ムーンサイド・ナイトビーチ
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水飛沫が上がる。巨大なシャチの尾が海面を叩き、ゆっくりと沈んだ。
果てなく広がった常夜の海には月光が煌々と降り注いでいた。光を反射して揺らめく波間にとりどりの影が過ぎる。無窮にも思える浜辺の上をヤドカリが歩く。
無人の海は、願いによって生み出された生物の幻影の楽園となって次の来訪者を待っている。
ダンジョンの主に照らされる海中を、長く巨大な影が悠々と横切っていった。
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「諸君! 海だ!」
開口一番、オルテール・パンドルフィーニ(Signor-Dragonica・h00214)は高らかに叫んだ。
上機嫌にペンをくるくると回し笑って続ける人竜に曰く。
「内陸の街にダンジョンが発生したんだ。ああ、安心してくれたまえ、今回巻き込まれて危地に陥ってる者は一人もいないよ」
というのも、ダンジョンの内部は海なのだそうである。
内部に敵性生物の気配はない。浜辺と遠大な海を照らす巨大な月の光が揺らめくさまは実に幻想的だ。洞穴の主たる月光はただそこにあり、祈られたままに願いを叶えるのだという。
たまさか街の夏祭りの時期と被ったこともあって、訪れる冒険者はそれなりに多いようである。そこで夏祭りの屋台に並んだのが、貝殻や海辺の生物をモチーフとした硝子細工だ。曰くこれを持ってダンジョンに潜り、夜の海に浮かぶ月光に祈りを捧げることで祈願成就のお守りとする――という趣旨らしい。
内容は何でも良いそうだ。選ぶのに迷う人のために願いの傾向によってお勧めのモチーフはあるようだが、無視して好きなものを選んでも構わない。たとえば健康運にはウミガメ、無事に帰れるように祈るなら海鳥、恋愛成就ならイルカといったあんばいだ。
「実に商魂逞しくて良いことだが、いかに現状は無害とてダンジョンはダンジョン、今後の危険性は誰にも分かるまい」
絶えず姿を変える迷宮が真実無害である期間は誰にも推し量れない。迷い込む者はない方が良いだろうと、人竜は建前じみた言葉を続けた。
「気温が下がれば水に落ちるだけでも十二分に危険なのも事実だろう? 楽しめる夏のうちに何とかするのが良いんじゃなかろうかな」
随分な数の冒険者が祈りを捧げたお陰か、幸いにして月光は随分と光を失っているようである。√能力者たちが願えばダンジョンごと消え去るだろう。安全なナイトビーチを存分に楽しんで、最後に土産を一つ持って帰れば、ひと夏の思い出になるのではないか。
それから――星詠みは悪戯っぽい表情で声を潜める。
「誰が願ったかは分からないが、海中に巨大な海竜の幻影がいるらしい。むろん無害で共に泳げる。月が消えればダンジョンと共に消滅するだろうが、わくわくしないか? 未確認生物みたいで」
他にも色とりどりの珊瑚礁や熱帯魚、海亀から肉食鮫まで、ここに以前訪れた冒険者たちが願ったものの幻影が泳ぎ回っている。どれもこれも敵意はないから、『一緒に泳ぎたい』に近しい祈りから発生したようだ。
願えば何でも生み出してくれるだろう、と笑った人竜は、ただし誰も傷付けないものに限るよ――とぬかりなく続けた。
「夏といえば海、海といえば夏。存分に楽しんだついでに人助け、まさに一石二鳥という奴だね! 是非とも満喫してくれたまえよ!」
第1章 日常 『海のお祭りに行ってみよう』
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鮮やかな昼光に照らされる市場は盛況だった。
祭りの最中とあって、メインストリートにはずらりと軒を連ねた屋台が所狭しと並んでいる。どうやら規模の大きいもののようで、縁日と聞いて思い浮かべるものは概ね取り揃えてありそうだ。
周辺の店には本格的なビーチサイドカフェらしいメニューの取り扱いもある。トロピカルドリンクやロコモコなどは、テイクアウトで浜辺に持ち込めば雰囲気も出るだろう。
そして何よりの本命――硝子細工が並ぶエリアは、ダンジョンに最も近い辺縁にある。
一つ一つ手作りされたそれらは大きさも多岐にわたる。持ち運びやすい小さなキーストラップ、家に飾っておくための置物、中にはどう持ち運ぶのか分からぬ巨大なものもある。幾らか形が乱れて何を模しているのか分からないものも中にはあるが、それも手作りゆえの愛嬌だ。
大きな看板には指針が示されている。健康運にはウミガメ、家庭運にはシャチ、長寿祈願にはエビ、恋愛運にはイルカ、無事に帰れるよう願うなら海鳥――納得がいくのだかいかないのだか微妙なものもあるが、迷うならば従ってみるのも一興といえよう。
とまれ√能力者たちが為すべきことは一つ。
夜の浜辺を存分に楽しむための、入念な下準備だ。
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夏の日向に怪異が出向いてはならぬ掟はない。抜けるような蒼天を照らす赫赫たる陽光の傍ら、濃く落ちた建物の影より姿を現すオーキードーキー・アーティーチョーク(Spaghetti Monster!!!・h02152)が、枯枝めいた腕を広げた。
「月光が願いを叶える海のダンジョンッッッ!!! ある種、生まれたてのロアですねェッッッ!!!」
とあらば彼の同胞である。たとえそれがダンジョンと共に生まれ、また一夏の裡に消える、一炊にも満たぬ夢の如きものだとしても。
些かならず強すぎる日差しを目深帽で遮った。余人より遥かに高い視点で見下ろすとりどりの露店に存在しない目を遣りながら、長く細い足が目指すのはダンジョンに近しいエリアにあるという此度の主題の一つである。
――ロアの雛を見物するのであれば、その口伝に乗ずるは必須。
所狭しと並んだ硝子細工店の前は成程盛況だ。大きく掲げられた看板を一瞥したオーキードーキは、死人色の指先を群衆の後方より店頭に伸ばした。
「オヤ、失礼ッッッ!!!」
横合いをすり抜けていく異様に長い腕と細い指先に驚いた客が、三メートルにも届こう長躯を見上げて瞬いた。常日頃から世話になっている辻褄合わせによって、|とても背の高い人《・・・・・・・・》との認知に落ち着いたか、彼らが怪異の姿にそれ以上の驚愕を見せることはない。
さて、引き寄せた指先には小さなかもめが二羽揺れる。
「ンン~~~~まっこと愛らしきフォルムですねェッッッ!!!」
人の手にも小さいキーストラップは、オーキードーキの手にそれこそミニチュアのように収まる。これならばどこに持ち運ぶにも邪魔にはなるまい。
レジに向き合っていた店員が痩躯を見上げた。怪異越しに片方を受け取るべき連れの姿を探しているのか、群衆の方に投げかけられた視線は、すぐにも眼前の客に戻る。
「お二つでよろしいですか?」
「ええッッッ!!! 無事な帰還を望む友がおりますがゆえッッッ!!!」
どちらがどちらの、とは、言わずとも知れたことだ。
無事に手に入れた御守りとなるべき海鳥片手に、怪異の軽い足取りは来た道を戻っていく。どうせ夜を待つのだ。折角の祭りを楽しまぬ理由はないだろう。
街角の店でテイクアウトを頼んだトロピカルドリンクは実に能天気な色をしている。ビタミンカラーをこれでもかと詰めたそれに触発されてか、オーキードーキの思索は夏の装いに傾いた。
日差しと恐怖は結びつくことが少ないが、昼日中に怪異が現れぬ理由も、海を楽しむべきでない制約もない。ちょうど手の中のドリンクじみて浮かれてみるのも悪くないだろう。
とまれ今は――。
「──さァて、どんな願いにしましょうか」
目があったらさぞ楽しげに細めていただろう。燦燦と煌めく陽光に透かした硝子細工は、指先に揺れて小さな音を立てた。
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――こんなに大きいのもあるんだ。
硝子細工の並べられた盛況の市場の中で足を止めた先に、身長と比べても大きすぎるほどの巨大なイルカのオブジェがある。精巧に模されたそれに纏う春の香りが上機嫌に揺らめくのを感じる。
懐音・るい(明葬筺・h07383)の思っていた硝子細工はそれほど大きい物ではなかった。
精々掌に収まる程度が限度であろうと思ったが、魔法の存在が公に認知されている世界には未だ見知らぬ技術もあるものやも知れぬ。値札には驚くべき桁が記されているが、この手間を考えればさもありなんといったところだろうか。
家に鎮座させておくなら充分に購入の余地――というよりは考慮の余地がある。大きさがあるだけに手が込んでいて、妥協のない波しぶきの表現や複雑なカッティングは魅力的だ。店に置いておくにも悪くはないだろう。
だが。
「これを持ってダンジョンに潜るにはちょっと嵩張るね」
独り言じみた言葉に傍らの香りが頷く気配があった。
るいが買うならば持ち運びの利くものが良い。一番に目立つところに置かれたオブジェの前から、並ぶ露店の店先を覗き込む。
健康運にはウミガメ、家庭運ならばシャチ、恋愛運はイルカ――どれも絶妙に可愛らしくデフォルメされていて目を惹く。中には淡く着彩されたものもあって、子供たちが好きな色を我先に選んで黄色い声を上げているのが見えた。
どれも気になりはするが、るいの心の中央を強く捉えはしない。時折手を伸ばして指先で触れてはみるものの、掌に収まるには至らなかった。
徐々に緩慢な歩みが終端へと進んでいく。小さな海月が数匹踊っている置物はライティングが映えそうだ。海らしく青を基調としたグラデーションが閉じ込められた巻貝のオブジェは、見る角度によって色を変えるところが美しい。内陸の街には遠いはずの潮騒の香りが、るいの鼻にも届くようだ。
それから――。
「あ」
思わず足を止めて声を上げた彼女の目には、一つのキーホルダーが映っていた。
すりガラスを使って作られた、小さなメンダコである。どうやら最後の一つであるようで同胞は見当たらない。目の部分にだけ小さく黒い点が塗られているのだが、それもどこか捨てられた仔犬のような心細さを孕んで見える。
「これにしようかな」
思わず手に取ってみれば思いのほかよく馴染む。ライトアップされて煌めく海月たちを見てみたい気持ちも、海の色を抱いた巻貝から聞こえるかもしれない漣の音に思いを馳せる思いもある。しかしこうして手にしてみるとどうにも手離す気にはなれなかった。
どこか情けなくも見える脱力感を煽る表情も可愛らしいし、最後の一つであるようだし、何より――。
「目が合っちゃったしね」
言えば、手の中のメンダコは嬉しげに表情を変えたように見えた。
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とりどりの人の声に、とりどりの色彩――夏の街は七色に煌めいて見える。
弾む足取りをそちこちに向けながら、ミューリアルカ・クプルーシュ(|雪白《せつはく》の楔・h05809)の視線は見目相応の輝きで落ち着きなく彷徨った。
トロピカルドリンクの看板にはビタミンカラーの写真が躍る。かき氷の中には見たことのない色をしたものも、とんでもない量の果物がトッピングされたものも見える。ロコモコ――というのは見覚えのない文字列だ。興味本位で近寄ってみれば、ハンバーグの上に大きな目玉焼きが乗っているのが見えた。
何とも食欲をそそるグレイビーソースの芳醇な香りがあたりに漂っている。見れば人々はこぞってハワイアンプレートを買い求めているようだ。
子どもが少しくらいはしゃいだって構うまい。だから少しだけ、少しだけ――。
――少しだけのつもりだったのだが。
「つい買ってしまったわ……」
気付けば片手には鮮やかなオレンジ色のトロピカルドリンク、もう片手にはロコモコプレート。こうなればミューリアルカの心の天秤を邪魔するものは何もなく、既に食事を終えた後にどのかき氷を買おうかで迷っているところだ。
買ってしまえば逃げ出したりはしない。パラソルに遮られた日陰のベンチを一つ借り、のんびりと食事に手をつける。オレンジをベースに甘やかな味が広がるドリンクに、濃い味付けのハンバーグはよく合う。半熟の目玉焼きの中央をつつく少女の脳裡に声が過ぎった。
後先考えないのは昔からだ――と、誰かが笑う。
誰のものかも思い出せない、心の奥を締め付けるようなそれは、すぐにも夏の陽気に照らされて融けていったから――。
ブルーハワイ味のかき氷まで味わったミューリアルカの足が揺らぐことはなかった。
小さな足が向かう先に並ぶ硝子細工の露店は、祭りの中でも一番に賑わうブースであるようだ。つま先立ちで覗いてみれば思いのほか種類が多い。ならばまずは大きさを選定するべきだろう。
置物は置く場所がない。持ち運びの利く小さい物ならば――。
「スマホがあるし、ストラップね」
店頭の看板を見れば、願いによってお勧めのモチーフが記されている。どれも可愛らしくて興味を惹くが、ミューリアルカの心を惹き付けるのはそのどれでもなく、海月だ。
ふわふわと海を漂う愛らしい生き物は人気であるらしい。女性客がこぞって手に取っているのが見える。ストラップだけでも多くの種類がある中で、彼女が選び取ったのは、小さく丸いブルージェリーを模したものであった。
本物よろしく色は様々であるようだ。彼女が殊に心惹かれたものには淡い色がついている。藍色と碧空の狭間――夜明けの色を閉じ込めてあるそれを小さな手に包んで、ミューリアルカはふくふくと笑った。
「ふふっ、これに決めたわ!」
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「あっつー……」
真夏の日差しは弱い体には酷である。開口一番、水縹・雷火(神解・h07707)は辟易した顔で太陽を睨み上げた。
長らく病床に縛り付けられていた身にしてみれば初めての遠出である。新鮮な空気と未知の光景に浮かれていた心と足取りは、しかし灼熱の太陽によってすっかり活力を失っている。
その横で涼しい顔をした泉下・洸(片道切符・h01617)の方こそが彼を引っ張り出した張本人だ。目指す海の水面に似た色の髪を上機嫌に揺らし、季節が人体に及ぼす影響なぞ知らぬげの怨霊は、足取り同様に軽やかな声で横合いの少年に声を遣った。
「海に入ると体が丈夫になるんですよ~」
「海って塩だろ? 確かに良い感じに体が清まって……」
それは雷火も知るところだ。退魔師となるべくして生まれたのだから、塩が浄霊の力を宿すことくらいは常識的な知識の裡で――。
汗をぬぐっていた少年の足がはたと止まる。妙に楽しげな洸を見遣れば紫紺の双眸と目が合った。
「だとしたらお前は海に浸かると危ないんじゃないか?」
何しろ怨霊である。
大量の塩水とさして変わらぬ海に浸ればすぐにも強制成仏をさせられて消えていくのではないか。さながら梅雨時の蛞蝓の如く。
そのさまを脳裡に思い描き、雷火は俄かに洸めがけて両手を合わせた。
「さよなら怨霊。お前のことは5秒位は忘れないでおいてやる」
「5秒なんて酷いですよ~。せめて50年くらい覚えていてください?」
「人生の大半じゃないかよ」
海に混じった塩は自然の生成物であって清めの呪言が閉じ込められた特別性のものではないし、そも洸は海に浸かったところで消えやしないことはさておき。
ダンジョンに向かうためには準備をせねばなるまい。砂浜で寛げるよう食べ物を買っていきましょう――との提案に、雷火が否やを唱えることはなかった。
となれば二人が足を向ける先は決まっている。飲食の屋台が並ぶ街頭からは、食欲を誘う香りが渾然一体となって人々を引き寄せている。その合間に構えられた店にもポップな看板が掲げられていた。望外の掻き入れ時に躍起になる人々の努力の片鱗を横目に、洸が笑う。
「私はトロピカルジュースと、焼きとうもろこしが食べたいですね!」
とうもろこしは今こそが旬である。余計な小細工を省き、ただ醤油を塗って焼いただけのシンプルな料理こそが素材の真価を引き立てるのだ。塩辛いものと甘いものの組み合わせは常套であるから、ドリンクに南国の風情を孕んだジュースを合わせるのも王道を外さぬ選択と言えよう。
自身の展望を朗々と語ったのちに、幽霊は少年に水を向けた。
「ライカは何が食べたいですか?」
「俺? うーん」
話を振られた雷火の方は、物珍しく屋台を見渡していた視線を洸へと定め、暫し唸った。
正直に言えば暑さのせいでうまく頭が働いていない。始めて見る世界に目を遣ってはいたものの、その実これといって意識の裡に留めていたものはなかった。強いて何が欲しいかと問われれば、この茹だるような熱射を幾分でも増しにする物品である。
「冷たいものが欲しい。スイカジュースとかあるかなー」
なければ洸と同じのでいいや――続けた彼の第一希望は、果たして無事に叶えられた。トロピカルドリンクの店を出る洸の手には、ビタミンカラーと赤い実の色をしたジュースが一つずつ入った、テイクアウト専用のビニールバッグが握られていた。
バッグと焼きとうもろこしの香りを携え、他愛もない会話を交わして街路を歩く。先に目当てのものを見付けたのは、再び周囲を見渡していた雷火の方である。
「ん、洸……あそこでキラキラ光ってんの何だろ」
「ああ。あれは硝子細工ですね」
指された方角にはこの祭りで最も賑わう一角があった。いの一番に少年の目を惹いた巨大なイルカのオブジェを通り過ぎ、願いを込めるために必要な硝子細工を並んで覗き込む。
「クラゲだけでもこんなカラバリがあるんだな」
「そうですね――あっ」
特に人気が高いモチーフなのか、形も色もバリエーション豊富な海月を幾つか手に取ってみる雷火の横で、洸の双眸はふと横に逸れた。
並んでいるのは夏の風物詩――風鈴である。海月の傘を上部として、足を模して吊り下げられた何本もの細い硝子が風に揺れるたびにぶつかり合う。清澄な音色を持ち上げた幽霊が満足げに雷火を見遣った。
「風鈴とか綺麗だと思いません?」
「ふうん。悪くないんじゃないか?」
飾っておけば楽しめそうだ。窓辺であっても、或いはクーラーの風であっても楽しめる、夏を凝縮したような形である。
満更でもなさそうな返答を受けた洸の動きは早かった。自身の手にした紫のグラデーションのものと同じ形をした、日を透かせば金色に見える黄色の海月を手に取って、雷火の方へ差し出して見せる。
「私が赤紫でライカが金色。瞳の色でお揃いにしてみましょう!」
「わざわざお揃いとか言わなくていいだろ。大袈裟なんだよお前は」
殊更に眉根を寄せて溜息を吐きながら――。
少年の手は、迷うことなく怨霊の手から金色の海月を受け取った。
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溢れんばかりの日差しの中に、足音が一つと羽音が二つ。
「夏だー! 海だー! ビーチだー!!」
抜けるような蒼穹に思いきり腕を伸ばし、透羽・花羅(天翔ける唐紅・h00280)は太陽もかくやの笑顔で爛漫と街の空気を揺らした。
日頃は見目より大人びたような振る舞いをしてみせても、花羅は未だ十二歳の少女である。時には思いきり羽目を外したい。家と学校の間に引かれた通学路の線を逸脱することなく過ごす日常に倦んだ心に射した一条の光――夏休みに海と来れば、幼い心は軽やかに躍る。
長期休暇ともなれば宿題という名の学生の天敵が目の前に立ちはだかるのは必定だが、それはそれだ。未だ始まったばかりの夏休み、真面目に机に向かうには時期が早すぎる。今は煌めく日差しと解放感に任せて遊ぶことが先決だ。
「|白日《ハクヒ》、|夕日《ユウヒ》、遊んでいいよね?!」
いきおい振り返る二羽の白烏が同時に頷いた。
良い!
「やったー!!」
爛漫とした万歳の勢いそのまま、花羅の足は賑わいの中に紛れた。所狭しと並んだ店の中からピックアップするのは夏らしいスイーツとドリンクだ。
ブルーハワイ味とは一体どんな味なのか気になっていた。トロピカルドリンクはメニューの段階から幾つも並んでいて目移りしてしまう。オレンジをベースにしたものを選んで、結局何の味だかは判然としないブルーハワイのかき氷で舌を青く染めて――。
夏の日差しに火照った体もちょうど良く冷えた頃、少女の足が辿り着いたのはダンジョンに近しい辺縁に用意されていた硝子細工の一角であった。
確か願いを込められると言っていた。見れば色も形も大きさもとりどりの硝子が太陽の光を反射している。花羅も一つ選んでいこうと思ったところで、つい目が探してしまうのは見知ったモチーフである。
烏、或いは太陽――彼女自身に深く纏わる、血族の象徴であり理想の体現でもあり、何より傍らで興味深げに飛び回る双子の白烏を思わせる形だ。
しかし海の生き物をモチーフとしているとなるとそれそのものを見付けるのは難しい。当て所なく店頭を見て回る彼女は、ふと一点に視線を定めて目を輝かせた。
「……あ! これ良いかも!」
恐らくは海鳥であろう。デフォルメされたそれは薄く白い塗料が塗られ、日差しに透かすと太陽を閉じ込めるようにも見える。
――どことなく烏を思わせる形だと思ったことは心に伏せて。
花羅の指先は満足げに硝子細工を日に翳す。こうしてのんびりと、何も考えずに一日を遊んで回る感覚は、思えば遠のいて久しいものだ。齢十二の少女からすれば長らく忘れていたそれを取り戻してみれば、まだまだやりたいことは沢山思い浮かぶ。
だから――笑う眸が煌めいた。
「よーし、存分に羽を伸ばしちゃおう!!」
意気揚々とした声に応じるように、二つの羽音が高らかに響いた。
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海と来れば遊泳こそがメインイベントといえよう。ましてオプション付きなら尚のこと。
しかし浜辺に突撃する前には準備が必要である。野分・時雨(初嵐・h00536)にとって、それは屋台の並ぶ通りを検分して回ることであった。
「腹ごしらえ。飲みごしらえ」
「腹拵えはともかく飲み拵えって初めて聴いたよぅ」
「海に来たら飲まないと行けないって決まってるんだけど」
上機嫌な時雨の横で緇・カナト(hellhound・h02325)が率直な感想を零せば、牛鬼はまるで心外だとでも言いたげに目を丸くした。大袈裟な表情にこちらも大袈裟に目を眇めてみせる。
全く字義通りの牛飲、名は体を現すとはこのことかと言わんばかりのカナトへと、時雨の問いは続いた。
「いいの? 飲まなくて」
「遠慮しておく〜」
呑み過ぎは熱中症の元だ。脱水症状を引き起こしやすいし、酩酊すれば鈍感になる。
代わりに焼きそばを鱈腹食べるつもりでいることを告げれば、紅生姜だけは欲しいと些か図々しい願いが戻る。互いに無遠慮なやり取りも常のことで、結局カナトの紅生姜を酒のつまみにして歩いた時雨は、今日の本命が並ぶエリアへ足を踏み入れた。
燦燦と降り注ぐ夏の日差しに照らされた硝子細工が細かい光を反射している。目にも鮮やかに煌めくそれらに近寄りながら、二人の軽口は続いた。
「先輩から後輩クンに安全祈願でもしてあげよっか?」
「安全祈願~? ぼくが祈願してあげよっか。水難にあいませんようにって」
「それなら結構」
じゃれ合うようなやり取りもそこそこに、牛鬼と人狼はずらりと並ぶ大小さまざまの硝子細工に視線を巡らせる。カナトの眼差しを追いかけるような形で気も漫ろに目を遣った時雨は、最終的には隣の青年に視線を定めた。
「何にするの? センス抜群のぼくが鑑定してあげます」
今アルコール入ってるから審美眼バッチリだよ――言った時雨に動く気はないようである。些か雑な首肯を返したカナトは、酒にやられた牛鬼のお眼鏡に適う代物を探して一角に歩み寄る。
形態は既に決めている。持ち運びを前提にすると、選べるものも自然と絞られるというものだ。
「キーストラップで――形は何にしよ」
小さなマスコットのようなそれらは程よくデフォルメが効いている。中には何なのかよく分からないものも存在しているが、概ね看板に書かれたものは判別がついた。
長寿祈願ならエビであるそうだ。細い髭まで可愛らしく再現されたそれは、透明性を損なわぬ程度に薄い紅色が塗られている。それから――。
海鳥は無事の帰還を願うもの。
――コレとかお家守るのが得意な時雨君にはピッタリじゃないかなぁ。
本心も混ざっているものか否か、ともあれ皮肉は確実に交じったうえでの選択は存外に気に入った。塗られた色もとりどりであるから、こちらはカナトの分を決めてから改めて選定することとする。
さて自分に立ち返れば雑にもなろうというものである。食べるのが好きだから、という理由で選び取った赤いエビを指先にぶら下げたところで、彼は後方の気配を振り返った。
覗き込む時雨に自身の選択を指差してやる。色とりどりの海鳥だ。
「……ねぇ、酒精入ってる審美眼からは如何だった?」
「えっとね~」
暫し考えるように見ていた時雨が首を傾いだ。どうも看板に書いてあることが幾分腑に落ちぬようである。何しろ海の生き物――と形を絞っているせいか、こじつけに近しいものはそこそこあるのだ。もう少し無理のあるものも並んでいるから、それに比べれば些細なものかも分からない。
「……無事帰るで鳥なんだ? ぼく黒い鳥あんまりなんですよね。白ならおっけい」
「海鳥に黒あんまりいないけど、お望みならばそっちであげる〜」
ざっと目を通した限り、少なくともこのブースにあるキーストラップに黒はなかった。
適当に一番手前から選び取ったかもめのような白い海鳥を手渡して、カナトは次に己の手にあるエビを翳す。
「で、先輩はエビ……」
エビ。
まろやかな丸みを帯びたボディがきらきらと光っている。物言わぬつぶらな黒い眸を訝しげに見た時雨の眼差しは、色を変えぬままカナトを捉える。
「……エビ~? エビで良いの? お腹空いてる?」
「さっき食べたの見てたでしょ~」
今しがた宣言通りにずらりと並んだ焼きそば屋を制覇する勢いで食べて来た。それでも付き纏う飢餓は癒えないが、少なくとも硝子細工を食べようとすることはない。
再び看板に目を遣った時雨は、その意味を探し当てて一つ頷いた。
「まあ、良いんじゃない。長寿祈願する分には。長生きで楽しいこといっぱいありますようにって」
御守りなど元よりどんな選び方をしたって構わないものだ。願いは二の次で形が気に入ったからと選び取ったって構わない。掛ける祈りも実に遠大で抽象的だが、それでこそ実に御守りらしいといえよう。
果たして酒の入った審美眼を満たしたそれらを携えて、妖怪の影は二つ、再び屋台の並ぶ街角へと繰り出していった。
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鮮やかな夏空に照らされて、会場は大いに賑わっていた。
「ふむ、賑やかな祭りであるな」
神花・天藍(徒恋・h07001)の知る祭りとは、その名に託けて大人たちが浴びるほど酒を飲むことが主題になっているものばかりであった。しかし此度足を踏み入れた場には数多の人々が集い、子供から女衆までも陽気な顔で歩き回っている。
となればその波の中に足を進めるもまた必定。彼が物珍しげに屋台を覗いていく横で、二人の少女は目を輝かせていた。
「屋台、たくさん……!」
「食べ物におもちゃに、いろんなものがいっぱいで眩しいのです」
顔を見合わせた継歌・うつろ(継ぎ接ぎの言の葉・h07609)も神代・ちよ(Aster Garden・h05126)も、こうした大規模な祭りなるものの経験は殆どない。うつろは七星の樂園の星祭りで聖女が出していた何やら珍妙な品々の並ぶ露店を|屋台《・・》と呼ぶことは知っていたが、裏を返せば目の前にあるそれの名前くらいしか知らぬ。
「ララさん、神代さんは、いっしょの依頼、はじめて、だね。よろしく、おねがいします」
籤屋の商品の前で丁寧にお辞儀を交わしたうつろとちよの横合いに――。
星祭りでララ屋なる屋台を出していた聖女、ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)は、既に大量の御馳走を両手いっぱいに抱き締めて、鼻歌交じりに口をつけている。
たこ焼き、イカ焼き、焼きそば、焼きとうもろこし。カルビ串の横に並んでいたドラゴンテール焼きは迦楼羅――の雛女――の大好物だ。小さな体のどこに吸い込まれているのか、頬張っているツイストポテトは見る間に消えていく。
「ララさん、そんなに食べられるの……!?」
「このくらい、ララには普通よ。お前たちもたくさん食べた方がいいわ」
驚いた顔をしたうつろには至極平然とした幼子の声が戻る。豪快な食べっぷりに笑うのは小さくちよだ。
「ふふ、ララさんはおいしそうに食べますね。りんご飴もいかがですか?」
「良いの? ありがとう、ちよ」
首尾よく用意されたりんご飴を既に手狭になった手で受け取るララと、そのさまをふわふわとした笑顔で見遣るちよのやり取りに、うつろは目を凝らしていた。
何だかとても楽しそうだ。彼女にはララほど食べることは出来ないから、この場でやれることといえば――。
「わたしも、神代さんみたいに、ララさんに買ってあげたい。食べたいの……もっと、食べていいよ?」
「ふふ。うつろさんも『ちよ』で構いませんよ」
「あ、ありがとう、ちよ――さん」
ちよにとっては仲良く出掛けるのは初めてのことだ。高揚に任せて告げてみれば、うつろも顔を綻ばせて控えめな笑みを零した。
かくして満足げなララは遠慮なく次々と屋台を指す権利を得た。端から端まで制覇しきる勢いで見て回っていれば、先んじて露店を見て回っていた天藍の目に留まるのもまた必然であった。
「……待てララよ。流石にそれは食べ過ぎではないか?」
「あら、天藍」
「あ、おじいさま」
途方もない量の食べ物を抱え込み、果てはうつろとちよの手までも借りる聖女の柔らかな手は、衒いなく焼きそばの入ったビニール袋を差し出した。
「うつろとちよがご馳走してくれたのよ。お前も食べる?」
――頭を抱えるのは天藍の方である。
どう考えてもララの手には余る量に見える。人智を超越するかの如き振る舞いを見せても未だ子供に過ぎぬ彼女の先見性は大人のそれとは違うのだ。千年以上を生きる天藍からしてみれば、如何に神めいた娘も単なる少女とさして変わらぬ。
財布を出してにこにこと上機嫌に歩くうつろとちよの方にも苦言を呈しておくべきだろうと判じたあどけないかんばせは、少年らしい容貌に似つかわしくない大人びた色で首を大きく横に振った。
「うつろ、ちよ。無計画にララに買い与えるではない。甘やかすな。食べきれなかったら勿体――」
「残したりしないわ。ララは勿論、全部食べるのよ」
「な」
心外そうな顔をしたララの手にあったたこ焼きの舟は説教の間にも空いている。そこかしこに設置されているごみ箱も彼女の味方だ。次々と小さな口に消えていく大量の食糧を唖然と見送った天藍は、しかし些か呻くような長子で説教を続けることにする。
「だが腹八分目という言葉がある。食べ過ぎは体に害になるゆえ程々にしておくのだぞ」
「わかったわ、程々にしておいてあげる」
端から端まで食べ尽くそうかと思ったが、一種二つまでにしておこう。
咎める言葉に、ララの笑声はますます嬉しげな色を帯びた。何故だか分からないがこうして説教を受けるのは心が弾む。怒られるのも若かれるのも嫌いなはずなのに奇妙なものだ。
自らの心の動きは分からずとも、目の前にある食べ物が美味しいことは揺るがない。次々に封を切る彼女の姿を見詰めたちよが小さく幾度も頷いた。
「なるほど、たべすぎは良くないのですね……」
ちよにはよく分からない。天藍が言うからには真実なのだろうが、しかし見詰める先の冬の聖女が調子を崩すようにも見えないし――。
大丈夫だろう。
得心して一つ大きく頷いた彼女が財布をしまうことはなかった。羽搏くような蝶の足取りの横合いで、おずおずと天藍の方を見遣ったのは、先から二人に声を掛けるタイミングを窺っていたうつろだった。
「ちよさんも、何か、ある? 天藍さんにも、いつものお礼、したい」
ぎゅっと握り締めた財布の中には齢十三の少女が持つには些か多すぎるくらいの金銭が詰まっている。ララに食べ物を買い与えているのは心が暖かくなるような思いを喚起したから、日頃使い先のないそれらをここぞとばかりに解放する好機とみたのである。
しかし。
「うつろよ、我は構わぬからしまえ」
掌で制された彼女は、結局はちよとりんご飴を交換するに留まった。
一行がきらきらと輝く一角に到着する頃には、彼女たちの手にあった食べ物も片手に収まるほどに減っていた。巨大なイルカのオブジェを横目に歩み寄る店先には――。
「思うより様々な品があるのだな」
顎を撫でる天藍の言う通り、色合いも形も大きさも多種多様な硝子細工が煌めいていた。
「きらきら、きれいですね」
「キラキラして綺麗だわ」
「きれい……!」
少女たちの歓声が重なる。陽の光を反射して煌めきを孕むそれをまじまじと見詰めて、困ったように眉尻を下げたうつろが声を零す。
「でも、きれい、たくさんだね」
「迷うのであれば己が一番心を惹かれたものにするとよいと思う」
顔を上げる少女たちの前で、少年の恰好をした最年長が手を伸ばしたのは、ストラップの並ぶ一角の中でも幾分特殊なものだ。
デフォルメされたヒトデの硝子細工へ、下方に並べられた中から自身の好きなモチーフを追加出来る――というものらしい。
「これは後で呪を込めて守りにするのだろう? であれば己と相性がいいものが恐らくよいと思う」
雪の結晶を拾い上げる。対応するレジへセットで持って行けば接着してくれるのことだろう。薄紅色のヒトデと薄青の結晶は、並べて揺らせば良いコントラストだ。
「心惹かれるもの……ララならこれかしら?」
天藍に続けて手を伸ばしたララの手には小さな花がある。五つの花弁が煌めくそれには、薄桃色の塗装がされていた。
ある意味では彼女のはじまりともいえる花だ。硝子の桜――それをそっと小さな指先に包んで、雛女は愛おしげに目を細めた。
「ララの花はアネモネだけどね。これは懐かしい感じがするの」
二人が自らの心を定めるのを見詰めていたうつろが、小さな箱に分けられたモチーフたちに再び視線を落とした。
相性――というのはピンと来ない。しかし彼女自身を象徴するものが、その心の奥底にあるのが何かと言われれば――。
「……ん。わたし、これにする」
淡い橙の乗った音符の形。大好きだった歌を思わせるそれが気に入った。
「みんなそれぞれお気に入りがあるのですね、すてきです」
では、ちよはどうだろうか。ふくふくと三人の選択を見遣っていた彼女の手が自然と選び取るのは、本来の姿を思わせる薄紫の蝶々だ。日に透かせば燐光を孕むさまも、よく似ている。
四人の手に出揃ったそれらは、自然と見せ合うような形になった。うつろの控えめな笑声が楽しげに弾む。
「みんな、おそろいのストラップ、だね」
「……すとらっぷ?」
瞬いたのは天藍である。
聞き覚えのない言葉であった。そもそも彼はこれを根付だと思っていたのである。手の中で揺れるヒトデをまじまじと見詰め、少年は首を傾いだ。
「根付けとは違うのか」
「天藍、知らなかったのね。ストラップはぶら下げるもので、根付もぶら下げるものだわ」
「そうか。別名か」
自信満々に胸を張るララの言葉に納得した天藍が、二つの間に横たわる微細な違いを知ることがあるか否かは別として――。
レジへと向かう四人の足取りは軽やかだ。お揃いのヒトデに己を思わせるモチーフがつけば、御守りとなるには充分すぎるものだろう。
「ふふ、お守りになってもらうのが楽しみね」
「はい、おそろい、なおさらご利益がありそうです」
大切にします――続けた言葉と同じように幸福そうに、ちよは笑った。これだけでも嬉しいことだが、今日の思い出はまだまだ終わらないのである。
「みんなが、えらんだもの。とてもにあうなって、わたしは、思うよ」
四人の手の中にきらきらと光る硝子細工をじっと見詰めたうつろの声は、囁くように素直な心裡を紡いだのだった。
●
楽しげに声を交わす人々の間に並び立ち、男女はぎこちなく周囲に視線を遣った。
仲の良い先輩と後輩には未だ戻れていない。それでも史記守・陽(黎明・h04400)がモコ・ブラウン(化けモグラ・h00344)を誘ったのは、壊れてしまったお揃いの懐中時計の埋め合わせだった。
互いの危機を知らせるというそれは触れ込み通りの仕事をした。数ヶ月前の陽が仮初の死を迎えたとき、モコの懐にあったそれは見事に罅割れてしまったのだ。
職人の手で元に戻すことも可能やもしれない。しかし他の形での埋め合わせもしたい――と陽が考えたのは、何も自らの行動で心配を掛けたからというばかりではなかったかもしれない。しかしこれ以上の失望を買うことなど許せぬまま、己が内心を極力表情に出さぬよう心がけながら、彼の足取りはモコを硝子細工の並ぶ一角に導いた。
陽光を反射する硝子細工の中から小さなウミウシの置物を手に取って、サングラス越しにも眩しげに目を眇めた化けモグラは、しかし興味深げに露店を見透かした。
「へぇ〜。硝子細工がこんなにたくさん……なんだか美味しそうにも見えてくるモグな?」
脳裡に描くのは故郷の縁日だ。光に照らされる色とりどりの飴細工と硝子細工の違いは口に入れられるか否かと、日向でも融けるか否か程度のものである。
既に興味を惹かれているらしいモコから静かに一歩を引く。穏やかに笑った陽は、俺も見て来ます――と声を零した。
「モコさん、気になるものがあれば言ってくださいね。今日は俺が出しますから」
「そう? なんだか悪いモグな。でも、貰えるものは貰っておくモグよ」
気取った口ぶりは照れ隠しだった。彼女とて彼との間にある曖昧な断絶を埋めたいと思っていたから、一もにもなく誘いに頷いたのだ。しかし先輩として、また年長者として、子供のように喜ぶところを見せるわけにはいかないのもまた事実である。
モコの言葉に曖昧な笑みを返した陽は、改めて大量の硝子細工に向き合った。見るともなしに視線を巡らせていた彼がふと足を止めたのは、目指した光の如き色合いを目にしたからである。
可愛らしくデフォルメされた海鳥は、鮮やかな橙から深い青に移り変わっていく色をしていた。持ち運びのしやすいストラップ状のそれを思わず手に取って陽光に透かす。
「これ、綺麗だな……」
日の光を孕めばますます朝焼けのような色合いに見えた。日暮れではなく黎明を思い浮かべたのは、或いはそれがどことなくモコを彷彿とさせる色を宿していたからかもしれない。
迷いなくレジへと足を進める。脳裡に思い浮かべてしまったからには、成すべきことは決まっていた。
「これプレゼント用にお願いします」
「では箱をお付けいたします。願いを籠め終わったら、ご自身で箱にしまってくださいね。リボンはいかがしますか?」
手際よくリボンの色が描かれたプレートを取り出されて、まさかそこまで自分で選ぶとは思わなかった陽が狼狽えている間――。
モコは迷いながら幾らかの硝子細工を手にしていた。そもそも形状からして悩むところである。
結局、彼女は目の前で品出しをしている店主の女性に声を掛けた。
「店主さん、これはどういう意味が込められてるのモグ?」
「ああ、病気平癒ですよ。この海月は死なない生き物なんです」
矢継ぎ早に指差してもにこやかに応じてくれる。しかしモコが最も執心するものに関しての言葉は一向に引き出せない。最終的に痺れを切らし、彼女は自身の望みの方を口にした。
「金運は? 金運はないのモグ?」
「あー。冒険者の方々はお金に困ってない方も多くて」
迂遠な断り文句に僅かに肩を落としたのも束の間、ならば別のものを選ぶべきだろうと判ずる。困って周囲を見渡した彼女の目に、ふと留まったのは海鳥のチャームであった。
金色のそれに込められた意味を問えば、無事に家路につけるように――という祈りであるらしい。
それを聞き遂げて、モコは僅かに目を眇めた。脳裡に過ぎるのは、水晶が割れたその日に、懸命に走った先に|いた《・・》――。
「あー、これはモグよりもぴったりな子がいるモグね」
浅い溜息と独り言で記憶を隅に追いやる。今日は憂鬱になりに来たわけではないし、望外に手に入れるべきものが手に入ったと思うべきだろう。埋め合わせとしてはぴったりだ。ただし。
「……店主さん、これちょうだいモグ。プレゼント用ね」
――これは彼に買ってもらうべきものではない。
かくして箱を手渡され、モコは暫し自らの手にある硝子細工を見た。どこか陽の髪を思わせるそれをぼんやりと見詰めていたときである。
不意に後方から声を掛けられて、彼女の手は咄嗟に箱とチャームを懐にしまい込んだ。
「モコさん、良いのはありましたか?」
「もう買っちゃったモグよ」
「えっ? じゃあ埋め合わせは――」
「シキくんが選んでおいてモグ」
何やら懐を気にするモコに首を傾げ、陽は彼女の足取りを追った。
何とはなしに隠した箱には、夜明けの光を思わせる金色のリボンがついている。結局は店員に画したそれを見遣りながら、陽の唇は小さく声を零した。
「――じゃあ、ちょうど良いかな」
●
無窮の空を写し取ったような海をまなうらに思い描く。
想像するだけで実に面白いダンジョンだ。内陸部の街を選んだように現れていることもそうだし、何よりこの灼熱の太陽に地表が照らされる季節には、涼しげな気配を纏った海のアクティビティはぴったりである。
いかにも騎士らしく鍛え上げられたケヴィン・ランツ・アブレイズ(|“総て碧”の《アルグレーン》・h00283)の足は、まずはダンジョンに近しい辺縁へと向けられた。祭りを楽しむにせよ準備を整えるにせよ、此度の仕事に最も必要なものを手に入れるのが先決だ。
賑わう屋台の通りを抜けていく足取りに迷いはない。ケヴィンの長躯はあらゆる人混みを抜けていくのに役立つのだ。何しろ彼にしてみれば、大半の人間は頭頂を見下ろすような形になるのである。
果たして首尾よく煌めく硝子細工の店の前に立ったのち、彼は一つ唸り声を零した。顎に手を当てて群衆を見渡してみる。看板に書かれたヒントを頼りにしている者もそうでない者もいるようだが、誰も彼も楽しげに、自らの願いの依代を探していることは共通していると見える。
――しかし願いと言われると、ケヴィンにこれといって心当たりはない。
心にある欲求がないわけではない。欲しいものもあるし目指す先もあるのだが、それらはなべて願いというほど他者に預けられるものではないのだ。自らの研鑽と努力によって掴むべき|目標《・・》は、月光に願って叶えてもらうようなものにはなり得ない。
とはいえ願うべきものがないからと適当に選ぶのも矜持には反する。手を抜かずに心底の願望を一つ選ぶなら――。
「――まァ、その目標達成のための最後の一押しとして願掛けをするなら、それも悪くないかねェ」
結局のところ最後に必要なのは心だ。あと僅かに届かぬ指先に力を籠めるとき、今日の祈りが確かな力の一つになるならば、決して悪いことではない。
「ひとまずは一廉の騎士になるってのが目標だから、それが順調に進むように、ってなァ」
月光に掛ける願いは決めた。次は本題の硝子細工を選定する番だ。
色も形も大きさも、とりどりの硝子が陽光を反射している。覗き込めばうっすらとケヴィンの赤い髪が映った。同じ色の双眸を巡らせて、一つ定めて手に取る。
持ち運びに良い大きさのそれはシャチを模していた。現在の海で最強の捕食者と名高い生物の形をした硝子は本来の生態をそのまま写し取ったように尾をしならせている。
「そうだなァ、この辺が俺にはぴったりかねェ」
海の生態系の頂点だ。騎士として目指す力強さの象徴としては良い選択だろう。願掛けに拠らずとも、彼の目指す目標をしかと応援してくれそうだ。
自らの手の内に収めたシャチを日差しに透かして、ケヴィンは一度、満足げに笑った。
●
――なるほど、なるほど。もしかして『実家のような安心感』というのは、つまりこういう気分?
