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ぶよぶよした前奏曲
●こうしん
彼女は、いつからここにいるのだろう。
夕焼けの続く窓際。側にはピアノ。窓枠に腰掛け、風に揺れるレースのカーテン越しに見えるシルエット。束ねられた金色の髪が靡いている。
彼女は、いつからここにいたのだろう。
思えば随分と前だった気がする。そう、この、変なものを拾った日からだった、ような。
あれから何日経っただろう。
……夏の夕暮れは優しくて。蝉の声がわずかに聞こえてきて。あの鳴き声は、こんなに遠かっただろうか。
これから何をすればいいのだろう。
ぞろぞろと、自分の後ろをついてまわる、やわらかく、弾力のある、よくわからないもの。いくつものぐねぐねが生えたそれを抱え上げて、少女は悩んでいる。
かぞくはみんな「これ」になってしまった。今日も今日とて、私は、かぞくのお世話をしなきゃいけない。
たくさんたくさん増えたかぞくのごはんを。
こんなにたくさんの、たくさんの……。
「ああ……ぼくの分はいらないよ」
優しい女の声に頷いて。少女はうねうねをずらずら引き連れ、部屋を後にする。
日が沈み、しばらくして響いてきたのは、憂鬱で、けれど甘い、ピアノの音色。
●おかえり。
「『おかえり』諸君。どうだね、うねうねの具合は。そう、クヴァリフの仔のことだとも」
だらけている。星読み、ディー・コンセンテス・メルクリウス・アルケー・ディオスクロイ(辰砂の血液・h05644)。怪人態ではなく、けだものの姿でソファに寝そべっている。
フワフワの毛並みに混ざる羽毛がエアコンと扇風機の風に揺れ、相変わらず目元は翼で覆われており見えやしない。
「涼しかろう、涼しいついでに話を聞きたまえ。仔が関わる事件だ。とある屋敷で『クヴァリフの仔』が召喚されたのだが――召喚者はほぼ全滅、とのことでね!」
ワハハ。ワハハ。けものの口がわらうわらう。すっとお座りの姿勢を取る彼、シルエットは猫、体格は犬。ちょいと太い前足でローテーブルの上の紙を指す。
「こどもだ。小さなこどもひとりを残して、一族みな家に集まり、心中めいた召喚を行った。結果、少女のみ残され――そこに簒奪者が目をつけた」
――『人間災厄』が。
「儀式の影響か、現場となった家の周囲まるごと迷宮めいた道になっている。そこにぽつぽつクヴァリフの仔。これを拾い集めるなり――潰してまわるなりで、適切な処理をしていってはもらえないかね?」
ごく普通の、少し古めかしく見える民家だ。そこを中心として広がる、ぐるぐる、ぐるぐる続く道――そこを行き。散らばる仔を集めよと。
「中央の家からはピアノの音色だ。『グノシエンヌ』はご存知か? あれだあれ。即ち相手も「そう」だ。と、いうことで、仔も頼むが『こども』も頼む。放っておくと奴に食われるゆえ〜」
くぁ、とあくび。呑気に話すべき事柄ではないのに。
「簡単だろう? 実に。簒奪者、人間災厄の相手など、諸君らにとっては手慣れたものと存じているとも。アッハッハ! では頼んだ。いざ行け諸君! わたくしは働かないぞ!」
ソファの上で腹を見せ寝転ぶその姿、なぜだかあしが六本あるけもの。
√能力者に丸投げをして、このまま涼むつもりである……。
これまでのお話
第1章 冒険 『廻集儀式』

ぐるぐる、うねうね、ぶよぶよ、まわる、まわる、ぐるぐる。
果てしない遠回りを強いられる路地である。ブロック塀が延々並ぶ。遠目に見えるのは、奇妙なシルエットの「なにか」。
見覚えのある者もいるだろう。仔は、うごめいている。うごめいて、いる。
かいしゅうだ。あるいは、つぶし、まわるか。
どちらにせよ、道は長い。夏の夕暮れ、その家路のように。お好きに。
