夏彩の花音廻り
しゃらりと鳴った、夏の花。
花硝子の風鈴に錫の花芯を下げれば、まるで水に波紋刻むような音を立てる。
蝉の声も遠く下駄を鳴らして行き交う人々は花酒の盃を傾け、桶に浮かぶキンと冷えた花蜜のラムネ瓶を開けて笑っていた。
——ここは妖怪横丁 花通り。
普段から花を愛でる妖が多く住まうこの通りが、夏の数日だけ祭りに変わる。
祭を楽しむための決まりは一つ、“花を身に着ける”こと。
花を身に着けていれば、通りの入り口にある花鳥居をくぐった瞬間に通りは“夏花鈴回廊”に姿を変え、頭上に吊るされた花風鈴の音が涼やかに響く。
誰も彼もがこの夏の息災を求めて花風鈴を買い求めたり、涼やかな花風鈴を愛でてゆく。
通りの奥へ進めば、“龍の川”と呼ばれる場所へ辿り着く。その川底には鱗めいた石が光を返し、その水上を舞う蛍はどこよりも美しいという。
昨今では、願いを込めて石をひとつ“龍神から借りる”と、叶う手助けをしてくれる……そんなハイカラな噂が実しやかに囁かれるのだとか。
「……で、せっかくの夏の休みだから俺が最後に案内したいのは——」
“内緒のお店ね?”と、急に声を潜めた御埜森・華夜(雲海を歩む影・h02371)がクスクス笑うや、ちょっとばかり得意気に告げていた。
「んっふっふっふっふ……花氷の蜜屋。夏の今くらいしか店開けてない氷屋でさ、果物凍らせたの削って、色とりどりの花蜜を掛けて楽しませてくれる店なんだー」
華夜曰く、“てんちょーが蜂の妖だから、蜜にうるさいってワケよ”とのこと。
艶やかな百花蜜、透き通る蓮華蜜、香ばしい蕎麦蜜……どの蜜も店主の蜂の妖がこだわり抜いた逸品で、凍った果実もまた雪女のもとから届く。特別な夜にしか味わえない秘密の氷と言えるだろう。
「今日はさ、頑張ってる皆へのごほうび。パーッと羽を伸ばす日でいいじゃん?」
雪の如く白い瞳を細め、色硝子のサングラス越しに√能力者を見る華夜の瞳には夏の光が煌めいていた。
――“きみよ、どうかすこやかに”。
心の片隅で祈る心を胸に、夏彩の花音廻りへと歩み出そう。
第1章 日常 『四季折々の花祭り』
    ︎ ⚫︎夏花鈴回廊
リン、リリン、と鳴る花風鈴の音は涼やか。
日除けにと通りの屋根代わりに行き渡る簾越しの夏の日差しは、どこか甘い色を帯びていた。
湿気った夏らしい風が通り抜ければ、涼やかな音共にはらりらりと揺れる花に纏わる和歌の短冊が美しい。
休憩には、祭の日だけ開放される軒下の縁側がある。そこでは花纏う妖怪たちが笑み、誰も彼もがただ穏やかで、誰も彼もが幸せそうだ。
カロカロと下駄を響かせた子供達は、祭限定の“花蜜ラムネ”を手に取り、笑みをこぼす。
実は花蜜ラムネは爽やかな甘みが人気であると共に、瓶の中の蜜玉と呼ばれる硝子花の蕾をこの一夏の間に咲かせるのが粋とされている。
そして、大人だけの楽しみもある。冷えた硝子花の盃で、花風鈴の音を肴に味わう花蜜酒——それもまた祭の振る舞いのひとつだ。
どうかこの暑い夏を、楽しんで。
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MSより
『夏花鈴回廊』では、
🎐花風鈴の短冊に願いごとや和歌を書いて飾る
🎐お気に入りの花風鈴の購入
🎐蜜玉を咲かせるコツの書かれた和歌探し
(花風鈴の短冊にいくつか書かれてる)
🎐気に入った色の蜜玉を探し、縁側で花蜜ラムネを楽しむ
🎐縁側にて硝子花の盃で花蜜酒の飲み比べ
……など様々、上記以外もお楽しみいただけます。
夏のご褒美の昼時間、花と涼やかな音に包まれながら、心ゆくまでお楽しみください。
ふわりと夏の風に乗った天神・リゼ(|Pualani《プアラニ》・h02997)の金糸が差す陽光に煌めけば、並び歩くボーンチャイナの艶と透明感を瞬かせる藤春・雪羽 (藤紡華雫・h01263)の髪は涼し気だ。
揃って見上げるのは夏の花で彩られた花鳥居。
先程からそこを通る花纏う者たちは皆々通り抜けた先には影さえなく、世界の|間《あわい》へ踏み出していることがよく分かる。
“ほぉ”と興味津々な様子で口角を上げた雪羽が瞳を細めればその耳元で揺れる沈丁花が俄かに馨り、目配せれたリゼが頷き一歩——世界は涼やかな音色と賑わいで満ちていた。
「——す、ごい」
「随分と盛況だねぇ」
行き交う妖怪たちの賑わいと笑い声、猫又の赤子が一生懸命に花風鈴の短冊へ手を伸ばしては母猫に叱られている様は愛らしい。
気付けば頬撫でる夏の風さえ遠く感じるほど、リゼは透明な花風鈴の音に耳を澄ませていた。賑わいの中でも分かるその涼し気な音は、純粋に心地良い。お囃子の音も賑わいもどんどん遠くなって、ふと——“リゼ”と呼ぶ雪羽の声に目が醒める。
ク、と喉を鳴らして笑う雪羽は、涼やかな世界に耳を澄ませるリゼを見守っていたのだ。その純粋な美しさこそ、何よりも美しかったから。
「リゼ、ここは美しいね」
「はい!本当に…… 壮観ですね、雪羽さん。私、こんなにたくさんの風鈴も、花風鈴というのも初めて見ました」
「そうだね、全て花風鈴というそうだが……私も初めてだ。見た目も音色も素晴らしいねぇ」
雪羽の言葉に頷くリゼも再び空を仰いで、簾越しに夏の日差しを受けた花風鈴はどれも煌めいて、ちりりと揺れる音は美しい。
だが難点は、一つ美しいと思えばその隣もまた愛らしく、三つ向こうに心惹かれたような……いや、さっき通り過がったあの花の——なんて、目移りしそうなほどの数がある。
「……しかし、この中から気に入りを選ぶというのもまた」
「ええ、一つ頂きたいですが。」
なんとも、時を忘れそうな、骨の折れそうな。いっそ一人であればこの風鈴の美しさに酔ってしまいそうだが、二人で居れば祭りの喧噪に逸れることも花風鈴の魔性さにも打ち勝てるはず。
きゃあきゃあと擦れ違った子供達が手にしていた輝き――ラムネ瓶に、パチンとリゼが手を打って。
「まずその前に、花蜜ラムネです!」
「ああ、花蜜ラムネは必須だな」
下駄の音の間を縫ってゆく。
上から降る花風鈴の音色に背を押されて。
「それに雪羽さん、星詠みの——華夜さんが教えてくれた内緒のお店、行ってみたいですよね……! 蜂の妖さんのこだわりの蜜っ……!行かないと損ですっ!」
「……! 勿論だともっ、花氷の蜜屋——ぜひ行きたい! 」
グッと握った拳は、星詠みオススメの果実氷に氷蜜ではなく花蜜を垂らして楽しむカキ氷屋。通りで暑さを凌ぎ、暮れはじめれば蛍舞う龍の川で川遊びと蛍狩りに興じ、そんな後に頂くのが蜂の氷屋なのだ。JK……いや、女子として外すことの出来ない大事なシーン。
雪羽は尻尾をゆらゆら、リゼは足取りも軽やかにやってきたラムネ屋で二人は知る――入っている蜜玉で味が違うという、大事なことを。
『お嬢ちゃんたち何色にするんだい?うちはまだまだ色があるよォ』
——そこにもう言葉は無かった。
正しくは無かったわけではないが、若干の色みの違いや白さや透明感と真摯に向き合うこと数分。
唸った末に、リゼは胸に飾った松葉牡丹の花蕾を思わせる一つ秘めたラムネ瓶。
じ、と皿のようにした瞳で雪羽の選んだ白い真珠めいた色を抱いた一粒入りのラムネ瓶。
ぷしゅりと開けて、乾杯! は選別タイムを経た|仲間《同士》であり友として。
「っ、ハ~……ふふ、甘いがさらりとした喉越しと炭酸感。いいね、虜になりそうだ」
「~~~っ! とろりと残るのに、後味は爽やか! 美味しいし、夏といえばラムネって気分でしたが、花蜜入りってとってもいい思い出です」
ふふと笑って汗を拭い、縁側で借りた水うちわの冷たさに目を見開いて——。
『そうだ坊や、その蜜玉は帰ったら蜜に浸しておあげ。明日から笑顔で毎日蜜玉から蜜を一匙頂いて、お水をお返しするの忘れては駄目よ?』
『はぁい! そうすれば蜜玉が花笑むんでしょー?』
至極呑気な会話だ。花風鈴を仰ぎ、水うちわと花蜜ラムネで涼を楽しんでいた雪羽が目配せすれば、リゼが何度も頷いた。
「リゼ、聞いたかい? 花蜜ラムネの蜜玉は花笑む……いいね、蜜に浸して水と日ごと交換するそうだ。根気は居るが、良い花を咲かせる手間と思えば」
「花蜜……花氷の蜜屋の蜂の妖さんに相談すれば、相談に乗っていただけるでしょうか?」
ひそひそこそこそ、相談事は水うちわの背に隠して乙女が二人で密やかに。
●蜜談はしゅわりと弾ける楽しさを抱いて
からころ鳴らした下駄の音に、ぴこぴこと揺れる廻里・りり(綴・h01760)のふわふわな耳と尻尾は今日も絶好調。髪に揺れる小ぶりな星の群れ“ルリマツリ”の花が、夜空色の髪によく映えていた。
ご機嫌なのはベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)と共に祭へ訪れたから——だけではない。
「りり、浴衣はどう? セパレートにしてみたけれど……具合は良い?」
「はい! えへへ、お直しも着付けもありがとうございますっ。とっても着心地が良いです……!」
りりのご機嫌な理由は、いつもと違う装いが仲良しなベルナデッタのお陰でお揃いになったから。
いつでも素敵なりりのしっぽだけれど、服の種類によってはどうしたって相性が悪くなってしまう時がある。街を歩く女性たちが夏に纏う装いの一つ——浴衣は、とても魅力的だったのだ。
着たい……しかし、尻尾。生まれてこの方長く人生を共にしてきた|相棒《尻尾》が……! とりりが唸ったところで、“|欠けたものたち《解れたぬいぐるみたち》”の|治療《修繕》の得意なベルナデッタが、“少し着方は変わるけど……”と、提案して繕ってくれたのが今りりの纏うピッタリサイズなセパレート浴衣なのだ。
ぴょんと跳ねてもズレ知らず。
ふわりと舞っても愛らしい。
どこをとってもパーフェクト!