内陸の街に海の音色は遠い。しかし今日ばかりは、陸地の乾燥した空気の中にも潮騒の気配が感じ取れる。伊沙奈・空音(Ner-E-iD・h06656)にとっては|実家《・・》のように傍に在る感覚だ。
まして祭りの熱気は夏が来るたび海の近くに寄って来るものでもある。まさしくいつも通りの夏の気配の中、灼熱の太陽の下を泳ぐように歩き出す。
気儘な足取りは絶え間ない|お喋り《20Hz》の中を一人進む。見渡す限り香ばしいにおいに包まれた雑多な屋台を覗き込みながら、空音はその一つの前で立ち止まった。
己が権能を縛るため、彼は肉声で会話が出来ない。それでも現代社会にあっては筆談やら人工声帯やらを使えば意思疎通が不可能なわけではないのが良いところだ。その練習も兼ねて、欲しいものは買ってから向かうつもりであった。
『すみません、これください』
此度は非常に騒がしい。手にしたメモ帳を開き、歩み寄りながら文言を記す。威勢の良い掛け声に徐にページを開いて目的の品を指差せば、それで事情を理解したらしい店主は、気にしたふうもない笑顔でイカ焼きを一つ差し出した。
たっぷり塗られた醤油が強く香る。その奥に海産物らしい塩気が確かに息衝いている。しょっぱいシーフード――目的に合致するそれを片手に、空音は更に奥へと歩を進めた。
人々の間を泳ぐ青い鯨は、穏やかな歩調で今日の一番の目的地へ辿り着いた。巨大なイルカのオブジェが出迎えてくれる。値札が付いているところを見るに買って帰ることも出来るようだが、今のところは法外な値段と大きさを選ぶ猛者はないようである。
彼が真っ先に歩み寄ったのは看板だ。手描きの海の生き物が躍る、綺麗にデコレーションが為されたそれには、数多の海の生き物とその意味づけが書いてある。
海の生き物とジャンルを絞っているせいか、些かならずこじつけに近しいものもあるが、空音はそれらを全て興味深げに見詰めていた。
彼にとって、海に生きる命はみな等しく隣人のようなものだ。見慣れた彼らにさまざまな意味が付与されているのは、触れたことのない価値観で面白い。まさしく陸特有というところだろうか。
しげしげと看板を眺める。満足のいったところで向かった先で、探すのは勿論、鯨のモチーフだ。
人気の高い海月や海鳥の横を通り過ぎながら、珍妙な深海生物のエリアを抜ける。その先にあったのは、一つだけ揺れる鯨のキーストラップである。
他のものより大振りであるせいか取り残されてしまったらしい。それを迷いなく手に取って、空音は優しく掌で包んだ。
――果たして、出会った二頭の孤独な鯨の足取りは、弾んで広場を後にするのであった。
●
生憎と情緒にも風情にも縁遠い身だが、その心は理解せぬではない。
群衆のきゃらきゃらとした声で賑わう屋台を横目に、ライナス・ダンフィーズ(壊獣・h00723)の足は眩しい一角へ向かった。
此度生まれた迷宮は月と共に消えるという。生み出された幻影があり得ない共生を遂げているというのも一層幻想的だ。儚いからこそ一時を尊ぶ――さながら日本の桜に対する情のようだ。ライナスには些かならず他人事のような情感である。
それよりも。
見渡す限り並ぶ大量の硝子はいかにも薄くて脆く見える。能動的に触れたこともない身では、少しでも力加減を間違えればうっかり指先で罅を入れてしまう懸念さえ脳裏を過ぎった。
しかし商品として売り出されているし、挙句冒険に持って行くことを推奨されているような品々である。この√に満ちる魔法による特殊な加工を信じることとして、男の金色の隻眼は周囲を見渡す。
――折角だ、変わり種な代物を探すとするかな。
最強の捕食者であるシャチなどは気を惹く。しかし家族を大事にする性質からか家庭運を託されているらしいところはどうも琴線から外れる。
そも家族なんぞは過去に置き去りにして来た身である。後生大事に持っていたところで意味もあるまい。
とまれ形状を選ぶところから始めるべきであろう。思ったよりも広大な敷地内を一つ一つ見て回るのは手も時間も掛かりすぎる。元より根無し草、必要以上に荷を増やすつもりはない。邪魔にならずに傍に置いておくならば無難にストラップにしておくべきだろう。
ゆらゆらと揺れる色とりどりの海月は人気であるらしい。シードラゴンはこの√の代名詞ともいえるドラゴンの名を冠しているせいか大々的に売り出されているようである。それらを横目に隻眼が思うのは、古生代の生物のことである。
果たして隅に小さく特集されていたそれに近寄れば、すぐにもライナスの目が留まる。
古の海の王者――モササウルス。鰐のような形状は歯までも精巧に再現されて、小さなサイズにも拘わらず威厳を感じさせもした。
着色されているのは涼やかな青だ。硝子の性質と相まって、日を透かす色はいかにも海らしい。
掌の上に乗せられても不遜な表情をしているようにさえ見える。その貫禄は気に入った。
しかと此度の本題を手に入れたならば、後は些末な準備を残すのみである。さりとて彼に大層な買い物をするつもりはない。
買うとするなら。
「――眠気覚ましにコーヒーでも買ってくか」
浮かぶ月夜は長くなるだろう。静かに寄せては返す波音も心を落ち着けるに違いない。さりとてまたとない夜を眠って過ごすのは、些か勿体なさすぎる。
持って行くならよくと冷えたものが良い。自販機を探して歩き出す銀の髪が、物言わぬ古の王者とよく似た光で陽を弾いた。
●
宵に煌めく波音と白い砂浜、柔らかな光で遠大な海を照らす月光、そして海底を揺らぐ巨大な海竜の影――。
「いったいどんな光景が広がっているんでしょうか?」
想像だけでも心躍る冒険への旅路に胸を弾ませ、レミィ・カーニェーフェン(雷弾の射手・h02627)の足は街路を往く。そこかしこから聞こえる活気ある呼び込みの声に金色の大きな耳を向けながら、少女はこの後に出会える光景を心に思い浮かべて、迷いなく硝子細工の並べられた一角を目指した。
レミィは冒険のノウハウと基礎を違えたことはない。此度の探索を十全に終えるためにもまた下準備が必要だ。
どれだけ無害なダンジョンであっても万一のことがあってはならない。臆病になってはいけないが、慎重さはどれほど持っていても損はない――ダンジョン攻略の鉄則であるからには、安全対策を怠るつもりは一片もなかった。
しかし此度はもう一つやるべきことがある。いの一番に選定すべきは、願いを込めるための硝子細工であった。
広場に足を踏み入れた途端に歓迎してくれるのは精巧なイルカのオブジェである。人間でさえ溶けてしまいそうな陽気にも負けず、きらきらと煌めくそれは、並んでみるとレミィの背丈と殆ど変わらなかった。一応は売り物の一つであるらしい、どうやって運べば良いのか分からぬ大きさのそれの横を通り過ぎれば、賑わう店頭できらきらと光を反射する海の生き物たちが少女を迎え入れる。
形も色も様々で思わず目移りしてしまう。今にも獲物を捕えようとするシャチの躍動的な置物、エビとウミガメが仲良く泳ぐ様子を閉じ込めた角柱。一番人気はふわふわと泳ぐ海月のようで、形状も色も他のものよりも多彩であることが窺い知れる。ウミウシにヒトデ――美しいものから可愛らしいものまで、じっと見詰めているとどれにも愛着が湧いてしまいそうだ。
手を伸ばしたり引っ込めたり、時にはそっと掌に載せてみたりする。悩みながらも最終的にレミィが手に取ったのは、デフォルメされた小さな海鳥のキーホルダーだった。
「よし。これにします!」
冒険の足跡を刻むことを愛する彼女にとって最も大事なことは、無事に帰り着くこと。
足を休める場所もない広大な海を飛び回りながら暮らし、無事に巣に戻る鳥は、帰途の願いを込めるのにぴったりのモチーフだ。これから先も冒険の土産話を持ち帰れるよう、月光に捧げる祈りを閉じ込めておくことにしよう。それに――。
「この大きさなら、これにつけておけば大丈夫そうですしね!」
いつでも持ち歩くポーチを揺らす。魔法によって収納力を高められたそれは、レミィの相棒の一つといえる必携品である。
冒険に持ち出す品であるからにはしっかりとした作りであるらしい。ダンジョンで月光に願いを捧げる用途のためか、それらしいラッピングをされなかった海鳥は、レミィの手の中で溌溂と輝いていた。
無事に硝子細工が手に入ったら、残りの準備も進めてしまおう。即ち海を泳ぐための必需品だ。水着を借りるための店は賑わっていたが、その分だけ潤沢な種類を取り揃えているのが窓越しにも見えていた。よく泳ぐのであれば水分補給のためのスポーツドリンクや、エネルギー不足に陥らないための軽食も必要になるだろう。
それから。
これは準備とは関係のないことであるが、幾らか気になる店もある。
トロピカルドリンクの店先にはビタミンカラーが躍っていた。レミィの髪によく似た色の、南国の香りが混ざり合ったノンアルコールカクテルには興味を惹かれている。祭りの屋台の中にも軽食として適すか否かに拘わらず美味しげな香りが漂っていたし、中には普段見かけぬ遊び――射的や水ヨーヨー掬い――の並んだ一角もあったはずだ。
どこに足を進めようか。ダンジョンに突入する前の小さな冒険を思って、柔らかな尻尾は上機嫌に揺らめいた。
●
こうして二人並んで歩くのも何度目だろうか。抜けるような蒼天に、上機嫌に揺れる純白の翼がふわふわと弾む足取りで笑う。
此度誘いをかけたのは弓槻・結希(天空より咲いた花風・h00240)の方だった。セレスティアルである彼女にとっては慣れ親しんだ空気も、アドリアン・ラモート(ひきこもりの吸血鬼・h02500)にとっては物珍しい。殊に魔法の存在が一般化して久しいそこには、未だ彼の見たことのない機構も多くあるのだ。
「弓槻、今日は誘ってくれてありがとう」
「いいえ。お誘いに付き合って頂いて有り難う御座いますね、アドリアンさん」
首を横に振ったのは本心からだった。何しろ今回は、結希の私情に彼を付き合わせているといっても過言ではないからだ。
故郷である√ドラゴンファンタジーは彼女に翼をくれた。背にあるそれではなく、心に羽搏く純白の翼を。
数多の幸福を呼びたい。この白い翼を広げて、遍く世界のどこまでも、光を届けたい。彼女に理想を与えてくれたのは、紛れもなくこの√に広がる光景だったのだ。
「とても幻想的な美しさを知って欲しい……私の心の原点を知って欲しい」
他でもないアドリアンを誘ったのは、彼がいつでも彼女の横を歩いてくれるからだった。日頃は外に出ることに積極的でないのに、結希が誘えばこうしてついて来てくれる。のみならず自ずから彼女を誘って連れ出してもくれる。
だから。
「そんな我が儘ですけれど、アドリアンさんには伝えたかったのです」
柔らかな声音で笑いかける。足取りも弾むように緩やかに、紅色の双眸を蒼天の色が真っ直ぐに見据えた。
隣を歩く彼女の言葉に、僅かに瞠目したアドリアンは、途端に破顔する。
「僕に弓槻の心の原点を知ってほしいと思ってくれた事が、なんだかとても嬉しい!」
こちらも心底の言葉を返す。大切な友人がそう思ってくれて、こうして自分を誘ってくれた――これ異常に嬉しいことなど、そう多くはない。
彼女の笑みと歩調に合わせるようにして、アドリアンも笑った。細められた眸には彼の思うよりずっと柔らかな色が乗ったことだろう。
「だから、それを我が儘だと言うのなら、僕はいくらでもその我が儘を受け止めたいと思うよ」
かくして二人の足は煌めく一角に歩み寄る。賑わう市場にずらりと並んだ硝子細工に目を遣れば、想像していたよりもバリエーション豊富なそれらが彼らを出迎えた。
中でも二人が気に掛けたのは、海の生き物と陸の生き物が二つセットで揺れるチャームだ。思わず目移りするアドリアンの横合いで、迷いなく伸ばされた結希の白く細い指先が、蝶とクリオネの一緒になったものを取る。
セレスティアルの蒼天に似た双眸は、可愛らしい海の妖精というよりは空を飛ぶ美しい翅の方に引き寄せられているようだ。海を渡るアサギマダラを模したそれをじっと見詰める彼女へ、吸血鬼が笑いかけた。
「弓槻は蝶を選んだんだね」
「ええ」
頷いた少女の声は、常と同じように穏やかに、しかし凛然と芯を孕んで言葉を紡ぐ。
「魂を運ぶ話とてありますが同じく自由に空を舞い、自然の草花を好いて触れあうもの同士――こんな綺麗で優雅な姿でありたいなって、蝶の翅に思うんです」
それこそ、海を越えてどこまでも飛ぶ海の蝶の如く――。
結希の目指す理想は美しい光を孕む。陽光に透かした薄翅は、海中を蝶の如く泳ぐ小さなクリオネの横で、無窮の青空によく映えた。
「誰かの憧れという、翼になれたら。私はそれを幸福だと思います」
世界の涯までも届けるべき光は彼女自身にも宿る。凛と羽搏く結希の姿を、手の中にある硝子細工のように煌めく光と共に見詰めてくれる目があるならば――それを受け取るに足る純白の翼でありたい。
僅かに目を細め静かに微笑む彼女の言葉を聞き遂げ、アドリアンは大きく頷いてみせた。
「ふむふむ。理由を聞いてると、とても弓槻に合ってる気がする! 君ならきっと、誰かの憧れの翼になれるよ」
それは無責任な未来の肯定ではない。こうして彼の隣で空を見透かす結希の決然とした眼差しは、確かに誰かの心を掴めると、心底から思ったのだ。
友人の衒いない声に結希がふくふくと笑う。まるで背を押してくれるようなアドリアンの言葉が何よりも心強かった。
「アドリアンさんはどれにしますか?」
問われて再び自分のことに立ち戻った吸血鬼は、ふと珍妙なモチーフに目を留めた。
デフォルメされたウミウシを抱き締めてすやすやと眠る猫の硝子細工である。いかにもよく眠れそうな印象に違わず、小さなポップに示されることには。
「なになに? この猫は快眠成就?」
よくは分からない。ウミウシと猫と快眠成就の間にどんな因果関係があるのか想像は及ばなかったが、少なくとも布団を友人と定義する彼にピッタリであることは確かだ。
二人の手に収まった硝子細工が煌めく。弾む足取りで屋台通りへと繰り出す足取りを人知れず祝福するように、陽光は燦燦と降り注いだ。
●
確かに物珍しくはあろうか。
これほどまで大量に硝子細工が並んでいるところは滅多にお目にかかれない。並ぶうちの一つ、水色の海月を揺らして、雨夜・氷月(壊月・h00493)が淡い月光色の双眸で横合いの黒づくめを一瞥した。
「この硝子細工が祈願成就のお守りになるんだって」
硝子細工の御守り――というと、割れやすそうに思える。脳裡を過ぎる実務的な感想はさておき、夜鷹・芥(stray・h00864)の双眸は正反対の色をした男に向けられる。
「お前は普段こういうの持ち歩いたりするのか?」
「俺は御守りは全然だなぁ」
海月は元の位置に戻しておいた。元より選ぶつもりで手に取ったわけではない。
享楽を旨とする氷月には、そも自らの何かを守ってもらおうと思ったこと自体がないのである。それで、モチーフ選びが難航している芥に水を向けることにした。
「芥は何か願い事ある?」
「願い事、と言われると……難しい。叶わないもんを願う程虚しいもんは無いからな」
「ふうん、叶わない願いを持ってるんだ?」
浅い溜息で受け流された。ひらりと手を振る芥の、否定も肯定も返さぬ仕草に更なる言及は裂けてやることにして、氷月は再び迷う指先へ目を遣った。
興味はある。しかし今ここでつついたところで面白い結果は得られまい。
それよりは芥が手に取った、煌めくウミガメの方が目を惹いた。
「強いて言うなら健康運……か?」
「あー……アンタ、不健康な生活してるもんね」
「何だその間は」
金色の眸が大袈裟に肩を竦める氷月を睨むように見遣る。まるで実感ありげな台詞は不服だ。とはいえあまり褒められた生活をしていないことは否定のしようがない。
とまれ薄い金色を纏うウミガメのキーストラップを手に収めた芥は、同じ色の双眸で先の問いを返す。
「お前も月にくらい欲しいもん願ったって良いんじゃねぇの」
「俺は……」
――口を衝きかけた言葉がたちどころに霧散する。自分が一体何を言おうとしたのかすらも判然とせぬから、探そうにも何も見つからない。
心の裡に埋もれて見えなくなった願いをそれと認識することさえないまま、氷月の指先は己の顎に触れた。
「うーん何だろう、これといったものがないや」
やりたいと思ったときにはやっている。欲しいと思うものは大してあるわけでないし、よしんばあったとして自ら手を伸ばすだろう。となれば願うようなことは見付からず――。
月光色の眸を自然と遣った先で、カミガリと視線が絡む。
「アンタともっと親密になれますように、みたいな願掛けでもしてみる?」
冗談半分に唇を持ち上げた氷月の表情に目を細め、揶揄うような声を受け止めた芥が同じような色の表情を返す。
「良いぜ、そんなこと位なら願わずとも叶えてやろうか、テロリストさん?」
「本当かな、カミガリさん」
――二人の間にある、ある種の剣吞と気安さを同時に孕む空気を裂くように、目の前から手が伸びる。
思わず同時に視線を遣れば、にこやかな男性がチャームを差し出していた。揺れているのは透明なイルカだ。着彩されたつぶらな眸が、デフォルメされた体と共に可愛らしい印象を強めている。
唐突の第三者に口を噤む二人の方へ更に近付けられたそれが陽光を反射してきらきらと光った。それで芥は思い出す。見るともなしに見ていた看板に記されたイルカの意味は、確か――。
「縁結びならイルカがお勧めですよ! 友情運もご縁ですからね」
「待て。渡そうとしなくていい、違う」
「あっはは! じゃあココはあえてイルカにしちゃおうかな!」
「何でだよ、お前も乗るな」
それで。
結局、芥の手にしたウミガメの横で、氷月が購入したイルカが揺れることになったのである。
些か不可抗力じみてはいたが、とまれ縁結びの御守りが渡ってしまったからには、冗談も真実になるべきだろう。視線を巡らせた芥が指したのは、活気溢れる屋台通りだ。
「そうだな、じゃあ先ずは、酒でも酌み交わすってのはどうだ」
幸いにして未成年に見える見目ではない。サーバーの置かれた屋台では渋られることもなく酒を出してくれることだろう。
月光に照らされた海辺――思うよりも長く良い夜になりそうだ。互いに言葉を交わして親密になろうというのなら、盃も必要だろう。
無造作に持ち上がった指の先を見遣り、氷月もまた上機嫌に笑う。
「良いねえ、酒を飲むと口が回るようになるって言うし。もっとアンタのこと教えてよ」
並んで歩き出す。足取りに迷いはなかった。早速ご利益じみたものを齎した硝子細工はひとまずしまって、目指す先には既に酒精の気配が漂っている。赤ら顔の大人たちの合間を縫うようにしながら、元テロリストは笑った。
「ちなみに俺はウワバミ? らしいよ。つられて飲み過ぎないよう気を付けてね!」
「へぇ、そりゃイイ」
蟒蛇同士、終わりは見えなくなりそうだ。黒い狐面の奥に隠したワクの性分を存分に発揮することを予感して、芥もまた挑むように目を細めた。
●
青い空の奥に遠く潮騒の気配がする。深海色の髪を揺らして響く鮫咬・レケ(悪辣僥倖・h05154)の声は、常のそれより元気が良かった。
「うみ~!! ほんものじゃねーけど~てんしょんあがる~」
「鮫ちゃん、海が好きだよね~。私も海は好き!」
「りりもすき? おんなじ~」
ピースにピースで返してハイタッチ。楪葉・莉々(Burning Desires・h02667)はいつものようにハイテンションである。仲良しの友人――或いは楪葉家の居候――の横で夏を楽しむ準備は万端だ。
此度のダンジョンのみならず、本物の海でも遊ぶつもりだ。しかしここでは普段は見られぬ生物たちの奇妙な共存も見られるという。
レケの目当ては鮫である。彼の権能には直接関係ないが、存在そのものには大いに影響を与えた巨大な海生生物の影を想起して、仲良くなれるか否かと莉々も期待を弾ませた。心をそのまま映す足取りで辿り着いたのは屋台通りだ。
「りり、なんかたべる? バイト代もらったからおごる~」
香ばしいにおいも甘い香りも絶えず鼻腔を擽るが、二人の双眸が捉えたのは同じ店――レケの指の先にある、幾らかの行列が出来た店舗だ。
ビタミンカラーの躍る看板には若い客層を狙ったドリンクの写真が並んでいる。中には七色が層になっているものも、大量の果実が乗せられたものも、フロートの方がメインになっているようなものもある。
「映えじゃね?」
「めっちゃ映え!」
かくして顔を見合わせた二人の手には、お揃いの虹色ドリンクが収まった。続いて目指す先にあるのはいかにもハワイアンな空気を纏った屋台の一つである。
「私もバイト代入ったから、じゃあロコモコ奢っちゃう!」
いかにも奇遇だね――とでも言いたげだった莉々の表情は、すぐにはにかむように崩れた。
同じバイト先に勤めているのだから、給料日が同じなのは当然だ。思わず笑うレケの口許には鮫の如き歯が覗く。
「あはは、おごりっこしよーぜ!」
「うん、奢りっこしよ!」
そうして二人で同じものを手にしたら、大量に用意されているベンチの一つに腰掛けて撮影の時間だ。
自撮り棒は抜かりなく用意している。周辺に人がいないことを確認してから、伸ばしたそれの画面に収まるように身を寄せて、角度を調整。
「「いぇ~い!」」
最後に流れるようにボタンを押せばシャッター音が連射する。すぐに加工に入る莉々の横で、レケはふと懸念に思い当たった、
きっとSNSに上がるだろうそれを、妹の一挙手一投足を心配しすぎる兄は必ず見る。そうなればここに二人で訪れたのが彼にバレて、レケは眼鏡の奥の双眸に睨まれるに違いない。
なんで二人で行った――眉間に皺を寄せる姿を思い描いたのも一瞬、まあ良いか――で思考を流した青年は、横合いの少女の声を咎めはしなかった。
「SNSにあげちゃおーっと」
手際よく送信されたそれに早速通知が来る。音を立てるスマートフォンは今はチェックしない。足を勧めた先にある、煌めく硝子細工の並んだ市場の方が大切だ。
「ん~、りり~、おみやげもの屋もある~」
「ほんとだ~!」
モチーフは勿論、形も大きさも多種多様だ。視線を巡らせる二人の視線は自然と用意された看板に留まる。
「運によっていろいろあるって~。りりならどれ選ぶ?」
水を向けられた莉々が視線を空に遣った。指先を顎に当てる仕草は爛漫な少女らしく、蒼天を写し取る眸が瞬く。
それから。
伸ばされた指先が手にしたのは、小さな海鳥のストラップだった。
「私はねー、鳥が好きだから、海鳥かなぁって」
彼女の使役する死霊は、春告の鳥たちの形を取る。莉々の望む姿で現れる小さな友人は、彼女がほんの幼い頃――今は生活を一にする兄とも出会う前に、傍にいてくれたペットだった。
太陽の光を燦燦と反射するそれを揺らし、春色の少女は上機嫌に破顔する。手に収めた薄桃色の海鳥を横目に、彼女は既に幾つかを選び取っているレケの方を見上げる。
「鮫ちゃんは?」
「おれはね~、やっぱサメがいい~」
何しろその在り方に感銘を受けたもので。
しかし取り揃えられた鮫たちはレケの知るより丸くて可愛らしい。ホホジロザメも何やら暢気な顔つきをしているし、大きなジンベエザメも掌に収まるほどに小さいし――。
コバンザメには金運上昇の札が貼り付けられている。
「小判だから金運て? 安易~」
「でもジンベエザメもコバンザメも可愛い!」
とはいえ金は天下の回り物、何をするにも必要なものである。結局はコバンザメを手にして、レケと喜ぶ莉々は一緒に写真をもう一枚。輝く硝子細工が二人の指先に揺れるのを更に眩い加工が強調する。
「ふふ、金運アップしたら、また映える夏スイーツ食べに行こ!」
「だね~。おーなーが時給あげてくれるようおいのりしよ~」
アップロードを終えた莉々が歩き出しながら笑う。きっと近い未来に果たされる約束を携えて、二人の軽やかな足取りは、賑わう人波の中に紛れた。
●
夏祭りの屋台に並ぶ食べ物は、どうしてかくも甘美なものか。
硝子細工の市場に意気揚々と踏み入る茶治・レモン(魔女代行・h00071)の表情は今日も動かぬが、眸に宿した光とぬかりなく手にした焼きそばのパックは、陽の光を反射してきらきらと輝いていた。
夏の陽光が爛漫と地上を照らしている。目に痛いほどのコントラストの中にあってか、店先の硝子は光を弾いてより一層生き生きと煌めいて見える。
どれもこれも特別美しいように感じるが――。
だからこそレモンにとっては悩ましい。そも彼にとっての海とは戦場の横に時折あるものに過ぎず、当然ながらこれといって心惹かれる生物に思い当たらない。うっすらと好きだったり、そうでもなかったりする中から一つを選び取るのは難しく、彷徨う白い手袋と檸檬色の眸がはたと留まった先に――。
「こ、これは……!!」
タツノオトシゴである。
しかしその形状は独特だ。さながら観光地の土産屋ならどこにでも売っている、短剣に絡んだドラゴンの如し。修学旅行生がその場のノリで買って後からどうすれば良いのか悩むキーストラップそのものである。
しかし他愛ない学生――特に男子学生――の心を何故だか妙に掴んで止まないそれに、レモンもまた心奪われた。彼が本来であれば学徒として平穏な生活を享受しているべき年齢であるからというだけではない。
「初めて見ました……」
彼の生まれ育った√ウォーゾーンにあって、学生とは決して楽しいばかりの時間を過ごす存在ではなかったからだ。
死と肉薄する戦場のさなかに、暢気に|天蓋大聖堂《カテドラル》観光なぞしている時間はなかった。明日には同級の誰かの名が墓碑に刻まれる生活の中に身を置いていたレモンにとって、修学旅行という学生定番イベントはそれだけで憧れの対象だ。
ならば。
「……よし! この子にしましょう」
しかと握ったタツノオトシゴと短剣の硝子細工を手にして、指先は上機嫌に物言わぬそれを揺らす。そういえば一つ一つに意味があるそうだから、これも何か縁起を担いでいるのかもしれない。
だが、時間はある。帰ってからゆっくりと調べれば良いのだ。故郷では得ることも叶わなかった夏の思い出をまた一つ増やして、少年は僅かに目を細める。
さて――折角修学旅行の定番アイテムを手に入れたのだ。ここはもう、そういう心地で繰り出すのが正解だろう。この地に来てから得た知識の中からレモンが引っ張り出したのは、やはりそれらしいアイテムの情報であった。
「あっ、木刀を買えば修学旅行っぽくなりますね!」
軽やかな足取りは片隅の土産店へ消えていく。我に返ってから置き場に悩む大定番を手にしようとする彼の真白の服を、鮮やかな陽光が照らしていた。
●
降り注ぐ日差しに熱を帯びた空気は、風があってもなお暑い。
「暑さは大丈夫? りり」
チンチラは熱にめっぽう弱い生き物だ。隣人の大きな耳を見遣ったベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)の手は、持って来た扇子を広げるや、廻里・りり(綴・h01760)の方へ風を送る。
まるでクーラーのようなひやりとした空気が夏を和らげる。思わず蕩けたような声を上げるりりが思わず寄って行くほどだ。
「ふぁ〜すずしいです……」
文明の利器さながらの効果を齎す冷気の魔法が刻まれた扇子は、ベルナデッタの営むリサイクルショップに持ち込まれた――彼女はそれを|来る《・・》と表現する――品だ。
特徴的な構造といえば要目に飾りが付けられることだろうか。折角故あって彼女の元を訪れた品であるからには、着飾らせてやりたい思いで持って来た。
「ぴったりな硝子細工が見つけたいのよね」
「扇子にお飾り! あおぐたびにきらきらするの、きれいだと思いますっ」
まるで自分のことのように喜んで見せるりりが破顔する。無垢な表情に穏和な笑みを返したベルナデッタが、お隣さんに水を向けた。
「りりは?」
「わたしはスマホにつけるストラップがほしいです!」
置物も気になるんですけど――蒼天を写し取ったような眼差しが硝子細工の店頭をぐるりと巡る。
何しろとてもよく喋る妖怪スマホたってのお願いを受けているのだ。約束を違えるのも、その期待を裏切るのも、りりにとっては本意ではない。
「フォルテちゃんが『かわいくてーきれいでー品があるものがいいですわ!』って言ってました」
「……なるほど。責任重大ね」
ではまずはりりのものを選んでしまおうか――と、どちらからともなく決めて露店の一つに歩み寄る。キーストラップをメインに扱っているらしいそこには、色も形も様々のモチーフたちが可愛らしい顔で揺れている。
近寄ってまじまじ覗くりりの眼差しも真剣になろうというものだ。それでもなお決めかねている彼女の視線は、あっちへこっちへゆらゆらと泳ぐ。
「くらげさん……ぺんぎんさん……めんだこさん……くりおねさん……」
可愛らしいモチーフの並ぶ中、ふと目に留まったのはウミウシだ。
それだけでも大量に種類がいるものだから、ついつい視線が引き寄せられてしまう。きらきらと煌めくそれらはどれも可愛らしいが――。
「きめました! この子をお迎えしますっ」
「あら、ウミウシさん。良いじゃない、可愛らしいわ」
悩みに悩んだりりの指先は、薄桃色も愛らしいイチゴミルクウミウシのデフォルメを選んだ。ひだの表現が豊かで、落ち着いた色味は陽の光を透かしても主張が強くなりすぎない。特に手作りゆえの個体差か、耳の部分が少しだけ他のものより広がっているのは、りりと揃いのようにも見える。
彼女の選択を見守っていたベルナデッタも思わず唇に弧を描く。次は彼女の番だと表情を明るくするりりと二人、幾つかの要望を上げながら店頭を歩いて回った。
