燦夏
✦あつはなつく、てりつける
夏の陽は容赦なく周囲を焼いている。
石畳の広場は白く光り、蝉の声がけたたましく響く中、風のない空気は肌にまとわりつくように重たい。
そんな中、君たちの前に現れたのは一人の少年だ。銀の髪が照り返しを受けて煌めき、褐色の肌にはそばかすが浮かんでいる。手には小さなうちわ。肩で息をしながら、ぱたぱたと自分の顔を仰いでいた。
「お前たち、こうも毎日バカ暑いと、涼しい場所に行きたくならないか?」
君達がどうこたえようと、なんなら何も答えまいと。
手に持ったうちわを掲げると、ジャンは得意げに高らかに宣言する。
「紹介してやろう。青と光のダンジョンを。風が鳴り、海が広がる――夏の楽園をな!」
✦なつはまばゆく、すずやかに
冒険の舞台は√ドラゴンファンタジー。星々が示したのは、ある山の麓に出来たダンジョンだ。
ダンジョンの入口には、ヒューリェという小さな山裾の街がある。
この時期、ヒューリェの空気はひときわ澄んでいる。木々の緑は濃く、遠くの山から吹き下ろす風は夏の熱気をほんの少し薄め、……そして町の路地という路地には、無数の風鈴が吊るされている。鈴の音。鈴の音。鈴の音。それらはリンと、互いに重ならぬよう、微かに呼吸するように音を鳴り交わす。
その音は耳に涼しく、心にやさしく、どこか懐かしさすら帯びているという。
ちょうど今は、年に一度の《涼風祭》の最中だそうだ。町中がこの祭を楽しみにしている。色とりどりの硝子が露店の天幕から落ちた光を受けて輝き揺れるたび、そこに涼やかな風があることを教えてくれるだろう。
「この街は硝子細工が名物なんだ。普段はトンボ玉や飾り皿なんかを作ってるけど、今だけは特別でさ」
「祭の間は、風鈴作りが盛んになるんだ」
熱気に包まれた通りには吹きガラスの実演台が並び、冒険者や旅人たちが真剣な表情で火を見つめている。赤く溶けた硝子の玉が命を吹き込まれて風鈴へと変わっていく様はどこか魔法にも似ていると評判で、頼めば冒険者にも吹きガラスの体験もさせてくれるそうだ。
向かいの露店では、筆と絵具を手に、硝子に好きな模様を描く者たちの笑顔が。その隣の路地には、魔力に応じて共鳴する風鈴を選べるという専門店もある。魔力のある者が触れれば微かに硝子が共鳴し、人に応じて音色が変わるという代物だ。雷を司る者には鋭い音色の風鈴が。癒しを担う者には柔らかな音色の風鈴ができあがるという。
選んだ風鈴は、お土産にしてもいいし、プレゼント用にしてもいい。
けれどこの街では、もうひとつの"習わし"がある。旅立つ者は、自らの手で風鈴を作り、それをダンジョンの奥にある大樹《リュグドラシェル》に捧げるのだ。
「そうやって、願いを結んでいくんだと。どうか無事に、どうか悔いなき旅をってな」
前述のように旅の安全祈願をするものが多いようだが、それ以外のお願い事をしても構わない。恋愛、金運、仕事運――きっと、樹は何も拒みはしない。そこには武勇も、魔法も、根性もいらない。ただひとつの祈りだけがあるのだから。
「フェスのあとにゃ、ダンジョンが待ってる。――ふふ、驚くぞ! 驚けよ!」
ジャンの口角が自慢げに上がる。
「入った先に広がってるのはなんと、青い海だ! ダンジョンの中に海。凄いだろ?」
そこにあるのは、どこまでも青い空とまぶしい陽光だ。ごつごつした岩場かと思われた地面にはきらめく真っ白な砂浜が広がり、どこからか潮風までもが吹き抜けてくるという。遥か沖でイルカのような幻獣が跳ねるトロピカルな夏の楽園のような光景は、どう考えてもダンジョンの中とは思えない。
「もちろん遊ぶのも結構。ただし、奥への道を見つけてからな」
「逆に言うと、それさえ見つければ……まあ、時間の許す限りなら、遊んでも許されるんじゃねえか?」
羨ましいな、と本当に羨ましそうに言ってから、もうひとつ、最後に見えた予知について彼は言葉を続ける。
「海を越えた先。そこに待ち構えてるのは、大きな一本の樹だ」
街でも聞いた世界樹リュグドラシェル。それは、精霊の住む清き大樹の名前だそうだ。
「暴れる奴にゃ容赦しねえが、自然と一緒に遊べる奴らには案外優しいらしいぜ」
足元には苔むした根が編み込まれるように広がり、所々に白い花が咲いている。涼気はその根元から染み出すように漂い、海で火照った体も心も、ゆるやかに鎮めてくれるだろう。樹の下には街の人々が作ったらしい木製のベンチ、丸石を組んだテーブル、傍らには冷たい果実水の瓶を売る露店もある。
「風鈴を飾る場所は、この樹の上のほうなんだが……風鈴を持った奴が近寄ると、樹が呼応するように枝を降ろしてくれるらしい」
それは樹の意志だとも、樹に宿る精霊の仕業だとも言われている。
ともあれ、願い事を終えて枝の影にそっと身体を横たえれば、――遥か上から、風鈴が見守るように揺れているのを見ることができる。
風鈴の音はすぐに空に消えてしまう。けれど消える直前に、きっと涼やかに君の耳に響くだろう。
「ヒューリェの街では、祭で吹く涼しい風は〈恵みの呼吸〉だと言われている。大地の、竜の、そして世界の。風鈴ってのは、その祝福を存分に受けて鳴り響く。――だから、最初の祈りにこうやって風鈴を作るんだってよ」
風鳴る夏。
楽しんで来いよ、と手を振るようにうちわの動きを再開しながら、少年が君達を送り出す。
第1章 日常 『涼やかなる風鈴フェス』
✦傘に、恵みの風ぞ降り
「恵みの呼吸《涼風祭》、風鳴る地か」
陽射しはまだ鋭いが、ヒューリェの街にはどこか涼しげな気配が漂っていた。音のせいだろう。町の通りを満たすのは、風に鳴る幾千の風鈴の音。チリン、リン、リリンと。重ならぬ音色は交互に重なり、まるで風が指揮する音楽のようだった。
(フロゥラの奴が見れば喜んだだろうなァ?)
町を歩くウィズ・ザー(闇蜥蜴・h01379)は、静かにその音に耳を澄ませていた。
彼の本体とも言える闇色の身体に眼はない。だからこそ、彼の感覚は澄んでいた。硝子が風を滑る音。子供が笑う声。祭の端にある屋台から香ってくるのであろう、焦げた甘だれの香り。そういった「世界の端々」を拾い集めるように、彼は通りを歩いていく。
「……煩くねェのが、逆に妙だな」
無数の風鈴が鳴っているというのに、不思議と喧騒ではない。まるでそれぞれが互いの音に気を配っているかのような調和。
祭そのものが生きている。そう感じられるほどだった。
「土産がてら、一つ作ってみるか」
折角だ。
そんな気分になったのは、響く音のせいもあるのだろう。言葉のままに通りを折れ、ウィズは《魔共鳴風鈴》の専門店へ足を運んだ。
ここは持つ者の魔力に呼応する風鈴を選んでくれる専門店だ。意匠も自由に選べると店主に朗らかに言われ、――ふと、ウィズの目に一つの風鈴が映った。
風鈴本体は小ぶりな鬼灯の実そのものを模している。赤橙ではなく、涼を感じさせる澄んだ銀色の実。短冊には薄手の白と黒の和紙に銀糸が通されているが、特に文字は入っていない。
「俺を呼んだのはテメェか?」
気配に誘われるままに手を伸ばす。その瞬間――ウィズの魔力に呼応するように、風鈴は澄んだ音を一つ響かせた。
リィ―――ン……。
それは銀鈴のようでいて、どこか黒曜石を思わせる深い響きだ。
音の尾が細く長く響く。聴き終えてなお、空気が震えているような余韻を残して。
「ガラスってよりやや金属質か? ……悪くねぇ」
これを、と店主へ告げると、ウィズはそれを手持ちの番傘の端に丁寧に括りつけた。日差しを避けるための傘に、涼を告げる音が宿る。
歩けば風鈴が一音、また一音と鳴り、静かに彼の気配を彩っていく。
「さて、もう一個作ってもいいが――いや、次は屋台かね。甘味でも……あっちは焼きもんか? 迷うぜ」
口調は気だるげながら、その歩みはどこか楽しげだった。
風鈴の音を揺らしながら、彼は再び、音と香りの祭の中へと消えていく。
✦ハニー、風鈴市場の乱
風が抜けるたび、軒に吊るされた風鈴が涼やかな音を鳴らす。
ネム・レム(うつろぎ・h02004)は白くふわふわした犬──ハニーを連れて、ゆっくりと祭りの中を歩いていた。
「お散歩日和やねぇ」
ふんわりと傍らのハニーに呟く。ハニーはその言葉を聞いているのかいないのか、硝子細工の繊細なきらめきに鼻をひくつかせたり、背伸びして風鈴を覗いたりしている。ハニーにとっては陽に照らされて地面に映る光のきらめきさえも珍しいようで、先ほどから動きが忙しない。
景色を満喫しながら歩いていると、ハニーが次に留まったのは、無地のままの硝子玉が並べられた一画だ。
「ほーう、風鈴の絵付け」
店内には筆や絵の具が丁寧に並び、完成見本の硝子が奥で涼しげに揺れている。
表通りのにぎやかな店よりは幾分か落ち着いた店舗だが、絵の具の匂いがほんのり風に混じっているのがハニーを惹きつけたポイントだろうか。
扉から中をぐいと覗き込むハニーに合わせ、ネムは「はいはい」と小さなその店舗に足を向けた。
「気になるん? ――ほんなら、やってみよか」
作業台の近くで自らの手元を覗き込むハニーに言って、筆を手に取る。
「夏っぽいのやと……」
自分の頭に浮かぶ涼の形。
彼は薄藍の無地の硝子に金や朱を重ね、小さな火花を散らすよう筆を走らせる。
夜空に咲く花を模して、色を弾けさせ、流線を描き、また点を打つ。
ひとつ、またひとつと。
仕上がった花火の風鈴を、傍らのハニーがじっと見上げていた。
つぶらな瞳が光を映し、やがて小さく鼻を鳴らす。
「ハニーもやりたいん?」
ネムはくすりと笑う。「ほんなら」と、小さな絵皿に淡い色を取り、ハニーの前足にそっと塗った。
「ほら、いくでぇ」
ぺたり。
ネムがハニーの手を硝子面に優しく押すと、そこに映るのは愛らしい肉球の模様だ。一度遠目から出来を見て、綺麗に中央と四つの丸が押せていることを確認する。
「かぁいらしいのが出来たなあ。――ん? もう一回やりたいん?」
ハニーが頷いたように見えたので、もう一度、今度は別の色でぺたりと。
はっ、はっ、と鳴く声はどうやら満足の証らしい。完成した風鈴を見て、ネムは目を細めて微笑んだ。
硝子に咲いた小さな肉球模様は、夏のいたずらのように愛らしく、風に揺れてきらりと光る。
「これはお土産にしよか。みぃんなに自慢してええんやで、ハニー」
✦陽光涼やかに、花咲いて
ヒューリェの街の中心にあたる風鈴通りには、今日は風と音があふれていた。
硝子細工の揺れる音。短冊のなびく音。誰かの笑い声と、客引きの元気な呼び声。
だけどそのすべてを包み込むように、一つひとつ違った音色の風鈴が、空を、時間を、やさしく撫でていた。
「なんて綺麗な音。ね、りり?」
乳白色の髪が風に揺れる。ビスクドールの少女ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)は、薄く笑んで隣を見た。
廻里・りり(綴・h01760)は片手で帽子を押さえながら、その音の海に包まれて、心底嬉しそうに目を細めている。
「はいっ。どれもすてきで、――どこに立ち寄るか、迷っちゃいますね!」
街路には所狭しと風鈴の露店が並んでいる。
色とりどりの硝子、金属、陶器、木製、果ては布を使ったものまで。その一つひとつに音があり、風に揺られるたび違った物語を囁いてくるようだった。りりの瞳は好奇心旺盛にあちらこちらへと向き、その様子をベルナデッタは微笑ましく見つめる。
「どれも素敵です! 他の硝子細工も、惹かれちゃうんですけど……っ!」
りりの待ちきれないという様子を見てベルナデッタが小さくうなずくと、足を小路の奥へとむけた。
「悩んでしまうわよね。それじゃあ、音色を聞きながらお散歩して決めるのはどう?」
「賛成ですっ。えへへ……⁂も、跳ねてる。ね、宵闇さんも……あっ」
りりの足元では、星を内包したようなスライム・宵闇がぽよんと跳ねた。それに呼応するように、⁂がそっとりりの足元に寄り添う。
「ふふ。はいはい、それじゃあ、みんなで一緒に行きましょうか」
✦
彼女たちの目にとまったのは、小路の奥まった場所にある一軒の風鈴店だった。木彫の看板には《音巡堂》と書かれている。
軒先に吊るされた風鈴たちはどれも、魔力に反応する品なのだという。
「気になります、このお店! わたしの音はどんなふうになるんでしょう?」
「目がキラキラよ、りり。――ワタシも気になったわ。ここにしましょうか」
りりが待ちきれないと言った様子で扉を開けると、内側はひんやりと涼しく、香木の香りがほのかに漂う空間だった。
天井からはいくつもの風鈴が星の軌道のように円を描いて吊るされており、風が通るたびにやわらかく音が巡る。どれも一点ものの魔力共鳴風鈴だそうだ。整然と並べられたそれらは、誰かに呼ばれる時を静かに待っているようだった。
中央には魔力を注ぐ天文盤が置かれ、そこに魔力を注ぐと音で応える風鈴が現れるという仕組みらしい。
「どうぞおひとつ。魔力をそっと流せば、響く鈴が見つかりますよ」
老婦人の店主が、やわらかく微笑んで中央の机を指す。
りりとベルナデッタは、そっとその前に並んだ。
まず、りりが手を差し出す。
彼女の掌から、微かに青白い魔力の粒が散った。
すると、吊るされている風鈴のひとつが――揺れることもなく、静かに音を鳴らした。
ちりん。
それは目立つような音色ではない、けれど透き通るような温かい音だった。例えるなら、木漏れ日の淡い光のような音。
老婦人が吊るされた風鈴を降ろしてりりに見せる。風鈴は小さな丸い硝子の中に、金の葉を一枚閉じ込めていた。陽の光を浴びれば葉脈が微かに光る。短冊は白に淡い水色の刺繍が施され、まるで青空に揺れるしおりのようだ。
「……お日様みたいに暖かい。すごく、あなたらしい音」
「そうかな?えへへ……じゃあ、次はベルちゃんの番ですねっ!」
ベルナデッタは静かに頷き、白磁の指先をそっとかざした。
彼女の魔力が満ちると、ひとつの風鈴が応えるように、リィン……と細く、長く音を伸ばす。
まるで薔薇の花弁が舞うような、やさしく儚い音。
選ばれた風鈴は、透明な硝子の内側に淡いピンクの花がひとひら、溶け込むように咲いていた。短冊は薄墨色に淡い薔薇模様。風を受けると、静かに舞うように揺れる。
「良い音……造形も素敵ね。こっちは本物の花弁が入っているみたい」
「わたしもこの音、だいすきです!
