左足の美
●硝子の靴
一生に一度の大切な日。
「僕と結婚をして下さい。」
不器用な彼が、プロポーズに選んだそれは指輪ではなく硝子の靴。童話が好きな彼女の夢を叶えようと、何度も何度も絵本を読み返した。
目にたっぷりと涙を浮かべながら、彼女は硝子の靴へとそっと足を差し込んだ。
六月の花嫁は幸せになれるのだと。折角だから彼からもらった硝子の靴を履いて式を挙げたい。そんな可愛らしい夢を語っていた彼女のために、彼は当日のプランをしっかりと練っていた。
おめでとうの言葉を告げる人々、幸せそうな新郎新婦。誰もが大切なその日を祝うはずだった。
「……あれ?」
白いスーツの新郎が声を上げる。
「どういうこと?」
白いドレスの新婦が口を押さえた。
二人が見つめていたそこには、何もなかった。本来ならば招待客がいるはずの席は空っぽで、それどころか彼女が履くはずだった硝子の靴も消えている。
新郎新婦を残して、他は綺麗さっぱりと姿を消してしまった。
●彼女曰く
「硝子の靴だって。夢があるよね。」
アンジュ・ペティーユは小さな硝子の靴を掌に乗せて、あなたたちを見る。
ここは√妖怪百鬼夜行のとある靴屋の前。硝子の靴を専門に扱うその靴屋は、一見して硝子の靴を作っているとは思えない外観。趣のある木の建物に、白と青に塗られた看板とレトロな文字が印象深い。一年を通して忙しいのだろう、硝子の窓から中の様子を伺えば、職人や店員が忙しなく動いている。
「ちょっと困った事があるみたいで、結婚式の会場で新郎新婦を残して他が消えてしまう。って事が起きているみたい。」
アンジュ曰く、不思議な事が起こっているのは、この靴屋で硝子の靴を購入し、プロポーズをした者の周りのみとのことだ。
「一年を通して、それなりの注文を受けているみたいだから、近い内に式を挙げる人と難なく接触はできると思うよ。」
接触が出来たら、あとは周辺を調べれば良いだけのこと。不審な動きが見られたら、そこを突いて追いかければ、自然と元凶に辿り着くはずだとアンジュは言う。
「堅っ苦しいことを言ったけど、この靴屋さんは硝子の靴以外にもオーダーメイドで自分の靴を作ってくれるみたいだから、キミたちにはそれも楽しんでほしいな!」
アンジュは硝子の靴をポケットにしまいこみ、店の説明を続ける。
一番人気はメインの硝子の靴。プロポーズはもちろんのこと、誕生日用に好きな生花を添える注文が多いと言う。
その人をイメージしたデザインを心がけており、同じデザインの硝子の靴は無いという所が、更に人気に火をつけているようだ。オプションでリボンや誕生石など、ちょっとした小物を付けられる所も人気が高い。履く事のできる靴だが、もちろん履かずとも良い。
二番人気はアンジュが手にしていた硝子の靴の置物。実際に履ける靴も良いが、インテリアとしても長く楽しむことの出来るそれも、その人をイメージしたデザインとなっている。実際に履く靴よりもリーズナブルな値段となっており、プロポーズ以外の注文も多いようだ。こちらも通常の硝子の靴と同じオプションを付けることができる。
それから硝子の靴以外にも靴のオーダーを受けているようで、あなただけの一足を作って貰えるのも魅力の一つだろう。
硝子の靴を専門にしてはいるものの、店内にももちろん普通の靴は並んでいる。店の奥にひっそりとではあるが、スペースが設けられており、天気に合わせたお気に入りの一足も見つかるかもしれない。
「オシャレは足元からって言うからね、自分に合った一足が見つかったら嬉しいよね。」
アンジュは靴屋への扉に手をかけた。
「それじゃ、いってらっしゃい!楽しんできてね!」
第1章 日常 『軽やかに歩こう』

白と青に塗られた看板の前に立つ女性。結った髪を上品におろし、白いブラウスと濃紺のフレアスカートで着飾る物部・真宵(憂宵・h02423)は、ルールブルーの瞳を瞬かせ、井碕・靜眞(蛙鳴・h03451)を不安げに見上げる。
「……井碕さん?」
じとりと濡れた眼差しが見慣れぬ姿の真宵を捉え、瞬きを繰り返してしまったからだ。彼女の声で我に返った靜眞は、下がり繭を更に下げて梅雨の風に消え入りそうな声色で漸く言葉を告げた。