一族みな、死に絶えた。
斯波・紫遠(くゆる・h03007)は、その言葉に疑問を抱えながら――先を泳ぐ金魚の、夕焼けに溶け込むような鰭を眺め行く。
結構な人数である。一族と呼ぶには相応、集まっていたはずだ。どうやって集めたのだろうか。
クヴァリフの仔を召喚することが目的なら、どうして仔を求めたのか。それとも、心中めいたと――命を絶つことが主目的であり、副産物として、仔らが『堕ちてきた』のか……。
暗中を往くより、確かな道が続く夕暮れを行くほうが良い。紫遠は果てなく続くブロック塀を見ながら考える。
家は、どこに行った。塀ばかりで、区切られるために用いられるそればかりで、家々の影がない。それでも電柱はあちらこちら。互いの手を繋ぐかのように、電線。
迷宮化した道は召喚の影響だろうか、それとも遠くから聞こえるあの音の、|黒幕《奏者》によるものか。どちらにせよ、面倒極まりない「仕掛け」であった。
落ちている。そこらに。金魚が興味深げに覗き込み、逃げようとしてか触手を動かす仔を拾い上げる。小型の個体が多いが、両手に抱えるには多少は重い――と、紫遠が考えている先で。泳ぐ金魚の尾鰭がぶわり、『火加減』を間違えたのを見た。焦げ焦げである。崩れてしまう。
回遊するそれ、もはや興味はないとばかりにくるり、宙を鰭で掻いて、先へと進む――自由なものだ。
さて、興味の先にならなかった子を紫遠は拾い上げていく。大きいもの、小さいもの、暴れるもの、穏やかなもの。ぺとぺと触手が、手の熱を確かめるように触れてくる。
これがもし。もしも、召喚物などではなく……あの|お嬢さん《・・・・》の家族であったら。
「(笑えない)」
そんなことは有り得ない、そうは思えど、一度思考によぎってしまったものだから。仔らを抱えて、歩くしかないのだ。
気が引ける。
星詠みは容赦がない。あつめてもつぶしても。ワハハ。けだものの声でけだもののようなことを言ったのだ。
クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は迷宮の中、遠く伸びる道――その曲がり角に、まるで積まれたゴミ袋のように集まっているクヴァリフの仔を、ブロック塀と他の仔から引き剥がす。
自らの手で、これを潰すと。潰してよいと言われたのだ。それを選ぶものもいるだろう、当然真面目に回収したっていい。かいしゅう。だがこのうねうねとしたものの中身――果たして直視できるものか。クラウスにとっては、否だ。
飛ばしたレギオンが迷っている。隅から隅まで見回りはするが、結局道は行き止まりが多く。仔がいれば通知をする、一匹でも掴んで放り込む。右手を壁に添えて歩けばさっさと家にたどり着いてしまいそうな、ぐるぐる。もちもちとぐにぐにの間、抱えたそれはろくに抵抗してこない。気持ち悪いと感じていたそれが、見慣れてきてしまったか、可愛く見える気がする。触手のかいぶつであることは、今も昔も変わらないのだが。
――慣れる、といえば。ぐるぐる続くつづくまわる廻るその中心。クラウスは聞き耳を立てる。レギオンのセンサーが微かな音を拾う。仔を掴み、放り込み、憂鬱な旋律を聞く。ピアノの音色は徐々に近づいて。
|あの時《・・・》とは異なって、己の精神を蝕んでくることはない。それでも――その音色だけで、どうにも思考に靄がかかるような気がするのだ。
苦手な相手だ。
だけど、嫌いになることもできない。嫌うべき相手である。簒奪者であり、√能力者であり、唾棄すべき趣味嗜好を持つ女。
音の主は恐らく、まだ己に近づくものたち――√能力者たちに気づいていない。
今から、既に憂鬱だ。小さくため息をついたクラウスの手に、クヴァリフの仔の触手がぴとり、触れる。
夏の風物詩。と、呼ぶには、些か物騒がすぎる。
