『ラトウィッジ』
●きょうせい、きょうせい、きょうせい、きょうせい
子供が消える。音もなく声もなく、そう忽然と。
共通点はごく僅かである。彼らの間での小さな噂話。
お金持ちの家から消えてくの! ピアノがへたっぴだったから!
――違うよ、お母さんが殴ってくる家から消えてくんだ! そんなことしちゃだめだーって打ってるの見たもん!
……そんなわけないよ、お菓子の食べ過ぎで消えたんだよ! あいつ、歯医者行ってた!
エトセトラ。
それでもああ唯一、すべてにおいての共通点。
床、壁、あるいは天井。こっそりベッドの裏、クローゼットの中、落書きが残されている。
へたっぴで、拙くて、それでも内容のわかる。
懐中時計を見るうさぎの絵――赤い粉で描かれた、落書き。
●落園
ウサギの穴に落ちましたら、ひとはどうなってしまいますか。
チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンは少女にこんなお話を聞かせた。不思議の国に落ちていくんだよ。そこで大冒険をするのさ。まさしく夢の世界でね。
夢は終わるけれど。
それはうつくしい夢だから。
許容して。受け入れて。
落ちて、落ちて、堕ちてきて。
|ぼく《わたし》たちはもう、ここから飛び立てない。
お願い、お願い、お願い。
願いは届く、儀式として届く、『仔』も『子供』も落ちてくる。
それでもこの穴から。あの蝶々たちから。
逃げられないの。
「――ファル、おねがい、かえして」
長身痩躯、性差の限りなく薄い体をしたそれは、少女の言葉に首を振る。
「ファル、おねがい……帰らなきゃ……」
困った様子で眉根を寄せる蒼翅。少女を喪った腕でそっと抱きしめ……吐息と共に溢れた蝶が、「ごめんなさい」と囁いた、気がした。
●おかえり。
「『おかえり』諸君! 少々特殊な『クヴァリフの仔』の事件だ」
夏も終わる、楽しめたかね。笑うディー・コンセンテス・メルクリウス・アルケー・ディオスクロイ(辰砂の血液・h05644)、グラスに入ったカクテルをストローで混ぜ、まだまだ夏を満喫しておられる様子。しかし彼は雑談のために√能力者たちを呼んだわけではない。
「子供が忽然と消え、『どこか』へ――おそらく異空間へ連れ去られている。ウサギが時計を覗くような落書きを残して消えていく。共通点はそこまでで、詳細は不明。だがそこから先は詠めたのだ」
かりかり。辰砂の爪が――紙の上を滑る。赤い鉛筆のようなそれで描くはウサギであった。横を向いたウサギが、懐中時計を覗き込む絵である――。
「穴の中だ。ウサギの穴のような、少し入り組んだ穴。その中で彼らは彷徨って……天井に穴の開いた広間で、手を伸ばし、登ることを。いや。『落ちてくる』ことを望んでいる」
小さな溜め息。星詠みは小さく肩をすくめて、話を続ける。
「儀式となるほどの狂気。子供らは狂ってしまっている。狂信者となっている。落ちてくるのは何も知らぬ子供か、クヴァリフの仔――|堆《うずたか》く積み上がった仔らを中心として、ただ祈っている」
――狂ってしまった。狂って、しまった。なぜ? 当然だ。何日も同じ穴の中、自分が落ちてきた『穴の部屋』のことくらいしかわかりはしない。何日経った? 腹も減らない洞窟の中……何をして過ごすというのだ?
わたくしには、わかるとも。
「首謀というか、|根源《アルケー》は――あくまで今回は、友好的な『もの』のようでな……まあ、ちっとも喋らないようなのだが」
しー。唇の前に立てられる指。
「――『それ』としては、諸君らと敵対する事は不本意かもしれない。だがどこまで足掻いても元凶だ、殺すか、退去を願わねば。しかしひとつだけ道はある」
そして唇の前から指が退き、次は宙をくるくると……。
「簡単な事だ。『それ』を引き込んで、説得し、一時的にも味方にしてしまえばいいのさ。――ヒーローと共闘する怪人のように!」
それが可能かは別として。
無理だというのなら、協力などしたくないのならば、『やって』しまえばいいのだ。元より敵であるのだから!
その庇護欲を叩き潰し――展翅してしまえ。
第1章 冒険 『白うさぎの残した夢』

こどもがきえた。
噂話はどうしてだか、子供たちの間でしか広まらない。校内でひそひそ、校庭でひそひそ、公園で、ショッピングモールで――場所は問わないけれど、子供が消えるのは家の中。だからこそ彼ら・彼女らは、そうして家を避けているのかもしれない。
みんな、忽然と消えた子供の話で持ちきりだ。
だって、大人たちはあまり気にしていないのだもの。
夢でも見てるんじゃないかってくらいに、彼らは消えたことを受け入れてしまっている。親だって悲しんでいる、困惑している、探している、けれどどこか諦めている……本来ならば連続失踪事件として取り上げられてもおかしくない話だというのに。
ひらりと。
公園で噂話をする子供たちの側を、蒼い蝶が舞っていく。
行方不明のチラシに落書きされているのは、赤いウサギの絵――。
さあ、白うさぎの穴はどこにある。埋めそこねた穴を探せ、探せ。
うさぎの穴に落ちましたら、ひとはどうなってしまいますか。
――被害者の子供たちは安全なはずの家の中で消えていった。赤い落書きを残して。
そして彼ら・彼女らは、本来必死に探すであろう大人に、諦められている――。
「(……家庭に事情がある子供を狙って、保護している?)」
クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は思案する。元凶でありながら、友好的。首謀でありながら、敵対することは不本意であろうと言われた「それ」について。星詠みの話とも辻褄が合うが、まずは情報収集をしなければ。
人々が集まるショッピングモールにて、聴覚補助装置を使い――子供の噂話に耳を傾ける。
前もって聞いていたとおりの噂話だ。消えた子供たちの共通点はひどく薄く、曖昧なものだった。家の傾向も様々……それでも多少の、追加の情報は得られる。
「――嫌がったら連れてかれるって、ほんと?」
誰に、だろうか。そっと彼らを警戒させないように近づいたクラウス。
年上の――彼らにとっては大人と呼べるであろう彼が近づいてきたことによって、彼らはおしゃべりをやめた。
「だれ?」
「弟を探してるんだ」
それは小さな嘘。警戒心を取り除くだけの、丁寧な。子供たちが顔を見合わす中で「他に消えた家がないか、調べてるんだ」と続ける。大人がみんな、探さないから。自分が探すしか無いのだと。
「大丈夫。大人達には内緒にしておくよ」
こくりと頷く少年。「あっち」と指差すのは、ショッピングモールの壁に設置された掲示板だ。こんな所にも張り紙があったのか。子供達に礼を言い、クラウスはそれを見に向かう。
自宅で、こどもが消えた。残されていた手掛かりは落書きのみ。侵入者の痕跡なし。家出かもしれない。書いてあった住所を頼りに、クラウスは現場へと向かう。
――二階、換気のためにか開けられている窓を見る。ごく普通の一軒家である。忍び込むのはどうかと思ったが、背に腹は変えられない。窓から飛び込み、靴を脱いで子供部屋の中へと。そして――近くにいたインビジブルに声をかけた。
「ここで子供が消えた、って聞いたけれど、情報が欲しいんだ」
ふわり。かたちを取り戻した「それ」は女性。やや困惑した様子で、クラウスを見る。
「そうね……消えたわ。みんな、忽然とって言ってたけど、そうじゃないの」
彼女が指差す先には、赤い落書き。まだ残っている、「粉」で描かれたもの。
「連れていかれたの、蒼い蝶々に。抱きしめられて、それで――」
そこで、インビジブルの言葉が途切れた。
『おいで』
声がする。
振り向けない。己の背丈よりも高い位置から……青い髪束が、ふわり、被さってきた。視界に入るは『蟲』である、蝶の群れ。見えたそれは蒼く、蒼く。
『共に生きよう』
言葉は思考に直接染み込んでいる。蝶々が耳に留まっている。覆い隠された視界――。
そうして、赤い落書きが、増えた。
うさぎの穴に落ちましたら、人は這い上がれないのですか。
暗所。ありとあらゆる。その身を潜り込ませることができるならば、どこへだっていける。彼の体はそのように出来ている――たとえ人々がそれを恐ろしく思おうと、真に恐ろしきは己ではない。簒奪者である。
小さな……人にとっては大きくも見えるかもしれない、三から四センチ程度の姿。和紋・蜚廉(現世の遺骸・h07277)、本来このような家屋ではなく、野生と武に生きてきたであろう彼が何故、家屋にいるというのか。
当然だ。子が消えたのだ。その痕跡を探るには、この姿と場所が相応しい。
ベッドの裏へと潜り込む。落書きはないが、子供らしく掃除の行き届いていない様子。小さなマスコットが隅に落ちていた。壁の隙間には漫画が一冊。
痕跡はまるで、かくれんぼの跡だった。ふたりぶんの気配と匂いを辿って、蜚廉は一つ一つを改めていく。
クローゼットの奥に忍び込めば、ああ、そこに。子供ひとりがすっぽり入れる中、ぱっと見ただけではわからない天板付近に、その落書きはあった。赤い粉……。ほんの僅かに読み取れた感情は、困惑か。
「――我が穴を探すのは、狂気に挑むためだ」
けして隠れ潜むためではない。「あれ」が穴に隠れ、潜み、子を集めているというのならば。
「見つけ次第、潜りこんでやろう」
そのためには、探れ、痕跡。この赤い粉はどこから来た。這う中で僅かに散った粉を追う。床板、空洞はない、壁、しっかりと断熱されたそれ、隙間はなく――。
排水溝に天井裏、窓のサッシに、換気口。
見つけた。
似たもの、と呼ぶべきだが、換気口から僅かに、気配。落書きと似ているが、こちらに残っているものはあまりに微かすぎて、嗅ぎ分けるのが難しい。もう一度あちらの粉を見るべきだ。
落書きの粉へと戻った蜚廉。それを、指先で擦る。やや細かく、しかしひとつ――これに似たものを、彼は「よく」知っていた。
鱗粉だ。
これは赤い鱗粉で描かれている。この量だ、これを描くには蝶々何匹分が必要かなどと、考えたくもない恐ろしい思考が過ぎる。この位置、聞いていた子供が描くには、背伸びをしなければ厳しいか――と。そこまで考えたところで。
部屋に、気配――!
