⑮海哭
●海の底から
――電子の泡が、ゆっくりと満ちてゆく。
ふわり、ぱちり。
光が弾けるたびに、空気は揺らめく水のように広がり、歪んだ電子音が鳴り響く。
その中心で、青と黒が靡く。
靭やかな白い体躯、耀く青い尾鰭、揺蕩う深海の髪、燦めく海色の眸。
けれどもその姿はノイズ混じりに宙に溶けならが蠢いた。
傷付いた機械仕掛けの人魚姫は、俯いたかんばせをゆっくりと上げる。
ぽろぽろと眸からは光の雫がこぼれ落つ。
片眸には、鈍く耀く王劍の欠片が突き刺さったまま。
『……おうじ、さま、どこ……?』
声に成らない聲が、脳裡に響く。
『――たすけて、タスケテ、オウジサマ……!!』
傷みと狂気と哀しみに充ちた聲が、助けを求める。
あなたの姿に――いや、彼女の眸の奥に映る“王子様”に向けて。
●狂える人魚姫
「――皆さん、お疲れ様です」
片目に花咲かせた星詠みの少女、ユレイリア・ルルディは集った面々へ軽く頭を下げた。
「手短に、現在の状況を説明しますね」
神田郵便局に現れた新たな王権執行者『エレクトリック・マーメイド』
彼女は現在、王劍“縊匣”の欠片に精神を侵されている状態だ。
片目に刺さった王劍の欠片に自我を奪われ、混乱のまま“電子の泡”を生み出し続けている。
その泡は“√能力者だけ”を迎撃する仕掛けになっており、無闇に近付けば無傷では済まない。
ただ、能力者ではないAnkerならばその泡を掻い潜り彼女に近付くことが出来る。
また、王子様を求める彼女の心へ寄り添うように対話を試みれば、泡の迎撃も弱まるようだ。
いまの彼女には、目の前に現れた誰しもが“王子様”に視えてしまう。
そして、此方へと助けを求めてくるだろう。
その錯乱に合わせるように語りかければ、接触の糸口も掴める筈だ。
「彼女を正気に戻すために、どうぞよろしくお願いしますね」
――傷付いた人魚姫を、“静かな海”へと還すために。
第1章 ボス戦 『エレクトリック・マーメイド』
●
電子の泡が、淡い光を放ちながら揺れていた。
何処か泣いているような、哀しみに暮れるような、そんな海の光景が広がる。
クロック・ロックは胸の奥がざわつくのを押し込めながら、泡の境界に足を踏み入れた。
王子様――その概念は、自分にはまだよく判らない。
それでも目の前の人魚姫が苦しんでいるのは理解出来る。
助けを求めて、沈むように震えているのだ。
だから理由なんてどうでもよかった。
「――助けに来た、話を聞いて欲しいっす」
声をかけた瞬間、宙に浮かぶ泡がぱちりと弾け、クロックの頬を掠める。軽い傷み。
それでも構わず言葉を続ける。
「大丈夫、必ず破片を取り除くから……信じて欲しいっす」
人魚姫の眸に刺さった光の破片が、かすかに脈打った。
聲にならない叫びが、脳裡に響き渡る。
――タスケテ、と。
――王子様、と。
それが自分に向けられたものだと理解すると、胸の奥が少しだけ痛む。
「……俺も近づいていいっすか?」
負傷は覚悟の上、返事も期待していなかった。
ただ、泡の圧がほんの少しだけ緩んだような気がした。
なら、それで十分だ。
クロックは治療弾を指先で弾き、ふっと空中で砕いた。
やわらかな光が広がり、人魚姫の傍らに流れ込んでいく。
自分も同じ光に包まれる。
電子の海の冷たさが、少しだけ和らいだ。
「痛みに負けないで。必ず助かるから」
クロックの言葉は、不器用で真っ直ぐだった。
まるで海底に届く灯りのように、淡く、揺るがず、温かい。
泡がまたひとつ割れ、静寂な海へと戻るための道が開きはじめていた。
●
電子の海は、淡い青の残響を揺らしながら脈を打っていた。
その中心で震える人魚姫の姿を見つめ、弓槻・結希は胸の奥にひたりと冷たい痛みを覚える。
まるで――あの童話のようだった。
雪の女王の、心を凍らせる鏡の欠片。
刺さった者の心は冷え、歪み、愛するものさえ見失ってしまう。
それでも、あの物語では“涙”が欠片を溶かした。
ならば、この人魚姫にも救いが届くはずだと、結希は静かに息を整える。
「どうか、氷のように冷たく、闇のように惑わす欠片に心を染め抜かれないでください」
白花飾りし瑠璃色の杖を掲げ、周囲にふわりと白い焔が咲く。
雪の結晶のような光。柔らかく、触れれば溶けてしまいそうな。
