あきなしの彼は誰時
●
――この悲しみはいつまで続くのだろう。
「かぁ、」
|永遠《カラス》が鳴いていた。
まるで、誰かがそっと季節の歯車を抜き取ったかのように、彼女の世界から秋だけが滑り落ちてしまった。
右手が寂しくなった日も、柔らかな金色の風が吹いていた。落ち葉がさらさらと足元を撫でて、夕陽は淡い橙を街に落としていた。幸福の残り香がまだ肌に寄り添うような、僅かな温もりに縋り付きたくなるような、そんな秋の日だった。彼が空へ還ってしまった瞬間から、|季節《あき》は急速に薄まり、輪郭は失われ、気付けば掌から零れ落ちる水のように短くなってしまっていた。
春は爛漫と桜を咲かせ、夏は溌溂とした陽射しを惜しげもなく降らし、冬は静寂の帳を落として一年の終わりを告げるのに。秋だけが居ない。紅葉が色付き、散りゆくまでの刹那、――彼女が愛した季節は儚い影のように過ぎ去ってしまう。
秋こそがふたりの|季節《おもいで》だった。出会いも、寄り添った時間も、誕生日を祝った夜のぬくもりも。失われた命の瞬きさえも。そのすべてが秋色に染まっていたのに今や振り返る余白すら許されない。
どうして秋はこんなにも短いのか。
その問いは、泣き疲れて沈黙した心の底で、ひそやかな怒りへ、そして行き場のない恨みへ変わってゆく。
佇む彼女の隣に、いつからか影が息づいていた。
夜の端に潜むのは、妖の気配。
「また、|秋《きせつ》が終わってしまうのね」
冷たく甘い呟きは、彼女の胸の空洞に忍び込み、彼女の悲しみを舐め取るように震わせた。
やがて、世界は狂い出す。
いつまで、こんな苦しい思いをするのか。哀しい。寂しい。
いつまで喪った日々に縋っていれば、心は癒えるのだろうか。
●
「|烏《カラス》が鳴くと死体が増える、て聞いたことあらへん?」
不吉な物言いで口を開いたのは一・唯一(狂酔・h00345)。
盃には透明な酒がちゃぷりと揺れていた。
「まぁただの迷信やけど」
お供えものに寄って来るから。死臭を感じ取りやってくるから。
偶然が重なり、人々の悲しみに根強く結びついてしまったのが、烏の迷信。
自分のドッペルゲンガーを見たら危ない、とか。鏡が割れると良くない事が起きる、とか。100回しゃっくりをしたら死んでしまう、とか。そういった類と同じもの。
「せやけど、今回は本当に不吉で、かなしいお話」
年の瀬。
いい年だった、厭な年だった。いい事が多かった、悪い事ばかりだった。来年は、来年こそは――多くの願い事が思い浮かぶ頃だろう。年末を控え、残り数日で新しい年が来てしまう頃。
誰にも等しく平等に、無慈悲に時間は流れるし訪れる。
「√妖怪百鬼夜行にな、今はもう誰もおらん神社があるんやって」
小さな森の中、赤い鳥居の向こう。荒れた木々の奥に潜むのは、かつて人々の安寧を支えた神社だというが後継ぎがいなかったのだろう、誰も仕切る者がいなくなり廃れてしまった神社に住み着いたのは、黒い影。
気紛れだろうか。何を思っただろうか。縁結びとして有名だった神社だったからか。
ある女性がふらりと訪れ、巣食っていた怨天怪鳥に気に入られてしまったのだ。恨みを、怒りを、苦しみを|糧《えさ》にしている奴らにとっては最高の御馳走だったのだろう。
「……泣いても、どうしても、何も変わらへんのやけどね。それでも嘆いてまうよね、人間やから」
嗚呼、美しく愚かで儚く脆い彼女の後姿が目から離れない。
「良い新年のために、ちょっと|協力《ふういん》してくれへんかな?」
神社に辿り着くのが、少し大変かもしれへんけど、と言い忘れた事を思い出しながら、唯一は貴方たちの背中を見送った。
第1章 日常 『ゲーミングモミジ』
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神社を取り巻く小さな森。