日本は怪談の季節。ちょうど盆だ。だが国外に目線を向ければ、季節を問わない国もあれば。
「(僕らの感覚だと冬なんだけど)」
怪談で涼を取る、という感覚。日本人とは精神性を重視する民族なのだろうと、ヴォルン・フェアウェル(終わりの詩・h00582)は歩く。だが、語られる『それ』が物理的に触れられる怪異となれば、首を傾げたくもなるものだ。
ちょっとばかり野暮にすぎる。心霊かと思えば人だった、人だと思えば怪異だった、なかなか興ざめだ。面白くも怖くもない――ゆえに。
街灯の下でうぞうぞ蠢く|それ《仔》も、面白くはないが、|食餌《えさ》にはなるか。
無抵抗、あるいは抵抗にも満たない触手がしなる様子。蟲が、百足のあぎとが食らいつく。ぶじゅりと奇妙な音と異様な体液をアスファルトへと撒き散らし、ぢかぢかと明滅する街灯の下――夕暮れの赤が彩る中で、一方的で静かな蹂躙が繰り広げられていく。
ずるりと這ったあとの粘液が道に残っている。どこから来たのか、僅かに光り続ける、なめくじの這ったようなあとを追うように。ヴォルンはぽつり、ぽつりと『落ちている』ものを、ゆったりと貪る大百足と共に歩いていく。己の魔力として、えさとして、取り込んでいく。それもまた「かいしゅう」のひとつだ。
元々はヒトだったのか。儀式により召喚された仔が、例の一族の命を啜って生まれたというのなら、そう言えるか。どれにしろご愁傷様、どうあがいてもヒトには戻れないし、ヒトのかたちになることはできない。
それでも――これを抱えていた。薄暮に見た、あの『小さなレディ』を心配しているのなら、その必要はないと言い切ろう。
「君たちを掃除したら、ちゃあんと助けに行くからさ」
何匹目か忘れたが、百足の大顎、ぬぎゅりと柔らかく、弾力があるそれに、食らいついた。
じう。じゅう。じわじわ。じーく、じーく……。
蝉の鳴き声か仔の焼ける音か、それとも何だ、北條・春幸(汎神解剖機関 食用部・h01096)の口から勝手に洩れているオノマトペか。
「まだまだ暑いねえ」
――そう、暑い。可哀想に可哀そうに! 猛暑である! 日中は車の中で目玉焼きが余裕で焼けるほどの熱が降り注ぐ。どうして。
夕暮れになれど残った熱、風はまだそれをさらっていってはくれない。暑いのか、日陰になるような――たとえば隅のほう、電柱の裏側。干からびるより蒸されるほうがマシとばかりに。
石の裏側に隠れる虫がごとく「かくれんぼ」をしている仔らを見つけて、春幸はその仔のそばにかがみ込む。いや、サイズ的に、そして視野的にもほぼ一本道であり、丸見えではあるのだが。
大きなクーラーボックスは√能力で作られた骨董品。骨董品であるからして、相応古いものではあるが、使用するにあたって問題はない。「壊れる」なんてことが起きなければよいのだ。
ぽみんと放り込まれたクヴァリフの仔、保冷剤にぺったり寄り添う。こうも温厚であればくすねてしまって構わないのでは、手元に一匹くらい。研究が終われば「おこぼれ」も――チャンスは自分で掴むもの、クヴァリフの仔も自分で掴むもの。
哀れもちもち、今後のお命の行方を考えれば、お持ち帰りされたほうが多少マシだったか。保冷剤にひっついているのとか、脅威度は相当低いのではないか、どうか。
大量にかき集められるクヴァ仔ちゃん。一本道にある仔を拾って歩いて。迷路とも言えない道、さて、終点である。
音色が響いている。ただのピアノの音だがその奏者については、星詠みの言う通りであれば――。
「う~ん……」
顎を揉む。もうついちゃった、どうしよう。
「見逃した分岐があるかもしれない」
引き返す。
点検、ヨシ。行き止まりに隠れていたクヴァリフの仔、逃さずぽにっとクーラーボックスへ。
ああもう……みっちみちじゃないですか?