臨戦態勢、人化けの術により強靭なる姿を形作った蜚廉。換気口から雪崩れ込んでくるのは青いインビジブルだ。蝶の群れへと変化して、そして人の姿へと。
どこまでも蒼く、煌めく、モルフォのようか、はたまたオオルリアゲハ。中性的な痩躯が部屋の中に立つ。鮮やかな青からの敵意はない。左目と両腕から――溢れる蝶々、散る鱗粉、ただしその中に赤はなく。
『探してくれた』
唇が動く、鱗粉が吐き出されるが、声そのものはない。やや嬉しそうに頬を染めた『それ』、両腕を広げて。
夥しい程の蝶の群れが放たれた。
『ようこそ』
――蜚廉の意識が、途切れる。
「むむむ、子供の連続失踪事件なんて物騒……」
物騒なのだが、この√汎神解剖機関において、それは『珍しくない』のだ。ただ今回は『神格』の意図は薄いようだが。
「クヴァリフの仔も絡んでるって言うし、何とかしないとね!」
仔が絡むとなれば、飛んで火にいる雪月・らぴか(霊術闘士らぴか・h00312)。何匹どころではない数のクヴァリフの仔を確保してきた彼女だ。このような時どうすれば効率的か、その手段をよく知っている。
狙うは子供が消えた瞬間を見た『人』だ。三日以内に子供の行方不明事件があったかどうかを調べる。直近ならば二日前。正確な住所は書かれていないが、近辺には子供たちが集まりそうな公園がある。らぴかはそこで少し聞き込みをしてから家に向かう事とした。
……公園には楽しそうに遊ぶ子供たちとその親、そして日陰で休みながら談笑している子どもの姿がある。らぴかは彼女たちに近づいて、「ちょっといい?」と声をかけた。
「ねえ、最近行方不明になった子って、どこの子?」
「なあに? おねえちゃん、探偵さん?」
アイスキャンディを食べている少女が首を傾げて聞いてくる。そうだよ~と適当にごまかしながら、らぴかは話を続ける。
「落書きがあったって聞いて、それが気になってて」
「んー……」
流石に個人情報を渡すのはどうかと渋っているようだったが、らぴかを怪しむ様子こそあれど。
「消えちゃっても知らないよ?」
「私たちが消えたら、疑われちゃうからね?」
ひそひそ。子供が消える噂に興味を持つ者を、彼女たちは面白がっているようだ。
少女たちは、ある方角を指さして。「あっちのマンションの――」と、子供が消えた家の場所を囁いた。
さて、場所は変わり。
「……ここがあの子の部屋です」
通されたのはかなり小綺麗に整っている子供部屋。突然現れ調べさせてくれと言って来たらぴかに対し、気まずそうな顔をしている母親。調べるから席を外して、と言って人払いを。
落書きはすぐに見つかった。部屋に入り、振り返った扉に大きく描かれていたのだから。光を受けて僅かにきらりと光る、うさぎ――。
「――もしもーし!」
霊界通話スピリットボックス。スマホ越しに話しかけたのは、老いた男性のインビジブル。「もし」と返事をした彼に、らぴかは話しかける。
「ここで子供が消えたって聞いたんだけど、消える瞬間とか、前後って何かあった?」
「ああ、ああ、あったとも! そう、不思議なことに! あれはどこにでも入ってくる、どこからでも来るんだ。粉が少しでも入れりゃいい――風の流れに乗って来る。ぶわり吹いたらもうおしまい! 消えるも、描くも、一瞬さ!」
一を聞けば十で返ってくるのはいつものことか。本当に随分とおしゃべりだなあ、そう考えた矢先のことである。
背後から風が吹く。そんな隙間があっただろうかと首を傾げる暇もなく、背から溢れるは蝶の群れ――。
「そうそう! こういうふうにな、抵抗なんか出来やしない――わはははは!!」
老いたインビジブルの笑い声。抱きしめるかのように伸ばされた腕から溢れた蝶、逃れようとしても遅かった。あっという間に鱗翅に包まれ。
床に落書きを残し、らぴかの姿は『家』から消えた。
星詠みの話を思い出す。友好的な首謀者、話をつければ味方にできるかもしれない――ぜひお願いしたいところだが、今は『子供』が先である。北條・春幸(汎神解剖機関 食用部・h01096)は小さく顎を揉んでから、まずはとネットで下調べだ。
……大きく報じられてはいなくとも、市内のニュースサイトを見ればしっかりと記事がある。
ページビュー数は他の事件・事故とたいして変わりがなく。この連続失踪事件について、ニュースサイトを積極的に見るような大人たちすら『強い興味』をあまり持っていない事実が薄っすらと見えた。
首謀者たる『それ』が何故子供を攫うのか。親の諦観は、どこから来ているのだろうか。彼らには間違いなく、落書き以外の共通点があるはずだ。そう、たとえば、虐待だとか――最悪な想像だが、『仔』を呼び出そうとしての儀式、か。
「うーん、何がいいかな」
さて今回必要なものは。適切な価値で、骨董品程度の古さで……そんなに使わない程度の……ちょうどよい――。
「――どうも~、○○新聞社で記事を書いている北條という者です~」
結果が行動力の化身である。それっぽい格好――元から相応、機関に勤めて(?)いるのだから当然ではあるが。簡単な変装と笑顔、そして『|名刺《骨董品》』だけでも、人間というものはわりとあっさり、春幸の名乗った身分を信じてしまうものである。
「連続失踪事件を調べてまして。ここのお宅もそうだとお聞きして……」
聞けば、在宅していた両親は狼狽した様子で顔を見合わせる。当事者の家を割り出すのは簡単だ。骨董品としての名刺を使い名乗り、自分自身への信用を増した状態で話せば、皆あの家が、どの家が、と位置を示してくれた。
「(彼らが仔を呼び出そうとしてたのなら、機関へご招待してお話聞かないとねえ)」
今のところ、そういう様子はないが。万が一、だ。レコーダーでの記録と家に上がる許可を得てから、春幸は子どもの消えた部屋を調べ始める。
「いつごろ消えたんですかね? 時間帯は?」
「ええ……歯医者から帰ってきてすぐ、だったので――」
夕方。三十分は何も食べちゃだめよと。子供が部屋で、ひとりになったあと、食事に呼ぼうとしたら……既に。
落書きは、子供机に大きく描かれていた。側に残されているのは、食べようとしていたのか、包装紙に包まれたままのガム。
「これは?」
「……歯列矯正をしていたので……ダメだって、言っていたんですけど」
どこからか、もらってきてしまったみたいで。
手に取ることはしなかったが。赤い落書きの側に残るその蒼い包装紙のガム、どうにも異様に見えた。
さて、どうするか。耐えきれなくなったか席を外した両親。部屋の中に残された春幸。赤い陽が差し込む部屋――そこに、影が落ちた。
隣に誰かが立っている。振り向く。至近距離、そう、あまりにも至近距離に、鼻先が触れ合うほどの距離に、蒼白い顔があった。
『赦して』
左目から文字通り溢れる蝶々が羽ばたいている。細められた目、ほんのりと朱に染まる頬、伸ばされた手からもまた溢れているのは蝶々――いや、これは、インビジブル――!
