Dressing room
●dress
人通りの少ない路地裏に、ぽつんと建つ小さなお菓子屋さん。
ガラス張りのディスプレイに並べられた極彩色のチューイングガム、コインの形をしたチョコレート。そんなお菓子屋さんも、当たり前のように、夜には閉まる。
夜。恐らく日付変更前。『close』の看板が下げられた店の前に、黒塗りの高級車が一台止まる。
「本当にこの店で合っているの?」
「間違いないさ。招待状にもこの場所が記されている。」
車のドアを開き、赤いハイヒールを履いた女が、かつんとヒールを鳴らして店の前に歩み寄る。身体のラインを強調するマーメイドドレスに身を包んだ女は、鍔の広い帽子を持ち上げ、カーテンの隙間から店の中を覗こうと背伸びをしていた。伸びる影はまるで魔女のよう。
開きっぱなしの車のドアを、スーツを着たミイラ男が閉じると道を占領していた高級車は夜の静寂に消えて行く。男の包帯が風に靡き、足元の影も更に伸びる。
「ほらここ。この店で間違いない。」
「でも誰もいないわ。」
招待状らしき封筒を掲げると、明滅する灯りに照らされて真っ赤なシーリングスタンプが怪しく光る。シーリングスタンプの柄は蜘蛛のようだ。差出人は不明。しかし、男が取り出した手紙の末尾には、Lady・Monsterと綺麗な文字で書かれていた。
この日の為にいつも以上にお化粧をして、いつも以上に綺麗に着飾って来た女の形のいい眉が吊り上がる。この招待状が偽物だったら笑えない。
「とりあえず中に入ってみないかい?」
「closeって書いてあるわ。大丈夫なの?」
「試してみない事には――。」
男がドアノブに手をかけると、ベルの音と共に扉が開く。なんともあっさりと開いたものだから、拍子抜けしてしまった。閉店を告げる看板はフェイクだ。互いに顔を見合わせ、どこか得意げに見下ろす男を隣の女はツンとしたすまし顔でみつめた。
「今日はLady・Monsterの新作発表会なのよ。エスコートをよろしくね。」
「もちろんだよ。君が新作のドレスを一番に着る権利を得るために、私も一肌脱ごう。」
女が男の腕に片手を添える。この日のために新調したネイルは、新作のモチーフを取り入れた蜘蛛の糸をイメージした物だ。
重い音を立てて店の扉が開く。
ミイラ男と魔女は暗闇の中へと消えた。
●幽霊曰く
「Lady・Monsterって知ってるかい?」
ここに集った者たちにも見えるように幽霊の男、東雲・夜一は招待状らしき封筒を片手に持ったまま揺らす。蜘蛛の描かれたシーリングスタンプ。それがLady・Monsterからの招待状である証だ。
「有名なブランドらしいが、オレにはちっとも分からねぇ。」
「ってのはまあ、さておき。このLady・Monsterっつー所が悪の組織で、んでそこで働くデザイナーが、どうもこの発表会で人を集めて良からぬことを考えてるんじゃねぇかって所でな。」
幽霊の男の話はこうだ。とあるお菓子屋さんの地下にて、Lady・Monsterというブランドの新作ドレスの発表会があるらしい。しかし、新作ドレスの発表会というのは人集めの口実であり、なにやらここに集った者たちを洗脳し、全ての√の完全征服への手駒にしようとしているのではないかと。
「しかもだ。今回に関しては普通の発表会じゃねぇ。どうも、新作ドレスとやらを作った奴の目に留まれば、そのドレスを誰よりも先に着る権利を得られる……っつーらしい。」
人気ブランドの新作ドレスともなれば、このブランドが好きな者にとっては魅力的な誘いでもある。
「まあ……そんな感じで、気合いを入れている奴らがうじゃうじゃいる訳だが。大変な事になる前に、お前さん達が奴らの計画を阻止してくれ。」
場所はお菓子屋さんの地下。お菓子屋さんで売られているガムやチョコ等の甘いお菓子は勿論のこと、クラブも兼ねられた場所だ。酒の類を飲むことも出来るだろう。そろそろハロウィンの季節にもなる。南瓜頭のパイやミイラ男のクッキー、蝙蝠キャンディや目玉スナックなどの品々も置かれているだろう。
「発表会が始まるまではのんびり過ごして良いと思うぜ。のんびりできねぇやつは、店員に変装してバックヤードの探索をしてみんのも良いかもしんねぇな。」
「おっと、そうだ。客として向かう奴は仮装するのを忘れねぇように。あちらさんからの指定だ。」
客として向かう者には招待状を、店員として忍び込む者には服をそれぞれ手渡し、夜一はあなたたちを見送る。
「んじゃ、頼んだぜ。」
第1章 日常 『クラブ・アンダーグラウンド』
●Lady・Monster
ショッキングピンクの目玉をぎょろりと動かし、店内を見つめるギョロ目の怪物が本日のマスコットキャラクターらしい。名前はそのままギョロ目ちゃん。大きな鹿の角をリボンで飾り、店の中央でお客様をお出迎え。
ショッキングピンクの壁紙に、毒蜘蛛の糸を絡ませて、真っ白綿菓子を浮かばせる。
紫色の毒の糸が被さった南瓜頭にナイフを突き刺せば、とろりととろける南瓜のクリームとラズベリーのジャムが溢れ出る。甘さ控えめの南瓜クリームの甘酸っぱいラズベリーが癖になる味。
ショコラのドーナツはショッキングピンクの目玉であなたを見つめ、傍らに添えられた白いお化けのシフォンケーキが悪戯に笑う。使い魔のクッキーたちははしゃぎ回り、艶やかな魔女の爪が机に並ぶ。
それだけではありません。騒ぎ疲れたお客様には、とびっきりのドリンクも用意しております。真っ赤なルビーグレープフルーツは、まん丸目玉のゼリーを浮かべておりますので、皆様も大満足のお味に違いありません。
その他にも黄緑色のキウイは、モンスターの血液を模したもの。アルコールには真っ赤なワインやオレンジのリキュールを。
お客様が望むものを提供致します。の張り紙の横に、小さく未成年の方はアルコール禁止と言う文言も添えてある。
喧嘩はご法度。皆仲良く馬鹿騒ぎ。怪物たちの宴が始まる。
やたらと眩い地下クラブにひょっこり現れたその子。真っ赤な衣装に身を包み、ちくちく小さな針をお供に。チャームポイントの耳は林檎の帽子の中に隠すことはせず、今日はでずっぱり。
この場に相応しい、毒林檎のお針子さんの格好をしたチルチル・プラネットアップル(きらきらひかる おそらのほしよ・h08529)は、最後の一歩を踏み出すや否や、この地下のマスコットキャラクターでもあるぎょろ目ちゃんの元へと一目散に駆けだした。
「わあ!あっちにも、こっちにも、たくさんのおかし!ゆめみたい……!」
なにもかもが初めての中、お菓子だらけの地下に目移りをしてしまうけれど、お菓子に目移りしている場合ではないのだ。自らの首を振ってギョロ目ちゃんの前に立つ。
「こんばんは!きょうはいい日ですね!」
ギョロ目ちゃんは何も言わないけれど、挨拶を済ませたのだから良しとしよう。まずは何をしようか。お菓子も食べたいし、でもお仕事もしなくちゃいけない。
こんな時間にお菓子を食べると、虫歯になってしまうと誰かが言っていたのを、チルチルはしっかりと覚えている。もちろん、虫歯になってしまうのは嫌だ。でも仕事を頑張るのだから、食べてもいい!怒る人間の顔が脳裏に過ったけれど、今日は特別だ。
「せんにゅうそうさ、だもんね……!」
ギョロ目ちゃんの傍らに置かれた紅色のヌガーに手を伸ばし、こっそり一口含む。ヌガーを含んだ瞬間、口に中に広がったのは、林檎の爽やかさと甘くて苦いキャラメルの味だ。林檎にキャラメルはあまり口に含んだことはない。けれども、甘い林檎とキャラメルのほろ苦さが絶妙に溶け合い、口の中で程良い甘さとなる。
「……おいしい!次は……これ!」
ヌガーだけにしておこうと決めていた手は止まらず、次に小さな手が掴んだものは、ふわふわの綿菓子。
「くも?」
空に浮かぶ雲の欠片だろうか?見かけたことはあるが、食べたことはない。この機会に雲を食べることが出来るなんて、まるで夢のようだ。
先程と同じように、丁寧にいただきますの挨拶を交わすと、早速綿菓子かぶりつく。
「……あ、あま~い!」
ふわふわのそれは、思わずほっぺたがおちてしまいそうな程に甘い。ふわふわしたくもは口の中ですぐにとけてしまうから、大切に、大切に味わいたいのに、あっという間になくなってしまう。
「ふわふわの子、もうなくなっちゃった。」
美味しい物はどうしてすぐになくなってしまうのだろう。少しだけ肩を落としたチルチルは、次のお菓子を食べようと手を伸ばしかけた。しかし、不意に仕事の話が頭をよぎる。
「……夢中になりすぎちゃ、ダメ!」
自らの両頬を軽く叩き、今この場でお菓子を食べる代わりに、真っ赤な衣装のポケットへと飴玉をいくつか忍ばせることにした。