扇子に合わせるのだから和のものが良いだろう。冷気を齎す品に合う色合いのものであれば尚のこと理想だ。賑わう群衆を横目に、時に背伸びをして店先を確認しながら、辿り着いた先にあるのは――。
「浮き玉のミニチュアのストラップですって」
「わぁっかわいいですね! いろんな色と模様があります……」
海の生き物が刻まれたそれらは転がすだけでも涼しげで美しい。目につくポップを見れば籠められた意味が手書きの文字で記されていた。
曰く。
気持ちが明るくなる。浮き玉は水に沈まぬように出来ているから、心もまた沈むことのないように――という意味やも分からない。
ベルナデッタの指先が一つ一つを転がしているうち、ふと手の中の扇子が震えたような気がした。桃色の双眸で一瞥した先の物言わぬ品は、しかし確かに喜んでいるようにも思える。
許可が下ったならば迷う必要はないだろう。手許にあった一つを手に取る。夜の海のように澄んだ深い青に、海月の紋様が刻まれて光るものだ。
無事に会計を終えてすぐにも要目に吊るしてやる。嬉しげなりり目掛けて柔らかく振ってやれば、起こる冷気と共に青いストラップがきらきらと揺れた。
「涼しさが増した気がしない?」
「はい! すずしい扇子にすずしい夜の海、おにあいです!」
にこにこと笑うりりが、ふと横合いに並んでいる浮き玉たちに視線を遣る。ベルナデッタの手許で揺れるそれがあまりに美しいから、自分の手の中にある可愛らしい硝子細工にも、一つプレゼントを贈ってやりたくなってしまった。
「……うみうしさんににあう浮き玉もえらんじゃおうかな……よくばりかな?」
「欲張ったっていいわ、全部大事にしてあげられるなら。ね。大丈夫よ」
囁くように背を押してくれる隣人に大きく頷いて、真剣に視線を巡らせる。無垢なるチンチラの耳が夢中で動くのを見遣り、ベルナデッタはふと大事に握られたウミウシを見遣り、祝福に目を細めた。
――素敵な主人と巡り会えて、良かったわね。
●
メイドたるもの、楽しそうな空気には釣られてしまうもの――かどうかは分からぬが、とかく足取りは常より明るかった。
屋台通りには活気が満ちている。香ばしい醤油に甘やかな砂糖のにおいが混じり合う独特の空気の中で、ツェツィーリエ・モーリ(視えぬ淵の者・h00680)の色の違う双眸がきょろきょろと泳いだ。
屋台とは何故こうも食欲をそそるのか。浮かれた人々の声も耳に心地良い。それに鉄板の上で灼ける音やカステラの香りが混じり合えば、最早ツェツィーリエを止めるものはどこにもない。わたあめにイカ焼き、たこ焼きからドラゴンテール焼き、むろんベビーカステラも忘れない。甘いものとしょっぱいものを交互に口に入れれば、腹がどれほど膨れようとも飽きることはなかった。
その目がふと視線を遣った先で、硝子細工が煌めく。
忘れていない。忘れていたわけではない。この後ダンジョンに潜って硝子細工に願いを閉じ込める。断じて忘れてはいない。
気を取り直して瀟洒な足取りで近寄ってみれば、巨大なイルカの硝子が出迎えてくれる。横を通り過ぎて向き合った店頭には様々な海の生き物が鎮座していた。
どれも綺麗で可愛らしい――と感想が過ぎれども、ツェツィーリエの脳裡にまず浮かんだのは、自らが仕える双子の王子の顔だった。
自分のことを後回しにする癖は誰に似たものか。願いを込めるべきそれとは別に、ただのお土産として二つ選んで持って帰りたいところだ。
|航路《ログ》の欠落ゆえによく道に迷う王子には帰還守りの海鳥を。折に触れて良縁のないことを嘆いているその片割れには今後を願ってイルカを。迷いなく選び取った二つに比べ、本題の一つを選ぼうとしたツェツィーリエの指先はいたく迷った。
――自分に関して自分の意志で、と言われると、いつでも困ってしまう。
それもまた誰に似た思考の癖やら、どうにも自分の好みや趣向については曖昧だ。まして願掛けなどそうそう思い付くものではない。結局のところ彼女の思考が落ち着くのは|メイドらしさ《・・・・・・》である。
「家内安全――などですと、どのような|形状《モチーフ》なのでしょう?」
「そうですねえ。やっぱり海獣ですかね。シャチとか――ああ、海獣じゃないですが、ペンギンっていうのもありますよ」
店主の穏やかな声に視線を遣れば、並んだ硝子細工が物言わず煌めく。目を留めた先にいるのはまさしく親子愛を体現したような、ペンギンの親子が一緒に象られたものだった。
二羽の親の足許にいる小さな雛に僅かに目を細める。手にしてみればしっくりと来る、どこか懐かしくも感ぜられるそれをしかと手に取って、ツェツィーリエは小さく頷いた。
「では、これでお願いします」
●
生きる世界の過酷であればあるほど、人々の何と逞しきことか。
香柄・鳰(玉緒御前・h00313)の生きた√ウォーゾーンほどとまでは言わずとも、ダンジョン災害によってありようを一変したという世界にあっては、日常と隣り合わせの災厄なぞ危険がなければそれこそ祭りのようなものなのやも分からない。
「ダンジョンをお守りの手順に組み入れてしまうとは何と逞しい」
「んー。そうだね、商売上手だ」
従者の感心に顎を撫でた男が頷いた。嘗ては鬼神の如く馳せた九鬼・ガクト(死ノ戦神憑き・h01363)も、今は一介の商売人だ。そうまで金銭に執着のある|性質《たち》ではないが、同業者としての魂には感じ入るものがある。
さて――此度二人がここに足を運んだのは、何もガクトの営む茶屋の経営のためではない。
「今回は海の中がダンジョンかい?」
「そのようですね。何でも硝子細工の市を抜けた先だとか」
敵の気配は感ぜられない。ダンジョンに比較的近しい位置にある屋台通りが無防備に賑わっているというのに、一つの敵意も漂って来ないのがその証左である。
しかしダンジョンとは絶えず姿を変えていくものだ。今日が穏やかであるからといって、明日にも強大な魔物が迷い出て来ないとは限らない。
そも海という構造物じたい、決して安全とは言い切れぬ。酷暑とあっては水難事故の報せも増える。今は冒険者たちだけが出入りしているとしても、そこでいつか事故が起きぬと断言は出来まい。
「力無い者や子供達は海に溺れる可能性もない訳じゃないからね」
無いにこした事はないけど――藤色の髪の底に隠した眼差しを遠くへ遣る主を見遣り、鳰がしかと頷いた。
「ええ、危険が無いわけではない。我々が赴くことで今後可能性が潰せるならば尚良しですね」
それに。
今のところは安全が保障されているここであれば、何かと主を気に掛ける彼女であっても、安心して共に楽しめるというものだ。
兎も角ダンジョンの攻略のためには硝子細工が必要であるようだ。煌めく一角へと足を進めた二人は、巨大なイルカの硝子像を横目に店頭を覗き込んだ。
曖昧にぼやける鳰の視界にも、太陽を反射する硝子は眩しく映った。戦場に降る閃光とは違う暖かな光に目を細める彼女の横合いで、ガクトもまた率直な感想を口にする。
「キラキラで綺麗だね」
「色々と運気とモチーフの組み合わせがあるようですよ」
成程、御守りとしては定番だ。何らかの意味を籠めたモチーフは観光地でもよく見かける。
「誰が考えたかわからないけど面白いね。正直、私的には縁起を担ぐのも神に祈るのも興味は無いのだけど」
「ふふ、ガクト様ご自身はさしてご興味ないでしょうけれど、こういうものは贈る側や持つ者の気持ちが大事なのですよ」
「んー、なるほど」
言われて見遣った先にいる従者が楽しげに笑っている。焦点を結ばぬ双眸ゆえ、指先の感覚で形を確かめているらしい彼女の弾むような仕草に目を細めた。
可愛い従者がかくも楽しげであるのだ。願掛けや祈りとは程遠い身であったとしても、鳰の気持ちに付き合うのもまた一興だろう。
慎重に硝子細工の輪郭を確かめていた鳰は、しかし内心では迷っていない。手に触れたモチーフが確かに目当ての形をしていることを確信して手に取った。掌の中できらきらと輝くそれは、デフォルメされた可愛らしいカモメの形をしている。
「んー、鳰は海鳥かい?」
「ええ。無事の帰還を祈るものならば、後に主へお渡しするものとしてピッタリですし」
彼女は日頃よりガクトのの身を案じている。なればこそ祈りを込めるのであれば他ならぬ主のことを願うし、斯様に戦場に身を置くのであれば自然と願望は一つに定まる。
「無事に帰るね……日々戦いの中そう願う者も多かった」
ガクトはそうではなかった。
そんなことを考えもしなかった――という方が正しいか。刃を振るう感覚に身を浸し、命の肉薄する戦場に身を置くことが何よりも心を躍らせたから、そも帰ることなど念頭になかった。
しかし今は――。
彼の身を何より案じ、傍に控え、時には待つ娘がいる。帰還の祈りを叶えてやるのは神仏ではなくガクトであるからこそ、その信を裏切るような真似はしない。
「どんな事でも帰ると思うけど、ありがとうね」
「本当かしら……」
他方の鳰が零した声音は、眉間に僅かに寄った皺と同じような色をしていた。彼女が見定めた通り、主人である男は戦場では爛々としている。日頃は昼行燈めいた振る舞いをするガクトが最も生を漲らせるのは戦場に在るときだ。
しかし――鳰は数多の叶わぬ帰還の願いの裡に、彼が消えてしまわぬように願っている。だからこその帰還守だ。長く海上を飛び回り、そして無事に巣に戻る海鳥たちのように、いかに永き旅路の果てにもガクトが戻ることを祈っている。
僅かに目を伏せた鳰に再び顎を一つ撫でたガクトが店頭に視線を移した。可愛い従者が自分ために願いを使うというのだ。ここは主と呼び慕われる者として、彼女のために一つ願いを使ってやるが筋だろう。
「んー、それじゃあ私も鳰に一つあげよう」
「あら、私にもとは恐れ入ります」
ぱっと華やいだ鳰の表情と、並ぶ硝子細工を見比べる。幾分悩んだ指先が一つを摘まみ上げた。
促せば素直に手を差し出す従者は、検分するように曖昧な視界を補完する指先で形をなぞる。瞬いた紫紺の双眸が首を傾いだ。
「これはエビ? 可愛らしいわ」
赤いまろやかなフォルムに塗られた黒ぐろとした小さな眼差しは、鳰のぼやけた目にもよく見える。目を細めて喜ぶ彼女の、歳相応の少女のようにも見えるさまに、ガクトの声が続けた。
「健康運のウミガメも良かったけど、エビは長寿祈願らしい」
鳰に長生きしてもらわないと困るから――。
こともなげに続けられた理由に、従者は息を呑んだ。
「長生き、……ですか」
思わず掌の中の煌めきに視線を落とす。分かっている。今しがた主に対して衒いなく願った帰還の祈りと同じようなものだ。
それでも。
「それは神に委ねるのみ、ですよ」
この身に返してしまえば素直に頷くことが出来ない。己が祈るように、またガクトも願ってくれる――鳰の誓う忠誠に対する返報としては大きすぎるほどの見返りだった。
得難い幸福だ。それを真っ直ぐに受け取ることが出来ず、矛盾であると分かって曖昧な応答を戻してしまう心の澱も、鳰には飲み干すことが叶わない。
言葉と同様の色を孕んだ笑みを暫し見遣って、ガクトは藤色の髪の下で目を眇めた。
「んー、そうだね。確かに明日死ぬかもしれない」
そればかりは分からぬことだろう。それを命運が尽きたと言う者もある。或いは悲劇と取る者もあるだろう。時には喜劇になりうるような幕引きであるやも分からない。
しかし――。
「ただ、君の主人は私だ」
鳰が見据えるべきは、いるとも分からぬ天上の神ではなく、隣にいる|主《ガクト》である。
神によって命運が定まるというのであれば切り拓かねばならない。他でもない主が|かくあれ《・・・・》と命じたならば、鳰には応える義務がある。
「『神』よりも『私』の命令はきかないとね、鳰」
穏やかでありながら凛然とした声であった。像を結ばぬ視界にも、ガクトが真っ直ぐに鳰を見詰めているのが分かる。瞠目の後に瞬いた彼女は、手にあるエビの硝子細工を確かに握って、深く頭を垂れた。
「……御意の通りに、我が主」
芯の通った返答だった。再び持ち上がった紫紺の双眸に迷いはない。静かな返答に、ガクトはどこか満足げに、笑みを返した。
●
青い空、白い雲、そして照りつける太陽。
「あ゛っづ……」
零れる声も途方もない怠さを帯びる。会場を訪れて早々にしなしなになってしまったラナ・ラングドシャ(|猫舌甘味《𝚕𝚊𝚗𝚐𝚞𝚎 𝚍𝚎 𝚌𝚑𝚊𝚝》・h02157)は、赫赫と煌めく日差しを見上げて溜息を吐いた。
長毛種と長毛種の掛け合わせによって生まれた猫が妖怪になった――寒さ対策は生まれたときからばっちりだが、熱気にはめっぽう弱い。ましてや大きな体躯の猫の間に生まれたものだから、人の形になっても背は高く、太陽との距離が近いことも大問題だ。
何より自慢のもふもふ尻尾は、今や湿気を集め熱を貯め込む器官と化していた。よもやラナの一番の自慢が斯様な憂き目を齎すとは思っても見なかった。がっくりと項垂れる彼女の声は弱々しい。
「今にも暑さで爆発しそうだよ……!」
その横合いで、ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)もまたくらくらとする視界を携えてしょんぼりとしている。
「うう……うだるような暑さなのです……特にこの耳の辺りに熱さが籠るのです……」
「あ~、ラーレ垂れ耳だもんね」
きゅっと押さえるロップイヤーはどれほど持ち上げてもぴんとは立たない。可愛らしいそれがラデュレが発する体温と夏の温度で煮えるように熱を持っている。気休めのように両手で持ち上げると今度は流れる汗を拭き取るすべがなくなってしまう。どうにもならない状況に頭のくらくらしている小柄な兎の姿を隠すようにして、大きな猫は笑った。
「もししんどかったらボクの身体の影に避難するといいよ」
「お気持ちはうれしいのですが……暑いのは、ラナも同じでしょうに」
確かに長躯の作る影は幾分涼しいが、それでは友人を灼熱に晒し続けることになってしまう。気遣わしげに見上げるラデュレが遠慮がちに避暑を提案すれば、それは良いかもしれないとラナが笑った。
しかし――高い背を活かして周囲を見渡す。熱を避けられそうなところは幾つかあった。そこここに置かれたパラソルの下、大きく張られた休憩所のテント、それから。
見付けた看板に金色の瞳孔がきゅっと細くなる。桃色の眸を兎に近付けて、猫は内緒話をするように笑った。
「……ね、ラーレ。ガラス細工のお店に着く前に溶けちゃいそうだから、ちょっと冷たいもの食べない?」
そう、たとえばかき氷とか。
紫水晶がぱっと破顔する。背伸びをしても人混みの中を見通すのは叶わないが、ラナの目にはきっとそれが映っているのだろう。この場にあって一番に魅力的な誘いに、ラデュレは一も二もなく頷いた。
「素敵な提案なのです……!」
「ふふ、よし! 決まり!」
ラナに手を引かれる形で連れ立った店は、どうやら自分でカスタマイズが出来ることが売りであるようだ。ベースとなるかき氷を選んで、自由にトッピングをする――所狭しと並ぶ品々を見渡しながら、二人はめいめい好きな味を指差した。
パラソルの下で合流した二人の手には好みをたっぷり詰め込んだかき氷が握られていた。ラナのそれは真っ白だ。ミルクをベースに練乳を沢山かけた、乳製品の甘みをこれでもかと詰め込んだ逸品である。
対するラデュレのものは、メロン味のシロップにミルクをいっぱいにトッピングしてある。まろやかになったそれを口に含めば、本当のメロンを食べているような味わいになること間違いなしだ。
「ん! メロンミルクもいいね! 美味しそう!」
「ラナの真っ白かき氷も、美味しそうです……練乳ですか?」
ぴんと耳を立てて笑うラナへ、ラデュレもまた笑って応じた。まずは自分の選んだものを口に運ぶ。
しゃりしゃりとした氷の食感と共に、火照った体に心地良い清涼感が駆け抜ける。甘やかな味わいと相まってどれほどでも食べられてしまいそうだ。
「はにゃあ…沁みるぅ……」
思わず猫らしい声が零れたラナの練乳ミルク味と、それを見守るラデュレのミルクメロン味を、それぞれ一口ずつの交換こ。友人の選んだ味が体中に満ちるのも、好きなだけ詰め込んだかき氷も、何よりこうして二人で並んでかき氷を食べるのも――。
「とても贅沢な気持ちになってしまいますね……?」
「うんうん! 贅沢ですっごくおいしい~~!」
頭痛がしないようにだけ気を付けて食べきったなら、すっかり元気になった足取りが本命の一角に向かう。きらきらと煌めく硝子細工の露店には思わず歓声が上がろうというものだ。
「わぁ~~! 綺麗なガラス細工たちだね!」
「ええ、見惚れてしまう程に、うつくしいのです」
陽光を反射する繊細な硝子細工の光に目を細めながら、二人は日陰を選びつつ店先を見て回る。様々なモチーフに目を遣り、さてどれが良いだろうかと悩むラナが、ふと目に付いた一つを指差した。
「わ、このウミウシうさぎみたいで可愛い! ゴマフビロードウミウシ……だって!」
「まあ、ふふ! かわいらしいのです……!」
まるで耳のように尖った二つの突起は、ラナの言う通り兎の耳にそっくりだ。どうやら人気なのか一押しなのか、様々な色のものが所狭しと並んでいる。
ラデュレの紫紺の眼差しは、簡単な説明が書かれたポップに注がれていた。ウミウシの中でも可愛らしいと人気の高い種類で、ファンからは愛称で呼ばれることも多いという。
「ごまちゃん、と呼ばれているそうですね……?」
「ごまちゃん? 呼び名まで可愛いね!」
少しの沈黙が二人の間に走る。暖かな笑みを唇に刷いて、同じことを考えていたから、視線が絡み合った瞬間に同時に口を開いた。
「ねえ、ラーレ。この子をお揃いで……」
「ラナがよければ、なのですが……」
揃った声に口を閉じて、また二人でふくふくと笑った。お互いに同じことを言おうとしていたのは明白である。無言の促し合いもさやかな笑声によって打ち止めだ。
ラデュレの指先がポップを指す。どちらが言っても同じ答えが戻るだろう言葉を、先に口にしたのは彼女の方だった。
「この”ごまちゃん”をお迎えしませんか?」
「うん! もちろん!」
大きく頷くラナの返事を受け取って、ラデュレが手に取る一つはもう決めている。
最初から目を惹いていた、オレンジの塗装がされたものだ。個体差のせいか他のどれより耳がぴんと立っているところも、ラングドシャのような可愛らしい色合いをしているところも、まるで隣の友人を思わせるから。
「わたくしはこの子にしようと思うのです」
「その子にするの?」
「ええ。ちょっぴり、ラナの色に似ていませんか?」
「ふふ! 確かにボクの色にそっくり!」
屈託なく笑ったラナの指先と桃色の双眸は、少しの間店頭を彷徨った。
折角友人が自分に似たものを選んでくれたのだ。それなら自分も同じように――。
「じゃあボクは~~、この子にしようかな!」
手に取って翳したのは、紫水晶と見まごうような美しい体をしたウミウシだ。角と模様は薄く黄色が塗られていて、光に翳すとちょうど金色に煌めく。
横合いの友人の眼前に差し出せば、手にあるストラップと同じ色の双眸が瞬いた。
「ラーレの瞳と髪色にそっくりじゃない?」
「ふふ、本当ですね」
互いを映したようなウミウシを手にして足取りは軽く弾む。夏の太陽もコートのような毛並みもなんのその、今の二人には何らの不利益も齎せない。大きな猫又は喜びを隠しもせずに声を零した。
「ふふ、ラーレとお揃い嬉しいな♪」
お揃い。
たった四字の響きが、ラデュレの中に弾むように馴染んでいく。それだけのことが何より嬉しくて、彼女は手の中のストラップを優しく握った。
「この子は、大切にいたしますね」
――かくして日は暮れる。ダンジョンの入口より零れる月の光が、冒険者たちを誘うように揺らめく夜を連れて。
第2章 冒険 『蒼の領域』
●
規則正しい波音が、遠大な浜辺に響いている。
夕陽が沈んでなお盛況の屋台通りの気配も今は遠い。穏やかな蒼海の合間には巨大な影が静かに揺らいでいる。
誰が残したか、√能力者たち以外の誰もいない浜辺には、パラソルやベンチが取り残されていた。歩いていけば、足許を気儘に闊歩するヤドカリや蟹の姿がちらほらと見えるやもしれない。
海底は緩やかな傾斜を描く。波打ち際の付近であれば、どれほど背が低くとも足がつくだろう。
沖に出れば潜水が可能だ。鮮やかな珊瑚礁や海亀、巨大な鮫や小魚の群れが互いに無関心に泳ぎ回っている中を、√能力者たちも心置きなく遊泳出来る。
海獣たちは自由気儘に海域を回遊している。タイミングを図れば波打ち際でも触れ合うことが出来ることだろう。鯨やイルカは勿論、シャチに至るまで、一様に穏やかな気性をしているようだ。
――いっとう遠く、深い海の底からは、時折巨大な影が現れる。長くしなやかな体躯の海竜が、悠々と海域を巡るさまは圧巻である。並んで泳ぐのであれば、大きな鰭が生み出す海流にだけは注意が必要だ。
√能力者たちがどう過ごすも自由だ。今はまだ、静かに波間を照らす月光のことは忘れておこう。
●
昼のぎらつく日差しから一転、夏夜の海風は清涼な気配を孕んだ。
何でも出来ると言われると何をするか迷うのもまた必然というわけで、潮騒を前にますます上機嫌な鮫咬・レケ(悪辣僥倖・h05154)と楪葉・莉々(Burning Desires・h02667)は、波打ち際を連れ立って歩きながら次の遊びを考えていた。
「沖にでたらいっしょに泳げるっぽい~」
「いいね~あとで行こ~!」
「いこいこ~」
靴足先を擽る小波の冷えた温度が、莉々の足許の砂を攫っていく。素足になっているせいで如実に感じるそれが独特のくすぐったさを連れて寄せては返すから、たまらず手先を波へ突っ込んだ。
急に屈みこんだ莉々に首を傾げるレケの顔めがけて掬い上げた海水を撒いた。反射的に水面色の眸を閉じた彼の、まともに水飛沫を喰らった深い海の色をした髪が揺れる。
「えいっ」
「わっ」
不意打ちと湿った砂に足を取られながら、しかしレケも負けてはいない。追撃を用意する莉々の桜色の髪へ水を散らし、悲鳴を上げる彼女に満足げに笑ってみせた。
「おかえし~!」
「きゃー!」
水を掛け合い押し合いへし合い、散歩というには騒がしい波打ち際の攻防のさなか、ふと思い付いたようにレケが動きを止める。
懐から取り出された生活防水スマートフォンのカメラをはしゃぐ少女に向ければ、すぐに意味を理解した彼女が満面の笑みでピースを返した。指先が散らした飛沫が月光を反射して、図らずも鮮やかな景色にセルフ加工を施しているような様相だ。
「りり~」
「いぇ~い!」
電子音とシャッター音、のち速やかに共有。通知音に気付いて懐から自分のスマートフォンを取り出した莉々の横合いで、レケは既に加工とSNSへの投稿を終えている。
唇を意地の悪い笑みが彩った。覗く尖った歯は、すぐにもついた通知のアカウント名を確認してますます笑みを深める。
「んふふ」
――いやがらせたのし~。
通知が鳴りやまない。何なら個別連絡先の方もぴこぴこと新規の連絡があることを告げている。今頃鬼の形相をしているのだろう男に心の中で勝ち誇ったピースを返したレケは、そのまま静かにスマートフォンを懐へしまい直した。
他方、斯様な水面下の攻防など知る由もない莉々も滞りなくSNSへの投稿を終えた。顔を上げればにまにまと嬉しそうな顔をしたレケと目が合って、首を傾げる。
「鮫ちゃんのスマホ、なんか通知いっぱいきてない?」
「だいじょーぶ!」
何せこうなることを分かってやっているので。
しかし屈託のない笑顔はいつにもまして楽しげだ。海を前に上機嫌なのは分かっていたが、それにしても溢れる喜色に、少女はますます首を深く傾げた。
「それに楽しそうだけど、何かあった?」
「ん~、りりとあそぶのたのしいな~って思ってるだけ~」
「そっか~、私も~!」
揃ってピース。指先を軽く打ち付け合って仲良しを確認したところで、莉々の片手の端末が通知を告げた。反射的に画面を覗き込めば、よく見知ったアカウント名とアイコンが見える。兄だ。
いつどこから見ているのか、或いはいつどこでも見ているのか分からぬが、ともあれ彼は愛すべき妹の投稿に目ざとかった。とはいえ常のことであるので妹の反応は平静だ。
「兄とも一緒に来たかったね~」
――本当に一緒に来たら何度シバかれるか分かったものでないので、レケはノーコメントとして。
沖の方に目を遣った彼が瞠目した。近いとはいえないがそう遠くもない距離に、確かに三角の背鰭が見える。それこそ彼が憧れた――。
「あ、りり! 沖に鮫いるっぽい! みにいかね? おれはいきたい~」
「鮫、いるっぽい? いくいく!」
昼から会いたいと密かに思っていたから、莉々は目を輝かせて一も二もなく頷いた。どうやら海中には珊瑚やとりどりの熱帯魚が揺らいでいるようであるし、誘いに乗らない理由はない。
早速海へ目掛けて走り出そうとするレケの水面の双眸が問うた。
「泳げる?」
「スイミングスクール通ってたから得意だよ!」
「よっしゃ~、ならいこ~!」
かくして二人は海中へと身を投じる。前評判通り穏やかな動物たちは、無関心ともとれよう静けさの中で、鮫の元を目指す二人を見送っていた。
ひらひらと揺れる色とりどりの珊瑚に熱帯魚たちが見え隠れして、その横をウミガメが悠々と泳いでいく。水面から差し込む月光の中で極彩色の光を孕むそれらに、莉々は思わず歓声を上げた。
横を泳ぐレケは親しんだ海中の気配を楽しんでいた。どことも知れぬ海の底からやって来た災厄は、まさにその瞬間に得た憧れの対象を探して視線を巡らせた。
「あっ、いるいる!」
「ほんとだ!」
ホホジロザメだ。しかし持っているはずの凶暴性は全く感じ取れない。二人が横に寄り添おうとするのを振り払うこともない。
だから。
手招いた莉々がスマートフォンを構えた。妖怪スマホの耐性は既製品とは比べ物にならない。莉々のそれは海中の水圧も塩水もなんのその、巨大なホホジロザメと二人を見事に画角に収めて見せる。
「「いえ~い」」
くぐもったシャッター音が響くのを、鮫の眸が不思議そうに見送っていた。
●
そろそろ何かやらかす気がする。
直感といって良い感覚だった。泉下・洸(片道切符・h01617)との奇妙な不可抗力的付き合いで、彼の言動に頭を抱えて来た水縹・雷火(神解・h07707)は、胃腸に負担をかけぬよう少しずつ飲んでいたスイカジュースを置く。パラソルの下のチェアにはご丁寧にドリンクホルダーが残されていて、融けかけた氷の温度で汗をかいたそれから、水滴が滴って砂浜を濡らしていく。
その横にある同じ形のチェアの上で大人しくトウモロコシを齧り、トロピカルジュースを口に運んでいた洸が、さも良いことを思い付いたとばかりに表情を明るくするのとほとんど同時である。
洸は変化のない状況を長らく楽しむことに親しむ性質ではない。寄せては返すばかりの規則的な波音を聞いているのも、遠くで気儘な海獣たちが上げる飛沫を見ているのも、そろそろ飽きて来た。
折角の海である。もっと張り切って遊びたい。ただしスイカジュースを置いて今にもこちらに視線を向ける雷火の虚弱すぎる体が冷たい水圧に圧し潰されぬよう、砂浜近辺で。
「というわけでライカ、磯狩りをしましょう!」
「何が『というわけで』なんだよ」
全ての思索は伝わらない。言葉にしないからである。ともあれ言うだけ言って意気揚々と立ち上がる男の背を野放しにしておけば何をしでかすか分かったものではない。
仕方なく――本当に心の底から仕方なく、立ち上がった少年は唇に笑みを刷いていた。
幽霊ゆえか、或いは元来の身体能力の差ゆえか、彼が追い掛ける先の洸は軽々と岩場を越えていく。濡れて滑るそれに足を取られぬよう気を付けながら、時に回り道を挟んで雷火がようやく潮溜まりに辿り着いたときには、幽霊は既に小さな海の水面を突いていた。
何やら手を突っ込んで無遠慮に探るような掌をよそに、少年は岩場を懸命に這う赤茶の甲殻類へ視線を移した。別段どうと思ったこともない生き物でもつぶさに見ていれば愛着が湧くものだ。茹ったときと比べて赤みの薄い蟹が横ばいにどこかを目指しているさまは可愛らしい。
しかし雷火がその懸命の旅路の果てを見届けるより先に、聞き慣れた歓声が後方から彼を呼ぶ。
「見てくださいライカ! 七色に光るウミウシ的な何かですよ!」
「返してきなさい! ウミウシさんが可哀想でしょうが」
――洸の手に無遠慮に握られているのは、彼の言通り推定ウミウシである。
幽霊の冷たい手は海の中の生き物を火傷させたりはしないようだったが、代わりに活きの良いまま体を派手によじっている。体色は何をどうしているのやら七色に輝いて、さながらネオンかゲーミングデバイスの如く煌々と光を放っていた。
呼ばれると同時に嫌な予感を覚えて振り返った雷火の声も知らぬげに、暴れるゲーミンウミウシを掴んだ洸はつぶさに観察を始める。
「ダンジョンの固有種でしょうか?」
「流石に固有種じゃないか?」
一部の生物には発光器官が備わっている。理由が解明されていないものも多いが、何らかの形で生存に役立っているから残存している特徴なのであろう。ウミウシの中にも発光する種は存在しているから、光ることそのものは悪いことではない。
悪いことではないが。
洸の手の中で暴れる推定ウミウシが野生で生きていけるとは、雷火も思わない。これほどの光を放っていてはあらゆる深海を貫くサーチライトの如く居場所を教えてるだろう。七色の光が擬態に役立つとも思わない。そもそも色合いが徐々に変わっていっているし。自然界で生きていくに絶対に必要のない原色であるし。
目を眇める雷火をよそに、洸の双眸が僅かに真剣みを帯びた。
――うーん。この生物って食べられるのでしょうか?