「あっ……え? 記者さん……え、あ、え……!?」
――暫くして、戻ってきた親たちが見たものは。床に残された、赤いうさぎの落書きだけ。
「失踪とうさぎさんの絵ですか……」
さくり、クッキーを食む音とともに。神咲・七十(本日も迷子?の狂食姫・h00549)は召喚した|フリヴァく《邪神の欠片》とともに、公園を見る。
子供も親も、日差しの中で楽しそうに遊んでいたり、休んでいたりと様々だ。黄昏を迎え、停滞した人類と√。だが、それでもこのような平和な光景も確かに存在する――。
「う〜ん、一先ずは調査からですね」
流石に、|彼女《フリヴァく》へ歌えと命じることはできない。『歌唱』が攻撃手段である都合上、一般人を傷つけてしまう可能性が非常に高い――あくまで人手が少し増えた程度だ。
とはいえ、少女の姿をした彼女である。どこか大人びていて、ヒトよりちょっと肌が白く見えるが、それはそれ。日差しによく映える姿だ。ちょっと暑そうだが。
「あの……えと……」
……しかし、聞き込みとなると……初対面の相手との会話が不得手な七十である。やや挙動不審になりながらも、勇気を出して、木陰で休んでいた親子連れに話しかけた。
多少の筆談を交えながら、『失踪事件があったと聞いた』と彼女なりに努力をして、隣でがんばれとふんすふんす応援しているフリヴァくとともに聞き込みをしていく。
「ああ……あそこの家の子。そう……噂だけれど、結構しつけが厳しかったらしいわ」
ひとりめの大人はそう言って、子供も小さく頷いていた。
「うん? 確か、一週間くらい前だったかな。近所の子が居なくなったのは聞いたよ。詳しいことはわからないけど」
「あの子だけじゃないよ! そのちょっと前に、猫もいなくなってた!」
ふたりめの大人はあまり興味がなさそうだったが、それに食いつくように子供がそう言う。
どの大人もいやに冷静に見えて。落ち着き過ぎているようで。だが誰も彼もが、「早く見つかるといいんだけれど」と憂鬱そうに息を吐いていた。
――失踪する『ある程度の条件』と、失踪したら『どうなるか』を知っているのだろうか。
それとも単純に、そう、純粋に、心配からくる言葉なのだろうか?
「もしかして、以前にもあったのでしょうか」
口の中に放り込むクッキー。EAT MEとアイシングで描かれたそれ。
放り込めば――ふわり。
上方から落ちてきたのは蒼だ。髪束、リボン、包む長い袖、左目には咲くように集まる蒼い蝶々。逆さ吊りにされたかのような、上下反転したその『蒼』に対し驚く隙もなく、七十の体が蒼い蝶々の群れに包まれる。きらきらとした鱗粉まみれ、その中で、小さく思考に届く声。
『ともに』
一瞬だった。包まれたが最後――群れが去ったそこには、七十の姿も、邪神の欠片の姿もない。
なんで子供らは消えるんだろう?
唐突、急に、目を離した。たった一瞬で消えてしまうだなんて、それは当然『人外』の仕業ではある。あるのだが。
「てかケーサツ! 働け!」
それはそうである。冷・紫薇(沦落織女・h07634)はふんっ、と唇を尖らせた。間違いなく、一般人に対しては『認識が阻害されている』のだろうが。それにしたって、『ちょっとは役に立ちなさいよ』と言ってもいい状況である。
これだけの人数が消えているのだ、それでも進行しない捜査など……まったく。
自分の顔のほうが、よほど信用できるというものである!
我即ち顔面国宝、傾国の美女とはこのような姿。紫薇の美しさは男女を問わず警戒心が緩むほどのもの。人、それを社会的信用と呼ぶ――! 聞き込み調査にはもってこいだ。
さて、それを存分に活かすには親世代だろう。消えた子供の保護者たちを対象に絞り、『まずは』と、子供の消えた家を探す。
――美しさとは年齢を重ねれば、尚更花開くものである。子供の消えた家を訪ねていると言う、目の前に現れた美しい女性――薄っすらと目に涙を湛えた彼女に、親は驚いた様子であった。
「私の子供も行方不明で……」
袖で顔を覆い、声を震わせる紫薇。それに対し、両親は彼女にハンカチを手渡そうとしたり、声をかけたりと心配そうに対応する。
「最後に見たときは、たしかに自室でお勉強をしてたんです」
すん、と小さく鼻を鳴らす紫薇。「あなたの家もですか」と答えたのは父親だ。
「中学受験のために頑張らせていて……」
「ああ……うちは高校でしたが、それは……」
そうして話を合わせ、時に異なる情報へとずらして会話を続ければ、三人はすっかり『被害者の会』である。「ここで話すのも何ですから、どうぞ」と上がった室内。しめしめ。いざ潜入!
どうやら両親は、子供に強いしつけを強制してしまったことを後悔している様子であった。それに共感して頷く紫薇、失踪時はどうだったかと聞けば案の定、部屋の中――壁にうさぎの絵が描かれていたという。詳しい原因はわからないが、自分たちのせいではないかと両親は思っているようだが――やはり。どこか彼らは、諦めている様子でもあった。
ぐすりと声を上げた紫薇。両親は「お手洗いをお借りしても」という彼女を拒否するわけもなく。お手洗いに向かった、と見せかけ――実体化を、やめた。
幽霊とは、そのようなものだ。まやかし、あやかし、時に誘惑するもの。
するりと入り込んだ子供部屋、本棚に入り切らないほどの本の山と、確かに壁に描かれた落書き。
さあて――。
「あたしもその穴、入りたいな?」
やや唇を尖らせながら首を傾げる彼女の側で。
『ご招待を、しましょうか』
囁く鱗粉、蒼色は答えた。ああ応えたのだ。振り向いた瞬間に見えたのは蝶の群れ。蒼の中に白。鮮やかに散る鱗粉は、今この瞬間でのみ、どんな化粧品よりも紫薇を美しく彩ってみせた。飛び交う翅の隙間から、男とも女ともつかぬ顔の『それ』が、嬉しそうに笑い。
ぶわり一瞬で包まれて、拐われる美女のできあがり――。
第2章 冒険 『“夢”の終わり』

ウサギの穴に落ちまして。
――目覚めた穴蔵の中では、粘性のある不愉快な音と、子供たちの祈る声のふたつが延々、反響していた。見渡せば遥か上方に穴、光差し込むはまるで天窓。山積みの仔らに祈る子供。
それ以外に見えたのは――壁に何かを『落書き』する子供たちと、側に立つ『蒼』だった。
ご挨拶の時間だ。
√能力者へと歩み寄り、カーテシーをするかのように両腕を広げ、頭を下げる。左目から、袖から、蝶々が舞う。呼吸のたびに薄く開いた口から蒼い鱗粉が散り、そして蝶となる。
「ファルだよ――この『国』の、あるじさま」
蝶々の側に駆け寄り、その袖をつまむ少女が言った。手に握られているのは赤いチョークか。
表情も性差も反応も、何もかもが薄い『それ』が口を開く。『|声《・》』の欠落。インビジブルによって代替された、思考に響く声。
『|ファルファッラ・ブル《蒼い蝶々》』
――それは|共生《・・》の権能。不思議の国の子との|取り替え子《チェンジリング》。
不思議の国の芋虫は、羽化して蝶々になったから。故郷には二度と帰れない。
『ようこそ。らくえんへ』
だから、王国を造ったのだ。『こども』と蝶々だけの国。
言い張る蝶々。その横で、少し暗い顔をした少女。彼女が先ほどまで居た壁には――いくつもの線が、描かれていた。
虫籠の中の子供。絶望の足跡は、ここから繋がるあちらこちらの『穴』に続いている。逃げようとして歩いて、またここに戻って来る。ぐるぐると同じ場所を歩いて、結局、この中に『とらわれている』。
それこそが楽園などではない証明。ここはただの夢の残滓。消えた終わりの先。
――なぜこの『国』が生まれたのか?
