路を塞ぎ、その隙に身体を絡めるようにして取り押さえる。
「……勝機がないのに、突っ込んできたよね? これは訓練だからいいけど、実戦だったら死んじゃうよ」

 少女は押さえ込まれたまま、薄く笑った。
「……うん、でも、何も出来ないのは悔しくて」
 その目に涙はない。ただ、まっすぐに揺らがないものが宿っていた。

 コルトは一瞬、言葉を失った。
(――この子、私に……似てる?)
 紗月を抱えたまま、コルトは静かに息を吐いた。突撃してきた理由は分かる。彼女も嘗てはそうだった。勝てないと分かっていても、走ることを選んでしまう心。

「……私も、やりがちだから。偉そうなこと言えないんだけど」
 少しだけ目を逸らしながら、そう付け加える。少女の力が抜けていく。諦めではなく、安心から。それが伝わったコルトは、ふと、昔の言葉を思い出す。

 ――“生きてこそ学びは残る”

 教官が、何度も繰り返していた口癖。あの重たい声が、今だけ、コルトの中で重なった。
「……自分の命を大事にしてこそ、守りたいものを守れるって。……私の、教官の受け売り」
 手を離す。紗月が起き上がり、小さく頷いた。
「強くなれるように、がんばろう。お互いに」

 コルトの言葉は、決して大きくはない。それでも、確かに届いたようだった。紗月が笑う。その笑顔に、訓練生だった頃の自分を見てしまった気がして、コルトは少しだけ戸惑っていた。


 訓練は無事に終わり、lucyとlunaを呼び戻したコルトは、訓練生たちの拍手に迎えられていた。
 ベンチに腰を下ろしていると、紗月が隣にやってきた。装備を脱ぎ、まだ熱の残る頬に汗が伝っている。

「ね、コルトさん」
 少し遠慮がちな声で、彼女は言った。
「……また、教えて貰ってもいい?」

 コルトは一瞬だけ考えたあと、小さく頷いた。
「……うん」
 それだけだった。でも、紗月は満足そうに目を細める。
 空は今も良く晴れている。眩しすぎるほどの青が、少女たちの姿を柔らかく照らしていた。

薄羽・ヒバリ

 白い訓練用アリーナに、防衛学徒たちの緊張が走る。
 数十名の少年少女が整列し、ざわつく視線が一斉に入口へと向けられる。

「わあ……!」
 その中で、ひと際大きく息を呑む声があった。
 彼女――|八雲 未羽《やくも みう》は、真新しい制服に身を包んだ13歳。その年齢相応な|純真な心《ピュアハート》に、瞬間的にビビっと感情が走り抜ける。

 ――本物の、ヒバリさん。

 ウェーブヘアを揺らしながら、戦場の女神がこちらに歩いてくる。
 白い手袋、ヒールのブーツ、抜かりのない完璧なスタイリング。それでいて、柔らかく微笑んでいる。まるで朝日のように。

「はろはろ~、今日の講師は私、薄羽・ヒバリ! みんなと同じ√ウォーゾーンでバリバリ戦ってる、しごできギャルっ」
 薄羽・ヒバリ(alauda・h00458)のあまりの華やかさに、未羽は反射的に背筋を伸ばす。

「あ、あのっ……ヒバリさん……その、お会いできて……すごく、感激です!」
 小さな声。でも確かな想い。ヒバリは一瞬きょとんとし、すぐに笑顔で手を差し出した。
「ありがと、うれしいな! 名前教えてくれる?」
「未羽、ですっ!」
 同じ空気を感じ取ったのか、握手を交わしたふたりは即座に意気投合するのだった。


「じゃあ、まずは環境のセッティングからね!」
 ヒバリは振り返ると、すらりとした指を宙に伸ばした。指先で軽くタップすれば、そこに現れるは《Key:AIR》。
 宙に浮かぶバーチャルキーボードに、白手袋の指が軽快に踊る。

「訓練するならこれ一択っしょ――|CODE:Reset《コードリセット》!」
 透明な光の波が、彼女の足元を中心に円形に広がっていく。
 地面、壁、空気すらも柔らかく揺らいだ。再構築プロトコルの展開。復元力の増幅領域だ。

「これで、ちょっとくらい転んでもヘーキ! メイクも崩れないし、コーデも無事っ!」
 未羽が思わず小さく笑った瞬間、次のキーストロークが響く。

 “――起動。”
 “レギオン、展開。”

 ミントグリーンの光の粒子が、ヒバリの背後にふわりと舞う。滑らかな曲線のボディを持つ三十余体の小型無人兵器が、軌跡を描いて空へと浮かび上がった。
 ホログラムのように煌めく白い翼を揺らし、彼らはまるで生き物のように風に乗って滑空している。

 「今日はこの子たちが、みんなの相手になるよっ。敵のつもりで、しっかり迎え撃ってね!」
 言い終わると同時、レギオンたちは一斉に旋回し、空中から侵攻ルートをとり始める。

「模擬戦開始! フォーメーションに穴を開けないようにねっ!」
 ヒバリの声が響き、訓練場に緊張と風が走った。

 ==============================
 【模擬戦】薄羽ヒバリ VS 防衛学徒隊訓練生
 ▷世界:√ウォーゾーン
 ▷場所:ノア・シエル訓練用アリーナ
 ▷時刻:昼過ぎ
 ▷使用ルール:実戦準拠
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 風を切って、レギオンたちが滑空する。光を帯びた軌跡が、空に幾筋も重なっては消えていく。
 訓練場は一転して、戦場の空気を帯び始めていた。
 非殺傷レーザーを積んだ模擬敵。とはいえ動きは本物さながら。彼らは一定のアルゴリズムに従って侵攻パターンを繰り返しつつ、隊列に不備があれば即座に切り込んでくる。

「おっとっとっと~、そこ配置ずれてるよ! フォーメーションが崩れると狙われるからねっ!」
 ヒバリの声が響く。けれど、そのトーンは怒鳴るでも命令するでもない。明るくて軽やか。けれど、的確で抜かりない。

「敵機を破壊できなくても大丈夫! 狙いは“センサーカメラ”! 機能停止させられたら、それでもう勝ちだからっ!」
「了解ですっ!」

 未羽の声が跳ねる。小柄な体で、彼女は懸命にステップを踏み、腕に装備されたレーザーユニットを構え直す。
 それでも、慣れない動きに足がもつれて一瞬バランスを崩した。
「きゃっ――」

 すかさずヒバリが飛び込む。
「ナイス回避っ、でもあせらないあせらないっ。一番ダメなのは焦ってミスることっしょ!」
 白い手袋に包まれた手が、軽く未羽の背をぽんと叩いた。その優しさに、未羽は息をのむ。ほんの一瞬だけ、涙が滲みそうになる。

「……はいっ、もう一回、やりますっ!」
 未羽は再び構えた。しっかりと狙いを定めて――放たれた光線がレギオンのセンサー部に命中し、ひとつの機体が白旗を上げて緩やかに降下する。

「ナイスゥ! ちゃんと狙えてたじゃんっ!」
 ヒバリの拍手に、未羽は思わず笑った。それは、憧れの先輩と“並んで戦えた”ことが証明された、たったひとつの成功だった。


 訓練が終わったアリーナには、夕方の光が差し込みはじめていた。
 未羽はまだ、その場を離れずに立ち尽くしている。静かに手のひらを見つめ、訓練中の感触を胸の奥に刻んでいた。

「……あの、ヒバリさん」
 少し戸惑いながら、それでも真剣な声で問いかける。

「私、ヒバリさんに……いつか、追いつけますか?」
 ヒバリは一瞬だけ目を見開き、それから柔らかく笑った。

「きっとなれるよ。今日見てて、そう思ったし!」
 そう言って、彼女は少しだけ空を見上げる。

「それにさ、ノア・シエルって――ほんっと綺麗な街じゃん?」
 未羽もつられて顔を上げる。高層ビルが夕陽を返し、白い花が風に揺れていた。
「これもみんなが、いつも頑張って守ってるから――今日はその頑張り、ちゃんと模擬戦で見せて貰ったもんね!」

 ヒバリの声に未羽の頬が熱くなる。そのまま、ぎゅっと胸の前で拳を握って――
「……ありがとうございます! 私、もっと強くなります!」
 その声は、揺らぐ未来へ向かって確かに放たれた。

レラジェ・リゾルート

 都市郊外、訓練施設併設の広場。防衛学徒隊の少年少女たちが整列していた。
 陽光は高く、空は今も澄んでいる。足元の芝はきれいに手入れされ、列を乱さぬよう彼らは静かに立っている。
 やがて、その広場に姿を現した男──レラジェ・リゾルート(|不殉月《なお死せず》・h07479)は、まるで関心がないとでも言いたげな無表情で歩み寄ると、列の前に立った。

「……ツイていないな。お前たちは」

 声は低く、少し乾いていた。冗談ともつかない口調だったが、誰一人として笑う者はいない。
 レラジェはそれに構わず、ゆっくりと片手を腰に添えた。まるで剣の柄に触れるような、無意識の仕草。
 
「訓練、だそうだな。剣の稽古くらいなら付き合える。基礎から、徹底的にやる。派手な技など期待するな」

 隊列の中で、ひとりの少年がわずかに背筋を伸ばした。
 栗色の髪と淡金の瞳。その眼には緊張よりも使命感の色が濃く滲んでいる。
 レラジェの視線が、ちらりと彼を捉えた。

「名前は?」
「ルーデンス・グラーヴェ。第一班、指導係です」
 芯の通った声はまっすぐで、どこか大人びている。レラジェは小さく頷いた。
「……一番最初に来い」


 訓練は静かに始まった。かけ声もなければ、鼓舞の言葉もない。戦場に於いて、そんなものは雑音に過ぎない。レラジェは木剣を手に、言葉少なに基礎を示す。
 剣の握り方、踏み込みの幅、重心の乗せ方。構え。間合い。足捌き。振り下ろし。受け流し。
 一連の動作はまるで呼吸のように無駄がなかった。飾り気のない、洗練された動作。それらを一つひとつ、理屈ではなく、反復によって身体に刻み込ませる。派手な型はひとつもない。

「地味だと思うか? その通りだ。どれだけ形や上辺だけを真似たところで何の応用もきかなければ、咄嗟の場面に生きることもない」
 訓練生たちは互いに向き合い、ぎこちない動作を繰り返している。失敗も多い。

「……感覚で動くな。感覚に頼るヤツは、戦場で真っ先に獲物になる。構えたその姿勢を三分保て。崩れるなら、マウンテンクライマー30回を6セットだ」
 いくつもの少年少女たちの腕が震える。小柄な子が、額に汗を滲ませながらも耐えているのが見えた。
 その前を通りかかっても、レラジェは何も言わない。ただ、見ている。彼等の大半は凡人だ、ならば律義に健気に血の滲む研鑽を積むしかない。

「お前たちがもしも天才ならば、この程度のことは瞬く間に出来るようになるだろうとも。――斬るな。押し通せ。腕の力に頼るな。全身で“振るえ”」

 その言葉の意味を、本当の意味で理解している者はまだいない。
 けれど一人だけ、その意図に気づきかけている少年がいた。
 彼――ルーデンスは誰よりも集中して、レラジェの動作を見ていた。まばたきの回数さえ惜しむように。

「ルーデンス・グラーヴェ。前に出ろ」
 呼ばれて一歩進み出た少年は、軽く息を整えると木剣を構えた。
「……お前は、守りたい者がいるのか?」

 問われてルーデンスは一瞬きょとんとした顔をして、それから小さく頷いた。
「はい。父が軍人でした。弟がいて、母はずっと家を守ってくれていて……。だから、自分は“倒れちゃいけない”って思ってます」

