高浜の 虹からすみと名づくとて
ーー処は√マスクドヒーロー、長崎県長崎市高浜町。
近隣の町に生を受けたその男は、酒と肴を大変に好んでいた。
聞けば最近、何者かが放流したという|奇抜に《ゲーミング》発光するボラが大量発生して川を遡上し、世を騒がせているという。
さて、ボラといえば古くは日本書紀にも登場する出世魚であり、『鯔背』、『とどのつまり』などの言葉にも名を残すほどに日本人に親しまれている魚である。
そこまで親しまれるからには、食べ方もよくよく知られている訳で。
男もボラを大変に好んでいたのである。
男にはある野望、などと大仰に言うまでもない。
ゲーミングボラを食ってみたいという欲望があったが……ゲーミングボラが現れる条件は『川』である。
ーー酒あれど、肴なし。名産地と雖も、川はなし。
男は落胆した。彼の産まれた野母町には、川がない。
しかし、酒を呑みながらも彼は諦めなかった。
「そんな珍味に執着するキミに、このカードをーー」
何か、自分を唆す様な声があった気がするが。そんなこと知った事ではない。
ボラを、からすみを食えれば何でもいい!酒精漬けになった頭は、ボラに埋め尽くされていた。ボラは群れるものである。
きっと、男の脳もゲーミング発光していることだろう。
「五月蝿ぇ、言われるまでもなくやってやる!」
それはそれとして、カードはひったくる様に貰っていく。
古今東西、酔っ払いに話は通じないものだ。
さて。珍味に懸ける情熱はアルコールを燃料に益々燃え上がってゆく。
ゲーミングボラが産卵シーズンにも関わらず、川を遡上するならば。
その腹には、たっぷりと卵が詰まっていることだろう。
それを捌いて、卵巣を取り出して……ああ、卵巣も奇妙奇天烈に輝くのだろうか。
干しても輝きは失われないだろうか。
想像しただけで、その塩気に涎が出る。
目の前のよくわからないナニカと酌み交わす酒が、進む、進む。
「味わいは和歌も狂歌も一双の 筆とりてすれ高浜の虹からすみーー」
そう。川がないなら、近隣の川がある場所を探せばよい。
そんな単純な理屈で彼が選んだのが、高浜町であった。
「ドロッサス・タウラスと繋がりを作るためだったとはいえ。この作戦、本当に私、必要だったかなっ?
あーあ、誰でもいいから、遊び甲斐のある子たちでも遊びに来てくれないかなっ!」
白虎獣人の娘が如き姿をしたナニカは、神社の屋根より退屈そうに、目に痛い発光する高浜川を眺めながら両脚をぶらつかせ。
「うぉぉぉおおおお!!取り放題だぁぁぁああああ!!」
男はゲーミング発光する鯔背な出世魚が蔓延る中、タモ網片手に高浜川に突入してゆく。
その懐中には。とある英雄のカードと、双魚宮を示すサインが描かれたカードが収められていた。
●
「イタズラ感覚で海にバイオハザード起こすのはやめてくれるかにゃ!?」
ここ一年で生物の保全に少し詳しくなった星詠みの魔女っ子子猫、|瀬堀・秋沙《せぼり・あいさ》は、いつものぺかぺか笑顔は何処へやら。
虚無感に苛まれた顔で思わずツッこんだ。
人為的改変種の違法放流に加え、原種との交雑まで発生すれば、遺伝的多様性をも崩壊させる深刻な環境破壊行為なのだが……今回の事件の要点は、なんと其処にはない。
「シデレウスカード、覚えてるかにゃ?アレが関わってるみたいなんだよにゃ!」
ーー『シデレウスカード』
詳細な説明は省くが、『十二星座』もしくは『英雄』が描かれたカードであり、単体で所持していた場合には、何ら危険性はない。
しかし、『十二星座』と『英雄』のカードが揃った時、所有者の身体を怪人化させるほどの、膨大な力が満ち……星座と英雄の特徴を併せ持つ怪人『シデレウス』と化してしまうのである。
今回は、現地の酒呑みの男性が怪人に唆され……ている様には、とても見えないが。シデレウスカードを入手してしまったらしい。
「まずは、みんなに長崎県高浜町でゲーミングボラの駆除を行って欲しいのにゃ!徹底的に!」
恐ろしいことに、今回のシデレウスカードとは無関係にこの奇妙奇天烈なボラは発生したようだが、それはさておき。
酒呑みの男とはそこで接触できるだろう。
粗方の駆除が終わったら、酔った勢いでシデレウス化するらしい。
何とも傍迷惑な酔っ払いである。勘弁してほしい。
「新たな産業にしたい!……なーんて大義もないからにゃ!
適当にとっちめて、カードを没収して大丈夫にゃ!」
シデレウスを取り押さえ、カードを奪い取れば、男にカードを|渡し《ひったくられ》たナニカも現れるらしい。
「ヒトのトラウマを抉る趣味の悪い敵が相手にゃ!心をしっかり持ってにゃ!」
『私、本当に必要だったかなっ?』という、やはり虚無感を感じさせる表情をしていることだろうが、油断は禁物。
相手の大切な存在の心身を写し取り、心に忘れ得ぬ傷を与えんとする戦い方は健在だ。
知り合いがいたら、尚の事喜ぶことであろう。
「野母のボラはとっても有名だから、駆除ついでに食べてきてもいいかもにゃ!
ゲーミングボラも、たぶん、食べられるはず、にゃ!光ってるけど!」
ーーそれじゃあみんな、気を付けて行ってきてにゃ!
ぺっかり。灯台のような笑顔が、事件の解決に挑む√能力者たちの背中を押した。
第1章 日常 『ゲーミングボラ』
ーーそれはそれは、酷い光景であった。
ボラは本来、汽水域の魚である。故に、海水と淡水双方に対応出来るのだが。
ボラに埋め尽くされた高浜川、そして高浜川河口は滅多矢鱈に光り輝いていた。
ボラの群れがタイミングを揃えてゲーミング発光していたのなら、それはまあ、きっと綺麗に虹色に輝き、壮観といえば壮観だったであろう。
しかし、全てが人間の美的感覚に対して都合よく運ぶわけもない。
皆がてんでバラバラに光り輝くものだから、目に痛いだけである。実に痛い。
駆け付けた√能力者たちが一様に笑いでもするか、頭を抱えたくなる様な光景に呆然とする中。
ゲーミングボラの群れを眺めていたサギが、目眩く光刺激にやられたのであろうか。泡を吹いて卒倒した。
ボラたちも望んでその様に生まれた訳ではなかろうが、景観的にも大問題だ。
このまま初動の駆除に失敗しては、遠くに浮かぶ端島……軍艦島周辺海域まで虹色になりかねない。
√能力者たちは各々の得物を手に、ゲーミングボラの駆除に挑むーー!!
――虹色に沸き立つ、高浜川河口。
この目も頭も痛くなる様な光景を前に、2人の√能力者が何とも言えぬ顔で佇んでいた。
「わぁ……ひどい光景……。うん、これだけ眩しいと光に敏感な人とかは倒れそう。」
(――目が、痛い……。)
クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)、そして|矢神・霊菜《やかみ・れいな》(氷華・h00124)。
2人は歴戦の√能力者であり、その実力は現在の集団の中では頭一つ抜けていると言っても良い。
その様な2人が並び立つ必要があるとは、いったい何事か。如何なる強敵が待ち受けているのであろうか。
――ゲーミングボラである。
ボラ目ボラ科ボラ属ボラ。
汽水域を根城にする中では比較的大型の魚類であり、全長1mにも達する個体も時には現れる。
イナッコ、スバシリ、イナ、ボラ、トドと成長するごとに呼び名を変える出世魚としても有名であろう。
ボラの説明についての基本説明はここまでとするが、何故か此処に現れたボラは皆一様にゲーミング発光している。
何故意味もなく七色に輝くかは、これを遺伝子改良か何かで作り上げたとされる何者かに聞いて頂きたい。
改造の果てに作り出されたのならば、強いのか。
結論から言おう。ただのボラである。基本的に被食者の側の、か弱い魚類のままである。
(なんだか気が抜ける状況だけど、シデレウスカードとスターチスが関わっているのなら油断はできない。
――……また、あいつと戦わなければいけないのか。)
ただの魚相手にこれだけの猛者が集うとは不思議なこともあるものだが、この事件にシデレウスカードと、スターチスと名乗る邪悪な存在が控えているならば、先ずはこのどうしようもない前哨戦を解決しなければならないのである。難儀なことです。
「さすがに、ちょっとこれがあちこちに広がるのは問題だから、しっかり駆除しないとね。」
霊菜の言葉にクラウスは頷き。ちらちらきらきらと騒がしい輝きから目を保護する為に、ゴーグルを降ろすのであった。
(――さて、どうやって殲滅したものかしらね?)
霊菜は顎に手を当て、暫し思案する。川を遡上したがっているボラたちは、我先にと河口から高浜川へ侵入しているが、最早ぎゅうぎゅうの鮨詰め状態である。
ならば、これから打つ手で河口を一時的に遮断しても、解除と同時にまた遡上を試みるであろう。
「そうねぇ、河口付近に氷の壁を作って海側への逃げ道を防いで……
あ、水の通り道は必要だから、ボラが通れない程度の穴を開けておきましょう。」
地形を利用して河口付近に氷の壁を築き上げ、さらに我が子とも言える氷翼漣璃の分け身を呼び出した。
――【|氷應の使い《ヒオウノツカイ》】
霊菜の√能力によって放たれるのは、39体もの薄青い氷の鷹。
それが高浜川上流に一斉に飛び立ち、氷翼の刃を川面に放つ事で上流まで到達しようとしていたゲーミングボラを下流にまで追い立ててゆく。
霊菜と視覚を共有できる彼らの力があれば、目に痛い発光をするゲーミングボラを逃がしよう筈も無い。
最後の一匹が河口付近に押し込まれ。上流に帰れぬように氷の壁が立ち塞がる。
「ふふん、これで逃げ場は失ったでしょ。さぁ、あとは仕留めるだけね!」
こうして、川のゲーミングボラ全部駆除する作戦が始まるのであった。
「ゲーミング色は√ウォーゾーンで多少は見慣れているけど、生き物がこういう風に発光するとかなり不気味だ……。」
生き物すら珍しくなった世界に生まれたクラウスは、薄い表情に感動するどころか若干げんなりした様な色を見せて、霊菜の氷壁によって進退ままならぬボラの群れを眺めた。
√ウォーゾーンは1998年に始まった戦闘機械群の侵攻より、最盛期の人口と比べて30%近くまで人類が殺戮されたという世界だが、見慣れてしまっているとは如何なることであろうか。
威嚇か、警告か、喧伝か。機械の意図はわからないが、恐らくは|完全機械《インテグラル・アニムス》に至る為の深い考えがあったりなかったりするのだろう。
しかし、目の前のゲーミングボラの意図や、それを創り出したらしい者の意図もわからない。わからなくてよい。
とりあえず、このボラの群れを急ぎ駆除せねば、シデレウスカードと後に控える因縁の相手に相まみえる事は適わない。
生物への知識が乏しくても、生態系にヤバそうだということもわかるからには、ゴーグル越しにも虹色の光が侵入してこようとする彼の脳内に、容赦の二文字は無い。
「ちょっと可哀想に思えるけど。」
――【虹色の雨】
虹色というが、残念もとい幸いな事にゲーミング発光はしていない。
この√能力はクラウスの魔術により、大量の氷柱を降らせ、範囲内の敵を殲滅する効果を持つ。
霊菜の氷壁により逃げ場を失ったゲーミングボラたちは、次々と氷柱に撃たれ。
虹色の輝きを喪った、ただのボラへと還るのであった。
さて、この時点で大量のゲーミングボラが駆除され陸地に運び出されているが、頭数が減ったからには生き残りのボラはその敏捷さを発揮できるようになっていた。
タモ網で掬う事も本来は中々難しいのがボラという生き物なのである。
だが。此度は相手があまりにも悪かった。
ぱきり、ぱきりと川面が軋み。冬にはまだまだ早いが、見る見るうちに川面は氷に包まれる。
霊菜が凍気を放って、凍らせたのだ。その他の生物への影響も考えてその範囲は最小限に抑えているが、大きなボラはその影響から逃れる事が出来ない。
「……凍っていても、光るのね。」
微かな呆れの声音と共に、得物である融成流転を銛に変えて。
凍って身動きの取れぬゲーミングボラたちを地道にちくちく刺し貫いていくのであった。
さて、第一陣の駆除はこんなものであろう。霊菜が河口側の氷の壁を解除すれば、虹色のボラたちが我先にと遡上してくるが、これは後続の仲間たちに任せれば片付く筈だ。
「酔っ払いには……今のところ干渉できそうにないな。」
クラウスがちらりと眺めるのは、氷の壁を気にも留めず、氷の鷹たちが飛び回っているのも気にも留めず、夢中でタモ網を振るっている酔っ払いだ。
彼はこの後なんやかんやでシデレウス化するというが……足元が覚束ないせいだろう。どうにも一匹も掬えているようには見えない。
「……俺も飲みすぎて泥酔すれば、あんな風になるのかな。」
中々想像はつかないが、自分はああはなりたくないと思う。心の底から。
クラウスは氷結が解除された川面に残ったゲーミングボラを氷柱で狙い撃ちながら。
『お酒を飲める年齢になっても、飲み過ぎには気をつけよう。』
そう、心に誓うのであった。
「あー……えっと、ゲーミングボラ?なんすかそれ?」
|深見・音夢《ふかみ・ねむ》(星灯りに手が届かなくても・h00525)の問いに答えられる者は誰一人としていない。
星詠みも答えられなければ、今までに回答を出した√能力者もいない。もしかすれば創り出した本人ですら答えられないかもしれない。まったく、なんてものを創り出したのか。
常識人としての傾向の強い音夢であり、ベースは海棲魚類の怪人である。それなりに海の知識だってある。が。
「ボクが知ってる魚はこんな光り輝いたりしないんすけど、何をどうしてこうなったのやら。」
そう、ヒカリキンメなどの体内に蓄えたルシフェリン等で発光する魚類はいるが、なんと全身である。しかも七色だ。そんな魚がいるだろうか。いや、いてたまるか。
だが、星詠みの予知に何の因果か助太刀をしてくれることを決めた以上、このゲーミング発光する大量のボラの相手をせねばならない。
その上、である。
「いつぞや出くわした厄介な輩……スターチス・リモニウムが一枚噛んでるとなると放っては置けないっすね。」
あまり再会したくない敵の情報が入ったからには、音夢も武器を取らざるをえなかったのである。
川面を埋め尽くす、摩訶不思議に輝く大量のボラを駆除せんと、冥深忍衆怪人が走る!