「あ……いや。ええと、お洋服もお似合いだと思って。」
あまりにも静かな声色を聞くのは初めてではない。しかし、真宵もまた彼と同じように瞬くと、淡く微笑んだ。
「ふふふ、ありがとうございます。」
気になる事件ではあるものの、一人でこの靴屋に入るには心許ない。派手な外観ではないとはいえ、このような店には縁も無い靜眞が、真宵へと相談をしたのが始まりだ。
濃紺のフレアスカートを風に靡かせ、開かれた扉を指で示す真宵は彼に入店を促す。
「入りましょうか。」
「あっ、ええ……はい。」
中へと足を踏み入れると、そこはある意味で幻想的な空間だった。外の光を反射した硝子の靴が煌き、硝子のショーケースの中で存在を主張している。しかしながら、全てが全て個々の存在を主張している訳では無く、互いの存在を引きたてながらもそこにある。
そんな空間に真宵が息を飲んでいると、少し後ろで靜眞が口を開いた。
「灰かぶりのお伽話、ご存知ですか?」
「子どもの頃に童話を少し。」
「折角ですから、一足お願いしてみては。」
落ち着いた真宵の表情が、一気に弾けた。
「硝子の靴、興味があったんです!高いヒールは履いたことがないのでまずはお試しを。」
このようにはしゃぐ姿は年相応なのだと、靜眞は店員に声をかける真宵を見送り、彼女の準備が整うまでディスプレイを眺めていた。しかし、不意に真宵の震える声が耳に届く。
「……井碕さん、あの、すみません。」
「あっはい、どうしました?」
「……腕を、お借りしても?」
二人の視線が重なった。震える声を聞き、慌てて真宵の方へと向いた靜眞だが、そこにいたのは履きなれない靴を履き、身を前のめりに屈ませて足を震わす真宵の姿だった。腰が引けているが、履きなれないのだからご愛嬌と言うことでお一つ。
支えの無い真宵の両腕が宙を泳ぎ、何やら悩んでいる様子の靜眞へと助けを求める視線を送る。そこで漸く、靜眞は左腕を差し出した。女性のエスコートには不慣れな分、どうするかを一瞬だけ考えてしまったからだろう。僅かに反応が遅れてしまった。
エスコートを受けた真宵は、ぎこちなく歩いてスツールに座る。顔から火が出るとはこのことだろう。赤く染まった顔に雪花石膏の肌が良く映える。
(いやこういう時のフォローってどうしたらいいんだ。)
心の中の呟きは真宵には聞こえない。耳まで赤く染めた真宵へのフォローは、先程と同じように間があったかもしれない。
「……大丈夫ですよ。その、歩く練習なら、付き合いますから。」
覆い隠した指の隙間から、ルールブルーがちらりと靜眞を伺う。
「すきなものを選びましょう。」
「ありがとうございます……。ヒールの低い物にします。」
高いヒールに少し憧れがあった。だからヒールの高い物をお願いしたが、慣れるにはまだ時間がかかりそうだ。真宵が選んだ硝子の靴は、ヒールが太くて低い物。爪先は丸みを帯び、普段からヒールを履かない真宵でも無理なく履くことの出来そうな一足だ。光の角度によっては、夏の宵を思わせる青色に染まる。
「お誕生日、近いですよね。お礼も兼ねて、プレゼントさせてください。」
「……プレゼント、ですか?わたしに?あら、まぁ…よろしいのですか?」
そんな会話をしていると、二人の隣にいたカップルが硝子の靴を受け取りに来たようだ。どうやら一連のやり取りを見ていたらしいカップルは、近いうちにこの近くで式を挙げるのだと言う。その準備として、ここに預けていた硝子の靴を取りに来たそうだ。
「六月の花嫁さんなのですね。素敵ですよ。」
「おめでとうございます。」
靜眞も真宵も二人へと祝福の言葉を贈る。言葉を受け取った二人は、硝子の靴を受け取り幸せそうに微笑んではそのまま店を出た。
式を挙げる場所はこの店の近く。その場所についてを掴むことが出来た二人もまた、誕生日プレゼントとして大切に箱におさめられ、綺麗にラッピングをされた硝子の靴を受け取り、件の場所へと向かうのだった。
上品な輝きを放つ硝子の靴たちを前に、顎に手を添えて考える仕草を見せる一文字・伽藍(|Q《クイックシルバー》・h01774)は、履ける硝子の靴の謳い文句にそれはもう真剣に購入を検討していた。
(マジで履ける硝子の靴……?何それドチャクソに欲しいが??)