「ふふ……ベルちゃんのお陰です! ベルちゃんはやっぱりバラがおにあいですね!」
「ありがとう。浴衣も下駄も夏の小物たちが夏の陽気に働きたがっていたから、りりの希望は渡りに船だったの。りりのお花も、とっても可愛いわ」
「このお花、ルリマツリっていうんですけど……かわいいですよね!」
笑いあって花鳥居を潜れば、二人の世界は一変した。
焼けつくような日差しは屋根同士の間に渡された簾で程よく中和され、耳を擽る花s風鈴の音は涼やかで雑味がない。
音楽に詳しくなくとも、花風鈴自体の質の高さが伺えるというもの。
「……!」
「これは、ふふ……綺麗だし、みんな楽しそうね。それに――蜜がとても、甘いみたい」
「すごいっ! すごいです、ベルちゃん……!空にお花が咲いてるみたいで、とってもきれいですよ……!」
瞳を一等星のように輝かせ喜びのままにはしゃぐりりに、ベルナデッタの眦は緩く弧を描いてしまう。
「りり、お祭りらしい出店も見えたけど、ここは花蜜ラムネを楽しんでみましょうか?」
「花蜜ラムネ! いきましょうっ、なんだかいろんな色があってまよっちゃいますね……?」
歩みを揃えて向かった先、氷浮かぶ桶に入れられた花蜜ラムネの硝子瓶には蜜玉がキラキラと瞬いていてりりの言葉通りベルナデッタも迷ってしまいそう。
「どの子がいいかしら……」
「むむ、わたしは……あ! それっ!その水色とオレンジ色の子がいいですっ」
『はいはい、これだねぇ?』
ラムネ売りの老婆がりりの言葉に“慌てんでええよぉ”と取ったのは、蜜玉の裡でまるで暮れ行く空のように美しく色の滲みあう一蕾。
「へへ、お昼から夕方のお空色ですっ」
「なるほど、色が変わりゆくのも素敵ね。——ああ、ワタシはこの青と赤のグラデーションのものを」
『はいよぉ』
キンと触れた指先の熱を奪うようなビンを手に、りりとベルナデッタは丁度空いていた縁側へ。
朝顔咲くうちわを借りて、ぷしゅりと開けたラムネ瓶へそうっと口付ける。滲む甘さは濃厚——下に残る甘さに果実感を感じるは色味ゆえか。クスクス笑いあって見上げた花風鈴に、短冊が揺れて——ふるりと耳を震わせたりりが恥ずかしそうにひそりこそり。
「ベルちゃん、あの……」
「りり?」
こてんと首を傾げたベルナデットの薔薇が夏の風に揺れる。
近しいはずの賑わいは少しだけ遠退いて、意を決した顔でピ! と尻尾を立てたりりが――。
「じつは、短冊がちょこっと気になっていて……あっ、でもこの子を咲かせるコツが書かれたものもあるらしいんです! でもでも、花風鈴のお迎えもすてきって思っていて……!」
「ふふ、勿論。和歌探しも楽しそうだし、探しながら腹ごしらえも素敵よね。この先では花氷屋さんも待っているそうだけど——」
●欲張らなくちゃ、だって今日はお洒落なんだもの
夏の風に躍る風鈴の音というのもは、どうしてこうも透明なのか。
ジメりとした日本の夏らしい暑さにそれだけで辟易してしまいがちだが、涼やかな音を聞いただけでわずかばかり心に余裕が生まれるというもの。
ふぅ、と簾と花風鈴の影へ入ったララ・キルシュネーテ(白虹迦楼羅・h00189)がやっと人心地つけたと深呼吸する其処は、夏の花鈴回廊。
「——綺麗な音ね、イサ」
「ん……花硝子の花風鈴、綺麗だな。たしか、無垢の蕾に色蕾を掛け合わせて作る――だったか」
ララと同じく天を仰いだ詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)が口にしたのは、花鳥居を潜ってすぐに聞いた、花神輿をの担ぎ手たちの会話だ。聞きかじった程度なものの、この地でしか取れない蜜玉の中でも、半数を占める色無しの無垢蕾は蜜がなく、昔は使い道に困っていたのだとか。ある時誰かが、それが炎に溶け冷え固まると透明な美しい物へと変わると知られて以降この花風鈴は生まれたのだという。
そんな偶然を美しいと祭り、祝う習慣ができたのはここ百数十年程度で妖怪たちからすれば“最近”程度の話なのだとか。
「でも、本当に不思議ね? 一体誰なのかしら、焱へ無垢なこを投げ入れたのは」
「さぁ? でも、お陰で聖女サマのお気に入りも探し甲斐がありそうだ」
「ふふ、そうね。ララのお気に入りを見つけたいわ、イサ」
ふわふわと擬態モモンガの尻尾をゆらしたララはご機嫌で、その小さな背を見つめながら横目に気付いたラムネ屋へ、イサは一言二言声を掛ける。“まいどあり”と穏やかそうな垂れ目の雪女の店主からイサが受け取ったのは花蜜ラムネの瓶二本。
るん、と歩くララが額伝った汗をハンカチで拭えば、その指先へ当てられたのはキンと冷えたラムネ瓶。薄桃色の桜めいた蜜玉抱えたそれに、無意識にララの口角は上がってしまう。
「さすが、ララの守護者は気が利くわね」
「それはそれは恐悦至極。ほら、聖女サマ」
“乾杯”の言葉なく瓶をぶつければ風鈴とは異なるまた涼やかな音色が耳を打つ。イサが天色の蜜玉抱えたラムネ瓶を傾けた瞬間、視界てぽふりと膨らむふわふわが。
「……とっても刺激的で素敵なお味ね」
「ああ、思ってたより爽やかだね」
ク、と笑いそうになった喉をイサは炭酸で誤魔化して、まだ膨らみのお納まらない尾のまま瞬いたララの瞳がふわりと色付いた。
「ねぇイサ、見て。あの風鈴の短冊——……和歌が書いてあるわ。蜜玉に……恋蜜注いで、?」
「ほんとだ和歌……これは、蜜玉を咲かせるコツかな?」
ふむ、と納得したところで視線を交わして瞬きを一つ二つ。始まった宝探しはお土産の花風鈴探しと並行で。
ふわふわりと足取りも楽し気に、ララが見つけたのは愛しい家族を想わせるものを二つ。ついつい目を奪われたそれは、蓮と桜を思わせる春を一滴垂らしたような甘い色。
「パパのも……ママのも、とっても綺麗で迷うわ」
「花逍遥ならぬ風鈴逍遥……かな? ほらララ、こういうのも綺麗だよ」
イサの気付きでさらに候補の増えたララが、“むぅ”と眉間に皺を寄せる愛らしさに、ついついイサが微笑んだのも束の間、顔を上げじっとイサを見つめたララがニッコリと絵に描いたように微笑んだ。
「——イサ、お前がララの風鈴を選びなさい」
「え」
「ふふん、栄誉でしょ?」
ちょっとドヤ顔な聖女サマはやっぱり愛らしくて、運命を選ぶという難題を前に悩む自分の如く悩みなさい! と言わんばかりな姿に、イサの口角は上がってしまう。
「——はは!有難くその栄誉、頂きますよ」
●だってそれは、先程からずっと視線を惹きつけてやまない一輪だったから
桜アネモネの花風鈴はただ一輪、まるで見つけられることが運命だったかのように嬉しそうに微笑むララの手元へ納まった。
けれどそれは、イサの視界での話。
本当はもう一輪、微かに天色交じりの桜アネモネがイサの頭上で揺れていて、今度はそれが在るべき|人《従者》の手元へ行くことをララだけが知っている。
「ねぇイサ、お前とララの夏の歌は同じでしょう?」
「(——これは、)」
“あぁなんて美しい場所かしら!”
きっと、御伽噺のお姫様ならば両手を広げてふんわりと踊るのでしょう? そんな一瞬にして溶けてしまいそうな夢が、この花風鈴の下に――否、星詠みの誘いには詰まっていた。
きっと“祭”というものは往々にしてそうなのだろう。
“噂”だって、“蜜玉”とやらだって、どれをとっても魅力的。誰が見ても美しいものの集合体だ。
「ほんっと、そりゃあ釘付けにもなるでしょ……」
そのどこか吐き捨てるような呟きを夏の熱気で掻き消して、ルーシー・シャトー・ミルズ(|おかし《・・・》なお姫様・h01765)は言葉とは裏腹な軽やかな足取りで花鳥居を潜る。勿論、その耳元にはシュガーアートの甘やかな白い小花。
花鳥居を潜った瞬間、ルーシーの頬を撫でる夏風がほんの少しだけ冷たくなった。
簾に守られたそこは、花風鈴の涼やかな音で不思議と涼しく、笑いあう人々の熱気も花蜜酒と甘やかな酒馨に惹かれつい手を伸ばしそうになって、ハッとルーシーは手を引っ込めた。楽園の——とは言わず、この√妖怪百鬼夜行でも漏れなく未成年の飲酒は禁じられている。
簾越しの光に瞬く硝子花の盃は見るからにキンと冷え、氷桶に浸かる花蜜酒の黄金色は喉から手が出そうになるほど魅力的だというのに!
「(う~……! ぜーったいお菓子と相性いいって~!)」
甘酸っぱいネクタリンのタルトにマリアージュしても、きっと花蜜酒にドライフルーツを漬けても美味しいはず! チョコレートは敢えてビターだろうか? それともベリー系のピンクショコレート? いっそシンプルにバニラアイスに掛けたって……!