 淡々と語るその声音の中に、無理やり固めた決意が混じっているのをレラジェは聞き逃さない。
 まるで「泣くのは後にする」とでも言い聞かせているかのような、子どもには早すぎる硬さ。ほんの少し昔の誰かの声に似ていたと感じたのは、気のせいか。
 レラジェは少年の正面に立ち、動作をなぞるように構えた。

「そうか。一本だけ、受けてみろ。受けきれたら合格だ。受けきれなければ、ブルガリアンスクワットを片足30回」
「はい」

 次の瞬間、風が走った。ほんの一歩。ほんの一閃。レラジェの加減された打ち込みは速くも重くもない。だが、“型通りに”繰り出されたその一撃は、何よりも揺るぎがなかった。
 ルーデンスは咄嗟に体勢を整え、踏み込み、一撃を受け止めた。
 甲高く木剣が鳴る。空気が静まり返る。そして、レラジェはゆっくりと一歩引いた。
「――ルーデンス。ひとたび守ると誓ったなら、必ずやその誓いに殉じることを勧めるよ」

 少年は、少しだけ目を見開いた。
「何故、ですか」
「……さあ。想像もできないままでいる方が、幸せなこともある」
 それ以上は言わない。言えば、その言葉が“呪い”になってしまう気がしたのだ。

「次だ。全員、交替しろ。覚えるまでは繰り返す。それが型というものだ」
 訓練生たちの気合の入った返事を聞き、レラジェは思い出したかのように言葉を継ぐ。

「……あぁ、ところでそれとは別に、身体造りは怠るなよ。全ての基礎は健康で強靭な肉体だ」

 プランク。バーピージャンプ。フレンチプレス。ナロープッシュアップ。
 容赦なく次々と告げられる「身体造りの鍛錬メニュー」に、訓練生たちの顔色が曇って行く。
 一方、日差しは高く、空は青い。
 その光の下で、少年たちは繰り返す。何度も、何度でも──生き残るために。


 陽が少し傾き始めた頃、訓練は一区切りを迎えようとしていた。
 最初はばらついていた構えも、いまでは隊列ごとに揃い始めている。
 木剣が交わる音が、速さと鋭さを伴って次々と響く。芝の匂いと汗ばむ気配がほんの少しだけ、彼らを“戦場に近づけた”。

「一本、取ったぞ」
「次は負けない!」

 そんな声がちらほらと聞こえ始める中、ルーデンスは弟と似た顔立ちの少年に水筒を手渡し、ひと言だけ言った。
「重心、もう少し下げて構えてみるといいよ」
「あ、うん。ありがとう……班長!」

 少年が嬉しそうに走り去るのを見送りながら、ルーデンスはふっと表情を緩める。それはレラジェが初めて見た、彼の年相応の顔。

 レラジェは訓練生たちの姿を黙って見つめていた。この場所がいつまでも彼らのものであればいい、とは願わない。
 願った所で、どうしようもない現実の前では無力だという事を知っている。
 ただ彼の目の前に立っていた少年が、守りたいと願い、戦おうとしていた──それだけが、妙に胸に残る。

 やがて訓練を終えた少年たちは、まばらに解散していった。
 水筒の蓋を回しながら、次回の訓練の話をする声。無邪気にふざける笑い声。誰かの弟が、そっと兄の背中を追いかけてきて、肩を叩いて笑う。
 それを眺めながら、レラジェはほんの少し眼を伏せた。

 ――あの男も、弟を大切にしていた。
 兄というより、親友のように。休暇が取れれば真っ先に帰省して、揃って狩りに行き、夜は暖炉の前でワインを空けていた。まるで、互いに世界で最も心を通わせているかのように。
 あの柔らかな横顔と、今日見た少年の横顔が少しだけ重なって見えた。

 似ていない。
 そう思う一方で、似ていると感じた瞬間が確かにあった。レラジェは、唇の奥で苦味を噛締める。

 なぜ、自分はあの少年に目を留めたのだろう。
 なぜ、「誓いに殉じよ」などと口にしてしまったのか。
 伝える資格など自分にはないと、あれほど思っていたのに。

 ――それでも、肯定したかったのだ。誰かを守りたいとまっすぐに言った、その在り方を。
 守りきれず絶望を抱えて戦地を渡る姿と重なる前に、死地へと繋いでしまいたかったのかもしれない。

 肩を並べて歩いていく兄弟の姿が、光の加減で一瞬滲んで見える。

 ふとレラジェは空を見上げた。ノア・シエルの空は変わらず穏やかで、白と青が美しく整っている。
 だが彼の胸の内には、未だ影がひとつ形を成さずに残っていた。

第3章 ボス戦 『ベンジャミン・バーニングバード』


 ――カラン

 小さな手からトマトジュースの缶が転がり落ちた。
 プルタブの外れた缶から溢れた液体は夕日に照らされ、赤黒い染みをアスファルトの上に音もなく拡げていく。

「……あっ」
 子供の声がかすれた。何かを感じたのだろうか。
 それは不意に吹いた風のせいだったのかもしれないし、遠くで地を叩いた低い重音のせいだったのかもしれない。
 日が没し、ノア・シエルの空が橙から薄紫を経て鉄紺色に染まっていく。

 ノア・シエル上空――
 レーダータワーを中心とした巨大な幾何学模様の光輪が、星が出始めた夜空に薄っすらと現れた。

 それは『光子環流式早期警戒陣』。通常は都市の星空に溶け込むような繊細な青の輪。
 だが今それは白に変じ、刺すような輝きを放ち始めていた。

 ――敵性戦力、接近中。

 都市の外縁、既に視認範囲へと侵入したその姿は、まるで悪夢の集合体。
 無人機械群《foxtrot-r4》――4本の脚部はすべて、胴体よりも高い位置に関節を持つ。その蟲めいた容姿と動きは素早く、金属質の駆動音が地を鳴らす。
 個体差こそあれど、いずれも背に旋回機関砲と複数のセンサーアイを装備し、群れとなって進軍する様はまさに“鉄の波”。

 そしてその後方。まるで場違いなほど愛らしい“それ”が、巨大重機の運転席から顔を出す。
「ぼくはベンジャミン・バーニングバード! 雇い主さんから破格の前金を頂いたし、何としても侵攻を成功させなきゃね! ……せっかく、沢山の機械群も貸して貰ったんだからさ」
 何処かに向けてぴょこりと手を振るヒヨコ型マスコット。
 ――然しヤツは気付いていない。天空の警戒陣が反応する前に、正規防衛隊・防衛学徒隊・√能力者の混成部隊が既に打って出ている事に……!

 ==============================
 ■マスターより
 敵の構成は
 ・ベンジャミン・バーニングバード(一応指揮官)
 ・無人機械群《foxtrot-r4》多数(P/S/W全て「射撃」)
 となります。
 指揮官を優先してやっつけても良いですし、無人機械群を蹴散らしても構いません。
 心の向く儘、お気の召す侭に力を振って下さいませ。
 
 なお、二章で分岐Aを選択した方は、訓練生と行動を共にする事が可能。
 また、分岐Bを選択した方は、アルマの戦場情報支援を受けながら戦闘する事が可能です。
継萩・サルトゥーラ
月代・陽介

 ――ザリ、ザリ、ザリ。
 重なる波濤の如く鳴り響く音は、無人機械群《foxtrot-r4》の進軍による歩行音。
 金属質の脚が砕けたアスファルトを踏み締める度に、摩擦と機械油の匂いが空気に漂う。規則正しい歩調。寸分狂わぬ列。どこまでも無言の鉄の波。

 黒い大群の中に、時折見られるアイ・センサーらしき赤い光。銃声は無い。咆哮も無い。ただ黙々と進み続けるその大群は、頭上に広がる満天の星空に反して、不気味な異物感を滲ませている。
 照準機が唸る。旋回砲が淡く火花を散らし、遠方のノア・シエルの仄青い都市光を捉える。蟲のように脚を折りたたみ、また跳ねる。一斉に。まるで一つの意思に従っているかのように。

 一体の機体が、ふと“見回すように”アイセンサーを廻らせた。左隣の個体を二度サーチしてから、ゆっくりと正面に戻す。次の瞬間にはまた整列に戻り、何事もなかったように歩き出す。
 単なるセンサーの同期誤差か、それとも――その機械の中に、何か“残って”いるのか。誰にも解らない。だが、確かにそれは“生者”の仕草に似ていた。

 ――パチン。

 唐突に乾いた音が戦場の背から届いた。空気の裂け目に細波が走るように、足元の地面が微かに軋む。
 最初に崩れたのは、後列の一体だった。四脚のうち一本が不自然に浮き、姿勢を崩す。機械関節に伝わる僅かな共振。それは連鎖のように隣接個体へ伝播し、静かだった列の一部が一瞬“うねった”。

 更に、二度目の破裂音。見えない中心から、同心円状に拡がる不可視の震え――。
 異常を感知した何機かが自動で旋回砲を動かし、背後を振り返る。だが素早く駆けるその影は、量産型のセンサーではとてもでは無いが捉えきれない。

「ちょっとした隠し芸ってやつだな」
 暗がりの影を踏み抜き、月代・陽介不変バケラー・h03146)が路面に軽やかに着地する。その周辺では、無人機械が相も変わらず振動に囚われている。

 そこへ――ドン! と空気が弾けた。
 陽介が投じた破裂音の中に、もう一つの咆哮が混ざる。それは明確な意志を持った轟き――ソードオフショットガンの、至近距離からの一撃。

「いっちょハデにいこうやァ!!」
 風雲急を告げるが如し。まるでゲリラの大嵐めいて、緋色の弾丸が無人機の背に容赦なく降り注いだ。砲塔が、脚部が、小さな頭部パーツが次々に吹き飛んで爆散する。

 彼の名は継萩・サルトゥーラ(|百屍夜行《パッチワークパレード・マーチ》・h01201)。
 一度は停止した肉体でありながら、まるで生きることに飽き足らぬ少年のように、無邪気に“戦場”という遊技場を駆ける。
 だが遊びでは済まされない。サルトゥーラの放った一撃が外れた地点には、直ちに警告音が鳴り響く。濁ったサイレンが“危険地帯”の存在を告げ、味方識別信号すら撹乱するジャミングを生む。

 機械群は困惑する。彼らは喋らない。だが、確かに“揺らいだ”。
 それは陽介のフィンガースナップによる震動と、サルトゥーラの散弾による混乱が、あまりに無秩序に重なり合ったせいだ。
 通信ラグが発生し、旋回砲が味方を誤認しかける。フォーメーションが乱れて照準が揺らぎつつも、返礼とばかりに数体が機関砲から一斉に火を噴き始め――その一角に、再び赤い閃光が走る。

「まぁ焦んなや。楽しいのはこれからだ」
 キィン! と澄音を響かせ排出した空薬莢が地に落ちる前に、彼のソードオフショットガンが二発目を撃ち込んだ。敵機の脚部が爆ぜ、爆炎と共に地面が抉り穿たれる。

 その傍らで、陽介は何体目かの機械兵の頭上を踏み越え、くるりと一回転しながら身を翻す。
「敵さんよ、悪いな。今日はこっちが先手ってことでさ」
 フィンガースナップが再び鳴る。一拍置いて――ズゥゥン!!
 足元の大地が悲鳴を上げるように、轟音と共に局地的な“地鳴り”が爆ぜた。敵の機体が異常を検知する前に片脚が滑る。サスペンションが揺れを吸収しきれず、地割れに脚部を取られ、堪らず無人兵器が次々と膝を折る。隊列が崩れる。同期回路の誤差、照準ユニットのズレ、砲塔の慣性エラー。