魔力を流すだけで、その人にぴったりの風鈴が見つかるなんて……不思議ですね」
ふたりの風鈴が並ぶと、それぞれが小さく、そしてぴたりと重なるように鳴った。
リィンと。互いに響き合う音が、まるで会話をするように空間に溶けていく。
「りり。ふたつの音、まるで共鳴してるみたいに聞こえるわ」
りりがそっと宵闇を撫で、ベルナデッタが⁂の頭を指先でとん、と触れる。
風が吹いて、ふたりの風鈴がもう一度重なり合って鳴った。
「はい! ……ベルちゃんと一緒にいると、なんだか音までなかよしさんになるみたいです」
不意に視線が合う。二人で笑い合う。
その笑顔は、音は、ずっと昔から一緒だったように自然で――
これからもきっと共にあろうという未来を、そっと告げるようにも思えた。
✦私達の旅よ、はじめまして
鈴音が重なり合う涼風祭の真っ只中、二人はヒューリェの街角でひときわ賑わう工房前に立っていた。
古い商家を改装したらしい吹きガラス工房には、木枠の窓から明るい陽が差し込んでいる。
「風鈴作り――。なんて素敵な響きなんだろうね、玲空ちゃん!」
「ふむ……風鈴とは、このように製作するのだな」
椿紅・玲空(白華海棠・h01316)は今日は興味津々に白い髪を揺らし、赤い瞳にきらりと光を浮かべる。エメ・ムジカ(L-Record.・h00583)も黒兎の耳をぴんと立て、宝石のような目をきらきらと輝かせていた。
入ってみよう!とムジカが玲空の手を引いて、意気揚々と工房の中へと入っていく。奥では職人が色硝子を溶かす炉が赤々と輝き、ガラス竿を回す手つきに見惚れる子どもたちの姿があった。作業台の上にはカラフルな硝子粒や金箔が並び、体験席には笑顔の親子や旅人が集まっている。
風鈴づくりの工程ごとに、涼やかな期待の声と炉のかすかな唸りが響いていた。
「現場を見るのは初めてだ。ムジカもか?」
「ううん、ぼくはねえ。工房を見たことはあるんだけど、――でも、実際に触ったりは初めてだよ! さっそく行ってみよう!」
二人は並んで、にぎやかな吹きガラス体験のコーナーへ。
工房の前には色とりどりの硝子細工が並び、脇の職人さんがやさしく声をかけてくれる。
「さあ二人とも! まずはこの竿に溶けたガラスを取るんだ。危ないから気をつけてね」
玲空が緊張した面持ちでガラス竿を持つ。熱いオレンジ色の硝子が、竿の先でぽってりと揺れた。
「……ぅわ、柔らかいな……っ!」
指示通りにゆっくり回してみるが、回し方が遅いと硝子がだらりと垂れて、思わず焦ってしまう。
「玲空ちゃん、頑張って!」
ムジカも職人さんに支えられながら、竿をくるくると回し、色硝子の粒を纏わせていく。
「わぁ! こうやってどんどんまぁるくなっていくんだねえ」
「次は膨らませてみようか。竿の反対側に口をつけて、ふーっと息を吹き込んでごらん」
二人の様子をにこやかに眺めながら、職人さんが次の指示を出す。
玲空は「む、意外と膨らまない……?」と頬をふくらませながら、何度も息を吹き込む。耳と尻尾までいっしょにぴぴぴと動いて、ムジカが思わずくすりと笑った。
「んむー!こうかな……っ!」
ムジカの方はといえば、普段歌っている肺活量をここぞとばかりに使ってふーっと息を吹き込む。
「わぁ、ちょっとおっきいフォルム!? でも、ぷっくりまぁるい風鈴になったよ~!」
玲空もコツを掴んだのか、出来たのはほぼまあるい風鈴だった。少し平らな部分があるのも味になるのが、吹きガラス体験の良いところだ。
「少し歪んだけど……まあまあの出来、だな?」
「うん!とっても上手!」
二人の声が重なる。思わずお互いの顔を見て、二人でふふふと笑いあった。
仕上げにもう一度色ガラスの粒を散らし、金箔や銀箔を好きなだけ貼りつける。
「玲空ちゃんの、まるで朝焼けの空みたいな色だね!ぼくのは……夜空っぽい?」
「ふむ。どちらも綺麗だな。ムジカのは、まるで星が瞬いているようだ。もう少し銀を――」
作りながら、「ここはこうしたら可愛いかな?」「いや、もうちょっと飾りを……」とわいわい盛り上がる。そうして仕上がった風鈴は、氷の魔法でゆっくりと冷ましてもらって出来上がりだ。
自分達が作った硝子玉を見ながら、玲空とムジカは達成感いっぱいの笑顔を浮かべた。
✦
「玲空ちゃん、とっても綺麗に出来たね! ぼく、すっっっごく楽しかったよ~!」
「私もすごく楽しかった。そういえば、こうやってムジカと一緒にものを作るのも初めてだったな」
工房を出ると、祭の賑わいと音楽、そして無数の風鈴の音が二人を迎えてくれる。
風に揺れる硝子の音、あちこちから聞こえる歌声や笑い声――。小路では家族連れが屋台でかき氷を食べたり、カップルが風鈴の絵付け体験に夢中になったり。夏の陽射しもどこか優しく、全てがキラキラしていた。
「帰ったらジャンくんに見せよっ! 作ってきたよ~って!」
玲空が完成した風鈴を陽にかざす。
ガラスの中の淡い色がきらりと揺れて、ムジカの作った夜空色の風鈴と並べてみると、まるで朝と夜が寄り添っているように見えた。
「ジャンくん、絶対びっくりするだろうね! 『玲空とムジカで作ったのか?』って!」
「良い考えだな。君の歌も添えて見せてやろう、きっと驚くぞ」
玲空はそっと風鈴を耳元に近づけて、揺れる硝子の澄んだ音を楽しむ。
「……音も、いいな。陽だまりの中にいるみたいだ」
ムジカも真似して自分の風鈴をそっと鳴らしてみる。軽やかに、しかし芯のある音が小路に溶けていく。
「うん! これも、ぼくの新しい"旅の音"だね」
「またひとつ、想い出が増えたな。――大事にするよ。ムジカ」
「うんっ、ぼくも大事にする!」
二人の手には世界にひとつだけの風鈴。
その音色と一緒に、新しい思い出も確かに刻まれていた。
祭の賑わいの中、玲空とムジカの笑顔は、鈴音のように澄んで、どこまでも爽やかに響いていく。
✦燕と土竜、硝子の向こう
風鈴市場の道は、色とりどりの屋台と人の活気であふれていた。
通り沿いには硝子細工や金属、陶器の風鈴が連なり、涼やかな音が絶えず耳に届く。家族連れや旅人が笑い交わし、子どもたちは氷菓子を頬張りながら駆け回る。
奥には吹きガラス工房が軒を連ね、炎のゆらめきと共に、職人と見学者の熱気が街の賑わいをさらに彩っているようだ。
ドミニク・ヘレルヴルフ(泥塗れのアポロ・h04748)――ドニは、燦燦と降り注ぐ陽光を避けるようにサングラスをかけ、普段は土や油に馴染んだ手をぶらりと下げていた。その隣をゼズベット・ジスクリエ(ワタリドリ・h00742)が、空を見上げて歩いている。目線の先には、風に揺れる無数の風鈴があった。
「風鈴って、こんなにいろんな音があるんだね。僕、初めて知ったんだけど!」
「ああ。風鈴は金属や硝子だけじゃねえ、竹や貝殻でも作れるからな」
「素材って硝子限定じゃないんだ?」
そこは賑やかな屋台が連なる風鈴通りの一角だ。二人の話声も市場の喧騒と風鈴と馴染み、空へと自然に融けていく。
祭りの特別な空気に包まれて、すれ違う誰もが心なしか足取りも軽やかだ。ドニは鼻を利かせて、どこか懐かしい硝子や金属の匂いを感じている。一方のゼズは、風に運ばれてくる涼やかな音色に目を細めて耳を傾けていた。
そんな中、二人が足を止めたのは、あるガラス工房の看板だ。
「見てドニ、吹きガラスの体験だって!」
「……行ってみるか?俺も、職人技を間近で見られる機会は逃したくねえしな」
✦
工房の扉をくぐると、外の賑わいとは別世界の光景が広がっていた。
炎の光が壁や天井を淡く照らし、空気は重たく揺らめいている。額に汗が滲み、吐く息までぬるく感じられるほどだ。
「お兄さんたちも体験かい?」そう職人に声をかけられ、エプロンを借りて作業台へ並ぶ二人。ゼズは「何だかドキドキするな」と胸を弾ませた。
まずは竿の先に溶けた硝子を巻き取る作業から。
炉の前に立つと、熱気で更にじんわりと汗がにじむ。
「硝子のもとって、なんだか水飴みたいだね?」
「中々熱いな、これは……」
職人が先に手本を見せ、二人も同じように交互に竿をくるくると回す。
ドニはさすがに手際がいい。溶けたガラスを素早く巻き取り、「意外と重いな」と唸りつつも、職人の指示に従い、ゆっくりと竿を回して玉を整える。ゼズは最初こそ戸惑っていたが、2回ほど試行錯誤したあとで小さな球を作ることに成功した。
「じゃあ、いよいよ膨らませるぞ。竿の先から、やさしく息を吹き込んで」
ドニは横の職人の説明と手をじっくりと観察してから、指示に従い、竿を口元にあててぐっと息を吸い込む。
「――ふっ」
炉の炎の反射で瞳がきらめく。
真剣な表情で暫く息を吹き込むと、みるみるうちにガラス玉が膨らみ、透明な球体になっていく。「おお、やるなドニ!」とゼズが歓声を上げた。横で見ている職人の一人も「君、筋がいいねえ」と感心した表情だ。
「……いや。実際にやってみると、中々加減が難しい。簡単そうに見えるのは、熟練の腕があるからこそだな」
ドニが慎重にガラス玉を炉の火から離して冷まし始めると、ゼズは興味津々にその様子をのぞき込む。
「すごいなドニ。器用なもんだよ、やっぱり」
「お前もやってみろよ。ゼズ」
「うん!」
ようし、とゼズは勢いよく竿に口をつけ、「ふぅーっ!」と大きく息を吹き込む――
硝子玉に工房の灯りが反射して七色にきらめく。最初は中々膨らまなかったが、職人の手助けもあり、次第にゼズのガラスはふっくらと丸く膨らんでいった。
「わ! ちょ、ちょっと大きすぎた……けど、中々きれいじゃない!?」
ゼズの手のなか、まだほんのり熱を残す硝子玉が、揺れる炎に包まれてきらりと光っている。中々いいじゃないか、と真面目な声で言うドニに、ゼズはひとつにこやかな笑顔を返した。
✦
できあがった硝子玉は職人達によって冷却台へ運ばれ、本格的に休ませることになる。
自分たちの作った硝子玉を前に、自然と顔も緩んだ。
「ホント魔法みたいな時間だった! こうやって自分で作ったものが新しい"音"になるって、すごい体験だよね」
「ああ。何もないところから物が形になるのは、やっぱ面白えもんだ」
しばらくの間、ふたりは工房の入口で涼みながら完成を待った。
「ドニ。外の空気、気持ちいいね」
「……工房はどこも暑ィからな」
ゼズは嬉しそうに笑い、ドニの肩を軽く叩く。
「次は絵付けもやろうよ!」
「絵付けぇ? うまく描けるか分かんねえが……」
「大丈夫だって! ドニの土竜、きっと可愛くなるよ!」
描くのは土竜で確定かよ、とぼやくように、けれど奥に楽しそうな匂いを籠めたドニの声が響く。
吹きガラス体験で汗をかいたふたりの頬には、今はさわやかな風が通り抜けていった。
「まかせて。僕、絵心は花丸だからさ!」
「……ま、記念にはなるか」
目に映るのは、祭の音と色と――ふたりで作った、唯一無二の風鈴たち。
✦今日の良き隣人に
涼やかな音が、空から降る光のように降り注ぐ。
ひらりと光の粒が舞った。
それは風に乗って舞い降りた金の蝶。――否、金髪の髪を結い上げた小さな妖精。シルヴァ・ベル(店番妖精・h04263)だ。
「まあ、どれも素敵ですわね」
宝石のような青い瞳が、ひとつひとつの風鈴を確かめるように見上げていく。
軒先に並ぶ硝子の風鈴たちは、すべてがひとつとして同じものがなく、色も形も揺れ方も違っていた。すらりと細長いしずく型、花びらのように丸みを帯びたもの、金箔が溶け込んだような華やかな一品……。
シルヴァはそのひとつひとつに目を留め、時には念じるように手を翳し、硝子に籠った音を探る。
「――もし。少々お尋ねしたい事があるのですが」
ただ可愛らしいだけ。ただ綺麗なだけの風鈴ならば、市場にはそれこそ幾千万と揃っている。
けれど彼女の求めているものは、人間が使う普通の風鈴とは一味違った。
市場でひときわ小さく、それでいて美しく、風が吹けば心の奥にまで沁み渡るような音色を持ち、"妖精からの願い"であることをひと目で伝えられるもの。
それは、ヒューリェの古き精霊に捧げるひとつの願いへの礼儀でもあったかもしれない。
見た目だけでなく音も大切だ。夏の風にふさわしい音を奏でてくれる、そんな風鈴が理想である。
通常の骨董市ではお目に掛かれないであろう一品を求め、シルヴァは噂を頼りに市場を奥へ奥へと飛んでいく。
✦
あそこなら。
そういう話が聞けたのは、散策から随分経ってからのことだ。
通りの奥では、噂の作家がその場で絵付けを行っていた。
ひとの手で一筆ずつ描かれる柄は、いずれも一点もののようだ。涼しげな青で描かれた魚や、淡い桃色の撫子、星空を閉じ込めたような風鈴には、一筆一筆に彼の祈りが宿っているようだった。
作品が並べられている小さな木棚に、望みの一品はあった。
それは他よりもひときわ小さく、人間ならば指先に乗せられるほどの硝子風鈴だ。
淡い乳白の硝子玉の中には金粉のような粒が浮かび、翅のように繊細な細工が施されている。
店主に断りを得ると、シルヴァは風鈴にそっと近づき、静かに耳を澄ませた。
ちりん。
音色はただそれだけだ。
広がることなく、真っ直ぐに胸へ届く。小さくとも、確かに響く音色。
「――これですわね。わたくしの願いを託すなら」
シルヴァは優しくその風鈴を抱え、空を見上げた。
ちりん、と。
もう一度、彼女の動きに呼応するように音が鳴る。
それはちいさな妖精の心を映した、澄みきった夏の音にも思えた。
✦爆誕☆なぞものフレンズ
「吹きガラスで! 風鈴を作るぞーっ! おーっ!」
工房の入り口で戀ヶ仲・くるり(Rolling days・h01025)が拳を突き上げれば、白・とわ(白比丘尼・h02033)もすかさず「おー!」と続く。
二人がきたのは吹きガラスの専門の工房だ。声は夏空に弾み、市場を歩く人々と同じような笑みを浮かべている。
お祭りの活気と好奇心が、ふたりの胸をそっと押していく。くるりは「本当に作れるのかな?」と期待に目を輝かせ、とわも「楽しみですわ!」と少しはにかんだ。そんな高揚感を胸に、二人は木戸を押して工房へと足を踏み入れ――
――工房の扉を開けた瞬間、むわっとした熱気がふたりを包む。
「よ、予想以上に、あっつい………!」
工房の中にはすでに何人かの体験客がいて、みんな顔を赤くしながらも笑い声をあげていた。
職人さんがにこやかに声をかけてくれ、「こちらの席へどうぞ」と案内してくれる。
「は、初めてなんだけど、うまくできるかな……!」
「大丈夫ですわ、くるりさま。とわも初めてですもの。一緒に頑張りましょう!」
えいえいおーともう一度気合を入れる二人。
その様子を微笑ましげに見ながら、職人の一人が溶けた色ガラスを竿の先に巻き取ってくれる。とろりと柔らかなガラスは、まるで水飴のようだ。
「見て見て!この色、なぞものカラー!」
「本当ですわ、きれい……とわも、負けてられませんね!」
作業台の上で、なぞものの形を目指してくるくるとガラス竿を回す。
色々な色硝子が巻き取られていく様はさながら小さな虹色の世界で、外の熱気も忘れてしまいそうになる。
「さあ、いよいよ息を吹き込んでみようか」
「よ、……ようし、がんばるぞう!」
くるりは緊張しながらも、職人の手本を思い出し、竿の反対側から「ふぅーっ!」と勢いよく息を吹き込んだ――が、思ったより膨らまない。
額に汗が滲んできて、一度口を離す。
「あああ、膨らまな、――もう一回いいですかぁ!?」
とわも「めげそうですわ…」と小声で呟きながらも、くるりと一緒に「ふぅーっ!」と息を吹き込んだ。
「ほ、ほんとう……! な、なかなか難しいです……!」
「とわちゃん! い、一緒に頑張ろう!!」
再び挑戦。今度はふたりとも、職人に「ゆっくり回しながら、優しくね」とサポートしてもらい、少しずつだが丸く、ふっくらとした風鈴の素地ができていった。
途中、「あっ、ちょっと歪んだ?」と焦るけれど、二人で「でも、愛嬌あるよね」と笑い合う。
「とわのは――じゃーん、白いなぞものさまです! お友達がいたら、なぞものさまもきっと喜びますわ」
「わあ……なぞものフレンド!? ふたり並べたら絶対かわいいねぇ!」
窓の外の陽射しを浴びて、ふたりのなぞもの風鈴が仲良く並ぶ。
くるりが「双子みたいにも見えない?」と笑えば、とわも「仲良し双子さんですわ」と満更でもない顔。
そして、くるりはふと思い立ったように、きれいな丸型になったガラス玉を手に取った。
「これ! 一番きれいに膨らんだやつは、夜空に星が光る絵にしたいな」
窓辺から差し込む光の中、とわの髪がふと揺れる。その髪の内側は深い群青から藍色、夜の海のような澄んだ色で、よく見ると、星屑のような微かな輝きまで混じっている。くるりはつい見とれ、「……その綺麗な空には、きっと敵いそうもないけど」と、そっと笑った。
「まぁ……」
とわはくるりの言葉に、思わず頬を染める。恥ずかしさを紛らわすようにふと窓の外を見上げた。
「とわは……夏の青空を描きますわ。今日の思い出、忘れませんように」
窓の外からは祭りのざわめきと、どこか遠くで鳴る風鈴の音色がかすかに聞こえる。
淡い陽射しが硝子越しに注ぎ、風鈴のもとに落ちた光が机の上で小さくきらめいた。
✦
やがて、完成した風鈴が手元に戻ってきた。
くるりの手のひらに乗るのは淡い黄緑色のなぞもの。とわの手には、真っ白ななぞものがちょこんと乗っている。ふたりで目を合わせて「かわいいー!」と同時に声を上げた。
仕上げの工程で、「最後は短冊を選びましょう」と職人が色とりどりの紙を持ってきてくれる。
「短冊はね、真っ白なお魚さんにしようかな。星空泳いでもらおう!――とわちゃんはどうする?」
「とわは……黄色の紙を丸く切って、太陽の形にしますわ」
隣で笑うあなたのように、満面の笑顔の太陽の短冊を。
とわはくるりの顔を横から眺めるが、くるりは視線に気づいても「え、な、なんか顔についてる!?」と違う事に焦る。とわは「いいえ、なんでもありません」と微笑んだ。
短冊を並べてみると、まるで星空を泳ぐ魚と、それを優しく照らす太陽。
風鈴の下で、お魚と太陽がゆらゆら揺れる。
くるりもとわも「今日の思い出、ちゃんと残せたねえ」と笑い合った。
「風鈴が鳴ったら、今日のこと思い出すね」
「――はい。きっと、ずっと忘れません」
涼やかな音と、柔らかな光に包まれて、ふたりの夏の日はゆっくりと進んでいく。
市場のざわめきのなか、なぞものたちもどこか嬉しそうに微笑んでいる……いや、いつものようにバタバタと騒いでいるようにも見えた。
✦雷雲は劈く、嵐を伴い
夏の陽は容赦がない。
石畳を焦がす熱気のなか、ヒューリェの風鈴市場には涼を求めて多くの人々が訪れていた。
細い路地に吊るされた無数の風鈴が風を受けて奏でるその音は、ひとつとして同じものがなく、まるで街全体が小さな音楽会の舞台になっているようだ。
「……うわ。人、多っ」
ぐったりとした声で呟いたのは、緇・カナト(hellhound・h02325)だ。正直な所、夏場にこうしてわざわざ出歩く人々の気持ちは彼には分からない。
暑さが苦手なくせに、今日という日にこの小路を訪れている理由は、ただひとつ――
「主よ、どうだ? この祭の音の数々! 夏の喧騒も、今日ばかりは悪くないだろう?」
歩くのは、人の姿を取った雷獣、トゥルエノ・トニトルス(coup de foudre・h06535)だ。歳若い外見のその姿に似合わぬ、堂々たる口調で胸を張る。
「お前が引きずってきたからな。……で、何が見たいって?」
「よく聞いてくれた主よ。見たい店舗があるのだ、無論付き合ってくれるな?」
通りはすでに夏の熱気と人々の熱気でむせ返るほどだ。行き交う人々とすれ違う中、屋台の合間から涼しげな音が絶え間なく耳をくすぐる。
「逆に今から帰るって言って帰してくれんの?」
「専門店があるのだよ、主! 魔力に応じて風鈴が選ばれるらしい。――我が雷なら、さぞや良い音だろう?」
前述のカナトの言葉を軽やかに避けると、主の音色も気になるしとトールがにこやかに続けた。
カナトはため息をつきながらも、それに対して深い否定はしない。
歩けば、左右の店々から響く音。
高いもの、深いもの、まろやかなもの。風に乗った音が重ならず、互いに空間を譲り合うように調和しているのが不思議だった。
――そして、その音達がそれほど不快に感じない事も。
✦
やがて彼らは、小路の角にひっそりと佇む一軒の店にたどり着く。看板には《風籟庵》と記されていた。
簾越しに風が通る、小さな和の店構えだ。格子戸を引いて中に入ると、畳敷きの床に静けさが満ちていた。
竹製の天井には、硝子や金属、陶器で作られた風鈴が円環状に吊るされ、風もないのに一つ、また一つと音を奏でる。障子越しの柔らかな光が風鈴を透かし、影がゆらゆらと揺れていた。
「どうぞ、おひとつ。お客様の魔力に呼応するものを、風が選びますよ」
店主は柔らかく微笑む。
トールが一歩踏み出し宙に向けて手をかざすと、ぱしりと青白い雷の魔力が走った。
そして、天井の一角から――鋭く、けれどどこか瑞々しい音が響く。
雷が落ちたような眩い光がトールの視界の端に映った。どうやら一つの風鈴が揺れたらしい。
店主が「こちらです」と差し出した風鈴は、薄濁りの硝子に金の装飾が成された、雷の花弁のような意匠を施されたものだった。風鈴は紐の部分に細い特注のベルが付けられているようで、振動の度に空気を切るような高音を奏でるようだ。
「ほう……! 見よ主、我が雷、音すら美しいではないか!」
短冊は淡い藍に銀糸の刺繍が走り、見る角度によって光のような模様が走る。先程トールの目に見えたのはこれらしい。まさに雷獣にふさわしい風鈴だった。
「似合ってるよ」
呆れ混じりに笑うカナト。だが、その灰色の瞳にはどこか誇らしげな色もあった。
「じゃ、オレもいくかね」
カナトが無造作に手を差し出す。
実際のところ、彼にトールほどの熱意はなかった。……黒妖犬が鳴らす音など予想もつかない。自身にあるのは、闇と夜のような静寂のイメージのみだ。
魔力を流すと、空気がふっと沈むような気配が店内に広がった。それは先程の光と違い、夜のような静謐。
先程までうるさいほど鳴っていた天井の風鈴が、一度一斉に静まり――
――リン。
それは控えめに、低く、――けれど確かに聞こえてくる遠音だった。
まるで月明かりに響く夜の遠吠えのような。
「……これがオレの?」
選ばれた風鈴は、トールと同じ半透明の硝子に、銀の霧が渦を巻くように閉じ込められたものだ。
中心には小さな月の欠片のような銀片が埋め込まれており、音が鳴るたび光が揺れる。短冊は黒に銀糸の刺繍がされたシンプルなものだ。糸はどうやら、トールと同じものらしい。
カナトは、そっとその風鈴を指先で揺らしてみる。静かな音がひとつ、空気を震わせて響く。隣でトールが自分の風鈴を同じように鳴らすと、ふたつの音色が重なり合った。
しばらくふたりはその音に耳を傾けていたが、やがてトールがぽつりと呟く。
「主のは静かで、いい音だな」
トールがぽつりと言う。
カナトはふと目を細めて、「お前の方がわかりやすくて良い音じゃん」と返した。
「それはそうだが」
ふんと、当然だというように返したトールが、相手の風鈴を見ながら言葉をつづけた。
「雷が鳴る前には、凛とした静寂が似合う。主と居ると、我の音も引き立つだろう?」
「――なにそれ、ちょっとは褒めてくれてるの? 珍しい」
カナトはわざとらしく肩をすくめて笑う。
「そうか? 我はいつも主を褒めちぎっておるだろう?」
声音はどこか柔らかく、瞳の奥にほのかな誇らしさが宿っていた。
二つの風鈴が並ぶと、静かな音と鋭い響きが不思議とよく馴染む。
祭りの賑わいの中、ふたりの間を涼やかな風がすり抜けていく――。
✦黒狐は涼夜に"ぴょん"と撥ねるか?
