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夜会の招待状は、美しさの証
●
風が撫でる森の騒めき、揺れる水面に反射する光の煌めき、夜空を飾る星々。人の眼差しに浮かぶ刹那の羨望――“美”は形を持たぬまま世界のあらゆる場所に宿っている。
厭う者など、存在し得ないはずだ。
感性の違いや審美眼の差異はあれど“美”を称え欲する心は、誰の内にも等しく秘められているだろう。
「嗚呼、欲しい」
濡れ場色の闇に沈む、|御婦人《マダム》の愁いを帯びた声。
「美しい顔が欲しい」
彼女は求め続けている。新しい|顔《コレクション》を。
どれほど|集めて《奪って》も飢えは癒えない。
乾いた心が渇望するのは“|何《だれ》か”を想い、“|誰《なに》か”に見惚れるその顔――。
●
豪奢な金の枠に抱かれた、ひときわ大きな鏡が部屋の中心に置かれている。
それはまるで夢と現実の境を断つ門であり扉のようでもあった。
傍らには、視線を奪う鮮やかな色彩のドレスや磨き抜かれた靴が整然と並び、まるで貴族たちを迎える衣装店だ。
「好きなもの選んでってな。早い者勝ちや」
集まった√能力者たちを前に、星詠みである一・唯一(狂酔・h00345)はにっこりと微笑んだ。
「はいはい。んじゃ、説明するでー」
視線の交錯は困惑と疑念に塗れているが、唯一はその空気を軽やかに払い口を開く。
微笑みの裏側、言外に秘められた念が直接脳内に語り掛けてきそうだ――「いいから黙って聞け」と。
あ、だめだ。今日の|星詠み《コイツ》、またなんか変な事言うぞ。
「√ドラゴンファンタジーのとあるダンジョンが問題になりそうやねんけど」
それは日常の中に生まれる亀裂。珍しい案件ではないようだが、緊急性の高さはありそうだ。
「“美しいもの”好きの誰かさんが“顔”を探しとるんやって」
可憐な瞳から繰り出される愛くるしさ、凛と冷たい美貌の奥に潜む気高さ、凛と静謐を宿す横顔、あるは、清潔感を惜しげもなく溢れさせる目鼻立ちの整った相貌、髭や彫の深さが際立つ武骨さ――様々な“|美《かお》”という完成品。
とある|御婦人《マダム》は夜ごと舞踏会を催し、気に入った“|顔《コレクション》”を連れ去ってしまう。ひとたび彼女の目に留まってしまえば、二度とその“|美《だれか》”は陽の下へ帰れない。
「……うん?」
え? 説明終わりなの? これで?
「あ、あれか」
唯一がぽんっと手を打つ。
「ダンジョンに辿り着くためには薔薇の迷路を|通らん《クリア》といかんのやけど。どうやらお嬢様口調やないと叩き出されるみたいなんよ。せやからほら、形から入ったらどうか思て。……あ、サイズはちゃんとたくさんあるで!」
棘と罠が潜む薔薇の迷路。|選ばれし言葉《お嬢様口調》を使わなければ、叩き出されてしまうらしい。
通り抜けた先にあるのは、中世の夜を再現したかのような城。
ダンジョンの一角に発生したホールで行われている仮面舞踏会が、|黒幕《マダム》の待ち受けている場所へ行くための手段だ。デビュタントを祝う|令嬢《・・》だけの舞踏会。|御婦人《マダム》が認めた者だけに招待状が届くらしい。
「美しい人やないと、|御婦人《マダム》に選ばれへんらしいから。皆がんばってな?」
それは永遠に満たされぬ“|美《こころ》”への狂気をなぞる追走。
数あるダンジョンの中でも被害の予想が詠まれてしまった以上、放っておくことは出来ない。少しでも早く乗り込み攻略する必要はある。
ドレスと靴、そして仮面を選んだ√能力者たちは星詠みに背を押され、まるで物語の主人公になるべくデビュタントへの道を歩み出したのだった。
どうしてこうなった?
これまでのお話
第1章 冒険 『お嬢様口調じゃないと叩き出されるダンジョ』
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深紅の薔薇が咲き乱れ、燃えるような波となって迷路を彩っていた。
情熱的な色彩の中、陽だまりのような黄色や雪解けのような白い薔薇も点在し、迷路に足を踏み入れた者の目と心を惑わすようで。
生け垣は城壁のように高く、飛び越えるにはあまりにも無謀な高さであった。
「ようこそお越しくださいました、|お嬢様《・・・》」
古い肖像画から抜け出して来たかのような老執事が、恭しく貴方に頭を垂れた。
銀糸を編んだ髪、皺ひとつまで計算された微笑みを称えながら迷路へ続く入り口の扉に手を添える。
「こちらの庭園には、|由緒正しき装いの定め《ドレスコード》がございます」
ドレスを纏っていること。優雅であるために。
踵にはヒールを添えること。裸足は品位を損なうと見做されるでしょう。
勿論、他の装いに着替えるなど以ての外だ。
|令嬢《・・》として相応しい振る舞いを貫かなければならない。
この迷路は試練なのだ。姿形だけではなく心までもが試される。
|真の美《うつくしさ》を見定められる場所だった。
「何卒、粗相のなきよう、お願い申し上げます」
変わらず穏やかな声音に添えた老執事の視線には、刃のような光が一閃。
まるで眼差しひとつで品位の在処を見通してしまうような鋭さがあった。
傍らでパカリ、と軽やかな音。
白銀の夢を具現化したような|幻想獣《ユニコーン》が佇んでいた。
――えっ、あんな角で突っつかれたら死なない??
「|くれぐれも《・・・・・》気を付けてお進みくださいませ」
その一言と共に扉がゆるりと開かれてゆく。
甘く酩酊を誘うような薔薇の香りが風に混じり、貴方たちを誘うだろう。
幻想と優雅、なんかよくわからない試練が、いま幕を開ける。
森の静寂を映したような翡翠色のドレスを纏ったクラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は、低めとはいえヒールに苦戦していた。額や指先には緊張が現れ、もうありとあらゆることが慣れなくてどうしようもない。ボロを出さないように集中するほど、転びそうになって裾が乱れる。
「慣れないとは思いますけれど、落ち着いて参りましょう――イーザリーお嬢様」
支えるように添えられた手は、青のドレスに身を包んだジェイド・ウェル・イオナ・ブロウクン・フラワーワークス(笑おうぜ・h07990)のものだった。深海のようなグラデーションが波打ち、絹の光沢が立ち姿を気高く演出する。同じく低めのヒールを選んだことで安定感と品位を損なわない優雅な身のこなしである。
「ごきげんよう、皆様。さ、イーザリーお嬢様も」
「……ごきげんよう」
老執事の探るような視線と|幻想獣《ユニコーン》の鋭い眼差しに迎えられつつ、ジェイドは背筋を伸ばして顎を引き、右足を左足の後方へ添えて膝を曲げての一礼。流れるような美しい|挨拶《カテーシー》だった。
「……なんでこんなに慣れてるの?」
クラウスの呟きに、ジェイドは柔らかく微笑んだままだ。
「愛らしいでしょう?」
笑みを崩さず、ジェイドは老執事へと言葉を投げる。クラウスへ向けられていた鋭い眼差しを引き寄せるために。
「まだこういう場には不慣れで緊張なさっておいでですのよ。少々のことはお目こぼしくださいまし」
やんわりとした声音に含まれる誠意が空気を和らげ、|状況《しっぱい》に気付いたクラウスも必死に言葉を探しながら頭を下げる。
「まだその、不慣れで……いえ、不慣れでして。ご容赦いただけますと、嬉しい、ですわ」
迂闊に喋らないほうが良いのだろうが、控えめな言葉と見様見真似のしなやかな礼の形に老執事の瞳からは棘がひらりと解け落ちていった。
「お手をこちらへ、お嬢様」
「ありがとうございます、ジェイドお姉様」
ジェイドのフォローに導かれ、クラウスは一歩を踏み出す。
「この迷路は決して難解な造りではございません。道行く折には、咲き誇る薔薇の美しさをお楽しみくださいませ」
老執事は恭しく頭を下げ二人を見送る。やがて、扉は音もなく閉じられたが、気を抜くことは許されない――咲き誇る薔薇たちが、まるで老執事の|視線《かんし》のごとく二人を|見つめて《・・・・》いるからだ。
「何より楽しむあなたの微笑みが美しいことを存しておりますわ、イーザリーお嬢様」
ジェイドの手のぬくもりが確かにクラウスの胸へ伝わる。
優雅さとは何か。
装いではなく、心から滲み出るものかもしれない。
粗相がないよう気を付ける事は|最低限《だいじ》かもしれないが、楽しむ心がなければ何事もうまくはいかないのだ。
「ふふ、緑の|お召し物《ドレス》、とても素敵ですわ」
「ジェイドお姉様も、素敵なドレス、ですわ」
いつもの笑みを取り戻したクラウスは、ジェイドの|先導《エスコート》に身を委ねながら、香り立つ薔薇の迷宮へと静かに足取りを重ねていった。
「さて、参りましょうか」
庭園に新たな|令嬢《・・》が降り立つ。各務・鏡(自称写真機の付喪神・h09413)は闇を濃く溶かし込んだような夜色のドレスを纏っていた。裾は過剰に広がる事無く流麗な線を描き、控えめなヒールは歩みの妨げとならず優雅さを損なわせない。
装いは華やかさではなく控えめな化粧と相まって気品のある雰囲気を醸し出している。男の肢体であったはずが、今はしなやかに、|女性《・・》の柔らかさへと変化していた。付喪神が人の身を得たのだ。性の境界線は容易く乗り越えられる。
「意外とみんなカラフルなんだね」
デビュタントと言えば白が通例であるように思えるが、今回はそういった|規則《ドレスコード》はない。ただ|令嬢らしく《・・・・・》あれば良い。だからといって、鏡の黒が浮くことはない。影が寄り添うように、静かにその存在は溶け込んでいた。
「ようこそお越しくださいました」
老執事が鏡の元へ歩み寄り、深く|頭《こうべ》を垂れながら出迎えた。
この先にあるのは、令嬢たちのための舞台。ただの社交場ではない。デビュタントという名の仮初の|楽園《パーティ》。
「足元に気を付けてお進みください」
開かれた扉の向こう側、燃えるような赤と雪のような白が垣間見える新緑の迷路。
薄く微笑んでその傍らを居り、鏡は薔薇の香りに包まれる。
迷路を形作る生け垣は広めの箇所もあれば、ふくらみのあるドレスだと難儀しそうな狭さも併せ持つ。やはり男の体で選んだドレスじゃなくてよかった、と鏡は思う。勢いで通れない事もなさそうだが、そうすると優雅さを欠いて|幻想獣《ユニコーン》の角が飛んできそうである。
「……なんか、落ち着くな」
ぽつりと零れた鏡の呟き。
やはり『箱入り』の身である鏡にとって、性差を乗り越えた装いをしても、仮面を被るように普段とは違う優雅さを演じていても、これくらい狭い道のほうが落ち着くのは変わらないらしい。
行き止まりではないのだから外れの道でもないだろう、と鏡はのんびりと進んで行くことにした。
不思議の帳の奥に佇む八百万屋の仕入れの為、赴いた不思議のダンジョン。
目・魄(❄️・h00181)は令嬢たちの中に紛れ込んでいたが、さすがに彼の扱う品物の中に『顔』はないが、それでも興味が向いてしまったのだから仕方がない。
「お邪魔いたします」
深い森の木漏れ日を思わせる緑のドレスを纏い、影のような黒いヒールを忍ばせて。控えめながらも確かな存在感を醸し出す琥珀の耳飾りが、月明りを集めたようにキラリと揺れる。黒い手袋の包まれた指先がドレスの裾を摘み、礼の形をとった。