 その群れの中で、一際動きが遅い個体が一体、立ち止まった。
 アイセンサーが二度点滅した。小刻みに揺れながら、ほんのわずかに“見回す”。左、右、そしてまた正面へ。
 周囲の機体を視認しているような、或いは“何か”を探しているようにも見える。

 同期誤差か、スキャンエラーか――
 突如、傍らの個体が爆ぜる。サルトゥーラの一撃が装甲を貫き、炎と油が飛び散っていく。
 その個体は逃げなかった。動きもしなかった。赤く光るセンサーの奥で、何かが「考えて」いるような錯覚だけが残る。
 言葉はない。意志の発露もない。ただ、そう“見えただけ”。


「え、ちょっと!? おかしいでしょコレは!!」
 巨大重機のコックピットから身を乗り出したのは、雛型マスコット然とした黄色いヒヨコの姿――ベンジャミン・バーニングバードである。

「空の円環が光って三分と経たずに敵襲!? 何それ早すぎるんですけど!? ねえ、君たち聞いてる!?」
 応答は無い。何せ彼の指揮下にあるのは、喋らない無人兵器の大群なのだから。

 砕けた地面、跳ね上がる破片。機械群の一角が爆ぜ、旋回砲がぐらつく。その向こう、宙を舞いながら指を鳴らす青年と、ショットガン片手に笑う死者がいた。
「背後は味方の“安全地帯”って設定でしょ!? なんで爆発してるのさッ!!?」

 ベンジャミンはわかっていない。
 今この瞬間、自身の周囲が“既に狩場と化している”ことを――。


「サボリの暇潰しに戦闘と聞いて駆けつけてみたが、やっぱ気分がイイもんだ」
 跳ね飛んだ薬莢が弧を描き、サルトゥーラは一体のfoxtrot-r4を背中から踏み砕くように飛び越えた。足元で火花を散らす機体を振り返ることもなく、すぐ次の弾を装填する。

 その横を風のようにすり抜ける影――陽介が空中から空中へ、敵機の砲塔を蹴って跳び移る。
「ん~……数はまだまだってとこだけど。ま、楽しいのはこれからだろ!」
 指を鳴らす。激震が再び周囲に拡がり、foxtrot群の照準がばらつく。その一瞬の隙を突くように、サルトゥーラが撃つ。撃つ。撃ちまくる。

 ――だがそれは、決して“無秩序”では無い。
 二人の動きは呼吸のように合っていた。まるで何度も共闘を重ねたかのような連携。しかし互いに名乗る気配もない。
 ただ、“前に敵がいる”。それだけで充分だ。

 夜の帳と混乱の震えは、都市ノア・シエルの防衛網へと波紋のように伝わっていく。
 それは戦場という巨大な舞台の、ほんの“始まりの一角”にすぎなかった。

レラジェ・リゾルート
瀬条・兎比良
花喰・小鳥
式凪・朔夜
クラウス・イーザリー
オメガ・毒島
八手・真人
薄羽・ヒバリ
飛鳥井・合歓
桂木・伊澄
アデドラ・ドール
汀・コルト
レナ・マイヤー
十・十


 市街地の外れ。資材集積所跡地の片隅に、その巨大車両は在った。かの《博士》の手により開発されし――オメガ・トラック(ノア・シエル仕様)である。

「わァ、オメガ・トラック……! 乗ってみたかったんです、エヘヘ」
 ごとん。重たい車体のドアを慎重に開け、八手・真人(当代・蛸神の依代・h00758)は助手席へと滑り込む。思ったよりも近未来的で、思った通りにボタンが多い。
「アルマさんの報告によると、敵は都市縁辺部に接近している様子。――急ぎましょう」

 オメガ・毒島(サイボーグメガちゃん・h06434)は|キーを捻り、エンジンを始動。高らかにエキゾースト音を響かせるV12気筒水素エンジン。補機のガスタービンが副旋律を奏でつつ、スロットルが開放される《フハハハハ、キーイグニッションこそ我が浪漫! なにプッシュスタート? 無粋ッ!! 搭乗者が金属キーを挿し、シリンダーを回して意志を伝え、点火プラグの火花を以て機械がその意志に応える、この一連の儀礼の素晴らしさが以下略》。
「発進します。シートベルトは――まあ、意味があるといいのですが」
 車体が地を蹴った瞬間、吹き抜ける加速度に真人は思わず|手を突く《ポチッとな》。

「このボタン……なんの……?」
「真人、そこら辺のスイッチは押さないように気をつけ――」

 \オーメガ!オメガ!オーメガ!傑作♪/

 時既に遅し。どこかズレたテンポの電子音と共に、流れる謎のテーマソングが戦場に鳴り響く。
 \オーメガ!オメガは毒島製♪/「押すなと言ったでしょう!」「アッ、アッ、スミマセンッ!!」

 \斬新センスで設計! オメガッ♪/『な、何ですかこの音楽……ッ?!』
 ナビ画面に現れたアルマも、第一声がコレである。

 \大門なんかじゃ作れん! オメガッ♪/「音楽はアレですが、この車両も博士の発明品。急げば間に合う筈です」

『最短ルートでしたら、直進した先の』
「オメガ・ハンドル捌きは高性能!……いけるッ!」

 アルマの言葉を待たず、オメガはアクセルをベタ踏み。爆発的な吹け上がりは、「ィン゚ッ👼」瞬く間にたった一名の生身の同乗者の意識を刈り取った。
『こっ(加速度センサに叩き込まれるGに耐える)……交差点を――』

「いけない」残像と化して遥か後方に消える交差点。
『あ゛ーー!! さっきのを右でしたーー!!』

 オメガ・トラックは交通法規なぞ何処吹く風。標識を圧し折り、ゲートをブチ破ってノア・シエルの外へと躍り出た!

 \オーメガ!オメガ最高水準♪/ まばらに点在する|無人機械群《foxtrot-r4》の注意を大音量の音楽で引き付け。
 \今すぐ狙えるノーベル賞♪/ 行軍中の機械兵が「?」マークを浮かべる間もなくベキバキと轢き潰し、尚もオメガ・トラックは疾走する。

「ウワーッ、メガくん運転荒いッッッ!!」
『好ましくない運転手さんですーーッ』
 アルマと息を吹き返した真人による絶叫を伴って、オメガ・トラックはノア・シエルの外縁部、戦場へと突入していく。
 ――それはまるで都市の静寂を引き裂く、戦闘開始の合図だった。



 都市を包む夜の帳。その上に広がるのは、音もなく瞬く星の海。
 だが静寂の風景の裏で、レナ・マイヤー(設計された子供・h00030)の視界には――いや、彼女の思考そのものには、既に“戦場”が展開されつつあった。

 レギオンネットワークに流れ込む大量の信号。
 エネルギー情報、現在位置、速度違反車両の警告まで――冗談みたいに雑多な情報が、思念層を流れていく。

「はいはい、そこは無視で大丈夫ですー」

 冗談めかして口にしながら、レナは必要な情報だけを瞬時に切り分けていく。合歓から届いた敵戦力の展開情報、アルマが共有してくる兵站線・補給状況・部隊消耗率――。
 それら全てが、彼女の脳内でひとつの戦術地図として繋がっていく。

「……地上に居ながら全戦域を掌握できる、さながら私は|AWACS《空の目》って訳ですね!」

 満足げな笑みとともに、レナは腕をひと振り。
 その動作に応じ、既に戦域の上空に展開していたレギオン・マザーの格納区画が音もなく開く。

『え、えっと! レギオンマーチ、起動準備完了。リンク状態、安定しています!』
「了解でーす。それじゃ、行きますよみんな――」
 アルマとの軽妙なやり取りを一つ。思念と共鳴するように、マザーからレギオンたちが一斉に発艦する。

「レギオンマーチ、展開。全域支援、開始します!」

 レナの号令に呼応し、レギオン各部隊は揃いの青い光跡を、夜空に鋭く曳きながら戦域へと向かう。

 大気を切り裂くように先頭を切ったのは、アビエイター隊。
 後続にはガード隊とキャプター隊が連なり、上下左右に散開しながら多層展開を開始。
 続いてミサイリア隊が次々にバレルロールを描きながら戦域に突入、トランスポーター隊が高空にて散開する。

 星空を縫うように整然と動くその編隊はまさに――戦術の楽隊。
 舞い踊るような機動の美しさが、冷たい星の光と共鳴し、戦場に幻想のような光景を描き出していた。

「トランスポーター隊、戦域座標C9Xに急行。補給カートリッジ、全投下OKです!」
 わずか数秒後、ネットワークを通して届いた誰かの声が耳を掠める。
 ザザッ……《ナイスタイミング、補給カートリッジありがと!》
 感謝の言葉に気分の高揚を感じると共に、頬を緩ませ――ピシャリ! と両手でその頬を軽く叩き、気を引き締めるレナ。

「アビエイター隊、陽動開始。高度維持は300、2分も稼げれば充分です! ガード隊、2秒で100m後退――ミサイリア隊、|RIFLE《対地ミサイル発射》!」
 レナの指示が思念ネットワークを介して全レギオンに伝わるたび、戦場の拮抗状態に追い風が吹く。
 あらゆる混沌を制御し、流れを整理し、命令ひとつで不利な戦況をひっくり返していく。

 地図の上の兵棋ではない。もし敵の|無人機械群《foxtrot-r4》たちに意思があったなら、さぞや恐怖に駆られていただろう。――空から睨まれている、と!

 高速機動のアビエイター隊が、敵編隊の前方を機関砲で斜めに切り裂く。
 視覚センサーが捉えた数十体の機械兵に幻影のような航跡を残して翻弄し、反応速度を狂わせていく。

「キャプター隊、足元に粘着弾展開! 敵側の反撃を予測、ガード隊はその前面をバリアで遮断!」
 瞬時に投下される粘着弾。敵部隊の進行速度が鈍ると同時、防衛隊に向けて火を噴く敵の機関砲。しかしそれすら、レナの予測の域を出ない!

 ガガガガガ!!

 瞬時にバリアが展開され、銃弾が爆ぜる凄まじい音を響かせる!

「ミサイリア隊は逐次左八点、一斉回頭――」
 統率の取れた一斉転回、レギオンの照準がピタリと敵部隊に重なり。

「|RIFLE《対地誘導ミサイル、発射》!」
 放たれた流星の群れが、獰猛な速度で夜空を疾駆する。着弾し爆発する焔に照らされながら、機械群の戦線が押し返されて行く――!