風が揺れるたび、鈴の音が幾重にも重なり、耳元を涼やかに撫でていく。
ヒューリェの小路のひとつ。絵付け体験の店が並ぶ中、夜鷹・芥(stray・h00864)と雨夜・氷月(壊月・h00493)の二人は、色とりどりの硝子風鈴を前に向かい合って座っていた。
二人がいるのは木造平屋の小さな風鈴屋だ。
赤提灯と手描きの旗が目印の店の入口には「絵付け体験できます!」の文字と、子どもたちの描いた風鈴が並んでいる。長机には色とりどりの絵具と筆、小さな椅子が並び、親子連れやカップルが楽しげに筆を走らせている。風が吹くたび、店先の風鈴がにぎやかに音を重ね、夏の午後を優しく彩っていた。
二人がこの店に入ってから凡そ20分ほどが経過していた。
その間二人は向かい合い、時折筆先を見比べながら、無言で硝子の面に集中している。
――20分前、丁度店長らしき恰幅のいい男性に声を掛けられたのである。「やっていかない?」と、気軽な調子で。
「………こんなに暑くても、風鈴の音があるだけで、なんだかマシに思えるよな」
ようやっとそう呟いた芥は、未だじっと風鈴の丸い硝子の面を見つめている。
筆先に墨を含ませ、慎重に、慎重に――だがその前では、氷月がもう既に笑いを堪えていた。
「なあ、描いてる最中に笑うな。集中してんだ」
「ゴメンって。でもさ――俺の顔見て、それ描いてるんだよね?」
言葉を交わし合い、ようやくお互いがお互いの顔を見た。
「ああ。見ろ、お前の似顔絵と、三日月を描いてみた。我ながらそっくりだ」
氷月は硝子越しに描かれた"それ"を見て、――いよいよ吹き出す。
硝子の球体にはムンクのように伸びた顔に、細く伸びる目。ぎょろりとした左右の瞳は、妙に強調されており、なぜか綺麗な髪と三日月だけがやたらリアルだ。
なんというか、氷月の面影はどこにもない。強いて言えば、何か魂の叫びのような迫力がある。
芥は心底真面目な顔で相手を見つめているが、その横に掲げられた風鈴は妙に前衛的だ。
「ははっ、マジで!? これ俺!? いやあ嬉しいなあ! すっごく味あるよコレ!」
「……くっ…そんなに笑うか?」
「ご、ごめんごめん。ううん、間違いなく唯一無二だって! いいじゃん!」
氷月の言葉は冗談めいているようで、実際に少し楽しげでもある。
それが伝染したのか、芥の口元にも、わずかに笑みの形が浮かんだ。
「じゃじゃーん。俺のはこれ!」
氷月の風鈴に描かれているのは、駆ける黒狐と、脇に描かれた点々とした沈丁花だ。
花は香るような静けさを孕み、鈴が鳴るたびに絵の中の花が香ってくるようにすら思える。さらに縁には銀の絵の具で星屑のような飾り絵が描かれ、揺れれば光がちらちらと踊った。
「へえ……うまいな。コレ、事務所イメージしてくれたんだろ」
芥は絵の細部を眺めながら、感嘆とも羨望ともつかぬ声を漏らす。
「センスの勝利ってやつかな。でも、アレを見た後だと味気なく見えちゃうな~」
「……ぐぬ」
顔をしかめる芥に、氷月はニヤリと笑いかける。そのやりとりすら、どこか楽しげだった。
彼らの背後では、子どもたちが筆を振るいながら「あっ、失敗したー!」と笑い、隣では年配の職人が優しく指導している。
風鈴の絵付け体験は、まさに《涼風祭》ならではの風物詩。選ぶも良し、作るも良し。飾るだけで涼が宿る、そんな不思議な魅力がある。
「……ああ、そういえば。この風鈴って、もうひとつ作るのが習わしらしいね」
氷月が、筆を洗いながら思い出したように言う。
「言っていたな。一つは持ち帰り用、もう一つは、ダンジョンの奥にある大樹へ捧げると。夏の厄落とし、願掛けの代わりだとか」
芥は、改めてもう一つの風鈴に筆を取った。
その手元には、青空色に塗られた透明なガラスの下地。
そこへ、筆先で金色の花を、ぽつんと一輪だけ添える。
「…………これで、いいか」
氷月は黙ってその様子を眺め、静かに頷いた。
互いに描き終えた風鈴は、しばらく乾かすために吊るされる。
軽やかな風が吹くたび、かすかな音色が交わり、ふたつの風鈴が涼やかに鳴った。
✦
「なあ、俺も土産用にもうひとつ欲しいんだけど」
氷月が不意に立ち上がり、机の向こうの芥を見下ろす。
「さっきのは捧げる用にしようと思うんだ。で、今度は共鳴する風鈴ってやつにしようと思って。――魔力で音が変わるんだって。面白そうだろ?」
芥は少し首を傾げてから、手元の風鈴を箱に片付け、ゆるく笑う。
「良いぜ、土産用の風鈴賛成。お前が鳴らす音、聞かせろよ」
「おう、任せて」
氷月は得意げに頷く。
二人は並んで工房を出ると、夕暮れの市場の喧騒へと溶けていく。
人波をすり抜ければ、頭上には色とりどりの風鈴が軒を連ね、涼やかな音が背中を押してくれる。屋台の灯りが長く伸びる影を作り、遠くでは子どもたちの笑い声や、どこかで打ち鳴らす祭囃子の音も混じる。
小路を抜け、ふたりの足音が静かに響く。
これから向かうのは、魔力が風と音を繋ぐ、特別な一品との出会いの場。
夏のひとときを彩るもうひとつの物語が、いま静かに幕を開けようとしていた。
✦思い出を一つ、風鈴は屋敷中
真昼の風鈴市は灼けるような日差しに包まれていた。木々の葉も照り返しに銀色を帯び、市場の道を渡る風さえどこかぬるく感じられる。
それでも軒先にずらりと吊るされた無数の風鈴は、風に揺れて一斉に涼やかな音色を奏でていた。色も音も百様、透きとおったガラスの中で光が跳ね、どこか遠い昔の夏休みを思い出させる。
「昼間っから外に出るもんじゃねえ、が……ガキ共が飛び跳ねるようなリゾートの視察だ、仕方ねえか」
七・ザネリ(夜探し・h01301)はそうぼやきながら、横を歩く明日咲・理(月影・h02964)が持つ日傘の下に、しれっと自分の背中を滑り込ませている。いつもの猫背の手に、空っぽの買い物袋をぶらさげて。
「ザネリさん、ここに来るまでに水分は捕ったか?」
理はといえば、時おり立ち止まっては辺りの風景を静かに見渡している。視線は鋭いが、刺々しい雰囲気ではない。
「……ひひ、うちの世話役は何時いかなる時も100点だな。臨時ボーナスをくれてやってもいい」
ザネリはニヤけるが、理は無表情で受け流す。
この世界は理にとって初めての場所だ。鮮やかな色合いの暖簾や、見慣れぬ衣装の人々。異国情緒を漂わせながらも、どこか懐かしい匂いのする賑わい。理は一歩ごとに風景を確かめるように歩いていた。市場の奥からは、焼き菓子やかき氷の甘い香りが混じる。
通りの両脇には、所狭しと風鈴を吊るす専門店が並んでいる。
透明なガラス、深い藍、花の文様、動物の形――それぞれが風を受けて静かな歌を奏でていた。吊り下げられた無数の短冊も、青空の下でひらひらと踊っている。子どもたちの歓声、大人たちのざわめき、すべてが音と光に包まれていた。
「よし。仕事のできる男、理よ。付き合わせた礼になんでも買ってやる、言え」
理はぱちりと瞬きし、「欲しいもの?……特にはないな」と応じる。
視線だけを横に寄越し、どうせまたザネリが色々買い込むのだろうと肩をすくめた。
「アンタが選んだ方が、余程良いものが手に入るだろう」
「……はー、可愛くねえガキ」
ふと、頭上でいくつもの風鈴が澄んだ音を奏でる。人混みの合間から、親に手を引かれた子どもたちが嬉しそうに風鈴を揺らしているのが見えた。市場の熱気と甘い夏の香りが、緩やかにふたりを包む。
「屋敷にこういうのを設置すれば、屋敷の子たちも楽しいんじゃないか?」
理はそういって一瞬だけ口元を和らげる。何気ないその一言に、ザネリは「お前は要らないところまで世話を焼きすぎだ」と苦笑しつつも、目を細める。
「が。――夏の間ぐらい、廊下の端から端までうるせえぐらいこいつを吊るしても悪くはない、か」
涼やかな風が通りを抜け、色とりどりの短冊がひらひらと舞う。
「それと、羨ましがってたクソ可愛いガキにもひとつ見繕うかね」
その後のザネリの買い方は豪快そのものだった。
「よう、店主。夏らしいな、いい音で歌うじゃねえか。……その、目ん玉が桃色の兎の形をしたヤツ。それをひとつ」
「あいよ」
まずザネリが目を留めたのは、ふわりとした淡い桃色の硝子でかたどられた、小さな兎の形をした風鈴だった。
丸みを帯びた体は手のひらにちょうど収まるくらいのサイズで、ガラスの内側にはきらきらと星屑のような銀の粒が舞っている。目元にはほのかに赤みを帯びたピンク色のガラスが埋め込まれ、光の加減によって微笑むようにも、とぼけた顔にも見える。
「………その風鈴、あいつの土産には可愛すぎないか?」
理が真面目な意見を言うと、ザネリは「あいつは案外こういうのを喜ぶんだ、俺は詳しい」とザネリも真面目な顔で返した。
「それから、そうだな。――ここから、あちらまで、全て。土産用に包んでくれ」
「あい……あいよ!?」
気前よく指差すザネリに、店主が慌てて箱を運び出す。
理は「ザネリさん……」とぼやくが、ザネリは「うちの世話役が珍しく欲しいと言ったんでね、ひとつ、ふたつじゃあ、つまらねえだろ」と事もなげに返した。
理は箱に入れられていく風鈴の一つ一つを見ながら、屋敷に入り浸る面々の顔や、それぞれの好みを思い出していた。
華やかな花の文様、夜空に星が瞬くもの、動物の形や、淡く儚い色合いの硝子。
横の男は尚も豪快に買い物袋を膨らませていく。彼は本当に、気に入ればどこまでも大人買いをする男だ。
「理、あとはどれが良い。選んでいいぞ、値段は気にしなくて良い」
「……俺が選ぶなら、こういうの」
風鈴以外も忘れない。互いに手にした硝子細工を見せ、全てを買い物かごに入れていく。
「ザネリさん、アンタはどれにする?」
「俺か? 気にするな。もうこれだけ買ってんだ」
ザネリは悪戯っぽく目を細め、最初に選んだ兎の風鈴を指で弾く。
ピンクの硝子に星屑のラメがきらきら揺れて、とぼけたような顔が愛らしく笑っているように見えた。
✦
買い物を終えた帰り道。
袋いっぱいの風鈴を抱えた理は、その重みを感じながら何度も中身を確かめていた。まだ日は高く、夏の陽射しは白く眩しい。賑やかな市場のざわめきも、陽が傾くまではもう少し続きそうだ。
「理、持てるか?」
「平気だ。ザネリさんこそ、もう少し持とうか?」
そんなやりとりも、どこか穏やかだ。横を歩くザネリの肩越しに、陽に照らされた屋台の幟や、子どもたちの笑い声が明るく響く。
……ふと、理は立ち止まる。
ザネリの横顔をちらりと見やり、そっと声をかけた。
「ザネリさん、ちょっと待ってて」
「どうした、忘れ物か?」
「いや、ちょっとだけ」
(――あの人は、きっと自分用に土産なんて買わないだろうから)
理は静かに店先に戻ると、迷うことなく淡い花の色の小さな風鈴を選び、こっそり包んでもらう。
この短い旅の思い出をひとつ。ほんのり紫がかった硝子に、小さな白い花がひとつ描かれているシンプルな風鈴だ。揺れると、淡く澄んだ音がする。
……さっき、露店で見た時にひそかに気になっていたものだ。
こっそりと買って、すぐに戻る。時間的には数分程度だろう。
戻ってきた理に、ザネリが小さく目を細めて言う。
「今度は何を買った?」
「……別に。少しだけな」
「ヒヒッ、そうか。――お前が欲しいもんを買えたならいい」
そう言いながら、ザネリはどこか満足そうに肩をすくめる。
(俺が、この人の傍に残しておこう。ほんの、少しだけでも)
通りの上には無数の風鈴がまだ元気に鳴り続けていた。
青や桃、紫や金色――それぞれが違う声で夏の昼下がりを飾っている。
市場にはまだ人通りが絶えず、子どもたちが綿菓子を頬張り、大人たちは冷たい飲み物で喉を潤している。
「賑やかなのも、たまには悪くないな」
理がぽつりと呟く。
「また来たいか?」
「どうだろうな。……でも、思ったより楽しかった」
澄んだ昼の空に、色とりどりの短冊が揺れ、涼しげな音が背中を押してくれる。
夏の思い出と優しい余韻を、二人の影が白い石畳に長く落としていった。
第2章 冒険 『ダンジョンの中の海』
ダンジョンに入った者たちが暗い通路を抜けた先に見るのは、予想もしなかった異世界の景色だ。
それはまるで、魔法が紡ぎ出した幻の楽園。
見渡す限りの碧い海、照りつける陽光、そして目に痛いほど真っ白な砂浜。天井は遥か高く、その空色はどこまでも澄み切っている。波打ち際にはきらきらと光る貝殻や流木が転がり、潮風が砂をさらいながら吹き抜けていく。
空にはふわふわと白い雲が浮かび、遠く沖合には、イルカに似た幻獣が軽やかに跳ねて水しぶきを上げていた。彼らは人懐こく、泳ぎが得意な冒険者たちが近づけば、しぶきを浴びせてじゃれ合ってくれるだろう。まさにトロピカルな夏の園だ。
あなたたちは足元の砂の柔らかさに驚き、次いで思わずその場で走り出したくなる衝動に駆られるかもしれない。
誰かが歓声を上げながら駆け出し勢いよく海に飛び込めば、透明な水は優しく体を包み込んでくれる。
水着がなくても、浅瀬で遊ぶことは簡単だ。砂に足を取られながら追いかけっこをしたり、小さな潮溜まりで貝や小魚を探すのも、ひと時の冒険だ。
大胆な者は思い切って沖へと泳いでいってもいい。水の中を滑るように進み、陽射しが水面から差し込んできらめく中を進むと、イルカに似た幻獣が姿を現してくれる。透き通る青い背中は波間に弧を描き、手を伸ばせば本当に触れそうなほど近くまで寄ってきてくれるだろう。
砂浜でも思い思いの過ごし方ができる。
仲間と砂の城を作ったり、貝殻を集めたり、ただ寝そべって波音に耳を傾けたり。背伸びをすればここにない筈の太陽の温もりを背中に感じ、日陰に腰を下ろせば潮風が汗をさらっていく。
ヒューリェの商人たちが用意した露店に足を運ぶのもいいだろう。キンと冷えたココナッツジュースや、甘いシロップのかき氷、焼き立ての魚介串などが手に入る。軽食を買って砂浜でピクニック気分を味わうのもまた一興だ。
浮き輪やビーチボール、砂遊び用のバケツといったレンタル品も揃っている。遊び道具を手にすれば、より一層遊び心は掻き立てられるだろう。大きな浮き輪でぷかぷか波に揺られるもよし、仲間とビーチボールを打ち合うもよし。普段は剣や魔法を手にする君達も、この時ばかりは無邪気な子どもに戻ったかのように、思い思いの夏を満喫できる。
ただし、水上バイクやジェットスキーのような大掛かりな遊具は用意されていない。このダンジョン内の海では危険な遊びや派手な魔法は禁止――それだけ心得ておくなら、どう遊んでも大丈夫だ。
奥へと続く道や扉は、砂浜のどこかにひっそりと隠されている。波打ち際に刻まれた謎めいた足跡や、白砂に埋もれた古い扉。幻獣たちと遊びながら、その手がかりを探すのもまた、この海のダンジョンならではの冒険だ。
探し疲れたら、浜辺に腰を下ろして冷たい飲み物で喉を潤し、ゆっくりと潮風に吹かれるのもいい。
夏の太陽が高く昇り、誰もが日常を忘れて笑い声を響かせる空間。
ダンジョンであることを忘れそうになるほどの、特別な時間がそこには流れている――。
✦楽園にだってひと泳ぎ
波音に誘われて足を踏み出した瞬間、二人の目の前に広がるのはこの世のものとは思えないほど鮮やかな楽園だった。
空は果てしなく青く澄みわたり、きらきらと踊る光の粒が白い砂浜を照らしている。海は透き通り、どこまでも遠浅で、波打ち際にはカラフルな貝殻やガラス玉がちりばめられていた。
「綺麗ですわね〜!」
白・とわ(白比丘尼・h02033)の金の瞳が輝く。ご機嫌の尾鰭をぱたぱたとはためかせ、潮風に銀白の髪をなびかせて駆け出していく。その様子に、戀ヶ仲・くるり(Rolling days・h01025)もつられて足を早めた。
「ほんと、綺麗な海~! これは……泳げるねぇ!」
「ええ、泳げますわね! ばんばん泳ぎましょう!」
嬉しそうな声と一緒に、とわはふわりとくるりの手を取った。
弾む心のまま、二人でずんずんと浜辺を進み、色とりどりの布地や小物が並ぶ商人の屋台へ。
陽射しにきらめく布や、貝殻の飾りがついたリボン、波模様の刺繍が施されたパレオ――目移りするほどの品々に、とわの金の瞳がきらきらと輝く。
「これなど、海の色そのものですわ!」と、深い青の水着を手に取ってくるりの胸元に当ててみる。「こちらは……可憐な貝殻飾り。あら、似合いますわね!」むむむ。あまりに真剣な品定めに、くるりは思わず「似合うかな……?」と照れくさそうに呟く。
「当たり前ですわ、とわと選びましたもの!」
胸を張るとわ。その勢いにくるりもつられて笑い、ふたりでえへへと笑い合う声が、波音に混じって弾んだ。
やがて、とわが「これですわ!」と選んだのは、海の青と白を基調に、小さな星の刺繍が散りばめられた爽やかなデザイン。くるりも「これ、好きかも」と頷き、二人で満足そうに頬を見合わせる。
身支度を終えると、水着と一緒に大きな浮き輪を借りて、砂の熱を足裏に感じながら、波打ち際へと歩き出した。
「私、そんな泳げないけど、いっしょに沖まで行けるかな…?」
不安げにいうくるりに対して、とわが浮き輪をしっかりと抱え、「僭越ながら、とわが引っ張りますので、一緒に沖まで行きましょう!」と宣言。
「えっ、本当に? じゃあ、お願いしちゃおうかな!」
浮き輪にちょこんと座ったくるりは、心細さもどこへやら。とわが浮き輪を引っ張りながら泳ぎ出すと、その力強さと安定感に思わず歓声を上げた。
「とわちゃん、力持ち〜! しかも全然揺れない……速い!すごーい!」
「ふふ、海は任せてくださいまし。こう見えて、とわ、人魚ですから!」
水面をすべるように沖へ進んでいくうち、陽光が水中に射し込み、くるりの足元を青と白のきらめきが踊る。時折、足元を小魚の群れが抜けていき、くすぐったい感覚にふたりで笑い合う。見上げれば、真っ青な空に雲がゆるやかに流れていた。
「わ、見て! あれ……イルカ?」
くるりが沖のほうを指差すと、波間にひょっこりとイルカに似た幻獣が姿を現す。銀青色のなめらかな体、額に淡い魔法の紋様。つぶらな瞳がこちらをじっと見つめている。