やさしい蝶々が、子供を|きょうせい《強制/矯正/共生》から逃そうとした|だけ《・・》だ。
誰もがこの『国』から出たがっていることを、|蒼翅《ファル》へと叩きつけ、この蝶々への『処分』を決めよ。
仔は逃げないだろうが、下手をすれば、この蝶々は網から逃げる。
子供部屋からうさぎの穴へ。小さな国にご招待。唐突に変わった景色に瞬きをして。
「ここはどこ? 私はらぴか!」
記憶はあるみたいだね! 雪月・らぴか(霊術闘士らぴか・h00312)、もはや慣れたものである。
わざと誘拐されて、敵に近づく。今回は初っ端から攻撃的な相手ではないぶん、多少はましな状況下か。
目の前の蒼翅はじっとらぴかを見つめているが、それはそれ。「ちょっと待ってて!」なんて言って、子供たちの方へと駆けていく。
祈る子供、壁に刻まれた線を数える子供、チョークらしきもので床に何かを書いている子供。各々自分が置かれている異様な状況に慣れてしまっている様子だが、新しく『ファル』に連れてこられたと思わしきらぴかを見て、多少驚いたようで瞬きをしている。
「ねえ、何してるの?」
「……勉強だよ。忘れたくないから」
話しかけた少年の周囲に書かれているのは、小学校中学年程度の計算問題だ。自分で式を作って、それを解いている様子だった。
「……帰りたい?」
少年の手が止まる。赤い粉を手のひらで擦って、間違えた回答を消していたその手が。顔を上げて、どうにも複雑そうな顔でらぴかを見つめて。
静かに、頷いた。
「……うん。わかった、任せて。帰れるように頑張るから!」
少年と視線を合わせるように屈んでいたらぴかは立ち上がる。すたすたと、らぴかを待っていた様子の蝶々の前に立つ――。
「子供たちも、そっちのうにょうにょ――クヴァリフの仔も、どっちも持って帰らせて」
蝶々が、ファルが、困ったように眉根を寄せた。仔はともかくとして――子供も。やや俯く蒼翅へと、らぴかは続ける。
「あっちの子、帰りたいんだって。ずっと算数を続けてるんだよ。親に言われたからじゃなくて、自分のためにって続けてる」
床に書かれていたそれは、何度も消して書き直された跡があった。それだけ彼は同じことを繰り返しているのだ。ここを出たときのために。
――ファルは、困惑している。ちらりと件の少年の方を見て、そしてらぴかへと向き直る。
『あれは、強制の結果ではないのですか』
強く頷くらぴか。間違いない。彼の様子を見れば――注視していれば、きっとこの蝶々にも理解できたことだろう。
「子供たちのことを想っているのなら、元の場所に帰してあげようよ!」
帰さないのなら――武力行使も、やむなし!
杖を構えたらぴかに、一歩後退りするファル。まだ、敵対心を強めてはいないようだが……常識も、良識もずれた相手だ。こうして話す意味はあったのか。
まあ、たとえ、あったとしても――『ご退場』頂かない理由はないのだが。
救うためであった。
大義名分、ご苦労である。だが、その先に待つは蟲籠の中となれば、結局は同じだ。家庭という籠か、|蒼翅《ファル》が楽園と呼んだこの籠か、そんな違いしかない。
「それは救いではない」
和紋・蜚廉(現世の遺骸・h07277)。永きを生き、危機を逃れ、立ち向かい――そして今、此処に『在る』もの。蟲籠の中にはけして収まらぬものである。
「救いを謳うその在り様こそ、強制だな」
首を傾げるファル。強制。きょうせい。
『それの何が、いけないのですか』
疑問である。理解を拒んでいるのではない、単純に、彼の言葉に疑問を覚えているのだ。
「逃したと言うが、ここもまた檻に過ぎぬ」
子供たちは、彼ら、彼女らは、ここに閉ざされているのだ。戻ることも進むことも出来ず、祈りに縛られ――羽化不全を起こした羽虫たちを。さらに自由なき檻に閉じ込めて、飼い殺しにしようとしているだけである、と。
「楽園などと呼ぶのは勝手だが、我の目にはただの夢の残滓――」
祈りに縛られた檻を、楽園と謳うことこそ、欺瞞だろう。
ぱちりと瞬きをしたファル、羽ばたく左目の蝶々。鱗粉散る中で、ファルは己の腕を――蝶のインビジブルで溢れるそれを、己の口元へと寄せて、考えている。
確かに。いくらか『狂ってしまった』けれど、それはわたしの『怠慢』だった。わたしの『よく知らない』ものも落ちてきた。
それに、子供たちは『砂糖水』だけでは生きてはいけない。それをわたしは忘れていた。
今はきちんと、そう、『きちんと』、世話をしているつもりだ……隣の『少女』も、そのひとり。
「我は縛られる生き方を嫌う」
考え込むファルへと蜚廉は続ける。
「我は群れに馴染まず、檻に収まらず、生き延びる為に走り続けてきた」
文字通り――それは百をも超える年月――ただひとり、強く在ったのだ。孤独の自由さも、苦しみも知っている。生きる事は、生存とは戦い続けること。
「我の誇りは縛りに甘んじる事ではなく、抗い続ける事にある――」
故に。
「汝がこの籠を楽園と呼ぶなら、我が誇りをもって否定しよう」
ここは楽園などではない。ただの、蟲籠だと。あらためて、突きつけてやろうではないか。
蒼翅は困惑している。だが――彼の言葉に。その意志に対して。
『みなが、あなたのように強かったら。きっとわたしは、この国を造らなかったでしょう』
羽化してしまった、わたしだから。わたしは地を這うことを望んでいたのに。羽化してしまった、わたしだから……。
『あの子たちは――この国を必要としていないから、祈っていたのですか』
思い込みには、気付けたらしい。
「(ふにゃ……交渉はそんなに得意ではないのですが……)」
頑張ってみましょうか。神咲・七十(本日も迷子?の狂食姫・h00549)の隣に召喚されしはもう一人の『子』、邪神の欠片は周囲を見回し、不思議そうな顔をしている。途切れた記憶を繋ぎ合わせようとしているかのように。
「この子達はここから出たがってます。出してあげてください」
真正面からぶつけられる言葉にも多少は慣れたのか、困った顔を続ける|蒼翅《ファル》。子供達を眺めながら、その目の――左目の、瞬きのような羽ばたきを続けている。
『出してもまた、喰われてしまいます』
「それでも。この子達にきょうせいがあったかもですが、この子達はその対価に自由を得ることが出来ると思うんです」
ありとあらゆるきょうせいだ。強制、矯正、共生……きっと望まぬ形の。頷くフリヴァく、それが七十の思考の|トレース《・・・・》だとしても、きっとそう考えている。
親に強制された勉強だの。箸の持ち方が悪いだとか。動物嫌いの子の側にペット。この世の中は、『良かれと思って』与えられる『きょうせい』が多すぎる。
それを『喰われる』と表現するのは、ファルが簒奪者である、その証でもある。優しい簒奪者。だからこそ、許してはならない。|赦す《・・》ことはできても。
「貴方の国はきょうせいが無いかもですが、自由も無いです」
だって、こんな穴蔵の中で、何をして過ごすって言うんですか。まるで繭の中ではないか。羽化を待つ蝶々が長くを過ごす、退屈な繭。
「それは自由が無いことを強制しているのと同じだと思いますよ?」
たとえばクレヨンのようなそれが、何で出来ているのかだとか……引かれた線の数が何を意味しているのか、だとか。
ぼたり落ちてきたクヴァリフの仔、ああ困ったとばかりに眉根を寄せるファル。あの『仔』らが望まぬ来客であることは、確かなようだ。
「貴方がきょうせいによって失ったものがあっても代わりに得た自由もあったはずです、望んでなかったとしても」
……望んでいなかった、この共生。失った声、左目、腕、それらを埋める蝶々ども。得られた能力は人を救うには少々度が過ぎていて。だからこそ被害は広がった。
七十とて同じこと。何かを失い、√能力を手にして、ここに立っている。
「この子達が望むなら、きょうせいによって得る自由を、きょうせいで奪わないで下さい」
望んでいるのか。側に立つ少女は何も言わない。七十の側に立つそれも、ファルの袖をつまむそれも。
『……ともに生きたいのは罪ですか』
罪悪、まだ、わかりはしないけれど。にんげんとの差異には気付きつつあるか。『それ』は、困り果てている。
「仔も子供たちも皆帰りたがってるって知ってるー!?」