「まだまだいけますよー、レギオンたち!」
 少女の明るい声に、無数の光が応じた。



 ――銃声が、風を裂く。

 ノア・シエル外縁部。都市を囲むように広がる草地に、鋼の足音が響く。
 押し寄せる|無人機械群《foxtrot-r4》が、まるで津波のように訓練生たちを呑み込もうとしていた。初の実戦に防衛線は崩れかけ、未熟な指の震えが引き金を凍り付かせている。

 その瞬間、通信機越しに響いたのは凛とした声だった。
『落ち着いて、深呼吸を。訓練を思い出して』
 それは誰よりも冷静に、誰よりも“戦場を知っている”声音だった。直後、夜闇から草地を踏みしめて現れた人影が二つ。
 花喰・小鳥(夢渡りのフリージア・h01076)、そして瀬条・兎比良(|善き歩行者《ベナンダンティ》・h01749)だ。
 訓練場で「生き残る手段」を語った二人が、いま現実の死地に降り立った。

 兎比良は一歩、前に出る。短く息を吸い、端末のインカムへ通話接続を切り替え。
『白神さんは北東側を補佐に。蓬原さんは前に出ず、狙撃地点へ。距離を維持しつつ射線を確保。ルチルさん、貴方は小鳥さんに続きなさい』

 淡々と、迷いのない声が刻まれていく。
 訓練生たちの動きを確りと見ていた彼だからこそ出せる、これ以上無いほどの的確な指示。誰もがそこに乗りたくなるだけの「安定」があった。
 更に彼は瞑目し、己の内面へ手を伸ばす。その腕は、一冊の本をそっと手に取った。


 ― |必中。其れは概念の書換えでは無い 《表紙が開く。頁が躍り、物語が紡がれる》―


 チェス盤上の敵は、一歩毎に何かを代価として喪う。
 一歩目は記憶を落とし。二歩目には、名前を忘れ。三歩目には、此処に居る理由さえも崩れ去る。
 即ち、|唖然とした棒立ち《外す方が難しい》。

 空間が軋む。地面はマス目に割れ、その隙間から嘗て敗れた物語の残骸が這い出す。
 駒となった彼らに口が有ったのなら、屹度こう叫ぶだろう。
「これは夢だ」「これは虚構だ」
 然し皮肉にも、叫ぶその声こそが物語の台詞。赤き王は眠り続ける。紡がれ続けるは、夢そのもの。
 
 ならば問おう――
「あなたは、誰の夢の中にいるのか?」

 この瞬間より、敵の機械群は正体不明瞭な脅威から、読み解かれるモノへと成り下がった。
「君たちの動きは、無意味じゃない。私が繋げる。だから、進みなさい」
 兎比良の声が、訓練生たちの震えを和らげていく。

 地が割れ、夢が満ちる。ならば、その隙を衝くのは現実の銃火だ。

「援護は任せます」
 インカム越しに兎比良へ告げると、小鳥は僅かに息を吸い、そして走り出した。
 敵陣へ最短距離で突き進む。|死棘《スティンガー》の発砲が真っ直ぐに機械兵を射抜いたのと同時に、周囲の敵が一斉に機関砲の銃口を向ける。

「真宙、ルチル、湊! 援護射撃!」
 高らかな声が野戦の空を裂くと同時、背後から閃光が走った。
 射撃を行う訓練生たちには、小鳥が教えた“両手の構え”が確りと刻まれているようだ。

 そして機械共に嗅覚があったのなら、彼女から|花纏《アティレ》――フリージアの香りが立ち昇っている事に気付けたろうか。
 小鳥は訓練生たちの盾のみにあらず。彼等に注意が向かぬよう惹き付ける、囮である。

 跳躍、着地と同時に己の外腿に注射筒を突き立てる。|興奮剤《エクスィテ》の軽度|過剰投与《オーバードーズ》。
「狂え、夜深きものどもに」
 薬物の影響で時間間隔が間延びする中、小鳥が構えるのは自動小銃・|黒薔薇《セイブザクイーン》。敵の銃弾に自らの発砲を合わせて相殺、更にトリガーを引き絞った。

 薔薇薇薇薇薇薇薇薇薇薇薇!! 一瞬にして咲き誇る黒薔薇の園! 敵の銃弾は届かず、届く前に薔薇が咲く。反撃で打ち抜かれた|機械歩兵《foxtrot-r4》共が、黒い薔薇を咲かせて次々と斃れていく!
 掠り傷の痛みは高揚を齎す程度の快楽に転じ、視界と感覚がクリアに研ぎ澄まされる。
 黒薔薇は防弾の盾となり、彼女の正確な反撃は、まるでそれ自体が“防御”のように敵を削っていく。ジャストガード、即反撃。機械の群れが咆哮しながら襲いかかるも、小鳥の動きに乱れは無い。

「兎比良さん!」

 囮の役目は果たした。彼女の声が届くと同時、盤面は再び動き出す。――戦場に“意志”の連鎖が走った。
 兎比良は即座に敵の動線を読む。小鳥が開いた隙、その先に射線を重ねる。チェス盤の上、駒の進路を読み切るように、狙撃と制圧の座標が鮮やかに塗り変わる。
 そしてまた、背後から迫る自律型歩兵の照準が、確かに兎比良を捉えていた。だが、彼は微動だにしない。

 ――白神さん、貴方に任せます。

 通信はない。だが真宙は気づいていた。
 照準の気配に応じ、脇を滑るように移動し、即座に射撃。銃声一閃、兎比良の死角に現れた敵を仕留める。

 すかさずルチルがその横から別角度をカバー、即応射撃が立て続けに三発!
 更にそれを撃とうとした敵を、今度は湊が高所から撃ち抜いた。狙撃弾が鮮やかに敵の装甲を貫通、三人の連携は寸分の狂いも無い――!

 自らが撃ち抜いた、小隊指令級の無人機械兵が小爆発を起こして停止する。然しその様子には目もくれず、兎比良は無言のまま彼らの動きを視線で追う。その眼差しは評価でも指示でもなく、ただ“見届けて”いた。
 小鳥もまた笑みを深め、インカムをそっと切る。

「大丈夫。彼ら、動けるようになっています」

 彼女たちは試したのだ。敵の照準に気づいた上で――
 訓練生たちが、“判断できる”かを。

 答えは、行動で返ってきた。

 銃声が一段落し、黒薔薇の銃口が静かに下を向く。小鳥は振り返り、戦場に立つ訓練生たちを見渡した。
 真宙が息を整えながら膝をつき、ルチルが彼の肩をぽんと叩く。湊は高所で一人胸を撫で下ろしていた。誰も倒れていない。誰一人、死なせなかった。

 小鳥が兎比良の隣に立つ。
 彼女は微笑む。まるで、ほんの少し前まで敵の群れを押し返していたことなど忘れたように。

「……こうして、少しずつ前に進んでいくんですね」
 その言葉は訓練生たちに向けたものか、それとも彼女自身の内面か。兎比良は頷き、かすかに空を仰ぐ。

 この戦火の夜に決着がつくまで、後少し――。



 満天の星空に、白く鋭い警告サインが浮かんでいる。都市上空――光子環流式早期警戒陣。ノア・シエルの空が、戦場に切り替わる合図だった。
 しかし、薄羽・ヒバリ(alauda・h00458)の声の調子は普段と何ら変わらない。

「も~、緊張しないで大丈夫っ!」
 隣に並ぶ未羽の肩に、ぽんと手を置く。

「さっきの模擬戦でも、バッチリセンサー狙えてたっしょ? しかも今回の敵、反重力装置が付いてないから飛ばないの。――つまり、私達なら楽勝ってこと!」
「……はいっ!」
 未羽が緊張を抱えたまま、それでも小さく頷くのを確認して、ヒバリはくるっと一度身を翻す。
「行こっ、未羽っ。スポットライトが呼んでるよ!」

 迫り来るのは、鉄の群れ。
 |無人機械群《foxtrot-r4》――全身を黒い装甲で覆った四脚機。無数が隊列を崩さぬまま、地を這うように押し寄せてくる。
 一体一体は小型で、機動力も高くはない。けれど、それが「数百」も居るなんて聞いてないし。

 ヒバリは目を細めた。戦線は維持されている。未羽も他の訓練生も踏ん張っている。けれど、今――正直言って、めっちゃ萎えぽよ。
「もうマジでない、ちょー数いるじゃん……」

 ぱちん、とネイルを弾くように、ヒバリはキーボードを叩いた。
 Key:AIRが光を纏い、彼女の指先に反応する。
 スラリとしたネイルの先がホログラムを叩くたび、エメラルドの残光が軌跡を描いた。打ち込む指示は――|CODE:Blast《コードブラスト》。

「しょーがない、バイブス上げてこっ!」

 命令と共に、空が動いた。
 30体を超えるレギオンが同時展開する。薄いミントグリーンのボディに、ホログラムで再現された白い小さな翼。
 機体ごとに異なる軌道を描きながら、夜空を妖精のように舞う。

 光を引き、音すら置いていくように――妖精めいた機体が美しい軌跡を描くのは、強烈な爆撃の前座。
 エネルギーの追加チャージを終え、青白く輝く爆破属性の弾丸を、敵機械群の密集地帯へ雨霰と叩き込む。

 次の瞬間――地獄が、咲いた。
 爆風が連鎖し、黒鉄の脚が空を跳ね、頭部ユニットが吹き飛び、エネルギー反応が纏めて沈黙していく。

「っし、決まった!」

 破壊だけでは終わらない。爆風の余波は味方陣へと流れ込み、追い風のような形で未羽たちの戦闘力を押し上げる。
 反応速度が一段階引き上げられたように、動きが加速。直感で理解した少女は軽やかにステップを切ると、迷いなく最前線へと踊り込む。
 風のように駆け、レーザーユニットで次々に敵機械兵を撃ち抜く、撃ち抜く、撃ち抜く!

「よし、ナイス追い風! 未羽、ちょーイケてたっ!」
 ヒバリの笑顔が、夜空の下で一層きらめいた。――ところが、だ。

「えっ、ヤバ……!」
 一体の撃ち漏らし。左側の遮蔽物を回り込んで、無人機兵の一体が這い寄ってくる。
 黒い装甲。赤く光るセンサーアイ。距離、あと五十メートル。撃てない。レギオンのエネルギーゲージは目下赤点滅中。咄嗟に未羽がレーザーユニットの照準を合わせ、トリガーを引いた!

 |カ チ ン 《エネルギー切れの音》。

「「ウソ、今それはアウトなやつ(です)――!」」

 ヒバリと未羽の絶叫が美しくハモる。――と、そこへ。
《|Target point C9X reached. Supply drop incoming.《C9X到達、補給物資を投下。》》
 別の場所から全域支援を担っている、レナの配下にある“レギオン・トランスポーター”が上空を通過。ヒバリの足元に補給カートリッジが落着する。
 中身は――残弾とエネルギーパック。一つを未羽に素早く放ると同時、レギオンの装填ハッチが自動で開き、補給ユニットが滑り込む。

「助かった、マジで今ヤバかった……ナイスタイミング、補給カートリッジありがと!」

 飛び去っていくレギオンに伝えながら、ヒバリは指を弾く。Key:AIRが再び点灯し、ヒバリのレギオンの一体が軌道を変える。
 直後、未羽の狙撃とシンクロするかのように、敵機の側面を貫いて爆散させるのだった。



 遠く、最端の戦域で閃光が見えた。一拍遅れて遠雷めいた音と共に、空気が微かに揺れる。
 敵機械群に向けて黒い暴虐の嵐が吹き荒れているかの如く、その周囲は一段と闇に沈んているように見えた。

 街は静かだった。けれど、それはただの穏やかさではない。
 ――静けさは、いつだって始まりの兆しだ。

「いきなり実戦になってしまうけど……大丈夫だよ、落ち着いて行動してね」
 クラウス・イーザリー(希望を忘れた兵士・h05015)の声は、夜風の中でもよく通った。
 訓練生たちは装備の最終チェックを終え、緊張した面持ちで小さく頷く。その中に航の姿もあった。握る銃がまだ手に馴染まないのかグリップを何度か握り直していたが、視線は確りと前を向いていた。