だいじにされてないなあ。猛暑で溶けかけたチョコレート、口の中ですぐにとけてしまうそれをもごもご。名残惜しげに舌の上で味わいながら、神咲・七十(本日も迷子?の狂食姫・h00549)はふにゃ、と首を傾げる。
ご存知である、ご存知どころではない、知ったツラと声と能力とからだである。ともあれ御本人に相対するためには相応時間がかかりそうではあるが、こどもの方はどうだろうか、やはり彼女の側にいるのだろうか、などと。『あれ』のよくやる手段もご存知であるので。
呼び出したるフリヴァく、邪神の欠片と共にコロ付きケースを一緒に引いて、あちこち落ちているクヴァリフの仔を回収していく。もち。ぺり。頑張って壁やアスファルトに引っ付いているのを引き剥がしながら。山。
「んぅ……フリヴァくちゃん、これ足りますかね?」
七十の言葉にきょとんと首を傾げる|少女《邪神》。ぎゅう、と容器から出ようとしている仔を押し込んでいる……。
先駆者もきちんと回収していたはずだが、どこから湧いて出ているのだか――と見回して、塀の向こう側から「よっこらしょ」とばかりに登って、ぺしょ、と落ちてきた仔を見てしまった。
視線はないはずなのに、視線が合った気がした。はい。かいしゅう。ぶよぶよが箱いっぱいに詰められていく……。
今回は一応、集めておこう。
「(そこまで興味がある訳では無いですけど)」
だって。『彼女』の仔らと呼ばれていても、本当にあの肚から生まれたのか否かは正直、定かではない。落し子とはそういうものだ、どこから来たのか、得体のしれないものだ。
「なんというか、いつも無視してばかりというのもどうかと思いますし」
適当に拾ったり拾わなかったりしてきたので。
ともあれ二人、のんびりと。あちこちぺっとり張り付いている「それ」を剥がして、七十は歩く、歩く……。
ああ、覚えのある音色が、耳に響く。
第2章 冒険 『Come, Sweet Death』

――ドアは開いている。踏み込めば、凄惨たる赤である。
夕日よりもずっと、ずっと。気がつけばとっくに陽は沈み、赤。差す光は月のものか……月光はこんなにも、赤くはないはずなのに――。
「誰?」
クヴァリフの仔を抱えた少女が。『半ば、溶けかけた腕』で抱えている少女が、鯨幕の張られた広間の真ん中に座り込んでいる。痛覚を覚えていないのか、耐えているのか、ずっと泣き腫らしていたらしい顔からは一切伺えない。
「……あ」
――|私《彼女》は気がついてしまった。|彼ら《我々》が何を探しているのか。
「いや。だめ。連れてかないで……来ないで! 来ないでッ!!」
叫ぶ、拒絶、走る、奥へ。歪む空間、異様に広がる廊下。
甘き死は来たはずだった。喪に服している彼女にも、平等に降り注いだはずだった。
それでもまだ『動いている』、それを『主の奇跡』などと呼べる、わけはない。
追いかけなければならない。放っておけばどうなるか?
「そこらの壁にへばりついているだろ?」
声。クヴァリフの仔とは異なる何かが、なめくじのようなものが、血液と共にべっとりと。
「ぼくを討ちに、探すのか?」
正義のために。
「それとも、『あの子』を救うなんて無駄な努力をしたりする?」
論理と共に。
「どちらも選びたいなら、わがままだって笑ってあげるよ」
愛情は最も、扱いが難しい。
「三択。ほら、選ぶといい……ぼくは二階で待っててあげる」
誘う声は、まだ遠い。
鯨幕は真っ赤っ赤。べしゃりこびりついた深紅、まだ乾いていないそれ。愛らしい女の子に、このような無惨な赤は似つかわしくないのではないか。時間が止まったかのように、屋敷の中は静まり返り――否、迷宮と化した屋敷を、少女が駆けて逃げる音だけが響いて。
「おやおや」
なんともおもっていないのではないか。肩をすくめるヴォルン・フェアウェル(終わりの詩・h00582)。それでも、終焉を、死者を悼む作法がこの場で行われたということには、首を傾げるほかない。逃げる少女を早足で追いながら――大人と子供の走力では差がある――周囲を探りつつ、暗示を。
敵対者ではない。じぶんは、「じぶんたち」は、敵ではないのだ。
少女の足がすくむ。例えるならば、そう、こわい親戚に会ったときのような。逃げるまではない、逃げる必要はないけれど、顔を合わせたくはない……。
「さて、お嬢さん」
背から、話しかけてくるヴォルンに振り返ることなく、少女は腕の中の仔を強く抱く。もちりはみ出る。触手がにょろりと出てきて、何かを探るように宙を掻いている。
「なんだか君のご家族、ずいぶん手のかかることじゃあないかい?」
でも、かぞくだから、こうなっちゃったから、お世話しないと。
「その細腕で世話をするのは疲れたろう、そろそろ一度休んだっていいんだよ」
やすむ。やすむ? ……やすむって、なんだろう。おやすみ? ……私いつから、寝てないっけ?