仔がどこに帰りたがっているかは知らないが。びくり跳ねた蒼翅の肩、表情は薄くとも驚いている。
単刀直入、率直、ばっちり概要を伝えてやることこそが最初にやるべきことだ、なんて。
「あ、どうも、しがないアラサーです。子供とは縁遠い人生でした」
傾国の美女、そのような女性こそ縁遠いもの……だろうか。冷・紫薇(沦落織女・h07634)がぺこり頭を下げ。
『青翅。ファル』
彼女に対し、同様に頭を下げてみる。
どちらも『子供』と縁遠く、だがファルは確かに『子供』を求めている。今回ばかりは大人も招いたようだが。それはきっと|この《・・》ファルの精神性にこそ理由がある。
「だけどね、子供らが悲しんでる、苦しんでる、親や友人を想って苦しがってる姿は見過ごせないなぁ」
『わたしも、途中から。そう思ったのです』
紫薇の言葉に蒼翅が応答する。だが結果は中途半端な施しだ。子供たちと『共生』しようとした。共に遊び触れ合って、心を通わせようとした。しかし、子供らにとっては致命的なまでに|足りなかった《・・・・・・》。
『ここが逃げ場になればよかった。何もせずとも生きていけるのは、幸福なことでしょう?』
――鱗粉散る吐息と共に響く声。
この回答こそが。致命的な『|バグ《・・》』だ。
成る程、と紫薇が目を細める。
ウサギの穴。子供とぶよぶよ。『国』のあるじはあまりにも頼りない。子供たちは祈る、クヴァリフの仔に。
「うーんわかるわかる、人間社会って超ザンコクだし辛いとこだよね」
そこから逃がしてあげたい? 幸せでいて欲しい? 当然。自分にそういう力があると知っているのだ、出来ると分かっているのだから、行動した。
「でもあなたはこんな空虚な場所で、いったいどんな価値を提供できるのかな」
紫薇は己の頬に手を当てて、こてん、首を傾げてみせた。
『空虚』
ファルが復唱する。空虚。価値とは。
「あなたは、この国でどんな幸せを与えられる?」
少なくとも『逃避』という幸せは与えられた。求められている役割や物事から、子供たちを解き放った。救った、気になっていた。だがはじめは楽になったと感じても、いずれ諦めてしまうか――最悪狂って『祈り子』たちの仲間入り。
「それってホントに幸せ?」
問われてしまえば、蒼翅、思わず閉口する。
……ようやく気がついた。今のままでは、この場所に居てもらうための対価が足りない。
己の描いた自由とは何だった? 失った声、ああと呟けど鱗粉のように吐息がきらめくだけ。
「あたしはこの世も案外悪くないって思ってるの」
無念だの無常だの背負ってさ。くるりと回れば袖がはためく、天女も顔負け、うつくしい踊りだ。ファルのみならず子供たちの視線を奪うほどの。
「色んな人がいて、上手く立ち回ったら楽しい人生を歩めるよ!」
その立ち回る、ってのも難しいけれど。ステップを踏んでみせるつま先。ファルだけに言っているのではない、この場にいる――彼女に視線を向けている子供たちにも、伝えたい言葉。
「だからさ、こんなところに捕らえるのやめてほしー」
帰りたがってるんだからさ。
ファルは、首を傾げる。困り眉。
「……あ、説得しても無理な感じ?」
ああ、こまってしまった。無理ではないが、それはそれとて、子供たちを手放したくはない……。
だが彼女は、紫薇は、ファルの懐に最も深く潜り込めている。
「初めまして、ファルファッラ・ブル君。お招きありがとう」
軽く頭を下げた北條・春幸(汎神解剖機関 食用部・h01096)へと、ファルもまた頭を下げる。ぱたりと羽ばたいた左目、『丁寧だ』とでも言いたげな、不思議そうな顔をして。
「君の気持ちは分かるけど、君もあの子達や僕たちの気持ちを理解して欲しいねえ」
『……あなたたちも?』
早々に話を切り出す春幸へ、ファルは声のない声で、鱗粉の吐息で答える。
「ここ、退屈なんだよ」
率直である。
ここは娯楽というものを知らないものが造った空間だ。与えられたのは鱗粉で出来ていると思われる不気味なクレヨンで。動き回ることは許されていても、ここから出ることはできなくて。
その身ひとつで出来る遊びなど、本当に限られている。
「君が「酷い事」って思ってる事は、実はいい刺激だったりするんだよねえ」
そうして春幸は、例え話だけれど、と。
「ジェットコースターとか、自分からスリルを求めて乗るものだし」
恐怖心のない彼にとってはあんなもの、やんわり廻るメリーゴーラウンドとたいして変わりがないのだが、それがスリルのあるものだと知っている。
子供がわざわざ危険を冒すような行為をして、大人に叱られるなんてことは、日常茶飯事。
「人間にとって、こんな何の刺激も無い環境に閉じ込められるって事は、けっこう残酷で酷い事なんだよ」
わかるかなあ。そう言って春幸は、あらためてこの『国』を、空間を見回した。
なあんにもない。傷つけないようにまあるく作られた、滑らかな壁。子供の落書き。天窓のような穴――クヴァリフの仔が降ってきて、ぺちょりと山の仲間入り。これが積み重なったところで、あの穴にはきっと届きはしない。こちらとしては既に大収穫な量なのだが、それでも足りない。
「嘘か本当か確かめてみようよ」
まるでゲームをするかのような提案だった。
「まずはあの子たちを外に返してごらん」
あの子たちとは、クヴァリフの仔の前で祈る子らだろうか。隅で俯いている彼らのことだろうか。
「それで子供自身が、ここに帰りたいって言うなら。改めてご招待すればいいだろう?」
確かに、『それ』の持つ権能であれば。すぐにでもこの場を離れて、様子を窺って戻ることなど容易いはずだ。自分たちをさらってきたときのようにすればいい。
その言葉に納得したのか――溢れる蝶々が、ファルの姿を覆い隠した。同時に、クヴァリフの仔の周囲で祈っていた仔らが溢れる蝶に包まれて。天に空いた穴へと群れが飛んでいく。
それを残った子供たちと見上げた後、春幸は――その間、暇で仕方がなかったので、クヴァリフの仔の様子を見て過ごした。あいも変わらずのっそり動く、素早く逃げようとする個体もいる。個性豊かなそれはまさしく『仔』である。そう、こども。
どれくらい時間が経ったのだろう。暇な時間が大半だった、それだけは確か。
立ち去るときと同様に、天の穴から蝶々が入り込んでくる。蒼と白の群れが地上に降りて。
……自分が求められていないことを、知ってしまったようだった。
言葉はない。ただ、左目と腕を覆う蝶が、インビジブルが羽ばたいている。鱗粉を撒き散らし、ファルの周囲をきらきらと輝かせるばかり。
「言った通りだったでしょ?」
今話しかければどうなるか? まあ、春幸には知ったことではないので、このように声をかけたわけだが。
「あ、僕を外に出す時は、そこの仔も一緒にお願い」
指さす先のクヴァリフの仔。子供のほとんど居なくなった空間で、蠢く山積みの触手ども。
『……いや』
子供が駄々をこねるように、蝶々は首を振った。
「……君は、優しいひとなんだね」
武器には一切、手をつけず。蒼翅へ、ファルへと向き合うクラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は言う。
敵対の意志は今のところ見られない。とはいえ相手は簒奪者である、インビジブルを己のために喰らい、力を得ようとするものである――油断だけは、しない。
子供らを救おうと。危害を加えぬようにと。そうして造られた『国』であることは確かだ。誰しもが――少なくとも、『死ぬ事』はなく――生きているのだから。
「でも、相手の意思も確認せず連れてくるのは良くないな」
あのような……天に開いた穴に向かい祈る、狂気に陥っている子供たちがうまれてしまっている以上、ファルの『国』は理想郷とは程遠い。優しさとは時に、毒である。それを与えているという自覚のない相手、どう話したものか。
ぱちりと瞬き、羽ばたき、ファルは変わらずの無表情だ。否、感情の機微が薄いだけのようだが。横に立つ少女はいまだファルの服の裾をぎゅうと掴んでおり、何か言いたげに、クラウスとファルに交互に視線を送っている。この子は十分、話が通じそうだ。
「ね。君は自分のおうちに帰りたい?」
