⑮たりないことば
●たりないことば
剣は人魚の|眸《ひとみ》から引き抜かれ、けれども暴れることをやめなかった。再び動き出した欠片が選んだ|眼《まなこ》は、とろりとした飴色だった。
「ああもう! 痛いってば!!」
足りない、たりない、いちたりない。それが欲しくてたまらなくて、だけどきっと飽きてしまう。
過剰なほどの激痛は、|刺激《スパイス》というには強すぎた。だから、
「ちょうだいよ、それ」
お前の持ってる甘さと苦さとそれからなにかで、誤魔化すから。
ぶくりぶくりと、泡が浮き立つ。
●たりうるかけら
「神田郵便局で、|縊匣《くびりばこ》の欠片によって暴れている怪異が存在します。その撃破をお願いします」
星詠みである井碕・靜眞(蛙鳴・h03451)は、淡々と告げ資料を√能力者へと配る。王権執行者『エレクトリック・マーメイド』が消えたあとも、王劍『縊匣』の妄執は止まらない。瞳に突き刺さった縊匣の影響から、暴走する怪異が残っていた。
「皆さんにお願いしたい相手は人間災厄――妖怪イチタリナイ。冗談めいた名前だと思うかもしれませんが、単位から身体の部位まで、あらゆる他者の大切なものを一時的に欠落させる能力を持っています。獲得した欠落をキャンディにして味わい、飽きたら棄ててしまう――本来はそういった存在ですが、現在はとにかく激痛を獲得した欠落で誤魔化そうとするようですね」
能力者達の表情がわずかに曇るのを見て、男は頷く。
「お察しの通り、人魚姫の遺した電子の泡が存在します。それは√能力者だけを自動迎撃するもので、Ankerならば泡には攻撃されず、怪異も此方の対話に応じる可能性があるんですが……」
つまり、もしもAnkerが戦場に赴くのであれば危険度は計り知れない。√能力者とて、一時的と言えどなにかを欠落する可能性は十分にある。
「現場での判断は皆さんにお任せします。これ以上暴れられることがなければ、被害者が出なければ構いませんから」
カミガリは静かに告げて、わずかに目をそらす。
「これ以上、誰もなにかを喪う必要はないでしょうから」
第1章 ボス戦 『カタリィナ・李・一葉』
腹立たしさすら塗り替えるような烈しい痛みに悶える姿を眺め、桜庭・朧は咥えた煙草に火を点け直す。
「痛ェのか、そんなに」
ならば暫く付き合ってやろうと、静かに告げるカミガリを、人間災厄は苦々しく睨みつける。
「死にてェなら殺してやるから、他のやつに迷惑かけんのはやめろ」
「なんだよお前、えらっそうに……!」
途端。ぐらりぐらり、イチタリナイの足元が震える。突然の揺れに足がもつれたのは、朧による霊能。全身すべてを揺さぶるそれは吐き気を催すようなもので、眸に突き刺さった痛みを誤魔化せたろうか。
「くっそ、気持ち悪い! そんなのよりさぁもっといいの持ってんだろ!?」
甘い甘いロリポップ、ひどく唸るそれ。咥えた人間災厄は、はは、と小さく嗤った。
「――なんだ、イイの持ってんじゃん」
ふいに朧のなかから、熱が消えていく。ぐつぐつと煮えたぎるようなものではなく、まるで炭のなかに潜む種火。そんな|執着《残り火》が、喪われていくように思えて。
――桜庭・朧という刑事は、確かにこの世で死亡している。
噂話を冗談まじりに囁く余所者は、窓際部署で今日も部下の面倒を見ている彼の正体なんてどっちでも構わない。
かつての相棒が狂った理由、己が死んだ理由。そのふたつを探して、捜して、さがして、何年経った?