さて、方々で虚無顔になる√能力者も多い中。ただ一人。そう、たった一人だけ、歓声を上げる者が居た。
「わあ、なんて前衛的芸術な光景なの!!僕様ちゃん感動しちゃったわ!!」
この常軌を逸した現場、訳の分からなさの坩堝の中で感動を表すとは、中々の精神力である。――いいや、彼女にはそう叫ぶだけのバックボーンがあった。
ウララ・ローランダー(カラフルペインター・h07888)は芸術によって平和がもたらされたという、空想未来からやってきた少女である。
様々なインクを媒介に戦う彼女のスタイルは、前衛芸術の一分野であるアクションペインティングに近いだろう。
絵の具を浸した筆を振り抜いて『二度と生まれぬ』色とりどりの飛沫を楽しんだり、サッカーボールやボクシンググローブを画材にするという、一種のフリースタイルの様な芸術分野となる。
なるほど、ゲーミングボラは生きている。生きながらにして七色に輝き、それぞれに上流を目指してその身をうねらせている。
輝いているのはさておいても、二度と生まれ得ぬ光景は芸術好きの心に響くのも自然な事であろう。
「1匹持ち帰って観察したいの……いや、ダメね!依頼内容が『駆除』だもの!」
しかし、ウララは初心を忘れない。今回の作戦を彼女は確と理解している。その覚悟を示す様に、その両手には彼女の華奢な体でも扱えるような、大きなタモ網が握り込まれている。
事前に釣具店で買っておくという周到さは見習いたいものである。相手はゲーミングボラであるが。
「よーし、心を鬼にして、一生懸命駆除するわよ!!おー!!」
ウララは元気よく、拳を天に突きあげて、ざぶざぶと高浜川に入っていくのであった。
「で、まずはゴーグル越しでも眩しいこのボラを何とかしろと。」
「めちゃくちゃ多いわね!ゲーミングボラの上をゲーミングボラが泳いでいる状態だわ!大漁ね!」
第一陣でだいぶ駆除したとはいえ、再度押し寄せたゲーミングボラは再び高浜川を埋め尽くした。
先の駆除作戦で√能力者が上流側に氷壁を築いたためにそれ以上の遡上を避けられてはいるが、まあ、目が痛い。
そんな状況でも、試しにウララが網を入れてもぬるりと躱すのだから、質が悪い。ここは動きを止めてしまうのが吉であろう。
「んー……正直ただの魚相手に使うのは大人げない気がするっすけど。」
同行するウララに見えぬよう、音夢は黒色のネムリブカの瞳孔を露わにすると。
「――沈め。」
彼女の目に宿る、魔の力を発動する言葉を口にした。
――【|擬装限定解除・深夢《シズメフカキニ》】
彼女の視界内の全対象を麻痺させる√能力である。ゲーミングボラたちは奇抜な輝きはそのままに、麻痺して力なく川を流れ始めた。
しかし、この√能力には難点が二つある。
「ただこれ目が!めっちゃ目が疲れるんで!適度にクールタイム挟ませて欲しいっす……!」
一つは、彼女が悲鳴を上げている通り、目がとても疲れること。
しかも相手はゲーミングボラである。眼精疲労は酷い事になるだろう。目薬を差しいれてあげたいところである。
そしてもう一つは、視界内の全対象を巻き込んでしまう事。下手にウララが入り込んでしまっては、彼女も麻痺してしまう恐れがある。
だが、この音夢の√能力と似たような系統の√能力を持ち込んでいたのが、ウララであった。
構えるのは特殊ウォーターガン。インクシリンジより装填するは、紫のインクのカートリッジ。
「任せてちょうだい!バイオレット・アクセプト!時よ僕様ちゃんに味方して!」
――【|時間操銃《タイム・バレット》】
川に向けて放たれたインクは、川を紫に染め上げて……音夢によって麻痺させられたボラたちの動きを、完全に止めた。
いいや、ゲーミングボラたちだけではない。高浜川の流れそのものが、ぴたりと動きを止めていた。
「これは、時間操作ってやつっすか。色んな√能力の使い手がいるもんっすね。」
音夢が驚くのも無理はない。周辺の動きを時間ごと止めるとなれば、非常に強力な√能力である。しかも、ウララと共に時間を操れる形態になるというおまけ付きだ。
瞳孔を元に戻した音夢が今その力を振るう理由はなくなったが、やろうと思えば彼女も時間停止能力を使用できることになっているだろう。
さておき、ボラたちの目に痛い発光は完全に止まり、そこに居るのは赤、青、黄色……七色を纏ったまま動かなくなった、大型魚類の群れ。
「お姉さんのお陰で上手く止められたわ!
そうしたら後は網でわっさわっさと掬っていくだけね、地道だけど頑張るわよ!」
二人で次から次へとゲーミングボラを上げては〆て、放り込むのはクーラーボックス。
大きさもあって中々の重労働ではあるが、後の皆に任せれば解決も間もなくだろう。
「一応、捕まえる以上は後で食べられるか試すっすよ。何か、お酒のアテになるかもしれないっすからね。」
意識を取り戻した鷺たちが動かなくなったゲーミングボラを丸呑みしているのだから、きっと人間が食べる分にも大丈夫だろう。たぶん。
駆除した命の事も考えながら。
無事に帰ったらどの様に料理をするかにも、音夢は思いを巡らせるのであった。
「へー、ゲーミングボラねー。……なにそれ。」
|黄菅・晃《きすげ・あきら》(汎神解剖機関のカウンセラー・医師兼怪異解剖士・h05203)が思わず真顔になるのも無理からぬことであろう。
ボラの説明は先に行ったため割愛するが、何故わざわざ光らせるのか。意味が解らない。
なにそれ、とも言いたくなろうというものである。
(なんでそんなのが出たのかは分からないけど、放っておくとヤバいのね?まぁ、ヤバいか。)
そう、ヤバいのである。遺伝的汚染、交雑種の発生、このふざけた……もとい、奇抜な見た目に反して、生態系への影響も十分に懸念されてしまうのである。
恐らく、星詠みもこんなものが見えて、非常に困惑した事は疑いがない。これがシデレウスカードなどに繋がっていなければ、思わず見なかったことにもしたくなった筈だ。
そしてそんなものを現場で見てしまった晃の困惑は猶更であろう。直ぐに表情に出すタイプではないが、心中お察しします。
さらに、虹色に輝く高浜川を眺めて困惑しているのがもう一人。
「……げーみんぐ……ん、なんでしたっけ。」
ゲーミングカラー。それは一説によれば虹色でグラデーションがかった色彩の呼称であると言われている。
いや、呆然と呟いた彼女が知りたいのは、その様なことではなかろうが。
|見下・七三子《みした・なみこ》(使い捨ての戦闘員・h00338)は、目の前の惨状に頭を抱えた。
「ボラにゲーミングってつくものなんです?え、何、いろんな色にぴかぴか光るの……?
……うわあ、本当に光ってます……。場所がわかりやすうい……。」
川を埋め尽くす奇抜な鯔背に、彼女の赤い瞳はどこか虚ろだ。それもそうである。事実、星詠みもそうであった。
こんなものを見て、脱力しないでいられる者がいるであろうか。本当に何を思ってこんなものを創り出してしまったのか。悪ふざけにも程がある。あと、目が痛い。
「ん、んんっ。まあ、秋沙ちゃんが困ってるならお手伝いしないとですね。うん、ちょっと虚無にはなっちゃいますけど……。」
しかし、義妹たる星詠みが困ったいたならば、手を貸してあげたくなるのが姉心というもの。
肝心の現場に出られぬ義妹は、『こんな仕事で本当にいいにゃ……?』と、何とも言えない表情で七三子を送り出したというが。
この先のスターチスとの邂逅を心配しての事であろう、たぶん。
さあ、このどうしようもないゲーミングボラ駆除も終盤戦だ。ここでしっかりと締めて、続くシデレウスとの戦いに臨まねばならない。
「ええっと、ですね。今日のお仕事も無事に終わらせましょう。おー。」
七三子は何とも言えぬ苦笑交じりの表情で、腰に手を当て拳を付き上げ。
晃の影より湧き出した【喜びの影】も七三子の真似をして、高々と拳を上げるのであった。
「それにしても。医者は遂に環境保全にも協力する時代がきたのねー。
――さて、こういうのはアンタ達が得意でしょー?好きなだけ壊してどーぞ。」
と、言いながら。晃は擁壁に腰かけて、自らが呼び出した喜怒哀楽、四つの影に作業を任せる気満々である。
しかし、如何に無気力とはいえ、彼女も何もしていないわけではない。遊ぶ影たちの『監督』という、非常に大切な仕事を行っている。
結局何もしていないという訳ではないし、生臭いボラに触れたくないという訳ではあるまい。きっと。
さて、元気よく川に突入した喜びの影は根元から枝分かれし、多頭の蛇の様な形態を取った。
(お、ゲーミングだから、珍しく噛み付く前に『なにこれ?』となっているのかしらねー?)
それぞれの蛇は奇妙奇天烈に輝くゲーミングボラに強い興味を持ったのであろうか。それぞれに首を捻り。よくよく観察してから一先ず噛み付き、それからひと呑み。
だが、喜びの影は無邪気に遊び感覚で破壊行為を行う習性があるのだ。段々と水飛沫を上げながら『壊していく』ことが楽しくなってきたのだろう、大暴れである。
そして、大暴れなのは、何も喜びの影だけではない。晃が使役する二つの影も駆除に有り余るほどの力を振るっていた。
(なんか訳わかんないけど腹が立ってるのねー。おもしろ。)
狼の形を取った【怒りの影】は得体の知れぬ魚を怒りと共にかみ砕き。
(形的には有利なのアンタじゃないのー?)