 クラウスは一人、ガシャリと重い音を立ててレイン砲台を設置する。
「――お膳立ては、任せておいて」
 自分自身に小さく呟く言葉が、嘗ての親友の言葉と重なった。

 やがて地鳴りのような駆動音が、遠くから忍び寄ってきた。
 四肢を逆関節に折り畳んだ蟲のような影が、路面を這うように接近してくる。|無人機械群《foxtrot-r4》。
 その数は、視認できるだけで数十体。旋回砲塔がゆるやかに、しかし確実にこちらを捉えようとしていた。

「来るよ、構えて」
 クラウスの声に、訓練生たちが一斉に頷く。陣形は広げてある。だが、初めての実戦に足を竦ませている子もいた。

 機関砲の銃声が夜を裂いた。

 敵の第一射。
 訓練生の一人が無理に回避し、脚がもつれるように崩れかけた――その前に、クラウスの影が飛び込む。
 咄嗟に展開したエネルギーバリアが、閃光を弾いた。砕ける光の残滓が、二人を包む。

「大丈夫。下がって、吸って、吐いて。……落ち着いて」
 全く動揺を見せない、クラウスの落ち着いた声音。数多の激戦を潜り抜けた者が纏う、絶対の安心感。
 訓練生が落ち着きを取り戻したのを確認し、クラウスは再び前を向く。すでに敵は間合いに入っていた。
 彼は静かに、左腕の端末から起動コードを打ち込んだ。|信号《祈り》が飛ぶ――親友の形見の砲台へ。

「レイン、展開」

 風が止んだような錯覚とともに、空気の密度が変わる。
 上空、光子環流式警戒陣の輪郭のすぐ下に、うっすらと円形の照準が広がった。

 ――陽の没した星空から、|蒼い蒼い雨《砕け散った希望》が降る。

 そこから放たれるのは、雨のような光。決戦気象兵器「レイン」が、宙を裂いて降り注ぐ。
 無数のレーザーが規則正しく、静かに地上を撫でて行く。雨音のように、けれど金属を焼く音をともなって、機械群の装甲を削り、関節を熱で変形させていった。
 どれだけ硬質でも、精密でも、この“雨”の前には、ただただ晒され続けるしかない。

「今だよ。よく狙って」
 クラウスの声が、夜の空気を割った。
 航が引き金を絞る。ぎこちない動作のまま、それでも必死に照準を合わせ――発砲。
 敵機のセンサーアイに、弾丸が吸い込まれるように突き刺さった。機械兵の駆動音が止まる。仰け反るようにして、蟲型の機械が崩れ落ちる。

「やった……!」

 隣で誰かが小さく声をあげる。
 引き金を引いた航の手が微かに震えたまま、それでも彼は、しっかりと敵を見据えていた。

 次々と、訓練生たちが呼吸を合わせるようにして攻撃を開始する。
 レインによって削がれた外殻に、彼らの銃弾が吸い込まれていく。命中音が重なり、火花が散るたび、クラウスの胸にふっと灯るものがあった。

 これは、あの時の――親友の声とともに、レインが空を覆ったあの日の光景だ。
 今はそれを別の誰かに“繋ぐ”番なのだと、静かに理解していた。

 撃破された機械群の残骸からは、煙が細く立ちのぼり、それは夜風に流されて消えていく。
 訓練生たちは互いの無事を確かめ合いながら、小さな達成感と、名残惜しさに似た沈黙を共有していた。

 その輪の外、クラウスは一歩だけ下がって彼らを見つめていた。
 拳銃を静かに下ろし、深く、息を吐く。
 レインの照準痕はすでに空に消え、残るのは、星と、光子環流陣の輝きだけ。

 「……よくやったね」

 その声は風の音に溶けて、今も戦闘が続く場所へと揺蕩っていく。
 仲間たちの、この街を守る人々の、快勝を祈るように。



 夜の空に、幾何学模様が浮かんでいた。
 都市上空を取り巻く白い光輪――早期警戒陣。それはまるで、星座を模した封印のようにも見える。
 静けさは緊張の裏返しだと、汀・コルト(Blue Oath・h07745)は知っていた。その沈黙を破ったのは、すぐ横を歩く訓練生の小さな吐息だった。

「……不安、だよね」
 コルトは立ち止まり、静かに言葉を投げかける。
「分かるよ。でも、大丈夫。私がフォローするから」

 振り返った少女――紗月が、小さくうなずいた。その仕草に、戦う理由がまた一つ、胸に灯る。
 だから、進める。星の下に広がる都市の夜へ、仲間と共に。

「lucy、luna、展開。……位置、ここで固定」
 淡く光る二体のドローンが、コルトの傍を離れて上昇した。

「味方ユニット、リンク範囲内。Echo Channel、」

 =================================
  VIRTUAL-SYNAPSE ONLINE:0
  NEURAL LOAD:🔷🔷🔷🔷🔷🔷🔷🔷(4%)
  STATUS:《-DISCONNECTED-》
 =================================

 “ブンッ”と、宙に半透明の仮想インターフェースが展開。

「接続――」
 仮想の軸索が青く編まれ、不可触の糸となって味方全員の回路網を繋ぐように伸び、

「開始!」

 =================================
  VIRTUAL-SYNAPSE ONLINE:24
  NEURAL LOAD:🔷🔷🔷🔶🔶🔶🔶🔶(68%)
  STATUS:《-UTILIZATION HIGH-》
 =================================

 接続と同時、疑似網膜の裏側で戦術演算回路が|勢いよく廻る《スパークする》。

「――、|痛《つ》ッ」
 訓練時とは比較にならない、実戦での本格的なリソース投入。高負荷による、|sphere《義眼》の奥がチリチリと灼けるような鈍痛。その代償と引き換えに得たものは――

 訓練生たちの脳裏に流れ込む、次に動くべき方向。敵の影の位置。感覚が伝わる。身体が反応する。
「コルトさんが支えてくれてる――みんな、行くよ!」
 |紗月《さつき》 アレイの声を皮切りに陣形を展開し、戦闘を開始する訓練生たちの姿。動きの精度と判断力が底上げされ、今や正規防衛隊に追い付かんばかりの戦力を見せている。

(……大丈夫、私にはできる)
 自分を鼓舞し、冷静に戦況を俯瞰&把握する。

 郊外の道路沿いに、鋼の群れがうねるように現れた。背に旋回砲を抱えた|無人機械群《foxtrot-r4》。足音が地を叩き、駆動の金属音が波濤のように響く。

「R-saturn、展開」
 声に合わせ、スピーカー型レギオンが宙を滑るように前進。凝縮された指向性の超音波が解き放たれ、機械群の装甲に振動亀裂が大量に走る。
 間髪入れず、
「R-jupiter、射線クリア。行って」
 青い多重プリズムが回転し、光束が複数に分岐して敵陣を無差別に薙いだ。着弾した個体が膝を折り、続く爆光が退路を遮断。

 コルトの瞳が夜光にわずかに反応して淡く光り、群体の中から弱った個体を選別する。
「敵情報共有。各個撃破、開始して」
 コルトの指示を受け、訓練生たちが陣形を変え、的確に動き始める。彼らの視線は迷わず、手には確信があった。
 軌道を先読みし、反応速度が追いつく。戦闘経験の少なさをEcho Channelが補っている。だが負荷は確実に、こちらに集中していた。

「luna、左斜め後方――障壁、展開」

 淡く青い楯型のホログラムが、訓練生の頭上に咲くように浮かぶ。着弾する敵弾を弾き、爆風の余波を遮断。数秒でも守れば、彼らは立ち直る。
 足元で草が焼ける。目の前では銃火が咆哮する。だが、コルトは位置を崩さない。接続が途切れないよう、立ち位置を常に最適化する。撃ちすぎず、前に出すぎず。自分の役割は――“守る”こと。

 ふいに、後ろから純弾を弾く重い音がした。振り返ると、紗月が肩で息をしながら防弾シールドを掲げている。
「援護、入るよ!」
 無理をして元気な声を出すのが、すぐに分かった。

「ありがと。……助かる」
 コルトは短く礼を言い、再び正面に向き直る。

 lunaがバリアを再生成し、R-jupiterが牽制射撃を放つ。紗月がその隙をカバーするようにシールドを差し出した。
 それは、まだ何も失っていない戦場の姿。誰もが、誰かの背中を守れているという実感の中に確かに立っている。



 黒い影が蠢く。うようよと進軍する有象無象、廃棄場の如く満ち満ちた四ツ足が無数に重なり合う。
 警戒陣からの白い投光に照らされた部分だけが、さっと機械兵共の姿を夜の闇から炙り出す。
 と、そこへ。

「――騒がしい」

 突如大地を抉る黒い爪風が敵の一群を襲う。風に撫でられた脚部が最初は静かに、次いでじわじわと軋み始める。金属音ではない、“崩れる音”──それは死の旋律に他ならない。
 機械兵は敵を見つけようとアイセンサーを上部に伸ばし、

 ――ガクン
 斜めにずり落ちる。脚部損傷――原因となる衝撃の記録、無し。そしてゴロリと天地が逆さになる。頭部脱落――原因となる衝撃の記録、無し。
 やがて白い投光が、その原因を浮き上がらせた。鋼の筐体がジクジクと粟立ち、腐って崩れた機体が、幾つも、幾つも幾つも――!

 その爪風こそレラジェ・リゾルート(|不殉月《なお死せず》・h07479)の√能力が一つ、 |蝕《オシマイ》。悉くを冒し、地の底に葬る腐食の風。然し残念な事に、既に風化し赤錆びた砂と化した機械兵には、その事実を把握する時間は無かったであろう。

 当のレラジェは、やれやれと溜息を付く。こちらの陣容も把握出来ずに正面突破を狙ったのだとしたら。
「慢心したのか、能がないのか。――いや、両方か」
 そんな無謀な正々堂々は死にたがりだけがするべきだ、と機械の骸に目もくれず、彼は後ろを振り返る。
 其処にはルーデンスを先頭に、防衛学徒隊第一班の少年少女たちが緊張の面持ちで展開していた。
 
「さて、お前達、実戦だ。功を焦らずとも無数に敵は居るらしい」
 いや――寧ろ数が多すぎる。まるで在庫処分のようではないか。

 然し何を憂う必要があろうか。戦線の最端。ある意味孤立したその戦域を、彼は敢えて選んだ。
「教えた通りにやってみろ、お前たちはもう戦える」
 味方の支援は望めない。――否。彼が付いているならば、支援など無くとも支障は無い。今宵の空に月は無いが、逝く先を想って薄ら笑いを浮かべる繊月は今正に、ヒトガタを以て此の地に降り立っている。

「――。」
 無造作に腕を振う。草は揺れず、砂も舞わず、音すらない。然しその空間だけが、確かに“腐って”いく。
 風に撫でられた敵機の脚部から、ぴしり、と音がする。 錆ではない。摩耗ではない。何かが“内部から崩れ始めている”ような感触。
 金属の関節が軋み、駆動音が濁る。異常を検知した筈のセンサーが動く間もなく、機体は――崩れ落ちた。

 一機。二機。三機。まるで時間差で“溶ける”かのように、同時多発的に。白い投光が照らす先で、黒く腐食した機体が汚泥のように溶けていく。
 ――レラジェが来るよ。死の国へと連れ去られてしまうよ。
 いつか別の√で語られた戒めの語りが、この√ウォーゾーンに広まるのも時間の問題であろう。

「突出せずにツーマンセルを厳守。落ち着いて行こう、レラジェ教官を落胆させないように!」
 ルーデンスの号令の元、戦闘を開始する少年少女たち。身体の軸がブレていない。初めて会ったときより、確かに“戦える”目をしている。
 然し彼が教えたのは基礎のみ。それだけで敵を仕留めるには後一歩が足りない。――故に。

「それら全てが我が業であるとするならば――」
  静寂が一瞬、戦場を支配した。呪詛めいた言の葉は、今宵の敵共への死刑宣告。その直後―― 一拍置いて吹き荒れる、視界を埋め尽くさんばかりの黒き爪風!
 更には地の底より、枯れ果てた影の腕が幾重にも突き出しては、脆くなった無人機械兵たちを引き千切り、捻り潰し、まるで冥界へと引き擦り込むかの如く|無根《根絶やし》にしていく!