「僅かに手が届かないっつのは、歯痒いわなァ」
彼があんな出来事を起こすはずはなく、彼が目覚めたその時、自分自身を責めないために。
あいつの名誉のために、俺はまだあの世にいってる場合じゃねェ。
「死んでる場合じゃねェんだよ!」
火種が、燃える。ひどくからくてにがくて、火傷するほどに|あつい味《執着》がする。
「っ」
自分が味わわされているのは、男がまだこの世に留まらなくてはならない理由。顔を歪ませる人間災厄に、幽霊は静かに告げた。
「熱ィだろ、それだけが俺ン中で熱持ってんだよ」
「う、うるさい! こんなの要らない、もう棄ててやるから!!」
放るように飴玉を投げ捨てる直前、ふわりとやわい彩の燈火めいた護霊が舞う。
「飽きんな、馬鹿野郎」
護霊がそっとキャッチした飴玉を、カミガリは煙草の火を消し口のなかへ放る。
――ああ、苦い。熱い。これこそが。
「お前は死にてェのか、生きててェのか」
好きにさせてやるよ。そう告げた男に、人間災厄の飴色が見開かれる。
「何、言ってんの」
「生きててェなら、俺が付き合ってやるって言ってんだ。欲しくなったら、俺のモンならくれてやるから。これ以上周りに迷惑をかけるな」
苦しい生き方を、するな。
呼びかけた朧から人間災厄へと触れた燐子達は、劔の抜けない瞳をやわく癒す。
「……オジサン。あんたそういう優しさのせいで、死んだんじゃないの」
「うるせェよ」
東京の街の異様な騒めきに、ふと自室で静かに古書の頁をめくっていた老年は気づいた。
「……この空気」
懐かしいと思ったならば、どうやら厄介事が起きている。かつてはこの楽園で力を揮い、前線を駆け抜けていた不知火・豊。そんな彼の耳に、人間災厄の絶叫が震えた。
――今はしがない隠居の身、そんな自分が、なにをしてやれるのか。
「さて」
行くとするか、と立ち上がった豊の向かった先は郵便局。飴色の瞳に刺さった劔にもがく人間災厄がこちらを視る。
「ジジイ! なんでもいい、あんたのそれ寄越せよッ!!」
「生憎、わしのモノはあげられんよ」
だが、話をするだけならば付き合える。電子の泡はふわふわと宙を游ぐのみで、豊を攻撃しない。その違和で、彼が能力者ではないことに妖怪は気づく。
「お主は、満たされないものがあるようだね……わしも似たようなものを抱えておるよ」
これまでの長い人生、喪ったものはたくさんあった。別の世界を生きる知り合いの安否とて、能力を喪った今となっては確かめられずにいる。
そのことがもどかしく、唯一の心残り。
「お主が真に望むものはなんだね? その痛みが無くなるなら、満たされるものならば助力しよう」
やさしく穏やかに、まるで子や孫に呼びかけるように。そんな彼の寄り添う言葉が、人間災厄の苦しみに触れる。
「……足りない、足りないんだよ。だって、これじゃないんだ。全部、ちがうんだ」
泣きだしそうな震えた声色に、そうかそうか、と豊が相槌をうつ。
「自分でも、わからないのは苦しいじゃろう。それを考えることすら、痛みが邪魔をしている」
くちびるを噛んだ人間災厄がちいさく呟く。
たすけてよ、なんて。
それが聞こえた瞬間は、 屍累・廻とジェイド・ウェル・イオナ・ブロウクン・フラワーワークスも同じだった。
ルートブレイカーの金の眼が見通したならば、廻はちいさくため息をつく。
「人のモノを欲しがるとは、随分欲張りですね」
「でもま、虫歯より痛そうだし」
なんとかしてやろうよ、なんてジェイドは笑い、二人は現場へと急行する。そこに溢れていた電子の泡は、間違いなくこちらへの攻撃を優先していた。
「キャンディおいしい?」
人間爆弾の言葉に、怪異はひどく表情を歪ませる。次から次へと現れる激痛の代わりになりそうなものなら、なんだってよかったから。まるで友達に話しかけるような気楽さを見せるジェイドの背後、廻も警戒は怠らない。護衛装置と呼ぶにはちいさすぎる端末装置は起動され、準備は万端。
「そんなわけ、ないだろッ!!」
悲鳴にも近い怒りの声と共に、怪異の手からロリポップが放られる。けれど、新たに生み出されるはずの欠落の飴はどこからも現れない。どうして、と驚く様子の相手に、ジェイドは相も変わらず笑う。
「悪いね、先輩。こっちも無策じゃないんだ」
丁寧に編み出される通信網の破壊は、やがて巡りめぐった因果の果てにたどり着く。そうして、たった一度の行動だけは――今この瞬間、必定の失敗を得た。
「取っ掛かりには上々だろ? 優男先輩」
「――ええ、上々です」
瞬間、廻の右手が怪異へと向けられる。ホログラムかがやく羽根ペンが書き換えるのは、怪異の持つ欠落の能力の喪失。たとえわずかな時間と言えど、再定義された理から外れることは何人たりとも許されぬ。
吹きこぼれるようにこちらへまとわりつく泡を、絶望まみれの匣から飛び出す有象無象が弾く。その間も、ジェイドは怪異へと近づく歩みを止めはしない。
「なぁ、キャンディばっかだから飽きるんじゃないか?」
違うもんも食べたら。そう言ってひょいっと放り投げてやったのはシガレットチョコ。
「これとかおれのおすすめ」
「痛いんだって言ってんだろ……!」
へぇ、とジェイドの翠の双眸は笑んだまま。
「ならさ、おれのとっておきでも飲む? これ」
彼の飲み込んだ液体は、飲んだ人間に激痛への耐性を齎す。ばちりと攻撃を続ける泡の痛みも感じられはしない――まぁ、慣れていない者が飲めば、前後不覚になる可能性はあるけれど。
やがて、手の届く距離。理はまだ解かれぬままで、素早い摘出手術は行われる。白の手袋がえぐるのはその飴色、突き刺さった劔を一気に引きずり出す。
すぐさま廻がちいさな容器を投げ渡し、ジェイドが縊匣を仕舞いこむ。絶叫と共にその場に崩れ落ちた怪異は――やがて、よろよろと顔をあげた。
「……あれ、」
痛くない。もう、痛くなかった。
「|刺激《スパイス》の後の口直し、そのシガレットチョコが有効ですよ」
わずかに感じる師匠の気配に、仄聞奇譚は目を細めた。
痛みの原因を取り除かれた人間災厄が、ぐっと唇を噛みしめる。
「……今日はもう、いいや」
帰る。そう一言呟いて、能力者達を振り返りもせず消えていく。
なおも満たされることのない、欠落の味を抱えたまま。