ワニの形を取った【悲しみの影】は、人間でも脱力不可避のゲーミングボラの発光に怯えたのだろう。生存本能のままにボラたちを呑み込んでいる。
凡そオーバーキルであるが、まあ影たちの腹(?)を満たすことになるのであれば、ゲーミングボラたちの命も無駄にはなるまい。
影たちがゲーミング発光をしないことを祈るのみである。
そんな中で唯一、暴れずに黙々と働いているのが楽観の影である。
漁に使われるような巨大な網を用意し、黙々とゲーミングボラを引き上げては、血抜きなどの丁寧な処理をした上でクーラーボックスに収めている。
穏やかでゆったり、手伝い大好き。晃の秘書役も務める楽観の影は、この手の作業には打って付けと言っても良い。
何より、どんなに奇妙に発光しようとも、淡々と処理する姿はまさに仕事人だ。
「お、効率重視ねー、流石お世話のプロ。この後これでおつまみ作ってみてくれない?」
監督役の晃のお願いに、グッドサインを返す楽観の影。無事にクーラーボックスを持ち帰る事が出来たなら、自宅か医療スペースにゲーミング発光しなくなったボラの卵巣がずらりと干される事であろう。
高級なおつまみのためだ。家主もきっと目を瞑る……筈である。
「人海戦術です。みんな、よろしくおねがいしまーす!
あ、それに靴脱いでズボンの裾上げて、上着も脱いじゃったほうが動きやすいです!」
――【|作戦開始、集合《イー》】、そして【|団結の力《カズノボウリョク》】
てんでバラバラに七色に輝く川面を前に、七三子は居並んだ12人の仮面を被ったスーツ姿の戦闘員たちを前に、それぞれに指示を出してゆく。
まさか、奇妙奇天烈に光り輝いているとはいえ、ただのボラに現時点における最高クラスの戦闘力を持つ(とはいえ、自己自認はかよわい戦闘員であるが)√能力者が、その力を重ね掛けするとは誰が想像していたであろうか。
「とりあえず、網は人数分用意してありますー。」
彼女に一人一本ずつタモ網を手渡され、準備が出来た戦闘員たちが裾や袖まくりしざぶざぶと光り輝く川に分け入っていく光景は、何というか……和やかでもあり。
(――ぴかぴか光る魚をみんなで追いまわしてる光景は、すっごくシュールですけど……。
私は、気にしないことにしますね……?)
はい、気にしたら負けです。そもそもが、常識の埒外の存在を相手にしているのだから、気にするだけ損である。大本はボラであるが。
(――網を張ってこう、がっ!と行こうかと思ったんですけど、関係ないお魚まで傷つけちゃうかもですし。)
その辺りは、環境も気にしてくれる七三子である。きっとどこかの星詠みも喜んでいることであろう。
戦闘員たち数名ずつと協力して追い込みながら、ゲーミングボラたちを確実に追い込んでは仕留めて水揚げしている彼女に、擁壁から晃の声が掛かる。
「今日の仕事が終わったら、からすみ作ろうと思うのよ。上手く出来たらアンタも一緒に呑む?」
「あ、いいですね!黄菅さんとのご都合が合えば、ぜひ!」
知り合いの酒呑みからの提案に、もう一人の酒呑みが額の汗を拭いながら笑顔で答える頃には。
高浜川から河口を埋め尽くしていたゲーミングボラは、√能力者たちによって見事駆除され尽くしたのであった。
色んな意味で目に優しい川を取り戻した事に、どれ程の√能力者が安堵のため息を漏らしたかは、定かではない。
第2章 冒険 『シデレウスカードの所有者を追え』
――さて。皆はこの男を覚えているだろうか。一人くらいは覚えていたかもしれない。
今回の黒幕よりシデレウスカードを託され……いや、引っ手繰った酒呑み男である。
あれからタモ網を片手に千鳥足で奮闘していたのだが……まあ、一匹も取れなかったようである。
「畜生、ボラが一匹も取れねぇとは、どういうことだ!からすみが……からすみが、作れねぇ!」
怒って貰っても仕方がない。装備とコンディションが悪かったのだろう。まず酒を抜いたほうが良い。
しかし、である。その(勝手に)怒れる魂が、懐の中の二枚のシデレウスカードの力を呼び覚ました!やはり傍迷惑である。
「な、なんだぁぁぁぁ!?ぅ、ぅおおおおおおおお!?!?」
双魚宮と、英雄のカードが放つ光に包まれる酔っ払い。
無論、彼にカード・アクセプターとなる程の力は無く、成り果てる先はシデレウス。
光が晴れた先、そこに佇んでいたのは。双魚の紋が入った羽織を着た、一人の二本差しの怪人である。
「あー……なんでェ、剣の達者でもねぇ俺を呼び出すたァ。酔狂な奴もいたもんだなァ。」
二本差しはそう言って頭を掻くと、居並ぶ√能力者たちを眺めまわし。合点がいったという様子で、手をぽんと打ち鳴らした。
「なァるほど、高浜ってェいったら野母とは目と鼻の先だ。そンで長崎務めもした俺が呼ばれたってェ訳か。
しかし、なンか奇妙奇天烈に光りやがるボラだろ?野母のからすみも食えやしねェってのに。
嫌だねェ、そンくらいの縁で仕事に駆り出されちゃァ。ホントたまんねェや。」
臨戦態勢の√能力者たちを前にしても、飄々とした立ち居振る舞いを崩さぬ怪人に、川辺の作業と秋風とゲーミングボラから来る温度差に風邪を引く者がいないかと心配となるが。
このシデレウスは、どうにも『英雄』としての意識が強いらしい。
剣の達者ではないというが、腰に差した刀は伊達ではないという事だろう。立ち居振る舞いに隙が無い。
「あし引の 山鳥の尾の したりがほ 人丸ばかり 歌よみでなし。
まァ、ただの歌詠み、物書きがお前さんらに敵うとは思えないがねェ。……ああ、俺にゃ名前が沢山あるンでねェ、好きに呼ンどくれ。
|四方赤良《よものあから》、|寝惚先生《ねぼけせんせい》、|山手馬鹿人《やまてのばかひと》、蜀山人……ああ、イヤ、今はコイツの方が通りがいいか。」
腰の物を引き抜くと、双魚宮の力であろうか。白刃が逆巻く水を纏う。
「大田南畝、ピスケスナンポ・シデレウスだ。此度はお手柔らかに頼むヨ。どうにも気の進まねェ仕事だからね。」
江戸時代の幕閣にして、文人として一世を風靡した『英雄』の怪人は。
神社の鳥居をちらりと見てから、√能力者たちに『掛かって来い』と促すのであった。
●Caution
・ピスケスナンポ・シデレウスは、以下の攻撃手段を持ちます。
POW:松魚賛
指定地点から半径レベルm内を、威力100分の1の【降り注ぐカツオ】で300回攻撃する。
SPD:天明狂歌
自身を攻撃しようとした対象を、装備する【刀】の射程まで跳躍した後先制攻撃する。その後、自身は【歌】を纏い隠密状態になる(この一連の動作は行動を消費しない)。
WIZ:鱶やぶと名をやいふらん
移動せず3秒詠唱する毎に、1回攻撃or反射or目潰しor物品修理して消える【寝惚け眼の鱶】をひとつ創造する。移動すると、現在召喚中の[寝惚け眼の鱶]は全て消える。
大田南畝。その名は江戸天明期を代表する文人の一人として知られる。
下級武士の出であり、寛政の頃にはその身を危ぶまれる事もあったが、その優れた頭脳と立ち回りを活かして処断を免れ、支配勘定にまで上り詰めた幕閣でもある。
その『|大田南畝《えいゆう》』と『双魚宮』の二枚のシデレウスカードの力を得て誕生したのが、怪人『ピスケスナンポ・シデレウス』だ。
「初めまして、ピスケスナンポ・シデレウスちゃん!」
そんな怪人を前に、笑顔で話しかける少女が居る。
銀の髪に銀の瞳。秋口にも関わらず、その溌溂さを隠さぬカラフルな衣装。ウララ・ローランダー(カラフルペインター・h07888)である。
元気の良い彼女の挨拶に、好感を覚えたのであろうか。二本差の怪人も、気さくに『ヨッ!』などと手を挙げて応える始末。
「長いお名前ね、噛みそうだから縮めて呼んで良いかしら?そうね、ナンポちゃん、はどう?」
「違ェねェ。俺も嬢ちゃんと一緒でなァ、名乗る度に舌ァ噛みそうになってちゃァ世話ねェな!号で呼んで貰った方が、此方も聊か具合がいいヤ。」
そんなウララからの突然の提案にも、からからと鷹揚に笑って頷いた。
飄々としているどころか、怪人であるにも関わらず、目の前の彼女に対してまるで殺意というものが見えない。
しかし、どんなに調子が狂っても、このシデレウスを斃さねば、事件の解決は無い。
「僕様ちゃんあまり知らないんだけれども、放っておいてはいけない存在なんだってね!」
ウララは特殊ウォーターガンを手にすると、交戦の意思を示し。対するピスケスナンポ・シデレウスも、苦笑をしながら頭を掻いた。
「はっはっは!俺も困った事によォ、シデレウスってェのはそういうモンらしねェ。
俺はもう、宮仕えの下働きは御免だってェのに。」
――ウララの気の所為ではない。やはり、この怪人は戦意が薄い。
しかし、戦わねばならぬなら、と。怪人は流れる様な動作で刀をするりと抜くと、その切っ先をウララの眉間に合わせて構えた。
「だが、勝負と来たなら武家としちゃァ負けらンねェ。一丁来い、嬢ちゃん!」
「いざ、じんじょーにしょーぶっ!!」
高浜川の川岸を舞台に、シデレウスカード所有者との緒戦の幕が切って落とされた。
「山の手の 松魚さくらの 皮も哉――」
ふざけた調子でピスケスナンポ・シデレウスが詠えば、ウララ目掛けて降り注ぐのは300匹ものカツオの群れ!ゲーミング発光してはいないとはいえ、ボラの次はカツオか!
何とも奇妙奇天烈な√能力であるが、最大の1m級ともなれば、その重さは約20㎏。
√能力化している以上、ふざけた見た目に反して、直撃すれば中々痛いであろう。
「カツオの雨!また不思議な√能力ね!」
対するウララがシリンジから引き抜くは、緑色のインクカートリッジ。
ウォーターガンに装填すれば、どうしたことだろう。彼女の銀の髪がインクと同じグリーンに染まる。
「でも、まとめて吹き飛ばしちゃうんだから!
――グリーン・アクセプト!風よ僕様ちゃんの味方になって!」
――【|風操銃《ウィンディ・バレット》】
彼女のウォーターガンを風属性のオーラと極小の竜巻を纏った緑色に輝く風属性のフォームに変形させる、この√能力。
受けるダメージを2倍にするというデメリットはあるが、攻撃回数と移動速度を4倍にし、この効果は最低でも60秒続くという攻撃特化のスタイルだ。
神速を得たウララは、緑に染まったポニーテールを靡かせて、すかさずカツオが降り注ぐ範囲から距離を取り。
カツオの雨越しに、ウォーターガンの照星をピスケスナンポ・シデレウスに合わせた。
「風よ、いっけぇ!!!!」
銃から放たれる、翠の竜巻。これではカツオの雨に阻まれて、怪人に届かないのではないか……
――いや、これでよい。
この√能力は、弾で相手を吹き飛ばす事が出来るのだ。
無論、この場合に吹き飛ぶのは、射線上にあるカツオの群れ!それが怪人に向けて、一直線に飛んで行く!
「待て待て待てェ!?幾ら俺がカツオも好きだからって、初ガツオにゃァまだ早い!
しかも、生は当たるだろ!物理的にじゃなく、腹に!」
冗談を言う余裕くらいはあるようだが。刀で斬り捨てようにも、その数300匹である。
流石に追いつく筈がない。どかどかどかっと、怪人はカツオの群れに埋もれるのであった。
「いやァ、埋もれる程食いてェと思ったこたァあるが、本当に埋もれるとは思わなかったぜ……。
七色に輝く妙てけれんなボラといい、今日はどうにも魚に縁がありやがる。双魚のカードの所為か?」
しかし、まだまだ前哨戦。流石にそれで倒れる程、シデレウスも弱くはない。
やっとこさ、ぷはっとカツオの山から顔を出したピスケスナンポ・シデレウスに、次々と襲い掛かるのは翠の竜巻弾。
攻撃回数4倍の√能力の効果は伊達ではないという事である。カツオたちと共に舞い上がる二本差。
そんなシュールな光景をどう見たかわからないが、当のウララはおかんむりである。
「アッ、ゲーミングボラちゃんを馬鹿にしたわねナンポちゃん!?