「僕は別に、君から彼らを取り上げやしない。ただ『ごはんのいらない』誰かがこの家にはいるだろ?」
おねえさんのことだ。きれいな……青色の……。
「ちょっとそいつに用があるだけなのさ」
ようやく振り返った少女は、どろり溶ける腕から、粘液を滴らせながら、ヴォルンを見る。
「二階……」
ちいさな声とともに、少女は上階を、天井を見る。微かに響くピアノの音色は、まるでそれに返事をするかのようなものだった。
ならば、かの声を探しに。
「ありがとう、それじゃあ」
背を向けるヴォルンを、少女は引き留めない。腕の中に抱えたうねうねを、敵意を失ったそれを抱えたまま――だが離れれば、能力の及ばぬ場所に行けば、恐怖が湧き起こる。まだ、ひとがいる……にげなきゃ。あのひとが特別だっただけかもしれないから。
――彼女の終わりがどうあろうと、それはそれだ。意識の外にやったものを、ヴォルンは気にしない。
ただ、三択などという押し付けを、勝手に物語の|分岐《ルート》をつくった|創造主気取り《奏者》のことは、不愉快だった。
踵を返す。階段を、探そう。
「……無駄かどうかは、やってみないとわからないだろ」
覚えのある声に答える、クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)。上階から響いた女の声は、くすくす笑って、それきりだった。
――少女を追いかけねば。あの女を探し出したいのは山々だが、今はまだ。『生きている』ものが優先だ。
「怖いことはしないから、待って!」
声を張り上げながら走り、少女を追う。ちらりとクラウスを見た彼女は怯えきった表情で、さっと角を曲がっていった。とたとた小さな足音を聞き逃さぬよう耳をすまし――ピアノの奇妙な音色を、遠くに聞きながら。何度も角を曲がる。ぐる。ぐる。ぐる、廻る……。
ああ、まだいる、クヴァリフの仔が。廊下に落ちている。あるいは、それ以外の怪異も集まってきているのだろうか……どれもこれも粘性のある液体に包まれていて、お世辞にも、かわいいとは言い切れない姿ばかりで……。
廻ればもう奥だ。目の前に現れた襖をどうにか必死にこじ開けようとする少女を前にして、クラウスは「落ち着いて」と優しく声をかけ、混乱しきった少女に「敵意はない」と伝えようとする。だが……。
「いや」
涙声のまま、抱える仔の粘液がぽたり。涙と共に床に染み込む。
「……まずは怪我を治そう。俺は君に、生きて欲しいだけなんだ」
生きて。欲しい。その純粋な願いは、彼女に正しく届くのか。
目の前に現れた陽は、鳥の形――傷を焼くようにして、少女の腕を包み込んだ。
「いっ……!!」
落としかけた仔。それを強く抱く少女――どうやら、傷はかなり深いようだ。長く酸性のものに触れていたかのような、半ば腐食しはじめている、深く抉られている傷。薄く筋肉がつくられ、皮膚が再生しても、抉られたそこが再生しきるわけではない。間に合ってはいるが、まだ応急処置だ。
「その子達は、君の家族?」
こくこく頷いて、それでも襖と仔から手を離さない。だが分かる――精神を汚染されている。家族ではないものを、家族だと、精神に植え込まれている。無理に奪い取ろうとすれば、また逃げてしまうだろう。
そして――星詠みの話ならば。このまま、命を落とす。
「虐めたりはしないから。一度、手を離せるかな」
ふるふる首を振る彼女。がたり、戸が開いた。戸惑いながら、仔とクラウスの顔を交互に見て……素足が駆けていく。――まだ足りないか。
いじめない、なんて、うそにきまってる。
ぽたぽた涙をこぼしながら、少女は駆ける。
高慢たる声が響き渡った後、訪れた少女の逃げる足音、そして静寂。
「(無駄な努力か…そうかもね)」
あの足音を追うのは、少女を追うのは斯波・紫遠(くゆる・h03007)の自己満足である。しかしヒトとは常に、自分の意思を持ち、個としての満足を求めて生活をするわけなのだから、何の問題もない。
しかし、それが『救い』『救済』、手を差し伸べるエトセトラとなれば、話は違ってくるのかもしれない。
子供の足にも、体力にも限界がある。逃げているうちにとた、とたと足音は重く、しかし小さくなっていき。すぐに、『仔』を抱えたままの彼女と相対することになった。
「こんにちは。こんばんは……のほうが正しいかな」