これならば、仕事の途中で甘いものが食べたくなっても平気だ。どこか得意げに胸を張り、パンパンに膨らんだポケットから飴玉が落ちぬようにとおさえておく。
「バックヤードはどこかな……。」
右も左も仮装をした客だらけ。小さなチルチルであれば客の隙間を縫い、バックヤードに潜入することが出来るだろう。軽やかな足取りで人波をすり抜け、目的の場所へと辿り着く。
「……しゃ、い、がい……ちいり……んー?ここかな?」
関係者以外立ち入り禁止。その文字の全てを読むことは出来なかったが、無事に辿り着くことは出来たようだ。微睡む瞳を瞬かせ、こっそりと扉を開く。中は薄暗くて良く見えないが、何かきらきらとした綺麗な物が置かれている気がする。
ここには大人が沢山いる。こども一人で進むのは危ない。ならばと一旦扉を閉め、チルチルは扉の近くのソファーに腰を落ち着けることにした。
もし、仲間が来れば声をかけてみるのも良いかもしれない。けれども今は、目の前のパンプキンパイに舌鼓を打つべく、置かれたお皿に、切り分けたパンプキンパイを乗せるのであった。
外観は普通のお菓子屋。しかし、扉を開くとそこには予想外の光景が広がっていた。ハロウィン仕様の店内に思わずぽっかりと口を開いたままで店内を見渡してしまった見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)は、いつものスーツ姿で乗り込む。店員として潜入をするのだから、今回は罅の入った仮面は外しておく。スーツのネクタイを今一度結び直し、七三子は表からバックヤードへと向かう事にした。
表で仮装をする人々を眺めるのも楽しいだろう。しかし、まずは仕事だ。関係者以外立ち入り禁止の貼り紙を視界に留め、堂々と扉を開く。こうして堂々と入る事が出来るのも店員の特権である。
表の賑わいとは裏腹に、バックヤードは閑散としていた。時折、同じようなスーツを着た者とすれ違いはしたものの、この場で怪しい動きをする者は見当たらない。七三子は片手にメモを持ち、お菓子の補充をするふりをして、バックヤードの把握を試みる。
「ふふ。実は私、潜入工作とか結構得意なんです!」
ひとりでに呟き、自らの痕跡を残さぬようにと予備に持ってきておいた黒い革手袋を両手にはめる。七三子の目的は、計画を知る手掛かりだ。書類やメモがあれば万々歳と言った所だろう。
「お菓子は……普通のお菓子のようですね…。怪しい物は仕込まれていないようです。」
カラフルなパッケージのお菓子や、上の店で売られているのであろう菓子の類に鼻先を寄せ、香りを嗅いでみたが怪しい香りはしない。いたって普通のお菓子のようで、あくまでも発表会が始まるまでは怪しい動きは見せないという意思表示か、それともたまたまだろうか。
「油断をさせておいて……と言う線もありますから、物がダメならインビジブルさんに聞いてみましょう。」
きょろきょろと周囲を見渡し、周囲に人が居ない事を確認した七三子は、その場で浮遊をするインビジブルに狙いを定めることにした。彼らならば、何かを知っているかもしれない。一体のインビジブルへと降霊の祈りを捧げると、そこには七三子と同じように、スーツを着た女性が現れる。
「すみません。少しお話を聞きたいのですが、よろしいでしょうか?」
生前の姿に変えられた女性は、自らの両手を見下ろし驚いた顔を七三子に向けていたが、一度大きく頷くと声を潜めながらも言葉を告げる。
『私で良ければ。』
「今回のLady・Monsterの新作ドレスの発表会について、何か良からぬ計画が企てられていると見込んでいるのですが、ご存知ですか?」
『……新作ドレス。はい、知っています。この場に訪れた、たった一人にそのドレスを着る権利が与えられるものですよね?』
七三子は頷き、女性からの話の続きを待つ。
『そのドレスは、Lady・Monsterのデザイナーが生み出した戦闘スーツです……。確かに見た目は豪華なドレスなんです。なんでも蜘蛛をモチーフにしていて、ハロウィンにはぴったりなんだとか。』
『ですが、それを着てしまうと洗脳をされてしまいます。私もLady・Monsterの新作と聞いて、別の場所で発表会に参加したのですが……その時のことを思い出すと……。』
女性の表情はみるみるうちに青ざめて行く。両腕を抱え首を振る事で、なんとかその場に立っているが、おおむねその時にLady・Monsterの新作を着た者が、悪の組織として会場をめちゃくちゃにでもしたのだろう。七三子にとっても、想像に容易い話だった。
「でしたら、そのドレスを誰にも着せないようにすれば、対策はできるのですね。」
『はい……恐らく…。ドレスはこのフロアのどこかに保管されていると思います。』
「お話をありがとうございます。ずっとここにいても怪しまれますし、お菓子の補充がてらドレスを探してみます!」
これ以上のことは女性は知らないようだ。七三子の言葉に小さく頷くと、彼女も表の賑やかな空気を楽しむべく一歩を踏み出す。
「さて、このフロアのどこかですね。このお菓子を持って行ったら、探してみましょう。」
手がかりをつかむことは出来た。ならば、あとは阻止をするために動くだけだ。表の賑やかな音楽を聞きながら、七三子は次の動きに備えるべくお菓子の補充を行うのだ。
「Lady・Monsterね……。」
スーツ姿の黒木・摩巳(ひみつのおしごと・h02923)は、店員としてこの場に居た。怪しまれないようにとドリンクの注文を受け、それをカウンターへと告げる。
今日と言う日は新作ドレスの発表会と言う事もあり、かなり賑わっているようだ。ドレスコードがハロウィンの仮装ともなると、気合いの入る者も多いのだろう。注文を受けたドリンクを運びながらも眼鏡の奥の瞳を光らせることは忘れないでおく。
(悪の組織のブランドの発表会とか碌なものじゃないんだろうけど。)
目の前を豪華なドレスを着た婦人が通りがかる。仮面を被っているため、婦人がどこの誰なのかは把握できないが、それなりに名のある者だろう。そのような者まで招待をされているとなると、この世界どころか他のルートへの影響もやはり懸念される。元より、悪の組織は他のルートへの侵略も試みているのだ。なんとしてでもこの場で計画を食い止めなければならない。
(まあでも……新作ドレスって、戦闘スーツかなんかだろうな。たぶん。)
そんなことを胸の中で呟き、空いたグラスを下げるべく、摩巳は一旦バックヤードへと引っ込む。
グラスを厨房へと届ける道中にこの地下の地図らしきものが目に留まる。クラブの構造は、思っていたよりも簡単に出来ているらしい。出入口等の動線の確認、それから怪しい部屋がないか目星をつけておく。そこでふと、地図上の一室に視線が吸い寄せられた。更衣室の斜め前、表からも入る事の出来る一室だ。
「……ここは、確か入ってはいけないと言われていた場所。」
その時には早く持ち場に行けと急かされたのだから、その部屋の確認をすることは出来なかったが、今ならば出来るかもしれない。摩巳は空のグラスを片手に、更衣室前の一室へと足を向ける。
摩巳のヒールの音が周囲には響くが、万が一誰かに見つかったとしても迷ったと言えば良い。幸いにして誰ともすれ違うことはなかったが、更衣室前に辿り着いた所で、立ち入り禁止である一室の様子が見えた。扉の前にはスーツを着た男が二人立っている。その様子からして、何かを護っているようにも見える。このまま行くのは危険だ。この場の構造を把握をしたのだから、怪しまれないようにこのまま持ち場に戻ろう。
彼らに見つからぬようにと柱の陰に身を滑り込ませた摩巳は、空のグラスを厨房に持って行き、賑やかな表へと戻る。あとは店員として働く傍ら、客の話に耳を傾けておこう。動向の確認も忘れず。もし万が一、怪しい動きをする輩がいるようであれば、すぐさま動けるようにしておいた方がいい。
「それにしても……。」
次の注文を運ぶ合間に貼り紙へと視線を向ける。そこには未成年はアルコール禁止。と書かれていた。
「悪の組織なのに、未成年への注意を促すだなんて。変に律儀なのよね……。」
グラスの中身はオレンジジュース。今、摩巳の目の前にいる吸血鬼も未成年なのだろう。悪の組織の計画に巻き込まれそうになっていると思うと、やはり早めに計画の阻止はしておきたい。
改めて悪の組織らしからぬ注意書きに首を傾け、オレンジジュースを運んだ摩巳は、店員として此度の計画を少しずつ把握して行くのだろう。
|赤い《・・》ドレス。頭上には細いシルエットのティアラを乗せたハートの女王は、カウンター席で頬杖をつく。
リリアーニャ・リアディオ(深淵の爪先・h00102)。常ならば赤は身に纏わない。黒いドレスと陰を引き連れて、この地下クラブへと足を踏み入れるのだろうが、今日は違った。