この芸術性が分からないなんて、本当に文化人なのかしら!?」
ピスケスナンポ・シデレウスは、彼女の言葉に思わず目を丸くして。『コリャ一本取られた』と、呵々と笑った。
彼にとって、ゲーミングボラ……いや、野母のボラはあくまで『からすみ』の素材であり、食べ物。どうにも、その固定観念に囚われていたのだ。
「成程ねェ、嬢ちゃんはアレにも美を見出すか。コリャ、恐れ入谷の鬼子母神、ってなァ!
こういう場でもなけりゃァ、嬢ちゃんの芸術も見て見たいンだがねェ。此処が最期であろうってェのが残念だヨ。」
ウララの放った竜巻弾に呑まれ、身を裂かれながらも。
芸術家である彼女との戦いと問答に、久方ぶりに文人としての血が騒いだのであろうか。
彼は傷付き宙に舞い上がりながら、それはそれは楽しそうに笑うのであった。
「あの酔っ払いは、なんでその状態でゲーミングボラを捕まえられると思ったのかしら?
酔っ払いほど使い物にならないものはないと思うんだけど。」
|矢神・霊菜《やかみ・れいな》(氷華・h00124)のご意見は至極真っ当なものである。
件の酔いどれ男にも是非正座をして聞いて頂きたいところであるが、アルコールが正常な判断力を奪う事はノアの箱舟然り、ヤマタノオロチ然り、クマソタケル然り、古今東西よくよく知られるところだ。
しかし誠に残念な事に、彼の御仁の意識は霊菜の目の前で乱れた着物を整える怪人、ピスケスナンポ・シデレウスに取って代わられている。
言葉が届かぬ以上は、これ以上酔いどれへの言葉を口にしても仕方がない。
「さてさて、御待遠様。いきなりカツオを鱈腹、いや一杯食わされるとは思いもよらなかったねェ。で、次はお前さんかィ。」
さて、怪人の方も、漸く先の√能力者との戦いで乱れた着物と髷を整え直す事が出来たのだろう。
緒戦で傷を負ったにも関わらず、気さくに√能力者に語り掛ける姿は相変わらず。
此処が戦場である事を忘れさせる様な口ぶりに、さしもの霊菜も僅かにやり辛さを感じた様子だ。
「――剣の達者じゃないってわりには、ちょっと厄介そうな相手な気が凄くするのだけど?」
「ああ、買い被りはよしとくれ。井上真改を差してた本所の平蔵ならいざ知らず、俺は何時でも|金子《きんす》と帳簿が敵の勘定方。
後の世に名を遺す名物を差してる訳でもなければ、嬢ちゃんみてェな剣気を出せる訳もねェ。」
腕輪……融成流転を使い慣れた氷の剣に換えて構える霊菜の言葉に、怪人は苦笑交じりに手をひらひらと振り返す。
霊菜の実力を見て取る事が出来るあたり、武家として一通りの事は学んだのであろうが、大田南畝に武人としての逸話は一切ない。
凡そ、戦いすらもピクニック気分で戦いを熟す彼女とは勝負にもならない生い立ちであろうが、シデレウスは鯉口を斬りながらも柳の様に緩やかな態度を崩さない。
「そう――?まあ、いいわ。私たちを前にしても飄々としていられるのは人としての年季の違いかしら?」
「あァ……そうさなァ。言葉一つで死を賜るおっかねェ世界で、70過ぎに死ぬまで働き続けたってェ自負はある。
|白刃《しらは》も、言葉も。芸術にもなりゃァ人を殺す武器にもなンのは同じだろ?」
――そンじゃ、始めようかィ。
すらりと引き抜く刃に、纏うは逆巻く波濤。
四枚の氷の翼を纏い、先制攻撃を仕掛けんとする霊菜を怪人が迎え撃つ――!
「――先の先、そりゃァ戦の定石だァね!」
目にも止まらぬ疾さで迫り、抜き撃たれる霊菜の斬撃を、怪人は紙一重で凌ぐので手一杯だ。
――【氷應降臨《ヒオウコウリン》】
霊菜が雛の頃より育て上げた氷雪の神霊『氷翼漣璃』を纏う事により、霊菜は通常の3倍にもなる速度を手に入れている。
それが4枚の翼で自由自在に空中を飛び回り、連撃を重ねては空に逃れていくのだ。
これではピスケスナンポ・シデレウスの刃は、どの様な手段を講じても届かないであろう。
「このまンまじゃ、手も足も出ねェなァ。ンじゃ、これでいこうかィ。
――夏のよは まだ宵ながら よくねれば げに鱶やぶと 名をやいふらん。」
ふざけた調子で怪人が詠えば、現われたのは寝惚け眼のサメである。
それはゆったりと尾を揺らしながら宙を泳ぎ、眠たげな様子で霊菜の姿を目で追っている。
「ゲーミングボラ、カツオと来て、今度はサメ?」
3秒ごとにサメが現れるこの√能力、攻撃や反射、目潰し、物品修理など、多岐に渡る効果を持つ。
時が経てば経つほどサメが増え、手に負えぬ状況にもなり得るが……
数多の戦いを潜り抜けてきた霊菜は、類似の√能力を見る機会も多かった。
――故に、対処法も知っている。
「あなたが動けば消えるのよね、それ。」
「なんでィ、寝惚先生の手妻も、種が割れてちゃァしようもねェなァ!」
そう、幾ら鱶を呼び出したところで、シデレウスが一歩でも動けば今まで呼び出した鱶は全て消えてしまうのである。
寝覚めで機嫌が悪いのであろうか。大口を開けて迫るサメの牙を霊菜はひらりと掻い潜り。躱し様に、川面から伸びた氷柱がサメを氷漬けにした。
「――ああ、こりゃいけねェや。只でさえ少ねェ引き出しだが、いよいよ万策も尽きたってェ奴か。」
単純に、実戦経験と|力量《レベル》が違う。それはそうであろう。太平の世に生まれた戦闘職でもない文人に、現場での戦いなど本来は出来よう筈も無いのだ。
しかし知恵者として知られる怪人が、それを理解していない筈も無いであろう。それでもなお、勝ち目の無い戦に臨むのは何故か。
訝しみながらも、霊菜に刃を納める理由はない。
√能力を維持するために動けぬ怪人の懐に、神速で飛び込み――
「――人を殺すにゃ、刃物は要らねェ。言葉の一つもありゃァいい。
この戦いの黒幕に気を付けろよ、嬢ちゃん。ありゃァ、腕は然程立たねェが……物の怪よりも、質が悪ィ。」
――【氷刃裂葬】
ピスケスナンポ・シデレウスが纏う双魚の羽織を斬り裂く一閃に、川面に血飛沫が舞う。
「あなたは――」
すれ違いざま、霊菜が流し見た|怪人《えいゆう》の表情は。
これからの戦いに身を投じる彼女を案じる様に、確かに微笑っていた。
「……ひどい、事件でした……。」
|見下・七三子《みした・なみこ》(使い捨ての戦闘員・h00338)は心底ぐったりとした表情で、濡れた素足や腕をタオルで拭き拭き、上着を羽織りながら呟いた。
人海戦術によりゲーミングボラを全滅させたとはいえ、その疲労感は生半なものではないであろう。
特に、長時間七色の光に曝された、戦闘員たちと彼女の眼精疲労が心配である。
「ゲーミングボラとこれの温度差に風引かないかって?今にも引きそうよ。」
「ソイツァよくねェな、帰ったらゆっくり風呂にでも浸かんなィ!」
七色に輝く怪魚の駆除が終わったと思ったら、今度は他人事の様にからりと笑う、飄々とした二本差の怪人である。
普段はあまり物事を表情に出さない|黄菅・晃《きすげ・あきら》(汎神解剖機関のカウンセラー・医師兼怪異解剖士・h05203)が、幾日もの連勤が重なりまともに思考もしたくないという時も斯くやという表情でげんなりしている様にも見えるのだから、相当であろう。
一言で纏めれば、切れ長の蒼い瞳が死んでいる。
しかし、怪人ピスケスナンポ・シデレウスが言う通り、風邪を引いてはよろしくない。いや、言葉通りの意味でない事は七三子にもわかっているのだが。
『黄菅さんもタオル、使います?』
――そう言おうとして、七三子は口を噤んだ。
そういえば、晃は擁壁の上からの『影』たちの監督で、一切水に浸かっていないのである。
自分も戦闘員さんたちに任せて、監督に徹するべきだったか……などと思わないのが七三子の七三子たる所以か。
「でも、おいしいお酒も飲む機会がありそうですし、良しとしましょうか!」
「ほォ、酒。そりゃァいいねェ。
――七挙式酒令。第一に友を選ぶべし。第二に酒は伊丹、池田、角田川もよし。第三に、肴は……ここはからすみといこうか。
兎も角、嬢ちゃんがたの御相伴にゃァ与れねェのが残念だヨ。」
「そうですね、みんなでお酒を楽しむことが出来ればよいのですが……無理なのでしょう?」
彼女の言葉に同意するように肩を竦め、再び鯉口を切る怪人に。七三子は苦笑をしながらお辞儀をして、手袋の上からナックルナイフに指を通し。
「それでは、最初からフルスロットルで。お手柔らかにしてたらこちらがやられちゃいますからね?」
「そうねー。まぁ、とりあえず仕事だし、風邪引く前にやるかぁ。」
晃の足元、そこからずるりと手を出した『影』が、彼女にショットガン型のシリンジシューターを手渡した。
「――まァ、俺の末期は見えてるしヨ。よォし、遠慮なく来なィ!」
戦う力に乏しい勘定方の怪人が、威勢の良い声と共に白刃を抜いた。
「多人数は汚い?いえあのすいません、戦闘員、こういうものなんで……。」
「なァに、戦の定石は数で圧し潰す猪鹿懸と決まってっからねェ。
そンだけ数を集められる嬢ちゃんを|比興《ひきょう》の者とは言わねェヨ。」
――【|蟻結びて山を動かす《ダンケツガンバロー》】
そして。
――【|警邏作戦《パトロール》】
39人もの戦闘員たちを呼び出す√能力に加え、視界共有・通信可能な戦闘員の幻影達を呼び出すという√能力の重ね掛け。
「私達の強みは、数の強み。かよわいからこそ協力大事!」
そう口にする七三子の言う通り。高浜川河岸の戦場は既に、仮面の戦闘員たちによって埋め尽くされていると言っても良い。
「全戦闘員へっ!ひとまずピスケスナンポ・シデレウスさんが3秒以上じっとしないよう、適宜攻撃を。
協力して当たってもらうのがいいと思います!」
「そりゃ、一人に割れてちゃァ、ねェ。寝惚先生の手妻の種は根本から割れてらァな。」
矢継ぎ早に、3秒に1度寝惚け眼のサメを呼び出す√能力を潰す指示が出されている事に、怪人は苦笑を零し。
手段を択ばずに襲い掛かる戦闘員たちを何とか振り払おうと刃を振るう。
しかし、多勢に無勢にも程度というものがある。これでは刃を振るえども振るえども、戦闘員の大本である七三子に刃が届くよりも早く、怪人の方が力尽きる事であろう。
「とてもか弱くは見えねェし、俺一人に大げさな数だねェ。……って、いィってェなァ!?」
途方に暮れながらも刀を振るうシデレウスの頭を、唐突に1m級のカツオが襲う!!
それも一度では済まない。二度、三度!!カツオで殴る、殴る、殴り続ける!!
「ボラの次はカツオ、あとサメ。今度はゲーミングじゃないのね。じゃあ普通のカツオのたたきとはんぺんか。美味しそー。」
「カツオのたたきと、カツオで叩くのでは大いに違うと思うンだがねェ!?」
怪人の悲鳴を前に、晃は相変わらず死んだような目であるが。繰り出されたカツオの出所は、彼女の足元より湧き出た【怒りの影】。
――【|獰猛な影《シャドウオブアンガー》】
その効果は攻撃を受けた対象の動きを鈍らせる『影縫い』状態にする事であるが。
その発動条件は『周囲にある最も殺傷力の高い物』でぶん殴る事である。
さて、この場で最も殺傷力が高いブツと言ったら何か。
駆除され尽くしたゲーミングボラか。否。
動けば消えてしまう、寝惚け眼の鱶か。否。
――そう、カツオである。
怒りの影の手には、尾鰭のあたりを握り込まれ、びちびちと身をくねらせるカツオが握り込まれていた。
あれだけ鈍器として使われながらまだ息があるのだから、大した活きの良さである。
「――絵面としては、おもしろー。」
その場にある物をうまく利用して戦いを運んではいるが、しかしまさか、七三子も晃も、この様な酷い事になろうとは思ってもいなかったであろう。
だが、その様な発動条件を持つ√能力であり、さらにそこら辺にカツオが転がっていたのだから仕方ない。
ゲーミングボラを振り回す怒りの影とどちらがマシであったかは……誰にもわからない。
「だが、まァ。数を撃つ√能力はこちらにもあるンでねェ。仕切り直しになりゃァいいンだが。」
怪人は頭をカツオで散々に殴られた頭を摩り摩り、反撃を試みる。
鱶を呼ぶ√能力には扱い難い効果もあるが、デメリットも無く範囲攻撃が出来る√能力だって、彼にはあるのだ。
――そう。天からカツオが降ってきた!!