硝子の靴と睨めっこをする伽藍の後ろでは微笑まし気に見守る店員が控えている。急かす様子もなく、伽藍に委ねていると言った所だろう。伽藍の視線が値札へと向けられた時、店員も動いた。
「こちらの硝子の靴、オプションで宝石やリボン。また誕生日用に生花も取り付けておりますので、ご入り用でしたらお声がけください。」
(誕生日用に生花、さらにはオプション付きもあると。)
丁寧な説明を受け、伽藍は顔をあげる。先日、六月六日に誕生日を迎えたばかりだ。これはもう買えと言う事。伽藍は決心したのか一人で頷き、ディスプレイに並ぶ硝子の靴を人差し指で力強く示す。
「6月の誕生花に、あとオプションは誕生石とかリボンとかフリルとか!最高にきゃわゆい硝子の靴で!」
「かしこまりました。」
伽藍の注文を聞き、店員は頭を下げて一度裏へと消えた。これからとっておきの一足を作るのだろう。次に現れた時には、店員は何やらアルバムらしき物をいくつか抱えて来た。
「こちらはここで硝子の靴を注文をされた方の写真になります。形や装飾まで世界に一つしかない硝子の靴を製造しておりますので、ご参考にどうぞ。」
履きにくいのは気にしない。浮けば全部解決するから。音も気にしない。気合いで何とかするから。世界に一つしかないきゃわゆい靴ともなると、伽藍の目はいつも以上に真剣さを増す。
シンデレラのようなハイヒールも魅力的だが、形状としてはお気に入りのブーツのコーンヒールが好きだ。ピンヒールは踵が折れかねない。セットバックヒールはバランスを取るのが難しい。気合いで何とかなるとはいえ、あれやこれやと考えてしまう。
唸り続けること数分。デザイン重視とは言え、結局履きなれているコーンヒールを選んだ。この形状が一番気に入っているからだ。
「であれば、アッパー部分には誕生石の真珠をふんだんにちりばめ、生花は誕生花のアイリスに致しましょう。アイリスの色合いに合わせて、リボンはストラップ代わりに。お色は青系でまとめさせていただきます。」
「最高にきゃわゆい靴になるじゃん!」
店員から告げられる言葉だけで、胸が弾んで仕方ない。硝子の靴の上品さを残したまま、派手にしてくれるのだ。しかし、今回の件についても忘れてはいなかった。アルバムを捲り、世間話の一環として最近の様子についてを聞き出そうと、伽藍は口を開いた。
「やっぱプロポーズ用が多いの?ロマンチックだもんなァ、硝子の靴。」
「ええ、そうなんです。シンデレラに憧れる女性も多く、そのようなシチュエーションでとご相談される方も多いのですよ。」
「そういえば、こちらで硝子の靴を購入されたかたが、近いうちにシンデレラの舞踏会をイメージして式を挙げると仰っておりました。」
「へぇ?ロマンチック。」
「場所はこの店の近くだったはずなので、帰りにでも立ち寄ってみてはいかがでしょうか?外からでも十分、中の様子を見ることはできると思います。」
窓の外に視線を向ける。今日は晴天。空すらも祝福をする日だ。
(|恋する2人《シンデレラと王子様》の晴れ舞台に水を差すやつ、何なんだろうね?)
靴の準備を整える店員の姿を視界から外し、伽藍はぶらぶらと両足を揺らす。
「リア充爆発しろってやつなのかな。」
その呟きを誰が拾ったのだろうか。忙しそうな店内では誰も耳には入れていなさそうだ。お前が爆発しろ。とは口にはせず、足を揺らしたまま硝子の靴を受け取ったシンデレラと王子様を見送った。
第2章 冒険 『不思議なお屋敷』

「ありがとうございました。」
退店を告げる声に見送られ、あなたたちは式場周辺の調査を行う。店員に聞いた場所へと足を向ければ、既に式が始まっていたようで、新郎新婦を祝う賑やかな声が聞こえて来た。
そんな光景を横目に、更なる調査を行おうとした矢先である。狭い小道の隅、ちょっとした段差に、一足の硝子の靴が落ちているのを見つける。
左足。確か、童話の中の姫も左足の一足を落していたはずだ。物語があなたたちの脳裏を過った時、不意に周囲の景色が変わる。目の前には見慣れぬ洋館が現れ、周囲には先程の式場にいた者たちが不思議そうな顔で立ち竦んでいた。
ここは一体どこだろう。迷い込んでしまったあなたたちは、ここから抜け出すための手掛かりを掴まなければならない。
洋館の玄関の前には、硝子の靴が脱ぎ捨てられていた。
古びた洋館に人々が集う。ミステリー小説やドラマでは見慣れた場面だろう。これから何かが起こると予感をさせる。
彼らは皆、困惑の表情でどよめき、何が起きたのかを把握できないでいる。周囲を見渡し、現状を把握しようとする者、分からぬままにとりあえず知り合いの元へと駆ける者、好奇心のままに洋館へと乗り込む者。それぞれがそれぞれの反応を示している。