母に着飾らせられた経験のおかげで、見た目を整える事に苦労はなかった。己を魅せる術を、魄は十分に|解《し》っている。
毅然と背を正し、流麗な歩み。思い浮かべる母の後ろ姿をなぞれば良いだけだった。
「よろしくて?」
魄は薔薇の迷路へ通じる入り口を管理する老執事へ声をかけた。
「どうぞ、薔薇の美しさをごゆるりとご堪能くださいませ」
腰を折り頭を垂れる老執事に見送られ、魄は薔薇の香りが満ちる迷路へ足を踏み入れた。
咲き乱れる薔薇の園。静謐と気高さを孕み、同時にそれは薄ら寒い恐怖さえ抱かせる。
「あら」
芝を踏むヒールの音が、やけに大きく聞こえた。
ただ一歩、されど一歩。
ほんの少しだけ大股で踏み出してしまったせいだ。
瞬間、薔薇の気配が変わった。ひとひらの赤はまるで意志を持ったかのように魄を見つめている。
然し、彼のせいだろうか。
この迷路は|令嬢たち《√能力者》を試す場所。優雅さが本物か、薄皮の仮面を剥がそうとしたのだろう――道を塞ぐように伸びた蔦。転ばずに済んだのは魄の体幹と勘の良さ、そして彼の|配下妖怪《すねこすり》が齧って切れやすくしたからかもしれない。
「邪魔する悪い子は踏んでしまっても仕方ありませんね」
囁くような、然し冷ややかな言葉。今度こそ魄はわざと蔦を踏んだ。
「邪魔だけはよろしくなくってよ」
氷を滑らせたような声音が薔薇の間を静かに這う。黒い手袋越しに指先が薔薇の花弁をなぞる。優し気な手付きに反し、込められた力は強い。
まるで微笑む女王のごとく、優美にして容赦なく。
魄の進む道は二度と彼を阻む事はなかった。
「……成程?」
星詠みの案内を受け、ノイル・リースロス(|闇に揺蕩い影に詠う《ニュイ・エ・ノワール》・h08142)はコテンと首を傾げた。夜の帳が白む瞬間を溶かした髪がさらりと肩口を滑り落ちた。
お嬢様、とは。はて。知人を思い浮かべ、演じてみるしかないだろうか。
「やったーノイルサンと一緒の仕事や! ……ってお嬢様? 俺も?」
アストラガルス・シニクス・グリーヴァ(|戦場駆ける銀蓮華《トリガ・ハッピィ》・h09567)も同じようにコテンと首を傾げた。癖のある銀色の髪がふわりと揺れ、光を受けて煌めいた。
「まあやるだけやってみますわ」
「アスト、それは叙述トリックの奴では?」
有名な返しにノイルは思わず反射的に突っ込んでしまった。
数多のドレスが並ぶ中、ノイルが選んだのは黒。普段の装いに近く落ち着く色だ。夜空のような深い光沢を持つ生地は滑らかで触り心地が良い。海を閉じ込めたような青い宝石の装飾は控えめながら、光を受ければ星のように瞬くだろう。
一方、アストラガルスが手に取ったのは淡いグレー。自身の髪色に合うし、鍛え上げられた長躯も無理なく収まりそうである。試着してみれば滑らかな傷は肌に寄り添い、肉体美を過剰に主張することなく引き立てるように流れるので、悪くないチョイスだろう。燃えるような赤を閉じ込めた差し色は鮮烈で、こちらも瞳の色と揃いのおかげか、まるでオーダーメイドのようなドレスであった。
互いに似通った色合いだが、対照的な差し色。隣に並べば引き立て合う不思議な調和を生み出すようだった。
「凄いね。2mのお嬢様だ」
10cmのヒールを履いてなお、ノイルの視線はアスドラガルスの肩口にも届かない。対して出来るだけ高さのないヒールを選んだアストラガルスの素が既に2mに達しているのだから仕方ない。
「……コレ、俺ほんと大丈夫です?」
「大丈夫、綺麗だよ」
根拠はないがドレスとヒールが|必須《ドレスコード》である以上、ノイルの言葉を信じるほかないのだ。
意を決して迷路に挑むアスドラガルスの横で、ノイルは陽差しを遮るように日傘を広げる。
「それでは行きましょうか、アスト」
「はぁい、ノイルサン」
大丈夫だと言われたが、本当にそうだろうか。
他の|令嬢《√能力者》たちの視線は気にならない。なんなら此方も気にしない。
「ようこそ、おいでくださいました」
然し。
老執事の視線は鋭くアスドラガルスに注がれていた。
戦場では想定外の状況にも対応できるよう訓練を重ねてきた彼にとって、ドレスもヒールも一種の訓練だ。布を重ねたドレスでも普段履くことのないヒールでも対応できている。だが、ただ歩ければ|合格《いい》というわけではないのが、この場の難しさだった。
「俺コレでほんまに|大丈夫《うつくしい》です?」
耐えきれず、こそこそとノイルに耳打ちするアスドラガルス。
老執事の眼差しがあまりにも厳しすぎて。
ノイルは黙ってにっこり微笑んだ。
どっちだ、その笑顔の理由は。
「何卒――|くれぐれ《・・・・》も気を付けてお進みください」
薔薇の迷路に通じる扉が開かれ、そして閉じられる。
ここから先が|本番《・・》なのだ。
ノイルの足取りは軽やかに、履きなれたヒールは普段通りの所作を損なわせない。
「ふふ、蝶々に導かれる薔薇の迷路、素敵じゃない?」
ふわり、ひらり。蝶を模した淡い光が空を舞い、揺らめきながら行き先を示すように飛んでゆく。
「薔薇の香りが濃すぎて、上手く鼻が利きませんわ」
警戒しつつノイルの後ろを歩くアスドラガルスだが、正解の路を探れない。噎せ返るほどの薔薇の香りに思考を遮られるし、なんならいまだに視線が刺さる。気付けば多少の距離を開けて|幻想獣《ユニコーン》が後ろをついてきている。
監視役だったのか、やっぱ、あれ。
ぐぬ、とアスドラガルスは索敵を諦め、|歩き方《優雅さ》に意識を向ける。
「あ、足音殺す歩行術やと大人しそうに見えるわ」
背筋を伸ばし上体をまっすぐ保ちながら、足裏全体で芝を踏む様に着地する。ヒールのぐらつきは体幹でカバー。前のめりにもならず音も少ない。その結果として生まれる所作が自然と美しいものであることに気付き、アスドラガルスは、これは、と確信した。
気付けば|監視役《ユニコーン》の姿も見えない。不合格で角でぶすり、は回避出来たようだった。
楚々として迷路を抜けるしかないのだろう。
気を抜くことは出来ない。
「特に敵が出るとは聞いていないから、優雅に美しく此の迷路を抜けられればそれで良いのかしらね」
|監視《・・》の気配は、消えていないのだから。
ノイルとアスドラガルスの令嬢散歩は始まったばかりである。
「オジョウサマの|真似《RP》は大変だけど、潜入するのは面白そう!」
丹生・羽威(夜に噎ぶ・h07401)は星詠みの案内を受け、そんなダンジョンもあるんだと好奇心に任せて薔薇の迷路へ足を運ぶことにした。
なにより「楽しそう」と思ってしまった。ならばもう止められるはずもない。
「それっぽければ大丈夫だよね?」
|準備《ドレスコード》は必須らしい。
用意されていたドレスの海を羽威の小鳥のように軽やかに、舞台裏を駆け回る様に泳いでいく。これもいい、あれも捨てがたい、彼女の気紛れは風のように映ろうが、ふと視線の先に留まったものがあり急停止。くるりと踵を返した。
「うん、これがいいかなぁ」
それは今の気分にちょうど合うもの。手に取ったドレスを覚えるように視線でなぞる。鏡の前に立ち、着ている姿を想像するように角度を変えたりもして、やがて羽威はドレスを戻した。
だって、彼女にはもう必要がないから。
「じゃあ早速」
彼女の纏う“変幻妖衣”――妖力で|具現化《編んだ》衣服は外形や質感まで自在に真似ることが出来る。こういう時に便利な代物だ。なんたってサイズを気にしなくて済むのだから。
素肌に淡く溶けるシャンパンベージュのドレス。白い肌に馴染むように引き立て、曖昧な境界は妖艶さを醸す。露わになった肩には淡いラベンダー色のショールを重ねて奥ゆかしさを添えた。艶やかな黒髪と緑のインナーカラーが映えるような色使い。
細い腰に絡むドレスのリボンを緩めに結べば完成。
ふんわり、ふわふわ、広がる裾は歩く度に風に撫でられるように揺れて、まるで羽根のようだ。パールの飾りも光のしずくのように揺れる。
足元を飾るヒールは普段履く下駄と似た高さのおかげで、芝の感触も変わらず歩みに違和感はない。
「まずは傍の一角獣に挨拶……するものかなぁ??」
前庭に足を踏み入れるとまず目が合ったのは|幻想獣《ユニコーン》。神話を抜け出した存在は品定めのように|令嬢《・・》たちを見渡していた。
「いやフツーの動物にはしないハズだけど、うーん……分かんないからやっちゃえ!」
無視するのも気持ち悪いし、と羽威は近付いて行く。
「ご機嫌よう、美しい一角獣のかた。わたくし、羽威と申しますわ」
柔らかい微笑みを添えて腰を折っての一礼。
顔を上げれば暫し見つめ合う謎の時間、――の後、|幻想獣《ユニコーン》も同じく礼を返すように頭を下げた。
「この庭園は初めて訪れたので、道に詳しくありませんの。ご案内して下さるかしら?」
羽威の言葉に応じて、彼女を|先導《エスコート》するようにユニコーンは老執事の元へ連れてゆく。
「これはこれは。道中、冷えますゆえ――お召しものをお忘れなく。いってらっしゃいませ」
ショールが風に乱された瞬間を見逃さず、老執事は温かな視線と言葉を投げながら薔薇の迷路に続く扉を開いた。
ここまでくれば、あとはただ美しく歩くだけ。
「ありがとう」
優雅にふるまう羽威を、|幻想獣《ユニコーン》が正解の方へ誘うのだった。
「だめだ、――最後まで投げ出さずにやるんだろう?」
重たく沈む空気の中、ルスラン・ドラグノフ(лезгинка・h05808)は呟いた。まるで自身に言い聞かせるような台詞は、覚悟とも諦めともつかぬ硬質な響きを孕んでいる。
星詠みの案内を受け取り此処まで来たのは、他ならぬ自分で。
それが好奇心に駆られた一歩だったとしても、もはや引き返すことは出来ない。
大切なのは、覚悟だ。
このダンジョンを放置すれば、“|顔《いのち》”を奪われる罪無き|令嬢《だれか》が生まれてしまう。
もし、それが妹だったなら。活発で無邪気な瞳が不幸に濡れてしまったならば、――きっと後悔する。想像しただけで胸が痛むほどに。
然し。
嗚呼。
「……もう帰りたい」
ルスランは後悔の念で溺れていた。
それでも、泣き言は許されない。
だってもう着ちゃったし。鏡は見れない。見たくなかった。
ひときわ鮮やかなストロベリーカラーのヒール。
シンプルで落ち着いた色合いもあったが、サイズが合わなかったり歩くのも困難だったり、なんなら立てないレベルのものもあった。可能な限り低く、加えて足のサイズに合うものを選んでいたら時間ばかりが無為に過ぎてしまっていた。
ようやく「次はドレスを、」と振り返ったときには、すでに選択肢の幅は狭かったのだ。
ヒールの色と合うもので、サイズ的にちょうど良いものを。ひらひらフリフリ。残されたのは甘さ弾けるピンクゴールドのドレスしかなかった。いや綺麗だけど。可愛いとは思う。
例えば妹が着るとか。友人の女性が着るなら、無条件で拍手してあげたいくらいに。
だが、これを着るのは男だ。――なんならルスランが着るもので。
女装ではなく、|場の規範《ドレスコード》だから仕方ないのだけれど。
とりあえず、眼鏡は外しておこう。合わないので。
やけっぱちに握られた拳がひとつ、ぐっと空を叩いた。
「さぁ、行きますわよ!」
声が上ずる。御愛嬌の一つとして聞き逃して欲しい。
薔薇の迷路に続く前庭に足を踏み入れたルスランの心は、どこがひとつ壁の中に在るのだから。あるいは殻を破ったのかもしれない。
「行って参りますわ」