……先ほどまで、壁に線を描いたりしていた少女だ。眉根を寄せて……ファルを見上げる。彼女にとっては、かなり無理をして見上げることになるその顔。ほんの少し微笑んでみせるファル、その本当の心情というものは、こちらから察する事はできない。
「……帰れないの」
――裾を握る手に、さらに力が入った。
「ファルは、ここにいて、っていうの。みんな帰ったら、ファルは、ひとりぼっちだよ」
少女の瞬きに。その一瞬に……鱗粉が散ったような、気がした。
――これが、『共生』の権能。『きょうせい』を嫌うそれが持つ|しか《・・》なかった、能力。
「……ごめんね」
呟きは小さく。
「きゃっ!?」
『――!!』
陽の鳥が、ふわりと羽ばたく。太陽のように輝く鳥の幻影が、少女の左目に炎を灯した。
慌ててその火を消そうとした少女、ファルの服から手を離して、ぱたぱたと左目を払って。そうして、自分が燃えていないことに気が付いた。困惑した様子で手のひらを見て、左目を確かめるように触れて……。
そして。
ほんの、すこし。蒼翅から、忌々しげな視線が注がれた気がした――。
「……もう一度聞くね。おうちに帰りたい?」
二度目だ。聞かれた少女、まだ困った様子で……また、ファルを見て。視線を泳がせる。けれど今度は、クラウスのほうへと向き。
「……帰りたい。帰りたいよ。ママも、パパも、きっと、探してるから……」
探してくれている、はずだから。
やや弱々しい語気だった。家庭に何らかの深い事情を抱えているのだろうか。この『国』に招かれた以上、『きょうせい』という言葉に関する何かを背負っている。だが、帰りたいと言ったのだ。ならば……。
蒼翅へ、ファルへと。確と目を合わせたクラウス。向き合う両者。……ゆっくりと少女が離れていく。
「聞いての通り、帰りたいと思っている子もいるんだよ」
それが、彼女たちの、彼らの意思だ。たとえここで暮らすことを深く望む子供が、一人でもいたとしても……。
「それでも帰さないのは、『強制』になってしまうんじゃないか?」
きょうせい。強制。実に、皮肉なものである。『きょうせい』から守ろうとしたものに、新しい『きょうせい』を押し付けて、国を造っている……。
少なくとも……自分のような……どこの誰だったかを忘れてしまった蟲にとって。ここは、安心できる場所だったが。
子供たちも、招いた『彼ら』にも、ここはどうにも『窮屈』らしい。あまりに広い籠のはずなのに。あの少女と触れ合って、心を通わせることだって出来た。
けれどここは行き止まり。消えた終わりの先、止まったフィルムリールから、無理やりにフィルムを引き出して、ぶつり途切れた空間だ。不思議の国のアリス、その上映はとっくの昔に終わっていて。自分も芋虫から蝶々へと羽化してしまって。二度とあの世界には戻れなくて……。
ファルが口を開く。鱗粉が舞う。
『この国を、愛してもらいたいと思うのは、悪いことなのですか』
自分は、『元の世界』には戻れない|取り替え子《チェンジリング》。あの子たちは、元の世界に戻れる。この人たちも。招いてしまった彼らも。
『戻りたくないと、願ってほしかった』
だって。自分だけが、戻れないのだから。自分、だけが……。
――炎を見た。
一瞬で、この身を焼き焦がしてしまうかもしれない火を見たのだ。クラウスを警戒している。
失ったこの目、腕、声、すべてをさらうインビジブルは……この蝶々どもは、火を、嫌う。
ファルファッラ・ブルは、もはやその意志を、曲げる気にはならないようだった。
第3章 ボス戦 『共生の権能『ファルファッラ・ブル』』

いかないで、いかないで、いかないで。
食べないで。潰さないで。煮ないで。燃やさないで。
外は危険なの。ここから出たら、どれだけの――自分を喰らおうとする『蟲』に集られるか、わからないのに。どうしてみんな、出て行きたがるの。
生きていたい。
絶えたくない。
それは種の本能である。声なきインビジブルが、|蒼翅《ファル》の欠落を代替する蝶たちが喚いている。
たとえ、どこかで蘇るとしても、死にたくない――逃したくない――あんなに、子供たちは、『受け入れてくれた』のに!
なんて自分勝手な話だろう。己の権能を忘れていたか。子供らをきょうせいから解き放った本人が、最も『きょうせい』に縛られていて。その力を存分に、この蟲籠でふるっていた。
――共生の権能『ファルファッラ・ブル』。|蝶々《インビジブル》と共生し、矯正を強制する受容体。
蒼い蝶々。不思議の国どこかのだれか。羽化した芋虫。蟲籠を求めた一匹である。
逃しはしない。子供たちが受け入れないのなら、あなたたちで良い。違う。あなたたち|が《・》良い。
『ここで、一緒にいて』
目的は、それだけ。
だから、あなたたちも、矯正を施す。
『ここにいて』
この際、なんでもいい。可愛い子供、可愛い仔ども、可愛いあなたたち、全員とらえて、蟲籠行きに。
時計うさぎと共に飛び込んだ先の穴、まだ、夢は覚めないようだ。
蝶が蜘蛛の巣に掛かる。当然のさだめであって、しかしそれは質量の暴力であった。すり抜けるどころではない白蝶の群れ、羽音は轟音となりて和紋・蜚廉(現世の遺骸・h07277)の潜響骨を震わせる。
『あなたも。わたしを、不要と断じるのですか』
諦観、悲嘆、羽音の合間から響く声を聞きながら、蜚廉は目前に迫る白蝶を両断する。それでも幾らか、否、相応の蝶が舞い――鱗粉と斬撃をもってその肉体を裂く。
蝶と侮るなかれ、インビジブル。ファルファッラ・ブルの『欠落』を埋め尽くすそれは相応の能力をもって、『蒼蝶』|を『蒼蝶』たらしめた《の欠落を生み出した》。
羽音が増える。穢刻還声――返す手。溢れる黒褐、怯え惑う子供らを守るように展開される白蝶の群れと、鱗粉の合間から消え去る姿。その身を蝶へと変化させたファルファッラ・ブル。
ヒトの意思を持ち、しかし蟲のように、理解及ばぬ領域にある蒼蝶、蝶は欠落を埋めるもの。本来の――人類と呼べた頃の本能をもって、その身を隠す。散開する蒼蝶の群れが軌跡を持たず飛び交い本体を隠す中で、蜚廉の焚いた煙が周囲へと満ちていく。互いに姿の見えぬ中、利があるのは蜚廉であった。
捕らえられぬと思うなよ。
煙の中に見えた左目、集う蒼いインビジブル。迫る斥殻紐、まるで網のように『それ』を捕らえた。踏み込む脚は確りと地を蹴る。途端散開していた白、蒼、咄嗟に身を覆ったのは長い袖であった。
「その道に絡まる姿こそ、汝の定め」
どの道か。蝶として――羽化してしまったさだめか、こうして『国』を維持しようと足掻いた道か。薄く甘ったるい白を切り裂いて、拳がファルファッラ・ブルの腹を打ち据える。
籠を壊してやれ。食い込む爪、血液代わりに散るインビジブル。抉り抜いたそれが手応えを残して散っていく――苦痛の声は聞こえぬが、替わりとばかりにきらり、鱗粉が散った。
トン、と小さく足元から音がする。やたら軽く、一歩飛んだ。それだけのことだったが、蒼蝶。流石の身の軽さである。距離を取り、捕らえられた蝶たちが暴れ、|黒銀《斥殻紐》を切り裂いた。
『絡まろうと、何度でも、飛べばいい――』
羽ばたき続けることには慣れている。溢れる蝶が傷口を埋めていく。ただの一時凌ぎだが、今はまだ、それで間に合う――。
「羽ばたきの行き先は、我自身で定める」
おまえの『国』とやらに、留まる理由は何一つないのだから。
「おおお、もしかして私達『強請』されてるのかな!?」
すきとか、きらいとか。わたしには、いまいちわからない。
「ホラーっぽく人攫いをする奴は、やっぱこう話が通じないとか話しても無駄とか、そういう方が超常の存在っぽくて私は好きだよ!」
だから、このようなことを言われても、ファルファッラ・ブルは困った様子で眉根を寄せることしかできなかった。なにせ、己が超常であるとは思っていない。ほんの少し特別で、どこにも飛べない『蝶』だと思い込んでいるのだから。
構える雪月・らぴか(霊術闘士らぴか・h00312)を前にして――そして、彼女が手に持つ蝋燭を見て、唇を噛む。
「これで遠慮なく子供やクヴァリフの仔を強奪できるね!」
その言葉に対して途端、表情を無くす蒼蝶。
敵対。――彼女は、らぴかは『共生』とはほど遠い存在だと理解した。ああ、彼女は、彼女だけは、この『国』からなんとしてでも、取り除かなければならない――!!