出来ないと分かると余計に恋しくなりついつい色々考えてから、ルーシーはいっそ自分で花蜜を買って帰り、自宅で蜜漬けフルーツでも楽しんだ方が良いのかも? と考えが浮かんだ時、人垣の向こうに見えたのはラムネ売りの雪女。
『うちは一番冷えてるよ。さ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい』
「わぁ……! 見せて見せて!」
ひょいとその軒先へ飛び込んだルーシーは、雪女の店主がサービスしてくれた冷気で汗をぬぐい、氷の浮く桶を覗き込む。
蒼、紅、金、ピンクにライムグリーン。どれをとっても硝子瓶越しに鮮やかで、色に伴ってルーシーの脳裏を過るのは友人たちの姿や笑顔。一つ咲かせるのでも初心者には大変らしいとかなんとか聞いてしまうと、どれか一つに絞らねばとうんうん唸って——……。
「よし、まずこれください! あ、でもでも本当はこれとこれとこれとこれも欲しくって……! 咲かせるヒントが見つかったら、また」
『へぇ、お嬢ちゃんここは初めてなんじゃあないかい? いいね、そういう威勢もイイもんだ。咲かせ方のコツなら、まぁあの悪戯好きが和歌に込めてるだろうさ』
雪女の店主曰く、祭の主催者は悪戯好きの狐で、この通りを仕切っている大家でもあるのだとか。祭の際に出会えることはほぼなく、飛び回っているやら逆に引っ込んでいるやら住民さえ知りやしない。唯一硝子花を見ごとに咲かせる天才であり、毎年の盃は狐の役目なのだとか。そうして毎年、自分以外にも花が咲かせられるようにと言いながら蜜玉の芽吹かせ方をバラバラに花風鈴の短冊に和歌として記しているため、皆々天を仰いでいるのはそれが理由なのだという。
『話が長くなっちまったが、頑張りな!』
「ありがとう! うーん、良い感じのテンポで和歌が見つかりますようにー!」
ポン!と蓋代わりにラムネ瓶の口を封じていた蜜玉を押し込み、ルーシーはキンと冷えた喉越しで汗を引っ込め空を仰ぐ。
簾越しの日差し。
花風鈴の煌めき。
揺れる短冊の和歌。
しゅわしゅわぱちぱちと弾ける甘さにきゅっと目を瞑って、ぱっと開いた視界はやっぱり眩いまま。
「やっぱり夏っていいなあ~! ふふ、ラムネも美味しいし!」
●夏の冒険へ、硝子瓶を揺らして
笑って√能力者たちを見送るその背へ手を伸ばせば、触れる直前で振り返る。
「かや、花忘れただろ」
「うっそだぁ、俺なんかどっかにつけたもん!」
「そうだな。帳場の机に|つけて《置いて》行っただろ、君は」
幼馴染である華夜の左耳に掛かる髪を掻き上げた汀羽・白露(きみだけの御伽噺・h05354)が、その耳へラナンキュラスを飾り甘やかに微笑めば、華夜は絵に描いたように拗ねて見せた。
「本当はかやなら桜あたりが似合うと思ったんだが……生憎と夏に桜は無くてな」
“散ってしまう花は縁起が悪い”と言う言葉を後ろ手に、白露は揃いの花である理由を当たり前のような顔で正しくしてしまう。
「——|ずっと傍にいるって、約束しただろう?《八重に十重に二十重に、君と共に在る》」
「……まぁね」
頬を膨らませたまま、けれど小指をそろりと絡めてくる華夜に、白露は内心堪らなくなりつつ平静を装って。
「かや、お勧めはどこだ?」
「しょ、しょーがないなぁ白ちゃんは! 俺のオススメはねぇ、花蜜——」
「酒も気になるが、まずはラムネで暑さを凌ぐ……か?」
尋ねればすぐ得意顔で喋る横顔が可愛くてつい白露は意地悪をしてしまえば、白露の予想通り華夜の頬はまた膨らんでいた。
「(……かわいい)」
「もぅ! そゆのすると白ちゃんモテ要素顔だけになっちゃうよ!」
「そうか、なら俺はきみにだけ持てればいいから必要ないな」
言葉に比例して白露が華夜の手に指を絡めれば、自然と解けかけていた華夜の指はあっという間に絡めとられて、引き寄せられて確りと繋ぎ直される。
「ばっ、ばっかじゃないの!!」
「そうか?」
“ほんとやだ!白ちゃん早く選びなよ!”と言う割には翠の蜜玉入りラムネ瓶を握る華夜の頬へ手を伸ばしそうになった白露へ冷たい吐息が静止を掛けた。
『早くしとくれ、坊やたち』
「俺もう決めたもーん」
「すまない、では俺は——……これを」
『まいどあり』
花蜜ラムネを手に下駄を鳴らして、キンと冷えたラムネ瓶で僅かばかりの涼を取りながら人込みを行く。白露は華夜の手を握り人を避け、仰ぎ見た花風鈴の短冊に綴られた短歌を囁けば“ラブラブ短歌多いねぇ”と笑う華夜がクスクスとご機嫌に笑みを溢す。
そうして思っていたよりも簡単に解けた解は、ちょうど先客の立った軒先で。
「——蜜玉は一昼夜蜜漬けの後、毎日水と蜜を入れ替えると花が咲くらしい」
「マジか……思ったよりめっちゃ手間じゃん」
開いた縁側探しついでに歩く中、探した和歌を繋いで答えを見つけた白露の言葉に、やばーいと子供のように眉を寄せた華夜が冷えたラムネ瓶を頬に当てながらクスクス笑う。
やっと見つけた縁側で借りた水うちわで扇ぎながら、“溶そぉ”と呟いた華夜が、白露に開けてもらったたラムネ瓶を呷り、喉を通る刺激にきゅっと目を閉じた。その顔が、ふと白露の記憶を捲って、思い起こさせるのは二人で初めて行った夜祭のこと。
「思い出すな……ほら、昔一緒に行った祭でラムネを飲んだだろう?」
「へへ、白ちゃん初めてのしゅわしゅわにびっくりしてたよねー」
「……幼い頃の話だ」
仰向けに寝転んだ華夜を白露が水うちわで扇いでやれば、猫のように懐いて来た華夜が白露の膝に頭を乗せる。
「……まぁ、蜜替えも水やりも途中で忘れそうな君には言われたくないがな」
「わっ、わっすれませんけどー?!」
「そうか? じゃあ、蜜漬けのあと蜜玉はどうしてやるんだっけ?」
「……み、水かける!」
「残念、不正解だ」
「きぃー!」
「はは。安心しろ、俺が面倒見てやるから」
――勿論、君ごと。
皆まで言わない白露がラムネの空瓶二つから蜜玉を取り出し手拭いに包むと、足を向けたのは白露のお目当て花蜜酒の屋台。
「白ちゃん白ちゃん、やっぱ振る舞い酒はガッツリいっちゃう?」
「いや? せっかくだ、桜の猪口で一緒に楽しもう」
大きめの盃に瞳輝かせる華夜の肩を引いて、艶やかな一対の硝子桜の猪口と糸瓜蕾の小徳利を手にした白露が華夜と再び縁側で“乾杯”と微笑みあったのは|四半刻《しはんこく》ほど前のこと。
「……かや」
「んふふ、おいしーねぇ」
桜の猪口に口をつけ、こくりと飲んではふふりと笑う華夜の口調は花蜜酒以上にとろりと甘い。甘い酒のせいか華夜は進みも早ければ酔いの回りも早く、白い肌を桜色に火照らせ甘える酔っ払いへ。
「これ以上は駄目だ」
「おれ、よってないもんっ!へーきらもん!」
「君は酔っ払いの鑑か」
“俺付喪神じゃないから、かがみじゃないもーん”と的外れな回答をしている時点で、華夜は十分酔っ払い。華夜の供える神酒で慣れた白露にとって花蜜酒はジュース同然だが、華夜には十分過ぎた。
見かねた白露に桜の猪口を取り上げられた華夜は、白露の膝に仰向けに寝転んだまま猪口へ手を伸ばし取り返そうと奮闘していたものの、どうやら諦めもついたらしい。
ぎゅう、と白露の腹にしがみついて顔を擦り付け甘えていた。
ちりん、と花風鈴が鳴る。日が傾き始めた空気の冷えに華夜の背を撫でた白露は、通りかかった風鈴屋に一つ注文を。
●「あの桜色のアザレアの花風鈴を一輪、貰えないだろうか」
第2章 冒険 『七色龍の眠る川』
    祭の賑わいを背にカラコロと下駄を鳴らす星詠み――御埜森華夜が案内したのは、“龍の川”。
「ほら見て見て、お水すっごいきれーでしょー? それにほら、」
へらりと笑う顔はどこか甘い酒の香りと火照りを持つものの、“今日はいーの”なんてウインク一つで誤魔化し、“ほら見て”と指さす先にはふわふわりと薄暗くなった川辺を飛ぶ蛍たちが見えている。
「んふふ。龍の川わね、蛍も素敵なんだけどー……あくまで噂だけど、川の石を手に願いを囁くと、龍神様が願いを叶える手助けをしてくれるかもしれないんだって」
眉唾ものの噂だが、人というものはつい神に縋りたくなる時もある。物は試しで踊らにゃ損々、今宵は祭だ神様もきっといらっしゃる——とは、祭で妖怪たちの笑い声にもあったような……。
「俺おばけとかは信じない方だけど、なんてゆーか……この川を覗き込むと、不思議と胸の奥まで澄んでいく気がするんだ」
“だから、皆なら叶うんじゃなーい?”と悪戯な子供のように笑っている。
そして、願いがなくとも冷たい川の水に足をつけ、まだ名残る昼間の暑さを吹き飛ばすのも良いだろう。竹灯篭で照らされた道を辿れば安全だし、座れるところには分かりやすく提灯もある。
「そーだなぁ……もう少しで日が暮れちゃうけど、誰彼時だからお話しできることってーのもあるんじゃない?」
なんたって、今日は秘密の特別なお休みの日。
祭の余韻を楽しんで話すのも良いし、心地よい川のせせらぎに思いをはせるも良し。幻想的な水面のきらめき。蛍が星のように瞬く中、自分や友人を撮れば――その一枚ごとが思い出になるかもしれない
そしてこの暇に、|来《きた》る花氷の蜜屋で何にしようかと相談するのも良いだろう。
何でもしてよくて、きっと何にもしなくても良い。ごろりと川辺で寝て、|近い星々《蛍の光》と遠き星々を比べ楽しむのも良いのだ。
――どうか素敵な黄昏時を。
さらさらと美しい川のせせらぎが耳を擽り、ゆっくりと日の暮れてきた夏の蒸す空気を涼やかな川風が押し流してゆく。