出迎えてくれた老執事へにこやかに微笑み、礼を尽くす。
淑やかに、優雅に。妹の礼儀作法の授業風景を覚えていたことが、まさかこんなところで役立つとは。
「どうぞ、薔薇を心ゆくまでお楽しみくださいませ」
老執事はルスランのぎこちなさを「初々しさ」と受け取り、柔らかな態度で扉を開けてくれた。
「……あいつ、結構努力してたんだな」
ぽつりと零れた言葉。誰に向けたわけでもない小さな独白は、そよ風が攫ってゆく。
「うふふ、薔薇が美しく咲いていますわ~」
芝居じみた台詞ではあったが、足取りは軽やかになっていた。開き直ったというべきか、余裕が出て来たともいうか。
ルスランは薔薇の香りに包まれながら、穏やかな気持ちで奥へ進んで行った。
「ドレスがこんなに並んでいると壮観ね」
アナスタシア・ケイ・ラザフォード(悪夢のメイド・h05272)の目が静かに細められ、微かな感嘆が漏れた。光沢を持つサテン、花弁のように重ねられふわりと揺れるチュール、薄絹のように繊細なレース。壁面に咲き誇る衣装たちは個性を宿しながらも、選ばれることを粛々と待ちわびている。
「衣装は貸していただけるんですよね? アナさん、同じ色着ましょう、お揃い!」
声を弾ませたのは見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)だ。
そわそわしてしまうのも致し方ない。普段こんなドレスの海を泳げる機会などないに等しいのだから。可愛らしいもの、美しいもの。見ているだけでも楽しいが、まるで夜の湖面に光を沈めたような一着を見つけ、その深い紺色に七三子は指を伸ばした。静謐を編んだ青銀の刺繍が裾を彩り、光を受けて煌めいていた。
「この夜みたいな色のサテンのがアナさんに似合うと思うんです!」
七三子の声に呼ばれ、アナスタシアが寄ってくる。選ばれた一着を眺め、同意するように微笑む。
「そうね、パニエよりクリノリンで中で尾鰭を動かせるようにしたほうがいいわね」
職業柄こうした装いには精通しているアナスタシアにとって、必要なのは美と機能性。豪奢さやあくまで表の顔であり、内に潜む自由を孕んだ構造が真価なのだ。
中世のドレスらしくふんわりと揺れる装いも美しかろうが、如何せん動きづらいのも事実。なにより腰から揺れるシャチの尾が思わぬ悪戯を引き起こしそうである。
「私、パニエので。ヒールもデザインも、それっぽければいいかな」
「――七三子にはきっとこれが似合うわ」
今度はアナスタシアが七三子を呼ぶ。その手には真珠を溶かし縫い込んだような光沢を隠し持つブラックサテン。深紅のベルベットと金細工の刺繍が施され、夜に寄り添う月のようなドレス。
ふわふわ動くシルエットは妖艶な夜の海によく映えるだろう。まるで揃いのような仕立を見つけ、七三子は嬉しそうに笑った。
「それにします!」
ふたりで試着して見せあえば、予想通り、理想通りの姿である。
「あ、あの、髪の毛もアレンジさせてもらっちゃダメですか?」
「あら、髪のアレンジがしたいの?いいわよ。好きにして」
「えへへ、やった!」
深海に浮かぶ光の粒のような真珠を散りばめて結い上げれば、笑った時のギザ歯がギャップの令嬢が完成した。
「私もやってあげる」
「え、いいんですか!」
夜に差し込む光の一筋を編む様にドレスに合わせた金のリボンで三つ編みして、くるりと丸めれば愛らしく強かさを秘めた令嬢の完成である。
「アナさん、とってもドレスがお似合いですわ」
鏡で確認し合い、けれど視線は合わせて告げた台詞に七三子は自分が照れてしまう。
「七三子もお似合いよ。とっても素敵だわ。けれど、小説、ちょっと古めのやつではなくて?」
揶揄うように微笑んだアナスタシアの視線を受け、七三子の顔はチークに負けないくらい真っ赤だ。
「……お友達に貸りた小説だと、語尾に『ですわ』をつければいいのかと……あれ、古いです?」
そうして顔を見合わせ、また笑い合った。
支度を終えれば、いざ戦場へ。
アナスタシアが選んだ細く鋭い10cmヒールは静かに芝を踏み、5㎝ほどに抑えた七三子のヒールも芝を撫でるように優雅な足取りだ。
「本日はお招き頂き感謝致します」
「お招きに感謝いたしますわ」
言葉も衣装も揃えたふたりの佇まいを前に、老執事の笑みは濃い。
満足そうな気配を隠しもせず、恭しく頭を垂れ薔薇の迷路へアナスタシアと七三子を招いた。
花々は語らぬ声で何かを試すように咲いていた。
赤、白、深紅、名も知らぬ青も添えた迷路は幻想的な雰囲気なのに、どこか寒い。
ふと七三子の目に映ったのは蹄の音を忍ばせる|幻想獣《ユニコーン》。輝く銀の角が揺れ、視線がふいに刺してくる。
「……いやあの、一角獣さん、殺しに来てませんか、その角ぉ……」
思わず距離を取る様に七三子はアナスタシアの影に寄り添うが、対するアナスタシアは肩を竦めて穏やかに笑うばかりだ。
「大丈夫よ。彼は、ただ見定めているだけ」
頼もしい言葉が七三子の背を押す。
「……うう、アナさんのを見てまねすればいいですね。一緒に来て下さって、助かります、ほんとに」
ぐ、と覚悟を決めたように七三子が拳を握ったのを、アナスタシアがそっとその手を隠す。ほらあそこで|彼《ユニコーン》が振り向いたわ。口元の笑みは隠したけれど、クリノリンの奥で愉快そうに揺れる尾を隠さない。アナスタシアの歩幅は変わらないが、ドレスから覗く尾で七三子をさりげなく隠して守るために。
「さて、行きましょう。素敵な庭園を楽しまなくてはね?」
「は、はいっ」
薔薇の香りにふたりの令嬢は包まれ、迷路攻略が幕を開けた。
「ふ~ん。いいわね。ドレスアップっていうのも」
星詠みの案内が告げられた直後、天翳・緋雨(天眼浪士・h00952)はその場を立ち去ろうと踵を返そうとした。今回は他の√能力者に任せた方がよさそうだと思ったからだ。適任者は多いし、とそう思った矢先、――隣から聞こえてきた声に踏み出した足はふいに止まる。
「あ、りっちゃん行きたいの?」
並べられた衣装を眺め、どうしようかな、と既に考え始めている天音・璃闇(何でも解体請け負います。・h03009)の姿を見て「……そっかぁ……」と緋雨はひとつ静かに息を吐いて心を決めるしかなかった。
「まぁ、オレは男子だと骨格細い方だしヒールも何とかなるね」
「いくの? ひーくん、ドレスだけど?」
「ドレスはちょっと寸法弄ればいいかなって」
緋雨は幾つか適当にドレスを手に取る。シフォンの柔らかな手触り、サテンの麗しき光沢、レースの天使のような軽やかさ――然し選ぶ基準はただひとつ。自分に無理なく馴染み、かつ男の輪郭が目立たない事だ。
「そう? んじゃ行ってみようか」
既に真剣にドレスを選び始めた緋雨に、璃闇の呟きは届かなかった。
ホントはスーツの緋雨とドレスでおめかしして行きたかったのだけれど――コミュ力不足感は否めないし、折角ならと真実は胸に仕舞われた。
「これならどうにか入るかな」
緋雨が選んだのは、深緋のドレス。まるで炎の残り火に灰を一匙落としたようなグラデーションが印象的だ。裾には金色のラメが散りばめられ、胸元部分には彼のサード・アイと揃いの意匠のような宝石が輝いている。ヒールは黒で低いヒールを何とか見つけた。ふわりとクリノリンで広げれば歩みの妨げはなさそうだ。
「あら? 素敵なのを見つけたわね」
ひょっこり顔を覗かせた璃闇の手には、翡翠に溶けた星明りのようなエメラルドのドレス。象牙色の装飾と金のしずくが揺れている。彼女のアメジストの瞳を鮮やかに引き立てる色彩の組み合わせだ。バッスルが生む柔らかな曲線は璃闇の細くしなやかな肢体に絶妙な調和を演出するだろう。
「へぇ~! ひーくん割と似合うわね!?」
「そう? ドレスで脚元隠れるのは助かるね」
試着してみればサイズも大丈夫そうだだが、やはりどうしても男らしい歩き方は隠せない。慣れないヒールで苦戦もするがドレスで隠れているので上体さえおかし「なにか?」って澄まし顔でクリアできそうだ。
問題は、璃闇。ぷるぷる震えている。
「着付けも色々面倒だけど……っ、ヒールってこんなに脚が攣りそうなの!?」
鏡の前に移動するのも大変そうな様子に、思わず緋雨が手を伸ばす。
「ほかの靴にしたら……?」
「ちょっと待って、引っ張らないで……ドレスに合いそうなので一番低いのはこれしかなかったの!」
試行錯誤の末“りっちゃん特性サポーター”により、なんとか優雅さを手に入れたのであった。
あとは、慣れ。
そして気合。
なにより薔薇の迷路が臨める前庭に到着してしまった今、どうにかするしかないのだ。
「はい」
「あら? エスコートして下さるの? 素敵ね」
同じドレス姿の|令嬢《・・》といえど、やはり中身は男性。少しでも筋肉の動きを見せないように長手袋に包まれた手を、緋雨は差し出した。
「行こうか」
「……あの、もう少しゆっくりだと嬉しいわ」
璃闇の歩幅というよりスピードを合わせてふたりは並んで進みだす。
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
ようやくのスタートラインだ。ここからが本番なのである。
老執事に見送られ、ふたりは薔薇の迷路に足を踏み入れた。
「転ばないようにね? 無理はなさらないで」
人目が遠ざかれば余裕もでる。緋雨は令嬢を演じながら微笑みかけた。
ボロが出ないよう口数は少なめに。それでもお嬢様口調のサンプルは脳内に揃えたし、“台詞を演じる”だけならきっと自然に見えるはずで。
咲き誇る薔薇の|視線《・・》はまだ穏やかなので、合格ラインは超えているようだ。
「お言葉に甘えて、頼らせて頂いても宜しいかしら?」
「キミが笑ってくれるなら、これ位は全然いいよ」
腕に添えられた手には力が篭る。芝の上は存外不安定で、整えられた道と違いヒールをぐらつかせる。璃闇が転ばないように、少しでも揺らがないように。支えてやるぐらいお安い御用だと緋雨は笑って頷いた。
「楽しんでいきましょうね」
「うん、そのノリで行きましょうか」
それはまるで自分に言い聞かせるように。
けれど、きっと一番大切な事。
璃闇の言葉に同意しながら、ふたりは迷路の|先《ゴール》を目指すのだった。
第2章 冒険 『洋燈煌めく仮面舞踏会』
●
「――|奥様《マダム》。新たな|お客様《・・・》が先程ご到着なさいました」
低く、柔らかく、然し平坦な調子で告げられた報告。
「……そう」
絹を撫でるような静謐を微かな応答が遮った。
夜は、もうすぐだ。
爽やかな空は夕暮れに染まり、甘やかな期待を孕んだ闇が忍び寄っている。
今宵の舞踏会には、新たな|令嬢《・・》たちが参加するという。それは社交界への初陣、否、デビュタントという名の|仮面舞踏会《選抜の儀》。
「……|美しい《好みの》顔の子は、いるかしら」
憂いと渇望が絡み合った溜息がひとつ落ちた。
「嗚呼、……楽しみだわ」
舞踏会が、始まる。
――薔薇の迷路を抜けた先、|令嬢《√能力者》たちが辿り着いたのは、ダンジョンの一角に忽然と現れた、城の扉。
まるで世界を切り取り磨き上げたかのような豪奢な扉だった。
金と影が織りなす境界を越えた先、黒服の一団が整然と列を成し、静かに頭を垂れている。
「ようこそお越しくださいました。今宵の舞踏会、心ゆくまでお楽しみいただけますよう――」