「わたしたち……巻き込まれてしまいました…?」
物部・真宵もまた、彼らと同じように困惑の表情を浮かべていた。その隣では、周囲を見渡し状況を把握する井碕・靜眞が居る。流石は|警視庁異能捜査官《カミガリ》といった所だろうか。隣で困惑をしたままの真宵へ、冷静に自らの分析を伝えた。
「そう思って間違いないでしょうね。集団を一気に転移させるとは、よっぽど強力な妖力持ちか。」
「あら、まぁ…たまたま近くにいただけなのに。」
おっとりとした口調で、どうしましょう。と片頬に手を添え、靜眞を見上げる真宵。警察手帳をポケットから取り出す靜眞。そんな靜眞の姿を頼もしいと感じてか、それとも彼の仕事っぷりを間近で目にしたからか、真宵は指先同士を触れ合わせ、小さな拍手を送る。
「さすがは井碕さん。」
「あ……いえ……はは…。」
先程、店で見せていた表情はどこへやら。真宵からの拍手に、どんな顔をして良いのか分からないでいた靜眞は、一度片頬を掻きすぐに仕事の顔に戻る。
「行きましょう……。」
すっかり顔を戻した彼に続き、真宵もまた硝子の靴を抱えて彼に続いた。
ここから二人の捜査が始まる。
二人はまず先に、参列者へと声をかけることにした。
「すみません。こう言う者ですが。」
靜眞のような者がいれば心強いのだろう。靜眞の警察手帳を見た参列者は、表情をすぐに和らげ安堵の息を吐き出す。
「少しお話を聞かせていただいても……。」
「あぁ……よかった。アンタみたいな人がいると、ちょっと心強いな。どんな話だい?」
「新郎新婦のなれそめや、硝子の靴について何か聞いていませんか?」
「なんだ、それならいくらでも話すさ!」
目の前で軽快なトークを繰り広げる参列者を前に、靜眞は真宵へとじとりとした眼差しを送る。しかし、この眼差しが意味するものを真宵は瞬時に理解をした。彼らから少し離れた場所で自らの爪先を、とん、と打ち鳴らすと足元から|天鵞絨《ビロード》の夜のように昏い狐が、傍らからはひょっこりと白い管狐たちが現れる。彼らは愛らしい声で鳴き、真宵の足元でお利口に座った。
「いいですか?あなたたちは館の中の探索を、帝月は入り込むのが難しそうな場所を調べてください。」
管狐たちは、きゅう。と鳴き声をあげ、人の隙間を縫っては館の中へと侵入をする。夜の昏さを纏った帝月は、参列者の影に紛れて移動をした。白と黒との対照的な者達が動き出す。彼らを見送った真宵は、再び靜眞へと向き直った。
真宵が小さな彼らを見送る間、靜眞も周囲に気を張り巡らせていた。何か変化は無いか、不審な動きは見られないか、参列者も真宵も無事だろうか。その視線が真宵へと向けられた時、二人の視線がぴったりと重なった。
「硝子の靴を履いた花嫁さんが狙われるなら、まだ分かるんですけれど。参列者を閉じ込めるのってどんな理由なんでしょう。」
「自分が灰かぶり姫になりたいのかしら……。」
自らの推理を何気なく口にする真宵のルールブルーの瞳が、静かに手元の化粧箱へと落とされる。
「この硝子の靴を目にしたらどうなりますかね……?」
「……え。」
確かに硝子の靴ならばここにはある。しかし、まさか彼女の口からその言葉が出てくるとは思わなかったのだろう。靜眞の瞳がわずかに見開かれる。
「硝子の靴を履くことで囮になれるのならばやってみるけれど。」
「……物部さん。」
落ち着いた声が真宵の耳に届く。顔を上げると、どこか困ったような。それでいて笑みを浮かべようと口元を和らげる靜眞の、何とも不思議な表情が真宵の目には留まった。
「井碕さんに頂いた靴に傷がつくのはいやだわ……。」
「わたしに出来ることと言ったらこれくらいしか……。いえ……ごめんなさい、困らせてしまいましたね。」
彼女の表情は徐々に陰り、それを取り繕おうとしてかいつもの柔和な笑みのまま、眉ばかりが下がっているようだ。そんな表情を見つめていた靜眞は一瞬の間の後、不器用ながらに口を開いた。
「自分としては物部さんを危険には晒せませんから……。靴は隠しておきましょう、ね。」
いつも通りの声色。いつも通りの笑み。そこには、いつも通りの彼が居る。そんな表情を見せる靜眞も、やはり心の内側では真宵の言葉に焦りを見せてしまった。けれども困っていない事を彼女に告げると、真宵の表情が柔らかく綻んだものだから、靜眞は彼女に気付かれないように胸に手を当てて安堵の息を吐き出したのである。
『きゅうきゅう。』
そんなやりとりをしている中、真宵の管狐が館の中から外の二人を導くかの如く声を上げる。