冬の気配をまとい静けさを帯びた木々は常識を裏切り、無言を強制する。
凍て付くほど澄んだ空気、白くほどける吐息。開いた口は塞がらない。喉が冷えるまでに閉じましょう。
視界を埋め尽くすのは寂しい枯れ木でも、燃えるような紅ではなかった。
|紅葉《こうよう》に似て非なる発光する葉、――ゲーミングモミジである。
枝先から零れそうになるほど連なる葉を、赤、紫、青、緑と境界を失って瞬き続けていた。
光は内側から滲みだし、ぺっかぺっか艶を帯びて、夜を先取りした星屑が昼の森に降り積もったかのようである。木々の影さえ色彩に侵食され、幹の輪郭さえ曖昧。現実と仮想の縫い目がほどけてゆき、めまいがするほど頭をおかしくさせる。
足元の落葉さえもまた微かな光を残している。踏みしめれば反射が奔り、乾いた電子音めいたナニカが響き渡り森を騒がす。枝に居座る|烏《カラス》の黒が光の洪水を浴びて異質な気配を重ねている。
一鳴きさえすることなく佇む姿は、――たぶんあれ眩しくて失神してるんじゃないかな、って心配になるほどしかめっ面に見えた。目がしぱしぱしている。可哀想に。あれでは飛び立つことも難しそうだ。いやだってこんだけぺっかぺっかしていたら怪鳥といえど眩しいだろう。迷惑そうにしか見えない。
そして√能力者である貴方は、踏み入らなければならない。
この先にある神社へ行くために。
サングラスとか持っていくと良いと思う。
背後で星詠みが呟いた言葉を、貴方は思い出せるだろうか。
「情緒と雰囲気が、まるっと死んでいます、ね?」
この先に進まなければならない|現実《じじつ》に見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)は、ひとり立ち尽くしていた。
「サングラス持ってきててよかった……」
発光する秋、自己主張の暴力への対抗策。
彼女の黒いスーツ姿と武骨な黒いサングラスの組み合わせはあまりにも似合いすぎるが、職質一直線コースだ。せめて中和を、とパーティグッズコーナーで選んだのは星型。陽気さ溢れるファンキーなサングラス。
いやこれはこれで客観的にみると、胡散臭さは増すのだけど。
『カァ、カア』
何もかもを諦めたような烏の声が虚しく響く。
一緒に強く頑張ろうね、と七三子は胸の内で励ましを呟いた。そして意を決し、七三子はゲーミングモミジの森へ足を踏み入れる。
「まぶしい!!!」
即座に悲痛な叫びが木霊した。
「サイドから視界に入る光で目がくらむんですが!」
だってサイドはガラ空きだもの。そりゃそうだ。眩しいよね。常識と物理が手を取り合って彼女を苦しめる。
森に入る前は、なんとかなると思っていた。サングラスがほんの少しでも世界を和らげてくれると、七三子は信じていた。だが現実は無情である。目を開ける事さえ苦行。進む事も戻る事も容易ではなく、目を閉じて歩くのは危険しかない。僅かな視界を頼りに手探りで進もうとするが、――
「あいたぁ?!」
鈍い衝撃。
道をそれて木に抱き着く様にぶつかれば、サングラスは呆気なく宙を舞って地に落ちた。
さらに、ぺっかぺっか輝く葉が舞い落ち七三子の肩と頭に積もる。
神社はまだ遠い。
自然という秩序から追い出された異端の美を前に、狩々・十坐武郎(春霞の訪れ・h09497)は灯油を木の根に沿うように撒いてゆく。躊躇はない。着火剤に火をつけ投げ入れれば諸々解決するだろう。
そのはずだった。
「燃えねぇ!? なんで!? 火は万物をも燃やし尽くすんじゃないのか!?」
火はついた。なんなら熱いので十坐武郎は数歩下がる。
然しゲーミングモミジは焦げもしない。ぺっかぺっか何事もないように無邪気に輝き続けている。匂いだけ少し焦げ臭い。逆に何が燃えてるの??