足を踏み入れれば、現実から切り離されたような煌びやかな夢の舞台。光を零すシャンデリアが頭上から降り注ぎ、弦と鍵盤が紡ぐ旋律は心拍を優雅に盛り立てる。
花と香油の匂いが混じり合い、華やかさの奥に潜む鉄錆の気配を隠していた。
ホールを見下ろす回廊へと続く階段には無言の護衛が立ちはだかる。
その視線は冷たく、選ばれぬ者の行く先を阻む。上がる事は容易ではない。強硬手段を取ればいいだろうが、そうしたら意味がない。
だからこそ、示さなければならない。
自らの美を。
自分こそが、新しい“|顔《えもの》”であると――分厚いカーテンの向こう、闇の奥で静かに微笑む|御婦人《マダム》からの招待状を得る為に。
値踏みするようにホールを見下ろしていた|御婦人《マダム》の指先が止まる。
「……美しい」
見つけたわ、と――ジェイド・ウェル・イオナ・ブロウクン・フラワーワークス(笑おうぜ・h07990)とクラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)のペアに彼女の視線は注がれていた。
光のしずくが降り注ぐホールは、優雅な旋律で満たされている。
楽団の生演奏が令嬢たちを包み込んで花開く。デビュタントという体験の|真実《うらがわ》、残酷なエンドロールが隠されていることを知らずに。
もうすぐ、今の曲が終わる。
クラウスは緊張した面持ちでホールを眺めていた。
深紅の仮面越しに映る世界は現実感がない。慣れないヒールと視界を遮る仮面のせいで、ダンスの輪に踏み入る勇気が奪われる。
「イーザリーお嬢様」
無意識に固く握りしめられていたクラウスの手を解いたのは、ジェイドだった。
「気合を入れるのはよろしいですが」
クラウスが見上げた先、灰銀の仮面の奥で翡翠の瞳が静かに微笑んでいる。
「そう力まずともあなたはきっと選ばれますわ――だってあなたは私の自慢の妹ですもの」
「……でも、うまく踊れるかわからない、ですわ」
いくら取り繕っても、マダムが“美しい”と思わなければ、選ばれなくては意味がない。その不安がクラウスの足を床に縫い止めているのだ。
「あなたは自己評価が低いですから、謙遜なさるでしょうけれど」
ジェイドの指先が、結い上げられたクラウスのみどりの黒髪を優しく掬いなおす。不安をなぞる様に、仮面越しに愛でられるのは空の片隅のような瞳。ほどけてゆく緊張に寄り添うように、ジェイドの指先がクラウスの指を捕まえる。
「何の飾りもなくあなたの感情をそのまま写し出す面差し全て――美しく愛おしいのです」
蜜のような言葉が、惜しげもなく降り注ぐ。
「さあ、そんなあなたを壁の花に留めてはおきませんわ」
気付けば、演奏は一度静寂を挟み、新たな旋律が流れ出すところだった。
「一曲、私と踊ってくださる?」
「ジェイド、お姉様」
「リードはお任せくださいな。惑わず、私を見て。私についてきてくださいまし」
クラウスが縋るのは翡翠の瞳。深く澄み、揺らぎのない光。
「……綺麗だ」
思わず漏れた呟き。マダムは美しいものを好むという。ならば彼以上に相応しい存在はいない。どんな宝石よりも美しい色は、抗えない魅力を湛えていて。堂々とした態度も、笑顔も、彼のすべてを誇らしく思える。
少しだけ驚いたように、けれど嬉しそうにジェイドが笑っていた。
そんな人が、自分の手を取ってくれるのだ。
深紅の仮面の奥、クラウスは小さく頷く。
「……ジェイドお姉様が、リードしてくださるのなら」
きっと、大丈夫。
それは自分に言い聞かせた言葉ではない。確信。信頼の証。
緩やかな旋律。
翡翠色のドレスがクラウスの動きに合わせて淡く揺れ出す。ジェイドの纏う深い青色のドレスが波打ち、ふたりの歩調をひとつの円へと結び始めた。
ジェイドのリードは決して急がない。半歩先を示す肩の角度、僅かな視線の移ろい、重ねた手と腰に添えた指先から伝える圧の濃淡。全て言葉にならない合図としてクラウスを導いていた。
クラウスは深紅の仮面の内側で息を詰める。視界は狭く、床の模様が速さを増して流れてゆくけれど。足が縺れる前にジェイドの|支え《フォロー》を頼りに軸を取り戻す。
「はい、ここで息を、」
囁きは音楽の縫い目に滑り込み、クラウスの耳にだけ届く。
「……夢を、」
「うん?」
「夢を見てるみたい、ですわ」
ふわふわとした感覚がする。
この先に在るのは戦いだ。頭の片隅に置いてある、忘れてはいない目的。
けれど今は、この一瞬が愛おしくて、終わらないで欲しいなんて思ってしまうのだ。
難解だと思っていたワルツも、今では楽しんでステップが踏めている。
ジェイドの呼吸に合わせ、招かれるままに揺られて身を預けて滑り込むだけ。
「わっ」
少し大きな旋回にクラウスが目を見開くが、ジェイドは愉し気に笑っている。
強く引き寄せられた腰。円は蜜のように濃くなり、回転はゆるぎなく安定する。クラウスの拙い足取りは崩れない。ジェイドが崩させない。
やがて、終止の和音がワルツの終わりを報せた。
「ほら、言った通りでしょう?」
「ジェイドお姉様のおかげです、わ」
照れ臭そうに笑うクラウスがジェイドと共に次の組と入れ替わろうと移動すれば、黒服のひとりが静かに近付いてくる。
「失礼いたします。|奥様《マダム》からこちらをお預かりしております」
差し出されたのは白い封筒。
薔薇の封蝋が血のように深く艶めいていた。
クラウスが受け取れば黒服は深くお辞儀をして下がる。中身は特別な舞踏会の招待状。
「私のものに手を出す、だなんて」
選ばれたのは、|想定内《ねらいどおり》。
だが、奪われることを許した覚えはないのだから。
分厚いカーテンの向こうへ視線を向けながら、ジェイドはそっとクラウスを隠すように背を向ける。
相応のお覚悟を――静かな怒りにも似た呟きを、ジェイドの唇が紡ぐ。
それを受け取ったのは、闇の奥で微笑む|御婦人《マダム》、ただひとりだけだった。
ただ“美しい顔”が欲しいだけなのに――|御婦人《マダム》の悩みは尽きない。幾人か候補は出来た。然し、まだ|足りない《・・・・》。
「……あれは、」
巡り合うふたつの影は似た色を持ちながら、対照的な色を纏っていた。
落ち着きのある白銅を揺らし夜を纏う各務・鏡(自称写真機の付喪神・h09413)と、月光を塗り込んだ髪を揺らし鮮やかなピンクを纏うルスラン・ドラグノフ(лезгинка・h05808)のペア。
「……うーん」
デビュタントなのだからエスコート役の男性ぐらい用意してくださればいいのに、と鏡はホールの|舞踏《ワルツ》を眺めながら困っていた。
華やかであり伝統的なデビュタントの相手は、誰でもいいわけではない。だからこそ自ら用意しなければならないのは解るが、困る者は困る。
何より、切実なのは。
「ダンスやったことないんだよねぇ」
こてん、と首が傾ぐ。夜色のドレスに合わせて選んだシンプルながら星空を思わせる美しい仮面の奥で鏡はホールの外側へ視線を移した。
目を細めるほどの眩しい|世界《ホール》。
鏡の記憶に強く残る時代で使われていたガス灯の明るさとは、だいぶ違う。温かみのある幻想的な薄暗さも持ち合わせていた景色を塗り替えるように降り注ぐ光の花束。ドレスの華やかさを際立てる光の加減とは違うのがどこか新鮮だ。
「ワルツ、だっけ」
昔見たステップを思い出しながら鏡はもう一度こてんと首を傾げた。女性のドレス姿はいつの時代も、どの世界も美しく目を奪われる。おかげで記憶にあるのは女性の動きの方だ。
「たぶん大丈夫、……かな」
上半身はあまり動かさず、ステップだけマネをすればなんとか、と鏡は暫くホールを眺めている事にした。
「次はダンス、か」
社交ダンスを踊る機会など、大人になってからはとんとなかった。家で子供の頃からレッスンは受けていたけれど。
「身体が覚えているからきっと大丈夫のはず……ですわ!」
まるで自分に言い聞かせるように、イメトレしてかつての習い事の記憶を引き出すようにルスランは|舞踏《ワルツ》に視線を向ける。
「あ、そうか。相手も見つけないといけませんのね」
うっかりボロなんて出さないように|令嬢らしさ《・・・・・》を抜かないようにしつつ、礼儀作法とダンス技能で乗り越えようとしたルスランは最初の壁にぶち当たる。
ここまで来たら、いよいよ帰るという選択肢は選べない。
足元の甘いストロベリーカラーのヒールをコツン、と鳴らす。早く終えて脱いでしまいたいのに。
最後まで投げ出さずにやると決めたのだから、早めに相手を見つけてワルツを踊って、|御婦人《マダム》のお眼鏡に叶わなければならない。特別な招待状とやらを貰わなければ、このドレスとヒールで頑張った意味もなくなってしまう。なにより、そのせいで違う令嬢が選ばれたら、哀れな|令嬢《だれか》が生まれてしまうのだから。
「どうしましょう、結構ペアでいらっしゃる……わ?」
今度こそ、と選んだシンプルな白い仮面の中で、青い瞳が瞬く。その度に飾りの赤い雫が揺れるけれど、ルスランは出来るだけ最短距離で見つけた|令嬢《かれ》の元に足を運ぶ。
「あの、失礼」
ルスランが声をかけたのは、自身と似た色合いの髪色を揺らす鏡。
「……僕?」
「ええ、そうですわ」
ステップを覚えるために集中していた鏡は、少し驚いた様子だったが、声をかけてきた理由にすぐ気付く。
「もしや、おひとりで?」
「その通りですわ。良ければペアを組んでいただけませんこと?」
「ダンスはやったことないし、それに女性のパートしか出来ないと思うけれど……それでも、良ければ」
ひとりで来た同士の問題を真っ先に挙げる鏡だったが、何の問題もないとルスランが笑う。
「どちらのパートでも対応可能ですの、私」
利害の一致。|御婦人《マダム》に認められなければ次のステージには進めない中で出会った鏡とルスランは楽団の演奏を合図にホールの中央へ踏み出す。
「華麗に美しく! 優雅さをしっかりとアピールしていきましょう」
不安そうな鏡の手を取り、ルスランは笑みを向ける。
大事な事は表情だ。
「微笑みも絶やしませんことよ?」
なにより、楽しくやらねば、とウインクひとつ。
「そう、だね。……うん。デビューには変わりないのだから堂々と、そして優雅に踊りましょうか」
メロディーが流れ出し、ふたりも頷き合って踊り出す。
ルスランの右手が鏡の背に添えられ、最初の一歩。ルスランは前へ。鏡は後ろへ。滑るように、ヒールが床を擦らないように。膝を緩め重心を保つ鏡はワルツにおいては“運ばれる側”だ。然しただ付いて行くのではない。軸を保ち、相手の動きに合わせて円を描く。
「上手」
「……良かった」
ルスランの歩幅が広がり、驚いた様子を鏡が見せるがメロディーも足も止まらない。三拍子の波に身を預け、円を描く様に舞う。方向を定めて空間を切り開き、相手の歩幅に合わせながら無理をさせない。ルスランが描く縁を、鏡はなぞる。
甘やかさを放つ鮮やかなピンクゴールドと夜を染み込ませた黒いドレスが混ざり合い、終止の和音に向けて回転しながら溶け合ってゆく。
最後のフレーズ。半歩踏み込んだルスランの手に支えられ、身を預けた鏡の状態がしなる――ほんの刹那、わずかな静寂。
「楽しかった?」
「もちろん、凄い楽しかった」
良かった、と笑い合うルスランと鏡の元に歩み寄る黒服のひとり。
「失礼いたします。|奥様《マダム》からこちらをお預かりしております」
差し出されたのは白い封筒。
薔薇の封蝋が血のように深く艶めいていた。