「……そういえば先程、参列者から気になる話を聞きました。」
「気になる話ですか?」
「はい……。見知らぬ女性が、紛れ込んでいたそうです。」
話によれば、今日は親戚や仲間内を呼んだ小さな式だそう。皆々気心の知れた仲だというのに、一人だけ初めて見る顔がいたのだと言う。
「茶髪で愛らしい外見と聞きました。」
「管狐たちの反応も気になるところですね……。館の中で、何か手がかりを探しますか?」
「はい……そうしましょう…。」
二人は頷き合い、管狐に導かれるまま、館の中へと足を踏み入れた。
「ワオ。」
景色が変わる。昔ながらのレトロな小道が、一瞬にして見たこともない洋館へと姿を変えた。一文字・伽藍は口笛を吹き、周囲で惑う人々の真ん中を堂々と歩む。
「|√能力者《アタシ》らも拉致られる側か。」
靴音は鳴らさない。靴も脱げない。軸はブレず、さながらランウェイを歩くモデルのごとく,、脱ぎ捨てられた硝子の靴だけを視界に入れる。
(随分と大規模な神隠しだなァ。)
「硝子の靴もこんな脱ぎ捨てちゃって、綺麗な靴が傷付いちゃうぞ。」
横たわる|硝子の靴《それ》は、一体誰の物だろうか。装飾は一切無い。持ち主の名前も勿論ない。硝子で作られた靴を拾い上げ、伽藍は何気なく靴裏を眺めた。あの店の名前が裏側に丁寧に彫られている。ここまでは話の通り。さて、ここからは――。
「見るからに怪しい感じの洋館。」
「罠って線も捨て切れないけど、だからってじっとしてるワケにもいかないし?」
人差し指で硝子の靴を引っかけ、伽藍は大きな扉に手をかけた。鍵は開いていないようで、力を入れずともすんなりと客を迎え入れる。
扉を入ってすぐに天井から吊り下げられた上品なシャンデリアが目に入った。伽藍を出迎えたのは、上品なシャンデリアと広々としたホール。それから二階へと続く階段だ。赤い絨毯の敷かれたこの場所は、嘗ては豪華なドレスを身に纏った者たちが、夜な夜なダンスパーティーをしていた場所なのだろうと想像出来る。
「家探し失礼しま〜す。さてと。クイックシルバー。|四散五裂《コソコソ》で探索よろしく!」
そんな場所でも物怖などすることもなく、不法侵入ではありません。と言わんばかりに声をあげ、伽藍はばちりと弾ける銀光のポルターガイストへと視線を送った。
(近いとこはアタシが見てるから、遠い部屋から行ってきて。誰かいたらすぐ呼んでー。)
銀の光が弾けて消える。指に引っかけたままの硝子の靴をゆらゆら揺らし、伽藍は二階への階段を気儘に歩んだ。
「もしもーし、誰かいませんかー。」
広い洋館の中では、伽藍の声も反響することはない。ここがホールなら兎も角、この声が絨毯に吸われているのではないかと思うくらいに、声は籠っていた。ここでは靴音も絨毯に吸われるのだから、気合いは必要ない。緩やかな足取りで短い廊下を進んだ。
「もしもーし。」
扉を開いては閉じて、開いては閉じて。もう何個目の扉だろうか。虱潰しに探していたが、今の所目ぼしい物はない。家具もハリボテ、すっからかんの部屋。埃っぽくてじめじめした場所。どれもこれもハズレばかりを引いている気がする。
(洋館っつーと、シンデレラ的には継母とか、踵か爪先が靴に入らなかった意地悪姉妹がいそうだけど。)
いい加減、継母の部屋か、意地悪な姉たちの部屋でも引きたいものだ。二階の角部屋、一番最後の扉に手をかけた時、伽藍のスマホが震える。
「はいはーい。伽藍ちゃんでーす。」
硝子の靴を揺らしていた手が止まる。
『一階の大ホール。硝子の靴あり。』
画面に表示をされて行く単語は、クイックシルバーからの連絡だ。丁度、伽藍の真下。その扉の前で硝子の靴を見つけたらしい。
「ふぅん。」
二階は吹き抜けになっているようで、下を覗き込むと一階の玄関が見える。ここからなら、飛び降りればすぐだ。
廊下の手すりをノック、ノック、ノック。
「誰でも良いけどさ、人の硝子の靴はとっちゃ駄目だよ。」
手すりから離れ、軽やかな一歩を踏み出す。左足を美しく飾るそれは、指に引っかかったまま。
「|王子様のプロポーズ《愛》はお姫様のものなんだから。」
青を引き連れ、伽藍は下へと飛び込んだ。
第3章 ボス戦 『レディ・コルチカム』

あなたたちが導かれたのは、大ホールの前。玄関扉よりも大きな扉が鎮座している。扉の前。不自然にも脱ぎ捨てられた左足が、鬼さんこちらとあなたたちを誘った。
重たい音を立てて扉を開くと、そこには驚愕の光景が広がっていた。