(Lady・Monsterの新作ドレス――。)
視線を流したまま、ブラッディー・マリーを注文すると、ウォッカをベースとした真っ赤なアルコールがリリアーニャの前に運ばれる。愛らしいぎょろ目ちゃんの目玉ゼリーや、添えられたトランプ兵のチョコも相俟ってハートの女王にはぴったりのドリンクだ。
そいつの首はもう刎ねた。トマトの赤とレモンをかきまぜる最中に、女王はぎょろ目ちゃんの目玉をピックで一突き。このカクテルの行く末も、添えられたトランプ兵のチョコだって、全部全部女王様のご機嫌次第なのだから。
来た時と同じように、周囲を探る視線はやめない。今宵は誰に話しかけようか。誰が相手をしてくれるのだろうか。ただのお喋りなら興味はない。必要なのは、|女王《リリアーニャ》の欲しい情報をくれる一人だ。ぐるりぐるりとグラスの中で青い目玉が目を回し始めた時、不意に一匹の白い兎と視線が重なり合う。
「……みぃつけた。」
彼にしよう。口元は悪戯に緩められ、重なり合った視線ばかりが彼を誘う。ゆったりと首を傾げて見せれば、ほらご覧。かわいい兎ちゃんはすぐに|女王《リリアーニャ》の手の内側におさまってくれる。誰も居座らない隣に腰を落ち着けた兎は、リリアーニャと同じブラッディー・マリーを注文した。どうやらこの兎、本気なのかもしれない。ならばやりやすい。口先だけの戯れも良いが、本気であればあるほど探りやすいのだ。
「ね、今夜は“特別な体験”がほしい気分なの。」
「あなた、白兎でしょう?」
自らのグラスを寄せ、かつん、とグラス同士を触れ合わせる。
「――叶えてくださらない?」
その一言で、白兎の目の色が変わった。
「ええ、女王様。他でもない貴女様のお願いならば、喜んで叶えて見せましょう。」
触れ合ったグラスを片手に、中身の目玉をリリアーニャのグラスの中へと落とす。青い目。忠誠の証だろうか。それを冷めた瞳で見下ろしたが、白兎は何も気付いていない。
結論を言えば、彼の話は面白くなかった。特別な体験を強請ったにも関わらず、口から出て来る言葉は彼の自慢話ばかりだ。このような輩は沢山見て来た。最初こそはリリアーニャもその話を楽しんでいたが、同じ話を何度も聞かされるのは流石に苦痛だ。グラスの中の眼も瞼を閉じてしまいそうな勢いだ。閉じる瞼なんてないけれど。
いい加減、欠伸でも漏れ出そうになった頃。欠伸を誤魔化すようにピックに突き刺した青い目玉を口に含んだ時、白兎が動き出す。
「女王様、特別な体験をお望みでしたよね?」
「ええ、そうよ。」
「でしたら、Lady・Monsterの新作ドレスを、一番近い所でご覧になりませんか?」
リリアーニャの兎耳がひくりと動いた。ここで興味を示せば、彼の思う壺になる。代わりに白兎に試す視線を向け、リリアーニャはこう紡ぐ。
「私を満足させることが出来るのかしら。」
差し伸べた赤いグローブが、握り返す白兎の手の甲に爪を立てた。
金色の皿の上で目玉が転がっては踊る。隣にいる相手の声すらBGMに消されてしまいそうな程に、この場は盛り上がっていた。
ピンクのぎょろ目が同じ色の瞳を見上げる。何やら楽し気に細められているそいつの眼と視線が重なり合うことはない。悲しくも容赦なく、骨のフォークによって突き刺されたぎょろ目は、いちご味の涙を流しながら七・ザネリ(夜探し・h01301)の手元で、ぷるぷると震えていた。
ゼリーとはわかっているが、その様が妙にリアルだ。隣でその様子を眺めていたルイ・ミサ(半魔・h02050)も、自らの手元のゼリーをぷるぷると揺らす。
「よく出来ているな。」
黒のドレスを纏い、目立つ赤はコルセットと猫耳に尻尾の色だ。ゆらゆらと揺れることはないが、自らの目と同じ色の目玉を見つめていると、その尾が緩やかに左右に揺れる気さえする。
「見ろ、ルイミサ。脳みそのプディングだと。」
目玉から流れ落ちるイチゴ味に舌鼓をうちながら、ザネリはぎょろ目の近くに置かれたピンク色の物体を視線だけで示す。もう既に口の中は甘い。甘いが、堂々と脳みそプティングだなんて書いてあれば、好奇心の方が先に立つ。
「ひひ、きめー絶対食う。」
「汎神の食用怪異を出す店を思い出すな。」
こんなにもリアルで、グロテスクなプティングを前にしても、ルイは表情を崩すことなくピンク色の物体を見下ろす。やはりこれも、妙にリアルだ。感心の声をあげ、脳みそプティングに顔を近付けてみた。よくよく見ると、確かにこれは本物などではなく正真正銘、誰かの作ったスイーツなのだと言う事が分かる。
「今度連れて行ってあげようか?本物が出る店。」
このようなお菓子も良いが、やはり本物は一味も二味も違う。ザラメのまぶされた脳みそも捨てがたいが、本物もまた格別なのだろう。
「……興味はあるな。個体差で味に違いはあるのか、食べ比べねえと。」
ぽた、と。堪能していたイチゴ味が床に落ちる。生憎だが今は脳みそを食べている場合ではない。骨男爵はいまだにぐずぐずと泣く目玉を飲み込み、口の中で咀嚼をした。甘酸っぱいイチゴが癖になる。弾力のある目玉ゼリーだ。中々に良い。気に入った。
骨がモチーフの白黒スーツ。片手には誰かの骨の杖を、もう片方の手には先程まで誰かの目玉が存在していたが、今は強かな猫様の腕だけが添えられている。
細身のスーツが一歩分先を歩み、一歩遅れて黒いドレスがその場で踊る。脳を揺さぶる音楽は慣れない物だ。仮装をした人々が頭と腰を揺らし、アップテンポな曲を踊る中で、ルイの足は不規則な動きを見せる人々を避けるだけで精一杯だった。ヒールの踵から床の振動が足に伝わる。これもまた、妙な心地だ。
「こういう場は慣れてんじゃねえのか?お前くらいの歳なら遊び歩いていそうなものを。」
常日頃と変わらぬ声量。いくら隣に居るとはいえ、ザネリの声が聞き取りにくいのか、ルイはこっそりと背伸びを試みる。
「……あー、お前は真面目チャンか。」
漸く聞こえたと思ったらこの一言だ。馬鹿騒ぎをする客たちを見つめる視線も、いつも以上に冷たくなってしまう。傍から見たら、仲睦まじげに見えるのだろう。しかし、近くを通る者たちが二度見をして行くものだから、人は見た目で判断しない方が良いと言ってやりたいものだ。ルイもザネリも素知らぬ顔で会話を続ける。
「真面目チャンと呼ぶな。好きで任務をこなしているわけじゃない。」
視界にとらえていた客たちが、何やらショッキングピンクの瓶を片手に踊り始めた。なんともまあ愉快な奴らだ。しかし、なぜあんなにも愉快に踊ることが出来るのだろうか。ルイにはそれが理解出来なかった。そんなルイの視線に気付いてか、口元に怪しい笑みを浮かべたままのザネリが喉の奥を震わせる。ルイにはまだ少し早い光景だったかもしれない。
「奴らはな、酒を浴びて。頭を空っぽにしてる。」
「さっきのピンクの瓶。頭が空っぽになるのか……酒って便利だな。」
「なかなか悪くねえぞ。」
カクテルを運ぶ店員のトレーから、ザネリはショッキングピンクのグラスを手に取る。他の客が注文をしたカクテルだろうが、そんなものはおかまいなしだ。取って下さいと言わんばかりに運んでいる方が悪い。
香りからしてピンクグレープフルーツだろう。柑橘系の爽やかさが鼻腔を擽る。ルイには飲めない物だが、興味はあるようで客からザネリの手元へと視線を向ける。
「ひひ、その面で成人してねえってのが驚きだが、まだ酩酊の味を知らねえとは、可哀想なガキ。」
「あと1年で私も楽しめる。」
「これはお預けだな。」
「残念だな。私にもある。」
オレンジ色の目玉の浮かぶカクテルグラスを揺らすザネリと、隣でオレンジ色の目玉ゼリーを揺らすルイ。どこか得意げに笑ったルイを見下ろし、ザネリの口も愉快そうにつり上がる。
「ガキには目玉がお似合いだ。」
「私もそう思う。」
「言うじゃねえか。」
グラスに添えられたミントを横に避け、ホルマリン漬けの目玉をカクテルピックで一突き。二つ目の目玉がザネリの手元で泣き始めた。これは恐らくマンゴー味の涙だ。
「ふふ、可哀想なガキは、酩酊していく共犯者を眺めて楽しんでおく。」
ルイが突き刺したままの目玉ゼリーを含むと、ぷつ、とゼリーが千切れる感覚の後に、口の中でオレンジの涙があふれ出した。これがまた、なんとも癖になる味だ。
「ひひ、遠慮か?素面でも踊れるだろ。」
「ザネリ君、踊れるのか?意外。」
そのまま自分の足でも踏んでしまいそうなのに。意外だと口にするルイの表情は至極楽し気で、カクテルを一気に飲み干したザネリのグラスへ、猫のフォークを投げ入れる。
「付き合えよ、レディ。」
「じゃあ、もっと音が響くあっちの方へ行こう。」