 大幅に数を減らし適度に弱った無人機兵との戦闘を繰り広げ、止めを刺していく少年少女たち。
 鉄とて腐ればその装甲を千切るも能い。機械とて不滅に非ず、孰れ力尽きる命運からは逃れ得ぬ。

「良い風だ。お前達、好機だぞ。東洋には神風だのと言う言葉もあると聞く。かつて絶望を吹き飛ばした、名もなき者たちの祈りの風だ」
 積み上がった実戦経験は、確実に彼等の自信と実力に結びついて行くであろう。
 ふと、ルーデンスの横顔が目に留まる。弟を守る為、命を賭して防衛学徒隊に志願した弱冠14歳の少年。振り向きざまの肩越しの視線に、あの貴公子の残像が一瞬だけ重なって見えた。

 レラジェは静かに駆け出し、更なる敵の増援を迎え撃つ。腐敗の爪風を吹かせ、訓練生たちの相手に丁度良い程度にまで敵の威を削ぎ落とす。
 トドメを刺すのは彼等の仕事、故に
「余計な反抗はしてくれるな。――だが易く死ねるとも思うなよ」
 彼等に勝利を味わわせる為。彼等の“成長”という灯を護る為。影に溶けて夜を渡り、この数多の軍勢相手に余裕を崩さず戦況を整えていく。

 その様子は、正しく一騎当千の単騎夜行。
 万有礼賛から唯一人はぐれた、悪夢を彷徨う不殉月。



 幾つかの無人機が煙を噴き、隊列は混乱の渦中。敵陣営は既に統率を乱していた。そのド真ん中では巨大建機の運転席から身を乗り出し、ヒヨコ型のマスコットが叫んでいる。
 ベンジャミン・バーニングバード。民間軍事会社BBBから派遣された、雇われ傭兵だ。
「おいおいおい、機械バッタ共! いつまで混乱してるのさ、早く隊列を組み直せよ!!」

 その瞬間だった。彼方から爆音と共に飛び込んできたエンジンの咆哮――
 🚚オーメガ!オメガ!オーメガ!傑作♪

「なにアレェ!? 音楽でかッ!!」
 ベンジャミンの動揺をよそに、オメガ・トラックは敵機械群を轢き潰しつつ接近、地面を抉りつつ急制動! 耳を劈くブレーキ音を響かせ90°転回、即座にコンテナハッチがガコンと開いた。

「『蛸神様』……お願い……!」
 助手席から転がり落ちるように飛び出した真人が即座、虚空に呼びかける。
 憑代の請願、神海に通ず。後は顕現出来る濃度まで信仰を高められるか否か――真人の戦いが始まった。

 両腕を左右に伸ばし、ぐるりと振ってはウネウネと揺れる。脚を細かく踏みしめてからの、シュバッと奇妙な跳躍。
 海上で踊る|イカ漁師《十手家キラー》の祝祭めいた動きは、“八手家伝統・蛸神踊り”である。

「アルマさんも踊ってください、信仰でパワーアップするらしいです」
『都市生活支援AIに踊らせるとか、“ぶっちゃけありえなーい”のですが!』
 ステージと化したトラック後部で真人とオメガが、そして大スクリーンでAI・アルマが躍る。……すると。

      海鳴りの――

 真人の肌が総毛立つ。

      音がする――。

 滞留した海藻が陽に膿み、腐っていく時の――酷く暑い夏場の、磯の臭いが鼻を突く。
 と同時、巨大な触腕が機械群を薙ぎ払う。薙ぎ払う、薙ぎ払う、伸縮し捕獲し絡みつき叩きつけ縛り上げ圧壊し投飛ばし、拉げる金属の断末魔と共に散らばる残骸は、其の数二十、四十、七十――尚も増えていく!!
 たこすけでは、無い。それが証拠に並居る触腕はどれもが純白、どれもが巨大。高架の橋脚をも上回る大質量の神威が、気の向く儘に暴れ狂う!!
『こ、これ……市街地で展開されなくて、良かったです……』
 表情を引き攣らせるアルマ。ステージの暗がりでは、壊れた機械の脚部を一口齧り――忌々しそうに放り捨てる“たこすけ”。主役を奪われ、むくれているのだろうか。

「今です。アルマさん、スクリーンを」
『はいっ、切り替えますっ!』
 スクリーンカメラが切り替わる。巨大な触腕と踊り続ける真人がズームアップされた、直後。

「不意打ち・オメガ・ビーム!」
 オメガが指を鳴らすと、戦場の上空から細い無数のレーザーが雨のように降り注ぐ。爆ぜる火花。落ちる機械の残骸――。

「スクリーンに気を取られるからです、ええ」
 戦場の静寂が、またひとつ破られた。



 草の穂が風に揺れていた。ノア・シエル郊外、緩やかな起伏の続く平原地帯。
 その静けさは、機械の行進音によってわずかに振動していた。|無人機械群《foxtrot-r4》が、都市へ向けて進軍してくる。

 迎え撃つ最前列に、ひとりの少女が立っていた。
 艶のある白髪を揺らす風の中、杖を突きながら歩を進める。装束は乱れず、表情は変わらない。

 彼女はただ、進路を塞ぐようにそこにいた。
 侵入してくる機構が、あまりにも騒がしくて、見苦しかっただけのこと。

「……騒がないで。あなたたちには、静かに壊れてもらうわ」

 コツンと、石突が草地の岩を叩く。飛鳥井・合歓(災厄の継承者・h00415)は、薄く目を細めた。
 静かに立ち止まり、指先を軽く掲げる。
 風に紛れるように、一本の繰糸が空間を滑っていった。怪異由来のソレは意志を持つように蛇行し空中でピンと張る。

「No.1767、かき消しなさい」
 ヴェールの下の呟きに呼応し、小さな犬のような気配が走り出す――と、怪異の繰糸は忽ち幻の様に視界から溶け消えてしまった。
 ――糸は伸縮自在。刃にもなり、束縛にもなる。
 合歓の思念に応じ、既に十数本が空間に漂い、枝のように張り巡らされていく。
 彼女が歩くたび、罠は広がり、整えられる。

 それはもはや戦場ではなかった。
 静けさに満ちた、解体のための箱庭。

 合歓は踵を返すことなく、杖を突いてさらに一歩進む。
「まずは……壊れて貰う場所を整えましょうか」

 突風が草を撫でた。視界の奥で、機械群の一部が加速を始める。
 戦闘AIが〈対象〉を認識した証だ。その中心には、体躯の大きな個体──高機動戦型が混ざっている。

「No.1957」
 合歓はそっと煙管を抜き、火を灯した。
 紫煙が舞う。見えない手で梳かれるように、彼女の白髪が風に撫でられた。
 煙が指先に触れる。その瞬間、脈が速まるような熱が走る。血管に乗って、怪異の力が駆け巡る。

「……随分と効くのね」

 白い肌に、わずかな紅が差す。しかしその目は変わらず冷たい。
 機械の足音が迫る。合歓の手元、杖の先が地面からの振動を伝えている。

「始めましょう。あなたたちに逃げ道はないわ」
 隠れた“糸”が、音も無くキリキリと張り詰める。

 整然とした陣形。緻密な火線制御。だが、それはこの戦場において“遅すぎた”。
 ――何もない空間で、唐突に機械の脚が、腕が、砲身が、宙を舞う。

 まるで透明な刃が空に走ったかのように。実際には、No.1957の力で強化された繰糸が、合歓の思念と共に一斉に跳ね上がったのだ。
 草原の風すら真っ二つに切りかねない銀糸は、機械の関節や配線の隙を狙い澱みなく侵入し、無音で断ち切り瓦礫に変える。

 銃声が走る。弾が迫る。だが、半数は空中で力を失い、ふらりと落ちた。切断された弾芯は音もなく転がり、地面に小さな火花を残すだけ。

 「“美しく片付ける”のも、私の役目なのよ」
 呟きとともに、黒いヴェールが風に揺れる。合歓はひとり歩みを止めず、弾丸の雨を抜けて進んでいく。
 敵は未だ、何が起きているのかも理解していない。

 爆炎も、断末魔もない。
 ただ、次々と崩れゆく無人機械群の残骸だけが、静かに草の上へと折り重なっていった。

 何もない空間に踏み込んだだけで、敵は裂かれる。駆動輪は外れ、アイセンサーは砕け、合金の関節は滑らかに切断されていく。
 その度に、合歓の糸は一切の音を立てずに次の場所へと移り、寸分違わず新たな命脈を断つ。
 敵機械群が展開した戦列は、機械仕掛けの城が丁寧に解体されていく現場の様相を呈している。

 平原は最早、怪異めいた斬刑の原と化していた。
 虚空の処刑場――ただ合歓が歩むための、準備された舞台。

 ヴェールの奥の金の瞳に揺らぎはない。
 冷たい風が、白い髪を撫でていく。彼女はただ、杖をついて静かに進む。



「……来たか」
 桂木・伊澄(蒼眼の|超知覚者《サイコメトラー》・h07447)が、眼鏡の奥の視線を鋭くする。式凪・朔夜(影狼憑きの霊能力者・h07051)もまた、その隣で微かに息を呑んだ。

 夜風を切る音が変わる。視界の向こう、都市の外縁をうごめく影。
 甲高い金属音と共に現れたのは、蜘蛛にも似た蟲脚の鋼鉄兵──|無人機械群《foxtrot-r4》。

「っ……!」
 訓練生たちの列に走るざわめき。震える手が未使用の銃器を握りしめる。

「構えるぞ。俺たちが、最前列だ」
 一歩前に出た伊澄が真っ直ぐに告げる。

「朔夜君、準備はいいか? 行くぞ」
 静かに告げるその声は、火蓋を切るための号令。

「ヒヨコ……なんか、気が抜けるな。しかも、かなりふざけてる」
 朔夜は、眼前の光景を見据えながらぽつりと呟く。巨大重機の上で手を振る異様なマスコット、その下には数えきれぬほどの無人兵器群。
 尤も、ふざけているのは姿形だけ。向こうは確実にノア・シエルを“蹂躙する戦力”を携えて現れた。

「……俺も、妹に会わせてもらった場所だから。ちょっと、これは頂けないかな」
 隣で銃弾を撃ち尽くす伊澄の姿。そして、さらにその傍らには、怒りを隠さないアデドラの気配。
 それらを背に受けながら、朔夜は一歩、前へ出た。

「じゃあ……伊澄さん、そっちはお願いします。でも無理は禁物ですからね!」
 手短にそう声をかけた朔夜は、続けて近くの訓練生たちにも目を配る。

「君たちも、慌てないで。俺たちが、ここにいる」
 その言葉が終わると同時に、朔夜は|影狼端末《ルナリンク》に指先を添えた。
 ディスプレイが茫と薄暗く灯る──感応《リンクアップ》良好。
 朔夜の片手に影の霊気が収束し、物理的な威圧感を纏う程に荒狂う。空気が歪み、地面が低く唸った。

「……震えろ。|影牙震波《スピリット・クェイク》!」

 掛け声と共に、霊気を地面に叩きつける――途端、縦横無尽に地を奔る影の稲妻、複数本!
 その稲妻に捉えられたものは、無人機であろうと容赦なく、震度7相当の激震に襲われる。
 堪らず這い蹲る無人機械群。そして当然、巨大重機に乗るベンジャミンも例外ではない。

「ぐっ、うぉおお?! な、なにこれ!? ぼくのスーパーベースがガタついてるんだけど!?」
 騒ぎ立てる司令官をよそに、影の震動は止まらない。

「そう、俺たちをナメるな」
 妹との別離の痛みを握りしめるように、拳を固く結ぶ朔夜。

 入れ替わるように走り出した伊澄は、コートの裾を翻しながら腰のホルスターへと両手を伸ばす。

「降り注ぐ銃弾の雨から――」
 二丁の拳銃が光を放った。狙いもつけぬ|即応の銃撃《クイックドロウ》、疾走する機械群に弾丸が突き刺さる。
 火を噴いて停止する敵機兵を尻目に、更なる指切り三点射。合計6機のセンサーアイが砕け、機体が膝から崩れ落ちた。

「逃れられるかな」
 背後から跳躍してきた鋼脚の影を、伊澄は振り向きもせずに撃ち抜く。
 繋ぐ、即座の|背面撃ち《零距離射撃》にて爆散する無人機兵! 繋ぐ、|フルバースト《牽制射撃》、繋ぐ、繋ぐ、繋ぐ――切れ目なく放たれる.38口径の鉛弾!!