降り注ぐ300尾のカツオに打たれる戦闘員たち。あちらこちらで体当たりを喰らったり、尾鰭でべちこんと叩かれたりで右往左往する者も見えるが。
(……カツオは。……なんでカツオなんでしょうね……?)
当然の疑問を胸に抱きながらも、戦闘員たちを統率する七三子は戦闘員たちの秩序を回復せんと更に指示を重ねる。
「多分数回当たるくらいでは死なないと思いますし、蟻組のソナーセンサーで躱せる範囲で。
余裕のありそうな|戦闘員《なかま》を盾にするでもいいです!警邏組は、適宜回復も使ってくださいね!」
「「「「|了解《イーー》!!!!」」」」
(――弱くても、純粋に数がいれば、味方の攻撃チャンスも作りやすいというものです!)
七三子の戦術眼は、正しい。300匹のカツオが与える筈だったダメージが、戦闘員たちの数の力でかなり分散しているのだ。
その上、彼女の戦闘員たちは決して烏合の衆ではない。歴戦の『やられ役』だ。連携を取るよう命じられれば、その対処は早い。
カツオの尾鰭を晃の『楽観の影』と【|怯える影の拒絶《シャドウオブソロウ》】が払い除け、それでも間に合わぬカツオを蟻組の者たちが両腕でガードし、傷付いた者を警邏組が回復する。
ここまで態勢が整えられてしまったことにより、削れども、削れども、怪人が七三子と晃の体力を削り切れぬことが確定したと言っても良い。
「これも効果がねェとなると、こちとらお手上げだねェ。……っと!」
シデレウスは足元に撃ち込まれた晃の『お手製弾薬』を寸での処で回避するが。
――それは、一人の戦闘員の動きを隠すための、囮。
気付いた時には風に靡く七三子のポニーテールが目と鼻の先。
√能力の術者との座標入替効果を使って、一気に距離を詰めたのだ。
「嬢ちゃん、どっから出てきやがった!?俺よかァ、よっぽど手妻が上手ェじゃねェの!」
彼女はからから笑いながら横薙ぎに振るわれた白刃を更に姿勢を低くすることで掻い潜り、背後に回り込む。
一方の怪人はと言えば、怒りの影に散々カツオで殴られたのだ。機動力は大幅に低下しており、逃げることなど出来よう筈も無い。
そして改造人間ならではの膂力でがっしと掴むのは、怪人の腰元だ。
「――っ、せぇーの!!」
――その時、怪人の両足が浮いた。
「待て、待て待て待て!居反りよりも酷い結末しか見えねェンだが!?」
それは、相撲に於ける決まり手八十二手、それよりも更に殺傷力の高い大技。
さしもの怪人も、飄々とした態度を捨てて、足元をバタつかせるが。七三子の怪力が脱出を許さない。
抱えあげられたピスケスナンポ・シデレウスの身体は美しいアーチを描き。
高浜川に架けられるのは、新たなる人間橋。
――頭から、ずどん!
七三子お得意の、ジャーマンスープレックスが決まるのであった。
「あいててて……いやァ、参ったネ。生きてる時に斬った張ったをやらなくて本当に良かったヨ。
俺にゃァ矢張り、|算盤《そろばん》を武器に|金子《きんす》と帳簿相手に戦うのが合ってたみたいだナァ。
――で、俺の最期はお前さんたちかい。」
刃に斬られた己の血、そして鈍器として振るわれたカツオの血で双魚の羽織はすっかり血染めとなり。
大地に頭から叩き付けられたがために、すっかり髷も解けてザンバラ髪となっていたが。それを手早く結い直し。
怪人ピスケスナンポ・シデレウスは、己の前に立つ避けられぬ死……2人の√能力者を前に、居住まいを正して、笑った。
見ようによっては、実に滑稽な戦いであった。しかし、その様な中でも飄々とした振る舞いを崩さぬ怪人を。
(……格好いい、な。)
クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は、自分が憧れる『大人』の雰囲気を感じて、密かにそう見たのである。
しかし、あくまで密かに、だ。口に出すような事はしない。
「……さっきまでのゲーミングボラ騒ぎ&酔っ払いとの差が激しすぎて、戸惑ってしまうな。」
代わりに口にした言の葉に、同意するのはもう一人の√能力者。
「ゲーミングボラのインパクトが強すぎて頭から抜け落ちてたっすけど、どうにかしないといけないのは酔っ払いの方もだったっすね。」
金の瞳をしぱしぱと瞬かせながら、|深見・音夢《ふかみ・ねむ》(星灯りに手が届かなくても・h00525)の言う通り。
酔っ払いが変異したピスケスナンポ・シデレウスを斃して二枚のシデレウスカードを回収して、元のどうしようもないからすみ好きの酔っ払いに戻してやらねばならない。
だが、元よりこれより止めを刺しに行く怪人の戦闘力が乏しいのは、今までの戦いで十分に見て取れた。
「気が進まないなら止めておけばいいと思うんだけど。」
時折神社の方を見遣り、『戦い』にはしながらも。戦意の乏しいまま、ここまで戦って来たようにクラウスの目には映ったのである。
「いやァ、意図せずとも引き受けちまったからにゃ、仕事はちゃんとやらなきゃねェ。」
肩を竦め、この二人にも敵わぬと知りながら、怪人は刀の鯉口を切る。
√能力者は絶対に殺さねばならぬ、という意思がある訳でも無さそうだ。
知恵者として知られる大田南畝であれば、勝ち目も益もない戦いと重々承知している筈。クラウスとしては、どうにか穏便に済ませたいところだが……
(――そういう訳には、いかないみたいだ。)
「貴方自身の意思では、難しいのかな。」
「――まァ、そういう事にしといてくんなまし。
さァて、このピスケスナンポ・シデレウスの首級を挙げるのはどっちだ!腐っても鯛、タダではやられンぞ!なァンてな?」
何か意図があるのだろうか、それとも武家として生まれた者の意地であろうか。わからない。
然し、刃を納める気がないのであれば、それは明確な『敵』である。
「まだ目がチカチカするっすけど、頭切り替えて少し真面目にやらせてもらうっすよ。」
音夢は金の瞳に殺気を宿らせて。シデレウス怪人との最後の戦いが始まった。
「……で、真面目になった途端にカツオが降ってくるって何事っすか!
戦闘中じゃなきゃ喜んで噛り付くんすけど、地味に痛いじゃないっすか!」
残念ながら、この戦いに於いてはいろんな意味で相手と状況が悪い。音夢にも巻き込まれて頂く。
そりゃ20㎏程の1mもある筋肉の塊が300匹も降ってきたら、そりゃ痛い。
音夢は鱶は鱶でもネムリブカをベースにした怪人であるが、ネムリブカの基本サイズは1.6mほどであり、最重でも18.3㎏ほど……ベースの鱶がカツオの群れに挑むには、少々体格負けである。
そも、カツオは皮下の寄生虫が多いためにたたきにして食べる様になったというが、果たして音夢は生で齧り付いて大丈夫なのだろうか。
だが、今はその様なことは問題ではない。彼女も言っている通り、食べる訳ではないのだから。
「だけど、こうなればこっちも容赦する必要なしっす。
――クラウス殿!」
大事なのは、カツオが降り注ぐことで姿を晦ますことに成功した、クラウスの下準備である。
拙い詠唱ではあるが、それは確かに力を持つ言葉。それは魔力を帯びて、太陽のような光を纏う鳥の形を成した。
――【金烏】
√能力としては、怪人の寝惚け眼の鱶を呼び出すものと同系統。
「そりゃァ、朱雀か鳳凰か。随分と縁起のいいものを見せてもらったねェ。」
その輝かしさに、怪人は何を思ったのか、目を細め。彼に呼び出された鱶は主とは対照的に、その眩しさに目を見開いてはぶつけられることで相殺され、消えてゆく。
そして、シデレウスと異なるのは、クラウスに3秒ごとに召喚する√能力に固執する理由がないという事だ。
過酷な戦場に生きてきたクラウスと太平の世の事務方では、そもそも戦いの引き出しの数が違う。
体内の魔力を刀の形に錬成し、怪人が新たな鱶を呼び出すよりも疾く、縮地の如く踏み込めば。
「あァ、まるで無駄のない、美しい身の熟しだ。これが、戦場を知る者の動きってヤツかィ。」
怪人が感嘆の声と共に何とか受け止めたのは、居合の刃の1合目……いや、2合目まで。
腹に膝が入れば、ぐらりとその体が揺らぐ。
その姿を。音夢の対物狙撃銃のスコープが、しっかりと覗き込んでいた。
先のゲーミングボラの光量を遥かに上回る白い閃光が奔り。粘着弾がカツオたちを巻き込んで、随分と活きのいいカーテンに風穴を開ける。
――さあ、【|三点式連装弾《トリコロール・バレット》】の、必殺の射線は通った。
「ちょーっと乱暴っすけど、本命の三発目。対物貫通弾が通れば良し!
――これで終わりっすよ、お侍さん。」
――世話ァ、掛けたね。
その様に口を動かしたピスケスナンポ・シデレウスの胸に。
存在する力を削り切る、大きな大きな風穴が空いた。
●
「……全く、こういう状況じゃなければ、昔話の一つでも聞かせてもらいたいところだったんすけどね。」
「昔ィ?28種の魚ン名前使って文書いて、吉原の女に送ったモンだが……って、ンなこたァいいンだ。俺は亡霊みたいなモンだからヨ。
――世の中は さてもせわしき 酒の燗 ちろりのはかま 着たり脱いだり
俺の時代より、何もかもがはしこい世になってンだろ?今の者は、今の流れを楽しく生きなィ!」
死を前にしながらも、気風良く笑い声を上げ。|怪人《えいゆう》は残る力を振り絞り、己の力の根源たる二枚のカードを懐から取り出す。
「鱶の嬢ちゃんは……あァ、魚、魚か。おあつらえ向きじゃねェか。俺と同じで|松魚《カツオ》が好きなンだろ?この|双魚宮《カード》を持っておいきヨ。
ンで、そっちの坊ちゃんにゃァ……面映ゆいが、|英雄《おれ》のカードを持っていきなィ。
力こそねェが、魑魅魍魎の巣で生き残り続けたからねェ。多少の利益はあるかもしれねェし……ねェかもしれねェ!あァ、でも転ばねェ様に気を付けなヨ。」
そう言って、それぞれにシデレウスカードを手渡すと。
怪人はにんまりと笑って、激励するかのように2人の肩をぽんと叩いた。
「――さァて、仕舞ェの時か。では、皆様方。これにて暇を頂き申す。
……手の内は見せ切ってねェンだろィ?あの物の怪如きに、折られンなヨ。」
そのままカードを託した音夢とクラウス、2人の脇を抜け。血染めの羽織をひらりと脱ぐと。
――今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん
嘗て遺した辞世の句と共に。
その姿を元の酔いどれ男に戻して、河原に身を横たえて。
ピスケスナンポ・シデレウスは、浮世を去るのであった。
第3章 ボス戦 『【無貌】スターチス・リモニウム』
しきりにピスケスナンポ・シデレウスが気にしていた、神社の鳥居より。
この騒動を終始観察していた、この事件の黒幕が姿を現した。
口を開く度にその場にいる誰かの知る姿と声に成り替わる、悪辣な変身術……
そう、今までに幾度もの√能力者たちの心に消せぬ|記憶《きず》を刻み込もうと暗躍してきた、【無貌】……スターチス・リモニウムである。
「あーあー、呆気なくやられちゃって。英雄って言っても戦闘向きじゃない文化人だし、そんなに戦えるとは思ってなかったけどっ!