食べるとしたらどうするのが正解だろうか。発光器官がどこにあるのかもよく分からないし、構造が通常のウミウシと同様なのかも分からない。このゲーミング発色が警戒蝕のような役割を果たしているなら毒性がないとは限らないし、そも毒があるとしてどこに蓄積されていることになるのか――。
素朴な疑問を解消すべく矯めつ眇めつ推定ウミウシを観察する幽霊の仕草が何を示しているのか、少年は即座に感知した。
「お前今食べられるかって考えただろ」
「ええ」
「悪びれろ少しは! どうみても身体に悪そうだろ」
「私は怪異解剖士ですから、好奇心の塊なのです」
「そんな好奇心捨ててきなさい」
食うのは怪異だけで充分である。否。怪異も食べるものではない。
頭を抱えるように派手な溜息を吐く雷火の横を蟹が駆け抜けていった。土に消えていく小さな生き物に視線を落とした彼に、なおもにこやかな洸の声が続ける。
「食べられるなら食べてみるのは礼儀ですよ」
「あのな洸。食べられるかと食べてもいいかは別だからな」
何故だか水縹邸の台所から時折聞こえて来るようになってしまった、人ならざる存在の凄まじい断末魔を思い出して、雷火は更に深く項垂れた。
●
遠く響く波の音が無窮の海となって広がっている。
足許の砂を攫う波がさやかに揺れる。規則的に寄せては返す粒子が足裏を擽る感覚に身を委ねながらも、ミューリアルカ・クプルーシュ(|雪白《せつはく》の楔・h05809)の空の色をした眸は遠く海中に向けられている。
このまま浜辺を歩くのも悪くない。けれどやはり、折角来たのだから、深く深い海の底に広がる景色を見に行きたい。
一度も見たことのない景色に出会うため、真白の少女の姿は迷いなく海の奥へと向かっていく。悠々と泳ぐ大型魚とすれ違い、ミューリアルカの姿を見るや弾かれたように解散して道を作る小魚の群れを潜り抜ける。
海獣たちは気儘なものだ。イルカは戯れるように彼女の体をつつくし、シャチは興味深そうに周囲をくるくると取り囲む。ひんやりとした体の感触を楽しんでいるミューリアルカの目に、ふとより深い海中から鳴動が競り上がって来るのが見えた。
巨大な海竜だ。海蛇にも似た長い体に、虹色に光を反射するヴェールのような鰭が揺らぐ。海中に適応してか深い青を纏う鱗がきらきらと月光を反射した。少女を囲っていた海獣たちが水流に巻き込まれまいと散っていくのを横目に、彼女は巨大な体に問い掛けた。
「ねぇ、一緒に泳ぎましょう?」
それだけでミューリアルカの頭より大きい目が、声に反応してか彼女の方を見た。
肯定らしい肯定はなかったが、拒絶も返らなかった。好きにすれば良い――とでも言いたげに悠々と体をくねらせる竜の横を、小さな体がついて行く。
巻き起こされる海流は容易に体を呑み込みうる。流されぬよう、弾き飛ばされぬよう、コントロールを取るのは難しい。しかしミューリアルカの心には苦心よりもずっと深い旧懐が蟠って、覚えていない在りし日の光に柔らかな痛みを訴えた。
こうしていたことがある。誰かと。
「|海竜《あなた》みたいな存在と、一緒に何かをしていたような……」
ぽつりと零れた声が契機だったわけではあるまい。何に気を取られたか唐突に海竜の鰭が大きく動いた。生み出される推進力は先までの比にならず、同時に海流も激しく巻き起こる。途端について行けなくなったミューリアルカの体は簡単に吹き飛ばされた。
目を開けたときには静寂が戻っている。先まで横にあった長大な影はどこにもなく、代わりに海獣たちが再び集って来ていた。
――仕方ないわ。
もう少し横合いで旅を楽しんでいたかったが、機は再び巡って来るだろう。小さなイルカが体を寄せて来るのを撫でて、シャチの群れに混ざって泳ぎながら、ミューリアルカはじっと海竜の消えていった方を見詰めていた。
再び近くに現れたら、そのときにはまた鱗を触らせてもらおう。
●
穏やかな月光が白波を照らすさまは穏やかだ。静かな波の音に耳を澄ませれば、一片の警戒など簡単に融け落ちてしまう。
懐音・るい(明葬筺・h07383)は波打ち際を歩くことに決めた。あくまでもダンジョンだ。絶えず変化を続け、恐ろしい危険を伴って人を呑む――頭では理解していても、静謐と平穏そのものを映したような夜の海は、まるで気を抜くことを誘うようだ。
ひっそりと佇むプライベートビーチか、或いは秘境か。無窮の砂浜と沈まぬ月に照らされる青い海に感ずる心地を言葉にするならばそういうことになろう。
寄せては返す波に乗り、ふとるいの横合いに水飛沫が立つ。上機嫌な春の香りに示されて視線を遣れば、そこに小さなシャチの白黒の体色が見えた。
どうやら子供のようである。遅れてやって来た親と思しき二頭に、手を伸ばしたるいを咎めるつもりはなさそうだ。人懐こく触れ合う子供と同じように繊手をつついてみせる。ひんやりとした海生生物の感触が指に伝わるのが心地良い。
水族館のショーでは間近に見たこともある。面白半分に立てられる水飛沫をまともに浴びたこともあった。しかし斯様に近しい距離で見るのも、こうして触れ合うのも初めてのことだ。大人はおろか小さな子供までも、るいと比べれば大きなものであった。
「やっぱり実際にみると大分大きいねぇキミたち」
感心したような声に応じ、海のギャングと言われる生き物は、その名を感じさせぬ穏やかで鰭を動かした。
思う存分戯れて、互いに手を振り合うように別れた後――。
傍らに連れ立つ人魚と共に、るいは海中に身を投じた。深く潜水して探すのは、当然ここにいるという海竜だ。
果たして法外な巨体はすぐに彼女の前に姿を現す。鳴動を伴う巨影が徐々にるいの方へと近付いて来るや、流麗な深い青色の鱗が幽かな月光に煌めいた。ヴェールの如き鰭が揺れ、瞼を持たない縦長の瞳孔はるいの方を一瞥する。
先まで触れあっていたシャチとは比較にならない大きさだった。鯨でさえも容易に一飲みするであろう長大な身が起こす強い海流に呑まれぬ位置で、悠々と泳ぐ姿に並ぶように水中を漂いながら、るいは嘗てここを訪れたという冒険者の心に思いを馳せた。
まるで大海の主のように揺らめく竜を生み出したのは、果たしてどんな願いだったのだろうか。
永き伝承に憧れる冒険者の無邪気な願いだったのか。或いはいつか竜だった者が、覚えのない嘗ての威容を一目見てみたいと祈ったのか。それとも――。
気儘な竜が何かを語ることはない。捧げられた全ての願いを覚えているはずの月光もまた、深い海の奥にて揺蕩う願いの具象の中核を語ることはない。
ただ、静謐な波間に、鳴動が揺れるだけだった。
●
泡沫・みぞれ(泡に唄えば・h08170)は海に生きていた。
だから打ち寄せる波も、海中も、お昼寝中に潮溜まりにうっかり取り残されるのも怖くない。しかし未だ子供の彼女にとって、浅瀬の柔らかな波と小さな珊瑚礁こそが世界の中心だった。
鮮やかに揺れる珊瑚の色とりどりの姿も、そのさなかに見え隠れする熱帯魚たちも、皆みぞれの友人たちだ。だから深い場所にいるという彼らを見に行きたい。そして更に奥深くから現れるという長大な海竜と一緒に泳いでみたい――。
目を輝かせたほんの小さなウミウシは、体に余る大きな夢を抱いて海の底へと潜っていった。懸命に泳ぎ歩みを進めていた彼女はしかし、今や絶体絶命の窮地に陥っていた。
現れた海竜が生み出した渦のような流れに取り込まれた瞬間から、みぞれはずっとぐるぐると海中を回っている。
深いところはまだほんの子供のウミウシには早かったかもしれない。地上にある洗濯機を思わせる渦に囚われ、右に左に体を振られて悲鳴も上げられない。もしや洗濯物とはこんな気持ちか。知りたくはなかった心地を胸に抱きながら、体と同じだけ回る目の端に、水のヴェールの奥に悠々と躍る大きな鰭を見ていた。
「海竜さん、遠いねー……」
しかし圧巻だった。この距離からでもウミヘビのような長躯がくねるのが見える。近くに行けばみぞれはうっかり弾き飛ばされてしまって、それに気付かれることもないのかもしれない。
シャチやイルカや鯨は知っていても、それらとは比べ物にならなかった。海の仲間という括りにあるのが信じられないくらいだ。新たな海流を生むたびに鳴動のように海が鳴るのを聞きながら、小さなウミウシは未来に思いを馳せた。
――みぞれも、あんなくらい、大っきくなれる、かな?
そうなればこんな風に天然の洗濯機に閉じ込められてしまうこともあるまい。渦潮も鰭も気にせずに、共に泳げるようになるだろう。自分の姿が並ぶことを思い描いて、みぞれはくるくると回りながら弾んだ声を零した。
「楽しみ、ね」
かくしてどれほど回り続けていたか。海竜の姿も遠く揺らめくばかりになってようやく、海の作り出した渦から放り出されたみぞれは水底に足を付けた。
が。
「ここ、どこ?」
見上げても一面の青色が揺らめくばかりだ。幽かな月光が本来彼女のいるべき場所との遥かな距離を示してくれる。果たしてどこからどう辿れば戻れるものか、そもそも今どのあたりに弾き出されてしまったのか、みぞれには分からない。
「……どやって帰ろ?」
首を傾げた先で、大きな珊瑚がゆらゆらと揺れていた。
――途方に暮れる友人を乗せて、浮上して来たウミガメが彼女を砂浜に帰してくれたのは、それから暫く後のことである。
●
海中に煌めく気配は気になるが、何もそれだけが海を楽しむ方策ではない。
泳ぐ準備を整えていないからといってパラソルの下で座っている必要はなかった。連れ立って歩くアドリアン・ラモート(ひきこもりの吸血鬼・h02500)と弓槻・結希(天空より咲いた花風・h00240)の耳に届くのは、静かで規則的な波の音と、時折遠くで海獣たちが巻き上げる水飛沫の音ばかりだ。
他愛のない会話を交わしながら、無窮の青と月光を見る。照らされる砂浜の上を歩いていく甲殻類の気配を見送る穏やかな時間も、親しい友人と過ごすものであれば何よりも美しい宝物になる。
海に潜れば見られるという話の珊瑚礁や魚の作る極彩色の世界より、共に泳げるというイルカやシャチや海竜の姿より、交わす言葉の方がきっと素晴らしいものだろう。
藍色に続く波間の奥に鯨の姿が霞んでいる。潮風を受けて少しだけ湿った砂の感触を楽しみながら、ふと結希が水平線から視線を外し、横を歩くアドリアンの赤い眸を見た。
「アドリアンさんは、こんな話をご存知ですか?」
――曰く、海にはとある人魚が住んでいた。
しかし彼女は海の奥の世界をよしとはしなかった。美しい珊瑚も熱帯魚も、光り輝く生き物たちも、深い水底では鮮やかな色合いを十全に伝えることはない。深い藍色に覆われた世界の冷色の色彩に飽き飽きしていた人魚は、ある日地上の世界を知る。
「暖かな地上の色彩に憧れたのだと」
人が決して見えぬ深海の世界に思いを馳せて、懸命に最奥にある世界を求めるように。或いは飛ぶことの出来ぬ身で空へどこまでも羽搏いていくすべを欲しがるように――空と海の世界もまた、地上を求めてやまない。
陸と海と空は自らの傍に在る色彩に倦む。そして互いの見得ぬ非日常の世界に憧れるように手を伸ばす。
「そんな話があるんだね。確かに空からの世界とかは見てみたいかもしれないな」
「ええ……でも、私は今のこの日々が気に入っていますね。羨むことより、より素敵なことに手を伸ばしたい」
「弓槻らしいや」
結希が伸ばした指先は願いを叶えるという月光の輪郭をなぞった。その向こうで屈託なく笑みを返してくれる深紅の双眸は、きっと彼女の内心を覗くことは出来ない――否、出来たとしてもしないのだ。
そういう友人が隣にいるからこそ、彼女は地上に戻って来る。背の翼でどこまでも空を飛び、涯までも幸いを運ぼうと思いながら、ここに戻って来るのだ。
笑い合った二人の視線は自然と再び海へ投じられた。ほんの僅か考えるように、アドリアンの歩みが緩まる。
こうして他愛ない話をしているのも楽しいことだ。きっと夏の良い思い出になるだろう。しかし折角海に来ているのだから、塩水の気配だけでなく、その冷たさも体で感じたい。泳ぐために海中に身を投じることは出来ないとしても、浅瀬に足を付けるくらいならば大して衣服も濡れないはずだ。
徐に靴を脱ぐ。意気揚々と歩き出すアドリアンを不思議そうに見送る結希の前で、彼は波打ち際へと歩み入った。
ひやりとした感触が足許を攫う。砂が足裏を擽っていく感触も心地良かった。そのまま水の抵抗を感じ始めるところまで足を進めれば、夏の纏わり付くような熱気を冷ます冷えた水の感触が足首に心地良い。
この感覚を共有したくて、顔を輝かせたアドリアンが振り返る。瞬く蒼天の如き少女の眼差しと格好に目を遣った。
――汚してしまうだろうか。
彼は自分の服が多少汚れようとも構わなかったが、結希の柔らかな服装はいつも通り愛らしい。海水で裾を濡らしてしまうのも憚られた。
憚られはしたが、逡巡は一瞬だ。
「ねぇ弓槻、海が冷たくて気持ちいいよ! 弓槻もこっちに来てみない?」
一瞬の思索からすぐに顔を上げて、青年の声が少女を呼ぶ。手招きをされる彼女もまた、ほんの少しの思案に指先を顎へ当てた。
しかし心は簡単に決まる。
「――そうですね。少し冒険に出てみましょうか」
他ならぬアドリアンが誘ってくれたのだ。ここで足を進めないなんて、そちらの方が勿体ない。
結希もまた靴を脱いで素足になる。片手に持って行ったアドリアンとは違い、彼女の方は浜辺に二足を揃えて置いて、自分のスカートの裾を持ち上げる。
波の音の間に慎重に分け入っていく瞬間に、少しだけ胸が高鳴った。まるで本当の冒険に出ているようだ。風を切るときの高揚感とも違うそれを、心地良い海水の温度が冷ましてくれる。
寄せては返す波が足許を掠めていく感触が柔らかい。攫われていく砂が擽ったかった。一歩を進めるごとに友人の楽しげな表情が近付いて、自分の足が水に沈んでいくのが分かる。
その全てが渾然一体となって結希の心に万感の思いを浮かべた。ようやく隣に追いついて、小さく安堵の溜息を零しながら見上げた空にある月光を見上げた。いっぱいのあえかな光が二人を照らしている。
「ひとりでは絶対に感じられない、夏ですね……」
「うん」
ふるり、純白の翼が震える。頷く吸血鬼の声もまた、天使の声色と同じように弾んでいた。
●
そも服の概念そのものが曖昧である。
支度がないから泳がぬ――なぞと、我慢や辛抱をよしとせぬ身には勿体ない話だ。さりとて動きにくい格好を維持する必要もない。パラソル下のチェアを一つ拝借し、丁寧に畳んだ昏い背広のジャケットだけを置いて、オーキードーキー・アーティーチョーク(Spaghetti Monster!!!・h02152)は服のまま沖へと足を進めた。
三メートルにも及ぶ長躯が海に揺蕩うには常人よりも水深のある場を目指す必要がある。故にオーキードーキーの足が積み上がった砂を離れるのは、随分と水面の藍色が濃くなった折だった。
小魚の群れが闖入者を避けるように散開する。銀の鱗を追い掛けて遊ぶイルカの群れの向こうに、悠々と海面に浮上していく灰黒の海獣が見えた。
鯨だ。20Hzの声を伴う巨大な体は、オーキードーキーの身と比してさえ遥か大きい。その穏やかな眸が怪異を一瞥するのを、生み出されるうねりにも負けぬ声が笑った。
「鯨ですかッッッ!!! 大きな生き物は我輩好ましくッッッ!!!」
――然れども、ここには鯨も比べ物にならぬ生物がいる。
鳴動を伴い海の底から上がって来るのは、ウミヘビのような長躯を持つ竜だった。深海に適応した深い青の鱗が月光に煌めく。透明なヴェールに似た鰭は光を七色に反射し、長く白い角が水を割る。
「ンフフフ、なんたる威容ッッッ!!!」
オーキードーキーでさえもほんの小さな生物としか見とめぬであろう眼差しが、その声を聞き遂げたかどうか。
水中を気儘に泳ぐ、嘗てどこかの主であったのかもしれない幻影の残滓は、大きな鰭を何気なく振って海流を巻き上げた。その奔流に呑まれぬよう身を翻した怪異の脳裡には、先達が一つ浮かんでいる。
「さながらネス湖の怪物みたいですねェッッッ!!!」
現代にあってルーツが明瞭なのはスレンダーマンも同様だ。特別動きを速めるでもない海竜は、少なくとも世界を違える同胞との暫しの同道を許したようである。
波に任せて揺蕩うまま、ない眼が月光を見上げた。煌々と光るロアの雛――明日の朝には消えてしまうのだろう月を見遣り、再び大きく声を上げる。
「穏やかな竜は我が友にも居りましてね――彼がここに来たならば、きっとあなたと仲良くできたでしょうねェッッッ!!!」
その真なる姿を目にしたことはない。しかし身の大きさはさして変わるまい。抱いた親近感めいた感情は|同胞《ロア》の雛の一部であるからというだけでもないだろう。
ロアも竜も変わらず、今の彼にとっては己が領分に近しい存在だ。だから。
「ともに泳ごうではありませんか、海の竜よ」
返事はなかった。代わりに瞼のない眸が笑う怪異を見て、静かに大きな鰭を揺らした。
●
祭りの熱狂が遠ざかれば、空気は途端に静謐を取り戻した。
祭事の余燼を海風が攫っていく。火照る頬をさやかな潮風に晒し、真白の髪を空へ泳がせたララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)の足は、無窮の砂浜の上に一歩を踏み出した。
その横で藍色の海を見遣った神代・ちよ(Aster Garden・h05126)が瞬く。月光に照らされる白い波間が揺れている。
「……お祭りを離れると、この辺りは静かですね」
ダンジョンの内部に足を踏み入れたということもあるだろうが、潮騒の他にはモンスターの唸り声も聞こえない。時折遠くで海獣たちが水面を打つ大きな音がするばかりだ。
規則的な波音に耳を傾けるちよたちの後方より一歩下がって、継歌・うつろ(継ぎ接ぎの言の葉・h07609)の弾んだ声が小さく笑う。
「おまつり、楽しかったね」
「うむ。童心に戻り祭りを楽しむというのもよいものだ」
応じる神花・天藍(徒恋・h07001)にとっても、斯様に賑やかな祭りは初めての経験だった。明白な満足の色を刷く彼の返事を受けて、うつろが思い出すのは前を往く少女の清々しいほどの食事量だった。
僅かに水を含んだ砂地に独特の感触を味わうララは彼女の声に振り返る。
「ララさんの食べっぷり、って言うかな? すごかったよ、たくさん食べるコツ、あるの……?」
「私の? そうね………貪欲に食を楽しむことかしら?」
「どんよく……」
さすれば必ずや食事量も多くなることだろう。つろもすぐにたくさん食べられるようになるわ――と添えれば、線の細い少女が嬉しげに頷いた。
閑話休題――。
海の定番といえば遊泳だろう。幸いにして穏やかな波と浅い砂地は遠くまで続いているようだし、未だ背の低い四人であってもそうそう溺れることはないとみえた。
しかし水着の用意はして来ていない。きっと他の三人も同様だろうと手荷物に視線を巡らせたちよが、柔らかな声で問い掛ける。
「よかったらお散歩しませんか? とくに水着も持ってきていないので」
「さんせい」
「そうね。海の楽しみ方はいろいろあるわ」
「うむ。では、そのように」
うつろには|みずぎ《・・・》なるものが何なのかすら分からなかったが、翻せば分からぬということは手にしたことがないのだ。ララも天藍も否やはなく、四人は砂浜に並んで足跡を残すことに決めた。
浜から沖を眺めているだけでも飽きないものだ。他の誰かと触れ合っているのか、くるくるとその場を回っている海獣の背鰭が見える。鯨が高く潮を上げるのを見守る足許をふと擽ったものがあって、うつろの眼差しが砂浜を捉える。
小さな蟹の後をヤドカリがついて行く。しゃがみ込む彼女の視線も知らぬげに、行き先が同じなのか、たまさか同道しているだけなのか、別種の甲殻類たちが砂浜を歩いていた。
「カニさん、ヤドカリさん、とことこ? とてとて? うごいてるね」
「本当ですね」
隣へ身を寄せたちよの脳裡に、ふと取り留めのない疑問が過ぎった。
蟹は食べるという。実際に見たこともある。しかし――。
「ヤドカリさんって、そういえば食べられるのでしょうか……?」
「……食べられるの、かなあ?」
「カニもヤドカリも焼いたらいけそう」
真剣に考え込むちよと、彼女と顔を見合わせて首を傾いだうつろの横合いから、ララが真剣な表情で砂浜を見下ろした。あれほど食べて未だ余力を残す胃袋からすれば、充分食用とみて良い範疇だ。
懸命に歩く小さな生き物がそれを聞いていたわけではなかろう。しかし僅かに歩みを早めたそれらを上から覗き込み、天藍が言葉を添えた。
「イソガニやヤドカリは食用出来るが可食部が少ないのが難点だな」
「おじいさま、ご存知なんですか?」
「うむ。素揚げにしても茹でても中々美味だ」
――数えるのも馬鹿げるほどの昔、未だ彼が人間であった頃は、未だ人間は野生動物と隣り合わせの生活をしていた。
飢饉なぞという言葉が生まれたのも、天藍の認識にしてみればごく最近のことだ。人々は常に飢えていて、懸命に明日の糧を得ようと奔走していた。長らく時を過ごしたところで幼い頃に刷り込まれた性分が変わるわけではなく、今もこうして生物を見ればまず食べることを考えてしまうことがある。
天藍に言わせれば甲殻類は|外れ《・・》が少ない。しかし固い殻を剥く手間もかかるし、噛み砕いた破片で口中を傷付ける危険性もある。捕らえるときにも反撃されることがあるし――。
海の付近で獲れるものであれば、動きが鈍く反撃もされず味も良いものが他にある。
「だがそれよりは貝の方がよいのではないだろうか。醤油を垂らして焼いても味噌汁の中に入れてもよい」
「美味しそう……」
思わずララの唇から零れるのは言葉だけだ。唾は呑み込んだ。アネモネの双眸が瞬いて、じっと足許の無防備な甲殻類たちを見る。
他方のちよはといえば、その調理法を目の前で生きている命と重ね合わせて想起した。確かに天藍の言う通り、食べてみれば舌鼓を打つのだろう。だが。
「うーん、でも食べちゃ可哀想かもしれませんね」
率直な感想にララがころころと笑った。軽やかに立ち上がる聖女の足取りに未練はない。競争でもするかのように歩いていく蟹とヤドカリと、彼女を見上げるちよとうつろの眼差しをおかしげに見下ろして、彼女は頷いた。
「そうね。今は満腹だから見逃してあげる」
それから暫く、四人は少しだけ波打ち際に近寄って歩いた。
穏やかな波は大きくなる様子がない。足先を浸す冷えた海水の感覚が砂を引っ張り、足裏を擽る。
近くなった海の方を見れば、澄んだ水面の奥に気儘に泳ぐ幽かな魚影が透ける。深い藍色の方へと消えていくそれに目を細めて、ちよは声を零した。
「こうしてみていると、吸い込まれそうになりますね」
今しがた消えていった影はどこに行くのだろう。海竜の幻影さえも映し出すという深い海の底には、どんな景色が広がっているのだろう。極彩色の生物たちが地上のように繁栄しているのだろうか。
海底に広がる見得ぬ世界に思いを馳せて、彼女はゆっくりと身を起こす。
「覗いてみたくもありますが、泳げないと難しいのでしょうね、やはり」
言葉を聞き遂げて瞬いたのはララだ。あどけない雛女は心底意外そうな顔で首を傾げる。
「泳げないの?」
「そ、そうなのです、ちよは泳げないのですよ……習ってこなかったので……」
出自からして水泳に親しめる環境ではなかった。そも世界の色彩に触れたのがごく近年のことだ。小さくなってしまったちよと、彼女をじっと見つめるララの声に瞬くのはうつろである。
「およぐ?」
――もぐるのではなく、およぐ。
「そっか、そうだよね。前に天藍さんと、もぐった時は、まほうのおかげで、いしき、してなかったけれど……ふつうは……息、出来ないよね」
ぱたぱたと長い睫毛を動かし、思案するように俯いたうつろが訥々と声を紡ぐ。
ララの眸が砂浜の方に離れて立つ天藍の方を見遣った。今しがた名が出されたということは、つまり彼も――。
「まさか天藍も?」
「我は泳げないわけではない。人であった頃は湖などに潜って魚を獲っておった」
返答は素早く、言葉尻には勢いがあった。彼はこの中では――というより大抵の生物より年嵩だ。まさか泳げぬなどと思われては沽券に関わる。
嘗ては必要に迫られてといえども水の中を泳ぎ回ったこともあった。しかし今となっては容易に触れることも出来ない。
見遣った先には生命の息吹が渦巻く海がある。このダンジョンの、幻影だという魚たちは死にはすまいが、少なくとも水温変化を察知しはするだろう。
「だが、今の我が纏うのは冬の冷気――急激に水温が変化してしまえば魚を無駄に驚かせてしまうゆえ泳がないだけだ」
「なるほどね……」
「して、ララよ。斯様に言うからにはお主は泳げるのか?」
「もちろん。ララは人魚に泳ぎ方を教わって泳げる迦楼羅になったのよ」
「す、すごい……」
胸を張った迦楼羅の雛女は、なお自慢げに背の翼を動かした。零れ落ちる桜焔の光が砂浜をきらきらと照らす。控えめな拍手に応じるように、アネモネの双眸を揺らぐ海面に映した聖女が目を細める。
「海の世界は、はてない宙のようで綺麗よ」
たとえばそれは金平糖のように輝く小さな魚たち。
珊瑚礁に隠れる彼らの横を大きなシャチやイルカが通って、生まれた海流に隊列を乱すのは鰯の大群だ。その銀の鱗の美味しそうなことと来たらない。
それを――皆で見てみたいと思う気持ちの出所は、未だララにはうまく掴めないけれど。
「泳げるようになって皆で遊びに行きましょう。もちろん、ララも特訓につきあうわ」
聖女の語り口を聞き遂げながら、泳ぎを知らぬうつろとちよが視線を交錯させた。大きく頷いたのはちよが先で、高らかな宣誓が浜辺に満ちる。
「……よし、この夏の目標は、『泳げるようになる』にするのです!」
「わたしも、およげるようになるの、がんばる」
「応援するぞ。もしお前達が泳ぐのであれば我は見守っておこう」
振り返ったうつろが瞬く。難しいことはよく分からぬが、少なくとも天藍がのっぴきならない事情で水に触れられぬことは理解していた。
だから――けれど。
「天藍さんも、いっしょに海の中が見られるように……わたし、いつか海の中で写真、とりたいな」
「うむ。叶えばな」
以前にうつろと共に魔法をかけられて水中へ潜ったように、再び機が無いとも限らない。
いらえる天藍の唇には、彼の心持ちよりも存外、楽しげな笑みが浮かんでいた。
●
月光に照らされる波間は穏やかだ。
規則的な潮騒のお陰もあってか、時間の流れが緩やかなようにさえ思う。地上の静謐と裏腹に、海の底にはさぞ賑やかな海生生物の世界が広がっているのだろうが――。
「泳ぎに行ってもいいけど酒呑んでるし、いくら芥でも危ないかも?」
「そんなヤワじゃねーけど」
雨夜・氷月(壊月・h00493)のじゃれるような揶揄いに、応じる夜鷹・芥(stray・h00864)の言葉はあながち強がりというわけでもない。しかし蟒蛇同士の呑み比べが思った以上に盛り上がったこともあってか、足許は幾分ふわふわと覚束ない。
――お前と酔い覚ましに長閑に過ごす時間ってのも良いか。
と、思ったのが酒精の名残ゆえかは分からぬが、事実二人で連れ立つ砂浜は悪くない。漣に耳を傾けていた芥の耳に、ふと氷月の声が深く響いた。
「そういえば、アンタって何で狐面してるの? 飲み食いしてるときは外してるけど」
我知らず己が口許に触れた。顔の下半分だけを覆う面の硬質な感触が指に伝わる。
答える義理はない。そのはずだった。しかし酒の名残がそうさせるか、或いは腹を割って話そうと戯れ半分に交わした言葉が過ぎったせいか、芥は素直に口を開いた。
「……元々俺は汚れ仕事専門だったんで、素顔隠すのが癖になっちまっただけだよ。其れ以外でも……何かと都合が好いし」
発された単語のどれもが氷月の興味を惹いた。つつけば数多出て来るものはあるだろうが、腹を割りすぎて臓腑を掻き回しても面白くない。
今日のところは、彼にも共感を示せる部分をなぞるに留めることにする。
「そうなんだ、へえ! まあ確かに、姿を知られない方が都合が良いコトもあるよね」
「犯罪者らしいな、テロリストさん」
「ならアンタは警察らしくないね、カミガリさん」
意地の悪い笑みを返せば、僅かに芥の双眸が細められた。幽かな笑みの気配が海風に融ける。
「狐は化けるのが上手いから、お前も俺に実は化かされているかもな」
「んっふふ、存分に化かしてくれてドーゾ」
然れどもそう言われてしまえば仮面の下が気になるのも享楽主義の性だ。そして氷月は興味の矛先に我慢出来るほど行儀の良い男ではない。
芥が彼を化かそうというなら、相手が悪かったという他ないだろう。
「もしそうなら――覚悟してね?」
「くく、そりゃお手柔らかに」
挑むような月色の双眸に喉奥で笑う。芥の足許を水の気配が攫っていった。
それでふと、気付けば耳馴染んでいた呼称に意識が向いた。
「ところで、氷月」
「うん?」
「少し気になってたが――名前で呼ぶようになったよな、俺のこと」
冗談めかして出会った当時のような呼び名を使うこともある。しかし孕む色は親しげに、気付けば名で呼び合うようにさえなっている。
問われた氷月は蟹の移動を邪魔して遊んでいた足から視線を持ち上げた。自らと正反対の色彩に瞬いて、首を傾げる顔には心底不思議そうな表情が映った。
「嫌だった?」
「いや。何か魂胆が……?」
――などと冗談を言ったのは、小さく笑みの形を描く語尾で分かることだったかもしれないが。
「嫌では無ぇよ」
小さく、しかと返った言葉を受け取って、氷月の眼差しが弧を描いた。僅かに浮かんだ色が何だったかを互いが理解するより前に、彼の表情はいつも通りの悪戯な笑みへと移ろっていた。
波打ち際に近寄りながら声を転がした。障害物が消えた蟹が懸命に進んでいくのを置いて、月光の色をした眼差しは横目に芥を見る。
「こっちの方がしっくり来るかなって。深い意味はないよ、多分ね!」
「多分って何だよ」
言いながらその足の向く方へと歩みを進めるのも、気付けば芥の身に染み着きつつある。軽やかな男の足取りを追って静かに辿り着いた波打ち際に、ふと鳴動が響いた。
同時に顔を上げてみれば、巨大な影が浮上して来るのが見える。些か沖合いではあるものの、決して届かぬ位置ではなさそうだ。
「……ん、なんかこっち来てない?」
「もしかして噂の海竜か?」
長大な影が悠々とくねっている。大きな鰭が海上にひらめく。ヴェールのように月光を反射して光るそれに興味を惹かれたのは、むろん氷月が先だ。
「見に行こうよ、芥」
「モチロンだ」
「んっふふ、イイ返事」
芥とて未知の存在には興味がある。それがここでしか見られないなら、尚のこと。
潮騒の香りを孕んだ海風のお陰で酔いも随分と醒めて来た。少しくらい深いところに身を投じても心配はないと確信して、男は今にも駆け出す銀色を見遣る。
「巻き込まれて溺れんなよ」
「んは! もしそうなったらアンタも道連れ」
「えぇ……」
まるで引き摺り込むかのようなジェスチャーに目を眇めた。他者であれば冗談だと笑って応じてやっても良かったが、眼前の元テロリストについては話が別だ。本当にやりかねない。
額に手を遣りながら零す声は、しかし小さく笑みの気配を孕んだ。
「お前と海の藻屑は勘弁してくれ」
「だーめ、逃がさないよ!」
笑う氷月の双眸に、月光の色がしかと煌めいた。
●
ざぱん、と、どこかの岸壁に波が当たって砕ける音がした。
「うーみーだーひろいーぞー、大きいぞー!!」
幾分うろ覚えの歌詞を水平線に叫んで、待ちかねた海を前に両腕を広げた透羽・花羅(天翔ける唐紅・h00280)が笑う。
遠く聞こえる潮騒から返事はない。しかし発した声はなんとなくしっくり来ない。思わず首を傾げる。
「――あれ? 違ったっけ? まいっか!」
そんな思索なぞそれこそ海に放り投げておこう。何せ彼女には使命がある。見る限り自然の驚異をほとんど感じさせない穏やかな海に来たからには、花羅は何でも出来るのだ。
むろん泳いでも良い。どうやら遠くは深くなっているようだから潜水も出来そうだ。潮溜まりを観察するのだって立派な海遊び、海獣たちと戯れるのも楽しそうである。
さてはて何をしたものか――無限大の選択肢を前に頭を悩ませていた彼女は、ふと満面の笑みで顔を上げた。
付き添う二つの羽音が弱まった。双子烏の思った通り、続く宣言は堂々たる声音で砂浜に響く。
「海の中を、走りたい!!」
沈黙。
「……あっ、ちょ、|白日《ハクヒ》、|夕日《ユウヒ》、待っ、いたた!?」
鋭い嘴は突拍子のなさすぎる提案に容赦をしない。軽い攻撃とはいえど襲いかかる羽と硬い嘴に悲鳴を上げる彼女は、やはり同じような調子で必死の弁解を叫んだ。
「これも鍛錬の内だから―!」
――かくして何とか折れてくれた白日を足に纏って、花羅は海中へ身を投じた。
憑依した足が仄かな光を放って、幽かな月光では照らしきれない海を照らしてくれる。極彩色の美しい珊瑚がゆらゆらと揺れ、見え隠れする同じ色の熱帯魚が興味深げに花羅を見た。上を見れば海獣たちが気儘に身を翻し、銀色の小魚の群れが光を反射した。
思った通りに走りにくい。当初の目的は果たせそうにないが、この風景を走って置き去りにしてしまうのも勿体なく思えた。
上機嫌に海中を見渡す花羅の横を、のんびりとウミガメが泳いでいく。その動きが急に向きを変えたのに首を傾いだ彼女の目に、ふいに巨大な影が映った。
みるみるうちに近付いてくる長躯が激しい海流を伴っていることに気付いた。青く大きな鱗をたずさえ、ヴェールめいた鰭を翻す海竜が、瞼のない眸で花羅を見る。
「わ――」
小さな泡を掻き消す白い角がゆるやかに身を翻した。まるでついて来いとでもいうような動きに、瞬いていた彼女の唇が笑みを刷く。
――追っかけてみよう!