エスコートの腕は外さずに、響く音楽に合わせて脳みそのプティングができあがるまで。淑やかに、そして乱暴に。酩酊感なんてそんなものは無いけれど、気紛れで真面目なダンスを踊ろう。
パーティーはまだ始まったばかりだ。
第2章 集団戦 『戦闘員』
ビートを刻むフロアの証明が一気に落とされる。人々のざわめきを残し、誰かが声をあげようとした瞬間。
「皆様、大変お待たせいたしました!これより、Lady・Monsterの新作ドレスの発表会を開催いたします!」
蜘蛛男のアナウンスと共に、大きな歓声が周囲には響いた。
「まず、ルールをご説明いたします。新作ドレスを着る権利を得られるのはたったの一人です。」
「この場に居る皆様には、そのドレスを着る権利を得るために競っていただきます。」
蜘蛛男の話はこうだ。このフロアにいる全員で競う事。手段は選ばない事。しかし、Lady・Monster側も簡単にはドレスを手渡すことは出来ないと言う事。
「我々も全力で妨害をしに行きます。その妨害を抜けた先、一番にあちらのステージへと辿り着いた方に、その権利をお渡ししましょう!」
とある情報筋では、あれは戦闘スーツだという。ならば一般客がその権利を得る前に、こちらもまたあのドレスを何とかしなければならない。幸いにして手段は選ばなくてもいいようだ。ドレスを燃やす、奪う、何でも有りなのだろう。
しかしながら仮装をした戦闘員の妨害も入る。一般人を巻き込まずに戦闘員と戦うのか、それともドレスを狙うべく工夫をするのかは君たち次第だろう。
「それでは皆様、位置について!よ~い……ドン!」
その言葉を合図に、フロアには軽快な音楽と、仮装をした愉快な戦闘員たちが一斉に雪崩れ込んだ。
敵も味方も一般人も、この場にいる全員が入り乱れて容赦無しのドレス争奪戦が行われる。仮装をした相手が敵なのか、味方なのか、それとも一般人なのかの区別は問題なく出来る。しかし――――。
「招待客もLady・Monsterも手加減無しのドレス争奪戦とは、いつもこんな感じなのかな?」
これでは、自分の体がいくつあっても足りない。黒木・摩巳は、軽やかなBGMが流れるで、一際大きなため息を吐き出す。
「……インビジブルさんのお話では、着ちゃうと洗脳されちゃうんですよね?」
摩巳のため息の隣で、見下・七三子は首を傾げた。バーカウンターの中、店員に扮していた2人の女は、空のグラスを片付けながら司会者の説明を聞いていた。
「ええ、そうみたいね。私も小耳に挟んだから、まともにドレスを獲りに行くのは厳しいかな。」
かつん、とグラス同士が触れ合う。爆音に共鳴をしたグラスが片付けたばかりの棚の中で小刻みに震える。摩巳は忍ばせておいたスローイングダガーに服の上から触れる。
「だけど、ドレスが何であるかは確認したいところ。」
「……はい。仲間以外の手に渡るのは阻止しないと。」
片や七三子は革靴の爪先をとんとん、と軽く床と触れ合わせ、2人は互いに頷き合う。
まず先に動いたのは七三子だ。一般人に怪我をさせぬようにと人々の群れの中へと飛び込み、鉄板の仕込まれた革靴でフロアの床を踏む。ヒールよりも鈍い音が鳴り響く中、七三子は一般人と戦闘員の間にその身を滑り込ませる。
「あ、ご同業。……元、ですけど。」
数多の戦闘員の中には、もしかすると元下っ端戦闘員である七三子も知った顔がいたかもしれない。とはいえ各々が仮面で顔を隠し、仮装をしている中。ましてや悠長にお久しぶりです。だなんて挨拶を交わすような仲でもない上に、そのような時間もない。どこぞの王子の仮装をした戦闘員が他の戦闘員へと目配せをすると、周囲で踊り狂っていた者たちが一斉に七三子へと襲い掛かる。
――|ヒット&アウェイ《ワタシカヨワイノデ》
次から次へと襲い来る戦闘員を躱し、七三子はぐっと身を屈ませると下半身に力をこめ、その場から飛び上がる。飛び上がった先、戦闘員の群れを目掛けて片足を大きく前に振り上げる。重力に従うまま、振り上げた足ごと着地をした途端。ドォン!と周囲には派手な音が響く。
「私ただの下っ端戦闘員なので!」
数多の戦闘員が倒れ、彼らの中央で闇を纏った七三子が砂煙の中でその場に溶け込む。七三子は次の群れへと立ち向かうべく再び革靴で床を蹴った。
一方、摩巳は七三子の後方で手元を覗き込んでいた。その手に握られていたものは、可塑性爆薬セットだ。
「まともに使えば店ごと吹っ飛んでしまうから、量を調整して爆竹程度の威力にして……。」
七三子が戦闘員と向き合っている最中、この場を引っ搔き回すべく摩巳は爆竹の精製を行っていたのだ。
「これで完成。」
自身の前方、七三子と対峙をしている戦闘員の群れへ、それから指示を仰いで待機をしている戦闘員の足元へと、幾つかの爆竹を転がす。
爆竹だとバレないように、バーカウンターから拝借をした南瓜頭のラッピングを巻いておいた。一見して玩具にも見えるそれが、戦闘員たちの油断を生み出したのだろうか、それとも足元に気付かないほどに余裕が無いのだろうか。摩巳の精製した爆竹は避けられることなく、戦闘員の足元で派手な音を立てて爆発をする。
「……!」
小規模な爆発は、戦闘員を怯ませるには十分だ。闇に紛れた七三子が後方を振り返り、摩巳へと小さく頭を下げる。摩巳もまた七三子へと頷きを返しこの隙に自らの気配ごと闇の中に紛れ込ませた。
一つの群れがざわめき立つと、もう一方の群れにも伝染する。摩巳が戦闘員の足を引っかけている隙に、七三子は一般人を気遣いながらもドレスへと向かう。思っていたよりも戦闘員の数は多い。時折立ち止まり、一体一体着実に殲滅させながらもドレスへは少しずつ近付いているようだ。
摩巳がこの場を混乱に陥れているお陰で、ドレスに向かう者たちの足止めになっているのだろう。かすり傷を負った者が徐々に出ている中、幸いにしてと言うべきだろうか大きな怪我をしている一般人はまだいない。
ドレスへは誰も辿り着いていない。
蜘蛛をモチーフとした黒いドレスが、ステージの上でぎらぎらと輝いている。
二人は視線を重ね合わせる。七三子は革靴で戦闘員を蹴り上げ、その場に着地をしたと同時にドレスへと一直線に走り出した。
ぱんぱんに膨れ上がったポケットからはコウモリキャンディが顔を覗かせている。
「たくさん美味しいおかしを食べて、じゅんびばんたん!」
どこか得意気に胸を張るチルチル・プラネットアップルはポケットからはみ出したコウモリキャンディの存在に気付き、慌ててぎゅうっとポケットの奥へ奥へと押し込む。
毒入りのお菓子の存在を人間から聞いていたけれども、この場に並べられたお菓子はどれもこれも美味しかった。帰ったら『おいしかった!』と、きちんと教えてあげないと。人間は少し、いいやとっても!心配性だから。
ステージの上で何やらルール説明を行う司会者の言葉は、チルチルにはあまり良く分からなかったが、よーいドンの言葉はチルチルでも理解を出来る。一斉に動き出した皆を見遣り、その気迫に圧倒されてしまったが、同じように圧倒をしてしまったらしい小人の仮装をした女性をチルチルは思わず見上げる。
『みんな凄いわね……。』
「うん、とってもすごいの……。」
『ええっと、一番最初にドレスの所に行けばいいみたい?私、こういうの得意じゃないんだけど、小さな魔女さんは出来る?』
「おにごっこはとくいなの!」
早くも会場の中央では戦闘員と一般人、それから同じ√能力者との戦いが始まったようだ。周囲では小規模な爆発が起こり、白煙がチルチルの元にも流れる。
「くしゅん……!わたし以外にも、ドレスをねらっているなかま、みたいなひとたちがいるみたい。」
『そっか。それなら私は怪我をした人の手当てを行うから、お嬢さんも行くなら頑張ってね。怪我をしないように。』
はーい!と元気よく片手を挙げたチルチルは、小さな身体でなるべく大きなヒトのいない場所を探してはすり抜ける。確か『悪い人の手に渡らなければいい。』って聞いた気がする。それならば、今ここでチルチルがそのドレスを手にすることが出来なくても大丈夫だと言う事だ。
「よーし、それなら……!」
フロアの中央を避け、そのまま隅っこへと向かう。既に戦闘員と刃を交えている者たちの陽動のお陰か、この場は混沌と化していた。小規模な爆発の際にもくもくと立ち昇る白煙と、フロアの陰に身を滑り込ませたチルチルは、周囲でどよめきが上がっているうちに、ステージ上のドレスに似た幻影を生み出す。
この場が白煙に包まれていなければ、この幻影もすぐに見破られてしまっていたかもしれないが、今回はその心配もなさそうだ。その証拠に、フロアの中央から白煙の中に浮かぶドレスのシルエットを辿った戦闘員の一人がこうしておびき寄せられたのだから。
(ほんとうに、きてくれた……!)