ふわ、と白いワンピースの裾を翻したララ・キルシュネーテ (白虹迦楼羅・h00189)が想紅花一華の花眸で、時折きらきら瞬く川底を覗き込んだ時、ぴょんと跳ねて。
「イサ、綺麗な川についたわ」
「ああ、深呼吸したくな——……ララ!」
ぱしゃん。
ぐっと体を伸ばし、日中の熱気に無意識に縮籠めていた体を詠櫻・イサ(深淵GrandGuignol・h00730)が伸ばすのと、ララが名残る熱気から解放される良い方法を思いついたのは同時だった。
イサが思わずララの名を勢いよく呼んだのは、ララが無防備に浅い川へ足を浸したから。
「……平気よ、心配性ね」
「急に飛び込んだら危ないだろ! それに、足を切ったらどうするんだ」
眉を下げ心配そうにするイサの優しさも想いも理解しながら、ララはついつい“大丈夫よ、ララ子供じゃないもの”と眉を吊り上げてしまう。
ぱしゃぱしゃと川の水を蹴りながらふと、ララは川底の石がどれもこれも丸く平たく滑らかなことに気が付き気分を良くしながらイサへと微笑みかけた。
「イサも来なさい、龍神が願いを叶えてくれるかもしれないわよ。」
「たしかに、龍の住まう川——というのも頷ける透明度だね。そういえば、ララは迦楼羅だしこう言う龍も食べるの?」
冷たく清らな水という透明度と、ご機嫌なララが全てを証明している。
夏の暑さとララの機嫌をより上げてくれた川に感謝しながら、イサは軽く肩を竦めてご機嫌な聖女様と共に川を行きながら、ふと小首を傾げた問いに、ふんすと胸を張ったララが背の小さな翼をパタパタと自慢げに。
「むふふ、ララは迦楼羅だけど、ララが食べるのは悪龍とされるものよ?」
「——はは!悪龍を、か。それは頼もしいね」
“イサに何かしようとする龍なんて、一口よ!”と得意げなララの姿を見つめる自身の“顔”に、イサは気付いていない。兵器と自覚のあるその身が、何よりも信じ愛でる|ララ《家族》に、何物にも代えがたい慈愛に満ちた顔をしていること。
笑いあって歩むうち、気付けば互いの表情が薄闇に惑わされ分からなくなっていく。
静かに泣く鈴虫やコオロギの声が夏の侘しさを強め、水平に赤く熟れた夕日の光が影を伸ばすせいでつい物寂しさが増してしまう。
――|黄昏時《逢魔が時》
見上げた瞬間に迸った朱金の光が目を焼いて、右も左も上下さえ奪うから。
「(——何故、ララはひとりぼっちなの)」
ララ自身が、ぽんと浮かばせた言葉がララを襲う。
“だめだ”と分かっているのに思った言葉の闇が他を伸ばして足を掴むから。引きずり込まれるような、溺れそうになる感覚に足を止め、ワンピースの裾を握った。
「(やだ)」
「(いやよ、ララは)」
忘れようと頭を振った時——その身は、現実へと引きあげられる。
「っ、むきゅ!?」
「……ララ、ララは俺の神だろ」
抱きしめる白磁の腕。ふわりと馨るもうララには馴染んだその匂い。耳を打つその聲が、川のせせらぎを、虫の鳴き声を、家へ帰る鳥たちの羽搏きある|世界《現実》へとララを呼び戻す。
*
ノスタルジックとは聞こえがいいが、それは誰かの想いが“その一時、瞬間”に縫い留めら、奪われている瞬間ではないんだろうか。
誰よりララに近しく存在しているイサは、ララが夕日沈みゆく空を見る度に切なくどこか寂し気な表情をすることを知っている。
それはイサには見せない顔であり、妙に遠く感じてしまう瞬間でもあった。
そうして星詠みの言葉通りにやってきた|この時間《逢魔が時》に、突如としてぼうっと遠くを見たララに気付いた瞬間、イサは常と違って焦った。いくら呼びかけようと答えないララが、遠くへ行ってしまそうで。
“隣の人の顔も分からなくなる、誰彼時”——逢魔が時をそう称した星詠みの言葉が脳裏に浮かぶと同時、ララが“何か”に浚われるのではないかと過り、|家族《ララ》へと手を伸ばす。
「(……俺の知らない、本当のララの顔をする)」
両親とはぐれた小さな迦楼羅の雛女。イサの“聖女サマ”を、ただ抱きしめた。確かめるように、現実へと繋ぐように。
膝へと抱え川辺に腰かければ、もう夕日は沈み切っていた。
°。
˖.
✧
虫が鳴く。
涼やかな夏の空気が頬を撫で、川のせせらぎは美しいまま。ふわと飛んだ光がいくつもいくつも増えてゆく。
「……イサ。イサ、見て。蛍だわ」
「ん……蛍、か。風流だね」
ララの透き通る髪を指で梳きながら撫でるイサの手は、優しい。最初は驚き、“歩けるのだわ!”と強がっていたララも落ち着いた今はイサに身を預け、幻想的な蛍の夕べを凪いだ心で楽しんでいた。
●「ただいま」も「おかえり」も、視線を合わせて言葉なく君と
「(……ララはひとりぼっちじゃない)」
「(キラキラ綺麗なのは、笑ってる聖女サマの方なんだけどな)」
日が、暮れてゆく。
燈り始める竹や紙の灯篭のぼんやりとした光が美しさを増す中、誰彼時の薄闇にからころ下駄を鳴らした廻里・りり(綴・h01760)の揺れる尻尾に、ルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)はつい微笑んでしまう。
未だ歩き回った昼間の熱が足の裏から抜けず、ゆるゆると暑い足のまま川べりを歩むうち、くるりと振り向いたりりが指差したのは蛍がふわふわと踊る川——の、中。
星詠み曰く、龍の川自体はとても浅く足を付けたところで踝程度。最も深い場所でも膝まで程度だから、水に足を取られない限り安全と聞いていたのだ。
「ちょこっと歩き疲れちゃったので、すわりませんか?」
「たしかに。昼間は随分沢山歩いたものね……あそこ空いてるし、座って休みましょうか」
ちょこちょこと歩むりりの背中のその尻尾が、ふわと川側へ傾いては、ピ! と戻る。そうしてまたゆるゆると傾いては、ピ! と戻る。そんな可愛い所作を見ながら、ベルナデッタは反射的に口元を押えて笑いを閉じ込めていた。
明らかにせせらぎの心地よい、きっと冷たくて気持ちの良い川にりりは興味を惹かれていて、その影響の全てが尻尾とぴるぴる震えては川の音を拾い、ぱしゃんと魚が跳ねればピ! とこちらもしっぽと同じく反応していて可愛いなんて、愛でる意味での気持ちを伝えていいものかと迷ってしまう。
正直、“かわいい”以外の感想が少ないのではなく、見ていると思考の7……いや、9……いやいや押し込めて8割ほど占められてしまいそうだから。
「……ベルちゃんっ」
「ふふっ……ん、こほん。どうかしたの?」
今のけほんこほんはわざとらしくなくて、たぶん100点。
楚々と微笑むベルナデッタを見つめるりりの瞳が星よりも瞬き、“言っちゃうぞ!”という光を纏っているので、何となくりりの言葉の続きを察しながらベルナデッタは敢えて聞く。
そう、決して可愛いの本音を隠そうとしてではなく敢えて。
「その……浴衣の裾って、濡れないようにするには——」
「あぁ、ならここをこう持って……そうそう。で、こっちも香摘まんであげれば、ほら」
「わ! ありがとうございますっ、えへへ……川の水、やっぱりとっても冷たいですっ」
最初はそろりと下ろされたりりの爪先が川に波紋を生み、ぞわわと川の水の冷たさにりりの耳の先っぽまで震えた後に踏み出したその足が柔らかな肌当たりの水に包まれる。
伝わる冷たさも、慣れてしまえば優しいものでこの夏には至極心地よい。
「ベルちゃん、ほら! すごくきれい……本当に龍が住んでいそうです!」
「たしかに。うん、想像よりも涼しいし、気持ちいいわ」
“ね!”と笑いあって水辺でくるくるりと踊っていたりりがハッとして、急いで片手でベルナデッタの摘まみ上げてくれた裾をまとめて持つとその隣へ腰かけて取り出したのはスマートフォン。りりの愛器、お喋りなフォルテッシモだ。友人と遊びに来て楽し気なりりとベルナデッタに水を差すまいと眠ったように静かな賢き器物。
液晶をたぷたぷと滑る小さな指先が紡ぐのは、二人で探した蜜玉の咲かせ方についてだった。
「見つけたコツ、メモしなくちゃですっ。うーん、ベルちゃんはいくつくらい見つけられましたか? ぜんぶ、見つけられたかな……?」
「たしかに。ワタシは——……」
蜜玉を蜜で浸すこと。そして愛で、理想の花を伝えるのがよいとされている。
大輪が良い、赤みがかった青が良い、紫っぽい赤が良いなど、言葉を掛けるほど理想的に咲くのだという。祭りの盃に使われていたものは、二人の情報を照らし合わせた結果“ただ蜜に漬け、その蜜を水と交換しただけ”の言葉も想いも込められていないからこそ透明なものだけが並んでいたのだとか。
「ふむ……咲かせるには、“みつ”がひつようなんですね……!」
「蜜は必須だね。けれど、何蜜が良いか……までは見つけられなかったな」
「ですね、でも――」
しゃらり、とりりの取り出したレンゲソウの花風鈴は淡いピンク色。夜空に透け、蛍の光に照らされればそれはそれは幻想的で美しかった。
「——あら、この景色と花風鈴でまた写真を撮るの?」
フォルテッシモのカメラを起動させたりりの手元をベルナデッタが覗き込めば、“はい! そうだ、こうしてベルちゃんを……”と意気込むりりは、やっぱり眩くて。風景も花風鈴も素敵だけれど被写体は一人ではないし、とベルナデッタが微笑んで。
「ね、せっかくだからインカメにして二人で撮りましょう。インカメはこう…調整はあなたのスマホにおまかせね」
「インカメ……わぁっ! 画面にわたしとベルちゃんがうつってますよっ」
●ほら、笑って?