硝子の靴がつり下げられたシャンデリア。それがミラーボールのように乱反射し、見た者の目をくらませる。右も左もどこを見ても硝子の靴だ。このホール全体が硝子の靴で覆われている。よくよく目を凝らしてみると、飾られている硝子の靴はどれもこれも右足のようで、左足の来訪を待っている。
「左足を見つけたのはあなたたち?」
――|裸の貴婦人《コルチカム》。
危険な美しさを持つ花は、有毒植物であり誤って口にしようものならば、あっという間に意識が薄れる。
瞼の上は彩られ、赤い唇で蠱惑的に微笑んでみせる女性。レディ・コルチカム。
コルチカムの花のドレスで着飾り、ヒールの音を響かせた。
「右足はいつも左足を待っているの。左足が揃えば、あとは|舞踏会《結婚式》。で悲鳴を響かせるだけ。」
「新郎も新婦もいらない。必要なのは硝子の靴と、私たちを祝福してくれる参列者の悲鳴のみ。」
レディ・コルチカムは靴を脱ぎ捨てる。
「さあ、左足を貸して。一緒に踊りましょう。」
落ちて行く靴音と共に、優雅な音楽が鳴り始めた。
「どんだけ集めてんの硝子の靴。」
テンションが上がらない。どの靴にも持ち主がいて、同じように胸を弾ませ、悩み抜いてようやく最高の一足を手に入れたはずだ。
「しかも右のばっか。」
「左はどうした左は。今持ってきた左だけじゃ足りないでしょ。」
鮮やかな青色の目が据わってしまう。お得意の笑みだって、こんな場所では浮かべることが出来ない。人差し指に引っ掛けた硝子の靴をぷらぷらと揺らし、左足を待ち望む女――レディ・コルチカムの言葉を待つ。
今だけ。これは伽藍の気紛れだ。本当ならこの硝子の靴を置いて、この女に一発お見舞いしてやりたいくらいだ。
「シンデレラになりたかった。だけど右足だけでは成り立たない。だからずっと、誰かが左足を持ってきてくれるって信じて待っていたわ。」
「あなたが持ってきてくれたのね。さあ、私に履かせて。」
無機質な瞳を向けたまま、一歩も動かない伽藍の指の先で靴が揺れる。
「……他人の靴を使ってそんなことしてさ。楽しい?」
「シンデレラは硝子の靴で踊った。なにも問題はないわ。それにね、零時の鐘が悲鳴に変わるだなんて、とっても刺激的じゃない?」
この女は、退屈な日々に刺激を加える為だけに、シンデレラの物語をなぞらえたに過ぎない。幾度目かの溜息が落ちた。
「そんなに刺激がほしいなら、お望みどおりにくれてやる。準備は良いかい?クイックシル――。」
一文字の奇跡が生まれない。伽藍の言葉は、|猛毒《レディ・コルチカム》によって遮られてしまった。眼前に女の顔が迫る。形の良い唇が怪し気に歪められ、伽藍の瞳の奥を覗き込んだ。
「おいたはダメよ?」
掲げた指から硝子の靴が滑り落ちる。しまった。と声をあげる余裕がない。振り返る速度がやけに遅く感じた。
「捕まえた。」
全てがスローモーションで再生をされる最中、彼女の手だけは時の支配をすり抜けて動いているかのように感じた。女のてのひらの上には硝子の靴が鎮座する。
「刺激をくれる?それなら、鬼さんこちら!」
周囲で踊るインビジブルを盾に、靴音を鳴らしてはわざと伽藍を誘った。舌打ちが漏れそうになるのを堪え、伽藍は誘われるままに地面を蹴り、彼女に追いつく。しかし、追いついた端からインビジブルと場所を入れ替え、伽藍の手から逃げてしまう。何とも厄介だ。
「ぴょんぴょん動き回って超厄介。」
「当たったと思ったらインビジブルだし、本人違うとこいるし……めんどい!」
相手が|舞踏会《この場》を魅了するならば、相手よりも先にシンデレラになってしまおう。それが手っ取り早い。伽藍は首の包帯に青く彩られた爪を引っかける。
ぷつん、とごくわずかな音と共に、首が晒された。そこに復讐心はないけれど、首輪のように残って消えない|伽藍の証《きずあと》が青と共に滲み出す。包帯の内側では文字が踊り、その傷跡がただの傷跡ではない事を物語った。
「|踊ろう《こいよ》。」
この場にいる者たちの目が、伽藍に注がれる。音楽が鳴り止み、誰もが息を飲んだ次の瞬間、場を盛り上げるヴァイオリンのソロが流れ始めた。
一斉に伽藍へと群がる様は、花を求める蜂だろうか。どいつもこいつも甘い蜜を啜ろうと、伽藍に手を伸ばす。彼らが触れる度に、ちくりとした微量の痛みを伴うが、伽藍は煩わし気にそれらを片手で払った。
「ワラワラ来るじゃん。触るな触るな。」
「魔法なんて御大層なもんでなし、ただの美味しい餌ってだけさ。マ、使えるからなんでも良いけど。」
毒は含まなければ害にならない。誰よりも先に、相手の目を奪ってしまえば問題はない。
「でもこれで、全部射程圏内。」
「クイックシルバー!」
――――|妖精狩猟群《ワイルドハント》。