鏡が封筒を開ければ、中身は特別な舞踏会の招待状。
「さあ、この調子で先へ進みましょうか」
「うん。あともう少しだね」
見上げた先、分厚いカーテンに薄い隙間。
新たな旋律に乗って薔薇の香りがふたりの元にまで届いた気がした。
夜の帳を閉じ込めたような分厚いカーテンの向こう側。薔薇の香りは甘く、潜む鉄錆の匂いを隠している。
「……美しいわね」
あの子はだめ、あの子もだめ、――零れていた溜息の温度がほんの少しあがった。
|御婦人《マダム》を射止めたのは、ノイル・リースロス(|闇に揺蕩い影に詠う《ニュイ・エ・ノワール》・h08142)とアストラガルス・シニクス・グリーヴァ(|戦場駆ける銀蓮華《トリガ・ハッピィ》・h09567)のペアだった。
「ダンスか……」
シャンデリアが触らす光、弦と鍵盤の軽やかな旋律。|仮面舞踏会《デビュタント》に紛れ込んだ黒狼を象ったコロンビーナの奥、羽根の装飾が目元に影を落とし、深い闇色の瞳が浮かべる笑みを艶やかに隠している。
「|男役《リード》してあげたかったけど、流石に身長差がありすぎるな」
ノイルの視線がアストラガルスを見上げた。ヒールで補正してもこの身長差は埋められない。
「ノイルサン今の侭でも全然俺ん事投げ飛ばせるやないですか……」
夜闇と影から生まれた|災厄《ノイル》の悪戯な微笑みとは対照的に、陽気な|人狼《アスト》の表情は冴えない。届かない距離からノイルを見下ろす赤色の瞳。月の白さを縫い込んだような白狼のコロンビーナでは隠せないまま、アストラガルスは苦笑を向けた。
「ふふ、此度のダンスはワルツだからリフトはないよ。残念だねぇ」
ワルツの中にリフトが取り入れられないわけではない。然し此処はデビュタント。しかも|令嬢《・・》同士で優雅さの規格に沿って踊る場所なのだ。複雑なステップと情熱的な表現を用いるタンゴであれば|男役《エスコート》はノイルだったかもしれない。そんな思考をアストラガルスは胸の内で遊ばせた。
「ほならエスコートする栄誉に感謝して」
楽しそうな“もしも”を飲み込み、宜しくね、と差し出されたノイルの手に腕を差し出しながらふたりは光の輪の中へ足を踏み入れた。
煌びやかなホールの中央。
花の匂いは濃く、光が温度のように肌を這う。楽団は呼吸を整え、令嬢たちは足先を揃える。
「敵さんに見られとるな」
横並びから向き直り、正面で視線を交わし合う。
黒と白。夜と昼。
僅かに開いたカーテンの隙間から覗く|深淵《しせん》が注がれる中、新たなワルツの旋律がはじまろうとしていた。
「そうだね。ちゃんと見ていてもわらないと困るけれど」
ふたりとも当然、|御婦人《マダム》の視線には気付いている。然しまだ警戒すべき鋭さはない。値踏みされている段階なのだろう。ならば反応するより、ノイルの言葉通り注目されなくては、選ばれなくてはならないのだから順調の印を思うほかない。
「処でアスト、今更だけどダンス踊れるの?」
|一礼《カーテシー》の後、手を取り合いながらノイルは首を傾げた。
「一通り叩き込まれたんでいけますよ。そんで体動かす系なんで得意な方です」
「ふふ、ならリードはお任せしようかな」
楽団の気配が変わり、弦が歌い始める。
自信を浮かべた笑みでアストラガルスは応え、音の始まりを合図に深く足を踏み出した。
「任せといてください」
言葉通りノイルは身を委ね、アストラガルスは彼女の背に手を添えゆったりと輪を描く様にステップを刻み始める。身長差は壁ではない。軌道を安定させる軸にもなるのだ。
角度、指先の圧、重心の沈み加減――それら全てが溶け合う。リードは大きく、然し繊細に。ノイルはただ従うように動けば自然と足が進み、余裕を思わせる笑みさえ浮かべられるし、滑らかな着地と次への拍が自然に繋がれる。
曲は少しだけ盛り上がる。アストラガルスはほんの少しだけ歩幅を広げ、円を大きく描く。ドレスの裾がふわりと広げてターン。黒い生地は夜の羽根のようにホールを撫で、青が一筋、星明りのように視線を奪う。
軽やかなターンの後、添えられた手を支えにノイルは上体を逸らした。呼吸さえ音を忘れた、一瞬だけ止まる時間。アストラガルスの長い脚がドレス越しに差し込まれる。長躯を活かした立ち姿。手と足に支えられたノイルは大きく傾ぐが、倒れる様子はなく優雅さを失わない。
見事なコントラチェック。近くで踊っていた令嬢たちだけではない、。壁際で見守る令嬢たちの視線も、上方から見下ろす値踏みの視線も、揃ってふたりへ吸い寄せられる。“美しさ”が視線を奪うのだ。
「嗚呼、ドレスやなかったらもっと様になっとったのにな……」
曲の終わりへ向け、ノイルを起こすように引き戻し、ほかの令嬢たちとぶつからないようステップを踏むアストラガルス。ぶつからないのは偶然ではない。舞う円周を読み、他者の呼吸さえ予測し、戦場で培われた感覚は社交場でも発揮されている。
「ふふ、今の侭でも十分素敵だよ」
ノイルの言葉は嘘ではない。本心から向けられたものだと疑わないからこそ、アストラガルスは少しだけ照れたように、然し満足そうに笑った。
ふたりの円がほどけ、また結ばれ、演奏は最後の音を紡ぐ。
見事なダンスを披露したふたりの元へ、黒服のひとりが声をかけてきた。まるで影のように静かで足音さえ礼儀正しく抑えられている。纏う気配だけが冷たい空気のように背筋に緊張感を持たせた。
「失礼いたします。|奥様《マダム》からこちらをお預かりしております」
差し出されたのは白い封筒。
薔薇の封蝋が血のように深く艶めいていた。
「ありがとう」
受け取ったノイルが封筒を開き、アストラガルスも飢えから覗き込む。
中身は特別な舞踏会の招待状。
「時間までのんびり過ごそうか」
まだ|仮面舞踏会《デビュタント》を締めくくるには控えている令嬢たちは多いな、と壁際に寄りながら微笑むノイルの瞳に、笑みはない。黒狼の仮面の奥、夜は静かに牙を研ぐ。
「……|靴《ヒール》脱いでもええかな」
「……だめじゃない?」
「あかんかぁ」
再び体を動かすまで、暫しの休憩とばかりに慣れないヒールをどうにかしようとしたが、ドレスといえどさすがに脱ぐとバレてしまう。
アストラガルスは少しでも楽な立ち方を模索して過ごすことにしたのだった。
|御婦人《マダム》の視線が、ふと止まる。
「……|素敵《うつくしい》」
吐息は甘く落ちた。然し底には冷えた欲が滲んでいる――視線を射止めたのは、丹生・羽威(夜に噎ぶ・h07401)と目・魄(❄️・h00181)のペア。
新しくホールへ足を踏み入れ、やがて手を取り合ったふたりを彼女はずっと眺めていた。
重厚な扉を潜れば光の奔流が目を焼く。
星々の如く煌めくシャンデリア、磨き抜かれた床に映る頭上の輝き。弦の調べが優雅に波打ち、幾重ものドレスが円を描いて色彩の花が咲いていた。
「おおー、すっごく優雅なキラキラ!」
舞踏会など容易く巡り合える場ではない。縁遠かったはずの舞台が、今まさに目の前に広がっている。胸の高鳴りは隠し切れず、抑えたつもりの羽威の声は存外ホールに響いた。
だが誰も咎めはしない。誰もが胸の奥で同じことを呟いていたのだから。その証拠に幾人かの令嬢はこくこくと頷いている。
「よし、この体験をサイコーのものにする気持ちで挑んじゃおっかな!」
弾む心はそのままに、羽威は舞踏会に参加するため仮面を選びに向かう。
「うーん……拘りはない、けど」
鳥か、羽根か――せっかくなら好きなモチーフや飾りが良い。そのうえでドレスに合うものを。
「これにしようかなぁ」
孔雀の羽を模した繊細な透かし彫り。金彩が細やかに添えられ、小粒のアメジストが華やかで、可愛らしいヴェネツィアンマスク。視界を狭めるデザインだが気に入ってしまったのだから、しょうがない。
「次は舞踏会、か」
硬質なホールの床を魄の黒いヒールが鳴らす。さすがに迷路を歩かされた後では|衣装《ドレス》もヒールも馴染むというもの。芝生の柔らかさを超えても、魄の動きに澱みはない。
それよりも。
香油、花、絹、――高貴な|気配《かおり》に隠し切れぬ甘い|腐臭《におい》の気配を遮るように広げた扇子で口元を隠した。細めた目は鋭さを宿すが、お淑やかな令嬢らしさで眩し気な微笑へと誤魔化す。
「……仮面は、猫はありますかい?」
先に到着した令嬢たちの後ろに並び、無作法にならない程度に声を投げる。早い者勝ちならば声をかけるのもありだろうと。
「ございますよ」
差し出されたのは、艶やかな黒漆に金の縁取りが美しい黒猫が躍る仮面。追いかけ合う猫の細工が愛らしい一品。
「とても素敵、これにしますわ」
出来るだけ|令嬢らしく《・・・・・》微笑んで受け取る。手袋やヒールとも合う色見なのも好ましく、魄は迷いなくそれを受け取った。
楽団の演奏がひとつの結びを迎える。
ワルツを踊っていた令嬢たちが円を描くのを止め、礼を交わして舞踏の花が散る。
「どなたか踊って下さらないかしら?」
まるで独り言のように。
けれど多くの令嬢がその言葉に反応したし、羽根飾りの奥で周囲を見つめる羽威のエメラルドは確かに|誰か《・・》を探している。
空間に溶け込む様に|令嬢たちを眺めていた《人間観察》魄と、扇子越しに視線が絡んだ。魄のアメジストがぱちりと瞬き、猫の仮面の下で黒猫の唇が弧を描き、ぱちん、と扇子が閉じられたのが合図のように響く。
「よろしければ」
「ぜひ!」
三拍子が静かに流れ出す。
魄の右手が羽威の背へ添えられる。距離は近すぎず、遠すぎず。呼吸がすれ違う程度のぎりぎりの間合い。深緑と淡金が、床の上に静かな円を描く。羽威の足取りは羽のように軽く、重心を失わず柔らかい。魄はそれを感じ取り、わずかにテンポを上げた。素早い拍に乗せて、くるりと旋回。広がる裾。二色が溶け合い、夜風と月光が重なる。
「お上手ですね」
羽威が微笑む。
「|模倣《みようみまね》です」
淡く魄の声が返る。
演奏がひとつ高さを持った。
魄は一歩を深く踏み込み、羽威を引き寄せる。
羽威はその力を信じ、上体をしならせる。仮面越しに視線が絡み、刹那、時間が凍った。
猫の黒と鳥の羽色。
森の影と月の光。
静止の中に、確かな熱。
「一度きりの初陣ですもの。今このひと時を二人で楽しみましょう」
「ええ、美しい者どうし、幾らでも優美に」
再び三拍子が流れ出す。
自然なエスコートは崩れない。指先まで丁寧に、優美さは損なわせない。
円を閉じる。速いテンポで最後の旋回で魄はわずかに速度を上げるが、羽威は乱れない。足並みを揃え、共に風となる。
終止の和音。
ほかの令嬢たちに並ぶように足を揃え、ゆるやかに距離を戻す。
魄が優雅に一礼し、羽威もまた裾を摘んで礼を返した。
楽しい時間はあっという間である。
「失礼いたします」
踊り終えたふたりの元に歩み寄る黒服が差し出したのは、白い封筒。
薔薇の封蝋が血のように深く艶めくそれを魄が受け取る。
「|奥様《マダム》からでございます」
羽威が覗き込む。封筒の中身は予想通り、特別な舞踏会の招待状。
「|お楽しみ《・・・・》はすぐそこ、というわけね」
「ええ、本当に……この後も楽しみにしておりますわ」
ふたりは仮面の奥で視線を交わし、まるで秘密を分かち合うように囁き合って、悪戯っぽく笑った。
|御婦人《マダム》の気配が揺れる。
苛立ちではない。愉悦であり上機嫌の印であった。
「嗚呼、最高の気分だわ」
幾重にも咲いたドレスの花弁、煌めく仮面の群れ。