――ゴホン(咳払い)
「ガソリンにしよう」
清々しい笑顔で何事もなかったことにしながら、十坐武郎は思考を切り替える。
これは神秘の領域に片足突っ込んだ存在かもしれない。ならば燃えないのも納得できる。
ならば力だ。物理だ。理屈が通じないのならば、腕力で解決すればいい。物は試し、何事も行動から。
「……抜けねぇ!!」
思い付きは即座に疲労という現実を突きつけて来た。
恐ろしい|子《き》。
いや、そもそも。これは本当に木なのだろうか。
ぺっかぺっか目が痛い。ゲーミングカラーに光る以外は普通の木だ。
もっとも、紅葉は光らないけれど。
多分、一応、きっと。木なんだろうな、と十坐武郎は考えるのを諦めた。
『カア』
どこかで烏が鳴いた。
応援だろうか。警戒だろうか。この状況を面白がっているのか。
それとも。
この眩しい異物を早くどうにかしてくれという懇願かもしれない。
とりあえず試すことに意味はある。次はガソリンだ。それと細めの木を探してもう一度引っこ抜いてみるのもいい。地道が大事だ。焦りは禁物。
十坐武郎のチャレンジは始まったばかりだ。
「目ぇ! 目ぇ焼けるっス!」
新鮮な悲鳴を繰り出した大茴香・蘆花(飢餓の青き獣・h09093)はぺっかぺっか点滅する色彩の暴力への対応策として目を手で覆う事を選んだ。
指の隙間から覗くか細い景色を頼りに一歩ずつ前へ進む。
ぴこーん、ぺこん、ぴこーん。
乾いた枯葉の砕ける音でも、小枝が折れる音でもない。
しかし蘆花の足元にあるのは、ぺっかぺっかと自己主張激しいモミジばかり。
ならば、この不可解な音の正体は、疑いようもなく。
「ひいっ」
謎の音が鳴る度、蘆花の身体は過剰なまでに跳ねた。
視界を削がれた異質な|秋《モミジ》の中、耳に届く不穏な音は恐怖しか伝えてこない。
「自分、ちっちゃい子の靴履いてるんじゃねぇんスよ!」
それでも前に進むしかない。だがしかし。いやほんと。眩しいし五月蠅い。なんならお腹も減った。恐怖と緊張により精神という名の燃料は確実に消費され続けているのだ。
ポケットを漁るが何もない。
ゲーミングモミジの森にまともな木の実があるとは思えない。
口に入れられそうなのは、ぺっかぺっかしている葉ぐらいだ。
「……美味しくないっす」
これ以上ひもじい思いをするくらいならば、と比較的おとなしい発光をしているモミジを手に取り口に運んでもしょもしょ咀嚼してみる。なんの変哲もない葉だ。ぺっかぺっかしている以外は。
もみじを天ぷらにして食す文化はある。
水で洗い、塩漬けにしてアクを抜き、ほのかに甘い衣をまとわせてさっくり揚げる、――だからこそ美味しいものになるのだ。だが蘆花が口に放り込んだのは、生の葉。調理どころか下処理さえしていない。美味しいわけがない。なんなら不味い。
さらに下がったテンションと満たされぬ腹を抑えながら、蘆花は先へ進む。
多分あっち、と首元に巻いた本体である青い石が反応する気がする方へ。
ぺっかぺっかと輝き続けるゲーミングモミジを前に、コウガミ・ルカ(解剖機関の飼い犬・h03932)は考え込んでいた。とても真面目に。
「……これ、見たこと、ない」
かつて眺めた図鑑の頁には何処にも無かった。
新種だろうか。
人間災厄である彼の知識の中にさえ当てはまらない|紅葉《いろ》。
人間の世界は難しいものが多いな、と思いながらルカは瞬きも忘れて紅葉を眺めていた。ゲーミングカラーへの初遭遇ではないが、こんなに自己主張激しい|紅葉《いろ》は初めてだったから。
――いや、人間の世界でも異質だと思う。
口を揃えて突っ込まれるはずだった正論は、純粋なルカの思考には入り込めなかったようだ。
「サングラス、持ってくればよかった」
ぽつりと零れた反省。もっともサングラスが何かをルカは知らない。
聞いたことのない単語だった。きっと何かに必要で、便利なものなのだろう。今度誰かに聞いてみようと思いながら、ルカは森へ足を踏み入れる。