 火線が縦横無尽に走り、夜の星光を模すかのように閃く。その銃声は、訓練生たちの心に確かな輪郭を与えていた。
 不安げに身を竦めていた少年のひとりが前を向く。

「……俺たちも、やれるはずだよな」
「うん……うん!」
 小さく頷いた雛乃が、安全装置を外した。

「俺達人間を、甘くみるんじゃない……!」
 伊澄の声が戦場に響く。何百という無人の兵器が迫る中、ただ一人、銃口を下げることなく立ち続ける背中。
 それは恐れでも、怒りでもなく──静かに燃える“意志”の形。

 影牙震波が地を這い、夜空の下に広がった機械群が次々と膝をつく。鋼鉄の脚が砕け、前線に隙が生まれる。

「……い、今だ、押せるぞ……!」
 誰かの声に、訓練生たちが反応する。だが──体が動かない。手の中の銃が重く、足が床に縫い付けられたよう。
 その中で雛乃が小さく拳を握った。

「……こ、怖くないって言ったのに。ぜんぜん、だめじゃん……私」
 震える声に、朔夜が振り返る。彼女の頬に、涙が一筋だけ流れていた。

「怖いのは仕方ない。俺だって怖いよ。だけど――」
 振り返った朔夜は静かに、しかし力強く言葉を続ける。

「君がここに立ってるってことは、守りたいものがあるってことだろ? それは、何より強いよ」

 その声は、何かを“思い出させる”ような響きだった。
 雛乃の目が見開かれる。訓練の時、初めて手を取ってくれた朔夜の言葉が今と重なる。
 彼女は震える手で、セーフティの解除された銃を構えた。小さな体で、大きく一歩を踏み出す。その背中を、他の訓練生たちが見ている。

「私も……やる! 私、守れる人になりたいって、言ったから!」
 その声に呼応するように、訓練生たちが次々と前へ出る。朔夜と伊澄の背中が、“守られる者”だった彼らを動かしたのだ。

 銃声、衝撃、軋む金属──混線した戦場の音が、夜の空気を裂いている。

 それでも、伊澄と朔夜の立つラインは揺るがなかった。
 前方では機械群が蠢いている。未だ数は多く、鋼鉄の蟲脚が光を反射しながら陣形を組もうとしていた。

「雛乃さんたち、下がらなくていい。俺たちが前を切り開く」
 朔夜の声に、訓練生たちは静かに頷いた。もう、誰の足も震えていない。

 伊澄が拳銃を再び構え、弾倉の確認を終えると、ちらりと朔夜の方へ目を向けた。

「サクヤ、やれるな」
「はい。俺たち、教える側に立ってしまいましたからね」

 目配せ一つ。ふたりの意志はそれだけで通じる。
「行くぞ――!」

 伊澄が再び火線を放つ。銃弾の軌跡が直線を描き、機械群の脚を撃ち抜く。
 朔夜がすぐさま後方から影の稲妻を這わせ、倒れた敵を波動で押し流す。

 その連携の前に、隊列を立て直そうとする無人機械群の動きが一瞬遅れる。
 そこへ雛乃が、後列からカバー射撃を重ねた。

「三番、制圧しました!」
 彼女の報告に続いて、他の訓練生たちもそれぞれのラインで戦っている。

 伊澄の声が響く。
「よくやった、そのまま押し切れ!」

 空を見上げれば、今も尚白く輝く警戒陣が星々の間に浮かんでいる。
 都市の防衛が、人とシステムと想いで繋がっていることを、彼らは今、身体で理解している。

 ――それは、誰かの手を借りるだけの戦いではない。
 ――これは、自分の足で立ち、自分の意思で守る戦い。

 伊澄と朔夜が、互いに一瞬だけ背を合わせる。
 まるでこの一瞬だけ、世界の中心がここにあるかのように。

「背中は任せた」
「はい、伊澄さんもどうぞ気を付けて」

 二人が頷き合う、と。
 機械の咆哮が夜空を揺らす中、瓦礫の影から──ひときわ静かな足音が響いた。

 アデドラ・ドール(|魂喰い《ソウルイーター》・h07676)。
 白磁の肌、漆黒の髪、青い瞳を持つビスクドール。
 その姿は、小さな人形のまま、戦場を歩いてくる。まるで、舞台袖から静かに出てくる役者のように。

「……マダムに会わせてくれた、この素敵な都市が襲われているのね」

 その声は甘やかで、けれどひどく冷たい。
 アデドラは瓦礫の上で一度だけ足を止め、真っ直ぐに敵の群れを見据えた。

「それは――とても、許せないわ」
 夜風が髪を揺らす。瞬間、アデドラの身体が淡い光に包まれた。
 人形の素体が変化する。関節の構造が伸び、影から新たな肢体が生まれ、細く優雅な人の姿となる。
 彼女が戦う時――それは“感情”のままに。

「戦うのは嫌いだけど……この気持ちくらいは、ぶつけてあげる」
 その瞳はもう、人間よりもずっと深い色を湛えていた。

 変化を終えたアデドラの姿に、最初に気づいたのは朔夜だった。機械群を相手取りながらも、彼女の気配が近づいてきたのが直感でわかる。

「……アデドラ」
 呼ばれても、アデドラはすぐには応えない。裾を翻すようにしてふたりのほうへと歩み寄り、その場でくるりと軽く回る。

「イズミ、サクヤ。ふたりだけに任せておくわけにはいかないもの」
 その口調はいつものように優雅で、けれどわずかに熱を帯びていた。伊澄は苦笑しつつ、短く頷く。

「珍しく、殺意マシマシだな……止めても無駄そうだ」
「むしろもう完全に“戦う気”しか感じません」
 朔夜も肩をすくめる。

 そんなやりとりすら、彼女には届いていないかのように――アデドラは敵の方向を見据えていた。
 鋼鉄の軍勢を、まるで“埃でも払うように”見る、冷たい青。

「……たくさん来てるのね。なら、まとめて片付ければいいだけのこと」
 敵機の群れがアデドラへと向かってくる。装備された砲口が一斉にこちらを向いた。
 しかし、彼女はまったく怯まず指先を上げる。

「さあ、誘ってあげるわ。夜よりも、闇よりも深い場所へ――」

 瞬間、周囲の空間が静かに色を変えた。蒼。深海にも似た沈んだ色が、花弁のように空間に舞い落ちる。
 それは毒を孕んだ、幻想めいた蒼い薔薇の花弁たち。目標のセンサーと動力反応を撹乱し、“気配ごと”崩す牽制陣。

「さようなら。あなたたち、騒がしすぎるの」
 そこに続いたのは、黒い歪。アデドラの進路を切り拓くが如く、動きの鈍った機械のコア部分を抉るように飲み込んでいく。
 鎌型の黒い歪がオートで敵をなぎ払う。すべてが“アデドラの意志”の延長。

「気に入らないものは……こうして、消えてもらうだけ」
 彼女はただ、ドレスの裾を整える仕草で、ベンジャミン向けて進んでいく。



 星が綺麗だった。
 ノア・シエル上空に浮かぶ警戒陣の光輪が、夜空の星と混ざり合って瞬いている。まるで都市そのものが祈っているみたいだ、と十・十(学校の怪談のなりそこない・h03158)は思った。

 彼は、その光の真下――|無人機械群《foxtrot-r4》のただ中にいる。
 けれど、まだ誰も彼に気づいていない。幽体である十の存在は、彼等が搭載している旧型のセンサーでは捉えきれないのだ。
 無数の鋼脚が地を踏み、旋回砲が駆動音を上げる。警告灯の赤が点滅し、砲口は別方向を向いていた。

 十は宙に浮かびながら、ちょこんと首を傾げた。
 “いつ気づくでごぜーますかな”とでも言いたげに、柔らかく笑っていた。

「じゃー、今から悪い戦い方を見せるでごぜーますよー」

 十が、ぽんっと片手を上げた。戦場の中心で、まるで遠足の集合写真にでも写るかのように。
 その声が風に溶け、鉄の森に反響する。

 刹那、敵の一体が警戒音を鳴らす。十の存在を漸く機械が“認識”した瞬間だった。
 旋回砲が軋む音を立て、標的をこちらへと揃えはじめる。十は、それを楽しげに見下ろした。

「ははぁ……、まぁたぶん間に合わないでごぜーますなー」
 笑っている。死者であることも、腕が壊れるかもしれないことも、まるで大したことではないかのように。

 次の瞬間、重力に縛られない十の身体がするりと宙を滑った。機械兵たちの砲口が一斉に火を噴く。
 重く、正確で、逃げ場を削るような弾道。
 されど――当たらない。

 十は旋回するように空中を回り、垂直に上昇し、反転して滑り込む。避けているというより、“撃たれる場所が見えている”かのように。
「そっちは空ぶりでごぜーますよー」

 獣のような勘で、網の目のように張り巡らされた敵の陣を抜けていく。
 警告音が高まり、鋼鉄の森がざわめく。ベンジャミンが気付いたか、巨大重機の大型アームが大きく振りかぶる。
 が、十の方が一息早く接敵! 瞬間、右腕を引き絞り――

「全力でぶん殴る!」

 十が放つ、“|一点集中全力突《パイルバンカー》”。ドン! という衝撃と同時に、空気が大きく揺れた。
 憑依霊が凝縮されるように右腕へ収束し、関節が軋む音が内側から響く。
 拳が鋼の外殻へめり込み、重機の装甲が悲鳴を上げ――装甲が割れ、骨組みが歪み、内側からスパークが漏れる!