水の抵抗に阻まれながら、白い燐光を孕む足で海を走り出す。美しい尾鰭が揺れるさまが海の奥へと消えて、追いかけることも叶わぬほどに引き離されるまで、賑やかな色を照らし出す少女の小さな冒険は続く。
●
人の身へと命を引き継いでからというもの、この潮騒の温度に殊に惹かれるようになった。
大きく伸びをしたケヴィン・ランツ・アブレイズ(|“総て碧”の《アルグレーン》・h00283)の赤髪を、海の香りを帯びた潮風が攫う。月に照らされた静謐な夜の海――穏やかな波濤の音も、遠くに見える海獣の群れも、彼にとってはより好ましく感ぜられた。
歴史に曰く、生命はなべて海から来たという。
ならば海とは母なるものだ。それは嘗て空と陸の、或いは海の王者であった竜にとっても変わりはしない。生命の息吹の原点――静謐なる藍色の中に揺蕩うそれをまざまざと感じながら、ケヴィンはともあれ波打ち際に近付いた。
海とあればまずは遊泳を考えるものである。海を好むといえども海中に身を投ずる経験はそう多くなく、泳ぎ方そのものは目下練習中だ。しかしたゆまぬ鍛錬のお陰か得た体力には自信がある。穏やかな流れの中であればどうあれ戻って来られるだろうと確信して、彼はまず潜水を試みた。
海面のヴェールに阻まれていた水中の世界は、彼がその薄膜を破ると同時に一気に視界を彩る。極彩色の珊瑚の中を泳ぎ回る熱帯魚も、月光に銀色の鱗を晒す小魚の群れも――その間を無遠慮に通り抜け、見たことのないケヴィンを興味深げに見詰める海獣たちも。
イルカのうちの一頭が近寄って来たのを皮切りに、あれよあれよとシャチや子供の鯨に囲まれた男は、ひんやりとした皮膚を撫でてやりながら更なる海中へ目を遣った。
深い青の奥から鳴動が聞こえて来る。その音を聞き遂げてか、或いは人間の身には聞き取れぬ音域の傾国があったのか、海獣たちは海の王者の道を開けるべく散っていく。
その背を見送って――。
ケヴィンは音のする方向へ更に潜っていく。徐々に近づいて来る音の正体が何なのかは目にせずとも分かっているが、その姿を一度目にしたいと思うのは当然のことだろう。
やがて競り上がって来たウミヘビじみた巨体が、海竜を伴ってケヴィンの眼前に現れた。白い角の下、瞼のない眸が小さな姿になった同胞を見遣り、鰭を翻して挨拶の代わりにする。
嘗てのケヴィンが海を領地としていたわけではない。
しかし斯様にして同胞の姿を目にする機は、現代にあっては殆どなかった。故あって人の姿へと成った者たちではなく、真実この世界を支配していた、強大な竜の威容――。
感慨深げに目を細め、ケヴィンは穏やかに過ぎ去る同胞を見送った。煌めく鰭が七色に光を反射して海面を目指し、遠く霞んで消えていく。
胸を擽るのは旧懐に近しい感情か、或いは波の如く静謐な感動じみた思いか。ひとときの邂逅は彼の心に小さく火を灯した。
――たとえ、このダンジョンが生み出した影法師であっても。
●
聞き馴染みのある音と親しみのある景色の中に、人の形が一つ踏み入る。
波で湿った砂浜が独特の感触で靴裏に纏わり付くのも、規則的な波濤の音が耳を打つのも、伊沙奈・空音(Ner-E-iD・h06656)にとってはよくよく覚えのある感覚だ。
――すごいなぁ、一面夜の海って感じ。
世界を違えど海の美しさは変わらないようである。馴染みある√汎神解剖機関の海は気象によって様相を変えるが、目下安定しているダンジョン内の構造は、静かな潮風と穏やかな海面から変化していない。
どちらにせよ。
――綺麗で嬉しくなっちゃうね。
マスクに阻まれる歓声は空気を揺らさぬが、代わりに感情を如実に映すのは双眸だ。深海を思わせる青い眸が頻りに砂浜と水平線を見渡し、新しい仲間を視界に入れるたび、月光を反射する水面のように煌めく。
――ここにいる生き物皆、前にも来た冒険者たちの願い事のかたちをしているんだね。
裏を返せば生きてはいないということだ。誰かの願いを投影して生まれた彼らは、きっと空音の声を聞いても驚いて逃げてしまうようなことはないだろう。
しかし――。
彼もまた海の生物であった。異種なる同胞と交遊を深めるためには、声よりももっと効率的で、深く分かり合う方法がある。
海の方に目をやれば、20Hzの同族たちがちょうど波間を掻き分けているのが見えた。吸い込んだ塩水を高く吹き上げた彼らによく見えるよう、波打ち際に立った空音が大きく手を振る。
果たして青い二足の同胞を見遂げた子供が親の腹をつつくような仕草をした。巨大な体躯には小さくも感じられる眸がゆるゆると青年の方を捉えたから、彼は自身と鯨たちとを交互に指差したのち、その指先を海面に向ける。
どうやら意図は伝わったらしい。群れはゆっくりと波打ち際に近付いて来た。空音もまたその真意を理解して、より深い海中へと足を進める。
冷えた海水の感覚が生ぬるい風と相まって心地良い。昼の熱気の余韻を残す体が、彼のよく知る温度にほどけていくようだ。
人の体が立てたのは、鯨たちと比べればほんの小さな水音だった。二つの足で水中を蹴り、二本の腕で海中を掻く。およそ水泳に向いていないつくりの肉体で、しかし空音は鯨たちといっときの同道を始めた。
子供たちが周囲を回っている。時折身を寄せてくるから撫でてやれば、人の体温にしてみればひやりとした感覚の皮膚が掌に伝わった。親たちもまた彼をひととき群れの一員と認めたように、動きに合わせて慎重に巨体をくねらせている。
――うれしいなぁ。
52Hzは届かず、20Hzは聞こえない。されど願いから生まれた群れと孤独な鯨は、穏やかな海の合間を揺蕩いながら、離れることなく戯れていた。
●
海とあれば、むろん、やることは一つだ。
準備運動は十全に終えている。潮風に湿る砂浜の、独特の感覚を踏みしめながら、ツェツィーリエ・モーリ(視えぬ淵の者・h00680)の二色の双眸はじっと藍色の水平線に注がれていた。
話によれば、あの海の遥か奥より、海竜が現れるのだという。
竜というものに親しまぬ出自ではない。しかし彼女の最もよく知る竜は泳ぐことが出来ないから、こうして共に海中遊泳が出来る――というのはまたとない機会だ。
とはいえ。
持参したのは水練のために使う質素なものである。このところ目覚めたばかりのファッションへの欲求は、未だ水着にまで届いていない。今夏中には手に入れるはずのそれをお披露目するのは後として、今日のところは日頃の修練に利用しているもので容赦してもらおう。
見せたい相手がいるわけでなし、裏を返せば誰に憚ることもなし。
「今日はご一緒するのが海の皆様だけでございますからね」
波打ち際にしゃがみ込んで覗く海の中には、色とりどりの珊瑚の群れやウミウシが煌めく。遠く目を遣れば海獣たちが気儘に泳ぎ回るのが見えた。海より時折響く鳴動こそが、ツェツィーリエの目的である海竜であろう。
水中へ身を投じる。同時に体を包み込む冷えた感触が心地良い。海流と音を追って泳ぐ彼女の髪を、ふいにいっとう強い潮流が攫った。
隙なく身を翻した先で――。
月光を七色に反射するヴェールのような鱗が揺れた。ツェツィーリエを一瞥する瞼のない巨大な眸は、小さな二足の生物を弾いてしまわぬようにしたか、僅かに身をくねらせて海中を泳ぎ出す。
まさしく想像通りの雄大な姿は、しかしそれゆえに容易に人の身を翻弄せしめる。何気ない動きで生まれる激しい水流に呑まれぬよう距離を取り、彼女の二色の双眸はじっと深い青色の鱗を見詰めていた。
思わず感嘆の溜息が口を衝きそうになるほどの流麗な姿だった。二本の白い角が水を裂く感触はいかなるものであろうか。幾分か離れても全容を視界内に収めることの出来ない巨体が、まさしく海の支配者の如き振る舞いで水を掻く。そのたび翻り複雑な色彩を孕む鰭を記録しておきたいと願えども、海中に住まう一夜の幻想を記録媒体に留めておくことは不可能であろう。
だから。
――せめて、しっかりと目に焼き付けてまいりましょう。
今日この日の出会いを二色の双眸に映し、いつでも声に載せられるように。持って帰るのは硝子で出来た小さな御守りだけでなく、今日の思い出そのものであるからだ。
思い出話を夜通し語らうとき、きっとツェツィーリエの脳裡で鮮明に輝くのであろう青い鱗とヴェールに似た鰭が、月光の中を悠々と泳いでいた。
●
規則的に打ち寄せる波が砂を攫うのを、何をするでもなく見詰めていた。
藍色の水平線を見ても、潮騒の音を聞いても、史記守・陽(黎明・h04400)の心にやりたいことは思い浮かばない。それゆえ彼はパラソルの下に用意されていたベンチの一角を借りて、どこかぼんやりとした心地で深い海を見るともなしに見ていた。
その横に立つ影を見上げれば、橙色の髪と蒼穹に似た眸がこちらを見ているのが映る。
「モコさんは何かしたいことないんですか? 俺に構わず遊んできていいんですよ」
率直な問い掛けだった。他意のないそれに僅かに瞠目したモコ・ブラウン(化けモグラ・h00344)がにやりと笑った。
夏の陽光と比べて穏やかな月光の下ではサングラスは必要ない。胸元に戻したそれが砂浜に落ちぬよう気を付けて、彼女の足は軽やかに一歩を前に出る。
「何言ってるのモグ? こんないいビーチで遊ばないなんてそんな手はないモグよ!」
「それなら――」
俺は大丈夫ですから、と。
いつもの口癖が口を衝く前に、柔らかな両手が陽の手を握る。
「ほらシキくんも! 一人で遊ぶにゃもったいなさすぎるモグ!」
なすすべなく立ち上がらされてしまった。触れてみれば自分のそれよりずっと小さく柔らかく感じる掌を振り払うことも出来ず、モコに手を引かれるまま、陽の足は波打ち際を踏んだ。
足を浸すような格好になる。はしゃいで波に指を浸すモコの橙の髪が月光に揺れた。彼女の姿を見詰めながら、青年は静かに足許の冷えた水の感触に視線を落とす。
――まるで子どもの頃みたいだ。
幼い頃の陽にとって、初めて見る海は雄大さよりも恐ろしさを強く湛えていた。打ち寄せる波が怖くて、深い藍色の海面に近寄ることも出来なかった彼は、穏やかに笑う父の大きな掌に促され、しかとその手を繋いだまま浅瀬に足を浸したのだった。
まだほんの幼子だった頃の――。
否。
今も変わりはないか。
モコが手を引いてくれなければ波打ち際に足を浸すことすらなかったように、目の前に広がる世界の全てに圧倒されて一歩を踏み出すことが出来ない。初めて見る波濤の心地良い温度より、その波に足を攫われることを想起する。
――臆病なのは、変わっていないのかもしれませんね。
だというのに、目の前の橙色が月光に揺らめく景色には、無意識に足を踏み出していた。
近寄る陽の気配に気付くことなく、モコの方は一度大きく伸びをした。すっかりと夏の陽光の余燼を冷まされた指先から、残った海水が高く舞う。
こうして幻想的なビーチで遊んでいるのも良いものだ。波打ち際であってもそれなりに生き物は寄って来ているもので、動きの鈍いウミウシや、そもそも動いているのかも分からぬヒトデが指先に触れる感覚は面白い。海風が頬を冷ましてくれるお陰か、水を巻き上げていても汗一つかきそうにない。
しかし――。
目を遣った先の水平線は果てしない。無窮の大海原に身を浸すことが出来るような装いではないから、今は砂の感覚を味わいながら浅瀬で遊んでいるばかりだが、こうなって来ると遊泳が名残惜しい。俄かに増した準備不足の感に、モコの唇は思わず独り言ちた。
「水着でも持ってくれば良かったモグね……」
そうすれば海の底だろうが海面だろうが気儘に泳いでいられただろうに。ちょうど、遠くに戯れる海獣の群れのように――。
そこでモコは思い付いた。
元より彼女は人型ではない。こうして人の形を保っているのは化術を会得したからである。ならば今は拘ることはない。あの海獣たちを真似て、背に陽を載せて海面を跳ねれば、きっと楽しいに違いない。
「あ、そーだ。モグが変化の術でイルカに変身して……」
さも良いことを思い付いたとばかりに表情を煌めかせて、振り返るモコの目の前に。
――大きく伸びた背が影を掛けている。
「わっ!?」
「モグっ!?」
ぼんやりとした足取りは僅かな地形の変化に気付けなかった。絶えず変化する波打ち際の小さな穴か、或いは段差か、兎に角足を絡め取るような地形に見事に爪先を引っ掛けて、陽は前のめりにバランスを崩して転倒した。
悪いことに眼前に迫っていたモコの体を巻き込んで、派手な水音が立った。互いに衝撃を予期して目を瞑っていた二人が次に瞼を上げたときには。
思うより目の前に、互いの顔がある。
「す、すみませんモコさん!」
押し倒すような格好になってしまったことにまで意識が回ったかどうか、自らのミスに相手を巻き込んでしまったことを悟って陽が反射的に退く。その動きが派手だったものだから、巻き上げた海水が比較的濡れていなかった彼の頭から降り注いだ。
果たして濡れ鼠になった陽が気まずげに目を逸らす。
「結局濡れちゃいましたね……」
「……ぷっ」
その顔がどこかしょんぼりとした犬を思わせて、モコが堪え切れずに息を零す。
「あはははっ! なんて格好モグ! 水に濡れたゴールデンレトリバーみたいになってるモグよ!」
濡れた衣服の不快感も忘れて笑い転げるモコの表情があまりに屈託ないものだから――。
陽も笑った。
――ま、いっか。
●
見渡す限り水平線は青く、裏を返せばそれ以外には何も見えない。
正しく無窮といって良い海の波打ち際に立ち、野分・時雨(初嵐・h00536)は揶揄うように笑った。
「わんちゃんざんね~ん。ご飯は無く、海が広がるばかりです」
「そうだなァ」
対する緇・カナト(hellhound・h02325)はさしたる反応を示さない。横合いからちょっかいを掛けて来る後輩の角を一瞥し、遠く広がる遠景を眺めている。
――あまりしつこく絡まれるようであれば考えなくてはなるまいが。
ともあれ海を前にテンションの上がっているらしい時雨は放っておいても構うまい。一瞥をくれるだけくれて、さして乗り気とも思えぬリアクションを返す。その仕草を受けた時雨の眸は覗き込むようにカナトを見る。
「ねえ、ホントに良いの? この前みたいな腥い海じゃないし、居るのもアヒルじゃなくて海竜だよ見たくない?」
「牛鬼クンは潜水遊びが好きなんだっけね」
元を糺せば海の妖怪である。自らの領分に近しい場所であれば、確かにさも楽しげであってもおかしくはない。他方のカナトは何でも良いというか――。
「オレは腥い海でも、またアヒルちゃん見るのも楽しみだけどなぁ」
「趣味最悪」
妙なところに飛ばされたときのことは未だ記憶に鮮明だ。魚のような臭気を孕んだ海の続く中に浮かぶ、何故だか自律してこちらに向かって来た巨大なアヒルには、時雨はもう出くわしたくはない。
だが海竜は見たい。
「ぼくは見たいから行ってきます」
「行ってらっしゃ~い」
手を振るカナトを置いて沖へ出る。海面の薄膜一枚を隔てれば、途端に曖昧に拡散する月光が鮮やかな青い世界を照らし出した。のんびりと泳ぐウミガメ、砂地に沿って顔を出す珊瑚と熱帯魚、銀色の小魚の群れを横暴に割って泳ぐ鮫――。
近付いて来た白黒の海獣が時雨を見とめた。興味ありげに、しかし遠巻きに彼を注視しながら、シャチの群れは気儘に海中をじゃれて回っていた。
――うわ、本物のシャチ初めて見たや。
それだけではない。楽しそうに鳴き交わすイルカの群れも付近で小さな海流を作り出しては遊んでいるし、鯨の黒灰色の巨体は月光を遮って、海中に大きな影をかける。
背が高いとはいえない時雨にとってみれば――否、たとえカナトがここにいても同じ感想を抱いたかもしれないが――非常に大きい。図鑑や写真でbほんやりと想起するものとは比べ物にならない質量だ。
海中を自在に踊るそれらは穏やかだ。時雨の存在に危害を加える気は微塵もないようだが、もしも捕食のために追って来られたらと想像すると恐ろしい。開かれる口の中にぎらつく鋭い牙まで見えてしまうのだから、美しさよりも追跡されたときの恐怖を感ずる。
時雨が海面を目指して浮上を始めた頃――。
カナトの方は奇しくも近しい位置にいた。長毛の狗に似た地這い獣の、しかし狗とは思えぬ多量の足や尾や口やそれらがくっついた体をフロート代わりにして、のんびりと遊泳を楽しんでいたのである。
「……うわメチャ揺れるな。そういうアトラクションでもありそう」
適度に疲れぬ程度の犬かきで海面を揺らいでみるものの、時折遠くから押し寄せる鳴動や海獣たちの立てる波が穏やかな海面を気儘に荒立てる。生きたフロートの動きも相まって、カナトは涼しい夏夜の海風の中、押し寄せる波濤に身を任せて揺蕩っていた。
「仔牛クンが来たら適当に追い払っておいてねェ」
などと言うが早いか、海面に影が浮上する。そちらに目を遣ったカナトの前に現れ、濡れた髪の下から早速声を上げた時雨が、海中を指差して煌めく声を上げた。
「海獣たくさんいた。すごいよ。わんちゃんなら一発で食われるレベル」
「そりゃ凄い」
カナトの方に潜るつもりはない。しかし時雨の方はかの海獣の群れの神秘的な|畏《こわ》さを再び見るためか、或いは目当ての海竜に今度こそ会うためか、今はのほほんとした顔をしている地這い獣に手を伸ばした。
「もっかい行こうかな。ぼくも楽々ちゃん乗りたい」
「オレはそろそろ波打ち際に戻っておくから、牛鬼クンは満喫していってね」
「じゃあお言葉に甘えて。ボケ飼い主は置いていきましょう! 楽々ちゃん!」
楽々ちゃん――と呼ばれた獣は複雑怪奇な肯定を返した。遊びに行きたいというのであればカナトにも否やはなかった。元よりここから波打ち際までの距離はそう遠いわけでもないから、一人で帰るにも充分だ。
かくして海中へと消えていった時雨と使役獣の姿を見送ったカナトの前に、すぐにも浮上してくる影が|三つ《・・》ある。
遊んで欲しいか構って欲しいか、前情報通りなら食餌のためではあるまいが、シャチがその後方を追っていた。それなりの巨体でありながら未だ子供らしいそれがきらきらと輝く水面を跳ね、逃げる時雨と地這い獣を楽しげに追い掛けるのを見遣りながら、カナトの実に他人事じみた応援が月下に響いた。
「ガンバレ〜」
●
祭りの熱に身を投ずる前に時間切れとなってしまったのは、大切で重要な選択の岐路に立たされていたからだ。
イルカか、ヒトデか――真剣に悩むエオストレ・イースター(|桜のソワレ《禍津神の仔》・h00475)の眼差しに付き合っていた咲樂・祝光(曙光・h07945)は、最終的に彼の手に渡った巨大なイルカを見遣り、実に現実的な問いを零した。
「みて〜! 祝光、僕のイースターイルカの大きい硝子細工! 可愛いでしょ!」
「その大きいイルカ持ち運べるの?」
「僕なら大丈夫! イースターエッグの中に入れて飾るんだ」
現実に干渉するのはエオストレの持つ権能である。そのほとんど全てがイースターに吸い取られて専ら桜と兎と卵の祝祭仕様に変わっていくが、ともあれ斯様に巨大なものさえ持ち運び可能に――ついでに何故だか兎の耳が生えて散る桜の模様が浮かび上がり卵のオブジェクトが追加されカラフルなペイントがされ、イルカなのかそういう現代アートなのか分からなくなったりするが――出来る。
他方の祝光の手の中にあるのは、硝子で出来た海鳥のブローチだ。月光を受けて煌めくそれは、夕陽の中に見たのと同じように美しく感ぜられる。
「俺は海鳥にした」
「祝光の鳥も可愛いね!」
君みたい――屈託なく笑うエオストレには悪意などありはしない。しかしその言葉に眉を跳ね上げた祝光は、自らの矜持に背くことなく不満を零した。
「……俺はこんな姿でも鳥じゃない、龍だ」
ともあれ硝子細工を見詰めているのは終わりだ。折角海へ来たならば、やりたいこともやれることも山ほどある。
「ほら、海いくよ」
「海!!」
ベンチから立ち上がった祝光に促され、エオストレの耳が一度ぴんと立ったのち、すぐに力を失ってしょんぼりと垂れ下がる。
ロップイヤーの如くなってしまった分かりやすい少年へ、祝光は殊更に訝しげな顔をしてやる。
「……なんだそんなしょぼくれて。泳げるんだろ?」
「お、泳げるけど?」
――嘘である。
水は未だ苦手だ。以前は見栄と意地を張って泳げるだなどと声高に宣言してしまったが、実際のエオストレは沖合に出ればものの見事に海の藻屑となるだろう。
「……浜辺歩くんじゃだめ?」
結局は早々に白旗を上げた少年に、祝光は首を横に振って息を吐いた。最初から分かっていたことだ。桜吹雪の舞う蒼天の如き目は、ずっと動揺していたのだ。
「はいはいいいよ。泳げないんでしょ? 俺が背負って泳いでいくよ」
「え! いいの!」
「海竜と泳いでみたいんだ。……君を浜辺に置いてくわけにもいかないしね」
「やったぁ! 行こう!」
かくして――。
翼で浮力を調整すれば、祝光は二人分の体重を十全に支えることが出来た。速度そのものを法外なものへと高めないのは安全性の観点と、背に乗っている上機嫌なエオストレが悲鳴を上げて海に落ちないためだ。
それでも自力では到底辿り着けぬ海上が楽しいか、少年は元気に兎の耳を動かしていた。その掌が持ち上がるたび、眸が瞬くたび、ガルーダが立てる白波が桜吹雪に変わっていく。
「ハッピーイースター!」
「お、おい。変なことするなよ、卯桜」
「しないよ! みんなイースターにしてあげるだけだから!」
「それを変なことって言うんだよ」
まあ。
あまりやりすぎなければ咎めることもなかろう。エオストレがイースターを振り撒いているのはいつものことである。
物珍しげに周囲を見渡していた少年が、はたと視線を結んだのは海面だ。見え隠れする三角の背鰭は、彼でも知っている、あの獰猛な――。
「ぎゃー! 祝光! 鮫だ!」
「え? ああ――あれはシャチの背鰭かな」
「シャチ? 平気なの?」
「この海なら鮫でも平気なんじゃなかったっけ」
祝光の言う通り、白黒の可愛らしい海のギャングが顔を出した。その向こうで小さな海獣たちが次々と飛び跳ねる。
「あ、イルカが跳ねたよ」
「わー! イルカだー! イースターになろうよー」
海竜は海底の方に住まっていると聞くが、はしゃぐ声を背負っては、祝光も潜水は出来ない。そんなことをすればエオストレがたちまち海の藻屑と散るだろう。
早速イースターを増やそうとしている彼に一度目を伏せた刹那、二人の耳に巨大な鳴動が迫る。
「あ!」
「あ、海竜!」
声を上げたのは同時だ。
徐々に迫り来る巨影が海面を割る。現れたのは水を纏う青い鱗と、瞼のない眸――巨大な白い角を月光に晒す、海の主だった。
「すごい!」
エオストレの歓声も波濤の轟音に呑み込まれそうなほどの距離だった。身構えていたお陰か転覆も免れて、その横を並んで泳ぐ。悠々とヴェールのような鰭を翻す雄大な姿を見詰め、嬉しげに目を細めた祝光の唇が、小さく声を紡いだ。
「俺もいつか、そんな龍に──」
声を聴き遂げたのは背中の少年だけ。返す言葉を聞いたのも――。
「僕にとっては祝光も立派な龍だけどな」
屈託のない眼差しが見詰める先の海竜と、背に自分を載せて泳いでくれる龍とを見詰める眼差しが同じ色をしているのを知るのも、月光だけ。
●
寄せては返す波の音が響いている。
砂浜に留まる湿った砂の、独特の感覚を踏みしめながら、廻里・りり(綴・h01760)の大きな双眸が海を見渡した。
大きな海獣たちが群れを成して泳いでいる。通常の海では見ることの出来ない混成群が波打ち際で遊んでいるのを見付けて、大きなチンチラの耳は嬉しげに揺れた。
「ベルちゃん! おっきい子たちが泳いでいますよ! ――っと、わわ!」
すっかりいつもの調子で振り返ろうとした小さな足が砂に絡んだ。今にも成すすべなく倒れようとしていた体を硬い腕が受け止めて、きゅっと瞑った目をおそるおそる開ける少女に笑いかける。
「りり、りり。落ちないようにね」
「あ、ありがとうございます、ベルちゃん。砂のうえって歩きにくいですね……!」
ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)の美しい顔立ちに微笑まれ、ばつが悪そうに、しかし楽しげなりりが笑み返した。彼女が水に弱いことは承知の上だ。だからこそ砂浜の上を、波間を眺めながら散策することにしたのだから。
だが――視線を上げたベルナデッタも思わず目を細める。
「ワタシにも見えているわ。これも初めてよ。こんなに海獣と出会えるなんて」
通常、海獣の群れは家族単位だ。他の種族――それも捕食者と被捕食者の関係にある存在と混泳することなどあり得ない。このダンジョンの作り出した幻想ゆえに、互いに恐ろしい牙を向け合うこともなく、大小さまざまな海獣たちが無邪気にじゃれ合う姿が見られるのだ。
今度こそ落ちないように慎重に足を進める。せっかく集まっている彼らを驚かせてしまったら忍びない。りりのひたむきな決心に違わず、群れは彼女たちを気にすることなくはしゃいでいる。
その姿を見詰めながら、りりはこそこそとベルナデッタの耳に顔を寄せた。釘付けになっている眸は逸らさぬままだから、ビスクドールの小さく笑う表情には気付かない。
「いるかさんと……白黒の子がしゃちさんで……一番おっきいのはもしかして、くじらさんでしょうか?」
「そうみたいね。まだ子供のようだけど、それでもイルカさんやシャチさんよりはずっと大きいわ」
「わあ! はじめて見ました!」
ベルナデッタが遠く目を遣れば、親たちが付近にいるのが見えた。彼らの法外な巨体には、波打ち際はきっと浅すぎるのだろう。子供たちを見守るような視線を見遣っているうち、隣の少女が袖口を引く感覚がする。
――大きい子たちに触れようとすれば、りりは少し圧倒されすぎるので。
「ご機嫌よう、イルカさん」
「こんばんは、いるかさん!」
近寄っていった先にはイルカの集団がいる。挨拶を返すように口を開け、高音の声を上げたのが年長者なのだろう。二人に鳴き返すことは出来ないが、集まって来た数頭は同じように水中から声を上げていた。
「あら、ちょっとお口の中は怖いのね……? でも、綺麗な声。それに優しい目ね」
ベルナデッタが言えばりりが頷く。小さくとも立派な牙が並ぶ捕食者の口許は、穏やかな海の悪戯っ子のイメージからすると随分と恐ろしい構造だ。
しかし彼らは二人を噛んだりはしない。好奇心半分不安半分で前に出たチンチラの少女の耳が、絶えず潮騒の音に揺れている。
「あのあの、ちょこっとさわらせていただいてもいいですか……?」
おずおずとした問い掛けには、ひときわ高く声が戻った。
快諾の印だったのであろう。波打ち際に更に寄って来た一頭へ、りりが手を伸ばしている。そのさまを見詰めていたベルナデッタと、年嵩と思しきイルカの目がふと合った。
声が鳴る。今度は穏やかなものだった。
――あなたも、と言われた気がして、ビスクドールも手を伸ばす。触れた皮膚はゴムに似ていて、まるで空気をいっぱいに入れた浮き輪のようだ。
「わぁ……いるかさんって、思ったよりかたいんですね?」
「あら。ほんと。しっかりしているのね」
見目から柔らかな想像をしていたりりが瞬く。海の中にある危険に果敢に立ち向かい、時に窮地を逃れるために傷を残す肌だ。生物のそれは、きっとしなやかに強く出来ているのだろう――と、ベルナデッタは我知らず目を細めた。
存分に堪能して立ち上がった二人に合わせるように、イルカは静かに沖合の方へと身を翻す。
「ありがとうございました、いるかさん!」
「優しいあなた、ありがとう。硬い肌で触ってしまって、ごめんなさいね」
気にするな――とでも言いたげな鳴き声が戻った。気付けば海獣たちは既に波打ち際を出立するようだ。途端に立つ水飛沫からりりを庇うように前に出て、ベルナデッタは最良の祝福の言葉を送ることにした。
「この先であなた達の安寧を願うわ。どうか、穏やかな日々を」
「気をつけて泳いでくださいね!」
きっと夜の海は昏いから。大きく手を振り続けた影が淡く水平線に消えていくのをじっと見遂げて、りりはぽつりと声を零す。
「またお逢いできたらいいなぁ」
「ええ、そうね。また逢えたらいいわね」
――たとえ彼らが一夜の幻想と消えてしまうのだとしても、優しい心の祈りは、いつか実を結ぶだろうから。
●
可能か不可能かと問われれば可能だが、面倒ごとを一からやり遂げるような堅物の性分でもない。
波打ち際に係留されていた主なきボートを借りて、ライナス・ダンフィーズ(壊獣・h00723)は沖合いへ出た。迷いなく体を滑り込ませた海中の水圧が耳を塞ぐ。空気を抜いて幾分ましにしてやりながら、銀の髪は月光を置き去りに、海底へと身を投じた。
目当ては当然、この海の大物――海竜の幻影である。とはいえ王者は己の縄張りを周遊しているのだろうし、まさか停止している巨大なフィギュアを見たいわけでもない。特別急ぐような心持ちもないまま、ライナスは長閑な動きで海底を目指した。
徐々に月光が鎖されていくのが分かった。途中ですれ違ったマンタの下では餌を拝借するつもりらしいテッポウウオが縮こまっている。タツノオトシゴが珊瑚に絡まって揺れるのを一瞥したところで、男はふと昏い海の底から明るい水面へと顔を上げた。
息の続くかどうか程度は己で理解している。顔を出したところで深く乱れた息を吐いたのも一瞬、付近に揺蕩っていたボートに手をかける。
誰の忘れ物か知らないが、ドリンクホルダーがついていたのは僥倖だった。穏やかな波に中身をぶちまけることなく鎮座する缶コーヒーを手に取って暫し息を整えたら、濡れた体から滴る海水をボートの床に残し再び海中へと下っていく――幾度繰り返したか分からぬ頃になって、ライナスはようやく天頂に揺らぐ月光を見上げた。
海の広さに何かを思う方ではない。まして月光に己を映し、心の裡と向き合う――なぞと殊勝なことを言うような生き方もしていない。しかしただ静謐に照らされる波間に身を横たえ、その規則正しく穏やかな流れに身を任せてみるのは悪くない。
何もかもを己が意志で決めて歩いて来た男にとって、ただそこに在るだけの時間は得難い。孤独感や恐怖めいた感情よりも先に、漣の如き静けさが身に満ちた。
――やがて揺蕩う波の温度が変わる。
鳴動と共に潮流が変わるのを感じ取り、ライナスは身を翻した。どうやら海底の主は気紛れに海面に姿を現すことにしたらしい。
一番に現れたのは巨大な白い角であった。次いで水面を割る深い青の鱗が水を巻き上げ、月光を虹色に反射するヴェールのような鰭が波を作り出す。どれほどの長躯か、人間一人の視界には収まりきらぬほどの長大な身をウミヘビのように巧みに使う海竜の荒波がボートを押し流し、上手く海流に乗ったライナス一人を残して揺らめく。
さて――無事に顔を合わせられたのだ。
「少しばかり御同道願うぜ」
軽やかな声に返答はなかった。しかし竜の瞼のない眸は確かにライナスを捉え――。
彼を伴い、緩やかに身をくねらせた。
●
嘗ては飽きるほど目にした光景である。
しかしあの頃と違うことがあるとすれば、藍色の水平線を照らす月光の間に、九鬼・ガクト(死ノ戦神憑き・h01363)が己の意志で踏み込んでいることと――。
「海へは入っても大丈夫そうですよ、ガクト様」
一足先に波打ち際に立ち、万一にも脅威のないことを探っていた香柄・鳰(玉緒御前・h00313)が、彼を振り返っていることである。
潮騒は規則的に寄せては返す。穏やかな波音が視覚の代わりに鋭敏になった聴覚を擽った。時折聞こえるのは弱肉強食の野生の音ではなく、種に関係なく戯れるような音色だ。先に聞いていた通りの安全な海とみて良いだろう。
「きっと涼がとれるでしょうし、お入りになりませんか」
「んー? そうだね、入ってみるかい?」
――ガクトにとっての海は苛烈な戦の場であったが、延べられた従者の誘いを断る理由も見当たらない。
揃って足を付けた水は、陽の光がないせいか冷えている。祭りの余燼を払っていくような、輪郭も曖昧なそれをまじまじと見詰めた鳰の眼差しは、知らずぼやける水平線へと投げかけられた。
広い。何もかもを瓦礫に返された戦場の燎原よりも永劫に続いているように見える。
「これが全て塩水で出来ているとは……本当に不思議だこと」
「んー? 鳰は海は初めてかい?」
「ええ。√ウォーゾーンでは見た事がありませんでした」
零した声に問いを返したガクトの視線もまた彼女の焦点を結ばぬ双眸の先を追う。嘗てはその向こうに敵影を見据えたこともあったが、今は斯様なことをする必要もない。
しかし、見たことがないというなら奇妙な光景と映っても致し方ないだろう。おおよその世界の人間にとっては見慣れているというだけで、濃い塩の味がする水がこれほど遠大に続いている――とは、見たことのない者には理解しがたい観念である。
√ウォーゾーンにおいて移動は他の√のように気軽なものではない。内陸部に生まれた者は√能力者にでもならぬ限りは生きているうちに海風を知ることは出来ないし、潮騒を知る者が山を目にすることもないだろう。
「乾いた荒野が広がるばかりで、塩も水も貴重品でしたからね」
「あぁ、塩と水は貴重だね」
戦場において最も重要なものであり、同時に最も早く枯渇するものだ。少女の零す感慨深げな吐息に、男は小さく首肯を示した。
――ふと鳰の視線が泳ぐ。穏やかな会話の合間にも耳を欹てていた彼女は、生物の気配を鋭敏に感じて沖合から聞こえる小さな声に視線を投げかけた。焦点を結ばない双眸が煌めくのは、ガクトであればこそ理解出来たことだろう。
「ガクト様、イルカですよ」
「んー、イルカだね。とても可愛らしい」
遠くで跳ねる家族と思しき一団が、ガクトの目にはよく映っている。朧にしか見えぬ彼らをそれでも目で追って、鳰は楽しげに目を細めた。
「海原を音を用いて生きているのですよね」
鳰と同じようなものだ。しかし人間は陸上に生きる生物である。水に音の伝播を阻まれる海中でまでも聴覚を維持出来るわけではない。だから。
憧れていた。その存在を知ったときからずっと。
「まさか生きて本物にお目に掛かれるなんて感動です」
飽きもせずに一団を見詰める鳰の横顔をじっと見詰めて、ガクトはふと、その幼げな表情が歳相応の者であることを思い出した。
生まれたときから戦争に身を置く出自ゆえ、√ウォーゾーンに真の意味での|子供《・・》は少ない。およそ十代の雰囲気を感じさせぬ凛とした表情も、あらゆる物事に警戒を張り巡らせる性質も、自立した大人のような立ち居振る舞いも――裏を返せば彼女が子供らしく在れなかったことの証左だ。
その彼女が、これほど幼気にはしゃいでいる。ならばもう一つ提案をしてやりたくなるのも|性《しょう》というものだ。
「んー、鳰、沖に行ってみるかい?」
「え?」
「大丈夫、私がしっかりと手を繋いでいるから」
躊躇する間に延べられたガクトの手に狼狽えながら、しかし鳰の逡巡は別のところにあった。
「で、でも、宜しいので? 深い水中ではお守り出来ますかどうか――」
「んー、ここには危ない生き物もいないようだし、大丈夫でしょう」
暢気ともとれよう言葉だ。鳰としては到底許容出来ない。
だが顔を上げた先の海獣の一団が水を跳ねる音が気を惹いた。結局のところ、少女の好奇心の天秤が大人びた警戒に打ち克って、二人は沖合へと泳ぎ出す。
ガクトが導く鳰の姿を目ざとく見とめ、果たして人懐こいイルカたちはすぐにも寄って来た。ぐいぐいと体を押し付けながら甲高い声で囀る姿を確かめるよう、掌を滑らせた鳰が笑った。
「これが、イルカ――ふふ、可愛い」
「なるほど。つるりとしているんだね」
存分に戯れたのちに、手を振って別れたイルカの群れを横目に、ガクトの手は深い海底へと鳰を誘った。彼女がそれに抵抗することもない。
深度を増せば増すほどに水圧が鼓膜を覆った。陸上であればよく響くはずの音も水の中では奇妙にくぐもって、方向はおろか正体さえ判然としない。ぼやける視界を補うすべを失う従者の不安を拭い去るのは、主がしかと支えてくれる温度だけが頼りだ。
――ふいに鳴動が響く。顔を上げて警戒する鳰を宥めるように引き寄せ、生まれる海流から守るように抱き寄せたガクトの目には、巨大な青い鱗がくねるのが見えている。
真白の角で海を割り、ヴェールの如き薄い鱗の張った鰭で渦を作り出しながら、人の目には全容を捉えることすら叶わぬ長躯が小さな生き物たちを一瞥する。
瞼のない眸が見せた反応はそれだけだ。後は緩やかに身をくねらせて、ゆったりと大海原に泳ぎ出していくばかりである。
我知らずしかと回して引き寄せた主の腕を握り、鳰は半ば茫然と大海の主を見送っていた。
色が違う――ということは分かった。それが緩やかに動いていることも。海中の圧に邪魔される鼓膜でも、鳴動の主が眼前にあることは聞き取れている。
――もしやこれが、竜?