もはや禍々しいまである蝶の群れ。らぴかに集るそれは火をものともせずに突撃してくる。己の命を削ってでも、『共生』する本体――ファルファッラ・ブルを守ろうとしているのだろう。
それでも距離を詰めたらぴか。殴り掛かるその腕を長い袖で往なし、袖口を狙う火も蝶々の羽ばたきによる風向きの操作で阻害するも、それだけでは足りない。僅か燃え落ち延焼する袖も、羽ばたきが消火する。
このままの勢いであれば、なんとか凌げるかもしれない。
だが……あまりにも数が、多い――!
「あわわっ!? ちょっと! 多いよ!! こう……なったらー!!」
増えすぎた蝶々。明確に向けられた殺意の象徴に対して、『|叫声《きょうせい》』が響き渡った。――それは、死霊たちのみならず。子供と声なき『仔』らにも。
「……ちょっ、と、マズったかもー!!」
幾らか仔が『潰れた』。ぐしゃり音がしたが、十分に蝶の数は減った。寒気に怯んでいるその隙を狙い、拳を叩き込むらぴか。本体が吹っ飛ばされたからか、蝶の群れが離れていく。地に転がり、敵意をむき出しにしたままで立ち上がるファルファッラ・ブル。
「……もしかして、『きょうせい』は言い訳で、友達いない奴がトモダチ欲しさに誘拐しただけってことになるのかな〜?」
息を切らしながら、蒼蝶と視線を合わせる。……求めているものが友達だけだったら、どれだけ、よかっただろう。
蒼蝶が欲しかったものは……家族、友人、恋人、見知らぬ誰か、守ってくれるなにか。敵対しない人類『すべて』だったのだから。
もしもこの蝶が、子供たちを逃がしてくれたなら。あの『仔』らを手放してくれたなら。それならば、『ここにいて』もよかったかもしれない。
けれどそれは『駄目』だ。それは共生とは呼べない。ただそこにいる、そこで蜜を与えられるだけの生活に是と答えるわけにはいかなかった。
守るべきひとが、帰らねば心配をするひとがいるのだから。
変わったな、と。以前ならば、自分が残ればいいとなればその身を差し出していた。自嘲するようにわらったクラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)を、ファルファッラ・ブルが、どこまでも蒼いそれが、不可解そうな目で見つめている。
「悪いけど、それはできないよ」
ずいぶんと、自分勝手になった。けれどそれでいい、それがいい。己も、そして周囲もそれを肯定する。ただ目の前の蒼蝶は、それを拒むことしかできないのだ。
『ここにいて、くれないのですか』
悲しげな声色、ぱたりと瞬き、散る鱗粉。『あなたも、そうなのですか』と続けられた声に、クラウスは静かに頷いた。
「ごめんね。残ってはいけない、理由があるんだ」
優先すべきものがある。同情はすれど……傷つけたくはなくとも、それと共に暮らすことはけして、出来たものではない。どれだけ甘い蜜を与えられて愛でられたとしても、致命的なまでの溝は埋まらないだろう。そして『共生』したとしても、いずれそれは決裂するものだろうから。
『それでも』
そう、それでも。
『ここにいて』
懇願と共に放たれる蝶の群れ。蒼白。――手を、天へ。クラウスは、子供たちが求めた天窓へと、手を伸ばした。
虹色の雨が振る。鱗粉にも負けぬほどの輝きが落ちてくる、蝶々が燃えていく。それでもクラウスへ向けて蝶を袖から吐き出す。するり逃れてきた一匹を魔力兵装で両断しながら、一気にファルファッラ・ブルへと迫る。
――できれば、傷つけたくない。けれどもう、そうすることでしか解決できない。
これだけの被害者が出たのだ。被害者たちが負ってしまった心の傷は、根本から癒えることは――ない。
「俺は矯正も強制もされたくない」
それは、√能力者としての宿命。
「生き続けることを強制されている」
何度死んだって、蘇る。ファルファッラ・ブルが、蒼蝶が、小さく息を吐く。
「それだけで、もうお腹いっぱいなんだ」
断たれた腹からインビジブルを、蝶の群れを吐き出しながら、クラウスを見つめ続けている。
うらむわけでもなく、ただ、かなしみだけを込めた眼差しで。
ちりん。小さなベルの音が鳴った。
金色、きらきら、まっしろが、うさぎのあなにおちてきた。――ぺしょり、流れ星。
「あれぇ」
鐘音・ちりん(すとれいしーぷなヒツジ飼い・h08665)、お出迎えするは蝶々の群れ。白と青のそれが穴の中を飛び交っている。
きれいなちょうちょさんたちだ。捕まえようとした手、当然のようにスカっと空を切って、ちりんはその金色の目を瞬かせた。
見回せば、目の前に見えるは目立つ蒼い蝶だった。その体のあちこちから蝶の群れを溢れさせて、今にも飲み込まれてしまいそう。……憂いと、諦めと、さみしさと。新たに落ちてきた『子供』を前にして、ファルファッラ・ブルも瞼と翅をぱちり。
「……きみは、さびしいの?」
そんな目をしてるよぉ。視線は感情を物語る。ひと目。たったひと目だ。それだけで、子供には伝わってしまうものだ。声なく、吐息に鱗粉を乗せる蒼蝶を見て、ちりんは首を傾げる。
「さびしいのなら、いっしょにいてあげたいところだけれど……」
『けれど?』
「きみからは、なんだかよくないけはいがする」
ちょこんと座り込んだままだったちりん、立ち上がってぽふぽふ、服についているであろう埃と――鱗粉を払う。
「ぼくはひつじさんたちといっしょになって。外の世界を初めて見たんだ」
そとはすてきなところだよぉ。
楽しいこと、悲しいこと、ふわふわすべて飲みこんで、新たな感情を『楽しんできた』ちりんの言葉だ。
もふっ、もふん。ぽてぽてと、ちりんの周囲に落ちてくる新たなふわふわ。羊の群れである。めえめえ、愛らしい声で鳴きながら、好き勝手に歩き回って、鼻をひくひくさせたり、耳をぷるぷるさせたり。……「ね」と。同意を求めるように、ちりんはファルファッラ・ブルへと語りかける。
「きみたちがおそれるようなところなんかじゃない」
ここに残った子供たちも。ファルファッラ・ブルも。彼らがおそれるような、怖いことなんてめったに起こらないのに。その一回、二回に怯えて、どうしてここにいるのか――。蒼蝶が目を細める中で、ちりんは続ける。
「でも、ちがうんだよねぇ」
わかってる。わかってしまっている。ぎゅう、つかまえた羊を抱き上げ、ふかふかのそれに顔を埋めて――ふわふわ、ちりんとご一緒に。わたあめみたいに、溶けて、一緒。
――ちりんがすう、と息を吸った。
「きみは、ここでしか生きられないんじゃない」
ここ|が《・》いいんだ。
袖口から溢れる蝶々が吸い寄せられる。鱗粉が舞う。|自ら《蒼蝶》の欠落を埋めるインビジブルが奪われていく。ヒヅメでぺしょり、ふわふわの群れが蝶々をもふっと吸い込んで。ぽてりとおすわりして、動かなくなる。
「ここで、このひとたちといきていきたいんでしょう?」
帰ることを、拒んだひとたちと。子供たちはちりんと蒼蝶のやりとりを見ながら――隠れることのできない洞の中、ひとつの場所に集まって、それを見ている。
かえりたくなかった。怖いから。かえりたくなかった……彼らは、『共生』の権能に操られていただけではない。自ら、この場所に残ることを選んだ子供たちだった。
「ごめんね、役にたてなくて」
わるいことしない子を、こわい目にあわせるなら。ぼくたちがやっつけなきゃ。
呼ぶ。呼ぶ。呼ぶ。眠り羊の群れがぽてぽて降って、ヒヅメともこもこで蝶々を捕らえて、蒼蝶をも足蹴にしていく。困惑するファルファッラ・ブルをよそにめえめえ、場違いにも思えるほどの愛らしい鳴き声が空間に反響している。
袖を振り蝶を飛ばすも、ちりんには届かない。大量の羊の被毛がとらえてしまう、おねむさんな羊たち、すべてを受け止めてしまう。
受け入れて、しまうのだ。