ちょっとだけ感動を覚えながらも、チルチルは大きな帽子を持ち上げ、その中から毒のキャンディを取り出す。紫色のキャンディは林檎の形を模しており、幻影だと悟った戦闘員が口を開いた瞬間に――。
「えいっ!」
ぽいっと口の中に投げ込む。その瞬間、戦闘員は身を強張らせたかと思えば、まるで時が止まったかのようにその場で動かなくなってしまった。
動かなくなってしまった戦闘員の後方から、チルチルはこっそりと近付き、その顔を覗き込む。すると、先程まで活発に動いていた戦闘員は瞼を閉じていびきをかき始めていたのだ。
「わっ!せいこう、だいせいこう!やったあ!」
嬉しさにその場で飛び跳ねてしまったけれど、戦闘員はまだまだいるのだ。慌てて自らの口を両手で押さえ、その場で動かなくなってしまった戦闘員を引き摺りながらもバーカウンターの裏へと運んだチルチルは、次なる標的を見つけるべく再びフロアの隅を陣取るのだろう。
戦いはまだまだ始まったばかりだ。
敵も味方も一般人も、この場にいる全員が入り乱れて容赦無しのドレス争奪戦が行われる。仮装をした相手が敵なのか、味方なのか、それとも一般人なのかの区別は問題なく出来る。しかし――――。
「招待客もLady・Monsterも手加減無しのドレス争奪戦とは、いつもこんな感じなのかな?」
これでは、自分の体がいくつあっても足りない。黒木・摩巳は、軽やかなBGMが流れるで、一際大きなため息を吐き出す。
「……インビジブルさんのお話では、着ちゃうと洗脳されちゃうんですよね?」
摩巳のため息の隣で、見下・七三子は首を傾げた。バーカウンターの中、店員に扮していた2人の女は、空のグラスを片付けながら司会者の説明を聞いていた。
「ええ、そうみたいね。私も小耳に挟んだから、まともにドレスを獲りに行くのは厳しいかな。」
かつん、とグラス同士が触れ合う。爆音に共鳴をしたグラスが片付けたばかりの棚の中で小刻みに震える。摩巳は忍ばせておいたスローイングダガーに服の上から触れる。
「だけど、ドレスが何であるかは確認したいところ。」
「……はい。仲間以外の手に渡るのは阻止しないと。」
片や七三子は革靴の爪先をとんとん、と軽く床と触れ合わせ、2人は互いに頷き合う。
まず先に動いたのは七三子だ。一般人に怪我をさせぬようにと人々の群れの中へと飛び込み、鉄板の仕込まれた革靴でフロアの床を踏む。ヒールよりも鈍い音が鳴り響く中、七三子は一般人と戦闘員の間にその身を滑り込ませる。
「あ、ご同業。……元、ですけど。」
数多の戦闘員の中には、もしかすると元下っ端戦闘員である七三子も知った顔がいたかもしれない。とはいえ各々が仮面で顔を隠し、仮装をしている中。ましてや悠長にお久しぶりです。だなんて挨拶を交わすような仲でもない上に、そのような時間もない。どこぞの王子の仮装をした戦闘員が他の戦闘員へと目配せをすると、周囲で踊り狂っていた者たちが一斉に七三子へと襲い掛かる。
――|ヒット&アウェイ《ワタシカヨワイノデ》
次から次へと襲い来る戦闘員を躱し、七三子はぐっと身を屈ませると下半身に力をこめ、その場から飛び上がる。飛び上がった先、戦闘員の群れを目掛けて片足を大きく前に振り上げる。重力に従うまま、振り上げた足ごと着地をした途端。ドォン!と周囲には派手な音が響く。
「私ただの下っ端戦闘員なので!」
数多の戦闘員が倒れ、彼らの中央で闇を纏った七三子が砂煙の中でその場に溶け込む。七三子は次の群れへと立ち向かうべく再び革靴で床を蹴った。
一方、摩巳は七三子の後方で手元を覗き込んでいた。その手に握られていたものは、可塑性爆薬セットだ。
「まともに使えば店ごと吹っ飛んでしまうから、量を調整して爆竹程度の威力にして……。」
七三子が戦闘員と向き合っている最中、この場を引っ搔き回すべく摩巳は爆竹の精製を行っていたのだ。
「これで完成ね。」
自身の前方、七三子と対峙をしている戦闘員の群れへ、それから指示を仰いで待機をしている戦闘員の足元へと、幾つかの爆竹を転がす。
爆竹だとバレないように、バーカウンターから拝借をした南瓜頭のラッピングを巻いておいた。一見して玩具にも見えるそれが、戦闘員たちの油断を生み出したのだろうか、それとも足元に気付かないほどに余裕が無いのだろうか。摩巳の精製した爆竹は避けられることなく、戦闘員の足元で派手な音を立てて爆発をする。
「……!」
小規模な爆発は、戦闘員を怯ませるには十分だ。闇に紛れた七三子が後方を振り返り、摩巳へと小さく頭を下げる。摩巳もまた七三子へと頷きを返しこの隙に自らの気配ごと闇の中に紛れ込ませた。
一つの群れがざわめき立つと、もう一方の群れにも伝染する。摩巳が戦闘員の足を引っかけている隙に、七三子は一般人を気遣いながらもドレスへと向かう。思っていたよりも戦闘員の数は多い。時折立ち止まり、一体一体着実に殲滅させながらもドレスへは少しずつ近付いているようだ。
摩巳がこの場を混乱に陥れているお陰で、ドレスに向かう者たちの足止めになっているのだろう。かすり傷を負った者が徐々に出ている中、幸いにしてと言うべきだろうか大きな怪我をしている一般人はまだいない。
ドレスへは誰も辿り着いていない。
蜘蛛をモチーフとした黒いドレスが、ステージの上でぎらぎらと輝いている。
二人は視線を重ね合わせる。七三子は革靴で戦闘員を蹴り上げ、その場に着地をしたと同時にドレスへと一直線に走り出した。
ねえ。と赤の女王、もといリリアーニャ・リアディオが低い囁きを落す。
「新作のドレスを|一番近くで《・・・・・》。」
白兎と赤の女王その距離は、兎の足一つ分。既に近い距離にいるというのに、苛立ちを隠さない女王は更にその距離を詰める。
「――そう言わなかった?」
これは|女王《私》に対しての侮辱だ。女王の言う事は絶対であり、女王に逆らう者には罰を与えなければならない。
「嘘吐きは嫌いよ。」
赤の女王の双眸が歪められる。だのに、甘やかさを孕んだまなざしの虜になってしまった白兎は、ただただその|毒《深淵》に沈むだけだ。女王の細い指先が白兎の腰に添えられる。刹那――。
「……っ。」
白兎の眉が顰められる。強引に引き寄せた腰に、真っ赤な爪が服の上から食い込む。女王はその名の通り、女の王だ。通常ならば真っ赤な爪が肌に食い込んだ所で致命傷には至らない。分厚い布越しならば尚更だ。しかし、|女王《私》には通常なんてものは通用しないのだ。どこまでも傲慢に、どこまでも|女王《私》で、ブラッディ・マリーの香りを纏った|女王《リリアーニャ》は、誘うように白兎の顔へと鼻先を寄せる。目の前の兎の顔が更に歪んだ所で知ったこっちゃない。上目遣いの|青い瞳《・・・》が、幼さの影を消して妖艶に微笑んだ。
「悪い子にはお仕置きよ。」
悪い白兎には罰を与えるように。否これは――女王の八つ当たりだ。妖艶に微笑んでいた女王の唇が無を示す。使えない玩具はいらないの。吐息を吐き出すように口を開き、白兎の首元に勢いよく噛みついた。
純白から真っ赤なベリーソースが滴り落ちる。先程食べた白兎のグミは、甘酸っぱいベリー味だった。そのグミとは比べ物にならないくらいに不味いけれど、苛立ちをおさめるには十分だ。
「雑魚に構っている暇はないわ。」
赤く熟れた唇を真っ赤なグローブ越しに拭うと、唇に引いた紅黒いルージュが崩れた。
「覗いてみる?いいえ、覗きなさい。」
|深淵《アビス》。赤を纏った娘に常の闇が纏わりつく。純粋な好奇心はある。ステージ上のドレスが一体どのような物なのか、どのような意図でそこにあるのか。一体あれはなんなのだろうか。周囲のインビジブルと自らの位置を入れ替えたリリアーニャは、赤いドレスの裾がどこぞに引っかかろうともお構いなしに戦闘員の中を潜り抜ける。
味方の牽制、それから協力。それらのお陰で、戦闘員を躱すことなど容易かった。元より兎は耳が良い。周囲の状況を敏感に察知し、リリアーニャは進むべき道を瞬時に見切った。
まだ誰もドレスには辿り着いていない。そこで、同じようにドレスへと向かう誰かと視線が重なった。
(素早さなら負けないわ。)
駆けるには赤いヒールが邪魔だ。陰を纏った黒兎は、その身に似合わぬ赤を脱ぎ捨て、戦闘員へと投げつける。顔面で赤いヒールを受け止めた戦闘員がその場に倒れ、別の戦闘員がリリアーニャを追う。
「しつこい男は嫌われるわよ?」
べ、っと悪戯に舌を出しては戦闘員を挑発したリリアーニャに、彼らの腕が伸びる。けれども戦闘員たちの手は、リリアーニャを捕らえることはなかった。空を切った手の内側に握られていたのは、深淵とそれから愛らしい黒い兎のグミ。捕まる直前に深淵の力を使ったリリアーニャの置き土産だ。
「……残念でした。」
赤い靴は脱ぎ捨てた。引っかけた赤いドレスもお粗末な物になりつつある。誰が1番になるかって?私以外にはありえない。そう告げた女王は、気高く美しい赤ではなく、|深淵《黒》を引き連れる。どこまでも傲慢で、強欲で、その動きを模倣し――――。
数多の戦闘員の群れの中、引き裂かれた|襤褸切れ《ドレス》を身に纏ったリリアーニャは、戦闘員の頭を踏み台に裸足のままで蜘蛛へと手を伸ばした。
ぱちん。
指先を擦り合わせる音が、爆音の合間に溶け込む。心底面倒臭そうな顔をしていた七・ザネリがその場に精鋭を呼んだのだ。
|聯隊旗手《マエストロ》。