「幻獣ですわね!」
とわがぱっと顔を輝かせた次の瞬間、「くるりさま、競争ですわ!」と宣言し、浮き輪ごと全速力で幻獣めがけて泳ぎ出す。
「え、わぁ!? はや、速いってばとわちゃん!」
振り落とされまいとくるりは必死で浮き輪を掴み、二人はまるでボートのようなスピードで海を駆けた。イルカの幻獣も気づいて、興味深そうに近づいてくる。
「うふふ、くるりさま――しっかり捕まってくださいね!」
「わぁ!わぁ!?はや、速い!とわちゃん今まで加減してくれてみゃーーー!?」
やがて幻獣がくるりたちの目の前に現れる。水面を割って現れた顔は驚くほど可愛らしい。幻獣は鳴き声のような短い音を発し、尾びれで水を跳ねて遊びに誘う。とわが「お邪魔します」とばかりに手を振れば、幻獣もひときわ高くジャンプして応える。
「くるりさま、あちらも」
そう言って、とわは浮き輪を押し出しながら自分も泳ぎ、幻獣の隣へと並ぶ。くるりが手を伸ばすと、幻獣はちょこんと鼻先で浮き輪をつついた。「きゃっ!」と小さな声をあげるくるり。その瞬間、幻獣はぐるりと二人の周りを回り、じゃれつくように水しぶきを上げてはしゃぎ始める。
「すっごい人慣れしてるねえ」
「ええ。――あ、くるりさま、あっちも見てください!」
しばらくすると、幻獣が尾びれで合図するかのように沖へ向かう。とわとくるりは顔を見合わせて、「ついていってみましょう!」「ついていってみよう!」と声を合わせた。幻獣の後を追いながら、二人は水中を滑るように進んでいく。時折、幻獣がくるりの手にそっと鼻先を押し当て、くすぐったい感触に二人は笑い転げる。
沖合では、さらに数頭の幻獣たちが群れで遊んでいた。時折水面から顔を出しては、好奇心いっぱいに二人を観察し、尾びれで水を跳ねたりジャンプを繰り返したりする。とわが「こんにちは、皆さん!」ともう一度呼び掛けるように声をかけると、幻獣たちは一斉に鳴き声をあげて応える。そのうちの一頭がとわの手をぺろりとなめ、まるで友だちになりたいとアピールしているようだった。
「すごい……本当に楽園みたいだねえ!」
くるりが感嘆の声をあげる。
「不思議な海ですもの。きっと、素敵な出会いも思い出も、ここに流れ着くのですわ」
とわも微笑んだ。
ふたりと幻獣たちの間には言葉を超えた通じ合いがあって、誰もが無邪気な子どもに戻ったような心地だ。
泳ぎ疲れた後は、砂浜に戻って休憩タイム。浮き輪から降りたくるりは「とわちゃん、ありがとう」と笑顔で手を振り、とわも「いえいえ、くるりさまの笑顔が見られて、とわも嬉しかったですわ!」と幸せそうに応じる。
外へと戻っても、きっとこの日を思い出して何度も語り合うだろう――。
それは海と幻獣たちの楽園で過ごした、二人の特別な夏日の話。
✦海へ出よう。上着を捨てて、飛沫を上げて
「おい、ちょっ……引っ張んな、氷月!」
「何言ってんの、せっかくの海だよ? 行こう、ほら!」
浜辺に立った夜鷹・芥(stray・h00864)は、案の定――気の進まない顔のまま、水着の上に上着を羽織ったまま立ち尽くしていた。
が、そんな迷いは雨夜・氷月(壊月・h00493)にとっては露ほども関係のない話だ。氷月のポニーテールが跳ねるよりも早く、強引に腕を引かれてあえなく水際へ。思わず足元をさらわれて、「危ねっ……!」と声をあげる間もなく、ドボンと水音が弾ける。
海水が肩口までかかり、芥はぶっきらぼうに言う。
「準備運動ぐらい、させろよ……!」
「大丈夫大丈夫、アンタなら何とかなるって!」
氷月は悪戯っぽく笑う。
「それに、楽しまなきゃ損だろ?」
太陽の光が海面で跳ね、二人の影を揺らす。潮の匂いと、遠くで跳ねる幻獣の水音が混ざり合い、まるで祭りのざわめきのようだった。芥は小さく鼻を鳴らし、肩の力を抜く。
そのまま流れるように、芥は負けじと両手で水をすくって氷月にぶつける。
「くらえ、ポニテロリスト!」
「うわ、冷たっ、――なにその命名!」
氷月は目を丸くして爆笑した。氷月がやり返す前に、芥はくるりと背を向けて沖の方へと逃げていく。
「ちょっと! ポニテロリストに背を向けて逃げるなって!」
笑いながら氷月もその背を追いかける。波を切って進む水しぶきが二人の間をきらめきで繋ぎ、まるで子どものようなはしゃぎ声が海に響いた。
ターッチ、と氷月が芥の肩を叩くと、観念したように海面で芥が動きを止める。
「……ねえ芥、せっかくだからこのままもっと沖まで行こうよ」
「本気かよ。まあ、行ってやってもいいけど」
芥もまんざらでもなさそうだ。ふたりは並んで沖へと進み、透明な海の中へと身体を預ける。
潮の流れに逆らいながら進んでいくと、やがて水面の向こうに、銀青色の影が現れた。
「お……あれ、イルカ……?いや、違うな」
「あれが噂の幻獣じゃない?」
氷月がわくわくと目を輝かせる。間近に見るそれは、やはりどこかイルカに似ているが、額には淡い光を宿す宝石のような瘤があり、体の紋様も普通のイルカとはまったく違う神秘的なものだ。
「幻獣……本物か?」
芥がぼそりと呟く。慎重に手を差し出せば、幻獣は一度警戒するように離れるものの、氷月が「こんにちは!」と声をかけると、興味深そうに再び寄ってくる。つぶらな瞳がふたりを映す。
芥は指先でそっと背を撫でてみた。
「……つるつるだな。それにけっこう、かわいい顔してる」
幻獣は嬉しそうに尾びれで水を跳ねる。
「芥、見て見て!俺のほうも来たよ、つんつんしちゃえ!」
「おい、あんまり調子に乗るなよ……」
芥の視線の先で、透き通る水面を割って現れた幻獣が、光を受けて滑らかな背をきらめかせる。尾びれが水を叩くたび、細かな飛沫が空中に散り、夏の陽光で一瞬虹色に光った。氷月の周囲をくるくると回りながら、時折つぶらな瞳で見上げる仕草は、まるで「もっと遊ぼう」とせがんでいるようだ。
「……氷月、随分幻獣になつかれてるな」
「ん~? イルカくんたち~、芥が寂しがってるから、あっちもつついてあげて」
氷月が軽く水面を叩くと、その音に反応したかのように別の幻獣が芥の足元に寄ってくる。
「は? 別に寂しくねぇし」
「はいはい、強がっちゃって」
氷月は悪戯っぽく笑う。
幻獣たちが跳ねる波を眺めながら、氷月が思い出したように声を上げた。
「そういえば、扉を探さなきゃいけないんだっけ」
「そうだな。ダンジョンの奥の道……」
芥は適当に口を開く。「なに?競争で幻獣たちに勝てたら、案内してくれるって?」
「競争?」氷月が面白そうに首を傾げる。
「芥もやるなら――」
「やらない」
「えー、そんな寂しいこと言う奴には悪戯しちゃお」
にやりと笑った氷月が、ふっと水面に潜り込む。芥が余裕の声で「氷月、頑張れよ。俺は応援を……」と言いかけた瞬間、足首に冷たい感触が絡んだ。
「っ!? おい、氷月――がぼっ……!」
水飛沫と共に芥の声が途切れる。ごぼごぼという水音と入れ替わるように水面から顔を出した氷月は、満足げに笑いながら沖を指差した。
「ほら、早く。置いてくよー?」
むっとした芥の足元に、ひときわ大きな影が近づく。滑らかな背中を覗かせたイルカに似た幻獣が、芥を促すように体を寄せてきた。
「……俺に乗れってか?」
戸惑いつつも背に跨がれば、幻獣は勢いよく海面を切り裂き、泡立つ波間を一直線に駆ける。驚くほど安定したその動きに、芥は思わず声を飲み込み――気づけば前方の氷月の背へと追いついていた。
「……すごい、イルカの背中って本当に乗れるんだな」芥は照れ隠しにぼそぼそと呟くが、声は付近の幻獣達にしか届かなかった。
✦
「あー……こういうのも、たまには悪くねぇな」
二人でのんびりと最後の海を堪能していると、芥がひそりと呟いた。
「でしょ? 最初渋ってたのが嘘みたいだよねぇ」
氷月がにんまり笑う。芥がふっと口元を緩めて、「……今度は、こいつらとどこまで行けるか、勝負してみるか」と続けて言う。
「まあ随分と仲良くなっちゃって」
そんなやりとりの間にも、幻獣たちはふたりの周囲を泳ぎ、時に小さな声で鳴き声をあげてじゃれつく。
「この子たち、俺たちが扉を探すまで、ずっと遊んでてくれるのかな?」
「どうだろな。でも、こいつらなら案内くらいはしてくれそうだ」
「じゃ、頼ってみよっか!」
幻獣たちに導かれるまま浅瀬へ戻る。
遠くから陽が差し込み、ふたりの影が砂の上に伸びていた。しぶきをあげて浜に上がり、どちらからともなく「楽しかったな」と呟き合う。
ふと芥が、もう一度海へと振り返る。
名残惜しげに波間から顔を出し、ふたりを見送る幻獣達。砂浜に転がる無数の貝殻。
海の青、幻獣の滑らかな鳴き声が、夏のダンジョンに溶けていく――。
✦真夏の海の妖精
都市にさす真夏の陽は、街の石畳を容赦なく熱するものだ。
だが、この海にさす穏やかな陽光は、小さな妖精――シルヴァ・ベル(店番妖精・h04263)にとって、非常に心地よいものだった。
目の前にはどこまでも透き通る青い海が広がっている。
陽光を受けた波が砕けるたび、無数の光の粒が水面を駆け、まるで海全体が巨大なアクアマリンの原石のように輝いていた。
泳げるかどうかも分からぬ自分が波間に落ちることのないよう、シルヴァは背の蝶の翅を軽く震わせ、空中移動でふわりと砂浜から離れた。
小さな影が海面すれすれを進み、透き通る水底を覗き込めば、白砂の上を走る小魚の群れや、色鮮やかな熱帯魚たちが花びらのように舞っている。
――その時、水中を銀の光が走り抜けた。
視線を追えば、それはイルカのような形をした幻獣。
陽を浴びた滑らかな体がきらりと光り、軽やかに跳ね上がって水面を割る。飛沫は空中で虹を描き、やがて海へと還っていった。その一瞬のきらめきに、シルヴァの青い瞳が輝きを増す。
「まあ……あなた、とても綺麗ですわね」
まるで宝飾店で宝石に語り掛けるように、シルヴァはその幻獣に小さく声を掛ける。
金色の陽光を受けてきらめく水滴が、その額や背に散りばめられた宝石のように輝き、見る者の心を奪う。彼女の声に応えるかのように、イルカの幻獣が軽く旋回して再び水面を跳ねた。跳躍のたびに弾ける飛沫は細かな虹を作り、まるで「もっと見てほしい」と誇らしげに演じているかのようだった。
海には様々な生き物がいた。
小さな群れをつくって行き交う色鮮やかな熱帯魚、白い砂地の上をゆっくり歩くヤドカリ、時折きらりと尾をひるがえして姿を見せる銀色の魚影。水面近くではトビウオが陽光を受けて跳ね、遠くでは別の魚達が弧を描くように飛び上がっては海へ帰っていく。
その光景は、まるで海全体がひとつの大きな宝石箱で、あらゆる命が舞い踊っているかのようだ。
さらに沖へ進むと、ゆらゆらと漂う透明な影――クラゲの群れが現れた。陽に透けた半透明の傘は淡いピンクや紫に色づき、触手は繊細なレースのように揺れる。その静かな動きは、海の中の舞踏のようにも見えた。
「お邪魔してもよろしいかしら?」
そんな風に問いかければ、クラゲたちは波の揺れに合わせてふわりと身を開き、まるで舞台の幕を開くかのように道をあけてくれる。透き通った半透明の傘越しに差し込む光はやわらかく揺らめき、青い海中に淡い金色の花が咲いたようだ。
シルヴァがその間をすり抜けると、触手の先が歓迎の挨拶を告げるように水面に揺れた。
✦
空を見上げれば、真っ白な海鳥たちが弧を描いて飛び交っている。翼が海面にかすめそうなほど低く滑空し、鋭く海へ突っ込んでは小魚をくわえ、再び高く舞い上がる。その自由な動きに、シルヴァは思わず翅を強く打ち、同じ空を駆ける喜びに身を委ねた。
波の音、鳥の声、潮の香りと陽射し――そのすべてが胸いっぱいに広がっていく。
「なんて素敵なところなのでしょう……」
海は、まるで青く透き通った宝石の中の世界。小さな妖精は、その輝きを余すことなく心に刻みつけようと、さらに沖合いへと滑るように飛び続けた。
彼女の背後では、まるで護衛するかのように、さきほどのイルカの幻獣が並んで泳いでいる。その存在に気付いたシルヴァは振り返り、微笑んで囁いた。
「案内してくださるのですか? でしたら、喜んでお供いたしますわ」
海と空。
その狭間を翔ける小さな影は、陽光を受けてきらきらと瞬きながら、蒼の楽園を渡っていった。
✦海辺の一夜城物語
「こうして波打ち際で遊ぶのは、久しぶりかもしれぬな……」
眩しい陽光と青い空、白くきらめく砂浜。ダンジョンの中とは到底思えない絵のような夏の風景の中で、トゥルエノ・トニトルス(coup de foudre・h06535)――エノは、野分・時雨(初嵐・h00536)の方を振り返った。砂を踏みしめる足取りは軽く、潮の香りもどこか新鮮に感じられる。時雨はというと、海風に髪を揺らし、興味深そうに周囲を見回していた。
「時雨殿は海は得意か? 泳げる? やっぱり魚と話せたりする?」
「やっぱりってとこが分かりませんが、――さすがに魚語は話せませんよ。泳ぎならそこそこに。エノくんは泳げるんですか?」
砂浜を渡る潮風が、時折ふたりの会話をさらうように吹き抜ける。波打ち際では、小さな巻き貝や濡れた石が陽光を反射してきらめき、遠く沖では青い水面が大きくうねっていた。
エノは足首を洗う波を心地よさそうに眺めながら、少し呆れたように肩を竦める。
「我が主は面倒くさがりな所があってだなぁ。背泳ぎしか教えてくれなかったのだ」
「背泳ぎ!?」時雨が目を丸くして笑う。
「雷獣さんが背泳ぎしてるの、ちょっと想像するだけで面白いんですけど……そもそも雷獣さんて、海中で感電したりしない…?」
エノは少しだけ考えるように空を仰ぎ、海風に髪を揺らしながら「……さあ、しっかりと検証したことはないな」と真面目な顔。その返答に時雨も「試す機会、作らなくていいですからね」と笑い、波の音とともに短い沈黙が流れた。
視線を海へ戻したエノは、ふと波間の煌めきに目を止めると、沖を指さして目を輝かせる。
「イルカのように泳げたら楽しそうなのにな~。……おっ、あそこで跳ねてる奴! あれが幻獣か!?」
遠くの水面が陽光を散らして弧を描く。銀色にきらめく背びれがひらりと海上に現れ、すぐに波間へ消える。
その瞬間、エノの瞳はさらに輝きを増した。
「時雨殿はああ云うコトも出来る?」
「……ああいうこと、とは?」
「輪くぐりとか! あと、バブルリング! ほら、水の中で丸い輪っか作ってくぐるやつ! エコーロケーションも出来たらスゴいよな!」
まるで子どもが新しい遊びを提案するような熱のこもった声に、時雨は小さく笑いながら首を振った。
「出来ないこともないでしょうけど……ヤダよ、やりませんよ」
海風に揺れる髪をかき上げながら、肩をすくめる。
「ぼくは水中じゃ、頭蓋に響く振動で感知してるからね。超音波は……わかんないや」
エノは「そっかー」と少し残念そうにしながらも、まだ沖を跳ねる幻獣から目を離さない。潮の香りを運ぶ風が二人の間をすり抜け、波間では白い飛沫が陽光を浴びて宝石のように瞬く。
やがて時雨は足元に押し寄せる波を見つめ、いたずらっぽく口元を緩めた。
「さてさて、雷獣様は水遊びと砂遊び、どちらがお好きでしょうか? 折角だし遊びに行きましょう。ぼくもお供させていただきますよう」
エコーロケーションは難しいですけど、と。
もう一度そう付け足すのを、時雨はちゃんと忘れなかったという。
✦
――そんな一幕を経て、ふたりは腰を下ろして砂浜で並んでいた。
「砂遊びも久しぶりだ」
エノが目を細めて砂を手に取る。
「なかなかいい感触だな。時雨殿は砂で何を作るのが得意だ?」
「ふむ。……よくやるのは彫刻の類ですね。砂をこう、削って作るんです」
そう応えた時雨は、手早く砂を掬い、パラパラと手のひらで叩きながら小さな山を作り始める。
「砂を固めて……こうして……」
「おお、何やら凄いぞ」
「エノくんは何が作りたいんですか?」
「む。ならば~……何とかタワーとか見てみたいぞぅ」
「塔ですか。分かりました」
時雨が指先で水をすくい、慎重に砂山に滴らせる様を、エノは目を輝かせて眺める。
「形を作ったら、後で塔の表面に軽く飾りでも入れますかね。何がいいですか?」
「……そうだなあ……雲と龍とか」
「思ったより芸術的な意匠~」
「無論我も手伝うぞ! れっつなんちゃらタワー作り!」
おー!とエノが手を掲げると、遅れて時雨もおーと片手だけで応じた。
その後もふたりは砂を運び、水を引き、手のひらも膝も真っ黒になりながら砂の塔造りに励んだ。
エノが「塔はもっと高くしたい」と理想を掲げれば、時雨は「ならば門はもっと大きくしましょう」と応じ、すぐに「周りには深い堀を掘りましょう」「幻獣のモニュメントも添えましょうか」と次々に案を出す。指先で細部を整え、貝殻や小石を飾りとして差し込むと、塔の周囲は一気に賑やかな景色に変わっていく。
「時雨殿の発想は面白いな。……ここには見張り台でも置くか!?」
「いいですね。それならこっちの側面に小道をつけましょう。ほら、幻獣の像の横を通って門へ続く感じで」
「ふむ……それは壮観だな」
波打ち際にしゃがみ込み、海水を少しだけすくっては土台に流し込み、ふたりはまるで本当の建築家のように打ち合わせを重ねていく。
やがて陽が少し傾き、海風が涼しさを帯び始めたころ、――ようやっと出来上がったのは中々に立派な砂の塔だった。高さも装飾も申し分なく、周囲には堀と道、飾りの貝殻が陽光を受けてきらりと光る。
「できたー!」と、エノが満足げに両手を広げた、その瞬間――。
ざぶん、と大きな波が押し寄せ、塔を囲む堀も門もろとも一気に呑み込んでしまう。
一瞬ぽかんとしたあと、ふたりは顔を見合わせ、同時に吹き出した。
「……はは! 全く、海は幻獣よりも容赦がないなあ!」
「儚いものですねぇ。でも、これもまた面白い」
崩れた砂の山の上に残った貝殻は夕日に照らされてほのかに輝く。