「おや、壊れなかったでごぜーますか……んじゃ、」
 代償は大きい。手首がねじれ、肘が逆に曲がる。骨の砕ける鈍い衝撃。――尚も十の表情は変わらない。振り抜いた腕の勢いそのまま、回転するようにその身を捻る。

「――もう一発でごぜーます!!」
 動かぬ腕が捻じれ、砕けた骨が一直線に並ぶ。身体を“投げる”ようにして、砕けた右腕を鋼鉄杭のように叩き込む!!
 再度の凄まじい衝撃音!! 鉄が裂け、装甲が吹き飛び、中枢が露出する。

 身を竦めたベンジャミンが恐る恐る目を開けると――自分を守っていたキャノピーは既に無く、巨大重機は無残な姿をさらしているではないか。
「なん……ッ、なんて事してくれるんだ、この巨大重機、修理費高いんだぞ!!」

 ベンジャミンが甲高い金切り声を上げ、辛うじて生きている巨大アームを再び振りかぶる。
 一方の十は壊れた右腕をぶらりと下げたまま、空に浮かんでいた。
 
「……と、このように一人で突撃すると、あとでみんなに怒られるでごぜーますよー」

 まるで反省していない声。然し、無数の引き金が引かれたような“空気の変化”が伝播していく。
 それが証拠に――星が翳る。

「少年、蛮勇と勇気は違うものだ。だが――」
 空を闇が覆い尽くした。星光が、天空の陣の光が、地上に届く前に腐り落ちていく。
「その覚悟、見事であると言おう!」
 揺蕩うインビジブルが掻き消え、入れ違いに暗冥に顕現したるはノスフェラトゥ。重圧すら感じさせる闇の中、レラジェの赤い瞳が獰猛な耀きを宿す。
 腐敗の爪風が吹き荒れ、巨大重機のアームがその挙動を朽ちさせていく――!

「あーーッ、あーーッ!!! くそ、何で錆が……ひっ、錆じゃない、何だこれ?!! やめろ! ふざけんなよぉおお!!」
 鋼が腐り、構造が軋みを上げる中、ベンジャミンは悲鳴と罵声を交互に吐きながら、半壊した機体を必死に再起動させようとしていた。だが、警告アラートが止まらない。腐蝕、断線、機能不全。レラジェの爪痕は深く、最早真面な出力は望めない。
 そして――コツコツと地面を探る杖の音。

「No.1857。出獄を――」
 目を瞑ったままの彼女は其処で一旦言葉を切り、杖の石突で地を打つ。

 ― カツン ―
 乾いた音が響くと同時、彼女は漸くその眼を開き。

「許可する」

 凛とした宣言と共に、指輪の宝石がぬらりと光る。浮かび上がるのは“丸い不純物”……否、其れは黴塗れの身体を丸めた怪異の胎児。
 呪われた胎児の怨声が大音響で夜闇を震わせた瞬間、ぶわりと爆ぜるように空気が泡立つ。周囲に胞子が奔り、指揮官機の周囲一帯が“気配ごと”塗り替えられる。

 次の瞬間、機械の群れが合歓に従い、“従属”を選ぶ。破壊された重機たちの残骸が、突然ひとりでに動き出す。
 否――操られているのだ。

 |No.1857《デリー・パープル・サファイア 》。世界そのものさえも従わせる、災厄級の「魅了のカビ」である――!
 屑鉄のゴーレムが急速に組み上がる中、

「あなた、マスコットなのかしら?」

 その声はどこか遠く、夜の冷気を帯びて降りてきた。
 ──足音もなく、アデドラが重機の前に現れる。舞い落ちる蒼薔薇を夜風に遊ばせ、まっすぐにベンジャミンを見据えていた。

「ちっとも可愛くないわ。せいぜいピィピィと鳴いていればよかったのに」
「な、なんだお前……! こ、こっちは今、重機がっ――!」

 舞い落ちる花弁の間を縫うように胡蝶が飛ぶと同時、脳を掴んでシェイクするような強烈な衝撃がベンジャミンを襲う!
 合歓の黴による脳への過負荷。ベンジャミンの叫びは最早意味を成さない奇声へと変わる。
 
「――夜よりも、闇よりも、深い場所に誘ってあげる」

 躍る胡蝶はアデドラの声に合わせ、優雅な軌跡を描きながら巨大重機に絡みつき、その細部へと蒼い鎖を伸ばす。
 まるで囁くように、彼らを“終わり”へと手招くかのように。

 パイルドライバーの断片、崩れた脚部、投棄された外装。
 合歓の視線が一つの点に集束した瞬間、それらは一体の巨大な《象》のような影を象り――

「――潰してしまいなさい」

 最後の命令と共に、“それ”は大質量の脚を振り下ろす。
 震え上がるベンジャミンの絶叫、そして重機の地面からは蒼い光が迸り始め、

「あなた――ほんと、気に入らないわ」

 アデドラの台詞を最後に、蒼い光の大槍が次々と突き出した。上下から、断罪の裁きと災厄が交差する。
 ――此処に、ノア・シエル防衛戦は快勝を刻んだ。


―――
――




 夜半を回っても、ノア・シエルは祝勝の賑わいに溢れていた。
『オメガさん、真人さん、レナさん!』
 デジタルサイネージに映し出されたアルマが、小さくぴょんぴょんと飛び跳ねる。
『凄いです、あれだけの敵勢力を――それも、一人の人的被害も出さずに!』
 尊敬の念の籠った視線。


「ふふーん。やればできるんですよ、レナさんは! ……なーんて、ちょっと調子に乗っちゃいましたかねー」
 擽ったそうな笑みを浮かべて返した後。少し間をおいて、レナは夜空を見上げる。
「……本当に、誰も傷つかずに済んでよかった。 こういう勝ち方が、当たり前になっていくといいんですけどねー」


「え、えへへ……俺たちも、ちょっとは役に立てた、のカナ……」
「人的被害ゼロ……ええ、ええ。あれだけ派手に暴れておいて、上出来ではないでしょうか」
 オメガと真人も満足気に頷いた。――が、ご馳走レーションを食べる手は止まらない。
「アッ、アルマさんも一緒に食べたらいいのに」
『残念ながら、わたしには味覚が実装されていないので……想像で食べてみますね!』
 真人の提案に申し訳なさそうに返すアルマ。
「……想像でスプーンを持った時点で、負けた気がしますね」
 オメガの悪気の無い発言に、アルマはポロリとホログラムスプーンを取り落とすのだった。


 サイネージ越しに声を届けるアルマの映像を、兎比良は遠巻きに見上げた。隣では小鳥が笑っている。傍には、未だ興奮の抜けきらない訓練生たちの姿。
「ねえ兎比良さん、やっぱり少しは誇ってもいいんじゃないですか?」
「……どうでしょう。私は更に良い戦法が無かったか気がかりです」
「謙遜が過ぎますって」
 苦笑しながら言う真宙に、ふと蒼黒のヘテロクロミアを持つ同僚の姿が重なった。
 ルチルはどこか誇らしげに識別章に触れ、湊は笑顔で兎比良と小鳥に小さく敬礼をする。
「“守られてた側”だった俺たちが、“守る側”になれたって……ちょっと、信じられませんけど」
 小鳥はそれに、優しく微笑んで答えた。
「でも、それが事実です。みんな、ちゃんと強くなってますよ」


「死ななかったな」
「はい。誰も、です」
 相変わらずの冷めた声音に、ルーデンスは明るく即答する。
「……それが一番だ」
 珍しく、レラジェの口元がわずかに緩んだ気がして、ルーデンスは目を丸くした。


 雛乃が紙コップのジュースを両手で抱えながら呟く。
「……勝てたんですね。ほんとに、誰も……」
「君たちが踏ん張ったからだよ」
 伊澄が眼鏡を押し上げ、静かに頷く。
「俺たちも、守られてたって思っていいですかね」
 朔夜が笑うと、雛乃も少しだけ笑ってうなずいた。
「じゃあ……私も、次は“守る”側、もっとがんばります」


「……守れた、ね」
 空を見上げたコルトの横で、紗月が笑う。
「うん。……でも、ちょっと怖かった」
 返す声は小さいが、震えてはいなかった。シールドを抱えたまま、紗月は前を見ていた。
「……私も、だよ」
 コルトの零した言葉に、二人だけの静かな肯定が満ちた。


「ふぅ~、マジ達成感っ。未羽、今日はホントありがと!」
「い、いえ……わたしのほうこそ! ヒバリさんと並んで戦えて、すごく、夢みたいでした」
 未羽の頬がほのかに赤く染まる。ヒバリは笑いながらカメラを起動した。
「じゃあ記念に、映えセルフィーいっちゃおっか!」
「えっ……い、今ですか……!?」
 次の瞬間には二人で顔を寄せ合い、夜のイルミネーションを背景にした一枚がカメラに収められた。


 モニター越しの歓声を背に、クラウスは人波の外れで空を見上げていた。
 隣には航がいて、まだ少し興奮の余韻をまとっている。
「今日のことは、ちゃんと誇っていいよ」
 そう告げてから、ほんの少し間を置いて、静かに続ける。
「……でも、油断はしないで。祝福の夜ほど、次が来る準備は進んでるものだから」
 航は頷いた。瞳に、夜空よりも遠くを見つめる光を宿して。


 広場の隅では、学徒たちに囲まれながら十がぽつりと呟いた。
「怒られるかと思ったけど、今日は……平和でごぜーますな」
 腕には添え木。効く効かないでは無く、学徒たちの感謝のしるしだった。


 喧騒の向こう、祭の光も届かぬ高台にて。
 合歓は風に揺れるヴェールを軽く押さえ、杖を傍らの石に預けていた。
「……騒がしい夜ね。でも、悪くはないわ」
 戦いの熱も、人々の歓声も、ここまで届いてはこない。けれど――それが、ちょうど良かった。
 月光が静かに降る。その下で彼女は薄く微笑む。
 封印の器ではなく、ただ“飛鳥井・合歓”としてこの夜にいる。それだけのことが、心を深く満たしていた。
 一方、やや遅れて合流したアデドラは、灯りの溢れる広場を見下ろしながら、そっと髪を梳く。
「ふふ……依存するのも良くないけど……また、あの人――マダムに会いに来ていいかしら」
 蒼き薔薇の熱は戦場に消えて、胸の内にはほんの少し、再会の温度だけが残っていた。


 そして。
『スペシャルピザテイストのご馳走レーション、待望の試供品です! 先着――わーーっ、押さないで下さい?!』
 折角の祝勝タイム。各々、勝利の味を楽しむ催しに参加していくのであった。



 ほぼ破壊された機械群の一体が、のろのろと路地裏を這っていた。
 至る所で火花が散り、武装は壊れ、動力も安定しないようだ。

 ――ガラン……!

 それが倒れた場所は――避難所前の防壁。まるで“最初からそこが目的地だった”かのように。

『繧ウ繝峨Δ縺ッ縺カ縺倥° 縺ア縺ア 縺九∴縺」縺溘◇ 繧ゅ≧縺吶$ 縺、縺上h』

 機械はレシートめいた謎のログを吐き出して完全停止する。
 意味不明な彼の最期の一言は、勝利に浮く街の人々の誰一人にも届かない。
 しかし、この後に訪れる“ナニカ”を確かに予告していたのだった。






[::init_emulation::] ....................................................

forecast = emulate("NOAH-CIEL");
protocol_loaded = load_protocol("guardian_protocol");
signal_sent = send_signal("A.L.M.A.");

if (forecast.detectsAnomaly() && protocol_loaded == false && signal_sent == false) {
elevate_privileges("root_usr");
access("protagonist://root/resonant_channel");
invoke_disaster_scenario(); // <<< now unstoppable
} else {
commit_operations();
}

[::invoke_disaster_scenario::]
>>> authentication override accepted.
_
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Series Scenario 《テセウスの魂》
episode.1 - 灰燼にて帰還す

>>> ...transit _

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挿絵イラスト