彼女にもわからないのだろう、首をふる。
「急にお邪魔してごめんね。僕は紫遠と言うよ、お話したいんだけどいい?」
少し屈んで、優しく語りかけてくる紫遠に、少女はやや不思議そうな眼差しをしていた。
必死に走って傷んでいたはずの足も、溶けかけていた腕の痛みも、彼と話している間は痛まない。そして彼女は、それにすら気がついていない様子だった。
「お家に居るのはお嬢さんだけかな?」
首をふる。
「その怪我は、どうしたの……?」
あ、と小さく声を上げた少女、ぎゅうと腕の中の『仔』を抱いた。かぞくだと思い込んでいるなにか。抱えられる程度の小ささの『だれか』を。
「……えと。あの、あのね。ごはん……が、ないから」
焦っている。焦燥。冷や汗。わかりやすく視線を泳がせる彼女は、しきりに一方向を気にしている。通常の家屋なら、そう、生活に関する――キッチンやダイニングなどが存在しているであろう方向を。
察してしまった。『食料』が、尽きているのだ。すなわち彼女の傷は――。
「おにいちゃん、……※※、つれてくの?」
――言葉は聞き取れなかった。だが、その単語が抱えた『仔』の名だということだけははっきりとしている。頷く紫遠に、少女は唇を噛んで俯いてしまった。
「僕達はキミをこの家から連れていくことが出来る」
ぐるぐるまわる、この迷宮じみた、隔離された空間から。
「でも、そうなるとその子達と離れ離れだ」
ぎゅう、抱えられた『仔』が苦しいとばかりに触手を動かしている。
「僕はキミの意思も聞きたい。――ねぇ、キミはどうしたい?」
話をしている間に相応、時間は経っているはずだった。だが、彼女の腕は治らない。傷そのものは抉れたまま、薄く皮膚が張ったまま。目を細めて――ひとつの結論に至った。
この少女は、もはや『死んでいる』。死体に治療を施すことは、できない。
神咲・七十(本日も迷子?の狂食姫・h00549)は変わらない。観測している限り――それが誰の目であるか、ということは置いておいて――一切、変わらないのだ。
私が我儘なのなんて、分かってると思いますけどね?
ああ、わかっているとも、とびきりのわがまま狂食姫。
そして、√能力者たちの性質を考えて『泳がせている』あの女の――グノシエンヌのことも、よく知っている。
「まぁ、待っていてくれるみたいですし」
待たせている、と言っても過言ではない気はするが。
「逃げた子をどうにかしてしまいますか」
仔ではなく、子を。召喚されし邪神の欠片、フリヴァくと二手にわかれ、廊下を走る。とたとた、だれかが追うのを、そのたび逃げて。
あちらこちらと逃げ回り、走る少女を追いかけて。そうして挟み撃ちにされた少女、怯えた表情でおいつめられてしまった。
「うにゃ、一度落ち着いてください」
前方では両手を広げ、床へと膝をつき、少女へと『無害である』と主張する七十。その背後では、異形の歌姫が歌唱を始める。七十と共に歌われる、小さな子守唄。おどおどしていた少女はふらふら、七十のもとへと歩んでいく。
仔とともに抱きしめられ――だが、けして|離《放》しはしないそれを、フリヴァくが覗き込んでいた。
マシュマロを差し出して。それを口にする少女を見ながら、「落ち着きました?」と声をかける七十。首をふる少女。落ち着けるはずもない、だが、それはそれだ。――怪我を治すために、歌う曲を変えるフリヴァく。しかし、彼女の傷がそれ以上癒えることは、ない。
「(無駄な努力……手遅れ、という意味ですか)」
もはや、察するほかなかった。思考する死体。逃げる死体。冷えたそのからだが、既に彼女が人ではないことを証明している。彼女たちの歌をそっと打ち消すように響く、ピアノの音。
「……そういえば、ここに金髪でカッコいい感じの……お姉さんはいたりしますか?」
おねえさん。その言葉に小さく頷く少女が、上階を見上げる。意識した途端に強く聞こえてくる、音。
頷くばかりの少女に、七十はゆっくりと、語りかける。
「あなたは。まだ、生きていたいですか」
率直で、まっすぐで、どうしようもなく。
「もう死んでいることに、気がついてますか」
返答は、なかった。ただ――気づいてしまった。己という存在、その真実に。
みぃんな居なくなったのに、どうして自分だけが動いているのだろう?