あまりの大きさゆえに海の構造物と見紛うほどのそれが、√ドラゴンファンタジーの海を嘗ては闊歩していたという。裏を返せば、海とは斯様にも巨大な生物を受け入れてなお余りあるものであるということだ。
その広さと深さを思い、鳰は眸へ驚愕ののちに嬉しげな煌めきを宿した。
彼女の頭を優しく叩いてやりながら、ガクトもまた海の主の威容に目を遣った。悠然と泳ぎ去るそれは成程巨大だ。嘗て鬼神であったときに出会ったとして、大きさには幾分驚愕したやもしれない。
鱗が月光を反射し、角が海を割るさまを美しいと思う者もいるだろう。それは理解出来る。
しかし――ガクトの眼差しは腕の中の鳰を見た。
音も視界もない世界で心細い思いをしていただろう彼女は、今や複雑な光を放つ鱗を懸命に見詰めて目を輝かせていた。驚愕と喜びと興奮と、あらゆる少女らしい感情を綯い交ぜにした眸には、今ばかりは常のような大人びた翳りはない。
心も温度も穏やかな時間だった。鳰の幼げな表情に小さく微笑みを零して、主もようやく顔を上げる。
互いの間に斯様に流れる、得難い暖かな静けさを得られるのであれば――。
束の間の幻想に身を委ねるのも、悪くはない。
●
可愛らしい|ごまちゃん《・・・・・》が一つと一つ、指先に揺れる。
互いを写し取ったような色合いの物言わぬ硝子細工を見ているだけで、ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)の唇には小さく弾んだ笑みが浮かぶ。向かう先の海を二人と二つで見ることが出来るのが、今から楽しみでならない。
「ごまちゃん、すっごく気に入ってるね!」
「ええ。この子たちと共に行けるのが楽しみなのです」
言いながら小さなロップイヤーを覗き込む大きなラナ・ラングドシャ(|猫舌甘味《𝚕𝚊𝚗𝚐𝚞𝚎 𝚍𝚎 𝚌𝚑𝚊𝚝》・h02157)も、言わずもがな似たような表情をしている。見上げた先の薄桃の双眸が己と同じ心を携えていることがひしひしと伝わるから、ラデュレは安堵と喜びを同時に心裡に描いて、笑みを深めて見せた。
果たして足を踏み入れたダンジョンの中には果てしない海岸が広がっている。無窮の藍色と夜の空が混ざりあう水平線の光景に顔を見合わせて、ふとラデュレは隣の長躯を見上げた。
「そういえば、以前、ラナは泳げると仰っていたような……」
「うん! そうだね!」
快活に応じるラナの脳裡にも、見下ろした先の紫水晶の眸と同じ思い出が浮かんでいる。
海中に沈んだ道を渡るのに尻込みしたラデュレと、彼女の提案を受け入れたラナは、二人で大きな一つの泡に入って内部を進んだ。見えた光景の美しさは今もよく覚えている。
しかし――考えてみれば此度は浜辺が広がっている代わり、そうした便利な道具はないようだ。思案げに尾を揺らしたラナと、覚悟を決めたような表情をしたラデュレが口を開いたのはほとんど同時だ。
「ラーレ……」
「今回は、海を泳いでみたいと思います……!」
――やめておく?
と、続けるはずだった言葉が遮られ、ラナは瞠目した。
怖がりのロップイヤーが決然とした表情をしていることからも、以前の仕草からも、決して水を得意としていないことは分かっている。だから猫又が一番に考えたのは、ラデュレが無理をしているのではないかということだった。
「本当に? 大丈夫なの?」
「大丈夫なのです。怖くはありません」
幾度も頷いたラデュレの眼差しが、ふと覚悟を揺らがせた。内側から覗く臆病な本心を隠すか否か――逡巡は一瞬だ。
「……、ほんとうは、ちょっぴりだけ」
打ち寄せる波打ち際の向こう、藍色の世界に広がる美しさは知っている。しかしその中に身を投ずるのは未だ恐ろしい。
それでも。
見上げた先の心配げな眼差しがラデュレに勇気をくれるのだ。
「ラナが手を結んでくださるなら、へっちゃらです!」
「……うん、そっか!」
決意を聞き遂げて、ラナは大きく頷いた。心配ではあるし、無理はして欲しくない。波打ち際で遊ぶのだって充分楽しいことだ。
しかしラデュレは恐怖を押さえてでも泳ぎたいと願った。その気持ちも、きっと振り絞っているのだろう勇気だって、無駄にしては勿体ない。一度萎んだ気持ちをもう一度奮い立たせるのは、思うよりもずっと大変なことだからだ。
「行こう! ボクと一緒に!」
延べられた手を握って、ラデュレもまた頷いた。
身長差のせいでどうしたって先に藍の中へ沈んでいくことになる兎を追い掛けて、猫又も海面の膜を割るように海中へ身を委ねる。互いに決して離さぬようしかと握った掌の温もりに縋るより先に、ラデュレは瞠目した。
青の中に広がっていたのは極彩色の世界だ。色とりどりの珊瑚が揺らめく。その中を熱帯魚が悠々と泳ぎ、銀色の小魚たちは群れを成して月光を反射している。
泡の中から見ていた世界に、今は手を伸ばせば触れられる。たった一枚の薄膜がないだけでこれほどまでに鮮やかに煌めく大きな海の中の小さな国に、気付けばラデュレの心臓は高鳴っていた。張り詰めていた肩からは力が抜けていて、代わりに紫水晶の眸に煌めきが宿る。
──ああ、ほんとうに素敵!
その表情を横目に捉え、ラナは小さく安堵の息を吐いた。零れる気泡が立ち昇っていく。
ラデュレが楽しんでいるならば憂いはなかった。存分に涼やかな水の気配に身を委ね、美しい光景に上機嫌に尾を揺らし、彼女がついて来られるように速度を調整しながら、緩やかに海中散歩を楽しんでいた。
ふと見遣れば近付いて来る影がある。海にあっては珍しいシルエットのウミガメが、二人の方へと近付いて来るのだ。
「あちらにいらっしゃるのはウミガメでしょうか?」
「わ! ほんとだウミガメ!」
歓声を聞き遂げたか否か、ゆったりと現れた海の爬虫類は二人の周囲を回り始めた。まるで誘うように視界から消えては戻る姿に暫し顔を見合わせたのち、ラナがはたと意図に気付く。
「もしかして、一緒に泳ごって誘ってくれてる?」
一緒に泳げたら楽しいだろう――と、思っていたばかりのラデュレがぱっと目を輝かせる。
同時に見遣った先のウミガメは肯定するように甲羅を寄せた。そのままゆったりと、先に二人が泳いでいたのと変わらぬ速度で泳ぎ出す。
「やったねラーレ! 一緒に泳がせてもらお!」
「わあ、ふふ。ご一緒をしてくださるのですね。でしたら、共に泳いで行きましょう……!」
海の生物の優雅な泳ぎに合わせれば、すっかり遊泳が上達したような気がする。元より水を苦手とせぬラナは勿論、今やラデュレも先より安定した体勢で海中を周遊出来た。
だから、しかと手を繋いでいれば雑談の余裕もある。青く複雑に光を通す海面と、時折通り抜ける海獣やマンタたちに歓声を上げ、ラナはつかず離れず傍に寄り添うウミガメに目を遣った。
「ウミガメのことを海の守り神って呼んでるところがあるんだって! もしかしてボクたちのこと、何かから守ってくれてたりして?」
「そんな素敵な伝承があるのですね……ご一緒出来て嬉しいです」
ラデュレの言葉に大きな眸が一瞥をくれる。表情の読めぬ爬虫類特有の眼差しに、何故だか優しさと温かさを感じて、彼女は小さく笑った。
揺蕩う二人と一匹の耳にふいに鳴動が届いた。顔を上げたラナの視界の先、青く霞む海底に、不鮮明だが長大な身がくねるのが見えた気がする。
「──ん? 今何か大きな影が見えたような……」
その言葉に身を震わせたのはラデュレだ。聞こえた鳴動の主やもしれない。だとしたらどれほど巨大なのだろう。姿を想像するだけでも心を恐怖が覆いそうになるが、思わずしょげたロップイヤーを奮い立たせる。
彼女の心に気付いたか、ウミガメが甲羅を寄せた。同時に強く握り返してくれるラナの掌が頼もしい。尾をぴんと立ててきょろきょろと周囲を見渡し、目を凝らしたラナは、しかし先の影の主を見付けることは叶わなかった。
「気のせいだったのかな?」
首を傾げる声にほっと胸を撫で下ろして、ラデュレは再び二人と距離を取るウミガメの方を見た。
ラナの言う伝承がどこのものかは分からない。けれど今、確かにウミガメは二人を守ってくれたと感じた。だから。
「きっと守り神のおかげ、ですね」
「にゃは! そうだね! ありがとう!」
感謝を込めて笑う彼女にラナが屈託なく頷いた。二人の言葉を受け取ったか否か、ウミガメは感情の読めない眸を二人に向けて、ひらりと前足を振って見せた。
●
陽の光の下で見るコバルトブルーと、柔らかな月光に照らされる藍色とは、同じ海でも随分と様相が違う。
しかしその美しさには変わりなかった。砂の感触を踏みしめ、無窮の海岸線に立ったレミィ・カーニェーフェン(雷弾の射手・h02627)が、思わず感嘆と共に耳を震わせる。
「わあっ、綺麗な海……!」
寄せては返す潮騒も穏やかだ。遠くでは海獣の鳴き声が反響している。月光の揺らめく波間は大人びた静謐で冒険者を誘っている。
しかし彼女の目が真っ直ぐに捉えているのは、遥か沖の海面に見え隠れする長大な影であった。
海岸線からは遥か遠い沖合のはずだが、その威容は影だけでも伝わって来る。巨大な角が時折海面を割るさまも、起こされる波濤が岸壁にぶつかって弾けるさまも、眺めているのは楽しいだろう。だが。
レミィの気分は同道だった。純白の角を、その下にあるのだろう巨大な体を間近に見たい。故に迷う必要はなかった。
パラソルの下のチェアを一つ間借りして荷物を置いた。溺れてしまっては元も子もないから準備運動は欠かさない。準備が済んだら、早速海中へと身を投じる。
途端に眼下に広がった鮮やかな青の世界を楽しまぬ手はない。目標に一直線に向かうばかりが冒険ではない。寧ろレミィにとってのダンジョンに潜ることの楽しみは、報酬そのものよりも幻想的な景色の方だ。
海獣たちが戯れている。時折寄って来る子供たちを撫でてやり、小魚の群れを鮫が割るのを見遣る。マンタやエイを真下から見る経験は貴重なものだ。海の世界をすっかり楽しみながら、しかし彼女は思考を止めてもいない。
――この辺りですね。
気儘な周遊であるとしても、あれほどの巨体が移動するには地形の影響を受けることは分かり切っている。海流や生物たちの様子からして、恐らくこの周辺に現れるだろう。位置を完璧に特定する必要はない。あれほどの巨体にあまり接近しすぎるのも危険だ。
果たして。
彼女の予想通り、巨大な鳴動が近付いて来る。その方向にじっと目を遣るレミィの前に、ゆっくりと青い鱗が現れた。
ヴェールのような美しい鰭が翻る。瞼のない眸が金色の少女をちらと見遣り、ウミヘビの如き身をくねらせた。遠くからの見立てよりも大きく見える白い角の海竜が生み出す渦に巻き込まれぬよう、しかし決して離れ過ぎぬよう距離を調整し、青い眸は煌めきながら泳ぎ出した。
生きている――と言って良いのか、少なくともインビジブルではない竜種と穏やかに戯れる機会は滅多にない。一夜の幻影であるからこそ、しかと目に焼き付けておきたかった。
まるで海の王者のような振る舞いだ。嘗ては神とすら目され、今なお竜漿の形で人々に大いなる影響を与える竜はダンジョンの中で最も恐ろしい大物の一つである。しかし今目の前にいるのは、他の海洋生物と変わらぬ穏やかさで小さな生命を受け入れる青い鱗だ。
艶めくそれが月光を複雑に反射している。どうやら鰭は船のオールのような使い方をしているようで、推進力はくねらせる体で作り出しているようだった。爬虫類らしい無機質な眼差しは、確かに理知的な光を宿し、レミィをあまり強く弾き飛ばさぬようにしているらしい。
成程、これほどの巨体であればいかに動物たちが逃げ出したところで抗えないと思ったが、竜の側もそれなりに気を遣ってはいるようだ。思わず小さく笑みを刷いたレミィは、ますますつぶさに目を凝らした。
――じっくり観察しますよ!
果たして波打ち際に戻る体力だけを残し、疲労が溜まるまで海竜に泳ぎ続けた彼女が海から上がった頃には、黎明の気配がダンジョンを包んでいた。
第3章 ボス戦 『白月の幻主』
●
黎明の気配が静かに辺りを包む。
煌々と輝く月光が照らす波間の幻想に幕を引く時間だ。方策は既に√能力者の手にある。
硝子細工を月へ掲げ、祈りを一つ捧げれば良い。
静かな光はいかなる願いも拒みはしない。だが夜空を透かす硝子の器に籠めるなら、出来得る限り純粋に輝くものの方が適しているだろう。
心からの願いと祈りを、夏の一幕と共に硝子細工の生物たちが閉じ込めてくれるように。
●
いざ願いを捧げよと言われれば迷うものである。
浮かんでは消える泡沫の如き祈りを脳裡に思いながら、懐音・るい(明葬筺・h07383)は煌々と光る巨大な月光を見上げていた。黎明の気配を背に感じる。思い浮かぶ泡めいた願いと同じように、この月も一夜の夢と消えるべき時間が来たらしい。
願いを掛ければ力を失うと言われている通り、何か一つを硝子細工に込めなくてはならない。だが。
手許には磨り硝子で出来たメンダコのやや情けない表情が揺れている。その中に閉じ込めるべき祈りも願いも、るいが選び取るにはどうにも模糊としている。
最後まで愉しく。或いは程々に刺激的かつ適度に穏やかな日々を。日頃から思っていることといえば斯様なものばかりだ。
怠惰な享楽と称すべき願いも純粋と言い張れぬことはないだろう。意志ある者の数だけある視点の一つ、千差万別の考え方のうちの一種――幾つかの言い訳を考えたところで、るいにはそのどれもしっくり来ない。そも言い訳だと思っている時点で、彼女が心底そう思っているわけではないことの証左だ。
存在そのものが破滅を誘引する災厄――彼女にとっての祈りや願い、或いは希望といえるものは遠く光る星のようなものだ。それを掴もうと手を伸ばしたこともない。神頼みに興味のある性質でもないのだから当然のことやもしれぬが、それだけにいざ一つ願えと言われて、心底からの綺麗な祈りはそうそう出て来なかった。
メンダコの表情と見詰め合うこと暫し――。
心の底までも浚った果てに、るいは奥底に眠る煌めきを探し当てた。
神頼みをせぬ彼女の心底からの願い。胸を張って純粋だと、美しい月光の輝きに相応しいと思うもの。少なくとも彼女が認識しうる中ではたった一つの、鮮やかな祈り――。
思い浮かぶそれは|兄《・》をかたどる。彼の舞台にはとうに幕が引かれ、その姿を目にすることは叶わない。今や眼前の海中を漂う生物たちと同じような姿で空中を揺蕩う、余人には見得ないインビジブルの中に在るのだろう彼の眠りが――。
「どうか安らかでありますように」
あえかな声が月光の照らし出す潮騒に融けていった。それでも穏やかで痛切な願いを聞き遂げて、月は頷くが如く光を強くする。
真白の光は掲げた硝子細工を照らし、やがて柔らかな輝きが磨り硝子越しに宿る。徐々に光の名残をを失っていくそれには、しかしるいの心に宿った唯一の|ねがい《・・・》がしかと閉じ込められたようだ。
仄かに暖かくも感ぜられるメンダコの、相変わらずどこか間の抜けたような顔を見る。物言わぬ深海のアイドルは、今はるいの心に寄り添うようにも思えた。
女はふと目を伏せて――。
小さく笑った。
●
黎明の気配が背に揺蕩う。楽しい磯遊びも波間に揺らめく月光と共に幕引きを迎える時間だ。
祭りで買って来たクラゲの風鈴を一つずつ、手に携えて月光へ掲げる。透かし見た青白い煌めきに願いを捧げれば、それで此度の仕事は終了だ。
「いっぱい遊んだところで、最後の仕上げですね」
「だな」
命の危機を感じてますます明滅していたゲーミングウミウシの顛末は兎も角として、泉下・洸(片道切符・h01617)と水縹・雷火(神解・h07707)は互いの目の色を写し取る硝子細工に祈りを籠めることと決めた。
意思のありやなしやも分からぬダンジョンの主に洸が願うことは決まっている。眦に力が籠るのは、それが彼の心底からの祈りであるからだ。
――『ライカがもっと健康になりますように』。
願掛けの類としては定番といえよう健康祈願も、殊に雷火相手には切実なものである。一人では生命活動に足る肉体を維持することすら難しい身は、彼からしてみれば半ば以上事故のような出会い方をした怨霊によって補強されたことで命を繋ぐすべを得たが、そうであっても虚弱であることに変わりはない。
折角雷火も√能力者という立場を得たのだ。ならばいかに弱い身といえど改善のしようがないわけではない。少しずつであってもよく食べ、よく鍛え、生来の病弱を克服するための体質改善に励んでもらわねば洸が困る。
幽霊生始まって以来の、今後何百年のうちに出会えるかも分からぬ逸材――誰にも渡したくないと思うほどの美味しい|ごはん《・・・》には、より上質な生体エネルギーをより潤沢に蓄えてもらわなくてはならぬ。むろん、洸がこれからの食事を心置きなく楽しむためにも。
殊食べることに関しては追究に余念のない怨霊の眼差しは、我知らず常より真剣な色を湛えていた。そのさまをちらと横目に見遣りながら、雷火の方は幾分意外そうな顔をする。
洸にしては珍しい表情だ。それほどまでに真剣にかける願いが何なのか、好奇心の矛先が向かぬではない。
しかし聞いたところで碌でもない言葉が飛び出してくるのだろうことを思えば、そのまま寝かせておく方が良かろう。彼の性格は悲鳴が出るほど理解している。世には聞かぬ方が良いこともあり、そのうち雷火が触れるものの七割はこの男に収斂するといっても大袈裟ではない。少なくとも雷火の体感上は。
とまれ、彼は己の手にあるクラゲに視線を移した。これに籠める願望を決める方が先決だ。そのまま目を閉じれば、月へ捧げる祈りは自然と脳裡に溢れ出て来る。
――『|洸《こいつ》がまともになりますように』。
振り回される雷火の身にもなって欲しい――という思いもある。しかしそれ以上に、彼は洸を評価していた。実力も知識も確かだ。後は人格上大いに問題のある点だけを改めてくれれば、きっと真っ当に世間に貢献出来るはずなのである。
社会常識と倫理規範に則って欲しい。彼の持ちたる知識も実力も、今は主として碌でもない方向にばかり活かされているが、もっと振るうべき先があるはずだ。雷火としては早くそういう未来が来て欲しいと心底から願っている。
果たして月光は二人の祈りを聞き遂げる。ひときわ強い白光が零れるように硝子細工を包み、やがて収束して消えていく。願いを宿したそれが二つ、二人の手の中で清澄な鈴の音を立てた。
とはいえ願掛けだけで手に負える怨霊とも思えなかった。雷火自身の向上心もまた問われていることだろう。
ここは初志貫徹だ。これからも洸の更生を諦めぬと胸に誓い、伏せていた瞼を持ち上げたところで、雷火はふと違和感に気付いた。
手に揺れるクラゲの風鈴は涼やかな色をしているが、青白い月光を透かしているにしてはどうも色が濃いように思う。僅かに手を下げれば、思った通りの色彩に浜辺が映った。
洸の目の色と同じ赤紫だ。手にしたときには昏くて気付かなかった。手の内にある硝子細工から隣へ視線を移し、少年は首を傾ぐ。
「洸……あのさ、これ、逆じゃないか?」
「逆?」
言われた怨霊の方も月光に翳した風鈴をまじまじと見る。あまり気にしていなかったが――。
「あ、本当ですね。まぁ良いのではないでしょうか」
願いの内容からして、洸は雷火の健康を祈ったわけである。結果的には相手の眼差しと同じ色に籠めるべき祈りとして矛盾ないものとなったのだから、寧ろこの取り違えは本来の意味からすれば好都合ともいえる。
雷火の方も特別気にしてはいなかった。どうにせよ一度籠めた願いは無効には出来ぬし、そも自分に関する祈りを捧げたわけでもない。まあいっか――口の中で呟いたのは、揺らめくそれの行先がどちらのものであっても大差ないと理解していたからだった。
「どうせ並べて飾るんだろ?」
「そうですね。家に帰ったら窓際に飾りましょう♪」
この頃の残暑は長い。涼しげな二つの風鈴は、体が清澄な風を求める季節が続く限り、陽光の煌めく窓辺で涼やかな音を立てるだろう。
●
見上げた静謐な月光は美しい。
海の底から見上げる柔らかな拡散光とは違う、深海の色をした双眸に真っ直ぐに飛び込む仄白い光を見遣り、伊沙奈・空音(Ner-E-iD・h06656)は手の中の小さな鯨を見遣った。
願いを籠めて祈れば良いという。さすればそれは手の中の硝子細工に閉じ込められて、今宵の思い出と共に寄り添ってくれる――。
願いというのが具体的にどこまでを示すのか、実のところ彼にはよく分からない。言い換えの通用する範囲に|やりたいこと《・・・・・・》を含めて良いのであれば、思い付くものは幾つかある。
その中でもいの一番に心に思い浮かんだのは、|仲間《くじら》の群れと共に泳ぐことだ。52Hzの孤独な鯨にコミュニケーションのすべはなく、統率を取って鳴き交わしながら海を渡る同胞に交わることが夢の一つだった。
しかしそれは既に叶った。今宵一夜の幻の中といえども、確かに触れ合える仲間と並んで気儘に海を揺蕩ったのだ。
――実際とても楽しかったしな。
いっときとはいえ、最初に思い付いた願いは満たされたといえよう。折角ならば別のものにしたい。とはいえ指折り数える空音が脳裡に浮かべるのは、祈りというよりも欲求に近しいものばかりである。
たとえば、美味しいごはんが食べられますように。
たとえば、好きな文具が買えますように。
しかし――空音は静謐に降り注ぐ月光を見上げた。折角見付けた物言わぬ透明な同胞に閉じ込めるなら、もっと心の奥底に近しいものが良い。
たとえば。
――僕の声が届く友達に出会えますように……とかね。
願掛けというよりは努力目標か。空音はただ座して待つつもりはない。歩くための二足を得て、陸地から海を見るすべを知った。上がった陸には数多の生き物たちがいて、人間たちがいる。いつかどこかで出会えるのだろう、|声を交わせる《・・・・・・》誰かと真正面から向き合えるまで、空音は足を止めない。
視線を落とした硝子細工の鯨は、彼の手の中で沈黙している。まるで同意を求めるように心の裡に浮かべる言葉は疑問の形を取った。
――願いを言葉にしない僕にも、お月さまは返事をしてくれるのかな?
硝子細工を掲げて月光を透かし見た。そうしてみると海底から見るのとよく似た景色になる。口を衝かない呟きの代わり、改めて祈りを胸中に沈めて微笑んだ。
ひときわ鮮やかな光が仄かに硝子細工へと宿る。やがて収束していく煌めきと共に、決意に似た祈りは、耳に届く言葉を持たぬ孤独な鯨たちを祝福した。
●
存分に泳いだのだか泳がされたのだか、最後のあたりは些か曖昧であるが、とまれ海を満喫しはした。
「海って体力使いますよね。あ、何もしなかった人は疲れてないか!」
「減らず口も疲れたら良いのにね」
先まで楽々と呼ばれた地這い獣を存分に駆っていた野分・時雨(初嵐・h00536)はまだまだ元気そうである。その多脚多尾多口の獣の主、緇・カナト(hellhound・h02325)の方よりも目を煌めかせているようにさえ思えた。
浜辺からシャチとそれに追い回される時雨を見物し、彼が言うよりは幾分か波の感触を楽しんだカナトも、そろそろ帰宅に勤しみたい頃合いである。
とはいえその前に仕事は熟さねばならぬ。依頼からして海を満喫する方が半ば主題のようなものだが、やらねばならぬことを放棄して背を向けるわけにもゆくまい。
「さて、ダンジョンは消滅させる仕事だったっけ」
「もう帰る時間ですかい。あれに願い事すれば良いんですっけね。でけ~月」
見上げた先の月光は時雨の言通りに随分と大きい。未だ煌々と夜空を照らし上げていた。あれに一つ願いを捧げ、手許にある硝子細工に閉じ込めれば、御守りが完成すると同時にダンジョンの主を弱体化させることが出来る。そうしてここにいる全員が祈り終えた頃には、長らく続いた幻想にも祭りと共に幕が引かれるということらしい。
主題の硝子細工はといえば、先んじて浜辺に戻っていたカナトの手にある。手の中にある海鳥とエビを一瞥した彼にそのうちの一つを差し出され、反射的に受け取った時雨は、それが己の選んだ形でないことに瞬いた。
「はい、じゃあ時雨君は此のエビにヨロシクね」
「……あれ、こっち?」
「どうせ二つあるんだし其々に祈りでも込めてみるかと思って」
「ふーん。まあ良いですよ」
どうにせよ自分が選んだものが戻って来るなら否やはない。早々に海鳥を掲げた人狼の横で、牛鬼は手中の物言わぬエビを見詰めていた。
健康長寿の御守りに向いていると説明書きがあった。しかし何故長寿にエビなのかまでは知らない。脱皮するから――そもそもエビが脱皮するかどうかも、時雨の知識の中では曖昧である。
腰を曲げた老人を思わせるがゆえの縁起物を矯めつ眇めつ見遣る彼の横で、掲げたきりの海鳥を前に首を傾げるカナトも、幾分か悩んでいる。
こちらは掛けるべき願いを探しているのだ。元より無事の帰還を願う海鳥に籠めるならば――そしてその矛先が時雨であるならば、果たしてどんな願いが適しているものか。ただ物理的に肉体が帰宅することだけを指すのではなく、もっと解釈を広げて原点回帰や本来の姿に焦点を当てると考えれば、横にある小さな体を見下ろして思うことは幾らかないではない。
「うーんと……妖怪としての威厳を取り戻し、人間みたいに弱い存在を慈しめるように……?」
「……なんか悪口聞こえた気がする」
じっとエビに落としていた視線を持ち上げる。カナトを睨むように見上げた時雨を、こともなげな灰色の眼差しが見返した。その不思議そうな表情も含めて実に心外である。
「めちゃくちゃ抑えてる威厳ありますけど。もりもりですが」
「抑えてる威厳は有るって言わないよ、シナシナだよぅ」
正論である。
遣り込められたように唇を引き結んだ時雨をよそに、カナトはその祈りや願いとは幾分違うような揶揄いを引っ込めた。己の裡にある感情の中で、心の底から何か一つを願うとすれば――。
他方、時雨の方もカナトから視線を外す。いつものことだがどうにも気が萎える。さっさと終わらせようと深く拗ねたような溜息を零して、彼もまた手の中のエビを月光に掲げる。横合いの彼が長寿かは知らないが――。
――自分を偽らずにいきられますように。
――ぼくより早死にしませんよーに。
当人たちが思うよりも真剣な色を帯びた願いを、月光は確かに受け取った。淡い光がひときわ強く煌めく。差し込むように二人の硝子細工を照らした青白い光は、やがて半透明のそれの裡に吸い込まれるように収束して、仄かな温度の余韻を残して消える。
どうやらこれで御守りは完成らしい。殆ど同時に引っ込めたそれを、まずつっけんどんに突き出したのは時雨の方だ。
「オラ、エビ。海鳥ちゃん返して」
「え? 御守りいらない? そしたらオレが持ち帰ろう〜っと」
「いるよちょうだいよ返してよ!」
軽やかな仕草でエビを受け取って、自分が手にしている海鳥も握ったまま、カナトは踵を返した。その後姿を引き留めた牛鬼が跳ねるようにして抗議するさまを振り返り、人狼は心底から意外そうな表情を零した。
「……ヒトの厚意とかきちんと受け取れたんだねェ」
無事に奪い返した海鳥を握り、上機嫌に前に出る時雨の足取りは目に見えて分かるほどに軽い。思案げな表情も一瞬、振り返った金色の双眸が調子良く急かす声を受けて、カナトもまた砂浜を踏んだ。
「帰るんでしょ、置いてきますよ」
「はいはい」
●
これが本物の月だったなら、浜辺で月見を楽しむところだったのだが。
あくまでダンジョンの主であるという仄白い月光は、真雪のような髪を照らし出している。見上げるミューリアルカ・クプルーシュ(|雪白《せつはく》の楔・h05809)の手には硝子で出来た夜明け色の海月のストラップが揺れていた。
願いを掛ける。それだけだ。敵と対峙したりする必要はないのに、それだけのことに心は迷う。
海竜と並んで泳ぐ間も、浜に戻って散策をする間も――時折過ぎった懐かしさが胸を締め付ける感覚は、ミューリアルカに強く刻まれている。彼女自身の記憶には残っていない過去を思わせるそれに手を伸ばしたい気持ちがないわけではないが、月光に掛ける願いとして言葉にするのは憚られる。
ならば誰かと一緒に居たい――と言うべきか。だとして祈りというほど切望する明確な顔がミューリアルカの中に思い浮かんでいるわけでもないから、敢えて願掛けとするには些かならず漠然としている。
心を探れど相応しいと思える願いには辿り着かない。考え方を変えてみる方が良いか。たとえば、見えず触れられぬものを望むのではなくて――。
「ねぇ、お月様」
手の中で揺れる黎明色のストラップ越しに静謐な月光を透かし見て、真白の少女は移ろう空色の眸を細めた。
「この海月と同じ、綺麗な色のお花をちょうだい?」
旧懐が胸を締め付けるとき、思い出せぬ面影が心の底で揺らめく。漠然としたそれはいつも同じ顔をしていると、何故だか強く思う。
だから。
再び巡り会えますようにと、思い出せますようにと直接言葉にすることは出来ないが。
「このお花をいつか、懐かしいヒトにあげるの。それは誰で、どこにいて何をしているか、分からないけれど……会えたら、どうぞって」
笑ってくれるだろうか。それとも驚くだろうか。焦がれるように揺らぐ感情を抱き締めて、ミューリアルカは月光へと囁いた。
果たして月は願いを聞き遂げる。ひときわ白く煌めいた光が彼女の手の中に集束する。仄かな光が収まったときには、少女の双眸と、硝子細工の美しいあわいの空と同じ、複雑に揺らめく花が海風へ花弁を晒していた。
「ありがとう、お月様」
やわく笑ったミューリアルカの指先が優しく花弁へと触れる。春の魔力を宿した花が黎明を閉じ込めたような花を守るように咲いた。彼女の加護が咲き続ける限り永遠に色褪せぬ花と共に、月光へ掛けられた願いは海月のストラップに籠められた。
記憶の奥底で笑う面影と、いつか巡り会えるその日まで。
●
月の光に向けて手中の硝子細工を掲げるのはほとんど同時だ。
「コバンザメ、たのむ~! バイト代あがりますように~!!」
目を閉じる間もなく物言わぬ月に叫ぶ鮫咬・レケ(悪辣僥倖・h05154)の声が切実だったから、楪葉・莉々(Burning Desires・h02667)は思わず笑ってしまった。
口にしては効果がないとは俗説だ。しかしそれを思い出したレケが首を傾げた頃には既に手遅れである。
「あ、こういうのって口にしないほうがいい?」
「だいじょぶだいじょぶ、純粋なら平気だよ! 多分!」
「ならまぁいっか~、おれのじゅんすいなおねがい~!」
些か私欲に偏っているような感もあるが、そも願いとはなべて私欲であるから、心が切実であれば何でも良いのだ。彼の願いが叶えば莉々もついでに昇給してもらえる可能性だってある。
揺れるコバンザメの緩やかな表情と、どこか似たような顔をする仲良しの居候から視線を外して、莉々もまた自身の海鳥を見上げた。透ける月光の淡い白光を見遣れば、帰巣の願いが籠った海鳥へ閉じ込めたい祈りはすぐにも心に浮上した。
――今のまま、どうかもう、誰もいなくなりませんように。
血の繋がらない兄も父の違う妹も、兄の相棒であるという駒に宿った神性も。むろん、レケを始めとする居候たちも。楪葉家の皆が誰一人欠けることなく、当たり前のようにただいまとおかえりを交わせることを、いつも心のどこかで祈っている。
父と母を喪ったとき、莉々はまだほんの幼い少女だった。懸命に彼女たちを守ってくれる兄がいて、その心が目に見えて昏い影に覆われることはなかったが、それでももう二度と愛する人たちが戻って来ない事実は少女に深く傷を刻んだ。
おかえりの言えない日が来るのは、涙が出るほど寂しい。
心に唱える懸命な願いを月光へ届ける彼女の隣で、レケは祈りを叶えるという月を見上げていた。
親近感というには他人事だ。心底からの願掛けというのは、果たして真実叶うものなのだろうか――と思う。
レケの本来の権能は、願いを叶える月のそれによく似ている。手が治らぬ今は撫でても|幸せ《・・》を入れ込んでやることは出来ないが、以前にはそうして幸福を与えては鮫の如く食い散らかしていた。
幸福になるということは、願いが叶うということと不可分であるらしい。
故にレケは幾つもの願を叶えて来た。それがどういう形で叶い、またどういう末路を導くのかは、彼の知るところではなかったが。
自分が願掛けをする立場になるとは思ってもみなかったが、ともあれ、届けば叶うというなら叶って欲しいものである。レケ自身のバイト代が再現なく上がって欲しいのもそうだが――。
横で真剣な顔で目を閉じる、楽しい少女のそれもまた、同じだけ。
「りりのおねがいといのりもとどきますよーに!」
「ふふ、鮫ちゃんありがと! 鮫ちゃんのお願いも叶いますように!」
「りりもありがとー」
笑い合う二人の手許に一層鮮やかな光が降り注いだ。淡い煌めきは二人の願いを確かに受け取ったようだ。次第に収束していった仄かな白ののち、何事もなかったかのように揺らめくコバンザメを、レケは不思議そうな顔で見詰めた。
「こんでおっけーってこと?」
「そうかも。帰ったら、オーナーに交渉してみちゃう?」
「ん~、失敗しそう~」
願いを掛けたとてそも叶うかどうかはオーナーの機嫌と裁量次第だ。その点でいえば、月光の加護が勝てるような気はしない。冷静というべきか身も蓋もないというべきか、ともあれ現実的なレケの声に目を開けた莉々は、溌剌とした笑みを溢した。
視線が絡み合う。互いに掛けるべき願いは無事に月に聞き遂げてもらえたようだ。首を傾いだレケがへらりと笑う。
「りり、おいのり終わった~?」
「うん、終わったよ!」
「ならもうちょっとあそんでかえろ~!」
「そうだね!」
海での遊興はまだまだ尽きない。水中の鮮やかな光景も見足りないし、波打ち際の水遊びだってやりたいことはある。浜辺で蟹やヤドカリを眺めるのも、磯の小さな潮溜まりの生き物たちと戯れるのも、寄って来た海獣たちを撫でるのも――。
「お月様が消えるまでは、きっといいよね」
その全てをやりきることは出来ないだろうが、時間切れを迎えて幻想が掻き消えるまで、出来る限り楽しんでおきたい。
彼ら二人だけが独り占めをするのは勿体ないのだ。帰って夜通し話が出来るくらいの思い出を、両手いっぱいに抱えて帰らなくては。
「兄や望々に、帰ったらお土産話いっぱいしなきゃだもんね!」
屈託のない莉々の笑顔に、我知らずレケが胸元に視線を遣った。
海中に潜っている間は浜辺に置いておいたスマートフォンには大量の通知と不在着信が入っている。それが再び鳴り始めたとき、彼は画面にでかでかと表示されているであろう名前を予期して目を眇める。
「んん、しすこん兄ぃ……土産話する前にここにきそう~」
既に妹の許へと移動しているような気すらする鬼気迫る表情を思い、レケは呆れたような顔で息を吐いた。
●
不思議なようで理に適っているようで、やはり奇妙な感覚だ。