うっとりとした視線の先にいるのは、アナスタシア・ケイ・ラザフォード(悪夢のメイド・h05272)と見下・七三子(使い捨ての戦闘員・h00338)のペアだった。
重厚な扉の向こう側。まるで宝石箱をひっくり返したかのような世界が広がっていた。
「よかった。無事にたどり着けましたね。これもアナさんのおかげです」
無事に迷路を抜けられた安堵で胸を撫でおろしつつ、新たな場所に対する高揚感を胸に七三子の瞳は輝きを隠せていない。
「ふふ、そうね。七三子が迷わなくて良かったわ」
並んでホールへ足を踏み入れながら、アナスタシアは悪戯な笑みを向けた。
「仮面は、……あそこね」
「|衣装《ドレス》はこのままで大丈夫でしょうか」
「ええ、問題ないと思うわ」
せっかく選んだ|衣装《ドレス》だ。まだ脱ぎたくはない。次は仮面舞踏会のようだが、問題ないだろう、とふたりは奥へ進む。
アナスタシアは目に留まった深い|紺《よる》を基調にしたハーフマスクに手が伸ばす。三日月の曲線が片目を覆い、青銀の蔦で装飾された縁をなぞるのはアンティークゴールド。小さく揺れる黒真珠は、彼女の尾鰭が揺れる瞬間によく似合うだろう。隠された片目の分だけで良かったアナスタシアはその仮面の近くにあった、もうひとつの仮面も手に取った。
「七三子、これはどう?」
差し出されたのは、丸みを帯びたブラックサテン調の仮面。艶やかな土台の目尻を縁取る深紅のベルベット。銀の泡模様が光を受けて控えめに輝き、小さな真珠が涙のように儚く揺れる。よく見ればアナスタシアが選んだ仮面と揃いのような蔦模様が薄く刻まれ、ドレスとの色合いもばっちりだ。
「それにします!」
弾む声を添えて七三子は頷いた。
彼女が選んだものに間違いはないだろうし、何よりお揃いのようで可愛らしい仮面を前に断る選択肢などない。
「とてもお似合いよ」
「アナさんが選んでくださったものですし! アナさんのも凄い綺麗……!」
和やかな笑いがふたりの間を満たし、その隙間に楽団の演奏が入り込む。
「わ、音楽が始まりましたね」
緊張したように多くの令嬢たちが輪を作り出す。
「アナさん、私、練習通り女性パートでもいでしょうか」
「もちろんよ。では、練習通り……私がリードするわね」
せっかく練習に付き合ってもらったのだから、大丈夫。きっと楽しく踊れる、大丈夫。七三子は自分に言い聞かせるように呟いた。
「もし転びそうになっても支えられるから安心して?」
差し出されたアナスタシアの手が、こんなにも頼もしく見えるのだから、大丈夫。
「えへへ。アナさん、格好いいです!」
「ふふ。可愛らしいお嬢様、お手をどうぞ」
三拍子が優しく空気を震わせ始めたのを合図に、アナスタシアと七三子の舞踏会が始まった。
紺と黒。深海と宵闇。
ふたりの色彩が光の中、円を描く。
練習の記憶を頼りに、七三子の足取りは慎重だ。
それを見守るアナスタシアの視線は温かく、しかし明確なリードを添える。指先が静かに次の方向を示し、クリノリンの奥で尾鰭が揺れる度にドレスの裾は美しい波を生む。
くるり、と旋回。
七三子のブラックサテンが灯りを掬い、深紅の装飾が炎のように揺れた。
「私、ちゃんと優雅に踊れていますか?」
「上等ね。すっかり様になっているわ」
アナスタシアに引き寄せられた七三子は見様見真似で上体を僅かにしならせる。視線が絡み、刹那の余韻。
「|アナさん《先生》先生の教え方がよかったからですね」
「先生だなんて、大したことはしてないわ。さあ、今は存分に踊りを楽しみましょ」
優雅な静止と再びの三拍子。
七三子の足はもう迷わない。
ヒールが|大理石《ホール》を掠める音がほとんどしないのは、アナスタシアの上手なリードと七三子の|癖《・》が噛み合ったからだろう。七三子の髪に編み込まれた金のリボンがシャンデリアの光を味方にして輝き、アナスタシアの真珠を散らした髪と併せてキラキラを振りまく。
「……なんだか、さっきより体が軽いです」
「慣れただけよ。ほら、次は大きく回るわ」
緊張は解け、残るのは躍動だけ。
僅かに離れたふたりの距離。ドレスの裾が大きく弧を描き、パニエが軽やかに揺れる。周囲で踊っていた令嬢たちの視線が自然と集まった。光を纏い、音楽と共に流れるように舞うふたりのワルツは何より美しい。
弦が最後の音を細く引き伸ばし、やがて空気の中に溶けた。
円を描いていた足取りがゆるやかになり、アナスタシアは七三子を導く指先を弱めて、最後の三歩を丁寧に刻ませる。
|一《アン》、|二《ドゥ》、|三《トロワ》。
余韻だけがまだ胸の中で鳴っていた。
アナスタシアは七三子の背から手を離し、半歩下がって優雅に一礼した。
七三子もまた裾を掴んで、慎ましく頭を垂れる。
「……あらあら。さぞご身分が高いようね。どんな綺麗な方なのかしら」
近付いて来た黒服に目をやり、アナスタシアが目を細める。
「失礼いたします」
自ら赴く事なく渡される白い封筒。添えられた薔薇の封蝋が血のように妖しく艶めいていた。
ふたりはカーテンの向こうを盗み見る。気に入った|令嬢《かお》を連れ去ってしまう|簒奪者《マダム》がいるであろう場所を。
油断は出来ない。だが対峙するための条件はクリアしたようだった。
「|奥様《マダム》からでございます」
「ありがとう」
表面上は友好的に、何も知らないふりをしてアナスタシアが受け取った封筒の中身は、やはり特別な舞踏会への招待状。
七三子もにこにこと微笑み、無害さをアピールする。|可愛い《かよわい》令嬢ですよーと。怪しまれて招待状を取り上げられては困る。
「ねえ、七三子――私ね、|お楽しみ《狩り》はとっておくタイプなの」
深海の|暗殺者《アナスタシア》の唇がゆるやかに弧を描いた。
夜を纏う|戦闘員《七三子》は同意するように微笑んだ。
舞踏会も終盤、令嬢たちが咲かす花も残り僅か。
然し既に十分な|収穫《えもの》の数に、|御婦人《マダム》の機嫌は崩れない。
「なんて、|最高《うつくしい》」
新たに扉が開かれた。
血縁者だろうか――天翳・緋雨(天眼浪士・h00952)と天音・璃闇(何でも解体請け負います。・h03009)のペアを見つけ、視線の熱はひと際熱くなる。今まで揃いの顔を並べた事なんてなかった。
嗚呼、あれはなんとしても手に入れなければ、と。
ふたりにとって|懸念事項《さいだいのかべ》だったのは、やはり衣装だった。
普段から着慣れたい|衣装《ドレス》、歩くので精一杯な|靴《ヒール》。なにより緋雨は男だし縁がなかった。どれほど令嬢たちの中に紛れようとそれは変わらない。
然し、ここまで来てしまった。来れてしまった。乗り越えた壁を今更戻れない。
シャンデリアの光が降り注ぐ舞踏会のホールに足を踏み入れた緋雨は、眩しそうに目を細めた。
「あしがいたい」
硬質な床をヒールで鳴らしながら、澄ました微笑みの奥で璃闇が呟く。あくまで周りに聞こえないように。いくら低い物を選んだからといって、特注サポーターまで仕込んだとはいえ、長時間の徒歩は足を痛めつけるのだ。
だって痛いんだもん。
緋雨の無言の視線に璃闇も無言で応えるが、その視線は雄弁だ。
ぷるぷる震えなくなっただけでも良しとして欲しい。なんなら平静を保っていられるだけでも御の字である。
「……ほら、りっちゃん。とりあえず仮面を選ぼう?」
「そうする。あしがいたい」
早くこの|苦痛《ヒール》から解放されたい一心で、気を紛らわす逃避行も兼ねてふたりは仮面を選びに向かう。
緋雨が選んだのは、艶を抑えた黒のハーフマスク。
片側に奔る深紅から朱へのグラデーションはまるで炎が闇を照らす軌跡。流線形を這うゴールドが緋雨の深い緋色のドレスともよく合う。
「ひーくん、それにするの?」
「うん、ドレスとも合うし」
「じゃあ私はこれにしようかな」
璃闇が選んだのは深緑が黒へと変わる色彩が美しいハーフマスク。
銀の葉と蔦が目元を翳し、翡翠色のドレスや彼女自身の色とも相性がよさそうだ。
「でもこれだと片目が寂しいか」
「あら? メイク? それはアリね」
やはり両目を覆うタイプが良いか、と選びなおそうと下緋雨の手を璃闇はがしっと掴んだ。
足りないのならば足せばいい。
「え」
「任せて!」
まだ何も言っていないのだけれど。
抗う暇もなく、緋雨はあ~れ~と壁際へと攫われてゆく。こうなった璃闇は止めるより従った方が楽だと知っているから。
「ひーくんの顔がいじれるのた~のし~! あしがいたい」
口癖のように続く嘆きが少しでも誤魔化せるなら、と緋雨は観念して少し屈んでやる。
「ねえ、どんな感じがいいと思う?」
緋雨の前に差し出されたのはアイシャドウパレット。
「そこら辺のメイクはりっちゃんに任せようかな」
暫し色合いに目を移してから璃闇に答えた。決して丸投げしたわけではない。どっちでもいい、なんて世の女性が怒るような答えに聞こえかねないが、璃闇も気にしていなさそうだ。
「そう? じゃあこっちにしよっと」
客観的な目線のほうが時に正確であるし、なにより化粧のことは分からないのだから。
深緋に寄り添うように、選んだ仮面がより引き立つように璃闇は緋雨の片目を彩ってゆく。暫しされるがままの時間。
「出来たーあしがいたい」
「ありがと」
仮面越しに出来栄えを窓ガラスに映す緋雨。思わず目を細めてみるが、凄い格好良い。後ろでは璃闇が自身の目元を彩っている真剣な姿が見えた。
だが、ここからが本番である。
いくら足が痛かろうが舞踏会は回避できないのだ。
「りっちゃん、リードは任せて」
差し出された緋雨の手を、璃闇は迷いなく取る。重なった手はしっかりと握り返される。
楽団の演奏を合図に、ふたりはホールの中心へ足を向ける。
「あしがいたい」
璃闇がぼやく。踊る令嬢たちを眺めていたおかげで、動きに慣れれば問題はない。高難易度なムーブはともかく、基本の振り付けは大体何とかなるはずだ。それくらいには緋雨も璃闇も優れている。だがやはり痛みはついて回る。
「大丈夫」
苦笑交じりに緋雨が視線を投げた。
「身体が触れているなら生体電流の操作でフォローできると思うし」
「任せるわ。あしがいたい」
|踊り《ワルツ》なんて全く知識も無ければ興味も無かった。それでもやらねばならぬのでやるだけだ。璃闇はちょっと真顔だ。
深緋と翡翠が重なる。
炎と森。赤と緑。対照でありながら、不思議と調和する色彩。
三拍子を合図に少しずつ円が廻り出す。
緋雨が前へ、璃闇が後ろへ。
最初の一歩だが、言葉通り痛む足は僅かに揺らぐ。
「……っ、」
然し。
「凄い! ちゃんと動ける……!」
緋雨の指先から、背中に添えられた手から流れ込む生体電流によって微細な補助が筋肉を駆け巡っていた。重心が整い、ヒールの不安定さが薄れる。緋雨は涼し気な表情のまま満足そうに円を描く。
「ホントに少しでも踊る楽しさを感じてくれたなら、それに勝る喜びは無いって思える」
これがサイキックの効果なのか、と感動する璃闇の目はキラキラと輝いている。シャンデリアの光を映すアメジストの輝きが増している。
「それにしてもこっちがドキドキしたりしてるのに涼しい顔しちゃってさぁ……!」
くるり、と旋回。
エメラルドの裾が光を孕み、深い緋色が外側を包んで覆う。
「ほら、次はこっち」
軽やかな足取り。近しい存在だからこそアイコンタクト声掛けで意思疎通をしていけば一体感のある動きで周囲を魅せる。分厚いカーテンの奥からの視線がずっと付き纏っている気がするのがその証拠だろう。