「ばっちり。ワタシばかりでは寂しいもの。こうして撮りましょうね。それと、上手くできるように、龍の川に願って見ましょうか?」
「はい! たしかに……おねがいごとをしたら、お花がよりきれいに咲いてくれそうな気がします!」
二人でなら、きっと素敵な花も咲かせられるから。
徐々に空は紫色へと変わってゆく。
逢魔が時、誰彼時、黄昏時——佐々間の時間の呼び名は多々あれど、摩訶不思議なこの時間にはどれもこれもがよく似合う。
「まるで、蛍が星のようです。宝石にも見えそうですが……うん、やはり星のよう」
「ああ、見事な夏の景色だね……にしても、さっきの花蜜ラムネをもう一本買っておくんだったな」
ふわ、と舞っては点滅する蛍たちに瞳を細め、川風に躍る髪を押えた天神・リゼ(|Pualani《プアラニ》・h02997)が微笑めば、そんな姿と言葉に喉を鳴らして笑った藤春・雪羽(藤紡華雫・h01263)は命を燃やして羽搏く蛍を肴に|夏の風物詩《花蜜ラムネ》を嗜んでも良かったかと悪戯に呟いた。サラサラと流れる川の音は耳障り良く、自然と暑さに肩肘を張っていた体が緩められてゆくのを二人は感じていた。
「美しい川ですが、蛍達はこんな風にひと夏の恋を探して願いの川で眩く飛んでいるのかしら?」
「ん、そのようだね。……はてさて、此処ではどんな願いが飛び交うのやら」
“蛍達の願いが沢山飛ぶかもしれないよ?”と笑う雪羽の言葉に、“沢山の蛍を見るのは初めてですが、そういうロマンチックなお話を思い出したの”とクスクスと笑うリゼがふと覗き込んだ川底にはキラキラと瞬く石は、星詠みの話通りまるで龍の鱗のよう。
「——そうだ、雪羽さんは何をお願いしますか?」
「ん?私かい?……ふふふ、秘密さ」
振り向いたリゼの顔を横目に、幸ビルに人差し指を当て意味深に微笑んだ雪羽がパチリと綺麗なウィンク。お茶目なその仕草ながら、雪羽の瞳は願い事を悩むリゼを見抜いていた。
「なんだい、そんな“願うのは勿体無い”みたいなな顔をして」
くしゃくしゃと撫でられれば、くすぐったいです、と笑っていたリゼが笑って、キラキラと蛍の光に瞬く金の髪が、彗星のように夜風に踊る。
「そ、そんなことないですよ?んー……では、雪羽さんの祈りが届くようにお願いしますからねっ」
「あっはっは!そんな勿体ない……ちゃあんと、自分の分は自分のためにお使いよ」
指通りの良いその髪をひとしきり撫でた雪羽に、もぅ! とリゼが膨れたのも束の間、自然な所作で指を組んだリゼは川へ祈り、つられて雪羽もそっと川へと願う。
「(——雪羽さんが……大切な友人が、幸せでありますように)」
「(——これまでに出会い、時を過ごした愛おしく大切な人々が、心から笑い過ごせる幸せな日々が多くあるように)」
互いの願いが概ね同じなんて、それこそ秘密。
その願いが叶っていることだって、舞い踊る蛍と川のせせらぎが知れば良いのだ。
しばしの沈黙ののち、ハッとした顔のリゼが雪羽の袖を引く。
「そうですっ! 写真も撮りません? 素敵な景色を見てきたと皆に自慢しましょうっ!」
「写真? ——いいよ、撮ろうじゃないか。ふふ、特にあの萬屋店主にはたぁんと自慢しよう」
⚫︎「ふふ。ハイ、チーズ♪」
「えっぐ」
川のせせらぎの美しさ、蛍の舞う夕べ――まさに、人が想う自然の美を凝縮したような光景に、思わずルーシー・シャトー・ミルズ(|おかし《・・・》なお姫様・h01765)は口にしていた。
決して馬鹿にしているわけではなく、同業の星詠みから案内された場所は昼間の時点で幻想的だなとは思っていた。本当に、夏の理想の片鱗のようだと。そこへ締めの手前で蛍の夕べとは……勿論、事前に聞いて向かう場所も予定時刻なども分かっていたものの“本物”の|楽園《√エデン》でもそう多くは見られない光景に内心舌を巻いたのだ。
「(知ってたけどさぁ……ほんと、夢みたい)」
今は亡き√シュガーヘヴンでは体験できない、甘さの無い土の匂いに青々とした草の匂い。綺麗な川特有の透明な水の香り――この世界の当たり前が、ルーシーには目新しくて仕方がない。
それこそ、灯篭のぽつぽつとした明かりに照らされ川底の石も水面も煌めかせる様は、まさに名の通り“龍”泳ぐが如く。
「……もうほんと、キラキラしすぎてルーシーちゃんクラクラしそう」
眩暈がするほど美しいそこへ、そうっと手を伸ばす。
掬った指の間を擦り抜ける水はどこまでも透明で、触れただけで不思議と心地よい。無意識に口角を上げ、実物の本物の麗しさにルーシーの顔には笑みが浮かんでは零れてしまう。
「見ると触るじゃ大違い……川って、こんなに綺麗で透明なんだ。水あめとは、ちょっと違うかも」
アガーを溶かした透明感に近く、それでいてお菓子には出しきれないどこか野菜めいたような……それでいてこの|世界《√》でいう“自然”の香り。
「ん~……こほん。蛍さんたち〜こんにちは〜!」
返事なんて無いのは想定済み。“えへへ”と笑って『いつものルーシー』をやってみても、思わず零れたのは溜息だけ。コロコロと鳴く夏の虫に、リーン、リーンと響き合わせる虫たちの音色は、正にひと夏の命の輝き。川のせせらぎと相俟って引き立つ輝きが、ルーシーの纏っていたお洒落なクリームも、可愛らしいデコも、煌びやかな飴細工も気付かぬうちに剥がしてしまっていた。
ちゃぷりと浅い川へ爪先を差し入れれば、自然な冷たさが背筋を撫でる。
「(きもちい……ほんと、なんか願い叶いそうかも?)」
しかし、ルーシーは微笑んだ星詠みが言っていた言葉は若干眉唾だった。噂は噂、信じる者は救われるかさえ曖昧な、半信半疑。けれど、“果たして叶うかな?”と、ルーシーは口にはしなかった。ただ、ちゃぷちゃぷと川面を足で打っては波紋を生んで、無視の声に耳を澄ませるばかり。
「(だってあたし、神に縋ってもいいことなかったし……?)」
いくら祈ろうと神はおらず、無慈悲に簒奪された愛しい|国《√》。難いなんてことは無いけれど、それでもどうしたって信じきれない理由ばかりが前に出る。
けれど、異界の|澄んだ場所《綺麗な自然》は尊い。心が洗われて、なんだか信じてみたい気持ちになってくるのだから。
「はー……。あー、こういうのは籠める願いを選ぶのがベターなんだよねえ……叶いそうなの。んー……あっ」
“これからも、もっと楽しいことが起こり続けますように”
無意識に組んだ手で、|身が世界に溶け込んでしまいそうな気持ちで《純粋にただ真摯な心のままに》祈ったルーシーは、想う。
過去を想い願うより、今を。
愛せる今を彩れば、未来はよりよき色へと変わるだろう。
酸いも甘いも噛み砕き、苦いも吞めるようになってしまえばブレイクタイムに珈琲だって楽しめる。
より分けて、美味しいだけを楽しむ方がきっと|簡単《イージー》だけれど、賢くより楽しく生きた方がきっともっと面白い!