BGMに合わせて暗がりから一体ずつ影を引き連れて表へと姿を現す。表情も種類も違う彼らの様子は、登場からザネリの背後に控えるまでの一連の動きを含め、どこぞのアーティストのミュージックビデオのようにもみえるだろう。
周囲を警戒していたルイ・ミサも一体ずつ現れるキュートなぬいぐるみたちにすっかりと警戒心が崩れてしまったのか、最後の一体である頬袋がぱんぱんなリスの登場と同時に、リスへと勢いよく抱き着いてしまったようだ。
「確りとハロウィン仕様だ、見ろ、ルイミサ、可愛いだろ。」
「か、かわいい!」
「お前、……殴られても知らねえぞ。」
今日の彼らは一味違う。いつもならば可愛い顔に似合わぬゴツめの武器を構えている所だが、今日はハロウィン仕様のかわいらしいキャンディを模した銃に、カトラリーモチーフの槍等に加えて、ザネリとお揃いの蝶ネクタイを首に結んでいるのだ。ならば尚更ルイのかわいいスイッチがオンになる訳で、頬袋を膨らませたリスは苦しそうにその場で藻掻き始める。
隣にいたカラスが嘴でルイの腕をつんつんとつつく。リスの様子を案じているのかもしれない。そこで漸くリスを解放したルイは、改めてステージ上へと視線を向ける。
「コホン……あえて餌に飛びつくべきかな?ザネリ君。」
リスの頬袋から何やら脳みそゼリーらしきものがこぼれそうになっていたが、それを気にすることもせずにザネリもまたステージ上へと視線を向ける。
「ふむ、餌ねえ。アレ、一点物らしい、欲しくねえのか?」
ザネリの口角がつり上がった。彼の表情に合わせて、一歩後ろで待機をしているぬいぐるみたちも、各々武器を構える。
「欲しくないとは言ってない。」
「ひひ、奪ってきてやってもいい。」
懐から取り出した煙草を口に咥えると、骨キャンディーを片手に持つ南瓜を頭に被ったカバが、瞬時にザネリの煙草に火を点けた。煙たい店内に赤い煙が漂う。甘さばかりの残る空間に、スパイシーな香りは丁度良い。
「ふふ、案外優しいんだな。」
「そりゃなぁ、略奪こそ名悪役の本業と言って差し支えない。」
隣で眦を緩めたルイが、カバの愛らしさにうずうずとしている中、ザネリはというと肺一杯に吸い込んだ空気を煙と共に吐き出した。言の葉が煙となって周囲に立ちこめる。
「よし、お前らよく聞け。ルイミサの手伝いをしてやれ。よくお前らが遊んでやってる、この髪の長い女だ。」
「まて。遊んでやってるのは私だが!?」
ザネリがルイへと煙草の先を向けた所で、すかさずルイの言葉が滑り込んだ。あいあいさー!と言わんばかりに武器を構えていたぬいぐるみたちだが、すかさず滑り込んだルイに首を傾げるばかりだ。ぬいぐるみたちもザネリの言葉の通り、ルイで遊んでいるという感覚なのだろう。皆が訝し気な視線でルイを見つめる。
「な、なんだ……コホン。兎も角、私はあちらの蜘蛛男の元へと向かう。」
「ひひ、ルイミサが聞き込みをしている間、弱そうな奴は見逃してやってイイが。それ以外はぶちのめせ。」
改めて標的を確認したぬいぐるみたちが赤い煙を潜り抜け、ザネリの背後から一斉に飛び出す。
「遠慮は要らねえ。」
その言葉を合図に、ルイもまた蜘蛛男の元へと向かった。あくまでもドレスを狙う者ではなく、この戦いには興味はないと言わんばかりの素振りでだ。赤い煙を引き連れた女なぞ、そうもしないと怪しまれてしまう。
「少しいいか?」
「何だ?お前もあの馬鹿げた争奪戦に挑むのか?」
「いや。私にはこのドレスがあるからな。」
片手のエスコートは今はない。自らのドレスの裾を軽く持ち上げると、スカートの中に潜むぬいぐるみが見えそうになってしまったが、片足でスカートを翻すことにより何とか誤魔化せたようだ。
「でもあのドレスには興味がある。一着しかないのだろうか。」
「いいや。噂によれば、あれとはモチーフは別だが似たようなドレスはあるらしい。」
「……それで?その話、もっと詳しく聞かせてくれないか?」
ドレスの中からぬいぐるみの糸が、そして蜘蛛男の腕にはルイの腕が絡みつく。教えてくれるまでは離さない。教えてくれたとしても、場合によってはこのまま締め上げるのみだ。
「……目的は?」
「さあ?何だと思う?」
はらはらと、ルイの周囲に花弁が降り注ぐ。室内だと言うのに湿り気を帯びたそれは、軈て雨粒となり蜘蛛男の黒いスーツを濃く彩る。
――|卯の花腐し《ウノハナクタシ》。
花弁の触れる箇所から徐々にスーツが茶色く腐って行く。その様はまるで、長雨に降られた桜のようだ。男の精神は蝕まれ、肉体には糸と腕が絡みつく。ルイの瞳が灯りに照らされて蛍光色に光る。洗脳ごっこならば負けたくはない。苦しみ始めた蜘蛛男の瞳が虚ろになるその時まで、ルイは瞬きの一つもすることなく男からの返答を待つ。
その背後、バーカウンターで一服をするザネリの手には、かちんこちんに凍った心臓アイスが握られていた。随分と短くなった煙草を灰皿に押し付け、心臓に匙を押し当てる。しかしながらこれっぽっちも突き刺さらない。なんて頑固な心臓だ。
「お待ちかねのショータイムだ。」
赤い煙は舌を痺れさせる。甘ったるい脳みそのシロップ漬けで口を中和させていると、ドレスの中に隠れていたぬいぐるみが飛び出す。それが合図だったかのように、周囲で散り散りとなっていたぬいぐるみたちが、あちらこちらで動き出す。戦闘員を狙う者、一目散にドレスへと駆けて行くもの。仲間のドレスに武器が引っかかってしまったようだが、それもまたご愛嬌。円らな瞳でそれを見送り、蛇は自らの尾を口に含んだままで戦闘員の首に巻き付く。
「雨は途切れず、花まで腐す。」
水気を含んだアヒルがルイのドレスの中から出て来た時、ルイの周囲には放心しその場に伏した戦闘員たちの山が出来ていた。
ぽちゃりと水滴が滴る中、漸くアイスが溶け始めたのか、心臓アイスに匙が少しだけ食い込む。ショッキングピンクのいちごの粒が、アイスの隙間から見え隠れする。
「ひひ、その調子だ。あのドレスを血飛沫でラッピングしてやれ。」
「言われなくてもそのつもりだ。」
ザネリが|心臓アイス《それ》を一突きした所で、蜘蛛男の肩から茶色く腐った花弁が床へと落ちた。
第3章 ボス戦 『ジョロウグモプラグマ』
ある者は戦闘員を引きつけ、ある者はこの場を混乱に導き、そしてある者はその中で着実に戦闘員を眠りに誘う。この場が混乱に満ちた時、ドレスに手を伸ばせそうな者たちは一斉に手を伸ばした。
そしてそんな中、苦しみに藻掻く戦闘員の持っていたグラスが宙を舞い、真っ赤なカクテルがドレスへと降り注ぐ。敵も味方も一般人も入り乱れたこの場に、一つの声があがる。
「私の作品を汚すだなんて、使えない駒ね。」
ステージ上。蜘蛛をモチーフとした艶やかなドレスの隣には、六つの足を優雅に組み六つの目であなたたちを見下ろす女が居た。
「折角、洗脳糸製のスーツを作ったと言うのに。汚れてしまったら誰も着たいと思わないでしょう。」
彼女こそ、このドレスを作ったデザイナーであり、プラグマ所属の怪人でもあるジョロウグモプラグマだ。元は大人しいデザイナーの女性ではあるが、洗脳によりその性格は真逆のものとなっている。
「前回の発表会は手駒が沢山増えたと言うのに、どうしてくれるの?」
女は自らの爪を噛み、その場で跪く戦闘員に蜘蛛の糸を絡ませる。
「ドレスが汚れてしまっては、今回の計画は失敗も等しい。それなら一般人を手駒にするのよ。私に歯向かう者は容赦なく潰して良いわ。」
ぎりぎりと蜘蛛の糸が戦闘員の身に食い込むと同時、苦し気な声が聞こえて来る。
「やりなさい。」
「は、はい、ジョロウグモプラグマ様。」
その声が聞こえた途端、戦闘員を縛り上げていた糸が解ける。事の成り行きを見守っていた一般人は一斉に逃げ出す。しかし、六つの脚を持つ女は、逃がさないと言わんばかりに、周囲に蜘蛛の糸を張り巡らせた。
ジョロウグモプラグマが張り巡らせた糸をダガーで斬りながら、黒木・摩巳はステージの上を見つめていた。
「ジョロウグモプラグマとは初めて見る幹部怪人ね。いかにもクモをベースにした怪人でまた厄介な。」
戦う事よりも一般人の避難を優先させる。避難誘導こそ、この場にいる√能力者のような力を持たない摩巳に出来る事だ。ステージ上へと向かう√能力者たちの背を見送り、自身は背筋をのばしたままステージに背を向ける。
(ここにいる時点で一般人かどうかは疑問だけど。)
逃げる者の中に、純粋な一般人と呼べる者は一体何人いるのだろうか。仮装をしているせいで、その見分けがつかないのは厄介だが、今は悠長にプラグマの関係者を探している場合ではない。
未だに鳴り続けるBGMという爆音に、片耳を塞いでは眉間に皺を寄せてしまう。こんなにも大きな音が流れていたら、避難をする声も届きにくいだろう。
「本当に厄介。」
小さく息を吐き出し、ダガーに絡み付いた糸を指先で捨てる。兎にも角にも、相手が誰であれ外に逃げてもらうのが先だ。この狭い場所で戦うともなれば、一般人がいれば仲間もやりにくいだろう。それに一般人だって巻き込まれかねない。
ジョロウグモプラグマの手によって張り巡らされた糸の束をダガーで斬る。ここに来た時に、この場の地図は頭に入れておいた。表だけを見るならば、出入り口は一つしかない。けれども裏を見るならば、出口は数多とある。
現在、バックヤードへと繋がる通路には蜘蛛の糸が張り巡らされている。それに加えて、出口とは反対方向にある扉の前は、人波に逆らうようにして進まなければ辿り着くことは出来ない。