複雑な色が混ざり合う空間は、以前遭遇したゲーミング生物とよく似ている。自分が知らないだけで、人間の世界にはこういうものが割とよく存在するのだろうか。否。あるわけがない。あってたまるか。人類の目が潰れてしまう。
常に薬物によって交感神経が優位に働いているルカにとって、このゲーミングモミジの影響は大きい。
「っ、……グルルル」
継続的なダメージが目の奥に刺さる。眉間に深い皺を刻みつつ目を細めて対抗してみるが、不快感は軽減されない。思わず漏れた唸り声に『カア』と烏の鳴き声が重なる。
「烏は……黒いんだな」
あれは染まらなかったのか。
視線の先、ぺっかぺっかと輝き続ける森にインクを撒いたような黒い染み。
この視界の暴力に満ちた色の中、救いのような黒。ずっと眺めていたい気もするが、周囲の光があまりにも激しく逆効果だった。
仕方なくルカは歩を進める。
行くしかないのだから。
なんなら|珍《おか》しいこの森を興味深そうに見まわし、黙々と監察さえ始めた。
危険があれば、すぐ対処できるように。
第2章 冒険 『誰そ彼、迷い路』
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憎らしいほど輝き続ける森を抜けた先、――赤い鳥居があるはずだった。
然し。
目の前に広がるのは薄闇に沈む|世界《みち》。
陽は地平の向こうへ溶け、|誰そ彼《たそがれ》刻が支配する迷い路。意識の輪郭は滲み、淡い時間だけが静かに貴方を引き留める。
『カア、カァ』
烏が鳴いている。
嗚呼、
|帰らないと《・・・・・》いけない。
貴方の思考に滑り込み、抗いようもなく胸を満たす、何かに駆られるような衝動。
帰ら ないと。
何処へ?
あの 家に。
もう こんな時間 だ から。
帰ら ないと、 いけ な い。
それ は きっと、|彼女《・・》の 願 い。
『カア――カア、カア』
烏が鳴く。いつまでそこにいるのか、と。
なんだか寂しくなる。哀しくなる。早く|あの人《・・・》の所へ帰らないと。
いつまでも待たせてはいけない。だってほら、黄昏の向こうで手を振っている。貴方を待っている。
「おかえり」
聞こえた声は、懐かしい色をしていた。
ふと、大茴香・蘆花(飢餓の青き獣・h09093)は足を止めた。
あんなに眩しくて目に毒だった森を抜けた先、夕闇が帳のように重く垂れさがり、唐突に視界を塞ぐ夜に驚いたから。
黄昏に染まった路は「帰ろう」と囁くように蘆花の足元を這う。執拗に彼女の意思を捻じ曲げようとする。胸の奥に滲む懐かしさは、やがて小さな棘のように蘆花の心を刺しはじめた。
だって、これは|蘆花《じぶん》の感情ではないのだから。
「……帰る場所なんてないじゃないッスか」
無意識に伸びた指先が、首元で揺れる青い石を強く掴む。名付けられぬ衝動が溢れ出す前に、喉元で押し殺してしまうように。その青は、かつて誰かに慈しまれていた宝石だったかもしれない。あるいは、誰かの哀しみが結晶化した涙だったものかもしれない。
気付いたときには、空腹だった。
満たされぬ|心《はら》を抱え、渇きの正体すら知らず、此処に|在《い》る。
蘆花は自身の本体を握りしめ、深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
『カア、カア』
烏が鳴く。
黒い影が空を咲き、蘆花に問いかけるように旋回する。
いつまでそこにいるのか、と。
早く帰れと促すように。
『おかえり』
声が聞こえた。
穏やかで優しい声音は確かに耳に覚えがあるようで、手を振る見知らぬ誰かは微笑んで蘆花を手招いている。夕闇の奥、その顔は良く見えない。
「帰らないッスよ」
呑み込まれてしまう前に。
迷い路の甘美な引力を断ち切るように、蘆花は歩幅を狭め、足早に進む。
自分は“帰らない”。
否。
帰れない。