地縁があれば、そりゃ地の利もあるかもしれないけどさ?ドロッサス・タウラスの完全な人選ミスだよねぇ。
だけど、もーぉちょっとくらいは粘って欲しかったかなっ!」
知り合いの姿を見かけると、多少は嬉しそうにひらひらと手を振るが。どうにも今回はやる気に乏しいらしい。
いつもの無駄に明るく溌溂とした声と比べ、微妙に勢いがない。
「だってさー、今回はうちの|戦闘員《げきだんいん》もいないし、こないだみたいな面白い|サイコブレイド《オモチャ》もないんだよっ?
私ってば、ちょっと強いくらいですし?最高の演出をするために下準備するひとですし?
でも、みんなの素敵な|絶望《カオ》を引き出すにはなー。今回はねー。」
とはいえ、無邪気な笑顔と共に放たれる、凍り付くような殺気は健在であるし、心の中の『大切な存在』を読み取りその姿を傷付けさせることで、何度蘇ろうとも残る|心の傷《トラウマ》を刻もうという悪辣な戦法を必ず取ってくる事は間違いない。
心を折られぬよう、心を強く持って挑む必要があるだろう。
「あ、ゲーミングボラは私の所為じゃないからねっ!これはホントっ!」
――流石の【無貌】も、念を押す程度には七色の怪魚は趣味でなかったらしい。
※Caution
・【無貌】は『大切なひと』に化ける√能力を複数持ちます。
皆さまの『大切なひと』をプレイングに記載して頂ければ、拾える範囲、公序良俗に反しない範囲で、設定や心情を採用させて頂く予定です。
(Ankerの方であっても、相手の方から感情を得ていない場合は採用できない事があります。)
――一言で言い表すならば。それは、きっと。相手が悪かったのだ。
「待て、待て霊菜!俺は不審者じゃない、俺がわからないのか、霊菜!?」
龍の面を被った黒髪の青年が、必死に叫びながら駆け回る。
背後から振るわれる氷の刃を必死に避け、時に往なし、致命打こそ受けてはいないが。
明らかに彼の命に危険が迫っているという状況は、その表情からも察する事が出来るであろう。
「大切な人に化けて傷つけさせるって、悪趣味だわ。」
その背後青年の背後からは、氷の鷹の如き四枚の翼を羽搏かせる金の婦人……|矢神・霊菜《やかみ・れいな》(氷華・h00124)が迫っていた。
2人の薬指には、陰陽魚が刻まれた揃いの指輪。ならば、夫婦か。
夫婦だというならば、青年が何かをやらかした果ての、犬も食わない夫婦喧嘩か。
その割に、振るわれる刃に遠慮というものが一切ない。一閃一閃が、明らかに首を奪りにいっている。ならば、夫婦の修羅場か。
いいや、そうではない。追われているのは、霊菜の最愛の夫である疾風に化けた【無貌】スターチス・リモニウムである。
「普通は!この顔を見て、躊躇うだろ!?大切な男の死に顔とか、見たくないだろう!?」
そう、多くは知り合いの顔を見てしまえば、怯む。咄嗟に刃や銃の動きが鈍る。
この能力に心の傷を抉られた√能力者も少なくはない。
――しかし、今日は。矢神・霊菜という例外が居た。
(――大切な人……やっぱり疾風かな。
零も大切だけど、一番に思い浮かぶのは疾風よね。)
妻として、母として。夫と娘を比べることなど出来ないが、真っ先に霊菜の脳裏に浮かんだのは疾風の顔であった。
出会いの時こそ彼女に付き纏う疾風を不審者認定して、√能力でボコボコにするという中々聞かないスタートであったが。
今では共に背中を預けて戦うパートナーであり、爽やかな笑顔と淑やかな空気で支え合う、誰もが認めるオシドリ夫婦である。
――だが、待ってほしい。
「疾風と闘う……あら?前にやった痴話喧嘩とあまり変わらない……?
……まぁいいや、本物じゃないから疾風が死ぬわけじゃないし!」
出会いの初手も初手で、『ボコボコにしている』のである。
しかも、2人で示し合わせてやっと始まった夫婦喧嘩でも、霊菜も疾風もお互いに一切の躊躇いなく、その持てる力を振るった。
これも始まりからして何かおかしいが、爽やかな流血沙汰という、何を言っているかわからない結末を迎えている。
なお、またしても疾風はボコボコにされた事も書き添えておく。
と、この夫婦の一風変わった在り方を書き連ねればキリがないのだが。
――結論から言おう。
ある程度は常識人の面もあるスターチスは、変身する相手の選択を完全に間違えた。
「それはそうと、こういう悪趣味なの、すっごく腹が立つから。私とちょっと、ヤり合いましょうか?」
アイスブルーの瞳は偽物の疾風をしっかりと捉え、その剣筋にも一切の狂いはない。
それも当然だ。彼女は本物にだって容赦はしないのだ。偽物とわかっていて太刀筋が鈍ることなどあろうものか。
「俺も色んな夫婦とその破滅を見て来たけれど、流石にお前たちみたいなのは初めてだぞ!?どうしてそれで夫婦生活が上手くいく!?」
【|氷應降臨《ヒオウコウリン》】の四枚翼が生み出す疾さは、無貌が創り出した必中の空間により、回避にこそ転用できないが。
回転の勢いを乗せて叩き付けられる群青のトンファーを。霊菜は融成流転を籠手に変え、己の勘と見切りで掠める様に受け流していく。
そう、|当た《掠》りはすれども、決定的なダメージを避けるための霊菜の動きは抑え様がないのだ。
「何でって言われても……そうねぇ。私と疾風とだから、としか言い様がないじゃない。」
きゃっ、と乙女の様に頬を染めて恥じらい、惚気る霊菜だが。反撃の剣戟には一切の可愛げがない。
「本当にどういう愛情の形をしてるんだよ、お前たち夫婦は!?」
愛する夫の顔で、あまりに理解の及ばぬ世界に絶叫する無貌の胴に。
これが答えよ、と言わんばかりに。
――【氷刃裂葬】
蒼く、冷たい氷の刃が吸い込まれた。
――今までの悪さのツケが回ったのであろうか。
例外だらけの今日は、無貌にとって間違いなく厄日である。
(――変身が、出来ない?)
多くの存在にとって、『大切な人物』にあたる者はいるものである。
愛する者。心の支えとなる者。常日頃から執着している者。
意識していなくても、咄嗟に脳裏に浮かんでしまう者。
然し、だ。
「ちょっとー!アナタもゲーミングボラちゃんを馬鹿にするのぉ!?
もう!まだナンポちゃんの方がお話分かってくれたわ!!」
目の前でぷんすかと怒りを露わにする銀髪の少女のソレは、妙に朧気で、漠然としていて、像を結ぶ事が出来なくて。
無貌は白虎の少女の姿から、目の前の少女の心を抉る様な存在に変身する事は不可能と結論付けた。
それもその筈。ウララ・ローランダー(カラフルペインター・h07888)はヒーローである。故に、博愛。世界中の人々が漠然と大好きなのだ。
その上、空想未来人である彼女の世界を描いた少女も大切だが……会ったことも無い。
彼女の記憶の中のどこにも、大切な少女の顔は無いのだ。
「趣味じゃないだけで、馬鹿にはしてないんだけどなっ!?
――とはいえ、|下準備《リサーチ》も出来ていない時に限って、次から次へと厄介ごとってくるもんだよねっ!」
此処まで無垢な存在に出くわすとは、いきなりお手上げだ。下準備さえ出来ていれば、弱点だって知り得たかもしれないし、作る事だって出来たかもしれないが……この状況では、先ほどの変わった夫人と同じくらいに天敵と言っても良い。
ドロッサス・タウラスとの協力関係を継続していくために、それなりの戦果は挙げねばなるまい。
肩を竦めながらも、金の瞳は銀の髪の少女の一挙手一投足を見逃さない。
「僕様ちゃん、怒っちゃった!名前の知らないアナタもしっかり倒しちゃうんだから!
そしてしっかり世界を守っちゃうわよ!!」
「ああ、そう。ヒーロー。ヒーローなんだ、あなたっ!あっは、会えて嬉しいなっ!
この体の名前は『スターチス』。忘れられないように、消えない|記憶《キズ》を残してあげるねっ!」
例え無垢であろうとも、体から心に伝わる傷だってあるだろう。
ヒーローの心を折る事を愛する白虎は構えを取ると、強烈な吹雪の様な殺気をウララに叩き付けた。
「変身で牽制されたって、寒い吹雪にだって、僕様ちゃんはめげない!裏切りも苦しい時も、ヒーローの世界中ではよくあるの!」
しかし、吹き付ける白く凍り付くような殺気の只中。吹雪の中、負けじと灯る篝火。
ウララの銀の髪が、燃え盛る様なファイアーレッドへと色を変えた。
「レッドアクセプト!炎よ、僕様ちゃんを最強にするのだ!」
愛用のウォーターガンに装填するは、赤のインクカートリッジ。
「最強なんて、夢みたいなことを言うモンじゃないよっ!」
真白色の吹雪を突っ切って。体勢も低く、白虎が無垢なヒーローの喉笛を食い千切らんと、襲い掛かる。
――【白虎咬拳・悉皆覆白】
ウララの小さな頭を捻じ切るに足る、√能力にまで昇華された超速の上下のワンツーだ。
この拳が、確かに無垢なヒーローの頭蓋を捉え……
「ヒーローは、無敵なのよ!みんなを傷付ける悪い奴には、絶対に負けられないから!」
――割り砕く事は、出来なかった。
――そして、無傷。
みしり、拳を額で受け止めたウララは明るく不敵に笑い。
白虎に突き付けるのは、赤インクを消費し始めたウォーターガン。
――【炎操銃《ファイア・バレット》】
この√能力は、ウララを無敵の炎属性フォームに変身させるという能力を持つ。一度変身すれば、攻撃や回復などのあらゆる干渉を無効化するという比類ない強力な効果を発揮するのだ。
一方で、その度にカートリッジのインクを大量消費し、枯渇すると気絶するという、大き過ぎるデメリットも負うが……此度は、メリットが勝った。
スターチスから間合いを詰めた結果、生まれた零距離。
「吹雪のような殺気だって、火炎で熱して相殺よ!熱い炎で反省しなさい!」
――びゅごぉう!!!!
無垢なヒーローの放った真っ赤な炎が、白虎の身体を包み込み。
人の心を弄ぶ悪意を、紅蓮の風と共に吹き飛ばした。
――さて。想定外だらけの厄日で、ボコボコにされている無貌であるが。
待ち人だって来ることもある。
待ち人がどう思っているかは別として。
「流石にお前の仕業だとは思っていないよ……」
クラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)がスターチスと対峙するのは、これで三度目となる。
だからこそ、全て自分の演出で十全に『舞台』を整え、死と絶望を観賞する事を好む無貌が、ゲーミングボラなどという素っ頓狂な混乱劇を然程好まないのは、今までの望まぬ付き合いの中で知り得た性分だ。
(――そもそも誰があれを好むのか、と言われたら困るけど。)
そう、クラウスは独白するが。残念ながら、√マスクドヒーローにそれを好む下手人がいるらしい。
その内、彼の前に七色に輝くゲーミングボラの群れが再び姿を現す事もあるかもしれない。
――しかし、彼が何とも言えぬ空気の中に居られたのは、これまでだった。
「クラウス!待っていたぜ、クラウス!!」
白虎の少女の如き姿を取っていた無貌は、馴染みの顔を見て余程嬉しかったのであろう。ぱぁっと大輪の笑顔を咲かせると。
瞬きの間に、太陽の如き瞳を持つ親友……|永瀬・翼《ナガセ・ツバサ》の姿を取った。
今までに何度も見せられた、無貌の常套手段。
辛くとも、苦しくとも。心を殺して、この手で討ってきた親友の顔。
――しかし、この日のクラウスは、違った。
『いつも通りに』魔力兵装を創り出そうとするが。手が震え、集中力が続かない。気分の悪さに、思わず膝を突く。
それは傭兵である彼が敵に見せる事の無い……いや、決して見せてはならない、絶対的な隙であった。
(――息が、苦しい……!)