それならばと摩巳は、脳裏に描いた地図を頼りに自らの足で歩む。バックヤードと表を繋ぐ不思議な空間。その空間からバックヤードへと向かえば、避難誘導もスムーズに行くはずだ。摩巳はダガーにまとわりつく糸を椅子や机に絡み付かせては扉を目指す。こうして糸を避けてしまえば、皆々引っかかることなく進むことが出来るだろう。
「ここね……。」
バックヤードと表を繋ぐ空間。その扉の前に摩巳は立つ。いたって普通の扉だ。変わった事と言えば、表からは鍵の存在を確認することが出来ない。もともとそのような作りなのだろうか。ドアノブに手をかけ、右に捻ると扉は呆気なく開くことが出来た。
中は物置になっているようで、ここにドレスが保管されていたのだろう。きらびやかな布や裁縫道具の類が置かれていた。ドレスが洗脳をするためのスーツではあったが、この場にはあの一着しかないようだ。それを確認し、バックヤードへと繋がる扉を開く。
「これなら大丈夫そうね。」
バックヤードへと繋がる扉を開いてしまえば、退路がもう一つ確保できる。
「これで退路を確保。あとは声掛けをして、こちらの道も使って避難誘導をしないと。」
表の出入り口は既にごった返している。ステージ上ではジョロウグモプラグマの元に辿り着いた√能力者たちが、刃を交え始めたようだ。更なる混乱をおさめようと、摩巳は逃げ遅れた者たちへと声をかける。途中、避難誘導の妨害を受けながらも、摩巳は身に着けた術で手下を撃退して行く。
「今のうちに、そちらの扉から店の裏へと逃げて。」
怯む一般人へと声をかけながらも摩巳は爆音にも負けぬよう、声を張り上げる。他にも誘導を担う者はいるようだ。一人ではないことに、己の胸の内側が奮い立つようだ。
蜘蛛の糸の張り巡らされたステージで踊る√能力者たちを横目に、摩巳はダガーを握り、他の者たちが動きやすいようにと、己に出来ることを続ける。己の頭の中には地図があるのだから。
「皆さんこちらです。その扉の先から抜けて、こっちへ――。」
表では他の者が摩巳の拓いた道へと避難誘導を始めたようだ。これならば混乱を最小限に抑えることが出来る。摩巳は形の良い眉をつり上げ、改めてその身を引き締めては誘導を続けるのだった。
見下・七三子はドレスに手を伸ばしていた。けれども伸ばした矢先、目の前でドレスへとカクテルの雨が降り注ぐ様を見てしまった。驚きに目も口も開き、思わず伸ばしていた手が引っ込んでしまう。
そこからの流れは早かった。あんなにもスローモーションで降り注いでいたカクテルのグラスが、床に落ちたと同時に世界が動き始める。いつのまにかそこにいたジョロウグモプラグマの六つの脚が視界の隅に過った時、自らの身を一歩引く。
「む。一般の方を守らないとだめですね。」
体勢を整えた七三子は、背筋を伸ばし片耳に手を宛がう。何かを呼ぶかのような仕草。あちらが戦闘員を呼んだのであれば、こちらもまた同じように呼ぶだけだ。
――――|警邏作戦《パトロール》。
「ふふ、ちゃんとお護りしますね?」
瞬間、七三子の足元からは蜃気楼の如く、戦闘員の幻影が現れる。常ならば仮面を着けた戦闘員も、この場のドレスコードを守るかのように仮面は着用していないようだ。そのお陰か、一見してボディーガードのようにも見える戦闘員の幻影に、安堵の息をこぼす一般人も少なくはないだろう。
「戦闘員の幻影さんたちは、一般の方を守ってください!ケガをしたら適宜回復を。もし狙われるようでしたら、攻撃しつつ私と入れ替わってください。」
的確な指示を出すと、幻影たちは瞬時に持ち場へと向かう。出入口は一つしかない。そのせいで、会場の混乱は増しているようにも思える。
そんな中、的確な指示を出す七三子を見上げる目があった。
「わあ……!」
微睡む瞳をめいっぱい開いて、かっこいいと小さくこぼすチルチル・プラネットアップルだ。ステージ上のジョロウグモプラグマを見た途端、六つの脚の怖さに大きな尻尾が逆立ってしまい、大きな帽子にその顔を隠してしまいたくなったと言うのに、七三子は勇敢にも一般人の誘導を行っているのだ。
そんなチルチルの視線に、七三子もどこか照れ臭そうに頬を掻くと咳払いで誤魔化す。
「ええっと。こうやって避難誘導は、出来ますか?」
チルチルはこくこくと何度も頷く。こうして七三子のお手本も見たのだから、きっと出来る。
「わたし、ちいさいから!だいじょうぶだよ!」
「それでは私はこちらから誘導します。あなたはあちらをお願いしますね。」
「はい!」
会場内に張り巡らされた蜘蛛の糸を縫うようにして、七三子とチルチルは互いに動き出す。元同胞である戦闘員たちを盾にして戦う幻影と、素早く位置を入れ替わりながらも一般人を守り抜き、被害を最小限に抑える七三子と、小さな身体を生かして人々の隙間を縫い、懸命に蜘蛛の糸を退かしながらも誘導を続けるチルチル。
(小人の仮装をしてたおねえさんは大丈夫かな……?)
避難の最中に、チルチルはここで出会った小人を思い出す。とても優しいいねえさんだった。怪我をしていなければ良いけれど、と無意識のうちに視線でさがしていると、ちょうど七三子が自らの身を盾にし、庇っている姿が目に留まった。
「皆さん、こちらです……!」
戦闘員の影を受け流し、そこから瞬時に幻影との立ち位置を入れ替える。随分と慣れた姿に、チルチルは感嘆の息をこぼすばかりだ。
「わたしもがんばらないと……!」
ぐっ、と拳を握りしめていると、どこかで退路が開いたのだろうか。耳が扉を開く音を拾い上げる。すると、一般人の流れが変わった。七三子の方へ逃げる者と、それとは別にバックヤードへと向かう者が出て来たのだ。
これも仲間の誰かのお陰だろう。これならば混乱も緩和されるはずだ。仲間が動いているのであれば、チルチルはチルチルに出来ることを。小さな身体で周囲を見渡していると、バーカウンターの裏で蹲っているクマの着ぐるみを見つける。
「だいじょうぶ、ですか……!」
チルチルが慌てて駆け寄り声をかけると、クマは自らの膝を差し出す。派手にこけたのだろうか、クマの膝からは生身の人間の肌が見えた。
「たいへん……!」
チルチルは慌ててポケットから絆創膏を取り出す。林檎がらのかわいい絆創膏だ。擦りむいた膝へと貼り付ければ、クマの円らな瞳も嬉しそうに緩んだ気がする。絆創膏を取り出す時に、ポケットからは飴玉がいくつか零れ落ちてしまったから、慌てて拾い上げてクマに二つ差し出す。
「あんしんして……!お外に出たらまた楽しいハロウィンパーティーのつづきをするの!あめちゃんをたべて、元気になってね!」
林檎柄の絆創膏を貼り付けたクマは、チルチルに頭を下げるとゆったりとした足取りでバックヤードへと消える。
「そちらはどうですか?」
そんなチルチルとクマの様子を視界に入れていたのか、七三子はチルチルへと駆け寄る。避難誘導も少しずつ落ち着いて来たのだろう。ステージ上が開けて来た。
「クマさんもちゃんとにげました!」
「それは良かったですっ。」
二人が互いの状況を確認していたその時、ステージ上から派手な音が響く。他の仲間が刃を交えている音だ。
「一般人の方を危険にさらす訳にはいきませんが……。」
七三子は足元の幻影を見下ろし小さく頷く。この場の影から影へと伝うようにしてステージ上、ジョロウグモプラグマの死角へと移動をする幻影を見送り、今一度出入口へと向き直る。
「もうひと踏ん張りですっ。私たちも頑張りましょう……!」
「はい!」
避難誘導を続ける七三子、怪我をした一般人へと医術を試みるチルチル。
林檎の絆創膏を貼ったマスコットキャラのギョロ目ちゃんが、二人の様子を見守っていた。
引き裂かれたドレスの裾に触れ、自らの姿に息を吐き出すリリアーニャ・リアディオは、煩わし気に乱れた髪を片手の甲で払う。
灰被りの娘よりもたちが悪い。灰ではなくショッキングピンクのジャムの付着した足元。赤、青、ピンクに緑。鮮やかな赤いドレスは、女王を強請るトランプ兵の手により様々な色が混ざり合ってしまったようだ。おまけにヒールは二足とも|置いてきた《・・・・・》。
リリアーニャの青い瞳がジョロウグモプラグマへと向けられる。あんな思いをしてまで手を伸ばした新作ドレスの作り手が蜘蛛そのものだったなんて。これならば、嘘吐きな白兎を甚振っていたほうが面白かった。きっとそうよ。
「汚れたドレスに、もはや興味はないわ。」
赤く汚れてしまった新作ドレスの横で、リリアーニャを見つめるジョロウグモプラグマは、指先を振るってドレスを直す妖精ではない。ふん、と鼻を鳴らし、顔を横に逸らしたリリアーニャは、そのまま舌先を出す。
「私、蜘蛛があまり得意じゃないの。」
ここまでは建前だ。この言葉は本心。ドレスに絡み付いた粘着質な糸を、グローブのはめられた手で摘まみ上げる。
「纏わりつく蜘蛛糸も気持ちが悪い!」
摘まみ上げた端から、両手でドレスを引き裂くと、鮮やかな赤い布と共に蜘蛛の糸が重力に従って床に落ちた。赤の女王はこれでおしまい。音もなく落ちて行った布へと視線も、意識も向けずに、リリアーニャはただひたすらに蜘蛛の女を見つめる。
「衣装がズタズタね。私の糸で縫い直してあげましょうか?」
「結構よ。」
双眸を細め、冷たく言い放つリリアーニャに、ジョロウグモプラグマは喉の奥を震わせて笑う。極彩色に染まるドレスも、本当ならば脱ぎ捨てたい。自らの色を纏い、目の前の存在を視界から消し去ってしまいたい。リリアーニャの心情を読み取ることは、たとえジョロウグモプラグマであっても出来ない。しかし何を悟ったのか、唇を怪しく歪ませたまま、リリアーニャに一歩踏み出す。