銀光が激しい音を立ててその場で爆ぜる。
「奪われる前に奪え。これ、常識。」
この場で踊るのは、何も彼女だけではないのだ。鈍色の光を放つ何かが、伽藍の手から宙へと放られた。硝子の光を受けるそれは、レディ・コルチカムの眼前で止まる。
釘だ。
逃げの一手を奪われたレディ・コルチカムは、下唇を噛んでは硝子の靴を伽藍に向けて放り投げた。
「このホールに飾りとか欲しくない?」
釘の先が怪しく光る。ばちばちとスパークをしたまま、伽藍からの指示を待っているかのようだ。
「結婚式のおじゃま虫は、釘で|串刺し《標本》にしてやれ!」
バチン!派手な音を響かせて、釘の雨がホールに降る。足元へと落ちる音は、さながら毒蜂のステップだろうか。
そんな中、宙へと投げられた硝子の靴が、伽藍の手元へと戻って来た。これで魔法が解ける。伽藍の首には、|日常《ほうたい》があった。
踵を返す伽藍の背後。そこには裸足の女の標本が飾られた。題名は『|楽しい思い出《アタシのかち》』。
継萩・サルトゥーラは硝子の靴にまみれたホールよりも、目の前の敵を見据えていた。瞳は輝き、口の端がにやりとつり上がる。
相手が誘っているのだから、それに乗らない手はない。元より戦闘好きな身だ。邪魔な物は多々とあるが、暴れるには十分だろう。
「やったろうじゃないの!」
両手の拳を打ち鳴らし、武器を構える。そんなサルトゥーラの様子に、レディ・コルチカムは彼と同じように楽しそうに口を緩めた。
「お願い助けて?」
瞼を閉じて瞑想をする。10秒もあれば十分だ。10秒もあれば誰かを呼べる。
レディ・コルチカムはリストの中から一人の男を呼び、自らの盾にする。驚きに目を見開くサルトゥーラだったが、このような戦法を取る者は初めてではない。周囲の状況や冷静に戦況を把握し、目の前の男に攻撃が当たらぬようにとファミリアラージガトリングセントリーを乱れ撃つ。
サルトゥーラの冷静な判断のお陰か、被害は最小限に済みそうだ。盾にされてしまった男も、サルトゥーラの攻撃で致命傷を負う事は無かった。
「まだまだこれから!」
サルトゥーラは冷静さを保ったまま、皆の支援へと回るのだった。
井碕・靜眞は、誰よりも先に一歩を踏み出し、同じように一歩を踏み出しかけた参列者を片手で制する。様々な事件と対峙をする中で、そうすることが自然と身についていた。
「理解者を求めている訳ではないんでしょう。言葉通り、硝子の靴がお望みのようですから。」
「悲鳴のために参列者の方々を……?」
背の高い彼の後ろから、物部・真宵が遠慮気味に顔を覗かせる。今、前に出ているのは靜眞であり、この背中が真宵たちを護るための盾でもあることを、真宵は十分に理解をしているからだ。
「はい。こういった相手は、大抵自分が満足すればいい。何度も見て来ましたから。」
真剣な眼差しを向けたまま、靜眞はレディ・コルチカムの出方を伺う。
「良く知っているわね。あなたはその辺の参列者とは違うみたい。」
女は満足そうに口を緩め、甘い眼差しで靜眞を見つめている。彼女の足に、靴は無い。裸足のレディは、一歩。また一歩と靜眞へと近付いた。二人の間に緊張が走る。
「必要なのは硝子の靴。それも片方じゃなくて両方よ?」
何だか嫌な予感がした。
(必要なのは硝子の靴。)
女のフレーズが頭から離れない。その言葉を何度も、何度も反復し、真宵はそっと爪先で管狐へと合図を送った。二人から少し離れ、参列者を伺っていた真宵の管狐たちが、静かに真宵の足元に現れる。利口な子だ。いつもなら返事の代わりに鳴き声をあげるものの、この場ではふわりとした柔らかい尾を揺らすに留めている。
「みんな、これを持って離れていて。」
その中の一匹へと化粧箱を預けると、皆々一斉に散らばった。しかし、そんな様子を女は見逃すはずもなく、指先を掲げては化粧箱を持つ一匹に狙いを定める。
「逃げても無駄よ?」
レディ・コルチカムは瞼を閉じた。あの化粧箱を奪うことのできる者。そいつをリストの中から探しだしているのだ。10秒。たったの10秒ではあるが、選び抜くことは容易い。
女が瞼を閉じている間も管狐たちは広いホールを縦横無尽に駆けた。ホールの中に隠れる場所は無いが、女から遠ざかる事はできる。化粧箱を護る役目を受けた一匹は、真宵からの言いつけを守るべく、ホールの入口を目指して走り抜ける。
「お願い助けて?」
女の甘い声が二人の耳に届いた。レディ・コルチカムの準備が整ったのだ。その場に現れたのは、一人の男。スーツ姿のその男がレディ・コルチカムへとウィンクをすると、管狐を仕留めるべく拳銃を構えた。
「――触らないで。」