それに、|夏花鈴回廊《花風鈴通り》を出際に偶然目の合った|同業《御埜森華夜》に口パクで言われたのだ“休みなよ、おひめさま”と。そうして微笑んで去ったその背中に一瞬面食らったものの、ぐうっと暮空へ腕を伸ばして川べりの椅子に腰かけたルーシーは、川の水を蹴りだして空を仰ぐ。
「(……確かに、今日は一人で来てよかったかも)」
夏の暑さにやられただけさとうちわで扇げば気分良し。蜜と氷を迎える準備も万端になってきた。
「よーっし、まず|最初の未来《このあと》を思いっきり楽しんじゃうぞ!」
●この後もまだまだ星空が綺麗でしょう
「かや」
呼べば振り返り甘く微笑むその顔に、つい汀羽・白露(きみだけの御伽噺・h05354)はホッとしてしまう。
真白い髪は黄昏に浮かぶのに、どうしてかどこか世界に溶けてしまいそうで、涯には蕩けて消えて——いや、紛れて分からなくなってしまいそうな|幼馴染《華夜》から目が離せない。そんな白露の気持ちを知ってか知らずか、当の華夜はへらりと笑って脱いだ下駄を手にすると浅い川をバシャバシャと歩いて跳ねて水を蹴ってと振舞う“酔っ払い”。
「……かや」
「んー? えへへ、大丈夫だってばぁ。もぅっ! 俺、子供じゃないんだけど!」
「子供じゃなくても酔っ払いだろう? そろそろ酔いは醒めたか?」
むぅ、と膨れたその顔は到底成人済男性には見えず、自身の前にだけ晒される無防備な幼さについ白露の脳裏に浮かぶのは“愛らしい”という感情だけ。けれどそんな気持ちは若干押し込めて“こら”と言えば、えー? なんて華夜はやっぱり悪びれない。
「しょーがないなぁ」
「ん?」
「はい」
「は?」
すいと差し出されたのは、華夜の空いた左手。右手に下駄も水風船も引っかけてぎゅうぎゅうにしたまま、“ん!”と差し出された手は早く繋いでと言わんばかり。
陽が沈み切る直前、目を焼くような朱金の輝きが世界を支配する。伸びた影が川面に乱されようと、その輝きに染まった華夜の瞳は真っ直ぐに白露だけを捉えていた。
「白ちゃん、ほら。おいで、俺と一緒に――いこ?」
……さらさらと、龍の川の水は澄んだ色のまま流れている。ぱしゃぱしゃと川を歩く音は二つに増えて、しっかと繋がれた手は解けないまま。
川底の石は白露が視認できる限りどれもこれもが丸く角が取れて、まるで鱗のよう。川辺の灯篭や川沿いに植えられた木々間に吊り下げられた祭提灯の光でキラキラと瞬いているそれに微かに神気が馨る。
「(……なるほど)」
祈りを糧とし願いを肥やしとしてこの川の神はただ静かに生きているらしい。幼い付喪神ながら愛されたその川の真の姿に気が付いた白露は眦を緩め空を仰ぐ。
薄紫の空は気付けば紫紺へと染まり、星々が瞬き始めている。夜に染まった華夜は白露の手を引いたままズンズン進んで、とうとう来たのは川の中でも少し開いた場所。
「はい、そこ座って! ほらほら早く! いーい?今日はお休みなの! オフだよ、オ・フ!」
「そうだな、最初にかやがそう言っただろう。忘れてない」
「だから、はい! 今日はスペシャルに俺が白ちゃんを甘やかしてあげよう。ほらほら、この俺に甘えてみるといいよ」
隣に座った華夜に腕を引かれ、バランスを崩せば受け止められぎゅうっと強く抱きしめられる。まるで宝物を抱きしめるように、けれど壊さないように確かめるように抱きしめられた白露も、そろりと華夜の背に腕を回していた。
ふわ、と舞う蛍が気付けば二人の回りをふわふわと舞っている。
「かや、ほら……蛍も綺麗だ。短い命を、こうして美しいと拝むのも悪くはないな」
「綺麗な俺っぽくない?」
「……何を言ってるんだ」
“誰がお前を散らしてやるものか”——とは、白露の心の裡でだけ。
ゆっくりと体を離せば、未だ繋がれたままの手はそのままに頭上を仰ぐ華夜がクスクスと悪戯に成功した子供のような顔で“思ってたより綺麗じゃない?”なんて笑うから。
「あぁ……綺麗だな。本物は、ほんとうに」
想像よりも、仕事の依頼で蛍とモデルを何度撮ろうとも、隣で笑う白露にとっての本当の美しいものには何ものをも敵うことは無い。未来永劫、絶対に。
「かや、そういえば石を拾って願いを掛けるんだろう?」
「あ、そうそう。まぁ無くても良いっぽいんだけど、想いでとしてはそっちのが良いかなーって」
噂にも色々あるらしく、その中でよいと思ったものを一例として紹介しただけ、と微笑む華夜に、白露はとうとう笑ってしまった。
願いが叶う“かも”とは上手く言ったものだ、と。
占いに同じ、当たるも八卦当たらぬも八卦、願うのならば相応の努力をと世間は言う。噂や迷信の類でないのならば、神の対価の要求先が案内した華夜になるのではと密かに白露は気になっていたのだ。
「で、どうするんだ?」
「何を?」
「かや、君は何か願うのか?」
虫の声沈黙が支配した。
夏の虫の声で満ちていたその場がほんの一瞬静寂に包まれ、ふるりと華夜が首を振った瞬間世界に音が戻ってきた。
「(——やっぱり)」
華夜は自分の為に“願い”は掛けない。
希望や小さな望みを口にすること、“おねがーい!”と冗談めかしたことを言うことは在れど、『願い』というものを口にしない。絶対に。
「てゆか白ちゃんは?無いの?」
「神が神に願ってどうする」
「そりゃあまぁそーかもだけどさぁ……」
恐らくこの川の神の方が歴や神格が高いかは分からぬが、歴が浅くとも白露もまた神。願うことなど何もない。
寧ろ、あるとすれば別のこと。願うのではなく、祈るでもなく、己の力を以って現実にすると決めている——華夜の幸せ。決して誰にも叶えさせることのない、白露がその手で叶えたい、叶えるべきと生を受けたその時からの誓いだ。
真白い頬へ手を滑らせ、白露は問う。じっと、浅い黄緑のカラーコンタクト越しの華夜の白い瞳だけを見つめたまま。
「……かや、願うなら俺に願え。見ず知らずの神じゃない、“俺”に。さぁ――なにか願いがあるなら言ってみろ」
●「俺の気分次第では叶えてやらないこともない」
「えぇ~~~~~……じゃーあ、この後のカキ氷半分こにして?」
第3章 日常 『君に捧げる花を』
    川面に蛍と星々の輝きが映り、昇りきった月が皆々の影を伸ばす頃にそれはやってきた。
がらん、ごろん。
重たそうな低いベルの音は夜を邪魔せず、ただ夜に溶けゆく。
『こんばんわぁ、とってもとっても良い夜ですねぇ』
とろんと蜜のように蕩けたような声で挨拶をしたのは、透明な羽を震わせる蜂の人妖であった。
夜にきらきらと瞬く蜜色の髪を揺らした彼女は、人好きする笑顔を浮かべると√能力者へ手招きを。
『よいっ、しょ……ふぅ。熟成させていた蜜があるのだけど、あなた達はどんな味が好きかしら? ぜひ、試してみてくださる?』
花を漬けた蜜に、山の苺や葡萄を漬けた蜜、硝子花から採ったという蜜はどこまでも透明だがふんわりと風に乗る香りは爽やか。
黄金色の向日葵蜜は夏の日差しの残り香があり、ハーブから採取した蜜は香りもさることながら丁寧な採取のお陰で癒しの効果も高いと評判、と楽し気に店主は笑っている。
勿論、星詠みの言っていた香りも色も艶やかな百花蜜は馨しく、涼やかに透ける蓮華蜜は月光さえ透かす。並ぶ香ばしい蕎麦蜜も、濃厚な蜜彩を屋台の電灯でいっそう魅力的にさせていた。
『氷と一緒に食べると、ただ蜜を吸うよりも皆さんには食べやすいと思うのよ。それに暑気払いに、冷たさは必要でしょう?』
そう笑う指先で取り出された氷が使い込まれた削り器へ入れ込まれ、その下には広口な硝子花の器がセットされる。
『私、“おもてなし”と“秘密”って言葉の響きが大好きで始めたの。皆様も、楽しんで言ってね』
しゃりしゃりと氷の削れる傍らで、いらっしゃいませと微笑む声が夏に溶けた。
°˖✧🍯✧˖°
蜜氷タイムです。
まだ熱気の残る夜に、削った氷に蜜を落として夜を楽しみませんか?
こんな蜜はありませんか?とお尋ねいただくと、店主はにっこり出すでしょう。
せせらぎ心地よい川辺に腰かけて、氷の冷たさとお好きな蜜をどうぞご一緒に。
蜜氷屋の店主と二三言話した|星詠み《御埜森・華夜》が“ようこそ”と笑って招いてくれて以降、興味津々に蜜瓶の群れを見つめる廻里・りりの耳は、細やかな音さえ逃すまいと耳をぴるぴると震わせていた。
ハイカラな淑女だって童話の姫君だって、目の前に氷の如く透き通る硝子の花の蜜を見せされればきっと虜になってしまうだろう、とクスクス笑みを溢しながら。
『こんばんわ、お嬢さん方。とっても良い夜にお越しくださってありがとう』
「こちらこそ、素敵な夜に素敵なお店と貴女と出会えて光栄だわ」
店主と笑みを交わし、フフと笑うベルナデッタ・ドラクロワ(今際無きパルロン・h03161)の声に、ハッとしたりりが大粒の瞳で瞬きを二度三度。じっと店主の指先を見つめていた視線を店主へ移し、慌ててぺこりとご挨拶。
「こんばんわ、お姉さんっ! すごい、いろんな蜜があるんですね……!」
『蜜にご興味がおありなの? 嬉しいわ』
“気になるものがありすぎますっ”と無意識に尻尾をゆらゆら悩むりりの隣、眦を緩めたベルナデッタが、丁寧に氷を削る店主へ先程二人でまとめた蜜玉の咲かせ方についてを訪ねていた。
「そうだ、実はワタシたち“蜜玉の咲かせ方”を調べていたの」
『あら、蜜玉の?』
「えぇ。蜜玉は“蜜で浸すこと”と“愛でて理想の花を伝えること”なのでしょう?」
“お若いのに、目の付け所がステキね”と微笑む店主に、甘やかに微笑んだベルナデッタが瞳の奥を輝かせながら“そこで、”と本懐を告げる。
「蜜色のあなた、この子を咲かせるのにぴったりな蜜も頂けないかしら? お祭りで出会えたこの子の、まだ秘められた姿に逢いたくて。——ね、りり」
「はぅ……果蜜も、花漬蜜もとってもいい馨り。甘さも違うし——はっ! そうでした、蜜玉用の蜜もほしくって……!」
ベルナデッタがちらりと視線を投げれば、屋台にかぶりつきだった少女の背筋がぴしりと伸びる。そんなりりとベルナデッタの小さな掌に転がった蜜玉が屋台の電灯に輝けば、瞳を細めた店主が艶やかなウインクと共に“勿論!”と笑んだ。
『なら、硝子蜜に漬けましょう。貴女たちの願いの声が必ず届くように。それはそれとして、掛ける蜜は何が良いかしら?』
店主の色好い返事に、輝かせた瞳をぱっと見合わせて。二人は蜜氷を楽しむ乙女へと早変わり。
「……ううー、やっぱり悩みます! どれもこれも気になって……! ベルちゃんはもう決まってますか?」
「ワタシも……こうしてみると、中々悩ましと思うものね」
唸って唸って、氷が解け始めるその手前。
ピンと閃いて言った蜜の名前が偶然にも違ったから、夏の乙女な二人はお味見交換だってできちゃうのだ。
「はい、りり。こっちは三年前の硝子蜜……どう? 口に入れた時は濃厚だけど、後味の香りは今年のものよりも芳醇だと思うんだけど」
「! ほんとですっ……むむむ、最初はちょっとキャラメルみたいだけど、終わりは百花——いえ、蓮華蜜ですっ」