かぞくはどうしてごはんがほしいのに、自分のお腹は減らないのだろう。
放っておくと「奴」に食われる、とは、彼女のことではないのだろうか。
かぞくのところに行きたいなら、このまま歌っていてあげます。そうではないなら、このまま歌っていてあげます。
少女の選択は。
「かぞくといっしょに、いたい。です」
手っ取り早く終わらせるには、どうしたらいいか。少女のことは任せて良いか。√能力者はお人好しの集まりだ。
だが|彼女《少女》には、自分の目的がまっすぐに見え透いてしまうことを、北條・春幸(汎神解剖機関 食用部・h01096)は察していた。
逃げられるばかりではきっとどうにもならない。落ち着かせようとしても、自分ではどうしようもないだろう。
ならば元凶に会いに行こう。待っているというからには、迷宮にしていそうだが。だが彼女の性質を――先の単純な「時間稼ぎ」の迷路を考えれば、さほどのものではないだろう。
階段を上がれば、目の前に広がるのは廊下である。ドアのない廊下が、延々続く。そこにぼたり。ぼたりと落ちているクヴァリフの仔。うねうね。
「まだ落ちてるかあ」
ひょい。ぽい。よいしょ。放り込まれていく仔はみっちりと。このくらいで大丈夫だろうかと回収を終えて、さて。ドアの前だ。開けてもまだ先は長い。聞こえるピアノの音――グノシエンヌを頼りに、己の聴覚を頼りに、歩く。
道案内は正確だった。音の強い方向へと歩けば、クヴァリフの仔と音楽が案内をしてくれる。複雑さではなく、それこそ、先も言った通りの時間稼ぎのための迷路である。
少し話を『変えて』しまおう。
「これは先輩から聞いた話なんだけどね」
長い長い廊下の先に。異様な空間が広がる部屋に繋がるドアがある、だとか。
曲がり角を曲がってしまえば、さて先に見えるは廊下とドアである。たどり着いたそれを開け放てば、その中にいたのは。
「ボクっ娘のお嬢さん、正義の使者が会いに来たよ」
げえ。そんな顔をしてみせた|奏者《・・》、こんなにも早く到達されるとは思っていなかった様子である。
「どんなおもてなしをしてくれるのかな」
楽しみだねえ。
楽しみかな。みっちり回収されているクヴァリフの仔を見て眉をひそめる彼女の側には、まだ、うねうねと――うごめくものが、いる。
「……仕方がないなあ。相手をしてあげよう」
本当に、仕方がなさそうな。どうにも気が乗らない様子で、女は言った。
第3章 ボス戦 『人間災厄『グノシエンヌ』』

息をしていたかった。いきをしていたかった。生きていたかった。
そう考えていたのは、もしかしたら、自分だけだったのかもしれない。
さてはて一家心中、その末路。一族の『儀式的集団自殺』。棺のない鯨幕の広間は、『仔』が堕ちてくるには丁度よく。|生き損なった《・・・・・・》少女はひとり、『かぞく』とやらにえさを与えていたようだが、ちょうど、沈黙したところ。
最期は、かぞくとともにあれたのだろうか。死の行進に、葬列に、並ぶことはできただろうか。
――静寂。
となればピアノの音色、よく響く。静けさに包まれた二階、鍵盤がゆっくりと沈み込み、音が。
「何度目だろう」
奏者は呟く。また、食いそこねた。ああ、十はとっくに超えてしまったかも。|簒奪者《奏者》として、失敗まみれで情けないとは思わないのか? いいや、思いなどしないよ。既に食らった後に感知された事件だって、いくつかある。
狡猾に……穏やかに……驕り高ぶることだけは、どうにもやめられないのだけれど。
このからだと精神、どこまでだって|貶《落と》して、抗おうではないか。
「おいで。ぼくと少し……楽しいことをしよう」
ゆかいに、さいごのおそうじだ。