「おいおい、クラウス。俺を見てそんな喜ぶなんて、らしくないじゃないか。
――そんなに気を張ったら、後が続かないぜ?」
それは彼の中に蘇ってしまった、一編の記憶と疑念。
それを無貌は正確に読み取ったのである。
「俺たち、親友だろ?まあ、落ち着けよ。なあ、クラウス。
しっかりと深呼吸してさ、俺をちゃんと見ろよ。」
跪いたクラウスの黒髪を、グローブ越しにむんずと掴み、持ち上げて。
赤い太陽の様な瞳が、クラウスの瑠璃の瞳を蜘蛛の様に捕えた。
その顔を見てしまえば、思い出す。苦難の中にあっても、太陽の様な明るい日々を。
――彼を犠牲にして今を生きている、己への嫌悪を。
――彼に恨まれているのではないかという、相手が死しているからこそ拭い去る事の出来ない、焦げ付いた疑念を。
「ははっ!初めて会った時は、もう少し情動ってモンが薄いかと思ってたんだけどな!
いいな、すごくいいぜ、クラウス!これ以上ないってくらい、いい瞳だ!いい貌だ!
お前の中で情緒ってヤツが育ってる!色んなモンが育ってる!」
クラウスの成長を寿ぐ|翼《かおなし》は、肉食獣の様に口元まで裂けんばかりの笑みを浮かべ。
魂まで凍てつく様な殺気と共にクラウスを無造作に蹴り飛ばし。河原に転がった彼に止めを刺さんと、肉薄する。
「んじゃ、今日はさっさと死んで出直して来いよ、クラウス。次はもっと喋ろうぜ!」
――ああ、このまま殺されるのだろうか。
楽し気な笑みと共に振るわれるグローブ越しの拳は、確かに彼の頭を割り砕くだろう。
――だが。
(――お前に殺される事は、思い出さえ永遠に穢すことになる……!)
例え死んだところで、この思いから逃れられはしないのだ。
奇しくも、あの時に抱いた想いと共に。心よりも先に、体が動いた。
「マジか!動けるのか、クラウス!やるじゃないか!」
驚きとも感動とも付かぬ|無貌《つばさ》の声など、今は聞こえない。
上下より襲い来る虎の顎が、頬を切裂くが。
――そこはクラウスの間合いでも、ある。
――【盈月】
魔力兵装は、今度こそ彼のイメージを汲んでナイフを形取り。翼の喉をひと掻き。
逃がしてたまるか、と更に踏み込んで、刀で一閃。
彼自身にだって、冷静さを欠いていることはわかっている。それが無貌の思う壺である事もわかっている。それでも。
声に成らぬ叫びを挙げながら、尚も嘲笑う無貌を蹴倒して馬乗りになると。
――どすり、どすり、どすり!
魔力で編んだナイフが折れんばかりに、幾度も幾度も幾度も。
無貌が嗤いながら逃れるまで、その体に叩き付けた。
――だけど、苦しいんだ。
一度、心にこびり付いた思いは。
まるで、彼が浴びた血飛沫の様に。容易には、落ちてくれない。
「お久しぶりねー。さてお帰りの時間よー。」
挨拶もそこそこにぶっ放されたお手製弾薬を、灰色の髪の青年が身を仰け反らせて避ける。
「……晃。……判断が、速い。」
表情こそ乏しいが、金の瞳は批難がましく|黄菅・晃《きすげ・あきら》(汎神解剖機関のカウンセラー・医師兼怪異解剖士・h05203)の姿を睨んだ。
しかし、晃はその様な視線も言葉も意に介さず、ちゃっちゃかとシリンジシューターに弾を再装填している。
ゲーミングボラやらカツオやらサメやらの件で、既にお腹いっぱいだ。
この顔見知りもどきをさっさと斃して、楽観の影が手早く処理したゲーミングボラの卵巣でからすみを作らねばならないのだ。……自分は手を出さないだろうが。
それにしても、である。目の前の大切な存在……自分の患者であるコウガミ・ルカに化けた無貌は、何やら聞き捨てならないことを言っていた。
「はぁ?ゲーミングってアンタのせいじゃないわけ?」
「……グルル。……ちがう。あんなもの、創る趣味、ない。」
元となった彼の様に、言葉少なに、焼けた喉の影響を感じさせる様な声で否定する無貌であるが。
それならば、なんだ。何処か頭のネジが飛んだ、酔狂な他の何者かがあんなものを創り出したとでもいうのか。
「もういっそのこと、アンタのせいってことで墓場まで持ってきなさいよ。その方が手っ取り早いわ。」
「……っ。晃、横暴。」
こればかりは、ルカ……いいや、無貌の方に一理ある気がするが。
晃の方はと言えば、そもそもルカを真似た姿を見せられて、相当にイラついているのだ。
「……チッ。めんどくさ。」
眉目秀麗な顔に似合わぬ、あからさまな舌打ちだって隠さない。
足元からざわり、ざわりと湧き出でる喜怒哀楽の影たちも、それぞれが掌る意思に呼応するように警戒、臨戦態勢を取っている。
見知った顔ではあるが、『本物』ではない事をわかっているのだから、影たちにだって躊躇いは無い。
――そういえば、と。
晃が喜怒哀楽の影たちを比べ見る。そういえば、楽観の影と悲しみの影はさておいて。
楽観の影と、怒りの影は随分な数のゲーミングボラを食べていた気がするのだ。
「……アンタ達、ゲーミングに光ってないわね?ならよし。」
幸い、影は影として、黒々とある。
嫌な相手との戦いではあるが、更に珍妙な空気にはならずに済みそうだ。
「……グルル。喉を、灼かれて。どうして、俺なんだろう。どうして、造られたんだろう。
従順に、従って来たのに。喉を斬り刻まれて、気に入らないからって、スイッチ一つで、首を絞められて。こんなに苦しむなら、死にたい。
もう、どうでもいい。もう、それなら全部……!」
――死ね!!
灰色の髪の青年の憎悪と怨嗟の声と共に、長閑な高浜川の景色は一変した。
そこは、晃も知る光景。何故なら、彼女もその直後にその場を訪れたのだから。
白衣の研究者どもの臓物が、壁だろうが天井だろうが所かまわずこべり付き、|彼《ルカ》を化け物足らしめる事となった、あの赤黒く染まった研究室。
ヒールを一歩踏み出せば、足元の肉片混じりの血だまりが、ぬるりと彼女の足を取ろうと纏わり付いてくる。
「ふーん、あの時の景色に、あの子のポテンシャルもトレースしてるわけねー。そこもまた面倒だわ。」
超再生力を活かした捨て身と怪力。それこそがルカの戦いの基本スタイルである。
ひたひたと血だまりを踏み締めて突っ込んでくるルカの攻撃を防ぐ術を、晃は持っていない。
何故なら、|無貌《ルカ》が語った絶望の物語により、全ての攻撃に必中効果が付いているのだから。
「――でも、私もアンタの相手は二度目なのよ?能力の限界は、知ってるわー。」
相手は情報を悪用する存在であるが、晃だって『無貌』を既に知っている。
そう。彼を『化け物』と自覚させてしまった√能力、『言霊』は一切使えないのだ。
さらに、いつもの戦闘スタイルだからこそ、見切れるものもある。
「……っ!」
同じ戦い方でも、超回復は無い。痛覚遮断も無い。言霊も、無い。
無貌の捨て身の拳を楽観の影が受け止め、払い除け。
続いて訪れるであろう追撃に、咄嗟に両腕の防御姿勢を取った、その姿を。
晃は、鼻で笑って見せた。
「なんだー。全く、あの子の張りぼてじゃないのよ。」
――【|怯える影の拒絶《シャドウオブソロウ》】
変幻自在で臆病な影が、見知った姿の偽物を恐れ、荒れ狂った。
「……っぐ、ぅ、あ……!」
全身を影に強かに打ち据えられ、呻き声を挙げ、よろめく無貌に。
おまけに撃ち込んでやるのは、お手製弾薬の炸裂弾と即効性毒薬弾だ。
「体の特殊性までは真似できないわよねー。あの子だったら、怯えない。恐れない。痛がらない。」
まるで何でもない事の様に、弾薬を再装填しながら口にするが。
その声音に滲むのは、心を救うカウンセラーとしての、そして|彼《ルカ》の『専属医』としての怒りであろうか。
この惨劇の光景は、今も|彼《あの子》の心の奥底に残り続ける|心の傷《トラウマ》だ。絶望だ。
――それを。よくも、まあ。
「――あの子の絶望を勝手に暴いて、多少知ったくらいで、軽々しく語るんじゃないわよ。」
ショットガン型のシリンジシューターの銃声が轟くと共に。
まるで、高浜川の水が清め、洗い流したかのように。
誰かの絶望を映した血と臓物の世界は、消滅するのであった。
――随分と愉しむ事が出来たが。今日はそもそも厄日である。
何故、こうも例外が押し寄せるのか。無貌は、ほんの少しだけ自らの行いを顧みた。
素直に反省する|様《タマ》なら、簒奪者も、この様な戦い方もしていないだろうが。
夫婦。親族、親友、想い人。それは多くの人間にとって弱点と成り得る、強力な『情報』である。とんでもない例外もあったが、基本的にはそうである筈である。
この無貌の恐ろしさは、勿論、周到に計画を重ねる事で対峙する者に|忘れ得ぬ記憶《トラウマ》を与えるところにもあるが。
√能力で『大切な存在』の情報を問答無用に抜き取る事で、その『情報』を人質に取るところにもある。
その顔を見せさえすれば、大抵の敵は一瞬止まる。何故なら自分は√能力者。その場は殺したところで、いつかは蘇り……その大切な存在を毒牙に掛ける事だってできるのだから。
故に、無貌は|見下・七三子《みした・なみこ》(使い捨ての戦闘員・h00338)より抜き取った情報の中で、最も効果的であろうものを選び、姿を変じた。
「よォ、見下。」
「レオンさん……?」
長身の、赤髪の偉丈夫。左目を覆う眼帯を着けた青年の姿を、七三子が見紛う筈も無い。
レオン・ヤノフスキ……七三子にとっての、『大切な存在』である。
「おう、レオンだ。なんだ、そんな当たり前なこと言って。見下こそどうしたよ、そんな呆けた顔しちまってよ。」
声音も、立ち居振る舞いも、全てが『レオン』である。
――ああ、大切なひとに抱き締められ、そのまま殺されたなら!この子はどんな反応をするだろう!
それに、ほら。他愛もない。動きが止まれば、拳を叩き込んで息の根を止めるだけ。
高鳴る胸の内の高揚を抑えながら、七三子を抱き締めるべく両腕を広げて一歩踏み出し。
そんな無貌の姿を見た、彼女の赤い瞳も揺れて……
「すごい技術!本物かと思って驚きました。」
感動を隠さぬ声音で、称賛の声が飛び出した。
――うん?
表情に出す事を何とか耐えながら。無貌の足が止まった。
「変装とか、潜入とかは前職で私もやりましたけど。
これだけできたら、いろいろ苦労しなかっただろうなあ。」
滔々と前職の苦労話を語る七三子である。お互い、√マスクドヒーローに所縁のある者同士、色々と通じ合う点もあるかもしれないが。
どうにもこうにも、期待している反応と違う。
「あー、なんつーか……面白ぇこと言うじゃねぇの!見下がそんな意地悪言えるなんてなぁ、新たな魅力に気付いちまったっつーか?」
しかし、『レオン』という人物は既に七三子の記憶からその姿と言動から抜いている。
女子と見れば誰彼構わず口説き文句を放つ、所謂ナンパ者。そう、七三子という思いを寄せる者が既に居ようとも、である。
「声も口調もすごい再現力。姿形はどうとでもですが、演技力は才能ですもんね。
えへへ、こんなところでレオンさんに会えて得しちゃった気分。」
√能力を駆使した変身能力よりも演技力を褒められ満更でもないが、違う、そうじゃない。更に惚気まで置いて行かれてしまっては、どんな顔をすればよいのであろうか。
――なんなんだ、今日は。例外ばかり来て。やはり厄日か。厄日なのか。
「んじゃ、まあ……演技かどうか、試してみるか?俺が勝ったら……そん時のお楽しみって事でどうよ。」
最早大根役者の誹りを免れない状況に、無貌は内心で頭を抱えながら。
しかし、一度舞台に立った役者は、最後まで舞台を降りる事だけは選ばない。
『レオン』ならばそうするであろうと、その好色さを表す様に七三子の肢体を下から上まで眺めまわし、舌なめずりして。ハーフグローブに包んだ拳を構えるが。
「まあ、この状況を楽しみそうな方ではありますし。お手合わせしてもらうのは楽しそう。」
「なんなんだよ、ええ!?お前ら!!今日はそういう連中ばかりか!?