「またどこかであえたら。こんどは、おともだちになれるといいね」
やさしい声に――蒼蝶は。
『……お友達に、なって、くれるのですか』
もし、また会えたら、だけど。
無謀だ。それを言ったところで、彼は止まりはしないのだが。
「そうか。寂しかったのか」
肯定である。ただ、優しい肯定。嫌悪なく、忌憚なく伝えられた言葉に、蒼蝶はただ静かに北條・春幸(汎神解剖機関 食用部・h01096)を見つめていた。
「だったら外に出ればいい。大丈夫。君が簒奪者なら死んでも生き返るよ」
簒奪者とは、√能力者ならそういうもの。小さく唇を噛んだファルファッラ・ブル。春幸と違い、死をおそれている。死んででも守りたいものがある、それでも、おそれずにはいられない。それこそが死だ。
だが恐怖心そのものを欠落している春幸には、それはもはや理解できない前提となっている。
「それでも怖いなら、ここに居て時々遊びに出ればいいじゃないか。ウチは何時でも大歓迎。お茶ぐらい出すよ」
お茶で足りるのなら。このようなことにはなっていないし。
「手土産にそこのクヴァリフの仔を持って来てくれれば尚嬉しい」
どのような形でも、仔どもを奪おうとする相手を許せはしない。
……ただファルファッラ・ブルにとっては勝手に降ってきた『それら』である、扱いに困っていたのは素直なところだが。
「僕は怪異を食料にする研究をしてるけど、同意があった方か、人類に危害を加える怪異だけを対象にしている」
だから、君を食べようなんてしないよ。
そう、『君を』だ。仔らを食らおうというのなら、あれらが危害を加えようと――子供たちの正気を失わせるような存在なのは知っている。そうなれば彼は、あの仔らを食らってしまう。クヴァリフの仔を、食ってしまう。
放たれた蝶の群れ、『強制』と王国の権能。視界に溢れた蝶々、まるで拐われたときのような光景である。夥しい量の蝶々が羽ばたく中、春幸は困ったように肩をすくめようと『した』。身動きの取れぬ中、ファルファッラ・ブルと見つめ合う。
「ねえ、どうかなファル君? 人類と共生してみない?」
頷くことは、できない。
でも、そうしたかった。そう、したかった!
けれど他の『ひと』は……ゆるしてくれない。
はらり溢れた涙ですら鱗粉となって散っていく。赦してくれないのなら、許してくれないのなら、わたしもあなたをゆるせない。
集る集る。春幸のからだに突き刺さる蝶の口吻、本来ならば舐め啜るだけのはずのそれが肉を抉る、溶かす、食らう。もはや捕らえることを目的としていない攻撃行動――だが春幸はただ「だめかあ」と笑って。苦痛を与えているはずなのに、わらっている。いるのだ。
『……あなたには』
そう、あなたには。
『ここにいて、ほしかった』
でも、帰さなくちゃ。きっと帰れって言っても、帰そうとしても、だめだろうから。
わたしは、優しいあなたを、殺さなくてはならなかったのです。
――群れが散開する。そこにはもう、彼の屍すら残っていない。
「わぁ〜どうしよう! 変な感じになっちゃったよォ」
あわあわ。慌てる冷・紫薇(沦落織女・h07634)、心の底からそう思っているかは定かではない。何故ならば。
「蝶々はキレイなんだけどさ、ごめん、なんかこう……」
言いにくそうにしながらも。
「おバカかも」
結局は、口にするのだ。
「キレイなおバカって残念だよね。あたしもそうなんだけどさ」
同情か、それとも。このように云うのだから、その心中は定かではない。対する蒼蝶、ファルファッラ・ブル。言葉だけでも、小馬鹿にされたことは分かったらしい。眉を多少ひそめたものの、瞬きに鱗粉が散る程度であった。
思考がねじ曲がってしまった。寂しさか『残念さ』からか。子供のまま大人になってしまったような、わがままで、自己中心的で、それこそ『自らの造った国』に執着するさまからも、それを読み取れる。
「子供たちがダメならあたしらを……ってホントさ」
こーなるとは思ってたケドガッカリだわぁ。頬に手を当て深刻そうに紫薇は深く溜息をついて。
「そこは! 責任を取って国を崩壊させますとかさ、命断ちますとかやるべきじゃない? 曲がりなりにも一国| 《(笑)》の主なんでしょあんた。うーん、責任感がないよねぇ」
流石の『傾国』、積極的に国を傾けよとはよく言うものである。よく言うか? だが一度、己の『決意』を『矯正』してしまった蒼蝶は、申し訳無さそうにしつつも。
『期待に、こたえられず』
そう言って、袖口から蝶を溢れさせた。舞い散る蝶々、だが一匹一匹。「めっ!」と落とされる雷は怒りか。
焼かれ燃え落ち焦げ落ちる蟲、合間をすり抜けるそれが集るも袖振れ、払え、それでいい。蒼白をふるい落とし、ファルファッラ・ブルへと視線を送る。
『どうして、ここにいてくれないの』
正直に、なーあれ。まあ、どうせあんたはずっと、正直者だったけどさあ。
「そういう意味でも、あんたは国を治める資格のないヤツだったね」
責任からは逃れられない。
理想を実現しようとしたことだけは評価できるだろう、手段はどうあれ『国』を造ったのだと。それを傾けるのが自分自身であれ、紫薇であれ、どれにしろ崩れ去るさだめだったのだろうから――なにも、問題はない。
『だとしても、守りたかった』
国を。子供を。己を。すべてを。それこそが最悪で災厄で、どうしようもなく話の通じないところであるのだ。
「あ、言っとくんだけどだーれもあんたの提案に乗りたくないと思うし。『強制』されるとみーんな嫌がっちゃうよ?」
それでも『きょうせい』の権能だ。それ以外の生き方を知らない。不思議の国の子、役割を押し付けられてしまったのだから、そうして生き残るしかできなかった。弱々しい芋虫から弱々しい蝶々へ、それでも強くあるために『共生』を――|インビジブル《蝶々ども》を、受け入れた。受け入れることしかできなかった。
「『矯正』してあげたかったケド、もーめんどくさいしイヤだし」
こうなっちゃあ仕方ない! 倒してあげちゃおう! それがいい、一番いい。『共生』を除いてしまえば、最後には暴力しか待っていないのだから。面倒くさいは何にも勝る。寝て起きて食べている、それこそが最終的に人が望む三つのものだというではないか!
七彩、胡蝶の群れと。蒼白蝶の群れが衝突する。舞い散る群れ――数を減らしていた、蒼蝶の欠落を埋めていたインビジブル。すり抜けてくる胡蝶、痺れる体、それでも足掻くことはやめない。やめられない。
蝶の羽ばたき、どこかでつむじ風、桶屋が儲かる。
――目を閉じた、羽ばたきが止まった。鮮やかな鱗粉。胡蝶に集られながら、その場に膝を付くファルファッラ・ブル。息を切らし――随分と数の減った白蝶の群れと共に。歩み寄ってきた紫薇へと、視線を。見上げて。まるで子供のように。
『どうして』
そう呟いた。
「……それで、キミの理想の世界は本当に幸せだったかな?」
素直になりなよ。幸せにも、不幸にも、そうあるべきなんだから。
唇から散るは鱗粉だ。声にならない。足りない、欠落を埋めるインビジブルが、蝶が、もう。左目の蝶は羽ばたきを辞めている。ぱくぱくと口を酸欠になった動物のように動かすそれ。けれど――何を言いたいのかは。
「……わかったならいいんだよ」
わからなくてもいいんだ。
伸ばそうとした手はもう足りない、腕すらインビジブルが埋めていたのだから。両腕を伸ばして。今にも泣き出しそうな顔で、縋りつこうとするその姿は。
「今は、……ううん」
違うな。ちょっと、違う。
「これからは。ゆっくりお休み」
そうだ。――子供のように、眠るといい。
――かくして、蒼蝶は展翅された。
王国は崩壊する。子供も、クヴァリフの仔もすっかり居なくなった中で。
ただ蒼い『それ』だけが、子供のように丸まって、息、絶えていた。