だって、ここに自分の居場所はないと解っているから。
「お腹空いたッスーーーー!」
自らを鼓舞するように叫んで、蘆花は進み続けた。
「………ばーちゃん」
狩々・十坐武郎(春霞の訪れ・h09497)の足が不意に縫い止められた。零れそうになる涙をぐ、と堪え十坐武郎は拳を強く握る。
『おかえり』
嗚呼。
あまりにも鮮やかに響く声。
優しい微笑み。
皺の刻まれた優しい手。
何年も前、決して手の届かない場所へ旅立ってしまった祖母が、まるで昨日の続きのように十坐武郎を招いている。
「……ばーちゃん」
駆け寄りたかった。その腕の中へ飛び込みたかった。
「じーちゃんと元気でやってる? 喧嘩してない?」
再会出来ただろうか。
また賑やかな日々を過ごせていると良い。
「俺は元気だよ。カミガリになってさ、お巡りさんしてるよ」
視界が滲む。
祖母は変わらず微笑み、十坐武郎の帰りを待っている。
喪った人にもう一度会いたい――その願いを誰もが皆、心の底に隠している。それが現実として差し出されたとき、こんなにも|残酷《つらい》ことだとは思わなかった。
大丈夫。
耐えられる。
|あれ《・・》は本物じゃない。
『十坐武郎は泣き虫なだけで、ちゃんと前に進める子だ』
祖父と共に語ってくれた言葉が脳裏を過る。
信頼を裏切ってはいけない。
今の自分を誇らしいと思ってもらうために。
十坐武郎はほんの少しだけ後ずさる。
「……偽物でも、見せてくれてありがとう」
カァ、と何処かで烏が鳴いた。
本物か偽物か、なんて。
何年も十坐武郎を|慈しんで《そだてて》くれた人を見間違うわけがない。
惑わされるものか。
誘われてやるものか。
「ばーちゃん、またな!」
十坐武郎は背を向け駆け出した。
振り返らない。
振り返ったら、きっと戻れなくなるから。
大丈夫、まだ頑張れる。その言葉に手を引かれるように、背を押されるように。ただひたすら駆けて行った。
見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)が辿り着いたのは赤い鳥居ではなかった。見知らぬ路で七三子は小さく首を傾げる。どうしてこんなところにいるんだろう。何をしていたんだっけ。
『カァ、カア』
烏が鳴いている。
そうだ、|帰らないと《・・・・・》いけないんだった。
『おかえり』
「……よつは、ちゃん?」
薄闇の向こう側で|彼女《ともだち》が七三子を呼んでいた。
「無事、だったんですか?」
心臓がうるさい。
「|私のお家《悪の組織》がなくなったって、従弟から聞いて、心配だったんです」
無事を喜び駆け寄ろうとした七三子の服を誰かが掴む。
「?」
そこにいたのは|従姉《おねえちゃん》。
どうして私の服を掴んでいるの。
なんで首を横に振るの。
「よつはちゃん、呼んでます、行かないと」
|従姉《かのじょ》は離そうとしない。
「あれ……? |戦闘員さん達《みんな》、なんでそんな顔してるの?」
何かを伝えようと真剣な眼差しが七三子を射抜いていた。
七三子は従姉に視線を落とし、よつはを振り返り、そしてもう一度|かれら《戦闘員さん達》に視線を戻す。
嗚呼、私のせいだ。
『おかえり』
深く閉じた瞼の向こうで|彼女《よつは》の声が再び響く。
ごめんね。
私はまだ、そっちには行けない。
もう誰も七三子を引き留めていない。
黄昏に染まる路にただひとり、七三子は立っていた。
「赤い鳥居を、探さないといけないんです」
言い訳のように呟いた。
だって、|宣言《そう》しないと心が負けてしまいそうで。
「……ばいばい」
振り切る様に背を向けて、七三子は駆け出した。
『おかえり』
眩しすぎる路を抜けた先、なぜか立ち尽くしていたコウガミ・ルカ(解剖機関の飼い犬・h03932)は凛と響いた声に振り返る。
「?」
戸に身を預け、彼の帰りを待っていたかのような人影。