やがて遠くでまた大きな波が立ち、金色に染まった水面がきらめいて――笑い声は潮風に乗って広がり、波の音と混じって夏の浜辺に溶けていった。
✦DIVE TO BLUE
人型の姿を捨て、闇色の水大蜥蜴の本来の姿へと戻ったウィズは、尾をしならせて海へ飛び込んだ。
水面を割った瞬間、陽光が水の中へまっすぐ降り注ぎ、光の帯が幾筋も揺らめきながら海底を照らしている。塩気を含む水が全身を包み、肌を打つ。眼孔はなくとも、この世界はくっきりと鮮やかに感じ取れる。水流の速さ、魚たちの密集した動き、遠くで揺れる珊瑚礁――すべてが掌の中のようだ。
尾をひと振りするたび、海が爆ぜ、泡が白い帯を描いて後方へ流れる。速度を上げていくと、近くの幻獣たちがざわめくように近づいてきた。銀の背を持つイルカ型の幻獣が一頭、彼の横へと並び、挑戦するように先へ躍り出る。
「お、競争かァ?」
水中にも響く低い声とともに、ウィズは尾を強く打ちつけた。
――次の瞬間、二頭は同時に加速した。
海底を蹴るように進む闇蜥蜴と、水面すれすれを切り裂くイルカ型の幻獣。
水圧が耳を抜け、全身に流れる。ウィズの巨体が水を押し分けるたび、泡の渦が生まれ、陽の光を乱反射させた。
左右からは他の幻獣たちも加わってくる。鱗が虹色に光る魚型の幻獣が群れで泳ぎ抜け、甲羅を持つ亀のような幻獣がゆったりと追いかけてくる。時折、イルカ型が水面を破って宙へ舞い、飛沫をきらめかせながら再び潜る。
ウィズはその後を追い、巨体をひねって水面に顔を出す。珊瑚礁の間を縫い、砂地を蹴り上げ、岩場のトンネルをすり抜ける。追いすがる幻獣たちの鳴き声が、水越しでもはっきりと響いた。青と白の世界の中、泡の尾を引くように、闇色の巨体が突き進む。
「クカカ……いい速度じゃねぇか!」
さらに速度を上げる。尾の一閃で水が割れ、イルカ型と肩を並べる。
お互いに一歩も譲らず、時に頭を前に出し、時に押し返されながら、まるで潮そのものと競り合っているかのようだった。
やがて二頭は、海面近くに差し掛かる。残る距離はわずか。
ウィズは尾をさらに一閃――水を裂く衝撃が全身を押し出す。最後の一伸びで、ほんの鼻先ほどイルカ型を抜き去った。
水面を割って同時に飛び出す。陽光を背に受けた飛沫が虹色の弧を描き、ふたりは大きく息をつく。
イルカ型は一瞬だけ目を細め、愉快そうに鳴き声を上げた。ウィズも口角を上げ、低く笑う。
「クカカ……わずかに俺の勝ち、だな」
幻獣は負けを悔しむ様子もなく、軽く旋回して水面を叩く。それは拍手のような水音だった。
「いい競り合いだったぜ。あんた、速ぇな」
水飛沫を散らしながらそう告げると、イルカ型はもう一度高く跳び、陽光の中でひらりと身をひねって海へと戻っていった。
波間に残る揺らぎを見送りながら、ウィズはひとつ息を吐き、岸へ向かって泳ぎ出した。
✦
ウィズも静かに岸へ向かう。白い砂浜には、用意しておいた日除けの番傘が待っている。
涼やかな音を立てる小さな風鈴が下がり、潮風に乗ってその音色が広がっていった。
「……お?」
番傘の影には、小さなヤドカリがひとつ、じっと身を潜めている。
「ヤドカリに傘を貸すとはなァ?」
ひとりごとのように笑い、その隣に腹這いになった。
背を温かな日差しに預け、潮騒と風鈴の音に耳を傾ける。ついさっきまで全身で駆け抜けた海が、今は穏やかな青として広がっている。遠くで幻獣たちがまた水面を跳ね、飛沫がきらめく。その光景は、競争の興奮をほんのりと胸に残しながら、ゆるやかに心を満たしていった。
「俺ァ闇の精霊だが……日向ぼっこも悪くねぇな」
潮の香りと砂の温もりが身体を包み込み、ヤドカリと並んで静かな時間を楽しむ。空は高く、雲はゆっくりと流れていた。
✦うつくしき砂の庭
陽射しは真夏のものなのに、海から吹く風はやわらかく頬を撫でていく。
白くきらめく砂浜には、波が寄せては返し、足元で小さく音を立てては消えていく。
沖の方ではイルカのような幻獣が跳ね、陽光を水しぶきに散らしながら、時折こちらを振り返っては遊びに誘うようだった。
「わぁ……とってもきれいな海ですね!」
廻里・りり(綴・h01760)が青い瞳を輝かせる。波の方へは近づかず、足先でそっと砂を撫でてみせた。
「水はちょっと苦手なので……あ、でも、砂浜でできることもありますよね?」
視線の先には、貸し出し用の色とりどりのバケツとスコップが並んでいる。
「ベルちゃん、一緒に……おっきいお城をつくりませんか?」
「もちろんよ、りり」
ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)はそれに応え、ふわりとした笑みを浮かべる。白磁のような手がバケツを取ると、陽光に反射して白く輝いた。
「両側に塔を作って……模様を彫ったら、きっと素敵なお城になるわね」
ふたりはパラソルのそばに腰を下ろし、スコップで砂をすくい、バケツに入れては海水でしっとりと湿らせ、逆さにして塔の土台を作っていく。
りりは両手で形を整えながら「こうして……あっ、くずれた!」と小さく悲鳴を上げた。傾いだ砂の塔を見て、ベルナデッタはくすくすと笑う。
「ワタシはこういう味のある形も好きだけれど……りりはもっと綺麗に飾りたかったのよね」
「う、うう………もうこれでいいです…シンプルですけど…っ」
強がるりりを見て、ベルナデッタは小さな庭師――ジャルディニエ・ミニュを呼び出す。
「扱うのは土じゃないけれど、少し力を貸して頂戴な」
ベルナデッタの声に応えるように、掌に収まるほどの――スコップの形をした小さな庭師が、ぴょん、と砂の上へ飛び降りた。
「あ……お、お手伝いしてくれるんですか?」
金属の刃先が応えるように回転し、陽光を受けてきらりと光った。
軽やかに砂の上を進み、壁を撫でるように均し、崩れかけた部分をきゅっと持ち上げると、そのまま彫刻家のような手際で曲線を描き出していく。
ザク、ザク、と乾いた砂を削る音と、きゅっ、と湿った砂を固める音が交互に響く。時おり小さく跳ねては、角を丸く整えたり、模様の筋を掘り込んだり。まるで自分の作業を楽しんでいるかのように、軽快に働いていく。
風が運ぶ潮の香りと、さらさらと落ちる砂粒の音が混じり合い、砂の城は着実に姿を変えていった。
「! じゃあ、わたしは飾りつけの貝殻とかを拾ってきますね!」
りりはそれを見て、軽やかに砂浜を駆け出した。
足裏をくすぐる砂はさらさらと柔らかく、時折、小さな波がかかっては心地よい冷たさを残す。しゃがみ込んだ彼女の視線の先には、海が運んできた宝物たちが並んでいた。
透きとおるように白く細長い二枚貝は、光を受けて雪片のように輝き、手のひらでころんと転がる。淡い桃色に染まった桜貝は、まるで小さな花びらが砂に舞い落ちたかのようで、見つけるたびに胸が弾む。波の間からは、渦巻き模様の巻貝がひょっこりと顔を出し、その殻は飴細工のような光沢を帯びていた。
さらに小石ほどの大きさの青緑色の貝殻は、光の加減で金や紫にも見える不思議な輝きを放っている。
浜辺に腰を下ろして一息つく間にも、波が引けば新たな宝物が現れ、そのたびにりりは指先でそっと拾い上げた。
やがて両手いっぱいに集めた色とりどりの貝殻や小石を胸に抱え、足跡をぽつぽつと残しながら、満面の笑みでベルナデッタのもとへ戻っていく。
「おかえり、りり」
「わ! すごい……! ベルちゃん、すてきです!」
「ふふ、ありがとう。りりの飾りもとっても素敵。――ジャルディニエ・ミニュも、よく頑張ってくれたわ」
ベルナデッタが白い塔の上部を指差す。
「ね、屋根のあたりにその貝を飾ってみたらどうかしら?」
「! いいアイデアですね!」
りりは塔の縁に白い貝殻を並べ、小さな石で門の形を作り、巻貝を塔の飾りとして埋め込んでいく。
ベルナデッタはその手元を見守りながら、反対側にさらに波型の模様を刻み込んだ。
✦
気がつけば、ふたりの前には立派な砂のお城が完成していた。
左右にそびえる塔、中央には広い門、足元には波模様の堀。屋根や門柱には貝殻や小石が飾られ、まるで夏の宝物箱のようにきらめいている。
潮風がそっと吹き抜け、貝殻の縁がかすかに鳴った。
「すっごく、いいですね……!」
「ええ、とっても夏らしいお城になったわ」
ふたりは並んで腰を下ろし、潮風に吹かれながら城を眺めた。
波はすぐそばまで来ては引き、足元を濡らすことはない。
お城は堂々とその形を保ち、青い空と白い雲を背景に、まるで海辺の守り神のように立っている。
しばらく眺めたあと、りりがふと思い出したように顔を上げる。
「そういえば、あっちに道がありましたよ」
「道?」
「はい。きっと奥へ続いてるんじゃないかなって……」
指さす先には、砂浜の端から岩場へと続く細い道が見える。白い砂が途切れ、代わりに潮風で磨かれた岩肌が陽にきらめいている。
「確かめに行ってみましょうか」
ベルナデッタが立ち上がる。白磁の足がさらさらと砂を踏みしめ、りりもその隣に並ぶ。
海からの風が背中を押し、完成した砂のお城がふたりを見送るように輝いた。
波音が少しずつ遠ざかり、代わりに岩肌を打つ小さな水音が近づいてくる。
道の両側には背の低い草や小花が咲き、足元には潮だまりが点々と並んでいた。
潮だまりを覗き込めば、小さな蟹が横歩きで岩陰へ逃げ込み、透明な水の中で小魚がきらりと光る。
「わぁ……ここもきれいですね」
「ええ、まるで小さな海が並んでいるみたい」
ふたりは時折足を止めながら、小さな発見を楽しむ。りりはきれいな形の貝を見つけてベルナデッタに見せ、ベルナデッタは潮だまりに映る空の色を教えてくれる。
そうして進むうちに、岩場の奥で海と空が大きく開ける場所へと出た。
その先には、さらなる冒険の予感が広がっている。
ふたりは顔を見合わせ、微笑んだ。
「行きましょうか」
「はい!」
夏の陽射しの中、砂のお城はいつまでも浜辺に残り、海の青とともにふたりの背中を見送っていた。
✦君と、袋いっぱいのタカラモノ
「ひゃーっ、見渡すかぎりのとろぴかる~!」
エメ・ムジカ(L-Record.・h00583)が声を弾ませ、ぴょんと跳ねる。黒兎の耳が風に揺れ、足元の砂をふわりと舞い上げた。
「砂は蕩けそうなくらい柔らかい! お砂ふわふわ! 玲空ちゃん、ふわふわっ」
その場でぴょんと駆けるように、嬉しそうに足で砂をふみふみする。
玲空は足を止め、目の前に広がる光景に思わず瞬きを繰り返した。
抜けてきたばかりの通路の先――そこにあったのは、濃い碧と金色が混ざり合う、まるで絵画のような世界だ。果てしなく広がる空には、真夏の太陽が堂々と輝き、海面はきらきらと光を返している。
「……ん。すごくトロピカルな風景、だな?」
口の中で呟きながらも、足元の白砂へ視線を落とす。ふわりと沈むその感触は確かに砂で、踏みしめるたび指先の間からさらさらと零れ落ちていく。
先を駆けるムジカの背を目で追い、そのはしゃぐ様子に思わず頬を緩める。
けれど同時に、頭の片隅で疑問が渦巻いた。――さっきまで石造りの通路を歩いていたはずだ。なぜ、こんな本物の空と太陽が目の前に?
太陽の光が頬を照らす感触も、潮風の匂いも、すべてがあまりにも現実的すぎて、胸の中に小さな疑問符がいくつも浮かんでは消えていく。
「確かに……ふわふわだ」
彼女も一歩、ためしに足を踏み入れ、その柔らかさに驚いたように目を細めた。
「……ちょっと癖になるかも」
すぐそばでそれを見ていたムジカの耳がぴょこんと立ち、赤い瞳がぱあっと輝く。
「でしょでしょ!ふわふわで、あったかくて、なんかお菓子の粉みたいなんだよ~!」
言いながら足元をぱたぱた蹴って砂をふわりと舞い上げ、その軽さに自分でもくすくすと笑う。まるで新しい遊びを見つけた子どものように、目を輝かせている。
「ねぇ、せっかくだから裸足で走ってみようよ!」
ムジカが勢いよく提案すると、玲空は小さく肩をすくめて頷いた。
「いいだろう。せっかくの浜だ、走ってみるか」
二人は暫く並んで砂浜を駆けた。
乾いた砂はさらさらと足の間をすり抜け、時折波が寄せるたび、冷たい水が足首を洗う。走るたびに砂が飛び、光を反射して小さな粒子のきらめきが舞った。
「わーっ!足が沈むよ!」
「この辺りは結構深いみたいだな」
小さな貝殻や海藻がところどころに転がり、それを飛び越えるたび、耳元を海風が駆け抜けていった。ムジカは途中で急に足を止め、しゃがみ込んで砂をすくう。
しばらく走り回って息が弾んだころ、ムジカがまた声を上げる。
「ねぇ、何してあそぼっか? 砂遊び、水遊び……あ! 浅瀬のところで貝殻探しもいいね!」
「そうだな。……貝殻探し、いいんじゃないか? 普通とは違う珍しい貝が見つかるかもしれない」
「冒険のお土産にもなるし、めずらしいのも見つかるかも!」
ふたりは笑い合い、足跡を残しながら更に波打ち際へ向かった。
✦
砂は白く、ところどころに小さな貝や海藻が散らばっている。水面は透き通り、浅瀬の底までよく見えた。
「おっきな巻貝とかあるかな? ぼくよりおっきいの……テントになっちゃう!」
「ムジカより大きい貝……もしかしたら、本当にあるかもな」
玲空は少し笑いながら、足元の砂をかき分けるように探し始めた。
波が引いた瞬間、ムジカが「あ!」と弾む声をあげる。
「見て見て! 桜貝さんだよ!」
小さな手のひらに乗せられたのは、ほんのりと桃色を帯びた二枚貝。薄く繊細な殻が陽光を受け、ほのかに透けるように光っている。
「……本当に桜の花弁みたいだな」
玲空も覗き込み、ムジカの手から丁寧に受け取ると、指先でそっと持ち上げて光に透かした。桃色の縁がきらりと輝き、風に乗って塩の香りが漂ってくる。
そのすぐそばで、ムジカがまた「おっ」と声をあげる。今度は小さな巻貝だった。らせんを描く殻は、琥珀色から乳白色へとグラデーションを描き、先端に向かうほど細く繊細な形になっている。
「こっちは渦巻き模様だよ! ほら、ぐるぐる~って!」
嬉しそうに差し出されたそれを、玲空はくすりと笑いながら受け取り、桜貝と並べて掌にのせる。ピンクの花びらと琥珀色の渦巻き――まるで砂浜がくれた小さな宝物のようだった。
ふと、玲空の目が水中のきらめきをとらえた。
「ん? あそこに光っているのは……」
浅瀬の底で、小さな青い光が揺れている。波が寄せるたび、光はゆらゆらと形を変えた。
玲空がしゃがみ込み、慎重に水へ手を伸ばす。指先に触れたそれは、透明なガラス細工のような巻貝だった。内部に微細な鉱物の粒が入り込み、光を反射している。
「……これは、きれいだな」
「わぁっ、ほんとだ……! ガラスみたい!」
ムジカが目を輝かせ、ぴょんと跳ねる。両手でそっと受け取ると、巻貝は陽の光をまとい、小さな虹色のきらめきを砂浜へとこぼした。ふたりの足元の白い砂に、まるで宝石を散らしたような光の粒が瞬いていた。
ふたりはその後も歩きながら、色も形もさまざまな貝殻を集めていった。渦を巻くような模様のもの、虹色に光るもの、真珠のような光沢を持つ小さな殻。中には小さなカニが住み着いているものもあり、ムジカがそっと元の場所に戻すと、玲空が「いい家に住んでるな」と優しく微笑む。
陽は高く、海風が頬をくすぐる。潮の香りが心地よく、足元を洗う波が、集めた貝殻の色をいっそう際立たせる。
そうして、最後に玲空が見つけたのは、透き通る青に白い筋が入った、不思議な形の二枚貝だった。まるで空と雲をそのまま閉じ込めたような色合いで、波間からすくい上げた瞬間、冷たい海水が指先から滴り落ちた。
「……いいタカラモノが見つかった」
「うん、どっちも素敵な宝物!」
袋いっぱいの貝殻を手に、ふたりは海辺を後にするだろう。
波の音が背中を押し、集めた宝物が袋の中で小さく触れ合って音を立てた。
「この先にも、もっと何かあるかもしれないな」
「うん! きっともっと、面白いものが待ってるよ!」
その声は潮風に乗って遠くまで響き、海も空も、ふたりの歩む道を祝福するようにきらめいていた。
✦出張はくちょう座、海辺支店
波の音が遠く近く、潮風が砂の上をなでていく。
白いパラソルが点々と並ぶ夏のリゾートの一角、ふたり分の影がその下に寄り添っている。
「暑くねえのか、雇い主」
パラソルの下でココナッツジュースを傾けながら、明日咲・理(月影・h02964)はそんな疑問をぼやいた。とはいえ、今日も七・ザネリ(夜探し・h01301)の傍には日傘を差し出している。ザネリはその日傘の影にうまく身を寄せ、煙草の煙をくゆらせながらも、ちらりと理を一瞥して言う。
「一生日傘係か? せっかくのリゾートなんだ、もうちょい脱力しろ」
「……遊び方がわからん」
例えば兄として同行をしているなら、弟妹たちが危ないことをしないよう見守っていられるのだが――理は一人で海に来た経験などほぼなかった。端的に言うと、一人だと何をしていいのかわからない。
その横でザネリは、リゾート感たっぷりの蛍光色のサングラスを掛け、首に花のレイをかけていた。その癖、靴はいつもの革靴だ。
「あー? 遊び方が分からねえだと? 海だぞ。とりあえず叫べ」
「いや、叫んでも仕方ないだろ……」
ザネリの言葉を本気に受ける気はないが、ちょっとだけ声を出してみる理。
なんとも微妙な叫び声に、ザネリは吹き出しそうになってごまかした。
ザネリの「似合わねえな」と言いたげな笑いを誤魔化すように理は手元のココナッツジュースを飲み干す。
「で? 何しに来たんだ、海」
「視察だ。はくちょう座の新規事業でな」
「新規事業?」
「ああ、それに伴い、俺はリゾートがどうあるべきかを学ぶ必要がある」
ザネリは背もたれに体を預け、パラソルの影の中で腕を組んだ。サングラス越しに視線を巡らせ、リゾートの景色をひとつひとつ観察する。その余裕ある姿が、海辺のざわめきとは対照的だった。
「それじゃ、砂遊びでも教えてやる。ほら、バケツ借りてこい」