目の前の巨大な月へと硝子細工を掲げて、アドリアン・ラモート(ひきこもりの吸血鬼・h02500)は透かし見る光から視線を移した。横合いで真っ直ぐに仄白い月光を見上げる弓槻・結希(天空より咲いた花風・h00240)の純白の翼が、あえかな光に照らされて、まるで輝いているようだ。
捧げる祈りは硝子のように透明で純粋である方が良いらしい。何でも良いのも些か困るが、抽象的な言葉で縛られるのもそれはそれで難儀なものだ。願いや祈りと言われれば色々と思い付くことはあるのだが、純粋で美しいものを――と言われてしまうと、どう選んだものかと悩むのは吸血鬼も天使も変わらない。
「弓槻はどんな祈りを捧げるの?」
「そうですね――アドリアンさんは決めましたか?」
「僕は、そうだな。弓槻の願いが叶いますように! とか?」
小首を傾げたと同時に手中の猫とウミウシが揺れる。自分の願掛けというには遠い願いだが、心底からの純粋な願い事と言われればいの一番に思い付くのは、隣の大切な友人のことだ。
アドリアンと硝子細工の猫がどこか似て見える。結希にとって嬉しい申し出ではあった。月光に願うほどにそう思ってくれているのは得難い幸福ではあるのだが――セレスティアルの唇が、思わず小さく笑声を零す。
「それは嬉しいですけれど、私とアドリアンさんのふたつの願いがあれば、月光の元で更にふたつの色彩が咲くということ」
結希の願いだけが叶っても、それは独りでクリオネと羽の形をした硝子を掲げるのと同じこと。こうして二人並んで祈りを籠めるのだから、どちらかをより強く輝かせるよりも、二つに同じだけ煌めく色が灯る方が美しいだろう。
「その方がきっと、この神秘的な夜を飾るには素敵だと思うんです」
一夜の幻想であり、主が消えれば夢の如くほどけて消えてしまうというこの夜に――今日、ここに確かに二つの心があったことを、硝子細工と共に記憶の一ページへと刻むための願いだ。
だというならば、二人で対等な祈りを宿す方が、柔らかな月光の夜に相応しい。
真っ直ぐな結希の声に、アドリアンも否やはなかった。確かにこうして二人でいるのならば、二つ分の願いの方が綺麗に輝くだろう。そう思ったからか――。
「それならうーん、そうだな」
心に思い描いたのは、今日一日のことだった。
二人で共に巡った祭りも、歩いた浜辺も、波打ち際の冷えた海の感触も、勿論こうして並んで月を眺めている時間も。
とても楽しかった。結希と共に過ごす時間はいつでも穏やかで、しかし弾むような心地をくれる。
「『これからもまた、二人で楽しい時間を過ごせますように』――とかかな」
一人であれば、もっと個人に拠った願いが口を衝いていただろう。毎日気持ちよく眠れますように――と、今も脳裡には思い描いている。
だが今のアドリアンにとって、布団の中に包まる至福の時は、何よりも優先すべき心底の祈りなどではなかった。結希と共に過ごせる大切で素敵な時間は夢の中より煌めいている。
眠ることが何より好きな彼が、扉を開いて外の世界へ飛び出す理由の一つ――友人と並ぶ足跡を、これからも重ねていきたい。
その声にやわく微笑んだ結希もまた、自身の手にあるクリオネへと向き直った。透かし見る月光の白い光が揺らめくさまに声を重ねる。
「こんなにも儚くて、綺麗で、そして大切だと思える日々がこれからも続きますように――もっと幸せな世界へと、ちゃんとこの脚と翼で進めますように」
太陽のように煌めく希望というには淡い。必ずやこの手で掴まんとする祈りというには形がない。まさしく降り注ぐ月光のような、あえかで柔らかな願いが透明な硝子細工を揺らした。
二人の声を聞き遂げて、月は確かに返礼を戻す。真白の光がひときわ強く輝くと同時に、硝子細工には仄かな名残が宿った。やがてそれも収束して、後には願いの幽かな温もりだけが残る。
物言わぬ羽とクリオネを両手で握りしめる。一度胸元に抱き寄せて目を伏せた結希は、蒼穹の如き双眸で真っ直ぐに月を見上げた。
穏やかな時間だった。声もなく月を見遣る二人の間に、潮騒の穏やかな音色と心地よく冷えた海風が流れていく。
ふとアドリアンが目を伏せて笑った。深紅の眼差しはそのまま隣の天使へと移ろって、純白の翼が揺れるさまに声を零す。
「ただただ個人的な願いだけれど、だからこそ嘘偽りの無い心からの願いになるよね」
「ええ、嘘偽りのない純粋な心で」
今このときが続いて欲しいのではない。不確定の未来に足を踏み出しながら、大切な日々と時間を重ねていきたい。同じくらい大切な友人と共に。
それが心底から願われていることを、結希もアドリアンも疑いはしなかった。無垢で透明な、ひたむきな願掛けを確かに手の中に抱き締める。
声を交わしながら月を見上げる二人の姿を、潮騒が静かに見守っていた。
●
手に揺れるのは暢気な顔をしたイルカとウミガメである。
透かし見る月光が静かに砂浜に降り注いでいた。自らの眸の色とよく似たそれを見詰めながら、雨夜・氷月(壊月・h00493)が瞬く。
他方、横合いの夜鷹・芥(stray・h00864)の視線は氷月の手許にあるイルカを見ていた。愛情運、転じて友情運――などと調子の良いことを言われて、酒を鱈腹飲む前に受け取ったそれの経緯を思えば、どうにも双眸を曖昧に眇めるのは避けられない。
ともあれ願いを捧げる必要があるのは事実だ。目の前の月に籠めるべき祈りを探し、氷月の眼差しは我知らず、同じように煌めく硝子細工を掲げた隣の男に定まっていた。
「アンタは健康だっけ?」
「そ、俺は健康運のウミガメ。お前は?」
「俺は、――」
何気ない問い掛けに何を言おうとしたのかも分からなくなる。つい見据えた先で、芥の金色の眸が怪訝そうに瞬いた。
どうやら氷月は縁を紡ぐことには人並みの才覚があっても、繋いだ縁を保つことは苦手なようだった。結ばれた糸は彼が思うよりもずっと早くに解けて壊れる。
向いていないことに尽力するような生き方はして来なかった。早晩切れてしまうものならばそれなりの扱いをすれば良いだけだ。所詮はこのダンジョンと同じで、いつかの黎明に儚く消える月光のようなものであるならば、最初から大切になぞしなければ良い。
けれど。
「……どうした?」
押し黙った氷月の表情に問い掛ける芥の声は思うよりも柔らかい。背を押されるような思いで開いた唇から零れた声の温度は、自分にも分からない。
「……少しだけ、惜しくなっちゃった」
それだけ楽しかった。硝子細工をふざけるように選ぶのも、躍起になって酒を飲むのも、海竜の生み出す渦に飛び込むのも。
何かが満ちるような気分がした。こうしていられれば良いと、一片抱いた喜びが、氷月の諦念に幽かな未練を差し込む。
「芥との縁が、少しでも長く続くと良いな」
どうせ叶う見込みの薄い祈りだ。それでも真偽不明の月光の加護に託すことくらいは、許されるだろうか。
「――何だ、随分と殊勝な態度じゃねぇか」
真っ直ぐに月を見上げる双眸に宿る煌めきが芥の目に映る。思うよりもずっと真剣で切実な横顔は、今この場にある最も強い光に照らし出されて、孕んだ影をより強くしたように思えた。まるで月の裏側に融けて滲んでいくようなさまを揶揄う真似はしない。
そんなことは芥も望まない。
「惜しんでくれるなら、『俺が満足するまで付き合え』くらい言えばいいだろ?」
いつも好き勝手に振る舞って彼の手を強引に引くように、享楽主義者のエゴイズムを湛えて含みのある顔で笑えば良い。何をしでかすのかと眉根を寄せる芥の思うよりとんでもないことを考えているときと同じように、月にも有りっ丈願えば良いだろう。
柔らかな微笑みが唇を彩ることは芥も自覚していた。しかし金色の眼差しに乗る色も、その声が湛える穏やかさも、瞠目する氷月の目に心底優しく映ったことまでは解していない。
初対面から武器を向け合ったとは思えない。嘗ての爆弾魔が何か口を開くより先に、カミガリは自らの願いをウミガメに捧げることにした。
「じゃあ俺は――そうだな。氷月が退屈しない未来を、だろうか」
――月に託すような彼自身の願いはないから。
どうやら祈りばかりは謙虚らしい男の代わりに、芥が強欲になっておくことにする。
柔らかな表情はそこまでだ。ひときわ強く煌めいた月光が二つの願いに応えたときには、金色の双眸には茶化すようないつもの色が浮かんでいた。
「其れにホラ、何だかんだ一緒にいると飽きねェだろ?」
殊更軽やかに声を発するさまがあまりに印象と噛み合わない。それが余計に笑えて、氷月はようやく破顔した。
「……ほんと、アンタってお人好しだね。一緒にいると飽きないのは、その通りだけど!」
それほどまでに笑える言葉でもなかったはずだ。だというのに氷月の心底おかしげな笑声が止むことはなかった。じゃれるような笑いが大きな息一つで解けた後には、一つ残った祈りが先より素直に心の裡に去来する。
切れると分かって縁を求めてしまう。大切にするようなものでないと言葉にしながら、誰かと共に在る時間に手を伸ばしてしまう。
取り替え子の導く運命はいつでも破滅に向かっている。氷月の存在はそれそのものが縁を捻じ曲げるのだ。求め焦がれて強く握ろうとすればするほどに、手中にある儚いものは壊れてしまう。
それでも。
この願いは。今回こそは――。
「――叶ったら、いいな」
その表情を見遣り、芥は僅かに目を細めた。
自分を大事にしろ――などと言えた立場ではない。口にすればたちどころに鏡を見ろとでも返って来ることだろう。素直に受け止められやしないとうすうす感じ取っているならば、わざわざ声に出して蟠りを残す必要はない。
だから。
「お前が望むなら叶うよ、屹度な」
――芥が心裡で託した二つ目の祈りは、見上げた月光とウミガメだけが知っている。
●
まるで月が空から墜ちて来たようだ。
仰ぎ見る月は大きい。煌々と浜辺を照らし出す光は、しかし日中に照らし出す太陽の如き力強いものではなく、心の奥底までもを見通し赦すような優しい仄かさを孕んでもいた。
だからこそ――。
咲樂・祝光(曙光・h07945)が堅牢に秘めたる|慾《願い》までも、柔らかく暴き出されるような気がした。しかし。
「わー! 祝光ー! 眩しいー! ぴかぴかイースターだよー!」
「なにぴかぴかイースターって」
横で天真爛漫に笑うエオストレ・イースター(|桜のソワレ《禍津神の仔》・h00475)の気の抜けた言葉がそれを阻止する。常と何ら変わらぬ溌溂とした笑顔と、何でもイースターに絡めてはしゃぐ姿に、内心の安堵が揺らぐのは咎めようもない。
願い事を掛けねばならないのだと言えば、兎の耳が不思議そうに揺れた。その仕草を横目に、祝光は僅か思い悩むように目を眇める。
――願う。
それは衆生の為すことだ。祝光はその祈りを聞き遂げ叶える存在であったから、自らの祈りや願いを告げろと言われれば、確かな躊躇が胸を過ぎる。
「俺も願ってもいいのかな」
零れる声に乗った色は曖昧だ。潮騒に紛れるように小さく零れた声を拾い上げた大きな耳が揺れ、エオストレの桜吹雪の眼差しが瞬く。
「願っちゃいけない人なんかいないよ」
或いはなりたい自分。或いは今このままの己では手の届かぬ理想。或いは自らの力だけでは叶えることの難しい未来。或いは如何なる手を使ってでも叶えたい欲望のかたち――願いとはいつでも、人の我欲を写し取る。
しかしそれこそが命であろう。芽吹きの季節、復活の祝祭の禍津神は、生命の形をよく知っている。
真っ直ぐな言葉に息を詰める幼馴染みを横目に、エオストレは手本を見せるように月へ向けて大きなイルカの硝子細工を持ち上げる。真剣な横顔が明るく願うことは、とっくのとうに決まっている。もしかすれば生まれたときから。
「僕の願いは──」
「全世界ハッピーイースター、だろ?」
「わぁ、祝光! よくわかったね!」
「わかるよそりゃ」
エオストレをよく知る者であれば誰でも分かるのかもしれない。それでも祝光は、その理由を|幼馴染みだから《・・・・・・・》と言うだろう。
祝祭の化身が願うのはいつでも一つだけだ。鮮やかな春の季節に咲き誇るカラフルな復活祭――死と悲しみの気配を遠ざけ、誰もが大切な人と手を取り合って笑い合えるその日が、この世界の全てに満ちること。
ひたむきな幸せへの祈りは、しかし今はただ一人に向けて願われる言葉に姿を変えた。誰もが笑えるというなら、誰もの願いが叶うというなら――。
「|君の願いが叶いますように《ハッピーイースター》!」
祝光の願いもまた、叶わねばなるまい。
月光よりも太陽よりも明るい声に瞠目した祝光が瞬いた。その唇が小さく笑みを象る。
「幼馴染に願われたんじゃ俺も叶えなきゃいけないね」
エオストレがそうしたように、やがて龍王に至るべきガルーダの指先もまた硝子細工を掲げる。月光を淡く反射するそれに目を伏せて、祈るは一つだ。
――その心の根源。
一切衆生を救う、などという重すぎる使命は、未だ少年の幼さを抱く心には曖昧で抽象的なものとしか捉えられない。やがて得るべき神性の有り様は定義するにも遠すぎる。
それでも。
祝光は心の底から祈っている。全てを救う龍王の全容は、かの海竜の身の丈の如く、未だこの目に映すには遠大すぎる。しかしただ、目の前にある幸いの証を脳裡に描けば、確かに心の奥に光が灯る。
――愛する人達と愛する人達が生きる世界|を、守りたい《で生きていたい》。
月光は二つの願いを聞き遂げた。ひたむきな少年たちの祈りに応じるようにひときわ白く輝いた月から仄白い祝福の証が降り注ぐ。手許の硝子細工へと収斂し、幽かな温もりを祈りの証と残して消えていく光に、二人の眼差しが絡み合った。
やがてすぐにも破顔したエオストレが、手許の大きな硝子細工のイルカを持ち上げる。
「みて! 僕のイルカ! めっちゃエレクトリカルに輝いてる!」
「そういう仕様だっけ?」
エオストレに限っては月光が消えることはなかったようだ。まさにハッピーイースター。鮮やかなパレードもかくやの祝祭の色を孕んだイルカは、元より持ち主の権能でイースター仕様になっていたところ、更に絢爛とした光を放つそれに、いたく嬉しそうな顔をした少年は、足取り軽く上機嫌に砂浜を踏む。
「縁起がいいから枕元に飾ろ!」
その背と揺れる兎の耳を見遣る。穏やかな笑みを刷いた祝光の眼差しが緩んで、掌が二人分の願いを宿した海鳥を優しく、しかし強く握り締める。
幼馴染みが横にいないことに気付いてか、振り返ったエオストレが首を傾いだときには、彼の表情は常のそれと変わりない色で笑っていた。
「枕元はやめとけよ。眩しくて眠れない」
●
ほんの小さな体には、月も余計に大きく見える。
煌々と灯る青白い光の下で、砂浜に送り届けてもらった水色のウミウシ――泡沫・みぞれ(泡に唄えば・h08170)は、此度訪れたダンジョンの主を見上げていた。
美しい月は未だ海を明るく照らし出している。しかし背に迫る黎明の気配は確かに彼女にも感ぜられていた。太陽が起きれば月は眠る時間だ。楽しい一夜の幻想にも、幕を下ろさねばならない。
深い海で洗濯物の気分を味わうのも、ウミガメの背中の上も、その後に慣れた浅瀬で安全に海水に浸かるのも楽しかった。そういうときは時間があっという間にすぎるものであるが、みぞれの中には確かな満足感が宿っている。
さて――。
小さなミゾレウミウシの子供は、もう願いを決めている。
「おっきなミゾレウミウシ、なってみたいねぇ」
さながらみぞれを洗濯物にした巨大な渦を生み出した、遠目に見ても全貌の掴めないような大きな海竜のように。
海の王者になれたら嬉しい。そしてあの海竜と並んで泳ぐ夢も、いずれ叶えるのだ。未だ小さなウミウシは、無邪気に声を上げた。
「みぞれきんぐ!」
――のちに首に相当する部分を傾げる。
「みぞれ、女の子だから、くいーんだったかも?」
どちらにせよ。
なれるだろうか。なれたら良い。子供らしい無垢な祈りを込めることが決まったら、後は硝子細工を掲げるだけだ。
だけなのだが。
「硝子細工さん、重たいねぇ……」
みぞれはあまりに小さすぎた。否、硝子細工が大きすぎたというべきだ。同じウミウシの形をしているのに、どうしても持ち上げられない。どうにかこうにか下に潜り込んで力を込めても、存外に重い硝子が彼女の体を潰してしまう。
「みぞれ、ぺしょってなっちゃう……」
弱り果てたみぞれの声を聞き遂げたか、それでも月光は彼女の許へと降り注いだ。白い光は無垢で無邪気な未来の海の王者の願いを確かに硝子細工へと託して、仄かな暖かさを宿して消えていく。
硝子細工の下にいたせいでまともに照らされたみぞれが、きゅっと体を縮めている間にも、物言わぬ月の加護が宿る時間は終わっていた。ともあれ何とかやるべきことはやれたようだが――。
這い出したみぞれは目の前の大きくて重い同胞をじっと見遣る。大きいのは良いことだが重たいのはいただけない。みぞれのように軽やかにならなくては。
「硝子細工さん、もうちょっとダイエット、がんばろ?」
静かな丸い眼差しがどう思ったのかは分からぬが、みぞれは硝子細工のウミウシに苦言を呈して、満足げに胸を張った。
●
潮騒と波の合間に揺らめく月光が、静謐に浜辺を照らし出している。
|同胞《ロア》の雛は雛のままに幕を閉じる。ダンジョンの主はやがてロアではなく人を喰らう魔性となり、オーキードーキー・アーティーチョーク(Spaghetti Monster!!!・h02152)と道を違うのであるから、それも無理からぬことだ。
大きな手には尚小さなキーストラップは二つ。然れども掲げた先の淡い光に籠める願いは一つだ。
「『どうか、如何なる苦難が立ち塞がろうとも、無事に帰れますように』ッッッ!!!」
些か欲張ったと言われれば否定のしようはない。しかし元よりオーキードーキーが己が欲求に逆らったことはなかった。いずれにせよ月の裁量次第であるというならば、躊躇うだけ損である。
祈りを聞き遂げたダンジョンの主がひときわ白く光を放つ。それを綺麗に二つに分かつが如く、二羽のかもめには同じだけの輝きが収束する。
仄かに温もりを宿したことが加護の証左だ。|眼《まなこ》があれば満足げに細めたであろうが、殆ど無貌に近しい怪異は、裂けたような口の端を持ち上げるにとどまる。
一つに加護が宿ったとすれば、そちらを友に渡すつもりだった。然れども己の身もまた帰らねば友の心に悲しみを残してしまう。二つともに月光を受け取れたのならば、それに越したことはない。
背広を忘れずに回収して踵を返す。枯れ枝に似た屍色の指先が目深帽をなぞり、背に似た大きさの声が浜辺に響く。
「ンフフフ、帰ったら願い叶えし月光のダンジョンのロアをかたりましょうかッッッ!!!」
インターネットの掲示板はあらゆるロアの温床だ。
此度の光は夢幻が如くに消える。ダンジョンとは斯様なものだ。或いは口伝そのものが、やがては途絶えるものであるのやもしれない。しかし――。
一度でも言葉にされれば、それは人々の心に根差す。無意識の裡に宿ったそれは数多の記憶を通して存在強度を増すだろう。
人々が信じれば。
心のどこかに、|そうかもしれない《・・・・・・・・》と思ったならば――。
虚構はやがて現実になる。オーキードーキーが、その同胞がそうであるように。ならばいつかはこの美しく稚く清らかなロアの雛も、彼らの仲間として生まれる日も来るであろう。
「ンハハハ、そのときには必ずや歓迎しましょうッッッ!!!」
自らがロアそのものであるからこそ、一度自らが認識し、また認識されたもののことを――オーキードーキーが忘れることはない。
●
「こうして、誰かとおつきさまを見るのは、とても素敵でたのしいのですね」
浜辺の一角、小さな石に腰掛けた四人の影が、淡い月光に照らされて砂の上へと落ちている。神代・ちよ(Aster Garden・h05126)のはしゃぐような声も、黎明の気配が迫る深い藍色の空を映すが如くどこか静かに響いた。
「お月さまへ、おいのり――えっと、じゅんすい? な、おねがい? するんだよ、ね」
「うむ。さすれば月も消えるのだったな」
継歌・うつろ(継ぎ接ぎの言の葉・h07609)の声色には確認の色が濃い。応じる神花・天藍(徒恋・h07001)の穏やかな声を横目に、ララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)は一人考え込むように月光を見上げた。
祈り、願い――そのどちらも、四人の脳裡には躊躇と当惑を宿す響きだ。それでも成さねばならぬと知っているから、四つの硝子細工は殆ど同時に空に翳された。
薄桃色の蝶の眼差しはどうやら約束とは胸中に秘めておくべきものであるというから、声には出さずに心に祈りの形を描く。
しかし――少女の眸は躊躇う。願い事なぞ掛けても良いのだろうか。
未だ何も成していない。何かに祈って叶えてもらえるような功績も偉業もないし、ちよなりに積み重ねて来た研鑽も努力も未だ他者のそれの足許にも及ぶまい。世界の何たるかの全容さえ曖昧な身の上で、願掛けなぞ過ぎたるものではないか。
それでも、願いたいことはすぐに見つかっていた。
――『ちよのすきなひとたちに、幸せが訪れますように』。
隣にいる三人は勿論だ。今日の思い出を抱えてまた楽しく賑やかな日常へと戻っていくとき、そこに三人の笑う顔があってほしいと祈っている。
それから。
この無数にある√のどこかにいるのだろう、胸の裡を焦がすような紫苑の蜘蛛の面影にも。
――どうか、さいわいが、たくさんふりそそぎますように。
ちよのひたむきな祈りに月光が応じる。青白い光に天藍が掲げる冬の結晶の形が、その煌めきを見透かして本物の雪の如く眩い光を拡散した。
――『友がみな、さいわいであること』を。
奇しくもちよの願いと似た色をした願は、しかし形を明らかにしたのは今しがたのことである。話を聞いてここに来るまで、天藍の心に祈りらしい祈りはなかった。考えてもみなかったという方が正しいかもしれない。
永きを生きた。生き過ぎた。犯した罪過を年月の数だけ重ねた彼に、今更純粋な願いなど思い付けようはずがない。
それに――天藍は罪を犯しすぎた。血に塗れたことで災厄と呼ばれる存在に至った彼に誰かの幸いを祈る権利などあろうはずもなかった。甚だおかしいことは、己で自覚している。
だから叶うとは思わない。疾うに神にも見放された身だ。ダンジョンの主である月光も、彼の願いに応える義理はないだろう。
故にこれは単なる願掛けではない。
静かな宣誓のようなものだ。祈ることで願いを叶える存在の全てが背を向けるであろう天藍が、己が力で必ずや成さねばならぬことである。
二つ目の光は、しかし災厄の元にも舞い降りた。ひときわ強い白光すらも意識の外に、ララは一人物思いに打ち沈んでいた。
――ねがいごと。
聖女にとって、それは己の叶えるべきものの象徴だった。祈りを聞き遂げ願いを叶える。故に彼女には己が願を掛ける先がない。
愛する皆がさいわいであることも。
幸いであれる世界を保つことも。
凡ての衆生を救うことも。
皆が咲っていられる明日を齎すことも――。
ララが己の手で作り上げねばならない未来だった。夢物語で終わらせてはならない。彼女が宿した禁忌の権能で以て、この世に齎さなくてはならぬ奇跡だ。
大切な人も、更にその人の大切な人も、常春に咲く爛漫の桜の如き幸いを抱き締めていてほしい。ごく当たり前の、誰でも抱くような祈りは、なべてララの小さな肩が背負って歩かねばならぬものだった。
だから。
ならば――。
掲げた硝子細工の桜が淡く光った。懐かしい色と形が心の奥底に眠る少女を呼び起こす。
――月に願うのは、自分勝手なララの願いでもいいのかしら。
淡い光が瞬くアネモネの眼差しを照らし出す。聖女と崇められる幼い娘の心の裡が、月にも叶えられぬ欲張りな祈りを抱き締める。
――ララは、誰かに撫でられたいわ。
同じ年頃の少女がそうされているように。
真白の髪を梳いて、優しい誰かの指先の温もりに目を伏せる。きっと唇を綻ばせて身を寄せるかもしれない。少なくとも、拒んで撥ね付けるようなことなぞ出来やしないことを、ララは理解している。
――当たり前のことでも、頑張ったねって抱きしめられたいわ。
聖女として祈りを聞き遂げ叶える。いとし子たちの安寧のために尽力するのは彼女の責務だ。それでも。
その一つ一つを。
否。
たとえば嫌いなものを食べたとき。たとえば難しい問題を解けたとき。たとえば空を飛べる時間が長くなったときにも――何でもない日々の、背伸びともいえないような背伸びを笑って、抱き締めて、優しく褒めて欲しい。
溢れた|我儘《・・》がアネモネの双眸に宿る。懐かしい過去を思わせる桜の花弁を、月光は確かに照らして、ほんの小さな娘の願いに応じる光を優しくその中へ閉じ込めた。
三人が次々と月光の加護を受け取る中で、うつろは未だ頭を悩ませて音符を見詰めていた。
願いは一つだけ。ぱっと頭に過ぎるような大層なものはなく、さりとてもう一段思索を進めると沢山溢れすぎる。どれもこれも魅力的に思えるそれらを一つ一つ吟味していては到底時間が足りないが、かといって適当に選び取ることも出来はしない。
見回す三人は御守りとなった硝子細工を降ろし始めている。一人硝子細工越しに青白い月光を見上げていたうつろは、いっそ考えるのは止めることを決めた。
考えても浮かばないのであれば、心のままに。今しがた三人の顔を見渡して、その表情に煌めいていて欲しいものを思えば、すぐにも願いが唇を掠める。
「『大切な人たちが、笑っていられますように』」
うつろに沢山のことを教えてくれた皆が。うつろに手を伸べてくれる皆が。うつろの心に優しく光を灯してくれる皆が――。
ひとときであっても笑顔を増やせるように。心に雨の降る日の少なく済むように。
一心に念ずる少女の手の裡で、音符は確かに月光を受け取った。仄かな温もりを祈りの証左と残し、消えていく光をじっと見詰めたのち、彼女はふと目を上げる。
気付けば三人の眼差しがうつろを捉えていた。一様に笑みを浮かべる姿に、まさか己の零した願いがそうさせてしまっているのかと思って、彼女は視線と両手を忙しなく動かしてみせる。
「あっ……む、むりに笑ってほしいわけじゃ、ないよ……!?」
「ふふ、うつろさん、心配しなくても大丈夫なのですよ」
ちよの声が優しく笑う。己もまた三人と、己に纏わる皆へ向ける幸福の祈りを掲げた。まるで同じことを考えているようで余計に嬉しい。
「楽しくて、うれしいから、自然と笑顔になってしまうのですよ」
「そう……なの?」
「そうよ。ララはちゃあんと聞いたわ」
瞬くうつろの眼差しに、すっかりといつもの調子に戻ったララも笑いかける。三人の少女たちが楽しげに表情を交わし合うのを横目に見遣り、天藍は開きかけていた口を閉じる。
皆は何を願ったのか――なぞと、聞くだけ無粋か。
真実心の裡から込み上げるものであれば秘めておくのが相場だ。むろん言霊の考え方にてらせば口にすることにも意味があろう。うつろがそうしたように言葉を形作ることも、ちよやララや天藍自身がそうするように口を鎖して心に秘めることも、同じだけ大切な願いのありようだ。
ともあれこれで任務は終了だ。ダンジョンの主は願いの数だけ光を弱め、やがて迫る黎明がダンジョンを掻き消していくだろう。しかしその刹那、煌めく海を日の光が照らし、夜明けの潮騒が見えるはずだ。
誰しもがその場を動かずに海の方を見た。明けてゆく空の輝きを待ち望むうつろの声も弾む。
皆と来られて本当に良かった。微笑みが唇を彩って、大きな眸がやわく細められる。
「色々なことが出来て、楽しかったね」
「はい! たのしい夜があけたら、またがんばるのです!」
大きく頷くちよの声を耳に受けながら、天藍も海の奥へと視線を遣った。陽光が現れるまでそう長くは待つまい。ここで皆と共に見詰める夜明けの海は、きっと特等美しい。
ララの翼が煌めく。零れ落ちる桜焔を視界の端に見ながら、彼女の眼差しは夜明けの向こうに投げかけられる。
一夜の幻想は明けて朝が来る。やがて初めて黎明を見る少女の歓声が浜辺をやわく揺らすだろう。
明日を今日にするいっとう尊いその光を、四人は並んで見詰めていた。
●
「ワタシのお願い事は――」
ベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)の声は囁くように紡ぐ。
掲げられた浮き玉が月光を反射して煌めいている。その輝きに目を細める彼女が願うのは、己のことではなかった。
「先に出会った優しい海獣たちの安寧を」
波打ち際で戯れていた愛らしい海獣たちの、初めて触れた感触を思い出す。ダンジョンに捧げられた願いの一つであるからか、彼らは一様に陸の生物との意思疎通に慣れていた。ベルナデッタと、彼女の隣で大きな耳を揺らしながら固唾を飲んで月を見上げる廻里・りり(綴・h01760)の言葉を聞いて、二人と存分に遊んでくれたのだ。
この月の光と共にダンジョンも消えていくというならば、彼らもまた長きにわたった一夜の幻想としての役を終え、黎明の光へと融けていくのだろう。それでもベルナデッタは願いの在処を変えるつもりはなかった。
穏やかで優しい彼らに幸のあらんことを。永遠にどこかに固定しようとすれば現実を捻じ曲げるかもしれないが、ただ祈るだけなら悪いことはないはずだ。
「ずっと優しい夢の中、雄大な青に包まれて一緒に居られますように」
どこまでも優しい願いを、月光は聞き届けた。降り注ぐ光にりりが小さく歓声を上げる。仄かな温もりだけを残して消えていくそれに、破顔したチンチラの少女は大好きなお隣さんを屈託なく見遣った。
「ベルちゃんのおねがいごと、すてきですね!」
「ありがとう、りり」
りりも柔らかく笑うベルナデッタの願いが本当になれば良いと思う。良い子たちだったから、どこにも見得なくなってしまう彼らにも、楽しくて嬉しくて優しいだけの旅路の夢が降り注げばいい。それこそ永遠に近しく――存在そのものが夢を見ることをも忘れる深い眠りに落ちるまで。
無垢な祈りを重ねるチンチラをいっとう穏やかに見たベルナデッタは、促すように彼女に問うた。
「りりのお願い事は決まった?」
「わたしは、……うーん」
――いざ願いと言われるとこれといって思い付かない。
幸せはいつも隣にある。父母とはなかなか会う機会こそないものの、彼らが元気でやっていることも知っている。欲しいものや行きたい場所も沢山あるけれど、それは自分の足で歩いて回るものだから――。
「これからも、すてきなご縁がありますように?」
小首を傾いだりりが紡いだ言葉の意義は、人に対する縁だけに限定されたものではない。
たとえば今日触らせてくれた海獣たちとのものもそうだ。ベルナデッタの店に|来る《・・》ものたちも、彼女が好きなものを詰め込んだ商品棚に新しい大好きが増えることも、或いは天性の方向音痴で望外に出会う綺麗な景色も。
「すてきなご縁が結ばれたらうれしいなぁって思うので」
「りりの願いはこれからのものね」
頷いたベルナデッタが笑って肯定を返す。足は未来に向かうものなれば、今日への祈りも、明日への願いも、どちらも等しく大切だ。
月光から祈りの証左を受け取ったら、後は帰るだけ――。
なのだが。
「あっスマホで写真が撮りたいです! こういうとき、記念にって撮るんですよね?」
りりが跳ねるように提案する。取り出したスマートフォンは用命を受けて上機嫌である。余人には聞こえぬ声は取り出された瞬間からいつものマシンガントークを披露していた。
「フォルテッシモ、大活躍ね」
『そうですわ! わたくし本日もばっちりお写真を撮りますから、お二方ともばっちり写ってくださいませ!』
誇らしさと満足を浮かべて見える姿はベルナデッタにとっても嬉しいものだ。結ばれた縁は両者にとって幸福なものであったことがよく分かる。
海と月を背景にして、スマートフォンを持つ手をいっぱいに前に伸ばす。上手く調整出来ずに震え始めるりりを見かねたベルナデッタの手が支えてくれた。インカメラに二人が映ったところで、空いた手に並ぶ硝子細工たちを翳せば準備は完了だ。
ベルナデッタの選んだ海月の浮き玉と、りりの選んだ耳の少し大きなイチゴミルクウミウシ。そのウミウシのための小さな浮き玉とその主たちの背景には、月夜と潮騒が映り込む。
二人で支えはしたものの、シャッターを切る瞬間には少しだけぶれてしまった。もう一枚――とも思うが、幸いにして何が何だか分からぬような写真にはならなかった。手の中にある硝子細工が少しだけ重なり合うのも、笑顔の二人の輪郭が揺らいでいるのも素敵な思い出の一つに思えて、結局二人はその一枚を今日の締めくくりに選ぶことにする。
「現像したら、夜の空みたいなフレームを探しに行きましょうか?」
「わぁ! すてきですね!」
「ね、あなたの願いが叶ったら、素敵な出会いがあるもの、きっとね」
そうすれば、二人の机には大切な思い出が増える。少しだけぶれたそれを、いつか笑って見る日が来るのだろう。
こんなこともあったね。
「えへへ。すごく楽しみになっちゃいました」
へにゃへにゃと破顔するりりに、ベルナデッタも笑う。今度こそ足を取られぬように、逸る軽やかな足取りを追って、硬い足音が月夜に背を向けた。
●
願いと言われてすぐに思い付くものは何もない。
「うーん……」
先から月光を浴び、此度の遊び兼仕事の締めくくりを務める願いを叶える大きな月を前に、透羽・花羅(天翔ける唐紅・h00280)は腕を組んでうろうろと砂浜を歩き回っている。
とても楽しい一日だった。あまりにも楽しかったせいで、心は今や溢れんばかりの喜びで満ち足りてしまった。常は大人びて振る舞えども未だ小学生の花羅にとって、これほどまでに満足した思いの中に新たな不足を見出すことは非常に難しい。
迷って迷って、自分の心の空白を探した。しかしあまりにも小さな隙間をこじ開けてまで願いを引き出すには能わず、困った少女の眼差しは海へと投げかけられる。
規則正しく静謐に揺らぐ波間を暫し見詰めていた彼女は、ふと己の中の慣れ親しんだ喪失感に行き当たる。
兄のことだ。
本来であれば彼女の持つ霊剣は彼の振るうべきものだった。物静かで優しい面影は未だふとした瞬間に花羅の脳裡を過ぎり、永遠に会うことの叶わない彼の存在が遺した空白を伝えて来る。
優しかった兄は、その命を使って最期に妹を守った。花羅の存在は彼によって繋がれて、彼女は二羽の双子烏と共に生きている。
――強くなろう。
白日と夕日と共に。遺された妹は決意を強く胸に抱いて、ここまで走って来たのだ。
「……あ、そうだ」
苦く胸を締め付ける懐古のさなかで、少女は思い付いたように硝子細工を掲げた。笑みを刷いた紅色の眸の行く先を二羽の烏が追うより先に、乱反射する月光を硝子越しに透かし見て、花羅は心の奥底から思い出と共に湧き上がる思いを屈託なく声にした。
「お兄ちゃんに胸を張って、強くなったよって……一人前の継承者になったよって言えるくらい、強くなれますように!」
祈りよりも強く宣誓の響きを帯びたそれを、月光は確かに受け取った。返事のように戻るひときわ強い光が掌に収束して、柔らかな願いの温度を宿した烏に似た海鳥を満足げに一度見詰めたのち、少女は足許の烏たちを見渡した。