アピールも無事成功したようだ。
似通った点が多いふたりの令嬢が円を描くのは、さぞ目立つことだろう。
緋雨は再び半歩深く踏み込み、璃闇の重心を自然と円の内へ引き戻す。足首の強張りをやわらかく解く様に。強引ではなく、あくまで“踊りやすい形”へ導くだけ。
だがやはり付け焼刃。璃闇の足がわずかに音楽に乗り損ね、ヒールが緋雨の足先を踏み抜く。
それでも緋雨のリードは崩れないし、表情に変化はない。涼し気な眼差しで「ん?」と璃闇を見下ろしてくる。
「うわぁ、脚をヒールで踏んでも笑ってられるのは流石に引いちゃうんですけど」
こいつめ!と揶揄い半分、ジト目で璃闇が緋雨を見上げた。
「大丈夫、問題ないよ」
「Mに目覚めたとか無いわよね?」
「そんなことでどうにかなるほど柔じゃないし」
踏まれた足はさりげなく引いて、次のステップからは少し遠ざける。
「さすがにおねえさん、それは許しませんよ……!?」
「ほら、次の三拍子来るよ。集中集中」
ヒールで踏まれるのは実は想定内――なんてことは緋雨は言わず、苦笑交じりに緋雨の指先が僅かに圧を持つ。静かな逆ターン。裾が大きく弧を描き、深緋と翡翠が一つの輪になる。
やがて、円は静かに閉じてゆき、終止の一音が響いた。
「あ、なんか夢中になってたら曲が終わってたわ」
ぱちくりと璃闇が瞬き、緋雨は優雅に一礼して微笑んだ。
「どうだった?」
「まあ、悪くはないかもね? あ、あしがいたい、ちょっと、ひーくん」
少しだけ偉そうな声音と伸ばされる手に「はいはい」と仕方なさそうに緋雨は笑って掴んでやる。
「失礼いたします」
まるで介護のように令嬢たちの輪から出てゆくふたりに近付く黒服が差し出したのは、白い封筒。
「|奥様《マダム》からでございます」
自然なエスコートですよ、と取り繕う緋雨。
「ありがとう」
何もなかったですよ、という風に微笑んで璃闇が封筒を受け取る。
中身は特別な舞踏会への招待状。
「どうする? やめておく?」
足痛いんでしょ、と今度は緋雨が揶揄う。
「ここまで来て? 悪い顔してるわよ、ひーくん」
「そっちこそ」
不敵な笑みがふたりの間で密やかに重なった。
ひときわ軽やかなヒールの音が、緑に包まれた前庭を踏みしめた。
どんな悪路も染みひとつ付かず美しい白さを保つお気に入りの|スクエアトゥ《7cmヒール》ならば、薔薇の迷路へ踏み込むための|相棒《エスコート》としては大正解だろう。
「ごきげんよう、皆様」
その声は涼やかな鈴の音のように響いた。バルーン袖をふわりと膨らませた白のドレスは陽差しを浴びてキラキラ舞う光を纏い、差し色として添えられた鮮やかな桃色と夜の色どりが甘やかであり洗練された印象を持ち、華やかで愛らしいヤルキーヌ・オレワヤルゼ(万里鵬翼!・h06429)のために誂えたかと思う程似合っていた。
「先触れもない不調法お許し遊ばして」
老執事の元に近付き、ヤルキーヌは深く一礼する。春色の髪が揺れ、まるで天女の来訪を思わせるような麗しい所作だった。
「通していただけるかしら?」
「もちろんにございます」
ヤルキーヌの醸し出す気品、堂々たる令嬢としての振る舞いを前に、老執事は言葉少なに彼女を案内する。
油断も緊張も、取り繕う粗もない。彼女は彼女のままである。ヤルキーヌの美しさは薔薇の迷路に負けないくらい輝いて見え、老執事の足取りも軽く見える。
「どうぞ薔薇の園を、心ゆくまでお楽しみくださいませ」
背後で扉がそっと閉まる音を合図に、ヤルキーヌは振り返ることなくドレスの裾を揺らしながら優雅な足取りで迷路へ踏み込んで行く。
「やはり中は香りが強いのですね」
まるで空気そのものが花弁に侵されているようで、酔ってしまいそうになるほどの薔薇の香りが甘やかに満ちていた。
花弁が繊細に折り重なり息づく宝石のようなものもあれば、大輪に咲く王者のような風格を放つ薔薇、小ぶりながらも絵画から抜け出したような完璧な曲線をもつ品種まで薔薇の中にも個性が溢れている。
そのひとつひとつが迷路の奥へ誘う赤き灯火。
「退屈せずにすみそうですわ」
ただ咲いているだけならば“美しい”で終わり退屈さえしたかもしれない――然し、ひとつひとつから漂う|違和感《けはい》。
ヤルキーヌが過ぎ去る度、ゆらりと花弁を揺らし気配を追うのだ。
「……|奥様《マダム》が呼んでいるような気がいたしますわね」
優雅な足取りに隠した警戒は続く。
薔薇を愛でながら行く時間はあっという間に過ぎてしまいそうであった。
最後の曲がり角。
花弁の揺らぎも、追い縋るような気配も、まるで役目を終えたかのように静かに消えてゆく。薔薇の香りだけが残され、甘やかな余韻が風と共に漂っている。
「あれは」
新しい風に|御婦人《マダム》の視線が向く。気品溢れる新たな令嬢の到着に、気配は一層浮足立った。
重厚な扉が、音もなく開かれる。
「まぁ……」
溢れ出す灯りはまるで黄金の洪水。
舞踏会を見守るシャンデリアは幾千の星のように輝き、磨き上げられた床を光で満たす。
柔らかな芝から硬質なホールの床へ踏み入った瞬間、ヤルキーヌは僅かに足を止めた。それは戸惑いではない。懐かしさが交差するほんの刹那だった。
似ているようで、似ていない。
豪奢さ、煌びやかさ、華やかさの裏に潜む剣呑な静寂。社交界特有の微笑みの裏側に潜む無言の刃。
かつて別の|√《世界》で貴族として過ごしてきた日々が鮮明に蘇る。
大理石を打つ靴音、幾重にも重ねられた絹の擦れる音、浴びる視線の重さ。
「懐かしいですわ」
思わず零れた呟き。
背筋を伸ばす角度。僅かに引いた顎の位置。ドレスの裾を運ぶ指先まで。
多くの令嬢たちが演技をする中、ヤルキーヌだけが違った。√EDENで過ごした日々は既に長くなってしまったけれど、身に沁み付いた所作は衰えないのだと実感する。
懐かしさの余韻を楽しむ様に、ヤルキーヌはホールの奥へ足を運ぶ。
その歩幅に迷いはない。然し勢いよく踏み鳴らすなんて無作法もない。さすがの所作を|御婦人《マダム》が見過ごすはずはなく。
「……あら、まだ踊っておりませんのに」
分厚いカーテンの向こうからの熱烈な視線に気付かぬフリをしながら、ヤルキーヌは仮面を選びに向かう。
目に留まったのは、昼と夜の間から抜け出した仮面。
片側に百合の花弁を思わせる造形、縁取りはドレスの差し色と同じ深い夜色。白の清廉さを引き締めるように、小さな黒真珠が一粒、耳飾りの代わりに揺れる。
「これにいたしましょう」
ヤルキーヌは迷いなく仮面を選び目元へと運ぶ。甘いストロベリーピンクの瞳が仮面越しにホールを見渡す。
「さあ、ワタクシと踊りたい方はどなたかしら」
軽やかに澄んだ声が響く。堂々とした声音。
男性パートを踊れる令嬢はやはり少なく、楽団の演奏が始まるまでの間ヤルキーヌはホール優雅に進む――それは“選ばれる者”の余裕。
「居ないと言うなら構いません」
独り言ではあるが、決して悲観の色はない。
フロアに踏み出しひとりで優雅に舞うことなど造作もないのだ。寂しさも躊躇もない。ワルツの練習を令嬢がひとりでするなんてこともあるのだから。
だが、ひとりの令嬢が進み出る。
背筋を伸ばし、ぎこちなくも凛とした佇まい。足運びは固いが、申し出を断る理由もなく、ヤルキーヌは柔らかく微笑んで手を差し出した。
美しいワルツは美しいホールドから。
誘い込むように相手の手を背へ導き、ヤルキーヌが声をかける。緊張で強張った相手の手付きは彷徨っているがヤルキーヌは決して急がせない。
「ワタクシもデビュタントの時はずいぶんと緊張しておりました」
興味本位で入り込んだのだろう。おそらく|仲間《√能力者》ではなさそうだ。ならば少しでも楽しい時間を過ごさせてあげたいというもの。
「ワタクシ、ダンスは得意でございます」
だから大丈夫、と告げれば三拍子を合図に円が廻り出す。
「舞踏会は久し振りですの。だからアナタ様も楽しめばよろしいのです」
ゆっくりと最初の一歩から、三拍子をなぞるように。
姿勢は良いが、重心が定まらず踏み出す脚の迷いがあからさまだ。
ヤルキーヌは自らわずかに重心を後ろへ引き、相手が前へ出やすい角度を作り出す。重ねた手の圧は強過ぎず、弱すぎず。
焦らせず、待ちながら導いてゆく。
相手の歩幅に合わせ、ヤルキーヌは半歩自らの動きを調整する。貴族として沁み付いた所作は己を誇示するためではない。共に踊る相手を美しく魅せてやることも出来るのだ。
「お上手ですわ」
僅かに肩の角度を変えれば、従うように相手の進行方向が整う。ぎこちない足運びはやがて滑らかになっていく。
ゆるやかなナチュラルターン。軸はヤルキーヌが深く保ち、相手の不安定さを支えてやれば拙くも崩れない愛嬌のある美が生まれる。
ダンスとは調和だ。
舞踏会といえど、優劣を競うわけではない。
美を溢れさせるだけでいい。
それはヤルキーヌにとって、呼吸に等しい行為。
終盤へと向かう曲に乗り、最後は相手を引き立てるように半身を開いた。降り注ぐシャンデリアの光の下、ふたりの影が伸びる。
「やってやりましたでしょう?」
楽団の演奏が止み、令嬢たちが輪を崩す中、ヤルキーヌは共に踊ってくれた相手へ笑いかけた。
優雅な一礼を伴えば、相手も少し遅れて礼を返してくれる。
その頬は赤く、けれど誇らしげに輝いていたのを見て、ヤルキーヌは満足だった。
舞踏会もあと幾つかの組で終わるだろう。
回廊へ忍び込むにはどうしようか、と傾けたグラスの向こう、黒服のひとりがヤルキーヌの元へ足を運んでくる。
「あら、ワタクシに何か?」
何も知らないふりをしてそう告げれば、差し出されたのは白い封筒。
「|奥様《マダム》からでございます」
特別な舞踏会への招待状を手に、ヤルキーヌは口角を釣り上げた。
「当然ですわ」
初々しさこそないが、幾多の経験を積んで得た自信が裏付ける優雅さと華やかさが証明された瞬間だった。
第3章 ボス戦 『マダム・ヴァニタス』
●
ほくそ笑むように、|御婦人《マダム》の気配が揺れている。
甘い香りは花蜜のような無垢な芳香ではない。
熟れ切って地に落ち、密やかに爛れ始めた果実のような昏く濃密な気配を孕んでいる。そこへ隠しようもなく滲む鉄錆がひとすじの亀裂を生み、不穏さを一層際立たせていた。
「嗚呼、嗚呼、――今宵の|獲物《かお》はどれもが最高級だこと」
愛らしく可愛らしいもの、凛と澄ました美しいもの、――どちらでも良い。どちらも|良《うつくし》い。
寄り分ける必要はない。美とは、たったひとつの解を持つものではないのだから。
仮面舞踏会は静かに終幕を迎える。
特別な舞踏会への招待状を手にしたものだけが、回廊を上がる事を許された。
選ばれなかった令嬢たちは残念そうに肩を落としながらも、華やかな思い出を胸に笑顔を取り戻してそれぞれの帰路へと着いてゆく。ある意味では選ばれない事こそが幸福なのだけれど。
分厚いカーテンの向こう側、深紅のドレスが翻る。
姿を現した『マダム・ヴァニタス』の手には、飽きられてしまった、だれかの|顔《・》。
「ひっ、」
|不幸《ぐうぜん》にも選ばれてしまった√能力者ではない、ただの美しい令嬢の悲鳴は喉奥に塞がれる。ごろりと転がった|それ《・・》。硬質な床の上に赤が咲く。
薔薇の花弁のように艶やかで、然し花とは程遠い。舞踏会の余韻を残した煌びやかな床をじわり、じわりと汚す。