それでも電子の泡の、刺すような冷たさを押し返す力があった。
「大切なものは、眼に映らなくてもそこにいるのです。あなたの心の、一番大事なところに」
人魚姫の眸に刺さった破片が、ぎらりと不穏な光を返した。
その奥で、誰かを呼ぶような聲――王子様、と。
失ったものを求めて泣き崩れそうな心が、ひしと伝わってくる。
結希は柔く眼を細め、穏やかに微笑む。
「嘆いても、悲しんでも……あなたの王子様は、あなたの心の傍にいます」
――だから、忘れないで。
それは幸せの薔薇のように、決して散らない場所に咲き誇っているのだから。
祈るような声。慰めるような焔。
そして、ふわりと花精霊たちが舞い降りる。
白炎と花の魔法が交わり、泡を一つずつ撃ち落としていく。
人魚姫の心が思い出を取り零さずに済むように。
狂気が温もりにほどける、そのわずかな時間を守るために。
電子の海の揺らぎが、ほんの少しだけ穏やかになった。
●
電子の泡が、淡い光を放ちながら漂っていた。
けれど 集真藍・命璃にとって、それは穏やかで幻想的な風景だった。
肌を刺す冷たさも、心を試すような圧も、彼女には届かない。
寧ろ、自分だけがこの海を素足で歩けることが胸を締めつけた。
痛いほど分かる。
助けてって叫びたいのに声が出ない苦しみも、
誰も来てくれなかった時の心が砕けるような孤独も。
だから、命璃は迷わなかった。
(大丈夫だよ、私みたいな思いをする誰かを、これ以上増やしたくないから!)
「だから、真っ直ぐにレッツゴー!」
泡を弾きながら駆け込むと、人魚姫が反射的に翠色の触手を閃かせる。
鋭い、痛ましいほどの叫びにも似た攻撃。
命璃は小さなハチェットを構え、その衝撃を正面から受け止めた。
「独りは……怖いよね。助けてって声が届かないかもって思うの、ほんと嫌だよね」
人魚姫の眸が揺れた。破片の奥で、幼い子供のように震えていた。
「王子様は来るよ! きっと大丈夫! ……なんて、簡単には言えないけどさ」
命璃はそっと手を伸ばした。
触れれば傷つくかもしれないけれど。けれど、触れなければ届かない。
「あのね、無力な私でも傍にいることはできるから」
指先が人魚姫に触れた瞬間、電子の海が静かに波打った。
「痛くても苦しくても、私が隣に居るよ。あなたの苦しみが、これ以上増えないように」
その言葉は、光よりも温かかった。
破片に覆われた心の奥へ、届いて欲しいと願うほどに。
「……私でも、誰かの王子様になれたかな?」
泡がひとつ、儚く弾けた。
まるで人魚の涙が、少しだけ軽くなったみたいに。
●
電子の海は青く燦めき、奇怪仕掛けの泡が幾千と漂っていた。
ドクター・トーマスはそれを見て、笑みを浮かべる。
「うちが王子様っちゅうんは無理があるかもしれへんけど……」
一呼吸置いて、トーマスはにやりと口角を上げ。
「……いや、男でもプリンセスになれる時代や。女でも王子様になれて当然やろ!」
電子の泡が弾け飛ぶ中、トーマスは迷わず前へ踏み出した。
小型端末『卯月』の電子戦術式が展開され、人魚姫が放つ狂気交じりの唄声が掻き消されてゆく。
穏やかな海に戻れと念じるように、道を作るように。
機械仕掛けの人魚姫は光の尾を震わせ、怯えたように後退った。
片目に刺さる欠片の痛みが、彼女の声をくぐもらせる。
トーマスはそんな人魚姫に向かって堂々と言い放つ。
「声の無い声やなんて、そんなん必要あらへん! アンタはちゃんと自分の声で、堂々と愛を紡げばええんや!」
その言葉に、電子の海がわずかに揺れる。
人魚姫の眸の奥に、失われた“自分自身”の色が一瞬だけ灯った気がした。
トーマスはさらに一歩踏み込む。
彼女の声は明るく、温かくて、真っ直ぐだった。
「大丈夫や、お姫様。アンタはひとりやあらへんで」
そう、こんなに大勢の人達が傷付いた人魚姫を助けようと集まっているのだから。
「好きな王子、選り取り見取りやで~!」
なんてな、と冗談めかした調子に、人魚姫の肩が小さく震える。
それが泣き笑いなのか、警戒なのか、判断はつかない。
けれど――周囲を取り巻く泡のいくつかが静かに消えたのは確かだ。
その変化だけで十分だった。
トーマスの言葉は確かに届いている。
人魚姫が再び“自分の海”へ還れるように、その道はもう開きはじめていた。