「バケツ?」
理は半信半疑のままため息をつき、砂の上を踏みしめてレンタル屋台へ向かう。
パラソルの間を縫うように歩く途中、潮の香りと焼き立ての海鮮の匂いが鼻をくすぐった。振り返れば、ザネリが相変わらず影の中で体を伸ばし、ゆったりと海を眺めている。その背後では、真っ青な空と白い入道雲が、まるで額縁の中の絵のように広がっていた。
戻ってきた理の手には、カラフルなバケツとスコップ、そしてイルカや星型の型抜きが入った、小さな子ども向けの砂遊びセットが握られていた。
「子ども向けじゃないのか、これ」
「大人も使っていいって書いてあったぞ。大人の砂遊びだ」
ザネリは受け取ったスコップをくるりと回し、手際よく砂をすくい上げる。日差しで温まった砂の粒が、さらさらと指の間からこぼれ落ちた。バケツに水を混ぜると、砂の色はわずかに濃くなり、しっとりとした質感へと変わっていく。
「まず、地盤を固める。基礎が駄目だと全部崩れる」
「意外とちゃんとしてるな」
「うるせぇ。俺の城は欠陥住宅にはならねえ」
理は笑いながら海へ向かい、バケツいっぱいの海水を汲んで戻る。汲んだ海水が波の返しで少し跳ね、理のサンダルとザネリの革靴の甲を濡らした。ザネリの革靴の縁からは砂が入り込み、しゃりしゃりと音を立てる。それでも気にする様子もなく、二人は膝を並べてしゃがみ込み、砂を押し固めながら基礎作りに没頭した。
「理、それじゃあここに出張はくちょう座を建設するぞ」
「ここに館を作るか……柵もいるか?」
「要るだろ。敵襲に備えないとな」
「敵……?」
会話と同時に、型抜きで作った小さな塔が次々と増えていく。
門の前には星型の装飾、館の周囲には手のひらほどの柵が並び、さらに理が思いつきで見張り台まで作り始めた。外堀には海水を流し込み、波が寄せてはわずかに揺れる水面が、小さな城に命を吹き込む。
「お前がガキの頃、砂遊びしたことねえのか?」
「……あんまり記憶にない。兄妹の世話ばっかしてたからな」
「じゃあ今からでも遅くねえ。建設しろ」
周囲では、波打ち際で遊ぶ子どもたちの歓声と、パラソルの下で涼む人々の笑い声が絶えない。
潮風に混じって漂ってくる焼きとうもろこしの香りに、二人は「あとで食べるか」と目配せを交わす。
「ここはもう少し水を加えたほうが固まる。ちょっとやってみろ」
「あんた器用だな。砂城の名職人だ」
「ひひ、建築講座、役立っただろ?」
そう言ってザネリが満足げに笑う頃には、「出張はくちょう座」は立派な小さな要塞ともいえる代物となり、砂浜の中でもひときわ目を引く存在になっていた。小さな館には本家さながらの温室や中庭のミニチュアが器用に砂で再現され、門の脇には動くぬいぐるみ(に見立てた貝殻)が見張り番のように並んでいる。
✦
ふたりで出来上がった館を見ながらパラソルの下で一涼み。ザネリは用意してきたアイスを二人分差し出す。「三段だ」「多すぎないか?」と理が小言を言いながらも、結局二人であっという間に平らげてしまう。
「これ旨いな。果実感が強くていい」
「おう、リゾートにはデザートがつきもんだろ」
「今度はくちょう座でもかき氷するか。冬になったら鍋もいいな」
「分かった。冬になったらな。全部はくちょう座でやるぞ」
食べ終わったアイスのカップを並べて置き、二人はしばし潮風に吹かれながら海を眺めた。波間では、子どもたちが浮き輪を抱えて跳ね回り、大人たちが笑い声を上げている。きらめく水面の向こうでは、時折イルカ型の幻獣が跳ねては飛沫を散らしていた。
理は、その様子を眺めていた視線を横に移し、ザネリを見やる。
「……そういや、そういやザネリさんは泳げねえからそんなカッコなのか?」
「ばか言え、どっかの坊ちゃんと違って、俺は人並に泳げる」
「俺も泳げる。アンタと坊ちゃんが溺れても助けてやるさ」
「運動全般で苦手なもんねえだろ、お前」
どっかの坊ちゃんが今ここにいれば、溺れねえから!とでも大声で言っている事だろう。どちらともなく、微かに笑みが滲む。
そんなやり取りをしながら、ふたりはパラソルの影から立ち上がり、海風に吹かれながら城へと歩み寄る。まだ濡れた砂が足裏にひんやりと張りつき、潮の香りが鼻をくすぐった。
砂の館を周囲の子どもたちもちらちらと覗き込んでいく。
「見ろよ理。うちの館は結構な人気者じゃねえか」
「子供人気は本家よりも高いかもな」
飲み物を補充し、アイスをもう一つ買い足し、「これも糖分補給だ」「太る」と掛け合いながら、お互いの影が重なる位置に腰を下ろす。
パラソルの隙間からは夏の光が差し込み、潮風と波音がふたりの間を抜けていく。
ふたりの肩越しには、キラキラと揺れる青い海。まるで映画のワンシーンみたいな風景の中――
「……館、明日も残ってるといいな」
「ヒヒッ、誰かが壊しても、また作りゃいいじゃねえか」
そんな言葉に、理はふと、優しい顔で笑った。
波が寄せては返し、城の外堀の水面がゆらゆらと揺れた。
空の青さも、海の輝きも、きっと今日だけの色。
ふたりはそれを眺めながら、ただ静かに夏の午後を味わっていた。
第3章 ボス戦 『竜血樹の精霊・リュグドラシェル』
海を越えた先には、ひときわ大きな影がそびえている。
それは街でも語られる名を持つ――世界樹リュグドラシェル。
幹は大地を支えるかのように太く、枝葉は空を覆うように広がり、日差しをやわらかに散らしている。
苔むした根は複雑に編み込まれるように地表を這い、その隙間からは澄んだ水がこんこんと湧き出している。根元に足を踏み入れた途端、海辺で火照った体がふっと冷まされるように感じる事だろう。
木の周りには、街の人々が設えた休憩所がある。
年輪を削り出したような木製のベンチ、丸石を積み上げた小さなテーブル。
その横には、色とりどりの瓶を並べた露店があり、冷たい果実水を売っている。透きとおる柑橘の黄金色、深紅の木苺のしずく、葉を浮かべた翡翠色のハーブ水……光を透かしてきらめく瓶の群れは、まるで宝石のようでもある。好きな一本を手に取るといい。きっと、君の喉を涼やかに潤してくれるだろう。
そして、この樹にはもうひとつの楽しみがある。
手に風鈴を持って近づけば、天から降るように枝がするすると伸びてくる。まるで樹そのものが息づき、訪れた者を迎えるかのように。枝にそっと作った風鈴を掛ければ、君の風鈴はきっと涼風に揺れる音を響かせてくれるだろう。
もちろん、ここで過ごすのにどうしろと言った決まりはない。
冷たい水を飲みながら語らってもいいし、木陰で本を広げてもいい。樹の周囲を散策すれば、小さな泉や野の花々にも出会えるだろう。
ただひとつ――精霊リュグドラシェルを怒らせるほどの無茶はしないこと。暴れたり荒らしたりせず、自然とともに静かに遊ぶのなら、この大樹はきっとやさしく見守ってくれる。
世界樹の下で、時を忘れて過ごす。
それこそが、ここを訪れた者に与えられる、最も贅沢な祝福なのかもしれない。
✦君が眠りに落ちるまで
白い花を纏う世界樹リュグドラシェルは、海を越えた先にひときわ大きく聳え立っていた。
幹は何十人で抱えようとしても届かぬほど太く、枝葉は空を覆い隠すほどに広がっている。陽光は葉の間を透かして柔らかく散り、地表に淡い緑の影を落としていた。苔に覆われた根の隙間からは澄んだ水がこんこんと湧き出し、小さなせせらぎとなって足元を流れていく。水面には舞い落ちた花弁が浮かび、陽光を受けて淡く光っていた。
雨夜・氷月(壊月・h00493)は銀髪を指で払いながら、仰ぎ見るように笑う。
「へえ、これが世界樹か。……随分と大きいねえ」
声は軽やかで、いつものように悪戯っぽさを含んでいたが、その双眸に映る光景を確かに彼はしっかりと捉えていた。
夜鷹・芥(stray・h00864)は隣で黙ったまま風鈴を取り出す。透明な硝子に青空と金色の花を描いた、小さな手作りの風鈴だ。陽光を受けるたび、絵付けの金がちらちらと瞬き、風を待つ蝶の羽のように揺れる。
「……大樹、いや、リュグドラシェル。お願いできるか?」
上空からするすると枝が伸びてくる。葉は翡翠色に透け、指を差し伸べるようにふたりの前へ垂れ下がる。まるで精霊そのものが「預けよ」と告げているかのようだった。芥は枝に風鈴を掛け、揺れる硝子を見上げる。かすかな音が鳴り、空気に溶けていった瞬間、胸の奥に忘れていた懐かしさがふと蘇った気がした。音はやさしく、そしてどこか切なく、心のひだに沁み渡る。
氷月もまた、懐から別の風鈴を取り出す。駆ける黒狐と、脇に点々と沈丁花が描かれた風鈴。
「せっかくだし俺も飾っとくか。安全祈願、ってやつ」
枝に掛けると、りん、と夜のしずくが滴るような音が響く。
ふたりの頭上では、葉の間から降る光が柔らかく揺れ、風鈴の音と呼応するかのようにきらめいていた。花弁はまたひとひら、またひとひらと落ち、まるで音に誘われて舞っているかのよう。世界樹の幹に触れる風すらも静まり返り、樹全体が風鈴の願い達を受け止めているかのようだ。
「……事務所のイメージ風鈴も飾ってくれるあたり、お前って意外とそういうとこあるよな」
「はは、意外とってなあに、意外とって」
芥が低く呟くと、氷月はただ肩を竦め、にやりと笑ってみせた。その笑みの奥には、どこか誇らしげな響きが滲んでいる。
やがてふたりは枝を見上げるのをやめ、木陰へと歩を進めた。世界樹の根元は涼しく、苔がしっとりと広がり、柔らかな絨毯のようだった。湧き水のせせらぎが近くで響き、風鈴の音と交わりながら、まるで小さな楽団の演奏のように空気を満たしている。
芥は大樹の根に背を預け、ゆっくりと腰を下ろした。氷月も隣に腰を下ろし、足を伸ばして深く息を吐く。頭上ではふたりが掛けた風鈴が揺れ、涼やかな音を繰り返す。陽光は葉に遮られ、柔らかに零れ落ちる光が芥の頬を照らした。
「悪くないな……」
「ね? こういうのも、たまにはいいや」
冗談めかす氷月の声に、芥は目を細め、ただ静かに頷いた。
世界樹の木陰はひんやりとして、心地よい風が吹き抜けていた。氷月は木の根に腰を下ろし、長い脚を投げ出す。枝の間から射す光が髪にちらちらと揺れ、風鈴の音が時折り重なる。
「眠そうだねえ、芥。……膝枕してあげよっか?」
軽口めかして笑い、すらりと伸ばした腿を叩く。
普通なら突っぱねるだろう――そう思っていたのに。芥は特に迷うこともなく「じゃあ宜しく」と答えて、ごろりと横になった。
「……あれ、本当に乗るんだ」
氷月はわずかに目を瞬かせる。冗談半分の提案が、意外にもあっさり受け入れられてしまったのだ。
芥の頭が氷月の腿に沈む。黒髪がすべるように広がり、さらさらと氷月の指先をかすめた。思いのほか重みがあって、膝にじんわりと熱が伝わる。呼吸のリズムも近く、胸の上下がすぐ傍で感じられた。
「……硬いな」
ぼそりと芥が漏らす。
「文句言うなら貸さないよ?」
「言ってねえだろ、文句なんて」
芥は目を閉じ、少し体重を増やした。信頼とも諦めともつかぬ仕草に、氷月はふっと笑みを浮かべる。
しばし、風鈴の音と木漏れ日の揺らぎだけが二人を包んだ。遠くでは子どもたちの笑い声や、小鳥の囀りが微かに重なる。時間が緩やかに溶けていく。
「そういや、まだお前の風鈴の音色、聴いてなかったな」
「俺の風鈴の音? ……そんな大したものじゃないと思うけど、聴きたいの?」
「勿論興味ある」
氷月はポケットから小さな風鈴を取り出し、指で軽く弾いた。
「リクエストとあらば」
りん――。
透明な音が空気を震わせる。静謐で、夜を溶かしたような響き。世界樹の枝に掛けた風鈴の音と重なり、さらに深みを帯びていく。
芥は瞼を閉じたまま、耳を澄ませた。
「良い音だな。静かで優しい――お前らしくない」
その声は風に溶け、揺れる葉に吸い込まれていく。
「そんな音色じゃ、また聴きたくなっちまうよ」
「ふふ、それは光栄だね」
氷月は三日月のような笑みを浮かべ、もう一度風鈴を鳴らした。
音が消えたあとも、ふたりの間に沈黙が続く。しかしそれは気まずさではなく、むしろ言葉よりも確かな安らぎだった。芥は目を閉じたまま深い呼吸を繰り返し、氷月は膝の重みと髪の感触を確かめるように視線を落とす。
やがて、氷月はふと口を開いた。
「……寝顔、思ったより可愛いんだね~」
その声音は、いつものように軽く、悪戯の香りを含んでいた。冗談めかしているのは分かっている。けれど、膝に頭を預けた芥にしてみれば、不意を突かれるには十分すぎる一言だった。
「寝てねえ。……まだ起きてる」
低く返す声には、ほんのわずかに掠れた苦味が混じる。「知ってる」と返す氷月は三日月のような瞳を細めて笑い、風鈴を指先で揺らす。
風は緩やかに吹き抜け、木漏れ日が二人の頬を淡く照らす。
膝に預けられた重みも、静かに目を閉じる気配も、どこか安らぎを伴って胸に残る。芥は瞑っていた視線をあげ、目の前に広がる光景を心に刻むように瞬きをした。――この大樹が、ふたりと皆の願いを見守り続けてくれますようにと。
✦願い星は、果実が成るように
海を越えて辿り着いた世界樹の前で、白・とわ(白比丘尼・h02033)と戀ヶ仲・くるり(Rolling days・h01025)は思わず足を止めた。
真白な髪を揺らしながら、とわは金の瞳を大樹へと向ける。
「まぁ……本当に大きくて見事な木ですわねぇ。まるで絵本の世界のようですわ」
枝葉は空を覆い尽くすほどに広がり、夏の日差しは柔らかく散って地表へと降り注ぐ。木漏れ日の下を吹き抜ける風は驚くほど心地よく、彼女の尾鰭も嬉しげにぱたぱたとはためいていた。
隣で見上げるくるりもまた、子どものように目を輝かせている。
「でっっっかい! 大樹って聞いてたけど、本当に大きいんだねぇ……すごぉい!」
声にはしゃぐ色が混じり、頬にはほんのり赤みが差していた。
歓声のような声が聞こえ、ふたりの視線がふと同じ方向へと吸い寄せられる。
世界樹リュグドラシェルの根元に広がる休憩所は、まるで森の中の小さな市のように賑やかだ。くるりはひとつの露店へと目を向け、思わず声を弾ませた。
「じゃあ奉納――……の前に、果実水を買ってかない? とわちゃん!」
その言葉に、とわは小さく手を胸に添え、金の瞳をきらきらと輝かせた。
「果実水……! えぇ、是非にいただきましょう。先ほどは楽しすぎて、ついつい羽目を外し過ぎてしまいましたわ。……喉ももう、すっかりカラカラです」
「あはは、いっぱいはしゃいだもんね!」
夏の日差しを透かす瓶の群れは、光を受けてきらきらときらめいている。
幹を背にして並ぶベンチと石のテーブル、その脇に整然と並んだ果実水の瓶。
黄金色は柑橘の爽やかさを湛え、深紅は木苺の艶めきを秘め、翡翠色の瓶は清涼なハーブの香りを予感させる。透き通るガラスの中で氷がころころと転がり、光を受けて虹色に光っていた。
「見てくださいまし、くるりさま! どれも宝石のようでございますわ!」
とわは思わず胸の前で両手を組み、真剣に見比べている。
「ほんとだぁ……! ど、どれもおいしそうで、選べないねぇ……」
くるりも目を輝かせて、一本一本の瓶に顔を寄せた。
「とわは柑橘系が好きなのですが……こっちの林檎も美味しそうです」
「私はベリー系が好きかなぁ。でも、こっちのハーブのも気になる……!」
ふたりはしばし悩み、やがて「ミックスはできますか!?」と声をそろえて店主に尋ねる。店主はひげを揺らし、にやりと笑った。
「面白いことを言うね。せっかくだから、いろいろ合わせてみるといい」
最初にとわが試したのは、宣言通り林檎と柑橘を合わせた一杯。
淡金色の液体に氷が沈み、夏の光を透かして琥珀のように輝く。とわが口をつけると、柑橘の爽快な香りが広がり、林檎の甘みがそれを包み込んで余韻を残した。
「まぁ……最初に弾ける柑橘の酸味と、そのあとに広がる林檎のやさしい甘さ! 口いっぱいに夏を描いているようです」
金の瞳がきらりと細まり、とわは頬を染めた。
一方でくるりは木苺と葡萄を合わせた深紅のグラスを手に取る。
「んっ……甘酸っぱい! 木苺の華やかな香りがぱぁっと広がるのに、葡萄のまろやかさが後味を丸くしてくれる……すごい、おいしいかも!」
紫の瞳を輝かせ、目の高さに掲げて透かしてみる。光を受けた液面はまるでワインのように艶やかで、彼女の頬も自然と赤らんで見えた。
それからふたりは、次々と新しい組み合わせを試していった。柑橘とハーブを合わせれば、清々しい風が吹き抜けるような爽快感が広がる。林檎と木苺を合わせれば、果実園の真ん中に立ったかのような甘やかな香りに包まれる。葡萄と柑橘を混ぜると、濃厚さの中にきりりとした切れ味が差し込み、思わず目を丸くして顔を見合わせた。
「くるりさま、こちらを……まあ、これは……ミントでしょうか? 飲んだ瞬間に身体が軽くなるようですわ」
「ほんとだ! こっちも飲んでみて? すっごく甘いのに、後味はちゃんとすっきりしてて……」
互いにグラスを差し出し合い、交換しながら笑う。飲むたびに驚きが訪れ、驚くたびに顔を見合わせて笑い合う。
まるで遊園地のアトラクションを次々試すように、果実水はふたりの舌と心を喜びで満たしていった。
時折、氷がかすかに触れ合って涼やかな音を立て、その音すらも果実水の清涼な味わいの一部のように感じられる。とわの尾鰭がご機嫌にぱたぱたと揺れ、くるりの緑の髪が風に遊ばれてひらひらと舞った。
やがてふたりはベンチに腰を落ち着け、飲み比べた瓶をずらりと並べて「これは爽やか」「これは可愛い色」と感想を重ねていった。
並んだグラスの群れは、夕立前の虹のように色鮮やかで、目にも心にも心地よい彩りを残した。
✦
果実水で喉も心も満たされたあと、ふたりは風鈴を手に世界樹の枝の下へと向かった。樹の葉がざわりと揺れ、清涼な影を落とす。降り注ぐ光は翡翠色に透かされ、まるで水底に沈んでいるかのように心地よかった。
くるりは、掌に抱えた風鈴をそっと掲げた。