殴り愛か!?殺し愛か!?『愛』を見るのは、壊すのも含めて好きだけどよぉ……なんか、こう……違うだろぉ!?」
思わぬ反応の追撃に、赤髪の偉丈夫の姿を保ったまま。
今日は自分の思う『愛』とは解釈が異なる連中ばかりだと、いつもけらけらと嘲笑うばかりの無貌が遂に我慢しきれず叫ぶのであった。
「本当に躊躇いってモンがねぇなぁ、見下!|俺《レオン》への愛が足りねぇんじゃねぇのか!」
氷の様な殺気を飛ばしながら、無貌が七三子の懐へと縮地の如く飛び込んでゆく。
「大事な人と戦う事への抵抗ですか?愛が足りない?ふふ、そう思います?」
対する七三子はといえば。笑顔を浮かべる余裕すらあるのだ。この時点で、既に勝負は既に決している様なものである。
今までの戦いでは見られなかった事であるが。相手を揺さぶる事を得意とする無貌も、立場が逆転すれば脆かったのである。
「む、化け……るのはもう見ましたし、殺意も……なんかこう、ゲーミングボラとかカツオ叩きとか見た後なんで、ちょっと私の情緒が迷子です!」
「ゲェェェェミングボラァァァァァ!!!!」
カツオはシデレウスの能力だから仕方がないとはいえ。
なんだ、それは。そんなのありか。あの七色に輝く怪魚、奇妙奇天烈に輝くばかりか、まさか私の仕事まで妨害しやがったか。
こうなりゃもう、叫ぶしかない。金輪際、あんなのは御免だ。|死んだら《かえったら》ドロッサス・タウラスに文句を叩き付けてやる。
そして精神が揺らぎ切った者の拳など、百戦錬磨のか弱い戦闘員にも見切るは容易い。
虎の顎が外れたかの様な上下のワンツーを容易く往なし。
その、往なし様に。『あ。』と。七三子は小さく声を上げた。
「今度は何だよ、見下!さっさと言いやがれ!」
「ありがとうございます!では、遠慮なく。
愛が足りない、で思い出しました。言いたいこと、あったんでした。」
――どこまでも無貌に都合の悪い方向に噛み合っていく二人である。
そうこうしている間に繰り出された鋭い蹴りが、無貌の足元を狩る。
そして、だ。笑顔だった七三子の眼が、唐突に据わり。
頬がぷくりと、少女の様に膨らんだ。
「――私だって、たまには怒るんですよ!」
それは見ようによってはだが、熱い熱い抱擁と言っても良い。
きっと、初手の無貌はこれをやりたかったのであろう。
それはあまりにも熱烈で……
――めき、めき、ばき、ぼき。
人体から聞こえてはならない様な音がするほど、強い強い|愛情《かいりき》が込められていた。
これをレオン本人が見たら、無貌の望む通り彼の|忘れ得ぬ記憶《トラウマ》となり得たのではないであろうか。
自分と同じ顔をした赤い偉丈夫の筋肉質の体が、こう、空き缶でも潰すかのように音を立てて絞られ潰れてゆくのだから。
――ハグはハグでも、人これをベアハッグと云う。
もちろん、喰らっている本人は『おアツイねぇ!』などと軽口を叩く余裕すらない。
むしろ、口から言葉以外の見えてはならない色々が出て来ないだけでも御の字だろう。
「ふふ。レオンさん。浮気ばっかりしてると、こう、しちゃうん、ですからっ!」
そして。物理的な意味で筋肉を搾り上げられた赤髪の青年の身体が、美しい弧線を描いた。
ただし、その勢いは、先のシデレウスに放ったものとは比べ物にならない程疾く。そして。
――ずっどぉぉぉぉぉぉぉん!!!!
大地が揺れ、亀裂が奔る程に、重かった。
高浜川の川岸に|人間橋《ジャーマンスープレックス》の2号橋が架かった、その後日。
【|団結の力《カズノボウリョク》】により七三子と協調の思念を接続されていた者たちは、皆一様に、こう口を揃えた。
――|彼女《なみこ》を怒らせるのだけは、やめておこう、と。
――どうにも思う様に作戦が回らない。当初想定していた以上に、心の傷を刻み込む事が出来ていない。
地面に頭が突き刺さるだなんて、そんな経験をするとは思わなかった。というか、何で死んでいないのかわからない。
しかし、身体が動くうちはまだまだ遊べるという事だ。無貌は何とか頭を地面から引っこ抜く。
例え手の内が割れていても、何時もの様に、万全の準備が出来ていたならば。それを上回る最高の演技で最高の|絶望《かお》を引き出せた筈なのに。
腐っても簒奪者だし、それも含めて楽しんでいるからこそ慣れているとはいえ。今回のこれは、全くの死に損だ。
しかし、随分な数の天敵まで生まれてしまったが、無貌は全く前向きである。
「ま、暫くはドロッサス・タウラスも大変そうだしねっ!次に声が掛かるまで、またしっかり準備して、今度はもぉっと上手く立ち回ろっと!
……ゲーミングボラには、もう二度と関わりたくないけどっ!」
満身創痍のまま、最後の獲物に対してどれだけやれるかを楽しみにしながら。
厄日に加えてゲーミングボラにまで振り回された悪辣な白虎は、本日最期の変身を行うのであった。
「さーて、ようやく元凶が尻尾を出したっすね。正直今回の空回りっぷりは同情しなくもないっすけど、容赦無しっす。」
何とも恐ろしく、面白おかしいものを見た気がするが。
むしろ、今までに奴がやらかしたことを思えば、いいぞもっとやれ!と快哉を叫んでやりたい気分であるが。
死のその時まで、|忘れ得ぬ記憶《トラウマ》を刻み込もうと企み演じ続けるのが無貌という存在である。
これまでに一度相対した事のある|深見・音夢《ふかみ・ねむ》(星灯りに手が届かなくても・h00525)は、そのやり口を知っているからこそ、油断は無い。
前に相対した時は、彼女の推しのバーチャルアイドルである|星見天・奏多《ほしみそら・かなた》の姿を取られ、厳しい戦いを強いられたが。
奏多のゲリラライブにより目の前の存在が偽物であるという確信を得て、撃退するに至った。
既に手の内は知っている。ならば対策など幾らでも立てられようというものだ。
「また推しの姿で出てきたところで返り討ちにして、して……」
おや。おや?一体全体どうしたのであろうか。音夢の声が、どうにも尻すぼみになってゆく。
鮫歯を見せて不敵に笑っていたその表情さえも、徐々に、霜が降りていくように凍り付いていくではないか。
かの無貌は一体全体、どの様な存在に化けたのか。
――さて。人には、大切であると同時に、頭の上がらない存在であったり、恐ろしくも思う存在というものもある。
複雑怪奇で一言で言い尽くせないものこそ人の関係性であり、縁というものであろう。
「げぇーー!?」
それにしても、音夢も年頃の娘である。『げぇーー!?』は乙女にあるまじき奇声と思われるが、そう叫びたくなるのも仕方のない事だ。
社会に出た事のない星詠みの子猫にはまだわからないであろうが。そうも叫びたくなる相手はいる。いるのだ。
――そう、例えば元上司とか。
音夢はかつて、悪の結社の一員として冥深忍衆の一翼を担っていた。
そう『衆』というからには集団であろう。
『悪の秘密結社』であり『忍』というからには、組織の規模こそわからぬが、ある程度以上の指揮系統は確立されていたであろう。
つまりかつての音夢には、上司が居た事になる。
「しかも、一番そりの合わなかった気まずい相手ぇ!!」
これは、辛い。叫びたくなるのもわかる程に辛い。お気持ちお察し致します。
その音夢を蛇に睨まれた蛙の様に縮こまらせている相手とは。
今の黒ずくめで賑やかな彼女とはまるで正反対の、長身白髪の寡黙な雰囲気の女性である。
その白い姿は海の忍者と名高いアオリイカを思わせる神秘さを纏い。
その一方で何処か要らぬ苦労までも背負いこみそうな、神経質さと気真面目さを感じさせる出で立ちである。
「……深見。随分と腑抜けた様だ。」
底冷えのする様な声に、音夢の肩はびくぅっと、見ていて痛々しいほどに竦み上がった。この様子では、余程苦手に思っていたであろう事も窺えようというものである。
しかし無貌が変身相手に選んだという事は、『深見・音夢』が怪人になった原因でもある彼女は、確かに『大切な存在』なのだ。
それを自覚して、音夢は思わず苦笑した。
何てことだ、あんなにも反りが合わなかったのに。
さて、そうとくればいつまでも元上司の姿に怯んでばかりもいられない。今日の仕事は、目の前の|無貌《じょうし》を斃さねば終わらないのだから。
「――深見。」
「忍びの一文字に心は不要、でしょ。耳にタコって奴っす。」
皆まで言うなと、音夢は元上司の言葉を遮った。今までに何度も聞いた、『そいつ』の口癖だ。
(……まぁその教えを真に受けたせいで、当時は上司の名前も覚えないくらいに他人に無関心だったんすけど。)
今は深みから星に手を伸ばす事を覚え、人の輪に加わる事を選んだのが『音夢』だ。
そんな今の彼女だからこそ、言える言葉だってあるが。それを伝えるべきは、目の前の偽物などでは断じてない。
(その辺の反省は、当人に再会したときに取っておくっすよ。)
だからこそ、最早語るべきことなど一切ない。語るべきは己が見定めた|星《アイドル》の事だけだ。
「さーてさて、ボクにドルオタに語らせると長いっすよー?」
√能力の発動と共に世界を覆い尽くすのは、七色のゲーミングボラ……否、サイリウムが煌めき、熱気溢れるコールが木霊するコンサートステージ。
スポットライトの中心に在るのは、|推し《奏多》を模した、人魚の如きステージ衣装を身に纏った音夢である。
――【|熱情語りの独壇場《オシカツオンステージ》】
(どこから情報引っ張り出してきたかは知らないっすけど、その姿で出てきたからには……。
加減できる相手じゃないってのは、ボクが一番良く知ってるっす。)
そう。彼女に奏多の事を語らせれば、長いなんてものじゃ済まされない。
冥深忍衆を抜けてからの彼女は、出会った『推し活』にそれだけ日々の活力を与えられてきたのだ。
ブラスターキャノンを展開しながら、滔々と推しの事を語り続ける今の音夢を見たら、|上司《そいつ》は何て言うだろう。
(――ボクたちは文字通り、言葉は不要の間柄ってやつなんすから。)
少なくとも、今、目の前の無貌の様に。戦いの最中に口を開こうとする事など無い筈だ。
「――I'm Your Star!!」
ステージ上の|音夢《主人公》が決めポーズを取れば、逃れ得ぬ10発のファイヤーボールが派手に撃ち込まれ。
真白色の元上司の姿をした無貌が何事かを口にしようとするよりも早く、跡形もなく消し飛ばし。
――Yes, You are My Star──!!
高浜川を舞台に繰り広げられたライブは、無事に終幕を迎えるのであった。
●エピローグ
こうして、長崎県高浜町を舞台に繰り広げられた、ゲーミングボラとの乱痴気騒ぎ……もとい、シデレウスカードに纏わる事件は終わりを迎えた。
高浜川の流れも河口も元の色合い的な静けさをすっかり取り戻し、残された酔っ払いはこれから旬を迎えるボラの夢でも見ているのだろうか。
秋の河原で泥酔したまま、呑気に眠りこけている。
この場に駆け付けた√能力者たちどころか、簒奪者にまで爪痕を残したゲーミングボラたちの姿は、最早影も形も無い。
幾ら目を揉んでも擦っても、虹色に輝く硬骨魚類の姿は一切、ない。
……いや、ゲーミング発光するアレに帰って来られても困るのだが。
むしろ、無貌まで含めて、出来ればもう二度と遭いたくないと思う者も多いかもしれないが。
クーラーボックスの中には、皆で駆除した新鮮な元ゲーミングボラが詰まっている。
ボラの身はそれぞれの居場所に持ち帰られ、美味しく料理され。
2週間~4週間後には、幸いにもゲーミング発光はせぬ、美味しいからすみが仕上がっている事だろう――
――味わいは 和歌も狂歌も 一双の 筆とりてすれ 高浜の虹からすみ