●
電子の海は深い夜のように静かで穏やかで、そして騒ついていた。
泡のひとつひとつが、誰かの怯えと呼応するようにひび割れ、淡い光を散らしている。
ツェイ・ユン・ルシャーガはそんな光景の中、ふと姿を現した。
彼の足取りは穏やかで、まるで海の底を散歩でもするような風情だ。
「何処からともなく現れる救いの手、まるで御伽噺のようじゃのう」
天色の眸が傷付いた人魚姫を見つめる。夢見る彼女を憐れむように。
「だが、案外……誰しもが待っておるものよ。お主も、そうであろう?」
人魚姫は身を震わせる。
片目に刺さった王劍の欠片が、彼女の痛みと恐怖と記憶をかき乱す。
電子の泡がぱちりと弾け、迎撃の気配がツェイに向かった――、
だが彼は眉ひとつ動かさず、その光を受け止める。
「多少打たれるくらい、構うまいわ」
霊的な防護がふわりと揺れ、泡の衝撃が吸い込まれるように消えてゆく。
ツェイは歩みを止めない。
一歩。
また一歩。
人魚姫に怯える暇も与えぬような、優しい速度で近付いていく。
「娘御よ。永く暗がりにおったのじゃろう。いつ抜け出せるとも知れぬ処で、ただ待つのは辛かったな」
電子の海を彷徨い、自分だけの王子様を探して。
どれだけの間そうしてきたのか、ツェイには知る由もないが。
「案ずるな。お主の声は確と届いた。こたえが返ってきておるならば、お主はもう独りではないさ」
ツェイは手のひらに白く灯る水中花を散らす。
希望と慰めの白く優しい花が咲き開き、人魚姫の視界をそっと照らす。
傷付いた片眸にも届くように、まるで帰り途を示す灯台の光のように。
「ほんの少しで良い。欲するものがあるのならば、お主も手を伸べて応えておくれ」
そうすれば、今ならすぐに届く。受け取れる手は此処にある。
電子の海が静まり、泡がひとつ、またひとつと沈んでゆく。
人魚姫は震える指先を、幽かにツェイへ向けた。
「ぬくい陽の下へおいで。王宮とはいかぬが……陽だまりくらいなら、共に行ける」
その声は、まるで海底に射し込む春陽のように、柔らかかった。
●
電子の海は、涙が溶けて消える場所だった。
哀しみも叫びも泡となって浮かび上がり、触れれば皮膚を斬り裂いた。
それでも、四之宮・榴はその中を進んでゆく。
執事服の黒に、泡の白が幽かに灯り、影を揺らす。
「……嗚呼、泣かないで。壊れないで。救いたいんだ、貴方様を」
一歩踏み出すたび、泡が弾けて鋭い痛みが走る。
裂けた肌はインビジブルとの融合でゆっくりと繋がるが、治癒の感触も癒やしではなく、ただ次の痛みを迎えるための準備でしか無い。
傷付きながら、それでも、榴は眉ひとつ動かさず前を向いた。
「僕が傷つくのは、構わない。これは貴方様の心の傷だ。背負わせて欲しい」
まるで海底に沈んだ神殿のように、泡の向こうに人魚姫が鎮座している。
藍色の髪も、透き通る身体も、今にも電子の海に消え入りそうな。
それでも、その眸だけは助けを求めて確かに揺れていた。
榴はその揺らぎから目を逸らさなかった。
たとえ傷つくほど眩しくても、そこから逃げる理由はなかった。
「……救われたい気持ち。僕も常に抱えているんだ。だから君をひとりにしたくない」
榴の細い身体が揺れるたび、傷が治り、また泡が弾けて新しい傷が刻まれていく。
触れられる距離まであと数歩。
榴は手を伸ばしながら、澄んだ声で囁く。
「……近くに行くよ。怖がらなくていい。僕は、君を壊さない」
許しを待つように、ひと呼吸。
人魚姫の眸に微かな光が灯った気がして、榴はそっと腕を伸ばす。
彼女の肩を抱きしめた瞬間感じた、まるで儚い結晶を抱いているようだと。
「大丈夫だよ。もう君を苦しめるものは、僕が全て取り除くから……だから泣かないで」
人魚姫の眸に刺さった電子の欠片へ、榴は唇を寄せる。
優しく、祈るように。
足元の泡が大きく弾け、榴の輪郭が一瞬ふわりと霞んだ。
自分の身体が泡と共に溶けていくような感覚。
「今だけは、僕が君の王子様になる。救いたいんだ。君は、救われていいんだよ」
人魚姫の眸に刺さった欠片が、涙と共に零れ落ちる。
そして彼女の身体は、榴の腕の中で電子の海に静かに溶けてゆく。
例え泡になっても、言葉は残る。
痛みを越えて紡いだ想いは、凪いだ海の底のように深く優しかった。