「それなら、そのドレスを引き裂いてあげる!」
6つの腕と脚、それらがバラバラに動き、リリアーニャのドレスを目掛けて素早く地を這う。動きも素早さも何もかもがまさしく蜘蛛。ぞわりと背筋に悪寒が走るのを感じ取り、リリアーニャは飛び退く。
「美しい花には|棘《きば》。があるの。」
蜘蛛は嫌だ。敵の前で目を瞑る事はしないが、無意識のうちに口元が引きつってしまうのは仕方がない。ならば、黒くて巨大な人喰い薔薇を自らの盾として差し出す。それが視界を遮り、苦手なものから遠ざけてくれるはずだ。
けれども現実はそんなにも甘い訳では無く、視界からジョロウグモプラグマは消えたが、周囲を張り巡らせる糸は幾重にも重なってリリアーニャを襲う。
「煩わしいわね。」
それだけではない。蜘蛛の女が手を出せないのならばと、周囲に居た戦闘員がリリアーニャを取り囲んだのだ。
「……。」
リリアーニャの視線が黒薔薇に向く。次の瞬間、戦闘員の悲鳴があがる。リリアーニャへと飛びかかろうとした1人が、黒薔薇の蔓に絡みとられたのだ。身を締め付ける蔓の力に、両足をばたつかせては蔓から逃げ出そうと試みるも、人喰い薔薇は戦闘員を抱きしめたままでその手を離すことはしない。
「お腹が空いているでしょう?食べてしまいなさいな。」
甘やかな芳香が周囲に漂う。鋭い棘が戦闘員の柔肌に食い込む様は、吸血鬼が人間の血を貪るそれにも似ていたかもしれない。戦闘員の悲鳴が一層高く上がった時、リリアーニャは周囲を見渡す。
「この中で一番甘いのはどなたかしら?」
黒薔薇はグルメなの。笑った拍子に、牙が僅かに覗く。咀嚼を終えた黒薔薇は、満足をしていないのだろう。まだかと言わんばかりに蔓を床に叩きつけ、戦闘員を纏めて掴んだ。それが合図だったのだろうか。他の黒薔薇たちも呼応するかの如く蔓を伸ばし、次から次に戦闘員を絡めとって行く。
リリアーニャの黒薔薇が戦闘員たちを全て平らげた所で、蜘蛛の女の悲鳴があがった。視界から外していた女が、漸くリリアーニャの世界に戻ってきたのだ。
蜘蛛は苦手だけれど、自慢の兎耳に糸が付いてしまった。それはいただけない。リリアーニャは薔薇と共に蜘蛛の女へと向き直り口を開く。
「愛しの黒薔薇たち、メインディッシュはあちらよ。」
甘やかな香りをまき散らしながら、黒薔薇は蜘蛛の女に抱擁を与えるべく、|腕《つる》を伸ばした。
「汚れたドレスってのも味があると思うがね。女ってのは気難しい生き物だなァ」
とん、と。革靴と床の触れ合う音。後方で事の成り行きを見ていた七・ザネリが、小さな南瓜の馬車を飛び越え、撒き散らされたカクテルの川を踏み、転がる戦闘員たちに見向きもしないままステージ上へと辿り着く。
『|採寸と剪定《マイフェアレディ》』
悪役の七つ道具。マホガニーのトルソー。
この場にはぴったりの道具だろう。ステージ上でも良く映える。腰を抱き、エスコートでもするかの如くトルソーを片腕で掴む傍ら、じっとりと濡れた瞳だけは共犯者殿を捉えている。
「女を殴るのは得意だが、ご機嫌取りは得意じゃない、頼むぞルイミサ。」
「ええ……私もヒステリックな女のご機嫌取りは苦手なんだけど。」
インナーカラーの橙が足元で割れた南瓜と被る。小さな南瓜を摘まみ上げ、戦闘員の方へと軽く放ったルイ・ミサは、眼前でのやりとりにどうしたものかと思考を巡らせていた所だった。
「使えない奴らばかりね!ネズミが2匹ステージに上がってしまったじゃない。早く駆除をしなさい!」
「どうやらネズミらしい。」
「いいじゃねえか。ネズミは可愛い。」
ジョロウグモプラグマが声をあげた途端、ザネリの後方で倒れ伏していた戦闘員たちが起き上がり、一斉に動き出す。後方からの声、声、声。明らかに此方を狙う動きは、振り返らずとも分かる。
「ひひ、元気な奴らだ。」
正面のジョロウグモプラグマと向き合ったまま、ザネリはトルソーを抱き寄せる。黒く艶やかなドレス。骨のコルセットがザネリとお揃いの美しいレディ。
「俺は雇用主だ。よって従業員が心地よく働く環境作りに専念する。」
「お力添え下さい、レディ。」
恭しくトルソーに頭を下げ、無い片手を掬い上げるとトルソーからはドレスと同じ真っ黒な液体が滴る。床に滴り落ちた一滴。その一滴が足元から空気に触れ、ゆらゆらと揺らめいては周囲を漂う。煙草の煙の如く揺らめくそれは、黒、赤、青に黄緑、それから極めつけにショッキングピンクと色を変える。
「好き嫌いもあるだろ?多種多様な毒を各種ご用意した。」
後方からステージ上へと駆け出していた戦闘員のうちの一人と、僅かに振り返ったザネリの視線が重なった。にんまりと弧を描いた唇が意味するものを、そこで漸く理解したのだ。
「くっ……体が…!」
「ひひ、気に入ったか?」
振りかざした手を降ろせなくなってしまったのだ。
「ステージ上に1匹、それから後方に数匹。」
ザネリの隣で屈伸をしていたルイが、現状を把握するべく顔を動かす。ステージ上にはジョロウグモプラグマのみ。そして、今し方ジョロウグモプラグマの声により動き始めた戦闘員が数人。ザネリの毒が戦闘員を麻痺させている上に、他にも戦闘員と刃を交えている者はいるようだ。ならばとルイは自らの脚をバネに、素早く上空に飛び上がる。
飛び上がった拍子に、ルイの指先が戦闘員の腕に狙いを定めた。|魔断《マダチ》。自らの指先から放出された魔力によって、命中した部位を切断する技。しかしながら、現在はザネリによって戦闘員は、ほぼ無力化できたと言ってもいい。それならば切断は最後のメインディッシュに取っておくべきだろう。なんたってあちらは脚も腕も6つある。
「断ちて、散るまで。」
1人目。重力と共に落ちる間際に腕をなぞる。
2人目。着地と同時に脚を突く。
3人目。立ち上がる間際に首に線を引く。
ルイが背筋を伸ばした瞬間、3つの悲鳴が同時に上がった。彼らの姿を見ずとも、状態は把握できる。戦闘員はこれで大人しくなるだろう。振り向きざまにザネリへと小言の一つでも言ってやろうかと口を開いたがしかし。
「……っ。」
ジョロウグモプラグマの腕が明確に此方を狙う。咄嗟に身をのけ反らせ、腕からの攻撃を逃れたものの、片足から張り巡らされた蜘蛛の糸に引っかかってしまった。小言どころではない。
「……。」
こういう時は、愛らしく上目遣いで視線を送るのが良い。そうすれば誰もが助けたくなるだろうから。猫様だし。
「……ルイミサ。堂々とサボりか?減給されたいなら口で言え。」
視線に気付いたのか、トルソーを抱えていたザネリが口をへの字に曲げた。しかしながら彼女の雇い主でもある。手を休められては困るというものだ。トルソーの纏うドレスに引っかけた裁ちばさみを片手に、ルイに絡み付いた糸を纏めて裁断して行く。
「これで行けるな。しっかり働くように。」
「元よりそのつもりだ。」
千切れて絡みついた糸の端を払い、ルイはジョロウグモプラグマと向き合う。
「折角のドレスが台無しね。」
蜘蛛の女の笑い声がやけに耳に響く。この場のBGMも相俟ってか、やはり耳が痛い。
片足を軸に踏み出そうとした瞬間。ジョロウグモプラグマに黒い蔓が絡みつき、死角からは影が現れた。この場にいる仲間が応戦をしてくれたのだろう。ジョロウグモプラグマは捕縛から解かれようと脚をばたつかせる。
「足が6つもあると便利だな。」
「煩わしい……!全員纏めて糸の餌食になりなさい!」
ジョロウグモプラグマの腕から伸びた糸は、空中で器用にもドレスの型を編んで行く。複雑に絡み合った糸。それらが束となり、接近するべく踏み出したルイへと放たれる。
「空中でドレスか。」
感心を示す声をあげるザネリは、空中のドレスを真剣な眼差しで見つめる。こんな風に手脚が6つもあれば便利だ。未だ手をつけられていない事業に手を出せるかもしれない。それに悪役っぽいと言えばそうだ。
「器用だな。よし、次雇うなら医者だ。俺の手足が増やせるよなイカれたヤツが良い。」
「是非、あんたを参考にさせてくれ。」
ついでにトルソーに着せる服も縫って欲しい所。
「高くつくわよ?」
悠長に言葉を交わすザネリに蜘蛛の女が気を取られている間に、ルイは上半身を捻りながらも糸からの攻撃を躱し、ジョロウグモプラグマの眼前に躍り出る。その軽やかさは猫そのものだ。
「やあ、デザイナー。洗脳糸は悪趣味だがドレスのデザインは悪くない。」
ルイの指がジョロウグモプラグマの脚に添えられる。未だ硬化していない生身の脚だ。
「オートクチュールを頼みたいくらいだ。」
もっと軽やかに動けて暗殺者も喜ぶ1着を、だなんて。ドレスの裾を翻しながら糸を縫うかのようにルイの指先は横に1本の線を引く。1本、2本。軈て最後の1本をなぞり終わった時、ジョロウグモプラグマの口からは悲鳴まじりの言葉が吐き出された。
――――もっと沢山のドレスを作りたかった。と
かくして、パーティーを装った洗脳作戦は、この場に居る√能力者たちによって、阻止されたのである。素早い避難誘導のお陰で、軽傷こそ負った者はいるが、一般人の被害も最小限に抑えることが出来た。
ファッションブランドLady・Monsterも、此度の√能力者たちの活躍のお陰で、徐々に市場から姿を消して行くのだろう。
洗脳の為の更衣室は、もう必要ない。
重い音を立てて、お菓子屋の扉が閉められた。