“好き”を集めるのが上手なチンチラガールは舌もグルメに鋭敏で、悩む間二人で一緒に味見させてもらった末に決めた蜜の違いに舌鼓を打った甲斐があったというもの。
「ふふ、りりの表現は素敵ね」
「へへ、ベルちゃんとお揃いの硝子蜜だけど、熟成させただけでこんなに違うなんてびっくりです」
“ベルちゃんも!”とりりの差し出した匙をぱくりと食んだベルナデッタも、りりの選んだ硝子蜜——昨年の夏収穫された柑橘めいた苦みと酸味を抱く夏硝子の蜜に胸がきゅんとしてしまう。
「やっぱり、冷たくて涼しくて……暑くないとこの気持ちよさも味わえないと思えば、夏も悪くないものね」
「夏だけのキラキラを、今日はたくさん楽しめました……! そうだ——」
●『きみの花は』
ルリマツリ色の星空に、薔薇色の星が瞬く夜は思い出に。
ひらと手を振った夜に白いインクを落としたような|星詠み《御埜森・華夜》と、屋台の電灯に照らされ艶やかに微笑む蜜蜂の人妖の微笑みに誘われ、不思議と天神・リゼ(|Pualani《プアラニ》・h02997)と藤春・雪羽(藤紡華雫・h01263)は小走りになっていた。
なんてことはないのに、焦ることなんて一つだって無いというのに。
夏風に乗る甘やかなのに爽やかで、それでいて柑橘の酸味も感じさせるような蜜の馨りはどこまでも香しい。
「ふふ……満を持して。遂に蜜氷だよ、リゼ」
「ええ、待ちに待った!蜜氷ですっ」
どうしてか上気してしまう呼吸を放ったまま。
カツンと蹴った小石が川に波紋を作るのを横目に。
氷を削り始めた店主の前にも後ろにも並ぶ硝子瓶を満たす蜜は、どれもこれも色が違う。曰く、“花の色、土地の彩、集めたものの個性”なのだというではないか。
「……すごいな、流石にここまで多いと目移りしてしまうよ」
「ね、凄いですよね……! 花の数だけ、けれどそれ以上に土地でも違うものなんですか?」
『そうね、水の味が土地によって違うでしょう? 山には山の、平地には平地の集め方の流儀があるのよ、そのおかげで違うの。もちろん、熟成度合いでも味は変わるのよ』
話を聞くうちに、蜜の種類が目に見える瓶だけではないのかと悟った雪羽もリゼも無意識に頭を抱えそうになる。
「そ、そんなにあるのかい……?」
「も、もしかして――」
“時間によって蜜の味って、違いますか?”と恐る恐る尋ねてしまったリゼの言葉に、ただニコリと微笑んだ店主の表情が全ての答え。確かに、星詠みは“拘り強いんだよね”なんて軽く笑っていたが、想像よりもっともっと重い店主の蜜愛に花を商い花を知る雪羽さえ内心舌を巻いてしまう。
『ふふ、いっそ相掛けでもなさる?』
“一途も好みだけれど、迷う乙女も魅力的よね”なんて甘く誘われれば、リゼと雪羽だってつい顔を見合わせてしまう。それでもむむむと考えて、いくつか味見もするうちにパッと顔を見合わせてリゼと雪羽は目配せ。
素直な反応で蜜を堪能した二人は、それぞれ出した答えを言葉へと変えてゆく。
「いやはや、選ぶのも苦労だがやはり楽しいね。決まってしまうと、ずっと悩んでいたかったと思ってしまうくらいだ」
「ふふ、そうですね。こんなにたくさんあって、一つ一つ楽しめてとっても嬉しかったですっ」
いくつも味見をするうちに、百花蜜の瑞々しさと愛らしさより雪羽の心を引いた花蜜が二つ。
爽やかさの中に豊潤さを持ちながらも後味のさっぱりとした藤蜜と、柔らかく上品な舌触りながらグリーンの青々しさと柑橘の爽やかさも併せ持つ沈丁花の蜜があった。
「……ふむ。決まらないな」
『どちらも良いでしょう? 藤は山を覆う大藤の古木蜜なの。沈丁花は三年前の天満月夜に大忙しで集めた自慢の品よ』
「——店主、本当に決めさせてくれる気はあるのかい?」
『あらあらうふふ』
どちらも花の彩を移した美しさももつ二つで決められず、散々迷った雪羽は店主の勧めもあって相掛けに。
「ちなみに、その……いくつかを少しずつ、とかは……?」
『勿論!』
――ウインクした店主の勧めを聞くうちに、雪羽の器に一匙二匙三匙とデコレーションの蜜も増えてしまったけれど。
そしてリゼはというと、迷ってしまいますので! と色から選んでみようとした結果、香ばしさの中に情熱めいた濃厚な甘さ秘めたオレンジ向日葵蜜や、夏の陽光そのまま映したような黄色の向日葵蜜は、さらりとした口当たりでどこまでもさっぱりと魅力的。
「む。……むむっ」
透けるような黄緑色の蜜は、黄緑の向日葵から採集されたものだという。曰く、花好きの庭で愛され咲き切ったというその蜜は、甘さの中にある青々しさとナッツのような香ばしさがリゼの脳裏に“夏”を想起させるには十分過ぎた。
『あんまり同じ種類ばかりでも飽きてしまうでしょう?』
——なんて店主の計らいで一口味わった蓮華蜜。
「……おいしい、です」
『あら、良かったわ』
「~~~っこの向日葵蜜と、蓮華蜜でお願いします! あと、その、檸檬蜜も——あぁ、果実のもお花のも、一匙……!」
『ふふ、乙女は欲張りなくらいが愛らしいのよ』
こうして決まった蜜を氷へたっぷりと掛ければ、それぞれに出来上がった蜜氷はどこまでも香しい。
氷が解けても蜜水になって美味しいのと聞いたけれど、やはりシャクシャクな氷ととろり蜜のコンボは楽しみたい。器を手に再び小走りをして、座るや否やパクリと一口!
「「~~~~っ、おいしいっ」」
一口含めばぎゅっと心を掴んで、トキメキが止まらない! 流れる汗を忘れさせるような爽やかさを楽しみながら、半分ほど食べ進めたところでくいくいと雪羽がリゼの袖を引く。
「……リゼ、リゼ」
「雪羽さん? どうかされましたか……?」
黄金色の蜜煌めくリゼの器を見つめていた雪羽はウロウロと視線を彷徨わせた末、そろりと声を忍ばせた。
「いや。……一口、交換しないかい?」
「もちろんです、交換しましょう! 私も、雪羽さんの選んだ蜜も気になってたの」
可愛らしい雪羽の希望に、嬉しそうに頬染めたリゼの瞳が弧を描く。本当は、“あーん”と匙を食むなんて、ちょっと恥ずかしいけれど……今夜は秘蜜な夜だから。
「ん、ありがとう。……ふふ、リゼの蜜氷は夏が咲いたようだ」
「……ん、雪羽さんのは春みたいです。甘やかで、でも深くへ優しく誘うような」
●蜜夜の氷魔法は共に
「(……あら)」
屋台の電灯に煌めく蜜色にも似た髪に、艶やかな肌。細い指先と、氷菓子の店には不釣り合いなほど長い爪には砂糖菓子めいた飾り煌めく爪先——蜜氷屋の店主は、艶やかさの匂い立つ蜂の人妖。
「(これはまた、綺麗な子だこと……)」
自身の美しさに拘るのなら、きっと自身の削りだす氷と採集した蜜にも|同業《星詠》の言っていた通り、自身があるに違いない——それが、ルーシー・シャトー・ミルズ(|おかし《・・・》なお姫様・h01765)の見立てだった。
「こんなにお洒落に出迎えてくれちゃって、本当に綺麗だよまったく……」
『あら、そういうのはお嫌かしら?』
やれやれ、と肩をすくませるルーシーは終始オフ。ダウナーさだって隠さないが、ふふと店主に上品な笑みを向けられれば“まさか”と笑って。
「全然? 寧ろ、美しい夜をありがと!」
軽い挨拶を終えてから、ルーシーの視線が彷徨うのは屋台の手前の台の上と、店主の背の棚にも並ぶ硝子瓶の群れの方。蓋がしっかり締めてあるのに、ふんわりと馨る蜜の甘さは視界に入るガラス越しの蜜の魅力か、それとも先に蜜を楽しむ人々のお陰か。
『そうだわ、お嬢さん。あなたはどんな味がお好み? 勿論、お花や香り、色で選ぶのも良いと思うけれど』
「……——味、ねえ」
“甘味”……それは一口で気分を向上させ、集中力を増させる脳の栄養。時には心を元気づけ、人との輪を取り持つ力だってあるかもしれない。
ルーシーは、どちらかというと甘味に対して懐も造詣も深いうえ、他人より一日の長というものがある。それゆえか、店主を試すつもり――ではなかったのだが、期待から輝いてしまうジェイドグリーンの瞳は宝石のように。
「せっかくなら、とびっきり甘くて、“しあわせ”になれるやつがいいな。あたし、そういう味がだぁいすきなのっ」
「あら素敵。じゃあ、お色は? 純度は?」
屋台へ前のめり気味に注文するルーシーにも店主は何のその。にっこりと営業スマイルを崩さないまま、矢継ぎ早にルーシーの好みを訪ねて返す。
「ん~、そうだなあ……色も、蒼とか、紅とか、金とか、緑とか、そういうカラフルなのも好きっ」
『なるほどなるほど、ふふ』
「いっそ、今言った四色全部ありますか――って言ったら、いっぺんに楽しませてくれる?」
「そうねぇ、あるわ」
“なーんちゃって”なんて明るいテンションで笑ったはずのルーシーの顔が一瞬固まるも、そんなルーシーに逆に店主が首を傾げれば、はわはわとルーシーは慌てていた。
「えっ!? ……えっ、あるの!?」
『やだわ、あるに決まっているじゃない』
店主曰く、ルビー種、サファイア種、ゴールド種と言われる“鉱石から蜜を採る”洞窟蜂という種が存在する。この蜂は目が退化した代わりに音と匂いに敏感で、並の人間では決して見つけられないものの、|H《ハチ》|H《ハチ》|H《ハチ》ネットワークの伝手で交渉の末、定期供給の契約を結べた特別蜜。そして緑は、洞窟種の中でも光苔の花蜜だけを収集する蜂の協力で収集された淡緑に光る蜜がある、と瓶が机上へと乗せられた。
『市販では出回らないものばかり選ぶなんて、お嬢さんは見る目があるわ』
弾む声で言われても、どれもこれもおそらく市場に出ればとんでもない額——いや、オークションにかけられ破格が付くのはルーシーにも簡単に想像ができてしまう。
「…………すっご」
『お褒めの言葉をありがとう、さぁ全部均等に掛けてみる? それとも、どれか多めになさるの?』
「それじゃあ――」
硝子花の器を満たす透明な氷に、とろりとした宝石色が垂れてゆく。
どれもこれもが芳醇な香りがして、色ごとに果物の匂いがするような気がするのは何故だろう? 店主曰く、輝石から採られた蜜というものは、食べようとしている者の|心《想像》と魔力に反応し、相応に返してくるのだという。
「ふふ、あー、でもこれから違う味しちゃうかもー」
決めていたベンチへ辿り着いたルーシーは、そっと腰を下ろして、いただきますと手を合わせて一口。
「!」
“甘い”
けれど、不思議。
一口、氷と蜜を掬い蕩けさせた瞬間、生まれたのは温もり。
冷たさよりも早く、今まで楽しかった友人とのふれあいや思い出が脳裏に鮮明に浮かんでくる。友人との記憶という映像を、脳裏でより鮮明に再生されているかのよう――そんな体験を経て、初めてルーシーは鉱石蜜の力が脳裏に浮かんだ友人との記憶に作用しているのだと実感できた。
「……なるほど、これ面白過ぎない?」
もし今ここで花火が上がったなら? と想像すれば、想像なのに“ドン!”と大きな音と振動が体を揺さぶるような錯覚がルーシーを襲ってくる。
「……すっご。こういうのが、堪んないんだよっ」
世界とは未だ不思議に満ち満ちている! お菓子の国を飛び出せば、そこは未開の地ではなく不思議と好奇心をくすぐるには十分すぎる彩の洪水。味だって日々だって、どれもこれもが馨って堪らない!