そこに居たのはルカの専属医。「帰らないと」という衝動が浮かぶ。不明瞭な感覚に抗えず、一歩、ルカの足が動きかけた。
「……|何処に《・・・》?」
ルカの問いに答えは帰って来ない。
機関以外に帰る場所なんてないのに。
無意識に動こうとする自分の足をルカは一瞥し、|専属医《かのじょ》を鋭い視線で射抜く。
「違う。お前、偽物」
はっきりとした拒絶を示す。
「お前のいうこと、聞かない」
グル、と|獣《のど》が鳴った。
警戒を露わにルカは後退る。
『おかえり』
違う。
あれは敵だ。
「……帰らない。命令、されてないから、まだ帰れない」
律儀に答えてしまうのは彼の|性《やさしさ》だが、|誘惑《こえ》に応えてはやらない。
早くおいで、と|専属医《かのじょ》が手招く。
それが決別の決定打。
「あの人は、急かしてこない」
焦らず、急かさず、いつも彼女は待ってくれる。
何も知らないルカを導くけれど、決して引っ張りはしない。ルカの意思を尊重し、時間をかけて、ひとつひとつ手渡してくれる人が、そんなことはしない。
だからこそ、ルカは背を向けた。
違う、と判っているのに。
それでもなお、心臓の奥がつっかえるような感覚が足を掴んでいるようで。
これが、サビシサというものなのか。
彼女を拒絶するように背を向けたことが、まるで悪い事のように感じる。
帰ったら聞いてみよう。
そう決めて疼く心に蓋をし、ルカは歩き始めた。
第3章 ボス戦 『怨天怪鳥『以津真天』』
●
迷い路を振り切り辿り着いたのは、名もなき普通の森。
然し。
そこには最早「日常」という言葉はなく。
夜が支配する|世界《もり》に映える赤が浮かび上がる。
まるで血を啜る様に鮮烈で、なにもかもを呑み込むように佇む赤い鳥居。
荒れた木々の奥、蔦と闇に埋もれるように神社はひっそりと佇んでいた。
かつては縁結びの神社として幾多の願いと祈りを受け止め、人々の人生を見守ってきた由緒ある場所だった。後継ぎなく廃れ放置されてしまった神社に残されているのは、不穏と不気味さだけ。
『カア、カアァ、カアー、カアァ』
夜の帳に溶け込みながら烏が鳴いた。
合図のようであり、警戒を含んだ鳴き声が森に響き渡る。
底の見えない闇が此方を見つめている。
恨みを、怒りを、苦しみを糧とする怪鳥の古妖。満たされぬ飢えを孕み、嘆きそのものを叫ぶように鳴き続けていた。怨恨、復讐心、嫉妬を際限なく増幅させ、死への恐怖を甘美な毒のように煽る怨天怪鳥の|歌声《なきごえ》。
愛する人を失った悲しみを抱えきれず、涙と共に崩れ落ちたひとりの女性の心。
その純粋な喪失感を喰らい、歪め、呑み込んで蘇った『以津真天』を封印しなければならない。誰の心にも潜む黒い部分を無遠慮に引き摺り出す古妖は野放しには出来ないのだ。
『ガァッ、ガア、ガッ、ガア、ガアァ、ガアア』
森は騒めき、けたたましさを増し、鳴き声はもはや警戒ではなく明確な敵意を帯びて広がってゆく。
――敵だ、
――敵だ、
ついに辿り着いた√能力者たちを覆うように、烏たちの羽搏きが天さえ埋め尽くす。
木々が軋み、影がうねり、空は黒く蠢いて、まるで森そのものが叫び声をあげたようだった。
ようやく辿り着いた赤い鳥居の向こう、烏の群れが大茴香・蘆花(飢餓の青き獣・h09093)を見下ろしていた。
「鳥肉ッスーー!」
迷い路をひたすら歩き、頭上から響く音にビビって精神をすり減らし、本体である青い石を握りしめて耐え抜いてきたのに。蘆花の思考回路は、一周回って空腹に辿り着いてしまったのだ。
即断即決。
懐に忍ばせていた剣を躊躇なく力任せにぶん投げれば、群れの中、油断していた一羽に命中。
「よし、食材確保ッス」
頭上では騒めきが増していた。そりゃそうだ。
『ガァッ、ガッ、ガア』
「はいはい、うるさいッスよー」
なんだこれ、骨しかないじゃないか、と蘆花はひとり愚痴る。
それが余計に烏たちの動揺を増幅させていった。