自ら吹きガラスで作ったもの――夜空をそのまま閉じ込めたような、深い藍と星の煌めきを散らした彩の風鈴。陽に透かせば小さな星々が瞬き、涼やかに風を受けて揺れる。
彼女は世界樹の枝へとそれを掛け、目を細める。人魚の友がどんな道を歩んできたのか、自分にはわからない。けれど今日一緒に過ごしたこの時間のように、明日もまた楽しく笑える日々であってほしい。そう願う思いを、夜空の風鈴に託した。
続いて、とわが手にしたのは、青空を描いた風鈴だ。透きとおる青に白い雲の絵が浮かび、見上げればそのまま天を写したように澄んでいる。彼女は微笑みながら、伸びてきた枝にその風鈴を掛けた。
今日、たくさん見せてくれた笑顔。それがどれほど胸を温かくするものだったか、とわは知っている。だから、これからの日々もその笑顔が絶えず咲き続けますように――その願いを、澄んだ青空に響かせた。
ふたつの風鈴は、並んで枝に揺れる。
ひとつは夜空、ひとつは青空。
対のように寄り添いながら、風に乗って響き合った。
その音色は清らかで、どこか切なく、しかし確かに優しかった。世界樹の梢を渡り、空へと吸い込まれていくその調べは、ふたりの想いを繋ぐ約束のように響いていた。
寄り添う影はただ静かに風を受ける。夏の午後は緩やかに移ろい、やがて、風鈴の音がそっと見送るように――空へと溶けていった。
✦エルダーフラワーの妖精
風はやわらかに吹き抜け、白い花を纏った大樹の周辺に涼やかな気配をもたらしていた。
潮の香りを少しだけ残した空気が葉を揺らし、その合間に射し込む木漏れ日が地面を星の影のように彩る。
小さな翅を光に透かしながら、シルヴァ・ベル(店番妖精・h04263)はそっと息をついた。少し火照った頬を風が冷ましていく。
その心地よさに目を細めながら、大樹に会う前にシルヴァは休憩所の方に足を向けた。
露店に並ぶ果実水はどれも宝石の瓶を思わせるほど美しかった。陽光を受けた瓶はルビーのように赤く、翡翠のように緑に、また黄金のように輝いている。小さな身体を店先の縁に留めながら、シルヴァは首を傾げた。
「ふむ……」
彼女の瞳がとりわけ留まったのは、白い花びらを浮かべた透明な瓶。エルダーフラワーの果実水だという。
冷えた瓶の口に唇を寄せると、花の香りと優しい甘さが舌に広がった。マスカットに似た優しい味。清らかな水が喉を潤すたび、身体の奥にまで涼気が染み込んでいく。翅がひとりでに揺れ、シルヴァは思わず笑みを浮かべた。
「美味しい。炭酸やお湯で割っても良さそうですわね」
口元に残るほのかな甘みを楽しむと、気持ちも自然としゃんと整ってくるような心地がする。
果実水に背中を押されるようだ。そう、これから大樹にご挨拶へ行くのだから――その前に、姿をきちんとしておかなくては。
小さな鞄から取り出したのは掌にすっぽり収まる銀の手鏡だ。縁には繊細な葡萄の装飾が施され、陽光を受けてきらりと光った。シルヴァは鏡を傾け、自らの姿を映し込みながら丁寧に身づくろいを始める。指先で乱れた金の髪を一房ずつすくい上げ、櫛で整える。翅に積もった砂や小さな埃は、羽ばたくのではなく布切れで優しく拭い取る。光に透かせば、薄い翅の中を走る模様がいっそう鮮やかに浮かび上がり、彼女自身も思わず目を細めた。
さらに、胸元やスカートの皺を指先で伸ばし、埃もきちんと払った。ひとつひとつの動作に「きちんと整えて、清らかな気持ちで臨みたい」という想いが込められているようだ。
ようやく準備が整うと、シルヴァは深呼吸をひとつ。鏡を畳み、そっと懐に仕舞う。
澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、彼女はようやく世界樹のもとへと足を進めた。
✦
大樹は、静謐でありながら力強い気配を纏っていた。
苔むした根からは澄んだ水が溢れ、小さな流れをつくって地表を潤している。まるで精霊そのものがそこに息づいているかのようだ。
シルヴァは両手で小さな風鈴を取り出した。淡い青に染めた硝子の中に白い星を散らしたような、小さな鈴。手ずから描いたそれに、自らの願いを託していた。
伸びてきた枝に風鈴をそっと掛ける。涼やかな音がひとつ、空に響き渡った。シルヴァは小さく瞼を閉じて、胸の中でそっと囁く。
「……ひとを幸福にできる、立派な妖精になれますように」
商売繁盛と願うこともできたが、それは自らの力でなすもの。ここで託すべきは、もっと大切な祈りだった。
風鈴の音は優しく重なり合い、世界樹の枝葉に吸い込まれていく。葉はざわりと揺れ、祝福のように光を散らした。
シルヴァは小さな手を胸に当て、頭を垂れる。
「木陰を貸してくださってありがとう。どうかあなた様も、いつまでもお元気で……その枝葉が緑に輝いていますように」
見上げれば、白い花が陽光を浴びてきらめき、風鈴が揺れて澄んだ音を奏でていた。その音色に包まれながら、シルヴァは小さく微笑んだ。彼女の願いは確かに、ここに刻まれたのだと感じながら。
✦翳りの道案内
世界樹の根方は、風がやわらかく巡る。葉の影は縞になって地面を渡り、どこからともなく澄んだ風鈴の音が重なってはほどけていく。
眼孔を持たないウィズ・ザー(闇蜥蜴・h01379)は光そのものではなく影の濃淡で世界を読む。枝葉が揺れれば影が細く長く伸び、露店の天幕がはためけば足もとに影が跳ねる。
「良い場所だな」
喉の奥へ落ちる風の温度まで心地よい。音を追いながら歩けば、色とりどりの瓶が並ぶ台の前に出た。瓶の群れは光を抱いて、それぞれ違う濃さの影を卓上に落としている。指で軽くコツン、と触れると、瓶は小さく共鳴して涼しい音を返した。
「ほォ。果実水か。どれにするかね」
店主が勧めるまま、栓を少しひねって香りを確かめる。柑橘の影は軽やかに跳ね、葡萄はとろりと余韻が長い。木苺は――鼻先をくすぐる酸の気配が、舌の奥まで想像させる。
「木苺のしずく、ひとつ。ついでに薄荷の葉を一枚な」
手にした瓶の冷たさが掌へすべり、表面の水滴が一粒ずつ落ちてゆく。栓を抜けば、甘酸っぱさがひと息で胸に広がった。ひと口。小さな酸の火花が舌に弾け、すぐにやわらかな甘みが追いかける。木陰の涼しさと合わさると、世界が一段明るくなるみたいだ。二口、三口――喉の渇きがほどけていくたび、風鈴の音が近くなる。
世界樹の前で立ち止まると、上から影がすうっと伸びて降りてきた。枝が差し出されたのだと、影の輪郭で分かる。
「ここに吊るすンだったか?」
ウィズは包みから風鈴を取り出した。墨色の半透明に溶けた硝子、内に星砂みたいな銀の粒が散っている。枝に紐を回し、結び目を指先で確かめる。
りん、と最初の一音。木肌をくぐる風が音の輪郭をやさしく撫で、すぐ近くの別の風鈴の調べと自然に重なる。不協和のきしみはない。木々のせせらぎ、葉擦れ、根元を流れる清水のかすかな瀬音――それらすべてと同じ高さで、音は息をしている。
「挨拶だ。受け取ってくれよ」
この地に根付く精霊へ、小さく笑みを浮かべて頭を垂れた。
木苺のしずくをもうひと口。酸がやわらぎ、果肉めいた甘さが舌に長く残る。瓶口に添えた薄荷の葉がさり、と香りを立て、鼻腔の奥を涼しくひらいた。栓を戻すころには、胸の内側まで静かに冷えている。
枝上の影がわずかに揺れ、吊した鈴が応える。音が空へほどけ、また戻ってきて自分の耳たぶの後ろを撫でていった気がした。影で聴く音は、輪郭がくっきりしている。何処から来て何処へ抜けたのか、肌で分かる。
「――さて」
少し、水にも触れて行こうか。
根のあいだから湧き出る泉へしゃがみ込み、指先を落とす。ひんやりとした膜が一枚、指の骨まで透る。水面に落ちた自分の指の影が、波紋に崩れて丸くほどけた。掌をひっくり返して流れを受け、もう一度風鈴の方を振り返る。影の中で、群青の短冊がゆるく揺れた。
瓶の底に残った一口を、最後に喉へ。木苺の余韻の先で、風鈴がまた小さく鳴る。世界樹の影は深く、しかし怖れを抱かせない。音と風と水が、互いの居場所を譲り合っている。
「……いいねぇ。こういうのは、嫌いじゃねぇ」
濡れた指を払って立ち上がる。足もとに落ちる自分の影は軽く、風に合わせてかすかに形を変えた。背後でりん、と澄んだ一音。それを背に受けながら、ウィズ・ザーはゆるい足取りで、まだ鳴り続ける音の方へ歩き出した。
✦ぴかぴかフルーツ、きらきらウォーター
「わぁ……!」
エメ・ムジカ(L-Record.・h00583)が感嘆を弾ませ、赤い瞳をまるくする。兎耳がぴょこんと立ち、黒い髪が風に揺れた。
海を越えた先では、ひときわ大きな影が大地に根を張っていた。
それは街でも語り継がれる名を持つ世界樹リュグドラシェル。幹は城壁のように太く、枝葉は空を覆い隠すほどに広がり、陽光をやわらかに砕いて地上へ落とす。木漏れ日は無数の光の粒になって苔をきらめかせ、根の合間を走る湧水は、夏の熱を忘れさせるほど澄んでいた。
「玲空ちゃん! すっごい大きい! なんだか……樹が全体で息をしてるみたいだ!」
「……海の先に、これほどの巨木があるとはな。樹が纏う空気感にも、神聖なものを感じる」
応える椿紅・玲空(白華海棠・h01316)は目を細め、白い髪に木漏れ日を受ける。虎耳はぴこりと反応し、薄い影の中で尾がふわりと揺れた。
「あ! あっちには果実水があるって!」
ムジカの視線の先には色とりどりの瓶を並べた露店。その瓶の中身は透きとおる果実水だ。淡金に澄んだ林檎、深紅の木苺、翡翠のハーブ、涼やかな柑橘……光を透かして輝く棚は、小さな宝石店のようだった。ムジカは玲空の手を取って駆け寄る。
「ここはぼくがご馳走します! 玲空ちゃんはどれがいい?」
「……いいのか?」
露店主が布で瓶肌を拭うと、冷えた雫がつっと落ち、台に小さな輪を残す。玲空は指先に触れた涼しさにほんの少し目を細め、戸惑い半分、楽しさ半分で口角を緩める。
「なら、淡金の林檎の果実水を」
「うん! じゃあ、ぼくは木苺にしようかな~。見て見て、ぼくの瞳の色!」
「ん? ――はは、本当だ。ムジカの瞳みたいにキラキラしているな」
赤い液が瓶の中で光を抱き、二人の手の甲に小さな紅の影を落とす。「えへへ」ムジカの耳が照れて赤くなり、世界樹の葉ずれがそっと笑い声を運んだ。
ふたりは木陰のベンチに並んで腰を下ろした。栓を外すと、泡立たないのにふわりと清涼な香りが立ちのぼる。
ひと口――。
玲空の林檎は、舌に触れた瞬間は驚くほど澄んだ甘さ、そのすぐあとを爽やかな酸が追う。冷たさは喉をするりと滑り、胸の奥に透明な風を通すようだった。しつこさはなく、果実を丸かじりしたときの清らかさだけが残る。
「……ん、程よい甘さだ。美味しいな」
髪がふわりと揺れて、玲空は満足げに息をついた。
ムジカの木苺は、明るい酸が先に跳ね、続いて小粒の甘さが余韻にほどける。赤い果実の香りが鼻梁を抜け、頬の内側までくすぐるような幸福感を連れてくる。
「こっちも甘酸っぱくておいしい~! 最初は高い音で、あとから低い音が鳴る感じ!」
興奮を分け合うように、ふたりは瓶を交換して味見し合った。
「……確かに鮮やかな味だ。目が覚めるような甘酸っぱさだな」
「玲空ちゃんのは、やさしくてあったかい。安心する味だよ~!」
世界樹の高みでは、どこかの誰かが掛けた風鈴が鳴った。りん……と涼やかな音。
枝葉がざわめき、湧水がきらめく。音と光と風が重なり、舌のうえの果実水の印象をもう一段階澄ませてくれる。
「せっかくだから、もう一本選ぶ?」
「そうだな。味を比べるのも学びだ」
露店に戻ると、店主は笑って小さな試飲杯を差し出した。柑橘とハーブの混じる翡翠の一本、微炭酸の小瓶、蜂蜜をほんのわずか落とした白い花の甘露――どれも瓶の中で光を抱き、涼やかに揺れている。
ムジカは香りを嗅いでは目を輝かせ、玲空は静かに頷きながら舌で違いを追っていく。
結局ふたりは、柑橘+ミントの翡翠色をふたりで一本だけ追加した。
木陰に戻り、まずは玲空がひと口。
「ほう……葉の清涼感が前に出るが、柑橘の皮のほろ苦さが締める。後口が軽い」
「ミントが風みたいに通り抜ける~。さっきの二本とも合うね」
まず林檎のあとに翡翠を一口。甘さの余韻が薄い葉の香りで磨かれ、喉の奥に真新しい小道が一本通るようだ。
次は木苺のあとに翡翠。赤い酸味がすっと整い、輪郭がきれいに立ち上がる。
「順番を変えると味が変わるの、面白いな」
「ふふ~、飲み物でもセッションできるんだよ!」
やがて瓶は空に近づき、底に映る木漏れ日だけが揺れた。
ムジカは瓶を流れにかざして光を集め、玲空はそのきらめきを静かに目で追った。
「初めて入ったダンジョンだったが……色んなものが見られて面白かった」
「うん! ダンジョンって無限の可能性があるって、誰かに教わったことあるんだ。ほんとにその通りだね」
湧水の縁から見上げれば、樹冠の間を小さな鳥が横切り、遠くで風鈴がまた鳴る。どこかで子どもが笑い、別のどこかで祈りの声がひそやかに重なる。世界樹はそれらすべてをひとまとめに抱き、風と光に変えて返してくるのだろう。
「ムジカ」
「なに?」
「……ありがとう。君が一緒だと、味も景色も、少し違って見える」
「えへへ。ぼくも、玲空ちゃんと一緒だと、知らない音がいっぱい聴こえる気がする!」
ふたりは空になった瓶を胸の前で合わせ、控えめに「からん」と鳴らした。ささやかな乾杯。
それから、枝の間の風鈴に目をやる。ここで奉納する風鈴も、きっと誰かの一日を涼しくするのだろう。今日は掛けずにそっと持ち帰るつもりだが、ふたりの胸には同じ響きが残っていた――りん、と、さっきから耳の奥で鳴り続ける透明な音。
「今日はいっぱい楽しかったね!」
「……ああ。君のおかげで、とても楽しかった」
ムジカはベンチの端に頭を預け、玲空は湧水の音に耳を澄ます。風がひとしきり通り過ぎ、木漏れ日が新しい模様を地面に描いた。
いつかまた一緒に出掛けよう。次はどんなことをしよう。
帰り道にそんな約束を、声に出さず心の中で交わしながら――ふたりは並んで、もう一度だけ木漏れ日を見上げた。
✦流れる午後は、静かに甘く
海を越えた丘の向こう、白い花を纏う世界樹は、近づくほどに静かな涼しさを連れてきた。
幹は何人もで腕を回しても届かないほど太く、天へ広がる枝葉は陽光を細かく砕いて、地面に薄緑の模様を落としている。風がくぐれば、遠く近くで風鈴が鳴る――誰かの祈りが澄んだ音になって、葉の影を渡っていく。
「すごい……! おっきい樹ですね……! それに、すずしいっ」
廻里・りり(綴・h01760)は胸の前で手をぎゅっと合わせ、青い瞳を輝かせた。頬に当たる風は、さっきまで浜辺で感じていた熱を、まるで薄衣を脱がせるみたいにさらっていく。
「本当。とても大きいわ。それに、涼しくて……祈りの数だけ、優しい音がするよう」
ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)は硝子の瞳で枝先を見上げ、微笑んだ。左眼に葉の影がやわらかにかかる。
根元の小さな広場に露店が並び、色とりどりの瓶が光を抱いていた。水盤のような硝子に並ぶのは、海の青、若葉の緑、柑橘の金、木苺の紅――透明な瓶にとどまった小さな季節。
「――はっ、果実水! 果実水、のんでみたいです!」
りりは獣の丸い耳をぴくりと動かして、棚の前にしゃがみ込む。
指先が止まったのは、深い海を閉じ込めたみたいな青のボトル。小さな布袋から代金を取り出しながら、照れたように笑う。
「すてきな海を見てきたので、今日はこの青色にしようかな? 味はおまかせで……」
「いいわね。りりは海色の瓶? ワタシは……そうね、新緑の色にするわ。なんの味かしら?」
ベルナデッタは緑の瓶を手にとり、陽に透かす。瓶の中、薄い気泡が葉脈みたいに立ちのぼった。
「Mon bijou、あなたは青。ならワタシは緑を。二人で、森と海ね」
露店の主が小さな花の飾り紐を瓶口に結ぶ。りりには貝の飾り、ベルナデッタには若葉のチャーム。栓を抜くと、かすかな音といっしょに香りが立った。
ベルナデッタの緑は、若草の朝露のよう。
白葡萄の透明な甘さに、砕いたミントとレモンの皮の香りが重なり、息をするたび鼻腔の奥がすうっと広がる。
「こちらは……瑞々しいわね。葡萄の甘さと葉の香りが、喉を撫でるよう。ねえ、りり。あなたのはどんな味?」
りりの青は、ほんのすこし喜びの黄色が溶けるような海色。
ひとくち含むと、冷たさが舌先から喉へ、喉から胸の奥へ静かに降りていく。柑橘の酸が青いハーブの香りに重なり、最後にほのかな塩が甘みを引き締めた。
「わっ……! すっきりしていて、海の風みたい。あとから甘さがちょっとだけ帰ってくる感じ」
りりは葉の隙間からのぞく光に瓶をかざす。青がきらっと揺れ、瓶の外側の水滴が、きれいな粒のままぽたりと落ちた。
「意外です。ベルちゃんのは甘めなんですね……!」
「りりのはとっても爽やかなのね。少し交換しましょう?」
瓶口をそっと拭ってから、ふたりは互いの果実水を一口ずつ分け合った。
✦
小さなせせらぎに沿って歩けば、苔の上に白い花が落ちている。りりは指先で拾い上げ、瓶の紐に結わえた。
「ベルちゃん、これどうですか? 飾りにいいかなって」
「よく似合うわ。あなたには白も映えるから」
鳥の影がぴゅうと走り、どこかでまた風鈴が鳴る。風は甘く、土は冷たく、木漏れ日は揺れるたびに模様を替えた。
やがて、自然と足が向かったのは世界樹の木陰だった。根が編まれたように地面からせりあがり、ちょうど二人が腰をかけられる高さになっている。
「たくさん動いたから、少し座って休みましょうか」
ベルナデッタがスカートの裾を整え、白磁の脚でそっと砂を払う。りりは布袋から小さな手ぬぐいを出して、根の上に敷いた。
「お迎えした風鈴は、もちかえりたいなって思うんですけど……今日は、ここの音を聴きたいです」