凛とした声と共に男の射程へと滑り込んだのは真宵だ。先程靜眞がそうしたように、管狐の前へと立つ。これは守らなければいけない。彼が誕生日にと自分にプレゼントをしてくれたのだから。覚悟を決めた声。けれども恐ろしさを拭う事は出来ない。目の前の男が人間であるならば尚更だ。男を睨みつける目はあれど、花の彫刻が施されたそれを構える真宵の手は震える。
靜眞の目が、僅かに見開かれる。
「物部さん。」
一発の銃声が響いた。
靜眞の拳銃から、細い煙がたちのぼる。拳銃は男の手ではなく床の上、靜眞が男の得物を撃ち落としたのだ。
三十年も生きているが誰かに贈り物をすることも、相手がそれを大切にしてくれることも、その感覚を知ることも今までなかった。これが、初めてのことだった。だからこそ、こんな時はどんな顔をすればいいのか分からない。今はそんなことを考える余裕は無いが、靜眞は困ったように笑んでいた。
「自分は物部さんに傷を負わせません。」
その瞬間、真宵が言葉を告げるよりも先に、飾られた硝子の靴をひっつかみ履き終えたレディ・コルチカムが高く高く跳躍する。両方とも右足の硝子の靴。サイズの合わないそれを足に引っかけたまま靜眞を狙い、踵から飛び込んだ。轟音と共に辺りに砂煙が舞い、シャンデリアに飾られた頭上の硝子の靴が、靜眞を狙う槍のごとく落ちて来る。
「王子様、隙だらけよ!」
自らの第六感で靜眞自身は硝子の靴のヒールから逃れることは出来たものの、見知らぬ誰かの幸福の証を、落ちて来る硝子の靴を割らずに全てを掴むことは難しい。苦々しい表情を浮かべ、次の一手をと思考を巡らせた中、その声は響いた。
「……っ。」
「|管狐たち《みんな》……!」
真宵の号令に、管狐たちは靜眞の元へと一目散に駆け寄る。きゅう!と鳴き声を上げ、小さな足が、そして駆け抜ける白が、彼の背中を踏み台にして一匹、また一匹と宙に飛びあがり硝子の靴を口でキャッチした。
「やるじゃない。でもこれはどうかしら?」
管狐たちへと拍手を送る間も無く、目の前にいたはずのレディ・コルチカムが次の手を使う。周囲には甘い香りが漂い、女の姿が消えた。彼女の行方を伝えるてがかりは甘い香りだけ。その香りを辿れば、彼女の元へと辿り着くことは容易い。靜眞の第六感と管狐たちの嗅覚を頼りに、一人と数匹は周囲を見渡した。
不意に甘い香りと、彼女の召喚した男が重なる。人だけで言えば二対二の勝負だ。どちらが勝ってもおかしくはない。ただ、此方には心強い味方がいる。
|昏狐ノ祓《ミカヅキノハラエ》。真宵の足元から、帝月が忍び寄る。影と影の隙間を縫い、硝子の靴の光を遮る|天鵞絨《ビロード》が艶やかな尾を彼らの背後で見せた。
「思う存分、暴れていらっしゃい。」
きゅう、と管狐の鳴き声が聞こえた。声に導かれた帝月は迷うことなく鳴き声を合図に尾を振るう。尾は男と空間を薙ぎ払い、男は壁へと打ち付けられた。姿を隠していたレディ・コルチカムも、帝月の尾をまともに食らいその場に伏す。
かちゃり、と女の足元で軽い金属音が聞こえる。尾の陰、目立たぬようにして身を隠していた靜眞が、レディ・コルチカムの足へと手錠をかけたのだ。
「手加減は必要ないでしょう?」
足元からの声に振り返った女は、甘い顔を引きつらせ、その場で藻掻く。手錠の捕縛からは逃れることは出来ない。
「舞踏会はひとりの為のものではないのですよ。」
「それが分からないなら……あなたにはまだ、硝子の靴は早いのでしょうね。」
「硝子の靴で踊っていいのは。」
レディ・コルチカムを見下ろす靜眞の眼差しは真剣そのものだ。彼女の左足に靴は無い。サイズも向きも合わない硝子の靴は、彼女の足からすっぽりと抜け出してしまったようだ。左足の美を片手に、運命の人を探す王子は残念ながらこの場には居ない。童話の一場面のような、それでいて不釣り合いな空間。その場所で靜眞は息を落す。
「硝子の靴で踊っていいのは。善良なお姫様だけだ。」
息とともに彼の口からは言葉が落とされる。最後の一撃は、群れる蛙の合唱か。レディ・コルチカムへと放った霊障が大きな杭となり、彼女の抵抗も虚しくレディ・コルチカムは硝子の靴を脱ぎ捨てた。
軈てホールは硝子の靴とレディ・コルチカムを残し、この場にいる者たちの前から姿を消してしまう。来た時と同じ場所、あの店の近くの小道に二人は立っていた。近くで歓喜の声が聞こえる。六月の花嫁を祝う式も、どうやらまだまだ続くようだ。硝子の靴を履いた女性が、幸福そうに微笑んでいる。
管狐や帝月、真宵へと感謝の言葉を述べ、小さく頭を下げる靜眞の前で、真宵も化粧箱を大切そうに抱え直した。