腹が減ってはなんとやら。満たされぬ腹を抱えたままでは、なにも出来ない。
運よく落ち葉の上に落下した烏を回収。
もぐー、と蘆花は羽根を毟って齧りついた。
「……うん、味はさておき」
問題はそこではない。
生肉だし、なんなら一応トリだけど。
そこら辺もまとめて【|青涙の喰療《セイルイノショクリョウ》】で回復するのかもしれない。
「恨むとか苦しみでひもじさはなくならないんスよ! 人間はそういう時でもお腹が空くように出来てるんス!」
最もな言い訳をしながら蘆花はもう一本の剣を手に取り、構えた。
「だって生きなきゃ、それができないんスから!」」
力強いセリフだが『カァ』と気の抜けた烏の鳴き声が返ってくるばかり。
たぶんドン引きしてる。
正しく蘆花も理解しているが、|撃退《ふういん》するまで、抗うために来たのだし。
「鳥肉食べ放題のこの状況で一番怖いの、たぶん自分っすね」
いやだからそっちのが怖いじゃん。
怨天怪鳥『以津真天』でさえそう思っているかもしれない。
「今度は空が黒くなったみたい」
夜を背負い聳え立つ赤い鳥居を前に、見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)は迷い路を抜けられた事に気付く。
黄昏を塗りつぶす|黒《よる》の中、蠢くのは烏たち。
目が眩むような1680万色よりだいぶ慣れ親しんだ色を前に、七三子は落ち着きを取り戻してゆく。
胸の奥に残る僅かな棘。|迷い路《あそこ》で手招いていたのは|彼女《よつは》であり、|本物《よつは》ではなかったけれど。それでも|再会《・・》の|余韻《トゲ》は心地良い。
「名誉回復、がんばります!」
けれど、|戦闘員さん《みんな》に恥ずかしいところを見せてしまったのも事実で。だからこそここはひとりで何とかして大丈夫なところを見せなければならない。
『ガァッ、ガア、ガアァ、ガッ』
敵意を孕んだ鳴き声が降ってくる。
怨天怪鳥『以津真天』が姿を現し、虚ろな眼が七三子を射抜いた。
腐臭を帯びた怪羽が舞い、呪いを撒き散らしながら夜に紛れて七三子を狙う。
「深追いせずに手数で攻めましょうか」
ただの下っ端戦闘員でも、たったひとりだからこそ出来るやり方で。
スーツに包まれた肢体が無駄のない滑らかな動きで闇を駆ける。地を蹴る音さえ残さず、怪羽・悲嘆飛翔が布を裂き肌に赤い線を残そうと、七三子が止まることはない。死角へ滑り込み、怪鳥が反応するより早く。
『ガァ、ガァッ』
たとえか弱い存在であろうと、一撃の積み重ねは、効く。
位置を変え、角度を変え、距離を詰んで蹴り込み、瞬く間に離脱するのを繰り返す。ただの革靴ではない。鉄板入りの重い打撃が怪鳥を少しずつ歪めていくのだ。
黒の中に混じる黒。まるで味方だったはずの夜に裏切られたように。烏たちが夜に身を潜めるのなら、七三子はその影を縫うように舞う。高く、低く、意識の外から現れ、消える。
一呼吸入れる為、七三子が烏たちの前に姿を現した。
少しずつ、されど確実に怨天怪鳥『以津真天』は追い詰めているのを確信し、彼女の口元に笑顔が咲く。
それは烏たちにとって、夜の終わりを告げる恐怖以外の何物でもなかった。
偽物とはいえ祖母との再会は礼を言いたくなるほど甘美な時間だった。それは否定のしようもない事実である。だが、あれは|危険《どく》だ。例えば心が弱っていた時なら、手招きに応じてしまったかもしれない――魅入られてしまった彼女のように。
だから。
「一心の迷いなくぶち殺す」
|元凶《きけん》は|撃退《ふういん》しなければならない。
決意を胸に、狩々・十坐武郎(春霞の訪れ・h09497)は赤い鳥居を潜る。
頭上では怨天怪鳥『以津真天』の虚ろな眼が十坐武郎を追う。うっかり視線を合わせれば魂を啄まれてしまいそうで、十坐武郎は気を付けながら奥へを足を進めていく。
森が騒めき、夜は色濃く黒に染まる。
然し。