「えへへ、どう? 白日、夕日?」
声は返らない。穏やかで静かな眼差しが、未だ幼さを残す少女の相貌を見上げるだけだ。
「――ノーコメント? そっかぁ」
だが怒られはしなかった。だからきっと悪くはなかったということだ。普段から容赦のない烏たちは、花羅が失態を犯せば鋭い嘴で容赦なく突いて来るのだから。
「よーし! 頑張るぞー!」
大きく両腕を上げた少女は疲れ知らずだ。明日に向けて意気揚々と進む足取りは、確かな願いを秘めて決意を口にした。
頑張ろう。当座のところは後回しの宿題を。
●
月光が青白く降り注いでいる。
ここに来たときに比べれば随分と弱まっているが、未だ煌々とした灯りは砂浜を照らし出している。ペンギンの親子越しに見上げる月明りが柔らかく拡散するのを見詰め、ツェツィーリエ・モーリ(視えぬ淵の者・h00680)は僅かに目を細めた。
硝子の輝きは光を浴びればますます美しい。夏の陽光をいっぱいに受けて煌めいていたときよりも穏やかで、どこか静かに喜んでいるようにも見える。
これに願いを掛けて、月光の力を弱める。長く続いた一夜の幻想を内包するダンジョンは、それで掻き消えて黎明へと融けていく。
そのための願いは、きっとここに足を踏み入れる前から決まっていた。
嘗て主を得たときから。『|メイドさん《守護者》』に憧れ、その万能の姿を目指し、また斯様な在り方を歩もうとしたときから。
否――。
何があったかも分からぬが、少なくとも破滅的な状況を作り出してしまったのであろう災厄を、|義両親《ふたり》が受け入れてくれたときから。
世界を破壊せしめる恐ろしい存在と定義された赤子に他の子供がそうされるのと変わらぬ隔てない愛を注ぎ、まるで普通の人間と同じように育て上げてくれた。その心が常に抱き、ツェツィーリエの未来へ託したひたむきな願いと同じ色をした、祈りにも似た決意を月へ捧げる。
生と死の狭間に立ち、門そのものの如く機能する。権能があり続ける限り人そのものにはなれないだろう。だが可能な限り彼らと同じように生きて、同じものを目に映し、人の世の中に交わることは出来る。だから。
どんなにこの力が破滅的なもので、どんなにこの身が人と相容れぬものであっても――この先も末永く、人の世の守護者として彼らの傍にいられますように。
その祈りに籠められたのは、たった一つの願いだけではない。人とは根源すら異なるやもしれぬ存在を受け入れて、当たり前のように優しくしてくれる周囲の者に幸福のあるように。そしてそれを守り抜けるツェツィーリエであれるように――。
二色の眼差しの前に月光の加護が降り注ぐ。今はまだ両親の力に守られる雛に宿ったそれは、やがて幽かな温もりを願いの証左と残して消えた。
暫しそれを見詰め、ツェツィーリエはふと僅かに目を伏せる。此度は一つと定められていたから願いを込めることは出来なかったが、双子の主に渡すべき御守りもしかと割れぬように持っている。
「――お土産話が、たくさん増えましたね」
余すことなく肩って聞かせよう。
そのとき渡す小さな硝子細工に籠めたのと同じ、大きな思いを込めて。
●
願いも祈りもとうに置いて来た。
たとえどれほど小さなものであっても、何かに託すことが出来る性分ではない。手の内の古代の王者を弄びながら、ライナス・ダンフィーズ(壊獣・h00723)は浅く息を吐いた。
願いは己の手で叶えて来た。抱く祈りがあるならば未来に己の手で掴む。故に何かに掛けるような願はない。祈りの成否は博打ではないのだ。
――とはいえ此度の主題は月光へ願うことだ。ここまで来ておいて背を向けるのでは甲斐もない。
故に。
ライナスの掌はモササウルスを模した硝子細工を月へと翳した。その顔の、殊に眼差しと思しき部分を月に向けるのは、彼自身の決然たる思いを代弁させるためのものでもあったやも分からない。物言わぬ月光が静謐に透明の素材を透かし、願いを口にするのを待っている。
己で叶えられる範疇には限界がある。どう足掻いたところで、人間の短い手には届かぬ領分があることを、ライナスは否定しない。努力で全てが覆るならば巡りの悪さで泣く者もなかろう。たとえば――。
――死後のことであるとか。
「何時か死んじまった後には全てを消し去ってくれ」
男は何一つ遺して逝きたくはない。
√能力者がいかに死から遠い存在だといえど、生命である以上はいつかは絶える。遠い未来であるか、思うより近い日のこととなるかは分からぬが、自らの去った後に何らも遺らぬことが彼の手の届かぬ望みだ。
生きた痕跡を遺さぬことは出来るだろう。猫のように死に場を選べば誰かに見られることもあるまい。しかし他者の記憶から消え果てることは、いかに尽力しようと出来やしない。
――といって、破滅的な意味合いが乗っているわけではない。
生きている以上は逃れ得ぬしがらみに、死後までも囚われているのを厭うているだけだ。生者も死者もわざわざ余計な軛で自らの荷物を重くすることはないだろう。
金色の隻眼が古の王者と同じように月を睥睨した。果たしてその不遜な願いを聞き遂げた月光は、誰に対してもそうするのと同じように、祈りの証左としての光を返す。
ひときわ白く輝いたそれが王者に降り注ぐ。煌めきはすぐにも収斂し、やがては仄かな温もりを宿す硝子細工としてだけ残る。
ライナスの手には、嘗て古代の海を生きた証拠を遺し、永き時を経てなお存在を刻み続ける生物の形がある。それにまるで相反する完全なる消滅の願いを託してみるのも――。
「……中々良いもんだろうさ」
趣味が悪くて。
皮肉げに持ち上げた片頬と共に踵を返す。振り返りもせぬ背が作った足跡は、やがて打ち寄せる波が攫って、消えた。
●
数多の祈りを受け入れ、徐々に光を弱めていく巨大な月は、未だ柔らかな白光を浜辺に落としている。
「綺麗モグね……」
「はい、凄く穏やかですね」
白昼の陽光よりも大きく柔らかな煌めきを見詰めるのにはサングラスも必要ない。まるで声なく心に寄り添うような光を見上げ、モコ・ブラウン(化けモグラ・h00344)が目を細めた。
頷く史記守・陽(黎明・h04400)の声色も感嘆の色を孕む。まなうらに焼き付いて離れぬ血の如き夕景の中で、嘲笑うようにこちらを見下ろす金色の斜陽とは違う。
二人は物言わぬ優しい白月を暫し並んで見上げた。潮騒が埋める沈黙の中で、モコが一度目を伏せて小さく笑ったのは、見入るようにしてしまう己があまりに柄ではなかったからだ。
気を取り直すように、彼女は手の中の硝子細工を持ち上げる。祈りを一つ捧げることで、ダンジョンの主は光を弱め、やがては朝日に消えるという。
何を祈ろうか――考えるのは二人同時だ。
思えば陽が祈ることや願うことを考えるのは久々だった。神に何かを頼むのは、最後に父と行った初詣の合格祈願以来かもしれない。
がむしゃらに理想に手を伸ばし続けてここまで来た。己の全てを切り捨ててでも掴むべき夢へ駆け抜ける道中には息をする暇さえなかったから、もしかすれば祈り方さえ忘れてしまったような気がする。
それでも、何か祈りを捧げなくてはならないならば――陽の眼差しは隣のモコを盗み見る。
――モコさんの隣にいてもいいくらいに強い男になれますように、かな。
自分の願いなど善き警察官の他に忘れたはずなのに、驚くほどすんなりと思い付いた文言が脳裡に焼き付いている。しかし元はといえば以前に自身の死を契機に壊れてしまったモコの四葉水晶の埋め合わせだ。彼女に手渡すことが前提なのだから、我欲を籠めるべきではないだろう。
ならば海鳥に倣って彼女の身に何も悪いことが起こらぬように、とすべきか。考えてみてから躊躇する。
――モコさんは強い人だから。
陽が願うまでもなく、そんなことは起こり得ない。万一に斯様な事態に陥ったとして、彼女は自らの力で鮮やかに窮地を脱して笑うのだろう。事実が如何なる形をしていようとも、陽の脳裡にはいつかのヒーローのような彼女の姿が鮮明に描かれている。
弱い自らと比するいつもの苦みは、何故だか心から追い出されていた。代わりに胸中に満ちるのは、陽がその舞台の外側に立っているだろうことへの痛みばかりだ。
強くてクールな|先輩《モコ》には、この手はおろか祈りすら必要ない。彼にしてみれば厳然たる事実に湧き上がるのは、いつでも弱いばかりの自分に対する氷が如く冷えた悔しさではない。もっと燃えるように胸を焦がす思いだった。
今は何の形をしているかも分からぬそれを咀嚼する視線は揺らぐ。祈りも必要ない。この手はもっと必要ない。ならば――陽から彼女に出来ることが、他にあるのだろうか。
他方のモコも検分するように硝子細工を見詰めていた。
迷うといっても一人分の祈りなら幾らでも思い付く。一つといわず叶えてもらいたい願いは幾つも思い付いた。たとえば非課税の三億円が欲しいであるとか。
しかしそのどれも俗の欲に塗れたものだ。横目に見る陽が何やら真剣に悩み願う様子を見れば、どうにも己の渦巻く欲求ばかりの願掛けを月に面と向かって差し出す気になれない。
不思議な気分だった。誰かの顔を見てそんなことを思うのは初めてだ。何よりその変化を悪いものだと思っていない自分に、心の奥から擽ったい感覚が押し寄せて来る。
横顔を見ていることも出来ずに視線を逸らした。その先に揺れる金色の硝子細工が拡散する月光が、彼女に幾分の落ち着きを与えてくれる。
――分からないことを考えても仕方がないモグね。
危なっかしい後輩だとは思っていた。それが|危うい《・・・》と感ぜられるようになってどれほど経ったろう。否応なしに彼へと傾けられていく感情の根源は、きっと心配だ。
納得はしていない。だがそれ以外に考えられる原因もない。もっと言えば、ここで一度無理矢理にでも結論付けておかなくては、願掛けに集中出来そうにない。
気を取り直して目を伏せる。それでもまなうらに描かれるのは、鮮やかな金色の髪だった。
――シキくんが、立派なおまわりさんになれますように。
海鳥を煌めく光が取り囲む。いっとう鮮やかに輝いた金色はまさしく陽の色をしていて、モコは眩しげに目を細める。
いつか願いが叶い、彼が誰もを助ける立派な警察官となったとき、モコはまだかっこいい先輩でいられるだろうか。
彼の横に――今のようにいられるのだろうか。
同じように硝子細工を掲げていた陽もただ一つの願いを定めた。
――モコさんの願いが叶いますように。
彼なりに出来ることを考えたとき、脳裡には何一つも残らなかった。能動的に介入するような願いも祈りも必要ないなら、後に出来ることは応援だけだ。
彼女が心に描き、月へと掛けるほどの願いがあるのなら、それが彼女の手中に収まれば良い。そのために彼に出来ることが、祈り願うくらいのことであるのだとしても。
月光が海鳥たちに宿るように煌めいた。それがやがて収束して、ほんのりと暖かな願いの証左だけを残して消える。それを見送って顔を上げたのは二人同時だ。
視線が絡み合う。首を傾いで声を発するのはモコが先だ。
「終わったモグか?」
「はい。モコさんもですか?」
問い返す声に頷いた彼女の双眸が楽しげに笑う。そのさまが何故だか月光よりも眩しく思えて、無意味に瞬く陽の耳朶に、軽やかな笑声が響いた。
「いいタイミングだったモグな」
仕事は終わりだ。しかしどちらも踵を返そうとはしなかった。
此度依頼されたことの目的は達したが――彼ら二人が心に抱いた真なる目的は、未だ残っている。
意を決したように、陽は硝子細工を差し出した。これは最初から彼の手にあるべきものとして選んだのではないから。
「モコさん、これ、四葉水晶の代わりにでも受け取ってもらえたら嬉しいです」
要らないかもですけど――先んじて保身じみた色の言葉を続ける癖は抜けようがない。返る否定を想定すればするほど、己がそれを予期していることを口にしておかなくてはならないような気になった。
果たしてモコの方はきょとんと目を開いた。自分で選んで願いを籠めたものなのだから、てっきり彼の手に収まるものだと思っていたのだが。
「え? くれるのモグ?」
「はい、その、モコさんさえ良ければ」
「勿論いるモグ!」
飛びつくように前に一歩を踏み出したモコの手に朝焼け色の海鳥が渡された。陽がモコの目と髪のようだと思って手にしたそれを、見詰めた彼女の方は|黎明《はる》の色のようだと思う。
だからか唇が嬉しげな笑みを刷く。浮ついたような心を隠して目を伏せたのは、クールでかっこいい先輩らしい表情を作るためだった。
「……ふふ、考えることはおんなじモグな」
「え、おんなじって」
「ありがと、これお返しモグ」
瞬く陽の前に、金色の海鳥が差し出された。彼女が今しがた熱心に願いを込めていたものだ。迷いなく、未練ない小さな手に狼狽した青年の蒼穹の眼差しが瞬く。
ずっとモコに贈ることを考えていたが、よもや返礼があるとは――まして彼女もそのつもりで選んでいるとは思ってもみなかった。当惑と驚愕の色が大きく揺らぐ声音に、しかし確かに心に灯る喜色は隠しようもない。
「いいんですか?」
「先輩からの贈り物は受け取っておくものモグよ」
胸を張ったモコはすっかりと常の調子に戻っている。気付けば随分といつものそれに近付いていた距離を開く気にもなれないまま、陽もまた唇に飾り気のない笑みを刷いて手を伸ばす。
金色に光を反射する、太陽のような海鳥が彼の手に渡る。互いの手にある真摯な祈りの内容はどちらも知らない。それでも。
「ありがとうございます。大事にします」
互いのために捧げられた願いの証をしかと握る指先は、まるで宝物に触れるように柔らかだった。
●
月光は光を弱めながらも、未だ眼前に揺蕩っている。
ダンジョン攻略も――といっても派手な戦いに直面したわけではないが、いよいよ大詰めだ。物言わず静謐な光だけを浜辺に注ぐ主と対面したケヴィン・ランツ・アブレイズ(|“総て碧”の《アルグレーン》・h00283)は、自らの手にあるシャチを一瞥した。
実のところ、願いとでも言うべきものは結局見付かっていない。
考えていなかったわけではない。しかし脳裡に浮かぶどんな未来も祈りや願いとは遠かった。それらは全て、ケヴィンがこの手で掴むものである。
どれほど考えを巡らせたとて、彼の至る思いは硝子細工を選び取るときと同じだ。胸に灯しているのは願望ではなく目標だ。研鑽の果てに自らの意志で掴むと決めているのであれば、月に託して硝子細工に閉じ込めてもらうようなものとはいえまい。
ケヴィン自身が独力に拘っているわけではないが――。
最初から第三者の手助けを期待しているのでは、到底騎士らしい振る舞いが出来ているとはいえまい。助力とはあくまで然るべきときに背を押してくれるものであって、惰弱に生きる者を引き上げてくれる希望の光ではないのである。最後の結果は自らの手で、己自身に胸を張って誇れる形で勝ち取らねばならぬ。
――そういう理想を大きな声で語れるようになるには、今暫し時間が必要であることは事実だが。
竜としては永くを生きた。それに比べ、人としての肉体で生きた時間はあまりに短い。斯様にも短き時間であってもその大半を人間として歩んで来た事実は、ケヴィンに人らしい感性を宿すに充分なもの足り得たが、未だ人間としての経験値は少ないと言わざるを得まい。
その半生がいかに苦難に満ちていたとしても、たかが十八年で全てを悟ったような顔は出来ない。
至らぬ身だ。騎士としても、ヒトとしても。
故にケヴィンの祈りは、神に膝を折って一心に唱え、叶うことを願うようなものではない。彼自身の心に今再び宿す、誓いの灯火と同じだ。
翳したシャチの硝子細工が光を透かした。煌めく月は静謐に、青年が願いを唱えるのを待っている。
息を吸う。規則正しい波の音が、ケヴィンの声をしかと届けるために息を潜めたような気がした。凛然とした眼差しで青白い月光を見上げてから、一度目を伏せる。
――嘗て竜であった。
咎を犯して人の身に宿った魂はヒトとしての命を受け入れている。鱗とは比べるべくもない脆い皮膚も、爪も牙もない非力な体も、二メートルにも届かぬ窮屈な器も、今やケヴィンを構成する大いなる要素だ。
その弱く、非力で、窮屈な体で騎士として身を立てる。一人前に至るまでにかかる時間がどれほどのものか、はかり知れるものではないが――。
ゆっくりと、ケヴィンは目を開いた。数多の人々の願いを受け止めて輝きを失いつつある月光に、今一つ誓いを重ねて、青年は笑う。
「明日、俺が走る道。まっすぐに、行ってみせる。どうかその道行きを、静かに見守っていてほしい」
月はその祈りを聞き遂げた。白光が降り注ぎ、ケヴィンの誓いをその裡に宿すように包み込む。やがて収束していく燐光は少しずつ弱まって、後には仄かな願いの温もりを宿したシャチの硝子細工だけが残った。
掌に包み込んだそれに、ケヴィンは何一つも願わない。しかと握るのは月へと捧げた祈りではなく、己が心に灯す誓いであるからだ。故に。
背を向ける大きな月の光も、手の中にある小さなシャチの硝子細工も――。
「……なンにもしなくていいからサ」
己が道行きは己で決める。それでも。
小さく笑う青年の目の前に無明の暗がりが広がったときには、きっとその誓いの光が、柔らかく道を照らし出すだろう。
●
成程、確かに見ごたえはある。
眼前に浮かぶ月は数多の願いを叶えて来たのだろう。先に訪れたときに比べれば随分と光が弱くなっているが、未だ巨大な身から夜空の月とは比べ物にならぬほどしらじらと青白い光を注ぎ、浜辺を照らし出している。
白波を立てる海面に映った光が揺らぎ、橋の如く架かっている。滲んで輪郭を結ばぬ視界にも、その白光はしかと映った。
「嗚、これは私の目にも判り易い――うつくしい月灯りですね」
香柄・鳰(玉緒御前・h00313)が目を細める。その横に立った九鬼・ガクト(死ノ戦神憑き・h01363)の目には、幾ら綺麗であろうとも、やはり月は月であるとしか映らぬのだが。
それでも鳰の眼差しにも映るということは喜ばしい。姿こそ明瞭には掴めずとも、存在がはっきりと分かるということ自体、彼女にとっては滅多にある話ではないのだ。
いつまでも月見をしているような二人ではない。任務を滞りなく遂行すべく、先に硝子細工を取り出したのは鳰だった。カモメは未だ彼女の目の中にはぼんやりとしているが、月光に翳せば反射光が指を介さずとも形を伝えてくれる。
祈る。
――何に向ければ良いのか。
ダンジョンの主は願いを捧げれば消えるという。だからこれはこの危険になるかもしれない幻想の海を消し去るための工程に過ぎない。ならば何が捧げる祈りを聞いているというのだろう。月光が必ずやそれを受け止めてくれるとも思えないが――。
それでも。
もしも願いを聞き遂げる存在がここに在るというのならば、鳰が捧げるのはただ一つだ。
――ガクト様が無事に戻りますよう。
二人の縁の端緒は、彼女の何の脈絡もない申し出だった。それは鳰が一番に理解している。どこから訪れた何者とも知れぬ、何らの為人も分からぬ女が頭を垂れることを、それでもガクトは許してくれた。以来重ね続ける恩義に報いるだけのものが鳰の中にあるとすれば、決して折れぬ忠心くらいのものである。
どうせ祈りを重ねるというのであれば、ガクトの裡に渦巻く無聊を慰めるすべが戦場の他に出来ますように――とでもすれば良かったか、と思わぬでもない。彼が血風の中に身を投ずることがなくなりさえすれば、そも安穏無事の帰還を願う必要そのものがなくなる。鳰が斯様にも彼を心配し続ける理由は一つ減るだろう。
しかし、そうは祈れない。
鳰もまた、戦場から遠ざかることの出来ぬ身だ。
彼女の主は死神の如き男である。そうと知りながら頭を垂れ、頭を垂れて尚戦場へと赴く足を止められない。
命の使い先は決めている。
かの|敵性機械《ウォーゾーン》を、一体でも多くこの手で屠り、不毛の燎原に朽ちる鉄塊とすることこそが、鳰にとっての|生きる《・・・》ということだ。
熱心に月へと祈る従者の姿を、主は藤色の髪越しに見ていた。必要な工程というのであれば彼もまたそうせねばなるまい。
取り出したのはエビの形を模した硝子細工だ。鳰のために選んだ代物である。
祈る。
――それだけで願望が叶うのであれば、世に血の流れることなぞなかったろうに。
その思いもガクトにしてみれば他人事のようなものである。そも彼は祈ったことなぞない。日常的に信仰を捧げるような信徒ではなく、神の存在にさえも懐疑的だ。
興味がない。
祈ることにも、それを聞き遂げるというものにも。
彼が血を纏い駆け抜けたあの戦場の中で、何人が神に祈ったのだろうか。死に行く全ての者が天に向けて指を組んでいたのだとすれば、願い祈ることほど無為なことなどありはしないだろう。生きたいという心からの願を、天は照らさず顔を背けたということである。
しかし此度は仕事だ。せねばならぬというならばせねばならぬのだろう――思いながら、ガクトの視線は横の少女に結ばれた。
真剣な表情だ。きっと彼女自身ではなくガクトのために祈りを捧げているのだろうと分かるのは、日頃から寄せてくれる大いなる忠心ゆえだった。
己を主人にしたいと言った。頭を垂れて以来、それが揺らぐことは一度も感ぜられなかった。
従者となるということは、即ち主に全てを捧げるということだ。主命一つで命を差し出し、盾となり、また剣となる――つくづく過酷な生き方を選んだものである。
それそのものに何かを思ったことはない。しかしそういう存在を求めていたわけでもないのに、あのときに首を縦に振った理由はガクトにさえ分からない。
一人で生きて来た。これからも一人で生きていくだろう。それに何かを思ったことも、未来を変えようと足掻いたこともない。それが気付けば従者を名乗る彼女が隣にいることが当たり前になりつつある。
存外にころころと変わる表情、時折覗く少女らしい顔、懸命になるあまりに抜けたことを口にするさま、凛然としているようでどこか放っておけぬ仕草――見ていて飽きない彼女との生活は、思うよりも様々なものを齎してくれる。自ら手離すようなことは出来まいと思うほどには。
――彼女との生活が続けばいい。私を常に心配する彼女もまた、この人生をこれから心から楽しめればそれでいい。
託された帰還の願いも、託す長生きの道しるべも、一つの決意に帰結する。
――だから長生きしないとな。
一足先に祈りを終えていた鳰は、ガクトの横顔をじっと見ていた。
祈りを捧げる姿は日頃の彼からは想像しえなかった。仕事のために必要であるといえども珍しい姿だと思う。それと同時に、珍しい、と思うほどに長く傍にいたことを自覚する。
最初に受け入れてもらえた理由は考えれども見当たらない。どこか掴みどころのない歩様も性格もあの頃とさほど変わらないから、鳰は未だに彼のことが殆ど分からない。
だから。
その祈りは勿論のこと、彼女に長生きせよと主命を下した意味も推し量れない。
心の奥底に隠した鳰の本心なぞ、ガクトからしてみれば子供の隠し事とさして変わりはないだろう。玉緒の如く短く駆けて、全てを喪った戦場に一つでも多く物言わぬ鉄屑を作り出す。その果てにいつか途切れ、鈴の音と共に散り失せる――描く末路は強く鳰の心に焼き付いて、光に灼かれた朧な視界に決然と誓いを刻み込んでいる。
それを知りながら。
――酷くて、なんて優しい主命。
唇には我知らず柔らかな笑みが刻まれる。やがて顔を上げた主の手許には、従者が先に受けたのと同じ白光が収斂した。すぐにも収まった光は祈りの証左として僅かな熱を孕み、硝子細工の裡に消えていく。
それを声もなく見遂げた二人のうち、先に口を開くのはやはり鳰である。
「お疲れ様でした。温かいものを今お出ししますね」
「んー、そうですね。美味しいお茶を頂こうか」
夏といえどもダンジョン内の浜辺は夜を模している。陽光の許であれば水に浸かった冷たさもすぐに乾いて熱に変わっていくだろうが、この砂浜にあっては今暫く時間がかかりそうだった。
いつものように並び、手ごろなチェアへと向かっていく。今や当たり前のやり取りと、その奥に宿る願いと祈りを、月の光だけが静かに照らし出していた。
●
淡い月光が波間を揺らす。幻朧の齎す常夜の海も、今や黎明の気配に掻き消されようとしていた。
「にゃは~~! 楽しかったね~!」
薄らぐ一夜の幻想の中には、しかし未だ楽しげな声が響く。大きな体を猫らしく振るって水気を飛ばしたラナ・ラングドシャ(|猫舌甘味《𝚕𝚊𝚗𝚐𝚞𝚎 𝚍𝚎 𝚌𝚑𝚊𝚝》・h02157)の歓声に、跳ねるような足取りが控えめながら快哉とした声を上げた。
「海を泳ぐのはとても楽しいのですね……!」
「ふふ、そうでしょ? また泳ぎたくなったら、猫の手、いつでも貸しちゃう!」
「わあ、嬉しいのです……!」
ラデュレ・ディア(迷走Fable・h07529)があれほど恐れた海を心の底から楽しめたのは、今もしかと結んでくれる手があったからだった。紫水晶の眸が煌めいて見詰める海にラナの暖かな温度があると思えばこそ、衒いなく頷くことも出来る。
嬉しくて楽しい時間が過ぎ去るのはあっという間だ。鮮やかな光も二人の祈りを叶えればたちどころに消え去るだろう。揃いのウミウシ――ごまちゃんと名を付けられた硝子細工は手にある。物語の閉幕、ひとときのお出かけのおしまいを告げるべく、せーのの吐息で硝子を持ち上げたのはラデュレだけだった。
「……? ラナ?」
手の中のウミウシを見詰めて、名を呼ばれたラナは耳をぴくりと動かす。
楽しい思い出が光るほど、終わりを告げるのが惜しくなる。やりたいことは沢山あっても時間は待ってくれなくて、全てを消化しきる前には背を向けねばならなくなる。
きょとんと瞬くラデュレを見下ろし、大きな猫は悪戯っぽく笑った。潜めた声は囁くようにロップイヤーへ落とされる。
「──ね、お願いする前にちょっとだけ話そうよ」
瞬いたラデュレの紫水晶が揺れる。ぴたりと動きを止めて、それから少しだけ考えた。
少しだけ――否、とても名残惜しいのは彼女も同じ。ほんのひとときのお誘いであっても、首を横に振ることなど考えられないくらいに。
「もちろん……! お話をしましょうか」
小さな兎の笑みに、大きな猫も花が咲くように笑った。
手頃な平たい岩に腰掛ける。今にも消えそうな月光を見上げながら、口を開くラナの尾が左右に緩く揺れる。
「ラーレってさ、ボクと初めてマルシェで会った時――」
白花の名を冠した祭りには似つかわしくない顔をしていたように思う。遊びに来たならもっと嬉しげに店々を見渡していただろうし、足取りだって軽やかだったはずだ。
ラナにぶつかったときの怯えたような表情も、どこか所在なげな歩みも、まるでどこからともなく迷い込んでしまったような姿だった。柔らかな祭りの空気にそぐわぬそれを、彼女は今も覚えている。だから。
「キミってもしかして、おうちに帰れなくなった迷子の子兎ちゃんだったりする……? それとも、帰る場所が無いとか……!?」
心配げな眼差しを向ける猫又に瞬いて、ラデュレは小さく笑った。
思い返してみれば不思議だ。ラナと出会ったのはほんの偶然だった。つい先日のことのように鮮明に思い出せるのに、ずっと一緒に過ごしてきたような気もする。
「ラナにはお見通しだったのですね。気にかけてくださって、うれしい」
友人として時を重ねるようになってから、そう長くはないのに――大きくて優しい彼女の心遣いが柔らかな火を灯してくれる。しかしそれ以上に、未だそれほど長い時を過ごしていないことに驚きもした。
何より。
手の中のごまちゃんに視線を落として告げるのはラデュレの核心であるのに、それを口にすることに何らの抵抗も抱かぬことも。
「わたくしは──……」
否。
「ラーレには記憶がありません」
来歴は全て過去に取り落とした。割れた卵のように中から零れ落ちて、彼女には拾うことはおろか、元の形を想像することも出来ない。
唯一確かなのは、綴られていた名と首を囲う故知らぬ傷痕だけだ。
他には何もなかった。何も分からぬままに目を開けたロップイヤーの小さな兎は、それでも心に一つの強い希求を抱いた。
「ラーレは、失くしたものをしりたい。ひとつずつ拾い集めていきたい。そうして旅をしているのです」
ラングドシャの色をしたウミウシへ注がれる眼差しをじっと見詰め、ラナは僅かに眉尻を下げた。
「そうだったんだ。ひとりでここまで頑張って、えらかったね」
辛いことだと思う。
昔のことが分からない――自分のことも、誰のことも分からないままの当て所ない放浪は、きっと孤独だっただろう。あの日にあれほど狼狽えた顔をしていた理由にも納得がいく。拠り所がなければ、足取りを確たるものにすることは出来ない。
しかし、ラナの表情はすぐにも穏やかな笑みへと転じた。瞬くのは親近感ゆえだ。
「実はボクもね、“さがしもの”を見つけるおさんぽ旅をしてるんだ」
軽やかな声音に顔を上げたラデュレが首を傾げる。彼女もまた、何かを探しているという。その溌溂とした眼差しには、しかし不安は一片も見受けられなくて、兎は無垢な声で問い掛けた。
「ラナは、なにを探しているのですか? お訊ねしてもよろしいでしょうか」
「うん、もちろん」
友人に隠し立てはしない。ましてラデュレは彼女の大切なことを教えてくれたのだ。
ならば、ラナも語るべきだ。眼差しは紫水晶の色をしたウミウシを離れて天の月へと投げかけられる。
「ボクには前世の記憶があってね、その記憶の中に残る“大切な人“を探してる」
――あとほんの少しで消えてしまう、何でもない命だった。
小さな仔猫を救ってくれたのは、大きくて暖かな手と柔らかな甘味だった。彼女を救ってくれた大切な人は、猫の舌を関する甘い焼き菓子の香りと共に、ラナに幸福を教えてくれた。
あれからどれほど時が経ったのかも、あの頃は人でいう青年であった彼が未だ生きているのかも分からない。知るすべもないけれど。
「それでも、あいたいんだ」
置いて逝ってしまった。
人と猫の時間には大きな隔たりがある。妖怪から見た人の命のように、人から見た猫の命は瞬く間に過ぎ去って、幸福な思い出は別れの悲しみに擦り替わる。
最期まで名を呼んで撫でてくれた彼の涙を忘れていない。忘れられない。だから会いに行かなくてはいけない。あのときには猫の鳴き声にしかならなかった想いを伝えるために。
「──ありがとうって、伝えなきゃ」
しかと零された声を聞いて、ラデュレの心は不思議な得心に満ちていた。
前世――という。
人からすれば荒唐無稽かもしれないその言葉は、しかし兎の心には確信と共に強く満ちた。ラナには大切な人がいる。時を越えても想い、命を救った幸福の菓子の名を借りるほどの。
「ラナは、想いを抱いて歩む旅をしていたのですね」
月から視線を戻した猫又が頷いた。煌めく焼き菓子色の眼差しの中で、桃色が僅かに光を孕んでいる。
ふと、彼女の脳裡に妙案が浮かんだ。それを隠しておくような間柄でもないだろう。互いの大切なことを分かち合った友人であるのだから。
「そうだ。ねぇ、ラーレ」
「はい、何でしょう」
「もしキミが良かったらなんだけど……ボクと一緒に旅をしない?」
瞠目したラデュレに、ラナは続ける。
「探し物を探す旅!」
――互いに探しているものの手掛かりもない。見付かるかどうかも分からない。どれほど賑やかであっても癒えぬ孤独と、どう繕っても過ぎる不安を振り払うには、きっとこの思いを共有出来る誰かが必要なのだ。
「それならお互い寂しくも怖くもないんじゃないかって、思うんだけど……!」
「探しものを、探す旅……!」
ラナの表情が破顔に近付くにつれて、ラデュレの紫水晶も強い煌めきを宿した。探し物を探す旅。それも二人で、きっと固く手を繋いでのものになる。
繰り返した言葉が心に強く響く。途端に世界が色づくような気がした。どこにあるかも分からぬものを探して俯きながら、手探りで暗闇を歩くような旅路に、途端に希望のきざはしが差し込む。
きっと素晴らしい旅になる。二人で重ねて来た、短くも長い時間のように。
「もちろん……! わたくしからも、是非お願いいたします」
「……本当に!? やったあ!」
大きく頷いたラデュレが立ち上がる。同時に跳び上がるような仕草をしたラナの視線と真っ直ぐに見詰め合う。そうしてみると大きな身長差も、今は互いの確かさを証明するように煌めいて感ぜられた。
「それじゃあ改めて! ボクはラナ・ラングドシャ! キミの旅の仲間だ! よろしくね!」
「わたくしはラデュレ。ラナのお友だちで、共に旅をする仲間です……!」
手を差し出すのはどちらも同時。触れ合う柔らかな掌の熱を分かち合うのもまた同じだ。穏やかに、楽しげに、希望に満ちた視線を交わした二人には、もうこのときへの未練はなかった。
夜は終わる。黎明が訪れる。しかしそれは、二人の間に何一つ|おしまい《・・・・》を与えはしない。だから。
今度こそ、同時に月に差し出した。互いの眼差しを映し取ったような色の揃いのウミウシが揺れる。焼きたてのラングドシャのような淡い色と、紫水晶のような鮮やかな色合いに委ねる願いは同時だ。
「『ラナとの旅の中で、さまざまなものが見つかりますように』」
「『ラーレとの楽しい旅の先に、お互いの望むものが待っていますように』」
――少し欲張りだったかもしれない、と、ラデュレが思ったのも束の間のことだ。月光の淡い光を浴びて、柔らかく願いの証を宿す硝子細工から視線を移した先は、やはり互いの顔だったから。
幻朧が揺らいでいく。光を失った月はやがて消え、不思議な海も朝に融けていくだろう。それでも、今日の思い出だけはなくならない。
「ごまちゃんは、大切にいたします。一緒に様々な景色を観ましょうね」
「うん! いろんなところに行こうね!」
優しく両手で握り締めたウミウシを手に笑い合うのも同時で――。
「っ、くしゅ……!」
「──っくしゅん!」
くしゃみまでもが殆ど同時に大気を揺らした。
海風は外気に変わっていく。朝方の空気は夏といえども昼ほどの熱気を孕んではいないから、海水の乾き切らない体には些か冷たく感ぜられた。
「なんだか肌寒くなってきた~!」
「……ふふ! 風邪を引く前に戻りましょうか」
「賛成~~!」
元気な声が跳ねるように海へ背を向ける。朧に薄らいでいくダンジョンの気配は、しかしラデュレの心にもラナの心にも、一片の感傷も残さなかった。
|おしまい《・・・・》は優しくて悲しい言葉のはずだ。けれど今は――。
少しだって、寂しくない。
●
かくて願いの夜は明ける。
ひとときの熱狂は黎明の気配と共に覚め、残り僅かの祭事の期間を、人々はダンジョンの存在を忘れたかのように楽しむだろう。残った硝子細工はそれ一つで御守りとして売り出されるようになり、祭りが終われば商店街の店頭に並ぶことになる。
一夜の幻は掻き消えた。
しかし月光の加護を受け、柔らかな熱を孕み続ける硝子細工は、細やかな海を映し続けることだろう。