「ええ、音巡堂の風鈴は持ち帰りましょう。ここでは、皆の祈りの結びを願って、穏やかに過ごすことにしましょうね」
りりは青の瓶を、ベルナデッタは緑の瓶を、根元の平たい石に並べる。
口に冷たい水が触れるたび、肩の力がほどけていく。さっきまで頬に残っていた砂浜の熱はもうどこにもなく、代わりに、涼しい眠気が指先から忍び込んでくる。
りりは泉をのぞき込み、ゆらゆら揺れる自分たちの影に小さく手を振った。耳がふわりと動き、尻尾が砂をくすぐる。
「しらない場所をおさんぽするのって、たのしいですね……。でも、ちょこっと、ねむたくなってきちゃったかも」
「明るい日差しの下でたくさん砂遊びしたもの。良い眠気がくるのも仕方がないわ」
ベルナデッタは掌で、りりの前髪をやさしく梳いた。指先は冷えすぎず、温かすぎず、ちょうどよい。
「お昼寝しましょ。こんなに優しい木陰だもの。こんな過ごし方もきっと、許してくれるわ」
りりは小さく頷いて、ベルナデッタの肩に背をもたせる。
「ベルちゃん……わたし、この瓶も、持って帰ろうかなって思うんですけど」
「きっと今日みたいにきらきら光るわ。ワタシも持ち帰って、窓辺に並べようかしら」
りりは満ち足りた息をひとつ吐き、薄く瞼を閉じた。ベルナデッタはその横顔を見守りながら、緑の瓶を指先でくるりと回す。液面の小さな波紋が、木漏れ日を砕いて、グラスの内側に跳ねた。
遠くで一本、澄んだ音が鳴った。
誰かが風鈴を手渡したのだろう。枝が受け取り、空がそれを高く掲げ、音だけが地上へゆっくり降りてくる。
りりの寝息は浅く、機嫌のよい子猫みたいに一定だった。ベルナデッタは目を閉じ、耳だけで世界を聴く。瓶の氷が解けるきらりという微かな音、苔の上を滑る水のささやき、葉擦れ、遠い笑い声――すべてがやさしく繋がって、午後の色を深くしていく。
ふたりの足もとを、小さな白い花が風に押されて転がっていった。
りりがひとつ寝返りを打って、肩に預ける重みを増した。ベルナデッタは「おやすみ」と唇だけで言い、額の上に、葉の影の代わりにそっと手をかざす。世界樹の木陰は、ふたりのためだけに時間をゆるやかにしてくれている――そんな気さえする、静かな午後だった。
✦翡翠は影に眠る
海の気配がまだ背中に残る道を抜けると、ひときわ濃い影が視界いっぱいに広がった。
世界樹リュグドラシェル。幹は城壁のように太く、枝葉は空をやわらかく塗り替えている。葉の隙間を通った陽は、角の取れた光の粒になって、苔むした根と湧水の面へ静かに降りた。塩気を含んだ風はここで甘く冷たく変わり、熱の抜け道を教えるみたいに頬を撫でていく。
「迂回して済んで助かったなァ、海……直射日光はどうもね。黒いしさ」
灰色の瞳を細めて、緇・カナト(hellhound・h02325)は肩をすくめた。陽を避ける犬のように影へ影へと足が向く。「このくらいの日差しであってくれた方が気持ちいいよね」とぼやきつつも、足取りはどこか弾んでいる。
「海ダンジョンを抜けた先には、涼しげな大樹が広がっているのであった……!」
隣でトゥルエノ・トニトルス(coup de foudre・h06535)が宣言めかして両手を広げる。青い瞳がきらり。
「主も砂遊びすれば良かったのになぁ。大スペクタクルな城が建っていたのだぞ」
「はいはい。今拍手したげる。褒めてやるから落ち着け」
カナトは手の甲で首筋をあおいで、あくびをひとつ。
「……ついでにベンチでも探すか。木陰、独占な」
「うむ! 此処も夏の日差しから隠れるには良き風景、存分に楽しもうではないか〜」
頭上で葉が薄く重なり、木漏れ日の粒が炭酸みたいに弾ける。海の名残の塩気は風にほどけ、代わりに樹皮の匂いと、冷えた土の気配。砂のついた靴が、根のうねりを丁寧になぞるたび、さらさらと音が落ちていく。
「おお、主の毛色が溶けるほどの濃い陰──あそこなどはどうだ?」
「目ぇ良いね。まあ、あのへんなら風が抜けるし、昼寝向きだな」
「よろしい! ではまず座して涼を取り、ついでに景観の採点を──」
「採点って」
葉擦れが、遠い波の余韻みたいに寄せては返す。蝉の声は幹でやわらぎ、影は水の底みたいに深い。歩を進めると、樹の根元のほうに人の気配──ざわ、と小さな輪が広がる。涼しい影のむこう側に、何かきらりと光るものが見えた。
「――おお! 色とりどりの瓶が並んでいるぞ」
根元の休憩所には木のベンチ、丸石のテーブル。そして、色とりどりの瓶を並べた露店。ガラスの肩に陽の粒が跳ねるたび、黄金、深紅、翡翠、淡青……宝石箱を覗き込んだみたいに影が色づく。瓶肌を拭う布のささやき、栓金具の微かな鳴り。涼しさの前触れが次々と音になる。
「精霊サマ、目敏いなァ。……そのくらいならまぁ良いか」
カナトは指先に触れた冷たさにほっとして、棚を眺める。普段なら迷わず選ぶトールが、今日は珍しく立ち止まっている。瓶の中で揺れる光が、視線をじいと縫い留めているようだ
「主は何にする?」
「じゃあ……柑橘。喉に抜ける、あの感じが欲しいね」
「ふむ。ならば我は木苺のしずくを。黄金と深紅、太陽の色をふたつ並べようぞ!」
「追撃が早すぎる。待ち構えてたのかよ」
「ふふ~。ま、計画的偶然というやつだなぁ!」
店主が笑い、コップに砕いた氷を落とす。ぱきん、と涼音が弾けた。黄金の水に薄輪の柑橘をひと片、深紅の木苺水には小さな葉を浮かべる。ふたりは木陰のベンチへ並んで腰をおろした。
一口。カナトは柑橘のグラスを傾ける。
舌に触れた瞬間、細い線のような酸がすっと通り、すぐ後から果肉の甘みが丸く追いかけた。氷の冷たさが喉をなぞって胸の奥を冷やし、肩の力が自然に抜ける。鼻に抜ける香りは、朝に剥いた皮の指の匂い。
「ん、旨い。酸味と甘みのバランスがいい。――意外と皮の苦味も感じるな」
「語るなぁ、主。では我も」
トールが木苺をすする。
最初の一拍は涼しい酸、二拍目で甘さがふくらみ、三拍目には果実の香りが低く残る。
「うむ、高い音で始まり、低い音で終わる。背骨が通っていてよろしい」
「音で味を語るなよ。……でもまあ、華やかってこと?」
「交換してみれば分かるぞ!」
グラスが入れ替わり、互いの色が指へ影を落とす。カナトは木苺の鮮やかさに目を細め、トールは柑橘の鋭さに満足げに頷いた。
「黄金は朝のひかり、深紅は夕映え、翡翠は木陰の温度……といった所か」
「精霊サマは詩的な表現もお上手で」
ゆっくり飲めば、氷が鳴る。世界樹の葉ずれ、風鈴の細音、湧水のせせらぎ、小鳥の羽音。それらの隙間へ、果実水の香りがやわらかく溶けていく。
カナトは片手でポケットを探り、使い込まれた文庫本を取り出した。親指を栞代わりに背へ挟んで軽く鳴らすと、小口を木漏れ日の縞がすべり、風がページの端をふっと持ち上げては戻す。彼は本を膝に置き、グラスの水滴を一度拭ってから、ゆるく背もたれへ沈んだ。
「ところで主は何の本を読んでいるんだ? いやほら、気になってな。何しろ、先程から全く頁が進んでいないからなぁ」
「休憩だよ、休憩。……ほら、風がいい。ページなら、勝手にこいつらが捲ってくれるさ」
カナトは表紙だけ開いた文庫を膝に置いた。ページの小口が斑に光り、影は縞になって彼の指を横切る。
「この情景を切り取れるような物語でも書ければ良かったんだけれどね」
「書けば良いのだぞ? 主が書くなら我が挿絵を描こう」
「絵も描けんの? 万能生物め」
「雷は万能だ。ついでに昼寝の守護もできる。飲み終えたら寝ると良い。枕は我の肩で良いぞ」
「ちっちゃいのに肝が据わってるねぇ」
「雷獣は器が大きいのだ」
言葉の遊びがひと段落すると、ふたりは再びコップへ口をつけた。最後の一滴まで名残を惜しむように。空になった底から、丸い光が一つ跳ねて消える。
しばしの沈黙。苔の絨毯はふわりと弾み、湧水は指を冷やす。
木の影はさっきより濃く長い。ふたりは同じベンチへと腰をおろした。カナトはジャケットを丸め、背もたれと肩の隙間に押し込む。トールはその隣にぴたりと座り、尾――比喩の――をゆらり。
「主、頁」
「……進まない」
「では目を閉じると良い。ページの代わりに葉の影が流れていく」
「言うね」
カナトは目を閉じた。瞼の裏を、木漏れ日の形が行き来する。風鈴の音は細い糸になって耳の奥にかかり、せせらぎが糸を冷やす。遠くの笑い声は砂浜で聞いた甲高い歓声に似ていて、でもここでは角が丸い。
「……寝たか?」
「まだ」
「では寝るがよい」
「命令口調」
「雷は天の号令なのだ」
無茶な理屈の割に、声は子守歌みたいに静かで、単語の間に風の余白がある。カナトは肩を少し傾け、頭をベンチの背に預けた。文庫が太腿から滑りかけるのを、トールがさっと押さえる。
「早速守護が役に立ったようだな!」
「はいはい……ありがと」
時間は影の伸びる速度で進む。
氷の解ける早さ、湧水の落ちる間隔、風鈴の揺れの帰り。すべてが午後の練習曲になって、二人の呼吸と合奏した。やがてページの白が、薄く寝息に溶ける。カナトの胸は規則的に上下し、手の力が抜け、指先から宙へ小さな合図が立ちのぼる。
トールはそれを確認してから、空になったコップを重ね、ベンチの端に寄せた。青い瞳が上を向く。葉裏の光は翡翠で、ところどころに白い花。世界樹は、確かに息をしていた。祈りの数だけ音がして、影の数だけ涼しさがある。
「なぁ、主」
囁きは静かに。
「此の夏の思い出、物語として納めよう。黄金と深紅の二章、翡翠の間奏。表紙は黒、背には雷のしおり。そういう本を、我が本棚に挿しておく」
返事はない。かわりに、肩に重みが増した。ちいさく微笑んで、トールは背筋を壁に預ける。
「――まあ、まだ寝てないけど」
「寝るがよいと言うておろうに」
影は少し浅くなっていた。
世界樹の高みでは鳥が一羽、羽づくろいをしている。
旅立つ時を心待ちにしながら。
✦なんちゃらと煙は高い所が、
「座ってろ」
そう言い置いて、明日咲・理(月影・h02964)は木陰に七・ザネリ(夜探し・h01301)を押し込んだ。
枝葉を透かした光が、猫背の背中にまだらの模様を落とす。世界樹リュグドラシェルの根は苔の上で大蛇のようにうねり、湧き水は澄んだ音で石を洗っている。風鈴の音が高いところで重なって、涼しさだけが増していった。
理は人の流れを一度見渡し、露店へ。葡萄と――たぶん彼が気に入るだろう、珍しい夏果の果実水を一本ずつ。砂糖は多め、氷も多め、薄い輪切りの果実を浮かべて。彼の屋敷のキッチンに立つ身として、好みはだいたい覚えている。あとは、お菓子も幾つか。
(待ってろと言って素直に聞くような人じゃない)
そう思って、肩越しに木陰を盗み見る。案の定、猫のように影が動いた。胸に抱えていた犬のぬいぐるみ――鉄砲玉のタツ――を脇に抱え、ザネリがするりと立ち上がる。タツが腹の鈴をちり、と鳴らした。
――数分前のこと。
「タツ。座って待ってんのは退屈だろ」
なあ? と、低い声。ザネリ(と一匹)は、根の間を踏まぬように、湧き水を跨いで動き出した。
タツがぶんぶんと尾を振って先導する。危うく湧水に飛び込みかけるのを、長い指が首根っこで引き留める。
「おい、はしゃぐな。目立つだろうが。……樹に喧嘩売るなよ」
数分間の尾行は、軽い遊びのようだった。ザネリは木の影と人の影の隙間を縫い、身を薄くしてついてゆく。視線は低く、歩幅は音を立てない。
理の動きは素直だ。露店で並ぶ瓶の前に立つ。迷う時間は短い。
手に取るのは葡萄の濃い紫と、琥珀色の珍しい果実水――肩越しに、ピンクの瞳が細くなる。
(俺ならそれを選ぶ。……さて、何を足す?)
ザネリの心の中で、抜き打ちチェックが始まった。タツは「わふ」と短く鳴くふりをして、瓶の列に興味津々だ。
「どけタツ。撫でてやるから大人しくしてろ」
理は、紙袋に菓子をふたつ追加する。ザネリが笑うモノをちゃんと知っている選び方だ。
(……ほんと、猫みてえな人だな)
理は気配の尾を確実に感じ取っていた。
歩幅を半拍だけずらし、反射で視線を流し、わざと影を踏ませる。袋を片手に、湧き水の縁へ移動して、振り返る。
「ザネリさん」
「ん? ……あー、おいタツ、バレたじゃねえか」
根の影から、ひひっと喉を鳴らして現れる。タツは勝ち誇った顔で前に躍り出て、理の脚へ鼻先を押しつける。
「で、何を買った?」
「アンタが好きそうなやつ。――葡萄、それから珍しい夏果。氷多め。菓子は三種」
「世話役として素晴らしい働きだ」
木陰に戻る。世界樹の根に腰をかけ、背を幹に預ける。果実水の瓶を傾けると、氷が涼しい音で鳴った。葡萄の濃い香りが夏の熱を押し下げ、琥珀の瓶は柑橘とも花ともつかない香りで喉を洗う。
タツは理の靴紐をかじろうとして怒られ、今度はザネリのコート裾にじゃれつき、やがて湧き水の縁で腹這いになって、水面に映る自分の鼻先にちょっかいを出していた。
「ここ、枝が伸びて来るんだと」
理が空を仰ぐ。ひときわ太い枝が、鳥の止まり木のように高いところでひらいている。
「俺が買ったものはあとでアンタに渡す予定だから、精霊に渡すもんはないが……散歩するには悪くない場所だな」
「なら、何をするか。――樹があって、夏だ。やることはひとつ」
ザネリが瓶を飲み干し、タツを脇に抱え直す。
「登るぞ。理」
「怒られんじゃねえか……?」
「イイだろ。くそでけえ樹だ、懐もデカい、きっと。誰もがこの樹を見上げる。なら、その上から見下ろしてやるのが、風情ってもんだ」
理は肩で小さく笑った。
「……分かった。アンタに着いていく」
と言いつつ、先に動くのは彼の方だ。
幹の皺と苔の境目を指先で確かめ、靴底がかかる角度を測る。片手でタツの背のタグを掴み、「暴れるなよ」と釘を刺す。タツは「わふ」と返事をして、前足を突き出した。最初の枝までは、根のこぶを踏み台にすれば届く。
ザネリは長い手足を活かして、しなやかに跳ね上がる。枝に肘をかけ、身体を翻す動きは、軽業のようだ。
タツは――無鉄砲だ。理の肩に乗ったかと思えば、するりと前足を枝へ伸ばし、ずり上がっていく。ぬいぐるみとは思えない推進力。バランスを崩して枝から枝へ落ちかけたところを、ザネリの長指がひゅっと掬い上げる。
「おい、鉄砲玉。死ぬな」
応えるタツは誇らしげな顔。理が額をひとつ指で弾くと、鼻を引くつかせて、また前へ。
高度が上がるたび、音が少しずつ変わる。地上のざわめきは遠く薄くなり、風鈴の音は近く澄んでいく。葉の影は密になり、木漏れ日は硬貨ほどの円に丸まった。枝葉の間から、海の青が遠くにのぞく。白い砂浜、色とりどりのパラソル、露店の屋根、そして世界樹を取り巻く人の輪――それらが、風の筋書きの上に置かれた小道具みたいに整って見えた。
「……悪くない眺めだな」
「だろう?」
ザネリが片手で枝を押さえ、もう片方の手で煙草に触れかけ、やめる。
「ここは煙の似合う場所じゃないな」
「珍しいな、アンタがそう言うの」
「風情ってやつだ」
ちょうど良い太さの枝を見つけ、ふたりはそこに腰を落ち着ける。足をぶらぶらさせるザネリと、三つ先の枝にタツを座らせ、念のため細い紐で腰に繋いだ理。タツは紐を誇り高く引きずり、葉の間から顔を出した鳥に「わふ」と会釈をする。鳥は首をかしげ、すぐにまた羽繕いへ戻った。
上の方で、風鈴がひとつ、低く鳴った。さっきまで地上で聴いていた音と違う。ここでは、音の芯がはっきりしている。ガラスが空気を振るわせる瞬間が、指で触れるみたいに分かる。
「怒られねえどころか、歓迎されてるかもな」
「……なら良かった」
理は安堵の息を吐く。どこかで、精霊の笑い声のような葉擦れがした。
しばらく黙って、葉の間を渡る雲を見送る。枝の影が腕に縞を描き、汗は風に攫われ、指先には樹脂の香りが残る。タツはとうとう眠気に負け、枝に顎をのせて舟を漕ぎ始めた。ぬいぐるみの胸の鈴が、彼の呼吸に合わせて、ちいさく、ちいさく鳴る。
「……こいつも限界だ。そろそろ降りるか」
「そうだな。――あ、見ろよ、ザネリさん」
理が指さす先で、遠い波がひとつ、太陽を丸ごと抱いて崩れた。
細い銀の鱗が幾枚も空気に舞い、やがて何事もなかったように水平線はまっすぐを取り戻す。
ザネリは笑い、枝をぽんぽんと叩いた。世界樹はそれに応えるように、枝先をほんの少しだけ揺らした。
降りる道は、登りよりも容易だった。理がタツを胸に抱き、ザネリが下から手を差し出す。足場を譲り合うことはない。互いに体重と重心を読み、動きに合わせて体をずらす。落ち葉がぱらりと肩へ降りた。
地上へ戻ると、湧き水の温度が低く感じられた。手を浸すと、樹の匂いが薄れ、代わりに土の匂いが濃くなる。タツは水面にそっと片足をつけ、びくりと跳ねてから誇らしげに走り回った。
「どうだい。俺が選んだものは、アンタの世話役として及第点か?」
理が紙袋を差し出す。ザネリは菓子をひとつ摘み、ひと口で噛んだ。
「及第。いや、加点。……うまい」
「そりゃどうも。――でも、尾行は及第以下だ。すぐバレた」
「こっちは抜き打ちチェックのつもりだったんだがな」
「タツが目立ちすぎ」
「おい、鉄砲玉。聞いたか」
タツは自信満々で、叱られているのか褒められているのか分かっていない顔で尻尾を振る。
世界樹が、大きくひとつ、葉を鳴らす。あれは多分、笑ったのだ。風鈴が応えるように涼しく揺れ、陽は少し傾き、影はさらに柔らかく長くなる。
「理」
「ん」
「また登るか」
「……怒られなきゃな」
「怒られても謝りゃいい」
ひひ、と笑って、ザネリはタツの耳を揉む。タツは満足げに目を細め、腹の鈴をちり、と鳴らした。
湧き水で手を洗い、瓶の底に残った氷をひとつずつ口に含んで、ふたりは歩き出す。風は背中を押し、道は影の中に続く。上から見下ろした世界は、今は同じ高さまで降りて来て、同じ速さで流れていく。
尾行も、木登りも、そしてこの夏の午後も――全部まとめて、ひとつの遊びだ。そんな顔で、ふたりは笑った。タツは走り、世界樹は揺れ、風鈴はいつまでも澄んでいた。