「もっと近くで、おまえたちの美しさを、|私《わたくし》に見せてちょうだい」
甘やかに腐りゆく執着と次の|美《かお》を求めて止まぬ底無しの渇き。
花の奥で、|御婦人《マダム》が嗤った。
冷たい床にごろりと転がった|令嬢《かお》。
つい先ほどまで息づいていたはずの美は、あまりにも唐突に|居場所《いのち》を奪われ、煌びやかな舞踏会の床を舐めた。
その惨たらしさにクラウス・イーザリー(太陽を想う月・h05015)は息を呑む。
曇る視界の端、深海の色を映した裾が翻りクラウスを現実に引き戻す。
「花を散らすだけ散らして、拾い上げもしないなど――淑女の風上にも置けませんわ」
ジェイド・ウェル・イオナ・ブロウクン・フラワーワークス(笑おうぜ・h07990)は優雅に膝を折り、されど血に濡れた|彼女《・・》を恭しく拾い上げる。まるで砕けた宝を扱うように、少しの乱暴さも躊躇いもない真摯な動作。
明日を奪われた瞳をそっと閉じてやりながら抱きなおす。
「淑女が聞いて呆れますわ」
嘆く様に、悔し気に。一切を押し殺した声音を吐き出しながらクラウスはジェイドの横に並ぶ。胸を満たす冷えた激情が今にもまろびでそうだった。
「後で必ず弔いますので、少しだけお待ちくださいな」
翡翠に鮮やかな赤が滲むのも厭わず、クラウスは彼女を受け取って安全であろう窓際までそっと運んでやる。
『その子に構っていないで、おまえの顔を見せて頂戴』
ふいに、甘く爛れた香が濃くなった。
マダム・ヴァニタスがまるでエスコートするように指先が宙を撫でれば、歩み出て来るのは見覚えのある翡翠の瞳に柔らかな微笑み。今まさに隣にいたはずの愛しい人――ジェイド。
あまりに自然で、あまりに美しい。
本物の姿が見えなくなるほどに。
だからこそ、マダムへ親し気に寄り添い微笑む姿は、悪夢のように甘美で鮮やかにクラウスの瞳を惑わす。
「……ジェイド、お姉様」
差し出された手を取る様に、クラウスは|右手《・・》を差し伸べた。
「……イーザリーお嬢様、わたくし以外の姿を見てはいやよ。妬けてしまいますわ?」
ジェイドの声がクラウスに届かないはずがない。
それでもなお、クラウスは幻へ手を伸ばす。
掌が触れた瞬間、ばちり、と静電気のような鋭い音が弾けた。
「所詮は、幻」
少しだけ嘲笑うような声音と同時に瞬く光が虚飾を砕き、硝子めいて幻想は罅割れ、音もなく床に散らばり消える。
「わたくしはジェイドお姉様以外見ませんわ。幻なんかより、本物の方がいいに決まっていますもの」
当たり前のように振り返ったクラウスの視線の先では、本物のジェイドが唇に弧を描かせていた。
愛するものの幻影で惑わせるというのなら、なんと浅はかなことだろう。
クラウスの心が向く先は、そんな紛いものの入り込む余地すらない。
再び差し出されるジェイドの左手。
そこへ重ねられるクラウスの右手。
疑いなく、迷いもなく、確かに握り返される。
偽りを打ち砕くルートブレイカーに、真の絆は拒めない。
『本当に、美しいわね』
己の幻を砕かれてなお、マダム・ヴァニタスは焦りを見せない。むしろ、寄り添うように並ぶふたりを眺めるその声音には、美への渇望と歪んだ歓びが滲んでいた。
刹那、ジェイドが踏み込む。
華々しく美しく可憐で優雅なステップの如く。それはまるで舞踏会の再演。
「ごきげんよう、マダム」
上目遣いに投げて寄越した甘い囁きさえ囮に変えて、ジェイドは重厚な布の奥に隠された足元を狙い穿つ。
僅かにマダムの身体が傾いだ。
粗相を叩き落すように振るわれた扇が空気を鳴らす。
だがジェイドはそれすら一曲の振り付けに取り込むように、優雅なターンで躱しながらヒールで深紅のドレスの裾を踏み付けて床に縫い止める。追撃の一閃。花弁めいた異形が容赦なく散った。
さらに、ぼう、と焔が芽吹く。小さな火種は瞬く間に意志を持って燃え広がり、マダムの|顔花《かんばせ》を舐めるように焦がした。
『お行儀の悪い子』
「誉め言葉かしら?」
マダムが伸ばした手を、一筋の光が焼いた。
それはクラウスの援護。花を裂く雷光にも似たレーザーが、ジェイドへ伸びる指先を無慈悲に断ち切る。
「わたくしも踊りに混ぜてくださるかしら?」
クラウスのレイン砲台から放たれたレーザーは苛烈に窓を突き破り、澱んだ空気を拭い去る。同時に口早煮紡がれた詠唱により招かれた新たな炎。緋色の花弁のように部屋を灯し、酸素を喰い散らかすように|顔花《かんばせ》を焼こうと熱を燻らす。
「ひとの美しさを奪うひとなんて、美しくありませんわ」
ジェイドが踏み込めばクラウスの炎が道を拓き、クラウスが狙いを定めればジェイドのターンが敵の視線を奪う。青と緑、深海と森、静謐と烈火。燃える薔薇、砕ける顔花、踊るように交錯するふたりの影。相反するようでいて、ひどく美しく溶け合う二つの色彩。
「わたくしとジェイドお姉様の前で――燃え尽きてしまいなさいな」
寸分違わぬその連携は、長く磨かれた舞踏の型のように完成されていて、見る者があれば思わず見惚れたに違いない。けれどその美しさは、観賞のためではない。
「悪趣味な|お顔《花》は燃やし尽くしてしまいましょうね」
美を喰らう怪物に、今宵もっとも美しい反撃の幕が上がった。
溜息が、ひとつ落ちた。
「……困ったものだね」
各務・鏡(自称写真機の付喪神・h09413)静かに目を細めた。
その声には冷えた失望が滲む。
美に解がひとつではないと知りながら――それでも、飽いた花を摘み捨てるように奪わねばならないのか。
少し離れた場所へ|置かれた《・・・・》彼女を一瞥する。
ならば最初から、手折らなければよかったのに。なお新しい美を欲するその有様は、まるで数多の妾を囲う男主人のようだ。けれど本来、手に入れたものには最後まで責任を負うべきだろう。この|御婦人《マダム》には、それがない。
「この格好にも飽きたし、戻ろうか」
薔薇の香りと鉄錆のあわいで、女の輪郭がほどけてゆく。コルセットの軋みを解くように、偽りの曲線は霧散し、そこに立つのは本来の男の姿。ドレスと袴はどこか似ていても、やはり腰回りの窮屈さは比べものにならない。
変転と同時に、鏡が纏うのは古き龍の気配。身に宿る気配が一段、いや二段と鋭さを増す。空気が張りつめ、鏡の影が風より先に滑った。
選ばれた令嬢たちはやはりほとんどが|仲間《√能力者》だったことに安堵と納得をしながら、花弁を散らす深紅の腕が伸びるより早く、鏡はその懐へ斜めに潜り込む。袖の残像だけを置き去りに、爪牙のごとき一閃を叩き込み、次の瞬間にはもう射程の外へ退いていた。
仲間の動きを目で追い、感覚的に理解をして滑り込むのを繰り返す。
決して邪魔はしない。
だが、隙は逃さない。
『まあ。脱ぎ捨てたのね、おまえ』
ふと、マダムの|視線《かんばせ》が鏡の姿を上から下まで眺めた。
『嗚呼、仮初めの花ではなく、根を晒してみせるのね。――それでもなお美しいなんて、ますます欲しくなってしまうわ』
「……褒め言葉として受け取る気にはなれないな。君は美しいものが欲しいんじゃない。自分の手で摘み取って、所有した気になりたいだけだ」
『ええ、そうよ?』
悪びれもせず、マダムはくすりと喉を鳴らした。
まるで幼子が秘密を言い当てられて喜ぶような、無邪気ですらある響きだった。
『咲いているだけの花を、遠くから眺めているだけで満足できるほど、私は聞き分けの良い女ではないの。欲しいと思ったなら、この手で摘み取っていつも愛でたい――ただそれだけだわ』
「こういう手合いは、なんとなく苦手な気がするねぇ」
低く零しつつ、再び踏み込む。
美を語りながら、美そのものを摩り潰す怪物。理想だの好みだの――そこまで考えて、鏡は小さく口を噤んだ。
「……いや、言わないでおこう」
代わりに放たれた二の撃が、闇に細い裂け目を走らせる。
摘まれ、棄てられた美のために。今宵、静かな怒りは鋭い速度となって、|御婦人《マダム》の喉元へと迫ってゆく。
薔薇の香と鉄錆が、ひとつの夜に溶け合っている。
甘美と凶兆とが抱き合うその|戦場《ぶたい》へ足を踏み入れながら、ルスラン・ドラグノフ(лезгинка・h05808)は艶やかに裾を翻した。
「ついにフィナーレですわね!」
高らかに告げた直後、ふと青い瞳がぱちりと瞬く。
はて。何か忘れているような気がする。
もう女装も口調も気にしなくていいはずなのに、どういうわけか、すっかりこの淑女ぶりが板についてしまっていた。いや、板につくというのも何だか癪だが、今さら戻すのも妙な話である。
――まあ、終わってから考えましょう!
控えめな自己主張が仇となり、ルスランはそう結論付ける。
既に戦闘は始まっている。彼の決意に水を差す者は誰もいない。
しなやかな指先から、ひとすじの銀が放たれる。
ルスランの投じた薔薇を纏うナイフは、マダム・ヴァニタスの間合いを薙ぐ。
「決闘を申し込みますわよ」
『まあ、無粋。けれど今宵は舞踏会ですもの――踊るように愛でるのも、また一興かしら』
マダム・ヴァニタスの視線が|そちら《ナイフ》へ吸われた刹那、ルスランの唇が小さく吊り上がる。
美しいものほど油断ならないとは、こういう時に使う言葉だろう。
「ふっ。そちらに意識が向きましたわね」
次の瞬間には、空気が弾けていた。
空中ダッシュ。
ひらりと舞う桃金の裾は、甘やかな彩りで目を欺きながら、花びらのように愛らしく、されど軌道は矢よりも鋭く、弾丸よりも苛烈だった。
「死せる魂よ、お立ちなさい!」
その呼び声は、芝居がかった華やかさを帯びながら、なお背筋を冷やすだけの凄みを含んでいた。
ただの口上ではない。何かを目覚めさせるための言葉だ。夜の底に沈んだもの、名もなく黙したもの、終わったはずの気配さえも、振り返らせるような、そんな不穏で壮麗な響き。
接近と同時に放たれるのは呪詛を孕んだ衝撃波。
目に見えぬ雷鳴がマダム・ヴァニタスの深紅を内側から揺らした。華やかな装いで放つにはあまりに物騒。然し、ぞっとするほど美しい一撃だった。
「とはいえ不意打ち攻撃なんて一度しか効きませんわよね」
それはそう。
ならば後は、舞うだけだ。
避ける。滑る。翻る。
その動きは鏡の間に乱反射する虚像のようで、どれが本物か探る頃には、もうそこにルスランはいない。マダムの扇は空を切り、無駄打ちへ終わる。
『まあ、せわしない子。薔薇園を飛び回る小鳥のつもりかしら』
マダム・ヴァニタスは扇の陰でくすりと嗤う。
『可愛らしいこと。そんなふうに忙しなく羽ばたいても、最後には私の手の中でしょうに』
深紅の裾を引き、ゆるりと掲げられた指先から花弁のような殺意が零れ落ちる。
『それとも怖いのかしら? 私に見初められるのが』
ひらり、と身を翻したルスランの残像を裂くように、紅い一閃が追いすがる。鋭い気配が肩口を掠め、ひやりとした痛みが遅れてルスランの肌を走った。
刹那、肌の上に張り巡らせていた薄青いエネルギーバリアが硝子めいて瞬き、食い込むはずだった衝撃を受け止め、砕き、流してゆく。致命へ届くには、あとほんの少し足りない。
可憐な布地に浅い傷を残しただけで、マダムの攻撃は宙へ散った。
「できる淑女は抜かりがありませんことよ」
ルシアンは微笑みながら再び踏み込み、そして離れる。
軽やかな足取りで刻まれるヒット&アウェイは、舞曲の拍子のように小気味よくストロベリーカラーの裾が翻る。
舞踏会の終幕にふさわしい、血と薔薇と皮肉に彩られた、見事なフィナーレのために。