羽搏く音も、警戒を報せる|不協和音《なきごえ》も、どこか遠い。
「耳栓持ってきて良かったわ」
気色悪い声など聞かずに済ませたい、と持参した耳栓の有難みを十坐武郎は実感していた。
『ガア、ガア、』
突如、|間近で《おおきく》響いた鳴き声に、十坐武郎は迷いなく銃口を向ける。
自らの名を冠した拳銃は良く手に馴染み|自分《JZR》の狙い通り、一番槍で突っ込んできた烏を撃ち抜いた。
「葬ってやるよ!」
弾切れになれば拳銃を仕舞い、十坐武郎は|宣言《・・》と共に烏たちの群れに突っ込んでゆく。
『ガァッ、ガア、ガアッ、ガァ』
真正面からサージタリアを手に斬り込んだ。重い一撃が夜を叩き、地を割る様に烏の骸を土に縫い止めた。次いで日本刀を引き抜き、手首を返して仕留め損ねた烏の首を刎ねる。血飛沫が花のように散り、黒に混じった。
反撃の姿勢を取り始めた烏の群れを前に、十坐武郎は身を低く居合の構えを取った。
「いつでも来い」
間合いに入れば、斬る。
その一閃は次なる一撃のための道となるのだから。
『ガァ、ガア、ガァ、ガァッ』
新たな√能力者の来訪に気付き、四方八方から降り注いだのは|敵意《なきごえ》。
「グルルル」
夜に染まった空を覆い尽くす、烏の群れ。
過剰に強化された聴覚を容赦なく刺激する不協和音に、コウガミ・ルカ(解剖機関の飼い犬・h03932)は鬱陶しげに眉根を寄せて低く唸る。
警戒には警戒を。
獣の気配に動揺するように騒めきが酷くなり、ルカの眉間の皺はより深くなった。
「……敵の数、多い」
木々の上、空の只中、森の隙間。
気配は何処にでも在る。
然し。所詮は|烏合《カラス》の|衆《群れ》。
数がものを言うのならば、ルカが|上《・》である。
怪異と新物質、劇物を混ぜて人の形に仕立てたツギハギの災厄の前では、群れという数字は意味を為さない。彼の身軽さを駆使すれば一羽ずつ葬ることも可能だ。それだけの技量と暴虐性をルカは併せ持っている。だが数の利は容易に崩れない。時間が経てば不利になる、――なんてことはないけれど。短時間で仕留めるに越したことはないだろう。
ならば。
一気に葬ってしまえばいい。
カチリ、と乾いた音が響いた。
烏たちは気付かない。もう手遅れである事に。
散らされ続ける同胞たち。既に群れは半減以上の被害を受けているというのに、増援の√能力者であるルカを取り囲み、先手を取らず、嘲笑うように警戒だけしていた時点で、詰んでいたのだと。
音の正体はルカの首輪。
小さなボタンが押し込まれ、怨霊系統の怪異から獲得した|新物質《ニューパワー》がルカの体内を巡りだす。それは不平等な痛みを強制的に転送する【|狩猟本能《シュリョウホンノウ》】の合図。
この瞬間、烏たちはルカと一蓮托生となった。
感覚を共有されたものに、逃れる術はない。
「死ぬのは、お前たちだけ」
怨天怪鳥『以津真天』が甲高い鳴き声をあげて騒ぎ立てるが、ルカの手に握られたナイフを止める術はなく。
嗚呼、本当に、手遅れだった。
躊躇なく刃の切っ先がルカの左胸に突き立てられた。肉を裂き、|生命の臓腑《しんぞう》を貫くナイフ。|すべての《・・・・》烏たちが一斉に動きを止めた。
正確に。無慈悲に。貫かれた命は鼓動を奪われる。見えぬ傷が、すべてを終わらせたのだ。
「思ったより、傷、深い?」
引き抜いたナイフを綺麗にしながら、ルカは小さく首を傾げる。
異常な速度で再生するとはいえ一瞬ではない。勢いよく刺したせいか、それとも。ひとまず落ち着くまで傷口を抑えているルカの前に、黒い|雨《しかばね》が降り出した。
どさり、と。
重く濡れた音が地に跳ねる。
『ガア、…………』
ひとつではない。幾重にも、幾重にも。重なる様に降って。怨天怪鳥『以津真天』の断末魔が不気味に重なり、消えてゆく。
――やがて、夜は穏やかさを取り戻した。
悲しみが、いつか静かな涙へと変わるように。
|永遠《カラス》の鳴き声は聞こえなくなった。