「こりゃ、もう秘密にするしかないよね……? だって、秘蜜の氷屋さん行ったんだー、なーんて」
●「あの子らに知れたら、ねえ?」
夏の煌めきの一時で、秋の匂いの始まる日々なれば。あわいの時間は化かされたとでも思っていただいて!
「あーあ。ほーんと、夏が真っ盛りの、きらっきらだねぇ〜」
また一口、ルーシーは|秘密《秘蜜》を腹へと|納めて《隠滅》していった。
鼻歌を歌うその背中が、川辺に灯る提灯の明かりに揺れる。
細い指先に彩り豊かな水風船を遊ばせて、からころと鳴らす下駄の音は彼の機嫌そのまま。
もう日も暮れた中を泳ぐように歩いて、振り向いたその瞳が自身を捉えた時——どんな月よりも柔らかく美しい弧を描くことを、汀羽・白露(きみだけの御伽噺・h05354)は知っている。
「かや、ふらふらするな」
「ん、へーき! いひひ、きっと白ちゃんだって今年一びっくりするくらい蜜氷は美味しいからねっ」
“はーやくっ”と言う華夜に引っ張られ、白露はまたその背を見つめてしまう。幼い頃も、そうだったように。
あの頃は、行動的な華夜に引っ張られながらまだ心が幼くどこかまだ“物”だった白露は、慣れぬ人の世界に右往左往しながらも歩いていた。そんなあの頃とは、もう違う。
指先から伝わる、いつもより温度の高い華夜の指先を絡めて引いて受け止めて。後ろから見下ろすように白露は尋ねる。
「そんなに焦らなくたって、店は逃げないだろう? 寧ろ、酔いはちゃんと醒めたのか?」
「へ? そりゃ、――……てかさ、白ちゃんのがデカいのにそれズルくない?」
支えるように、咎めるようで嗜めるように。
引っ張られ崩れたバランスは当たり前のように白露の胸板に支えられ、むぅと頬膨らませた華夜が見上げれば無意識に上がっている白露の口角が緩やかに弧を描く。
「酔い醒めの確認だ。ほら、しゃんと歩け。蜜氷屋、楽しみにしていただろう?」
「俺、ちゃんと歩いてた!」
「でもあと一歩右に行ったら川に転がり落ちていたが?」
「ぬぐぐ……」
“なら早く言ってよ!”なんてワガママさえ愛らしい。見ていて決して飽きることのない華夜と、結局並んで歩いてやっとたどり着いた屋台の小さな軒先で黄金色に輝く蜜の群れは待っていた。
「すごい数だな……この中から選ぶのか。かや、君はどれにするんだ? 半分こにしたいんだろう?」
金が無いわけでも、幼いわけでも無い、互いにとうに成人したというのに華夜はわけっこしよ! とここに着くだいぶ前からいっていたのだ。
白露も蜜に多少なり興味は沸くものの、最も楽しみたい――否、楽しませたいのは華夜。華夜が迷うものがあれば、選ばなかった者を選ぼうと決めながら尋ねてみれば、いつの間にやら若干のドヤ顔をけほんこほんと咳払いした華夜が屋台を覗く。。
「待って待って……みーっちゃーん!やっほー!」
『……こんばんわ、華夜ちゃん。もうあなたの——アラ、随分と素敵な|お友達《ボディーガード》だこと』
すぅっと息を吸ったと思えば、屋台の裡でしゃがんでいたらしい店主が、華夜の呼びかけにひょこり顔を出す。
顔馴染みらしい華夜の姿を見ると美しく微笑んで――そうして、白露の姿に瞬きを三度。瞳を細めたのはほんの一瞬、すぐに綺麗な営業スマイルが笑っていた。
「こっちは白ちゃんっ! へへ、俺の大事な神様なんだよー。でさ、今日一番いいのちょーだい!」
「……どうも、“うちのかやが世話になりました”」
蜂の人妖と華夜の不思議な関係を気にしながら、華夜と繋いだままだった指を深く絡めた時には、白露の顔はいつも通りの無表情。
絡められた指の強さに振り返った華夜が、白露の無表情にすぐ頬を膨らませて開いた手を伸ばして、分りやすくぷんすこ。
『あら』
「ばっか白ちゃん、もっともっと愛想良くして!イケメンゴッドでしょ! んもぅっ」
「やめろ、かや。良いのか“一番良いの”——というのを聞かないで」
頬は伸びた華夜の手を受け止めて、そちらも絡めて白露が捕らえてしまえば、もう華夜に抵抗はできないまま。そんな二人の痴話喧嘩のようなものを眺めていた店主が、ふっと笑うと恭しく礼をして。
『あらあらうふふ……一番良いの、ね? いいわ、華夜ちゃんには今日、素敵なお客様をたくさん紹介してくれたでしょ? ——これ、“とびきりのお礼”よ』
ゴトン、と屋台の台の上。
載せられたそれは音に反して随分と小柄な瓶で、硝子花の蜜とはまた異なる透明——いや、まるでプリズムめいた輝きを放っている。およそ世界には無い、まるで幻想を凝縮したようなその蜜は明らかに“何か”を発していたから。
そっと華夜を抱き寄せた白露は思う、おそらくあれは並の者には触れさせられないような、相応に特殊な代物なのだろう、と。
『これね、私の祖父の代から集めて継ぎ足し継ぎ足ししてるのよー』
「あれじゃん、秘伝のタレ……じゃないや、蜜ってこと?」
にこにこ朗らかに話していた華夜に、店主がじっと白露を見据えて|笑む《目を細める》。
これはね、——“寿命を伸ばす”なんて神話持ちの、千年樹芽吹の朝露蜜』”っていうの」
「(……それなりにあるな。出来るなら買い取って——)」
「へー、なにそれ……凄すぎて俺にはとりあえずヤバいしか分かんないんだけど、いい?」
『勿論、とーっても凄いのよ。ふふ——|食べれば分かるくらいには《あなたの後ろの彼なら気づくわ》』
千年樹なと、どのような世界であれど早々芽吹くことなどない。一体どんな伝手かは知らないが、店主に嘘はないらしい。
その真意を察した白露が密かに頷けば、ふふと笑った店主が目礼して氷を削り始めていた。
「えー? みっちゃんそんなヤバいの俺たちに食べさせていーの?」
『……ふふ、お友達だからよ』
「へへ、やったぜ白ちゃん! 楽しみだねっ」
「……あぁ、そうだな。かや、味見しなくてもいいのか? 君の味覚は信頼に足る、他の味がいいかどうか、試さないと分からないだろう?」
「んー、いい! 長生きするかもーってなんかファンタジーで良いし! なんたって夏休みにコレってお宝っぽくてイイ!」
「そうか」
——君が決めたなら、よろこんで。
そうして店主に見送られて、華夜が“ここ!”としましたベンチに腰を下ろす。指から外した水風船は袋に詰めて、華夜が匙を持つより早く白露が一掬い。
「良かったのか、同じ蜜で」
「白ちゃんやだった?」
「いいや? 」
なれほど“半分こ!”と騒いでいたのに案外とあっさりしたもので、華夜は同じのちょうだい! と店主に強請り三年樹の朝露蜜の氷が二杯になったのだ。
「てかさー、俺少し長生きしたら、少しはしっかりるすると思う?」
「さぁな……俺がずっと一緒なんだから、君がどんなにずぼらだろうと問題はないだろう?」
「うんう——うん?! な、な、何さそれー! 失礼すぎんー?!」
「ほらかや、氷が溶けるぞ」
膨れっ面もまた、可愛い。
白露は決してその腹の中の言葉を言う気はないが、氷と共に噛み締める。
「……白ちゃん、そっちの一口ちょーだい」
「……そうだな、“そういう願いごと”だしな」
溶けかけた華夜の氷とは違う、まだ薄くシャクシャクとした食感残る蜜氷。揃いの蜜だと家のに喜んで“あーん”と食べる華夜は、やはり贔屓目に見ても愛らしい。白露の所感的に。
幼い頃から、白露はこれがずっと続けばいいと思っている。
穏やかに笑う華夜はいつでも楽しそうで、幸せそうで、それを当たり前に享受できる環境が続けばいいと。
そして、その隣に自身が在れればいい、とも。
「へへ、なんか白ちゃんからもらったやつのが美味しい気がする。なんでだろ?」
⚫︎「さぁな……。そうだ、なぁかや——」
次の休み、したいことはあるか?
その言葉の答えは、夜空に歌う虫たちの合唱へと溶けた。